曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 髷の侍 / 「兎園小説別集」上巻~了
○髷の侍
當春【天保三壬辰年。】以來、大坂御藏同心の由にて、先年より狂氣に相成、當時隱居仕居候。「髷の侍」と名を付、髷の大さ、其頭よりも大きく、紫の紐を以、額にて髷先をくゝり、其紐を冠抔の緖の如に腮へかけむすび、總を下げ、衣類・帶刀抔、立派に仕、市中を往來仕候由、大評判に御座候。別て、人立の場所え、罷越、人のほめ候を悅び、追々、髷に「そへ」を入、大きく仕候儀に御座候。追て、名高く相成、芝居抔にても仕、大評判に御座候。餘り名高く成候故、其頃より、他出を被ㇾ止候と承り候。是等は、餘り、無形にて、趣向おかしく御座候故、書添申候。先、前書の趣奉二申上一度、猶御取繕被二成下一宜被二仰上一可ㇾ被ㇾ下候。恐惶謹言。
四月廿七日
[やぶちゃん注:「天保三壬辰年」一八三二年。
「大坂御藏同心」大坂の幕府が管理した米蔵担当の同心。
「抔」老婆心乍ら、「等」と読む。
「腮」「あぎと」或いは「あご」。頤(あご)に同じ。
「總」「ふさ」。
「仕」「しまはし」或いは「つかはし」。
「別て」「べつして」。特に。
「人立」「ひとだち」。人が多く集まるところ。
「罷越」老婆心乍ら、「まかりこし」と読む。
「追々」「おひおひ」。日を経る内に。
「そへ」「添へ髮」「入れ髮」のこと。
「芝居抔にても仕」こちらは「しまはし」であろう。歌舞伎芝居にキャラクターとして扱われたことを言う。
「無形にて」「むぎやう」とよんでおく。「まず以って二つと見ない超弩級に変わった存在で」の意。
「前書の趣」「前書」は「目錄」に『髷の侍【自二是卷一下、余所二獨撰一也。是故雖二社友一、未ㇾ有下謄二錄之一者上。兒孫宜二祕藏一。】』とあるのを指すか。訓読を試みると、「是れ、卷より下(しも)は、余(よ)、獨り撰(せん)せるものなり。是(こ)の故(ゆゑ)、社友と雖も、未だㇾ有下之れを謄錄(たうろく)せる者有らず。兒孫、宜しく祕藏すべし。」であろう。ここも訓読しておく。「前書(まへがき)の趣き、申し上げ奉りたく、猶ほ御取繕(おとりつくろ)ひ成し下され、宜(よろ)しく、仰せ上げられ下さるべく候ふ。」。洒落ただけのことである。]
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