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2022/03/10

狗張子卷之六 鹽田平九郞怪異を見る

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は最も鮮明な、所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)のものをトリミングしたものを、適切と思われる位置に挿入した。漢詩部分は、一段で(底本は孰れも二段組み)白文で示し、後に諸本を参照に、( )で訓読したものを示した。訓読では、原本その他では、歴史的仮名遣の誤りがあるので、独自に正しい読みに変えてある。]

 

  ○鹽田平九郞(しおたへいくろう)怪異を見る

 攝州花隈(はなくま)の城主荒木攝津守は、織田信長公に楯つきましかば、瀧川左近將監(たきかはさこんしやうげん)に人數《にんず》をさしそへ、責めさせらる。

 野村丹後守を初めて、雜賀(さいか)の者ども、二百餘人、みなうたれて、城には火をかけ、燒きくづしけり。

 鹽田平九郞といふもの、只一人、のがれ出《いで》て故鄕(こきやう)に歸り、暫く、世の有さまをうかゞひ見るに、

「行くすゑ、とても賴みがたく、ともかくにも、はてしなき身を、いたづらになさんよりは、後世(ごぜ)の大事を、もとめばや。」

と思ひさだめ、もとゞり、きり、衣(ころも)を、すみにそめ、家を出つゝ、心のおもむくかた、足にまかせて、野くれ、山くれ、村里(むらさと)をめぐり、國々の風俗、所々の有さま、聞《きき》つたへし名所舊跡、をがまぬ靈地、なし。

 又、そのあひだに、富みてゆたかなるあり、わびてすむ人もあり、はしたなき、情けふかき、いづれ、しなじな、ひとしからず、或る時は、たづきもしらぬ山中《さんちゆう》をたどり、樵(きこり)に麓の道を尋ね、或る時は、そこともわかぬ野べにまよふて、草かりに里《さと》をもとめ、又は、すみか稀なる長路(ながぢ)に日を暮《くら》し、宿(やど)かさぬ所に行かゝりては、木のもと、塚原(つかはら)に夜《よ》をあかし、筑紫(つくし)がた、肥後の國阿蘇の深谷(みたに)にいたりしかば、まのあたりなる地ごくのありさま、もえのぼる焰(ほのほ)のすゑ、煙(けふり)につれて、天を焦がし、鳴りくだるいかづちの音、山も更にくづるゝがごとし。罪人の、よばひさけぶ聲、谷の底に聞えて、いく千萬とも知るべからず。

「かゝる事を見てもおそれず、聞(きい)てもおどろかずば、誰(たれ)とても、かくあるべし。」

と、懺悔(さんげ)の淚は留《とど》めがたし。

 

Ssioda1

 

「げに、すつる身なればこそ、かやうの事を見聞《みきく》につけて、思ひ知《しる》かな。」

と、ひとり心に觀じて、それより、猶、ゆく道の末、はるかなる薩摩がた、「硫黃(いわう)が島」にわたりて、俊寬が、古(いに)しへ、この島に流されて、あはれをのこす物がたりを、今、見るやうにぞ、思はるる。

 浦半(うらは)の海士(あま)のしわざとて、釣舟(つりぶね)に棹さして、千尋(ちひろ)の浪にたゞよひて、日も夕暮のよび聲は、遠近(をちこち)に聞こえて、うしほをはこび、柴(しば)をとり、鹽やく煙(けふり)の心ぼそく、玉藻を拾ひ、磯菜をとり、世わたる業(わざ)は、いづくとても安からぬこそ物うけれ。

 四國・二島(じたう)のあひだをめぐりて、やうやう、播磨がた、しかまのかち路(ぢ)を經て、又、故鄕に歸り、指を折りてかぞふるに、十八年にぞ成《なり》たる。

 替りゆく世の中に、知人(しるひと)もなく、村里のすみかも、そこともしらず、あらたまりつゝ、花隈・伊丹の燒跡、こゝは、昔の城の跡、あかしにも、あらずみえければ、そゞろに哀れにおぼえて、

