曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 「けんどん」爭ひ (その2) 辨論約言 瀧澤氏・「けんどん」考釋詰
○辨論約言【瀧澤氏。】
[やぶちゃん注:以下の前振りは底本では全体が一字下げ。]
この篇、わづかに初稿のまゝにて、拙者かたに副本無ㇾ之候間、御熟覽後御失ひなく御返し可ㇾ被ㇾ候。但し、御再報のため、御寫し留被ㇾ成候事は、御勝手次第と奉ㇾ存候。卯月十三日、尙々、過日御問難の一通は、熟覽の後、還し候樣御申に付、今日この書に添て致二返璧一候。
「卷飩」は、はじめ、其箱によりて名を得たり。今の世に至りても、箱の上下に溝をつくりて、其蓋をさすものをなべて「卷飩蓋」と云。「けんどん」は箱のかたち、恰も、よく書籍に似たり。かくて、「出し納の膳」を「書卷」に擬して「卷飩」と名づく。此名目、甚、妙也。しかれ共、當時の諸人、只、「けんどん」の名を知りて、其字義を知るもの、稀也。譬ば、今、「おこそ頭巾」の名義を、しらず。流行詞[やぶちゃん注:「はやりことば」。]の由來をすら、よくしるものゝ稀なるが如し。かゝる故にや、「卷飩」も、印本にすら、正字をしるさず、多くは、みな、只、假名にて書たり。たまたま眞名にかく者は、「見頓」に作るもあり、又、「樫貪」にかよはして、地口の如く唱へたるあり。是より名義、紛紊[やぶちゃん注:「ふんびん」。入り紛(まぎ)れて乱れること。混乱。]して後人を惑しむ。予が今、かさねて、この書を綴るも、職(もと)として、これに由れり。蓋、孔子の聖ならざれば、肅愼氏の天を識ること、かたく、竇攸・終軍の博ならざれば、豹鼠を認り[やぶちゃん注:「したたまり」か。「みとむ(ること)」辺りの誤記ではなかろうか。]易からず。古來、博識達觀のよく物を辨じたる、今さら擧て數ふべけんや。獨、予が如きは、小知庸才、此辨論をつくるに及で、數萬言に至迄、亹々として[やぶちゃん注:「びびとして」。長々と細かく説き続けるさま。]、猶、人の服せざらん事を恐るゝのみ。嗚呼、談、何ぞ容易ならん。悵然として[やぶちゃん注:失望して悲しみ恨んで。]大息し、又、自笑して燈下に誌す。
[やぶちゃん注:「肅愼氏の天」粛慎(しゅくしん)は満州(中国東北地方及び外満洲)に住んでいたとされる狩猟民族。また、後にこの民族が住んでいた地域の名称ともなった。粛慎という呼び名は中国の周代・春秋戦国時代の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が粛慎人の自称を音訳したもので、息慎・稷慎とも表記される。当該ウィキに、「國語」の「魯語」からの引用を示し(不全なので勝手に正字化した)、
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仲尼曰「隼之來也遠矣。此肅愼氏之矢也。昔武王克商、通道于九夷、百蠻、使各以其方賄來貢、使無忘職業。於是肅愼氏貢楛矢・石砮、其長尺有咫。先王欲昭其令德之致遠也、以示後人、使永監焉、故銘其栝曰『肅愼氏之貢矢』、以分大姬、配虞胡公而封諸陳。古者、分同姓以珍玉、展親也、分異姓以遠方之職貢、使無忘服也。故分陳以肅愼氏之貢。
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以下のように訳している。
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『(陳国の宮廷で隼』(はやぶさ)『が矢に刺されて死んでいるのが見つかり、陳の君主はこのことについて孔子に問うた。)仲尼(孔子)は、「隼は遠くからきたのです。これ(隼に刺さっている矢)は粛慎氏の矢です。昔、(周の)武王が商に勝ったとき、周辺の異民族に道が開け、各々(の民族)に自分の得意なものを貢物として持ってこさせることで、職能を忘れさせないようにしました。この時、粛慎氏は(楛』音「コ・ゴ」。木の名で弓の矢幹(やがら)に用いた)『という木)でできた矢と石弓を持ってきました。(矢の)長さは』一尺一咫(し)(約三十六センチメートル)『ありました。先王(武王のこと)はその威令と人徳が遠方まで至っているということを明らかにしようと欲し、後の人に示すため、長くこれを見定めさせました。だからその矢の端の弓の弦にかけるところに『粛慎氏の貢物である矢』と記しました。そして大姫(武王の娘)に(弓矢を)分けて、虞胡公と結婚させ、(虞胡公を)ここ陳に封じました(土地を与えたということ)。古くは、(王と)姓が同じ者には、珍しい宝物を分け与えました。親戚を重視したからです。(王と)姓が異なる者には遠くからの(それぞれの民族の)生業に応じた貢物を分け与えました。服従することを忘れさせないためです。(すなわち、遠方の異民族ですら服従するのであるから、姓が異なるからといっても、服従しなくてはならないと思わせようとした)だから陳(という周の王室とは姓が異なる諸侯)には粛慎氏の貢物を分け与えたのです。』。
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本文はこのことを言っていよう。とすれば、この「天」は「矢」の誤字か誤判読だ!
