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2022/03/24

多滿寸太禮卷㐧一 佛御前霊會禄

 

   佛御前(ほとけごぜんの)霊會禄(れいくわいろく)

 文永の比(ころ)、丹波國の住人、波多㙒(はたの)下野前司安國(やすくに)といふものあり。大番(おほばん)の役にあたり、嫡子木工之允(もくのぜう)國道(くにみち)、ことし廿一嵗に及びしかば、且つは、都一見のため、母もろともに、具足して、在京す。

[やぶちゃん注:「文永」一二六四年から一二七五年まで。鎌倉の中後期。幕府執権は北条長時・北条政村・北条時宗。

「波多㙒下野前司安國」不詳。当時、摂関家領であった相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を本領とした豪族に波多野氏がおり、一部が幕府御家人となっている。最も知られた人物は波多野義重であるが、ここは「丹波國の住人」とあるので、相模波多野氏第五代の波多野義通(よしみち)を祖とする後の丹波の戦国大名となる丹波波多野氏の一人という設定のようである。

「大番」平安後期から室町初期にかけて地方の武士に京を守らせたものが、鎌倉時代に入ってからは京と鎌倉の警護を命じた役職を指す。当該ウィキによれば、『鎌倉時代の武家法である御成敗式目が制定されると、大犯三ヶ条』(だいぼんさんかじょう:守護に与えられた権限で、「御家人の大番役催促」と、「謀反人の追補」及び「殺害人の追捕」であったが、貞永元(一二三二)年八月の「御成敗式目」では、これが明記された上で「夜討・強盗・山賊・海賊の検断」が追加された)『において御家人の職務として明文化された。鎌倉時代以降は、各国に振り分けられ、各守護が責任者となり、国内の御家人に振り分けして指揮に当たった(大番催促)』が、南北朝時代になると『廃れた』。『京都の皇居や院など(のちに摂関家も)の警備に当たる職務を京都大番役という。地方の武士にとっては負担が大きく、その期間は平安時代には』三『年勤務であったが、源頼朝が半年勤務に短縮し、公家に対して武家の優位が確定する鎌倉時代中期になると』、三『ヶ月勤務と大幅に短縮された』。『しかしながら、平安時代末期においては』、『地方の武士が中央の公家と結び付きを持つ機会であり、大番役を通して官位を手にする事が出来た。つまり自らが在地している国の介・権介・掾に任命してもらう』こと『で在庁官人としての地位を手にし、支配権を朝廷の権威に裏打ちしてもらうと言う利点があった。また、歌などの都の文化を吸収し、それを地方に持ち帰ることもあったようである』。『逆に短所や不安材料として、こうした大番役は惣領に限らず』、『その子が請け負う事もあったが、子が京にいる間に惣領が亡くなった場合、地元で弟・叔父などが勝手に惣領の地位を収奪してしまう、という事態が起きることもあった(例:上総広常)。また、惣領である父が京にあって子が地元にいる場合、地元で騒乱があっても』、『迅速な対応が出来かねるということもあった(例:畠山重忠)』とある。]

 子息國道、天性(てんせい)淸雅にして、書畫に達(たつ)し、武備を忘れず、弓馬(きうば)に調練(ちやうれん)して、その道々(みちみち)を、さとさずと云ふ事、なし。

 諸家の若輩、をのをの、師弟のむつびをなし、日々に遊興し、遠近(えんきん)の名山勝地、欣賞(きんしやう)せずといふ事、なし。

 父前司、いひけるは、

「我れ、平生(へい《ぜい》)、名利の爲めにつかはるゝ事、ものうきしだい也。只、とこしなへに、好むところを得て、幽居せば、わが本望なり。」

  明年(あくるとし)の秋、父安國、伯耆の國を守領して、かしこに、おもむく。國道をも共に具せんとす。

 母のいはく、

「木工(もく)、こゝにきて、いまだ、久しからず。遠き國におもむき、鄙(ひな)の奴(やつこ)とせんも、ものうし。暫く、歸り給はんまでは、唯、都に置給へ。」

と歎けば、安國も同心して、家を都の邊(ほとり)へ移し、母もろとも、のこして、わかれぬ。

 とし比《ごろ》の友どち、國道が、とゞまる事を悅び、其比、帝都の政所(まんどころ)北條時宣(ときのぶ)に謁して、參り、つかふ。

 時宣、大《おほき》によろこび、館(たち)のうちをしつらひ置、諸士の弓馬の師をなさしむ。

 折から、春の半ば、嵯峨のほとりを逍遙して、歸るさの道すがら、とある所を過《すぎ》しに、境地、はなはだ幽扁(ゆうへん)にして、山下(さんげ)、皆、桃の花に天、もえぐりて、今をさかりの折からなれば、木工、これを愛し、暫く、門前に休らひて、徘徊す。

