室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 芥川君と僕
[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここからを視認した。初出誌は私の手元では調べ得ないが、前の「芥川龍之介の人と作」と異なり、クレジットがないから、本随筆集の書き下ろしかも知れない。
底本の傍点「﹅」は太字とした。若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した。]
芥川君と僕
漸《や》つと二度ばかり會つた芥川君から、發句の運座を卷くから來ないかと誘はれて、芥川君の家へ確か二度目くらゐに行つた。梅雨の霽れた爽かな一日であつた。卽題は夏羽織と梅雨ばれと其外の何かであつた。主人を初め久米、菊池の兩君や岡君江口、佐佐木君なども來てゐて、自分は久し振りで發句を作つた。その時にどういふ氣持か自分は久米君に題して時めく小說家としての彼をねぎらうた句を、夏羽織に事よせて作つたのだ。久米君はかういふ發句はいかんと云ふやうなことを云つたが、自分は引身《ひけみ》を感じた。何時か久米君にあの時の話をして談笑したいと今でも思つて居る。
芥川や久米君は作家生活の物慣れた世間をずつと見通しが利いてゐる時分であるのに、自分はまだ何も分らぬ井蛙の野人であつた。自分のよしとしたことも却て人に不快を與へる程の、まづい稺拙な挨拶振りに過ぎなかつた。自分は夕方早めに歸つたが、明らかに彼らに在るものと、自分との間に非常な洗練のきめの違ふことを感じたが、どうも隔離を感じ過ぎ手の付け樣が無かつた。今から考へるとあの時分には久米君にしろ芥川君にしろ、自分とは格別な高さと聲望とに鍛へられた何物かを持つてゐた。その高さは根本的に爲人《ひととなり》を叩き上げ、斬り込む隙間もない手堅さであつた。あの時に自分は反感を有《も》たなかつたことは好いことであつた。自分はその後も芥川君とつきあひ、彼の難攻不落の城に入りながらどれだけ得をしたかも知れなかつた。自分は時に彼の高びしやな調子が彼自身では常識にまで漕ぎつけてゐることに、必然に微笑みを感じるのであつた。
自分は芥川君とつきあふ樣になつてから、全く彼からの巧みな誘ひ出しに惹かれて、自分の中に眠つてゐたものを醒されたと云つてよい。彼は針の穴からも覗き込んで來てゐるに驚き、開いた戶からもやあと云つて這入つて來るのに驚いた。雜談の中からも色色聞くべきことが多かつた。自分は良友を持つてゐるけれど、自分を叩き上げるために要のある人は尠《すくな》い。それに自分は樂な交友ばかりしてゐたせゐか、頭の坐りが低かつたとも云へた。人間は樂な交友をしてゐたらしまひに馬鹿になるものだ。彼の云ふことは自分に取つて物珍らしいといふより、當然自分の感じもし考へてもしてゐることを、彼の言葉で話されると快い調和をさへ感じるのであつた。
今から思ふと自分が小說の書き出しころに芥川君と早く知り合うてゐたら、最《も》つと得をしたらうと思うた。最後に書く自敍傳をさきに書いたりして、作家としての本道を取り違へたことが多かつた。全く小說といふものは餘程心が決つてゐて、人物ができてから書くものだといふことを此頃沁沁《しみじみ》感じてゐる。底のある如くして底のないものは小說であらう。
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