「竇攸」「とうしゆう」と読んでおくが、不詳。
「終軍」(?~紀元前一一二年)は前漢の人で、若くして漢の使者となった。当該ウィキによれば、『若い頃から学を好み、弁舌や文章に優れていたことで郡中でも有名だった』。十八『歳にして博士弟子に選ばれ、長安へ行くこととなった。徒歩で関所を通過する際、関所の役人が戻ってくる時のための割符を渡したが、終軍はそれを捨ててしまった』。『長安に到着すると』、『上書して建策をし、武帝は彼を認めて謁者給事中に任命した』。『武帝が雍に行き』、『五畤』(秦の五つの祠(やしろ))『を祀った際、白麟を捕らえた。また、横に伸びた枝が』、『もう一度』、『木にくっついているという奇妙な木が見つかった。武帝が群臣にそれが何の兆候であるか尋ねたところ、終軍は今に異民族が漢に降伏してくるという兆候だと答えた。武帝はこの兆候を元に改元して元号を元狩と名づけた。数カ月後、東甌と匈奴の王が降伏してきたため、人々は終軍の言うとおりだと言った』。『博士徐偃』(じょえん)『という人物が、各地の風俗を巡察する使者となった際に皇帝の命令と偽って膠東と魯国で塩と鉄を作らせた』『事件があった。御史大夫張湯が彼を死罪にしようとしたが、徐偃は反論し、張湯は論破できなかった。そこで武帝は終軍に徐偃を詰問させ、徐偃を論破した』。『終軍は各地を視察する使者になり、皇帝の節を奉じてかつて通過した関所を通った。関所の役人は彼の顔を見て「この使者は以前に割符を捨てた学生ではないか」と驚いた』。『終軍は匈奴に使者を出すという話を聞くと、自ら使者となることを願い出た。武帝は彼を諫大夫とした』。『その後、南越が漢と和親を結ぶと、武帝は終軍を南越に遣わし、王に長安への入朝を勧めさせようとした。終軍は「長い紐をいただければ南越王をつないで連れてきましょう」と言った』。紀元前一一二年、『終軍は南越王を説得し、王は国を挙げて漢に従うこととしたが、南越の宰相である呂嘉は降伏を欲せず、挙兵して王や漢の使者を殺し、終軍も死んだ』。『終軍は死亡した時に二十数歳であり、世間では彼を「終童」と呼んでいた』とある。
「豹鼠を認り」よく判らんが、ヒョウとネズミを識別することか。]
△けんどん考釋詰
予、嚮に[やぶちゃん注:「さきに」。]、謬て[やぶちゃん注:「あやまりて」。]「耽奇」册子に附られし「慳貪蕎麥」の說を否(なみ)して、更に「卷飩考」一篇を添しより、ゆくりなく足下の怒りにあたり、この故に、足下、又、予が說を詰りて[やぶちゃん注:「なじりて」。]、數條を引て質問せらる。言の當否は、とまれかくまれ、予は壯年より老聃不爭の言を甘なひて、人と爭ふ事を好ず、一時、漫戲の脞記なる者を懸念して、又、何をか云べき。卽、この故をもて推辭(いなみ)たれ共、免されず、猶、其答を聞んと、いはる。答るとき、罪をまさん。又、答へずば、誣たり、とせられん。悔[やぶちゃん注:「くゆ」。]といへ共、駟も又、及ばず。實に、已[やぶちゃん注:「やむ」。]ことを得ざるの義也。よりて又、其次第を追て答侍る事、左の如し。鳴呼、信言は、必、美ならず、美言は、必、信ならず。予が言の美ならぬも信なる事は、必、信なり。みづから熟讀再思して海容せられば幸ひならん。
[やぶちゃん注:「老聃不爭」(らうたんふさう)。「老聃」は老子。されば意味はお判り戴けよう。判らない方は老子・老荘の思想の勉強が足りないのだから、どうにもならない。悪しからず。
「甘なひて」甘んじて。同意して。
「漫戲」戯(たわむれ)れ。
「脞記」細々(こまごま)としたものが入り乱れて記されてしまうこと。
「誣たり」「ぶたり」。事実でないことを偽って言う。
「駟」「駟(し)も舌(した)に及ばず」のこと。「論語」の「顔淵」篇から。「一旦、口に出した言葉は、「駟」(四頭立ての馬車)で追いかけても、追いつくことは出来ない。」の意から、「言葉は慎むべきである」という喩え。「駟馬を追ふ能はず」。]
詰に云、「けんどん」は「蕎麥切」のみならず云々。
