狗張子卷之七 細工の唐船 / 最終巻に突入!
[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)のものをトリミング補正して、合成(幅を接近させた)した。適切と思われる位置に示した。唐船の細部がはっきりと見えるのは、こちらであったからである。なお、今回はごく僅かな文中注に留めた。江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注が詳細を極め、殆んど私の躓くところを概ねカバーしておられるからである。]
○細工の唐船(たうせん)
永享四年九月、將軍義敎卿、富士山御詠覽のため、東國駿河の國に進發(しんはつ)を催さる。[やぶちゃん注:「永享四年」一四三二年。この年、義教が中断していた勘合貿易(日明貿易)を復活させている一方、鎌倉公方足利持氏と室町幕府の関係が致命的に悪化した時期である(永享十年に持氏は自刃した)。「伽婢子」「狗張子」の中でも、相当に遡った時制設定となっている点で、かなりの特異点と言える。]
此事、前年より思し召し立たれ、駿河の國守今川駿河守範政に、かねて仰付らるといへども、執權斯波・細川・畠山等(とう)、各(おのおの)、諫言をすゝめて、
「今、天下、しばらく武威の化(くわ)に屬(しよく)すといへども、大亂(だいらん)の後(のち)にして、國、おとろへ、民、疲れて、しかも南方(なんぼう)の强敵、いまだ、ことごとく亡びず、かゝる時節は、好事(かうじ)も、なきには、しかず。たゞ、こひねがはくは、おぼしめし、とまり給へ。」
と、たびたび、いさめ申すにより、延引に及べり。
しかれども、多年の御深望(しんまう)たるにより、終に、思し召し、止(とゞま)らず。
駿河守は、此事、前年より承知して、おもふやう、
『將軍、はじめて、此地にきたり給ふ。饗應、よのつねにして、かなふべからず。』
と思案して、家臣共をよびあつめ、いひけるは、
「來年九月の比(ころ)、京都の將軍、富士川御詠覽のため、此地に來臨あるべきよし、先(さき)だつて御敎書(みぎやうしよ)あり。しかるに、此請待(しやうだい)いたすべき御主殿(ごしゆでん)の前に、大きなる泉水(せんすい)あり。此水の上にて、何か、めづらしき御慰(なぐ《さ》)みの事は、あるまじきや。」
と、せんぎ有《あり》ければ、末座(ばつざ)に、一人、ありて、
「それがし、細工に妙を得たり。あはれ、一年の御いとま給らば、國本(くにもと)へまかり歸り、何ぞ、御なぐさみにもなるべき事、工夫、仕《つかまつ》らん。」
と申ければ、駿河守、
「それこそ、やすきあひだの事。國にかへり、いかにもして、細工仕り見候へ。」
とて、いとまを、たびけり。
細工人、よろこび、國にかへり、一間所(ひとまどころ)へ引こもり、たゞひとり、あけくれ、工夫をつひやして、こしらへける。
すでに同年(おなじとし)九月、將軍、駿河守が館(たち)に御入りあり。
やがて、御主殿に請待(しやうだい)し、恭敬(きやうけい)の心、おこたらず、珍膳佳肴、數をつくして、饗應す。
將軍も、感悅、甚しく、夜(よる)は舞樂の宴《えん》を催し、晝は高亭(かうてい)に登りて、富士山を詠覽し給ひ、
みずばいかに思ひしるべきことの葉も
及ばぬ富士と兼(かね)て聞しも
かく詠じ給へば、駿河守、返歌、
君がみむ今日のためにやむかしより
つもりは初(そめ)し富士のしらゆき
かくて、將軍の御機嫌を見合(みあはせ)、かの細工人に仰せて、細工の物を取りよするに、何とはしらず、ひとつの大きなる箱を獻上す。
將軍、
「これは、いかに。」
とて、ひらかせ見給ふに、長さ三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]、橫五尺[やぶちゃん注:約一・五二メートル。]ばかりの結構にこしらへたる「唐船(たふせん)」にてぞ、ありける。
むかし、隋の煬帝(やうだい)の、數千(すせん)の大舶(《だい》はく)を作り、あまたの宮女もろ共に、舞樂を奏し、棹歌(たうか)して、かの西園(せいゑん)の名木奇花をたづねしありさまも、かくや、と、おぼえて、おびただし。
龍頭鷁首(りやう《とう》げきしゆ)、あざやかに、王樓金殿、かゝやけり。
