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2022/04/30

譚海 卷之四 同所小山驛天王寺古跡幷大谷の觀音・ゆづる觀音・岩船地藏尊の事 / 譚海 卷之四~了

 

○同所小山(おやま)驛に天王寺といふ有、小山判官の菩提寺也。驛より東の方ヘ松杉茂(しげ)たる道を四五町行(ゆく)所に有。則小山判官の系圖同じく鎧かぶとなど什物に傳(つたへ)て有。又此寺四五町脇に小山氏の古城の跡有、澤をわたりて山をこえて至る、荊棘(けいきよく)道をふさぐ。大(おほき)なる銀杏樹(いちやう)のもとに古井(ふるゐ)有、其かたわらに七つ石とて、殊に大なる石七つ有、はまぐりの如く、半月の形ちの如く、龜の甲の如く、ひきかへるの如く、皆一丈餘なる物也。此城の堀は昔龜の字の畫(ゑ)にほるといへり。めぐりめぐりて半(なかば)は草に沒し、人跡(じんせき)まれなる所とぞ。又ゆづる・岩船(いはふね)・大谷とて參詣する所は、日光山の西に付(つき)てあり。ゆづるの觀世昔は山谷(さんこく)の間にして岩を切(きり)うがち、洞(ほら)の中に丈六の觀音を同じ岩に鑱付(ほりつけ)て有。其洞の入口の上のかたに大蓮花をえり付(つけ)たる。わたり一丈餘有、山水(やまみづ)此蓮花をつたひてしたゝるゝ面白き事也。山上に胎内くゞりなどとて深き洞穴(ほらあな)有、甚(はなはだ)せばくして漸(やうやう)ぬけらるゝ所ありとぞ。又岩船地藏尊は山の高き所に、船のかたちにて大なる一枚の岩(いは)深谷(ふかきたに)にさし出(いで)てあり。其へさきに石體(せきたい)の地藏ぼさつ、谷のかたへむいて立(たち)ておはす、夫(それ)を正面より拜み奉らんとて、此岩船をめぐりて、谷をうしろにして地藏尊をおがむ事也、足うごもちて甚おそろしき所也。其岩の上より遠望すれば、村落所々に有(あり)て甚(はなはだ)佳景なりとぞ。又大谷の觀音は同じく深山中にあり、谷にのぞきて、大なるいはほかさなり出たるうヘに、本堂をつくりかけて、其堂なかばは岩石をつくり足したるもの也。山を洞の如くきりひらきて、奥に丈六の觀音をほりうがちたり、此邊すべて大石のみ多し、別當の庭池をうがち、山水を引(ひき)佳景也。

[やぶちゃん注:「同所」前の「下野國萱橋白蛇の異病はじまる事」を受けたもの。

「小小山驛に天王寺といふ有、山判官の菩提寺也」この寺は栃木県小山市本郷町にある曹洞宗の天翁院(てんのういん)の誤りであろう。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『小山氏の菩提寺として知られ』久寿二(一一五五)年、『小山政光の開基といわれる。当初は北山(小山市中久喜地内)に創建されたが』、文明四(一四七二)年、『小山持政が培芝正悦(ばいし しょうえつ)を中興開山の師として招聘し、現在地に移建した。とくに』十八『代小山高朝に崇敬され、この頃に小山市の菩提寺として発展した』。『院号の天翁院は、小山高朝の法名「天翁考運」にちなむ』とある。但し、ここに出る三人の当主は孰れも「判官」を名乗ったことはない。官位で判官を名乗ったのは小山氏第八代当主小山秀朝や、一族の一人である小山隆政がいるが、彼らを上の三名を差し置いて示すのはおかしい。よく判らぬ。以下の城の謂いから、津村は鎌倉初期の小山家の祖である政光を指してこう言っているものと断ずる。

「小山氏の古城の跡有」小山城。別名は「祇園城」。当該ウィキによれば、久安四(一一四八)年に『小山政光によって築かれたとの伝承がある。小山氏は武蔵国に本領を有し』、『藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った』。『小山城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった。当初は鷲城の支城であったが、南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となった』。康暦二(一三八〇)年から永徳二(一三八三)年に『かけて起こった』「小山義政の乱」(室町前期に下野守護であった小山義政が鎌倉公方足利氏満に対して起こした反乱)『では、小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城のうち「祇園城」が小山城と考えられている。小山氏は』この『乱で鎌倉府により追討され』、『断絶したが、同族の結城家から養子を迎えて再興した』。『その後は、代々小山氏の居城であったが』、天正四(一五七六)年に『小山秀綱が北条氏に降伏して開城し、北条氏の手によって改修され、北関東攻略の拠点と』なった。『小田原征伐ののち』、慶長一二(一六〇二)年『頃、本多正純が相模国玉縄より入封したが、正純は』元和五(一六一九)年、『宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった』とあり、さらに過去に『発掘調査で礎石と思われるものが確認され』、『小山城のあった場所は、現在、城山公園となっている。すぐ近くにある小山市役所の正面入り口前の駐車場に「小山評定跡」石碑と由来碑が設置されている。各曲輪はいずれも空堀によって隔てられており、土塁、空堀、馬出しなどの遺構が明瞭に残っている。また遺構は隣接する天翁院(小山氏の菩提寺)にも残っており、空堀や土塁が確認できる。城山公園の南側には小山御殿跡』(元和八年)があるとあり、また、『城跡内には実無しイチョウという古木があり、小山市の天然記念物』『に指定されている』とある。「龜」の字型の堀というのは異様に複雑で、そんな痕跡があるのであれば、これは見て見たいものだ。城跡はここ

「ゆづる・岩船・大谷」底本の竹内利美氏の注に、以上は、『いずる観音・岩舟地蔵・大谷観音』を指し、『栃木県の出流(いづる)山の観音、石灰洞の奇勝に仏を奉安する満願寺がある。大谷観音は多気山の洞窟に石仏を奉置してある、大谷寺。大谷石の産地でもある。岩舟山は都賀郡にあり、山上に地蔵尊を祭る高勝寺がある。同じく岩山の奇勝で、石材の産出もおこなわれている。』とある。一番目は栃木県栃木市出流町にある真言宗出流山(いずるさん)満願寺。本尊は伝空海作の千手観世音菩薩。二番目は。栃木県宇都宮市大谷町にある天台宗天開山浄土院大谷寺(おおやじ)。三番目は栃木県栃木市岩舟町静にある天台宗岩船山高勝寺の岩船地蔵尊

「うごもちて」どうもぴんとこない。この語はモグラの古名「うごろもち」で判る通り、「土などが高く盛り上がる」の意である。怖くなって足がむくんで思うように動かなくなるということか。]

譚海 卷之四 下野國萱橋白蛇の異病はじまる事

 

○下野(しもつけ)結城萱橋の邊にて、天明卯年淺間山燒(やけ)たる後より白蛇纏(しろへびまとひ)と云(いふ)病はやるよし。その病體(びやうたい)背中にかんぴやうほどの太さにて白きもの一筋橫に出來る。日數(ひかず)を經(ふ)ればたすきをかけたる如く胸へまはり、はらのうへにて此筋(このすぢ)合(がつ)するときは死するなり。醫療殊にむづかしく、難治の症也、いかなる事ともしらず、昔よりなき病(やまひ)也といへり。

[やぶちゃん注:「下野結城萱橋」栃木県小山(おやま)市萱橋(かやはし)(グーグル・マップ・データ)。この話、非常に興味があるのだが、ネット上には全く記載がない。何か見つけたら、追記する。]

譚海 卷之四 湖水の氣雲となり幷富士山雨占候の事

 

○甲州の人かたりしは、湖水の氣のぼりて雲と成(なる)と覺えたり。其國に湖水多し、時(とき)有(あり)て湖水の上に雲(くも)現ず。苒々(ぜんぜん)にして鮮(あざやか)なる形(かたち)其儘の湖水の中に現(あらは)る也。空に現ずる雲の姿にて湖水の形しらるゝといへり。又わたぼうしほどの雲空に現じて、苒々にふじの山に近づく、富士山の上に雲至る時、黑き色に成(なる)時はまのあたり雨ふる、白ければ雨降(ふら)ずと云。

[やぶちゃん注:「苒々」この場合は、時間がゆっくると経過するさまを言う。]

譚海 卷之四 箱根の湖水を拔取て甲州の田にかくる事

 

○近年箱根の湖水を拔(ぬき)て、甲州の田地にひたす事有、御代官田中氏の工夫也といへり。甲相のあひだにあたりて、湖水より三里ほど退(のき)てあらたに山間を掘(ほり)て、水道をこしらへたれば、三里のあひだ湖水地中を伏しくゞりて水道に出(いで)、迅瀨(はやせ)と成(なり)て落(おつ)るとぞ。豆州三島宿にて深夜に至る程、いづこともなく水の音漕々(さうさう)と聞ゆるは、此湖水の甲州へぬけるひゞきとぞ。

[やぶちゃん注:これは「箱根用水」。「深良(ふから)用水とも呼ぶ。但し、「甲州」というのは「駿州」の誤りである(津村はどうも地理に弱かったらしく、他でも、地理上のトンデモ齟齬を有意にやらかしている)。小学館「日本大百科全書」によれば、箱根外輪山湖尻峠の下に隧道を掘り、相模国芦ノ湖の水を駿河国駿東(すんとう)郡深良村(現在の静岡県裾野市)の深良川に注ぎ、さらに流路変更や新川掘削工事などを施して黄瀬(きせ)川に結び、嘗つての駿河国の井組(現在の水利組合)二十九ヶ村(現在の御殿場市の一部及び裾野市・長泉町(ながいずみちょう)・清水町などに相当する広域)、面積五百ヘクタール余に灌漑用水を供給した用水。この用水の特色は、相駿国境及び水系を越えた用水路であること、また、湖尻峠の下に長さ千三百四十一・八メートル、平均勾配二百五十分の一、取入口と取出口の標高差が九・八メートルという巨大な隧道を持つことである。深良村以南の地は箱根山及び愛鷹(あしたか)山の裾に開け、北から南に黄瀬川が流れているが、水量も少なく、また、深い侵食谷を形成しており、灌漑用には不十分で開発も不可能であった。寛文三(一六六三)年頃、深良村の名主大庭源之丞(おおばげんのじょう)が、江戸浅草の商人と伝えられる友野与右衛門らと図り、芦ノ湖の水につき、伝統的に権限をもつ箱根権現の別当快長の理解も得て、大庭・友野らが元締めとなって、幕府に開削願いを提出、寛文六(一六六六)年に着工、四年後の寛文十年に完成させた。動員された人夫は三十三万余人、工事費も六千両とも九千七百両などともされ、工法も、火薬などを用いず、鉄鑿(のみ)だけで掘り開けたという。隧道工事の進展につれ、箱根関所の存在に関ることから、幕府などの妨害をしばしば受け、また、完成後まもなく、友野らが消息不明になるなどの奇怪な事件もあった、とある。]

譚海 卷之四 豆州あたみ溫泉・修禪寺溫泉の事 附すゝの池・帝子孫彌陀等の事

 

○伊豆國三島郡は、箱根山にて北をふさぎたる故冬も暖氣也、江戶よりは綿入一つ滅ずるといへり。梅花も冬月の内いつも盛也。又同所熱海入湯は春秋冷(すず)しき時を見はからひて行(ゆく)べし。暑月には其往還南山の腰をめぐりて行(ゆく)所四里ばかりの處有、草いきれて人(ひと)病(やむ)事也。南山四里の際(きは)休むべき人家なく、高山にて南をふさぎたれば一陣の風もなく、北に谷をみてめぐりゆけども、谷のかたは木竹(ぼくちく)しげりて又風をうくる所なし。生ひかぶさりたるきりとほしを行(ゆく)事ゆゑ、盛暑(せいしよ)は甚(はなはだ)苦しく、土地の人も日中は往來せずといへり。又あたみの溫泉ほど奇麗なるはなしとぞ、海中より盬湯(しほゆ)湧(わき)て出(いづ)るを、湯屋の軒端(のきば)つづきに懸樋(かけひ)をして湯をとる也。湯のわく事晝夜二度、潮のさしくる時ばかりわきあがるゆゑ、潮のさすまへかたに湯船をあらひこぼして、鹽湯の湧てくるを待(まつ)ゆゑ、湯船每日掃除するゆゑ奇麗也。その湯のわく時に至りては、海邊壹丈ばかり湯けぶり立のぼる、恐しき體(てい)也。中々寄(より)つかるゝ事にあらずとぞ。又豆州修善寺の溫泉をば今は湯の河原と稱す。三島驛より本道七里有、外に山中をゆけば二里ほど近道なれども、山中蛭(ひる)おほくして甚(はなはだ)難儀なり。入湯をはつて同じ山中を歸るに、蛭一切脚(あし)にとりつく事なし。溫泉の氣を蛭きらふと見えたりと人のいへり。此外所々山中に溫泉有。又奧伊豆に靑すゝの池といふ有、東鑑(あづまかがみ)に見へて古跡也、今は人跡絕(たえ)て蛇蝎(じやかつ)の叢(くさむら)也、稀に遊山(ゆさん)する人冬のあいだに行(おこなふ)事なり。又同國帝王のみだは南海にむかひたる岸に有。乘船の岸(きし)甚(はなはだ)峻岨(しゆんそ)にして、船の着(つく)べき樣(やう)なければ、五六尺を隔てて船へとび入(いる)也。さて船頭五六人にて帝王のみだへ至る、南海の岸の風をうくる所に洞(どう)有、それへ船を乘入(のりいるる)ゆゑ、波(なみ)入(いり)て船をゆりあくれば[やぶちゃん注:ママ。「あぐれば」であろう。]、洞(ほら)の喉(のど)にあたり船を碎(くだ)くゆゑ、舟人杓子(しやくし)のやうなるろにて波のうつ度(たび)に、洞をさゝへつゝ漕入(こぎい)る。十間斗り眞黑なる内を行(ゆき)て彌陀如來立(たた)せ給ふ。波のうつ度にひらひらと金色の現ずるを拜する也。さて船に繩を繫留(つなぎとめ)て洞の内にて舷(ふなばた)をたゝけば、外に引出(ひきいだ)す也。又三島と沼津との間にさかい川といふ跡有、昔は大河成(なる)にや、かち渡りの人足、錢を上(かみ)より給はりたる事舊記に有(あり)といへり。千貫戶樋のあなた也といへり。

[やぶちゃん注:「南山」考えるに、ここでは江戸の読者に向けて書いているのが明白であるから、現在の広義の呼称の箱根山全体(南足柄から明神ヶ岳)を言っているように思われる。「腰をめぐりて行」というのは、しっくりくるからである。

「海中より盬湯(しほゆ)湧(わき)て出(いづ)るを」現在の「大湯間歇泉」がそこである(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「靑すゝの池」「東鑑」(吾妻鏡)「に見へて古跡也」とあるが、私は通常の人よりも「吾妻鏡」を読んでいるが、こんな池の名を見た記憶はない。試みに、「国文学研究資料館」の「吾妻鏡データベース」で「池」と「沼」の全検索を総て見たが、このような固有名詞は検検索結果を総て見た限りでは(見落としがなければ)、存在しない。ご存知の方は御教授あられたい。

「帝王のみだ」これは現在の静岡県賀茂郡南伊豆町手石(ていし)にある自然に形成された海食洞「手石の弥陀窟(阿弥陀三尊)」で、ここ(サイド・パネル画像も見られたい)。現在も陸からは行けず、小型の舟でしか入ることは出来ない(私は行ったことがない)。「伊豆半島ジオパーク」公式サイトの「弥陀窟とその周辺」によれば、『弥陀窟は国指定天然記念物にも指定された海食洞で』、『周辺には海底を流れた溶岩(水冷破砕溶岩)が分布しており、弥陀窟はこの溶岩の中の亀裂に沿って浸食されてできたもので』あり、『波の静かな晴天で大潮の正午に入ると、奥の暗闇に』三『体の仏像が浮かび上がるといい』。『海上からしかアクセスできない上、潮が大きく引かないと船が入れ』ないとあって、『年に一度一般参拝客向けに舟が出』るとあった。弥陀三尊は恐らくシミュラクラと思われる。にしても、標題の「帝子孫」や、ここの「帝王の」という冠は異様で意味も判らぬ。まあ、思うのは現在の「手石」という地名が「帝子」や「帝」になって、それに訳の分からぬ「孫」や「王」がおどろおどろしい下らぬ尾鰭となってくっ付いた昔話にありがちな変容なのかも知れぬ、ということぐらいなものである。

「十間」十八・一八メートル。

「三島と沼津との間にさかい川といふ跡有」サイト「川の名前を調べる地図」で確認。これであろう。]

譚海 卷之四 西國うんかの年に肥後熊本・備前の事 附肥前天草の事

 

○天明より六拾年前、西國うんかといふ災(わざはひ)有。列國の大名の人民、餓死をまぬかれたる者少し。其中に備前と肥前島原と、肥後熊本とは餓死なかりしと也。備前はその儒者熊澤了海、三年のたくはひをこしらへ置(おき)たる米をもちて一國をすくひ、三十五萬石の内一人も窮民なかりし事也。島原は松平主殿頭(とものかみ)殿領所也、其(その)奉行其(それ)兼て一日一人一錢といふ事を工夫致し置(おき)、年來(としごろ)儲置(まうけおき)たる錢を此時に出(いだ)し、七萬石の内一人も餓死なかりし故(ゆゑ)上聞に達し、有德院(ゆうとくゐん)殿御目見被仰付(おめみえおほせつけられ)、御紋付拜領にて、今に其子孫あふひの時服(じふく)を着し、國家老にて有(あり)とぞ。熊本は細川家の領所にて、其用達町人(ようたつのちやうにん)倉田七郞右衞門有德(うとく)なるもの也しが、身上(しんしやう)を抛(なげう)ち仕送(しおくり)せしゆゑ、五拾四萬石又困窮に及ばず。仍(より)て細川殿自筆の賞狀を七郞右衞門に賜り、永々二百人扶持賜りけるとぞ。此賞狀當人の子、萱場町(かやばちやう)鄰家(りんか)出火に、燒失せしかども、今猶勤功(きんこう)をもちて每月二十金づつ合力(こうりよく)せらるゝ、右うんかの年(とし)功あるもの三人也と人のいへり。

[やぶちゃん注:「天明」一七八一年から一七八九年まで。

「西國うんかといふ」災底本の竹内利美氏の注に、『稲の害虫イナゴやウンカが異常発生して災害をもたらしたことは、しばしばあったが、特に享保十七(一七三二)年、西日本の徨害ははなはだしく、餓死者一万二千余、飢者二六五万人に及んだという。天明より約六十年前である。』とある。イナゴ(蝗)は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 𧒂螽(いなご)」を、ウンカ(浮塵子)は「生物學講話 丘淺次郎 五 生血を吸ふもの~(2)」の私の注を参照されたい。

「熊澤了海」陽明学者熊沢蕃山(ばんざん 元和五(一六一九)年~元禄四(一六九一)年)の字(あざな)の一つ。当該ウィキによれば、彼は正保四(一六四七)年から明暦三(一六五七)年まで岡山藩に出仕し、承応三(一六五四)年に備前平野を襲った洪水と大飢饉の際、光政を補佐し飢民の救済に尽力する。また、津田永忠とともに光政の補佐役として岡山藩初期の藩政確立に取り組んだ。零細農民の救済、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させた』が、『大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらし』、『また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者である蕃山は、保科正之・林羅山らの批判を受けた』(彼は幕府からも終生に亙って睨まれた)結果、致仕している。ただ、この津村の言う天明の六十年前には、彼は既に亡くなっている。或いは、彼が慶安四(一六五一)年に岡山城下の花畠にあった屋敷「花畠教場」で陽明学を講じ、「花園会」会約を起草し、『これが蕃山の致仕後の岡山藩藩学の前身となった』とあり、これは実は日本最初の藩校であったと別な記載で確認出来たので、或いは、津村の言うような備蓄制度を在藩中に蕃山が提案しており、それがその後も行われたために、後代、飢饉を免れたということかも知れないが、これはただの思いつきで、よく判らぬ。

「松平主殿頭殿」肥前国島原藩の初代藩主松平忠房(元和五(一六一九)年~元禄一三(一七〇〇)年)が知られるが、ここは以下で、藩主の功として「有德院」(徳川吉宗の戒名の院号)の「御目見」を拝し、蓄財を図った奉行の子孫は国家老であるとあるからには(吉宗の将軍就任は享保元(一七一六)年で忠房はとうに亡くなっている)、松平分家の旗本深溝松平伊行の次男で忠房の養子となった、第二代藩主松平忠雄(延宝元(一六七三)年~享保二一(一七三六)年)となる。彼も官位は忠房と同じ主殿頭である。しかし、忠雄のウィキを見ると、元禄一五(一七〇二)年から『凶作が相次ぎ、さらに元禄期の貨幣経済の浸透により農業が衰退して藩財政が悪化した。このため、長崎商人の融資を受けている』とあり、『晩年の忠雄は次第に精彩を失うようになり』、種々の事件が勃発し、『島原藩は大いに混乱した。さらに』享保一五(一七三〇)年には五十人の『百姓が逃散し』、享保一八(一七三三)年『には虫害』(☜)、翌年には『養子に迎えていた忠救の早世』し、享保二〇(一七三五)年一月には『藩内で疫病が流行するなど、不幸の連続が続いた』とあって、竹内氏が注で指示しておられる六十年前がまさにその時期に当たり、調べれば調べるほど、うまくない反証事実しか出てこないというのは、この津村の話も話半分どころか、半分以下という気がしてくるのである。いや、そもそも最後の「倉田七郞右衞門」というのも、一体、何を生業としている御用町人一人が、どうやったら、熊本藩全体の飢民を救えるというのだ? そんな豪商で義人となら、当然の如く名も残って当たり前だろうに、ちょっと調べ見ても、見当たらない(というか、前の二つでやる気をなくしたから、熱心には調べていない。もし、実在するというのであれば、御教授戴きたい。――しかし、こうなると、これ、「三大ガッカリ」という感じが、強くしてきた。

譚海 卷之四 下野國佐野にて石炭を燒事

 

○下野(しもつけ)佐野にて石炭(いしずみ)をやく事、岩に似たる柔(やはらか)なる石山(いしやま)をのみやく。さいづちにてほりくだき、長さ十五六間に山の形に積(つみ)つゞけ、その下を火のよくとほるやうにし、石をばはにつちにてべつたりとぬりかくし、終りの所へ火氣(ひのけ)のぬけるやうに穴をこしらへ、扨(さて)下には五六箇所にて火をたくやうに拵へたる物也。是をやく事三日三夜ほどして、其後(そののち)火氣收(をさま)り冷灰(ひえばい)に成(なり)たるを見定めて、かたわらなる小屋に移しはこび、灰のかたまりたる上に水をそゝげば又にえかへりて夥敷(はなはだしき)熱氣を生じ、そののちぼろぼろとくだけて灰になる事也。それをしらずして山を燒(やき)たる灰のまゝ俵(たはら)につめ、馬におはせてはこびしに、川中にて馬倒れ、俵に水ひたりてにえあがり、馬を燒殺(やきころ)した事有しとぞ。

[やぶちゃん注:ここに出る最後のそれは石灰石を焼灼して作った消石灰(水酸化カルシウム)であろう。

「十五六間」二十七~二十九メートル。

譚海 卷之四 同國相馬郡山王村にて白玉を得し事

 

○同國相馬郡山王村といふ所に、三左衞門といふものの弟、庄兵衞といふもの有。白玉をひろひて、今は辨天信仰なれば、本尊に合祀して祕藏して傳へたり。元來此玉天明それの年の夜光物ありて、此村を照(てら)し過(すぎ)たる跡に落(おと)し置(おき)たる玉也。人家の垣の境(さかひ)に落(おち)たる折節(をりふし)、其一方の主人病(やめ)る事有(あり)て、かやうの物(もの)祟(たたり)をなす、よからぬ事なりとて、垣の境なれば鄰(となり)のものよとて、鄰なる人へ讓りわたしたるに、その鄰家(りんか)の人恐れおどろきて我物とせず。さる間に此庄兵衞行(ゆき)あひて、然(しか)らば我等にその玉給へとて、貰ひ來りて祀(まつ)れる也。玉の大さ一寸計(ばかり)にして、かしらはとがりて誠に寶珠の圖の如く、色いとしろし、夜陰に書一くだりをば能(よく)てらしみらるゝ、燈をかる事なしとぞ。

[やぶちゃん注:「同國」前の「下總國成田石の事」を受けたもの。

「相馬郡山王村」茨城県の旧北相馬郡の村。現在の取手市山王(グーグル・マップ・データ以下同じ)。同地区には北の端と南の端に「山王神社」はあるが、この白玉の現存はネット上では確認出来ない。最後の辺り、何となく実在は怪しい感じだ。

「天明」一七八一年から一七八九年まで。

「それの年」とある年。]

譚海 卷之四 下總國成田石の事

 

○下總成田不動尊の近きあたりに龍光寺と云(いふ)村有(あり)。夫(それ)に四つの井(ゐ)三つの岩やといふ物あり。此井にて一村飢渴に及(およぶ)事なし。岩屋は二つならびて大なる塚の裾に有、一つは別にはなれて、同じ如く塚のすそに有。岩屋の入口の大さ壹間に九尺、厚さも八九寸ばかりなる根府川石の如きを、二つをもて扉とせり。岩屋の内皆大なる石をあつめて組(くみ)たてたるもの也。其石にみな種々の貝のから付(つき)てあり、此石いづれも壹間に壹尺四五寸の厚さの石ども也。岩屋の内六七間に五六間も有、高さも壹丈四五尺ほどづつ也。此村邊(あたり)にすべてかやうの石なき所なるを、いづくより運び集めて、かほどまで壯大成(なる)ものを造(つくり)たる事にや、由緖しれがたし。村の者は隱里(かくれざと)とてそのかみ人住(ひとすめ)る所にて、よき調度などあまた持たり。人の客などありてねぎたる時は、うつはなどかしたり、今もそれをかへさでもちつたひたるものありといへり。

[やぶちゃん注:私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 九』を参照されたい。そこで柳田は『津村氏の譚海卷四に、下總成田に近き龍光寺村とあるのは、印旛郡安食(あじき)町大字龍角寺の誤聞で、卽ち盜人とも隱れ座頭とも言うた同じ穴のことらしい』とあり、そこで私は本篇を全文電子化して、がっちり考証注をしてあるので見られたい。最後の「椀貸伝説」も、その「隱れ里」その他で柳田の考察が読める。私のブログ・カテゴリ「柳田國男」で幾つもの論文を電子化注してあるので、ご覧あれ。]

譚海 卷之四 黑田家領所にて古印を土中より掘出せし事

 

○天明五年筑前黑田家の領所にて古印を掘出したり。金印にて倭奴國王印と有(あり)、後漢光武の時日本へ贈られたるものの由、後漢書等考證明據(めいきよ)ある事とぞ。印は領主の府に納られたりとぞ、珍敷(めづらしき)事也。

[やぶちゃん注:あまりに知られたものであれば、ウィキの「漢委奴国王印」をご覧あれかし。]

譚海 卷之四 江戶駿河臺名付の事

 

○東照宮慶長の比(ころ)は駿河の城にをはしまし、臺德院殿江戶の城に御座あるゆゑ、駿河より御旗本の衆、江戶の御城番に、一年に一度づつ詰(つめ)る事也。但一日一夜の御番にて、駿河より江戶ヘ二日一泊にくる事也。三百石五百石とる人も、自身と家老二人道中せしとぞ。主人は陣羽織を着し、やなぐひをおひ、弓を持(もち)、具足櫃(ぐそくびつ)を負(おひ)て旅行す。家老は主人の着用の服一つ板二枚にてはさみ、並(ならび)に麻上下(あさかみしも)共に棒にくゝり付(つけ)、白米二三升負て供をする也。白米は二日道中の用也。江戶着の節(せつ)番頭へ屆(とどけ)れば、伊奈半左衞門殿より御番中の飯米はわたし給はる事也。いづれも着(ちやく)の日は、神田すぢかひの内に居小屋(ゐごや)有(あり)て落着(おちつき)、明日(みやうにち)交代して御番に出(いで)たるゆゑ、かしこをするがだいと云ならはしたるとぞ。

[やぶちゃん注:「臺德院殿」第二代将軍徳川秀忠の戒名の院号。

「神田すぢかひ」江戸城筋違見附跡(筋違門)附近。東北東直近が現在の駿河台(グーグル・マップ・データ)。

「するがだい」後の徳川家康の死後に、駿府の旗本を呼んで居住させたことから、この名がある。]

譚海 卷之四 信州伊奈郡水帳に記したる信長公軍役の事 附一せんきりの事

 

○信長公諸國へ軍役の人を召さるゝに、信州伊奈郡(いなのこほり)五千石の所にして、步役(ぶやく)二人上京する定(さだめ)也。其二人路用ならびに在京の入用ども、壹人に鳥目(てうもく)二百文づつ渡し遣す事なるに、五千石の内をあなぐり集(あつめ)たるに、鳥目八拾四文ならでなし。其比(そのころ)其郡にいづかたよりか浪人にて近比(ちかごろ)在住せし人有、新來の人なれば百姓の交(まじは)りには入(いら)ず、只(ただ)穴山殿と號して外人(よそびと)にあひしらひ置(おき)たるが、穴山殿こそ有德(うとく)なる人なれば、鳥目はあるらめと申定(まうしさだめ)て、莊屋(しやうや)より鳥目を借(かり)に行(ゆき)たるに、穴山鳥目四百文を出していふやう、今迄は他國の我等事(われらこと)ゆへ交にもはぶかれたれども、此鳥目を出(いだ)し申(まうす)うヘは、向後(かうご)百姓中のかしらになし給はれといひければ、百姓ら大(おほき)にいかり、たとひ拂底(ふつてい)なる鳥目を出さるゝといへども、他國の人を頭にはなしがたし、但(ただし)向後我等等配(とうばい)の交りには入(い)らるべしとて、鳥目をかりて步行(かちだち)の人を仕立(したて)上京させしとぞ。其步役六十六里の道を六日半に京へ着(つく)事にて、一日の路用錢七文程にて飮食ともに辨(わきまへ)たるとぞ。此事其郡の水帳(みづちやう)のおくにしるし有とぞ。又信長記(しんちやうき)に一錢ぎりといふ事あり、是はむかしは髪月代(かみさかやき)も自鬢自剃(じびんじてい)にして、人にゆふてもらふ事はなし、只入牢の罪人あまり長髮に成(なり)て見苦しければ、繩付(なはつき)にてあるゆゑ自剃かなひがたきまま、牢獄の番人髮をゆふてやる也。信長公在陣のせつ牢獄の番人を召して、人々の髪月代をさせられて、その報に一人に一錢づつ出す事を定(さだめ)られたり。されば牢獄の番人罪人をもやがて斬罪するゆゑ、一錢ぎりとは番人の名を呼(よび)たる事也と、土岐異仙物がたり成(なる)由。

[やぶちゃん注:「信州伊奈郡」現在の飯田市・伊那市・駒ヶ根市・上伊那郡・下伊那郡に相当し、面積は信濃国の内の郡では最大であった。郡域は参照した当該ウィキの地図を参照されたい。

「信長公軍役」天正一〇(一五八二)年、織田信長は武田氏を滅ぼし、伊奈郡を手に入れていた。

「水帳」「御図帳」の当て字で「検地帳」のこと。江戸時代には人別帳をも指したが、ここは前者。

「あなぐり」「探り」。探り求め。

「穴山殿」甲斐武田氏の家臣で御一門衆の一人で穴山氏七代当主穴山信君(あなやまのぶただ天正一〇(一五八二)年 (享年三十九歳))がおり、彼は信玄末期より仕え、勝頼の代にも重臣として仕えたが、織田信長の甲州征伐が始まると、武田氏を離反、天正十年二月末に徳川家康の誘いに乗り、信長に内応、その後、信君は織田政権から甲斐河内領と駿河江尻領を安堵された織田氏の従属国衆となり、徳川家康の与力として位置づけられている。彼及び一党を「甲陽軍鑑」その他の文献では「穴山殿手勢」「穴山衆」と名づけている。或いは、その中の下級の一人が主家を離れ、流浪の末に旧地方へ立ち戻ったものでもあったものか。但し、明白に「他國の我等」と述べている点でやや不審があるが、自らこの名を、この地で名乗っている点では、やはり「穴山衆」の者ととるべきであろう。

「一錢ぎり」小学館「日本大百科全書」を見ると、安土桃山時代の刑罰とし、織田信長や豊臣秀吉が出した戦陣の禁制にみえる語で、乱暴狼藉などを働いた者は「一銭切たるべし」と定めている。その内容については江戸時代から二説あり、その一つは新井白石の説で、「たとえ一銭(=一文)を盗んでも、死刑に処することを意味した」とし、その二は旅行家で考証家の伊勢貞丈の説で、『「切」は「限り」を意味とし、過料銭、則ち、罰金を取り上げる場合、一文までも探して全財産を没収すること』と理解している。現代においても、孰れが正しいかは一定していないが、戦国時代から安土桃山時代にかけては、戦時体制のもとで厳罰主義がみられ、特に戦陣においては規律を保つためにこのような刑罰を予告したのである、とあった(別に、斬首したその切り口が緡銭(さしせん)のそれに形状が似ているからという説もある)。しかし、ここで津村が言っているそれは、まず、罪人の髪を切る「一銭切り」で、結果、罪人はその髪を切った番人が実務として斬罪に処したから「一銭斬り」という掛詞として述べている。どうもこの津村の説は、後代の作り話ように思われる。なお、「信長記」のそれは、第一巻末の国立国会図書館デジタルコレクションの画像(元和八(一六二二)年版のここの右丁七行目に現われる。永禄十一年十月十日の制札に関わる記載で(句読点・濁点・記号を添え、漢文の部分は訓読し、カタカナを総てひらがなに代えた)、

   *

角て、信長卿は清水寺に在々(ましまし)けるが、洛中洛外に於いて、上下、みだりがはしき輩(ともがら)あらば、「一銭切り」と御定して有て、則、柴田修理亮、坂井右近將監、森三左衞門尉、蜂屋兵庫頭、彼れ等四人に仰付られければ、則、制札(せいさつ)をぞ出しける。

   *

とある。私の思ったように、底本の竹内利美氏も以下のように注されておられる。『「一銭ぎり」は「一銭剃」あるいは「一銭職」の誤りであろう。近世初期の髪結職は一人一銭(文)で月代をそり結髪したから、一銭職・一銭剃と呼んだと伝え、その職の由来に信長や家康などに付会した説話があった。そしてその後も髪結職人や床屋は、一銭職の由来記を伝存し、正統たるを示すことがおこなわれてきた。この話はその由来譚の一種が、若干変形したものだろう。というのは別に「一銭ぎり」とは、戦国期の刑罰で、たとえ一銭でも盗んだものは斬罪にして軍規を保つに努めたとか、あるい斬賃一銭で賤民に処刑をおこなわせたというからである。この二つの伝承が牢番のことに習合したらしいのである。』とあった。

「辨たる」総てを賄うようにする。

「土岐異仙」不詳。]

譚海 卷之四 土州海上難儀の事

 

○土佐國より大坂へ海上直乘(ぢきの)り甚(はなはだ)難儀也。其國の士(し)物語せしは、土佐を出(いづ)るより大坂までの船中は、中々船の内に起(おき)て居(ゐ)らるゝ事成(なり)がたし。只ふしまろびて漸(やうやう)海路(かいろ)をへる也。尤(もつとも)入坂(にゆうはん)せざる間は飮食もなしがたき程の風波也。あやうき風に逢(あひ)たる事兩度有(あり)しが、風惡敷(あしく)成(なり)て波高く成(なり)ゆけば、大船(おほぶね)は急に進退成(なり)がたきゆゑ、漕(こぎ)つれたるはし船(ぶね)に乘(のり)うつりて命をたすかる、はしぶねをこぎよせたれど、大船の際(きは)へ波高く打(うち)あてて乘移(のりうつ)りがたき時は、大船よりはしぶねに幕を引(ひき)はり、其上をすべり落(おち)て、のりうつりたる事ありしとぞ。

[やぶちゃん注:「直乘(ぢきの)り」土佐から、大きく外洋を巡って反時計回りに直行する船便ということであろう。

「はし船(ぶね)」「端舟・端艇・橋船」で清音で「はしふね」とも呼ぶ。本船に対する端船で、大型船に積み込んでおき、人馬・貨物の積み下ろしや、陸岸との連絡用として使用する小船。「はしけぶね・はしけ」も同じ。

「大船よりはしぶねに幕を引(ひき)はり、其上をすべり落(おち)て、のりうつりたる事ありし」航空機の緊急脱出スライド式の発想が既に江戸時代に普通にあったのが面白い。]

譚海 卷之四 下野相馬領妙見菩薩祭禮の事

 

○相馬家妙見(めうけん)菩薩信仰にて、其國に祠る所の大社有、妙見の眷屬なりとて馬をとる事をせず。さる間(あひだ)相馬には別(べつし)て野馬(やば)多く、田畑の害をなす事ゆゑ、每年三月廿六日妙見の祭禮とて諸士甲冑(かつちう)を帶し、隊をわけ軍陣のよそほひして、野馬を狩(かり)て山中に追(おひ)やる也。是を野馬追(のまお)ひの祭禮とて、他國になき嚴重なる儀也。又正月三日の間は、妙見菩薩の爲に潔齋精進也。四日より肉をくふ事をする也。元日は諸人みな水をあびてものいみするなり。三日迄にはのしあはびをみても、けがれたりとて水をあびつゝしむなりとぞ。

[やぶちゃん注:「相馬家」初代は鎌倉初期の武将千葉常胤の次男相馬師常で、師常が父から相馬郡相馬御厨(現在の千葉県北西部の松戸から我孫子の一帯)を相続されたことに始まるが、相馬氏は後に幾流にも分派した。その内、ここに出る、現在の福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる相馬中村神社相馬太田神社相馬小高神社(グーグル・マップ・データ。巨視的な三社の位置関係は「相馬馬追」公式サイトはこちらの右のパネルで判る)の三つの妙見社の祭礼である軍事訓練を模した神事「相馬野馬追(そうまのまおい)」は、その内の陸奥(中村)相馬氏によって守られてきた神事である。ウィキの「相馬氏」によれば、『陸奥相馬氏(中村相馬氏)は、遠祖・千葉氏が源頼朝から奥州の小高に領地を受けた後、千葉氏族・相馬重胤が移り住み、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州において、数少ない北朝方の一族として活躍した。南北朝の争乱が収まると』、『やや衰退し、室町時代後期には争っていた標葉』(しべは/しねは/しめは)『氏を滅ぼしたものの、それでも戦国時代初期には行方』(なめかた)『・標葉・宇多の』三『郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった』。『しかし武勇に秀でた当主が続き、現在の米沢や宮城県を領する伊達氏や、現在の茨城県北部を領する佐竹氏に対しても一歩も引かなかった。伊達氏とは小高と中村の双方に目を配らせて』三十『回以上におよぶ戦闘を重ね、たびたび苦杯を舐めさせている。やがて伊達政宗が現われ、南奥州の諸大名が政宗の軍門に降った時も、相馬義胤は敗れたとはいえ』、『独立を維持し、伊達氏と戦う意地を見せ』、天正一八(一五九〇)年、『豊臣秀吉の小田原征伐に際し』、『豊臣方について本領を安堵され』、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では、『縁戚の佐竹氏と共に中立』の立場をとったが、『豊臣政権時代に西軍・石田三成と親密であった佐竹義宣の弟・岩城貞隆と婚姻を結ぶなどしていたため』、『西軍寄りとみなされ、徳川家康によって改易された。しかし』、『相馬利胤は幕閣に取り入ることで本領を安堵され、近世大名(中村藩主)として生き抜くことに成功した。対照的に常陸を追放され秋田に転封された佐竹氏とは、その後も養子を送りあうなど親密な関係を維持した。結果として、陸奥相馬氏は現在の浜通り夜ノ森以北を鎌倉開府から戊辰戦争終結に至る』七百四十『年もの長期にわたって統治した』。『中村相馬氏の戦国大名としての意地を思わせる相馬野馬追が現在でも行なわれ、後世に相馬氏の勇壮さを示しているが、一説にはこれが』「繋ぎ馬紋」の『原型になったともいう』(ここには「用出典要請」がかけられてある)。この「繋ぎ馬紋」は『今日でも築土神社や神田明神など、平将門を祀る諸社で社殿の装飾などに用いられている』。『毎年、旧相馬中村藩領で行われる相馬野馬追では藩主であった相馬氏の当主が総大将の役を務めると決まっている。しかし、近年』(二〇一五年現在)『は当主の名代として当主の子が務めることが多い』。『旧相馬中村藩領は』二〇一一年の『東日本大震災で打撃を受けた上、その一部に建つ福島第一原子力発電所の事故によって小高以南が立入禁止区域となった。これに伴い、旧藩主家とその一族は一時』、『北海道へ移った後』、後代になって『広島県東部にある神石高原町へ集団移住し』ている。『相馬家の遠祖は平将門とする伝承があるが、相馬野馬追の領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている』とある。ウィキの「相馬野馬追」によれば、『鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練が一切取り締まられたが、この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた。公的行事としての傾向が強くなったのは、江戸時代の相馬忠胤による軍制改革と、相馬昌胤による祭典化以降と考えられる』。明治元(一八六八)年の『戊辰戦争で中村藩が明治政府に敗北して廃藩置県により消滅すると』、明治五年には『旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り』、明治十一『年には内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である』。『相馬氏は将門の伝統を継承し、捕えた馬を神への捧げ物として、相馬氏の守護神である「妙見大菩薩」に奉納した』。『これが現在「野馬懸」に継承されている。この祭の時に流れる民謡』「相馬流れ山」は、『中村相馬氏の祖である相馬重胤が住んでいた下総国葛飾郡流山郷』『(現在の千葉県流山市)に因んでいる』。『騎馬武者を』五百『余騎を集める行事は現在国内で唯一である。馬は一部の旧中村藩士族の農家、相馬中村神社や野馬追参加者により飼育されてはいるが、多くは関東圏からのレンタルによって集められている。で、今年の開催日程は「相馬馬追」公式サイトのこちらPDF)。なお、現在(令和二(二〇二〇)年三月十日時点)の福島県の帰宅困難地域(立ち入り禁止区域)はこちら(福島県庁版)。

「妙見菩薩信仰」ウィキの「妙見菩薩」によれば、『妙見信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである』。『妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら』、『実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されている』。『道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになったと考えられる』。『「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである』。『妙見信仰は中国の南北朝時代には既にあったと考えられているが、当時からの仏像は未だに確認されていない』。『妙見を説く最古の経典は』、「七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経」(三一七~四二〇年成立:西晋から五胡十六国期)であり、そこ『では、妙見菩薩の神呪を唱えることで国家護持の利益を得られるとされている』。『唐代に入ると』、『妙見信仰が大きく発展し、妙見関連の経典や行法が流布した。円仁の旅行記』「入唐求法巡礼行記」『から、当時の中国では妙見信仰が盛んであったことが窺える』。『妙見信仰が日本へ伝わったのは』七『世紀(飛鳥時代)のことで、高句麗・百済出身の渡来人によってもたらされたものと考えられる。当初は渡来人の多い関西以西の信仰であったが、渡来人が朝廷の政策により』、『東国に移住させられた影響で東日本にも広まった。正倉院文書』(天平勝宝四(七五二)年頃)『に仏像彩色料として「妙見菩薩一躰並彩色」の記事』が見え、また「続日本紀」(延暦一六(七九七)年完成)の巻三十四には『上野国群馬郡(現・群馬県高崎市)にある妙見寺に関する記載がある』。『北斗七星の内にある破軍星(はぐんせい)』『にまつわる信仰の影響で、妙見菩薩は軍神として崇敬されるようになった』。また、密教経典の「仏説北斗七星延命経」(唐代の成立)では、『破軍星が薬師如来と同一視されたことから』、『妙見菩薩は薬師如来の化身とみなされた』、『なお、薬師如来のほか』、『本地仏に十一面観音』『あるいは釈迦如来』『を当てる例もある』。『千葉氏が使用した九曜紋の中央の星が北極星(妙見菩薩)を表すという説』もある。『中世においては、鷲頭氏、大内氏、千葉氏や九戸氏が妙見菩薩を一族の守り神としていた。千葉氏は特に妙見信仰と平将門伝承を取り込み、妙見菩薩を氏神とすることで一族の結束を図った』ことから、『千葉氏の所領であった地域に』は『必ずと』言っていいほどに『妙見由来の寺社が見られる。千葉氏の氏神とされる千葉妙見宮(現在の千葉神社)は源頼朝から崇拝を受けたほか、日蓮も重んじた。また、千葉氏が日蓮宗の中山門流の檀越であった関係で妙見菩薩は日蓮宗寺院に祀られることが多い』。『中世初期に中国から伝来し』、『陰陽道に取り入れられた「太上神仙鎮宅七十二霊符」(「太上秘法鎮宅霊符」とも)と呼ばれる』七十二『種の護符を司る鎮宅霊符神(道教の真武大帝に比定)とも習合された。大阪府にある小松神社(星田妙見宮)では元治元』(一八六五)『年の鎮宅霊符の版木が伝わっており、現在もこの霊符が配布されている』。『妙見信仰の聖地として有名な能勢妙見山(同府豊能郡能勢町)でも鎮宅霊符神と妙見菩薩が同一視されている』。『以上に加えて、地域によっては水神、鉱物神・馬の神としても信仰された。能勢がキリシタン大名の高山右近の領地であったことと、キリシタンの多い土地に日蓮宗の僧侶が送り込まれたことから、隠れキリシタンは日蓮宗系の妙見菩薩像(いわゆる能勢妙見)を天帝(デウス)に見立てたともみられている』。『平田篤胤の復古神道においては』、記紀に『登場する天之御中主神は天地万物を司る最高位の神、または北斗七星の神と位置づけられた。その影響で、明治維新の際の神仏分離令によって「菩薩」を公然と祀れなくなってしまった多くの妙見神社の祭神が天之御中主神』(あめのみなかぬしのかみ)『に改められた』。上記三社にあった妙見菩薩像は、そのおぞましき神仏分離令により、相馬中村神社のものは福島県相馬市の歓喜寺(真言宗)に、相馬小高神社のそれは南相馬市の金性(きんしょう)寺(真言宗)に、相馬太田神社のそれは相馬市の医徳寺(真言宗)へそれぞれ移されてしまった。]

2022/04/29

譚海 卷之四 相州三浦海照燈幷城が島大蛇の事

 

○相州三浦に海照燈(かいしやうとう)有、每夜かゞり火を燒(やき)て海舶(かいはく)の便宜(べんぎ)とせらる。其薪料(まきれう)は浦賀へ海舶來(きた)る時定額(ぢやうがく)ありて運上する事也。大山迄は三浦より十六里ばかり有、然るを登山して夜中三浦の方を望めば、篝火の大さ猶(なほ)松明(たいまつ)の如くに見ゆるといへり。又三浦城の島は三浦道寸の城跡也。今は番所を立(たて)て人の住居(すみゐ)亂入を禁ぜらるゝゆへ、常時より今に至るまで草木しげりたるまゝにて、大木の朽(くち)そんじたるなど充滿せり。又竹藪ことにしげりて、年々尺にあまる廻(まはり)の竹を生ずれども、人のとる事かなはず、夜陰に竹の子など取(とり)に至れ共(ども)、うはゞみありとて人(ひと)行(ゆく)事なし。此大蛇常に見たる事はなけれども、風雨の翌日などは立(たて)うすをころがしたるやうに田畑の麥(むぎ)なびきふして、海邊(うみべ)までつゞける事をみる事時々なり、是(これ)うはばみのかよひたる跡也とぞ。

[やぶちゃん注:「相州三浦に海照燈有」古来より浦賀水道は難所だったため、江戸時代に、城ヶ島の西側の安房崎に灯明台(狼煙(のろし)台)が設置された(後にその西側に移設)。現在の安房埼灯台がその跡地である(グーグル・マップ・データ。大山を入れてある)。

「大蛇」優れた龍の博物誌サイト「龍鱗」の「島に上陸した大蛇」と、ビジュアルな「恐ろしい大蛇と武将の伝説 城ヶ島の楫の三郎山神社(三浦市)」がお勧め。]

譚海 卷之四 唐山の人尺牘加餐の字幷扁額・姓名等の事

 

○華人尺牘(しやくとく)の末に加餐と云(いふ)事を書(かく)は、華人は飯をくふて仕廻(しまはし)の一碗(ひとわん)を汁懸(しるかけ)にしてくふ事を加餐といふとぞ。又遍額[やぶちゃん注:ママ。]にも華人は自身の名をば金箔にせず、天子の御名ならでは金にせざるゆゑといへり。黃檗寺(わうばくじ)の額など、すべて額の文字は金なれども、其人の名をば赤くしておく事此類(たぐひ)なりといへり。

[やぶちゃん注:「尺牘」書状。

「加餐」「食物を加える」の意から、「養生すること・健康に気をつけること」の意であるが、現行では、多く、手紙文で相手の健康を願って用いる語として、私は使ったことはないが、生きている。近代作家の書簡でよく見かける。

「黃檗寺」ここは江戸初期に来日した明(末期)の僧隠元隆琦(一五九二年~一六七三年:本邦で没した)を開祖とする日本の三禅宗の一つである黄檗宗の寺院、或いは、その隠元が開いた京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺のことを指す。]

譚海 卷之四 市村羽左衞門芝居休みに成たる事

 

○天明四年十月十八日、市村羽左衞門(うざゑもん)芝居借金にて休み、相州小田原驛の住桐大藏(きり おほくら)といふもの桐長桐(きり ちやうきり)と改名し、葺屋町芝居興行致し、かり芝居の積りにて仰付られ、同霜月十三日より顏見せ狂言はじまる。羽左衞門木挽町森田勘彌座へ狂言助力に出たり。凡三十八年の間芝居類燒八度に及び、芝居できがたく休(やすみ)に成(なり)たり。古來より羽左衞門借金高十六萬四千四百兩に及(およぶ)といへり。同年極月森田勘彌又類燒に及び、翌五年三月より、羽左衞門事さるわか勘三郞座へ助(すけ)に出(いで)群集に至る。ふきや町芝居休み困窮に及び、家主世話にて金子をこしらへ、桐長桐座をはじめたる故、又ふきや町にぎはへり。天明四年七月中より普請はじまり、廿日の内に出來、やぐらをあげ興行に及ぶ。每日家主立合世話致し、芝居失墜格別に減少し、山師の類(たぐひ)一切懸り合(あひ)に致さゞるゆへ繁昌す。後二年もへて羽左衞門事死去せり。

[やぶちゃん注:この人物は、九代目市村羽左衛門(享保九(一七二四)年~天明五(一七八五)年)。屋号は「菊屋」、俳名は「家橘」(かきつ)。当該ウィキによれば、『八代目市村羽左衛門の長男で』、享保十六年七月、『市村満蔵を名乗り市村座で初舞台』を踏み、延享2(一七四五)年『に市村亀蔵と改名』、宝暦一一(一七六一)年三月、『伊勢参りの名目で上方へ行き、伊勢参宮の』後、『大坂に行き、中山文七座に同座して五変化の所作事などを見せ』、後、『京にも行き』、『やはり五変化の所作を上演して名を』挙げ、『同年』十一月に『江戸に戻った』。宝暦一二(一七六二)年、『父八代目羽左衛門の死去により』、『市村座の座元を相続すると同時に市村羽左衛門を襲名。しかし』、『その後』、『火事や先代からの借金に苦しめられ』、天明四(一七八四)年には、『ついに市村座は倒産』、『閉場し、控櫓の桐座に興行権を譲るに至った。その翌年、中村座の座元中村勘三郎の勧めにより』、『羽左衛門は中村座に出演し、一世一代として変化舞踊を演じたが、その』中で、「猿まわし」の猿に扮し、「娘道成寺」の『所作事を演じ』、『同年』八『月に没』した。彼は、若い頃は、『魚のような顔つきだと評され』、『荒事ばかりを演じていたが、のちに和事や実事、また女の役も演じるようになり、八代目に劣らず』、『幅広い芸風を誇った。特に所作事においては』、『名人との評判を得ている。子に十代目市村羽左衛門が』おり、市村座を一度は復興している。「桐座」については、ウィキの「江戸三座」の「本櫓と控櫓」を参照されたい。]

譚海 卷之四 豐前宇佐石佛五百羅漢・石橋等の事

 

○豐前宇佐八幡宮より六里脇に、五百羅漢といふ山有。山中悉く石佛を等身に鏡刻せしもの充滿せり、三千體に餘れりとぞ。五百羅漢の外に諸佛の像を拵へて山中、露地に立てあり。又座頭佛と云有、中央に琵琶法師坐せり、其前後に座頭二十人ばかり坐したる所を拵たり。前より見、後より見ても、顯然たる座頭のやう也。此山の入口甚(はなはだ)峻(けはしき)坂にて、はひのぼらねば登りがたし。五六間もはいのぼれば立(たち)てゆかるゝやうに成(なる)也。山中に十間斗りの石橋(しやくきやう)有、是は自然の物也、幅三四尺斗りにて深谷(ふかきたに)へ懸りて有(あり)、尋常に渡りがたし、恐しき事いふばかりなし。

[やぶちゃん注:宇佐の五百羅漢というと、東光寺五百羅漢が知られる(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。但し、ここは宇佐八幡宮の北北東三キロ弱の直近であり、参謀本部の明治三一(一八九八)年測図・昭和七(一九三二)年修正の地図を見ても、ここが山であった感じはなく、あっても小山で、そもそもが、ここの五百羅漢は安政六(一八五九)年に建立が始まったもので、本「譚海」は寛政七(一七九五)年完成だから、全く、違う。距離と羅漢と嶮しいという点から、これは大分県中津市本耶馬渓町にある国内の羅漢寺の総本山である曹洞宗耆闍崛山(ぎじゃくっせん)羅漢寺である。当該ウィキによれば、『羅漢山の中腹に位置する。岩壁に無数の洞窟があり、山門も本堂もその中に埋め込まれるように建築されている。洞窟の中に』三千七百『体以上の石仏が安置されており、中でも無漏窟(むろくつ、無漏洞とも)の五百羅漢は五百羅漢としては日本最古のものである』とあり、延元二(一三三七)年乃至は北朝年号暦応元(一三三八)年、臨済僧『円龕昭覚』(えんがんしょうかく)『が当地に十六羅漢を祀ったのが』、『実質的な開山で』、『この時の寺は、現羅漢寺の対岸の岩山にある「古羅漢」と呼ばれる場所にあったと推定されている』。延元四(一三三九)年には『中国から逆流建順という僧が来寺し、円龕昭覚とともにわずか』一『年で五百羅漢像を造立したという』とある。リフトがあるくらいだから(前に掲げた地図のサイド・パネルの画像を見よ)、かなり険峻。因みに「古羅漢」の方の写真を見ると、これはもう嶮しいなんてものじゃない。この鎖場は流石に山馴れしている私でもちょっとキョウワい!