 桃の林の一むらより、一人の上郞(じやうらう)女房(にようばう)、うつくしく、あたりもかゝやく斗《ばかり》なるが、花のもとに立《たち》たり。

 いづれを花と、わくべきとも見えず。

 木工、遙かにこれをみるに、

『いかなる高位貴人(きにん)の方にやおはすらん。』

と、さらぬよしにて、さりけるほどに、上郞は、まだ、見送り、國道がおとし置きたる扇子(あふぎ)をとりて、童(わらは)にもたせて送りぬ。

 木工、よろこび、門(もん)にむかひて、禮をなす。

 童。出でて、

「春の㙒遊(のあそ)び、いかで、くるしく侍らん。入らせ給ひて、つかれをも、はらさせ給ひて。」

といへば、いざなひ、いりぬ。

 上郞、出て、まみえ給ひ、

「君は六波羅の御館(みたち)の御方(おんかた)ならずや。我は又、北條一家(いつけ)の親族、君が栖(すみか)は、わがむかしの宅地なり。」

 木工、袖、かきあはせて、

「君はいかなる御方にて、この所におはします。」

と申せば、

「我れは、平性都督(へいしやうととく)の族なり。もと橘(たちばな)の何某(なにがし)が娘、同じ一家へ嫁(か)す。不孝にして、やもめと成《なり》、爰(こゝ)に住(ぢう)す。」

とて、茶菓子を出して、もてなす。

[やぶちゃん注:「平性都督」「平」氏「性」=姓の「都督」(ここは京都の治安を監察・統率する役の唐名)、則ち、六波羅探題を指揮する平氏である北条氏の権威者ということになる。最後の私の注を参照。]

 木工、いとま乞(こひ)て、出《いで》むとす。

 上﨟、これをとゞめて、

「こよひは、荒れたる宿(やど)なりとも、ひたすら、あかさせ給ひ、來(こ)しかたの物語をも、し給へかし。」

とて、酒膳をまうけ、木工を奧の一間(ひとま)に請じ、勸盃きはまりて、風流を盡くす。

 詞(ことば)やはらかに、品(しな)、また、まれ也。

 打《うち》もたれ、よりそひ、蘭麝(らんじや)のにほひ、なつかしく、いとゞ、心も、まどひ、茫然たる計(ばか)りなり。上﨟いはく、

「君(きみ)は風雅詩詠をよくし、手跡も又、古人に恥ずと聞《きき》侍り。我、又、愚かながら、此事を好む。今、幸(さいわい)に、互ひに、まみえ侍る。わが家(いゑ)に傳ふる唐賢(とうけん)の墨跡、和朝高位の筆翰、ことごとく、是を出《いだ》してみせ給ふ。」

に、或(あるひ)は、杜子美(としみ)・李太白・退之・元眞・菅家(かんけ)・空海・貫之・躬恒(みつね)の眞跡、炳然(へいぜん)として、あらたなるがごとし。

 木工、これをみて、手を置くに忍びず。

[やぶちゃん注:「手を置く」「思案にあまる・手をこまぬく」の意。優れた魅力的な稀有の名品を前にし、遂に暇を乞うことが出来なかったのである。

「杜子美(としみ)」はママ。言わずもがな、杜甫の字(あざな)「としび」。

「元眞」中唐の詩人で白居易の親友で「元白」と並称される「元愼」。

「炳然」光り輝いているさま。明らかなさま。]

Hotokegozen

[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]


 夜(よ)、已に更けぬれば、ともども、閨(ねや)に入、みづから、枕をあたへ、交情(かうぜい)、そのたのしむ事、かぎりなし。

  鷄(とり)の聲しきりに告げわたれば、名殘りはつきぬ中川の、又のよるせを、やくそくして、なくなく歸り、六波羅にまかりて、『老母のいたはりのよし』を申《まうし》て、よるよる、かよひぬ。

  すでに、年の半ばをこへ、淺からず契りかはせども、人、さらにしる事、なし。

  かゝる程に、木工が父、伯州より歸りのぼり、六波羅に出仕(しゆつし)す。

 時宣、のたまひけるは、

「賢息の才藝、世に勝れける事を賀し給ひ、老母のいたはりとて、月ごろ、行きかよひ、さこそ、心、うかるべき。」

などゝ聞へ給へば、安國、大《おほき》におどろき、

「我れ、伯州へまかる比《ころ》よりして、一向(ひたすら)、君(きみ)の御館(みたち)に侍りて、音信(おとづれ)も、なし。いかに、つかふまつり侍るか。『此たび、御館へ參り候はゞ、ありつる樣(やう)を、見てまいれ。』とこそ、母(はゝ)は申《まうし》候ひつれ、曾て、母が方へは、まからず。」

