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2022/03/21

ブログ・カテゴリ「続・怪奇談集」創始 「多滿寸太禮」電子化注始動 序・多滿寸太禮巻㐧一 天滿宮通夜物語

 
[やぶちゃん注:永年語り積んできたブログ・カテゴリ「怪談集」が既にブログの全表示限界の一千件を超えて、千百八十五記事に達してしまい、最古層の繰り上げ目次も作ってあるものの、これ以上は増やしたくないため、新たにカテゴリ「続・怪奇談集」を創始して、またしても懲りずに魑魅魍魎を呼び集めんとすることとした。新規蒔き直しの皮切りは、「多満寸太礼」(「多滿寸太禮」:たますだれ)の電子化注とする。

 「多滿寸太禮」は辻堂兆風子(つじだうてうふうし(つじどうちょうふうし))の撰になる浮世草子怪談集であるが、作者の事績や、正確な刊記などは、一切、判っていない。以下に示す活字本の木越治氏の解題によれば、推定で元禄一七(一七〇四)年正月(同年は三月十三日(一七〇四年四月十六日)に 宝永に改元している)とされる(前者の早稲田大学図書館本は後刷本と推定されておられる)。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書、及び、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。

 但し、所持する国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」(一九九四年刊。まさに後者の国立国会図書館本が底本である)を参考とし、さらに、加工データとして、その木越氏の上智大学「木越研究室」学生の方々による「googledocs」に置かれてある電子テクスト・データ(新字)を加工用に利用させて頂いた。ここに心より感謝申し上げる(但し、正直、序文の作者名の字起こしからしてガクッりきた)。

 表記は原本に基づき、崩し字の内、正字と略字で迷った箇所は、正字を選んだ。異体字で示し得ない場合は、解字するか、或いは、最も近い異体字で示した。また、読み易さや場面の転換などを考え、段落を成形してある。句読点は、私の、朗読を想定した際の、ブレイクを生かすという独自の手法で打ってある。されば、通常よりも打ち方が多くなっている。読みは、難読の箇所は、無論、残したが、送りが悪いものは、現行の読み等に照らし合わせて、外に出して判るものは、その処置を施して読みを省いた(丸括弧による読みは却って目障りだからである。私のテクストは読んで楽しむ正字版の正統怪談を心掛けている。学術的に厳密な本文校訂を目指している訳では、さらさら、ない。しかし、新字で統一されている現行の刊行本よりは遙かに原本のおどおどろしさには遙かに近いものであると内心は自負している)。逆に、若い読者が戸惑うであろう箇所で読みがないのは困るので、《 》で私が推定で歴史的仮名遣で挿入してある。なお、歴史的仮名遣を誤っていても、違和感を与えないルビについては、そのまま挿入し、ママ注記はしなかった(それがまた五月蠅くなるからである)。同様に、ルビの濁点落ち(当時の版本では落ちやすい)なども、違和感のないように採用したり、しなかったり(濁点や半濁点を打ったということ)した。但し、生理的に嫌いな踊り字「〱」「〲」は正字に代えた。

 注は時に文中に、時に段落末に添えたり、或いは、長くなる場合は、改行して添えた。注対象は、私の躓くところ及び若い読者を念頭において選んである。なお、注釈書は私は所持しないので、注は総てオリジナルである。

 挿絵は状態の非常に良い国書刊行会「江戸文庫」版のそれをトリミングして用いる。

【二〇二二年三月二十一日新カテゴリとともに始動:藪野直史】。]

 

 

多滿寸太禮

 

  

 今はむかし、昔を今の世談は絕《たえ》ずして、しかも、勸善懲惡の、人をみちびくの至道なるをや。爰に、濃州大垣の產、辻堂氏兆風子、いとまの日、此草子を著《あらは》し傳ふ。詞華・言葉、鮮《あざやか》なれば、握翫《あくぐわん》して、夜のながさの友とし、且、食を忘るゝのあまり、あなたこなたの同志に、さらさらと、とりわたしぬれば、風の擧《あげ》たる「玉すだれ」の、つれづれもなきこゝろ、おもしろや。

                               城南

  甲申孟春         擧堂(落款)

