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« 多滿寸太禮卷㐧一 佛御前霊會禄 | トップページ | 筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻『草稿詩篇「月に吠える」』の最後に配された特異な無題草稿一篇 »

2022/03/25

萩原朔太郎「笛」(「月に吠える」の詩集本文の末に配された長詩)の草稿詩篇二種(後者に萩原朔太郎自身による自解が附されてある)

 

[やぶちゃん注:『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 笛』は既に電子化を終えているが、実は筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『笛(本篇原稿八種十四枚)』として以下の二種がチョイスされて載る。特に二つ目には、不全な箇所があるが、驚天動地の萩原朔太郎自身が添えた解説が記されており、必見である。本篇自体が長いこともあり、正規表現版に添えるのはやめにして、新たに以下に電子化することとした。その方が別ウィンドウを開いて対照比較し易いからである。なお、表記は総てママである。五月蠅くなるだけなので、いちいち断らない(最後の自解のみ例外とする)。決定稿と比較されれば、誤字・脱字などは明瞭となるからである。削除部は今まで通り、実際の削除線で示した。]

 

 

  [やぶちゃん注:底本の第一草稿。]

 

子供は笛がほしかつた

子供のお父さんはかきものをしてゐた、

このお父さんは

子供はそつとお父さんのそつと部屋へきた、をのぞきにいつた、

子供はそつと 室外に立つた子供はある春の朝そつとひつとりと扉のかげに立つてゐた、

お父さん 大人はすこしも知らなかつた 室外 庭には さくらが→いちめんに さくらがさいてゐた、遠くでさくらのにほひがする、

そのとき大人はかんごへこんだ、

おとなの思想がくるくるとうづまきをした、

ある思想の矛盾がおとなの心を混亂さした

おとなはデスクに頭をうづめてくるしがつた

恐ろしいジレンマが彼の蛇のやうに男の額をまきつけた、

おとなの問題は性慾であつた、

ある女に關する出來ごとが彼の本能と思想とを分烈した、

述信と眞理と

二つの影が彼の→博士の幽靈のやうに出はいりした、

そのとき音もなく扉がひらかれた、

靑白い靑ざめた病身の子供がぼんやりと立つてゐ るのがみえた、室外に立つてみた戶外にはさくらのにほひがした、

子供はなにもしらなかつた

けれども扉がひとりでひらかれ笛がほしいとばかり思つた

そのとき扉がひとりでにひらかれた、おそらくはなにかの加滅で、

子供はびつくりした

うつぶした父の額の前に子供な大きな父の頭がデスクにうつぶしてゐたをみた、

大きなそのデスクのくらい隅の方に

ちつぽけな紫色のおもちやの笛をみた、子供はちつぽけな笛をみた。

たつた今までも子供がほしいと思つてゐた紫色の笛であつた、

あるうらゝかな春の朝の出來ごと

外ではひばりがないてゐた

あかるいヹランダに戶外でうぐひすにないてゐ

子供はそれをみてよろこんだ、これは偶然の出來ごとであつた、

おそらくはなにかのめぐりあはせで

子供は何かの偶然けれども子供はかんがへた→うたがつた信じた、

偉大なる父が彼の父の思想がうんだ奇蹟であると

この偶然な出來ごとが子供の慾望を子供は笛について父に話さなかつたから、

おそらくはなにかの

子供は成長した

けれども デスクの この朝の奇蹟と笛とが かたく信 彼の心から信仰した、

けれども子供を父を信じた、笛を信じた、

いまも尙偉大なる父の思想について

 

 

  [やぶちゃん注:底本の第二草稿。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

子供は笛がほしかつた、

子供のお父さんはかきものをして居るらしかつた。

そのとき子供のお父さんは書きものをしてゐた

子供はお父さんの部屋をのぞきにいつた、

子供のお父さんは書きものをして居るらしかつた

子供はひつそりを扉のかげに立つてゐた

扉のかげにはさくらなたねのはなのにほひがする

そのとき大人→父おとなはかんがへこんでゐた

おとなの思想がくるくるくるとうづまきをした

あるこみいつた性慾に關することで思想の矛盾がおとなの心を混亂さした

父は重たいデスクに額をうづめてくるしがつた、

すると恐ろしいジレンマが蛇の縞蛇がつつぷした男の額→頭蓋骨腦髓をまきつけた、

春らしいそれは春らしい今夜のある女に關する出來事がおとなの本能と思想良心とを分烈したのである、ひきちぎつた、

性慾と本能と良心と

二つの影またひきはなれた二つの影たちは幽靈のやうにもつれあひながら扉→れいすの かげを くらい明窓のほとりを徘𢌞した出はいりした

おとなは自分の頭の上にそれらの幽靈のやうな性慾のをみた

それは靑ざめた性慾と殺人者のやうな良心と思想との

 

