多滿寸太禮卷㐧一 宰府の僧、淸水觀音の利生を蒙る叓
宰府僧蒙二淸水觀音利生一叓(宰府(さいふ)の僧、淸水觀音(きよみづくわんおん)の利生(りしやう)を蒙(かうふ)る叓(こと))
中比《なかごろ》、九刕(きゆうしう)宰府の僧、三人つれて、京都にのぼり、東福寺に、禪祿(ぜんろく)の講談、日々に群集(ぐんじゆ)しけるに、國々の衆僧(しゆそう)、多く集まり、これを聽聞しけり。此三人の僧も、席(せき)をうけて、聽衆(ちやうじゆ)の數(かず)に入《いり》、すでに月日を送りけり。
[やぶちゃん注:「淸水觀音」知られた京都市東山区清水にある元は法相宗の大本山音羽山(おとわさん)清水寺。本尊は十一面千手観世音菩薩である。同寺は日本でも有数の観音霊場として古くから知られる。
「中比」それほどには遠くない今と昔の間。江戸時代ならば、遡ったとしても、せいぜい室町末期か戦国時代までと思われる。本書刊行は推定で元禄一七(一七〇四)年で、江戸幕府の開府は慶長八(一六〇三)年であるから、まさにほぼ百年前であるからして、その前後としても、なんら問題はない。
「九刕宰府」役職としての「大宰」(だざい/おほみこともち)・大宰帥(だざいのそち)は、広義には外交・軍事上、重要な地域に置かれ、数ヶ国に及ぶ広い地域を統治した地方行政長官を指す。九州筑紫には筑紫大宰が置かれ、一般には、単にこう言ったら、九州の「大宰府」を指す。当該ウィキによれば、「宰府」と略すこともある。唐名は「都督府」で、『現在でも、地元においては、史跡を「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと呼称することが多い。外交と防衛を主任務とすると』ともに、西海道九ヶ国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅)と三島(壱岐・対馬・多禰(たね:現在の大隅諸島を一国としたものだが、弘仁一五・天長元(八二四)年には大隅に編入された))に『ついては、掾(じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれ』た。『軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司』(さきもりのつかさ)や『主船司』(ふねのつかさ)『を置き、西辺国境の防備を担って』おり、『西海道諸国の牧から軍馬を集めて管理する権限』も『有していた』。『外交面では、北九州が』、『古来』、『中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた』。広域で示すと、『現在の太宰府市及び筑紫野市に当たる』とある。狭義の中枢の跡は現在の大宰府天満宮を中心とした福岡県太宰府市宰府(さいふ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)に相当する。
「僧」ウィキの「太宰府天満宮」によれば、『右大臣であった菅原道真は』昌泰四(九〇一)年、『左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、翌々年の』延喜三(九〇三)年に『同地で死去した。その死後、道真の遺骸を安楽寺に葬ろうとすると』、『葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え』、延喜五年八月、『同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山庿院安楽寺』(「てんげんざんびょういんあんらくじ」と読んでおく。天台宗)『と号した。