室生犀星 随筆集「天馬の脚」原本正規表現版 始動 / 澄江堂雜記 芥川龍之介氏の人と作
[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、所持するウェッジ文庫(二〇一〇年刊)の同書をOCRで読み込み、加工用に用いた。同書は現代の刊行物としては画期的に歴史的仮名遣(但し、漢字は新字体)を使用したもので、私は高く評価している一冊である。
電子化は私の偏愛する芥川龍之介関連部分から開始し、原本の順列には従わない。
以下の本書の「澄江堂雜記」パート、その冒頭の「芥川龍之介氏の人と作」から始めるが、実は本作は、昭和二(一九二七)年六月号の『新潮』に掲載されたものが初出で、私は既にその初出形を二〇一三年一月にサイト版でここに電子化してしている(但し、筑摩版全集類聚「芥川龍之介全集」別巻に載るものを恣意的に漢字を正字化したもの)ため、昨日、それを本随筆版で全面改稿しようと考えたのだが、やり始めるや、直きに初出から再録する際、有意な改変が行われていることに気づき、やめた。そこで、仕切り直して、「天馬の脚」版「芥川龍之介氏の人と作」として全くの零から電子化することとする。
なお、室生犀星は、昭和一八(一九四三)年に、さらに「芥川龍之介氏の人と作」という上下二巻本を刊行しており、この「芥川龍之介氏の人と作」もそこに含まれてあるのだが、またまた、そこでは、改変に加えて独立・分離が行われている。これも国立国会図書館デジタルコレクションで見ることが出来る(上巻がこちらで、下巻がこちら。孰れも目次頁で示した)。これは、満を持して芥川龍之介に特化して書いたものであるが、実際に見て戴くと判るが、上巻の中間以降は、室生の芥川龍之介の当該作への評を添えて、その作品を掲げるという、まあ、文字通りと言えば、文字通りの「芥川龍之介氏の人と作」という体(てい)のものである。こちらの犀星の評論部も後に抜粋して電子化したいとは思っているが、その目次を見て戴ければ判る通り、原「芥川龍之介氏の人と作」の後半は各作品評部に移行されて膨らまさせてあるものの、元の「芥川龍之介氏の人と作」の統一された共時的(初出時は芥川龍之介はまだ存命であった)総評感覚の鋭さが散漫になってしまった憾みがある。
私がこの評論(特に初出)に拘るのは、昭和二(一九二七)年五月に書かれ、そうして、死の直前の芥川龍之介自身が読んだ、短いながらも、彼の数少ない心から信頼出来る盟友が書いた芥川龍之介論だったという点にある。サイト版初出の私の冒頭注で言ったように、『室生が『生前の芥川との最後の会見の際に感想を聞いたら、「その時殆聞えるか聞えないか位の独り言のような低い声で、ああいうものを書かなくてもよいのにと云つた」』』という言葉の重さを噛みしめながら、それでも、二度も改稿再録した室生に思い致す時、この作の原初出はある種、親友渾身の――彼の「生」を讃え励ますところの――芥川龍之介論であると言えるのである。
底本の傍点「﹅」は太字とした。
さらに、若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した(かなり造語もあり、また、当て訓もある)。何時も通り、原本の読み(ルビ)は( )で示した。サイト版では注は殆んど附さなかったが、今回はその初出テクストと差別化するために、段落末に簡単に注を添えた。五月蠅ければ飛ばせばよい。以上の凡例はまずは本「澄江堂雜記」パート内の四篇全部に適用するが、後の電子化もそれにほぼ準ずる予定である。【二〇二二年三月三十一日 藪野直史】
芥川龍之介氏の人と作
一 彼、人
芥川龍之介か佐藤春夫の孰方かの碎けた評論めいた人物印象を大部のものに書いて貰へないだらうか、左ういふ中村武羅夫氏からの依賴を聞いて、自分は佐藤春夫は萬年靑年であるし今鳥渡《ちよつと》書く氣がしないし適當とは思へない。芥川龍之介はまだ料理したことのない鯱《しやち》のやうなもので、自分の俎《まないた》に乘るかどうかは疑はしい。自分はむしろ秋聲先生に俎の上に乘つて戴かうと思ふのであるが、中村武羅夫は是非芥川龍之介論の方をと言ひ、自分もその氣になり引受けたのである。[やぶちゃん注:「中村武羅夫」は当時『新潮』の中心的編集者として活躍した評論家。プロレタリア運動を痛烈に批判し、大政翼賛会に自律的に参加、戦中の「日本文学報国会」設立の中心となった。敗戦後は戦争協力者として見る影もなくなった。]
一體芥川龍之介論とは何の事だらう。自分は不意に演說を指摘されたやうにまごつく、――芥川龍之介といふ小說家を君は知つているかね、田端にゐるんだが會つたら面白いかも知れんよ、左う云うたのは今から十年前の萩原朔太郞であつた。此間詩集を送つたら手紙を吳れたが今度歸京したら會つて見たらどうかと、彼の故鄕前橋で私の最も親懇な萩原の口から、印刷にならない芥川龍之介といふ名前を初めて聞いたのである。併し私は彼の前に當時の意氣軒昂の槪を示し鳥渡《ちよつと》胸を反らし乍ら云つたものであつた。「小說家に態態《わざわざ》こちらから訪ねて行くのも不見識ではない
か、我我は左ういふことまでして交際をする必要がない。」萩原は當時既に谷崎潤一郞を知つてゐたし、何かの紛れにも能く此谷崎潤一郞といふ拓本のやうな名前の感じを、私の前に話してゐた矢先で少少私は胸くそもので小癪に障つてゐた。私はといへば交友に有名な男がなく其意味で萩原は既に一家の交詢的な周圍を有つて些か私に當つたものであつた。「一體小說家といふものは氣に食はん」私はともすると議論めいて來る彼の鋒先を避け乍ら、小說家といふものを目の敵にしてゐたので、芥川龍之介なぞに會ふもんかと思ふのであつた。[やぶちゃん注:「交詢」「詢」は「まこと」の意で、互いに交際を親密にすること。]