と申。

 時宣、おどろき、ふしぎの事に思ひ給ひながら、さらぬよしにて、立《たち》給ひぬ。

  日暮(《ひ》ぐれ)て、木工允、例のごとく、ゆかむ事を乞ふ。

 人をつけてうかゞはせらるゝに、道の半ばにして、見うしなふ。

 使(つかい)、走り歸りて、御館に告げ、北條、又、いそぎ、人を嵯峨につかはして、とはせたまへど、更にしる人、なし。

『傾城(けいせい)・白拍子(しらびやうし)なんどにこそ、かよひけん。』

と、推しはかり給ふ。

  翌日(あくるひ)、木工、例のごとくに、歸り來る。時宣、召して、

「夜(よ)べは、いかなる所にか、行く。」

 木工、かしこまりて、

「老母の方へ、まかりぬ。」

と申。

 時宣、

「いかに、僞り給ふ。人をつけて跡を見せしに、至る所を、しらず。宅中(たくちう)にも見えず、母のもとにも、なし。」

と宣へば、木工、あざむきて、

「さがへ參る道すがら、友とするものゝ方に侍り、ものがたりに、夜(よ)、更け、をのづから、夜をあかし侍る。」

 時宣その僞りをしりて、かの友をよびて、尋ね給ふ。

 木工、赤面し、色を變ず。

 時宣、

「御邊(《ご》へん)、まことあらば、實(じつ)を以《もつて》申給へ。」

 木工、つゝむにたへず、つぶさに始終(はじめをはり)を申て、恥あやまりて、かしこまる。

 時宣、いよいよ不思義[やぶちゃん注:ママ。]に思ひ、

「わが親族の者、更に左樣の者、なし。かならず、妖恠(ようけ)の所爲(しよい)ならむ。重ねては、行くべからず。」

と、かたく制し給ふ。

 木工、かしこまりて、一日(ひとひ)、二日(ふつか)は、ゆかざりしが、さるにても戀しく、

「後(のち)はともあれ、今一度(ひとたび)あはでは、止みがたし。」

と、彼(か)の方(かた)へ行《ゆき》、ありし事ども、語る。

 上﨟、聞(きゝ)て、

「恨むる事、なかれ。但(たゞ)、命數(めいすう)、こゝにつきて、契りも、こよひ、のみ。」

と歎く。

 良(やゝ)ありて、なくなく、木工に語りけるは、

「此の後(のち)、ながく、別るべし。又、逢ふ事を、いつとか、期(ご)せん。」

と、紋紗(もんしや)のかりぎぬひとへ、彩色(さいしき)の牡丹の繪一枚をあたへ、

「これ、むかしのものなり。君(きみ)、吾(われ)をみると思ひて、放し給ふな。」

と、泣々、わたして、きぬぎぬとなりぬ。

[やぶちゃん注:「紋紗」絡み織りにした織物である「紗」に地紋を織り出したもの。「紗」は透ける部分と、平織りの透けない部分の組み合わせで文様を織り出す。軽くしかも薄く、透き目があるので、通気性がよく、盛夏用の着物や羽織などに用いられる。]

 この夜(よ)、時宣は、木工が、必ずゆくべき事を察し、ひそかに、宅中を窺ふに、案のごとく暮れより失せぬ。

 急ぎ、父を呼びて、

「しかじか。」

と語り給へば、安國、大にいかり、

「天命(てんめい)をあざむき、不孝不忠の罪、のがるべからず。」

と、木工を呼びよせ、からめ置き、がうもんせん、とす。[やぶちゃん注:「がうもん」「拷問」或いは「强問」。]

 木工、是非なく、有りし事を、つぶさにかたる。

 形見の衣(きぬ)、繪讃(ゑさん)を出《いだ》す。

 則ち、これをみれば、繪の面に

「治承」

の年號月日(ぐわつひ)を書きて、

「淨海入道 玩物(ぐわんもつ)」

と書きたり。[やぶちゃん注:言わずもがな、「淨海入道」は平清盛が出家後に法号として名のった太政入道浄海。]

 又、衣の袖に、

 いつしかとわが身にふれしかり衣(ころも)仏(ほとけ)の御名《みな》に返しつるかな[やぶちゃん注:原拠不詳。]

 此おもむき、いそぎ、六波羅に、もて參り、

「ふしぎの事こそ、候へ。よのつねの恠(け)に、あらず。」

 いそぎ、木工をつれて、かの地に尋ね行きてみるに、日比(ひごろ)見えたる屋形(やかた)もなく、水、細く流れ、桃の木、のみ、生ひ茂りたり。

 各(をのをの)、不思義(ふしぎ)の思ひをなし、

「むかし、平相國淸盛公の寵愛の白拍子、佛御前(ほとけごぜん)とかやいひしを、この所に葬(ほうむ)りたり。」

とて、いさゝかなる荒墓(くわうぼ)あり。

 哥の心、又、記念(かたみ)のもの、うたがひもなき仏御前の器物(きもつ)ならん。

 しかれども、此の恠(け)におどろかされて、なやまされん事を歎き、これより、嵯峨に、かの器物(きぶつ)を、おさめ、かくしけり。

 其後《そののち》、木工、いよいよ、碩學の聞えありて、禁庭(きんてい)に召され、武官となり、木工頭(もくのかみ)に昇進しければ、終(つひ)に、その恠(あや)しみ、なかりしとかや。

