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2022/03/09

狗張子卷之五 杉谷源次 附 男色之辨 / 狗張子卷之五~了

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回も底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)のものをトリミングしたものを、適切と思われる位置に挿入した。]

 

  ○杉谷(すぎや)源次附《つけたり》 男色(だんしよく)之辨

 文祿三年の事にや、伊勢の國國司(こくし)の家に、深見喜平とて、才覺利口の侍、よく奉公をつとめて、知行三百貫までとりあげ、外樣(とざま)をゆるされ、奧までも、めしければ、漸(やう)やく、重きものにぞ成《なり》にける。

 奧がたの扈性(こしやう)杉谷(すぎのや)源次といふ者は、すぐれて眉目(みめ)うつくしかりければ、喜平、心をかけて、とかく、いひけれども、聞きいれず。あまりの事に、文《ふみ》をかきて、源次がたもとに、なげ入れたり。中々、こと葉、すくなくして、

「伊勢の海あら磯によるうきみるの

   うきながらみるはみぬにまされり

あなかしこ、人にもらすな。忍ぶの杜(もり)のこと葉、もれなば、影淺き井手の玉水、心のそこも、波にあらはれては、末までも、いかゞせん。」

と、書きやりけるを、源次、いかゞ思ひけん、只かりそめのやうに、傍輩(はうばい)に泄(もら)し語りしかば、家中に、かくれなく聞渡(《きこえ》わた)りて、沙汰あり。

 喜平は、人のみるめ、恥かしく、

「源次が返事(かへりごと)せぬまでこそらめ、人に泄しけるこそ、安(やす)からね。さだめて、我を失(うし)なはんと謀(はか)る。」

と、おぼえたり。

「命ながらへば、いか成見ぐるしき果(はて)にやならん。」

と、ねたく恨み、源次、朝、とく起きあがり、寐屋(ねや)より出《いづ》る所を、あへなく打ちころし、みづから、腹、切りて、死にけり。

 

Sugiyagenji

 

 諸共(もろとも)に、塚に埋(うづ)みしに、夜な夜な、その塚に、火、もえて、日、暮るれば、そのあたりは、人の通ひも絕えたり。

 國司、此事を聞給ひ、惡(にく)き有さまながら、執心のほども、いたはしく、僧をやとひて、塚の前にて、經、よみ、とぶらひければ、その火、それより、もえず成りたり。

 國司、法力(りき)の奇特(きどく)を感じて、彼(かの)僧をめして、法門など聞給ふついでに、

「男色の事は、經論(きやうろん)にも、みえ侍るか。」

と問はれにし、僧、こたへて、かたられしは、

「佛經(ぶつきやう)の中(なか)には、わきて、『男色』といふ說はなく、『邪淫戒』のうちに、『非道淫戒』をあげられしに、自(おのづ)から、こもり侍べり。もろこしには、周の穆王(ぼくわう)の慈童を寵《ちよう》じ、漢の高祖の籍孺(せきじゆ)を愛し、惠帝(けいてい)の閎孺(くわうじゆ)を執(しつ)し、哀帝の董賢(とうけん)を幸(さいはひ)せられ、衞の彌子(びし)・瑕漢(かかん)の鄧通(とうつう)、みな、これ、男色にまどへるためしなり。「史記」に佞幸(でいこう)の傳あり、「太平通載」に權幸(けんかう)の篇あり、「晉書(しんじよ)」には、『西晉(さいしん)の武帝、咸寧・太康の年より、男寵(だん《ちよう》)の事、大に興(おこ)りて、女色よりも甚だし。あるひは、夫婦離別にいたり、おほく怨(うらみ)をおこす事あり。』と記(しる)せり。是れ、いにしへより、佞幸のともがら、その終りを善(よく)するものは、少なし。夫(それ)財をもつて交はる者は、財、盡(つき)て、交はり、絕え、色をもってまじはるものは、花、落《おち》て、愛、磷(ひす)ろぐとかや。人、常に若き時、なし。年の暮《くれ》やすき事は、たとへば、流るゝ水のごとし。行《ゆき》て、又、歸らず。たとひ、うつくしく、みやびやかなるすがたといへども、いく程なく、過ぎ去りて、留(とゞ)まらず、すみやかに衰ふ。猶、朝顏の、日影待つまの、有さまならずや。梁の沈約(しんやく)が懺悔(さんげ)の文(もん)には、『追尋(ついじん)す、少年のときは、血氣、まさに壯(さかり)なり。習累(しふるゐ)の纏(まとふ)ところ、排豁(はらひあきらめ)がたし。淇水(きすい)、上宮(じやうきう)、まことに幾(いくばく)もなし。桃をわかち、袖を斷(たつ)、また、おほし、といふに足れり。此(これ)、實(じち)に生死(しやうじ)の牢穽(らうせい)、いまだ洗ひ拔き易(やす)からず。』と、いへり。宋の世にいたりて、學問をことゝし、此道、稍(やゝ)、おとろへたり。本朝のむかし、眞雅(しんが)僧正は、業平(なりひら)を戀ひて、『常盤(ときは)の山の岩つゝじいはねばこそあれ』と、よみ、おくられし。中古に瓜生判官(うりふはんぐわん)の弟(おとゝ)義鑑房(ぎかんばう)が、金崎(かねがさき)にて打死(じに)し、麟嶽(りんがく)和尙の田野(たの)にして打死せし、みな、男色のまどひに陷いりたる故なり。近比(ちかごろ)は、股(もも)をさし、肘(かいな)を引て、血を出だし、心ざしの實(じち)ある事を、あらはせり。古き歌に、