自分が初めて芥川に會つたのは日夏歌之介の詩集の出版記念會であつた。圓卓の向うに自分は紹介された芥川の顏を見ると、直ぐ此種の端正な顏貌に好意よりむしろ容貌自身から來る引身《ひけみ》を、逆に何か苦手な氣の合はない人間のやうな氣がした。が、其歸り途に一緖に步き乍ら色色の話をすると、樂な親しみ易い打解けたところのある、寧ろ碎けた人のやうに思はれた。その翌日だつたか彼の書齋を背景にしてゐる彼を見て、處狹いまでの書物の埋積や談論の自在な彼を打眺めて、戯談《じやうだん》まじりの話をしながらも却て歸途にはそれにも拘らずひどく陰鬱な氣持であつた。今から思ふと自分は彼に抵抗する精神的武器がなかつたらしく、それが自分にあれば彼麼《あんな》に陰欝に考へ込まなかつたであらう。何を言つても自分はまだ市井破垣《しせいやれがき》を結ぶ[やぶちゃん注:在野人。処士。]の一詩人であつた。しかも一詩人の威力を打通すだけのものが自分の胴中を貫いてゐなかつた。それに幸か不幸か芥川は餘りにらくに自分の前であけすけに話してくれたのが、一際自分を陰氣にしたのだらうと思うてゐる。人間は時に屢屢自分以下のものには樂に碎けることを愉快に念ふものだが、彼の碎け方はその氣持の上で種類が違つてゐるやうだつた。對手を窮屈がらせない一種の座談に慣れることに據つて、爲されたそれのやうにも思はれた。當時の世間知らずであり文壇めくらであつた私が、彼と對坐しただけで遺憾ながら彼を自分以上のものであると云ふ、心からの承認では無かつたとは云へ、徐ろにその朧氣なものを感じたことは拒めなかつた。自分は春夫が最初谷崎潤一郞を嫉視した氣持を、今から思へば多分に雜《まじ》へてゐたのである。有名に對抗する故なき嫉視と憤怒に似たものを白面一介[やぶちゃん注:「はくめんいつかい」。色の白い若い取るに足らぬ男。]の彼に感じたことは、私のこれまでの生涯に於て北原白秋と同樣のものであつた。北原白秋に會つた最初は二十二歲だつただけに、羽根が立たぬやうな自分でもあつたからいいとしても、彼の場合には自分は最う二十九にもなつてゐたから、刺戟や壓迫などと云う生優しいものではなかつた。自らを鞭打つ激情に似たものを彼から感じたのだつた。自分は三四囘目に會つた時は「幼年時代」といふ小說をひそかに家にゐて、彼にその話をして見てくれるかどうかといふ意味を、恰もお世辭に似た心からでない曖昧な氣持で彼に述べたが、彼は一寸慌てたやうにいや僕の如きは何とか言ひ、すぐその話は素早くよそに逸れてしまつた。その時自分に應酬する彼が談偶偶《たまたま》小說に及んだことで、彼の面にかすかな迷惑らしいものが掠めたことを自分は感じた。(後に考ヘると彼の當惑らしい表情はだしぬけに云つた自分に感じたのは當然であつたが、その當惑の戶を敲きこはすことのできない自分だつたことにも氣がついてゐた。人間は時に屢屢自分を叩き上げるために對手の當惑の戶を叩きこはさなければならぬものだ。自分はあの時この友の當惑を紋め上げて置いたら、彼とは別な意味で種種のものを攝取(とりい)れできたらうと思うた。)[やぶちゃん注:犀星が龍之介に逢ったのは大正七(一九一八)年一月十三日日曜日に行われた日夏耿之介の処女詩集「転身の頌(しょう)]出版記念会(日本橋のフランス料理店「鴻の巣」で行われた。前年六月の「羅生門」出版記念会もここ)であった。]
その後自分は彼をたづねたが最初に受けた印象は渝《かは》らなかつた。その日の都合でいい加減なことを云ふ男でないことが判つた。唯、彼の物の云ひ方に或高びしやがあり、それが彼の場合非常に自然に受取れるのが不思議である。おもに批評的になる話題にそれがあつた。――ずつと後、震災後金澤へ來た時に或老俳人の前で、彼は北枝[やぶちゃん注:蕉門十哲の一人で北陸蕉門の重鎮として知られる加賀の立花北枝。]の句のことなぞを土地柄であるとは云へ話し出したりした。後で私の畏敬する老俳人は芥川といふ人物に感心して、金澤へ度度人も來たが、あれほど若くてしつかりしてゐる男は初めてだと感服してゐた。自分はその時も紹介甲斐のある點で、彼の人物を釋明する必要がなかつた。しかも老俳人はまだ彼の一作をも讀破してゐなかつたのである。[やぶちゃん注:芥川龍之介の金沢行は大正一三(一九二四)年五月十五日から十九日まで。表向きの所用は龍之介が媒酌人を引き受けた友人の作家岡栄一郎の岡の親族と逢うためであった。この老俳人は、彼を歓待するために犀星が設けた発句会に同席した、当時の北陸俳壇の双璧と言われた桂井未翁・太田南圃の孰れかであろう。]
自分に彼を紹介した萩原朔太郞が上京して田端に住むころには、却て芥川に萩原を紹介するやうな顚倒した位置と役目に私はゐた。萩原は芥川に會へば議論もするらしいが、私と萩原との趣味が一致しないやうに、芥川と私との生活振りは全然違つたものだつた。一緖に旅行してゐても私は晚は九時から十時に寢に就き、彼は夜中の二時三時といふのに煙草のけむりの中に起き上り何か書いてゐる。私が朝の散步から戾つて來て仕事に取り掛る頃は、彼は漸つとむづむづと床から起きるのであつた。彼は少く軟かい物を食ひ、私は多く固いものが好きだつた。彼は手當り次第に讀み私は嫌ひな物は一切讀まなかつた。彼は滅多に人見知りを露骨に色に現はさない東京人であるのに、私はがりがりした露はな田舍人の粗暴と人見知りとを持つてゐた。彼は話好きで夜更しを平氣で遣り私はその反對の方の人間であつた。彼は芭蕉を五年もさきに讀み上げ一と通り卒業してゐたが、私はやつと此二三年身を入れて讀み出す位だつた。唯一つ陶器だけは一步先きなくらゐで何事も私のよくつかふ文字であるが殘念乍ら先きに步いてゐた。全く殘念乍ら! 人は芥川龍之介の有名に反感はもつとしても、彼の人物にはさういふものを持つことはできぬであらうと今でも思うてゐる。
