室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 芥川龍之介氏を憶ふ
[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここからを視認した。初出誌は私の手元では調べ得ないが、前の「芥川龍之介の人と作」と異なり、クレジットがないから、本随筆集の書き下ろしかも知れない。なお、向後、不詳の場合は、この最後の注は附さない。
若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した。]
芥川龍之介氏を憶ふ
芥川君が亡くなつてから早一週年の忌日も間近くなつたが、自分は此偉大なる友を憶ふ氣持には、漸く鋭い熱情が、日を經る每に感じ出された。熱情は益益同君を純粹にも淸淨にもし、同君を友人とする自分の間に距離を感じさせるのである。その距離は現世に存在しない彼が持つ縱橫無盡な淸淨さであり、その淸淨さは無理にも現世《げんせい》に踠《もが》く自分を必然的に引離して行かうとするのだ。
自分は此友の死後、窃かに[やぶちゃん注:底本は「窺かに」であるが、後の再録版「芥川竜之介の人と作」の上巻のこちらで確認し、特異的に訂した。]文章を丹念する誓を感じ、それを自ら生活の上に實行した。同君の死の影響を取入れ自分の中に漂はすことに、後世《こうせい》を托す氣持に自分はゐるのである。同君に見てもらひたいのは今日の自分であり、交友濃かだつたあの頃の自分の如き比例ではない。同君も今日の建て直された自分を見てくれたら、別な氣持で交際《つきあ》つてくれると思ふ。今日の自分は微かに同君が自分に不滿足を感じ、輕蔑すべきものを輕蔑してゐた氣持は解ると思ふ。友人同士は互ひに輕蔑すべきものを持ち合してゐることは、それを感じる時に其値を引摺り出すことができるのだ。芥川龍之介君は自分を輕蔑してゐた。かういふ事實は彼の中で遂に埋沒され、永く同君の死とともに抹殺された。併し自分はそれを掘り返して補ふのである。自分が文事に再び揮ひ立つことのできるのは、あの人の影響だと思うてゐる。佐藤春夫君に芥川君の死は役に立つたかと尋ねたら、彼は暫らく默つた後に役に立つたと低い聲で答へたが、自分はその時にも一種のセンチメンタリズムを感じた。自分は彼といふ一文人の死でなくとも、死は多くを敎へるものを持つてゐることを感じてゐる。
芥川龍之介は理智と情熱とを混戰させてゐる人であつた。或はその旺盛な情熱が彼をああいふ死に誘うたのかも知れぬ。所詮自ら滅することは情熱の命令の後に行はれるからである。彼は死なうと考へながら「時」を延長させるだけ延長させた人である。晚年二年位は同君に取つて莫大な長年月だつたに違ひない。百年の歲月をも遂に同君に取つてその晚年には興味のない無爲の歲月であつたらう。
自分は芥川君に會ふ每に最初の五分間は每時《いつも》も壓迫を感じてゐた。芥川君の仕事や爲人《ひととなり》、偉さが自分に影響してゐた。自分はそれを完全に自分と同君との間に退治したのは、最近二年位の間だつた。それは同君が自分の書齋を訪ねて來る時に經驗し、又同君の書齋でも次第に退治することができたのである。かういふ心理上の壓迫感は靜かに料理され試練されるものである。同君は何時もずつと高いところにゐたことは疑へない。併しその高さを僕自身へまで引下ろすことはできないが、其處まで僕自身が行かなければならないのである。全く同君は自分に取つて苦しい友人であり、その苦しさは自分によい結果となり今までに影響して來たのである。
芥川君の好む人物は半端者があり、他の人間と交際しにくい氣質を同君は能く容れるものを持つてゐた。槪ね孤獨を友とするやうな人格の中に、同君は何時も心ひそかに愛を感じてゐるらしかつた。他の人格の中に孤獨の巢を發見することは彼の藝術的な作用に外ならないのであらう。併乍ら同君はさういふ一面とまた眞實な一面とを持ち合せ、眞實で打《ぶ》つかる人間には眞實以外のものを見せなかつた。あの人の眞實性はその根本では情熱から動いてゐた。彼が晚年に若い詩人達に物質的にも眞實な好意を動かしてゐたことは、自發的なものが多かつた。