一方』、『都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに』六『年後の』延喜九(九〇九)年には、『原時平が』三十九『歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し』、延喜一九(九一九)年に『竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である』とあり、神仏習合期には別当職や社僧もさわにいたのである。『明治に入り』、悪名高き前時代的文化破壊を惹起させた『新政府の神仏分離の処置で、天満宮周辺に住む多くの社僧は復飾・還俗や財産処分などを余儀なくされ、講堂、仁王門、法華堂などの建物や多くの仏像などは』、『破壊あるいは売却され、天満宮の御神体であった道真公御親筆の法華経も焼き捨てられ、安楽寺は廃寺とな』ったとある。
「禪錄」禅林の語録類。宗派にとらわれず、修学するのは平安旧仏教の真言・天台宗に発祥し(八宗兼学など)、鎌倉新仏教の優れた宗祖の多くは比叡山や高野山で学んでいる。]
中にも一人の貧僧、飯料(はんれう)に絕《たえ》て、日參(につさん)の間《あひ》には、洛中を頭陀(づだ)しけるが、漸々(やうやう)、月もかさなりければ、
「宿宅(しゆくたく)の料(れう)を、いかゞせん。」
と案じゐたり。
さすがに、同宿の僧も貧しければ、いひよるべきよすがもなく、ひたすら、案じけるが、
『心に叶はぬ事をば、神にも祈り、佛(ほとけ)にも歎げき奉らばや。』
と思ひ、
『淸水寺(せいすいじ)の觀音に隙(ひま)なくまいりて、此事を祈らばや。』[やぶちゃん注:「せいすいじ」は「きよみづでら」の異称。]
と思ひたち、夜ごとに參篭(さんろう)しけるが、或る夜(よ)の御夢想(ごむそう)に、御宝前(ごほうぜん)より、立符(たてふう)したる文(ふみ)を、一通さし出し給ひ、[やぶちゃん注:「立符(たてふう)」「立封」の当て字であろう。「立(竪)文(たてぶみ)」と同じ。書状の一形式で、書状を礼紙(らいし)で巻き、その上をさらに白紙で包んで、包み紙の上下を筋違(すじか)いに左、次に右へ折り、さらに裏の方へ折り曲げたもの。折り曲げた部分を紙縒(こより)で結び、表に名を記す。「捻(ひね)り文(ぶみ)」とも呼ぶ。]
「汝があまりに申《まうす》事なれば、あひ計《はから》ふ也。此ふみを愛宕(あたご)の良勝(りやうせう)に持《も》て行《ゆく》べし。」
と、あらたにしめし給へば、うちおどろきて傍(かたはら)をみるに、現(げん)に、ふみ、あり。
[やぶちゃん注:「あらたに」見た目にはっきりと判るさま。鮮やかにありありと見えるさま。ここはなかなかに上手い奇蹟のシークエンスで、宝前の景色は明確であるが、その奥からやってくる相手の姿や「立符」を持った手などは、一切、見えない。というより、光りでハレーションして、その対象は映像として飛んでおり、或いは、お姿はなく、空中を文字通り文が飛んでくる映像というべきであろう。
「愛宕」京都府京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある愛宕山(あたごやま/あたごさん)。京都市街を取り巻く山の中で、東の比叡山と西の対称位置で並びよく目立ち、信仰の山としても知られる。]
感淚をながし、再拜して、此状を賜はり、愛宕の方へ尋行《たづねゆき》て、
「良勝(りやうせう)といふ人は、いづくにおはしますぞ。」
と、問へども、更にしるもの、なし。
殘鴬(ざんわう)は幽谷に啼き、猿(さる)は重嶂(ぢうせう)に叫(さけ)ぶ。[やぶちゃん注:「殘鴬」「殘鶯」(ざんおう)。正しい歴史的仮名遣は「ざんあう」。季節を設定する。夏になっても未だ鳴いているウグイス。「重嶂」正しい歴史的仮名遣は「じゆうしよう」。重なる峰々。]
やうやう、峯によぢのぼれば、白雲、跡を埋(うづ)み、靑嵐、こずゑを拂ふ。
爰《ここ》に、ある樵夫(せうふ)に行き逢ひて、此事を問へば、
「良勝(りやうせう)とは、此山の地主(ぢしゆ)を申《まうす》とこそ、承りて候へ。當山(たうざん)は、むかし、七千坊の所(ところ)にて候が、悉く、魔滅しぬ。今は房舍の舊跡(きうせき)斗《ばかり》、多し。」
