曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 「けんどん」爭ひ (その3) 山崎氏「けんどん」考勸解
[やぶちゃん注:下線は底本では、細い右傍線である(吉川弘文館随筆大成版は傍点「﹅」)。ここの下段の二、三行目。]
○山崎氏「けんどん」考勸解
釋詰の一篇、委しく記しおこし給へる事、不二爲ㇾ友辭一勞の言、空しからず、心にかけ給へるの厚き、謝するに所なし。予が「けんどん」の名義を問ひ侍りしを、「詰る」[やぶちゃん注:「なじる」。]としもし給ふは、思ひもよらず。『もし、しか思ひ給ふるよしもあらんか。』とて問侍りし、ことの末に、ことはり侍りし。さて、「けんどん」の名義及び「饂飩」の器物、鮓の製造に、古今の異あることまで、詳に、その頃の書ども、引證し、辨じ給へること、博、且、精にして敬服するに堪たり。「問ㇾ一得ㇾ三」との如く、實に望外の至にこそあれ。予、先に席上にて「けんどん」は「慳貪」の義なるよし、いへるものも、予が臆斷には、あらず。寫本「洞房語園」・「北女閭紀原」・「人倫訓蒙圖彙」・「世事談綺」の說によれる迄也。其說の當否も、姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]置。これは、再び辨ずるには、あらず。唯、予が言の妄ならざるを證するなり。予が問に、「二百歲翁」云々といふよりは、辨じ給ふ如く、戲れの遯辭[やぶちゃん注:「とんじ」。言い逃れ。]なるはしりながら、聖門の名敎など、にげなき[やぶちゃん注:「似げ無き」。似つかわしくない。相応しからぬ。]ことまでしるしたるは、予も同じく贅言し侍りしなり。しかれども、予が性、もと滑稽なければ、おもふ事の通ぜずや、ありけん。よしなしごとさへ書きたるは、これをもてなりけり。これまでは、いかにもあるべし。もとより、「詰る」にはあらで、疑ひを問ふ意なればなり。さて、予を「先生」と稱されしに、足下を「子」と稱したるを、「貶せり」と、とがめ給へるは、いかなる意にや。これも予が意には、辨論せられしやうのことにて、しるしたるには、あらず。先づ、そのよしをいはゞ、予は、元より、商賈なり。尊稱をもとめざる事は、いふまでもあらず、人をおとしめ、いはん心も、なし。足下の人を稱するに、階級のある事も、未だ、しらず。そは先に「老」をもて稱せしに、「老境に入らんに、『老』をもて稱せらるゝは、こゝろよからず。」とて、忌嫌ひ給ふものから、「子」をもて稱したりしを、
「貶せし」とおもひ給ふは、予が意とは齟齬せり。「論語義疏」に、『子是有德之稱、古者稱ㇾ師爲ㇾ子也。』と、いヘり。孔子・孟子・程子・朱子の稱をもて見るべきのみ。又。『論語之書成二於有子曾子之門人一故其書獨以ㇾ子稱。』と、程子も、の給へるものをや、尊稱にあらずや。こゝをもて、予は足下を「子」と稱せしは、敬するの心にて、貶する道、曾て、なし。かつ、予は、足下を『莫逆の益友』と思ひたればこそ、先にも「兎園」の非を辨ぜられしを、深く心にうベなひ、猶、又、「けんどん」の義も、心置なく問ひ侍りしは、この故也。しかるを、「詰る」とし、「貶る」[やぶちゃん注:「おとしむる」。]とせられしは、予が忽卒[やぶちゃん注:慌て急ぐこと。]の筆に出たる罪とや、いはん。足下の名、天下に普く、著述の多き、且つ、才と云、齡と云、予と日を同じくして語るべからず。しかれども、予が不才なるをも、海の如く容れ給へるは、同好のよしみをもてなるベし。されば、かへすがへすも、おとしめ云はんや。予も、元より、爭は好まず、怒る心は、つゆほども、なし。互に辨じ盡して後、怠狀[やぶちゃん注:「たいじやう」。詫び状。]を出すがごときは、意趣をさしはさむ常人の事にして、吾輩のまごゝろにはあらず。かゝることも、もと、交情の厚きに任せて、おもふかぎりを問ひ侍りしが、思ひきや、かくまでに、のたまふことのあらんとは、ゆめ、な、心にかけ給ひそ。いともいとも、本意なくこそおぼゆれ。あなかしこ。
乙酉孟夏[やぶちゃん注:文政八年四月。]
再云、予、先に會約をしるして、「つとめて、人を、よろこばしめ、かげごと、いはんは、むげの腹黑なるべし。」といひたりしごとく、「此會には、心に思はんことは、何事にまれ、いはん。」と約したれば、面從後言せざるこゝろにて、あからさまに問ひ侍りし也。已に、逆をもて、憤りを旨とすべきよし、もとよりあるまじき事ぞかし。
[やぶちゃん注:「洞房語園」俳諧集・漢詩文集にして随筆。前集三巻・後集一巻。庄司勝富編。前集は元文三(一七三八)年刊で、後集は享保一八年(一七三三)成立で写本で伝わる。吉原の遊女屋主人である編者の作のほか、俳人・絵師・遊女などの吉原に関する句文を収めたものが正本であるが、その間、同一人物が同書名で、享保五(一七二〇)年に二巻の随筆を出している。正本と区別するために「異本洞房語園」と称されることが多い。江戸の遊里吉原の歴史を述べたもの。こちらも写本で伝わったため、転写の過程で増補記事を加えた異本が多数あり、代表的なものに、山東京伝による増補本や、江戸座の俳人石原徒流が増補した「北女閭起原」(☜「洞房語園異本考異」はその増補記事のみを集めたもの)、寛閑楼佳孝著「北里見聞録」がある。所持する吉川弘文館随筆大成版で調べたところ、「異本洞房語園」の「補遺」の「六十一 喧鈍」があった。以下に正字にして記号や読みを加えて示す。
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六十一 「喧鈍(けんどん)」 寛文二年[やぶちゃん注:一六六二年。徳川家綱の治世。]、寅の秋中より、吉原に、はじめて出來(いでき)たる名なり。往來の人を呼(よぶ)聲、喧(かまびす)しく、局-女(つぼね)より、はるかにおとりて、「鈍」に見ゆるとて、「喧鈍」と書たり。其頃、江戶町二丁目[やぶちゃん注:現在の中央区日本橋富沢町四からら六番地附近。ここの中央辺り(グーグル・マップ・データ)。]に仁左衞門といふものは、饂飩を拵へ、「そば切」を仕込(しこみ)て、銀目(ぎんもく)五分(ごぶ)づゝに賣(うり)はじめ、「契情(けいじやう)の下直(げぢき)」[やぶちゃん注:遊女の最下級。]になぞらへて、「けんどんそば」と名付(なづけ)しより、世間に廣まるなり。
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ヤバ!?! 美成の言ってることと一致するで?!