「座頭佛と云有、中央に琵琶法師坐せり、其前後に座頭二十人ばかり坐したる所を拵たり」不詳。

「山中に十間斗りの石橋有、是は自然の物也」不詳。]

譚海 卷之四 藝州嚴島明神鳥居雷火に燒亡せし事

○安藝嚴島明神の鳥居海中に建(たち)たる、高さ八間橫十三間有、銅にて包(つつみ)たるもの也。領主松平安藝守殿造進ありし物なるが、天明年中より十四五箇年以前雷火のために燒亡せり。雷(かみなり)鳥居の上に落(おち)て笠木のわたりをころげありきたる程に、其外とほり銅に透(すけ)りて、眞(まこと)の木より燒出(やけいで)せしとぞ。

[やぶちゃん注:「高さ八間橫十三間」高さ十四メートル半、横(笠木の先から先までであろう)二十三・六三メートル。現在の明治八(一八七五)年再建のものは、棟の高さ十六・六メートル、柱間幅で十・九メートルである。

「領主松平安藝守」安芸国広島藩第二代藩主浅野光晟(みつあきら 元和三(一六一七)年~元禄六(一六九三)年)か。彼は家康の外孫であったことから、松平姓を許され、初めて「松平安芸守」を名乗っている。

「天明年中」一七八一年~一七八九年。

「其外とほり銅に透りて」「その外」の部分にも電撃が「通り」、包んであった「銅」に通電してしまい。]

譚海 卷之四 同國兵庫湊繁昌の事

 

○攝州兵庫の湊は、大坂にこえたる繁昌の地也。そこの北風やといふ問屋は、和泉のめし左太郞と攝州かうべの俵や彥右衞門と云ものの問屋也。米舶(こめぶね)入津(にふしん)の日は一日に二三千兩程づつ仕切を出す。金銀をとりあつかふおびたゞしき事、外の湊になき事也。すべて兵庫は裏借屋住居(うらしやくやずまゐ)する者までゆたかにて、貧(ひん)なる體(てい)見えず、めでたき所也。

[やぶちゃん注:「同國」前の「同所ゆは海の藻を取て紙を製する事」及びその前の「播州池田酒造る水の事」を受けたもの。

「北風や」兵庫県の旧家北風家(きたかぜけ)は、当該ウィキによれば、『伝説によれば古代から続く歴史を持つ』とあり、『北風家は江戸時代、主要』七『家に分かれ、兵庫十二浜を支配した』。『江戸時代、河村瑞賢に先立ち』、寛永一六(一六三九)年、『加賀藩の用命で北前船の航路を初めて開いたのは一族の北風彦太郎である。また、尼子氏の武将山中幸盛の遺児で、鴻池家の祖であり、清酒の発明者といわれる伊丹の鴻池幸元が』慶長五(一六〇〇)年、『馬で伊丹酒を江戸まで初めて運んだ事跡に続き、初めて船で上方の酒を大量に江戸まで回送し、「下り酒」ブームの火付け役となったのも北風彦太郎である。さらに、これは後の樽廻船の先駆けともなった。なお、北風六右衛門家の』「ちとせ酢」『等の高級酢は』、『江戸で「北風酢」と呼ばれて珍重された。また、取扱店では』「北風酢颪 きたかぜすおろし」という『看板を出す酢屋もあったという』。『俳人与謝蕪村の主要なパトロンが』第六十三『代北風荘右衛門貞幹』(さだとも)『である。貞幹は無名時代の高田屋嘉兵衛』(江戸後期の廻船業者・海商。淡路島生まれ。兵庫津に出て、船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出、国後島・択捉島間の航路を開拓して、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献した。「ゴローニン事件」(文化八(一八一一)年に千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンらが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約二年三ヶ月間、日本に抑留された事件)でカムチャツカに連行されたが(ロシア側が交渉を有利に展開させるために拿捕されたもの)、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた人物として頓に知られる)『を後援したことで』も『知られる』。『また、幕末から明治にかけての当主・北風正造』(第六十六代荘右衛門貞忠)『は、表向き』、『幕府の御用達を勤めながら、勤王の志士側について百年除金・別途除金』(寛政八(一七九六)年以降、代々の主人が、個人の剰余金を、居間と土蔵の二つの地下秘密蔵に貯め、六十万両以上あったとされる)『の資金と情報を提供、倒幕を推進』し、『明治に入って』から『は、初代兵庫県知事伊藤博文の』下、『国事・県政に尽力した』とある豪商である。

「めし左太郞」「飯左太郞」私の『「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神』に、『予幼かりし時亡母つねに語りしは、厠を輕んずるは禮に非ず、昔し泉州の飯(めし)と呼ぶ富家は、其祖先が元旦雪隱の踏板に飯三粒落たるを見、戴いて食ひしより打ち續き幸運を得て大に繁昌に及べりと、平賀鳩溪實記卷一三井八郞右衞門源内へ對面の事の條、源内の詞に、「是の三井家は誠に日本一の金持にして、鴻池抔よりも名譽の家筋也云々、凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」と有る飯氏なるべし、是れも厠を敬せしより其神幸運を與えし[やぶちゃん注:ママ。]とせしならん』と出る。

「俵や彥右衞門」不詳。]

南方熊楠「今昔物語の硏究」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版)公開

南方熊楠「今昔物語の硏究」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・2.63MB・49頁)「心朽窩旧館」に公開した。

2022/04/28

甲子夜話卷之七 2 婦女の髮結樣、時世に從て替る事

 

[やぶちゃん注:今回は、余りにも多くの読みを注せねばならず、煩瑣なので、本文に特定的に読みを底本の東洋文庫にないものは(原本の読みのルビは存在しない)、推定で入れ込み、記号も挿入した。

 

7-2 婦女の髮結樣(かみゆひやう)、時世に從(したがひ)て替(かは)る事

婦女の髮結ふに、「鬢(びん)さし」迚(とて)頭髮の中にさすもの、予が幼少の頃迄は無(なか)りし。全く豔冶(えむや)の爲に設(まうけ)たる也。但(ただし)諸侯大夫士などの婦人は左有(さある)べきが、以前は娼妓(しやうぎ)の類(たぐゐ)まで「鬢さし」は無きなり。予十餘年前か、髮樣(かみざま)を古風に復(ふく)したく、侍女の輩(やから)に申付(まうしつけ)たるが、「今にては『鬢さし』なくては髮は結(ゆは)れず」と云ゆゑ、予と同齡なる老婦に、「以前は何にして結たるや」と詰(なじり)たれば、「某(それがし)もむかしを顧るに何にして結(ゆひ)たるか、今にては老髮(おひがみ)の少(すくな)きも、彼(かの)物無(なく)ては結(ゆひ)申されず」迚(とて)さて止(やみ)ぬ。又今の「鬢つけ油」と云(いふ)ものも、幼少の頃はなく、草を【「ビナン蔓」。所謂「五味子(ごみし)」なり】水に漬(ひた)し其汁にて結たり。このこと貴人計(ばかり)にもなく、部屋方、婢(はしため)迄皆然り。因(よつて)貴上(きじやう)には「鬘竪(かづらたて)」、「鬢水入(びんすいいれ)」とて有(あり)て、「鬘竪」には「五味子」の莖を截(きり)て立て、「鬢水入」には水をいれ、莖を漬して櫛を納(い)れ、これにて髮を梳(すけ)るなり。故に貴上の品は、黑漆に金銀の蒔繪にし、卑下のは竹筒に、淺ましき陶器の水入(みづいれ)にて、婦女も必(かならず)この物を持(もて)り。今は絕(たえ)て其品を見ることさへ無く、稀には蒔繪のもの抔(など)骨董肆(こつとうし)に見るのみ。又油(あぶら)と謂(いふ)ものも、以前は硬き「棒油(ぼうあぶら)」と云(いふ)計(ばかり)にて、「伽羅(きやら)の油」、「くこの油」、「すき油」、「ぎん出(だし)」と云(いふ)類(たぐゐ)は、皆予が幼少のときは無りし。又今の如く「鬢さし」入(いるる)る故は、以前は髮を額へかき下げて、あとにて髮の根結(ねゆひ)をなしたる也。夫(それ)を伊達(だて)に爲(せ)ん迚、「髮指(かみさし)」を入(いれ)たる故、如ㇾ今(いまのごとく)上(うへ)へ擧りたる也。因(よつて)試(こころみ)に今も「鬢さし」を拔(ぬき)て見れば、やはり髮の風(ふう)はむかしの如く成る也。又往古は髮は結(ゆは)ずして、天然のまゝ下(さ)げ置(おき)たるなり。既に舞(まひ)など爲(せ)んとするには、頭(かしら)の振囘(ふるまは)し不自由と見へて、古畫に白拍子(しらびやうし)、曲舞(くせまひ)などの體(てい)は、何(いづ)れも下髮(おろしがみ)のもとを結(ゆひ)てあるなり。靜(しづ)が賴朝卿の爲に、鶴岡(つるがをか)にて白拍子をせしこと「義經記(ぎけいき)」に見へしにも、靜、長(たけ)なる髮を高らかに結(ゆひ)あげと見えたり。是は臨時の仕方なるべし。前に云(いふ)如く油なきゆゑ、髮は下置(さげおき)ても衣服けがれず。今にて下置ては油にて衣類よごるゝ故、卑下等(ひげら)は是非なく上に結ぶ。是自然の理なり。北村季文が云(いひ)しは、古代の婦女は、髮下(さが)りて働(はたらく)に邪魔と見へて、卑賤なる者の體(てい)は、下(さが)りたる髮を上衣(うはぎ)の下(した)に入れてある容(やう)すなりと。さすれば働も自由なり。是等を以ても、如ㇾ今(いまのごと)く髮を揚げ油(あぶら)を用(もちひ)る、亦自然のことにぞあるべき。

■やぶちゃんの呟き

「鬢(びん)さし」「鬢差し」。江戸時代、女性が髪を結う際に、鬢の中に入れて、左右に張り出させるために用いた道具。鯨の鬚や針金などを用いて細工し、弓のような形に作ってあった。上方では「鬢張り」と称した。「精選版 日本国語大辞典」の「鬢張」の挿絵を参照されたい。

「豔冶(えむや)」現代仮名遣「えんや」。「艷冶」に同じ。なまめいて美しいこと。

「詰(なじり)たるに」詰問したところが。若い下女たちでは、まるで話にならないので、ちょっとじれったくなって、ちょっときつめな感じで質してしまったのである。

「さて止(やみ)ぬ」「扨(さて)、止みぬ」か。しかし、どうも「扨」ではしっくりこない。一読した際、私は「沙汰(さた)止みぬ」の誤字か、誤判読ではないかと疑った。この場合の「沙汰」は「髪型を嘗つての古風なものに結い直そうとする目論見」である。

「鬢つけ油」「鬢付油」。髪の乱れるのを防ぐために用いる練り油で、蠟(ろう)と油とを、固く練り合わせ、香料を加えたもの。元祿(一六八八年~一七〇四年)頃から用いられた。単に「びんつけ」とも呼んだ。

『「ビナン蔓」。所謂「五味子(ごみし)」』被子植物門アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科サネカズラ属サネカズラ Kadsura japonica 。常緑蔓性木本の一種。当該ウィキによれば、『単性花をつけ、赤い液果が球形に集まった集合果が実る。茎などから得られる粘液は、古くは整髪料などに用いられた。果実は生薬とされることがあり、また美しいため観賞用に栽培される。古くから日本人になじみ深い植物であり』、「万葉集」にも、多数、『詠まれている。別名が多く』、『ビナンカズラ(美男葛)の名があ』り、『関連して鬢葛(ビンカズラ)』、『鬢付蔓(ビンズケズル)』、『大阪ではビジョカズラ(美女葛)と称したともいわれる』とあり、具体な精製法は、茎葉を二『倍量の水に入れておくと粘液が出るので、その液を頭髪につけて、整髪料として利用』した。既に『奈良時代には、整髪料(髪油)としてサネカズラがふつうに使われていたと考えられて』おり、それは、『葛水(かずらみず)、鬢水(びんみず)、水鬘(すいかずら)とよばれた』、『また』、『サネカズラを浸けておく入れ物を蔓壺(かずらつぼ)、鬢盥(びんだらい)といったが、江戸時代には男の髪結いが持ち歩く道具箱を鬢盥というようになった』とある。また、『赤く熟した果実を乾燥したものは』、『南五味子(なんごみし)と』呼ばれ、生薬とし、『鎮咳、滋養強壮に効用があるものとされ、五味子(同じマツブサ科』マツブサ属チョウセンゴミシ Schisandra chinensis』『の果実)の代用品とされることもある』。但し、『本来の南五味子は、同属の Kadsura longipedunculata ともされる』とある。

「貴上(きじやう)」上流階級。但し、ここは武家・公家のそれではなく、裕福な町方の者の謂いであるようだ。

「鬘竪(かづらたて)」「立髮鬘」(たてがみかつ(づ)ら)。通常は立髪(月代(さかやき)を剃らずに長く伸ばした髪形を言うが、ここは、以下から、そのように成形するための固定サネカズラの茎材のようである。

「鬢水入(びんすいいれ)」鬢水(鬢のほつれを整え、艶を出すために櫛につける水。音に出る伽羅の油や上記のサネカズラを浸した水を用いる)を入れる金属・塗物・瀬戸物などで出来た器。長さは十五センチメートル、幅五センチメートル、深さも五センチメートル程の小判型をしていた。「鬢付入」とも言う。

「淺ましき」見栄えの悪い。

「骨董肆(こつとうし)」骨董屋。

「棒油(ぼうあぶら)」不詳。上記の「鬘竪(かづらたて)」の茎材を指すか。

「伽羅(きやら)の油」鬢付油の一種で、胡麻油に生蠟(きろう)・丁子(ちょうじ)・白檀(びやくだん)・竜脳(りゆうのう)・麝香(じやこう)等の香料を配合したもを加えて練ったもの。近世初期に京都室町の「髭の久吉」が販売を始めたという(なお、本来の「伽羅」は香木の一種で、「伽羅」はサンスクリット語の「黒」の漢訳であり、一説には香気のすぐれたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。別に催淫効果があるともされた)。

「くこの油」「枸杞の油」か。但し、実際の双子葉植物綱ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense からは有意に多量の精油成分は採取されないようであるから、胡麻油辺りにクコの実を混じて赤く着色したものかも知れない。

「すき油」「梳き油」。髪を梳き用の固形の油。胡麻油又は菜種油に生蝋蠟・香料などを加えて、堅く練り合わせたもの。

「ぎん出(だし)」「銀出し油」。上記のサネカズラの蔓の皮を水に浸し、強く粘りをつけたもの。光を反射して銀色の照りが出るので「銀出し」であろう。こちらは、普通は男性の鬢付け油に使用された。

「髮指(かみさし)」「髮揷」で簪(かんざし)の本来の発音。但し、この場合は、それを挿入することで、髪型全体が高くなるようなそれを指している。

「白拍子(しらびやうし)」平安末期に起こり、鎌倉時代にかけて盛行した歌舞及びその歌舞を生業とする舞女芸能者を指す。名称の起源は、声明道(しょうみょうどう)や延年唱歌(えんねんしょうが)、神楽歌の白拍子という曲節にあるとか、雅楽の舞楽を母胎にする舞いにあるといった諸説がある。「平家物語」では鳥羽天皇の御代に「島の千歳(せんざい)」と「和歌の前」という女性が舞い始めたとあり、「徒然草」には信西が「磯の禅師」という女に教えて舞わせたとある。ここに出る「静御前」は、この「磯の禅師」の娘ともされる。また、平清盛の寵愛を得た「祇王」・「祇女」・「仏御前」、頼朝や政子の侍女で平重衡との悲恋で知られる「千手の前」、後鳥羽天皇の寵姫亀菊などは、孰れも白拍子の名手として知られている。白拍子では「歌う」ことを「かぞえる」と称し、今様・和歌・朗詠などのほか、「法隆寺縁起白拍子」のような寺社縁起も歌った。伴奏は扇拍子・鼓拍子を用い、水干・烏帽子・鞘巻(鍔のない短刀)姿で舞ったので、「男舞(おとこまい)」とも言われた。白拍子の舞は、後の曲舞(くせまい)などの芸能に影響を与えたほか、能の「道成寺」ほかにも取り入れられ、その命脈は歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」などに連綿と受け継がれていった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「曲舞(くせまひ)」室町初期におこった舞踊で、散文的な詞章を謡いながら舞うもの。常の衣装は折烏帽子に直垂で、稚児曲舞・女房曲舞では立烏帽子に水干。楽は鼓で、舞うのは通常一人であった。祭礼や宴席に招かれた。嘉吉年間(一四四一年〜一四四四年)には、そ一派から「幸若舞」が起こり、織田・豊臣・徳川三代の保護を受け、発展した(旺文社「日本史事典」に拠った)。

「體(てい)」「風體」(ふうてい)。

「鶴岡にて白拍子をせし」「義經記」を出す前に「吾妻鏡」の文治二 (一一八六) 年四月八日の条を示すのが順序であろう。私の十年前の渾身の注のある「北條九代記 義經の妾白拍子靜」で臨場感を味わって戴ければ、これ、幸いである。

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「林泉雜稿」

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「林泉雜稿」

[やぶちゃん注:底本のここ(「一 憂欝なる庭」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。]

 

      林泉雜稿

 

 一 憂欝なる庭

 

 春になつてから庭を毀《こは》すことが最初の引越しの準備であるのに、一日づつ延期してゐるうちに芽生えが彼處此處に靑い頭を擡げ、一日づつ叡山苔の綠が伸びて行き、飛石のまはりに美しい綠を埋めてしまうた。樹や飛石、石手洗なども國の庭へ搬ばねばならなかつたが、芽の出揃うた鮮かさにはどうしても壞す氣にならなかつた。愛情といはうか、執着と言つたらいいのか、ともかく自分は一日づつ延期しながらも、早く庭の物の始末をつけたい氣持を苛立たした。隅の方にある離亭も取毀して送らねばならなかつたが、大工や人夫の入亂れる有樣、切角の芽先を踏みにじられることを思うて見ても、直ぐ取毀ちの仕事にかかる氣を挫かれ勝ちだつた。國の方の庭にこの離亭を移すと、國の俳人が月に一囘ある筈の運座の句會に此離亭をつかふことになつてゐた。大工等もその事で人を仲に入れて問合せて來たりしてゐるものの、氣乘りのしない幾らか悒欝になつた自分は、春雨の美しく霽(あが)つた叡山苔の鮮かさに見惚れながら、すぐ運送の手順に取懸かれさうもなかつた。

 自分は茲二年ばかりの間に「庭」を考へることに、憂欝の情を取除けることができなかつた。或時は自分の生涯の行手を立塞がれるやうな氣になり、或時はさういふ考へを持つときに、何か後戾りをする暗みの交つた氣持を經驗するのだ。愛する樹樹や、石のすべてが何か煩さく頭につき纏うて、夜眠つてゐても其眠りをさまたげられるやうで不快だつた。自分は心神の安逸を願ふときには努めて草木庭園のことを考へないやうにしてゐた。自分は頭の痛む午後や、變に昂奮してゐる時などに、石や草木の幻のやうなものに取つかれ、腦に描く空想を一層手强く締めつけられて來るのだつた。夢にうなされ晝は晝で疲れ、草木や石はそれぞれに何か宿命や因緣めいた姿で纏ひつき、銳い尖つた枝枝が弱つた神經に障つてくることも珍しくなかつた。自分はかういふ境涯から離れたい爲に、つとめて自然の中に、庭庭のまはりに近寄らないようにしてゐた。

 併し自分のさういふ息苦しい思ひの中でも、習慣になつてゐるのか何時の間にか庭の中に出て、樹や石を愛し弄ぶの情を制することができなかつた。頭の痛むなかに仲びて尖端を觸れて來る樹樹の姿は、一層親密な運命的な勢力を自分の肉體の中にも揮ひ、自分は傷ついた氣持で殆ど引摺られるやうな狀態で、これらの樹木や石に對ふより外はなかつた。。かういふ珍しい氣持はあり得るものであらうか。

[やぶちゃん注:「叡山苔」ヒカゲノカズラ植物門 Lycopodiophytaミズニラ綱イワヒバ目イワヒバ科 Selaginellaceaeイワヒバ属イワヒバ亜属StachygynandrumクラマゴケSelaginella remotifolia の異名。標準和名の漢字表記は「鞍馬苔」であるが、この叡山苔の他にも「愛宕苔」「瓔珞苔」の異名がある。当該ウィキによれば、『時に栽培されることがあ』り、『単体での鑑賞価値には乏しいが、土の表面を覆うのに苔を育てるのと同じ』ように扱え、『普通の苔より枝葉がはっきりしていて』、『模様のようになるところがおもしろい。栽培は難しくない』とある。但し、『近縁種に姿のよく似た種が多く、クラマゴケという名称はそれらの総称としても使われる』とあるので、本種に限定することは出来ない。類似する近縁種はリンク先を参照されたい。]

 

  二 「童子」の庭

 

  自分が此家に越してから八年ばかりになり、三人の愛兒を得、その一人を最初に亡くしたのも此家だつた。自分の亡兒を想ふの情は五篇の小說と一册の詩集になるまで哀切を極めたものだつたが、併し誠の愛情には未だ觸れるに遠いやうな心持だつた。自分は「童子」といふ小說の中に可憐な一人の童が、夕方打水をした門のあたりに佇んで、つくづく表札の文字を讀むあたりから書き始め、時を經て、「後の日の童子」といふ作の中には、到底何物にも較べがたい自分の每日の物思ひの中に、何時の間にか生きて一人の童子となつた彼を描いて、殆ど書き疲れ飽きることはなかつた。亡兒の事を書くことはそれ自らが、愛情の外のもので無いため、書くことに依つて濃かな愛情のきめを感じるのだつた。

  自分は二十篇餘りになる詩をつくり、寧ろ綿綿たる支那風な哀切を盡したのも、その亡兒への心殘りの切なることを示したものだつた。亡兒と「庭」との關係の深さは「庭」 へ抱いて立つた亡兒の悌は何時の間にか竹の中や枇杷の下かげ、或は離亭の竹緣のあたりにも絕えず目に映り、自分を呼び、自分に笑ひかけ、自分に邪氣なく話しかけ、最後に自分の心を搔きむしる悲哀を與へるものだつた。或日の自分は埒もなく疊を搔きながら死兒を慕ふの情に堪へなかつたのである。

 さういふ「庭」は自然に自分の考へをも育てる何者かであり、その何者かを自ら掃き淸めることは喜びに違ひなかつた。自分はさまざまな樹木や色色な花の咲く下草、亡兒の通ふ小さい徑への心遣りをする爲、冷たい動かぬ飛石を打ち、其處に自身で心を待設《まちまう》けるところの淺猿《あさま》しい人生の「父親」の相貌を持つてゐた。單なる樹木は樹木でなく「子供」に關係した宿緣的なものだつた。庭を掃淸めることは彼ヘの心づくし、彼への供物、彼へのいとしい愛情、彼への淸い現世的な德と良心の現れだつた。自分は老いて用なき人のやうに庭に立ち、石を濡らし樹樹の蟲を捕除《とりのぞ》いたりするのだつた。事實自分の妙に空想的になつた頭の内部には、それらの庭の光景は亡き愛兒の逍(さま)よふ園生《そのふ》のやうに思はれ、杖を曳いた一人の童子を何時も描かない譯にはゆかなかつた。自分の悲むで鶴の如く叫ぶ詩の凡ては每日その一二枚あてづつの原稿紙に書かれて行き、自分が初めて詩の中に分身を見、詩中に慟哭したのも稀な經驗だつた。

 その詩や小說の中にある自分の悲哀とても、本當の突き詰めた氣持の中では到底さういう藝術的な表現では訣して滿足されるものではなかつた。藝術の樣式は遂に藝術以外のものでないところに、未練深い現世的な自分の愛慕が低迷してゐた。

 自分が天上の星を見直し或は考へ直したのも、その悲哀の絕頂にゐた頃だつた。深い彎曲された層の中にある生涯的な悲哀は、每日自分に思ふさま殆ど人間の悲哀性の隅へまで苦苦《にがにが》しく交涉し、「烟《けぶ》れる私」をつくり上げるのだつた。顏の色の益益惡くなつた自分は決して笑ふといふことを、何物かに掠め奪はれてゐたも同樣の空しさで、自ら烟れる如き凄しい顏容をしてゐた。

[やぶちゃん注:「愛情」は底本では(ここ)傍点「●」である。

「その一人を最初に亡くした」室生犀星は大正八(一九一九)年十月に田端に移り、二年後の大正十年五月に長男豹太郎が生まれたが、翌年の六月に豹太郎は亡くなってしまった。その年の十二月に京文社から刊行した「忘春詩集」は事実上、亡児への追悼作品集であった。

「童子」大正十二年一月に京文社から刊行した作品集「萬花鏡」に亡児を題材した小説「童子」があるが、ここに書いたのと同じシークエンスは冒頭や作中にはない。寧ろ、私は前の「忘春詩集」に収録された詩「童子」が思い出される。国立国会図書館デジタルコレクションに同詩集があり、当該詩篇はここ。ややスレがあって読み難いので、以下に電子化しておく。

   *

 

童 子

 

やや秋めける夕方どき

わが家の門べに童子(わらべ)ひとりたたづめり。

 

行厨(うちかひ)かつぎいたく草疲れ

わが名前ある表札を幾たびか讀みつつ

去らんとはせず

その小さき影ちぢまり

わが部屋の疊に沁みきゆることなし。

 

かくて夜ごとに來り

夜ごとに年とれる童子とはなり

さびしが我が慰めとはなりつつ……

 

   *

この「行厨(うちかひ)」とは背負子型になった弁当箱で、「草疲れ」は「くたびれ」と読む。

「後の日の童子」は大正一二(一九二三)年二月号『女性』に初出された小説であるが、上記の詩篇「童子」のシークエンスが冒頭に配されてある(同作は「青空文庫」のこちらで読める。但し、新字新仮名)のだが、或いはその辺りを作者自身が混同したものかとも思われる。そうだとしても、そこには寧ろ、未だ癒えぬ豹太郎への彼の感懐が読者にもしみじみと沁み渡ってくるような気がする。]

 

 三 季節の痴情

 

 自分は決して値の高い植木や石を購うた譯ではなかつた。寧ろ若木を育てた位で、高價な大物は植ゑなかつた。些し許りの詩の稿料や他の小使錢を四季折折に使つた外は、殆ど餘財を傾けることはしなかつた。貧しいその日暮しの中から集めたものだから、賣ることになれば端錢にもならなかつた。と言つて此儘他人に讓り渡す氣にもなれなかつた。何故かといへば自分の愛園だといふ名目にしては餘りに貧しい木石の類だつた。せめて相應の石一つくらゐでもあればいいが、雜石をつかつた庭を他人に手渡すことは、末代までの名折であり、さういふ恥を殘すよりも一草一石の端にまでも原形無きまでに取毀《とりこは》すことが、本統[やぶちゃん注:ママ。]の自分の氣持だつた。

 若し愛してくれる人があれば、この儘讓り渡してもいいと考へたこともあるが、後に殘ることを考へると憂欝になり、矢張り壞すことに心を訣めるのだつた。それが自分の一つの德義でもあり良心でもなければならなかつた。自分を訪ねたことのある人人の眼に殘つてゐる小さな庭、庭らしい風致の中にある自分が、それ以上にその人人へ呼びかける必要はなかつた。潔く取毀《とりこぼ》つて又新しく移らなければならない――。

 自分が此庭を考へたことの最も烈しかつたのは、震災後一年を故鄕の山河に起居してゐる時であつたらう、その時は庭なぞいらない氣持だつたが、安つぽい鄕里の貸家には砂礫が土に雜つてゐて、何を植ゑても根をおろすことがなかつた。柔かい黑土のある東京の庭を思ひ出したのは寧ろ不思議な思ひ掛けない切ない氣待だつた。自分は家の者に何かの序に季節ごとに庭の話を繰り返しては話出し、殆ど見るに耐へない庭があれ程心に殘つてゐることは、意想外な氣持であつた。

 歸京して見た昔の庭は庭のままだつたけれど、愛情は昔に倍してゐると言つてよかつた。彼等は穩かだつたし又靜かさは一入《ひとしほ》深かつた。自分の最初に氣のついたことは庭の全面に漂ふ憂愁の情だつた。主人なくして過した一年の間に、彼等は茫茫たる十年の歲月を負うてゐる荒涼を持つてゐた。それは人間的な愛情だと言つていい位の靜かな重い荒れ樣だつた。自分が彼らの間に立つたときに自分を締めつけるものの多くを感じ、囁くものの哀切を經驗するのだつた。自分は僅かな一草の芽生えの中にも自分が六七年近く愛した情痴を感じた。全く庭を愛することも、文に淫することも凡て情痴に近いものだつた。さう言つても解り兼ねるかも知れぬが、實際人間同士の情痴以上の、重いものに心を壓せられることは愛する女以上の痴情に似たものだつた。自分が彼等の世界に住むことに頭を痛め心を暗くしたのも、それらが最早苦痛に近い樂しみであることも、やはり淸淨であるために憂欝になる情痴の表れに違ひなかつた。

[やぶちゃん注:犀星は大正一二(一九二三)年の関東大震災に田端で被災直後の十月に一家をあげて金沢に引き揚げ、上本多町川御亭(かみほんだまちかわおちん)三十一番地に落ち着いた。大正十四年十月には金沢市小立野(こだつの)にある曹洞宗の天徳院(被災後にここに滞在していた)の境内に土地を購入し、庭作りに熱中したりしていた。]

 

 四 田端の里

 

 自分は殆ど庭の中に隈なきまでに飛石を打ち、矢竹を植ゑ、小さい池を掘り、鄕里の磧にある石を搬び、庭は漸く形をつくつて行つたが、間もなく鄕里にも庭をつくりかけた關係上、鄕里の方にも庭木を送らなければならなかつた。さまざまな煩雜さに疲れた自分は一層此庭を壞し、庭のない貸家に引移りたい望みを持つやうになつてゐた。何故かといへば恣《ほしいまま》に庭のある家に居ればそれに頭をつかふことは當然なことであるから、一層庭のないところに行けば諦めもするし、樹や石を弄ぶことも自然なくなるであらう、さういふ考へで何處かに荷物の全部を預け一家こぞつて旅行に出る計畫をたてたのであつた。併し自分の執着はすぐに庭を毀す決心はしてゐても實行は益益遲れがちになつてゐた。

 自分が此田端に移つてから既《も》う十年になるが、「江戶砂子」にある生薑《しやうが》の名所である田端の村里は文字通りの田舍めいた靑靑しい生薑の畑と畑の續いた土地だつた。根津の町へ出て藍染川となる上流は田端の下臺《しただい》にあつたが、音無瀨川《おとなせがは》と呼ばれてゐた。名に負ふ煤と芥の淀み合ふ音の無い小川であつたが、それでも今の谷田橋《やたばし》附近は大根や生薑の洗ひ場になつてゐて女等の脛も見られる「江戸砂子」の風俗と俤《おもかげ》とを昔懷かしく殘してゐた。今の神明町車庫前あたりから上富士《かみふじ》への坂の中途迄、秋風の頃はざわめく黍畑《きびばたけ》や里芋の畑の段段の勾配をつくり、森や林も處處に圓い丘をつくつて見えてゐた。小川や淸水の湧く涼しい林もあつたが、今は待合や小料理屋が町家《まちや》を形づくり、昔の武藏野の風情は殆ど何處にも跡をとどめてゐなかつた。

 それでも音無瀨川の溝石の仄《ほの》ぐらい濕りには、晚春初秋の宵などに蛙の啼く聲も聞かないではなかつたが、若い椎の植木畑や生薑の畑には昔のやうな螢の飛び交ふ微《かすか》な光りさえ見られなかつた。十年の間に變つたものは單にこれらの郊外的な風致や町の姿ばかりではなく、兒を失ひ悲むだ自分には溝川のほとりを散步しながらゐる姿は昔のやうだつたが、もう子供が二人も生長してゐた。

 植木屋の多い田端の地主らも時勢と金利の關係から、植木屋は賣減《うりべ》らしにして何時の間にか貸家を建て、新建《しんだち》の小路をつくり、殆ど空地は見られない程だつた。秋口には涼しい高い木に啼く蟲の類も減つたばかりでなく春先の鶯が啼く朝なぞは年に一日か二日くらゐに過ぎなくなつた。以前は何處からともなく春を告げる鶯の聲を聞くのは、每朝の快いならひであつた。生溫かい雨の霽(あが)つた朝の食卓についてゐて、鶯を聞かない朝はなかつた。それだのに今年は鶯を聞かなかつたといふ年も近年になつてから折折に聞くやうになつてゐた。

[やぶちゃん注:「矢竹」狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica を指す。ウィキの「ヤダケ」によれば、『タケ(竹)と付いているが、成長しても皮が桿を包んでいるため』、『笹に分類される(大型のササ類)』。『種名は矢の材料となること』に由来し、『本州以西原産で四国・九州にも分布する』。『根茎は地中を横に這い、その先から粗毛のある皮を持った円筒形で中空の茎(桿)が直立。茎径は』五~十五ミリメートルで、『茎上部の節から各』一『本の枝を出し』、『分枝する。節は隆起が少なく、節間が長いので矢を作るのに適す。竹の皮は節間ほどの長さがあるため、見える稈の表面は僅かである』。『夏に緑色の花が咲く』。『昔は矢軸の材料として特に武家の屋敷に良く植えられた』。別名は「ヘラダケ」「シノベ」「ヤジノ」「シノメ」等、とある。

「江戶砂子」菊岡沾涼(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年:金工で俳人。伊賀上野の生まれ。本姓は飯束であるが、養子となって菊岡姓となった。名は房行。江戸神田に住んだ。俳諧を芳賀一晶(はがいっしょう)・内藤露沾に学び、点者となった。地誌・考証などの著述でよく知られる。私は彼の怪奇談集「諸國里人談」をこちらで全電子化注を終わっている)が享保一七(一七三二)年に板行した江戸地誌。江戸府内の地名・寺社・名所などを掲げて解説し、約二十の略図も付す。これはベスト・セラーとなり、同じ著者で「續江戶砂子」が二年後に上梓されている(内容は正編の補遺)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の巻之五の「豊島郡麻布」のパート内のここの右頁七行目に、

   *

 

 五 記錄

 

 自分の家や庭の客となる人人は、矢竹の茂りと音とを賞めてくれたが矢竹は庭一面に這出して相應の風致を形作つてゐた。一年の間に主人を三人まで持つた秋といふ女中も、自分の家を出ると不幸續きの暮しをして今では行方が分らず、彼女が風呂敷に包んで買つて來た小さい沈丁花は、六年の間に自分の背丈を越えるまで伸びてゐた。次ぎに來た女中の里である茨城の草加在の珍しい木賊《とくさ》の株も、庭の一隅に固く組み合うて、年年殖えて美しくなる一方だつた。彼女は自家から暇を取るとカフエの女になり、これも亦行方が分らなかつた。

 季節折折の子供の病氣の時の看護の女、植木屋が入代《いれかは》つてゐたそれぞれの記憶、國の母や兄、老俳友などの泊つたことのある離亭、飼猫や飼鳥の山雀《やまがら》、或時は仕事に疲れて卒倒しかけたことのある庭の奧、さういふ小さな覺えは一つとして「庭」を離れたものではなかつた。「庭」は彼らしい人生觀めいた記錄的なものを持ち、それらが今庭を壞さうとしてゐる自分に小癪なほど敍情詩めいた詠嘆の心を移さうとするのだつた。殆ど隅隅にまで手の觸れないところの無い庭土は、それに手をつけた日の記憶的な位置を今更らしく思ひ出させた。

 この家に來て自分の仕事をした數は、文字通り枚擧に暇が無いくらゐだつた。詩集「高麗の花」や「田舍の花」「亡春詩集」を書き、「童子」「嘆き」「押し花」「人生」「我こと人のこと」「わが世」等で亡兒に對する嘆きの限りを綴つたものである。その他數十篇の小說物語の類は自分でも覺えてゐない夥しい數だつた。どこの雜誌に出たかも分らず、それを搜し出すこともできないで散逸された小品隨筆の類は、殆ど數限りのない位だつた。さういふ反古《ほご》同樣の仕事に注いだ自分の制作的な情熱を考へるだけでも、自分は何か目當てもなく茫然とし、その情熱の費消によつて十年は命を縮めてゐると言つてよかつた。それすら自分には何一つ殘つてゐないことを考へると、情熱を賣買した天壽の制裁の空恐ろしさを思はない譯にはゆかなかつた。

 自分は第一流の文人である自信はあり實力もあるのだが、併し自分の書いたものか秋風の下に吹晒《ふきさら》され、しかも殘らないことを考へることは苦しかつた。自分にさへ其行衞の判らない原稿のことや雜誌のことを思ふだけでも陰鬱になり息窒《いきづま》る思ひだつた。その頃に書いたものの心の持ち方の低さ、氣持の張りの足りなさを考へると訂正削除の朱筆は動かしてゐても、自分の文章や意嚮《いかう》の拙劣さを犇犇と感じられるのであつた。或は却《かへつ》て原稿が散逸された方がよかつたかも知れない。惡文十年の罪を失した宜い機會であるかも知れぬ。唯自分はそれらに注いだ取り返しのつかぬ情熱の濫費だけは何と言つても一生の過失だつた。どういふ時にもよい仕事をすることは、永い安心を形づけるものであり、朝朝の寢ざめを淸くするものであるが、いい加減な仕事をした者の末路は自分で氣の付く時は、もう遲いに違ひない、併しその遲い時期に踏止まることも亦肝要なことに違ひなかつた。

 

 六 別れ

 

 自分は或日、まる一日外出をする機會があり、その間に植木屋に命じて樹木の幾株かを荷造りさせて、國へ送るのであつたが、幸ひ自分の歸宅したのは夜に入つてからだつたから、其樹木を拔いた跡は見ないで濟んだのである。次の日にも外出の折を見て飛石を拔き又次の目にも石を搬ばせるやうに命じて置いて何時も夜になつてから歸宅するのだつた。雨戶を開けることがないので、庭の模樣は分らなかつた。寢床で想像する淋しい庭のありさまは誰かを怨みたい氣持だつた。

 築庭造園は財を滅ぼし、人心に曲折ある皺を疊み込み、極度に淸潔を愛する者になることは事實である。自然に叛逆することは、自然を模倣すると同樣な叛逆だつた。彼は「庭」を造らうとしながら實は「自然」を造らうとするものらしかつた。そこに何か突詰めると淺ましい人間風な考へがないでもなかつた。それだから面白いといふ築庭的な標準は、自分には既《も》う亡びかかつてゐる考へであつた。それなら自分は後の半生を何に費したらいいだらうか?――自分の如きものの才能は何に向つて努力すべきだらうか、かういふ消極的な問題を自分の中に持出して、自分は荒れた破壞された庭の中を步いて見たが、何か永い間に疲れたものが拔け切つたやうな、それこそ精神的な或平和をさへ感じるのであつた。その感じは自分を一層孤獨な立場に勇敢に押出してくれ何よりも平穩と濶達とを與へて吳れた。小さな風流的な跼蹐《きよくせき》[やぶちゃん注:身の置き場所もない思いをすること。]から立ち上つた自分の行手は、寧ろ廣廣とした光景の中に數奇《すき》ある人生的な庭園を展いて見せてゐた。自分はその庭園を見ることに泉のごとき勇敢を感じた。自分はそれ故今は眼の前で此小さな「庭」の壞されることを希望し、過去の庭園に靜かに手を伸べてその姿に別れを告げるのであつた。

 

 七 曇天的な思想

 

 何時か自分は「過去の庭園」を物してから、庭を壞し離亭を取毀したが、いまは一草一木も無くなり、明るい空地になつて了うた。自分の氣持は爽快になり頭は輕くなつた。矢竹も掘り盡したが筍が處處に餘勢を示し、垣根に添うて殘つてゐる。

 自分は庭を壞して見て埋られた飛石は勿論、凡そ石といふ石の數の多いのに驚いた位である。雜石をあしらひ急仕立に自分の氣持を紛らはしたその折折の、自分の氣持の低さには熟熟(つくづく)呆れるばかりだつた。庭などといふものは決して間に合せの石や樹を植ゑて置くものではない。それは必ず棄てなければならぬ時期があるからである。周到な注意と懇切な愛好の下に、生涯それらの木石に心を寄せるほどのものを選ぶべきであつて、いい加減な選擇は嚴格に退けるべきであつた。

 自分は庭を壞しても決して淋しい思ひはしないばかりか、何か前途に最つと好い庭がありさうに思へるからである。庭はそれ自身が東洋の建築としつくり色を融け合せて生きてゐるもので、決して庭だけで生きてゐるものではない、東洋の寂しい建築と其精神とに彼は其姿を背景とせねばならぬ。建築の淋しい哀愁を劬(いたは)るものは、女人のやうに優雅な、しかも健康な「庭」でなければならぬ。誠に美しい庭に立つことは我我の愛する女人と半夜を物語ることと、どれだけも隔たつてゐるものではない。

 自分は梅雨曇りが廣がつてゐる中に、每日のやうに其美しい曇天を眺入つてゐた。その中に壞された庭を少時思ふに適した。折折の低い雲、蒼い空をも眺め、どうやら自分がこれから後にめぐり會ふべき、石や木、庭のありさまなども好《よ》き想像のうちに描くことができた。そして自分は半年ばかり極端に質素な、往昔の文人が試みた旅行のやうなものを實行するために、家具を友人の家に預け、永年の埃や垢を洗はうとするのである。文人の榮華の醒めた不況の時に昔の生活を抛《なげう》つことは、自分の好みにもあひ、今はその「時」を得てゐるからである。それ故自分は曇天の中に美しさを知ることも、人一倍の熱情を感じるからである。

 自分のやうな人間は何かしら「心」で飜弄(いぢ)る物の要《い》る種類の人間である。詩や詩情をいぢることにも倦きてゐないが、同樣に戀愛にも未だ飽きてゐない。戀愛的な雰圍氣は決して女人の間にばかりあるものではなく、それの正確な精神は凡ゆるものの美しさを詳かに眺め取入れることであらう、曇天も陶器も又女人もその内の重《おも》なるものであらう。

 荒土になつた庭の上に、杏の實が、今年もあかあかと梅雨曇りの中に熟れてゐる。此の杏は家に附いてゐる樹であるが、每年春は支那風な花を見せ、何時も今頃の季節には美しい實を見せてゐた。今日も机の上から見る朱と黃とを交ぜた杏の實は、堪へがたい程美しい。自分も家の者もこれを取らうとはせず、此儘次ぎに越して來る人の眼を樂しますであらう。

 杏は國の方にも今頃は熟れて輝いてゐるが、東京では滅多に見られない。何時か小石川の或裏町で見かけたことがあるが、その美しさ豐さは莫大な印象だつた。子供の時にその種子を石で磨つて穴を開け、笛のやうに吹いたことを覺えてゐる。「杏の笛」と言ふと幼い詩情を感じることが夥しい。今も鄕里の童子はその「杏の笛」を吹くことを忘れないであらう。

 矢竹は國の庭へも送つたが、根は庭ぢうに這ひ亂れてゐた。森川町(もりかはちやう)の秋聲氏からの使ひにも數株を分けたが、使ひの植木屋はかういふ美しい竹は植木屋も持つてゐないと褒めてゐた。自分もさういふ褒言葉を喜ぶものである。初め辻堂の中村氏に約束をしたが、辻堂までの車を仕立てることは困難だつた。中村氏の庭を訪れた秋聲氏との間に竹の話が出たものらしかつた。

 自分は初め此矢竹を靑山といふ禪客から讓り受けたものである。今度は色色手分けして頒けたが、雨が多く分け切れなかつた。關口町の佐藤君からの植木屋も、漸つと今朝になつて分けた竹を掘りに來た。ともあれ自分は後二日で半年の旅行に出るのだが、あとを亂したくないので土の穴や掘り返しを埋めさせてゐて、微妙な哀愁を感じた。多くの秋と冬の夜、これらの竹の葉擦れの音を聽いたが、春の深いころと晚秋の頃とが一番葉ずれの音がよかつた。皮を剝いで膏《あぶら》で拭いた幹は靑く沈んだ好い色をしてゐた。芥川君は此竹のある方を何時も「窓の穴」と言つてゐた。同君の庭にも竹があつたが二三日續いて庭を掃いて見て、氣持がよかつたといふ話も耳に殘つてゐる。――

 震災の時にも上野あたりからの灰が吹かれて、葉の上に白く埃をためたが、さういふ思ひ出も却却《なかなか》忘れられなかつた。自分は每年筍が出ると、古竹を粗い簾に編ませ、それを煤の垂れる軒に吊るして置いたが、野趣があつて粗雜な感じではあつたが好きだつた。

[やぶちゃん注:「辻堂の中村君」作家・評論家の中村武羅夫(むらお)。]

 

 八 壽齡

 

 この春母の危篤の報を得て遙遙と歸國して行つたが、母は七十八の高齡の中で死生の間を往來してゐた。自分は母が二三日のうちに絕命するであらうと思ひ、人として數奇な彼女の生涯と運命とに就て、絕えず頭をつかひ兎も角も死ぬことを氣の毒に思ひ、自分も出來るだけの藥餌の祕術を盡すやうに努力するのであつた。彼女を支配した運命はその晚年に物質的な苦衷を與へず、自足と平安とをのみ溫かに惠んでゐた。自分は父の死の前後が斯樣に平安で無かつたことを考へ、いぢらしい父への思ひ遣りを切ない氣持で顧みない譯に行かなかつた。

 四五日の後に母は急性肺炎の症狀から完全に救はれ、運命の惰勢は再び母を安逸な生活の中に取殘すもののやうだつた。彼女は粥を啜り魚の肉を食べ潑溂として餘生を盛り返し

て來た。自分は七十八年も生延びた彼女の止みがたい生活力が、その餘勢の上で舞ひ澄む獨樂《こま》のやうに停《とどま》ることを知らないのを恐ろしく思うた。血色を取り戾した一老母の戰ひは遂に現世的生活へまで再び呼戾《よびもど》され、暴威を揮ふ時は揮ふ苛酷な運命さへ、母の前ではその暗澹たる翼ををさめてゐると自分は思うたが、さういふ母を見ることは別な意味で壯烈な氣がしないでもなかつた。

