狗張子卷之六 板垣信形逢天狗
[やぶちゃん注:挿絵は今回も最も鮮明な、所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)のものをトリミングしたものを、適切と思われる位置に挿入した。]
○板垣信形逢ふ二天狗に一(板垣信形(いたがきのぶかた)、天狗に逢ふ)
板垣信形は、甲斐の信玄、いまだ、武田大膳大夫晴信と號せしときより、武勇の名たかく、諸方の軍(いくさ)に手柄をあらはせし者なり。晴信祕藏の勇士なりければ、家の重寄(おもよせ)も、他人にすぐれたり。されども、忠節ありて、思慮なく、勇にして、頑(かたくな)なる故に、楚忽(そこつ)なる事、おほしとかや。
或時、信形、おもてに出たるに、年のころ、五十あまりとみえし、山伏一人、來りて、齋料(ときれう)を、こふ。
そのさま、世の常の人ともおぼえず、眼(まなこ)ざし、すさまじく、色、くろうして、長(たけ)たかく、筋ふとく、骨あれて、まことに行法(ぎやうぼふ)に苦勞したるものとみえたり。
信形、心にあやしみ、内に呼(よび)いれて、
「客僧(きやくそう)は、いづくの人ぞ。」
と尋ねしに、
「是は、出羽國羽黑山(はぐろさん)の行人(ぎやうにん)なり。去年(きよねん)は大峯(おほみね)・葛城(かづらき)におこなひ、それより、熊野にいたり、年ごもりして、此ごろ、爰(こゝ)に下(くだ)れり。やがて、羽黑山に歸り、一夏(《いち》げ)をおこなひ申さんとて、かたがた、齋料(ときれう)をこふ事にて候ふ。」
といふ。
信形、重ねて問ひけるやう、
「御房、只、一人にて候や。又、同行(どうぎやう)の侍るか。」
といふ。
山伏、こたへて、
「あはせて、十人、候。それも、打《うち》ちりて、家々、齋料のために、めぐり候。」
と云ふ。
信形、いふやう、
「見ぐるしく候へども、今夜は、是《ここ》に御宿(《おん》やど)申すべし。同行の山伏達をも、これへ、よびよせ給へ。」
といふ。
山ぶし、聞《きき》て、
「近ごろ、有がたう候。さらば、同行をも、よびさふらはん。」
とて、門《かど》に出つゝ、腰につけたる螺(ほら)の貝を手にとり、「よせ貝」とおぼしくて、暫らく吹(ふき)ければ、山ぶし、九人、俄に、あつまり來《きた》る。
其中にも、前の山伏は、先達(せんだち)とみえて、九人の山ぶしは、いづれも、年わかく、しかも、つゝしみ、うやまふ體(てい)なり。
日も暮がたに及びしかば、ともし火をとり、非時(ひじ)の料(れう)、したゝめ、さまざま、もてなしけり。
信形、年比は、物ごと、つゝしみふかく侍べり。いかゞ思ひけん、山ぶし達を、
「馳走のため。」
とて、子息(しそく)彌次郞を初めて、被官の中間(ちうげん)、五、三人、その座に呼び出《いだ》し、すでに酒宴に及び、客僧も、主(あるじ)も、數盃(すはい)を、かたぶけたり。
先達の山ぶし、いふやう、
「思ひかけざる御芳志にあづかり、心をのぶるのみならず、旅のつかれを休め候こそ有がたけれ。我ら、一生、もろもろの行法をつとめ、諸方の名山靈地、をよそ[やぶちゃん注:ママ。]、おこなふ所に、みな、奇瑞をかうぶらずということ、なし。されば、我らの成就する所、常には、ふかく愼て、あらはさぬ事なれども、此上は、何をか、さのみに秘すべき。それ、何にても、奇特(きどく)をいたして、あるじにみせまゐらせよ。」
といふ。
下座(げざ)の山ぶし、
「畏(かしこまり)候ふ。」
とて、座中の膳にありし箸ども、取あつめ、何やらん、唱(となへ)て、印を結び、座の傍(かたはら)なる暗き所に、投(なげ)たり。
暫しありて、長(たけ)一尺ほどの鎧武者、百人斗《ばかり》、くり出《いで》たり。
信形も、彌次郞も、目をすまして見居(《み》ゐ)たりければ、座敷の眞中(まんなか)に、「魚鱗(ぎよりん)」に備へて、立《たち》たり。
先達の山伏、云やう、
「迚(とて)もの事に、軍(いくさ)をさせて、御目にかけよ。」
と申す。
次の座の山ぶし、座をたちて、鉢に入たる薯蕷子(ぬかご)をとりて、うしろの方(かた)に蒔きければ、又、鎧武者、二百ばかり、「鶴翼(かくよく)」に備へて、おし出つゝ、兩陣、たがひに、いどみ、戰かふに、ちいさき聲にて、
「曳々應々(えいえいわうわう)。」
と、おめきさけびて、突き合ひ、切りあふ有さま、人間の軍(いくさ)するに、少しも、たがはず。
首をとり、刺し違へ、暫らく戰(たゝか)ふて、兩陣、
「颯(さつ)」
と、引のくか、とみえしかば、箸のさきに、薯蕷子を、つきさし、つきさし、打たふれたるものなり。
信形、あまりのおもしろさに、