[やぶちゃん注:「世談」は「せいだん」では語り出しの訓の和文脈にそぐわず、私は「よがたり」と読みたくなるが、以下の熟語は概ね音読みせざるを得ぬから、ここも「せいだん」でいいか。

「握翫」詩文や絵などを大切にしながら、味わい楽しむこと。

『風の擧《あげ》たる「玉すだれ」の、つれづれもなきこゝろ」「玉簾」は珠玉で飾りたてた美しい簾(すだれ)、或いは、「たま」は美称で「美しいたまのすだれ」で、それが風に「さらさらと」舞って、気を惹く故に、退屈せず、面白い。故に、「さらさらと」この「多滿寸太禮」を親しいお方にご紹介なされれば、これ、誰(たれ)もが、「おもしろ」う御座いましょうぞ――という版元の売り込みばっちりの序文である。もともとの号なのか、これに掛けても言っているわけである。陰刻のその落款もあるから(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像)、もともとが確信犯の号なのであろう(木越氏によれば、どうもこの男は俳諧作法書「眞木柱」などというものもものしている俳人にして、「新武者物語」などという読物も書いている人物らしい)。

「甲申」元禄十七年は甲申(きのえさる)で、木越氏の板行推定はこれによる。版元の別の出版物からもこの板行年は確かである。

 以下、各巻頭に目次が附くが、これは省略して、一番最後に総目録として示すこととする。]

 

 

多滿寸太禮巻㐧一

   天滿宮通夜物語

 中比(なかごろ)、尾州織田信長公の家臣に、星崎(ほしざき)の城主、岡田長門守といへる武勇の士(さむらい)あり。

[やぶちゃん注:「星崎の城」

「岡田長門守」織田氏家臣で尾張星崎城主であった岡田重孝(?~天正一二(一五八四)年)。始めは織田信長に仕え(馬廻り役)、天正元(一五七三)年八月の「朝倉軍追撃戦」では父とともに活躍したとされる。信長が「本能寺の変」で横死すると、その次男織田信雄(のぶお/のぶかつ)の家臣として仕えた。天正一一(一五八三)年の父の死去により、家督を継ぎ、当主となった。同年十二月二十三日には、大坂城の津田宗及邸で行われた茶会に、秀羽柴吉と同席している。この頃から秀吉と親しかったという。浅井長時・津川義冬らとともに「三家老」として信雄を良く補佐し、秀吉からも、その器量を認められていた。しかし、秀吉との内通を信雄から疑われ、長時や義冬らとともに天正十二年三月六日、信雄によって伊勢長島城に呼び出され、殺害された。参照した当該ウィキには、重政という男子がいることが記されてあるが、これが「嫡子平馬の介」であるかどうかは、確認出来なかったし、この子の末も判らなかった。

「星崎(ほしさき)の城」現在の愛知県名古屋市南区本星崎町(もとほしざきちょう)本城(ほんじょう)の名古屋市立笠寺小学校内に城跡が残る(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。底本の二本ともにルビは「ほしさき」であるが、「江戸文庫」の表記に従った。]

 嫡子平馬(へいま)の介何某(なにがし)とて、父におとらぬ大剛(たいかう)の者にて、詩哥の道にくらからず、義を專らとし、萬(よろづ)、つたなからず。

 ある時、信長公、江州にとりつめ給ひし比、此平馬介も戰塲におもむきけるが、當國上山(うへやま)の天神は、㚑驗(れいげん)あらたにおはします聞え有ければ、身の行衞をも、いのり、且つは又、文道の祖神(そしん)にてましませば、結緣(けちゑん)の爲、夜にまぎれ、ひそかに陣中を忍び出《いで》、山上(さんじやう)しけるに、聞き及びしより、貴(たうと)く、老松(らうせう)秀でて、枝をまじへ、翠嶺、東南にめぐりて、山のよそほひ、色をまし、蒼湖(さうこ)、西北にたゝへて、誠に、神德、普天にみち、無邊の利益(りやく)、國土に自在なり。地形(ちぎやう)すぐれて、神德の高きを表はし、眺望(ちやうもう)はるかにして、靈威をしめす。