 母を圍繞《ゐねう》する人人及び古い昔の彼女の知合《しりあひ》の悉くは、母が今度死ぬであらう豫測と天與の壽齡とに、寧ろその長命と平安とを祝福して、自分に一一その由を傳へて挨拶を交すのであつた。自分も母の壽命の終るの近きを思ひ、働く能力を缺いた人間は訣して六十以上は生きる必要の無いといふ、漠然とした通俗的な槪念を得たのだつた。六十以上生きるといふことは死を期待され、死を祝福されるのみで、死を激しく傷み悲しまれることは尠《すくな》いことらしかつた。ことに田舍の人人の率直な言葉は一つとして死を哀傷する情を披瀝せずに、不足のない死を、或は死そのものに利子的な計算を敢てすることにより、恰《あたか》も當然訪れるべき死の遲きを皮肉るやうなものだつた。

 母は自分に決して今度は生き延びたくなかつた事、唯ひたすらにお詣りがしたかつた事、再《ま》た御身らに厄介になることが心苦しい事などを、取盡《とりつ》した靜かな生活の中から物語るのであつた。自分は何よりも運命がまだ彼女を犯さなかつたことに就て、ひそかに運命の力が近代に至つて次第に稀薄になつてゐるやうに思はれてならなかつた。そして病室の窓の外にある執拗な一塊の殘雪は、北に面した杏の古い根にしがみつき、世は春であるのに凝り固り却却消えようとしなかつた。殘雪と運命、さういふ昔の文章世界の寄稿家の物するやうなことを考へ、我が尊敬すべき運命ヘの超越者、自分の母親を熟熟見守るのだつた。

[やぶちゃん注:「母」ここで彼が語っているのは彼の養母ハツである。犀星は明治二二(一八八九)年八月一日、金沢市裏千日町に生まれた。加賀藩足軽頭であった小畠弥左衛門吉種(当時六十四歳)と、小畠家の女中ハル(同三十四歳)との間に私生児として生まれた。世間の評判を嫌った父は、生れたこに名もつけず、生後間もなく、生家近くの雨宝院(真言宗)の住職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに貰い子として引き取られ、ハツの私生児として「照道」の名で戸籍に届出された。住職の室生家に正式に養子として入ったのは、七歳の時で、この時、室生照道を名乗ることとなった。犀星は私生児で、実の両親の顔を見ることもなかった。この赤井ハツは気の弱い住職を尻に敷いて朝から大酒を飲み、子供たち(貰い子は犀星を含めて四人であった)を理由もなく折檻し、「馬方ハツ」の異名をとるほどの、当時はかなり強烈な恐ろしい女丈夫であったという(所持する昭和四二(一九六七)年新潮社刊『日本詩人全集』第十五巻「室生犀星」の年譜に拠った)。ハツはこの後の昭和四(一九二九)年四月に永眠した。]

 

 九 邦樂座

 

 久振りで仕事も一先片づいて、冬がこひを施した樹樹の蓆を解いて見たが、彼らは藁の溫さの中に既に春の支度を終へてゐた。何か酸味を帶びた匂が自《おのづか》ら立つ埃とともに、自分の胸を妙に惱ましく壓してゐた。自分は少時《しばらく》日の當る土の上に踞んでゐたが、昨日邦樂座の玄關の段の上から辷《はづ》れ落ち、背中を打つた重い痛みが斯ういふ明るい日ざしの中で餘計に感じられた。

 何時か雨上りの電車道で轉んで危く轢かれようとしたが、さういふ不慮の出來事の起るときは、頭がひどく疲れてゐる時に違ひなかつた。健全だと思うてゐる頭腦も刺戟のある映畫見物の後には、每時《いつ》も烈しい疲勞を心身に感じてゐた。目まぐるしい電車道に立竦んで、少時頭の働きを待つやうな狀態になる時は、頭腦の働きよりも車や往來の烈しさが迅速に感じられるのだつた。或晚自動車から下り立つた自分は初めて帽子を冠つてゐないことを知り、自動車を見返るともう明るい街巷の中に紛れ込んでゐた。自分は帽子を冠らないで步く、無態な頭に何か締りの無いことを感じた。一昨日も邦樂座で危く頭を打てば或はそれきり腦貧血を起したかも知れなかつた。人間の命を落すやうなことがどれだけ自然に何等の注意力の無い時に起り、それが却つて偶然に救はれてゐることがあるかも知れなかつた。

  庭の中は眩しい春の日當りで一盃になり、竹の葉の上にあぶらを注いだやうな一面の光だつた。自分は自然の美しさを感じ、その自然がもう自分の心身にカツチリと塡つてゐる人生的な或事件でさへあるやうな氣がし、自ら感情的な此事件を懷しむの情に耐へなかつた。かういふ物の考へ方をする自分には、最早花や樹の美しさよりも自分の考へに思ひ耽る美しさが、どれだけ事件的なことを搬ぶかも知れなかつた。自分は身に沁みて人の死を感じ、その死を自ら企てた人のことも斯ういふ春光の下で餘計に沁沁感じられた。現世の美しさを深く感じることは死ぬことに於て、一層美しく見えることに違ひなかつた。現世に執着するほど死にたくなる念ひを深めることは、よき魂をもつた人間の最後の希望にちがひない――生活、金、死、女、そして目前に迫る何かの芽生えの狀態に、折折氣を取られながら殊勝に少時靜かにしてゐたが、昨日の背中のいたみは鈍重に徐ろに自分に影響してゐた。女達の華かに立つた光つた階段から墜ちた自分は、單に階段から落ちたばかりではなかつた。或はその時に當然不幸な運命の逆襲に遭ふべき自分が、その又運命の端に繫がつて怪我をしなかつたのかも知れなかつた。邦樂座の大玄關から自分は死の何丁目かヘ送られる筈はないと思うたものの、自分は常に新鮮な運命に立向ふ用意をせねばならないと考へるのだつた。それは自分ばかりではない、凡ゆる人間がいつもその準備に就かなければならない事だつた。何時どういふ不安と不詳事が待ち構へてゐるかも分らないからだ。誰がその不慮事の前に立ち得ることができよう。――

[やぶちゃん注:「邦樂座」現在の「丸の内ピカデリー」の前身の劇場。]

 

 十 短册揮毫

 

 自分のところへも每月短册や色紙の揮毫を迫る人が多く、氣の進まぬ時は一方ならぬ憂欝をすら感じてゐる。平常何も知らぬ人に自分の惡筆を献上することは、最早自分には神經的に嫌厭《けんえん》を感じてゐる位である。千葉縣の某と云ふ人なぞは先に短册を送り到《つ》けて置いて、每月揮毫の督促を根氣よく殆ど一年間續けて行うてゐた。その最後に短册返送を迫ることは勿論、或は謝儀を送るとか云ひ子供でも宥《なだ》め賺《すか》すやうであつた。併し自分は怒りを嚙み潰してゐた。かうなると脅迫的なものに近いやうである。

 自分は短册色紙の送り付けは其儘卽座に返還してゐる。今後奈何なる意味に於ても揮毫はしないことにした。その爲自分のやうな惡筆の品定めされる後代の憂を除きたいと考へてゐる。併乍ら自ら進んで書きたい時があれば、惡筆を天下に揮ふことの自信も無いではない。欲しきは私に取つて何事も勇躍だけである。

 

 十一 「自敍傳」

 

 自分は此頃もう一度今のうちに書いて置きたいと考へ、自敍傳小說を書き始めた。自分は處女作で自敍傳を書いて制作的に苦苦しく失敗した。それは言ふまでもなく詩的雜念の支配を受け、センチメンタリズムの洗禮を受けたからである。自分は噓を交ぜた、いい加減の美しさで揑ねた餅菓子のやうなものを造り上げ、それで自分は自敍傳を完成した如き氣持でゐたが、此頃の自分にはその噓が苛責的に影響し、苦痛の感情を伴うて來たのである。自分は暇を見て書き直した上、少しも文學的乃至詩的移入のない自傳の制作に從はなければならず、事實その仕事に打込んでゐた。

 自敍傳は作家の最初に書くものでなければ、相應の仕事をした後期の仕事でなければならない。その仕事は何處までも成年後の彼の見た「生ひ立ちの記」でなければならず、峻烈な自分自身への批評に代るべきものでもあらう。

[やぶちゃん注:「自分は處女作で自敍傳を書いて制作的に苦苦しく失敗した」大正八(一九一九)年に『中央公論』に発表した「幼年時代」であろう。小説家としては処女作である。]

 

 十二 「大槻傳藏」の上演

 

 帝國ホテルで自分の作「大槻傳藏」の道化座の公演を見て色色感心した。僕の戯作は幸か不幸か未だ公演されたことはなかつた。又自作が劇評家等の筆端に觸れたことも極めて斟いことだつた。自分はこれらの戯作が作集や叢書にさへ未だ談判を受けたことすら無いのを、大した不名譽に思つてゐないものである。それに據つて自信を逆挨《ぎやくね》ぢにする程稺拙《ちせつ》の心を有たない僕は、今度自作の公演を見に行く氣持の張方は、少少悲觀的でもあり又眞向からの自信では可成餘裕を持つてゐた。

 「大槻傳藏」は自作の中では唯一つの時代劇でもあり、或程度までの用意はしてある作品である。その公演を見て「大槻傳藏」が歌舞伎や帝劇で上演されないことを不思議に思ふ位、成功してゐた。道化座は無名の劇團であり大槻傳藏を演じた市川米左衞門氏は、その道の通でない自分には新しい名前である。玄人らしいところはあつたが自分には好印象を與へた。自作の場合大抵役者を貶《けな》すことがその批評の眼目であり條件である世の中で、自分は或程度までの滿足を以て見物した。かういふ自分を素人として笑ふものがあれば、それは物の素直さをわきまへない人人であらう。――自分は此劇を見物してゐる間、絕えず漫然として劇を書いてゐた自分が振顧《ふりかへり》みられた。必然性無き會話の受け渡しも目前で諷刺された位だ。自分は一層努めねばならぬ事、氣持の張方を少しも弛めてはならぬ事を忠告されたやうなものであつた。これは自作が最初に上演されたためであらう。

[やぶちゃん注:「大槻傳藏」人物としての彼は元禄一五(一七〇二)年生まれで寛延元(一七四八)年に自害した、江戸中期の加賀藩の家臣。諱は朝元。所謂、「加賀騒動」の中心人物である。第六代藩主前田吉徳に起用され、権勢を揮ったが、延享二(一七四五)年に吉徳が急死すると、反対派によって排斥され、五箇山に幽閉、配所で自死した。この事件は藩主後嗣紛争も絡んで、陰惨な諸説を生み、後世、色々と脚色された。犀星の同題の戯曲は読んだこともなく、調べても、よく知らなかった。悪しからず。]

 

 十三 茶摘

 

 自分の家の庭は廣くはなかつたが、茶畠が少し殘つてゐて季節には茶摘みもしたものだつた。李の樹の下に蓆を敷いて母は煙草盆を持出し、まだ小さかつた妹は茶を用意したりした。自分も茶摘みの手傳ひをしたが、一時間も同じい事を繰返す仕事には直ぐ退屈をし、風のある目は摘んだ茶の新葉が吹かれてよい匂ひがした。

 茶の根には古い去年の茶の實がこぼれ、僅な枯葉の間に蕗の芽が扭《ねぢ》れて出てゐた。母は退屈しないで丹念に摘んでゐたが、自分の摘む芽の中に古葉さへ雜つてゐて、臺所でそれ蒸しては莚の上でしごいてゐる姉から小言が出た。臺所は湯氣で一杯だつた。姉と雇の婆さんとが忙しく立働いてゐた。自分は茶といふものに恐怖を感じる程、摘むことに飽飽してしまつた。かういふ時に必ず誰か近くの母の友達が表から聲をかけ、母はうつ向いたまま返事をしてゐる記憶があつた。又定《きま》つて强い風が出るやうな日が多かつた。

 蒸された茶は餅のやうな柔らかい凝固になり、揉まれると鮮かな靑い色を沁み出してゐた。その莚を乾かしたあと、四五日といふものは矢張り茶の芽の匂ひがし、その匂ひは庭へ出ると直ぐに感じられた。二番茶を摘むころは日の當りが暑かつた。じりじりと汗を搔く母を見ることは、氣苦勞できらひだつた。

 

 十四 朝飯

 

 或初夏に伊豆の下田の旅籠屋に泊つて、その庭に桃に交る僅な綠の芽立を見たことが忘れられなかつた。それは優しい人情的と溫かみのある綠だつた。自分は朝飯の時にその風景の何ものかを、その膳の向うについた春のおひたしと一緖に嚙み味うたやうな氣がした。それに烟りながらに罩《こ》めてゐた雨は、此暖國にある早い些かの若綠の艶を深くしてゐた。自分が靑い梅の實に朝燒けのやうに流れてゐる茜色を覗き見たのも、此旅籠屋で初めて發見したやうな氣持だつた。何か棄石《すていし》を取圍む銳い尖つた芽の擴がり、それらの葉が一樣にとかげのやうな光を見せる日光の直射に、自分は眼に靑い薄い膜のやうなものを絕えず感じるのだつた。

 自分は午後から晴れた庭土の上に、若木の綠をうつらうつら見惚れながら、さういふ風景に意識を集中され、餘りに永い間茫然としてゐる自分の中に何か白痴めいたものを感じ出し、靜かさが呼ぶ不安を一心に感じ恐いやうな氣がした。餘りに靜かなときに人間は知らずに命を落すものかも知れないやうな氣がした。さういふ不安は反對に益益自分を靜かにし、自分にハガネのやうな鈍い光を感じさせてゐた。

[やぶちゃん注:ここでの太字は底本では傍点「﹅」である。

「罩めてゐた」ニュアンスとしては、霧のような細かな雨が景色を覆うように、濃淡を変化させながらも、たちこめているさまを言っている。

「棄石」日本の庭園で主たる要となる石ではなく、風趣を添えるために所々に配した石を言う。]

 

 十五 童話

 

 自分は凡ゆる童話に僞瞞を感じてゐた。それ故、童話を書かうといふ氣が起らず、また子供等に自ら童話を書きつづつて見せる氣もなかつた。童話といふものは卽座に作爲され同時に亡びていいものかも知れなかつた。ストリンドベルヒも童話を書いてゐるが、自分には性質の上からも童話は書けさうもなかつた。

 支那のお伽話も自分は大仕掛で好かなかつた。自分はどういふ話をしていいか、それらの話がどうしたら子供たちに喜び迎へられるかを考へると、しまひに憂欝になる外はなかつた。これは自分が作家であるための選擇上の苦衷に違ひない。作家は最後まで子供への讀物を選べないのが本當かも知れない。假令選擇はしても自分の物にして、子供等に薦めたかつた。いい加減な話を子供に說くことは何よりの僞瞞だつた。

 自分は童話の國のことは知らないが、よい子供は自身彼のものであるべき童話を作るべきであり、我我の示す必要のないものであるかも知れなかつた。童話が作家の煙草錢だつた時代はもう過ぎたらうが、自分はさういふ作家が朗かな高い美しい氣持で、童話を作つて書くことに尊敬を持つてゐる。さういふ作家の優しい愛情の中に我我は子女を連れ込みたい希望を持つが、さういふ作家は果して天下に幾人ゐるだらうか。さういふ秀れた作家を自分で見出すことができるだらうか。現世の卑俗な一作家たる自分にもその雅量を披瀝することができる作家を見ることがあらうか。――自分はそれを疑ひ、その疑ふことに依つて憂欝を感じてならないのだ。朗かであるべき童話の國に入るさへ、自分は並並ならぬ現世的な止み難い憂欝の情に先立たれてゐる。

[やぶちゃん注:「ストリンドベルヒも童話を書いてゐる」「令嬢ジュリー」や「死の舞踏」は私の偏愛する戯曲であるが、童話は不学にして知らなかった。サイト「福娘童話集」の「海の落ちたピアノ ヨハン・アウグスト・ストリンドベリの童話」を読んだ。彼らしい翳のある掌篇で、いい。]

 

 十六 童謠

 

 自分の子供はやはり北原白秋、西條八十氏等の童謠を唄ひ、母親自身もそれを敎へてゐるが、自分は童謠を書いた經驗がないので默つて聽いてゐる外はなかつた。兩氏以外の「コドモノクニ」の童謠をも唄うてゐるのであるが、中には到底自分の如き詩人を以て任ずる家庭に、鳥渡《ちよつと》聞き遁しがたい劣つた作品もないでもなかつた。併しそれに交涉することは自分の敢てしない方針であつた。

 自分の經驗では北原氏西條氏、または稀に百田宗治氏等の童謠が娘によつて唄はれることに、その作家等に知遇を得てゐる關係上、決して惡い氣持になることはなかつた、北原氏、百田氏などは時時子供等にも接する機會があるので、餘計に親しさを彼女の方で持つらしかつた。ともあれ童謠の作家等に望みたいのは、かういふ子供の世界から見た童謠詩人の人格化が、我我の家庭にまで行き亘る關係もあり、大雜誌には少し位樂なものを書いても、子供雜誌の場合は充分によい作品を發表されるやうにされたい。自分も漫然として童話などを書き棄てた既往の惡業を思ひ返すと、それを讀む小さい人人へ良くない事をしたやうに思はれてならない。何事も藝道の影響が子供へまで感化して行くことを考へると自分の如きは童話や童謠の淸淨の世界へは、罪多く邪念深いために行けないやうな氣がした。

 

 十七 輕井澤

 

 

    一 蟲の聲

 

 今年くらゐ諸諸の蟲の聲を聽いたことがない。まだ宵の口の程に啼くのや、淺い夜半に啼くのや、眞夜中に啼くのや夜明け方に啼き始めるのや樣樣な蟲がある。宵の口は賑やかに烈しく淺い夜には稍落着いて低めに、眞夜中には少少澁みのある嗄《しやが》れた聲がしてゐる。明け方には聽えるか聽えぬかくらゐに低く物佗しい。

 それらの蟲の聲の變つてゐることは言ふまでもないが、每年涼宵に聞く筈のこれらの蟲の音が、年齡の落着きとともに我物になるほど身を以て聽き入れられるのは、聽き落さずに心も次第に落着いて用意されて來てゐるからであらう。我我は今日《けふ》眺めたものは又明日どれほど新鮮に眺められるかも知れない。彼らは變らないが我我は日日に變つてゐるからであらう。來年は最つと今年よりも多く蟲を聽くことができよう。

 

    二 螢

 

 日が暮れてから散步に出ようとすると、乾いた豆畑の畝の上に何やら光るものを見たが、隣の燈火が映る露ではないかとも思うた。よく見ると明滅する螢火だつた。海拔二千七百尺の高原では螢のからだは米粒くらゐな小ささだつた。光にも乏しく淺間の熔岩の砂利屑の乾いたのに、取縋《とりすが》つて光つてゐる有樣は憐れ深かつた。

[やぶちゃん注:私は、この時、犀星が「飯田蛇笏 靈芝 昭和二年(三十三句) Ⅱ たましひのたとへば秋のほたるかな」の句を想起していたことは間違いないと思っている。

「二千七百尺」約八百十八メートル。例えば、軽井沢駅は標高九百四十メートル、犀星や龍之介が散歩した軽井沢町追分の国道十八号線沿道路は標高千三メートル、二人の定宿であった「鶴屋旅館」(現在は「つるや」は平仮名表記)九百七十メートルである。]

 

    三 夜の道

 

 今朝道端を步きながら晝顏の花を久濶《ひさしぶ》りで眺め、しまひに蹲んでじつくりと見恍《みと》れた。美しさ憐れさは無類にしをらしかつた。感傷的になつてゐる自分は此頃氣持にのしかかるものを多分に感じてゐた。昨夜Sの書いたAの追悼文をよんで、暗い山間の道ばたを考へ乍ら反對の道を、愛宕山の中腹まで步いた程だつた。

 家へかへると、啼き出したきりぎりすは一夜每に數をふやして、雨の中を通り拔ける程だつた。自分は懷中電燈できりぎりすの啼いてゐる豆の葉を照し、その靑い翼をひろげて無心に啼き續けてゐる姿を見て故もなく感心した。

[やぶちゃん注:「昨夜Sの書いたAの追悼文」これは、間違いなく、萩原朔太郎が雑誌『改造』昭和二(一九二七)年九月号に書いた「芥川龍之介の死」である。何故、断言出来るか?――ここで犀星は、そうでなくても、龍之介との思い出の残るこの軽井沢――龍之介が欠損した時空間のここで、ひどく「感傷的になつてゐる」のであり、さらに「此頃」、「氣持に」、何か「のしかかるものを多分に感じ」ているメランコリックな状態にあったのであり、そんな中、「昨夜」、犀星自身が登場し、彼が朔太郎と龍之介に対して強烈な一語を吐き、そこで朔太郎が田端の坂の上に呆然と立ち尽くした龍之介の影に手を振る――そうして、それが、作者と龍之介とが逢った最後であったと記す――「Sの書いたAの追悼文をよんで」、思わず堪え切れなくなり、「暗い山間の道ばたを考へ乍ら」、「反對の道を、愛宕山の中腹まで步いた程だつた」と述懐していると読めるからである。いや! 芥川龍之介を愛した室生犀星が、これほど強いパッションを受け得る、優れた芥川龍之介の追悼文というものは、萩原朔太郎のそれをおいて、ない、と私は断言出来るからである(地名が気になる方のために、グーグル・マップ・データ航空写真をリンクさせておく。中央下方に「つるや旅館」、その北北東に愛宕神社に向かって上る道が「愛宕山通り」である)。

 

    四 旅びと

 

  あはれ、あはれ、旅びとは

  いつかは心やすらはん。

  垣ほを見れば「山吹や

  笠にさすべき枝のなり。」

 

          (芥川龍之介氏遺作)

 

 

    旅びとにおくれる

 

  旅びとはあはれあはれ

  ひと聲もなき

  山ざとに「白桃や

  莟うるめる枝の反り」

 

    註。「山吹や」は芭蕉の句。

    「白桃や」は芥川君の句。

    これらは朗讀風にくちずさ

    まば一入あはれをおぼゆ。

[やぶちゃん注:各詩の後の添え辞は底本とは異なり、一行空けとし、ブラウザでの不具合を考えて、位置を上げ、後者のの「註」はベタ一行であるのを、行分けして添えた。

 前者の最後に鍵括弧で添えた句は芭蕉のもので、

   山吹や笠に揷すべき枝の形

で、元禄四(一六九一)年、江戸赤坂の庵にて、芭蕉四十七歳の作である。岩波旧全集の後記によると、元版全集には文末に「(大正十一年五月)」とあるとする。とすれば、前の一篇は龍之介満三十歳の作である。この詩は自死後の昭和二(一九二七)年八月発行の『文藝春秋』に掲載された「東北・北海道・新潟」に以下のように公にされた。但し、これは犀星が仰々しく掲げた「遺作」ではなく、リンク先を読んで頂く判るが、予定されたものであり、たまたま自死後に公開されたに過ぎない。脱稿は六月二十一日。ただ、この前日、彼は確信犯の遺作「或阿呆の一生」の決定稿を秘かに書き終えているから、広角的視野で見れば、確かに遺作と言えるのである。

   *

 羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」

  あはれ、あはれ、旅びとは

  いつかはこころやすらはん。

  垣ほを見れば「山吹や

  笠にさすべき枝のなり。」

   *

 一方、後者は室生犀星の前者への相聞歌である。私の「龍氏詩篇 室生犀星」の「二、旅びとに寄せてうたへる」を参照されたい。犀星が言うように、この、

  白桃や莟うるめる枝の反り

は、生前、龍之介が捨てに捨てて厳選した七十七句を収録する「澄江堂句集」(没後に私家版として四十九日法要の香典返しとして配られた)にも採られてある(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照)。]

 

    五 命令者

 

 雨上りの道路を自分は五つになる女の子供と一緖に散步してゐた。彼女は洗はれて美しい砂の洲になつてゐる處を自分に踏んではならぬと嚴然として命令するのだ。そして彼女自身もそこだけ步かなかつた。披女の美しいものを愛し保護する氣持を自分は認め、愉快な畏敬の念をさへ抱くのだつた。併乍ら自轉車や他の散步する人人は、それらの白砂の宮殿の上に惜氣もなく靴や下駄の跡を殘して行くのだつた。併乍ら彼女は父親である自分にのみ苛酷な程、その命令を散步の終へるまで自分に守らせるのであつた。自分はあらゆる柔順なる父親の如くその命令に唯唯《ゐゐ》として服してゐた。

 

    六 山脈の骨格

 

 軒も朽ち、板戶は風雨に曝されて年輪を露《む》き出してゐる、峠の上の村落だつた。風雨も多年の間には煤のやうに黑ずむらしく、此村落は暗い夕立雲の下にあつた。石も人の顏も黑ずんで見えた。自分はとある石の上に腰をおろした。

 信越の山脈が聳えて眼の前にある。-併し自分は茫乎《ばうこ》とそれらを打眺めた。自分はこれらの山脈が自分の滅亡後に猶聳えてゐることを考へると平和な落着いた氣持になれた。彼らの骨格が信じられるのだ。

[やぶちゃん注:「茫乎」ぼんやりと摑みどころのないさま。]

2022/04/27

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 四~(3) / 卷第十 宿驛人隨遺言金副死人置得德語第二十二 / 「今昔物語の硏究」~完遂

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、そちらの正規表現の原話を読まれたい。珍しく熊楠は原話全体を、相応に、訓読表現で、やや彼風の漢字表記で書き改めて記して紹介している。参考までに、ここでも冒頭にちらと出す南方熊楠がずっと批判してきた芳賀矢一の「攷証今昔物語集」の当該話のテクスト本文をリンクさせておく。底本ではここから。本篇は「今昔物語の硏究」の掉尾であり、さらりと読めるようにしたいので、読みは私が推定で歴史的仮名遣で( )で補った。]

 

〇宿驛人隨遺言金副死人置得ㇾ德語第二十二《宿驛の人、遺言に隨ひて金(こがね)を死にし人に副(そ)へて置きたるに德を得たる語(こと)》(卷一〇第二二)此語も芳賀博士は、出處類話共に出して居らぬ。其話は「今昔震旦の□□代に人有て他州へ行く間、日晚て驛と云ふ所に宿しぬ、其所に本より一人宿りして病む、相互に誰人と知る事无(な)し、而るに本より宿して病む人今宿りせる人を呼び語て云く、我れ今夜死むとす、我腰に金二十兩有り、死後必ず我を棺に入れて其金を以て納め置べしと、今宿る人、其姓名生所(せいしよ)を問ひ敢(あへ)ざるに、此病人絕入ぬれば、死人の腰を見るに實に金二十兩有り、此人死人の云しに隨て其金を取出して、少分を以て此死人を納め置くべき物の具共を買調へ、其殘りをば約の如く少しも殘さず死人に副(そへ)て納めけり、誰人と知ずと雖も如此(かくのごとく)して家に還りぬ。其後、不思懸(おもひかけざる)に主を知ざる馬離れ來れり、此人此れ定て樣有むと思て取り繫で飼ふ。而るに、我れ主也と云ふ人無し、其後亦飇(つむじかぜ)の爲に縫物の衾を卷き持來れり、其れも樣有むと思て取り置きつ。其後ち人來て云く、此馬は我子某と云し人の馬也、亦衾も彼が衾を飇の爲に卷揚げられぬ、既に君が家に馬も衾も共に有り此れ何(いか)なる事ぞと、家主答て云く、此の馬は思懸ざるに離れて出來れる也、尋ぬる人無きに依て繫で飼ふ、衾亦飇の爲に卷き持來れる也と、來れる人云く、馬も徒(いたづら)に離れて來れり、衾も飇卷き持來れり、君何なる德か有ると、家主答へて云く、我更に德無し、但し然々の驛に夜宿せりしに、病煩(やまひわづらひ)し人、本より宿して絕入にき、而るに彼が云しに隨て彼が腰に有りし金を以て葬(はうふ)り、殘りをば少しをも、殘さず彼に副て納め置て還りにし、其人の姓名生所を知らずと、來れる人此事を聞て地に臥し丸(まろ)びて泣く事限り無し、云く其死人は我子也、此馬も衾も皆彼が物也、君の彼が遺言を違へざりしに依て、隱れたる德有れば顯れたる驗(しるし)有て、馬も衾も天の彼が物を給ひたる也と云て、馬も衾も取らずして泣々還るに、家主、馬をも衾をも還し渡しけれども遂に取ずして去にけり。其後此事世に廣く聞え有て、其人直(ただしき)也けりとして世に重く用られけり、此を殆として飇の卷持來れる物をば本の主に還す事無し、亦主も我物と云事も無し、亦卷き持來れる所をも吉(よ)き所とも爲す也となむ語り傳へたるとや」(略文)と有る。此故事から始つたとは附會だらうが、兎に角今昔物語の成(なつ)た頃の風俗として、暴風が飛(とば)し込(こん)だ主知れぬ物品を其家主の所得と成しても後日(ごじつ)本主(もとのぬし)が異論を言得(いひえ)ず、隨(したがつ)て其場所を吉相の地としたと見える。

 扨此話の出處らしきものを往年控え置(おい)たのを、今(三月一日)夜見出(みいだし)たから書付(かきつけ)る。後漢書に云ふ、王忳甞詣京師、於空舍中見一書生疾困、愍而視之、書生謂忳曰、我當到洛陽、而被病、命在須臾、腰下有金十斤、願以相贈、死後乞藏骸骨、未及問姓名而絕、忳卽鬻金一斤、營其殯葬、餘金悉置棺下、人無知者、後歸數年、縣署忳大度亭長、初到之日、有馬馳入亭中而止、其日大風飄一繡被、復墯忳前、忳後乘馬到雒縣、馬遂奔走、牽忳入它舍、主人見之喜曰、今禽盜矣、問忳所由得馬、忳具說其狀、幷及繡被、主人悵然良久乃曰、被隨旋風、與馬俱亡、卿何陰德而致此二物、忳自念、有葬書生事、因說之、幷道書生形貌、及埋金處、主人大驚號曰、是我子也、姓金名彥、前往京師、不知所在、何意卿乃葬之、大恩久不報、天以此章卿德耳、忳悉以被馬還之、彥父不取、又厚遺忳、忳辭讓而去《王忳(わうじゆん)、甞つて京師(けいし)に詣(いた)る。空舍の中に於いて、一書生の疾ひに困(くる)しむを見いだし、愍(あは)れみて、之れを視る。書生、忳に謂いて曰はく、「我れ、當(まさ)に洛陽に到るべくも、病ひを被(かふむ)り、命は須臾(しゆゆ)に在り。腰の下に金(きん)十斤有り。願はくは、以つて相贈らん、死後に骸-骨(むくろ)を藏(をさ)められんことを乞ふ。」と。未だ姓名を問ふに及ばずして、絕ゆ。忳、卽ち、金一斤を鬻(ひさ)ぎ[やぶちゃん注:売り。]、其の殯葬(ひんさう)を營み、餘れる金は、悉く棺の下(もと)に置く。人、知る者、無し。後、歸りて、數年、縣は、忳をして大度(だいど)の亭長[やぶちゃん注:地名かも知れぬが、大きな川の渡し守(地方の下級官吏で地区長)の意で採る。]に署(わりあ)つ。初めて到るの日、馬、有り、亭中に馳せ入りて止(とど)まる。其の日、大風(たいふう)、一(いつ)の繡被(しゆうひ)[やぶちゃん注:刺繍を施した衾(ふすま)。通常、着衣の形を成している。]を飄(ひるがへ)して、復た、忳の前に墮つ。忳、後、馬に乘り、洛縣に至るに、馬、遂に奔走し、忳を牽(ひき)て、他(よそ)の舍(やしき)に入る。主人、之れを見て、喜びて曰はく、「今、盜(ぬすびと)を禽(とら)へたり。」と。忳に、馬を得たる所-由(いは)れを問ふ。忳、具(つぷさ)に、其の狀(さま)を說き、幷(ならび)に繡被にも及べり。主人、悵然(ちやうぜん)たり[やぶちゃん注:失意の状態で嘆くさま。]。良(やや)久しくして、乃(すなは)ち曰はく、「被(ひ)は旋風(つむじかぜ)に隨ひて、馬と俱に亡(うしな)へり。卿(けい)は何の陰德ありてか、此の二物を致(いた)せるや。」と。忳、自(おのづか)ら、書生を葬りし事有るを念(おも)ひ、因りて之れを說き、幷(あは)せて、書生の形貌(かほかたち)及び金(きん)を埋(うづ)めし處(ところ)を道(い)へり。主人、大きに驚き、號(さけ)びて曰はく、「是れ、我が子なり、姓は金、名は彥(げん)、前(さき)に京師へ往き、所在を知らず。何ぞ、意(い)はんや、卿、乃(すなは)ち、之れを葬らんとは。大恩、久しく報ひず、天、此れを以つて、卿の德を彰(しやう)すのみ。」と。忳、悉く被(ふすま)と馬を以つて之れに還さんとするも、彥(げん)の父、取らず、又、厚く、忳に遣(や)るも、忳、辭讓して去れり。》。此話の方が今昔の方より前後善(よ)く纏まつて居るが、其を記憶し損ねて今昔の話が出來たのだらう。

     (大正三年鄕硏第二卷第三號)

[やぶちゃん注:「漢書」のそれは「卷一百十一」の「獨行列傳第七十一」にある「王忳傳」である。原文対照校訂には「中國哲學書電子化計劃」のこちらから始まる影印本を視認したが、例によって、冒頭・掉尾及び中間部に省略がある上、一部を改変しており、かなり漢字に違いがある。或いは伝版本の違いかも知れぬが、底本よりも影印本を尊重し、改変部及び字の異なるものの内、熊楠のそれより判りが良いと判断したものは、上記リンク先の表字に、原則、改めた(熊楠がカットした部分は、確かに紹介するに必要条件ではないので、復元しなかった)。芳賀矢一の考証ならざるそれを補填して余りある。やったね! 熊楠先生!!!

「十斤」貨幣単位ではなく、重量。後漢の「一斤」は二百二十二・七三グラムであるから、二・八キログラム弱となる。

「雒縣」洛陽のこと。周代には「洛邑」(らくゆう)であったが、後漢になって「雒陽」に改名され、後漢終末期を除いて首都であった。後の魏の時代に「洛陽」に戻されている。

 なお、最後の初出記載は、底本では、最終行末の下インデントである。

 本篇を以って「今昔物語の硏究」は終わっている。数少ないネット上の私の読者に心より御礼申し上げるものである。なお、一括PDF縦書ルビ版を何時ものように作成し始めたが、ルビ化に恐ろしく時間がかかるので、暫くお待ち戴きたい。少し疲れたし、他にもやりたいものがある。悪しからず。

2022/04/26

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 四~(2) / 卷第九 歐尙戀父死墓造奄居住語第八

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。]

 

〇歐尙戀父死墓造奄居住語第八《歐尙、死にける父を戀ひ、墓に菴(いほり)を造りて居住(きよぢゆう)せる語」(卷九第八)予も此語の出處を確かに知ぬが、話中の記事に似た二傳說を淵鑑類函四二九から見出だし置た。乃ち王孚安成記曰、都區寳居父喪、里人格虎、虎匿其廬、寶以簑衣覆藏之、虎以故得免、時負野獸以報、寳由是知名《王孚(わうふ)の「安成記」に曰はく、都區寶(とくほう)、父の喪に居(を)れり。里人、虎を格(う)つ。虎、其の廬(いほり)に匿(かく)る。寶、簑-衣(みの)を以つてこれを覆ひ藏(かく)す。虎、故を以つて免(のが)るることを得(え)、時に野獸を負ひて以て報(むく)ゆ。寶、これに由りて名を知らる。》と有るのが、甚だ本話に似て居る。又[やぶちゃん注:「又」は熊楠の本文。]晋郭文嘗有虎、忽張口向文、文視其口有橫骨、乃以手探去之、虎至明日乃献一鹿于堂前《晉の郭文、嘗つて、虎、有り、忽ち、口を張りて文に向かふ。文、其の口を視るに、橫骨(よこぼね)、有り。乃(すなは)ち、手を以つて探り、之れを去る。虎、明日(みやうにち)、至りて、乃ち、一(いつ)の鹿(しか)を堂前に献ず。》是は羅馬帝國のアンドロクルスが、獅子の足に立た刺を拔た禮返しに食を受け、後日又其獅子に食るべき罪に中り[やぶちゃん注:「あたり」。]乍ら、食はれなんだ話に似居るが、虎が鹿を献じただけが今昔物語の此話に似て居る。

[やぶちゃん注:「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「夷堅志」は南宋の洪邁(こうまい 一一二三年~一二〇二年)が編纂した志怪小説集。一一九八年頃成立。二百六巻。南方熊楠は、この本が結構、好きで、他の論文でもしばしば引用元として挙げている。原文は「漢籍リポジトリ」のこちらを参考にした。

「安成記」元代の、現在の江西省の年代記。散佚しているが、後代の書に引用が見られる。

「都區」不詳。一種のある地区を管理する下級の者か。

「橫骨」摂餌した獣の骨が口蓋内で横に刺さってしまったものであろう。

「アンドロクルス」ローマの奴隷。Bakersfield氏のブログ「クラバートの樹」の「アンドロクレスとライオン」に、まず、ざっくりと梗概が紹介されており、それによれば、『逃亡奴隷のアンドロクレスが闘技場でライオンの餌食になりかけたとき、ライオンは彼を認識し、抱擁を交わして再会を喜び合った』、『不審に思った皇帝が事情を尋ねると、奴隷はかつてそのライオンの足の棘を抜いてやったことがあるという。ライオンはその恩を忘れずに彼を助けたのである』。『この話に感銘を受けた皇帝はアンドロクレスを赦ゆるし、ライオンともども自由の身にした』とある。以下、話が細かく語られてあるので(ディグが博物学的で敬服した)、一読をお勧めする。この皇帝が、かのカリギュラとあって、「ほう!」と思った。また、「イソップ寓話集」の「羊飼いとライオン」でリメイクされてもいるそうである。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 四~(1) / 卷第三阿闍世王殺父王語第(二十七)

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。なお、現行の諸本では標題最後の話柄ナンバーは欠落している。ここは底本では経典の漢文は白文で返り点が打たれていない。参照した「大蔵経データベース」の画像でも返り点はなく、訓読に難渋した。前回に引き続き、熊楠の本文がかなり読み難いので、( )推定の読みを歴史的仮名遣で附した。]

 

      

〇阿闍世王殺父王語《阿闍世王(あじやせわう)、父の王を殺せる語(こと)》(卷三第二七)此話は經律論共に屢ば繰り返された所で、其れ其れ文句が多少異つて居る。芳賀博士の纂訂本二五〇――二頁には、出處として法苑から大智度論と未生怨經と菩薩本行經を孫引きし居るが、孰れも確(しか)と精密に物語の本文と合はぬ。

[やぶちゃん注:芳賀矢一のそれは、ここからで、最後に以上が並べて置いてある。]

 予が明治二十八、九年書き拔き置た課餘隨筆と云(いふ)物を搜し出し見ると、物語の前半は佛說觀無量壽經(劉宋譯)から出たらしい。如是我聞、一時佛在王舍城耆闍崛山中云々《是くのごとく、我れ、聞く、一時、佛、王舍城、著闍崛山(ぎしやくつせん)の中に在り云々》。時に王舍大城の太子阿闍世其父を幽す、置於七重室内、制諸群臣、一不得往、國大夫人名韋提希、恭敬大王、澡浴淸淨、以酥蜜和麨、用塗其身、諸瓔珞中盛葡萄漿、密以上王、爾時大王、食麨飮漿、求水漱口、漱口云々《七重の室内に置き、諸群臣を制し、一(ひとり)も往(ゆ)くを得ず。國の大夫人、韋提希(いだいけ)と名づく。大王を恭敬し、澡浴(さうやく)[やぶちゃん注:体を洗い清めること。]して淸淨にし、酥(そ)[やぶちゃん注:牛乳から製した食用油。]と蜜を以つて麨(むぎこがし)に和(あ)え、以つて用ひるに、其の身に塗り、諸(もろもろ)の瓔珞(えうらく)の中(なか)に葡萄の漿(しる)を盛り、密かに以つて王に上(たてまつ)れり。爾(こ)の時、大王、麨を食し、漿を飮む。水を求めて口を漱ぎて云々。》、大目犍連(だいもくけんれん)、平生(へいぜい)王と親しかりし故、可鷹隼飛疾至王所、日日如是、授王八戒、世尊亦遣富樓那、爲王說法《鷹・隼の飛ぶべく、疾(はや)く王の所に至り、日々是くのごとくして、王に八戒を授く。世尊、亦、富樓那(ふるな)を遣はし、王の爲めに法を說く。》三七日[やぶちゃん注:二十一日。]斯くのごとし。王(わう)守門者(しゆもんしや)を鞫(ただ)し子細を聞き、怒(いかつ)て、即執利劍、欲害其母、時有一臣、名曰月光、聰明多智、及與耆婆、爲王作禮、白言大王、臣聞燈昆陀論經說、劫初已來、有諸惡王、貪國位故、殺害其父、一萬八千、未曾聞有無道害母、王今爲此殺逆之事、汚刹利種、臣不忍聞是栴陀羅、我等不宜復住、於此時、二大臣說此語竟、以手按劍、却行而退云々。王聞此語、懺悔求救、即便捨劍、止不害母、勅語内官、閉置深宮、不令復出《即ち、利劍を執り、其の母を害せんとす。時に一(ひとり)の臣有り、名づけて「月光」と曰ふ。聰明多智にして、耆婆(ぎば)[やぶちゃん注:大臣の名前。則ち、ここでは諫言する重臣が二人に分離しているのである。]と共に王の爲めに禮を作(な)し、大王に白(まう)して言はく、「臣、『昆陀(こんだ)論』[やぶちゃん注:狭義にはバラモン教の根本聖典で、広義にはウパニシャッド文献も含めたヴェーダ聖典を指す。但し、その経典自体は散佚してない。]の經說を聞くに、劫初已來、諸(もろもろ)の惡王有り、國位を貪る故に、其の父を殺害(せつがい)せるは、一萬八千あるも、未だ曾つて、無道に母を害せるもの有るを聞かず。王、今、この殺逆の事を爲さば、刹利(せつり)[やぶちゃん注:古代インドにおける四姓(カースト)の一つとして知られるクシャトリアの漢音訳。最高の婆羅門族の次位にして王族及び士族階級を言う。]の種(しゆ)を汚(けが)さん。臣、是の旃陀羅(せんだら)[やぶちゃん注:インドで四姓の最下級のスードラ=首陀羅(しゅだら)よりもさらに下の階級であるチャンダーラの漢訳。屠畜・漁猟・獄守などの職業に携わった。所謂、存在自体が穢ていると認識された不可触民のこと。]たらんことを聞くに忍びず。我等、宜しく、復た、住するべからざるなり。」と。時に二大臣、此の語(こと)を說き竟(をは)れば、手を以つて劍を按じ、卻-行(あとしさ)りして退(しりぞ)く云々、王、此の語を聞きて、懺悔して、救ひを求め、即ち、劍を捨て、止(や)め、母を害せず。内官に勅語し、深宮に閉(とざ)し置き、復た、出でしめず。》とある。寶物集には葡萄を蒲桃に作れるが、本草綱目に葡萄一名蒲桃《葡萄、一(いつ)に蒲桃と名づく。》と有る。芳賀博士が引いた三經よりは、此經の文がずつと善く物語の文に合(あふ)て居(を)る。なほ此の經の異譯諸本を見たら一層善く合たのも有るだらうが、座右に只今無い故調査が屆かぬ。涅槃部の諸經にも阿闍世王父を害したことが出居るから、其等の中にも有るだらうが、一寸見る譯に行かぬ。

[やぶちゃん注:「課餘隨筆」これ、実は、漢籍などの書名ではなく、南方熊楠自身が、思いついた時に種々の書物から抜書をするための資料ノートの私的な標題であるらしい。されば、以下、経典が引かれているのだが、正確に「佛說觀無量壽經(劉宋譯)」に再度当たったかどうか、甚だ怪しい気がする(特に末尾の断りはそれを深く窺わせる)。返り点がないことからも、これはその過去に於いて熊楠が書写したものがベースである可能性があり、「大蔵経データベース」で、同一であるはずの同経と比べてみても、かなり表記漢字に異同があるのである。個人的には、底本よりも、より確度が高いと判断される「大蔵経データベース」のものを優先した。

「耆婆」大臣の名前。則ち、ここでは諫言する重臣が二人に分離しているのである。

「昆陀論」狭義にはバラモン教の根本聖典で、広義にはウパニシャッド文献も含めたヴェーダ聖典を全体を指す。但し、その最古層の重要だった経典そのものは散佚して、ない。「刹利」古代インドにおける四姓(カースト)の一つとして知られるクシャトリアの漢音訳。最高の婆羅門族の次位にして王族及び士族階級を言う。

「旃陀羅」カースト最下級のスードラ=首陀羅(しゅだら)よりも、さらに下の階級とされるチャンダーラの漢訳。屠畜・漁猟・獄守などの職業に携わった。所謂、存在自体が穢(けが)ていると認識された不可触民のことを指す。]

 

 扨物語本文の後半の出處として予が書留置(おい)たは、北凉曇無讖(どんむせん)が詔を奉じて譯した大涅槃經で、その卷十九及二十の文頗る長いから悉く爰に引き得ぬが、此後半話の出處は一向芳賀氏の本に見えぬから大要を述(のべ)んに、耆婆(ぎば)、王に說(とき)て、阿鼻地獄極重之業、以是業緣必受不疑云々。唯願大王速往佛所、除佛世尊、餘無能救、我今愍汝故相勸導《『阿鼻地獄の極重(ごくぢゆう)の業(ごふ)、是れを以つて業緣、必ずや受けんことを疑はず』云々、『唯だ、願はくは、大王、速やかに佛所へ往(ゆ)かれんことを。佛世尊を除いて、餘(ほか)に能く救ふ、無し。我れ、今、汝を愍(あは)れむが故、相ひ勸導す』。》といふ。此時、故(こ)父王の靈、像(すがた)無くして、聲のみ、有り、耆婆の勸めに隨ひ佛に詣(まゐ)れと敎へ、王之を聞(きき)て大(おほい)に病み出す。佛之を知つて、入月愛三昧、入三昧已、放大光明、其光淸凉、往照王身、身瘡卽愈、欝蒸除滅、王語耆婆言、曾聞人說、劫將欲盡、三月並現、當是之時、一切衆生患苦悉除、時既未至、此光何來、照觸吾身瘡苦除愈、身得安樂《月愛三昧(がつあいざんまい)に入る。三昧に入り已(をは)つて大光明(だいくわうみやう)を放つ。その光、淸凉にして、往(ゆ)きて王の身を照らす。身の瘡(かさ)、卽ち愈え、鬱蒸(うつじよう)、除滅す。王、耆婆に語りて言はく、「曾つて人の說(と)くを聞くらく、『劫(こう)、將(まさ)に盡きんとすれば、三つの月、並び現(げん)ず。是の時に當(あ)たりて、一切衆生の患苦(げんく)、悉く、除かる。』と。時、既に、未だ至らざるに、此の光り、何(いづ)くより來たつて、吾が身を照-燭(てら)し、瘡苦(さうく)、除き愈え、身の安樂を得たるや。」と。》。耆婆、是は佛の光明なりと說き佛に詣るべく勸めると、王言我聞如來、不與惡人同止坐起語言談論、猶如大海不宿死屍云々《王言はく、「我れ、聞く、『如來は、惡人と同じくあるも、坐し、起き、語り、言ひ、談論をば同じく與(とも)にはせず。猶ほ、大海の、死屍を宿(とど)めざるがごとし。』[やぶちゃん注:この部分、訓読に自信がない。識者の御教授を乞う。]と。」云々》。其より耆婆長たらしく諸譬喩を引た後言く、大王世尊亦爾、於一闡提(無佛性(むぶつしやう)の奴)輩、善知根性而爲說法、何以故、若不爲說、一切凡夫當言如來無大慈悲云々《大王、世尊も亦、然り、一(ひとり)の闡提(せんだい)(無佛性の奴[やぶちゃん注:この熊楠の謂いはちょっと大きな誤解を与える。ここは「仏法を謗(そし)り、成仏する因を、今現在は持っていない者」を指す。])の輩(やから)に、能く根性(こんじやう)を知りて、爲めに法を說く、何を以つての故ぞ。若し、爲めに說かずんば、一切の凡夫、將に言ふべし、『如來には大慈悲なし。』と云々。》とて、如來が良醫の能くいかなる難症をも治する如くなるを言ふ。於是(ここにおいて)王然らば吉日を撰んで佛に詣でんといふと、耆婆吉日も何も入らぬ、即刻往き玉へと勸む。王便ち夫人と嚴駕車乘《嚴(いかめ)しき駕-車(くるま)に乘り》、大行列を隨へて佛に詣る。車一萬二千、大象五萬、馬騎十八萬、人民五十八萬、王に隨行したと有る。物語に五萬二千車五百象と有るは、經文が餘りに大層だから、加減して何かの本に出たのを採(とつ)たのだろ[やぶちゃん注:ママ。]。爾時佛告諸大衆言、一切衆生、爲阿耨多羅三藐三菩提近因緣者、莫先善友、何以故、阿闍世王、若不隨順耆婆語者、來月七日、必定命終墮阿鼻獄、是故近因莫若善友、阿闍世王復於前路聞、舍婆提毘流離王乘船入海遇火而死、瞿伽離比丘生身入地至阿鼻獄、須那刹多作種種惡、到於佛所衆罪得滅、聞是語已、語耆婆言、吾今雖聞如是二語、猶未審定、汝來耆婆、吾欲與汝同載一象、設我當入阿鼻地獄、冀汝捉持、不令我墮、何以故、吾昔曾聞得道之人不入地獄。《爾(そ)の時、佛、諸(もろもろ)の大衆に告げて言はく、「一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の近き因緣と爲(な)る者は、善友より先なるは莫(な)し。何を以つての故に。阿闍世王、復た耆婆の語(ことば)に隨順せずんば、未月(びげつ)七日、必定、命、終はり、阿鼻獄に墮ちん。是の故に、近き因は善友に若(し)くは無し。」と。阿闍世王、復た、前路に於いて、聞くらく、「舍婆提(しやばだい)の毘瑠璃(びるり)王は、乘船して、海に入り、火に遇ひて死す。瞿伽離(くぎやり)比丘は生身(しやうしん)にて、地に入り、阿鼻獄に至る。須那刹多(すなせつた)は、種種の惡を作(な)せしに、佛所に到りて、衆罪、滅するを得たり。」と。この語(ことば)を聞き已(をは)りて、耆婆に語りて曰はく、「吾れ、今、是くのごとき言を聞くと雖も、猶ほ、未だ審かに定(ぢやう)せず。汝、來たれ、耆婆よ、吾れ、汝と同じき一象に載らんと欲す。設(まう)けて、我れ、當(まさ)に阿鼻地獄に入るべきならば、冀(ねがは)くは、汝、捉(と)り持つて、我れをして墮ちしめざれ。何を以つての故に。我れ、昔、曾つて、『得道の人、地獄に入らず。』聞けばなり。」と。》其より佛の說法を拜聽し、證果得道した次第を長々と說き有る。

