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2022/03/12

狗張子卷之六 天狗にとられ後に歸りて物がたり

 

[やぶちゃん注:どうもこの話、本文を電子化しながら、デジャ・ヴュ(既視感)が激しく燦爛してしまった。まず、この天狗道に堕ちた僧らが受ける責め苦は、「伽婢子」巻之十の「了仙貧窮 天狗道」の焼き直しで、後半のクライマックスの能舞台の炎上のシークエンスに至っては、伽婢子」巻之十三「天狗、塔中に棲(すむ)」のそのマンマに近いからだ。いやぁ、やはり「了意、老いたり!」の感が強い。かなり悲しい。新味が、正直――どこにもない――からである。哀しいなぁ…………されば、注を附ける気が、俄然、失せた。やはり、例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)に譲りたい。少し躓いたところだけに注することとする。挿絵は今回も最も鮮明な、所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)のものをトリミングしたものを、適切と思われる位置に挿入した。]

 

  ○天狗にとられ 後(のち)に歸りて 物がたり

 慶長のすゑの年、「藤(ふぢ)の杜(もり)」に、彥八とて、常に田畑をかうさくし、ふし見・木幡(こはた)の人、もし、明神に御湯神樂(みゆかぐら)をまゐらすれば、彥八、出《いで》て、太鼓をうち、御託宣あるには、よろしく、あどをも、いたしけり。

[やぶちゃん注:「慶長のすゑの年」慶長は二十年までで、同年七月十三日(グレゴリオ暦一六一五年九月五日)に元和(げんな)に改元した。徳川秀忠の治世。但し、以下の本話時制はそれよりも後となる。帰還した次郎は、「今年、かぞふれば、我年(わがとし)、廿二になる」と述べており、彼が慶長末年前後に生まれたものとすれば、寛永(一六二四年~一六四四年)の半ばとなるからである。既に徳川家光の治世である。

「藤の杜」江本氏の注に、『現京都市伏見区深草鳥居崎町。「稲荷社の南にあり。これ、早良親王を祭るところなり」(『雍州府志』三)。』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。拡大すると、北半分が藤森(ふじのもり)神社の神域である。

「彥八」以下の記載から、藤の杜明神社に臨時使役された、最下級の神官であった神人(じにん)或いはさらに下級の犬神人と思われる。

「木幡」京都府宇治市北部の地名。「こわた」とも呼ぶ。ここ

「御湯神樂」湯立神楽(ゆたて(ゆだて)かぐら)。日本の伝統的な神楽の形式の一つ。当該ウィキによれば、『釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称である。別名を「湯神楽(ゆかぐら)」とも言う』。『狭義には』「神楽」の『名が示すとおり、面や装束をつけた舞い手が』、『釜湯を用いて奉納の舞いを踊る神事のみを指すが、広義には宮司や神職による釜湯を使った単純な儀式の形式をした湯立て神事も含んでいる』とある。

「あど」能狂言で主役であるシテ(又はオモ)に対する相手役を指すが(普通、「アド」とカタカナ書きする)、ここはそれを汎用して、いろいろな場面での世話や話相手役となったことを言う。或いは後半のクライマックスの能狂言への秘かな伏線でもあろうか。]

 その子は、次郞と名づけて、社家(しやけ)にかゝへおきて、宮地(みやぢ)の掃除をもさせ、木の葉をかゝせけり。心だて、おくれたるやうなりけれども、正直なるものにて、十六、七までは、いとまある時は、ふしみかいだうの子どもに友なひけり。

[やぶちゃん注:「心だて、おくれたるやうなり」多少の発達障害・知的遅滞があったように見えた。

「搔かせけり」。掃かさせた。

「ふしみかいだう」「伏見街道」。

「友なひけり」一緒に遊んでいた。]

 ある時、行《ゆき》がたしらずなりければ、親、悲しがりて、稻荷山の奧、霧が谷(たに)・霞の谷までも尋ねさがしけれども、跡も、なし。

[やぶちゃん注:「稻荷山」藤森神社の東北にあたる稲荷山(グーグル・マップ・データ航空写真)。江本氏は「霧が谷・霞の谷」両方について厳密に地域同定されておられる。]