  かへりこぬ昔をおもふ袂には

     秋ともなしに露ぞおきける

 日も夕暮になり、野寺の鐘の聲、かすかに聞こえしかば、

  見るまゝに過にしかたは入逢の

      鐘や昔の跡に聞こゆる

 かくて、花隈のかたをあゆみゆくに、心のままに荒れはて、荊(いばら)・淺茅(あさぢ)の生ひ茂り、薄がもとに秋をわぶる蟲の聲々も、あはれなり。

 四方(よも)の山々、いたく暮れはてゝ、又、問ひよるべきよすがも、なし。

 草原(くさはら)のなかに、ふるき軒(のき)ばの有りけるに入《いり》たりければ、すむ人も、なし。

 軒、かたぶき、板戶、破れ、上(かみ)、漏り、下(しも)、濡れて、淺(あさ)ましげなるに、うづくまり居(ゐ)て、靜かに、經、よみ、念佛す。

 月、漸(やう)やく、東の山のはに出《いづ》る比(ころ)、誰(たれ)とはしらず、三人つれて、入來《いりきた》る。

 兵九郞入道、思ひかけず、壁にそうて、ひそかに見れば、そのさま、いやしからず、物語する事、又、世の愚俗にかはりて、理(こと)はり[やぶちゃん注:ママ。]にかなへり。

その中に、一人、云(いふ)やう、

「さても、此世の中、大永・天文の比より、諸國、たがひに、そばだち、つよきは弱きをしたがへ、大なるは、小(ちい)さきを併(あは)せ、天下、すでに、四分五裂して、軍(いくさ)の絕ゆる時、なし。此あひだ、甲斐の國には武田信玄、北越には長尾謙信、北條・織田の家々、人數をあつめ、謀(はかり)ごとをたくみにし、ひたすら、戰國の七雄、三國の亂れといふとも、今の時には、よも、まさらじ。いつか、一統の世と成べき。」

