萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(なやましいみどりの中に……)
○
なやましいみどりの中の でに
けぶれる柳がもえはじめた
窓いちめんにもえはじめた
そのとき病人たちは夢からさめて居たた
さびしい部屋の中で
みんなふらふらあるいて居た
かなしげな顏が
硝子戶の外をみて居た
遠い 病身→病人 わたしは手にランプをもつて
おそろしく ほそ長く病人のゆがんだ顏が
硝子戶のまへにふるへて居た
見わたせば
ゆかんだ硝子窓の上には
かなしい窓の
わたしは手にランプをもつて
ふらふらとおきあがつた
悲しい 靑白い哀しい病氣の顏が硝子戶のまへにふるへて居た
[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである(「ゆかんだ」は「ゆがんだ」の誤字)。編者注があり、『本稿冒頭に一行分空き、三字分上がって次の三行が記されている』とあり、それは、
*
見わたせぱ
遠火にもえるうぐひすな
まつくらの暗夜の
*
である。さらに、「かなしい窓の」『から以下は、原稿の下部に記され、四行目へ續く印がある』とあり、さらに『「病人のゆがんだ顏が」「硝子戶のまへにふるへて居た」』「ゆかんだ窓の上には」の三行は消し忘れと思われるので上欄本文では抹消した。』とある。私は無論、抹消を入れず、そのままにしてある。
「うぐひすな」「鶯菜」であるが、萩原朔太郎の使用する場合のそれは、コマツナ・アブラナなどの、まだ若くて小さい菜を広く指しており、種を断定は出来ない。薄緑色の小さな菜類をイメージすればこと足りる。一時期、朔太郎はよく使用している。
本篇には『草稿詩篇「未發表詩篇」』に『(なやましいみどりの中に)』『(本篇原稿四種三枚)』として、二種の比較的長い草稿(孰れも無題)がチョイスして示されてある。以下に示す。同じく表記は総てママである。詩中のフレーズの頭や途中にある「○」は朔太郎がふったものである。
*
○
うすらうすくけぶれるるごとき綠がもえ出した
綠の そのもえ いづるころのなやましさにたえられず
わたしれは手に赤いランプをぶらさげをさけ
しとしとふらふらと若 綠 くさの上をふんでゆくあるいて居る
ときしもあれくや
○遠火にもえるうぐひすな
┃まつくらの暗夜をすかして夜にの庭に
┃ほのほのとしぼんてゆくさくらをみた
┃せりたづきなのみどりのうへに
┃ほのかにも死んでゆく〉しぼんてゆく花びらをみた。
┃まつくらの花 夜にまつしろの花が流の上には
┃花さくらがほんやり光つて居た、
[やぶちゃん注:「┃」は私が配した。感じとしては、二行ずつがセットと見られ、三候補並置されて、或いはその後に幾つかの追加削除がなされたものかも知れない。]
すべつこい女の顏を
するするとなぜるやうに月があがつた
*
この草稿に編者注があり、『本稿は「草稿詩篇 月に吠える」の「白い月」』『と關連性がつよい』とある。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 白い月』の注で電子化してあるので参照されたい。
*
○
○なやましきいみどりの中に
うすく○けぶれる綠柳の芽がもえ出したはぢめた
病氣の 居 部ながい病の氣夢から夢からめざめ
おれは手にランプをさゝげて
しんしんと髮をけづつて居た
そつと草の戶口につきすゝむた
靑 白 い柳が
かみの毛ぼうぼう ぜんたる たる男が
○窓いちもんにもえはじめた
室→窓の 哀しい病氣の夢から め さめて
○そのとき病人たちは哀しい夢からさめて居たので
みんなランプをもつて
○みんなふらふらと行列してあるいて居た
たれかゞ窓に は よりかゝつた 窓
白い顏が窓 から の
その窓から だれ→わたしはわたしは手にひつそりとランプをもつて
ぼんやり硝子戶のまへに立つたて居た
*
後に編者注があり、採用しなかった『別の草稿には、下書き斷片とみられる次の三行が記されている。』として、
*
半死半生の狀態に居る、
僕は外部の生活では兄に比して餘程幸福である代り
心生活ではずゐぶん苦しい思をして居る、私は、
*
とある。「兄」萩原朔太郎は萩原密蔵とケイの長男である。ここで彼が「兄」と呼んでいるのは、親しんだ従兄萩原栄次(朔太郎の七歳年上)。「前橋文学館」の「萩原朔太郎年譜」によれば、明治二五(一八九二)年七月(この年四月に群馬県尋常師範学校附属幼稚園入園。朔太郎満五歲)に、大阪の従兄萩原栄次が萩原家に来住し、九月に群馬県前橋中学校に入学しており、『朔太郎は栄次を兄として慕い、以後多くの影響を受ける。』とある。また、ウィキの「萩原朔太郎」によれば、朔太郎は『師範学校附属小学校高等科を卒業後』、明治三三(一九〇〇)年四月に『旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)入学』するが、『この時代に従兄弟萩原栄次に短歌のことを教わ』り、『校友会誌に』「ひと夜えにし」と『題してはじめて短歌五首を発表』したとあり、若き日、歌人として登場した朔太郎のまさに親愛なる兄出逢ったことが判る。栄次の方は、前の年譜で、この年の十一月に大阪高等医学校(現在の大阪大学医学部)を卒業後、再度、来住し、明治三十五年まで、父密蔵の代診を務めてもいる。]
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