 かくて、五年の後、次郞、歸りて、大なる松の木の枝に跨(また)がりて居(ゐ)たりしを、彥八、見つけて、

「次郞にては、なきか。」

といふ聲のしたより[やぶちゃん注:声をかけたのと同時に。]下(お)りつゝ、親と、つれて、家に歸り、初めのほどは、その有さま、さながら、山の猿のやうにて、手足もよごれ、頭の髮は榛(おどろ)のごとく亂れ、物をもいはざりしを、母、とかく、湯をあびせ、髮あらひ、食物(いひもの)も、よろしきやうにあてがひ、くはせて、やしなひければ、十日ばかりの後より、人心地(ごこち)つきて、物いひ出たり。

[やぶちゃん注:「といふ聲のしたより」声をかけたのと同時に。

「榛(おどろ)」この場合の「榛」は特定木本ではなく、「藪」或いは「雑木林」で、ごちゃごちゃに入り乱れたそれらを指す。一般には「棘・荊棘」で「おどろ」と読ませることが多く、原義よりも、喩えとしての「髪の乱れているさま」として用いることが多い。]

 あたりの人も、

「よき事や。」

とて、あつまり來りて、

「いかに。次郞、久しく餘所(よそ)に住(すみ)て故鄕(ふるさと)の戀しくもなかりしや。」

と問(とふ)。

 次郞、是より、語りけるは、

「今年、かぞふれば、我年(わがとし)、廿二になる。他所(たしよ)をめぐりし事、およそ五年に及ぶかとおぼえたり。其比は、八月の初めつがた、風、やうやう凉しく、田面(たのも)の穗なみ出がたになり、畝(あぜ)をつたうて行《ゆき》わたるに、いづくともしらず、たふとげなる僧の、紅染(こうぞめ)の衣の上に、紫の袈裟をかけ、手には水精(すゐしやう)いらたかの數珠(ずゞ)をもち、

「いかに。次郞よ。我ゆくかたへ、雇はれ來れ。あしうはせじ。」

と、あり。

[やぶちゃん注:「紅染の衣」丁字(ちょうじ)の煮汁で茶褐色に染めた衣。

「水精いらたかの數珠」能の山伏の役がよく悪魔退散・怨霊退治の調伏用いることで知られる「刺高数珠」(いらたかじゅず:「苛高」「伊良太加」「最多角」などとも書き、「いらだか」とも。これは「角立(かどだ)っていること」を意味する語で、修験者が使う珠の堅くごつごつした大振りの数珠を指す。珠が角張っていて算盤玉のような感じである)のそれが水晶で出来ている極めて高級な数珠である。]

 畏(かしこ)まり、めしつれられて、いづくともなく、空を飛ぶやうにして、京の東、「如意が獄」といふ山の峯に休みて、御僧《おんそう》もろ共、岩に尻かけて居たりけるに、あやしき小法師ばら、手ごとに食物(くひもの)もち來り、御僧にも奉り、我にも食(くは)せけり。何といふ物とはしらず、味わひうまき事、限りなし。

[やぶちゃん注:「如意が獄」標高四百七十四メートル。「大文字の送り火」で知られる山。山名は嘗て如意寺があったことに由来する。京都市左京区粟田口(あわたぐち)如意ヶ嶽町(ちょう)のここ。]

 やうやう、日暮れがたになり、御僧、仰られしは、

「おどろくべき事、有べし。汝、かまへて、おそるゝなよ。」

と、あり。

『いか成事のあるらん。』

と、おもふ所に、同じさまの僧、七、八人、まゐられたり。

 

Tenngudou

 

 空より、鐵(くろがね)の釜、おちさがり、岩ほのまへに、金輪(かなわ)にのりて、すはりけり。

 その次に、鼻たかく、眼(まなこ)大にして、兩の脇に翼ある法師三人、いづれも、足は鳥のごとく、柹(かき)色の衣に、太刀をはき、たまだすき、あげ、脛高(はぎだか)にかゝげ、甲斐々々しき體(てい)にて、白がねの茶碗に、鐵(くろ)がねの杓(しやく)を釜にさしいれ、銅(あか)がねの湯(ゆ)を盛(もり)て、七、八人、並居(なみゐ)たる僧衆にまゐらするを、僧衆(そうしゆ)、うたて憂(うれへ)たる色、あらはれ、茶わんを取て、飮(のみ)けるに、僧衆、一同にふしまろび、頭(かうべ)の上より、黑煙(くろけふり)たちて、もえあがり、空のあひだには、