釋て[やぶちゃん注:「しやくして」。]云、「けんどん」は「蕎麥切」のみならず、多くは「饂飩」なりしよしは、「けんどん」の「どん」は、卽、「饂飩」の「飩」の字なるにても、しらる。さて、「そば切」も一碗の價、下直なるものはさら也、持出し・出まへなるものを、「けんどんそば」といへる也。其證は、延寶四年[やぶちゃん注:一六七六年。]の印本「江戶惣鹿子」【八卷。】[やぶちゃん注:江戸地誌。藤田理兵衛作。国立国会図書館デジタルコレクションの江戸叢書の活字本でここ。]、「諸商人」の部に、『饂飩【そば粉。】、神明前淨雲、淺草ひやうたんや。』と有。此饂飩は「うどん粉」にて、粉なやにて賣にやとおもひしに、元祿五年[やぶちゃん注:一六九二年。]の印本「萬買物調寶記」[やぶちゃん注:正しくは「萬買物調方記」。所謂、名店総覧。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここ。]に、『江戶にて、そうめんや、ほり江町通り、同、籠そうめん』云々。『同、めん類や、神明前淨雲、淺草ひやうたんや、日本橋北西中通り、芝金杉橋通り、新材木町南通り。』とあるを見れば、「惣鹿子」に所ㇾ云「饂飩」は、粉にあらず。「乾うどん」・「蒸うどん」を賣る「麵類や」にて、「そばこ」を、兼[やぶちゃん注:「かね」。]ひさぎし也。是より猶、まさしき證あり。そは又、下にいはん。又、「惣鹿子」の「商人」の部に、『見頓や、堺町市川や、中橋おが町桐や。』と有て[やぶちゃん注:同前でここ。但し、「おが町桐や」ではなく、「大工町 きりや」である。]、又、其次に『同提重、堀江町若なや、本町、新橋出雲町。』とあり[やぶちゃん注:同前でここ。]。此「見頓や」としるせしは、則、「卷飩や」にて、一碗の價を二六か二八に鬻ぎしものゝ、殊に名有る店なるべし。又は、次なる「けんどん提重」といへるは、「大名卷飩」の事也。後世、隱賣女に「提重」と唱る者あるも、其名目、「けんどん提重」より起りて、賣女の持出し・出前を旨とするより、名付し也。又、同書、並に、「買物調寶記」ともに、「饂飩」・「籠さうめん」は載たれども、「そば切」をのみ賣る店を載ざりしは、當時、「そば」一色の名店、なかりし故也。只、これのみならず、天和三年[やぶちゃん注:一六八三年。]の寫本「紫の一もと」[やぶちゃん注:戸田茂睡による江戸前期の仮名草子。浅草の隠者遺佚入道と四谷の下級武士陶々斎が気の赴くまま江戸各地を渡り歩く設定で、遺佚が和歌、陶々斎を漢詩を詠み、漫才的な問答を行って、時に騒動に巻き込まれる。江戸の地誌としての体裁を取った物語である。]【下卷。】に、所々の名物をつらねし條下に、『池の端の「めりやす煎餠」、芝の「三官飴」は唐飴也。飯田町の壺屋が「うどん」を出し候。』とあれ共、「そば切」の事、なし。是にても當時は、「うどん」を好むものゝ多きにより、「うどん」の名店多く、扨、「うどんや」にて、「そば切」を兼ひさぎしとは、しられたり。纔の間ながら、元祿のなかばより、寶永に至りては[やぶちゃん注:元禄は十七年まであるから、元禄六(一六九三)年から宝永八(一七一七)年。]、「そば切」にも、名店、いで來りし也。そは、當時、風俗を書たる草紙にて、しらるゝ也。さはれ、是より、猶、後なる二代目市川團十郞【柏筵事也[やぶちゃん注:「はくえん(が)ことなり」。]。[やぶちゃん注:、元禄元(一六八八)年生まれで、宝暦八(一七五八)年没。]】が、はじめて、したりといふ「助六」の歌舞伎狂言は、正德三年[やぶちゃん注:一七一三年。]の夏四月、木挽町なる山村座にての事也[やぶちゃん注:ウィキの「助六」を参照されたい。私は文楽好きの歌舞伎嫌いなので見たことがないし、向後も見ない。]。此狂言に、「助六」が、「くはんぺら門兵衞」の頭に、うちかくるものは、「饂飩」なり。是も、今の世に初てする狂言ならば、必ず、「ぶつかけそば」なるべし。然を、「うどん」にて、今も、此狂言に、その形を追ふてすなるは、此時迄も、猶、「うどん」を好みし人の多く、鬻ぐ店も亦、多かりしによりて也。又、『昔の「うどん」は、桶にて、箱は稀也。』と、いはるゝも、柱(ことぢ)に膠[やぶちゃん注:「にかは」。]するの論なるべし。はじめ、「うどん桶」を用ひしも、「けんどん提重」と云ものゝ行れしより、遂に、其桶はすさめられし也。よしや、其後迄も、桶に入て商ふ店有とても、是を買ふ人、そがまゝ桶に箸を入て食る物かは。わかち盛には、其器の、必、別に有べき也。又、『鮓も、昔は桶なりしを、今は箱なるをもて、「うどん」と同一轍と云べし。』と、あるは、いかにぞや。昔の鮓は、今の鮓と、同じからず。