「某(それがし)は、當家譜代(ふだい)の者にて、近年(きんねん)、諸方の强敵(がうてき)を對治(たいぢ)するに、いつも、先手(さきて)をうけ給はり、むかふ所、打かたずといふこと、なし。敵がた、たとひ、金石(きんせき)をもつてふせぐとも、破らずしては、かなふまじと、身命(しんみやう)をかへりみず、つひに殿(おくれ)[やぶちゃん注:「殿(しんがり)」を広義に意味を持たせたもの。ここは不本意に遅れをとること。或いは、先陣を切れないこと。]をとりし事、なし。世には、武勇の者は稀にして、臆病者のみおほしと思ひとりて候ふ。軍法も、日どりも、方角もいらず、只、武勇なれば、小勢(こぜい)にても、大勢の臆病者は、突崩すに手間(てま)もいらずとこそ覺え侍《はべり》つれ。子にて候《さふらふ》彌二郞は、少し、心の後《おく》れたれば、某が鉾(ほこ)先には似申すまじ。あはれ、めづらしき術法の、軍(いくさ)にたよりとなるべき事あらば、つたへて給(た)べかし。」
とぞ、申されける。
先達の客僧、聞て、
「何にても、軍のたよりに成べき事、有まじきにては、侍べらず。去りながら、座中の輩(ともがら)を、のけ給へ。あるじ一人に、をしへ申さん。」
といふ。
「さらば。」
とて、彌二郞も、中間をも、みな、旁(かたはら)へ出《いだ》して、劔術・兵法(ひやうほう)の傳受をぞ、いたしける。
下座の山ぶし、うけ太刀して、信形に指南する木刀・竹刀(ちくとう)、取出し、打ち合ひ、突きあふ音、しきりにして、夜《よ》、すでに、ほのぼのと、明けわたる。
中間・若黨ども、障子の隙(ひま)よりも忍びてのぞきみれば、山伏とおもふ者は、人にはあらで、或《あるい》は、鼻のさき、高くそばだち、或は、口のほど、鳥の觜(くちばし)のごとく、又は、身に翅(つばさ)あり、異類異形(いぎやう)の者どもなり。
「これは。そも、いか成事ぞ。」
とて、中間・若黨ども、
「太刀よ、長刀よ。」
と、ひしめき、障子をあけて、こみ入ければ、十人の山ぶしどもは、いづちへか行けん、みな、きえうせて、信形は、前後もしらず、勞(つか)れ、臥したり。
精進奇麗の膳部・肴(さかな)以下は、少しも喰はず、捨てちらし、酒は、こぼし流し、疊の上には、鳥の足跡のごとくなるが、よごれて踏みたる有さま、疑がふ所もなく、
「天狗どもの、あつまりけり。」
と、家中の上下は、おそれ、つゝしみけり。
信形は、其日の暮がたに、やうやう睡(ねぶり)さめて、起きあがりけれども、只、もうもうとして有けり。
元來、したゝか者なりければ、別の事はなく、
「何條(なんでう)、かやうのためしは、武家には、ある物なり。おどろき、おそるゝに、足らず。」
とは、いひながら、他所(たしよ)へ披露はせさせず、陰密(をんみつ)してありしかども、後《のち》に聞えて、評議、あり。
信形、此頃、武篇の名、世にたかく、むかふ所、軍(いくさ)にかたずと云ふ事なければ、武勇(ぶよう)に慢(まん)をおこし、敵方(てきがた)には手足もなきものゝやうに思ひあなどり、家人原(けにんばら)も同じくほこり、慢心を起こせし故に、かゝる妖怪を、もうけたり。
是より、信形、心だて、上氣(うはき)になり、分別あしく、軍法の備(そなへ)も、ちがひ、危き怪我をいたし、終《つひ》に、信州上田原の軍(いくさ)に打死しけるも、心のたがひし故なり、とかや。
[やぶちゃん注:「板垣信形」(?~天文一七(一五四八)年)は甲斐武田氏の親族衆で重臣。武田晴信(信玄)の傅役(もりやく)となり、信玄の父信虎の追放に貢献した。甘利虎泰とともに両職として信玄を補佐し、信濃諏訪の郡代を務めた。天文十七年二月十四日、村上義清との「信濃上田原の戦い」で討ち死にした。名は「信方」とも書く(講談社「日本人名大辞典」に拠る)とあり、当該ウィキでも、晴信が村上義清を『討つべく小県郡へ出陣』したが、その「上田原の戦い」で『武田軍は敗北し、信方は甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門と共に討死した』とある。但し、江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注では、『戦死については天文一六年(一五四七)八月二四日に上田原で討死というのは誤り。天文一七年(一五四八)二月二十四日に信州塩田原で討死(『甲斐国志』九六)。』とある。年月日は一致しているのだが? 戦国史には全く冥いので、取り敢えず齟齬を示しておくに留める。
「重寄(おもよせ)」非常に信頼されること。
「楚忽(そこつ)」「粗忽」に同じ。
「齋料(ときれう)」僧侶に施す食事や金品。「齋(とき)」は「食すべき時の食事」の意で、仏教で食事のこと。インド以来の戒律により、本来は午前中に食べるのを正時とした。それでは実際にはもたないので、午後のそれは「食すべき時ではない時刻の食」の意から「非時 (ひじ)」 と称した。山伏への食の供応についても、同じ語を用いた。