「ばく、ばく、」

と、鳴ひゞく音して、すさまじさ、限りなし。

[やぶちゃん注:「たまだすき、あげ」「玉襷」で「襷」の美称。襷掛けになって力仕事を始める仕種。但し、挿絵では、烏天狗(二人しかいない)で羽根があるから面倒だったのであろう、挿絵では襷掛けはしていない。

「うたて」異様なまでに。

「ばく、ばく、」僧衆から放出される驚くべき高熱の気が、上空の空気を膨張させ、空気爆発を起こさせている音であろう。]

 暫くして、僧衆は、もえ株(くひ)のやうに、黑く、ふすぼり、とばかりありて、夢の覺(さめ)たるごとく、又、おきて、坐せしかば、本(もと)のごとくの僧となり、たがひに禮儀正しく、散りわかれて、歸りけり。

 初めの僧、次郞にむかひて、

「此有樣、かまへて、人に語るな。」

と、よく口がためし給ふ。

[やぶちゃん注:無論、次郎を連れ来った僧もこの罰を受けているのである。さればこそ、珍しく、内に残る人間的な恥ずかしさから、最後に口止めをしているのである。]

 我、漸やく、飢(うゑ)もなく、只、眠(ねふり)來るを、

「今宵は、臥(ふし)て、つかれを休め、明日(あす)は微明(びめい)より起きあがるべし。」

とて、岩やの内に入(いれ)らる。

 夜《よ》あけてより、此僧につれられ、空にあがりて、飛びゆく程に、霞をひらき、雲をわけて、

「こゝは、いづくにて候。」

と問へば、

「播磨の國姬路。」

と、いふなり。

[やぶちゃん注:ここは、兵庫県姫路市書写にある天台宗書寫山(しょしゃざん)圓教寺(えんぎょうじ)辺りを意識しているか。]

「日は、まだ、卯の尅(こく)[やぶちゃん注:午前六時前後。]ぞ。うゑたらば、物、くはせん。」

とて、大《おほき》なる家の内につれてゆき給ふに、

「振舞(ふるまひ)あり。」

とて、人、おほく、ひしめきけれども、僧をも、次郞をも、見とがむるもの、なし。

 次郞に、心にかなふもの、取くはせ、それより出て、雲をかけりつゝ、靑海(あをうな)ばらを足のしたに見て、

『遙かに高くあがりてゆくかな。』

と思ひ、

『直下。』

と、みおろせば、所々、住あらしたる家ども、海にさし入たるに作りかけ、ほのかにみゆる一村里(むらさと)の苫(とま)やかた、みるめを刈りほすまでも、心ありがほなり。蘆の屋、近からず、鹽屋のけぶり、たちのぼるけしき、うす墨(すみ)に書きたるやうにもおもはるゝ。

[やぶちゃん注:「みるめ」「海松布」。広義の漂着型(浜辺や岩塲で拾える)の食用海藻の総称。狭義には緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile を指し、「万葉」の古えより、よく和歌に読まれてきた。詳しくは「大和本草卷之八 草之四 水松(ミル)」の私の注を参照されたい。

「心ありがほなり」漁師の、その内心の、「それを美味く食えるぞ」「育ち盛りの子らに分け与えられるわい」「高直(こうじき)で売れるかも」などの「欲」や「愛欲」を覗かせた表情を(作者了意が批判的に)鋭く読み取っているものと思われる。]

 西のかたは、海、はるばると、もえわたり、並みたてる松の木(こ)のまより、帆かけたる舟ども、沖に行かふさまも、波にうつろふ、いさり火の影、日は、すぐに海の中に入はつるかと、あやしまれながら、たかき山におり立たり。

「こゝは、いづくぞ。」

と問ひ申せば、

「伯耆の國、大山(だいせん)なり。」

とかや。

 谷をこえて、大なる樓門あり。あゆみ近づきて、案内せらる。

 すさまじげなる法師、出て、

「こなたへ。」

と申す。

 僧は、次郞とともに、門の内に入けるに、あるじの僧、出らる。

 年のほど、五十斗(ばかり)とみえしが、座になほりて、さまざまの物がたりせしあひだに、四、五人、まゐり、あつまる。

 そのさま、いづれもみな、﨟(らう)たけ、德たかく、見えたり。

[やぶちゃん注:「﨟たけ」ここは「経験を積んで立派に見え」の意。]