といふ。

 また、一人の云ふやう、

「天下の治亂は、時運の變災、天地の妖怪なり。或ひは飢饉、あるひは疫癘(えきれい)の、天行(はや)る事も、みな、此たぐひなり。時、いたり、道、さだまりて、德たかく、おこなひよき人の手に、ころび入りて、天下は一統すべし。そのあひだに、家をとりたて、黨を結び、軍兵(ぐんびやう)をまねきて、地をあらそふ人あれども、天理(てんり)にかなはずしては、中比(なかごろ)、亡びて絕《たゆ》るも、あり。まことに、吉凶は天理に依りて、人事に、あらず。されば、信玄・謙信・北條の氏康は、みな、他界せられ、世つぎは有ながら、いづれも父には似ずとかや。中にも武田の四郞勝賴は、武勇は諸家にすぐれたれども、愚闇(ぐあん)にして、才智にともしく、みづから武勇に慢(まん)じて、諸方のてきをば、生きたる蟲(むし)かとも思はれぬは、やがて、亡びのもとゐならずや。一端は、大將の武威つよく、敵に勝つことあれども、愚《おろか》にして、知惠なく、或は、佞奸(ねいかん)輕薄の者を好しとおもひ、出頭させ、智謀ふかき臣を讒(ざん)して、疎(うと)み遠ざけ、我が武勇に慢をおこし、我意(がい)にまかせて、すさまじき軍(いくさ)をして、味方のよき者、皆、打《うち》ほされ、いくほどなく國を失ひ、身を亡ぼすこと、古今に例(ためし)おほし。天正年中、奧平美作守、同じく子息九八郞、勝賴の行跡(かうせき)を見限り、甲府を背きて、長篠の城に楯こもる。武田勝賴、大に怒(いかつ)て、一萬八千餘騎を率(そつ)して、押しよせらる。德川家、後詰(ごづめ)のため、信長公に加勢をこうて、前後、七萬六千餘騎、長篠におもむき、三重(《さん》ぢゆう)に栅(さく)をかまへて待《まち》かけらる。勝賴、一萬四千餘騎、先陣、山縣三郞兵衞を初めて、三重の栅に防(ふせ)がれ、三千挺(てう)の鐵砲に、的(まと)になりて打ちころされしかば、一族・同心にいたるまで、一萬三千餘人、死にけれども、敵方(てきがた)には、名ある侍は、一人も、うたれず。勝賴は、只、三騎にて、のがれて、甲府に歸らる。此後は、織田・德川兩家の武威の天下にかゞやきて、出《いづ》る日のごとく、武田方、諸方の壘(とりで)に取かけ、責めおとせども、後詰(ごづめ)すべき人數もとゝのはず、すてころさるゝ故に、武田の家、衰へ、末、久しくは有るべからずと思はぬ人は、なし。つひに、信長公のために責められて、天目山のふもとにて、武田の一家(《いつ》け)、みな、死に絕えしこそ、哀れなれ。凡そ、軍(いくさ)は三才相應するをもつて要(えう)とする。天の時は地の利にしかず、地の利は人の和(くわ)にしかず、と、いへり。勝賴、此たびの出陣には、往亡日(わうまうにち)にあたれり。德もなく、義もなく、智謀くらき上に、血氣の勇にまかせて、時日をえらばず、父信玄は軍(いくさ)を大事にかけ、山本勘助が丸日取(まるひどり)、前原筑前の守が相傳(さうでん)せし月切(つきぎり)の日取(ひどり)、小笠原源與齋(げんよさい)が八方懸(《はつ》はうがかり)の口傳(くでん)、「いづれも、祕術の大事なり。」とて、丸日取の圖を軍配團(ぐんばいうちは)の裏に書きてもたれりとかや。こと更、五月は仲夏にして、南の方に旺(わう)す。廿一日は辰巳午《たつみむま》の三時(《さん》じ)に、破軍(はぐん)の劍桙(けんさき)、北のかた、或は艮(うしとら)のかたに、むかふ。然るに、勝賴の陣、南にむかふて備(そなへ)をたて、しかも辰巳午(たつみむま)に、軍(いくさ)をはじめたる。みな、これ、天の時に違(たが)へり。其上、長篠の城に取かけ、本陣を道虛山(だうこやま)に取たり。道虛日(だうこにち)は、よろづに忌む事なり。名詮自性(みやうせんじしやう)の理(ことわ)り、いまだ戰はざるに敗北の兆(きざし)あり、天の時を失なはれたり。信長方、わざと廣みを前にあて、切田(きれた)・堀切・片折(かたくしげ)なる殺所(せつしよ)をのこし、栅を三重(みへ)にふりけるは、勝賴を小曳(をびき)て、川を渡せんがためなり。待ちて戰ふべき所ぞかし。無理に懸りて軍(いくさ)せしは、地の利に、そむけり。其上、去年(きよねん)、東美濃はつかうの時より、旗本・外樣(とざま)・近習衆(きんじゆうしゆ)と、諸牢人方(しよらうにんがた)、信濃衆と、三方(《さん》ばう)の内證(ないせう)、不和になり、長坂釣閑(ながさかてうかん)と、内藤修理と、中(なか)あしくなり、勝賴は、家老方(がた)を惡(にく)み思へり。内外大小、はだはだになる。軍事の評定に、しまり、なし。それに强み過たる大將を、釣閑(てうかん)、かうばりして、家老の諫めを讒(さかしら)し申せし。國の大なるを恃(たの)み、人數のおほきにほこり、武威をあらはさんとする。『これ、家運のかたぶきたる。』と見て、家老・諸侍は、みな、打死せしもの成べし。其時の落書(らくしよ)に、

  信玄の跡をやうやう四郞殿

      敵の勝賴名をばながしの

此後、また、いかならん世に、うつり行べきも、しらず。」

と語りければ、又、一人の云うやう、

「無用の長物がたり、餘所(よそ)の盛衰は、されば、いかにも、あれかし。めんめん、身の上の事、行すゑこそ、あやしけれ。」

といふ。

「まことに。我らの事を忘れて、よしなき物がたりせんより、心をのべて慰むには、しかじ。」

とて、其中に、色白く、おもて丸やかなるが、一遍をぞ、吟じける。

 高低竪起孤輪月

 扇動縱橫興凉風

 弄罷委棄埋濕土

 爛皮腐骨故情窮

(高低 竪起(しゆき)すれば孤輪の月

 扇動 縱橫すれば 凉風(りやうふう)興(お)こす

 弄罷(ろうじや) 委棄せられて 濕土(しつど)に埋(うづ)もる

 爛皮(らんひ)腐骨(ふこつ) 故情 窮(きゆう)す)