[やぶちゃん注:「上山の天神」現在の滋賀県東近江市猪子町(いのこちょう)にある上山(うえやま)天満天神社(同航空写真)。個人サイト「人文研究見聞録」の同天神社のページによれば、『平安時代に創建された古い歴史を持つ天神社で、祭神に天常立命』(あめのとこたちのみこと)『と菅原道真公を祀ってい』る。『滋賀県神社庁HPによれば、天慶年間』(九三八年~九四六年)『に当社祭神が高嶋郡比良山より岩船に乗って湖上を東に進んで繖山麓に渡り、勝菅の岩屋の壇上に鎮まったと古文書にある』され、『また、当社は神亀』五(七二八)年『に社号を得て』、貞和三(一三四七)年五月『には足利尊氏より』三千歩(二千歩とも)『の社領を許され、天正元年』(一五七三年。又は天正三年とも)十二月『には織田信長より』三千『歩の社領を許され』た、とある。由緒書きなどの電子化も引用元にあるので参照されたい。]

  御燈(ごとう)の光り、影すみて、何となく名殘りおしければ、

「よしや、明日(あす)は、いかなる敵の手にかゝりてか、露の命を殞(おと)さむも、しられぬ身なれば、こよひは通夜(つや)して、浮生(ふせい)の名殘りともせばや。」

と思ひ、拜殿の片隅にうづくまりゐけるに、夜も、いたく更ぬるに、内陣に、人のおとなひしける。

 

Tenmantentejingu

[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

 

  ふしぎに思ひ、さしのぞき見けるに、七旬(しちじゆん)にあまりたる老僧の、うす墨の衣に、おなじ色なるけさをかけ、菩提樹の珠數(ずゞ)、つまぐりたり。

 一人は、四十年(よそぢ)あまりの女性(によしやう)の、いとけだかきが、紅※[やぶちゃん注:「𣒫」の上下を反対にした「梅」の異体字。]の小袖に、ねりの一重(ひとへ)を打かつげり。

 一人は、髮を、からはに上《あげ》たる容顏美麗の童子、身には目なれぬ唐織(からおり)の衣(ころも)をきたり。[やぶちゃん注:「からわ」「唐輪」。唐子髷(からこまげ)。髻(もとどり)から上を二つに分け、頭上で二つの輪に作ったもの。元来は元服前の子どもの髪形。中世から近世以後は輪が一つとなって成人女性の髪形ともなった。]

 今一人は、眼(まなこ)さかしまにきれ、烏帽子(えぼうし)、引(ひき)こみ、直垂(ひたゝれ)の下に腹卷し、弓矢、かきおひ、いきほひ有て見へけるが、座上の老僧、申されけるは、

 「面々は、いかなる故により、爰には、こもり給ふぞ。明けなむまでは、遙かなり。且つは、さんげの爲なれば、願ひの品(しな)を、夜(よ)すがら、語り申さむにや。」

と、のたまへば、連座の人々、

「誠に一樹(いちじゆ)の陰、一河(いちが)の流れ、淺からぬ緣(えん)なるべし。かりそめながら、年ごとに、かやうの同社(どうしやう)[やぶちゃん注:原本二本ともママ。]して、たがひに名をさへ白浪(しらなみ)の、かへる住家(すみか)もいづくぞと、しらであらむも情けなし。仰せにしたがひ、うちとげて[やぶちゃん注:同前でママ。]、心の底をもあかさばや、とこそ、思ひ侍れ。」

とあれば、件(くだん)の老僧、

「まづ、何某(なにがし)は、むかし、鳥羽院の御時、北面に召されつる、佐藤兵衞尉憲淸と申《まうす》者にて、若年の比(ころ)より、和哥の道に心をかよはし、其名、世にたかく、雲の上に交はりをなし、君につかへて、忠を忘れず、昇進、とゞこほらず、はなやかに時めき侍りしが、人界(にんかい)のありさま、生死流轉(しやうしるてん)のことはりを觀じ、ふかく無常をはかなみ、妻子にも心をとめず、遂に出家し、名を西行と改め、道心堅固にして、命、終りぬ。