  思ふこゝろ色にはみえず身を刺(さし)て

       朱の千入(ちしほ)を君それとしれ

をかしげなる歌、よみ、詩をつくりて、愛(めで)まどひ侍べり。文(ぶん)にもあらず、武(ぶ)にもあらず、非道の色に、身をすて、命をうしなふもの、女色よりも、甚だし。忠をわすれ、德をけがし、家をたふし、身をほろぼす斗(ばかり)、僧俗にわたりて、かくのごとし。まことに、愼むべき事なり。」

とぞ、語られける。

 

狗波利子卷之五終

 

[やぶちゃん注:若衆道四連投の本巻打ち止め。本巻は私の知らない語句が多いので、江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(四)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)を中心的に全面的に注を施す。

「杉谷(すぎや)源次」不詳。

「文祿三年」一五九四年。豊臣秀吉が実効支配。

「深見喜平」不詳。

「外樣(とざま)」江本氏注に、『表向きの所。公的な場所をさすことが多いが、この場合は対外折衝のことをいう。』とある。

「伊勢の海あら磯によるうきみるのうきながらみるはみぬにまされり」江本氏注に、まっず、『歌意』として、『伊勢湾の波の荒い磯に寄せ浮いている海松』(みる)『ではないが、想い人であるあなたを見たがためにつらい思いを味わうとしても、見ないよりは見た方がいい』と解釈され、『類歌「いもがしまあらいそによるうきみるのうきをもみるは見ぬにまされり」(『夫木和歌抄』二十八、『六百番歌合』恋一)。『和歌題林愚抄』『明題和歌全集』『歌枕名寄』等所収。「みる」は「海松布(みるめ)」に同じ。「海松布 ミルメ 磯べ 浜伝ひ 芦やの浦 汐(シホ)汲 南の風 真砂(マサゴ)地 髪 いせの海」(『類船集』)。海草類の総称。』と注される。狭義には、緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile を指し、「万葉」の古えより、よく和歌に読まれてきた。詳しくは「大和本草卷之八 草之四 水松(ミル)」の私の注を参照されたい。

「あなかしこ、人にもらすな。忍ぶの杜(もり)のこと葉、もれなば、影淺き井手の玉水、心のそこも、波にあらはれては、末までも、いかゞせん。」「あなかしこ」は連語。下に禁止の語を伴って、副詞的に用いて「決して・ゆめゆめ」の意。感動詞「あな」に形容詞「かしこ(畏)し」の語幹がついたもの。中世以降の用語である。江本氏注に、まず、『文意』として、『ああ、人にはもらさないでくれ、忍ぶの杜のように心の奥底に隠しているあなたへの深い思いを、もし言葉がもれてしまったら、あなたの面影が残っている底浅い水が波にさらわれてしまうように、私の思いも無駄になってしまうから』とされ、以下、『「忍ぶ」に「信夫」をかけた。「信夫の森」は陸奥の歌枕。岩代国、今の福島県福島市。前半は、類歌「ちらすよなしのぶのもりのことのはに心のおくの見えもこそすれ」(『新拾遺和歌集』恋歌一)。『題林』『明題』『類字名所和歌集』等所収。後半は、「むすばんと契りし人をわすれでやまだ影あさきゐ手の玉水」(『六百番歌合』亦丿五)。『題林』『明題』『歌枕』等所収。』とされ、「井出の玉水」については、『井出は山城国の歌枕。現京都府南部の地。』とする。