二 文 人
佐藤春夫は幾十編かの詩をその文學的靑年時代に有つてゐる。この頃では古調を帶びてゐて春夫自身も意識しながらその古き調べの中に折折文筆の塵や埃を避けてゐる。龍之介も亦春夫の場合と同じく數十句の發句を窃かに匣底に祕藏してゐる。龍之介の自ら元祿の古詞にならうてゐる所以のものは、單に古きしらべに從いてゐるのではなく、巍然《ぎぜん》たる[やぶちゃん注:高く抜きんでて。]元祿の流れを汲んでゐるのである。碧梧桐以後に幾度となく波瀾重疊した俳壇の諸公から見れば、彼の發句は一見陳套の嘲《そしり》を買ふかも知れない。今更ら蕉風に低迷しなくともよいではないかと、彼等の内の精英は云ふかも知れぬ。併乍ら龍之介のねらひは元祿諸家の古調や丈草去來のさびしをりを學んでゐるのでは無い。ただ叮寧に蕉風のねらひを今人の彼が心に宿してゐるだけである。彼は元祿人が引いた弓づるをその的を最《も》つと强く引いてゐるに過ぎない。
今の文壇に文人の風格をもつてゐるものは永井荷風を別格としたら先づ漱石以來では芥川龍之介や志賀直哉であらう。そして又佐藤春夫もその俤を有つてゐる。併し芥川龍之介は何と言つても極めて自然な、ひとりでに文人の風格を築き上げてゐると言つてよい。彼が發句を詠み書畫骨董の鑑識を有つてゐると言ふだけで文人だといふのではない。心から文人の好みを持つてゐるからである。氣質が既に縹渺《へうべう》や古實や詩情を交ぜて宿してゐることだ。佐藤の文人的なものには新しさからあと戾りした氣もちがあるとすれば、芥川はその古さの中に新しさを搜る鋭い爪を有つてゐると言つた方が適切であらう。芥川の爪は時に閑暇を得るときに木の肌や人事の縹茫《へうばう》の中に搔き立てられてゐる。鷲や鷹の爪でなく、黑鷹のやうな精悍さを有ち合ってゐるやうである。[やぶちゃん注:「縹渺」現代仮名遣「ひょうびょう」。「広くはてしないさま」を言う形容動詞で、以下の並列対象とは、普通なら、噛み合わない。が、しかし、犀星は、確信犯で、そうした龍之介の内実にあるところの真の芸術家の持つところの「茫漠にして縹渺たる精神世界」の意で用いている。それは以下を読み進めるとお判り戴けるであろう。「縹茫」あまり一般的な熟語ではないが、「広くぼんやりしているさま」である。「黑鷹」先の「鷹」と区別しているからタカ目タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis 辺りを指すか。]
佐藤の詩が無用の長物だと言ふ詩壇の新鋭があるとしたら、龍之介の發句もまた無川の長物であるといふ俳壇の古武士があるだらう。彼らを思ふとき此無用の長物をも併せ思はねばならぬとしたら、また彼等が均しく藝術の士として後世の筆端に煩はされるとしたら、先づ此無用の長物も見遁さないであらう、彼等を見る上に之等の詩や發句は有益の文字であることを、後世の輩は感じるかも知れない。
夏目漱石は完全な渾一された好箇の文人であつた。あらゆる意味での文人の心意氣や典型を有つてゐた。漱石を文人の外のものとして考へたくない程の、彼を論《あげつら》ふ上の必要の文人だつた。だが泡鳴を文人だといふことはできない。詩をも書いた彼を文人として曲指するに躊躇するのは、がらと質とに何か叛いた文人以外の氣持が混つてゐるからであつた。漱石の文人的なるものの感化は、また金釦を胸に飾つてゐたころの芥川にあつたのは當然のことである。又或は進んで漱石の感化裡に飛び込んでゐたかも知れない。併し彼はそのままでは決して頂戴はしなかつた。彼は彼らしく修正し補足したにちがひない、――その證據にはあれ程の大文人であつた漱石の發句は、折折光つたものを見せてはゐるものの、全幅に枯寂の俤を缺いてゐるばかりではなく、遺さなくともよい程の拙い句を殘してゐることを考へると、漱石は惡い句も棄てなかつたらしく思はれる。或は句集編纂者がでたらめに蒐集したのかも知れないが、ともあれ彼ほどの大家の發句として殘さずともよい句が可成りに多數に上つてゐるのは、漱石が棄てなかつたことに原因してゐる。あらゆる發句は粟てなければならない。心殘りなく棄てなければならない、――その意味で吾が龍之介は棄てることの名人であつた。或は彼は発句を棄ることに於てより多く名人であつたかも知れなかつた。彼の潔癖ときづものを厭ふ氣もちが左うさせたことは勿論であるが、何よりも彼は棄てることに於て元祿の芭蕉を學んだのかも知れぬ。[やぶちゃん注:犀星の漱石の俳句に対する見解は諸手を上げで賛同称賛するものである。私は彼の句の九十%は駄句と感じ、残りも採って、鞠するに当たらぬ凡句としか思えない。私は永遠に彼の選句集さえ作る気は、ない。]