 しかるに、『在世(ざいせ)の昔、諸國修行しけるは、「あこぎ」といへる詞(ことば)をしらずして、發心(ほつしん)し、諸國をめぐる。』なんどゝ、あらぬ事をのみ、世に傳へ侍る。誠に道にうときとて、よしなき事をいふにや。凡そ、和哥の道、廣く、其みなもとは、神道の奧義(おうぎ)に叶ひ、詩賦にもとづき、聖賢の心をやしなひ、讚仏乘(さんぶつじやう)の理(ことわり)を悟り、からの、やまとの事まで、哥人は、居(ゐ)ながら、名所を、しる。『あこぎが浦に引《ひく》あみの、たびかさなれば顯はれにける』と、常々いへる「ことのは」を、聞きしらぬほどのおろかにて、いかに、かく、哥をよみぬべき。

[やぶちゃん注:これは西行の一伝説と言うより、語るに落ちた中・近世にでっち上げられ、後に落語になって伝播してしまった「西行」の武人憲清時代の「あこぎ」話で、まさに語るに落ちた話で、これを西行の霊が語ること自体が、これまた、甚だ滑稽噴飯物である。hajime氏の「らくご はじめのブログ」の「阿漕ってなに?」が手っ取り早く、小言幸兵衛氏のブログ「あちたりこちたり」の『西行に「あこぎ」と言ったのは、誰か?(1)―白洲正子著『西行』より。』と、その(2)が詳細に記す。私は西行好きだが、この話はない方がマシな下世話である。これを枕にして語り出す西行自体がけち臭ささぷんぷんだからである。]

 夫(それ)、末世に至つては、人のちゑ、さきにたち、かたじけなくも、赤人・躬恒(みつね)・貫之の、つらね給ひし哥など、ところどころにおぼえて、したりがほに物語りせしを聞《きく》に、文字(もじ)の並び、をかしき事をいひつゞけて、誰(たれ)の哥などゝ、いかめしく、のゝしる。しれる人は片腹いたく侍るべし。其の道に、くらく、人の嘲(あざけ)りを、わきまへず、口にまかせて、哥、ものがたり、をのれが恥は、愚より、うつる。されば、先達(せんだつ)の詠哥にも、なき詞を、とり集め、をのれがせち[やぶちゃん注:「世知・世智」。凡夫の浅智恵。]にて、よしあしの批判する事、非學不道の愚人(ぐ《にん》)ども、世になべて多ければ、況や吾等が噂、よろしからぬは斷(ことわり)也。これ、誠に、世の人の心、つたなく、和哥の道にくらきが致す所也。かく世の末に、誰(たれ)あきらむる人も、あらじ。

 且は、和歌の威德を施し、わが身の無實の事をも祈らむ爲に、こもり居(お)る也。

 此の御神のいにしへ、無實のつみを晴らさむとの御誓ひなれば、ひとへに御神の利生を蒙り、濁世(ぢよくせ)末代の、和哥の道さへ捨(すた)らねば[やぶちゃん注:「廢らねば」。]、をのづから、哥に心をよせ、學ぶ人も多からむ。さる程ならば、自然と得心して、あやまりもなかるべし。さあらん時は、某(それがし)が、『あこぎ』のことばをしらぬとも、又は返哥を得せぬとも、遂には、そしりも止みぬべしと、かやうに、いのり申《まうす》。」[やぶちゃん注:「得せぬとも」の「得」は不可能の呼応の副詞「え」に漢字を当て字したもの。]

と語り給へば、中にも女性(によしやう)すゝみ出《いで》、

「まことに有難き御心《おんこころ》ばへかな。みづからは、疱瘡(ほうさう)の神にて候。

 それ、人と成《なり》ては、疱瘡といふ事、貴賤によらず、のがれぬと、みえたり。其の身、運つよきは、堅固に仕課(しおほ)せ、微運の輩(ともがら)は、多く、其身を棄(すつ)。[やぶちゃん注:「仕課(しおほ)せ」「しおほせ(しおおせ)」で「爲果せ」。罹患しても軽症であったり、痘痕などの醜い後遺症も残らずに、よく治癒することを指す。]