「人のみるめ」「見る眼」に最初の彼自身のラヴ・レターの「海松」に掛けた。

「諸共(もろとも)に、塚に埋(うづ)みし」既にして男色絡みの逆恨みによる刃傷であたから、その御霊(ごりょう)を恐れて、比翼塚としたのである。

「周の穆王(ぼくわう)」周の第五代の王穆王(在位:紀元前九七六年 ~同九二二年)。司寇(司法官の長)である呂侯に命じて「呂刑」と呼ばれる刑法を定め、社会の安定を図ろうとしたが、その三千項目と言われる罪状の多さに、却って、諸侯や民衆の反感を買った。

「慈童」「菊慈童」の略。仙童で穆王に仕え、菊の露を飲んで不老長寿になったとされる侍童。よく画題とされる。

「漢の高祖」ご存知、漢の初代皇帝劉邦(在位:紀元前二〇二年~同一九五年)。

「籍孺(せきじゆ)」劉邦の寵童。「籍」は本名。「孺」は「少年」の意。諂いと美顔で引き立てられ、劉邦と常に寝起きをともにし、大臣の進言さえ彼の口を通さなければ、劉邦に伝わらなかったとされる。

「惠帝」西晋の第二代皇帝(在位:二九〇年~三〇六年)。本姓名は司馬衷(ちゅう)。武帝の第二子。「ガマガエルは天子のために鳴くのか、民のために鳴くのか。」と尋ねるなど、暗愚を極め、その政治的無能力が、西晋の混乱と滅亡の要因となった。初めは、二歳年長の賈(か)皇后に操られ、「八王の乱」が起こると、八王諸勢力の傀儡皇帝となった。その死は越による毒殺ともされる。

「閎孺(くわうじゆ)」恵帝の寵童。

「哀帝」前漢末期の第十二代皇帝(在位紀元前七~紀元前一)。姓名は劉欣(りゅうきん)。

「董賢(とうけん)」(紀元前二三年~紀元前一年)は、その眉目秀麗なる容姿から、哀帝の寵愛を受けた官人。哀帝の死後は権勢を失い、自殺に追い込まれた。

「幸(さいはひ)せられ」寵愛を受け。

「衞」は紀元前十一世紀から紀元前二〇九年の間、中国の周代及び春秋時代から、戦国時代にかけて河南省の一部を支配した諸侯国。

「彌子(びし)」当該ウィキによれば、弥子瑕(び しか)は、『戦国時代の衛の君主霊公に寵愛されていた男』で、「韓非子」の「説難篇」において、『君主に諫言したり』、『議論したりする際の心得を説く話に登場する』。『当時』、『衛では君主の馬車に無断で乗った者は足斬りの刑に処された。ある日』、『弥子瑕に彼の母が病気になったと人が来て知らせた。弥子瑕は母の元へ、君主の命と偽って霊公の馬車に乗って駆けつけた。霊公は刑に処されることも忘れての親孝行を褒め称えた』。『別のある日、弥子瑕は霊公と果樹園へ遊びに出た。そこの桃は大層』、『美味だったため、食べ尽くさずに半分を霊公に食べさせた。霊公は何と自分を愛してくれていることかと彼を褒め称えた』。『歳を取り』、『美貌も衰え』、『霊公の愛が弛むと、君命を偽って馬車に乗り』、『食い残しの桃を食わせたとして』、『弥子瑕は刑を受けた』。『韓非はこの故事(「余桃の罪」)を以って、君主から愛されているか憎まれているかを察した上で自分の考えを説く必要があると説いている』。「春秋左氏伝」に『よると、衛の大夫の史魚が弥子瑕を辞めさせ、賢臣の蘧伯玉』(きょはくぎょく)『を用いるよう進言し、史魚の死後にそのことがかなえられたという』とある。