其製作、はやきも、一、二旬、おそきは兩三月よく漬ならして[やぶちゃん注:「つけならして」。なれ鮓のこと。]、後に飯をあらひ落して、切て、くらへり。かゝれば、是を漬るは、桶ならでは、宜しからず、とす。今の鮓は、其日につけて、その日に賣つくして、其日に食ふものなれば、箱のかたを便利とす。こゝを以て、鮓は製作・調理に、今昔の差別あり。「うどん」は、さる、差別、なし。昔の「饂飩」も今の「うどん」も、製作・調理、相同じ。いかでか同一轍とすべきものならんや。『彼、古人、山東庵が藏弃せし「大名けんどん」のうつわものゝ、今の世の店屋に「うどん」をもる物に似たり。』といひしは、饂飩の製作・調理の今昔、相同じきによれる也。されば、物によりて、今と昔と、いたう異なる者、あり。鮓のたぐひ、是也。昔と今と相同きもの有。「うどん」・「そば切」の類、是也。且、「うどん」の桶も箱も、並に外盒(そといれ)也。そを盛るものは鮓を譬に引べくも非ず。且、「そば切」の器物は、予が小兒の頃は、「皿」也。今は、多くは、平をも用ひ、小蒸籠[やぶちゃん注:「こせいろ(う)」。]、又、丼鉢をも用れど、「うどん」のみ、其うつはもの、小箱の如くにしたるものにて、一と度も、うつりかはらず。五十年來、同じ物也。予がしらざりし已前、何れの世にかはじまりけん、「大名けんどん」の行れし頃より、今の如くなりしかも、しるべからず。又、「けんどん」を物には「見頓屋」と書たるはあれども、「慳貪や」と書たるものを、いまだ、見ず。只、「卷飩」と「慳貪」と同音なるにより、慳貪にかけて「慳貪」と書たるは、何れとも、そは、歌・連歌の「いひかけ」にひとしき言葉也。まさしく「慳貪屋」と云たるもの、なければ、證としがたし。かゝれば、「見飩」也、と、いへるも、猶、よりどころ、あり。「慳貪也」とせらるゝは、假を見て眞となすにあらずや。後の物ながら、「深川珍者錄」【寶永五年[やぶちゃん注:一七〇八年。作者未詳。]の寫本。】に、「卷飩」と書たるぞ、正字には有ける[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのここから同書の活字本が読めるが、縦覧した限りでは、見出せなかった。]。又、『「けんどんそば」といふは、あれど、「けんどんうどん」といふ名目を見ず。』と、いはるゝは、勿論の義にて、「けんどん」の「どん」は、則、「うどん」の「飩」なるにより、「けんどん」といへば、「うどん」の義、其中に、こもれり。夫を、猶、「けんどんうどん」といへば、重句になる也。この故に、「そば切」のみに、「けんどんそば」と唱へて、「うどん」には、しか、となへず。「けんどん」にて通ずれば也。又、按るに、「けんどん」は、昔、京・大坂の市中に、其店や、なし。「萬買物調寶記」、「いろは分け」、「け」の字の下にも【「江戶」の分。】、『けんどんや 堺町市川や、同【中橋おが町。】桐や、同堀江町わかなや、同さげぢう本町、同新橋出雲町。』と、みえたり[やぶちゃん注:同前でここ。]。かゝれば、「都風俗鑑」[やぶちゃん注:仮名草子。作者未詳。国立国会図書館デジタルコレクションのここにあるが、流石に探す気にはならない。]に、『當時、江戶流行の「卷飩」を、おもひよせて、彼山州が「けんどん」なりと、かこち』云々と云るのみ。是、その某妓の、「慳貪」に「卷飩」をかけたる言葉なれば、證とすべきものにあらず。「そば切」によせたるは、昔也、とて「そば切」のなきにあらず。既に「けんどんそば」の名目あればなり。
[やぶちゃん注:以下、『座しきへ出るとて、「大名けんどん」といふ有り云々。』までは、底本では全体が一字下げ。以下、記載資料目録であるが、前と重なっているものもあり、書名・年号などの注は、聊か疲れたので、やめる。御自身でお調べになられたい。]
「江戶鑑」元祿二印本、「江戶名物くらべ」延寶三印本、『日本橋通りうどんや』三軒有。「南北江府中」の條、「日本橋北西中通り」數町を載して、『此町筋、諸職賣物大槪』云々、其内に『うんどんや』とあり、『新材木町南通り』云々『うどんや、「芝金杉橋通り」うどんや、「淺草ばし通り」うどんや。』。
已上、如ㇾ斯。所々に「うどんや」はあれども、「そばや」は、かつて、なし。又、同書、「諸師遊げい」の部に、
『饂飩【そばこ。】、神明前淨雲、淺草ひやうたんや。』とあり。