 其中に、あるじの僧、申されけるやう、

「それ、生死(しやうじ)の一大事は、たかきも、いやしきも、のがれがたき道なり。『おこなひすましてあり』とみゆるも、一念の妄執をおこす時は、やがて、我らのかたに引入(ひきいる)る『たより』となる。さればこそ、昔(むかし)今(いま)、德行(とくぎやう)たかき輩(ともがら)、おほくは、魔道の眷屬となれり。我らがそのかみのまよひも、皆、また、かくのごとし。今の世に、學道、すぐれ、德行高しといふもの、さらに、まことの大道には、かなひがたし。知らざるを『知れり』と思ひ、得ざるを『得たり』と、おもふ。『我は人にはおとるまじ』と、すぐれたるを惡(にく)み、まさるをそねみ、我慢・增上慢(ぞうじやうまん)、山よりもたかく、海よりもふかし。我ら、あながちに『便り』をもとめ、伺がふに及ばず、魔道の網(あみ)にかゝる人のみ、これ、おほし。また、更に、他の障碍(しやうげ)にも依(よら)ず、みづから、大道をさまたぐるぞかし。修禪寺の惠山(ゑさん)長老は、唯識法相(ゆいしきほつさう)の宗義をあきらめ、華嚴涅槃の理に達して、常の講談をつとめ、數百人《すひやくにん》の弟子を領(りやう)ぜられけれども、その心ざし、わが宗流《しゆうりう》をたてゝ、他の宗義をおとしめ、心に彼我(ひが)をいだき、上覺寺(《じやう》かくじ)の行蓮(ぎやうれん)上人は、說法に名をほどこし、諸方の男女(なんによ)を勸化(くわんげ)し、一切經をたて、佛像、おほく作りて、くやうをいとなみ、世には、佛(ほとけ)のやうにたふとびしかども、一生のあひだ、只、經論をあつめ、佛像をつくり、他の財物(ざいもつ)を求め、すでにもとめ得ては、むさぼる心のおこりて、功德は有(ある)に似て、却(かへつ)て貪欲(とんよく)の煩惱となれり。靈光寺(れいくわうじ)の明寂(みやうじやく)法師は、そのかみ、武門の高家(かうげ)なりけるを、たちまちに、武職(ぶしよく)をすて、佛道にいりけれども、その俗家(ぞくけ)にありし時は、理《り》をまげ、法を破り、百姓の財產をうばひ、人を痛めて取あつめたる金銀を寺に入(いれ)て、堂舍をたてらる。これらの輩(ともがら)、みな、我らの障碍に依らず、死して、魔道に入侍べり。是のみならず、又、諸方の出家といはるゝ者、幾千萬とも數しらず、行(ぎやう)もなく、智もなく、旦那を諂(へつ)らひ、いつはりをかまへ、欲のふかき事、俗よりも、まさり、腹のあしき事、在家(ざいけ)に過て、世をわたる法師、死しては、地獄に落ちて、信施(しんぜ)のむくいをつぐなふ。或は、儒道を學ぶものは、淸旦浩然(せいたんかうぜん)の氣をやしなふといふ事は、夢にもしらず、詩をつくり、文を書(かく)とては、心にもなきいつはりを筆にあらはし、又、常(じやう)の道《だう》はおこなはずして、人をたぶろかし、祿をけがし、手を出《いだ》して盜みせぬばかりに月日を送る。天理に背き、神德にたがうて、死しても、本德に歸る道、なく、三惡道におつるものなり。在家(ざいけ)は、世わたり、身を過るあひだに、後世(ごせ)の道をねがふとはすれども、愛欲にひかれて、眞實(しんじち)の思ひなく、おほくは地ごくにおつ、とかや。今の我らも、かゝる心ざしより、魔道に入て、堪がたき苦しみをうけながら、慚愧懺悔(ざんぎさんげ)の心をおこさず、却て、佛敵・法敵となる、淺ましさよ。」

と、いふかとすれば、八人の僧は、いふにおよばす、數多(あまた)の法師原(ばら)まで、おそれ、わなゝき、立さはぐほどに、みな、ともに、宮殿(くうでん)の柱につながれて、はたらき得ず。