紅葉の句の拙いことは鏡花にまで影響してゐることは、彼等には巍然たる山脈の光茫を握つてゐないからであつた。漱石は子規時代の何人も其樣であつた如く、天明の豪邁な調子に乘り合うてゐた。子規が蕪村を出られず漱石が子規の間を彷徨してゐたことも爲方《せんかた》のないことであつた。何故彼等が一足飛びに元祿の豐饒な畑に種子を拾ひ得なかつたかと言へば、彼等の時勢が天明調以外に芭蕉の光輝すら幽かに漏れる夜半の明りほどにも、賴りない仄かなものであるらしかつたからだ。その時勢は芭蕉すらも月並といふ言葉の中にあしらはれてゐた時勢だからである。
彼が何よりも元祿に心を向け其調べに從うたのは、古きに新しきを汲む心があつた爲であらう。漱石に於ける蕪村を芭蕉に補足してゐる彼は、その潔癖と苦澁と洗練との砦の中で、迥《はる》かに元祿の城を打眺めてゐた。それがいかにも彼らしい好みで又それ以外に彼の心が向ふとは想像もされないことである。彼の謂ふところの發句もまた全幅の藝術上の精髓だといふのも、彼の苦澁があつた後に初めて言ひ得る言葉であらう。
併乍ら自分は全然彼の發句に異議なしに賛成するものではない。彼の好んでつかふ古調は時に發句に皮かぶりの古さをつけないことも無いではない。別離の句に、「霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉」の如き離愁は一應その氣もちは分りながらも菅笠の如きは、餘りに古きに從《つ》き過ぎ倣ひ過ぎるやうである。「しぐるゝや堀江の茶屋に客ひとり」の情景にしても、そのまま取入れられるにしても這入り過ぎてゐる調子ではないか。彼のねらふ縹渺は彼の凝りすぎる證據には「尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま」の卽吟を彼は隨筆集に訂塗再考して「ひたすらに這ふ子おもふや笹ちまき」としてゐる。彼は三日後には原句を動かして打つて付け、付けては動かしてゐる。彼のいはゆるボオドレヱルの一行を認める所以は、彼の中では是認されなければならぬ一行でもあるのだ。併乍ら「尻立てゝ」の卽情卽景が「ひたすらに……」の後の句に添削され、原句の卽情の境を離れてゐることは彼と雖も首肯するであらう。[やぶちゃん注:「尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま」の句については、私のサイトの初出版の冒頭の私の注を必ず参照されたい。]
蝋梅や枝まばらなる時雨ぞら
白梅や莟うるめる枝の反り
茶畠に入日しづもる在所かな
松風をうつつに聞くよ夏帽子
彼は一槪に風流人でも俳人でもない。爐を去れば世上の埃や文壇諸公との應酬に遑なき匇忙《そうばう》[やぶちゃん注:甚だ忙しいこと。慌ただしいこと。]の男である。文壇の垢や埃の中に或時は好んでお饒舌をする男である。さういふ意味の文人臭を拔け上つた生の味の文人であらう。この意味で志賀直哉は最つと風流人であり文人の骨格をもつてゐるかも知れぬ。志賀の淸澹《せいたん》[やぶちゃん注:淡白にして無欲なこと。]は環境自身が補うてゐることも、ほぼ芥川と似てゐる。芥川が好んで曇天の美しさを見、枯れ葉の靜かさを詠むところの境致は又彼が小說の中にある「或夕暮」「或薄曇り……」のと好んで書くのと孰れも渝《かは》らない。
彼が一句の發句にも藝術の大事を稱ふることは、細微なるものは最大のものを意味する點でロダンの說と一致してゐる。彼が此處に心を止めることは詩情を解する所以を表してゐる。すくなくとも芭蕉の詩情を狙ふ彼は自ら好んで古調の沈潜の中にゐるのは、彼の彼らしく又動かない彼自身を知つてゐるものであらう。
三 流行とは
芥川龍之介は不斷の流行を負うてゐることは佐藤春夫と同樣である。彼は宜い加減なものを書いてよいときにさへ、(若し恁《か》ふ云ふ言葉があれば、又假りに彼にさういふ機會があつたとしても)曾てその手綱を弛めたことがない。焦らずゆつくりと作家としての峠にゐる彼である。世に出たときにさへ谷崎潤一郞のやうな烈しい喝采を拍した[やぶちゃん注:ママ。普通は「喝采を博した」である。]譯ではない。少しづつの讀者を年年に緊めつけ年とともに數を殖してゆくやうな彼である。浮薄な讀者の間に忘られてゆくそれではなく、彼を讀むものはそのまま彼のまはりに何時までも群れ留つてゐる。「芋粥」から「玄鶴山房」まで餘り讀者は渝《かは》らないやうである。かういふ作家といふものは稀れにしか無い。これは彼の人德ではなく彼の堅め付け方が信じられてゐるからである。昨日の讀者は今日の讀者ではなく、讀者は作家の二倍くらゐの速力で進みもし先きにもゐるものだ。それを彼は知らん顏で踏まへ留めてゐることは、地味なしかも渝らない不斷の流行を擔うてゐる所以であらう。すくなくとも讀者の心に信じられてゐるからだ。
佐藤春夫や里見弴の人氣には能く觀ればまだ浮いた人氣がないでもない。彼等は明るくて常に一種の、「華美」な雰圍氣の中にゐるからである。併乍ら志賀直哉や芥川龍之介や宮地嘉六や德田秋聲には浮いた人氣は消熄してゐる。それは人氣以上のもので人氣と名づけられない單にいい作家とだけ稱ふべきものかも知れぬ。――彼、芥川龍之介の場合はいい加減な作を作らない所以、彼の苦澁が彼を何時までも搖がせない。强ひて言へば小憎らしい不斷の流行を負ふに原因してゐるかも知れぬ。自分の如きは求められるままに濫亂の作を市に抛《なげう》つに急であつた爲に、今日の「我」をして悲しみを大ならしめた所以だが、人は志を更めるに恥を知るものではない。彼、龍之介の今日あるは又自分の大いに學ばねばならぬものだと思うてゐる。語を換へれば彼ばかりの場合でなく一國一城の各作家の弓矢や楯や兵法や築城には、それぞれに學びそれぞれに敎はらねばならぬものの多くを自分は感じてゐる。分けても彼の氣鋭は「羅生門」「芋粥」の時代から何時も同じい芥川龍之介の地盤を固めてゐる。未定稿のままの「大導寺信輔」を書いた頃から作を絕つてゐたものの、却て今年になつてからぐつと伸び上つてゐる。何時も燃えるやうな拍手喝采のそれではなく、何時も何か彼は讀者との間に信じられてゐるやうである。
