甲子夜話卷之六 40 町奉行大岡越州取計の事
6-40
[やぶちゃん注:大岡越前守忠相の粋で奇計の取り計らいなれば、特異的に、物語風に段落・空行を成形し、記号・句読点・読み(推定で歴史的仮名遣)も大々的に追加して、面白く読めるように改変した。]
寬延中、大岡越州(えつしう)、町奉行の時、下谷の肴町(さかなまち)より、
「其あたりの寺院八ケ所の肴代金、とり集めて百兩計(ばかり)、拂(はらひ)、なし。」
とて、
「某寺は 若干 若干(そこばく そこばく)」
と、詳(つまびらか)に書記(かきしる)し、訴へ出(いづ)。
越州、書付を請取(うけとり)、肴賣(さかなうり)は、かへし、扨(さて)、其(その)八寺(はつかじ)を、差紙(さしがみ)にて、明日(みやうにち)、朝(あさ)とくに、呼出(よびいだ)し、夕方まで待(また)せ置く。
寺僧ども、大に退屈して、かはるかはる、厠(かはや)にゆくに、壁に、張紙あり。
「某寺 肴代金 滯(とどこほり) 若干(そこばく)」
と書(かき)たてあるを見て、いづれも驚きたれども、爲(せ)ん方(から)も、なし。
やゝ後(あと)に、用人、出(いで)、
「越前守、とくに退出候(さふらふ)ところ、不快によつて出坐致しがたし。まづ、今日は、引取られ候へ。」
と傳ふ。
僧衆、歸(かへり)て、肴賣に、悉皆(しつかい/ことごとく みな)、滯金(とどこほりきん)を與(あた)ふ。
其後(そののち)、何の沙汰もなし。
又、紀邸(きてい)に、薪(たきぎ)代金、滯(とどこほり)千二百兩餘(あまり)有(あり)しを、薪屋、訴出(うつたへいづ)。
越州、紀邸の勝手役人を呼(よび)よせ、薪屋に、帳面出(いだ)させて、
「いかゞ計ひ候はんや。」
といふ。
紀の役人、有無の挨拶に及ばず。
其時、越州、薪屋に向ひ、
「これは、其方(そのはう)損失に可ㇾ致(いたすべし)。」
とて、帳面に墨引(すみびき)をして渡す。
紀の役人、かへりて、其よしを云ふにより、
「捨置(すておき)がたし。」
とて、滯金、殘らず、薪屋に渡りしと、なん。
何れも、おもしろき事ども也。
■やぶちゃんの呟き
「寛延中」一七四八年から一七五一年まで。忠相は享保二(一七一七)年二月、普請奉行から江戸南町奉行に異動し、この時、越前守を名乗った。元文元(一七三六)年八月に南町奉行から寺社奉行に異動し、十五年後の寛延四(一七五一)年十一月、病気依願により寺社奉行を御役御免となっている(兼任していた奏者番の辞任は認められなかったらしい。その一年後、自宅療養中、宝暦元(一七五二)年一二月に逝去した)。されば、第一話の内容は、寺関係者を呼び出して奇計をとった点では寺社奉行の権限として附合するが、本文で「町奉行の時」と言っている点で齟齬するので、作り話である可能性が高いと考えるべきである。同時代から後年にかけて創作されてもて囃された「大岡政談」物の殆んどは創作であることはかなり知られている。
「下谷の肴町」現在のJR秋葉原駅附近に「牛込肴町代地」があった。
「差紙」「指紙」とも書く。江戸時代、尋問や命令の伝達のために、役所から日時を指定して特定の個人を呼び出す召喚状。
「朝とくに」「朝疾くに」。朝早くに。
「若干」実際に書かれてあったツケ代金の表記を憚った表現。「幾ら」。
「紀邸」ここは紀州藩上屋敷ととっておく。現在の東京千代田区紀尾井町周辺で、旧赤坂プリンスホテル・清水谷公園・紀尾井町ビルにかけて、実に当時の絵図では「二万四千五百四十八坪」とする広大な敷地を有した。ここ(グーグル・マップ・データ)。これは町奉行中の出来事であるから、当時の紀州藩藩主はまさに将軍となった吉宗の父方の従兄に当たる第六代藩主徳川宗直である。将軍家の御威光を使ったと思われては我慢ならぬからこその「捨置がたし」であろう。その心理戦的攻略方が面白い。
« 岸田森と一晩語り合う夢 | トップページ | 甲子夜話卷之六 41 駿府にて、江戶の辻切を、御使を請て板倉周防守、之を停止せし事 »