[やぶちゃん注:「月愛三昧」釈迦が、まさにこの阿闍世王の身心の苦悩を除くために入(はい)られた三昧の名。清らかな月の光が青蓮華(しょうれんげ)を開花させ、また、夜道を行く人を照らして歓喜を与えるように、仏が、この三昧に入れば、衆生の煩悩を除いて、善心を増やさせ、迷いの世界にあって、悟りの道を求める行者に歓喜を与えるとされる。

「鬱蒸」もの凄い蒸し暑さ。無間地獄への阿闍世王の懼れが生んだ心身症的なそれであろう。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 三 / 「卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四」の「出典考」の続き

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話は五年前に、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」の私の注の中で、全文を電子化し、簡単な語注を本文内に挟んである(今回、その部分のみを、再度校訂し、正字不全や、語注を追加しておいた)にので、まず、それを読まれたい。また、その宵曲の当該作自体が、恐らくは本論に対して有益な情報をも与えてくれる内容でもあろうからして、全文を読まれんことを強くお勧めする。参考底本ではここから。なお、本パートはやや長いので、「選集」の段落分けに従って十一段落とし、以下に全部を示した。各段落の後に注を附し、その後は一行空けた。以下の添え辞の「今昔物語集」の標題は私の記事標題が正しく、不全である。読みは「四國の邊地を通りし僧、知らぬ所に行きて、馬に打ち成さるる語(こと)」である。またまた、読みが難しい字が他出するので、今回は私が推定で( )で読みを直接に入れ、数少ない底本のそれは、《 》で示した。

 

        

  (通四國邊地僧被打成馬語出典考承前)

 

 予一切經を通覽せしも、此羅馬俗話其儘の同話又類話は無い、然し前の部分に酷似(よくに)たのと、後の部分に大體似たのが別々に有る、乃(すなは)ち唐の義淨譯根本說一切有部毘奈耶(いうぶびなや)雜事二七に、鞞提醯國の善生王(ぜんしやうわう)の夫人男兒を生む、此兒生れ已(をは)りて國民皆な飮食(おんじき)を得易く成(なつ)た迚、足飮食(すうおんじき)と名く、善生王の後又別に夫人を娶り子を生み、立(たて)て太子とす、足飮食王子住(とど)まれば、必ず誅せらるべしとて、半遮羅國に遯(のが)れ、其王女を娶り男兒を生む、其日國中飮食得易かつたので多足食(たすうじき)と名く。程無く父王子歿しければ、王命により其妃を或る大臣に再嫁し、多足食王子も母に隨て其大臣方に在り、時に、大臣家有ㇾ雞栖宿、相師見已、作如是語、若其有ㇾ人、食此雞者、當得爲ㇾ王、大臣聞已、不ㇾ問相師、便殺其雞、謂其妻曰、汝可營ㇾ膳待我朝還、夫人卽令烹煮、時多足食從學堂來、不ㇾ見其母、爲飢所ㇾ逼、見ㇾ有沸鐺、便作是念、我母未ㇾ來、暫觀鐺内、有ㇾ可ㇾ食不、遂見雞頭、卽便截取、以充小食、母既來至、問言食未、答曰且食雞頭、母卽與ㇾ食、令ㇾ歸學所《大臣の家に鷄(にはとり)有りて、栖み宿る。相師[やぶちゃん注:占い師。]、見已(をは)りて、是くのごとき語を作(な)す、「若し、其れ、人、有りて、此の鷄を食らへば、當(まさ)に王と爲(な)るを得べし。」と。大臣、聞き已りて、相師に問はずして、便(すなは)ち、其の鷄を殺し、其の妻に謂いて曰はく、「汝、膳を營んで、我が朝(てう)より還るを待つべし。」と。夫人、卽ち、烹煮(はうしや)せしむ。時に、多足食、學堂より來たりて、其の母を見ず。飢えの逼(せま)る所と爲(な)りて、沸ける鐺(なべ)の有るを見るや、便ち、是れ、念(おも)ひを作(な)すに、『我が母、未だ來たらず。暫く鐺の内を觀(み)ん、食ふべきものの、有りや不(いな)や。』と。遂に鷄の頭を見、卽ち便ち、截り取りて、以つて小食に充(あ)つ。母、既に來たり至り、問ふに、「食せりや、未だしや。」と言ふ。答へて言はく、「且つは、鷄の頭を食せり。」と。母、卽ち、食を與へ、學所に歸らしむ。》、大臣歸り見ると鷄頭無し、妻に問(とう)て兒が食(くふ)て去つたと知る。抑(そもそ)も此の鷄を全(まる)で食(くふ)て王と成得るか、少しく食ふても成れるかと疑ひを成(しやう)じ、彼(かの)相師に問ふと、答ふらく、全身を食(くは)ずとも、頭さへ食(くふ)たら王に成る、若し他人が鷄頭を食たなら、其奴(そやつ)を殺し、其頭を食ふと王に成ると、大臣便ち彼(かの)繼子を殺さんとて、妻に夫と子と何(いづ)れが王に成(なつ)て欲(ほし)いかと尋(たづね)る、妻、お座成(ざなり)に夫の方を望むと答へ、私(ひそか)に子をして其亡父の生國へ逃れしめた、其の途上で、丁度亡父の弟王病死し、群臣嗣王(しわう)を求むるに出會ひ、此兒人相非凡だから、選ばれて王に成(なつ)たと有る。

[やぶちゃん注:「鞞提醯」「選集」には『ヴイデハー』とルビする。古代インドのどこかは不詳。

「善生王(ぜんしやうわう)」底本は「無生王」。「選集」の表記を「大蔵経データベース」で同経典を確認して訂した。後の同語も、かくした。

「半遮羅」「選集」には『パンチアーラ』とルビする。同前。

「父王子」原文を見たが、以上のパートはもっと複雑で恐ろしく長い。熊楠はそれを、無理矢理、簡略化しているのである。そのため、判り難いが、ここは逃れた半遮羅国の義父王の嗣子の王子が亡くなったのである。以下、二国の継嗣問題が絡んでいるために実はかなり解読が難しいのだが、私はそのように読んだ。]

 

 一八四五年板「デ・ボデ」男「ルリスタン」及び「アラビスタン」紀行、卷二、頁一八に、「グラニ」人年々鷄の宴を催す、各村の戶主各一鷄を僧方に持集(もちよ)り、大鍋で煮た後、その僧一片づゝ鷄肉を一同へ輪次盛り廻るに、鷄頭を得る者は、其年中、特にアリ聖人の贔屓を受(うく)るとて欣喜す、此輩又墓上に鷄像を安置し、鷄像を形代(かたしろ)として諸尊者の祠に捧ぐと見ゆ、熊楠謂ふに、古印度の提醯國民も、此波斯(ペルシヤ)のグラニ人も、梵敎と囘敎を信じ乍ら、以前鷄を族靈《トテム》として尊崇した故風を殘存したのであらう。

[やぶちゃん注:「選集」では、以上の段落は全体が一字下げである。確かに、次の段落では

『一八四五年板「デ・ボデ」男「ルリスタン」及び「アラビスタン」紀行』イングランドの男爵クレメント・アウグストゥス・グレゴリ・ピーター・ルイス・ドゥ・ボーデ(Clement Augustus Gregory Peter Louis De Bode, baron 一七七七年~一八四六年)かと思われる。この“Travels in Luristan and Arabistan”の作者として知られるだけのようである。「ルリスタン」が現在のイランのロレスターン州:ラテン文字転写:Lorestān)。イランでも古い歴史をもつ地域で、紀元前第三千年紀・第四千年紀に、外から入ってきた人々がザーグロスの山地に住み着いたのが起源とする。位置は当該ウィキ地図を参照されたい。「アラビスタン」は旧アラビスタン首長国。十五世紀から一九二五年まで元「アラブ首長国連邦」であったが、現在はイランの一部。位置は英文ウィキ「Emirate of Arabistan」地図を参照。「Internet archive」で原本が見られるが、熊楠の指示したページにはない。「選集」でも同じページだが、今までにも、誤記を見出した経緯があったので、ダメモトでフル・テクストを機械翻訳して調べたところが、図に当たった! これは「一八〇頁」の誤りであった! 久々に南方熊楠のオリジナル注で快哉を叫んだ! ご覧あれ! 「180」ページの十一行目に「the Gúrani」とあり、「181」の十一行目に「Ali」、十四行目に「アリ聖人」の意らしい「Ali-Iláhi」とあって、ここで熊楠の言っていることが確かに載っている! 「南方熊楠全集」再版本では注して訂すべし!

 

 又同書卅に、老娼他の妓輩と賭(かけ)して、女嫌ひの若き商主を墮(お)とさんとて、自分の子も商用で久しく不在也、名も貌も同じき故、吾子同然に思う迚親交す、商主老娼の艷容無雙なるに惚れ、一所に成(なら)んと言出(いひだ)すと、汝の財物悉く我家に入(いれ)たら方(まさ)に汝が心を信ぜんと言ふ、因て悉く財物を運び入れしを、後門より他へ移し去り、酒に醉睡(ゑひねむ)れる商主を薦(こも)に裹んで衢(まち)へ送り出す、大に悲んで日傭(ひやとひ)となり、偶然父の親交有りし長者方に傭はれに之(ゆ)くと、その名を聞(きき)て憐れみ慰め、女婿(ぢよせい)とすべしと云ふ、商主何とか老娼に詐(かた)り取れた財貨を取還した上(うへ)にせんと、暫時婚儀の延期を乞ふ、是時遊方(商主の名)出ㇾ城遊觀、於大河中、見死屍隨流而去、岸上烏鳥欲ㇾ餐其肉、舒ㇾ嘴不ㇾ及、遙望河邊、遂以ㇾ爪ㇾ捉、箸揩拭其嘴、嘴便長、去食其死肉、食ㇾ肉足已、復將一箸揩ㇾ嘴、令縮如ㇾ故無ㇾ異。遊方見已、取ㇾ箸而歸、遂將五百金錢、往婬女舍、報言、賢首、往以無錢、縛ㇾ我舁出、今有錢物、可ㇾ共同歡、女見ㇾ有ㇾ錢、遂便共聚、是時遊方既得其便、即將一箸彼鼻梁、其鼻遂出、長十尋許、時家驚怖、總命諸醫、令其救療、竟無一人能令ㇾ依ㇾ舊、醫皆棄去、女見醫去、更益驚惶、報遊方曰、聖子慈悲、幸忘舊過、勿ㇾ念相負、爲ㇾ我治ㇾ之、遊方答曰、先當ㇾ立ㇾ誓、我爲ㇾ汝治、先奪我財、並相還者、我當爲療、答言、若令ㇾ差者、倍更相還、對衆明言、敢相欺負、即取一箸、揩彼鼻梁、平復如ㇾ故、女所ㇾ得物、並出相還、得ㇾ物歸ㇾ家、廣爲婚會云々《是の時、遊方(いうはう)(商主の名)、城を出でて遊觀す。大河の中に於いて、死-屍(しかばね)、有り、流れに隨ひて去るを見る。岩の上の烏鳥(うてう)その肉を餐(くら)はんと欲し、嘴(くちばし)を舒(の)ぶれども、及ばず。遙かに河邊(かはべ)を望み、遂に爪を以つて箸(はし)を捉(と)り、その嘴を揩-拭(こす)るに、嘴、便(すなは)ち長(の)ぶ。去(い)にて其の死肉を食らひ、肉を食らひ、足り已(をは)るや、復た、一つの箸を將(と)つて嘴を揩(こす)り、縮みて、故(もと)のごとく異なること無からしむ。遊方、見已りて、箸を取りて歸る。遂に五百金錢を將(も)つて、婬女の舍(いへ)に往(ゆ)く。報(つ)げて言はく、「賢首(そもじ)、往(さき)に、錢無きを以つて我れを縛りて、舁(かつ)ぎ出だせり。今は、錢-物(ぜに)有り。同じく歡を共にすべし。」と。女、錢あるを見て、遂に、便ち、共に聚(むつ)む。是の時、遊方、既に其の便(すき)を得て、即ち、一つの箸を將(も)て、彼の鼻梁を揩(こす)る。其の鼻、遂に出でて、長さ十尋(ひろ)[やぶちゃん注:中国では一尋は八尺。引用本は唐代であるから、一尺は三十一・一センチメートルなので、二メートル四十八・八センチメートルとなる。]許りなり。時に家のもの、驚き怖れ、總ての諸醫に命じて、其れを救療せしむ。竟(つひ)に、一人も、能く舊(もと)に依(もど)さしむるもの、無し。醫、皆、棄てて去る。女、醫の去るを見て、更に、益(ますま)す驚き惶(おそ)れ、遊方に報げて曰はく、「聖子(せいし)よ、慈悲もて、幸ひに舊過(きうくわ)を忘れ、相ひ負(そむ)くを念(おも)ふ勿(な)かれ、我が爲めに之れを治せよ。」と。遊方、答へて曰はく、「先(ま)づ、當(まさ)に誓ひを立つべくんば、我れ、汝が爲めに治せん。先(さき)に、我が財を奪ひしを、並(みな)、相ひ還(かへ)さば、我れ、當に爲めに療ずべし。」と。答へて言ふ、「若し、差(い)えしむれば、倍して、更に相ひ還さん。衆(しゆ)に對し、明言す。敢へて相ひ欺-負(あざむ)かんや。」と。即ち、一つの箸を取りて、彼の鼻梁を揩(こす)るに、平復して故(もと)のごとし。女、得し所の物、並(みな)、出だして相ひ還す。物を得て家に歸り、廣く婚會(こんくわい)を爲す云々》。

[やぶちゃん注:「同書三〇」は話が前々段落に戻って「根本說一切有部毘奈耶雜事」の第三十巻となる。ここでは、「大蔵経データベース」の当該巻のデータに不審があったので、「漢籍リポジトリ」のそれに切り替えた。このサイトは「本草綱目」の引用でよく使っており、信頼度は私的には非常に高い。]

 

 此二話は、「ラルストン」英譯「シエフネル」西藏說話一九〇六年板八章と十一章に出居るが、唐譯と少く異(ちが)ふ、唐譯英譯共に趣向凡て羅馬譚に似て居るが、草を食はせて女を驢にし報復する代りに、鼻を揩(こすつ)て高くし困らすとし居る。だから高木氏が、此篇の終りに明記を添えられ度(たい)のは、幻異志には、娘子に草を食はせて驢とする事有りや否(いなや)で、其が有らば、日本には存(そん)せぬが、支那には羅馬と同源から出た話が有(あつ)たと見て可(よ)い。又前にも言(いつ)た通り、幻異志に娘子を笞つて驢と作(な)すと明記有らば、他に此例は無いのだから、此一事が今昔物語の此話が幻異志より出た確證に立つ筈だ。

[やぶちゃん注: 『「ラルストン」英譯「シエフネル」西藏說話』「西藏說話」に「選集」では『チベタン・テイルス』とルビする。調べたところ、エストニア生まれのドイツの言語学者・チベット学者であったフランツ・アントン・シェイファー(Franz Anton Schiefner 一八一七年~一八七九年)がドイツ語で書いたものを、一八八二年にイギリスのロシア学者で翻訳家でもあったウィリアム・ラルストン・シェッデン-ラルストン(William Ralston Shedden-Ralston 一八二八年~一八八九年)が一八八二年に英訳した“Tibetan tales”と思われる。「Internet archive」のこちらで当該版の英訳原本が読める。ちょっと当該章を読むエネルギは、ない。悪しからず。

「幻異志には、娘子に草を食はせて驢とする事有りや否で、其が有らば、日本には存せぬが、支那には羅馬と同源から出た話が有たと見て可い。又前にも言た通り、幻異志に娘子を笞つて驢と作すと明記有らば、他に此例は無いのだから、此一事が今昔物語の此話が幻異志より出た確證に立つ筈だ」今回、再度、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」に出る「板橋三娘子」(はんきょうさんじょうし)の話を「河東記」で読み直してみた。すると、まず、熊楠の言う「草」というのは、ある。驢馬にするのに用いたものは、家の中のミニチュアの畑で、木彫りの牛と人形を使役して生えさせた蕎麦の実を元にした焼餅(シャオピン)だからである。また、鞭を打って驢馬にするシーンはないが、後半で驢馬にされてしまった三娘子に跨って主人公の李和(彼はその驢馬が三娘子であることを知っている)が驢馬に鞭打って旅をするというシークエンスはある。但し、乗る驢馬に鞭打つのは当たり前だから、熊楠の必要条件には、残念ながら、該当しない(因みに、彼女は最後には不思議な老人が、驢馬の口と鼻との辺りに手をかけて二つに裂くと、彼女がそこから躍り出て、目出度く元の人間に戻り、姿を晦まして、大団円となる)。やはり、かなり親和性の強い類話であることは、最早、間違いない。しかし、では、「今昔物語集」の例の話の原拠と言えるか? と問われると、やはり、クエスチョン、とせざるを得ない。]

 

 幼時和歌山で老人に聞いた譚に、或人(あるひと)鼓(つづみ)を天狗とかより授り、之を打つとお姬樣の鼻が無性に長くなり、又打變(うちかへ)ると低く成ると云(いふ)事有(あつ)たが、田邊には知(しら)ぬ人勝(ひとがち)だ。和歌山へ聞合(ききあは)せた上、本誌へ寄(よす)べし。

[やぶちゃん注:以上の短い段落は、やはり補足的なもので、「選集」では全体が一字下げになっている。なお、この類話は昔話にかなりある。]

 

 草を食(はせ)て人を驢とする話佛經にもあるは、出曜經卷十に、昔有一僑士、適南天竺、同伴一人、與彼奢婆羅呪術家女人交通、其人發意、欲ㇾ還歸家、輒化爲ㇾ驢、不ㇾ能ㇾ得ㇾ歸、同伴語曰、我等積年離ㇾ家、吉凶災變永無消息、汝意云何、爲ㇾ欲歸不、設欲ㇾ去者可時莊嚴、其人報曰、吾無遠慮、遭値惡緣、與呪術女人交通、意適欲ㇾ歸、便化爲ㇾ驢、神識倒錯、天地洞燃爲ㇾ一、不ㇾ知東西南北、以ㇾ是故、不ㇾ能ㇾ得ㇾ歸、同伴報曰、汝何愚惑、乃至ㇾ如ㇾ此、此南山頂、有ㇾ草名遮羅波羅、其有人被呪術鎭壓者、食彼藥草、即還服ㇾ形、其人報曰、不ㇾ識此草、知當如何、同伴語曰、汝以ㇾ次噉ㇾ草、自當ㇾ遇ㇾ之、其人隨語、如彼教誡、設成爲ㇾ驢、即詣南山、以ㇾ次噉ㇾ草、還服人形、採取奇珍異寶、得同伴安隱歸家《昔、一りの僑士(たびびと)有り、南天竺に適(ゆ)くに、一人と同伴するに、彼(か)の奢婆羅(じやばら)呪術家[やぶちゃん注:阿修羅を信望する呪術の家系の意か。]の女人(によにん)と交-通(まじは)りたり。其の人、發意(ほち)して、家へ還-歸(かへ)らんと欲すれば、輒(すなは)ち、化(け)して驢(ろば)と爲り、歸るを得る能はず。同伴、語りて曰はく、「我等(われら)、積年、家を離れ、吉凶災變、永く消息無し。汝の意は云何(いかん)、歸らんと欲するや不(いな)や。設(まう)けて去らんと欲さば、時に莊嚴(しやうごん)すべし。」と。其の人、報(こた)へて曰はく、「吾れ、遠き慮(おもんぱか)りなく、惡緣に遭(めぐ)り値(あ)ひ、呪術の女人と交-通れり。意、適(たまた)ま歸らんと欲すれば、便ち、化して驢と爲る。神識[やぶちゃん注:精神と意識。心。]、倒錯し、天地、洞然(どうねん)として[やぶちゃん注:すっかり抜けきってしまい。]一つとなり、東西南北を知らず。是の故を以つて、歸るを得る能はず。」と。同伴、報(こた)へて曰はく、「汝、何ぞ愚-惑(おろ)かなること、乃(すなは)ち、此くのごときに至るや。此の南の山の頂きに草有り、『遮羅波羅(じやらばら)』と名づく。其れ、人の呪術に鎭厭(ちんよう)[やぶちゃん注:「鎮圧」に同じ。]せらるる有らば、彼(か)の藥草を食せば、即ち、還(かへ)りて、形(すがた)を服(もど)す。」と。其の人、報(こた)へて曰はく、「此の草を識らず。知るには當(まさ)に如何にすべき。」と。同伴、語りて曰はく、「汝、次(つぎつ)ぎに、以つて、草を噉(くら)はば、自(おのづか)ら之れに遇ふべし。」と。其の人、語(ことば)に隨ひ、彼(か)の敎誡のごとく、設(もくろ)み成(な)して、驢と爲(な)り、即ち、南の山に詣(いた)り、次に、以つて、草を噉ひ、還(ま)た、還りて、人の形(すがた)を復(もど)せり。奇珍異寶を採取し、同伴と與(とも)に、安穩(あんのん)に家に歸ることを得たり」》、既に驢に化(かし)た人に復(もど)す草有りと云ふのだから、人に食はせると驢と成す草有りとの信念も行れた筈だ。

[やぶちゃん注:今回は、再び、原文を「大蔵経データベース」をもととした。]

 

 紀州田邊の昔話に、夫婦邪見なる家へ異人來り、祈りて其夫を馬に化す、妻懼れ改過(かいくわ)[やぶちゃん注:過ちを改めること。]し賴む故、其人復(また)祈り、夫の身體諸部一々人形(じんぎやう)に復すと、是れ何の據(よりどこ)ろ有るを知らずと雖も、外國に似た話有り、例せば、アプレイウスの金驢篇卷十に、「ルシウス」過つて自身に魔藥を塗り、驢に化し見世物に出で、能く持主の語を解するを見て、一貴婦其主に厚く餽(おく)り、一夜化驢(ばけろば)と交會して歡を盡せしより、更に死刑に當れる惡婦を其驢と衆中で婬せしめんとする話有り。蓋し羅馬が共和國たりし昔、「ラチウム」邊の法、姦婦を驢に乘せ引き廻せし後、其驢をして公衆環視中に其婦を犯さしめたるが、後には多人(あまたのひと)をして驢に代わらしめ、屢ば其婦死に至つた。其間其人々驢鳴(ろばなき)して行刑(しおき)したとぞ(一八五一年板ヂユフワル遊女史卷一、頁三一四以下)。希臘の古傳に、「クレト」島王「ミノス」神罰を受け、其后「パシプハエ」卒(にはか)に白牡牛に著(じやく)し[やぶちゃん注:色情を発し。]、熱情抑え[やぶちゃん注:ママ。]難く、靑銅製の牝牛像内に身を潛めて、牡牛の精を受け、怪物ミノタウロス(牛首人身又は人首牛身と云)を生み(グロート希臘史、一八六九年板卷一頁二一四)、埃及の「メンデス」の婦女は神廟附屬の牡山羊に身を施し、以色列《イスラエル》の女人亦神牛に身を捨(すて)し徵(あかし)あり(ダンカーヴヰル希臘巧藝の起原精神及進步、一七八五年板、一卷三二二頁)中世歐州の法に、婦女驢と交(まじは)るの罪有り、十九世紀にも馬驢牛等と姦し、其畜と俱に燒かれし人多し、(ヂユフワル卷三、頁二七六、卷六、頁一八―二五)近代醫家が實驗せる歐州婦女畜と交れる諸例、孰れも狗(いぬ)のみが共犯者たりと云ふ(ジヤクー編内外科新事彙、三九卷、五〇三頁、オット、ストール民群心理學上の性慾論、一九〇八年板、九八三―六頁參照)。

[やぶちゃん注:「アプレイウスの金驢篇」「二」~(5)で既出既注。

「クレト島」クレタ島。

「ミノス」ギリシア神話に登場するクレタ島の王で、冥界の審判官の一人。『クノッソスの都を創設し、宮殿を築いてエーゲ海を支配したとされる』。『ヘロドトスやトゥーキュディデスはミノスを実在の人物と考え、プルタルコスはミノスの子ミノタウロスを怪物ではなく』、『将軍の一人だとする解釈を示している』。『近年、クレタ島のクノッソス宮殿遺跡から世界最古の玉座とともに古文書が見つかり、その碑文の中にミヌテ、ミヌロジャ』『という名前があったことから、ミノス王の実在を示すものではないかと言われている』(より詳しくは引用(名前の中の長音符のあらかたは省略した)元の当該ウィキを参照されたい)。

「パシプハエ」現行では「パーシパエー」と表記することが多い。当該ウィキによれば(名前の中の長音符のあらかたは省略した)、『太陽神ヘリオスとペルセイスの娘で』、『クレタ島の王ミノスの妻とな』った。専ら、『ミノタウロスの母として』『知られる』。『魔術に優れており、また』、『神の血を引くために不死だったとも伝えられている』、『その名の意味は「すべてに輝く」であり、本来はクレタ島の大地の女神だったと考えられている。ミノスは義父であるクレタ王アステリオスが死んだとき、クレタの王位を要求したが』、『受け入れられなかった。そこでミノスは王国が神々によって授けられた証に、自分の願いは何でもかなえられると言った。彼は海神ポセイドンに犠牲を捧げ、海から牡牛を出現させることを願い、その牡牛をポセイドンに捧げると誓った。すると願いはかなえられ、海中から』一『頭の美しい牡牛(クレタの牡牛)が現れたので、ミノスは王位を得ることができた。ところがミノスはその牡牛が気に入って自分のものにしてしまい、ポセイドンには別の牡牛を捧げた。ポセイドンは怒って牡牛を凶暴に変え、さらにパーシパエーが』、『この牡牛に強烈な恋心を抱くように仕向けた』とある。また、『別の伝承では』、『愛の女神アプロディーテが、パーシパエーが自分を敬わなかったため、あるいは父であるヘリオス神が軍神アレスとの浮気をヘーパイストスに告げたことを怨んで、パーシパエーをエロスに彼の弓矢で射させ、彼女に牡牛への恋を抱かせたとされる』。『パーシパエーは思いを遂げるため工匠ダイダロスに相談した。するとダイダロスは木で牝牛の像を作り、内側を空洞にし、牝牛の皮を張り付けた。そして像を牧場に運び、パーシパエーを中に入れて牡牛と交わらせた。この結果、パーシパエーは身ごもり、牛の頭を持った怪物ミノタウロスを生んだ』。『ミノスは怒ってダイダロスを牢に入れたが、パーシパエーはダイダロスを救い出してやったともいわれる』とある。

「ミノタウロス」当該ウィキによれば(仕儀は同前)、『ミノタウロスは成長するに』従い、『乱暴になり、手におえなくなる。ミノス王はダイダロスに命じて迷宮(ラビュリントス)を建造し、そこに彼を閉じ込めた。そして、ミノタウロスの食料としてアテナイから』九『年毎に』七『人の少年』と、七『人の少女を送らせることとした。アテナイの英雄テーセウスは』三『度目の生け贄として自ら志願し、ラビュリントスに侵入してミノタウロスを倒した。脱出不可能と言われたラビュリントスだが、ミノス王の娘・アリアドネーからもらった糸玉を使うことで脱出できた』。『ダンテの』「神曲」では、『「地獄篇」に登場し、地獄の第六圏である異端者の地獄においてあらゆる異端者を痛めつける役割を持つ』。『この怪物の起源は、かつてクレタ島で行われた祭りに起源を求めるとする説がある。その祭りの内容は、牛の仮面を被った祭司が舞い踊り、何頭もの牛が辺り一帯を駆け巡るというもので、中でもその牛達の上を少年少女達が飛び越えるというイベントが人気であった。また、古代のクレタ島では実際に人間と牛が交わるという儀式があったとされる』とある。

「ヂユフワル遊女史」「選集」に、『イストワ・ド・ラ・プロスチチユチヨン』とルビする。ピエール・デュフォワール(Pierre Dufour 生没年未詳)の“Histoire de la prostitution chez tous les peuples du monde : depuis l'antiquité la plus reculée jusqu'à nos jous”(「世界の総ての人間世界に於ける売春の歴史:最も遠い古代から我々の時代まで」)。「Internet archive」のこちらでフランス語原本の当該一八五一年版が読める。

「ダンカーヴヰル希臘巧藝の起原精神及進步」「選集」に、『ルシヤーシユ・スル・デザルト・ド・ラ・グレク』とルビする。作者・書誌ともに調べ得なかった。

「ジャクー編内外科新事彙」「選集」に、『ヌーヴオー・ジクシヨネール・ド・メドシン・エ・ド・シルルジー』とルビする。スイス出身でフランスに帰化した医学者(病理学)フランシス・シギスモンド・ジャクー(François Sigismond Jaccoud 一八三〇年~一九一三年)が一八六四年から一八八六年まで監修し続けた大冊の“Nouveau dictionnaire de medecine et de chirurgie pratiques”(「実用医学及び外科新辞典」)。「Internet archive」のこちらで一八六四年初版原本が見られる。

「オット・ストール民群心理學上の性慾論」「選集」に『ガス・ゲシユレヒツレーベン・イン・デル・フオルカープシコロギエ』とルビする。スイスの言語学者・民族学者オットー・ストール(Otto Stoll 一八四九年~一九二二年)が一九〇八年に刊行した“Das Geschlechtsleben inderVölkerpsychologie”。]

 

 印度には星占の大家驢唇(ろしん)仙人の出生談が、大方等大集經(だいはうどうだいじつきやう)にも有るが、日藏經の方が較(やや)精(くはし)いから其を引(ひか)う。卷七に云く、此の賢劫初、膽波城の大三摩王聖主で、常樂寂靜云々、不ㇾ樂愛染、常樂潔ㇾ身、王有夫人、多貪色欲、王既不ㇾ幸、無ㇾ處ㇾ遂ㇾ心、曾於一時、遊戯園苑、獨在林下、止息自娯、見驢合群、根相出現、欲心發動、脫ㇾ衣就ㇾ之、驢見卽交、遂成胎藏、月滿生ㇾ子、頭耳口眼、悉皆似ㇾ驢、唯身類ㇾ人、而復麁澁、駮毛被ㇾ體、與ㇾ畜無ㇾ殊《常に寂靜を樂しみ云々、愛染を樂しまず、常に自ら身を潔くす。王に夫人有り、多く色欲を貪る。王、既に幸(みゆき)せず、心を遂ぐる處、無し。曾つて、一時に於いて、園苑に遊戯し、獨り、林下に在りて、止息(しそく)し、自ら娛(たの)しむ。驢(ろば)の合(あつ)まれる群れを見るに、根相、出現す。欲心、發動し、衣を脫ぎて、之れに就けり。驢、見て、卽ち、交わり、遂に胎藏を成す。月、滿ちて、子を生む。頭・耳・口・眼、悉く、皆、驢に似るも、唯だ、身(からだ)は人に類して、而して復た、麁澁(ざらつ)きて、駮(まだら)の毛、體を被(おほ)ひ、畜と殊なること、無し。》夫人見て怖れ棄(すて)しに、空中に在(あり)て墮ちず。驢神(ろしん)と名づくる羅刹婦(らせつふ)[やぶちゃん注:女の鬼。]拾ふて雪山に伴(つれ)行き乳哺す、兒の福力に因り、種々の靈草靈果を生じ、其を食ふて全身復た驢ならず、頗る美男と成たが、唇のみ驢に似たり、苦行上達して天龍鬼神に禮拜された相(さう)な。

[やぶちゃん注:今回の校閲は原経が見当たらなかったので、「大蔵経データベース」で語句で検索、最も近い「法苑珠林」(道世撰)のものを参考にしつつ、底本に従った。

「驢唇仙人」「選集」には『クハローチトハ』とルビがある。「佉盧虱吒」(かるしった:現代仮名遣)とも名乗る。サンスクリット語「カローシュティー」の音写。彼は釈迦の前身であるとも言われる。

「膽波」同前で『チヤンパ』とある。ガンジス河の南岸にあった国。玄奘の行った頃は小乗仏教国として記されてある。]

 

 大英博物館宗敎部の祕所に、牡牛が裸女を犯す所を彫(ほつ)た石碑が有つた、元と印度で田地の境界に立(たて)た物で、若し一方の持主が、他の地面を取込むと、家婦が此通りの恥辱に逢ふてう警戒(いましめ)ださうな。滅多に見せぬ物だが、予特許を得て、德川賴倫(よりみち)前田正名(まさな)鎌田榮吉野間口兼雄諸氏に見せた。十誦律六二に、佛比丘が、象牛馬駱駝驢騾(らば)猪羊犬猿猴麞(くじか)鹿鵝雁孔雀鷄等における婬欲罪を判(わか)ち居る、西曆紀元頃「ヴアチヤ」梵士作色神經(ラメイレツス佛譯、一八九一年板、六七―八頁)に根の大小に從ひ、男を兎(うさぎ)特(をうし)駔(をうま)、女を麞(のろ)騲(めうま)象と三等宛に別ち、交互配偶の優劣を論じ居るが、別に畜姦の事見えず。本邦には上古、畜犯すを國津罪の一に算へ、今も外邦と同じく、頑疾の者罕(まれ)に犬を犯すあるを聞けど、根岸鎭衝の耳袋初卷に、信州の人牝馬と語ひし由出せる外に、大畜を犯せし者有るを聞ず、或書に人身御供に立ちたる素女(きむすめ)を、馬頭神來り享(うけ)、終りて其女水に化せし由記したれど、其本據確かならず、但し人が獸裝を成(なし)て姦を行ふ事は、羅馬のネロ帝を首(はじ)め其例乏しからぬ、(ジユフワル卷二、頁三二二。十誦律卷五六。「ルヴユー・シアンチフヰク」、一八八二年一月十四日號に載せたる「ラカツサニユ」動物罪惡論三八頁)要するに、吾國に婦女が牛馬等と姦せし證左らしき者無ければ偶ま夫の根馬の大(おほき)さで常住せん事を願ひし話有りとも、本邦固有の者で無く、外より傳へたか、突然作り出したかだらう。

[やぶちゃん注:「德川賴倫」以下の人名注を附けるほど私は愚かなお人好しではない。悪しからず。

「元と印度で田地の境界に立(たて)た物で、若し一方の持主が、他の地面を取込むと、家婦が此通りの恥辱に逢ふてう警戒(いましめ)ださうな」これとかなり似た境界碑の民俗資料を(日本ではなく中国か台湾の孰れかであったように記憶する)確かに読んだことがあるのだが、今すぐには思い出せない。発見次第、追記する。

「騾(らば)」♂のロバと♀のウマの交雑種である家畜奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus 。その他の組み合わせが気になる方は、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 騾(ら) (ラバ/他にケッティ)」の私の注を参照されたい。

「麞(くじか)」鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis。朝鮮半島及び中国の長江流域の、アシの茂みや低木地帯に棲息する、小型のシカ。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麞(くじか・みどり) (キバノロ)」を参照。

「色神經」「選集」には『カマ・ストラ』とルビする。古代インドの性愛(カーマ)書「カーマスートラ」(「スートラ」は「経」の意)。四世紀頃のバラモンの学者バーツヤーヤナの作と伝えられる。性愛に関する事項をサンスクリットの韻文で記し、文学的価値も高い。「愛経」とも訳す。

「根岸鎭衝の耳袋初卷に、信州の人牝馬と語ひし由出せる」私のブログ版「耳囊 大陰の人因果の事 ≪R指定≫」を読まれたい。

「ルヴユー・シアンチフヰク」雑誌名だが、不詳。

「ラカツサニユ」不詳。]

 

 鈴木正三(しやうさん)の因果物語下の三に、參州の僧伯樂を業としたが、病(やん)で馬の行ひし、馬桶で水飮み、四足に立(たつ)抔して狂死せりと出づ、畜化狂とも言うべき精神病で(洋名リカンツロピー)、他人に化せられざりしと、身體の變ぜず、精神と動作のみ馬と成(なつ)た點が、今昔物語の話と差(ちが)ふ。若し見る人々の精神も偕(とも)に錯亂したなら、此人身體迄も馬に化したと見えるかも知れぬ。然る時は今昔物語の話を實際に現出する筈だ。故に這般(しやはん)の[やぶちゃん注:これらの。]諸話を全然無實と笑卻(わらひしりぞ)く可きで無い。因果物語中の卅三にも、馬に辛かうた者が、馬の眞似して煩ふた例三つ迄出し居る。歐州に狼化狂多く、北亞非利加に斑狼(ハイエナ)狂多く、今も日本に狐憑き多き如く、寬永頃馬を扱ふ事繁かつた世には、馬化狂が多かつたんだ。又同物語、下一六に、死後馬と生れし二人の例を列(つら)ぬ。是は變化(へんげ)ならで轉生(てんしやう)だ。佛典に例頗る多いが、一つを載(のせ)んに、佛敎嫌ひの梵志[やぶちゃん注:バラモン僧。]、豫(かね)て沙門が人の信施を食ひ乍ら精進せぬと、死(しん)で牛馬に生れ、曾て受(うけ)た布施を償ふと聞き、五百牛馬を得る積りで、五百僧を請じ、食を供へる、其中に一羅漢有り、神通力で其趣向を知り、諸僧に食後專心各(おのおの)一偈を說(とか)しめ、扨梵志に向ひ、最早布施を皆濟(すま)したと言(いふ)たので、大(おほい)に驚き悟道したと、經律異相卷四十に出ちよる。

[やぶちゃん注:「鈴木正三(しやうさん)の因果物語下の三に、參州の僧伯樂を業としたが、病(やん)で馬の行ひし、馬桶で水飮み、四足に立(たつ)抔して狂死せりと出づ」鈴木正三(天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年:江戸初期の曹洞僧で仮名草子作家。俗名の諱では「まさみつ」と訓じている。元は徳川家に仕えた旗本で、本姓は穂積氏)が生前に書き留めていた怪異譚の聞書を、没後に弟子たち(記名では義雲と雲歩撰とする)が寛文元(一六六一)年に出版したもの。江戸初期の怪奇談集として優れたもので、何時か電子化注をしたいと思っている。「愛知芸術文化センター愛知県図書館」の「貴重本和本デジタルライブラリ―」の一括PDF版の「64」コマ目の終りから視認出来る。初版原本だが、極めて読み易い。標題は「生ながら牛と成(なる)僧」。後の「付けたり」の話の最後に、「寛永十六年の春、不圖(ふと)、煩付(わづらひつき)て、百日程、馬(むま)の真似して、雜水(ざうみづ)を馬桶(むまをけ)に入(いれ)て吞(のま)せ、卽ち厩(むまや)に入て置(をく)に、四足(よつあし)に立(たち)て、足搔(あしかき)して、狂(くるひ)、力、強(つよく)、氣色(けしき)怖布(をそろしく)なり、卅八歳にて死にけり」と終っており、以下で熊楠が、「寬永頃」(一六二四年から一六四四年までで、家光の治世)と語っているのは、この記載に拠ったものであると考えられる。

「リカンツロピー」lycanthropy。ライキャンスォロフィー。狼狂・狼憑き。ギリシア語(ラテン文字転写)「lykos」(狼)と「anthrōpos」(人間)の合成語。

「變化」「選集」では『メタモルフオシス』とルビする。初出誌のルビかと思われる。

「轉生」同前で『トランスミグレーシヨン』とルビする。]

 

 歐州にも馬化狂がある。九年前の「ノーツ、エンド、キーリス」に據(よる)と、葡萄牙に「ロビシヨメ」とて、若い男女形貌枯槁し、長生せず、夜每に馬形を現じ、曙光出る迄休み無く山谷を走り廻る、夜中彼が村を走り過(すぐ)る音を聞く土民、十字を畫く眞似し、「神ロビシヨメを愍(あは)れみ祐(たす)けよ」と言ふ。之を救ふ法は唯一つ、勇進して其胸を刺し、血を出し遣(や)るのだ。或は言ふ、其人顏靑く疲れ果て、形容古怪で、他人之と語らず、怖れ且憐れむ、婦女續けて七男子を生むと、最末子(さいばつし)が魔力に依て「ロビシヨメ」となり、每土曜日驢形を受け、犬群に追れつゝ沼澤邑里(いうり)を走廻り、些(いささか)も息(やす)み無し、日曜の曙を見て纔かに止む、之を創(つ)くれば永く此患無しと。又言く、同國で狼に化する兒を「ヨビシヨメ」と言ひ、今も地下に住む「モール」人が、嬰兒に新月形(囘敎徒の徽章)を印し、斯(この)物に作(な)すと。熊楠謂ふに、「ロビシヨメ」「ヨビシヨメ」名近ければ、元或は驢又馬或は狼に化すとしたのが、後に二樣に別れたんだらう、之と較(やや)近いのは、同國の俚譚に、王后が馬頭の子でも可(よい)からと、神に祈つて馬頭の太子を產み、後年募(つのり)に應(わう)じ其妻と成(なつ)た貧女の盡力で端正の美男と成たと有る。(一八八二年板、ペドロソ葡萄國俚譚二六章)。誰も知る通り、印度の樂神乾闥婆(けんだつば)は馬頭の神だ(グベルナチス動物譚原《ゾーロヂカル・ミソロヂー》卷一、頁三六七)

        (大正二年鄕硏第一卷十號)

[やぶちゃん注:「ノーツ、エンド、キーリス」雑誌名。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and ueries)。一八四九年(天保十二年相当)にイギリスで創刊された学術雑誌。詳しくは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)」の私の注を参照されたい。

「ロビシヨメ」lobisomem。但し、現在のポルトガル語では「ロビゾーメーン」で、後の「ヨビシヨメ」の「狼憑き」を指す語である。

『地下に住む「モール」人』HG・ウェルズの「タイム・マシン」(The Time Machine:一八九五年)に登場する未来世界の地底人モーロック(Morlock)の元となったとされる、旧約聖書に出る「母親の涙と子供達の血に塗れた魔王」とも呼ばれ、人身御供が行われたことで知られる古代の中東で崇拝された神モレク(Molech)の変化したものか。綴りが判らないので調べようがない。

「ペドロソ葡萄國俚譚」ポルトガルの歴史家・民俗学者のゾフィモ・コンシリエーリ・ペドロソZófimo Consiglieri Pedroso 一八五一年~一九一〇年)が一八八二年にロンドンで発行した「ポルトガル民話譚」(Portuguese Folk-tales)。「Internet archive」で見つけた(対訳本)。英文の当該箇所はここ(右ページ)から。

「乾闥婆」「選集」では『ガンダールヴアス』とルビを振る。サンスクリット語「ガンダルヴァ」の漢音写で、「食香」「尋香」「香神」などと意訳する。仏法護持の八部衆の一人。帝釈に仕え、香(こう)だけを食し、伎楽を奏する神。「法華経」では観音三十三身の垂迹の一身に数えている。

「グベルナチス動物譚原《ゾーロヂカル・ミソロヂー》卷一、頁三六七」既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」(Zoological Mythology)。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ但し、決定的な記載は三六九頁の注辺りであろう。]

2022/04/25

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(5) / 卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四 / 二~了

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話は五年前に、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」の私の注の中で、全文を電子化し、簡単な語注を本文内に挟んである(今回、その部分のみを、再度校訂し、正字不全や、語注を追加しておいた)にので、まず、それを読まれたい。また、その宵曲の当該作自体が、恐らくは本論に対して有益な情報をも与えてくれる内容でもあろうからして、全文を読まれんことを強くお勧めする。参考底本ではここから。なお、本パートはやや長いので、「選集」の段落分けに従って四段落とし、以下に全部を示した。各段落の後に注を附し、その後は一行空けた。]

 

〇通四國邊地僧行不ㇾ知所、被打成ㇾ馬語《四國の邊地を通りし僧、知らぬ所に行きて、馬に打ち成さるる語(こと)》(卷卅一、第十四、本誌一卷五〇頁參照)人を馬にする談は諸國に多く、一八八七年板「クラウストン」の俗話小說之移化卷一の四一三至四六〇頁に夥しく亞細亞歐羅巴の諸傳を列ね居るが、亞非利加にも其例有るは、一八五三年板「パーキンス」の亞比西尼亞住記卷二、章三三に其證いづ。亞比西尼亞では、「ブーダ」と呼で、鍛工が自分をも他人をも獸に化する力有りとす、著者が遇た人々親しく、片足は人、片足は驢蹄の婦人を觀たと云ふ。此婦死して埋めた墓邊へ一人來たり、僧を語ひ其屍を購ひ、掘出し持去た、將來死人の家の門を過て市へ往く鍛工が、此頃から驢に乘て往く事と成たが、其驢が此家を過り、又家の子供を見ると高聲を發し近づき來らんとする、子なる一人何と無く、此は自分の母だらうと思付き、人をも驢をも執へると、驢、淚を流し、子に鼻を擦付る。色々鞫問すると鍛工終に白狀したは、此婦を魔法で死人同樣にし、扨[やぶちゃん注:「さて」。]埋後購ひ去て驢に化したと、其なら本へ復したら罪を赦すと約して、魔法で漸々本へ復し、片足丈驢蹄だつた時、鬱憤爆發して其子が鍛工を槍き殺したので、その母一生一足驢蹄で終つたと云ふ。

[やぶちゃん注:「本誌一卷五〇頁」初出誌である『鄕土硏究』の論文収載部の指示。「選集」に編者による『前出赤峯論文』という割注があるが、ここを指す。

『一八八七年板「クラウストン」の俗話小說之移化卷一の四一三至四六〇頁』「選集」には書名に『ポピユラル・テイルス・エンド・フイクシヨンズ』というルビが振られてある。これはイギリスの民俗学者ウィリアム・アレキサンダー・クラウストン(William Alexander Clouston 一八四三年~一八九六年)の“Popular Tales and Fictions” (「人気の高い譚と通俗小説」)。「Internet archive」のここから原本当該部が視認出来る(パート標題は“MAGICAL  TRANSFORMATIONS”(「魔術的変容」)。

『一八五三年板「パーキンス」の亞比西尼亞住記』「選集」には同前で『ライフ・イン・アビシニア』というルビが振られてある。「アビシニア」はエチオピアの別名。これはイギリスの上流階級の出身で旅行家であったマンスフィールド・ハリー・イシャム・パーキンス(Mansfield Harry Isham Parkyns 一八二三年~一八九四年)が書いた最も知られたエチオピア紀行(一八四三年から一八四六年まで滞在)“Life in Abyssinia”の初版。「Internet archive」のこちらからが当該部。ど真ん中に「ブーダ」(Bouda)と出る。

「鍛工」「かぢや」。

「驢蹄」「ろてい」。驢馬(ロバ)の蹄(ひづめ)。

「購ひ」「あがなひ」。「選集」は『購(か)い』と訓じている。

「將來」ここは「選集」に従い、「これまで」と訓じておく。

「過り」「よぎり」。

「驢」「ろば」。

「人をも驢をも執」(とら)「へる」「人」は乗っていた鍛冶屋。

「鞫問」「きくもん」と読む。厳しく問い糺すこと。「詰問」に同じ。

「終に」「つひに」。

「埋後」「まいご」と読んでおくが、あまり聴かないな。

「漸々」「やうやう」

「槍き」「つき」。]

 

 嬉遊笑覽十二に、「四國を巡りて猿と成ると云ふ諺は、風來が放屁論に、今童謠に、一つ長屋の佐次兵衞殿、四國を廻りて猿と成るんの、二人の伴衆は歸れども、お猿の身なれば置て來たんのと云り、其頃云初しには有可らず。諺は本より有しにや。扨此諺は誤ならむ、四國猿と云事より移りしか、舊本今昔物語に、通四國邊地僧行不ㇾ知所、被打成ㇾ馬語有り、奇異雜談に、丹波奧郡に人を馬に成て[やぶちゃん注:「なして」。]賣し事、又越中にて人馬に成たるに、尊勝陀羅尼の奇特にて助かりし事抔見ゆ、皆昔物語よりいひ出し事なり。されば此諺久しき事と知らる。後人、これを猿といひかへたりと思はる。又按るに搜神記に、蜀中西南高山之上、有物與猴相類。長七尺、能作人行、善走。名猴、猳。一名馬化、或曰玃、伺道人、有後者、輙盜取以去云々。取ㇾ女去而共爲室家、其無子者終身不得還、十年之後形皆類之《蜀中の西南、高山の上に、物、有り、「猴」と相ひ類(るゐ)す。長(た)け七尺、能く、人の行(おこなひ)を作(つくりな)し、善く、走る。「猳(か)」と名づけ、一つ、「馬化(ばくわ)」とも名づく。或いは「玃猨(かくえん)」とも曰ふ云々。女を取り去つて、共に室家を爲(な)す。其の子無きは、終身、還るを得ず、十年の後、形、皆、之れに類す。》と有り、是抔より出たる事か知るべからず。猴に類すと云へば、猴の形に似つかはしく、又馬化ともいふ名をひがめて[やぶちゃん注:底本(左ページ六行目)は「曲めては」。変更理由は次の注を参照。]は、馬ともいふべくや」と有る。

[やぶちゃん注:「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。岩波文庫版(筆者自筆本底本)で全巻を所持するが、漢字が新字なので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの昭和七(一九三二)年成光館出版部刊(上下二冊の「下」)の当該部を比較視認して校訂し、さらに、「捜神記」は上記二册の孰れもが複数個所で不審があるため(私は高校生の時以来、同書を偏愛している愛読者である)、「中國哲學書電子化計劃」の影印本(ここの最終行から次のページにかけて)で一部(異名の漢字が二冊とも受け入れ難いおかしなもであった)表記を正した。熊楠の引用も表記が熊楠の好みで書き換えられている箇所が多いため、結果して、南方熊楠の引用表現の一部を改めることとなったが、これは正規の正当な表現に限りなく近づけるための仕儀であり、批判される筋合いは全くないと信ずるものである。なお、ここで喜多村が引いている、「奇異雜談集」(これが正しい書名。「きいぞうだんしゅう」(現代仮名遣)と読む)のそれ、「丹波の奧の郡に人を馬になして賣し事」は、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」の私の注の中で電子化してある。