四 詩的精神
詩にある文章や小說といふものに冷笑を感じてゐることは、久しい間の自分の偏屈な併も誠實な習慣であつた。詩のある小說とは美しくだらだらと宜い加減の文章の綾や折曲を綴り合うたものだとしたら、又世の批評家諸公の謂ふところのものであつたら、自分は彼等に根本的に詩を說明してかからなければならない手數と厄介さを感じるだけである。佐藤春夫が詩のある小說家だといふのは、彼の文章のつやであつたとしたら、佐藤もその詩のある文章といふ贋物の冠を返上するであらう。
詩的なるものとは文章の表面ではなく、行と行との間字と字との間に、棚引く縹渺たる作者の呼吸づかひや氣魄や必逼的なものを言ふのだ。芥川の文章の中にいつも此標茫たる何物かがあるのは、諸君の悉知せらるるところであらう。志賀直哉は實に際どいところまで行くが、いつも淸らかで美しい。「暗夜行路」や「赤い帶」其他女中を書いたものにそれがある。併乍ら芥川の脈脈たる縹渺がない。芥川はいつも何か靑い煙を感じる程度の、彼自身の文章のやうな氣魄や肉體を有つてゐる。「枯野抄」の縹茫は今から彼自身が見ても、枯寂な一個の魂に對する詠嘆としか思はれないであらう。彼は充分な縹渺や枯寂を「枯野抄」では表し得なかつたと言つてよい。去來丈草の諸門弟を一々描いただけで、それだの彼のねらひが餘りに「その空氣」を表すに道具立が多かつたと言つても過言では無からう。併乍ら大正四年代に悠悠として「羅生門」を書き、越えて七年に枯寂な「枯野抄」を描かうとした彼の用意は並一と通りのものではない。彼は實に樂しみながら古實から新鮮を掘り當ててゐる。或は彼は彼自身樂しく書いてゐないと言ふかも知れぬ。何人も作者は苦吟するが故に愉しんでゐないと言ふのが眞實かも知れぬが、併し苦吟し乍ら愉しんでいないと言ふのが眞實かも知れぬが、併し苦吟し乍ら愉しんでゐないとは言へない。「藪の中」にすら彼自身愉しみ乍ら運命のはらわたを搔きさぐってゐる。彼の作の凡てがさうのやうに此作も橫縱から油斷のない手法で矢繼早に固めてゐる。然も此中の女の美しさは異狀なまでに感じられるのは、强ち物語の稍うがち過ぎたためでは無からう。
何よりも彼は前人未到的な物語風なものに凝つたのも、彼の唯一の好みばかりでなく彼の聰明な文學的發足點であつたのであらう。そして此種の物語風な作品は不思議に今から思ふと、大正文壇の記錄的な作品の種類に這入つてゐる。再びああいふ種類の作品は我我に必要のない程度までの、それ程肝心な一小說體を爲してゐることは特記してよい。自然主義以來藝術的な物語風の小說としては、彼の諸作品は重きを爲すことは當然である。
彼は最近物語風なものから脫けようとするほど、彼は彼の文學的過去に於て物語の作家であつた。どういふ作品も物語の範圍は出てゐない。それ故何時讀んでも退屈を感じない文字通りの小說的の効果を讀者は受け味ふことができるのだ。彼が可成り高踏的な作家であり乍らも、なほ通俗的な所以のものは一つには此物語風の姿を有つてゐることであり、話と筋とが透《とほ》つてゐるためであらう。そして此種の作品が後世の識者を問ふとしたら好箇の「記錄的な作品」として評價されるに違ひない。
今の文壇で漱石鷗外のあとを繼ぐもの、彼ら以外の大家として殘るものは何人であるか分らない。併し我我の頭を去來するものは殘念乍ら芥川や志賀かその孰方かであらう。決して谷崎潤一郞ではない。谷崎は國寶的作家であらうが、漱石鷗外と併稱さるべきものではない。國家は稀れに取止めもない建築や器物に國寶の冠を與へると一般なものを、我我は谷崎潤一郞に感じることも無いでもない。しかも今は何となく大谷崎の大の字を與へられる作家は、芥川や志賀ではなく、實に大谷崎潤一郞だけである。併しながら漱石鷗外の後繼的氣分を我我の文學的爐邊にしばしば語られ釀すところのものは、龍之介と直哉とでなければならぬ。
五 自分と彼
谷崎潤一郞論の中で佐藤春夫は彼から文學的才能を蘇生させられ、培養させられたことを囘顧と感激とをもつて云つてゐる。自分も亦芥川龍之介から得たものは、意味は違つてゐても同樣のものであることを否めない。自分と彼とは僅か七八年くらゐの交際に過ぎない。しかも其間に自分は彼から種種なものを盜み又攝り入れたことは實際である。彼は殘念乍ら一步づつ先に步いてゐるからである。或は一步どころではなく十歩くらゐ先方を步いてゐたかも知れぬ。或は田舍生れの自分は田舍の辯で用途を滿してゐる牴牾《もど》かしさを、東京に生れた彼が東京辯で用を辯じてゐる速力の相違であつたかも知れぬ。