自分と芥川君との交際は普通の動機からであつて、何も特筆すべきことはない。自分の子供が女子であり同君の子供は男子であるが、同じい聖學院の幼稚園に通うて、最初の間は往きも手をつないで一緖に登園するのであつた。自分はさういふ現世の情景に對しては詩人的であるよりも、寧ろ小說家風の立場に自分の考へを置く機會が多かつた。生前の同君と自分との戯談が生きた情景に變つて眼前にあるのだ。自分はさういふ小童少女の世界に感懷を交へることを些か逡巡するものであるが、併し顧みて現世に美を感じ出すことは人一倍の自分の努力でもある。
自分は芥川君を億ひ出す機會を同じ田端に住んでゐる關係上、他の人と餘計に感じてゐた。或人は田端の驛の坂の上で、荷車が坂を登るのを芥川君が眺めてゐたと言ひ、さういふ些事が自分の胸に應える[やぶちゃん注:ママ。]ことが多かつた。三河島一帶の煙や煤で罩《こ》められた[やぶちゃん注:覆われた。]曇天の景色は、あの人の頭に永く殘つてゐたものに違ひない。同君が、好んで曇天の景色を描くことに妙を得てゐるのも、さういふ景色の中に永續きする動かない「景色のサネ」を抉り取つてゐたからであらう。
震災の翌年の五月金澤へ來たときも、その勝れた景色には感心してゐた。併し有繫《さすが》に川料理ばかり食べさせる金澤では、料理は餘り褒めなかつた。ああいふ人でも淡泊な料理ばかりでは困るのであらう。食物はいつも自分は芥川君の二倍位は食べてゐた。輕井譯の宿屋でも芥川君は大抵オムレツと冬瓜の煮付けを食べてゐた。決してビフテキやスチユ[やぶちゃん注:シチューのこと。]は取らなかつた。隣室にゐて早寢をしてゐる自分は夜更けて後架に立つと、芥川君は濠濠たる煙草の煙のなかに、反り身になつて原稿に苦吟してゐた。そして自分が寢てゐると遠慮して雨戶を繰るのにも、靜かな心置きを用意してゐた。その濛濛たる煙の中に坐つてゐた芥川龍之介君は、決して自分の眼底を去らない苦吟の人芥川龍之介君であつた。
去年の七月二十四日のお通夜明けに、椎の木の頂に夜の白むのと同時に啼き出した蟬の聲は、自分の現世のあらん限り忘られぬ凄じい蟬の聲だつた。自分は菊池、久米、佐佐木の三君と緣側の板の上に、通夜の人口の散じた後にも坐つてゐた。そして何日か芥川君が仕事をしてゐて、夜明けの蟬の聲を聞く程氣持のよいことはない。さう云つた言葉を端なく思ひ出した。疲勞と眼病に惱んでゐた自分を根本から動搖もさせ、靜肅にさせてたものは、鶴のやうな幽遠無類の蟬の聲だつた。今もなほ蟬の聲は自分の耳の遠くにある。
自分は此友達の中からまだまだ攝取すべきものがあり、自は貪婪にそれに打《ぶ》つかつて行くべき筈であつた。かういふ精神的な陣營を感じ出す友達といふものは訣して、ざらにあるべきものではなかつた。話をしてゐても珍しい言葉に感激し、他人のどういふ部分にも正確な藝術的な氣持を以て見、それに共感する時は幼稚なほどの驚きをする、さういふ人は稀なものであつた。ああいふ驚き、驚いて喜ぶところ、露骨に志賀直哉氏をほめるところ、小穴隆一君を信ずる寧ろ不思議過ぎる友愛には、實に無類に善良な彼が立つてゐた。さういふ芥川龍之介君には微塵も渴《か》れない氣質が感じられた。
晚年近くに書いた詩は詩人としても逈《はる》かに一流にまで飛び越えた彼がゐた。詩に睨みの利いた芥川君は、就中「旅びと」の叙情詩、「僕の瑞西から」の中の「ドストエフスキーの詩」なども、立派な出來榮えを示してゐた。實際芥川君は何よりも詩人だつたといふことは、何よりも詩人中の詩人だつたことを證明するものであつた。誠の詩人といふものの恐るべき「天火」を彼は搉《いだ》いてゐた。我我凡俗の詩人は最早「彼がどうして死んだか」などと念うてはならない。默つて暗夜に沒するその長髮瘠身《ちやうはつせきしん》の姿を見て居ればよい。その後姿は何と懷しい限りのものであるか、笑ひも感激もゴオルデンバツトも、鳥の手のやうな手も、半分かけた金齒も、そつくり彼は何時でも思ひ出させるものを持つてゐる……