龍素麺
『湯しま天神前』のみ有て、店名、なし。又、同書に、
見頓屋
『堺町市川や、中ばしおが町、きりや。』。
同提重
『堀江町若なや、本町新ばし出雲町。』とありて、店名なし。
○「兩國川すゞみ」の條下にあり。後に載。又、
食けんどん
『金龍山品川おもだかや、同所かりがねや、目黑』云々。
「世話盡」明曆二年板【土佐皆虛著。】卷三、「付[やぶちゃん注:「つけたり」。]詞寄」の内、
『延(のびる)に素麵產日、田舍は草木髮しは。』等、載たれども、「そば切」なし。今の世なれば、必ず、かゝるならむ。當時、未だ、「そば切」の行はれざるにや、元祿二年より三十四年前也。
又、「江戶鑑」七の一、「諸職名匠諸商人」の部に、
『見頓や、同提重、手打そば切、食見頓。』とあり。
「紫の一本」【天和三成。】
吉原の「けんどん河岸」は考文中にあり。其他、下卷に、『「冷水、冷麥、瓜、そば切、めせ。」と云もあり』云々。
「兩國川すゞみ」の條下、
又、淺草の茶やにて、酒肴を出したる文に、『飯田町の「つぼやがうどん」』云々、是は「干うどん」なるべし。但し、「むしうどん」か。
「八十翁昔話」【寬延年間、成。】
『近年は、膳前に、吸物・酒肴、出す。「そば切」振廻、猶、以て出す』云々。是、新製流行の時なるべし。
同書に、「けんどん」も前に云如く、『「西瓜は下々の喰事也」云々、「條下」、近來は、けつこうなる座しきへ出るとて、「大名けんどん」といふ有り』云々。
詰に云、『又、「けんどん」の文字、「見頓」とあるは、假字なることは、論をまたず』云々。
釋て云、「見頓」「卷飩」等の辨は、既に再び前條に述たれば、爰には、いはず。扨、「都風俗鑑」に『慳貪野郞』とあるをも、『「一と切」の「無情慳貪」の意』とせらるれど、そは、甚しき誤也。「大名けんどん」を、「けんどん提重」とも云をもて、解すべし。上の「慳貪」は假字也。抑、當時、京・攝の戲作者西鶴文流一風のともがら、江戶の事を書たるには、傳聞の誤りあれば、すべては證としがたき事、あり。されば、「卷飩」、「慳貪」、同音なれば、相かけて唱んには咎むべきにあらね共、大約、祇園・島の内なる色里、お山より白人より藝子等に至る迄、一座の花に定め有て、切りうりならぬものは、なし。一卜切づゝにうる故に、無情慳貪の意也とせば、彼等も、なべて「慳貪」と云べし。かゝれば、「けんどん野郞」といひしは、「提重蔭馬」といひしにひとしく、寺方抔へ赴て、色を鬻ぎしものにやあらん。然れども、流行詞は轉ずる事も多かれば、物によりて、慳貪の心をもて、慳貪の意をもて【(本ノマヽ)[やぶちゃん注:編者割注。太字は底本では傍点「﹅」。]】呼ぶは、地口に、ちかし。それは、凡て轉語なれば、「卷飩」の義には、いよいよ遠かり。かゝる類は、京・攝の戯作を引く迄もなく、「紫の一もと」【上卷。】「三谷」の條下に、「吉原」の事をしるして、『右のかた、江戶町・揚屋町・京町といふ。「けんどん河岸」と云も有。角町と新町のうちを「羅生門」と云。』と見へたり。「けんどん河岸」は、「並つぼね」[やぶちゃん注:「ならびつぼね」で、既出の長屋形式の殆んど最低級の女郎屋のこと。]の事にして、享保・元文中[やぶちゃん注:一七一六年から一七四一年まで。]の細見記の値段付に、『㊀』、斯の如くしるしたる、一ト切無情慳貪なる意を以て名づけたり、と、いはれん。愚按は、亦、さにあらず。當時、「つぼね見せ」の異名を「四寸三寸」といへり。今は是を「四六」といふ。又、「並つぼね」を「一寸」といヘり。又、品川にては、貳百文の飯盛を「鐵橋(てつきう[やぶちゃん注:ママ。])」と異名せり。是、皆、其價によりて、異名を得たり。是等の例を思ひよするに、「けんどん河岸」の名は、彼「けんどん提重」の一箱を一人前として、其價、百文づゝにひさぐに擬して、一切り價百文づつなる遊びどもの「つぼね」なれば、是を「けんどん河岸」と異名したらんとおもふ也。是、轉語也。かゝれば、「けんどん」は、元來、「持出し」を旨とせしより、其箱によりて唱へ始しものなれ共、夫より又、轉じて、其價、廉にして「卷飩」に等しきもの、或は「大名けんどん」に擬して、うつは物、綺麗に、一人前の價百文なるものをも、「けんどんめし」と唱へしも有べし。