「北女閭紀原」(ほくぢよりよきげん(ほくじょりょきげん))前注☜参照。
「人倫訓蒙圖彙」風俗事典。著者未詳。画は蒔絵師源三郎。元禄三(一六九〇)年刊。全七巻。各階層に於ける種々の職業・身分に、簡潔な説明を加え、併せてそれらの特徴的所作や使用された器物を描いた図を掲げる。巻一は公家・武家・僧侶に関するものを扱い、巻二以下で、能芸部・作業部(主に農工)・商人部・細工人部・職之部という構成で、最終巻は遊廓・演劇・民間芸能などに当てる。京を中心に当時の風俗・生活を知るための貴重な資料とされる。なかなか苦労したが、国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の巻四のここに発見した。太字は原本では囲み字。記号を添えた。崩しの著しい「ト」(=「分(ぶ)」)や異体字は、正字或いは近いものに代えた。
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麺類賣(めんるいうり) 饂飩(うどん)・蕎麥切(そばきり)を一膳切(ぜんぎり)にさた(=だ)め、夜(よ)に入て、になひ、ありく。其外(そのほか)、麺類は「慳貪(けんどん)」と号(がう)して、一膳(ぜん)の代(だい)、五分切(きり)に、是(これ)をあきなふ。「大仏門前(だいふ(=ぶ)つもんせ(=ぜ)ん)」をはし(=じ)め、所〻(ところどころ)にあり。又、祇園町・四条畷(しでうなはて)抔(とう)に「飯慳貪(めしけんどん)や」あり、代、八分。
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アチャあ!!! マタマタ、美成に有利じゃんカ!!!
「世事談綺」作家菊岡沾凉(せんりょう)の随筆「本朝世事談綺」。吉川弘文館随筆大成版で所持するが、ここは早稲田大学図書館「古典総合データベース」の板本の当該部を視認して電子化する。記号を添えた。
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○慳貪(けんどん)
江府(こうふ)瀨戶物(せともの)町、信濃(しなの)屋といふもの、始て、これをたくむ。そのゝち、所〻にはやりて、さかい町市川屋、堀口町若菜(わかな)田屋、本町布袋屋、大鋸(おが)町桐屋など、名をあらそふ中に、鈴木町丹波屋与作といふものぞ、名高かりし也。これを「けんどん」と号(なづく)るは、独味(どくみ)をして人にあたへざるの心、又、給仕(きうじ)もいらず、あいさつするにもあらねば、そのさま、「慳貪(けんどん)」なる心、又、「無造作(むぞうさ)にして、倹約(けんやく)にかなひたり。」とて、「倹飩(けんどん)」と書と云。此説、よろし。
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ありゃああッツ!?! 馬琴、危うし!!!
因みに、私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で彼の「諸國里人談」の電子化注を終えている。
「商賈」「しやうこ」。商人。山崎美成は江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子で、家業を継いだが、学問に没頭して破産、晩年は零落した。
「論語義疏」は魏の何晏(かあん)の「論語集解(しっかい)」に、梁の皇侃(おうがん)が再注釈したもの。大陸では、一度、散佚してしまい、本邦に伝えられたものが、江戸時代に逆輸出されて今に伝わる。
「子是有德之稱、古者稱ㇾ師爲ㇾ子也。」「『子』は、是れ、有德の稱、古へは『師』と稱し、『子』と爲せしなり。」。
「論語之書成二於有子曾子之門人一故其書獨以ㇾ子稱。」『「論語」の書、有子(いうし)・曾子(そうし)の門人を成す故に、其の書、獨り、「子」を以つて稱す。「有子」は有若(ゆうじゃく)。孔子の直弟子の一人。
「面從後言」「めんじゆうこうげん」。面と向かった際には、媚び諂(へつら)って従うが、陰では何だかんだと悪口を言うこと。「面從」は「人の面前でだけ従うこと」、「後言」は「陰で悪口を言うこと」を言う。]
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