芥川君は或日、自分の家に來て芭蕉の「夏山に足駄《あしだ》を拜む首途《かどで》かな」といふ句を示し、この句には驚いたと言つた。北海道の旅行から歸つた就死前のことである。芭蕉の此句は修驗光明寺の句で、行者の履《はきもの》を拜む心を詠んだものである。ともあれ芥川君はさまざまな書物の中に、自分のそのころの心持の丈を搜つて見てゐたことが解る。「旅びと」の詩にも芭蕉の「山吹や笠にさすべき枝のなり」が詠み込まれ、ぢかに芭蕉を百讀してゐたものらしい。さういふ芥川君の沈着と高雅の情には心惹かれるのである。
先日駒込慈眼寺に下島先生と打連れて墓參をしたが、風淸く穩かな日であつた。芥川君風にいふと、蟲の食つた老いた葉櫻のかげに「近代風景」を持つた靑年が一人、寺境の雜草を距てた釣堀の水を眺めてゐた。
墓詣
(塚も動け我が泣く聲は秋の風 芭蕉)
江漢の塚も見ゆるや茨の中
[やぶちゃん注:ちょっと看過出来ないひどいミスを所持するウェッジ文庫(二〇一〇年刊)の「天馬の脚」に見つけてしまったので、ここに後注で終りの部分の注を纏める。
『「旅びと」の叙情詩』これは、以下の犀星の謂いから、結局、芥川龍之介の死直後に発表されたアフォリズム随想「東北・北海道・新潟」に無題で載る、
*
羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」
あはれ、あはれ、旅びとは
いつかはこころやすらはん。
垣ほを見れば「山吹や
笠にさすべき枝のなり。」
*
を指すと考えてよい。但し、個人的には、或いは犀星は、「旅びと」ではなく、最後に愛した片山廣子に捧げた旋頭歌「越びと」を暗に匂わせているのではないかと私は強く疑っている(リンク先は孰れも私のサイト版)。
『「僕の瑞西から」の中の「ドストエフスキーの詩」』表記に誤りがある。正しくは「僕の瑞威(スヰツツル)から」である。本書刊行の一年前の昭和三(一九二八)年二月一日発行の雑誌『驢馬』に「僕の瑞威から(遺稿)」として掲載された詩群の第八番目にある、「手」である。私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」を見られたい。
「搉《いだ》いてゐた」ここをウェッジ文庫版では「摧(くだ)いてゐた」とするのだがが(読みはウェイジの編者が附したもの)、これは漢字の誤謬に加えて、読みの屋上屋の大穴空きの家根を附けてしまったトンデモ・誤謬ルビを附してしまったものだ。落ち着いて考えれば、天火を砕いてしまっちゃうのは、ミューズの霊感は無くなっちまうさね。歴史的仮名遣採用の堅実な文庫なだけに、ちょっと痛過ぎるミスである。悲しい。
「夏山に足駄《あしだ》を拜む首途《かどで》かな」私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅9 黑羽光明寺行者堂 夏山に足駄を拜む首途哉 芭蕉』を見られたい。「山吹や笠にさすべき枝のなり」つまらぬ評釈だが、芥川龍之介に触れているので、私の「山吹や笠にさすべき枝の形 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)」をリンクさせておく。
「塚も動け我が泣く聲は秋の風」私の偏愛する句。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』を参照されたい。]
« 室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 淸朗の人 | トップページ | 萩原朔太郎 未発表詩篇 鳥 »