「瑕漢(かかん)の鄧通(とうつう)」「瑕漢」はよく判らない。江本氏の底本(大妻女子大学印本)では「瑕」がない。「鄧通」(生没年不詳)は、当該ウィキによれば、『前漢初期の人物。蜀郡南安県(現在の四川省楽山市)の人。漢の文帝の寵臣』。『船を漕ぐ仕事をする黄頭郎となった。かつて文帝は夢で天に登ろうとしたができず、そこを黄頭郎が天に登るのを助けた。振り返り見ると、その郎の服の尻のところに穴が開いていた。目を覚ました後に宮殿内の漸台に行き、夢に見た郎を探してみたところ、鄧通が見つかり、服の尻のところを見ると穴が開いていた。そこで彼を召し出して名前を聞いてみると鄧通ということであり、』「鄧は『登る』のことであるから。」と『文帝は喜び、彼を寵愛するようになった。鄧通も文帝にまめに仕え、他の者との付き合いを好まず、休暇を貰っても宮殿を出ようとしなかった。文帝は彼に一億銭という褒美を与えることが何度もあり、官位は上大夫に至った』(「漢書」の「申屠嘉伝」によれば、太中大夫)。『文帝は』、『ひそかに鄧通の家に出かけて遊ぶことがあった。鄧通は他に技能もなく、人を推薦する事もできず、まめに仕えて媚びるしかできなかった。文帝が人相』見『に鄧通を見せたところ、「貧困と飢えに苦しんで死ぬでしょう」と言われた。文帝は「私は鄧通を富ませることができるというのに、どうして貧しくなるというのだ」と言い、彼に蜀の厳道にある銅山を与え、銭を鋳造することを許した』。「華陽国志」巻三「蜀志」の「臨邛県」の条に『よれば、卓王孫という人物に銅山の経営を委託し、代』わりに、『年間布帛』一千疋を『納めさせたと言う』。この『鄧通により作られた銭は天下に広まった』という。『ある時、丞相申屠嘉が入朝した時に鄧通が怠慢であった。申屠嘉は「陛下が臣下を寵愛するなら財産を与えるのはよろしいですが、朝廷の令は厳粛にしなければなりません」と言った。文帝は「私から言って聞かせる」と答えたが、申屠嘉は丞相府に戻ると鄧通を丞相府に呼び出した。来なかったため』、『彼を斬ろうとしたので鄧通は怖れて』、『文帝に相談すると、文帝は「行きなさい。後から私がお前を召し出すから」と言ったので、鄧通は丞相府に行った。申屠嘉は「小臣のお前が殿上で戯れを行ったのは不敬であり』、『斬首に当たる」と言い、鄧通は何度も頭を床に打ち付けて謝罪し、血だらけになった。そこで文帝が使者を遣わして鄧通を召し出し』、『丞相に「この者は私の弄臣なのだ、許してやってくれ」と謝罪したので鄧通は助かった』。『文帝にできものができた時、鄧通はそのできものを口で取っていた。文帝はある時、「天下で一番私を愛する者は誰であろう」と鄧通に聞いた。鄧通は「皇太子以上の者はおりますまい」と答えた。皇太子が見舞いに来た際、文帝は皇太子に自分のできものを噛み千切らせた。皇太子は命令に従ったが』、『難色を示した。後に鄧通が文帝のできものを口で取っていると聞き、皇太子は恥じると』ともに、『鄧通を恨んだ』。『文帝が崩御すると、皇太子が皇帝に即位した(景帝)。景帝は鄧通を罷免し、さらに』、『しばらくして鄧通が国の領域外へ出て違法に銭を鋳造していると通報する者があり、取り調べられて財産を没収された』。『それでも負債が何億とあり、長公主が彼に下賜してやったが』、『吏がそれを没収してしまい、彼には一銭も残らなかった。長公主は彼に衣食を貸してやったが、ついに一銭も手にすることはできず、他人の家で亡くなった』とある。

『「史記」に佞幸(でいこう)の傳あり』「佞幸伝」は「諂(へつら)って幸いを受けた者・美貌を以って寵愛を受けた者の列伝である。

『「太平通載」に權幸(けんかう)の篇あり』江本氏の注に、『『太平広記』(宋の李防(りぼう)等選』で『九七八年成立)のことか。同書に「権幸の篇」(一八八)がある』とされ「權幸の篇」について『権勢があって君寵をほしいままにした者の列伝』と補記される。