「風來が放屁論」これは風来山人(かの平賀源内の号の一つ)の書いた戯文。江戸両国橋で人気のあった昔語花咲男という曲屁芸人を論評するという形をとって、当時の閉塞した身分制社会を批判したもの。安永三(一七七四)年刊。

「猴」「玃」などは、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」を参照されたい。]

 

 諸國の人を馬や驢と作た[やぶちゃん注:「なした」。]話に就て、此方法を按ずるに、或は魔力有る藥料を身に塗付たり、(アプレユス金驢篇、西曆二世紀作、卷三)、或は魔力有る飮食を與へたり、(奇異雜談上、一八章、コラン、ド、プランシー妖怪事彙一八四五年板二八頁クラウストン上出)或は手綱や轡を加へるのだ(クラウストン同上、グベルナチス動物譚原一八七二年板卷一、三四二頁)。就れも[やぶちゃん注:「孰れも」の誤字か。]斯くして畜と成れた後で、鞭笞苦困[やぶちゃん注:「べんちくこん」。鞭打たれて苦役されること。]さるるが、此今昔物語の一條のみ、笞を以て打ち据て、引起こすと馬に成て居と[やぶちゃん注:「をると」。]有るは、此物語の特色と見える。但し高木君は幻異志の板橋三娘子の譚が此語の本源たる事疑ひ無しと言れたが、それに果たして笞で打て驢と作すと有りや、予も幻異志を見た事が有るが、十九年前の事故、一向記憶せぬ、如し[やぶちゃん注:「もし」。]笞で打て驢と作すと有らば、此話の本源たる事疑ひ無きも、其事無くば、單に類話と云ふべきのみ。高木君は本文を出さぬ故詳を知る能はざるも、其叙する所を見ると、件の幻異志中の譚は、「クラウストン」一卷九七頁に引た羅馬の俗話と同源の物に非ざるか。

[やぶちゃん注:「アプレユス金驢篇、西曆二世紀作、卷三」「選集」では書名に『デ・アシノ・アウレオ』と振る。北アフリカ・マダウロス出身の帝政ローマの弁論作家ルキウス・アプレイウス(Lucius Apuleius 一二三年頃~?:奇想天外な小説や極端に技巧的な弁論文によって名声を博した)の代表作である「変容、又は『黄金の驢馬(ロバ)』」(Metamorphoses  sive  Asinus Aureus)は、彼のウィキによれば、『魔術に興味を抱いた主人公ルキウスが誤ってロバに変えられ、数多の不思議な試練に堪えた後、イシスの密儀によって再び人間に復帰するという一種の教養小説』で、ローマ時代の小説のうち、完全に現存する唯一のものである、とある。

「奇異雜談上、一八章」これはその類別から、明らかに先の「喜遊笑覧」のそれを差しているとしか私には思えない。但し、「奇異雑談集」は、上下巻はなく、第一巻の第一話から数えると第三巻のそれは十六話目ではある。

「コラン、ド、プランシー妖怪事彙一八四五年板、二八頁」「選集」には書名に『ジクシヨネール・アンフエルナル』というルビが振られてある。フランスの文筆家コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)が一八一八年に刊行した“The Dictionnaire infernal” (「地獄の辞典」)。

「グベルナチス動物譚原一八七二年板、一卷三四二頁」同前で『ゾーロジカル・ミソロジー』とルビされている。本書電子化で複数回既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)が書いた“Zoological Mythology”(「動物に関する神話学」)。「Internet archive」の第一巻同年版原本の当該部はここ

「高木君」ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)。大正二~三年には、本篇の初出する『鄕土硏究』を柳田国男とともに編集している。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。ここで言う論文の収載書誌は不詳(『鄕土硏究』であろうとは思われる)。私も読みたい。

「幻異志の板橋三娘子の譚」「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」を参照。

「如し笞で打て驢と作すと有らば、此話の本源たる事疑ひ無きも、其事無くば、單に類話と云ふべきのみ」私はてっきりこれが典拠と思っていたが、言われてみると、確かにそんなシーンはないので、類話かなぁ。

『「クラウストン」一卷九七頁に引た羅馬の俗話』先の“Popular Tales and Fictions”の第一巻であるが、Internet archive」の一八八七年板(先に熊楠が挙げたものと同年)で調べたところ、この長いローマの物語は、熊楠の指示したページよりももっと前の、この「93」ページから「98」ページまでがそれであることが判明した。

 なお、以下の梗概は、例の熊楠特有の送り仮名の簡略や、変わった読み連発される。それを注形式で挿入すると、五月蠅くなるばかりで、読みのリズムが崩れてしまう。そこで特異的に「選集」を参考にしつつ、私の判断で独自の読みを( )で添えることとした。「私は読める」と言う御仁は、どうぞ、ご自由に。原本当該部で。

 

 言(いは)く貧人の二子(にし)、林中で大鳥が卵を落したるを拾ふと字を書付有る、庄屋に見せると、「吾頭を食ふ者帝たらん、吾心臟を食ふ者金(かね)常に乏しからじ」と有る。庄屋自身頭も心臟も食(くは)んと思ひ、二人に、是は此鳥を食ふと旨いと書て居(を)る、だから强(したたか)な棒を準備して、彼鳥を俟(まち)受けて殺せと命ず、斯(かく)て翌日二人其鳥を殺し、庄屋を待受(まちうけ)て食はんと炙(あぶ)る内、鳥の頭が火の中へ落(おち)た、焦(こげ)た物を庄屋に呈(おく)るべきで無いと思ひ、弟が拾ふて食ふて了(しま)ふ、次に心臟が火の中へ落て焦たから、兄が食て了ふ、所へ庄屋が來て、大に失望して怒り散(ちら)して去る、父に話すと斯(かか)る上は他國へ出(いで)よと云ふので、二人宛(あて)もなく旅立つ、其から每夜旅舍で睡(ねむ)ると、兄の枕の下に金が出て來る、弟其金を持(もつ)て兄より前に都に入ると、丁度國王が死んで嗣王(つぎのわう)を擁立する所だつたが、金(かね)の光で此弟が忽ち王と立てられた、斯(かく)とも知らず、兄も都に入(はいつ)て、母と娘二人暮しの家に宿ると、例の如く枕の下から金が每夜出る、娘此男を賺(すか)して事實を知り、吐劑(とざい)を酒に入れて飮せて、彼鳥の心臟を吐出さしめ、男を追出す、詮方無くて川畔(かはばた)に歎き居(を)ると、仙女三人現れ愍(あはれ)んで、手を探る每に金を出す袂有る衣を吳(くれ)る、男愚かにも其金で餽(おく)り物を求め、復た彼家へ往く。娘諜(てふ)して[やぶちゃん注:さりげなく探りを入れて。]其出處を知り、僞衣(にせごろも)を作り、男が睡つた間に掏(す)り替へる、明旦起出て其奸(かん)を知れども及ばず、復た河畔に往くと、仙女來て、案(つくえ)を打(うて)ば何でも出る棒を吳る、復た娘の宅へ往き竊まれる、例により例の川邊で、何でも望の叶ふ指環を貰ふ、是が最終だから、取れぬ樣注意せよと言れたが、懲(こり)ずに娘の宅に往き問落(とひおと)される、娘言く、そんなら吾等二人向ふの山へ飛往(とびゆ)き、鱈腹(たらふく)珍味を飮食(のみいくひ)せうと望んで見なさいな、依(よつ)て男其通り、環に向(むかひ)て望むと忽ち望み叶ふ、此時娘、酒に麻藥(しびれぐすり)を入(いれ)て男を昏睡せしめ、指環を盜み、自宅へ還らうと望むと、忽ち還り去る。男眼覺(めざめ)て大に弱り、三日泣き續けて夥しく腹空(すけ)る故、無鐵砲に手近く生た草を食ふと、即座に驢身(ろばのみ)に化し、兩傍に二籃(かご)懸れり、心丈(だけ)は確かで、其草を採(とり)て籃に容れ、麓迄下りて其處(そこ)な草を拔くと、忽ち人身に復(かへ)つた、因(よつ)て其草をも籃に入れ、姿を替(かへ)て彼(かの)娘の宅前に往き、莱を買はぬかと呼ぶ、娘菜は大好(だいすき)で、其草を執(とつ)て嘗みると、便ち驢形(ろばのかたち)に變ず、男之を打ち追(おつ)て街を通る、其打樣(そのうちやう)が餘り酷い故、町人之を捕へ王に訴出(うつたへで)る、男其王を見ると骨肉の弟だから、乞(こひ)て人を退(しりぞ)け事由(ことのよし)を談(かた)る。其處で王命じて驢化(ろばくわ)した女に兄と俱に宅に歸て、從來盜んだ物を悉く返さしめ其後靈草を食せよと本(もと)の人身に復した。(此項つゞく)

       (大正二年鄕硏第一卷九號)

[やぶちゃん注:「無鐵砲に手近く生た草を食ふと、即座に驢身(ろばのみ)に化し、兩傍に二籃(かご)懸れり、心丈(だけ)は確かで、其草を採(とり)て籃に容れ」個人的には、自分の背の両側に懸け渡されてしまった二つ籠に、ロバになった彼が、どうやってその籠を外し、草を入れることが出来たのか、そのシーンが私には頭に描けないのだが? まあ、お伽話だから、目をつぶることと致そうか。

「其處で王命じて驢化(ろばか)した女に兄と俱に宅に歸て、從來盜んだ物を悉く返さしめ其後靈草を食せよと」老婆心乍ら、最後の部分は、

   *

「其處(そこ)で王」(兄弟の弟の方)]は、「驢」(ろば)と「化」(か)した、その性悪「女」に対して、再び再会できた実の「兄と」「俱に」その驢馬女の前に毅然として立ちはだかって、まず、

――「宅(いへ)」「に歸つて、從來」(今まで)「盜んだ」沢山の「物を」、「悉く」持ち主に「返」すように――

と厳命した上で、加えて、

――「其後(そののち)」に、この「靈草を食せよ」――

と「命じ」た。

   *

という謂いである。私が最初に読んだ時、たった一ヶ所にしか読点のないこの文にちょっと躓いたので、一言言い添えた。]

2022/04/24

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(4) / 卷第五 王宮燒不歎比丘語第十五

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここ。]

 

〇王宮燒不歎比丘語《王宮(わうぐう)燒くるに歎かざりし比丘の語(こと)[やぶちゃん注:頭の「天竺」(天竺の)が脱落している。]》(卷五第十五)芳賀博士の今昔物語集の四二九頁に、此語の出處、類話一切出て居無い[やぶちゃん注:「をらない」。]。予も出處を知らぬが、類話を、趙宋の初め智覺禪師が集めた宗鏡錄卷六四より見出した。此書は今昔物語の作者てふ源隆國の薨去より先づ百廿年前に成た。其文は、諸苦所ㇾ困、貪欲爲ㇾ本、若貪心瞥起、爲五欲之火焚燒、覺意纔生、被三界之輪繫縛、如帝釋與脩羅戰勝、造得勝堂、七寶樓觀、莊嚴奇特云々、天福如之妙力能如ㇾ此、目連飛往、帝釋將目連看堂、諸天女皆羞目連、悉隱逃不ㇾ出、目連念、帝釋著樂、不ㇾ修道本、卽變化火、燒得勝堂、爀然崩壞、仍爲帝釋說無常、帝釋歡喜、後堂儼然、無灰煙色《『諸苦、困(くる)しむ所のものは、貪欲を本(もと)と爲(な)すなり。若(も)し、貪心、瞥(べつ)して[やぶちゃん注:ちょっとでも。]起こらば、五欲の火に焚き燒かれ、覺意[やぶちゃん注:ここはそれに触れることで生じてしまう悪しき意識を指す。]、纔かに生じて、三界の輪に繫縛せらる。如(たと)へば、「帝釋、修羅との戰ひに勝ち、勝堂(しやうだう)を造り得て、七寶の樓觀、莊嚴(しやうごん)奇特(きどく)たり」』云々、『「天福、之(か)くのごとく、妙力、能く此(か)くのごとくあらんも、目連、飛び往くに、帝釋、目連を將(ひき)ゐて堂を看(み)せしむに、諸天女、皆、目連に羞(は)ぢ、悉く、隱れ逃れて、出でず。目連、念(おも)ふに、「帝釋は樂しみに著(おぼ)れ、道の本(もと)を修めず。」と。卽ち、火に變化(へんげ)し、得勝堂(とくしやうだう)を燒き、爀然(かくぜん)として崩壞せり。仍(よ)りて、帝釋が爲めに、無常を廣く說けり。帝釋、歡喜したり。後(のち)、堂、儼然としてあり、灰煙の色、無し。」となり』。》と云[やぶちゃん注:「いふ」。]ので、多分四阿含抔の中に出た語と思ふが、多忙故今一寸見出し得ぬ。

[やぶちゃん注:「趙宋」宋(ここは北宋)に同じ。この呼称は王室の姓に基づくもの。

「智覺禪師」永明延寿(九〇四年~九七六年)は五代十国の呉越から北宋創建初期に生きた法眼(ほうげん)宗(中国の禅宗五宗の一つ)の僧。諡は宗照大師。杭州余杭県出身。「教禅一致」を説いた。なお、北宋は五代最後の王朝後周を九六〇年に滅ぼして成立した。その後、残っていた十国の国々も平定し、最後に北漢を九七九年に滅ぼして中国を統一しているので、熊楠の言う「宋の初め」というのは正しい(次注の成立年を見よ)。雪峰義存の弟子翠巌令参の下で出家し、天台徳韶の嗣法となった禅僧。

「宗鏡錄」現行では「すぎょうろく」(現代仮名遣)と読む。仏教論書。全百巻。九六一年成立。延寿の主著で、当該ウィキによれば、『禅をはじめとして、唯識宗・華厳宗・天台宗の各宗派の主体となる著作より、その要文を抜粋しながら、各宗の学僧によって相互に質疑応答を展開させ、最終的には「心宗」によってその統合をはかるという構成になっている』。『この総合化の姿勢は』『後世になって、「禅浄双修」「教禅一致」が提唱された時』、『注目されることとなった』とある。

「帝釋、修羅との戰ひに勝ち」帝釈天が阿修羅と戦ったという話はしばしば仏典に現われる。ウィキの「阿修羅」によれば、『阿修羅は帝釈天に歯向かった悪鬼神と一般的に認識されているが、阿修羅はもともと天界の神であった。阿修羅が天界から追われて修羅界を形成したのには次のような逸話がある』。『阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる』。『阿修羅の一族は、帝釈天が主である忉利天(とうりてん、三十三天ともいう)に住んでいた。また』、『阿修羅には舎脂という娘がおり、いずれ』、『帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。それを怒った阿修羅が帝釈天に戦いを挑むことになった』。『帝釈天は配下の四天王などや三十三天の軍勢も遣わせて応戦した。戦いは常に帝釈天側が優勢であったが、ある時、阿修羅の軍が優勢となり、帝釈天が後退していたところ』、『蟻の行列にさしかかり、蟻を踏み殺してしまわないようにという帝釈天の慈悲心から』、後退している『軍を止めた。それを見た阿修羅は』、『驚いて、帝釈天の計略があるかもしれないという疑念を抱き、撤退したという』。『一説では、この話が天部で広まって』、『阿修羅が追われることになったといわれる。また』、『一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂が帝釈天の正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうち』、『赦す心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると』、『善心を見失い妄執の悪となる。このことから』、『仏教では天界を追われ』、『人間界と餓鬼界の間に修羅界が加えられたともいわれる』とある。ここでは、阿修羅側ではなく、逆に帝釈天の奢りが描かれていて、面白い。私は、無論、阿修羅が好きである。遠い昔、教え子に案内されて見た興福寺の阿修羅像には、甚だ心動かされたのを思い出す。

「四阿含」四種の「阿含経」(あごんきょう)を指す。「長阿含経」(全二十二巻)・「中阿含経」(全六十巻)・「増一阿含経」(全五十一巻)・「雑阿含経」(全五十巻)の総称。原始仏教の経典を四部に分類したもので、仏教の系統としては、北方系の分類法に属す。南方系では五部に分ける。「大蔵経データベース」の検索で、ちょっとやりかけてみたが、熊楠ではないが、対象が膨大に過ぎ、語句での絞り込みも上手く出来なかったので、中途でやめた。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(3) / 巻第三 金翅鳥子免修羅難語第十

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。]

 

〇金翅鳥子免修羅難語《金翅鳥(こんじてう)の子(こ)、修羅の難を免(まぬか)れたる語》」(卷三、第十)芳賀博士の纂訂本一九三頁に、私聚百因緣集より少しく異文の同話を擧げた斗りで、出處も類語も載せず、予も此語の出處を見出し得ぬが、同態の類語が、姚秦竺佛念譯、菩薩處胎經四に出でたるを知る。云く、佛、智積菩薩[やぶちゃん注:「ちしやくぼさつ」。]の問に對ふらく、吾昔一時無央數劫、爲金翅鳥王云々、於百千萬劫時、乃入ㇾ海求ㇾ龍爲レ食、時彼海中有化生龍子、八日、十四日、十五日、受如來齋八禁戒法、不殺ㇾ不ㇾ盜不ㇾ婬不妄言綺語不ㇾ勸ㇾ飮ㇾ酒不ㇾ聽レ作倡伎樂香花脂粉高廣床、非時不ㇾ食。奉持賢聖八法、時金翅鳥王、身長八千由旬、左右翅各各長四千由旬、大海縱廣三百三十六萬里、金翅鳥以ㇾ翅斫ㇾ水取ㇾ龍、水未ㇾ合頃、銜ㇾ龍飛出、金翅鳥法、欲ㇾ食ㇾ龍時、先從ㇾ尾而吞、到須彌山北、有大緣鐵樹、高十六萬里、銜ㇾ龍至ㇾ彼、欲得ㇾ食噉、求龍尾、不ㇾ知處、以經日夜、明日龍出尾、語金翅鳥、化生龍者我身是也、我不ㇾ持八關齋法者、汝卽灰滅我、金翅鳥聞ㇾ之悔過自責《『吾れ、昔、一時、無央數劫(むあうしゆがふ)に、金翅鳥王(きんしてうわう)と爲る』云々、『百千萬劫の時に、乃(すなは)ち、海に入りて龍を求め、食と爲(な)す。時に、彼(か)の海中に化生(けしやう)せる龍の子(こ)あり。八日・十四日・十五日に、如來の八つの禁戒を齋(さい)する法を受く。殺さず、盜まず、婬せず、妄言綺語せず、酒を飮まず、倡伎の樂と香花と脂粉と、高く廣き床を作(な)すを聽かず、非時に食せず、賢聖の八法を奉持す。時に、金翅鳥王は、身の長(た)け八千由旬[やぶちゃん注:一由旬は説にはばがあり、七~十四・五キロメートル。]、左右の金翅、各各(おのおの)長さ四千由旬、大海は縱廣(じゆうくわう)三百三十六萬里なり。金翅鳥は、翅(はね)を以つて、水を斫(き)り、龍を取るに、水、未だ合はざる頃(ころあ)ひに、龍を銜(くは)へて、飛び出づ。金翅鳥の法(はう)は、龍を食らはんとする時、先づ、尾よりして吞み、須彌山(しゆみせん)の北に到るに、大鐵樹、有りて、高さ十六萬里。龍を銜へ、彼(か)に至りて、食ひ得て、噉(くら)はんと欲(ほつ)するも、龍の尾を求むるに、知れざる處(ところ)、以つて日夜を經(へ)たり。明日(みやうにち)、龍、尾を出し、金翅鳥に語(い)はく、「化生せる龍は、我が身、是れなり。我れ、八關の齋法(さいはふ)を持(じ)せざれば、汝、卽ち、我れを、灰滅(くわいめつ)せしならん。」と。金翅鳥、之れを聞きて、過(あやま)ちを悔ひて自責す。』と。》、夫より鳥王其宮殿に化生龍を請じ、八關齊法[やぶちゃん注:「はつかいさいはふ」。]を受け、誓ふて自後殺生せなんだと有る。中阿含經に見えた聖八支齊は則ち八關で、佛敎の初生時代には尤も信徒間に重んじ行はれた者だ、大智度論に、六齊日に八戒を受け、福德を修むる譯は、是日惡鬼逐ㇾ人、欲ㇾ奪人命、疾病凶衰、令人不吉、是故劫初聖人、敎人持齋、修ㇾ善作ㇾ福、以避凶衰、是時齋法、不ㇾ受八戒、直以一日不食爲ㇾ齋、後佛出世、敎語ㇾ之言。汝當一日一夜如諸佛八戒過ㇾ中不ㇾ食、是功徳將ㇾ人至涅槃《是の日、惡鬼、人を逐(お)ひ、人命を奪はんと欲し、疾病・凶衰もて、人をして不吉ならしむ。是の故に、劫初(こうしよ)の聖人(しやうにん)は、人に齋(さい)を持(じ)するを敎へ、善を修め、福を作(な)し、以つて凶衰を避けしむ。是の時の齋法は、八戒を受けずして、直(た)だ、一日、食らはざるを以つて齋と爲す。後、佛、出世し、敎へて之れを語りて言はく、「汝、當(まさ)に、一日一夜は、諸佛のごとく八戒を持し、中(ひる)を過ぎて食はざるべし。」と。是の功德、人を將つて涅槃に至らしむ》と有る、然るに佛敎支那に入て後、この八關齊は如法[やぶちゃん注:「によほふ」。仏陀の教えた教法の通りであること。]に行はれず、自分の戒行を愼み修めて涅槃を願ふよりも、死人の追善を重んじ、四十九日の佛事を專ら營む事と成たので、八關齊を七七日の施に切替へ、龍と金翅鳥を(類似重複の話が經中に多きを厭ひ)金翅鳥と阿修羅王と作た[やぶちゃん注:「つくつた」。]のだらう。釋氏要覽に、瑜伽論曰、人死中有身、若未ㇾ得生緣、極七日住、死而復生、如ㇾ是展轉生死、至七七日、決定得ㇾ生、若有生緣、卽不ㇾ定、今尋經旨極善惡無中有、(極善卽惡生淨土、極惡惡卽地獄)今人亡、每七日營亡毎至七日。必營齋追福者、令中有種子不ㇾ轉生惡趣也《人、死して中有(ちゆうう)の身ありて、若し未だ生緣を得ざれば、七日を極(かぎ)りとして住(ぢゆう)し、死して、復た、生く。是くのごとく、展轉として、生死(しやうじ)し、七七日(しちしちにち)に至りて決定(けつぢやう)して生(しやう)を得(う)。若し生緣(しやうえん)有れば、卽ち、定まらず。今、經旨(きやうし)を尋ぬるに、極善惡(ごくぜんあく)の者は、中有、無し(極善は、卽ち、淨土に生まれ、極惡は、卽ち、地獄に生まる。)。今、人、亡(ばう)じて七日每(ごと)に齋を營み、追福(ついぶく)するは、中有の種子(しゆじ)をして惡趣に轉生(てんしやう)せざらしむるものなり。》とあるを見ても、七七日の佛事と云ふ事は、後世佛敎徒間に起つた事らしい。

[やぶちゃん注:ここでの経典引用は、表記だけでなく、各部分からに合成部が甚だ多く、特に後の「釋氏要覽」からのそれは、原文中に丸括弧で挿入されるのを見ても不審が判る通り、切り張りが甚だしく、「大蔵経データベース」から、すっきり原文を抜き取ることが出来なかった。どう切り張りしたかもよく判らない箇所多かった(或いは正規の同書原本とは異なる抄録本を引用元に用いているのかも知れぬ)ため、やむを得ず、部分的に底本に従った箇所がある。但し、「齋」の字については、経典部分では「大蔵経データベース」に従い、「齋」を用い、熊楠の語る部分では、底本表記を重んじて、「齊」の字で表記した。なお、今さら言うまでもないとは思うのだが、若い読者のために注しておくと、「齋」=「齊」=「斎」は仏教語の和訓では「とき」と読み、「時」とも書き、僧侶の本来の午前中の一度きりの食事を指す。今や誰も実行している本邦の僧侶はいないと思うが、本来、仏僧は一日に午前中に一食しか食事を摂ることは許されないのである。しかし、現実的に、それだけでは、身が持たず、修行も滞るばかりか、栄養失調になって話にならないことから、非常に古くから、午後に非公式の食事を摂ることが許された。それを正しくない摂餌として心に戒めるために「非時」と呼ぶのである(現代では、そんなことを心にとめておる僧は、これまた、おるまいが)。なお、僧侶に布施として捧げる食物や物品・金銭を広く「斎料」(ときりょう)とも呼ぶ。

「第十」私の電子化訳注を見ればお判り戴ける通り、実際には、岩波「新日本古典文学大系」の底本「東大甲本」では話柄の数の番号が欠落している。但し、順列通りで欠損がないとすれば、「第十」である。

「芳賀博士の纂訂本一九三頁に、私聚百因緣集より少しく異文の同話を擧げた斗りで、出處も類語も載せず」ここ。「私聚百因緣集」(しじゆひやくいんねんしふ)は鎌倉前期の説話集。正嘉元(一二五七)年に当時四十八歳であった常陸国の浄土教の僧愚勧住信著。全九巻百四十七話。仏法の正しさを説話によって示し、衆生に極楽往生を遂げさせる機縁とすることを目的として著わされたもの。仏教の歴史に関する説話・高僧の伝記などが多いが、その総てが諸書からの引用で、その中でも特に「今昔物語集」の影響が著しく、他に「日本往生極楽記」や「発心集」の引用が目立つ。直接の関係は見られないが、親鸞布教前後の東国の浄土教の広まりを知る貴重な資料とされる。しかし、芳賀の引用を見ても判る通り、これは殆んど本篇に基づいて引用したに過ぎず、概ね、後代の本書に基づく類話や、甚だ怪しい類話でさえない話を挙げて「攷証」を書名に冠して満足している芳賀のそれは、今時の大学生でも出来てしまう頗る羊頭狗肉のつまらぬ論証が多過ぎる。私には南方熊楠の激しい苛立ちがよく判る。

「姚秦」「えうしん」(ようしん)。五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた後秦(三八四年~四一七年の別名。先行する統一国家秦と区別するための呼称。

「八關齊法」「八斎戒」に同じ。インド仏教の戒律。在家信者が一昼夜の間だけ守ると誓って受けるところの八つの戒律。則ち、㊀生物を殺さない。㊁他人のものを盗まない。㊂嘘をつかない。㊃酒を飲まない。㊄性行為をしない。㊅午後は食事をとらない。㊆花飾りや香料を身に附けず、歌舞音曲等を見たり聞いたりしない。㊇地上に敷いた床のみで寝て、脚の高立派な寝台を用いない、という八戒で、主に原始仏教と部派仏教で行われた。一般に在家信者は一ヶ月に六回、日の出とともに、この戒を受けて、翌朝の日の出までそれを守った。そこから「一日戒」(いちじつかい)とも称した。在家信者の、所謂、「精進日」で、出家者に準じた在家信者の修行の一つであった。

「中有」衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。この七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じ)が、その「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると、微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。恐らく、若い読者がこの語を知ることの多い契機は、芥川龍之介の「藪の中」の「巫女の口を借りたる死靈の物語」の中で、であろう。リンク先は私の古層の電子化物で、私の高校教師時代の授業案をブラッシュ・アップした『やぶちゃんの「藪の中」殺人事件公判記録』も別立てである。私は好んで本作を授業で採り上げた。されば、懐かしい元教え子もあるであろう。]

2022/04/23

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(2) / 巻第四 震旦國王前阿竭陀藥來語第三十二

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。今回のものは本篇の「一」の『「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(3)』に対する追加記事である。元が雑誌『鄕土硏究』所収のものを一括再録したものであることからこうした形を採っている。底本ではここ。当該原話は『「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(1)』の私の注にあるので、そちらを参照されたい。]

 

〇震旦國王前阿竭陀藥來語第(一の三六四頁)に追加す。本語に、「國王阿竭陀藥と聞き給て。其藥は服する人死ぬる事无かなり。皷に塗て打つに、其音を聞く人皆病を失ふ事疑ひ无しと聞く」。此事は予未だ出處を見出し得ぬ。但し似た事は有る。北凉譯大般涅槃經九に、有人、以雜毒藥、用塗大鼓、於大衆中、撃ㇾ之發ㇾ聲、雖ㇾ無心欲ㇾ聞聞ㇾ之皆死《人、有り、雜(もろもろ)の毒藥を以つて、用ひて、太鼓に塗り、大衆の中に於いて、之れを擊ちて、聲を發せば、聞かんと欲する心、無しと雖も、之れを聞けば、皆、死す。》と見ゆ。又姚秦頃譯せしてふ無明羅刹經に、折叱王が疫鬼を平げに往く出立を記して、以阿伽陀藥遍塗身體《阿伽陀藥を以つて遍(あまね)く身體に塗る》と有る、此の藥は通常樹葉に包まれ居たと見えて、蕭齊の朝に譯せる百喩經下の末に、編者僧伽斯那此經を譬へて、如阿伽陀藥、樹葉而裹ㇾ之、取藥塗ㇾ毒竟、樹葉還棄ㇾ之、戯笑如ㇾ葉裹、實義在其中、智者取正義、戯笑便應ㇾ棄《阿伽陀藥のごときは、樹の葉にて之れを裹(つつ)む。藥を取りて、毒に塗り、竟(をは)らば、樹の葉は、還(ま)た、之れを棄つ。戯笑は、葉の裹むがごとく、實義は、其の中にあり。智者は正義を取り、戲笑は、便(すなは)ち應(まさ)に棄(す)つべし。》と有る、是等の文に據ると、最初專ら毒を防ぎ毒を解く藥だうたのが追々誇大して、何樣な[やぶちゃん注:「どんな」。]病人でも此藥を見せたら忽ち治ると持囃され(華嚴)、其から鼓に塗て打つ音聞いても病が去ると信ぜられたらしい。似た例を一二擧んに、本草綱目に、鼯鼠[やぶちゃん注:「むささび」。]を一に飛生鳥と名ける譯は、此物飛乍ら子を產むからだ、其皮毛を臨產の婦女に持せ、又其上に寢せ、又其爪を懷かせても催生[やぶちゃん注:即効性の意。「選集」では『はやめ』とルビする。]の效有ると見え居る、實は子に乳を飮せ乍ら飛行[やぶちゃん注:「とびゆく」。]を見て、飛つゝ子を產むと速斷したのだ、斯る信念は、今に熊野の山地にも存し、二年前拙妻姙娠中、予安堵峰で鼯鼠を獲、肉を拔き去り持歸つた。皮を室の壁へ懸置いた處へ山民が來て、是は怪しからぬ事をする、此物は見ても催生の力が烈しい、臨月でも無い姙婦が每々見ると流產すると話され、大に氣味惡く成り棄てて了ふた。又熊野や十津川の深山大樹に寓生する蔦の實は、血を淸むるので、血道に大効有ると云ふのみか、眺むる斗りでも婦女を無病にする由で、微い[やぶちゃん注:「ちいさい」。]小屋住居にさへ栽られ居る。

[やぶちゃん注:「(一の三六四頁)」「一」の分が載った『鄕土硏究』のページ数。

「本語に」「ほんこと」にと読んでおく。

「死ぬる事无かなり」後半は「なかんなり」。一般的でなかった「ん」の無表記で、「死ぬ危険は全くありません」の意。

「皷」「鼓(つづみ)」」に同じ。

「此事は予未だ出處を見出し得ぬ」現在でも出典は不詳のようである。

「姚秦」「えうしん」(ようしん)。五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた後秦(三八四年~四一七年の別名。先行する統一国家秦と区別するための呼称。

「蕭齊」「しやうせい」(しょうせい)。南北朝時代に江南に存在した方の斉(四七九年~五〇二年)を、先行する春秋戦国の一国である「齊」と区別するための呼称。

「僧伽斯那」一般に「僧」を名に繋げて「そうぎやしな」と読まれる。

「戯笑」一部の経典にあるような、半ばふざけたように見える方便の経説のことを指すか。

「本草網目に、鼯鼠を一に飛生鳥と名ける」李時珍は大分類に於いてさえ、「獸」でも「鼠」でもなく、巻四十八のまさに「禽之二」に入れている(一度は正しく「獸」部に入れたものもあったのに、わざわざ配置換えをしていて致命的)。「漢籍リポジトリ」のこちら[112-50a] から[112-50b]を見られたい。ムササビは「䴎鼠」(ルイソ)という名で立項されてあるが、「鼯鼠」の表記も既にあげられてあり、「釋名」の最後に、その「飛生鳥」を認める。そうして、「發明」の箇所に、確かに、あった。「時珍曰、能飛而、且產。故、寢其皮懷其爪、皆、能催生。其性、相感也。濟生方治、難產、金液丸用、其腹下毛。爲丸服之。」がそれだ。寺島良安も本書に倣って「原禽類」に分類してしまい、この異名と、「飛びながら出産する」の部分を引いてはいる。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか) (ムササビ・モモンガ)」を参照されたい。但し、良安はどこかでこの鳥の仲間とする分類法に、深く疑問を持っていたようで、「第三十九 鼠類」にも、盛んにムササビらしき動物が、複数回、顔を出している。

「安堵峰」『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』の私の注を参照。地図をリンクさせてある。

「皮を室の壁へ懸置いた處へ山民が來て、是は怪しからぬ事をする、此物は見ても催生の力が烈しい、臨月でも無い姙婦が每々見ると流產すると話され、大に氣味惡く成り棄てて了ふた」熊楠先生の優しさがちらっと見えて、ええ感じやな❤

「蔦」「選集」では『やしお』とルビするが、この読みを聴いたことがなく、また、検索でも掛かってこない。更に、木蔦の特定種を指すのかどうかも判らなかったので、ここで注するに留める。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(1) / 卷第二十四 百濟川成飛驒工挑語第五

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。]

 

       

〇百濟河成(鄕硏一の五〇と一六六頁)が寫生に巧だつたのは、此人が死んだ年から纔か廿五年後に成た文德實錄五に、所寫古人眞、及山水草木等、皆如自生、昔在宮中、令或人喚從者、或人辭以ㇾ未ㇾ見顏容、河成卽取一紙形體其、或人遂驗得、其機妙類如ㇾ此、今之言ㇾ畫者、咸取ㇾ則焉《寫す所の古人の眞(かほ)、及び、山水草木等(など)、皆、自生するがごとし。昔、宮中に在り、或る人をして從者をして喚ばしむ。或る人、辭するに、未だ顏容を見ざるを以つてす。河成、卽ち、一紙を取りて、其の形體を圖す。或る人、遂に驗(けん)し得たり。その機妙、類(おほむ)ね、此くのごとし。今、畫(ゑ)を言ふ者は、咸(ことごと)くに、則(てほん)を取る。》とあるので知れる。これに似た話、五雜俎七に、相傳、戴文進至金陵、行李爲一傭肩去、杳不ㇾ可ㇾ識、乃從酒家紙筆、圖其狀貌、集衆傭示ㇾ之、衆曰是某人也、隨至其家、得行李焉《相ひ傳ふ、『戴文進、金陵に至るに、行李(かうり)、一(ひとり)の傭(にんぷ)に肩(にな)ひ去られて、杳(えう)として識るべからず。乃(すなは)ち、酒家より紙筆を借り、その狀貌(かほかたち)を圖し、衆(おほ)くの傭を集めて、之れを示すに、衆、曰はく、「是れ、某人(ぼうにん)なり。」と。隨つて、その家に至るに、行李を得たり。』と》。戴文進は明朝の初の人だから、河成が死んでより五百年も後の人だ。

[やぶちゃん注:「鄕硏一の五〇と一六六頁」「選集」によれば、前者は『鄕土硏究』第一巻五十ページから収載されてある赤峯太郎の論文「今昔物語集の研究」であり、後者は同巻の第三号の百六十六ページから収載されてある南方熊楠の論文「川成と飛驒の工の技を競べし話」である旨が編者割注で示されてある。私は「南方熊楠全集」を所持しないが、幸いにして、サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊で新字新仮名)で読むことが出来る。さらに、頗る面白いので指摘しておくと、そこに明治四一(一九〇八)年六月発行の『早稲田文学』三十一号に発表した「『大日本時代史』に載する古話三則」の「増補」パートに、恐らくは、その前文の附記クレジット『昭和二年九月三十日記』と同じ時に追加したと思われる文章で、以下がある。引用元では、「世説新語」からの引用で、表記不能字が『?』で示されているのであるが、それは所持する明治書院の新釈漢文大系の「世説新語」で確認し(巧芸篇第二十一の「4」話目)、漢字を入れておいた。他は引用元の表記のママである。

   *

 およそ『今昔物語』本朝部に載せたる古話に、インドと支那より転訛せるもの多し。その二四巻、百済河成飛驛匠と芸競べの条は、『世説新語』に出る。いわく、魏の鍾会かつて詐りて荀勗[やぶちゃん注:「じゅんきょく」。]の手書を作り、勗の母に就いて宝剣を取り去る。会まさに宅を造る、勗潜かに在って会の祖父の形を壁に画く。会の兄弟、門に入り、これをみて感慟し、すなわちその宅を廃す、と。インドにも、南天竺の画師が北天竺の巧師を訪うと、無類の美女が出て給侍した。夜分もその側に侍せるを呼んでも一向近づかず、前《すす》んで牽くと木造りの女だった。そこで。画師はおのれが頸縊った壁画を作り、牀下に隠れおると、明朝主人の巧師見て大いに怖れ、刀で繩を絶たんとする時、画師が牀下より出たので、二人おのおのの妙技に感じ、親愛をすて出家修道した、と『雑譬喩経』四にある。これだけ予見出だして『郷土研究』一巻三号一六六頁に載せた。また、川成が従童を逃がし、その顔を畳紙に画いて下部に渡すと、市の群集中よりたちまちその童を認め捉え来たという記事の類話として、明の戴文進のことを同巻九号五五一頁に出した。

 右いずれも予に無断で、故芳賀博士の『攷証今昔物語集』に、自分の発見のように転載されおる。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

そこで、熊楠が憤懣をぶつけているのは芳賀矢一の「攷証今昔物語集 下」で、大正一〇(一九二一)年刊であった。芳賀は、熊楠がこの「増補」を行った年の二月に没している。国文学の権威者であった芳賀が、南方熊楠の過去の類話考証論文から、無断で、自分の本に類型原拠を載せたのである。ここだ! こりゃ、もう、厚顔無恥のレベルだね。偉い奴が他人の功績を奪い取って、平然としているのは、今も変わらないな。

「文德實錄」正式には「日本文德天皇實錄」。藤原基経らの編。「六国史」の第五で、文徳天皇の代である嘉祥三(八五〇)年から天安二(八五八)年までの八年間が扱われている。編年体。漢文。全十巻。以上は国立国会図書館デジタルコレクションの宝永六 (一七〇九)年の出雲寺和泉掾板行の版では、ここ(左丁後ろから三行目の最後)から記されてある。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(5) / 卷第十 國王造百丈石卒堵婆擬殺工語第三十五 / 一~了

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここ。]

 

〇物語同卷、國王造百丈石卒堵婆擬ㇾ殺ㇾ工語第卅五」《國王、百丈の石の卒堵婆を造りて、工(たくみ)を殺さんと擬(せ)る語(こと)第三十五》も、芳賀博士は出所を擧げ居らぬが、是は羅什譯、馬鳴菩薩の大莊嚴經論卷十五に見ゆ、云く、我昔曾聞、有一國、中施設石柱、極爲高大、除去梯蹬、樚櫨繩索、置彼工匠、在於柱頭、何以故、彼若存活、或更餘處造立石柱、使ㇾ勝於此、時彼石匠親族宗眷、於其夜中、集聚柱邊、而語之言、汝今云何、可ㇾ得レ下耶、爾時石匠多諸方便、卽擿衣縷、垂二縷線、至於柱下、其諸宗眷、尋以麁線、繫彼衣縷、匠卽挽取、既至於上、手捉麁線諸親族、汝等今者、更可ㇾ繫著小麁繩索、彼諸親族、卽隨其語、如ㇾ是展轉、最後得ㇾ繫麁大繩索、爾時石匠、尋ㇾ繩來下《我れ、昔、曾て聞く、一國有り、中(うち)に石柱を施設(しせつ)し、極めて高大と爲す。梯磴(ていとう)[やぶちゃん注:足場。]・樚櫨(ろくろ)[やぶちゃん注:滑車。]・繩索(じやうさく)を除き去り、彼(か)の工匠を置きて、柱頭に在らす。何を以つての故か。「彼、若(も)し存-活(いきてあ)らせば、或いは更に餘處に石柱を造立し、此れに勝(まさ)らしめんに。」となり。時に、彼(か)の石匠の親族・宗眷(しゆうけん)[やぶちゃん注:一族の者。]、其の夜中に於いて柱の邊りに集ひ聚(あつ)まる。而して、之れを語りて言はく、「汝(なん)ぞ、今、何をか云はんや。下(くだ)るを得べきものか。」と。爾(こ)の時、石匠、諸(もろもろ)の方便を多くせり[やぶちゃん注:「いろいろな降りる工夫を、沢山、考えた。」の意か。]。卽ち、衣縷(いる)[やぶちゃん注:着ている破れた着物。]を擿(さ)きて、二縷(ふたすぢ)の線(いと)を垂らし、柱の下に至らす。其の諸宗眷、尋(つ)いで[やぶちゃん注:次に。]、麁(あら)き線を以つて彼(か)の衣縷に繫ぐ。匠(たくみ)、卽ち、挽(ひ)きて取り、既に上に至れば、手に麁き線を捉へ、諸親族に語(かた)らふに、「汝ら、今は、更に小(すこ)しく麁き繩索を繋ぎ著(と)むべし。」と。彼の諸親族、卽ち、其の語(ことば)に隨ひ、是(か)くのごとく、展-轉(くりかへ)して、最後に、麁き大きなる繩索を繫ぎ得たり。爾の時、石匠、繩を尋(つた)ひて來たり下れり。》、石柱は生死、梯磴樚櫨は過去佛已滅言抔と、くだくだしく佛敎に宛てゝ喩[やぶちゃん注:「たとへ」。]を說き居る所を見ると、佛敎前から行れ居た物語らしい。

      (大正二年八鄕硏第一卷第六號)

[やぶちゃん注:「芳賀博士は出所を擧げ居らぬ」ここ。本文のみ。

「石柱は生死、梯磴樚櫨は過去佛已滅言抔と、くだくだしく佛敎に宛てゝ喩を說き居る」「大蔵経データベース」で見ると、この話を記した後に、以下のように評釈されてあることを指す。

   *

言石柱者喩於生死。梯蹬樚櫨喩過去佛已滅之法。言親族者喩聲聞衆。言衣縷者喩過去佛定之與慧。言擿衣者喩觀欲過去味等法。縷從上下者喩於信心。繫麁縷者喩近善友得於多聞。細繩者多聞縷復懸持戒縷。持戒縷懸禪定縷。禪定縷懸智慧繩。以是麁繩堅牢繫者喩縛生死。從上下者喩下生死柱。

  以信爲縷線 多聞及持戒

  猶如彼麁縷 戒定爲小繩

  智慧爲麁繩 生死柱來下

   *

これまた、壮大な仏教原理で、この事件の内容を解説した上、偈まであって、あたかも宋代の僧無門慧開の「無門關」の一篇を見るような、公案的ブットビの様相を呈しているのは、私などは、思わず、ニンマリしてしまった。因みにリンク先は私の古い電子化物で野狐禅全訳附きである。にしても、熊楠の、原型は仏教以前とするその指摘は頗る鋭い。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(4) / 卷第十 聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。]

 

〇今昔物語集卷十、聖人犯后蒙國王咎成天狗語第卅四《聖人(しやうにん)、后(きさき)を犯して、國王の咎(とが)を蒙りて、天狗と成る語(こと)第三十四》は、今度出版の芳賀博士の攷證本に出所も類話も出て居らぬ。或は其處こに示された卷廿、染殿后爲天宮被嬈亂語《染殿(そめどの)の后(きさき)、天宮(てんぐ)の爲に嬈亂(ねうらん)せらるる語(こと)》の所が出たら、載て居るかと思ふが、一寸管見を記すと、趙宋の法賢譯瑜伽大敎王經三に、不動尊大忿怒明王の眞言を法通り持誦すれば、能く諸童女を鉤召し、種々所欲の事を成す、唐の金剛菩提三藏が譯せる不動使者陀羅尼祕密法、矜羯羅[やぶちゃん注:「こんから」。](=宮迦羅)を招く法を載す、矜者問事也、羯邏者驅使也、若不ㇾ現者、心決定、念誦不動使者、必須ㇾ得ㇾ見、莫ㇾ生狐疑、直至平明、無不ㇾ來者、現已種種驅使、處分皆得、乃至洗ㇾ手、或用柳枝令ㇾ取、皆得、欲ㇾ得上ㇾ天入一ㇾ山、亦扶行人將去、欲ㇾ得欲界上天女等、令將來相見、亦得、何況人間、取人及物、乃至種種飮食、此神作小童子形、有兩種、一名矜羯邏、恭敬小心者是、一名制吒迦、難共語、惡性者是、猶如人間惡性、在ㇾ下雖ㇾ受驅使、常多過失也云々《「矜(こん)」とは「事を問ふ」なり、「羯羅」とは「驅使」なり。若(も)し現ぜざれば、心、決定(けつぢやう)して、不動使者を念誦す。必ず須(すべか)らく見ることを得べし。狐疑を生ずる莫かれ。直ちに平明に至れば、來たらざる者、無し。現じ已(をは)りて、種種に驅使すれば、處分(しよぶん)[やぶちゃん注:命令。]せること、皆、得。乃至(ないし)は手を洗ひ、或いは柳枝(やうじ)を用ひんとするに、取らしむれば、皆、得。天に上(のぼ)り、山に入ることを得んと欲(ほつ)せば、又、行く人を扶(たす)けて將(ゐ)て去(ゆ)く。欲界上の天女等(など)を見ることを得んと欲せば、將て來たらしめて相見んこと、亦、得たり。何ぞ況んや、人間(じんかん)にて、人及び物、乃至、種種の飮食を至らすことをや。此の神、小童子の形を作(な)し、兩種、有り。一(ひとり)は「矜羯羅」と名づく。恭敬にして、小心なる者は、是れなり。一は制吒迦(せいたか)と名づく。共に語り難くして[やぶちゃん注:会話が上手く交わせず。]、惡性(あくしやう)なる者は、是れなり。猶ほ、人間の惡性のごとし。下に在りて驅使を受くと雖も、常に過失多し云々》、唐の李無諂[やぶちゃん注:「りむてん」。]譯不空羂索陀羅尼經にも、此二童子を使ふ法を記す、唐の不空譯大寶廣博祕密陀羅尼經中卷に、隨心陀羅尼を五萬遍誦すれば、婇女や王后などを鉤召し得と有り、趙宋の法天譯金剛手菩薩降伏一切部多大敎王經上に、部多女(ヴエーターラ)を眞言で招き妹となし、千由旬内に所要の女人を卽時取り來たらしむることを載す。矜羯羅も天女をすら取來る程だから、王后位はお茶の子だらう、斯る迷信が今日の歐州にも隱れ行なはるゝは、例せば、米人「リーランド」の巫蠱經(一八九九年板三五頁)に、今もイタリアに月神「チアナ」を祀る者、自分が望む貴族女をして犬形に變じ、萬事を忘失して其家に來り、忽ち元の女と成て其思ひを晴させ、復た犬と成て自宅へ還ると、本來の女と成るが、何を他人の家でされたか一向覺えず、若くは夢程に微かに覺えしむる呪法を載て居る。又今日も「タナ」女神を念じて、睡れる男女と情交を遂る誦言を出して居る。

[やぶちゃん注:「今度出版の芳賀博士の攷證本に出所も類語も出て居らぬ」ここ。但し、最後に『(本書卷二十染殿后爲天宮被嬈亂語參閲)』とある。次注参照。

「或は其處に示された卷廿、染殿后爲天宮被嬈亂語」(正しくは最後に「第七」が附くのが正しい標題である)「の所が出たら、載て居るかと思ふが」この記事(「一」パート)は大正二(一九一三)年八月号『鄕土硏究』であるから、芳賀矢一の「攷証今昔物語集」の同巻を載せた「中」は翌三年の刊行で未刊であったことによるさて。では! 大きな期待を持って見てみましょうかね! あらま! 残念ですねえ! 「拾遺往生傳卷下相應傳(抄錄)」・「古事談第三僧行篇」・「宇治拾遺物語卷十五相應和尙上二都卒天一事付染殿の后奉ㇾ祈事」と並べて、『(元亨釋書卷十感進篇相應傳參閲)』とあるだけですねぇ。これって、同事件の話の同時代或いは近未来の並列のリストに過ぎませんぜ。最後のが気になるって? いやいや、国立国会図書館デジタルコレクションの写本画像で見ますか? 染殿の「狂疾」を修法したことが書いてあるだけですぜ。熊楠先生のように、漢籍経典をちっともディグしてないじゃねぇか。ダメだ、こりゃ! なお、この篇は『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)』で電子化訳注しておいた。但し、かなり猥褻な描写が出るので、ご注意あれ。

「鉤召」歴史的仮名遣「こうせう」。現代仮名遣「こうしょう」。実は底本は「釣召」だが、「選集」で訂した。密教に於ける護摩法の一種である「鉤召法」のこと。諸尊・善神、及び、自分の愛する者を召し集めるための修法。

「矜羯羅(=宮迦羅)」前者は「こんがら」、後者は「くがら」と読む。サンスクリット語の「キンカラ」の漢音写で、「キン」は同語の疑問詞でそれに「矜」と当て、「作為」の意を持つ「カラ」に「羯羅」を当てて合成した語。「何をなすべきかを問い、その命令の通りに動く」という意であるという。奴僕や従者を指す一般名詞であるが、ここは不動三尊において制多迦(せいたか)童子とともにに不動明王の脇侍を務める矜羯羅童子を指す(通常の像作では不動明王の左脇侍(向かって右)に配される。十五歳ほどの童子の姿をしており、蓮華冠をつけ、肌は白肉色、合掌した親指と人差し指の間に独鈷杵を挟んで持つ。天衣と袈裟を身に着けている(ウィキの「矜羯羅童子」に拠った)。脇侍としては超弩級に私の好きな二人である。

「婇女」「うねめ」。古代の宮中で食膳などに奉仕した女官。

「部多女(ヴエーターラ)」「屍鬼」と漢訳するインドの妖怪。死体に取り憑いてこれを生きているかのように活動させる鬼神。色が黒く、背丈が高く、首は駱駝、顔は象、脚は牡牛、眼は梟、耳は驢馬のようであるとされる。

