室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 淸朗の人
[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここからを視認した。初出誌は私の手元では調べ得ないが、前の「芥川龍之介の人と作」と異なり、クレジットがないから、本随筆集の書き下ろしかも知れない。
若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した。]
淸朗の人
鵠沼へ行く前後から芥川君は餘り書畫骨董に趣味を持たなかつた。陶器のことでも興味を感じないと云ひ、實際面白くなささうな氣持らしかつた。お互ひの家庭の話が出ると、此頃妻がいとしくなつたと山手線の電車を待ち乍ら話してゐた。自分自身の生活でもそれが分るやうな氣もちで居ることがあるので、賛成して俱によい氣もちになつた事がある。
何時か自分のところで芥川君がお時宜をして、顏をあげようとして黑い足袋が片方すぐ間近にあつたのを見て、顏色を變へて驚いたことがあつた。去年の六月ころだつたらう。あの時分神經衰弱がかなり酷かつたのかもしれぬ。新聞の記事などでよく「こたへる」と云つてゐた。
歌舞伎座にあつた改造社の招待會の歸途、例に依つて一緖に出かけたが歸りも一緖の約束だつた。最後の幕を見て、下足を漸《や》つと受取つて出た自分は、芥川君の姿を見失うて却て宇野君が一人佇んでゐるのに行き會うた。其翌朝、芥川君は實は昨夜谷崎佐藤兩君に會ひ、帝國ホテルで一晚話し込んで今しがたその歸りだと云つて、どうも失敬したと態態《わざわざ》斷りに來たのである。芥川君はさういふ細かい氣づかひをする人である。
自殺に就ては何時も藥品の話が出た。そして僕がその話の中では何時も芥川君よりも長生するやうなことになつてゐた。自分はからだの弱いものは長持ちする者だと言つたら、彼は反對に犀星は却却《なかなか》死なんよと快よささうに笑つてゐた。
芥川君は生前自分の零細な作品にまで眼を通して、短い的確な批評を能くして勵まして吳れた。去年自分の「文藝春秋」に出した「神も知らない」といふ作品は或女性の自殺未遂を書いたものであるが、芥川君は此小說では女の中から這入つて書いた方がよかつた、最も女の中から書くことは難かしくもあり却却苦しいと批評して吳れた。自分は女から書くには分りかねることがあるといふと、それは分らんよと云つてゐた。六月の末のことで芥川君が世を辭す三週間程前である。
芥川君の遺書を讀んで自分は立派だと思ひ、何處までも藝術の砦の中にゐる人だと思うた。自分は芥川君がそれほどまでの重大さに負けないで、目常の應酬や作品の精進につとめてゐたことは、凡夫の自分には及ばないところだと思うてゐる。胸に重大を疊んで平氣をよそうてゐてこそ、ああして落着いてゐられたのだとも思うてゐる。
遺書にある平和は芥川君を圍繞《ゐねう》してゐたものと見える。自分は彼の死に驚き次ぎに感じたものは淸らかさであつた。何よりも淸らかさが自分を今も刺戟してゐる。
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