とぞ語りける。
[やぶちゃん注:「地主」その土地の本来の守護神。人対象では産土神(うぶすながみ)とも呼ぶ。なお、「地主權現(ぢしゆごんげん)」は一般名詞では「寺院の境内に地主を祭った社」を指すが、中世以後、清水寺に隣接する「地主神社」を指すことが多いから、この樵(きこり)の謂いはそれをかがせてもいよう。]
『觀世音の御利生(ごりしやう)なれば、いか樣(やう)にも、やうこそ、あらめ。』
と、たのもしく、猶、山ふかく分け入りたれば、すゝき・檜(ひ)の皮・莚(むしろ)の御所(ごしよ)ありつれば、
『こぞ。』[やぶちゃん注:底本は「こそ」であるが、前後から濁点を打ち、「ここに違いない!」という心内語として採った。そうでなくては、以下の「窓前」がおかしくなるからである。]
と思ひて、立《たち》より、うかゞひけるに、窓前に春淺く、林外に雪きえて、折から、心ぼそかりけり。
すなはち、案内すれば、おくのまより、『大僧正にや』とおぼしき高僧の、腰に梓(あづさ)の弓をはり、眉に八字の霜(しも)をたれ、鳩(はと)の杖(つゑ)にすがり、唯一人、直(たゞち)に御出ありて、文(ふみ)を取《とり》て御覽あり。[やぶちゃん注:「鳩の杖」頭部に鳩の形を刻みつけたT字型の架杖(かせづえ)。老人の用いるもの。昔、中国で老臣を慰労するために宮中から下賜され、日本でも嘗ては八十歳以上の者に下賜された(時に高齢の喩えにとしても言う)。「精選版 日本国語大辞典」の「鳩の杖」の図を参照。]
「御邊(ごへん)學領(がくれう)の事を仰《おほせ》あるなり。」
とて、
「内へ入《いり》給へ。」
とあれば、仰にしたがひ、參りけり。[やぶちゃん注:「御邊(ごへん)學領(がくれう)の事」貴殿の修学の在り方に就いての事。当然、それを保障する糧食を含む。それが最後に明らかになるのである。]
御花《おんはな》がらを、自身(じしん)、とり出《いだ》し給ひて、
「食物(しよくもつ)になして、くへ。」
と仰ければ、則《すなはち》、たうべけり。[やぶちゃん注:「花がら」思うに、「花殻・花柄」で、「仏に供えた花で不用になって捨てるもの」のことであろう。見るからに仙人っぽい食物である。]
日、已に、くれなんとす。
高僧、宣ひけるは、
「これへは、夜に入《いり》て、不當(ふたう)の者どもの集まるに、これへ來りて、かくれ居《ゐ》給へ。」
とて、わが御後(おんうしろ)に、引よせて、をかせ給ひける。
[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。左幅に愛宕の良勝、その背後に伏して隠れている主人公の貧僧。良勝の左手前では、天狗が土産として奪ってきた少女が泣いている。なお、この兩挿絵の中には文章が入っているが、これは本文にあるものとは異なり(特に右幅)、恐らくは、半ば作者から受けた指示に従いつつ、半ばはオリジナルに絵師の記したものと思われ、右幅中央には、
『天狗か五疋いるから
成程成程五ひんか』
(『天狗が、五疋ゐるから、成程、成程、「五ひん」か。』)
とあるか。二行目は苦心惨憺して読んだ。「成程」の二つ目は挿絵では踊り字「〲」であるものをそうとった。因みに、「ひん」というのは、「獱」で、天狗の別称を「狗獱(くひん)」と呼ぶ。なお、本文には烏天狗の総数は書かれていないが、図では確かに五人描かれており、このキャプションの左下の一人だけが、顏がまさに狗=犬である。左幅には、
『人くさいかざ
すとうたがふ
はこの者
なるか』
(『「人臭い氣(かざ)す。」と疑ふは、この者なるか。』)
であろうか。これも二行目以降に自信がないものの、これは本文に即しているというか、絵師自らが、附言して補助説明しているのが、如何にも面白い。なお、判読に誤りがあるとなら、御教授願いたい。]
さるほどに、夜も更け行けば、千人斗《ばかり》が聲して、