[やぶちゃん注:以上については、先の江本氏の注を見られたい。詳しい注がある。本文では複数の具体的な僧名を挙げて批判しているが、江本氏も示される通り、基本的には、総て架空の僧ととるべきであろう。而して、それを知尽しているところの話者である主人僧自身が増長慢の冥府魔道の世界に堕しているというパラドクスは、これ、了意の得意番である。

 そらより、猛火(みやうくわ)、もえくだり、宮殿(くうでん)・樓閣、一同にもえあがり、おめきさけぶ聲とともに、やきくづれて、殘る人は、なし。

 次郞ばかりは、つながれずして、遠く谷かげに、にげのがれたり。

 とばかり有て、さきの僧、來りて、次郞をつれて、山を出つゝ、かへりみれば、さしも作りならべし山中の宮殿・樓門は、跡もなし。

 是より、次郞は僧に連られ、又、空をかけりて、西國のあひだ、殘らず、めぐりて、

「又、京ちかく、歸る。」

とて、播磨の灘にて、便舩(びんせん)を請(こ)はれしを、舟子(ふなこ)ども、はしたなく、いらへて、のせざりければ、僧、すでに、步(かち)より、ゆくゆく。

「いで、おのれらに、思ひしらせん。」

とて、沖のかたにむかひて、印(いん)を結ばれしかば、俄に、黑雲、おほひ、大風、吹《ふき》おこり、海のおもて、くら闇(やみ)のごとく、波、たかくあがり、雪の山をつき、砂(いさご)の山をかさね、數多(あまた)の舟ども、簸(み)にて、ひるがごとく、垢(あか)をかへ、苫(とま)を打《うち》いれて、

「磯(いそ)近く、よせん。」

とするに、叶ひがたく、舟の内には、伊勢のかたにむかうて、をがみ、「觀音經」をよみ、念佛す。

 やうやう、日の入りがたに、風、やみ、浪、しづかに成て、おほくの舟ども、よみがへりたる心ちして、「室(むろ)の津(つ)」にかゝり、兵庫の浦まで吹きよせられ、辛(からう)じて、命たすかり、悅ぶ人も、おほかりけり。

[やぶちゃん注:「簸(み)にて、ひるがごとく」「簸」は通常は「ふ」と読む。「箕(み)」を用いて、穀物などを煽っては籾殻や塵などを取り除く作業を「箕(み)にて簸(ひ)る」と言う。

「垢をかへ」舟に侵水した「あか」(閼伽・海水)を搔き汲み出だし。

「苫(とま)」菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだ莚(むしろ)。和船の上を覆って雨露を凌ぐのに用いる。ここはそれを広げていると煽られて逆に危うくなるから畳んで仕舞ったのである。

「室(むろ)の津(つ)」現在の兵庫県たつの市御津町(みつちょう)室津(むろつ)。]

 僧は、又、それより、程もなく山崎(やまざき)まで來りて、夜《よ》の明がた、次郞に、物、くはせ、都に入て、西の岡より、北山をめぐり、東山に出ければ、

「五條川原に能(のう)あり。」

とて、都の人、貴賤上下、足を空(そら)になして、芝居に入あつまる事、雲霞の如し。桟敷には色ゝの幕、うちならべ、誰《たれ》とはしらず、歷々の人ども、見物するを、僧は次郞をつれて、見めぐりけれども、とがむる人も、なし。

[やぶちゃん注:「山崎」江本氏の注に、『京都府南部の大山崎町と大阪府島本町の一部とにまたがる地区の旧称。淀川が京都盆地から大阪平野へ流れ出る狭隘部の北側に位置する。油座があり古来、交通の要地。摂津と山城の分岐点。』とある。この中央附近

「五條川原」この附近。]

 能は、すでに初まり、名だかき上手共(じやうずども)、入替り、入替り、いたしけるに、諸人《しよにん》、心を空になし、萬事を忘れて見居(みゐ)たるを、僧、すなはち、次郞に語りて、

「此やつばら、あまりに物の心も失ひたるに、諸人の目を、さまさん。」

とて、舞臺の上に坐して、何やらん、となへられしに、忽ちに、三條西の洞院(とうゐん)より燒出(やけいで)て、黑煙(くろけふり)舞あがり、一面に成て、もえわたる。

[やぶちゃん注:「三條西の洞院」この附近。]