すなはち、前なる泉水に泛(うかべ)しかば、數多《あまた》の人形、動きいで、桂の櫂(かぢ)、蘭の槳(さを)、滄海に棹(さを)さして、船うた、うたふ。[やぶちゃん注:「槳(さを)」橹(ろ)よりも短く小さいオール状のもの。]
そのけしき、げにも巧みに操(あやとれ)り。
しばらくありて、色黑き人形共、橫になしたる帆柱を、
「そろりそろり」
と、引あげて、おしたつれば、おほくのつなを、たぐりつゝ、
『日よみのてい』[やぶちゃん注:「日よみ」「日和見」。]
と、うちみえて、まがくしする人形も、あり。[やぶちゃん注:「まがくし」は「眼隱し」で、直(じか)の日差しを避けて眼の上に手を翳し、海や空の様子を遠く観望することであろう。]
又、年のほど、七、八十ばかり、これより、明州(みやうじう)の津(つ)までは、八百里、海底にいりたる大石もや、あるらん。又、大風(たいふう)の變をあんじ、破軍・武曲・文曲のひかり、北斗のほしに參(しん)・商(しやう)の二つの星を考へ、時變・運氣に心をくるしめ、凝然(ぎようねん)として、立(たち)たる人形もあり。
さて、管絃のはじまると見えて、うるはしく裝束したる伶人(れいじん)の人形、それぞれの樂器をもち、六律(りくりつ)・六呂(りくりよ)の調子をそろへ、「大平樂」を奏すれば、また、うるはしき美人の人形、五、六十人、けつこうなる裝束(よそほひ)し、音樂の調子にあはせ、舞踏して、しづかに簾中(れんちう)に引入(ひきい)れば、又、さも、しほらしき「から子」の人形、百ばかり、てん手(で)に、拍手、うちそろへ、「還城樂(げんじやうらく)」のさしあし、「ばとう」の上の、ばちがへり、げに、ありありと、舞ふたりけり。[やぶちゃん注:「ばとう」「坺頭」或いは「撥頭」で舞楽の曲名。髪を振り乱した恐ろしい形相の面を被り、撥(ばち)を持って一人で舞う。後の「ばちがへり」は、その舞い振りを「撥返り」と呼んでいるのである。]
音樂・躍歌(をどりうた)の聲、玉(たま)のやうらく、風(かぜ)にひゞき、こがねの瓦は、日にひかり、こゝろも、言葉も、およばれず。
凡そ、五、六百の人形、みな、それぞれのはたらきありて、一時(《いつ》とき)ばかりの藝をつくすと見えたりしが、そののち、ちひさき人形、一人、帆柱のもとにて、何やらん、火うちのやうなる物を取り出だし、二つ、三つ、打(うつ)とおもへば、鐵炮の、どうぐすりを入(いれ)、はねさせける程に、その音、天にひゞきて、おびたゞし。
數多(あまた)の人形、ひとつも、のこらず、打ちはらひ、唯、泉水のしらなみのみぞ、殘りける。
滿座、大きにおどろき、たゞ忙然(ばうぜん)と、あきれたるばかりなり。
將軍、興をさましたまひ、かの細工人を召しけるに、彼(か)の鐵炮のさはぎに、亡(うせ)さりて、尋(たづぬ)れども、しれざりける。
「これは、いかさま、天下、ふたゝび兵亂(ひやうらん)起りて、人民、うせ、ほろぶべき前表(ぜんひやう)ならん。」
と、みな人、さた、しあひければ、將軍も、駿河守も、共に眉をひそめて、
「ふかく隱密(おんみつ)すべき。」
旨(むね)、仰せ出だされければ、その、一、二年の中(うち)は、さだかに知る人もなかりけるとぞ。
[やぶちゃん注:さても。この謎の細工師は無名者として登場するのであるが、今川範政の評定の末席におり、その命を受けて、一年もの間、勝手次第とさせたからには、相応の信頼と、細工師としても、超弩級の知恵者であり、技術者でもあった。その彼が、最後の最後に姿をひょいと晦ましているのは、まさに、最後の鉄砲のそれは、この男が確信犯で仕組んだものであり、将軍足利義教に対し、兵乱の兆しを確信犯で嗅がせるための仕儀だったのではないかと思わせるものがある。顔の見えない「忍びの者」の後ろ姿が闇に消えてゆくようでなかなかサスペンスを感じさせる。諸辞書によれば、この義教、足利義満時以来廃絶していた綸旨を奏請して、持氏を自害に追い込み、守護家の家督にも積極的に介入し、衆議に名を借りて、細川氏を除く殆んどの宿老家の人事に手入れを行った。さらに守護大名一色義貫(よしぬき)・土岐持頼を暗殺、幕府管領畠山持国を追放するなどしたため、各守護大名は恐慌をきたし、先手を打つことで将軍の魔手を逃れんとした赤松満祐により、自邸に招かれ、宴席中で斬殺されている(「嘉吉の変」)。性格的に激烈で、権威主義的な点では、父の義満に似ず、後の織田信長に類似するとされる。]