 されば、疱瘡、おもてに見へしより、吾(われ)を尊敬(そんけう)し、火を改めて精進すといへども、惡(あし)かるべき『もがさ』には、俄かに仰天して、父母(ふぼ)・けんぞく、さしあつまり、さまざまのたわ事、いひちらし、迷ひの心みだりにして、科(とが)なき他人を恨み、色々看病するといへども、限りある命なれば、終(つい)の道にと、おもむく。死後までも、後悔、やむ事なく、『いかなる惡神の來りて、とり殺したるや。』と、目にもみえぬ事に、あらぬ難(なん)をいひて、恨み、尊敬のこゝろ、忽ちに引《ひき》かへ、惡口(あつこう)する事、理(り)にくらきが致す所なり。その身、貧しき者は、萬(よろづ)うちすて、をのがまゝにするといへども、運つよき者は、やすらかに、命も、つゝがなし。よろづのさはりをいとふ事にしもあらば、貧賤の者は、一人も、助かるまじ。

[やぶちゃん注:「尊敬(そんけう)」以下、総て一貫してこの読みなので省略した。「そんきょう」の正しい歴史的仮名遣は「そんきやう」である。

「火を改めて」本邦の神道系の古い重要な神事。潔斎して新たに木片を摩擦し、清浄なる御神火を鑚(き)り出すこと。

「目にもみえぬ事に」暗愚な亡者であるから、正法(しょうぼう)の実体は目に見えないのだが、ここは疱瘡によって失明する者が多かった事実を強く掛けてある。]

 人力(じんりき)の及ばぬ所、若(も)し、力(ちから)に叶ふ事にしもあらば、上(かみ)、天子(てんし)より、下(しも)、冨貴(ふうき)の者まで、諸寺諸山(《しよ》さん)に立願(りうぐわん)し、讀誦・修法(しゆほう)、おこたる事なければ、諸天の應護、佛神のきどくにても、命に、何か、とゞこほり有べきなれども、定業(ぢやうごう)の致す所は、是非なき次第也。これらは誠に諸人の鏡ならずや。此の理(り)にまよふが故に、科(とが)なき神を恨む。

 さればとて、萬(よろづ)の事を破(やぶ)るに、あらず。吾(われ)、『人の因果をしらしめ、後悔なかれ。』と思ふゆへに、とにかくに、生じては、大方、のがれぬ道なれば、勝負は、運に、よるべし。神、あしければ、死したるなど、あらぬ難に逢ふ事、我、あしかれとは思はぬなれども、『天下に疱瘡やむ人、やすらかにして、一人も死せざれば、ひとり此の罪、まぬかるべし。』と、此神に、祈り侍る。」

と、かたり給へば、からわの童子(どうじ)進(すゝ)み出、

「まことに人間の習ひとして、よきによろこび、惡(あし)きに妬(ねた)む事、今に始めぬ事ながら、某(それがし)は藥(くすり)の精(せい)にて候。

 されば、世の中に、人、多く、病ひをうけ、療治をするに、醫師(いし)、其病ひの症(しやう)をたゞし、心のまゝに本復(ほんぶく)し、忽ちに、死を、まぬかる。これ、その人、運つよきと、醫者の仕合(しあわせ)と云ふべし。

 尤も藥の德たるべきを、一向(いつかう)、さは、なくして、醫者の手柄に成りぬ。

 又、定業かぎりある病には、藥力(やくりき)も及ばねば、命を失ふ。是を『藥違(ちが)ひ』と云人、多し。

 すべて、大きなる『ひが事』なんめり。

 抑(そもそも)、藥とは、神農より、其藥草を味(あぢは)ひ、寒熱(かんねつ)を定め、能毒(のうどく)をしるし侍る事、尤も書籍(しよじやく)にあきらか也。後《のち》の名醫・醫術を保學(ほうがく)し、療治をくはへ、病症に合(あは)する故、一つとして越度(おちど)、なし。近代は、さのみ得學の醫師もなければ、治德を顯はす事も、なし。藥力(やくりき)たぐひなしといへども、病症に符合せねば、をのづから、藥力、なく、命(めい)を殞(おと)す。まろきものに、方(かた)なる蓋(ふた)は、あひがたきに、心をつくすは、その人の愚(ぐ)成《なる》べし。