盛り切り無情慳貪扱ひの義によりて、今の一膳飯・丼飯の類、馬かた・駕かき・ぼてふりの商人等が、をさをさ、食ふ物ならば、「萬買物調寶記」其他の書にも、「江戶名物」の部にのせて、『「けんどん飯」金龍山、同めぐろ、同品川おもだかや、同かり金や。』抔、しるし出すべくも、あらずかし。されば、「昔々物語」[やぶちゃん注:題名:「むかしむかしものがたり」。新見正朝(しんみまさとも)著。享保年間(一七一六年~一七三六年)の成立。八十歳になる著者が七十年前の記憶を以って書き記した随筆。慶長・寛文・延宝に至るまでの江戸の風俗が記されてある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで写本が視認出来るが、流石に探す気にはなれない。]【下卷。】にも、『饂飩・蕎麥切、昔は町中に拵たるを、歷々、喰ふ事にせず。寬文の頃、「けんどんそば切」と云物を拵出し【中略。】、近年、歷々の衆も喰ふ。結構なる座敷へ上る迚、「大名けんどん」抔と云て、拵出す。』といへるをも合せ考ふべし。「けんどん」は「慳貪」の意にあらず。又、「大名」といへる其箱の繪模樣より名付たるに、あらず。「貴人の口にも入る」と云意にて、「大名けんどん」と云しより、後には諸侯の船じるしさへ、つけたる也。こゝに「けんどんそば切」といへるは、「持出しのうどん・そば切」と云に同じ。いはでも、しれたることながら、同書に『「けんどんそば切」といふ物を拵出し』とあるにて、「けんどん」といふ名目は、賣るものより名付始めしこと、分明也。これら、皆、「慳貪」の意にあらざるの明證とすべし。さて、また、予が、『買ふ人は「慳貪」といふとも、賣人のしか唱ふべくもあらず。』といひしを詰りて、十月十九日の夜、傳馬町にてたつ市を、「くされ市」と云をもて、證とせらるれど、そは、昔の事をもて、今の沿革は證すべし。『今の器をもて、むかしの事の證とはしがたし。』といはれしに齟齬せり。これも又、今をもて、昔の證とするにあらずや。且、かの傳馬町なる市を「くされ市」といふことは、昔より唱へ來れるものにて、今の人の唱へ始めしに、あらず。この故に、今の世、かの市に出るあき人も、「くされ市」といへる也。その市、もし、今の世に始まりたらんには、縱[やぶちゃん注:「たとひ」。]、不景氣なりとも、あきなふものみづから、「くされ市」と唱ふべくも、あらず。ちか頃、播磨の赤松國鸞[やぶちゃん注:赤松滄洲(享保六(一七二一)年~寛政一三(一八〇一)年)は儒学者で赤穂藩家老に進んだ。]、每に[やぶちゃん注:「つねに」。]その祖を罵りし、と聞り[やぶちゃん注:「きけり」。]。是、かの人の祖なりといへども、則祐・滿祐等は[やぶちゃん注:赤松氏の祖先。赤松則祐は鎌倉末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。赤松満祐は室町中期の武将・守護大名。]、十數世むかしの人なる故に、罵りもせめ。その祖父その親の不義ありとても、人の而前にて罵るものはあらずかし。かの「くされ市」もこの如し。市は數十人の市にして、其身一人の商ふにあらず。且、むかしより異名せられし事なれば、人の「くされ市」といふをも、氣にかけず。みづからも、戯れには「くされ市」といふことあらん。もし、一家一人のうへをもて、『汝が店は「くされ店」也。汝がしろ物は「くされしろ物」也。』といはゞ、誰か、腹だち、怒らざるものあらんや。然るを、みづから、『われらが店は「くされ店」也。われらがしろ物は「くされしろ物」也。』といふて、あきなふものは、いよいよ、なし。是、人情の、おのづからしかるところにして、この人情によく涉るを、才學のはたらきといふべし。かゝれば、「けんどん」が「慳貪」ならば、當時、買ふものゝさいふ共、賣ものは、しか、唱ふべくもあらずといひしは、これ人情のしかる所にして、昔より異名せられし「くされ市」を、今の世、その市に出るあき人の云々と唱ふると、日を同して語るべからず。もし、「けんどん」は「盛り切り無情慳貪」の義にて唱はじめたらんには、當時、「惣鹿子」其他の書に、「けんどんや」としるして板せしとき、其「けんどんや」は、必、怒りて、其板を削らするにも至るべし。しかるに、かゝる事は、露計りも聞えずして、その書の、今世まで傳はれば、「もり切無情慳貪」の義をもて唱ざりしによれり。寬政中[やぶちゃん注:一七八九年から一八〇一年まで。]