 又、一人、その身、ほそやかに、おもてにゑくぼあり、吟じけること葉に、

 當時得意龍吟調

 一曲飛聲渉碧霄

 今日庭中破碎竹

 方慕穿林舞謠嬌

(當時(そのかみ) 得意す 龍吟(りやうぎん)の調べ

 一曲の飛聲(ひせい) 碧霄(へきしやう)を渉(わた)る

 今日(こんにち) 庭中(ていちゆう) 破碎(はさい)の竹(たけ)

 方(まさ)に慕ふ 林(はやし)を穿(うが)つ 舞謠(ぶえう)の嬌(こび))

 又一人、その躰(てい)、肥えふとりて、長(たけ)ひきく、髮髭(かみひげ)、垂れ亂れたるが、吟詠していはく、

 荐掃埃塵更無遑

 愁懷疲羸鬚髯喪

 如今憔悴荒村客

 衰朽冷竮倚短墻

(荐(しき)りに埃塵(あいじん)を掃きて 更に遑(いとま)無し

 愁懷(しうくわい) 疲羸(ひるい)して 鬚髯(しゆぜん) 喪(さう)す

 如-今(いま)は 憔悴(せうすい) 荒村(くわうそん)の客(かく)

 衰朽冷竮(すいきうれいへい)して 短墻(たんしやう)に倚(よ)る)

「かやうに打吟じて、此心をのぶる樂しみは、千とせ過るとも、忘れじ。」

というて、あそびたはぶるゝを、平九郞入道、つくづくと聞て、

『いかさまにも。懷舊の心ばせあり、詩の心も、ことば、ただしからず、故あるものどもなるべし。』

と、おもひて、身をつくろひて、一聲、念佛しけるに、三人ながら、ともし火とともに、雪のごとく、きえうせたり。

 

Ssioda2

 

 夜も、はや、明けがたに成りしかば、あばらやを立出つゝ、あたりちかき人の家にゆきて、

「此あばらやには、あやしき事は、なきか。」

と問ふに、

「その家は、人のすむにもあらず、あれはてたるに、折々は、人の聲、聞こえて、わらひどよめく事、侍べり。定めて狐狸のしわざかと思ひ侍べる。あたりの家に、けしかけるわざをいたすにも、あらず。」

と、かたる。

 平九郞入道、聞きて、

「われは、諸國行脚の僧なり。こゝにめぐり來て、日、暮しかば、かりそめに此あばらやに入て、夜をあかさんとせしに、かうかうの事あり。めんめん、一首の詩をつくる。そのことば、すぐれたるには侍べらねど、一遍の心ばせこそ、あやしく聞なしはべり。」

とて、あるじの男、其外、若き者どもをかたらひ、あばらやの内をさがしけるに、破れたる團(うちは)と、破(われ)たる笛と、ちいさき箒木(はうきぎ)と、まことに古きが、土にうづもれ、塵にまみれてありしを、

「これらの精魅(せいみ)の、あらくれ出《いで》たる物なるべし。詩の心も、是にて、聞えはべり。されども、これを燒きすつる事は、あるべからず。」

とて、三色《みいろ》のものを、他所(たしよ)の山ぎはに、ひとつに埋みけり。

 それより後は、あやしき事もなかりし、となり。

 

[やぶちゃん注:三人の人物が付喪神であったというオチは、私は、結構、気に入っている。武将や合戦については、例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)に譲るが、その他、気になった部分を注しておく。

「鹽田平九郞(しおたへいくろう)」不詳。彼の「故鄕」を明記しなかったのはちょっと手落ち。まあ、出家遁世の僧であるから、故郷に拘りはないと言えばそうなるが、結局、一度は立ち戻っているのだから、ロケーションとしてそこを不明にしておくのは、やはり不自然である。