そのときひとつのかげは男のひとのかげのうへに重りあつた、

おとなの父がは恐ろしさに息をつめとめながら祈をはぢめた、

「神よ、ふたつの心をつねに一つにすることなかれしめ給へ」

そうしていつまでもふたつのそうして二つの影はけれどもゆうれいの→たち別れ もつれあひながら男のほのぐらい扉のかげを出はいした、

そのとき扉のかげにはさくらの花のにほひがした、

その扉 は音もなくひらかけた、 のかげにはおとなの子そこには靑白い顏した病身の彼の子供が立つてゐた、

子供はいつしんに笛がほしかつたのである、

 

子供はうすぐらい書齋の隅をみた、扉をひらいて部屋の一隅に立つた、

そこには子供は長いあひだデスクにつつぷした父のおほいなる父の頭腦をみてゐた

子供はデスク

その頭胴のかたはらあたりははなはだしい陰影になつて居た、

子供はふいに發見をしたそこへ恐しげな視線をなげた、の視線はその陰影にとまつてゐた、蠅のやうに力なくそこへとまつてゐた、

子供がほしがつて居た紫色の笛をその

 

子供はそこで何かを發見したのだ、

しだいに子供の眼はしだいに暗さになれたそこの陰には

子供はしまひにとびあがつた笛を もつて みて跳りあがつた

子供はなにものか 怪しいものをそこに發見したのだ、ものかにその心をつきつけられたのだ、

まひだいに子供の心は鮮明になつた、

しだいに子供の心はあかる かつたなくてきた

子供は何かを發見したのだ、

よほどまへからみればそこの影には紫いろにはぼんやりには紫色の笛があつた、おいてあつたのだ、

さつきから子供がほしいと思つてゐたその紫色のブリキの笛が

 

これはまつたく思ひがけない偶然の出來ごとであつた、

おそらくはなにかの不思めぐり合せでたのだ。

けれども子供はかたく父の奇跡を信じた

父の思想がもつとも偉大なる父の思想が生んだ笛の奇蹟であるとについて

デスクの卓の上の笛についてにおかれた紫色の笛について何も子供は彼の慾望について何ごとも父に話してなかつたから

けれども子供は成長した→けれども子供は 父を信じた、 笛を信じた、

いまも尙、偉大なる父の思想 とその が生みたる奇蹟について、

 

 

詩に說明をつけるのは馬[やぶちゃん注:「馬鹿」と書こうとしたようである。]

(子供はもちろん私*の求めるの心の象である、//の心そのものゝ正體である、*父といふのは に先生を→が先生を が救ひを求める心私の心の感情と先生とのその感情の象徵である、笛はもちろん先生救ひである)[やぶちゃん注:「*」「//」の記号は私が附した。「の心の象である、」(象徴の「徴」の脱字)と、「の心そのものゝ正體である、」の二候補が並置残存していることを示す。以下でも同じ。この「先生」というのは人生の師或いは宗教的な意味の導いて呉れるところの祖師(だから「救ひ」とも言っている)の意のようである。]

 

 (說明) 詩に說明をつけ[やぶちゃん注:以下はない。前段と同じことを言おうとしていよう。]

 子供は求める心の象徴である、父の思想は私の感情である、そのものである、象徴である、父の思想生んだ奇蹟は私と先生→私の感情求める心感情との不思議な交錯及びその結果である、而して笛はもちろん救ひである、救ひである。[やぶちゃん注:最後の「救ひ」は底本では右傍点「◦」である。]

 

 象徴詩に說明をつけるといふことは不可能のことでもあり馬鹿稚氣を生びた[やぶちゃん注:「帶びた」の誤字であろう。]ことでもある、

 倂し私は敢てそれをした、そうしなればならない事情がある、讀書界日本の讀書界がどんな程度のものだといふことをしつてる人は私を笑はないでくれるだろう[やぶちゃん注:「そう」「だろう」はママ。]

 

 

[やぶちゃん注:以上で底本の「笛」草稿は終わっている。]

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