「千由旬内」七千キロから一万四千キロ四方。

「米人「リーランド」の巫蠱經(一八九九年板三五頁)」「選集」では書名に『アラジヤ』とルビされてある。これは、アメリカの作家で民俗学者であったチャールズ・ゴッドフリー・リーランド(一八二四年~一九〇三年:フィラデルフィア出身。はプリンストン大学とヨーロッパで教育を受けた。ジャーナリズムに携わり、広い範囲を旅して、民俗学や民俗言語学に関心を抱き、アメリカとヨーロッパの言語や、民間伝承に関する書籍や記事を出版した)。一八九九年に書かれた「アラディア、或いは魔女の福音」(Aradia, or the Gospel of the Witches )。「Internet archive」のこちらで、原本の当該部が読める。それを見ると、何のことはない、思った通り、「チアナ」(「選集」では『ヂアナ』とする)は知られた「Diana」である。以下の、『今日も「タナ」女神を念じて、睡れる男女と情交を遂る誦言を出して居る』というのも次のページ当たりのそれと感じられ、されば、「タナ」(「選集」も同じ)もこれが「ディアナ」「ダイアナ」のことであろう。]

2022/04/22

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(3) / 卷第四 震旦國王前阿竭陀藥來語第三十二

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話は『「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(1)』の注の中で電子化注してある(「今昔物語四に靂旦國王前に阿竭陀藥來る話あり」に対する私の注)ので、まず、それを読まれたい。今回、再度、本文を校訂しておいた。

 

〇物語集卷四の震旦國王前、阿竭陀藥來語第卅二《震旦(しんだん)の國王の前に、阿竭陀藥(あかだやく)、來たれる語(こと)第三十二》は、徒然草に見えた、土大根を萬にいみじき藥とて、每朝二つ宛燒て食た筑紫の某押領使の急難の時、大根が二人の兵と現じて、敵を擊ち卻けた[やぶちゃん注:「しりぞけた」。]話に較[やぶちゃん注:「やや」。]似て居るが、芳賀博士と同樣、予も其出處を見出し居らぬ。但し阿竭陀藥其物については多少調べたから、此物語硏究者の參考迄に書て置く。翔譯名義集九に、阿伽陀は普く去るの意で、一切の病を去る故名く、華嚴に、此藥を見さえすると、衆病悉く除くと有ると見ゆ、唐の菩提流志譯不空羂索神變眞言經卷廿一に、如意阿伽陀藥品有り、餘り長いから爰に引き得ぬが、此藥は種々の病のみならず、王難(虐王に困しめ[やぶちゃん注:「くるしめ」。]らるゝ事)賊難、虎狼水火刀杖等の難を避け、諍論に勝ち、人民に敬はれ、壽を長くし、一切の神をして護らしめ、一切鬼魔に害されぬとてふ無類の效驗有りとて、之を調合する藥劑の名を擧て居るが、梵語許りで分らぬものが多い。且つ加持の祕法が却々[やぶちゃん注:「なかなか」。]込入た者で、一寸行ひ難い樣だ。但し此品[やぶちゃん注:「ほん」。]に製法を出たのは、大無勝寶阿伽陀首と名け、所有諸法悉無過者《所有(あらゆる)諸法、悉(ことごと)く過(す)ぐる者、無し。》と有るから、此外に劣等の阿伽陀藥も色々有つたらしい。北凉譯大般涅槃經十二に、摩羅毒蛇に螫るゝと[やぶちゃん注:「ささるると」。その毒牙に刺されると。]、どんな呪も藥も效ぬが、阿竭多星の呪のみ之を除愈すと有るを見ると、阿竭陀又阿伽陀は、本と星の名で、專ら療病を司つた星らしい。

[やぶちゃん注:「徒然草に見えた、土大根を萬にいみじき藥とて、每朝二つ宛燒て食た筑紫の某押領使の急難の時、大根が二人の兵と現じて、敵を擊ち卻けた話」第六十八段の大根好きの男の不思議な話で、同書の中では、唯一と言ってもいい、怪奇談である。以下に示「怪談老の杖 電子化注 始動 / 序・目次・卷之一 杖の靈異」の私の注で全電子化をしてあるので参照されたい。

「芳賀博士と同樣、予も其出處を見出し居らぬ」ここ。但し、本文の活字化だけで、典拠への言及は全くない。

「摩羅毒蛇」不詳。こう書くからには、実在する毒蛇に比定されていなければおかしい。大きいため、注入される毒液が多く、咬まれると、非常に危険な爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科キングコブラ属キングコブラ Ophiophagus hannah か。インド東部・インドネシア・カンボジア・タイ・中国南部・ネパール・バングラデシュ・フィリピン・ベトナム・マレーシア・ミャンマー・ラオスに棲息する。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(2) / 卷第四 天竺人於海中値惡龍人依比丘敎免害語第十三(注の最後で特殊な処理を施した参考文を挿入)

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。]

 

〇物語集卷四天竺人於海中惡龍人依比丘敎免ㇾ害語第十三《天竺の人、海中にて惡龍(あくりう)に値(あ)へる人、比丘の敎へにより、害を免れる語(こと)第十三》は三國傳記に出た同話異文を芳賀博士は引て居るが、此話の根本を擧て居らぬ。其根本話は、比丘道略集羅什譯、衆經撰雜譬喩經下に、昔有屠兒、欲供養道人、以其惡故、而無往者、後見一新學沙門威儀詳序、請歸飯食種種餚饍、食訖還請此道人、願終身在我家食、道人卽便受ㇾ之、玩習既久、切見其前殺生、不敢呵一ㇾ之、積有年歲、後屠兒父死、作河中鬼、以ㇾ刀割ㇾ身、卽復還、復道人渡ㇾ河、鬼捉ㇾ船曰、沒此道人河中、乃可ㇾ得ㇾ去、船人怖曰、鬼言、吾家昔日供養此道人、積年不ㇾ呵我殺生、今受此殃、恚故欲耳、船人曰、殺生尙受此殃、況乎道人、鬼曰、我知ㇾ爾、恚故耳、若能爲ㇾ我布施、作ㇾ福呼ㇾ名呪願、我便相放、船人盡許爲作ㇾ福、鬼便放之、道人卽爲ㇾ鬼作ㇾ會、呼ㇾ名呪願、餘人次復爲作ㇾ會、詣河中、呼ㇾ鬼曰、卿得ㇾ福未、鬼曰卽得、無復苦痛、船人曰、明日當爲卿作一ㇾ福、得自來不、鬼曰得耳、鬼旦化作婆羅門像來、手自供養、自受呪願、上座爲說經、鬼卽得須陀洹道、歡喜而去、是以主客之宜、理有諫正、雖ㇾ墮惡道、故有善緣、可ㇾ謂善知識者是大因緣也《昔、屠兒(とじ)[やぶちゃん注:家畜などの獣類を殺すことを生業(なりわい)とした人。ひどく差別されたことはご存知の通り。以下の「惡なるを……」以下はその殺生の故である。]、有り、道人を供養せん[やぶちゃん注:自身の殺生の業(ごう)を供養して貰うために僧に布施をしたいと思ったのである。]と欲す。その惡なるを以つての故に、往(おもむ)く者、無し。後(のち)、一(ひとり)の新學の沙門の、威儀、詳序(しやうじよ)なる[やぶちゃん注:述べ語る内容が非常に詳しかったのを。]を見て、請ひ歸りて、種種の餚饍(かうぜん)[やぶちゃん注:豪華な料理。御馳走。]を飯-食(く)はせしめ、食ひ訖(をは)りて還(ま)た、此の道人に請ひて、「願はくは、終身、我が家に在りて食せんことを。」と。道人、卽ち、之れを受く。玩-習(なれしたし)むこと、既に久しくして、切(しき)りに、其の前に在りて殺生せるを見るも、敢へて之れを呵(せ)めず。積もりて、年歲(ねんさい)、有り。後、屠兒の父、死し、河(かは)の中の鬼(き)となり、刀を以つて、身を割き、乃(すなは)ち、復た、還る。後、道人、河を渡るに、鬼、船を捉へて曰はく、「此の道人を沒して、河中に著(お)かば、乃(すなは)ち去るを得べし。」と。船人(ふなびと)、怖れ、白(まう)す[やぶちゃん注:その訳を尋ねたの意であろう。]。鬼の言(いは)く、「吾が家(いへ)、昔日、此の道人を供養す。積年、吾が殺生を呵めず、今、此の殃(わざは)ひを受く。恚(うら)むが故に殺すのみ。」と。船人曰はく、「殺生すら、尙ほ、此の殃ひを受く、況んや、道人をや。」と。鬼曰はく、「我れ、爾(こ)れ[やぶちゃん注:その僧がこの船に乗っていることであろう。]を知るは、恚むが故のみ。若(も)し、能く我が爲めに布施して、福を作(な)し、名を呼びて、呪願(じゆぐわん)せば、我れ、便(すなは)ち、相ひ放(ゆる)さん。」と。船人、盡(ことごと)く、爲めに、福を作さんことを許(ききとど)けり。鬼、便ち、之れを放つ[やぶちゃん注:船が普通に航行出来るように放した。]。道人、卽ち、鬼の爲めに會(ゑ)を作(な)し、名を呼びて、呪願す。餘人[やぶちゃん注:同船している他の乗客。]も、次に、復た、爲めに會を作し、河中に詣(まゐ)り、鬼を呼びて曰はく、「卿(けい)[やぶちゃん注:尊敬の二人称。]、福を得しや、未だしや。」と。鬼曰はく、「卽ち、得たり、復た、苦痛、無し。」と。船人曰はく、「明日、當に卿のた爲めに福を作すべし。自(みづか)ら來たるを、得るや不(いな)や。」と。鬼曰く、「得(う)。」と。鬼、旦(あした)に化(け)して、婆羅門の像(すがた)と作(な)りて、來たり、手ずから、供養し、自ら、呪願を受く。上座[やぶちゃん注:高位の僧。ここはかの僧侶を指す。]、爲めに、說經す。鬼、卽ち、須陀洹道(しゆだをんだう)[やぶちゃん注:サンスクリット語の「流れに従って与かる者」の意の「スローターパンナ」の漢音写。煩悩を脱して聖者の境地に入った位を得ることを言う。四果(しか)の第一。]を得、歡喜して去る。是(ここ)を以つて主・客の宜(よしみ)には、理(ことわり)として諫正すること有るべきなり。惡道に墮(お)つと雖も、故(もと)は、善緣、有り。善知識と謂ふべき者は、是れ、大因緣なり。》、次に、昔有賈客、入ㇾ海採ㇾ寶、逢大龍神、擧ㇾ船欲ㇾ飜、諸人恐怖、龍曰、汝等頗遊行彼國不、報言、曾行過ㇾ之、龍與一大卵、如五升瓶、汝持此卵、埋彼國市中大樹下、若不ㇾ爾者、後當ㇾ殺ㇾ汝、其人許ㇾ之、後過彼國、埋ㇾ卵著市中大樹下、從ㇾ是以後、國多災疾疫氣、國王召道術占ㇾ之、云有蟒卵國中、故令ㇾ有災疫、輒推掘燒ㇾ之、病悉除愈、賈客人後入ㇾ海、故見龍神、重問事狀、賈人曰、昔如神敎、埋卵市中、國中多有疾疫。王召梵志占ㇾ之、推得焚燒、病者悉除、神曰、恨不ㇾ殺奴輩、船人問、神何故乃爾也、神曰、卿曾聞某國有健兒某甲不、曰、聞ㇾ之、已終亡矣、神曰、我是也、我平存時、喜陵擽國中人民、初無呵我、但奬ㇾ我、使我墮蟒蛇中、悉欲ㇾ盡ㇾ殺ㇾ之耳、是以人當相諫從ㇾ善相順。莫自恃勢力、陵擽於人一、坐招其患、三惡道苦、但可ㇾ聞ㇾ聲、不ㇾ可形處《昔、賈客(こきやく)[やぶちゃん注:商人。]有り、海に入りて寶を採る。大龍神の、船を擧げて、飜(くつが)へさんと欲(す)るに逢ふ。諸人、恐怖す。龍曰はく、「汝ら、頗る彼(か)の國に遊行するや不(いな)や。」と。報(こた)へて曰はく、「曾つて行き、之れを過(よ)ぎるなり。」と。龍、一つの大きなる卵(たまご)の、五升瓶のごときを與へ、「汝、此の卵を持ちて、彼の國の市中(いちなか)の大樹の下に埋(うづ)めよ。若(も)し爾(しか)せずんば、後に汝を殺すべし。」と。其の人、之れを許す。後、彼の國を過ぎり、卵を埋むるに、市中の大樹下に著(お)けり。是れより以後、國に、災ひ・疫疾(えやみ)の氣(き)、多し。國王、道術を召して、之れを占ふ。云はく、「蟒(うわばみ)の卵、國の中に在り、故に災ひ・疫(えやみ)を有らしむ。」と。輒(すなは)ち、推(たづ)ねて、掘り、之れを燒くに、病ひ、悉く、除かれ、愈(い)えたり。賈客の人、後(のち)、海に入りて、故(ことさら)に龍神に見(まみ)ゆ。重ねて事狀(じじやう)を問ふ。賈人曰はく、「昔、神の敎へしごとく、卵を市中に埋むるに、國中、多く、疾疫あり。王、梵志(ぼんじ)[やぶちゃん注:「ぼんし」とも。バラモン教の僧を指す語。]を召して、之れを占ひ、推(たづ)ねて、焚-燒(やきはら)ひ、病む者、悉(ことごと)く除(い)ゆ。」と。神曰く、「恨むらくは、奴輩(やつばら)を殺さざるを。」と。船人、問ふ、「神は何故に、乃(すなは)ち爾(しか)するや。」と。神曰はく、「卿(けい)、曾つて、某國に健兒の某-甲(なにがし)の有りを聞けるや不(いな)や。」と。曰はく、「之れを聞けど、已に終-亡(なくな)れり。」と。神曰はく、「我れは、是れなり。我れ、平-存(いきてあ)りし時、喜(この)みて、國中(くにぢゆう)の人民を陵-擽(ふみにじ)るに、初めより、我れを、敎え、呵(せ)むる者、無く、但(た)だ、我れに奬(すす)め、我れをして蟒-蛇(うわばみ)の中(なか)に墮とせしむ。悉く、之れを殺し盡くさんと欲するのみ。」と。是れを以つて、人は、當(まさ)に相ひ諫(いさ)め、善に從ひてぞ、相ひ順(やはら)ぐべし。自(みづか)ら勢力を恃んで、人を陵-擽(ふみにじ)り、坐(よ)りて、其の患(わざはひ)を招くこと莫(な)かれ。三惡道は苦(くる)し。但(た)だ聲は聞くべくも、形(からだ)、處(を)るべからず」と》、此の二つの相似た談が、此經に相雙んで出て居るを見て、作合わせて今昔の四の十三語[やぶちゃん注:「のこと」と訓じておく。]を生じたのだらう、東晉の譯ならんてふ佛說目連問戒律中五百輕重事經には、龍の舊師が免る可からざるを知て、自ら進んで水に投じて死んだとして云く、昔迦葉佛時、有一比丘、度弟子不ㇾ敎ㇾ誡、弟子多作非法、命終生龍中、龍法七日一受ㇾ對時、火燒其身、肉盡骨在、尋復還復、復則復燒、不ㇾ能ㇾ堪ㇾ苦、便自思惟、我宿何罪、致苦如ㇾ此耶、便觀宿命、自見本作沙門、不ㇾ持禁戒、師亦不ㇾ敎、便作毒念、恚其本師、念欲傷害、會後其師、與五百人、乘ㇾ船渡ㇾ海、龍便出ㇾ水捉ㇾ船、衆人卽問、汝爲是誰、答我是龍、問汝何以捉ㇾ船、答汝若下此比丘、放ㇾ汝使ㇾ去、問此比丘何豫汝事、都不ㇾ索餘人、獨索此比丘者何、龍曰、此比丘、本是我師、不ㇾ敎誡我、使我今日受如ㇾ此苦痛、是以索ㇾ之、衆人事不ㇾ得ㇾ止、便欲此比丘下著水中、比丘曰、我自入ㇾ水、不ㇾ須ㇾ見ㇾ捉、卽便投ㇾ水喪身命滅、以ㇾ此驗ㇾ之、度ㇾ人事大不ㇾ可ㇾ不敎誡《昔、迦葉佛の時、一比丘有り、弟子を、度して敎戒せず、多く、非法を作(な)す。命、終へて、龍の中(なか)に生まる。龍の法、七日に一たび、對(むくい)を受くる時、火、其の身を燒き、肉、盡きて、骨、在り。尋(つい)で、復(ま)た、還り、復た、則ち、復た、燒かれ、苦しみに堪ふ能はず。便(すなは)ち、自(みづか)ら思惟して、「我れ、宿(むかし)、何の罪ありてか、此(か)くのごとき苦しみを致すや。」と。便ち、宿命を觀ずるに、自ら見(けみ)して、「本(もと)、沙門と作(な)りて、禁戒を持(じ)せず、師も亦、敎へざりき。」と。便ち、毒念(どくねん)を作し、その本師を恚(うら)み、「傷害せん。」と念欲(ねんよく)す。會(たまた)ま、後(のち)、其の師、五百人と、船に乘り、海を渡る。龍、便ち、水を出でて、船を捉ふ。衆人、卽ち、問ふ、「汝は、是れ、誰(たれ)と爲すや。」と。答へて、「我れは、是れ、龍なり。」と。問ふ、「汝、何を以つてか船を捉ふるや。」と。答へて、「汝、若(も)し、此の比丘を下ろさば、汝を放ちて去らしめん。」と。問ふ、「この比丘、何ぞ、汝の事に豫(あづか)るや。都(すべ)て、餘人を索(もと)めずして、獨り、此の比丘のみを索むるは、何ぞや。」と。龍曰はく、「此の比丘、本(もと)、是れ、我が師なり。我れを敎戒せず、我をして、今日(こんにち)、此くのごとく苦痛を受けせしむ。是れを以つて、之れを索む。」と。衆人、事(こと)やむを得ずして、便ち、此の比丘を捉へて、水中に著(お)かんと欲(ほつ)す。比丘曰わく、「我れ、自ら、水に入らん。須(すべか)らく捉らへらるべからず。」と。卽ち、便ち、水に投じ、身命を喪ひて、滅す。此れを以つて、之れを驗(み)れば、人を度するに、敎戒せざるべからず。》。[やぶちゃん注:以上の「佛說目連問戒律中五百輕重事經」については、熊楠の引用文には、かなりの有意な原本からの脱落部が存在し、返り点の位置もどうも妙なところがある。これでは正常に読むことが出来ないので、「大蔵経データベース」の当該部を、丸々、本文では引用した実際の底本「南方隨筆」所収の本文(右ページ一行目から次のページの三行目まで)とは大きく異なるので、必ず、対照して読まれたい。

 なお、「南方隨筆」ではこのパートはここで終わっているのであるが、恐らくは初出の大正二(一九一三)年八月発行の『鄕土硏究』初出に拠ったものと思われる「選集」版では、以下の一段落が存在する。新字新仮名である上に、南方熊楠による表記を恣意的に弄っている。しかし、『鄕土硏究』の当該号はネットでは見られないことから、その「選集」版を、ここまでの電子化で覚えた熊楠の表記癖に直して、以下に参考までに掲げておく。特殊な仕儀なので注意されたい。読みは筑摩書房「全集」版(筑摩「選集」版の底本)編者によって添えられた可能性が頗る高いが、総て歴史的仮名遣に従って残しておいた。或いは、ここも初出は総て漢文なのかも知れないと考え、「大蔵経データベース」で当該部を確認出来たので、一部の漢字を正字化し、また、句点を読点に代えて、今までのように本文にぶち込んで、訓読部を《 》後に置いた。但し、返り点は無しの白文にしておいた。この仕儀で、少なくとも「選集」版のそれよりも遙かに原形に近いものを復元出来たかも知れぬと、ちょいとばかり、自負している。

   

 又東晉頃の譯本ちふ阿育王譬喩經には平素豕(ぶた)を殺した者恆水(ガンジスがは)の鬼と也、曾て豕を殺すを諫めなんだ道人を捉り殺さうと爲たとし、云く、昔有賢者、居舍衞國東南三十里、家門奉法供養道人、家公好喜殺猪賣肉、道人漸漸知之、未及呵誡。老公遂便命終、在恒水中受鬼神形云々、後日道人渡恒水、在正與鬼神相値、其鬼便出半身在水上、捉船顧言、捉道人著水中、不者盡殺船上人、時有一賢者便問鬼神、何以故索是道人、鬼神言、我在世間時供養道人、道人心知我殺猪賣肉、而不呵誡我、是以殺道人耳、賢者便言、君坐殺猪乃致此罪、今復欲殺道人、罪豈不多乎、鬼神思惟、實如賢者之言、便放令去、道人得去、還語其家、子孫爲作追福、神卽得免苦、示語後世人、道人受供養不可不教誡時《『昔、賢者、有り、舍衞國の東南三十里に居れり。家内、法を奉じ、道人に供養す。家公(かこう)、好-喜(この)みて猪(ぶた)を殺し、肉を賣れり。道人、漸々(やうや)う、之れを知れども、未だ呵(せ)め誡(いまし)むるに及ばず。老公、遂に便(すなは)ち、命、終(を)へ、恆水(こうすい)の中にあって鬼神(きしん)の形を受く』云々。『後日、道人、恒水を渡り、正に鬼神と相ひ値(あ)ふ。其の鬼、便ち、半身を出だして水上に在り、船を捉へて顧みて言はく、「道人を捉へて水中に著(お)け。不者(しからず)んば、盡(ことごと)く、船上の人を、殺さん。」と。時に、一賢者、有り、便ち、鬼神に問ひて、「何を以つての故に是の道人を索(もと)むるや。」と。鬼神、言はく、「我れ、世間に在りし時、道人を供養す。道人、心には、我れ、豚を殺し、肉を賣るを知れり。而(しか)れども、我れを、呵め誡めず。是(これ)を以つて、道人を殺すのみ。」と。賢者、便ち、言はく、「君、豚を殺せしに坐(よ)りて、乃(すなは)ち、此の罪を致す。今、復た、道人を殺さんと欲す。罪、豈(あに)多からざらんや。」と。鬼神、思惟するに、「實(まこと)に。賢者の言(げん)のごとし。」と。便ち、放(ゆる)して去らしめ、道人、去るを得たり。還りて、其の家に語り、子孫の爲めに、追福を作(な)す。神、卽ち、苦しみを免(まぬが)るるを得たり。後世の人に示す。「道人、供養を受くれば、敎へ誡めざるべからず。」と。』。》。

   *]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(1) / 卷第四 羅漢比丘敎國王太子死語第十二

 

[やぶちゃん注:本論考は「一」が大正二(一九一三)年八月、「二」が同年十一月、「三」が同年、最後の「四」が翌大正三年五月発行の『鄕土硏究』初出で、大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方随筆」(新字新仮名)で校合した。同選集は本篇の初出の誤りが補正してあり、しかも原文はなく、元版全集編者による読み下し文となっている(しかし、それは現代仮名遣の気持ちの悪い代物であり、無論、漢字は新字体である)。今までもそうしてきたが、底本の原文通り、まず、底本の返り点のみのついた漢文で示し(但し、返り点に誤りがあると認めた場合はそれを訂した)、その後に《 》で推定される訓読文を添えた。但し、私は可能な限り、引用原本を確認出来るものは、それで確認して誤りと判断し得たものは訂し、「選集」のみが拠り所となる場合でも、無批判の受け入れず、読みも私の我流で訓読し直してある。そうした部分は、実は甚だしく多くあるから、五月蠅くなるばかりなので、通常、その底本の誤りは、原則、注記しない。なお、原話の正確な部分を探すのに最も活用したのは「大蔵経データベース」である。

 なお、本論考の参考に供するため、熊楠が採り上げている「今昔物語集」の当該話のうち、私が電子化(注)していない作品については、本電子化注に先立って、この私のブログ・カテゴリ『「今昔物語集」を読む』で事前に電子化訳注をしておいた。実際、その話と比較しながらでなければ、本論考は素人では全く歯が立たないと思われるからである。

 なお、ブログでの本篇電子化注は「今昔物語集」の各話の論考の切れ目で分割して示す。]

 

      今 昔 物 語 の 硏 究

 

       

 

 今昔物語集卷四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」《羅漢の比丘、國王太子の死を敎へたる語(こと)第十二》の本話が芳賀博士の纂訂本に出て居らぬ。唯だ此話に綠の遠い史記の西門豹が河伯の爲に民の娘を川に沈むるを禁じた話を參看せよと有るのみだ。然し此話の出所は玄奘の西域記卷十二、達摩悉鐵帝國、昏馱多城、國之都也、中有伽藍、此國先王之所建立、疏ㇾ崖奠ㇾ谷式建堂宇、此國之先、未ㇾ被 佛敎 、但事邪神、數百年前、肇弘法化、初此國王愛子嬰ㇾ疾、徒究醫術、有ㇾ加無ㇾ瘳、王乃躬往天祠、禮請求ㇾ救、時彼主爲ㇾ神下ㇾ語、必當痊復、良無他慮、王聞喜慰、囘駕而歸、路逢沙門、容止可ㇾ觀、駭問其形服、問ㇾ所從至、此沙門者、已證聖果、欲ㇾ弘佛法故、此儀形、而報ㇾ王曰、我如來弟子、所謂苾芻也、王既憂心、卽先問曰、我子嬰疾、生死未分、沙門曰、王先靈可ㇾ起、愛子難濟《昏馱多城(こんだたじやう)は國の都なり。中に伽藍有り、此の國の先王の建立する所なり。崖を疏(ほりとほ)し、谷を奠(うづ)め、以つて堂宇を建つ。この國の先(せん)は[やぶちゃん注:この国はこれ以前に。]、未だ佛敎を被(う)けず、但(た)だ、邪神に事(つか)ふ。數首年前、肇(はじ)めて法化(ほふけ)を弘(ひろ)む。初め、此の國王の愛子(あいし)、疾ひに嬰(かか)る。徒(いたづら)に醫術を究め、加ふる有れども、瘳(い)ゆること無し。王、乃(すなは)ち、躬(みづか)ら、天祠(てんし)に往き、禮し、請ふて、救ひを求む。時に、彼(か)の主(しゆ)[やぶちゃん注:神主。神官。]、神と爲りて語(ことば)[やぶちゃん注:神託のお告げ。]を下して、「必ず、當(まさ)に痊復(せんぷく)すべし。良(まこと)に他慮すること、無かれ。」と。王、聞きて、喜び、慰められ、駕(が)を囘(めぐ)らして歸る。路(みち)に沙門に逢ふ。容止(ようし)[やぶちゃん注:姿や立ち居振る舞い。]、觀るべし。その形服に駭(おどろ)きて、從(よ)つて至る所を、問ふ。此の沙門、已(すで)に聖果(しやうくわ)を證(しやう)し、佛法を弘(ひろ)めむと欲するが故に此の儀形(ぎぎやう)あり。而して、王に報じて曰はく、「我れは如來の弟子、所謂(いはゆる)、苾芻(ひつしゆ)[やぶちゃん注:現代仮名遣「ひっしゅ」。比丘に同じ。]なり。」と。王、既に心に憂ふれば、卽ち、先づ、問ふて曰はく、「我が子は疾ひに嬰り、生死(しょうじ)、未だ分かたず。」と。沙門曰はく、「王の先靈(せんりやう)は起こすべきも、愛子は濟ひ難し。」と。》(是は、王の死んだ先祖の靈を復生らす[やぶちゃん注:「いきかへらす。]術有りとも、王の愛子の死を救ふ方は無いと云ふ意なるを物語集の筆者解し損ねて、沙門答て云く、御子必ず死給ひなむとす、助け給はむに力不ㇾ及ず《力(ちから)及ばず》、是れ天皇の御靈の所爲也と譯し居る)。王曰、天神謂其不ㇾ死、沙門言、其當ㇾ終、詭ㇾ俗之人言何可信。遲至宮中、愛子已死、匿不ㇾ發喪、更問神主、猶曰不ㇾ死、疹疾當瘳、王便發怒、縛神主而數曰、汝曹群居、長ㇾ惡妄行威福、我子已死、尙云當瘳、此而謬惑、孰不ㇾ可ㇾ忍、宜戮神主殄滅靈廟、於ㇾ是殺神主、除神像、投縛芻河、迴駕而還、又遇沙門、見而敬悅、稽首謝曰、曩無明導、佇足邪途、澆弊雖久、沿革在ㇾ茲、願能垂顧、降臨居室、沙門受ㇾ請、隨至中宮、葬子既已、謂沙門曰、人世糺紛、生死流轉、我子嬰ㇾ疾、問其去留、神而妄言、當必痊差、先承指告、果無虛脫、斯則其法可ㇾ奉、唯垂哀愍、導此迷徒、遂請沙門、揆度伽藍、依其規矩而便建立、自ㇾ爾之後、佛敎方隆云々、大精舍中有石佛像、像上懸金銅圓蓋、衆寶莊嚴、人有旋繞、蓋亦隨轉、人止蓋止、莫ㇾ測靈鑒。聞諸耆舊曰、或云聖人願力所ㇾ持、或謂機關祕術所ㇾ致、觀其堂宇、石壁堅峻、考厥衆議、莫知實録。《『王曰はく、「天神、其れ、死せざるを謂ふ。」と。沙門曰はく、「其れ、當(まさ)に終はるべし。俗を詭(いつは)る人の言(げん)、何ぞ信ずべけんや。」と。遲く、宮中に至るに、愛子、已に死せり。匿(かく)して、喪を發(はつ)せず。更に神主(しんしゆ)に問ふに、猶曰はく、「死せず。疹疾(しんしつ)、當に瘳(い)ゆべし。」と。王、便(すなは)ち、怒りを發し、神主を縛りて數(せ)めて[やぶちゃん注:罪を数えて相手を責めて。]曰はく、「汝曹(なんぢら)は群れ居(を)りて、惡を長(ちやう)じ、妄(みだ)りに威福を行なひ、我が子、已に死せるに、尙、『當に瘳ゆべし』と云ふ。此く、謬(あやま)り惑はすは、孰(いづくん)ぞ忍ぶべからざらん。宜しく神主を戮(ころ)し、靈廟を殄滅(てんめつ)すべし[やぶちゃん注:完全に殲滅せよ。]。」と。是(ここ)に於いて、神主を殺し、神像を除き、縛芻河(ばくすうが)[やぶちゃん注:オクサス川。Oxus。中央アジアの大河川アムダリヤのラテン名。私の『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の注を参照。地図をリンクさせてある。]に投じ、駕を廻(かへ)して歸る。又、沙門に遇ふ。見て、敬(つつし)んで、悅び、稽首して謝して曰はく、「晨(さき)に、明導、無くば、足を邪まなる途(みち)に佇(とど)めしならん。弊(へい)を澆(うすくす)ること、久しと雖も、沿革は玆(ここ)に在り[やぶちゃん注:「このような悪しき事態となったもとは我が国の歴史の信仰の誤りにこそある」の意か。]。願はくは、能く顧(いつくし)みを垂れ、居室[やぶちゃん注:この王国の宮廷。]に降臨されんことを。」と。沙門、請ひを受け、隨ひて中宮(ちゆうぐう)に至る。子を葬ること、既に已(をは)り、沙門に謂ひて曰はく、「人世は糺紛(きうふん)して、生死(しやうじ)、流轉す。我が子、疾ひに嬰(かか)りて、其の去留を問ふに、神をして妄言するに。『當に必ず痊-差(い)ゆべし』とせり。先に指告(しこく)を承(う)くるに、果して、虛脫、無し。斯(こ)れ便(すなは)ち、その法(ほふ)を奉ずべきなり。唯(た)だ、哀-愍(あはれ)みを垂れて、此の迷徒(めいと)を導け。」と。遂に、沙門に請ひて、伽藍を揆-度(はか)り[やぶちゃん注:全体を見渡して推し量って。]、其の規矩(きく)に依りて、便ち、建立す。爾(こ)れより後(のち)、佛法、方(まさ)に盛んとなる』云々。『伽藍の大精舍中、石佛像、有り。像の上に、金銅(こんどう)の圓蓋(ゑんがい)を懸け、衆(おほ)くの寶もて、莊嚴(しやうごん)す。人、旋(まは)り繞(めぐ)るもの有れば、蓋も亦、隨ひて轉(まは)る。人、止(とど)まれば、蓋も、止まり、靈鑒(れいきん)[やぶちゃん注:霊の鏡としてのあらたかなる験し。]、測ること、莫(な)し。諸(こ)れを耆舊(ぎきう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「ぎきゅう」。昔馴染みの老人。]に聞くに、曰はく、或いは、云はく、「聖人の願力(ぐわんりき)の持(じ)する所なり。」と。或いは謂はく、「機關(からくり)の祕術の致す所なり。」と。其の堂宇を觀るに、石壁は竪峻(けんしゆん)なり。厥(そ)の衆議を考ふるに、實錄を知るもの莫し」。》、慈恩傳卷五には、昏馱多城中有伽藍、此國先王所ㇾ立、伽藍中石佛像上有金銅圓蓋、雜寶裝瑩、自然住レ空、當於佛頂、人有禮旋、蓋亦隨轉、人停蓋止、莫ㇾ測其靈《昏駄多城中に、伽藍、有り。此の國の先王の立つる所なり。伽藍中の石の佛像の上に、金銅の圓蓋有り。雜寶(ざうはう)、莊(けだか)く瑩(かがや)き、自-然(おのづ)と、空(くう)に住(とどま)りて、佛頂に當(あ)たる。人、禮して、旋(めぐ)れば、蓋も亦、隨ひて轉(めぐ)る。人、停まれば、蓋も、止まる。其の靈、測る莫し。》とばかりあって緣起を說て無い(一九〇六年板「ビール」英譯西域記二の二九三頁と一九一一年板同氏譯玄奘傳一九七頁をも併せ見よ)。

[やぶちゃん注:以上で熊楠が採り上げている話は、こちらで電子化訳注してある

「芳賀博士の纂訂本」国文学者芳賀矢一「攷証今昔物語集」で、国立国会図書館デジタルコレクションで大正二年から十年にかけて冨山房から刊行したそれが読める。彼の批判した当該部は、ここと次のページである。「やたがらすナビ」で同芳賀校訂本の本文だけがここに電子化されてある。但し、全然パンチが弱い新字である。私の上記の正字正仮名版を強くお薦めする。

「史記の西門豹が河伯の爲に民の娘を川に沈むるを禁じた話を參看せよ」前注で示した話をただ活字にしただけの最後に、『(本書卷十第三十三條立生贄國王止此平國語參閲)』とだけあるのを指す。この標題は、「生贄(いけにへ)を立つるに、國の王、此れを止(とど)めて國を平(たひらげ)る語(こと)」と読む(「やたがらすナビ」のこちらで電子化された読み易いものが視認出来る。但し、新字である)。その指示するのは、ここにある「○史記卷百二十六滑𥡴傳」のそれなのであるが、この話、私が読んでも、こちらの話とはひどく異なっており、原拠であるどころか、類話でさえない、おかしな「見よ注記」と言わざるを得ぬ。熊楠の不満げな批判的物言いは頗る正当と言える。正直、芳賀は「源氏物語」を『乱倫の書物』と誹謗し、「こんなものが日本の大古典であることは情けない」と言い放って何とも思わないガチガチな常識人だった。されば、正直、優れた稗史で、時にエロティックで滑稽な「今昔物語集」を、これ、正当に評価・校訂するに相応しい学者だったとは、私は全く以って思わないと述べておく。

「慈恩傳」「大慈恩寺三藏法師傳」玄奘(六〇二年~六六四年)の伝記。全十巻。唐の慧立の編になる。

『「ビール」英譯西域記』イギリスの東洋学者で、最初に初期仏教の記録類を中国語から直接翻訳したサムエル・ビール(Samuel Beal 一八二五年~一八八九年)。よく判らないが、死後の一九一一年刊の“The Life of Hiuen-Tsiang”(「玄奘の生涯」)辺りに含まれるか。「Internet archive」のこちらに一九一四年版があるが、版が孰れも違うので、流石に探す気にはならない。悪しからず。]

2022/04/21

「今昔物語集」卷第十「宿驛人隨遺言金副死人置得德語第二十二」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    宿驛(しゆくえき)の人、遺言(ゆいごん)に隨ひて、金(こがね)を死人(しひと)に副(そ)へて置きたるに、德を得たる語(こと)第二十二

 

 今は昔、震旦(しんだん)の□□代に、人、有りて、他(ほか)の州(くに)へ行く間、日晚(く)れて、驛(うまや)と云ふ所に宿りしぬ。其の所に、本より、一人(ひとり)の人、宿して病む。相ひ互に、誰人(たれひと)と知る事、無し。

 而るに、本より宿りして病む人、今、宿せる人を呼ぶ。呼ぶに隨て寄りぬ。病む人、語りて云く、

「我れ、旅にして、病を受て、日來(ひごろ)、此こに有り。今夜、死なむとす。而るに、我が腰に、金二十兩、有り。我れ、死なむ後(のち)に、必ず、我れを棺に入れて、其の金(こがね)を以て、納(をさ)め置くべし。」

と。今、宿りせる人、此れを聞て、

「汝ぢ、姓(しよう)は何(いか)にぞ、名は何(いか)が云ふ、何れの洲(くに)に有る人ぞ、祖(おや)や、有る。」

など問はむと爲(す)る間に、其の事をも、問ひ敢(あ)へざる程に、此の病む人、絕え入りぬれば、今、宿りせる人、

『奇異也。』

と思ひて、死(しに)し人の腰を見るに、實(まこと)に、金(こがね)廿兩、有り。此の人、哀れびの心、有りて、死にし人の云ひしに隨ひて、其の金を取り出だして、少分を以ては、此の死にし人を納め置くべき物の具共(ども)を買ひ調へ、其の殘りをば、彼れが約の如く、少しをも殘さず、此の死に人に副(そ)へて、納め置きけり。誰人と知らずと云へども、此くの如くして、家に還りぬ。

 其の後、思ひ懸けざるに、主(ぬし)を知らざる馬、離れて來れり。此の人、此の馬を見て、

『此れ、定めて樣(やう)有るらむ。』

と思ひて、取り繫ぎて、飼ふ。而るに、「我れ、主也。」と云ふ人、無し。其の後、亦、颷(つむじかぜ)の爲に、縫物の衾(ふすま)を卷き持(も)て來れり。其れも、

『樣(やう)有らむ。』

と思ひて、取りて置きつ。亦、「我れ、主。」と云て尋る人、無し。

 其の後、人來りて云く、

「此の馬は、我が子、某(それ)と云ひし人の馬也。亦、衾も彼(か)れが衾を颷の爲に卷き揚げられぬ。既に、君が家に、馬も衾も、共に、有り。此れ、何(いか)なる事ぞ。」

と。家の主、答へて云く、

「此の馬は、思ひ懸けざるに、離れて出で來れる也。尋ぬる人無きに依りて、繫ぎて飼ふ。衾、亦、颷の爲に卷き持(も)て來れる也。」

と。來れる人の云く、

「馬も徒(いたづ)らに離れて來れり。衾も、颷、卷き持て來れり。君、何(いか)なる德か、有る。」

と。家の主(あるじ)、答へて云く、

「我れ、更に、德、無し。但し、然〻(しかじか)の驛(うまや)に、夜(よ)る、宿りせりしに、病み煩ひし人、本より宿りして、絕え入りにき。而(しか)るに、彼が云ひしに隨ひて、彼れが腰に有し金(こがね)二十兩を以て、遺言の如く、少分を以ては彼れを納め置くべき物の具を買ひ調(ととの)へ、其の殘りをば、少しも殘さず、彼れに副へて、納め置てなむ、還(かへ)りにし。『其の人の姓(しやう)は何(いか)にぞ、名をば何(いか)が云ふ。何(いづ)れの洲(くに)に有る人ぞ。』など、問はむとせし間に、絕え入りにき。」

と語れば、來れる人、此の事を聞て、地に臥し丸(まろ)びて、泣く事、限無し。淚を流して云く、

「其の死にけむ人は、卽ち、我が子也。此の馬も、衾も、皆、彼れが物也。君の、彼れが遺言を違(たが)へ給はざるに依りて、隱れたりし德、有れば、顯れたる驗(しる)し有て、馬も、衾も、天の、彼れが物を給ひたる也けり。」

と云て、馬も衾も取らずして、泣々(なくな)く還るに、家の主(あるじ)、馬をも、衾をも、還し渡しけれども、遂に取らずして去りにけり。

 其の後、此の事、世に廣く聞え有て、

「其の人、喎(ゆが)める心、無く、直(ただし)き也けり。」

とて、世に、重く、用ゐられけり。

 此れを始めとして、颷(つむじかぜ)の卷き持て來れる物をば、本の主(ぬし)に還す事、無し。亦、主も、「我が物」と云ふ事、無し。亦、卷き來れる所をも、吉(よ)き所とも爲(せ)る也となむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「本より」「もとより」。以前から。

「絕え入りぬれば」ここは「急に亡くなってしまったので」の意。

「其の金を取り出だして、少分を以ては、此の死にし人を納め置くべき物の具共(ども)を買ひ調へ、其の殘りをば、彼れが約の如く、少しをも殘さず、此の死に人に副(そ)へて、納め置きけり。誰人と知らずと云へども、此くの如くして、家に還りぬ」ここには埋葬のことが書かれていないが、宿に置いておくわけにはゆかないから、仮りの埋葬(土葬)をしたと考えねばならぬ。「仮りの」と私が言ったのは、彼が結局、どこの国の何んという名で、その親族の有無をさえ聞き取れなかった以上は、宿の主人も、仮埋葬するしかないからである。これは、時代が不明ではあるが、ここで私が特に「仮りの」と言ったのは、行政上の制約ではなく、中国の古来よりの習俗として、旅の途中や、異国で亡くなった死者は、生れ故郷に埋葬されない限り、その魂は決して浮かばれないという信仰があるからである。私の李復言撰「杜子春」の古い拙訳の「三」の最後で、仙人修行を決意した彼が、最後に片づけた世俗のやるべきこと中に、「客死して異郷に葬られたままの一族の者の遺骸は、それを引き取って、先祖の墳墓の地に合葬してやったのでした。」とあることからそれが判る。原文(リンク先は私の電子テクストである)では、僅かに「遷祔族親」(族親(ぞくしん)を遷祔(せんぷ)し)で、「旅の途中で亡くなり、他郷に埋葬されている一族の者の遺骸を、郷里の先祖の墳墓に合葬すること。」と私が注したものがそれである。

「此れ、定めて樣(やう)有るらむ。」「これは、きっと、何か深い訳(わけ)・理由がある、何か超自然の働きが係わっているのであろう。」と感じたのである。

「縫物の衾(ふすま)」高価な刺繡を施した寝具・夜具。今野氏の注に、『飛来した物が馬と衾であるところに生活に必要で』、且つ、贅沢な『ものだったことがうかがえる』とされる。

「徒(いたづ)らに」これと言った理由などもないのにも拘わらず、むやみやたらに馬小屋から逃げ出したというのである。

「君、何(いか)なる德か、有る。」この問いは、馬と衾の持ち主が、超自然的な力によってこの男の手元に向かったと感じ、何か、この男が天がそうするだけの徳分(とくぶん)のあることをしたか、何かそうした力を起動させる対象物を持っているのではないか、と推察したのである。

「馬も衾も取らずして、泣々(なくな)く還るに、家の主(あるじ)、馬をも、衾をも、還し渡しけれども、遂に取らずして去りにけり」一つのシークエンスを二人の男の両方向から描写したものであろう。今野氏も、『父の側からと家主の側からと双方から記述したため』、一見、まどろっこしい描写になっている旨の注記をされておられる。

「喎(ゆが)める心」「歪める心」。素直でないねじ曲がった根性。

『此れを始めとして、颷(つむじかぜ)の卷き持て來れる物をば、本の主(ぬし)に還す事、無し。亦、主も、「我が物」と云ふ事、無し』ここも前の事実を繰り返していて、ややくどい。しかも馬を外して、この後でも、高価な夜具の方をのみ二度出しているのはしつこい。今野氏も、『このことを起源として、習俗の起原譚の形となる。天に召しあげられ、天から授かるものという感覚であろう。無縁・公界の物という認識に近い』が、『陰徳、信義のテーマからやや逸脱する』と述べておられる。ここでまず、今野氏は、何故、馬をカットし、衾を特異的にここに出したかを説明されておられるものと思う。則ち、天の神が天空に、一度、旋風(つむじかぜ)で巻き上げた衾を、かの男のもとに褒美として吹き送ったと解釈出来、それが、語りとして「天」と結びつける格好の対象となっていることを指摘されているものと推察する。無論、馬は天馬を連想させ、馬もまたそのようにして送ってきたとも言えなくもないが、しかし、最後に今野氏のおっしゃる如く、本来の本話のコーダとしては、屋上屋の感を禁じ得ないとは言えよう。

「吉(よ)き所」今野氏注に『縁起のいい場所』とある。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    とある駅に宿った人が、遺言に従って、大金を亡くなった人に副え置いて供養し、徳を得た事第二十二

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、震旦(しったん)の、□□の時代に、ある男のあって、他の国へ行くとて、途中、日が暮れたので、とある宿駅に宿をとった。

 その宿には、以前から一の男が宿していたが、重い病いを患って、留まっているのであった。無論、その病人と、このある人とは、相い互いに、誰であるか、全く見知らぬ同士であった。

 ところが、その以前から泊まって病んでいた男が、今日、宿った、その人を呼んだ。

 呼ばれるに従って、傍らに寄り添ったところ、その病人は、次のように語り出した。

「……我れらは、旅の途中で、病いを得て……もう、かなりの間、ここに宿っておりましたが……今夜、もう、お迎えがくるように思われます……されど……我が腰には……金二十両、御座います……どうか! 我れら、死んだ後(のち)に……必ずや、我れらを棺桶にお入れ下さり……その金を……どうか……以って……その中に……お納め置いて下され……」

と。

 今夜、宿った男は、これを聴くや、

「そなた、その姓は何と申される? 名は何と言い、どちらの国のお人か? 父祖はご健在化かッツ?!」

などと問わんとする間に、その答えはおろか、男の問い質しも終わらぬうち、この病人は、息を引き取ってしまったのであった。

 今日、宿った男は、

『……何と……不思議なことじゃが……』

と思って、ふと、亡くなった男の腰の辺りに触れてみると、事実、金二十両があった。

 この看取った人は、しみじみと哀れみの情の起こって、故人の言うた遺言の通り、その金を取り出して、その内の少しばかりを以って、この男の骸(むくろ)を納めおくべき装具など買い調え、その残りを、彼の願ったように、鐚(びた)一銭をも残さず、その棺の中に副えて、納めおき、仮りの埋葬を成した。誰人(たれびと)と知らぬとは雖も、かくの如く、仕儀を済まして、自身の家へと帰った。

 その後(のち)、思いがけざることのあって、主人の不明な馬が、どこからともなく、この男のもとにやってきたのであった。

 男は、この馬のなかなかの駿馬(しゅんめ)なるを見て、内心、

『これは……きっと、人知を超えたなにものかが……働いているのでは、なかろうか?……』

と思って、轡を執って、自分の屋敷で飼うことにした。

 しかれども、「私が馬の持ち主である」と言ってくる人は、これ、誰もいなかった。

 その後(のち)、またしても、旋風(つむじかぜ)に乗って、縫いとりをした高価な夜具が、空から降ってきたのであった。それも、男は、

『……うむ……やはりこれは……何か、あるな。』

と思ってて、取ってしまっておいた。これもまた、「私が持ち主」と言って、尋ねてくる人が、同じく、おらぬのである。

 その後、とある日、ある人が来たって、とりあえず飼いおいてあった馬を眺め、たまたま風入(かざい)れのために日にかざしてあった衾(ふすま)を見て言うことには、

「この馬は、我が子の某(なにがし)と言う者の馬である。また、そこにある衾も、これ彼の衾が、たまたま日干ししておいたところが、旋風(つむじかぜ)のために、巻き揚げられて行方知れずとなったものだ。ところが、かくも、貴殿の家に、これ、馬も、衾も、ともにあるではないか! これは、どういうことかッツ!?!」

と息巻いて叫んだ。

 家の主(あるじ)は、穏やかに答えて言った。

「この馬は、思ひがけず、いずこからか、逃げ離れて、ここへやってきたものであります。尋ねてくる御仁もおらざれば、よって、繋いで飼(こ)うております。さて、衾(ふすま)ですが、これもまた、旋風(つむじかぜ)のために、巻き揚げられて、我が家に降って参ったもので御座る。」

と。

 来たった人は、それを聴くと、

「……馬も、知らぬ間にふいと、我が家から逃げて、ここへやってきたし、衾も、また、旋風(つむじかぜ)が巻き揚げてここへ来たった。……貴殿、もしや、何らかの『徳』をお持ちかな?」

と応じた。

 家の主(あるじ)が答えて言うに、

「私は、これといって、『徳』なんどは御座らぬ。……ただ……□□という宿駅に於いて、夜、宿(やど)致したのですが、そこに、病いを煩ったお人が一人、以前より泊まっておられ、その夜、亡くなられた。私はそれを独りで看取ったのですが、末期(まつご)にそのお人が言い残した言葉に従って、そのお人の腰を閲(けみ)致しまいたところ、金二十両の大金が御座いました。それを以って、その方の御遺言の通り、その金の僅かを以って、かのお人を納めおくべき祭具を買い調えて、その残りの大枚(たいまい)をば、少しも残すことなく、かのお人に副えて、納めおいて、仮りに埋葬を成して、しかして、帰ったということが御座います。その折り、『そなたの姓は何と? 名は何と言うか? いずこ国のお方であるか?』などと、問おうと致しましたが、その折りに息絶えられたのでありました。」[やぶちゃん注:「□□という宿駅」は私の敷衍訳。これは注で述べた通り、父は息子の遺体を改葬する習俗としての義務があると考え、宿駅の場所を父が尋ねるシークエンスなんどを後に継いだのでは、折角の本篇にスムースな流れが乱されると考えた仕儀であるとご理解戴きたいのである。]

と語ったところ、今、来たった人は、この主(あるじ)の言葉を聴くや、たちまち、地に臥して、蹲って、激しく泣くのであった。

 暫くして、その人は、涙を流しながら、

「……その死んだ人者は……これ、即ち、我が子で御座る! この馬も! この衾(ふすま)も! みな、彼の持ち物で御座る! 貴殿が、彼の最期の遺言を、お違(たが)えなさることなく、かくせられたによって……それこそ、隠れて御座った『徳』であってみれば……ここに顕(あらわ)れが、その験(しる)しで御座って……馬も……衾も……天が彼の物を、貴殿にお給えなされたのに相違御座いませぬ!……」