「攝州花隈(はなくま)の城」現在の兵庫県神戸市中央区花隈町にあった城。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『「鼻隅城」と書くこともあった。これは六甲山の丘陵が海に突き出ている様子を「鼻」、その稜線を「隅」で言い表したものである。またかつてはこの付近一帯のことを「花熊」と呼んでいたことも窺える』。永禄一〇(一五六七)年、『織田信長が荒木村重に命じて築かせたと言われているが、この時期信長はまだ入京しておらず摂津に力を及ぼす状況ではなかった。従って、翌永禄』十一(一五六八)年十月に、『和田惟政に摂津を任した時に築いたか、天正』二(一五七四)『年に石山本願寺と毛利氏との警戒用に荒木村重に命じて築城したのではないかという説もある。築城には近江の「穴太衆」』(あのうしゅう)『を呼び出し』、『かなりの石垣を使用し』して、一『年程度で完成させたと言われている』。天正六年、『村重が信長に反旗を翻したため(有岡城の戦い)、花隈城は荒木方(有岡城)の支城として戦ったが、池田恒興などに攻められて天正』八年に『落城した。合戦の功により』、『この地を与えられた池田恒興は兵庫城を築城したため、花隈城は廃城となった。兵庫城の築城にあたっては、花隈城の部材を転用したと伝えられている』とある。因みに、私は戦国時代には暗愚であるが、荒木村重にだけは究極の生理的嫌悪感を持つ。甚だ厭な奴で、注も附けたくないほどである。なお、この落城の後に諸国行脚ん出た塩田平九郎は、一時帰郷をした際に十八年経っていたとあるから、本篇内のメイン・ストーリー部の時制は、そっこから数えで十八年後となるから、弘治二(一五五五)年ということになろう。

「雜賀(さいか)の者ども」ウィキの「雑賀衆」によれば、まず、「さいか」が正しく、『「さいが」と読むのは誤読である』とある。『中世の日本に存在した鉄砲傭兵・地侍集団の一つである。また、史料に見られる「惣国」』(そうこく)『と同じと考えられているため、「紀州惣国」もしくは「雑賀惣国」とも呼ばれている。雑賀衆は紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域(五組・五搦などという)の地侍達で構成されていた。高い軍事力を持った傭兵集団としても活躍し、鉄砲伝来以降は、数千挺もの鉄砲で武装した。また』、『海運や貿易も営んでいた』とある。

「野くれ、山くれ、」「くれ」については現代思潮社版の注に、『不定称。不定のひとや事物を並べて用いる語。何。何くれとなく。』とある。「野であろうが、山であろうが、」の意。

「塚原」無縁仏のなおざりな墓などがある人気のない野原。

「かゝる事を見てもおそれず、聞(きい)てもおどろかずば、誰(たれ)とても、かくあるべし。」「このような悲惨な現在地獄を見ても恐れず、聴いても驚かないとすれば、そういう輩は、誰であろうと、死後、こうした地獄に落ちるところの、救われぬ存在なのであろう。」という感慨か。

「浦半(うらは)」不詳。浦端(うらは)或いは、中途半端な寒漁村の謂いか。

「玉藻」ここは広義の食用にする海藻。

「磯菜」同前。

「二島(じたう)」先の江本氏の注に、『小豆島と淡路島』とある。

「しかま」「飾磨」。兵庫県南西部の姫路市南部の一地区。市川の名残(なごり)川とみられる飾磨川川尻(かわじり)にあり、集落が砂堆(さたい)上に発達した。「万葉集」に「飾磨江」とあり、近世には城下町姫路の外港として栄えた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。ここ

「かち路(ぢ)」「徒步路」。

「往亡日(わうまうにち)」凶日の一つ。陰陽道で、外出を忌み、特に出発・船出・出軍(でいくさ)・移転・結婚・元服・建築などに不吉な日という。一年に十二日しかない。

「丸日取(まるひどり)」江本氏の注に、『一年を通じて用いられる吉凶の日取り』とある。

「前原筑前の守が相傳(さうでん)せし月切(つきぎり)の日取(ひどり)」同前で、『月切は一ケ月ごとに区切りをつけること。また、何ケ月かに月を限って定めること(日国大)。月の日取りの吉凶の意か。』とある。

