譚海 卷之四 吉備津宮幷平納言謫處・福山瓦等の事
○吉備津の宮は備中にも備後にも有。御釜の鳴動するは備中にある物也、又備中の吉備宮の山を茶臼山といへり、茶うすの形也。山の絕頂に有(あり)て吉備公の御廟なり。其餘備中にある所の古廟みな茶臼のかたちなり。往古の製はみな茶うすのかたちなるものと見ゆ。仲哀天皇以前の御廟どもは形大きく、以後の物は茶うすの形になるやうなり。其廟の前に拜掃するやうなる所もあり。又平大納言の謫所有、木の別所も細谷川の上に有。せのをの大郞が墓はよし乃と云所に有、吉備宮の脇に有。また備中の福山と云所に古城跡有。その所にて筑紫の都府樓の瓦とひとしき瓦をほり得たり、これは殊の外いにしへのものと見ゆ。
[やぶちゃん注:岡山県岡山市北区吉備津にある吉備津神社(備中国一宮)が「釜鳴り神事」で知られる(私にとっては上田秋成の「雨月物語」の怨恨怪談の白眉「吉備津の釜」で馴染みの)それ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。詳細は当該ウィキをどうぞ。ここで言う備後のそれは、広島県福山市新市町宮内にある吉備津神社(備後国一宮)。詳細は同前。なお、備前にも岡山県岡山市北区一宮にある吉備津彦神社(備前国一宮)がある。詳細は同前。
「平大納言」平清盛の継室である平時子の同母弟で、後白河法皇の寵妃で高倉天皇の母建春門院の異母兄である平時忠(大治五(一一三〇)年?~文治五(一一八九)年)であるが、不審。彼が平家全盛期に二度流された場所は出雲国で、鎌倉幕府成立後の配流地は能登国である。これは、何か誤認がある。本文の次の「木の別所」というのもおかしく、これは「有木の別所」(「鹿ケ谷の謀議」で流された藤原成親(保延四(一一三八)年~安元三(一一七七)年)の流謫地とされるものの異名)でなくてはいけない。されば、「成親」は權大納言であったから、「又平大納言の謫所有、木の別所も細谷川の上に有。」の「平」は衍字ではないか? 「又大納言の謫所、有木の別所も細谷川の上に有。」ですんなり意味が分かるからである。ここにその「有木の別所」があり、その北西に有木神社の名を見出せる。
「せのをの大郞」妹尾兼康(せのお 保安四(一一二三)年~寿永二(一一八三)年)は平安末の平氏方武将。瀬尾兼康とも呼ばれる。通称は太郎。詳しくは当該ウィキを見られたいが、『備中国板倉宿付近(現・岡山県岡山市北区)で討たれた。源義仲をして、「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千(とうぜん)の兵(つわもの)ともいふべけれ」と言わしめたという(福隆寺縄手の戦い)』とあるから、この近くである。
「備中の福山と云所に古城跡有。その所にて筑紫の都府樓の瓦とひとしき瓦をほり得たり」大宰府の建築物に西日本の各地の産生物が供給されており、これと言っておかしなことではない。寧ろ、これが現存するのかどうかの方が気になる。]
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