と言って、馬も衾も取り戻さずして、泣く泣く帰ってらんとしたので、家の主(あるじ)は、

「馬も、衾も、お還し致す。」

と、渡そうとしたけれども、その父なる人は、ついに受け取らずに、去って行ったのであった。

 その後(のち)、このこと、世に、広く聞え、あって、

「その人は、まっこと邪な心、これ全くなく、真正直な御仁ではないか!」

と、世に、重く用いられたということである。

 さても、この出来事を始めとして、旋風(つむじかぜ)の巻き揚げてもて来たれる物は、これ、本(もと)の主持ち主に還(かえ)す必要は、これ、ない、ということになった。また、その元の持ち主も、私の物と主張せぬこととなった、のである。

 そうしてまた、このような天来の、巻き揚げられて来ったところのものは、これ、「目出たい縁起物」として「天の下され物」とする風習が生まれたのであると、かく語り伝えているということである。

「今昔物語集」卷第九「歐尙戀父死墓造奄居住語第八」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    歐尙(おうしやう)、死にける父を戀ひて、墓に奄(いほり)を造りて居住(きよぢゆう)せる語(こと)第八

 

 今は昔、震旦(しんだん)の□□歐尙と言ふ人、有りけり。幼少の時より、孝養(けうやう)の心、深して、父母(ぶも)に奉仕する事、限り無し。

 其の父、死して後(のち)、歐尙、父の墓所に廬(いほり)を造りて居(ゐ)て、朝暮に、父を戀ひ悲む。

 而る間、一の虎、山より出でたるを、鄕(さと)の人、此れを見付けて、多くの人、或は桙(ほこ)を取り、或は弓箭(きうぜん)を持(も)て追ひて、虎を害せむと爲(す)る時に、虎、責められて、遁(のが)るべき方(はう)無きに依りて、命を存せむが爲に、歐尙が廬に走り入る。歐尙、此れを見て、哀れびて、虎を隱さむが爲に、衣を脫ぎて、虎に覆ひて、虎を隱す。卽ち、鄕の人等、虎を尋ねて、廬に來りて、或は桙を以つて突(つ)かむとし、或は弓を以て射むとして云く、

「此の虎、正く此の廬に來りぬ。」

と。歐尙が云く、

「我れ、虎を隱すべからず。虎は、此れ、惡しき獸也。我れも、共に殺すべし。何ぞ、强(あながち)に虎を隱さむや。虎、更に此の廬に見え來らず。」

と云て、出ださず。其の時に、鄕の人等、此れを聞て、皆、歸り去りぬ。

 其の後(のち)、日暮に臨みて、虎、廬を出でゝ、山に入ぬ。虎、卽ち、此の恩を深く知て、常に歐尙が廬に、死にたる鹿を持(も)て來たる。其の後、歐尙、自然(おのづか)らに富貴(ふつき)の身と成る。

「此れ、他(ほか)に非(あら)ず。偏へに孝養の心の深きに依り、亦、生命(しやうみやう)を害せむと爲(す)るを助けたるに依りて、天の授け給へる富也。」

と知ぬ。

 然れば、父母に孝養する事は、天の哀れび給ふ事也。不孝(ふけう)の人をば、天、皆、憎み給ふ事也。亦、自然(おのづか)ら、人、有りて、生命を害せむを見合はゞ、必ず、助け救ふべき事也となむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「歐尙(おうしやう)」底本の人名解説索引に、『伝未詳』。「太平御覧」に『「平都区宝者後漢人」』とする。名の前の欠字は後に地名を入れるための意識的欠字。

「廬」今野氏の注によると、原拠は漢籍の「孝子伝」(中国本土では散佚し、本邦で軌跡的に残った)上巻の十九であるが、原話では『墓所に庵を作ったとはないが、「廬」は親の喪に子が服する』ために作ってそこに籠る『丸いつぼ型の小屋をいう』とある。

「桙(ほこ)」木質の堅いもので制した木製の戟(ほこ)。

「死にたる鹿を持(も)て來たる。其の後、歐尙、自然(おのづか)らに富貴(ふつき)の身と成る。」何故、富貴になるか? 今野氏の脚注が、鹿は『食用のほか、皮も使えた。』という一言が解明している。氏はさらに、『虎の威による呪性もあろうか』という、民俗学的な類感呪術的解釈も加えておられて興味深い。因みに、私が改作者なら、里人に攻撃され、死に瀕した虎が、最後に欧尚の庵を訪れ、自らの肉と皮を彼に捧げて死ぬといういかにもなシークエンスを演出してしまうだろう。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    欧尚が、亡くなった父を恋いて、墓に庵(いおり)を造って住みついした事第八

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、震旦(しったん)の□□という所に、欧尚という人がいた。幼少の時から、孝養の心が深く、常に父母に奉仕して怠りなかった。

 その父が亡くなった。

 すると、欧尚は、埋葬が終わるや、直ちに父の墓所の敷地に庵を造って、朝暮(ちょうぼ)に、父を恋い悲しんだのであった。

 そんな、ある日、一匹の虎が、山から下りてきて、村を戦慄させた、里人らは、これを目撃するや、多くの男たちが、或いは戟(ほこ)を執り、或いは弓矢を携えて、虎を追いかけては、虎を殺そうと躍起になった。

 虎は、責められて、逃げられる隙がなくなってしまった。

 虎は命を永らえんがために、欧尚の庵に走り入った。

 欧尚は、その喘いでいる虎を見るや、憐みの情がこみ上げてきた。

 そこで、虎を隠さんがために、自身の着ていた上着を脱ぐと、それで、伏せさせた虎を覆って、その姿を匿(かく)してやったのであった。

 ちょうど、その時である。里の人々が、虎を探して、庵にやってきた。

 或る者は戟で以って突き殺そうと手ぐすねし、或る者は弓を以ってその急所を射らんと猛って、言った。

「あの虎は、確かに、この庵にきたはずだ!」

「おう! 確かに見たぞ!」

と。

 欧尚は答えた。

「私が虎を隠すいわれはありませんよ。虎は、これ、猛悪な獣(けだもの)ですから。私も、あなたがたとおもに、里人の安穏(あんのん)のため、殺すに決まっておりましょう! どうして、強いて、恐ろしい虎なんぞを、これ、匿(かく)すことなんぞ、ありましょうや! 虎は、一度たりとも、この庵にも来ておりませんし、ここ周辺でも見かけたことは御座いません!」

と言い切って、庵の奥に匿った虎を出さなかった。

 さても、この時、里人らは、孝行者として広く知れ渡っていた彼の言葉を聴いて、『本当のことを言っている』と感じて、みな、諦めて帰って行ったのであった。

 その後(のち)、日暮れになって、虎は自分から庵を出て、山へと帰って行った。

 さても――

――虎は、その後、この恩を深く感じて、何時(いつ)も、欧尚の庵の入り口に捕まえた死んだ鹿を持ち来たったのであった。

 そのお蔭で、欧尚は、自(おのず)と富貴(ふうき)の身となった。

 しかし、その時、欧尚が知ったことには、

「これは、何か、他の故(ゆえ)あることでも、何でもない。ひとえに、私が孝養の心を忘れずにあった故に、そうしてまた、生きとし生けるものの命が、害されんとするのを、助けた、人としての成すべき当たり前のことをした故に、天が私にお授け下さった恩寵としての富みなのである。」

ということなのであった。

 されば、父母に孝養することは、天がそれを無条件で愛おしみなさるのである。不孝の人を、天は、一人残らず、憎み遊ばされるのである。また、自然、人があって、他の息とし生けるものの生命が危くなっているのに邂逅した際には、これ、必ず、助け救うのが正しいことなのであると、かく語り伝えているということである。

 

2022/04/20

「今昔物語集」卷第三「阿闍世王殺父王語第」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。本巻は標題通し番号が「第七」で終わって、数字が入っていない。参考底本では第二十七に相当する。] 

 

    阿闍世王(あじやせわう)、父の王を殺せし語(こと)

 

 今は昔、天竺に、阿闍世王、提婆達多(だいばだつた)と、得意・知音(ちいん)にして、互ひに云ふ事を、皆、金口(きんく)の誠言(せいごん)と信ず。調達(でうだつ)、其の氣色(けしき)を見て、世王(せわう)に語りて云はく、

「君(きみ)は、父の大王を殺して、新王と成(な)れ。我れは、佛(ほとけ)を殺して新佛(しんぶつ)と成らむ。」

と。

 阿闍世王、提婆達多が敎へを信じて、父の頻婆沙羅王(びんばしやらわう)を捕へて、幽(かす)かに人離れたる所に、七重(しちぢう)の强き室(しつ)を造りて、其の内に籠(こ)め置きて、堅固に戶を閉ぢて、善く門を守る人を設(まう)けて、誡(いまし)めて云はく、

「努々(ゆめゆめ)、人を通はす事、無かれ。」

と。此(か)くの如く、度〻(どど)、宣旨を下(くだ)して、諸(もろもろ)の大臣・諸卿に仰せて、一人も通はす事、無し。

「必ず、七日(なぬか)の内に責め殺さむ。」

と構ふ。

 其の時に、母后(ははきさき)韋提希夫人(ゐだいけぶにん)、大きに哭(かな)しみて、我れ、邪見に惡しき子を生(しやう)じて、大王を殺す事を、歎き悲しむで、竊(ひそか)に蘇蜜(そみつ)を作りて、麨(むぎこ)に和合(わがふ)して、彼(か)の室に、密かに持(も)て行きて、大王の御身(おほむみ)に塗る。又、瓔珞(やうらく)を構へ造りて、其の中に漿(こむづ)を盛りて、密かに大王に奉る。大王、卽ち、麨を食(じき)して、手を洗ひ、口を洗ひて、合掌恭敬(くぎやう)して、遙かに耆闍崛山(ぎじやくつせん)の方に向ひて、淚を流して禮拜(らいはい)して、

「願はくは、一代敎主釋迦牟尼如來、我が苦患(くぐゑん)を助け給へ。佛法には遇ひ乍ら、邪見の子の爲に、殺されなむとす。目犍連(もくけんれん)は在(まし)ますや。我が爲に、慈悲を垂れて、八齋戒(はちさいかい)を授け給へ。後生(ごしやう)の資糧(しらう)とせむ。」

佛、此の事を聞き給ひて、慈悲を垂れて、目連・富樓那(ふるな)を遣はす。二人の羅漢、隼(はやぶさ)の飛ぶが如くに、空より飛びて、速かに頻婆沙羅王の所に至りて、戒(かい)を授け、法(ほふ)を說く。此(か)くの如く、日々に來たる。

 阿闍世王、

「父の王は、未だ、生きたりや。」

と、守門の者に問ふ。門守の者、答へて云はく、

「未だ、生き給へり。容顏、麗しく、鮮かにして、更に死に給はずして御(おは)す。此れ、則ち、國の大夫人(だいぶにん)韋提希、竊かに麨(むぎこ)を蘇蜜(そみつ)に和して、其の御身に塗り、瓔珞の中に漿(こむづ)を盛りて、密かに奉り給ふ。又、目犍連・富樓那、二人の大羅漢、空より飛び來りて、戒を授け、法を說く故也。卽ち、制止するに、及ばず。」

と。阿闍世王、此れを聞きて、彌(いよい)よ、嗔(いか)りを增して、云はく、

「我が母韋提希は、此れ、賊人(ぞくにん)の伴(ともがら)也。惡比丘(あくびく)の富樓那・目連を語らひて、我が父の惡王(あくわう)を今日まで生(い)けける。」

と云ひて、劍(つるぎ)を拔きて、母の夫人(ぶにん)を捕へて、其の頸(くび)を切らむとす。

 其の時に、菴羅衞女(あんらゑによ)の子に耆婆大臣(ぎばだいじん)と云ふ人、有り。闍王(じやわう)の前に進み出でて申さく、

「我が君、何(いか)に思(おぼ)して、かゝる大逆罪(だいぎやくざい)をば、造り給ふ。「毗陀論經(びだろんきやう)」に云はく、『劫初(ごふしよ)より以來(このかみ)、世に、惡王、有りて、王位を貪るが爲に、父を殺す事、一萬八千人也。』。但し、未だ曾て、聞かず、無道に母を害せる人をば。大王、猶ほ、善く思惟(しゆい)せしめ給ひて、此の惡逆を止(とど)め給へ。」

と。王、此の事を聞きて、大きに恐れて、劍を捨てて、母を害せず成りぬ。父の王は、遂に、死す。

 其の後(のち)、佛、鳩尸那城(くしなじやう)拔提河(ばだいが)の邊(ほと)り、沙羅林(しよらりん)の中に在(まし)まして、大涅槃の敎法を說き給ふ。其の時に、耆婆大臣、闍王を敎へて云はく、

「君(き)み、逆罪を造り給へり。必ず、地獄に墮ち給ひなむとす。此比(このごろ)、佛(ほと)け、鳩尸那城拔提河の邊り、沙羅林の中に在まして、常住佛性(じやうぢうぶつしやう)の敎法(けうぼふ)を說きて、一切衆生を利益(りやく)し給ふ。速かに其の所に參り給ひて、其の罪を懺悔(さんぐゑ)し給へ。」

と。闍王の云はく、

「我れ、既に、父を殺してき。佛、更に我を吉(よ)しと思(おぼ)さじ。又、我れを見給ふ事、非(あら)じ。」

と。耆婆大臣の云はく、

「佛は善を修(しゆ)するをも、見給ふ。惡を造るをも、見給ふ。一切衆生の爲めに、平等一子(びやうどういつし)の悲(かなしび)を垂れ給ふ也。只、參り給へ。」

と。闍王の云はく、

「我れ、逆罪を造れり。決定(くゑつぢやう)して無間地獄(むけんじごく)に墮ちなむとす。佛を見奉ると云へども、罪、滅せむ事、難し。又、我れ、既に、年老いにたり。佛の御許(みもと)に參りて、今更に恥(はぢ)を見む事、極めて、益(やく)、無し。」

と。大臣の云はく、

「君、此の度(た)び、佛を見奉り給ひて、父を殺せる罪を滅し給はずば、何(いづ)れの世にか、罪を滅し給はむ。無間地獄に墮ち入り給ひなば、更に出づる期(ご)、非(あら)じ。猶ほ、必ず、參り給へ。」

と寧(ねむごろ)に勸む。

 其の時に、佛の御光、沙羅林より、阿闍世王の身を指して照らす時に、闍王の云はく、

「劫(こふ)の終りにより、日・月、三つ出でて、世を照すべかなれ。若(も)し、劫の終りたるか、月の光り、我が身を照らす。」

と。大臣の云はく、

「大王、聞き給へ。譬へば、人に、數(あまた)の子、有り。其の中に、病ひ、有り、片輪(かたは)有るを、父母、懃(ねんごろ)に養育す。大王、既に父を殺し給へる罪、重し。譬へば、人の子の病ひ、重きに非ずや。佛は一子の悲び、在(まし)ます。大王を利益(りやく)し給はむが爲に、指し給へる所の光ならむ。」

と。闍王の云はく、

「然(さ)れば。試みに、佛の御許(みもと)へ參らむ。汝も我に具(ぐ)せよ。我れ、五逆罪を造れり。道行かむ間(あひだ)に、大地、割れて、地獄にもぞ、墮ち入る。若(も)し然(しか)る事有らば、汝を捕へむ。」

と云ひて、闍王、大臣を具して、佛の御許に參らむとす。

 既に出で立つに、車五萬二千兩に、皆、法幢(ほふどう)・幡蓋(ばんがい)を懸けたり。大象(だいざう)五百に、皆、七寶(しちほう)を負(おほ)せたり。其の所從(しよじゆう)の大臣の類幾(いくばく)、既に沙羅林に至りて、佛の御前(みまへ)に進み參る。佛、王を見給ひて、

「彼は阿闍世王か。」

と問ひ給ふに、卽ち、果(くわ)を證(しやう)して授記(じゆき)を蒙(かうふ)れり。佛の宣(のたま)はく、

「若(も)し、我れ、汝を道(だう)に入れずば、有るべからず。今、汝ぢ、我が許(もと)に來たれり。既に、佛道に入りつ。」

と。

 此れを以(も)て思ふに、父を殺せる阿闍世王、佛を見奉て、三界(さんがい)の惑ひを斷(だん)じて、初果(しよくわ)を得たり。かゝれば、佛を見奉る功德、量り無しとなむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「阿闍世王(あじやせわう)」(生没年不詳)紀元前五世紀頃の古代インドのマガダ国の国王アジャータシャトルの漢音訳。父のビンビサーラ=頻婆娑羅(びんばしゃら)王を殺し、実母ヴァイデーヒー=韋提希夫人を幽閉、王位に就いたが、後に同時代人であったゴータマ・ブッダ(釈迦)の教えに従い、仏教教団の熱心な保護者となった。

「提婆達多(だいばだつた)」(生没年不詳)デーヴァダッタの漢音訳。釈迦と同時代の仏教の異端者。略して「提婆」或いは「調達」(じょうだつ)、「天授」とも漢訳される。ブッダの従兄弟(いとこ)又は義兄弟といわれ、出家して一度はブッダの弟子となったものの、後にブッダに反旗を翻し、仏教教団を分裂に導いた。本篇にあるように、マガダ国のアジャータシャトル王子を唆(そそのか)し、父王を殺させて王位につかせた。また、彼はブッダの殺害を計画したが、失敗し、後に悶死したと伝える。厳格な生活法を主張したらしく、提婆達多の教えに従う徒衆が、後代にも存続したと伝えられている。

「得意・知音(ちいん)」孰れも同義で「親友」の意。

「金口(きんく)の誠言(せいごん)」絶対的に正しい真理。

「韋提希夫人(ゐだいけぶにん)」(生没年不詳)ここにある通り、実子の王子アジャータシャトルが父王を幽閉し、餓死させようとした際、密かに肌に小麦粉に酥蜜(そみつ:牛乳から採った油(食用となる)と蜂蜜。本篇の「蘇蜜」は同義)を混ぜたものを塗り、胸飾りの一つ一つに葡萄の汁を詰めて(本篇の「漿(こむづ)」に同じ)、密かに王のもとに行き、それを食べさせたが、発覚し、自らも幽閉された。牢内からの彼女の切なる祈りに応えて、釈迦が顕現し、この世に絶望して阿弥陀仏の浄土を願う妃に対し、阿弥陀仏や、その浄土を「観想」する方法を教えた。この折りの教えが「観無量寿経」であるとされる。

「麨(むぎこ)」炒った麦。

「耆闍崛山(ぎじやくつせん)」サンスクリット語の「グリドラクータ」の漢音写。「霊鷲山」(りょうじゅせん)などとも漢訳する。古代インドのマガダ国の首都王舎城、現在のラージギルの東北あるSaila-giri(グーグル・マップ・データ)の南面の山腹にあって、今はチャタ(Chata)山と呼ばれており、ここは釈尊が「大経」や「法華経」を説いた山として、とみに知られる。

「目犍連(もくけんれん)」サンスクリット語の「マウドガリヤーヤナ」の漢音写。「目連」に同じ。古代インドの修行僧で、釈迦の十大弟子の一人。優れた神通力の使い手として「神通第一」と称された。釈迦の直弟子中でも、舎利弗と並ぶ二大弟子として活躍したことから、「マハー」=摩訶=「大」を冠して「摩訶目犍連」「大目犍連」などとも記される。

「八齋戒(はちさいかい)」八戒。在家男女が一日だけ出家生活にならって守る八つの戒め。性行為をしない(在家の信者が普段守らなければならないとされる五戒、不殺生戒・不偸盗戒(盗みを働かない)・不邪淫戒(性行為をしない)・不妄語戒(嘘をつかない)・不飲酒(ふおんじゆ)の五種の内の不邪淫戒(不道徳な性行為の禁止。特に強姦や不倫・性行為に溺れることを指す)をより厳格な性行為を行わないという不淫戒に変え、さらに、不坐臥高広大床戒(高く立派な寝台に寝ない)と、不著香華瓔珞香油塗身戒+不作唱技楽故往観聴戒(装身や化粧をしない+歌舞音曲を視聴しない)と、不過中食戒(非時を摂らない。仏家では食事は午前中の一度だけを原則とするが、それではもたないので、それ以外に食す食事を総て「非時」と言った。具体的には正午から日の出までの間の食事摂取行為である。但し、通常、水はこの限りではない)の三つを加えたもの。

「後生(ごしやう)の資糧(しらう)」底本の今野氏の注に、『死後に善所に生まれ変わる助縁。資糧は命を支えるもととなる食べ物で、ここでは善根の譬喩的表現。』とある。

「富樓那(ふるな)」富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)サンスクリット語「プールナ=マイトラーヤニープトラ」の漢音写。釈迦仏の十大弟子の一人。略して、この「富楼那」で呼ばれることが多い。

「賊人(ぞくにん)」謀反人。

「菴羅衞女(あんらゑによ)」(生没年不詳)は釈迦の女性の弟子(比丘尼)の一人。サンスクリット語「アームラパーリー」の漢音写。「庵摩羅」など多数の表記があり、意訳でも「㮈女」「柰女」「非浄護」などがある。当該ウィキによれば、『ヴェーサーリー(毘舎離)の人で』、『ヴァイシャ出身。ヴェーサーリー城外のマンゴー林に捨てられ、その番人に育てられた』ことから、「アンバパーリー」=「マンゴー林の番人の子」と『いわれるようになった』。彼女は、『遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていた』が、『釈迦仏に帰依し、その所有していた林を僧団に献納した』とある。

「耆婆大臣(ぎばだいじん)」サンスクリット語「ジーヴァカ」の漢音写。「活」「命」「能活」「寿命」などと意訳する。仏弟子で古代インドの名医。頻婆娑羅王の王子で、阿闍世王の異母兄であった(頻婆娑羅王と前注の菴羅衞女の間にできた子とされる)。ここにあるように、父を殺した阿闍世王を導き、仏に帰依させたとされ、中国の名医扁鵲(へんじゃく)と並び称される。

「鳩尸那城(くしなじやう)」古代インドのマラ国の首都クシナガラ付近にあった城。現在はウッタルプラデシュ州東端のカシア付近に相当する。城外で釈迦が入滅した聖地として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「拔提河(ばだいが)」底本の地名解説索引に、「大唐西域記」によれば、前のクシナガラの西北の凡そ二キロメートルの『地を流れる川という』とある。

「沙羅林(しよらりん)」沙羅双樹(アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta)の林。言わずもがな、釈迦の入滅した林のこと。

「無間地獄(むけんじごく)」八大地獄の一つで、「八熱地獄」の八番目、最下底にある地獄。「五逆」と「謗法」(ほうぼう:仏法を誹謗すること)の大罪を犯した者が落ちて、絶え間なく、厳しい責め苦を受ける所とされる。「無間」は、「絶え間ないこと」を意味し、「むげん」とも読む。「五逆」は、五逆罪の略で、「父を殺す」・「母を殺す」・「仏弟子を殺す」・「仏の体から血を出させる」・「正しい仏道修行をしている団体の秩序を乱す」ことの五罪を指す。

「劫(こふ)の終り」今野氏の注に、「劫初」(こうしょ)の対語で、『劫末。宇宙が破滅する空劫の終末期。この世の終り。』とある。

「日・月、三つ出でて」今野氏注に、『涅槃経によるに、三つの月』で、『ここは』、「日」と「月」ではなく、『月でなければならない』のであり、これは『話が原経を離れて』しまい、『独り歩きしたための』誤った『変化』をしてしまったものと断じておられる。「月日」で、太陽のように光を発する月が、その時、三つ出現するという意味であるらしい。

「法幢(ほふどう)」今野氏注に、『仏教儀式に用いる旗鉾。鉾や鉾状の杖に旗や吹き流しを取り付けたもの。』とある。

「幡蓋(ばんがい)」同前で、『のぼり旗や天蓋』とする。

「七寶(しちほう)」「七珍」(しっちん)とも呼び、経に説く仏法を象徴する七種の宝。「無量寿経」では、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ:シャコガイ)・珊瑚・瑪瑙を、「法華経」では、金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰(まいかい:中国産の美しい赤色の石)とする。

「三界(さんがい)」一切の衆生の生死輪廻する三種の迷いの世界。欲望に呪縛されている「欲界」・美しい形象に繋がれてある「色界(しきかい)」・美しさへの捕らわれからは離脱しているものの、なお未だ迷いの残っている「無色界」を指す。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やし、今回は場面転換のために行空けも行った。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    阿闍世皇子(あじゃせおうじ)が父の王を殺した事第

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、天竺にあった、阿闍世皇子、提婆達多(だいばだった)と親友であって、互いに言い合ったことは、みな、

「絶対の真理の言葉である。」

と信じ合っていた。その調達(=提婆達多)が、阿闍世の鬱々とした様子を見るや、彼にに語って言うことには、

「君は、一つ、君の実の父の大王を殺して、新王と、なれ! 我れらは、仏(ほとけ)を殺して、新仏(しんぶつ)たらんとする!」

と。

 

 阿闍世皇子は、提婆達多の教えを信じて、即座に、父の頻婆沙羅王(びんばしゃらおう)を捕えて、寂寥たる人気のない場所に、七重の壁で囲まれた監禁室を造って、その中に父王を押し込めおいて、厳重に扉を閉ざして、怠りなく出入り口を守る者を任じて、きつく誡(いまし)めて言うことには、

「ゆめゆめ、ここに、人を通わすことの、無きように!」

と命じた。

 かくたる命令を、たびたび、かく、厳しい禁制の宣旨をも下して、あらゆる大臣・諸卿にも仰せられ、一人も、そこに通わすことが、なかった。

「必ず、七日の内に、責め殺してやる!」

と堅く決意し、身構えていた。

 

 そのころ、王子の実母の妃である韋提希(いだいけ)夫人は、この監禁を知って、激しく慟哭し、

「私は……邪悪な見識にとらわれた悪しき子を生んでしまい……大王を殺させてしまうことになるなんて!……」

と、歎き悲しんだ。

 そうして、窃(ひそ)かに蘇蜜(そみつ)を作って、麦焦がしを交ぜ併せ、かの監禁室に密かに持って行っては、こっそりと大王のお体に塗ったのであった。

 また、瓔珞(ようらく)の内側を刳り抜いて空洞を作り、その中に漿(こんず)を盛っては、やはり、見張りの番人の目を偸んで、大王にさし上げた。

 大王、その麦焦がしや葡萄の汁を食(しょく)されて飢えを凌がれた。

 

 さて王は、手を洗い、口を漱(すす)いで、清浄になし、合掌恭敬して、遙かに、仏陀のおられる耆闍崛山(ぎじゃくつさん)の方に向って、涙を流しつつ、礼拝し、

「願はくは、一代の教主たる釈迦牟尼如来、我が苦患(くげん)を助け給え。仏法に、かくも邂逅致すことが出来ましたが、しかし、邪見の子のために殺されんとしております。目犍連はおられますか? 我がために慈悲を垂れて、八斎戒を授け給え。後生(ごしょう)の資糧と致そうと存じます故に。」

と祈られた。

 

 仏陀は、この事を遙かにお聴きになられて、慈悲を垂れて、目連と富楼那(ふるな)を直ちに遣はした。

 二人の羅漢は、隼(はやぶ)が飛ぶように、空を翔って、速かに頻婆沙羅王のところへ至って、戒を授け、法を説いた。

 そのようにして、日々、二人の弟子は、王のもとを訪ねたのである。

 

 阿闍世皇子はと言えば、

「父の王は、未だに生きておるのか?」

と、守衛の者に問うた。

 門番は、答えて言った。

「未だ、生きておられます。お顔の感じも麗しく、生き生きとしていて、さらにお死になるような感じはまるで御座いませぬ。まあ、その、これはですな……まんず、お国の大夫人たる韋提希さまが……これ、窃かに麦粉を蘇蜜に和(あ)えては、その御身(おんみ)にお塗りになって持ち込まれ……また、瓔珞(ようらく)の中に漿(こんず)を仕込んで、密かに差し上げ申して遊ばされるから、と存じます。……また、目犍連とか、富楼那とか申、二人の大羅漢が、飛ぶ鳥のごと、空から飛び来たって、戒を授けては、法を説いておる故で御座いましょう。これらは、その……凡そ、我らには……制止することが出来ぬので御座います。」

と。

 

 阿闍世皇子は、これを聞くや、いよいよ、怒りを増して、叫んだ。

「我が母韋提希は、これ、謀反人の仲間だ! 悪僧の富楼那や目連と語らって、我が父の悪王を、今日(きょう)まで、生かしおるのじゃッツ!」

と吐き捨てるように言うと、剣(つるぎ)を抜いて、自ら、母夫人を捕えて、その首を斬ろうとした。

 その時、これ、庵羅衛女(あんらえにょ)の子で、耆婆大臣(ぎばだいじん)と申すお人があり、剣を引っ提げて母夫人のところへ行こうとする皇子の前に進み出て、申さされた。

「我が君! 一体、いかに思し召して、かかる大逆の罪(つみ)を、犯さんとなされるのですか?! 「毗陀論経(ひだろんきょう)」に曰わく、『劫初(こうしょ)よりこの方、世に、悪王のあって、王位を貪らんがために、父を殺すこと、一万八千人なり。』とあります。しかし! 未だ嘗つて私は聞いたことが御座らぬのは、無道にも母を殺害する人であります! 大王、なお、よく思惟(しゆい)なさせしめ遊ばされ、このおぞましき悪逆をお止め下されよ!」

と。

 皇子は、この事を聴いた途端、ひどく恐れて、剣を捨て、母を害せずに終わった。

 しかし、父の王は、ほどなく、遂に亡くなられたのであった。

 

 その後(のち)、仏陀は、鳩尸那城(くしなじょう)の抜提河(ばっだいが)の畔(ほと)り、沙羅林(しゃらりん)の中にましまして、「大涅槃経」に記された教法を説きなさっていた。

 

 そのころ、耆婆大臣は、皇子――いや、もう、阿闍世王(あじゃせおう)と呼ぼう――に教えて進言をした。

「君(きみ)は、逆罪を、お造り遊ばされてしまいました。必ずや、地獄に堕ち遊ばされんとしておるので御座います。さても。このごろ、仏陀は、鳩尸那城の抜提河の畔りの沙羅林の中にましまして、常住仏性(じょうじゅうぶっしょう)の教法を説かれて、一切衆生を利益(りやく)なさっておられます。速かにその場所に参られて、その罪を懺悔(さんげ)遊ばされませ!」

と。

 阿闍世王は、しかし、かく答えた。

「我れは、既に、父を、殺してしまった。……仏陀は、さらには、我れらを善(よ)しとは思われまいよ。……また、我れをご覧になられることも、これ、あるまい……。」

と。

 耆婆大臣は食い下がった。

「仏陀は、善(ぜん)を修(しゅ)することをもお見通しであられる! 同時にまた、悪を造るをことをもお見通しであられるのです! 一切衆生のために、平等一子(びようどいっし)の大慈悲を、遍く、お与え下さるのです! ただただ、まず、参り遊ばれませ!!」

と。

 阿闍世王は、気弱に応じた。

「……我れは、大逆の罪を造ってしまった。……さればこそ、その報いは決定(けつじょう)して、無間地獄に堕ちようとしている。……そんな罪深い我らが、仏を見申し上げたと雖も、罪が滅するなんどということは、到底、難しいことであろうじゃないか。また、我れら、既に、年老いてしまった。……仏陀の御許(みもと)に参って、いまさら、おめおめと恥を見せることなど、これ、すこぶる、益(えき)無きことではないか?……」

と。

 しかし、さらに大臣は言い寄った。

「君、このたび、釈迦を見申し上げ遊ばされ、結果として父を殺した罪、その罪を滅(めっ)しなさらなければ、これ、いづれ世に於いてか、その大罪を滅し遊ばされるおつもりか?! 無間地獄にお堕ち入りなさったとならば、さらにそこを出でる後世(ごぜ)の機会は、これ、もう御座いますまい! なお、必ず! 参りましょうぞ!!」

と、懇ろに勧めたのであった。

 その時、仏陀の御光(ごこう)が、その沙羅林の方から、急に阿闍世王の身を指(さ)して、照らし出(い)でてきた!

 時に、阿闍世王が独り言のように言った。

「……劫(こう)の終りとなって、日のように光り輝く月が三つ出でて、世を照すとか、いうらしいじゃないか。……もしや……これは……劫の終りなのか?……月の光りが、ああっ……我が身を、照らすではないか……」

と。

 大臣は、たたみかけて言った。

「大王、お聞き下されよ。譬えば……人に数多(あまた)の子のあって、その中に病にの子がある。生涯治らぬ障碍を持った子があった。しかし、父母というものは、その子を大切に養育する。……大王さま、あなたさまが、既に父を殺害なされたその罪は、確かに重い。しかし、それは譬えば、人の子の、病いの重いのと変わらぬのではありませぬか? 仏陀は、たった独りの子に対しても、その広大無辺の慈悲を無条件で差し出だして下さるのです。さればこそ、これこそ、大王さまを利益(りやく)しなさろうとせんがために、その行くべき場所を差しなさっているところの光りなのではないでしょうか?!」

と。

 阿闍世王が遂に言った。

「……されば……まあ、試みに、仏陀の御許(みもと)へ参ってみよう。……そちも、我れに伴って参れ。我れは、五逆の罪を犯したのだ。……これから参る道中……大地が裂け、無間地獄にでも、これ……ざあっと……堕ち入るやも、知れんからな。……もしも、そんなことが起こったら……そちを捕えて、道連れじゃ……」

と呟くや、阿闍世王は、その大臣を連れて、仏陀の御許(みもと)へと向かおうとするのであった。

 

 既に出で立つに、車は五万二千両、みな、法幢(ほうどう)と幡蓋(ばんがい)を懸けている。大きな象は五百匹、みな、七宝を背負わせてある。その行列に扈従するところの大臣らは、これ、数えることが出来ぬほどに、多い。

 既にして沙羅林(しゃりん)に至った。

 阿闍世王が、仏陀の御前(みまえ)に進み参った。

 仏陀が、王をご覧になって、

「あなたは阿闍世王か。」

と、お問になられる。

 すると――即座に――その場で正しき仏果(ぶっか)の証果が示され――しかも速やかに未来の成仏が――仏陀自身の口から――予言され――保証されたのであった。――

 仏陀はおっしゃられた。

「もし、私が、そなたを正法(しょうぼう)の道に迎い入れなかったとしたら、それは、真の仏道を志すものとして、あるべからざる存在となる。今、そなたは、我がもとに来った。それで、もう、既に、そなたは、正しく仏道に入ったのである。」

と。

 以上を以って思うに、父を殺害した阿闍世王が、仏陀を見申し上げて、三界の惑いを断って、正しき初果を得たのである。さればこそ、仏(ほとけ)を見申し上げる功徳というのは、これ、無量であると、かく語り伝えているということである。

「今昔物語集」巻第五「天竺王宮燒不歎比丘語第十五」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    天竺(てんぢく)の王宮(わうぐう)燒くるに歎かざりし比丘の語(こと)第十五

 

 今は昔、天竺の國王の宮に、火、出來ぬ。片端(かたはし)より燒け持(も)て行くに、大王より始めて、后(きさき)・皇子(わうじ)・大臣・百官、皆、騷ぎ迷(まど)ひて、諸(もろもろ)の財寶を運び出だす。

 其の時に、一人の比丘、有り。國王の護持僧として、此れを歸依し給ふ事、限り無し。而(しか)るに、其の比丘、此の火を見て、頭(かしら)を振り、首を撫でて、喜びて、財寶を運び出だすを、止(とど)む。其の時に、大王、此の事を怪(あやし)びて、比丘に問ひて宣(のたま)はく、

「汝(なん)ぢ、何の故有りてか、宮内(みやのうち)に火の出で來(く)るを見て、歎かずして、我が無量の財(たから)、燒け失(う)するを見て、頭(かしら)を振り、首(かうべ)を撫でて喜ぶぞ。若(も)し、此の火は、汝が出だせる所か。汝ぢ、既に、重き咎(とが)、有り。」

と。

 比丘、答へて云はく、

「此の火、我が出だす所には有らず。然(さ)れども、大王、財(たから)を貪るが故に、三惡趣(さんあくしゆ)に堕(お)ち給ふべきを、今日、皆、悉く燒け失(うしな)ひ給ひつれば、三惡趣に堕ち給ふべき報(ほう)を遁(のが)れ給ひぬる事の、極めて喜ばしき也。人の惡道(あくだう)を離れず、六趣(りくしゆ)に輪𢌞(りんね)する事は、只、一塵(いちぢん)の貯へを貪りて、愛する故也。」

と申す。大王、此れを聞きて、

「比丘の云ふ所、尤も然(しか)るべし。我れ、此れより後(のち)、財(たから)を貪ぼる事、有らじ。」

と宣ひけりとなむ、語り伝へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「三惡趣(さんあくしゆ)」「三惡道」(さんまくだう) とも呼ぶ。生命あるものが、生前の悪い行為の結果として、死後、余儀なく赴かなければならぬ六道の内の三悪道(さんあくどう)としての地獄道・餓鬼道・畜生道という三種の世界。

「六趣(りくしゆ)」六道に同じ。上記三つの三悪道に、三善道の修羅道・人間道・天上道を加えた総称。六道輪廻から解脱しなければ、極楽往生は出来ない。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    天竺の王宮(おうきゅう)が焼けたにも拘わらず、歎かなかった僧の事第十五

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、天竺のとある国王の宮殿から、火が出た。

 片っ端(ぱし)から、延焼してゆくのを見て、大王を始めとして、妃(きさき)・皇子(おうじ)・大臣・百官に至るまで、みな、騒ぎ惑いて、諸々の財宝を運び出すのにやっきになる。

 ところが、その時、一人の僧がおり、その僧は国王の護持僧として、国王以下、誰もが心から、この僧に帰依し申し上げていたのであるが、何んと! その僧、この大火を見るや、満足そうに頭を振り、得心したように首を撫でて、喜んで、財宝を運び出すのを、止めるのである。

 それを見て、大王は、この制止を強く疑って、僧に向かって問うて、仰せられたことには、

「そなたは、如何なる故(ゆえ)あってか、宮の内に火の出来(しゅったい)したのを見て、嘆くことないばかりか、我が量り知れぬこの上もなき財宝が焼け失せるのを見て、頭を振り、首を撫でては、喜ぶのだ!? もしや? この火は、そなたがつけたのではないのか?! そなたには、既にして、重い罪があろうぞ!」

と。

 僧は、それに答えて言うことには、

「この火は、我が付け火したものでは、御座らぬ。されども、大王が、数多(あまた)の財宝を貪らるる故に、後世(ごぜ)に於いて、三悪道に堕ちなさるべきところを、今日(きょう)、みな、ことごとく、焼け失い遊ばされたによって、三悪道に堕ちなさる応報を遁(のが)れなさった。このことは、何よりも、極めて喜ばしいことなので御座る。人間が、かの悪道を離れ得ず、六道を輪廻せねばならぬ所以(ゆえん)は、ただただ、一塵(いちじん)の貯えを貪って、それを愛するが故、なので御座る。」

と申し上げた。

 大王は、これを聞くや、

「僧の申すところ、これ、最もしかるべき謂いである。我れは、これより後(のち)、財宝を貪ぼることは、これ、決してするまい!」

と仰せになられたと、かく語り伝えているということである。

「今昔物語集」卷第四「金翅鳥子免修羅難語第」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。本巻は御覧の通り、標題終りの通し番号の数字が「第七」で終わって、以降は数字が入っていない。参考底本では第十に相当する。]

 

    金翅鳥(こんじてう)の子(こ)、修羅の難を免(まぬ)かれたる語(こと)

 

 今は昔、「金翅鳥」と云ふ鳥、有り。其の鳥は、須彌山(しゆみせん)の片岫(かたくき)に巢を作りて、子共(こども)を生み置けり。須彌山は高さ十六萬由旬(ゆじゆん)の山也。水の際より上八萬由旬、水の際より下八萬由旬也。其の水の際より上、四萬由旬に、此の鳥の、巢をば、作る也。

 亦、「阿修羅王(あしゆらわう)」と云ふ者、有り。身の勢(せい)、極めて大き也。栖(すみか)、二所也。一は海の側(ほと)り也。一は大海(だいかい)の底也。其の海の側りと云ふは、須彌山の峽(かひ)・大海の岸也。其れに、金翅鳥の巢を咋(く)ひて生み置ける子共を、阿修羅、山を動かして、鳥の子を振るひ落して、取りて食らはむとす。

 其の時に、金翅鳥、此の事を歎き悲しむで、佛の御許(みもと)に參りて、佛に白(まう)して言(まう)さく、

「海の側りの阿修羅王の爲に、我が子を、食はる。更に爲(す)べき方(はう)無し。何(いか)にしてか、此の難を遁(のが)るべき。願はくは、佛(ほと)け、此れを敎しへ給へ。」

と。佛、金翅鳥に告げて宣(のたま)はく、

「汝等、『此の難を遁れむ』と思はば、世間に、人、死ににて後、七〻日(しちしちにち)に當る佛事を脩(しゆ)する所、有り。比丘、有りて、供養を受けて、呪願(じゆぐわん)して、施食(せじき)を取る。其の施食の飯(いひ)を取りて、山の角(すみ)に置くべし。然(しか)らば、其の難を、遁るべし。」

と。金翅鳥、此の事を聞きて歸りぬ。

 佛の敎への如く、其の施食の飯を求め取りて、山の角に置きつ。其の後(のち)、阿修羅王、來りて、山を動かすに、敢へて動かず。力を發(おこ)して動かすと云へども、塵許(ちりばか)りも、山、動かざれば、阿修羅王、力、及ばずして、歸りぬ。山、動かざれば、鳥の子、落ちずして、平安に養ひ立つ。

 此れを以(も)て知るに、四十九日の施(せ)は、尤(もと)も重し。然(さ)れば、人、勤むる所無くして、四十九日の佛事の所に至りて、食用(じきよう)せむ事は、有るべからざる也となむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「金翅鳥(こんじてう)」「ガルダ」「迦楼羅」(かるら)に同じ。インド神話に現れる巨大な鳥の名。鳥族の首長であり、ナーガ(龍蛇族)の敵。伝説では、ガルダは母親が龍蛇族に辱められたのを恨み、それ以来、ナーガらを捕食するようになったとされる。ビシュヌ神の乗物で、両翼を伸ばすと、三百三十六万里あり、金色で、口から火を吐き、龍蛇を取って食うとされる。仏教に取入れられ、迦楼羅と漢音写され、別に「金翅鳥」(こんじちょう)「迦楼荼」(かるだ)とも漢訳される。密教では、仏法を守護し、衆生を救うために梵天が化したものとする。仏法を守護する八部衆の一つ。

「須彌山(しゆみせん)」サンスクリット語「スメール」(「善の山」「ス」は「善」を意味する美称の接頭辞)は、古代インドの世界観の中で中心に聳え、宇宙の軸となる山のこと。その宇宙構造は当該ウィキのこちらの模式図を参照。その南にある「贍部洲」(せんぶしゅう)という島が人間の住んでいる場所(インド亜大陸)である。

「片岫(かたくき)」底本の今野氏の脚注に、『切り立った岩壁の洞窟』とある。

「十六萬由旬」「由旬」は古代インド及び仏教に於ける距離単位。一由旬は凡そ七~十四キロメートルとされる。七十七万~百二十一万キロメートル。

「阿修羅王(あしゆらわう)」インド神話で、不思議な力を備えていた神々の称。後に悪神とされて、常にインドラ神と争う悪魔・鬼神とされた。仏教では、六道の一つである修羅道(阿修羅道)の王とされ、経によって数々の王名が見られる。「法華経」では婆稚(ばち)・佉羅騫駄(きゃらけんだ)・毗摩質多羅(びましったら)・羅睺羅(らごら)の四王を挙げる。結果して仏法を守護する天龍八部衆の一つに繰り込まれた。

「比丘、有りて、供養を受けて」ここは四十九日の忌日法要の際に、それを施法して呉れた僧侶らに、施主がお礼に斎料(ときりょう)としての布施、本文で言うところの「施食の飯(いひ)」=饗応のための食膳を捧げることを指す。

「呪願(じゆぐわん)」底本の今野氏の注に、『祈りの呪文を唱えて、施主に対する仏の加護を願うこと。布施を受ける時の僧の作法の一』つ、とある。

「山の角(すみ)に置くべし」今野氏も注で述べておられる通り、これは仏教の供養の仕儀との親和性がよく感じられる。そこに、『ここに記す作法は、食事の少量を取り分けて鬼神・餓鬼・畜生・無縁』仏『などに施す散飯(生飯(さば))の習俗に酷似する。』とある。私の電子化注では無数にあるが、祭壇の図が一見忘れ難い、「小泉八雲 海のほとりにて(大谷正信訳)」をリンクさせておく。

「然(しか)らば、其の難を、遁るべし」今野氏は、ここより前の、事件の大前提である『其れに、「金翅鳥」の巢を咋(く)ひて生み置ける子共を、阿修羅、山を動かして、鳥の子を振るひ落して、取りて食らはむとす』以降の内容が経典類には『見当たらない』と注記され、逆に、幾つかの経典には、『須弥山の周海の北岸に一大樹があって竜王と金翅鳥が』棲んでいるが、『金翅鳥が大樹から竜を振るい落して餌食とする』『話が見える』とある。或いは、それをヒントに作者が龍族を阿修羅に役柄を変え、強弱者関係を逆転させて作り替えたものかも知れない。本邦の民俗誌では、巨鳥の猛悪というは、比較的イメージされにくいように思われ、それなりに私には腑に落ちる。

「施食の飯」以下、施主と法事を修した僧の敬虔な思いが籠ったそれが、「だいだらぼっち」のような巨魁阿修羅王の怪力をも、仏法の金剛力で、びくともしないという素敵な展開である。

「勤むる所無くして」この「勤むる所」に就いても、今野氏は、ここも先のように、『少量を分かって万霊に供養する所作をさす』とされる。非常に繊細な注に頭が下がる思いがした。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    金翅鳥(こんじちょう)の子の、修羅の難を免かれる事

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、「金翅鳥」と言う鳥がいた。

 その鳥は、須弥山(しゅみせん)の鋭く切り立った断崖絶壁の洞穴に巣を作って、子供を生み、そこで、育てていた。

 須弥山は、高さ、実に十六万由旬(ゆじゅん)の山である。

 水際(みずぎわ)からは、高さ八万由旬、水際から海の底に向かって、下(した)は八万由旬の山麓が連なる。

 さて、その水際から上、四万由旬の所に、この鳥は、巣を作る性質があった。

 一方、また「阿修羅王」と申す者が、いた。

 この男、身体、これ極めて巨魁なる者であった。

 その巨人に住み家(か)は、二ヶ所ある。

 一つは海の畔(ほと)りであり、今一つは大海の海の底である。

 その海の畔りというのが、須弥山の山峡(やまかい)にして、大海の岸辺なのであった。

 そう、その上の方(ほう)に、金翅鳥が巣を作って生みおいてある子供を、この阿修羅は、山をぐらぐらと動かしては、鳥の子を振るい落として、捕って食ってしまうのであった。

 その時、金翅鳥は、このことをいたく嘆き悲しんで、仏(ほとけ)の御許(みもと)に参って、仏に申し上げて頼むことには、

「海の畔りに棲む阿修羅王のために、我が子が、食われてしまうのです。最早、それを防ぐ術(すべ)は私には御座いませぬ。どのようにすれば、この災難を遁(のが)れることができましょうか? 願わくは、仏さま、それを、お教え下さい。」

と。

 仏は、金翅鳥に告げて、仰せられることには、

「汝ら、『この災難を遁れよう』と思うのであれば、世間に於いて、人の亡くなって後(のち)、七七日(しちしちにち)の四十九日目に当たる仏事を修(しゅ)する風習がある。僧が、やってきて、亡き人を供養して後、祈りの呪文を唱えて、今度は、施主に対し、仏の御加護を願い、しかして施食(せじき)を受ける作法となっておる。その施食の飯(めし)を少しばかり銜えとらせて貰い、須弥山の傍らに置いておくがよい。そうすれば、その難をたちどころに遁れることができる。」

と。

 金翅鳥(こんじちょう)は、このことを聞きとめて、帰った。

 仏の教えのごとく、その施食の飯を少しだけ銜えとって、須弥山の傍らに置いた。

 その後(のち)、阿修羅王がやってきて、いつものように、山を揺り動かしたのだが、どういうわけか、これ、微動だにせぬ。

 渾身の力を込めて動かした。

 しかると雖も、これ、塵(ちり)ほども、山は、動かない。

 阿修羅王は、力(ちから)及ばずして、帰って行ってしまった。

 山が動かなくなったので、金翅鳥の子供は、落ちることがなくなり、平安に養い育ったのである。

 さて、これを以って知ることがある。それは、四十九日の忌日法要の布施は、最も大切なものであるということである。されば、人は、その供養の際、心から亡き人の菩提を祈り、また、そこで僧の受けた供物の些少を、諸々の霊に供えることもせずして、四十九日の仏事を修(しゅ)しておる場に至ってて、むやみに食用(じきよう)せんとすることは、これ、厳に慎むべきことなのであると、かく語り伝えているということである。

 

2022/04/19

「今昔物語集」卷第二十四「百濟川成飛驒工挑語第五」

 

[やぶちゃん注:採録理由は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。ここでの底本は歴史的仮名遣の読みの確認の便から、「日本古典文学全集」第二十四巻「今昔物語集 三」第五版昭和五四(一九七九)年(初版は昭和四九(一九七四)年)刊。校注・訳/馬淵和夫・国東文麿・今野達)を参考に切り替える。但し、恣意的に漢字を概ね正字化し、漢文脈は訓読し、読み易く、読みの一部を送り仮名で出し、読みは甚だ読みが振れるか、或いは判読の困難なものにのみとした。参考底本の一部の記号については、追加・変更も行い、改行も増やした。実は、私は、てっきり、本篇は電子化注したと思い込んでいたが、どうも私の勘違いで、本篇後半の飛驒の工人との技比べを、オリジナルに授業教材に仕上げて、授業を行ったことが十数年ほど前にあったのを、錯覚していたようだ。]

 

   百濟川成(くだらのかはなり)、飛驒工(ひだのたくみ)に挑(いど)む語(こと)第五

 

 今は昔、「百濟の川成」と云ふ繪師、有りけり。世に並び無き者にて有りける。「瀧殿(たきどの)」の石も、此の川成が立てたる也けり。同じき「御堂」の壁の繪も、此の川成が書きたる也。