「晉書(しんじよ)」唐の太宗の詔によって房玄齢らが撰した晋代の正史。全百三十巻。六四四年成立。「帝紀」十巻・「志」二十巻・「列伝」七十巻の他、「載記」三十巻がある。「載記」という部門が正史に現れるのは、これが初めてであるが、五胡十六国のことについて記したもので、晋時代の理解を助けるのに役立っている。現存する唯一の晋代史として貴重である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「西晉(さいしん)の武帝、咸寧・太康の年」「咸寧は西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号で二七五年から二八〇年で、「太康」は二八〇年から二八九年。太康元年三月に西晋が呉を滅ぼして中国を統一したことに伴い、「太康」と改元したもの。

「磷(ひす)ろぐ」「薄れて弱まる」の意。

「梁の沈約(しんやく)」(四四一年~五一三年)は南朝梁の文人。字(あざな)は休文。武官系の寒門の出身であったが、学問と文才によって、宋・斉(せい)・梁の三代に仕え、斉梁文壇の第一人者となった。斉の竟陵(きょうりょう)王蕭子良(しょうしりょう)の文学サロンに出入りした「竟陵の八友」(沈約・蕭衍(しょうえん)・王融・范雲・謝朓(しゃちょう)・任昉(じんぼう)・陸倕(りくすい)・蕭琛(しょうちん))の詩風は、年号によって「永明(えいめい)体」と呼ばれる。典故・対句・声律などを駆使し、形式的な言語美を、より洗練させた。沈約の四声八病説は、中国語の音声的特徴である四声を組み合わせて音律美を構築しようとしたもので、繁雑に過ぎ、試論にとどまったが、唐代の近体詩成立に寄与した。ただ、その詩は没個性的で、遠く謝朓に及ばず、技巧に走った「永明体」の弊害をも代表する。文学仲間の蕭衍(梁の武帝)のブレーンとして梁王朝の実現に尽力し、高官となったが、寧ろ、文壇で重きをなした。南朝宋の断代史「宋書」を著した歴史家でもあり、仏教信者としても知られる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「懺悔(さんげ)の文(もん)」江本氏の注に『出典未詳』とある。

「追尋(ついじん)」同前で「追求」に同じとされる。

「習累(しふるゐ)」同前で『諸節用集に用例未確認』とある。

「排豁(はらひあきらめ)」同前で『「豁」で「あきらむ」の訓みは、諸節用集に未確認。』とある。

「淇水(きすい)、上宮(じやうきう)、まことに幾(いくばく)もなし」同前で『淇水(河南省林県東南の臨淇鎮に発し』、『衛河にそそぐ川』)『と、(河南省𤀹県の西にある地名)を指すか。』とされる。

「牢穽(らうせい)」落とし穴。比喩。

「宋の世」四二〇~四七八年。

「眞雅(しんが)僧正」(延暦二〇(八〇一)年~元慶(がんきょう/げんけい)三(八七九)年)は平安前期の真言僧。讃岐国多度郡の生まれ。俗姓は佐伯氏。空海の実弟で、空海に受学した。神護寺定額僧を経て、大和弘福寺別当となった。清和天皇の誕生以来の護持僧で、藤原良房と結んで、嘉祥寺西院を建立、貞観寺と改称して、同天皇の御願寺とした。僧綱(そうごう)職を歴任し、貞観六(八六四)年には僧綱の僧位を定め、自ら僧正法印大和尚位となり、僧侶で初めて輦車(れんしゃ/れんじゃ:皇族・摂関・大臣などの乗り物)を許された。同十四年に法務に就任した。諡は法光大師(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。ここでは、彼が在原業平を愛したとするが、実は兄空海も業平を愛したとされており、兄弟揃って男色であったともされている。

「常盤(ときは)の山の岩つゝじいはねばこそあれ」江本氏の注に、「歌意」として、『常磐山の岩に生えているつつじのように、目立つことがなく言葉に出して言わないからこそ人にはわからないことではあるが、やはりあなたが恋しいのですよ』と訳され、『類歌「思ひいづるときはの山の岩つつじいはねばこそあれ恋しきものを」(『古今和歌集』恋歌一)。『歌枕』『類字名所』等所収。』とされる。