萩原朔太郞が此間室生犀星論を三十枚ばかり書いて久濶を叙する意味で自分に示して吳れた。自分の市井生活の荒唐無稽を露骨なまでに曝き、「この頃の取澄した」自分を粉碎し又理解した文章であつた。その中に私と芥川とを批評して恁《か》ういふ意味のことを言つてゐる。「彼が芥川龍之介と知り合ひ彼等が均しく慇懃であるのは、兼て室生が欲してゐるところの敎養あり、典雅な人物に彼が行き會うたからである。彼自身の中に潜んでゐる當然典雅なるべき彼を築き上げたい夢想を、次第に彼は芥川を知つてから實顯し出したやうである。少くとも當然彼の中で睡つてゐて起きないものまでをも、芥川龍之介なる人物に刺戟されて搖り起されたと言つても過言ではなからう。」と云つてゐる。彼の言葉を藉《かり》れば敎養ある高雅の人物を私は永い間望んでゐた。そしてその人物に邂逅したことは彼の氣質からなる風雅なるものを、一層建て直したと言つてよいといふ論旨であつた。自分は萩原の言ふところに不賛成ではない。寧ろ彼は離れてゐる間にも彼の友である私を遠く注意深く睨んでゐることは、彼の唯一の友であるが故に賴母しい氣がしたくらゐである。
菊池寬の言葉を籍れば芥川龍之介は人がいいさうである。彼に逢つたどういふ人も彼を惡く言ふことを聞いた事がない。會はない前から見れば會つてよかつたといふ懷しさを感じさせるらしい。そこが彼の人のいい、隱し立をしない人がらであるかも知れぬ。彼の上機嫌は彼を長廣舌にさせる事は暫らく擱《お》いても、彼は妙な人見知り氣取りや故意《わざ》とらしい氣障《きざ》からとくに卒業してゐることは實際である。人間が出來上ることは人見知りや氣取りの必要のないことであらう。しかも彼は皮肉でなく正直に言つてゐる。「僕は誰とでも或程度までは交際《つきあ》へるがその或程度までで又引歸して來る。」と彼らしい氣持の手堅さを見せてゐる。かういふところは人が善いのだか惡いのだか分らない。或は或意味で菊池寬の方がよほど彼よりも人がいいのかも知れぬ。
一槪に萩原の所謂「典雅なる人物」との邂逅に依つて、自分の全幅が影響されてゐると言ふのや、彼に依つて初めて自分が搖り起された譯ではない。彼に據つてほんの少しづつ自分は彼のものを盜んだ丈である。彼の中にあるもので自分に取つて解らなかつたものが解るやうになつたことは、或意味で重大なことかも知れない。とにかく彼は却却《なかなか》の苦勞人である。しかも彼の苦勞人の所以のものは妙に垢じみた薄暗いそれではなく、明るい冬の朝のやうなそれである。彼は學問や經驗の上からも、自分とは全然反對であるが、しかも彼は經驗せずして經驗する程度のものを直覺する男である。彼は或意味で世間的に云へば恐るべき早熟だとも云へるのである。或は彼があれだけの才能を不良性のまま驅り立ててゐたら、どうにもならぬ人間になつたらうと思へる程である。麼《か》ういふことは禮を失するかも知れぬが、彼が不良の徒だとしたら才氣煥發で一世を震骸させるかも知れない。
六 「玄鶴山房」の内容
彼は最近「彼」第一第二「點鬼薄」「河童」「玄鶴山房」等を次つぎに發表した。そして批評家諸公の謂ふ神經衰弱でへとへとになつた彼を見直さした。今では神經衰弱もまた彼の一轉期だつた風に云ふかも知れない、――獨逸人は病氣をしない人間は莫迦だと云ふさうである。又古く長與善郞は餘りに健康で肥つた人間も莫迦だと言つたやうに覺えてゐる。
「玄鶴山房」には最近の彼が懷いてゐる憂欝な氣魂が沁み出てゐる。「玄鶴山房」には壓搾の美がある。出來得るだけ纏めつけた上に彼の好んで恍惚とする壓搾の美しさを彫つてゐる。木彫の美であるかも知れない。そして又甲野は種種な家庭から家庭へ渡り步く看護婦としての天職に苛酷なほど忠實であることが、時折その眼を上げて、徐ろに觀察の微妙をその女性らしい心に落してゐる。
「玄鶴山房」は在來の彼の物語であるよりも一層物語のさねに障つてゐるところの、彼の鋭い爪に據られ[やぶちゃん注:適切な読みが浮ばない。私はここは「抉」(えぐ)「られ」とあるべきところかと思うのだが。]彫られたしごとの一つである。自分はこれらの人生に各各一人づつの人間に美を感じた。玄鶴には玄鶴の美、甲野には甲野の美、お芳にはお芳の美、其他の人間にも美を會得した。これを「秋」と較べると幽かな新派哀愁とも云ふべきものが、最《も》う重疊された憂欝をたたんで「玄鶴」に聳立《しようりつ》してゐる。しかも色で云へば「玄鶴」は澁好みであると云つてよい。讀み終へて舌ざはりに殘るものは彼の澁好みであらう。
小說は落筆前の材科で一度作者を苦しめるものであることは事實であるが、彼の場合時折息苦しい折疊をこころみてゐる時に、いつでも何か美がある。赤松月船もまた彼の論文の中にチラチラ光るものを感じると言つてゐるが、それは彼の文章の構成や結構が折りたたむ氣魄の一種ではないか。これは又彼から見遁してはならないものだ。此チラチラ光るものは要するに彼の質の冴えのやうなもので、永年彼が知らず織らず[やぶちゃん注:「識らず」の誤植。初出は「識」である。]の間に磨き上げたものだと思ふ。遺憾乍ら「河童」の中にチラチラ光るものがあれば、アートペエパアを捌くやうなそれであり、「玄鶴」の中にある冴鋭《ごえい》なるチラチラではない。「羅生門」の丹の剝げた柱にきりぎりすを點出した彼は、「秋」の宵口に電燈の球に止つてゐる蒼蠅を按配した。これは決してチラチラの中のものではない。彼はつひに「玄鶴」に甲野さんを按配するのは殆ど當然のことであつたらう。
或批評家は「河童」を彼の智識的なる產物として批評した。また或月評家はこれを童話として品隲《ひんしつ》した[やぶちゃん注:品評した。世間的に分類した。]。また或批評家は彼でなければ書けぬものだと所斷した。孰れも當り孰れも當らないやうであつた。自分に言はすれば「河童」は彼の苦汁のやうなおもちや箱を彼が整理して見たまでのものであるやうな氣がする。或はさうでないかも知れぬ。併乍ら彼のおもちや箱は何時もああいふふうの品品に滿ち、ああいふふうのおもちやが一盃に詰つてゐることは噓ではない。――彼はさまざまな河童をならべ其等に迷ひ子札を一々克明に提げた。