 生死(しやうじ)の二つは、定まりたる事なれば、その道、一大事に、たしなみ、怠(おこた)る心も有まじけれど、世の末になり、古人のふるまひに及ばざれば、秀(ひいづ)る事、稀(まれ)なるべし。『天神、わが難をのぞき給はゞ、天下の人民(にんみん)、無病にして、病苦を救はせ給はゞ、をのづと、藥力の德も顯はれぬべし。』と、步みを運び申也。」[やぶちゃん注:「書籍(しよじやく)」「ジヤク(ジャク)」は呉音。呉音は仏教用語や律令でよく使用される)。「名醫・醫術」原本は「名醫〻術」。]

と語り給へば、末座(ばつざ)の客(きやく)、すゝみ出《いで》、

「尤も眞實慈悲の御願(ごぐわん)なれば、感應(かんおう)、うたがひ有べからず。

 それがしは、弓矢を守る軍戰(ぐんせん)の司(つかさ)、『破軍星(はぐんせい)』にて候。

 夫(そ)れ、仁・義・禮・智・信の五常を守り、治まる世には文(ぶん)を以し、亂れたるには、武を以《もつて》おさめ、謀(はかりごと)を千里の外(ほか)にめぐらし、克(か)つ事を、一戰の内に決するは、良將の本(もと)とする所なり。

 然《しか》るに、近代は、親をうち、子を殺し、主(しう)を弑(しい)し、己(をの)が難をのがれん爲に、下人を誅(ちう)し、或ひは、慾心に、國を亂し、大は小をころし、畜生の殘害[やぶちゃん注:傷つけ損なうこと。]の謀(はかりごと)にて、義を專(もつぱら)に、禮を正しくして、戰塲に臨む人、一人も、なし。それのみならず、運を天にいのり、日取(ひどり)の善惡、方角を考へ、軍旅(ぐんりよ)に屯(たむろ)すといへども、天道(てんだう)の理(ことはり)に、もれたる事なれば、爭(いかで)か、勝利を得べき。

  その上、道(みち)に叶ひたる事だに、勝負は運による事なるに、まして、大惡不道(《だい》あくぶだう)の戰ひ、豈(あに)、利あらんや。をのれをのれが、理(り)をさとらずして、軍神に罪を課(おほ)せ、大空(おほぞら)明(あき)らかなる七曜(しちよう)に、さまざまの非理(ひり)をつげて、惱ます故に、くるしみ多(おほふ)して[やぶちゃん注:現代仮名遣で「おおうして」。]、をのづから、邪心の爲に、威を輕(かろん)ず。

 主(しう)、非道なれば、下人も、よこしま也。たとへ、主人(しう《じん》)は是(ぜ)にもあれ、非(ひ)にもあれ、官祿をむさぼり、妻子を養ふ恩德あれば、軍士は舊里(きうり)を去つて、軍旅におもむく。事あらば、死を一途に究め、運を天にまかする時は、冥加(みやうが)は人による習ひなれば、をのづから、天のめぐみ、深く、人に勝(すぐ)るゝ手柄を顯はし、名を萬代(ばんだい)に拳げ、ほまれを、子孫に、のこす。

 所詮は、國、治まり、人、和(くわ)する時は、軍《いくさ》も、たへ、鬪諍(とうじやう)も、起こらねば、我身の難も、をのづから、離(はな)るゝにて候へば、『天下泰平・國土安穩(こくどあんおん)』を、此御代に、いのり申《まうす》。」

と、面々に語りて、夜も東雲(しのゝめ)引きければ、各(をのをの)、法施(ほつせ)再拜して、かきけすごとくに、失《うせ》給ふ。

 平馬介、つくづくと聞《きき》て、

「是《これ》、ひとへに、天滿天神の示し給ふ。」

と、信心、肝(きも)にめいじて、千《ち》たび百《もも》たび、禮拜(らいはい)して、ひそかに陣中に歸り、あまたの功名を究め、子孫、繁榮しける、とぞ。

 

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