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2022/03/23

譚海 卷之四 淺野越後守殿家士江見淺之丞孝行の事

 

[やぶちゃん注:本文では一貫して「江見淺之丞」なのだが、底本の「目錄」では『江見德之丞』である。「国文学資料館」のオープン・データの写本で本文を見ても明らかに「江見淺之丞」なので、特異的に訂した。

 

○同所家士に江見淺之丞といへる人の父、新兵衞といふもの佐州の人にて、城下より三里、田どの村といふ所に仕(つかひ)を辭し隱れて、五石の田地を耕(たがや)てくらしける。淺之丞十一歲の比(ころ)京都へ出(いで)て、堀川家の學をうけならひ、壯年森家に儒者にて奉公せしが、老父養育のため暇を乞(こひ)舊里に歸り、妻子を帶し耕し居(ゐ)けるが、貧窶(ひんる)にして麁食(そしよく)のみ食せしが、父には白米を供し、妻子共に麁食する事を、父にはしらせぬやうにしけるとぞ。耕所(こうしよ)より一日に一度づつ父の機嫌伺(きげんうかがひ)に歸る事、一日も怠らず廿年に及べり。鄰里(りんり)是(これ)に化(か)して惡人出來(いできた)たる事なし、後(のち)國主に聞えて、白銀二十枚賜りけるとぞ。

[やぶちゃん注:「江見淺之丞」不詳。

「同所」この場合は前話の主人公士神崎与五郎の生地である美作を指す。従って江見浅之丞は津山藩(森家)の家士だったということになる。その父「新兵衞」(土佐生まれ)はしかし、早々に津山藩を致仕し、山深い村に引っ込んだというのである(理由は不明)。

「田どの村」岡山県美作市田殿(たどの:グーグル・マップ・データ)。津山城の東十七キロメートルの山間部である。恐らくは実測は片道二十キロ強はあるのではないか。そこへ往復で毎日、二十年、続けたのである。

「堀川家の學」儒学の堀川学派。伊藤仁斎が寛文二(一六六二)年に京都堀川通丸太町(まるたまち)南の自宅に塾「古義堂」を開いて古義学を唱導したので、仁斎の学統を「堀川学派」または「古義学派」と呼ぶ。堀川を隔てた山崎闇斎の塾の厳しい学風に対し、友人が親しみ合う穏和な雰囲気の中で、研究会や「論語」「孟子」「中庸」を中心とする仁斎の講義が四十年に亙って行われた。闇斎の塾の出版物が朱色の表紙であったのに対し、仁斎のそれは藍色の表紙を用いて学派意識を表わした。この門からは並河天民(なみかわてんみん)や、小川立所(りっしょ)・弘斎(こうさい)兄弟らが出たが、学・塾は仁斎の嫡男伊藤東涯(とうがい)によって紹述・継承された。那波魯堂(なわろどう)の「学問源流」によれば、『元祿の中比(なかごろ)より寶永を經て正徳の末に至るまで其の學盛に行はれ、世界を以て是を計(はか)らば十分の七と云ふ程に行はる』という盛会であった。その後、堀川塾はさびれ乍らも、京都市民の儒学塾として、子孫相承して明治の末年まで講義を行い、歴代の稿本類を所蔵してきた。現在、稿本類は天理大学附属図書館古義堂文庫に移され、塾の遺構は国指定の史跡として保存されている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「舊里」「ふるさと」と読みたくなるが、彼は儒者であるから、「きうり」と読んでおく。

「貧窶」非常に貧しいこと。

「麁食」「粗食」に同じ。

「鄰里」同前で「となりざと」ではおかしいから「りんり」と読む。田殿村に接する村々総て。

「是に化(け)して」彼の孝行や人徳に教化(きょうか)されて。

「國主」津山藩主。]

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