「瓜生判官(うりふはんぐわん)」南北朝時代の武将瓜生保(うりゅうたもつ ?~延元二/建武四(一三三七)年)のこと。越前南条の住人。建武二年、建武政権に背いた名越時兼を加賀大聖寺に攻め、自害させた。同年、新田義貞の挙兵に応じたが、翌年、足利尊氏方に寝返り、越前金崎城に義貞を攻めた。しかし、弟の義鑑・照(てらす)・重(しげし)ら三人が、義貞の甥脇屋義治に従って杣山(そまやま)城に挙兵したため、保も、足利の陣を逃れ、義治の陣営に参じ、足利方の高師泰・斯波高経らを破った。翌年、金崎城の義貞救援に向う途中、高師泰・今川頼貞と戦って戦死した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「義鑑房(ぎかんばう)」(?~延元二/建武四(一三三七)年)は死の前年に脇屋義治を奉じ、越前杣山城で挙兵し、以上の通りで兄瓜生保もこれに合流、翌年、兄とともに義貞救援に向ったが、兄とともに戦死した。江本氏の注には、『前出瓜生判官ともども、『太平記』巻十七・十八に描かれている』とある。

「金崎」江本氏注に、『金崎は福井県敦賀西方の古城で、足利尊氏と新田義貞軍との激戦地。義鑑房は金崎の戦いで兄の瓜生判官とともに討死、その地を敦賀市樫曲(かしまがり)と伝える。『伽婢子』巻十-一「守宮の妖」に、義鑑房が美童の新田義治を想い義兵をあげて討死したという話がある。』とある。私の「伽婢子卷之十 守宮の妖」を参照されたい。

「麟嶽(りんがく)和尙」江本氏の注に、『「軍鑑ニ、府中二大立寺云々。皆十妙心寺派ノ済家也トアリ。又大竜寺鱗角和尚(景徳院牌面ニ角ヲ岳卜作ル)ハ、勝頼ノ従弟ナリ」(『甲斐国志』巻四十五)。』と注される。

「田野」同前で、『山梨郡田野(現山梨県東山梨郡大和村)。天正十年(一五八二)、武田勝頼が自害した地。これにより武田氏滅亡』したとある。

「思ふこゝろ色にはみえず身を刺(さし)て朱の千入(ちしほ)を君それとしれ」江本氏注に、「歌意」として、『私のあなたを思う気持ちは人目を忍んで表に出すことができないので、この真っ赤に染まった血を見て私の燃えたぎったあな』た『への熱い思いを知って下さい』とあり、『典拠未詳』とされる。

 江本氏の注の最後に、『余説』として以下の記載がある。

   《引用開始》

漢代歴代の皇帝の男色については、『史記』『漢書』の「佞幸伝」に詳しい。一例を挙げると、「昔以色幸者多矣。至漢興、高祖至暴抗也。然籍儒以佞幸。孝恵時有閎孺。此両人非有材能。徒以婉佞貴幸、與上臥起。」(『史記』佞幸列伝)。本話に登場する董賢の話は古くは、『続古事談』巻六にもとられている。男色のおこりを漢朝からときはじめ、本朝の男色の話題にうつるという趣向は、汪戸時代の衆道論書・男色物によくみられる。衛の霊公に寵愛されていたという弥子瑕(「衛霊之時、弥子瑕有寵於衛国。」『韓非子』難)は、本文中ルビ「ビシカ」が正しいが、『心友記』(寛永二十年刊)(『衆道物語』と改題)、『よだれかけ』(寛文五年刊)では、「ヤシカ」とする。真雅僧正が業平を恋い慕い和歌を詠んで贈ったというくだりは、『よだれかけ』巻五、『岩つつじ』(延宝四年成、正徳三年刊)、『東海道名所記』巻一、『好色訓蒙図彙』中にもみられる。

 本話中では五首の和歌が使用されているが、その多くは作者の創作ではなく、先行する和歌の利用である。和歌の初出は勅撰集等であるが、実際には中・近世に刊行された『和歌題林愚抄』『明題和歌全集』等の類題和歌集から選出し、物語の展開に即して歌の二郎を改変するという方法を用いている。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

   *

なお、ここで急に詳注したのには、最近、知り合った若い優れた芥川龍之介研究者が、男色史を広くしかも素晴らしくディグしておられることから、その参考になろうかと、かくなる仕儀としたものである。

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