「一夏(《いち》げ)」「一夏九旬(いちげくじゆん)」或いは「夏安居(げあんご)」。仏教の本元であったインドで、天候の悪い雨季の時期の、相応の配慮をしたその期間の修行を指した。本邦では、暑さを考えたものとして行われた夏季の一所に留まった修行を指す。多くの仏教国では陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日を「一夏九旬」「夏安居」と称し、各教団や大寺院で、種々の安居行事(修行)がある。安居の開始は「結夏(けつげ)」と称し、終了は「解夏(げげ)」と呼び、解夏の日は多くの供養行事があるため、僧侶は満腹するまで食べるのが許された。
「信形、年比は、物ごと、つゝしみふかく侍べり」これは、特に他国からの旅人であるこの山伏たちに対して、本来の彼ならば、疑いを抱き、用心深く対応するような心積もりを指して言っていよう。既にして、天狗の妖術に無意識に心を動かされていたと読むべきところであろう。
「五、三人」数字に意味はなく、不定数称。数人の意。
「魚鱗(ぎよりん)」軍陣の陣形の一つ。魚の鱗(うろこ)の形のように、中央を突出させ、「人」の字形にしたもの
「薯蕷子(ぬかご)」「ヌカゴ」「零余子」「珠芽」とも書く。ウィキの「むかご」によれば、『植物の栄養繁殖器官の一つ』で、『主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となる』。『葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ』(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium)などで、後者はヤマノイモ科(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)の種などで見られ、『両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる』。『食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般には』ヤマノイモ(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモDioscorea japonica)やナガイモ(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea batatas)などの『山芋類のむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩ゆでする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』とある。なお、「ぬかご」という読みもあり、梅崎春生の訛りではない。「零余子」という表記については、私が恐らく最もお世話になっている、かわうそ@暦氏のサイト「こよみのページ」の「日刊☆こよみのページ スクラップブック (PV 415 , since 2008/7/8)」の「零余子」の解説中に、『零余子の「零」は数字のゼロを表す文字にも使われるように、わずかな残りとか端といった小さな量を表す文字ですが、また雨のしずくという意味や、こぼれ落ちるという意味もあります』。『沢山の養分を地下のイモに蓄えたその残りが地上の蔓の葉腋に、イモの養分のしずくとなって結実したものと言えるのでしょうか』とあり、私の中の今までの疑問が氷解した。
「鶴翼(かくよく)」やはり、陣立ての一つ。鶴が翼を広げたような「V」形に兵を並べて、敵をその中に取りこめようとする陣形で、「魚鱗」の陣の正対語である。ネットの『精選版 日本国語大辞典「鶴翼」』の図(矢印(進軍方向)はそのまま)を参照。この陣の上下をひっくり返したものが「魚鱗」である。
「あるじ一人に、をしへ申さん」現代思潮社で神郡氏はここに注して、『甲越軍記』によれば、不思議な山伏から深秘な戦術の極意を学んだのは原隼人佐』『の父加賀守昌俊としてかかれている』とある。この父子の奇談は了意の好んだ素材で、先行する「伽婢子卷之五 原隼人佐鬼胎」、及び、本書の「狗張子卷之二 原隼人左謫仙」で、それを正統なる正続編として描いているので読まれたい。]
« 毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 波間柏(ナミマガシワ) / ナミマガシワ | トップページ | 狗張子卷之六 亡魂を八幡に鎭祭る »