狗張子卷之七 蜘蛛塚
[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)の二幅をトリミング補正して、適切と思われる位置にそれぞれ配した。]
○蜘 蛛 塚(くもづか)
むかし、諸國行脚の山伏、覺圓といふ者あり。
紀州熊野に參籠し、それより、都にのぼり、先(まづ)、淸水寺(せいすゐじ)に詣(まうで)んとす。
五條鳥丸(からすま)わたりにて、日、漸(やうやく)、暮れたり。
こゝに、大善院とて、大きなる寺院あり。
覺圓、
「幸ひなり。」
と、寺僧に請ふて、一夜をあかさんとす。
寺僧、すなはち、相ひ許して、堂のかたはらなる、いかにも、きたなき小屋を借(か)しけり。
覺圓、大きにいかりて、
「一夜ばかりの宿、僧徒の身として、此修業者(しゆぎやうじや)に、かゝる不德心(ふとくしん)は、何事ぞや。」
といふ。
寺僧、打わらひて、
「これ、まつたく、修業者をあなどるには、あらず。實(まこと)は、此本堂には、年久しく、妖(ばけもの)ありて、住めり。凡そ三十年の内、三十人、その死骸さへ、見えず。このゆゑに、本堂をば、借さず。」
といふ。
覺圓、聞て、
「何條(なんでう)、左樣の事、あらん。『夫(それ)、妖は人によりて、起こる。』といへり。豈(あ)に此の知行兼備の行者を犯す事、あらんや。」
と。
寺僧は、再三、諫(いさ)むといへども、あへて用ひざれば、やむことを得ずして、本堂の戶をひらき、あらましに掃除して、誘(いざ)なへば、覺圓、しづかに、佛(ほとけ)を禮(らい)し、念佛して、心を澄(すま)し、坐し居(ゐ)たり。
しかれども、彼《かの》寺僧の詞(ことば)のすゑ、おぼつかなく思ひ、腰の刀を、半ば、ぬき出だし、柄(つか)を手に持ちながら、ねぶりゐるところに、夜《よ》、すでに二更[やぶちゃん注:現在の午後九時又は午後十時からの二時間を指す。]に及ぶ比(ころ)、
「ぞつ」
と寒くなり、堂内、しきりに震動して、風雨、山をくづすがごとし。
その間(あひだ)に、天井より、大きなる、毛おひたる手をさし出し、覺圓が額(ひたひ)を、なづ。
すなはち、持たる刀をふりあげ、
「てう」
と、きる。
物に、きりあてたる聲ありて、佛壇の左のかたに、おつ。
夜、まさに四更[やぶちゃん注:午前一時又は午前二時からの二時間を指す。所謂、牛の刻である。]にいたる比、又、さきの手を、さしのぶ。
此度(たび)も、すかさず、刀をふりあげて、
「はた」
と、きる。
やうやく、夜、あけて、寺僧、心もとなく思ひ、たづね來たる。
覺圓、前夜の樣子をかたるに、寺僧、奇異の思ひをなし、急ぎ、佛壇のかたはらをみるに、大きなる蜘蛛(くも)、死してあり。
ながさ、二尺八寸[やぶちゃん注:八十五センチメートル弱。]ばかり、珠眼(しゆがん)圓大(ゑんだい)にして、爪に、銀色(ぎんしよく)あり。
寺僧、ますます、驚き、堂の傍(わき)に、これを、ほりうづめ、塚をつきぬ。
かつまた、此山伏の、行德(ぎやうとく)いちじるき事を感じて、しばらく、此所にとゞめ、一通の祭文(さいもん)を書(かゝ)しめ、かの塚を、まつり、ふたゝび妖怪なからん事を祝(しゆく)す。
今にいたるまで、その塚ありて、「蜘蛛塚」といふとかや。
[やぶちゃん注:「覺圓」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注に拠れば、『『日本仏教人名辞典』によると、平安中・後期の天台宗の僧と鎌倉後期・南北』朝『時代の日蓮宗の僧がいるが、本話のモデルは未詳とすべきか。』とある。本文も挿絵もしっかりガッツリの山伏であるので、それを支持する。
「淸水寺(せいすゐじ)」ここは現在の清水寺(きよみずでら:グーグル・マップ・データ。以下同じ)のこと。一般的に現在は訓で読まれている寺も、古くは音読みで呼ばれることもあった。知られた清水寺は、室町時代に書かれた謡曲「湯谷(ゆや)」の謡本中では「せいすいじ」と読みが振られてある。
「五條鳥丸(からすま)」この中央。
「大善院」江本氏注に、『『雍州府志』などでは、「五条ノ北鳥丸」にあったとする。なお、『京町鑑』では「大政所町……東がは大善院と云本山派の山伏の住居門がまへの家有。今は宗外と成たるよし此寺に蜘塚とて有。むかし此所に土蜘」(つちぐも)『住て夭怪』(「妖怪」に同じ)『有しゆへ退治して地に埋しとぞ」と伝えている。『大日本寺院総覧』では、熊野郡海部村、下京区高倉通仏光寺下ル新開町にあった二院が確認できる。』とあり、更に最後の「余説」でも、『大善院にまつわる蜘蛛塚の由来は、後に刊行された『雍州府志』「蜘蛛塚 五条ノ北烏丸大善院ノ中ニ在リ。古へ斯ノ処大ナル蜘蛛妖怪ヲ為ス。遂ニ之ヲ殺乄土中ニ埋ム。是ヲ蜘蛛塚ト号ス」(貞享三年刊・巻十)などをはじめ、『京羽二重織留』(元禄二年刊・巻五)、『名所都鳥』(元禄三年刊・巻六)などの地誌にも見られる。』とある。了意は京都の真宗寺の住持であったから、そうした伝承にも詳しかった。]