七 描寫に就て
彼の文章に壓搾の美のあることは既に述べた。同時に材料もともに壓搾されてゐることも見遁されぬ。志賀は生のままの文章で行くが、彼の縹渺の趣を缺いてゐることも述べたとほりである。しかも里見のうがちは無く谷崎の壯大は窺へないかも知れないが、脈脈として糸吐く蠶の縹渺を含んでゐる。又凝り上ると峻嚴な、練るほどつやを吐く糸のやうである。樹で云へば常磐木の美であるかも知れぬ。隨筆集「點心」の中に彼は文藝上の作品では簡潔なる文體が長持ちのする所以を述べてゐる。彼は文章の荒糸だけを丹念に拔いてそれを統べたり編んだりしてゐる。大正十一年作の「トロツコ」には手堅い寫實的な、淡《あつ》さりした手法を用ひて効果を得てゐる。
[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が三字下げのポイント落ちであるが、前後を一行空けて、同ポイントで示した。]
或夕方、――それは二月の初旬だつた。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロツコの置いてある村外れへ行つた。トロツコは泥だらけになつた儘、薄明るい中に竝んでゐる。が、その外は何處を見ても、土工たちの姿は見えなかつた。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロツコを押した。トロツコは三人の力が揃ふと、突然ごろりと車輪をまはした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかつた。……(トロツコ。)
此描寫の中に無駄は一字もない。或意味で寫實の奧を搔きさぐつてゐるやうなところがある。自分は世にいふ名文といふものは知らないが、恐らく名文といふものには此種に文章が名づけられてもいいものであらうと思つてゐる。此中に壯麗も見榮も氣取もない。あつさりと餘裕のある、まだ幾らでも書ける筆勢が見えるやうである。愛すべき小品「蜜柑」の中の「しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷りぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかゝつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい葦屋根や瓦屋根がごみくと狹苦しく建てこんで、……」[やぶちゃん注:以上の引用は底本ではポイント落ちであるが、同ポイントとした。以下でも同じ仕儀としたので、そちらでは略す。]の數行は、その布置が稺氣《ちき》[やぶちゃん注:子供っぽいこと。]の見えるまでに正直な、その上或る憂欝のある景色を描いてゐる。「トロツコ」の人生は活發な人生である。[やぶちゃん注:底本には句点が行末で組めなかったか、句点がないが、補った。]「蜜柑」も同樣に子女をあつかひ乍らも、人生の風雪は著早《いちはや》く「蜜柑」の少女を傷めてゐる。行文に一味の陰欝が窺はれるのもその爲であらう。併し乍ら「蜜柑」は大正八年の作であり或意味で「トロツコ」の淸澄簡潔には及ばない。
「子供の病氣」は彼の生活的な日錄のやうなものであるが、時に妙に思ひ上つた樣なところのある「保吉」物よりも私の愛讀するものである。これは彼の所謂素直物[やぶちゃん注:所謂私小説風の物の謂いであろう。]の一つであるかも知れない。彼の散文詩めいた物の中にも素直物が折折にある。「仕事は不相變捗どらなかつた。が、それは必しも子供の病氣のせゐばかりではなかつた。その中に、庭木を鳴らしながら、蒸暑い雨が降り出した。」夏の雨らしい大粒な景色が描かれてゐる、これは彼が發句に丹念してゐるために締付けられた文章と見るのは當を得てゐない、――自分は彼の大作よりも何故か寧ろ小品に近い物ばかり擧げてゐるやうであるが、これは自分の趣味ばかりではなく彼の小品めいたものを愛讀するからである。
彼を理智の冷徹な作家とすることも一評的であらうが、寧ろ人生には愛情のある作家であることは特記して置きたい。彼といふ人物や生活には人懷こいものがあるやうに、存外冷徹な理智者の彼に自分はその愛情の匂ひを嗅いでゐる。「お時儀」の中の人生は誰でも屢屢經驗するところのものであるが、汽車から降り立つ何時も宜《よ》く逢ふ女の人に、思はずひよいとお時儀をする彼は全く彼らしい人の善い氣輕な氣持を有つてゐる。それにこの作の中に愛情を有つ彼が愉快げに佇んでゐるのが行間に沁み出てゐる。「――お孃さんは今日の前に立つた。保吉は頭を擡げたまゝ、まともにお孃さんの顏を眺めた。お孃さんもぢつと彼の顏へ落着いた目を注いでゐる。二人は顏を見合せたなり、何ごともなしに行き違はうとした。」
「丁度その刹那だつた。彼は突然お孃さんの目に何か動搖に似たものを感じた。同時に又殆ど體中にお時儀をしたい衝動を感じた。」彼の謂ふところの簡潔と壓搾とが遺憾なく表現され、その折の氣もちが鮮鋭に透《とほ》つてゐる。彼は此お孃さんを可成り高びしやな、上から見卸すやうにしてゐながら、遂にお時儀をしたい衝動を感じてゐるところに、彼らしい氣もちが出てゐる。これだけに絞つて書くことは却却《なかなか》容易なことではない。