、ある人の作りし「猫じやらし」[やぶちゃん注:不詳。]といふ小册は、兩國むかひなる「金猫」とかいひし賣女の事を書るもの也。其書、出板の頃、かの賣女等、「猫」とかゝれしを、恨み怒りて、かれこれと障りたるよしを聞にき。又、おなじ頃、ある年の「天王祭り」に、小傳馬町にて、數多、出せし地口行燈のうちに、「大雨車力を流す」といふ地口有しを、其わたりなる車力ども、いたく怒りて、其行燈を出せし店を、破却せし事、ありき。かゝれば、「けんどん」が、實に「もり切慳貪」扱ひの意にて唱たらんには、其「けんどんや」たるもの、誰か、うれしと、おもふべき。板せらるゝに及びては、さはりをいひたつべきぞかし。しかれども、昔より唱へ來て、今の世に至らば、さまでいかる事は、あるべからず。是、「くされ市」に相似たり。遐邇[やぶちゃん注:「かじ」。遠い所と近い所。]・人情の差別なれども、今の世は、とまれかくまれ、昔かの「けんどん屋」の障りを、いひし事なきにても、予は慳貪扱ひより名付しといふ言を取らず。かうのみいはゞ、jさればこそ、印本には「慳貪」の字をはゞかりて、わざと「見頓屋」と書たりなど云說も、いで來つべし。「見頓」はともかくも、印木に多くは假名にて「けんどんや」と書たり。この「けんどん」は「卷飩」にも「慳貪」にもかよへば、「慳貪」の事ならずと言いひわけは、立がたかるべし。「大名けんどん」に大名の字を憚りて、「けんどん提重」と云たる例もて、「けんどん」、もし、「慳貪」の義ならば、印本には遠慮して、「饂飩」とも、「そば切」ともかくべき事也。これらの唱に遠慮せず。又、聊も障りなかりしは、「慳貪」扱ひなる意に依て、名づけし事に、あらぬなるべし。
詰に云、『さて、の玉へる事なれど、二百歲の翁あらば』云々。
釋て云、「二百歲の翁ならずは、此當否は定めがたからん。」と書しるせしを、まことゝして云々といわるゝは、足下には、似げなからずや。縱、二百歲の翁あり共、此事の當否を知れりと定がたき事、足下の詰をまたずして、誰も、しか、おもふべし。然るに、予が當否を老仙に託せしは、經驗すべきよしもなき、往昔、市店の事なれば、予が說を當れりと慥には、猶、いはで、みづから、必勝の地にをらざりし。これ、謙遜の「にげ道」にて、足下の鼻を挫がん[やぶちゃん注:ママ。「くじかん」であろう。]とて、せし業ならぬをあらはす也。只、惟[やぶちゃん注:底本の割注注記により「誰」をかく訂した。]のみならず、彼記に於ては、足下をしも、輪翁[やぶちゃん注:輪池堂屋代弘賢。]と推並て「先醒」と稱したり。是又、其說を否すれ共、足下を以て、拙し[やぶちゃん注:「つたなし」。]とせず。『公道・人情、兩つながら、うしなはじ。』とてのわざ也。しかれ共、日頃に於て、足下を「先生」と稱せざるは、是又、故ある事ぞかし。予が人を稱呼すること、譬ば、階級あるが如し。いかにとなれば、儒學・國學・詩歌・書畫の類、これによりて俸祿をうくる人、是によりて口を糊ひ[やぶちゃん注:ママ。「し」か。]、妻子を養へば、俗に云「黑人」[やぶちゃん注:「くろうと」。玄人。]也。こゝをもて、其學の淺深と、技の巧拙にかゝはらず、往來の書牘[やぶちゃん注:「しよとく」。書簡。]に於て、なべて「先生」と稱する也。これ敢[やぶちゃん注:「あへて」。]諂ふ[やぶちゃん注:「へつらふ。]に非ず。凡、門戶を張、徒弟を集め、學術・技藝をもて、世を渡る人々は、只、外飾[やぶちゃん注:「そとかざり」。]を旨とする物なれば、往來書牘の端に迄、心を其人の爲に用ひて、『外聞よかれ』と思へば也。此他、博學・多聞・能書・好畫の人といふとも、是によりて俸祿をうけず。是をもて活業とせざるものは、俗にいふ「素人」也。此故に、予は、なべて是を「先生」とせず。これを「先生」と稱せずといへ共、其人、自ら、生業あり。人の敬・不敬によりて、外聞・損益に拘る者ならねば也。しかれ共、官祿有人におゐては、是を「大人」と稱し、或は德行、或は、黃耇[やぶちゃん注:「くわうこう」(こうこう)で「耇」は黒い染みの意。年老いて白髪が黄ばんで顔面にシミのできた老人。]の老大家は、文墨をもて業とせざる者といへ共、是を「大人」と稱敬し、「先生」と稱すること、稀にあり。又、予がごときものをも、人、謬て、書牘に「先生」と稱するものあれば、予も亦、必、其人を「先生」とす。