狗張子卷之七 死後の烈女 /狗張子(本文)~了
[やぶちゃん注:挿絵は、今回は所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)を使用し、トリミング補正し、適切な位置に配しておく。]
○死後の烈女
福島角左衞門は、生國(しやうこく)播州姬路の者なり。
久しく、みやづかへもせずして居(ゐ)たりしが、其の比(ころ)、太閤秀吉の内(うち)、福島左衞門の大夫とは、すこし舊好あるゆゑに、
「これをたのみ、しかるべきとりたてにも、あひ、奉公せばや。」
と、おもひ、故鄕(ふるさと)を出でて、都におもむく。
明石、兵庫の浦えを過《すぎ》て、尼ヶ崎に出でて、やうやう、津の國高槻(たかつき)のほとりに至りぬれば、しきりに、のんど、かはきぬ。
路のかたはらをみるに、ちいさき人家あり。
その家、たゞ、女房あり。
そのかほかたちのうつくしさ、また、かゝる邊鄙(へんひ)には、おるべきとも、おもはれず。
窓のあかりに向ふて、襪(たび)を縫ふ。
角左衞門、立ちよりて、湯水を、こふ。
女房、
「やすきほどの事なり。」
と、隣りの家にはしり行きて、茶をもらふて、あたへぬ。
角左衞門、しばし、立ちやすらひ、その家の中(うち)を見めぐらすに、厨(くりや)やかまどの類ひも、なし。
角左衞門、あやしみて、
「いかに、火を燒(た)く事は、したまはずや。」
と問ふ。
女房、
「家、まづしく、身、をとろへて、飯(いひ)を炊(かし)きて、みづから養ふ事、かなはず。あたり近き人家に、やとはれて、その日を送る。まことに、かなしき世わたりにて侍る。」
と語るうちにも、襪(たび)を縫ふ、そのけしき、はなはだ忙(いそがは)しく、いとまなき體(てい)と見ゆ。
角左衞門、其の貧困辛苦の體をみて、かぎりなくあはれにおぼえ、また、そのかほかたちの、優(ゆう)にやさしきに、みとれて、やゝ傍(そば)により、手をとりて、
「かゝる艶(えん)なる身をもちて、この邊鄙(へんひ)に、まづしく送り給ふこそ遺恨なれ。我にしたがひて、都にのぼり給へかし。よきにはからひたてまつらん。」
と、すこし、その心を挑(いど)みける。
女房、けしからず、ふりはなちて、いらへも、せず。
やゝありて、
「われには、さだまれる夫、侍り。名を藤内(とうない)とて、布(ぬの)をあきなふ人なり。交易のために他國へいづ。わが身は、ここにとゞまりて、家をまもり、つゝしんで舅(しうと)・姑(しうとめ)に孝行をつくし、みづから、女の職事(しわざ)をつとめて、まづしき中(うち)にも、いかにもして、朝暮(てうぼ)の養(やしなひ)をいたし、飢寒(きか)におよばざらん事を謀る。今、已に十年に及べり。さいはひ、明日(あす)、わが夫、かへり來る。はや、とく立さり給へ。」
と、いへば、角左衞門、大きに、その貞烈を感じ、悔媿(くいはぢ)て、僕(ぼく)に持らせたる破籠(わりご)やうの物をひらき、餠(もちひ)・果(くだ)もの、取り出だし、女房にあたへ、去りぬ。
その夜は、山崎(やまざき)に宿(しゆく)しけるが、あくる朝(あさ)、かの女房の所に、所要の事、かきたる文(ふみ)、とりおとしけるゆゑ、跡へもどりける所に、道にて、葬禮にあへり。
「いかがなる人にや。」
と、たづぬれば、
「布商人(ぬのあきひと)藤内を送る。」
といふ。
角左衞門、大いにおどろき、あやしみて、その葬禮にしたがひて、墓所(はかしよ)にいたれば、すなはち、昨日(きのふ)、女房にあひし所、なり。
今、みれば、家もなく、跡もうせて、たゞ、草(くさ)蕭々(せうせう)たる野原なり。
その地を、ほり葬る所をみれば、藤内が女房の棺(くわん)あり。
棺のうちに、あたらしき襪(たび)一雙(《いつ》さう)、餠(もちひ)・果(くだ)もの、ありのまゝ、見ゆ。
又、そのかたはらに、古き塚、二つあり。