[やぶちゃん注:読みのブレ(「器物」の「きもつ」と「きぶつ」等)は総てママである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらが冒頭であるので、不審な方は対照されたい。挿絵は、拘りがあって、「江戸文庫」版のそれを、かなり清拭した。それでも、致命的に仏御前の顔が汚損していたので、白く抜いた。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらがよい。

「北條時宣」この時代の六波羅探題は北方(こちらが上席)が北条義宗(極楽寺流赤橋氏  文永八(一二七一)年~建治二(一二七六)年で、南方が北条時輔(得宗家 弘長四・文永元(一二六四)年~文永九(一二七二)年)であったが、「時宣」という名ではない。しかし、文永九(一二七二)年二月に起きた北条一族の内紛「二月騒動」で、後者の時輔は当時の執権北条時宗の異母兄であったが、二月十五日、謀反を企てたとして、義宗に命じて彼を討って殺しており(逐電したとする説もある)、鎌倉では先立つ二月十一日に、北条氏傍流の名越時章・教時兄弟が得宗被官である四方田時綱ら御内人によって誅殺されている。時輔が謀反を起こした原因は、時宗が得宗・執権となって権力の座に就いたことに対する不満にあったとされ、これによって、北条一族内の反対勢力はほぼ一掃され、時宗政権は安定化したのだが、後に名越時章には異心はなく、誤殺であったとされ、討手であった御内人五人は責任を問われて九月二日に斬首されている。これは実際に不満を募らせておいた時輔や、前将軍宗尊親王の名を借りた北条氏傍流の反得宗の動きを封殺することが目的であったと考えられている(その一方、中心となって事件の処理にあたった安達泰盛は幕府内での実権をより強化させ、平頼綱ら御内人(みうちびと)勢力との対立を深める結果も惹起させた(主に平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。本篇の時制を、この「二月騒動」の少し前に設定すると、六波羅探題で時輔の影響が強くなっていた時期に相当し得る。或いは作者は、この切ない怪異に、時輔をモデルとした「時宣」なる架空の人物を措定し、二人を裂く悪役をあてがい、読者に仄かに直後に発生する「二月騒動」を意識させるようにしていた可能性が高いかと私には思われる。

「佛御前(ほとけごぜん)」仏御前(永暦元年一月十五日(一一六〇年二月二十三日)~ 治承四年八月十八日(一一八〇年九月九日))は平安末期の白拍子。「平家物語」第一巻の「祇王」に登場する。当該ウィキによれば、『加賀国原村(現:小松市原町)に生まれる。父の白河兵太夫は、原村の五重塔に京より派遣された塔守である。なお、この五重塔は、花山法皇が那谷寺に参詣した折、原村が、百済より渡来した白狐が化けた僧侶が阿弥陀経を唱えたことから弥陀ヶ原と呼ばれ、原村になったというエピソードと、原村の景観に感動し建立したものである。現在は五重塔址のみが残っている。幼少期から仏教を信心したことから「仏御前」と呼ばれる』。承安四(一一七四)年、『京都に上京し、叔父の白河兵内のもとで白拍子となる。その後、京都で名を挙げ、当時の権力者であった平清盛の屋敷に詰め寄る。その当時は白拍子の妓王が清盛の寵愛を集めていたので追い払われるが、妓王の誘いにより、清盛の前で』、

 君をはじめてみる折りは

 千代も經ぬべし姬小松

 御前の池なる龜岡に

 鶴こそむれゐてあそぶめれ

『と即興で今様を詠み、それを歌って舞を見せ』、『一気に寵愛を集めた』。安元三/治承元(一一七七)年、『清盛の元を離れ』、『出家し、自らを報音尼と称して嵯峨野にある往生院(祇王寺)に入寺する。往生院には仏御前の登場により清盛から離れた妓王と』、『その母・妹の妓女がおり、同じく仏門に励んだ。その時点で彼女は清盛の子を身ごもっており、尼寺での出産を憚り故郷の加賀国へ向かう。その途中、白山麓木滑(きなめり)の里において清盛の子を産むが、死産』、治承二(一一七八)年には帰郷し』た。『その最期については、彼女に魅入られた男の妻たちの嫉妬による殺害説や自殺説など諸説ある』。『墓所は小松市原町にある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

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