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2022/03/07

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 空脊貝(ウツセカイ) / アマオブネ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。左上方に「忘貝(ワスレカイ)」のキャプション、左下に「梅花貝」の標題と図の一部が侵入しているので、マスキングした。この見開き丁の図は、かなり狭々していて、標題やキャプションが錯綜してしまっており、図譜としては配置に難がある。]

 

Utusegai

 

空脊貝(うつせかい)

 

哥枕、筑前国「美能宇(みのう)の浦」。

  「名寄(なよせ)」

 うかりける身のうの浦の

         うつせ貝

  むなしき名のみ立ては聞きや 馬内侍(むまのないし)

「六々貝合和哥」

     左十三番 うつせ貝

  「續後撰」

     波のうつ三嶋の浦のうつせ貝

      むなしき壳(から)に我やなるらん 讀人不知

 

「前歌仙介三十六品」の内、

 「堀河百首」 思ふことありそのうらの空脊介(うつせかひ)

         あわでやみぬる名をや

                  残さん

 

予、曰はく、

「うつせ貝」、古哥にも詠めり。「八雲抄」に、『身もなき貝を云ふ』と云へり。然(しか)れば、身のなき貝は、皆、「空(うつ)せ」なるべし。「空(うつ)せ貝(かひ)」、則ち、形(かた)ち、別にあれば、さにもあらず。考ふべし。

 

[やぶちゃん注:これは図で一発、「うつせ」(み)で軟体部が見えにくいという点からダメ押しで、

腹足綱直腹足亜綱アマオブネガイ上目アマオブネガイ目アマオブネガイ上科アマオブネガイ科コシダカアマガイ属 Theliostyla 亜属アマオブネ Nerita albicilla

で間違いないだろう(無論、以下の引用に出る近縁種でも構わない)。「うつせ」は「俯せ」で、引潮の岩礁で「空」に「脊」を向けて岩に吸着している様子をも匂わせているように私には感じられ、梅園の最後の評も、或いは、それを言わんとしているような気もしている。

 当該ウィキによれば、『日本を含むインド太平洋暖海域の岩礁海岸に生息する半卵形の巻貝で』、『和名末尾に「貝」をつけ「アマオブネガイ」(蜑小舟貝)と呼ばれることもある。またアマオブネガイ科』Neritidae『貝類のうち』、『海産・大形の種類は「○○アマオブネ」という和名がついたものが多い。Nerita 属を細分化した分類では Theliostyla 亜属に分類され、これを属として学名 Theliostyla albicilla とした文献もある』。『成貝の貝殻は半卵形で長径』三センチメートル『ほどに達し、日本産アマオブネガイ科貝類の中では大型種である。この大きさの貝としては厚く堅い貝殻をもつ。アマオブネガイ科他種と同様に体層が大きく発達し、一方で螺塔(巻き)は小さく、体層の右後方にほぼ埋まる。和名は半卵形の貝殻を漁師が使う小舟に見立てたものである』。『殻の上面は』、『黒と淡褐色のまだら模様が現』われ、『この模様は』、『個体によって』、『色帯や群雲』(むらぐも)『模様になるなど』、『変異がある。また巻きに沿った細い螺溝が』二十『条ほど走る。殻口はD字形で、周囲には光沢のある白色の殻口滑層が広く発達し、殻底面のほとんどを占める。この滑層は』、『ただ平滑』なの『ではなく、殻口の外側に細かい襞、軸唇』(じくしん:殻口の縁の内、内唇(ないしん:殻口の縁の内、体層の下壁に接合している部分。軸唇の上側)から、その下に続く軸に当たる部分。周縁の各螺層の、一番、広く張り出した部分を指す)『(D字の直線部)中央部に』凹(へこ)みと、『低い数歯』を有し、『軸唇から殻後方にかけて』、『大小の顆粒状突起がある。蓋は石灰質で、外側には細かい顆粒が並ぶ』。『インド太平洋の熱帯・亜熱帯海域に広く分布する。タイプ産地はインドネシアである。日本での分布域は日本海側で山口県以南、太平洋側で房総半島以南である』。『九州から本州にかけて分布が重複するアマガイ Nerita japonica は本種と似ているが、アマガイは殻径』一・五センチメートル『ほどと』、『小形であること、螺塔が突き出ること、滑層が薄く顆粒などもないこと、帯状分布が潮間帯上部の高い位置であることなどで区別できる』。『南西諸島では同様の環境に近縁種が』、『多数』、『生息する』。『岩礁海岸の潮間帯下部から水深』五メートル『程度までの浅海に生息し、岩陰や転石の下に付着する。内湾ではやや少ないが、外洋に面した海岸ではよく見られ、死殻も海岸に多く打ち上げられる。繁殖期は夏で』、♀は『交尾後に石などの上に黄白色の卵嚢を産みつける』。『人や地域によっては、同所的に生息するクボガイ』(腹足綱古腹足亜綱ニシキウズ目ニシキウズガイ上科リュウテン科クボガイ亜科クボガイ属クボガイ Chlorostoma lischkei )『やコシダカガンガラ』(クボガイ亜科コシダカガンガラ属コシダカガンガラ Omphalius rusticus )『等と共に漁獲され、塩茹でや味噌汁等で食用にされる』とある。私は一時期、この貝に惹かれ、アマオブネばかりをビーチ・コーミングしてコレクションしていた時期もあった。皆、教え子にあげてしまい、標本箱の中の一つしかない。私の写真入りの「……小学校4年生の夏休みの自由研究……今から出そう……」を見られたい。