これを問へば、すなはち、
「その舅(しうと)・姑(しうとめ)の塚なり。」
と。
その年數を問へば、
「十年に及ぶ。」
といふ。
角左衞門、感激にたへず、送りし者に、右のあらましを語り、鳥目(てうもく)など、くばりあたへて、ともに送葬の儀式を資(たす)け、かつ、跡のとぶらひの事まで、念比(ねんごろ)にはからひて、その後(のち)、都へのぼりける。
あゝ、この女房、死すといへども、婦道(ふだう)をわすれず、舅姑(きうこ)に孝行をつくして、夫を、まつ。いはんや、その生(い)ける時は、知りぬべし。
かの世の寡婦・室女(しつ《ぢよ》)、いやしくも、その夫をわすれて、再び、嫁し、或《あるい》は邪僻婬亂(じやへきいんらん)にして、終《つひ》にる媿(はづ)る心なきもの、多し。
この女房の風儀をきかば、すこしく戒(いましむ)る所あらんか。
狗波利子卷之七終
[やぶちゃん注:以上を以って、浅井了意は「狗張子」を完結させることなく、白玉楼中の人となった。最後であるので、盛んに参照にさせて戴いた江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注に拠って、注を附す。同注釈は詳細を極め、私が「伽婢子」以来のコンセプトとして、触れなかった典拠とした作品との考証も詳しい。是非、全篇をダウン・ロードして本作の優れた解説書として座右に置かれんことを強くお薦めする。
「福島角左衞門」不詳。江本氏も『不明』とされる。
「福島左衞門の大夫」織豊時代から江戸前期の大名福島正則(永禄四(一五六一)年~寛永元(一六二四)年)。通称は左衛門大夫。豊臣秀吉に仕え、「賤ケ岳の戦い」の七本槍の一人として勇猛を馳せ、「小牧・長久手の戦い」や朝鮮出兵などで活躍した。文禄四(一五九五)年、尾張清洲城主。「関ケ原の戦い」では、徳川方につき、それによって安芸広島藩主となり、四十九万八千石を得たが、広島城の無断修築を咎められ、領地没収となり、元和五年、信濃川中島四万五千石に移封され、高井野に蟄居し、享年六十四歳(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。語りの内容からは、話柄内時制は「文禄の役」(天正二十・文禄元(一五九二)年よりも有意に以前の設定であろう。
「津の國高槻(たかつき)」現在の大阪府高槻市。江本氏の注に、『高山右近転封後、当市域の大部分は一時秀吉の直轄領となり、富田宿を含めて羽柴小吉秀勝が支配したと思われる(『大阪府の地名』日本歴史地名大系28)。』とある。
「山崎(やまざき)」江本氏の注に、『桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となり、川は天王山と男山の陰路部を通って山城盆地から大阪平野に出るが、その北側、天王山とその北・東・南山麓に位置する。古代以来、交通の要地(『京都府の地名』日本歴史地名大系26)。』とある。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。
「室女(しつ《ぢよ》)」通常は未婚の女性を指す。ここは婚姻を約したものの、相手の男性が不幸にして亡くなったか、行方知らずになったケースを指すか。
「邪僻婬亂(じやへきいんらん)」江本氏の注に、『「邪僻」は根性のひねくれ曲がっていること。「婬乱」は色事に荒ぶ。』とある。
以下に底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」の原本奥書画像を添えておく。
*
最後に。
本篇を公開した今日は
ALSで召された母聖子テレジアの十一周忌
である。母は確かに
――優れた名にし負う――「聖」なる烈女――
であった。 ルカ直史記す
*]