 風、あらく、吹きしきて、熖(ほのほ)とびちれば、町つゞきをこえて、爰《ここ》かしこに、もえあがる。

「すはや、火事よ。」

といふほどこそ有けれ、幾千萬ともなき見物の諸人等(しよにんら)、上を下にかへし、桟敷より、よりころびおち、芝居・樂屋・鼠戶(ねずみど)、ひとつになり、

「我、さきに。」

と、こみあひ、押しあひて、ふみたふし、臥(ふ)しまろび、女(をんな)童(わらは)のなきさけぶ聲、物あひ、更に、わかれず。

[やぶちゃん注:「鼠戶」催し物や興行などに於いて、入り口に設けた観客を入れる小さな潜り戸。鼠木戸。]

 とかくして、火も靜まり、僧は次郞をつれて、あゆむともなく、飛ぶともなく、都を出て、さゞ波や、しがの山こえ、比良(ひら)・小松・今津・海津(かいづ)をうち過て、越前の敦賀に出たり。

[やぶちゃん注:「さゞ波や、しがの山こえ」和歌の体にして、道行文の頭に添えたもの。

「比良」琵琶湖西岸の比良山地附近。

「小松」同じく滋賀県大津市北小松附近。

「今津」琵琶湖北西岸の滋賀県高島市今津町今津附近。

「海津」同北岸の滋賀県高島市マキノ町海津。]

 いたらぬ隈もなく、見殘す所もなく、飢えをもしらず、寒(さむ)からず、東國のかた、あまねく廻(めぐ)りて、富士の高嶺・淺間が獄(だけ)・田子(たご)の入海・淸見が關・箱根の山より、駿河の國・鎌倉山の昔の跡、聞つたへし名所は、めぐり殘せる方も、なし。

[やぶちゃん注:「鎌倉山」神奈川県鎌倉市の北や西の山間部の広域旧称。]

 春もたち、夏もすぎ、秋の空、冬の時も、心にくるしむ事も、なし。

 暫らくも、身を留(とゞ)めず、天(あめ)がしたを打めぐり、山河《さんが》・海(うみ)のおもて、空をかけてゆくさきには、折々、只おそろしき事、奇特(きどく)の事、心の外《ほか》の旅の間(あひだ)に、年の暮、月日のたつをも覺えず、五年の光陰を過て、こたび、こゝに歸り來るも、ながきいとまに、あらず。」

と、さまざま、語りしが、廿日斗《ばかり》は、家にありて、見なれぬ奇特(きどく)を諸人(しよにん)にあらはし見せて、又、行《ゆき》がたなく成《なり》たり。

『此ほどの形見(かたみ)。』

とや、おもひけん、檜木笠(ひのきかさ)・檜木の棒・ちぎれたる篠懸(すゞかけ)を殘しおきたり。

 父彥八も、年より、よはひ、かたぶきて、いく程なく、身まかりけり。

 殘しおきける篠懸は、地下人等(ら)、瘧(おこり)をふるひて、病(やみ)ふせりけるを、彼(か)のすゞかけを、枕もとにおき、ねれば、やがて、おこりの落ちければ、方々(はうばう)、借(かり)つたへて、祕藏せし。後に、行がたなく失なひけり。

 檜木笠(ひのきがさ)・ひの木の棒は、古き家のならひ、雨、もりて、朽ちはてたり、とかや。

[やぶちゃん注: 「篠懸」修験者(しゅげんじゃ)が衣服の上に着る麻の法衣。直垂(ひたたれ)と似た形に作る。「鈴懸」とも書く。

「瘧」熱性マラリア。近代まで本邦の風土病として普通にあった。知られたところでは光源氏や平清盛らが罹患している。当該ウィキによれば、日本では、明治三六(一九〇三)年の時点で、全国で年間二十万人のマラリア患者が記録されていたが、大正九(一九二〇)年には九万人に、昭和一〇(一九三五)年には五千人と激減し、戦中・戦後の混乱期にも関わらず、減少を続け、昭和三四(一九五九)年の『滋賀県彦根市の事例を最後に』、『土着マラリア患者』は『消滅して』おり、沖縄県でも米軍統治下の昭和三七(一九六二)年に消滅した、とある。同疾患については、「生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 二 原始動物の接合(4) ツリガネムシ及びマラリア原虫の接合」に詳しい私の注があるので見られたい。私は同い年の友人永野広務君をマラリアで失っている。]

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