是、其敬をかへすの義也。予が用心、すべて、かくの如し。然るに、予が「けんどん」の評記におゐて[やぶちゃん注:ママ。]は、足下を稱して先醒とす。これ、他、なし。偏に足下の說を拙しとせざるの意をあかす也。され共、足下には、よくおもはずや。予を既して「子」と稱せり。其往來・囘報、今の禮節をもて見れば、さながら師弟の如し。などて、みづから、尊大なること、かくの如くなるや。是、しかしながら、我が薄德の致す所、足下の故にはあらずかし。とにも角にも、わが心の通ぜざるを歎くのあまり、言のこゝに及べるのみ。扨、又、『二百歲の翁は、さら也、今の世の事の、今、しれぬこと、多し。』と、いはる。今の事の、今、しれざるは、億萬の人に問はゞ、しるゝ事も、猶、有べし。往昔、市井、瑣々たる事の、既に傳を失ふものは、經驗すべきよしなきに、只、古書に據て、ことはりの當然たるを取らんのみ。然れ共、是等の引書は、皆、坊間の問籍[やぶちゃん注:ママ。「もんじやく」は「名對面(なだいめん)」のことで意味が通じない。]なれば、□む[やぶちゃん注:底本自体の編者の判読不能字。]と思ふことの疎(をろそか)なれば、其引書も亦、たのみがたし。「孟子」に、所ㇾ云、『盡ㇾ書不如ㇾ無ㇾ書』[やぶちゃん注:「孟子」の「盡心下」の一節だが、ちょっとおかしい。「盡信書、則不如無書。」で「盡(ことごと)く書(しよ)を信ずれば、書、無きに如(し)かず。」である。]といへるは、是なり。かゝる瑣々たる事をしも、名を正すは、聖門の旨とする所、後學の忽に[やぶちゃん注:「ゆるがせに」。]すべからず云々といわるゝは、是、金弧玉弦にて、割雞牛刀の類にあらずや。かの「けんどん」と唱へしものは、近世市鄽[やぶちゃん注:「いちみせ」、]の賣物也。よしや、その名目をよく考へ得たりとも、聖門・名敎の爲にはならず。又、考、あやまりたればとて、名敎の害にも、ならず。しらずといふとも、耻にならず。知りたればとて、譽れにもならず。畢竟、遊戲の漫錄にて、根も葉もあるべき事ならねども、予を莫逆の友とおもへばこそ、ながながしきことをもいへ、といはるゝは、せめてものことにおぼえて、いと歡しき事になん。さらば、予が本心をあかさんか。およそ交遊の間には、只、その友を擇むにあり。擇で、これを得たらんには、宜しく信を盡すべし。朋友と交て、苟も[やぶちゃん注:「いやしくも」。]信なきは、士たるものゝ耻る所、寧、信ならぬより、交らぬに、ますことなしとおもふによりて、動も[やぶちゃん注:「ややも」。]すれば、世の人、疎(うとん)ぜらる。予が、この二十許[やぶちゃん注:「ばかり」。]、年來、客を謝し、帷[やぶちゃん注:「とばり」。]を垂て閉居したるも、このゆへ也。近ごろ、多くは、やり棄て、世と推移らん[やぶちゃん注:「おしうつらん」。]とおもへども、下愚の痼疾は、せんかたなし。去るにより、「虎猫の辨」を始として、「慳貪の記」にも批を添しは、これ、ひそかに、足下の爲に、諷諫[やぶちゃん注:「ふうかん」。]の微意にして、冀くは、曉る[やぶちゃん注:「あける」。]ことあれかしと、おもへるのみ。予が固陋寡聞なる、足下の廣博强記にくらべば、雲壤の差ありぬべし。しかれども、予は、足下の齡におなじきむすめをさへ、もてるもの也。論じて、足下が勝たりとも、人も、ほめじ。われも又、手がら也とは思はぬものを、いかでか、長短巧拙をもて、爭ひを好んや。只、足下を、足下として、愛する心の、已[やぶちゃん注:「すでに」。]ことを得ず。いさめにかへたるわざなれども、はかりしよしの拙きゆゑにや。燃る薪に油をそへて、遂に足下の怒りにあへり。かゝれば、また、何をか、いふべき。わが誤りを悔るの外、なし。足下は、なほ、いつ迄も「慳貪」の說を持し給へ。予は「卷飩」をよしとおもへど、名づけはじめし人に遭ねば、經驗當否は終に得がたし。あな、おぞましの老のくりごとに、えうなき筆を費しぬ。げに、こと多き世にこそ、有けれ。
[やぶちゃん注:いやぁ! 言っちゃったねぇ! しかし、正直、私も、山崎美成はどうも好きになれまっ、せん!!! 馬琴に組みする!!! 因みに、当時(文政八(一八二五)年)、馬琴は数えで五十九、美成は三十歳であった。]
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