「曳々(えいえい)。」
と云《いひ》て、來《きた》る音、しけり。
此僧、
『いかなる事やらむ。』
と、あやしく思ひ、あまりのおそろしさに、ひざまづきてみれば、老若尊卑の山伏ども、我慢の翅さ、驕慢の嘴(くちばし)、あり。[やぶちゃん注:「我慢」ここは「慢心」の意。]
或(あるひ)は牛頭(ごづ)・馬頭(めづ)の形(かた)ち、鳥(とり)・獸(けだもの)の姿なる者ども、七つ、八つ斗《ばかり》なる女子(によし)をとらへ來りて、
「進物(しんもつ)にて候。」
と申ければ、高僧、
「ふしぎの奴原(やつばら)が。いたはしき事を、ふるまふかな。」
とて、少女をよびて、御そばに置《おき》給へり。
扨《さて》、かの者ども、申けるは、
「例(れい)ならず、人の香(か)のするは、いかなる事にや。」
と申ければ、高僧、叱(しつ)して、ふかく狼籍をいましめ給ふに、をのをの、靜まりけり。
五更に、月、落ちて、一点の燈(ともしび)のこり、夜(よ)、已に明けなんとす。[やぶちゃん注:「五更」午前三時から午前五時までの間。]
かの天狗ども、又。
「ゑいゑい、おふ。」
と云て、虛空をかけり、東西(とうざい)に去りけり。
その時、又、花がらをとり出《いだ》し、法師に、たばせ給ひ、仰《おほせ》けるは、
「うけ給り候飯料(はんれう)の事は、御心(《み》こゝろ)、易(やす)かるべし。但し、此幼(おさな)き者は、尾張の國に、かくれなき武士(ものゝふ)の、いつき[やぶちゃん注:「齋き・傅き」。敬い、大切に世話をし。]、かしづく独りむすめ也。これを具して、其家に行べし。」
と、仰《おほせ》有《あり》けり。
則(すなわち)、具して、尾張國に至り、尋《たづね》みるに、誠に大名(だいめう)げなる屋形(やかた)の躰(てい)也。
内より戸を閉ぢて、人、まれ也。
庭の内を見入《みいり》ければ、靑柳の、露になびき、老松(ろうせう)、風にむせぶ。
良(やゝ)久《ひさしく》して、女一人、出《いで》あひて、申けるは、
「是れには、このほど、姬君の、くれに、失せ給ひて、見え給はねば、『天狗などの、とりたるや。』とて、諸方へ手分けして、殿原(とのばら)・中間(ちうげん)ことごとく、尋申《たづねまうす》に出《いだ》し給へば、淺からぬ御歎(《おん》なげき)にて、人に御對面(ごたいめん)も候はず。誰人(たれひと)にて、御入《おはいり》候や。」[やぶちゃん注:「殿原・中間ことごとく尋申に出し給へば」家内の奥向きの上﨟辺りが、庭にいる僧を見咎め、「主人以外の男どもは、その娘の捜索のため、払底にて御座いますれば、」の謂いであろう。不審な僧の、敷地内に立ち入っているのを見て、大事件のさなか、慌てながらも、強く警戒した物言いと読んだ。失踪した娘に気づかぬのは不審かも知れぬが、僧が稚児風に男児に装わせて顔を隠して連れていたとすれば、問題はあるまい。]
と、いらへければ、此僧、はじめ・終はりを委(くはしく)かたり、
「姬君を、これまで、具(ぐ)し奉りたり。」
と云ければ、家内(かない)の上下、これを聞て、あはて、ふためき、よろこぶ事、かぎりなし。
急ぎ、内に呼び入《いれ》て、事の次第を具(つぶさ)に尋ね、
「先(まづ)、悅(よろこび)に、飯料(はんれう)を勤仕(きんじ)したてまつるべし。安(やす)きほどの御事《おんこと》なり。吾れ、京都にも、田舍にも、倉(くら)、あまた持ちたり。其の期(ご)に臨みては、いかほども、いとなむべし[やぶちゃん注:お布施として差し上げましょうぞ。]。」
とて、尾張の大名と、ながく師檀(しだん)のよしみをなして、何事も不足なくして、出世、心のごとく、とげ、おこなひ、後(のち)には尾州に大寺(だいじ)をひらき、建立してけり。[やぶちゃん注:「師檀」。師僧と檀那(檀家)。]
まことに、大悲應護の御方便、ありがたかりける次第なり。
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