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2022/03/13

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 片津貝(カタツガイ・ツヘタ貝・ツメタ貝) / ツメタガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。右下方を、一部、マスキングした。]

 

Tubetagai

 

片津貝【「かたつがい」。「つへた貝」。又、「つめた貝」。】

        「福志」、

           研螺【「つめた貝」。】

 

「室町殿日記」に細川幽齊、豊臣太閤の前に侍りしに、或る大名より、牡蠣(かき)・生海鼠膓(なまこのわた)・「つめた貝」を献ず。太閤、「此の三肴(みつざかな/さんかう)にて、一首せよ。」とありしに、幽齊、卽ち、

  かきくらし降る白雪のつめたさを

   このわた召してあたゝめそする

太閤及び滿座、感ぜられしとぞ。

 

[やぶちゃん注:これは文句なしで、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ属ツメタガイ Glossaulax didyma

でよかろう。図は『武蔵石寿「目八譜」 ツメタガイ類』(リンク先は私の二〇一五年六月の電子化注。近縁種を含めて詳細に注を施してある)の図を見てしまうと、見劣りするのは、残念だ。ツメタガイは私の幼少時代からの因縁のある好きな貝で、拾うのは勿論、食うのも好きだ。その辺りについては、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 光螺(ツメタガイ)」の私の注を参照されたいが、ここではまた、思いがけなくも、『博物学古記録翻刻訳注 ■11 「尾張名所図会 附録巻四」』(リンク先は私の二〇一五年四月の電子化注)に現われたる海鼠腸(このわた)の記載』(同図会は嘉永六(一八六三)年序)が、梅園が記している内容が、より正確に記されてあるので、是非、読まれたい。なお、以下の注も最初のものを除き、後者の私の注から再録したものである。

「福志」「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。

「室町殿日記」安土桃山から江戸前期にかけて成立した楢村長教(ならむらながのり)によって書かれた虚実入り混じった軍記物であって実録日記ではない。「室町殿物語」とも呼ぶ。

「細川幽齊」武将にして歌人の細川幽斎(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京都生。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興(ただおき)の父。足利義晴・義輝及び織田信長に仕え、丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統としても仕えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した(講談社「日本人名辞典」に拠る)。

「かきくらし降る白雪のつめたさをこのわた召してあたゝめそする」かきくらす」は「搔き暗す」(他動詞サ行四段活用)で、あたり一面を暗くするを原義とし、さらに心を暗くする、悲しみにくれるの意を持つ。ここは両者の意を掛けるものと思う。それは、童門冬二氏の「小説 千利休 秀吉との命を賭けた闘い」(PHP研究所一九九九年刊)の中に、この狂歌につき、非常に面白い記述があり、それに基づく私の推理である。以下に引用する(私は本書は未見。グーグル・ブックスを視認した)。

   《引用開始》

 この頃の話にこんなものがある。地元の名産物である〝かき〟〝つめた貝〟(球形の貝殻をもつタマガイ科の巻き貝。砂泥をかためてつくる卵絵画茶碗を伏せた形で「砂茶碗」と呼ばれる)〝なまこ〟を献上した。秀吉は喜んで、

「幽斎殿、この献上物を素材に一つ歌を詠んでくださらんか」

 と持ち掛けた。幽斎はニコリと笑ってすぐ詠んだ。

「かきくらしふるしらゆきのつめたさに

  このわためしてあたためぞする」

 秀吉は思わず、

「おおう!」

と声をあげ、並み居る大名たちは歓声を上げた。幽斎の歌は、見事に献上された三つの品を詠み込んだだけではない。もう一つ意味があった。それは、

「このわたを男のシンボルに塗ると、熱を持って袴を突き上げるまともに歩けない」

 という俗信があるからだ。したがって幽斎は、

「関白様、もっと頑張りなさい」

 と暗(あん)にからかったのである。秀吉は妙なことを知っていた。だから、思わず感嘆の声をあげたのである。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

私は迂闊にも、こんな話は知らなかった。しかし、なかなかお世継ぎの出来なかった秀吉のことを考えると、これ目から鱗だ! 「尾張名所図会」の筆者岡田啓・野口道直(私は秘かにこの記事は野口の記したもののように感じている)も、実はこの詠歌の裏の意味を知っていて、さりげなく出したのではなかろうか? 御伽衆というのは、そうしたぶっ飛んだ傾奇者(かぶきもの)としての一面を持っていたはずであり、その彼らが、幽斎の狂歌に驚いたということを意味する本叙述は、確信犯でその裏の性的な意味を即座に理解したことを示すものであって、それをまた「室町殿日記」の作者は確信犯で理解していたからこそ、かく書いたとしか思われないからである。童門氏に大感謝!]

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