「小笠原源與齋(げんよさい)が八方懸(《はつ》はうがかり)の口傳(くでん)」同前で「小笠原源與齋」は『戦国時代の武将。武田信玄の足軽大将の一人。戦の軍配を行った。』とされ、「八方懸の口傳」については、『『甲陽軍鑑』品五十三に「八方懸之事信州先方小笠原源与斎」とあり、方』(方位のことであろう)『の吉凶が記させている。』とある。

「南の方に旺(わう)す」陰陽五行説で、南中する頃は、太陽が最も輝くことから、「火」は旺盛な状態、旺気を示すとされる。

「辰巳午《たつみむま》の三時(《さん》じ)」午前七時から午後一時相当。

「艮(うしとら)」東北。

「道虛山(だうこやま)」江本氏の注に、『地名として見あたらない。長篠の合戦に於ける武田勝頼の陣は医王寺山』(ここ)『で、道虚日の方角がここに当たるのか。』とされる。

「道虛日(だうこにち)」陰陽道で他出を嫌う日。毎月の六日・十二日・十八日・二十四日・晦日(みそか)。

「名詮自性(みやうせんじしやう)」仏語。名がその物の性質を表わすということ。名実「切田(きれた)・堀切・片折(かたくしげ)」江本氏の注に、『切田は、辞書等に未確認。切立』(きりたて)『か。武力をもって激しく攻撃すること。また、そうして敵勢を追立てること。堀切は、外敵の侵人を防ぐために掘った壕や水路。「foriqiri(ホリキリ)。軍勢とか獣とかが通らないように道にある、あいた堀、すなわち、或る種の凹み」(日葡)。片折も辞書等に未確認。』とある。

「廣み」広い場所。

「殺所」江本氏の注に、『切所か。敵の攻撃にそなえて、交通の要所に設けたとりで。』とある。

「はだはだになる」「肌肌になる」。「はだはだ」は京言葉で「そりの合わない状態」を言う。了意は後半生は京都の住持であった。

「かうばり」「强張」。後押しをすること。かばい立て。支持。

「色白く、おもて丸やかなるが」扇の付喪神の擬人化である。

「高低竪起孤輪月……」江本氏の注に、『典拠未詳。当話の素材となった『剪燈余話』では、硯、筆、銚子、甑、衣装蒲団、木魚、扇が詩を吟ずることになっている。当該話では扇の詠。意味は、「上下に立てれば孤輪の月のよう、その扇が動けば涼風が起こる。それなのに弄ばれて捨てられて上に埋もれてしまった扇は、骨皮が腐り落ちぶれてしまった」。』とある。素材については扱わないことにしているが、素材は「剪燈新話」四の「龍堂靈怪錄」で、江本氏の注の最後の「余説」の項に梗概が載るので参照されたい。

「その身、ほそやかに、おもてにゑくぼあり」横笛の付喪神の擬人化。「ゑくぼ」は吹き口か。

「扇動縱橫興凉風……」江本氏の注に、『典拠未詳。笛の詠。意は、「昔は竜吟の調べを奏でるのが得意であった。一曲吟ずれば碧霄』(青空)『に響き渡ったものである。今は庭の破れた竹となり、林に埋もれ、舞踊の嬌を懐かしむだけである」。』とある。

「肥えふとりて、長(たけ)ひきく、髮髭(かみひげ)、垂れ亂れたるが」箒の付喪神の擬人化。

「荐掃埃塵更無遑……」江本氏の注に、『典拠未詳。当該話では帚木の詠。意は、「どんな時も埃塵を払って暇すらなかった。今では草臥れて鬚も無くなってしまった。さながら憔悴した荒村の客のよう。朽ちた土塀に寄るのみである。」』とある。

「精魅(せいみ)」〙 物の怪や化け物の類い。

「三色《みいろ》」「色」は「種類・品」の意。]

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