彼の文章に型のあることは總《あら》ゆる作家に型のあると又同樣である。併乍ら彼の型は彼を苦しめはすれ樂にはさせてゐない。大槪の作家は樂樂と型に這入つて行くが、彼はいつも身悶えをしてその型に這入つて行く。しかも「玄鶴山房」あたりには、型の角がとれてゐた。内側から型にふくらみを付けたことは實際である。内容が文章の上へ出てゐる、――文章が下地になつてきらきらしてゐることに氣がつく。誰でもかうなるとは決まつてゐない。「彼等は竃に封印した後、薄汚い馬車に乘つて火葬場の門を出ようとした。すると意外にもお芳が一人、煉瓦塀の前に佇んだまゝ、彼等の馬車に目禮してゐた。重吉はちよつと狼狽し、彼の帽を上げようとした。しかし彼等を乘せた馬車はその時にはもう傾きながら、ポプラアの枯れた道を走つてゐた。」又甲野といふ看護婦を描くのに彼は刺し徹すやうな數行を四の末端で結んでゐる。彼の簡潔の中に並並ならぬ深い用意のあることを感じる。「お鈴の聲は「離れ」に近い緣側から響いて來るらしかつた。甲野はこの聲を聞いた時、澄み渡つた鏡に向つたまゝ、初めてにやりと冷笑を洩らした。それからさも驚いたやうに「はい唯今」と返事をした。」彼の諸種の作品の内でこの數行の如き透徹冷嚴の旨(うま)みは、容易に見出せるものではない、殊に第二聯の逆手を打つた逆描の冴えは、他人は知らず自分の推賞したいところである。全く歷歷(ありあり)と目に見えるまでに描いてゐる。かういふ彼の中にあまさは微塵もなくぎりぎりに詰めてゐる。
彼の描く人生の量や幅や深淺の程度は、いつも文章と喰ひちがいなく嵌り込み、食み出してゐるところは少しもない。「點鬼薄」は「點鬼簿」以外のものではなく、さながらの過去帳であり點鬼簿である。そのまま四六判の書物になり小穴隆一の裝幀を思ふほど、四六判へ辷つて[やぶちゃん注:「すべつて」と読むしかないが、今一つ、変な表現である。私は「辿つて」の誤りのような気がする。但し、初出も「辷」である。]行く作がらである。彼のどの作も金緣の額へではなく好ましい額ぶちへはまり込んでゐる。
彼のどの作にも同じ種類の人生、同じい生活の再出は見られぬ。一作ごとに何等かの變化を全然異つた人生を表はすことに苦心してゐる。樂なものを後方に左うでない難しいものへ進んでゆくことは特記に値する。絕えず毛色の違つたものへの進展は、樂樂と書けさうなものを後𢌞しにさせてゐる。しかも彼は彼の自敍傳らしいものに殆ど手をつけてゐない。作家の最初に手を付けるものを彼は最後に𢌞してゐるのも、奧床しくないことはない。「就中恐る可きものは停滯だ。いや藝術の境に停滯といふことはない。進步しなければ必ず退步だ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかりを書く事だ。」[やぶちゃん注:ここは底本でも同ポイントであるが、「藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月発行の『新潮』初出。後に作品集『點心』『梅・馬・鶯』に所収された)の六番目のアフォリズム中の一節である。リンク先は私の古いサイト版電子化注。]彼はさうも言ひ停滯の危險なことを警戒してゐる。藝術家の死に瀕してゐるものは同じ事ばかりを書く事であることを言つてゐる。
彼のどの作も彼自身に取り又私だけの見方としては、何時も試みらしい作のやうに思へてならなかつた。絕えず材料の轉換に悶えてゐる彼には、作を透《とほ》してさへ其等の氣持がぢかに感じられてゐた。あらゆる作家の内で彼ほど描かれた小說の事がら以外に、彼の「藝術」を感じられる作家は殆ど稀なやうである。何か彼らしいものを(これは一種の文章がもつ人格的なものかも知れない。)自分はその小說以外に感じられてならなかつた。これは志賀の場合には感じられる氣魄的な文章のもつ靈魂みたいなものである。決して亡靈ではない。(文章の靈魂とは變な言葉であるが、さういふものが存在してゐるやうな氣がするのだ。他の何者にもそれがなくとも文章にはその靈魂がこもつてゐるやうに思ふ。)恐らく彼の文章は次第に「玄鶴山房」に見るがやうに、殆ど内容を盛るだけの用を爲すに停まり、在來の文章そのものの肉を避けて行くやうになるであらう。文章のすぢばかりを彼一流の氣魂で練り上げて行くやうになるに違ひない。
彼の名文家でないことは述べたが、しかも彼は大正時代に於て文章が單なる文章の肉を必要としないところの、淸瘠《せいせき》の一文態を築き上げたこと、その一文態は在來の描寫が有《も》つ病的なほど過剩された文字の埋積から、完全に隔れた一新樣式を練り上げたことは認めてよいことである。あれだけの文章はただ簡勁だといふに片づけてはならぬ。あれだけのものを今日に於て築き上げたことは誰も氣付いてゐないやうである。しかも其等の文章は第三期新進諸君(同人雜誌)のために、最もよき踏臺となつてゐることを自分は注意して見てゐるものである。あらゆる文章の進んでゆく速度は恐らく十年目くらゐに或變化を與へてゐる。硯友社時代と獨步時代、そして大正時代との間に徵しても明らかである。今後十年近くの間に變化が起るとすればわが龍之介の壓搾の美も、彼らには可成りな健實な踏臺となるに違ひない。あらゆる藝術的なるものは次の時代の足つぎになることに存在するからである。
此小論を書くにあたり諸家の高名を禍《わざはひ》したことは、作者の至らざるところであり、作者の至らざるところは文章の至らざるところである。豫めお佗びして置く。
(昭和二年五月作)
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