「空脊貝(うつせかい)」「虛貝」とも書き、広義には古くは死貝の、特に巻貝類を総称した。砂浜海岸で死貝が多く拾え、形も目立つツメタガイ(腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ属ツメタガイ Glossaulax didyma )や、石畳状の美しいウズラガイ(前鰓亜綱盤足目ヤツシロガイ超科ヤツシロガイ科ウズラガイ属ウズラガイ Tonna perdix )などの別名ともする。

「美能宇の浦」現在の福岡県福津市西福間の福間海岸(グーグル・マップ・データ)。古くは「蓑宇」「蓑生」と漢字表記したようで、「みのふのうら」「みのうのうら」と呼ばれていた。ここに掲げられた馬内侍(うまのないし)の和歌の碑をドットした。

「名寄」「歌枕名寄」中世の歌学書。全国を五畿七道六十八ヶ国に区分し、当該国の歌枕を掲出して、その歌枕を詠みこんだ証歌を「万葉集」以下、勅撰集・私家集・私撰集から広く引用して列挙したもの。成立年代は鎌倉末期の「新後撰和歌集」成立(嘉元元(一三〇三)年)前後で、編者は「乞食活計之客澄月」と署名があるが、「澄月」その人の伝は伝わらない。中世には、歌枕と、その証歌を類聚して作歌の便をはかったいわゆる歌枕撰書が幾つか編纂されているが、それらの中でも本書は最大(三十八巻・六千余首)で、よく整備されているものである(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。「日文研」の「和歌データベース」のこちらで確認した。巻十六「攝津四」にあり(04367番)、そこでは、

   *

うかりけるみのおのうらのうつせかひむなしきなのみたつはきききや

   *

と表記されてある。

「馬内侍」(うまのないし 生没年未詳)は平安中期の歌人。父は源時明(ときあきら)とされるが、年代が合わず、時明を実父とは認め難い。同名異人もあり、判然としないが、当代の「馬」の名のつく女房名からみると、村上天皇の女御徽子(きし)、円融天皇の中宮媓子(こうし)、乃至は、同女御の詮子、大斎院選子内親王、一条天皇皇后定子、乃至は、同中宮彰子に女房として仕え、掌侍(ないしのじょう=内侍)になったことになる。「内侍集」によると、その大半は恋歌で朝光・伊尹(これまさ)・道隆・道長ら、高貴権門と多彩な恋愛を繰り広げ、晩年は出家したことが知られる。勅撰集への入集は四十首ほどである(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「六々貝合和哥」さんざん出た「六々貝合和歌」。元禄三(一六九〇)年序で潜蜑子(せんたんし)撰。大和屋十左衛門板行。国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来る。和歌はここ

   *

 左十三 うつせ貝

「續後撰」

 波のうつ三しまのうらのうつせ貝 讀人不知

 むなしきからに我やなるらん

   *

とある。

「前歌仙介三十六品」寛延二(一七四九)年に刊行された本邦に於いて最初に印刷された貝類書である香道家大枝流芳の著になる「貝盡(かいづくし)浦の錦」(二巻)の上巻に載る「前歌仙貝三十六品評」のことと思われる。Terumichi Kimura's Shell site」の「貝の和名と貝書」によれば、同書は『貝に関連する趣味的な事が記されて』おり、『著者自ら後に序して、「大和本草その他もろこしの諸書介名多しといえども是れ食用物産のために記す。この書はただ戯弄のために記せしものなれば玩とならざる類は是を載せず」と言っている』とある。「貝盡浦の錦」の「前歌仙貝三十六品評」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該作のここの画像を視認。右丁冒頭)によると、

   *

   空背介(うつせかい) 左八

「堀河百首」師賴

 思ふ事(こと)ありその海(うみ)のうつせ貝(かい)あはでやみぬる名(な)をや殘(のこ)さん

   *

とあって、梅園、またしても「海」を「浦」と判読を誤っている。意味からも分かるもので、彼は詩歌には疎かったことが判る。「堀河百首」長治二(一一〇五)年頃に成立したと思われる歌集。堀河天皇の時、藤原公実(きんざね)・源俊頼・源国信らを中心に、当時の代表的歌人の大江匡房(まさふさ)・藤原基俊ら十六人が詠んだ百題による百首歌の集成。後代の「組題百首」の規範とされ、重んじられた。「師賴」は源師頼(もろより 治暦(じりゃく)四(一〇六八)年~保延(ほうえん)五(一一三九)年)は公卿。源俊房の子で橘俊綱の養子。参議となったが、一時、失脚の後、晩年に正二位・大納言に昇った。「小野宮大納言」と呼ばれた。歌は「金葉和歌集」などに入集している。

「八雲抄」鎌倉初期の歌学書「八雲御抄」(やくもみしょう:現代仮名遣)のこと。全六巻。順徳天皇著。成立年は未詳。古来の歌学・歌論を系統的に集大成したもの。

『「空(うつ)せ貝(かひ)」、則ち、形(かた)ち、別にあれば、さにもあらず。考ふべし』先に述べたのに加えて、梅園の頃には、或いはツメタガイやウズラガイの異名として既にあったものかも知れない。]

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