 而る間、川成、從者(じゆしや)の童(わらは)を逃(に)がしけり。東西を求めけるに、求め得ざりければ、或る高家(かうけ)の下部(しもべ)を雇ひて、語らひて云はく、

「己(おのれ)が年來(としごろ)仕(つか)ひつる從者の童、既に逃げたり。此れ、尋ねて捕へて得させよ。」

と。下部の云はく、

「安き事には有れども、童の顏を知りたらばこそ、搦(から)め、顏を知らずしては、何(いか)でか、搦めむ。」

と。川成、

「現(げ)に、然(さ)る事也(なり)。」

と云ひて、疊紙(たたうがみ)を取り出でて、童の顏の限(かぎり)を書きて、下部に渡して、

「此れに似たらむ童を捕らふべき也。東西の市(いち)は、人、集まる所也。其の邊(ほとり)に行きて伺ふべき也。」

と云へば、下部、其の顏の形(かた)を取りて、卽ち、市に行きぬ。人、極めて多かりと云へども、此れに似たる童、無し。暫く居(ゐ)て、

「若(もし)や。」

と思ふ程に、此れに似たる童、出で來りぬ。其の形(かた)を取り出して競(くら)ぶるに、露(つゆ)違(たが)ひたる所、無し。

「此れ也けり。」

と搦めて、川成が許に將(ゐ)て行きぬ。川成、此れを得て見るに、其の童なれば、極(いみ)じく喜びけり。其の比(ころほひ)、此れを聞く人、極じき事になむ云ひける。

 而るに、其の比(ころ)、「飛驒の工(たくみ)」と云ふ工(たくみ)、有りけり。都遷(みやこうつり)の時の工也。世に並び無き者也。武樂院は其の工の起てたれば、微妙(みめう)なるべし。

 而る間、此の工、彼の川成となむ、各(おのおの)の態(わざ)を挑みにける。飛驒の工、川成に云はく、

「我が家(いへ)に一間四面の堂をなむ、起(た)てたる。御(おは)して見給へ。亦、『壁に繪など書きて得させ給へ。』となむ、思ふ。」

と。

「互ひに挑み乍ら、中吉(なかよ)くてなむ、戲れければ、此(か)く云ふ事也。」

とて、川成、飛驒の工が家に行きぬ。

 見れば、實(まこと)に可咲氣(をかしげ)なる、小さき堂、有り。四面に、戶、皆、開きたり。飛驒の工、

「彼の堂に入(い)りて、其の内、見給へ。」

と云へば、川成、延(えん)に上(あが)りて、南の戶より、入らむと爲(す)るに、其の戶、

「はた」

と、閉(と)づ。驚きて、𢌞(めぐ)りて西の戶より、入る。亦、其の戶、

「はた」

と閉ぢぬ。亦、南の戶は開きぬ。然(しか)れば北の戶より入るには、其の戶は閉ぢて、西の戶は、開きぬ。亦、東の戶より、入るに、其の戶は閉ぢて、北の戶は開きぬ。此(かく)の如く廻々(めぐるめぐ)る、數度(あまたたび)、入らむと爲るに、閉ぢ開きつ、入る事を得ず。侘びて延(えん)より下(お)りぬ。其の時に、飛驒の工、咲(わら)ふ事、限り無し。川成、

『妬(ねた)し。』

と思ひて返りぬ。

 其の後(のち)、日來(ひごろ)を經て、川成、飛驒の工が許に云ひ遣(や)る樣(やう)、

「我が家(いへ)に御座(おほしま)せ。見せ奉るべき物なむ、有る。」

と。飛驒の工、

『定めて、我を謀(たばか)らむずるなめり。』

と思ひて行かぬを、度々(どど)、懃(ねんごろ)に呼べば、工、川成が家に行き、

「此(か)く來れる。」

由を云ひ入れたるに、

「入り給へ。」

と云はしむ。云ふに隨ひて、廊(らう)の有る遣戶(やりど)を引き開けたれば、門(かど)に大きなる人の、黑み、脹(ふく)れ臭(くさ)れたる、臥(ふ)せり。臭き事、鼻に入る樣(やう)也。思ひ懸けざるに、此(かか)る物を見たれば、音(こゑ)を放ちて、愕(おび)えて去(の)き返る。川成、内(うち)に居(ゐ)て、此の音(こゑ)を聞きて、咲(わら)ふ事、限り無し。飛驒の工、

『恐し。』

と思ひて、土(つち)に立てるに、川成、其の遣戶より、顏を差し出でて、

「耶(や)、己(おの)れ、此(か)く有りけるは。只、來れ。」

と云ひければ、恐々(おづお)づ寄りて見れば、障紙(しやうじ)の有るに、早(はや)う、其の死人の形(かた)を書きたる也けり。堂に謀られたるが、妬(ねた)きに依りて、此(か)くしたる也けり。

 二人の者の態(わざ)、此(か)くなむ有りける。其の比(ころほひ)の物語には、萬人所(よろづのひとのところ)に此れを語りてなむ、皆人、譽めける、となむ語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「百濟川成(くだらのかはなり)」(延暦元(七八二)年~仁寿三(八五三)年)は平安前期の画家。先祖は百済の出身で、本姓は余(あぐり)。承和七(八四〇)年に百済朝臣を賜る。武勇(特に強弓に才があった)に長じ、大同三(八〇八)年には、左兵衛府の舎人として出仕したが、絵画の才を発揮し、描くところの人物や山水草木は「自生の如し」(あたかも生きているようだ)と称賛された。本篇の第一エピソードは「文徳実録」にも載り、第二エピソード孰れもその卓抜な技量を物語っている。但し、実際の作品は現存していない。天長一〇(八三三)年、外従五位下。承和年中(八三四年~八四八年)備中介・播磨介を歴任している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「飛驒工(ひだのたくみ)」不詳。ここは一般名詞ではなく、そのように呼びなされた特定個人を指している。底本の注によれば、古くより、『飛驒の国にはすぐれた工匠が多く』、律令『時代、庸調を免除された代りに各里十人ずつ工匠を調進し、「飛驒ノ工」と称された』とある。

「瀧殿(たきどの)の石」参考底本頭注に、『泉石を配した寝殿造りの庭園の、滝のほとりに建てた殿舎』。『この滝殿について、諸注』は、『大覚寺の滝殿とするのが、確証はない』とする。但し、作者がかく書いた以上は、それは確かな当時の固有名詞として、特定の場所にあったそれを指していると考えねばならず、だからこそ直後に「同じき御堂」=滝殿「の壁の繪も、此の川成が書きたる也」と言ってるわけである。

「從者(じゆしや)の童(わらは)を逃(に)がしけり」普段から従者(じゅうしゃ)として使っていた少年が彼のもとから逃亡したのである。何故逃げたのか、弟子にするには、やや若過ぎるのであろうが、気になる。しかも、その童子を執拗に探しているのも、何か訳有りという感じがする。一つ思うのは、或いは、川成は、後の若衆道、少年愛者だったのかも知れない。それが童子には辛かったのではなかったか。

「東西」ここは「あちこち」の意。

「高家(かうけ)」摂関家・大臣家などの代々の権門家の総称。

「下部(しもべ)」下人。

「疊紙(たたうがみ)」「たたみがみ」の音変化。「折り畳んで懐中に入れ、鼻紙や詩歌の詠草などに用いる懐紙(かいし)」、或いは「厚い和紙に渋又は漆を塗って折り目をつけた紙で、結髪や着物を包むのに使用する紙」を言うが、ここは前者であろう。

「童の顏の限(かぎり)」顔の部分だけを描いたことを指す。

「東西の市(いち)」ここは京の都の東西の市を指す。

「其の顏の形(かた)を取りて」ここは、先の川成の描いた似顔絵を受け取って、の意。

「都遷(みやこうつり)」平安遷都のこと、延暦一二(七九三)年から建設が開始され、翌年に遷った。

「武樂院」正しくは「豐樂院」。平安京大内裏の朝堂院の西にあり、大嘗会・節会・射礼(じゃらい:正月十七日に、この豊楽院又は建礼門門前で、天皇臨席の下、親王以下五位以上及び六衛府の官人が参加して射技を披露したもの。終了後には宴が開かれ、禄を賜った)・競(くら)べ馬・相撲などが行われた祭場の正殿。

「一間四面」約一・八二メートル四方。

「壁に繪など書きて得させ給へ」無論、川成に願ったの意で、策略として誘いを促したのである。

「中吉(なかよ)く」「仲良く」。

「延(えん)」「緣」の俗字。

「云ひ入れたる」川成の下人を介して言ったことを指す。

「土(つち)に立てるに」恐らくは裸足で飛び出して、地面に突っ立っていたのである。

「耶(や)」感動詞のそれ。

「己(おの)れ」底本頭注に、本書では『自称、他称いずれにも用いており、いずれにとるかによって解釈は異なってくる。自称とみれば、わしはここにこうしているぞの意。他称とみれば、お前はそんなところにいたなの意』とあるが、私は余裕を持った、とぼけたおもむろな誘い(だから「來れ」と続く)の意であり、前者で採る。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の頭注や現代語訳を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

   百済川成(くだらのかわなり)、飛驒の工人(たくみ)に挑(いど)んだ事第五

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、「百済の川成」という絵師があった。

 世に並びない名匠であった。かの「瀧殿(たきどの)」の石も、この川成が立てたものである。また、同じくその「御堂(みどう)」の壁の絵も、この川成が描いたものである。

 さて、ある時、川成は、自身の従者であった童子に逃げられてしまった。

 あちこち、探し求めたのであるが、どうしても見つからない。そこで、とある高家(こうけ)の下人を雇って、頼んで言ったことには、

「拙者の家にて、永年、使って御座った従者の童子が、知らぬうちに、逃げてしもうた。どうか、一つ、この者を探して、捕まえて我らにお渡しあれ。」

と。

 かの下人が答えるには、

「それは簡単なことにては御座れど、その童子の顔を知っておればこそ、搦(から)めとるは容易なことなれど、顔を知らねば、これ、どうして搦めとることが出来ようか、とてものことに無理というものじゃて。」

と。

 川成は応じて、

「なるほど。それは尤もなことじゃな。」

と言うや、畳紙(たとうがみ)を取り出すと、童子の顔だけをそこに描いて、下人に渡して、

「これに似たような童子を捕らえてくれんかの。京の東西の市(いち)は、人がぎょうさん集まる所なればの。そのあたりに行って、探してみておくんない。」

と言ったので、下人は、その顔の似顔絵を受け取って、即座に市に参った。

 人はたいそう多かったが、この絵に似た童子は、おらなんだ。

 それでも、暫くの間、そこで見まわしておるうち、

「もしや!」

と思うほど、その似顔絵に似た童子が、出て参った。

 その顔形を、描かれた絵を懐から、再度」取り出して比べてみたところが、これ、少しも違ったところが、これ、ない。

「これだわ!」

と直ちに搦め捕って、川成のもと引き連れて行った。

 川成がその少年を見てみたところ、まさしくかの童子であったので、たいそう喜んだ。

 その頃、この話を聴いた人は、

「そらで描いた絵だけで見つかるとは! これ、たいしたもんじゃ!」

と言い合ったものであったと。

 さても。別の折りの話である。

 その頃、「飛驒の工(たくみ)」と称された工人(たくみ)がおった。

 かの平安遷都の折りの工人であり、まさに世に並びなき名人である。

 かの内裏の中の「武楽院」は、その工人の建てたものであればこそ、かくも見事なものであると賞賛されたことでも、その力量の凄さは判ろうというものもじゃ。

 さても、この工人(たくみ)、かの川成と、それぞれ、その匠みの技(わざ)を競い合っておった。

 ある日のこと、飛驒の工人が、川成に向かって言うことに、

「我が家(いえ)に、これ、一間四方の堂を、建て申した。お出かけになられて、是非ともご覧あれかし。それにまた、貴殿に『壁に絵なんど描いて下さりたく。』なんどとも、思うて御座る。」

と。

 川成は、

「互いに挑(いど)みながらも、仲良くしており、冗談も言い合うような間柄だからな、そんな風に、好意で誘って呉れたものであろうから。」

と、川成は、素直に飛驒の工人の家を訪れたのであった。

 見れば、これ、まことに趣向を凝らした、新造の小さな堂が建っている。

 四面に戸があり、それが、みな、開いておった。

 飛驒の工人は、

「さあ! かの堂に入って、存分にその内部を、ご覧あれ!」

と言うたので、川成は縁に上(あが)って、南の戶口から入ろうとした。

 ところが、その戸が、

「はた」

と、閉じてしまった。

 内心、驚いたが、それは表に出さず、ぐるりと廻って、今度は、西の戸から入ろうとした。

 ところが、またしても、その戸が、

「はた」

と閉じてしまった。

 慌てて見たところが、南の戸は開いていた。

 そこで川成は、慌てて、北の戸から入ろうとしたが、またしても、そのとは閉じてしまい、またまた、西の戸が、これ、開いておる。

 また、東の戸から、入らんとするに、その戶は、またまた、閉じて、今度は、北の戸が開いておるではない。

 かくのごとく同道巡りすること、これ、数多度(あまたたび)――入らんとするに、閉じ――別の戸が開きく――という繰り返しで、遂に堂の内に入いる事が出来なかった。

 川成は、仕方なく、縁(えん)から下(お)りざるを得なかった。

 その時である。

 飛驒の工人(たくみ)は、思いっきり、大きな声で、笑ったのである。

 川成は、内心、

『悔しいことじゃ!』

と思いつつ、帰って行った。

 さて、その後(のち)のことじゃ。

 かの出来事から数日をへて、今度は、川成が、飛驒の工人のもとに使いの者をやって、

「ご主人が、『我が家におわしませ。お見せしたい面白い物が、これ、御座います。』とのことにて御座います。」

と伝えた。

 飛驒の工人は、

『きっと、先般の報復のために我れにひとあわふかしたろうという算段であろうに。』

と思って行かなかったのであるが、再三、慇懃に来訪を促してきたので、工人(たくみ)は、仕方なく川成の家に行き、

「かく参ったぞ。」

と下人を通じて挨拶したところ、

「お入り下され。」

と下人に言わせた。

 それに随って、廊下の先にある、遣戸(やりど)を引き開けたところが、その入り口に、――大きな人間で

――黒ずんで

――腹が腐敗し

――脹ふく)れて腐ったそれが

――横たわっているではないか!

――その臭さと言ったら!

――これ! もう! 一度(ひとたび)吸ったなら、鼻が曲がるほどのものであったのだ!

 思いがけな場所で、かかる物を見たからに、飛驒の工人は、

「ぎょえッツ!」

と、悲鳴を放って、驚き慌てて、外に逃げ飛び、退(しりぞ)いた。

 すると、川成は家内に居(お)って、この声を聴くや、たいそうな大声で笑い続けた。

 しかし飛驒の工人は、ただただ、

『恐しや!』

と思う一心で、地面に裸足で、ぶるぶると震えて凍りついたように屹立している。

 川成は、やおら、まさに、その遣戸をゆっくりと開けると、顔を差し出して、

「やあ! どうなされた? 拙者はここにおりますぞ? どうぞ!どうぞ! お入りあれ!」

と余裕で応じたので、工人はおそるおそる近寄って見たところが、なんと! まあ! その遣戸の前に立てた衝立(ついたて)に、死体の絵が描かれていただけなのであった。

 工人に堂で騙されたことを悔しく思うておったが故に、かく返報したのであった。

 二人の者の技は、これほどに神がかっておったのである。

 その当時は、これ、何処(いずこ)に参っても、この話で持ちっきりというありさまで、皆人(みなひと)、この二人をともに誉め讃えたと、かく語り伝えているということである。

「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)

 

[やぶちゃん注:採録理由は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。ここでの底本は歴史的仮名遣の読みの確認の便から、「日本古典文学全集」第二十四巻「今昔物語集 三」第五版昭和五四(一九七九)年(初版は昭和四九(一九七四)年)刊。校注・訳/馬淵和夫・国東文麿・今野達)を参考に切り替える。但し、恣意的に漢字を概ね正字化し、漢文脈は訓読し、読み易く、読みの一部を送り仮名で出し、読みは甚だ読みが振れるか、或いは判読の困難なものにのみとした。参考底本の一部の記号については、追加・変更も行い、改行も増やした。]

 

  染殿(そめどの)の后(きさき)、天宮(てんぐ)の爲に嬈亂(ねうらん)せらるる語(こと)第七

 

 今は昔、染殿の后と申すは、文德天皇の御母(おほむはは)也。良房の太政(だいじやう)大臣と申しける關白の御娘(おほむむすめ)也。形ち、美麗なる事、殊に微妙(めでた)かりけり。而(しか)るに、此の后、常に物の氣(け)に煩ひ給ければ、樣々の御祈り共(ども)有りけり。其の中に、世に驗し有る僧をば召し集めて、驗者(げんじや)の修法(しゆほふ)有れども、露(つゆ)の驗し、無し。

 而る間、大和の葛木(かつらき)の山の頂きに、金剛山(こんがうせむ)と云ふ所有り。其の山に、一人(ひとり)の貴(たふと)き聖人(しやうにん)住(ぢう)しけり。年來(としごろ)、此の所に行(おこな)ひて、鉢を飛ばして、食(じき)を繼ぎ、甁(かめ)を遣りて、水を汲む。此くの如く行ひ居(ゐ)たる程に、驗し、並び無し。然(しか)れば、其の聞え、高く成りにければ、天皇幷びに父の大臣(おとど)、此の由を聞食(きこしめ)して、

「彼れを召して、此の御病(おほむやまひ)を祈らしめむ。」

と思(おぼ)し食(め)して、召すべき由、仰下されぬ。使ひ、聖人の許に行き、此の由を仰(おほ)するに、聖人、度々(どど)辭(いな)び申すと云へども、宣旨、背(そむ)き難きに依りて、遂に參りぬ。御前(おほむまへ)に召して、加持を參ら□するに、其の驗し新たにして、后の一人(ひとり)の侍女、忽ちに狂ひて、哭(な)き嘲(あざけ)る。侍女、神(かみ)、託(つ)きて、走り叫ぶ。聖人、彌(いよい)よ此れを加持(かぢ)するに、女、縛られて、打ち責めらるる間、女(をむな)の懷(ふところ)の中(なか)より、一つの老狐、出でて、轉(まろび)て、倒れ臥して、走り行く事能(あた)ふからず。其の時に、聖(ひじり)、人を以つて狐を繫がしめて、此れを敎ふ。父の大臣、此れを見て、喜び給ふ事、限り無し。后の病ひ、一兩日の間に止み給ひぬ。

 大臣、此れを喜び給ひて、

「聖人、暫く候ふべき。」

由を仰せ給へば、仰せに隨ひて、暫く候ふ間、夏の事にて、后、御單衣(おほむひとへぎぬ)許りを着給ひて御(おは)しけるに、風、御几帳(みきちやう)の帷(かたびら)を吹き返へしたる迫(はさま)より、聖人、髴(ほのか)に后を見奉けり。見も習はぬ心地に、此の端正美麗の姿を見て、聖人、忽ちに、心、迷(まど)ひ、肝(きも)、碎けて、深く、后に、愛欲の心を發(おこ)しつ。

 然(しか)れども、爲(す)べき方無き事なれば、思ひ煩ひて有るに、胸に火を燒くが如くにして、片時(かたとき)も思ひ過ぐべくも思(おぼ)えざりければ、遂に、心、澆(あは)で、狂ひて、人間(ひとま)を量りて、御帳(みちやう)の内に入りて、后の臥せ給へる御腰(おほむこし)に抱(いだ)き付きぬ。后、驚き迷(まど)ひて、汗水に成りて、恐(お)ぢ給ふと云へども、后の力に、辭(いな)び得難し。然(しか)れば、聖人、力を盡して掕(れう)じ奉るに、女房達、此れを見て、騷ぎ喤(ののし)る時に、侍醫當麻(たいま)の鴨繼(かもつぐ)と云ふ者、有り、宣旨を奉(うけたまは)りて、后の御病(おほむやまひ)を療(れう)せむが爲めに、宮(みや)の内に候(さぶら)ひけるが、殿上の方(かた)に、俄かに、騷ぎ喤る音(こゑ)しければ、鴨繼、驚きて、走り入りたるに、御帳(みちやう)の内より、此の聖人、出でたり。鴨繼、聖人を捕へて、天皇に此の由を奏す。天皇、大きに怒り給ひて、聖人を搦(から)めて、獄(ひとや)に禁(いまし)められぬ。

 聖人、獄に禁められたりと云へども、更に云ふ事無くして、天に仰(あふ)ぎて、泣々く誓ひて云はく、

「我れ、忽ちに死にて、鬼と成りて、此の后の世に在(まし)まさむ時に、本意(ほんい)の如く、后に睦びむ。」

と。獄(ひとや)の司(つかさ)の者、此れを聞きて、父の大臣(おとど)に此の事を申す。大臣、此れを聞き驚き給ひて、天皇に奏して、聖人を免(ゆる)して、本(もと)の山に返し給ひつ。

 然(しか)れば、聖人、本の山に返りて、此の思ひに堪へずして、后に馴れ近付き奉るべき事を强(あながち)に願ひて、憑(たの)む所の三寶(さむぼう)に祈請(きしやう)すと云へども、現世(げんぜ)に其の事や難(かた)かりけむ、

「本の願(ねがひ)の如く、鬼と成らむ。」

と思ひ入りて、物も食はざりければ、十餘日(じふよにち)を經て、餓ゑ死(し)にけり。

其(そ)の後(のち)、忽ちに鬼と成りぬ。其の形、身、裸にして、頭(かしら)は禿(かぶろ)也。長(た)け八尺許りにして、肌の黑き事、漆を塗れるが如し。目は鋺(かなまり)を入れたるが如くして、口、廣く開きて、劔の如くなる、齒、生ひたり。上下(うへした)に牙を食(く)ひ出だしたり。赤き裕衣(たふさぎ)を搔きて、槌(つち)を腰に差したり。此の鬼、俄かに后の御(おは)します御几帳の喬(そば)に立ちたり。人、現(あら)はに此れを見て、皆、魂(たましひ)を失ひ、心を迷はして、倒れ、迷ひて逃げぬ。女房などは、此れを見て、或は絕え入り、或は衣を被(かつ)ぎて臥しぬ。疎(うと)き人は、參り入(い)らぬ所なれば、見えず。

 而る間、此の鬼の魂、后を怳(ほ)らし、狂はし奉りければ、后、糸(いと)吉(よ)く取り疏(つくろ)ひ給ひて、打ち咲(ゑ)みて、扇(あふぎ)を差し隱して、御帳(みちやう)の内に入り給ひて、鬼と二人、臥させ給ひにけり。女房などの聞きければ、只、日來(ひごろ)戀しく侘(わび)しかりつる事共をぞ、鬼、申ける。后も咲み嘲(あざけ)らせ給ひける。女房など、皆、逃げ去りにけり。良(やや)久しく有りて、日(ひ)暮(く)るる程に、鬼、御帳より出て去りにければ、

『后、何(いか)に成らせ給ひぬらむ。』

と思ひて、女房達、怱(いそ)ぎ參りたれど、例(れい)に違ふ事なくして、然(さ)る事や有りつらむと、思し食したる氣色も無くてぞ、居させ給たりける。少し、御眼見(おほむまみ)ぞ、怖ろし氣(げ)なる氣(け)付かせ給ひにける。

 此の由を内に奏してければ、天皇、聞こし食して、奇異(あさま)しく怖しきよりも、

「何(いか)に成らせ給ひなむずらむ。」

と歎かせ給ふ事、限り無し。其の後(のち)、此の鬼、日每に同じ樣にて參るに、后、亦、心・肝(きも)も失せ給はずして、移し心も無く、只、此の鬼を媚(うつく)しき者に思し食したりけり。然(しか)れば、宮の内の人、皆、此れを見て、哀れに悲しく、歎き思ふ事、限り無し。

 而る間、此の鬼、人に託(つ)きて云はく、

「我れ、必ず、彼(か)の鴨繼が怨(あた)を報ゆべし。」

と。鴨繼、此れを聞きて、心に恐(お)ぢ怖るる間、其の後(のち)、幾(いくば)く程を經ずして、鴨繼、俄かに死にけり。亦、鴨繼が男(をとこ)、三、四人、有けり、皆、狂病(わうびやう)有りて、死にけり。然(しか)れば、天皇幷(ならび)に父の大臣(おとど)、此れを見て、極めて恐ぢ怖れ給ひて、諸(もろもろ)の止事無(やんごとな)き僧共を以つて、此の鬼を降伏(がうぶく)せむ事を懃(ねむご)ろに祈らせ給ひけるに、樣々の御祈共(おほむいのりごとども)有りける驗(しるし)には、此の鬼、三月(みつき)許り、參らざりければ、后の御心(みこころ)も少し直りて、本の如く成り給ひければ、天皇、聞こし食して、喜ばせ給ける程に、天皇、

「今一度(いまひとたび)、見奉らむ。」

とて、后(きさい)の宮(みや)に行幸(ぎやうがう)有りけり。例より殊に哀れなる御哀れ也。百官、闕(か)けず、皆、仕(つかまつ)りたりけり。

 天皇、既に宮に入られ給ひて、后を見奉らせ給ひて、泣々(なくな)く、哀れなる事共申させ給へば、后も哀れに思し食したり。形ち、本の如くにて御(おは)す。而る程の間、例の鬼、俄かに角(すみ)より踊り出でて、御帳の内に入りにけり。天皇、此れを、

『奇異(あさま)し。』

と御覽ずる程に、后、例の有樣にて、御帳の内に忩(いそ)ぎ入り給ひぬ。暫(しばし)許り有りて、鬼、南面(みなみおもて)に踊り出でぬ。大臣・公卿より始めて、百官、皆、現(あらは)に此の鬼を見て、恐れ迷(まど)ひて、

『奇異し。』

と思ふ程に、后、又、取り次(つづ)きて、出でさせ給ひて、諸(もろもろ)の人の見る前に、鬼と臥(ふ)させ給ひて、艷(えもいは)ず、見苦しき事をぞ、憚る所も無く爲(せさ)せ給ひて、鬼、起きにければ、后も起きて、入らせ給ひぬ。天皇、爲(す)べき方(かた)無く、思し食し、歎きて、返らせ給ひにけり。

 然(しか)れば、止事無(やむごと)なからむ女人(によにん)は、此の事を聞きて、專(もはら)に然(し)かの如し有らむ法師の、近づ付くべからず。此の事、極めて便無(びんな)く、憚り有る事也と云へども、末の世の人に見(み)しめて、法師に近付かむ事を强(あながち)に誡(いまし)めむが爲に、此(か)くなむ語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:この藤原明子(あきらけいこ/めいし)は、少なくとも、この様子を現実に即したものをモデルとしてみるならば、彼女は後宮内での陰に陽にあったであろう嫉妬や虐めに遭い、重度の精神疾患を患い、特にそれが甚だしいニンフォマニア(nymphomania)の症状として出現したものと私は思う。後半の鬼となった聖人が衆人の中でコイツスをするというのは、恐らくは性交する相手の男がいるかのように振る舞う媚態や、体位や、動作や、表情に至るまでが余りにもリアルであったために、こうした宮中内の赤裸々な際どい怪異譚として形成されたものと私は考える。以下に示す彼女のウィキでは『双極性障害』(躁鬱病)とするが、その躁状態の一型として、ヒステリー様の色情症傾向を示したものと言ってもよい。本篇の一見平常に見える状態から、ニンフォマニア的行動を見せるところは、確かに双極性障害を疑える感じがあるようには見えはする。

「染殿(そめどの)の后(きさき)」藤原明子(天長六(八二九)年~ 昌泰三(九〇〇)年)は文徳天皇(もんとく 天長四(八二七)年~天安二(八五八)年/在位:嘉祥三(八五〇)年~没年)の女御で、清和天皇の母。当該ウィキに手を入れて示すと、父は太政大臣藤原良房(延暦二三(八〇四)年~貞観一四(八七二)年)、母は嵯峨天皇皇女。夫の死後、皇太夫人、さらに皇太后となった。染殿(藤原良房の邸宅。平安京の正親町(おおぎまち)小路の北、京極大路の西にあった)が里邸だったため、「染殿后(そめどののきさき)」と呼ばれた。文徳天皇が皇太子時代に入内して東宮御息所となった。文徳帝即位直後に第四皇子惟仁親王(清和天皇)を産んだ。この時、惟仁親王にはすでに三人の異母兄がおり、天皇は更衣紀静子(きのしづこ)所生の第一皇子惟喬親王を鍾愛して、これに期待していたが、結局、良房の圧力に屈し、惟仁親王が生後八ヶ月で立太子した。父の良房が、

    そめどののきさきのおまへに、

    花がめに櫻の花をささせ給へる

    を見てよめる

 年經れば齢は老いぬしかはあれど

     花をし見れば物思ひもなし

と明子を桜花と見做して詠じた話が「古今和歌集」(五二番)で伝わっており、大変な美貌の持ち主だったという。貞観七(八六五)年頃から、物の怪に悩まされるようになったという記述が「今昔物語集」(本篇)・「古事談」(巻第三(三―一六、二一一)。所持する岩波新古典文学大系の同書で確認したところ、ここの冒頭に「貞観七年の比(ころ)。染殿皇后、天狐の爲めに惱まされ」と年号が明記されている。この年は既に夫文徳帝の薨去から七年後であり、本文に出る帝(実は本篇では彼女を「文德天皇の御母」と誤っている。私はこれは宮中を憚る意識的な誤りのように思われる)はこの年ならば、彼女の実子で次代の清和天皇ということになる。事実、底本頭注によれば、本篇と同じ内容を伝える「真言伝・略記所引善家秘記佚文」では、最後のシークエンスで彼女を訪ねるのは清和天皇である・「平家物語」(延慶本)・「宇治拾遺物語」(第百二十三話)などに散見され、『これらの記述にある言動により』、『一種の双極性障害に罹患していたとみる説もある』。『明子の存在は結果的には藤原氏に摂関政治をもたらす一つの歴史的要因となったが』、『本人は病』い『のせいもあってか』、『引きこもりがちで』、『自ら表に出ることはなかった』とある。六『代の天皇の治世を見届けたのち』、七十二『歳で崩御した』。こうしてみると、複数の書物に赤裸々に描かれて後世に刺激的なエロティクな存在として伝えられてしまった彼女が、かなり可哀そうに思われてくる。

「天宮(てんぐ)」「天狗」に同じ。但し、「今昔物語集」卷第十「第聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四」で既に述べたが、この平安末期には我々のイメージするような鼻の長い天狗像は未だ形成されていない。あれは全くの本邦に於けるオリジナルのフォルムであり、恐らくは中世以降に形成されたものと私は考えている。但し、奈良・平安頃から、密教や山岳信仰の中で、自身の知恵や修法・法術などに奢り高ぶった高僧・修験者・山伏などが、死後にその罪業によって、六道とはことなる、日本独自の魔界の一種として「天狗道」が想定され、解釈された。多分、この頃の「天狗」の実体は所謂、人に近い感じの「鬼」であったように想像される。但し、上記のリンク先の話柄で見るように、「天狗」が中国の妖怪として勝手に想定され、他本で「天狐」と別称されている点は、中国から渡り来ったという認識は既にあったものと思われる。「狐」の怪異は中国が本家本元であるからである。但し、そのチャンピオンであるまさに大陸から飛来したとする「玉藻前」の伝説の成立は、現在、室町時代前期以前と考えられていることは一言言っておかねばなるまい。

「嬈亂(ねうらん)」「あれこれと悩んで乱れること」或いは「何かが纏わりついて心を乱すこと」で、ここは後者。

「大和の葛木(かつらき)の山の頂きに、金剛山(こんがうせむ)と云ふ所有り」金峯山(きんぷせん)。七世紀に活躍した伝説的な山林修行者役小角(えんのおずぬ)が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする金峯山寺が建つ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一人の貴(たふと)き聖人(しやうにん)」先に示した「古事談」では、天狐を名僧で円仁の弟子である相応和尚が調伏して染殿が平癒するという、本話のようには奇体度がかなり下がる話になっている(この僧が鬼となる話柄ではないので注意されたい)。

「御單衣(おほむひとへぎぬ)」この場合は下着の単衣(ひとえ)で、裏地のつかない、恐らくは紗(しゃ)のすけすけの薄いものであり、夏の暑い盛りに常用した。それだけを着た場合は、乳房などは透けてよく見えるのである。なんなら、「源氏物語」の初めの方にある空蟬(うつせみ)と軒端荻(のきばのおぎ)が碁を打つのを、光の君が覗き見するシークエンス(サイト「源氏物語の世界」のここ)をお読みになれば判る。そこでは、夏の夜で、光が覗いていようなどとは、微塵も思わない二人は、まさにこの透け透けルックで、空蟬の義理の娘軒端荻(夫伊予介の先妻の子であるが、空蝉とは殆んど年は変わらない)に至っては、だらしなく前を開けてしまい、ボイン丸出なのである。

「澆(あは)で」「あはづ」の原義は、「水で薄めるように薄くなる・淡くなる」或いは「浅薄になる・衰える」で、ここは後者で僧としての本来の戒律ばかりか、自制心・道徳がすっかりなくなってしまうことを指す。

「人間(ひとま)を量りて」人気(ひとけ)のないのを見計らって。

「掕(れう)じ」凌辱し。

「當麻(たいま)の鴨繼(かもつぐ)」(?~貞観一五(八七三)年)は官吏で医師。侍医に任じられ、越後介・筑前介・典薬頭(てんやくのかみ)を兼任した。仁明・文徳・清和天皇の三代に亙って仕えた。天安二(八五八)年、清和天皇の践祚後、間もなく主殿頭(とのものかみ)に遷り、貞観二(八六〇)年には従五位上に昇叙されたが、ほどなく侍医を辞したと見られる。最終官位は従四位下行主殿頭兼伊予権守。「古事談」の染殿の異悩のクレジットからは、彼の死は八年後ということにはなる。本聖人が鬼となったという話を聴いて、恐懼して死んだということになっているのだが、これ、如何にも遅いという気はするわな。

「殿上」清涼殿の「殿上の間」。以下に宣旨があったとしても、男である鴨継は「黒戸の間から北の後宮には入れないので、想像するに、染殿は物の怪に憑かれて以降は療養のために、清涼殿の東に接続する後涼殿(こうろうでん)の一部屋にでも移っていたのではないかと思われる。後涼殿が天皇の意向でそうした自由な使われ方(時に寵愛する妃を保護するためなど)をしたことは「源氏物語」や他の歴史物語などでもよく目にするからである。

「禿(かぶろ)」童子のようなおかっぱ頭。如何にも定番の鬼っぽい。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「鋺(かなまり)」金属製のお椀。

「裕衣(たふさぎ)」褌(ふんどし)。男のそれは古代からあった。「犢鼻褌」とも表記するが、これは装着した際、特に男子の場合はそれが「牛の子の鼻」に似ていることによる当て字である。

「怳(ほ)らし」正気を失わせ。

「移し心も無く」「移し心」は「現(うつ)し心」で、「正気を失って」。

「媚(うつく)しき者」愛すべき者。

「託(つ)きて」「憑きて」に同じ。

「狂病(わうびやう)」気が狂う病い。

「角(すみ)」恐らくは鬼門の東北の隅からであろう。「今昔物語集」では、既に鬼の出現や逃走の方角として定番化していた節がある。

「南面(みなみおもて)」あろうことか、鬼は白日の下(もと)、その宮殿の南面(私の仮定では後涼殿であるが、生憎、後涼殿の南方は建物二棟あり、凡そ百官どころか、おぞましく大きい悪鬼一人が立つほどの空間しかないようだ。個人的には紫宸殿(これは都合がいいことに「南殿(なでん)」とも別称する)の南が相応しい。内裏内最大の広庭だからであり、この紫宸殿は天皇の即位礼など行われる内裏中央南の重要な御殿であるが、普段は人気なく、怪異が出来(しゅったい)する心霊スポットとして平安時代は知られていた場所であり、その北の仁寿(じゆうでん)とともに怪奇現象がよく起こり、鬼が人を驚かすともされたのであってみれば、これほどロケーションとしてピッタリな場所は実は他にないとも言えるのである。因みに、清涼殿の南西端に「鬼の間」というのがあるが、これは裏鬼門に当たる位置に配された呪的結界に過ぎない)以下の諸人の前に姿を現わすのである。かなり他では見られないシーンで、しかも以下、その公卿・百官の面前で、鬼は何んと、染殿と――まぐわう――のである。但し、これは本話を染殿が文徳帝の妃であった時代という本篇の設定で私が勝手に解釈したものであって、そのそもが、本文に「后(きさい)の宮(みや)に行幸(ぎやうがう)有りけり」という表現は内裏内には決して使われないから、私の妄想映像に過ぎぬのである。実際には、底本に頭注によれば、「真言伝・略記所引善家秘記佚文」では、元慶二(八七八)年九月二十五日行われた『染殿后五十の賀(三代実録)の当日、清和天皇が参賀のため行幸した際の事件とする』とあるから、この舞台は、染殿の実家である父藤原良房の邸宅染殿であるというのが、正しい。されば、南面も寝殿造の寝殿の前の広庭ということになる。

「然(し)かの如し有らむ法師」このような感じの僧侶。才知があって修法に優れている坊主は、逆に「危険がアブないよ」と言っているのだが、どうもまどろっこしい感じがするのは、本書の教訓擱筆という縛りのせいもあるが、私には、コーダが猥褻極まりないこの話を、無理矢理、ここで断ち切ろうとした作者の強い憚りが逆に感じられる。それだけ、作者も、ちょっと、やんごとなき実在の人物を、えげつなく書き過ぎたと思ったのであろう。そうした添え辞が例になく、わざとらしいではないか。

「便無(びんな)く」不都合なことで。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の頭注や現代語訳を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である) 

 

  染殿のお妃が、天狗のために、激しくお心を乱され遊ばされた事第七

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、染殿のお后と名乗られたお方は、文徳(もんとく)帝の御母(おんはは)である[やぶちゃん注:注で示した通り、妃の大誤謬。]。良房の太政(だいじょう)大臣と名乗らせられた関白さまの御娘である。

 見目形、美麗なること、これ殊に格別なものであられた。

 ところが、この妃、常に物の怪(け)に憑かれて、患いなさったので、さまざまなお祈りなんどを施した。その中には、世に霊験あらたかなる法力を持つ僧を特に召し集めて、そうした立派なる修験者の修法を行ったのだが、これ、全く、験(しる)しが出ぬ。

 そんな中、大和の葛木(かつらぎ)の山の頂きに、金剛山(こんがうせん)という所がある。その山に、一人(ひとり)の貴お聖人(しょうにん)は住んでおった。年来(としごろ)、この所で修行し、鉢を飛ばして、斎料(ときりょう)を手に入れ、甕(かめ)を同じように飛ばしやって、水を汲む。かくのごとく修法を持(じ)して清閑に住んでいたから、その霊験、これ、並ぶ者も、おらぬのであった。

 されば、その評判、いやさかに高くなっておったので、帝や父の大臣、この由(よし)をお聴き遊ばされて、

「彼を召して、この御病(おんやまい)の平癒を祈らせよう。」

とお思いなられ、

「召し上げよ。」

という旨、仰せ下されたのであった。

 使者が聖人(しょうにん)の許に行き、この由の仰せを伝えたのだが、聖人は、何度も、

「辞退申し上げる。」

と答えたのだが、これ、宣旨に背(そむ)くことは難きことなれば、遂に参上したのであった。

 染殿の御前(おんまへ)に召し出され、加持し申し上げたところが、何んと! その験しが即座に現われた。

 妃の一人(ひとり)の侍女が、その場で忽ちのうちに狂い出し、大声で哭(な)き、また口汚き言葉を吐いて嘲(あざけ)るのである。

 この侍女には、神が憑(つ)いて、走り叫ぶありさまであった。

 聖人は、いよいよ、この侍女に憑いた物の怪に向かって加持したところが、侍女は、周囲の者に縛られて、打ち責められる。

 その瞬間、女の懐(ふところ)の中(なか)から、一匹の老狐が、出でて、じたばたと転び廻り、倒れ臥して、そこから逃げ去ることもできない。

 その時、聖(ひじり)は、仕長の男を呼び出して命じ、狐を捕縛させ、その顛末を伝えた。

 それを聴き、父の大臣、即座に場に至って、それを見て、大いに喜びなさった。

 さても、妃の病いは、これ、一両日の間にすっかり平癒したのであった。

 大臣、これをお喜びになり、

「聖人(しょうにん)殿、暫く、ここに滞在されるがよい。」

という旨を仰せになられたので、聖人は仰せに随って、暫くそこに留まった。

 そのようにしている間、時は夏のことなれば、妃は、御単衣(おんひとえぎぬ)ばかりをお召しになられておられたのだが、風は御几帳(みきちょう)の簾(すだれ)を、

「さっ」

と吹き返えした。

 その隙間から、聖人は、仄(ほの)かに、妃のお姿を見申し上げてしまったのだった。

 見慣れぬ、女体(にょたい)があられもなく透けて見える……その心地に酔い……その端正美麗なる姿を見るや、聖人は忽ちのうちに、心、惑い、肝(きも)、が一瞬で砕けて、深く、妃に、愛欲の心を起こしてしまったのである。

 と言っても、なすべき術(すべ)もないことであるから、ただただ思い煩っていたところが、胸のうち、火を焼くような心地がして、片時(かたとき)も、思わないではいられる心地となって、遂に、平常心を失い、狂って、人気のない折りを密かに窺って、御机帳の中へと潜り込み、妃のお臥せになっておられる御腰(おんこし)に抱(だ)きついてしまったのである。妃は、驚き、惑って、汗水になって、恐れなされると雖も、妃の力では、とても拒絶することはし得なかった。

 されば、聖人(しょうにん)は、力を尽して、むごたらしく妃を凌辱してしまったのであった。[やぶちゃん注:敬語を訳すと現代語ではおかしな感じなるので、確信犯で謙譲語を外した。]

 女房たちが、それに気づいて、騒ぎ罵(のの)しった。

 その時、侍医の当麻鴨継(たいまのかもつぐ)という者が、宮中に控えていた。

 彼は、宣旨を承って、妃の御病い全般を療治せんがために、宮(みや)のうちに伺候していたのだが、清涼殿の殿上の間の方から、俄かに、騒ぎ罵しる声がしたので、鴨継、驚いて、走り入ったところが、妃のおられる御几帳の内から、なんと! かの聖人(しょうにん)が、出てくるではないか!

 鴨継は、即座に、聖人を捕えて、帝にこの由を奏した。

 帝は、激しくお怒り遊ばされて、聖人を搦(から)め捕って、獄屋に監禁なさったのであった。

 聖人は獄屋に閉じ込められていたのだが、特に一言の言い訳をするでもなく、天を仰いで、血の涙を流しつつ、自ら、自身に誓いを立てて、

「我れ、たちまちに死んで、鬼となって、この妃が、この世に在(ま)します間に、我らが本意(ほんい)のごとく、妃と、思う存分! まぐわってやろうぞッツ!。」

と叫んだ。

 獄屋の司長の者は、このおぞましい誓約を聞いて、直ちに、父の大臣に、このことを申し上げた。

 大臣は、その忌まわしい言葉を聴くや、驚きなさって、帝に奏上し、聖人(しょうにん)を免(ゆる)して、本(もと)の山に、追い帰しなさったのであった。

 されば、聖人は本の山に帰ったが、しかし、かの愛執の思いに堪えられずに、妃に馴れ近づき申し上げる方途を願ってて、頼みとするところの仏法の三宝にかけて祈請(きしょう)したりしたのであるが、最早、無慚な破戒僧と化した現世(げんせ)では、その成就は当然のごとく難しかったからであろう、

「本(もと)の願いのごとく、我れ、鬼となろうぞッツ!」

と意を決し、物も食はずなったので、十余日をへて、餓え死(じ)にした。

 その後(のち)、彼は、即座に、鬼となったのであった。

 その異形(いぎょう)たるや、身は、すっ裸か、頭(かしら)は禿(かむろ)、背長けは八尺ばかりもあり、肌の黒いことと言ったら、漆を塗りたくったよう。目は金属の皿を嵌め込んだのに似て、口は、大きく広く開いて、そこから剣(つるぎ)のような歯が、ニョキニョキと生えておる。唇の上下に、この長い牙をはみ出させておる。赤い犢鼻褌(ふんどし)を股に挟んで、恐ろしげな太い大きな槌(つち)を腰に差している。

 さても。この鬼が、俄かに、妃のおわします御几帳の傍(そば)に立ったのである。

 宮中の人々が、事実、はっきりとこれを見た。

 見た者は、これ、みな、魂(たましい)も消え入り、心が異乱しては、倒れ、惑って、逃げてゆく。

 女房などは、これを見て、或る者は完全に気絶し、或る者は、衣(ころも)を被(かつ)いでうち臥すありさま。後宮のことなれば、禁裏と関係がない者は、参り入ることはできない場所であるから、これを目にすることはなかったのである。

 さても。この邪悪な鬼の魂(たましい)は、妃の正気を奪い、またしても、お狂はせ申し上げたので、妃は、何んと! たいそう、美麗に身繕いなさって、頰に笑みまで浮かべて、扇をさして顔を隠しては、御几帳の中にお入りになられて、鬼と二人、お臥せ遊ばされる為体(ていたらく)!

 女房などが、そうっと近くに寄って行って、こっそりと立ち聴きしてみると、

「ただただ、毎日毎日、そなたを恋しく、独り寝をわびしく感じていたのだよ。」

なんどということを、鬼は、染殿に申し上げているのだった。

 しかも、妃もまた、その言葉に酔うように、笑い声を挙げおられるではないか。

 女房などは、これ、みな、逃げ去ってしまったのだった。

 こうして暫く時が移って、日暮れになろうかというほどになって、鬼は御几帳から出でて、去ったので、

『お妃はさまは、どうなさっておられるのか。』

と思って、立ち戻った女房たちが、急ぎ、妃のもとに参上したのだけれども、いつもと全く同じで、別に変わったこともなく、『そんなこと、あったのかしら?』と気づかれておられる気配も微塵もない様子で、ちんまりとお座りなっておられるのだった。

 ……いや……少し……その御眼差(おんまなざ)しに……何やらん……怖ろしげな気配を、これ、漂わせておられたのだった。

 さて、急ぎ、この一部始終を内に奏上したところ、帝は、お聴き遊ばれるや、それを、浅ましく、怖しいとお思いになるよりも、

「……お妃は……この先、どうおなりに遊ばされるのだろうか?」

と、限りなく、お嘆きになられるのであった。

 その後(のち)、この鬼は、連日、同じように染殿のもとにやって参り、妃もまた、他の女房連中にようには気絶はおろか、恐懼なさることもなさらず、常軌も逸しているにもかかわらず、ただただ、この鬼を慕わしい者としてお思いになってしまっているのであった。

 されば宮中の人々は、みな、この染殿のご様子を見ては、限りなく、哀れに悲しくて、思い嘆いているのであった。

 そんな中、この鬼が、とある人に憑いて、

「我れ、必ず、かの鴨継への怨みを、晴らさで、おくべきかッツ!」

と喚(わめ)き立てたのであった。

 鴨継はこれを伝え聴いて、心の内で激しく怖(お)じけ、恐れておったが、その後(のち)、幾(いくば)くもせずして、鴨継は、俄かに、死んだ。

 また、鴨継には男子が三、四人あったが、それらの者も、孰れも気狂いとなって、そのまま、総て、頓死したのであった。

 されば、帝並びに父の大臣は、この異様な事態を見るにつけ、極めて恐懼なされて、諸々のやんごとなき僧らを以って、この鬼を降伏(ごうぶく)せんことを、念を入れて祈らせなさったところ、さまざまの御祈(おんいの)りをし続けた験しであろうか、この鬼、三月(みつき)ばかり、宮中に姿を現わさなかったので、妃の御気分も、少し、よくなられて、もとのような感じにおなり遊ばされたので、帝は、それをお聴きになられて、お喜びになられた上、さらに、

「今一度(いまひとたび)、見奉らむ。」

とて、妃のおられる御部屋に行幸(ぎょうこう)なさった。その行幸は常よりも格別に感慨深い仕儀として、また、文官・武官併せて百官、一人も欠けず、扈従(こじゅう)したのであった。

 帝がかの染殿のお部屋にお入りになられて、后とお逢い遊ばされて、涙ながらに、しみじみと物語など申し上げなさると、妃も、同じくしんみりとなされ、姿形も、嘗つてのように、優しく、麗しげにあられるように見えたのであった。

 ところが、その瞬間!

――例の鬼が!

――俄かに!

部屋の角(すみ)から踊り出ると、御几帳の内に、

「ざっ」

と、入ったのだ!

 帝はこれを、

『な、なんと! 浅ましいこと!』

と御覧になられているうち、妃は妃で、例の異様なありさまに変ぜられ、御几帳の内に、急ぎ、飛び入りなさった。

 しかして、ややしばしの沈黙の後(のち)、鬼は! な、何んと! 宮殿の南面(みなみおもて)に踊り出た!

 大臣・公卿より始めて、百官、皆、白昼、露わに、この堂々と出現した鬼を見え、恐れ惑って、

『な、なんと! 浅ましい!』

と思うているところに、今度は、妃もまた、とり続き、宮殿より、

「ひたひた」

とお出で遊ばされたかと思うと、諸々(もろもろ)の人の見守る庭前(にわさき)にて……

鬼と一緒に臥せられ……

何とも、その……言葉に表わすることの……

これ、憚られるところの……

おぞましくも、見るも堪えぬ……

謂わば、猥褻極まりない見苦しきことをば……

憚(はばか)るようすも微塵もなく……

……やらかしなさったのである……

そうして、やおら、鬼は妃から離れて起きたところ、妃も起き上がって、宮殿に中にお入りになられた……。

 帝は、なすすべもなくお思いになられ、深く嘆かられて、そのまま、お帰り遊ばされた。

 さても、こうした次第であればこそ、やんごとない、高位に等しいような女人(にょにん)は、以上の話を聴いたなら、決してこのようなる感じに等しい僧侶に近づいていけない。この物語は、これ、甚だ不都合極まりなく、憚って本当なら語るべきではない奇怪な話であるのだが、末(すえ)の世の人に、かく書き残して知らせ、是非とも、坊主連に近づかぬよう強く戒(いまし)めんがために、かく語り伝えているということである。

2022/04/18

「今昔物語集」卷第十「國王造百丈石率堵婆擬殺工語第三十五」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    國王、百丈の石(いは)の率堵婆(そとば)を造りて、工(たくみ)を殺さむと擬(せ)る語(こと)第三十五

 

 今は昔、震旦(しんだん)の□□代に、百丈の石(いは)の率堵婆を造る工有けり。

 其の時の國王、其の工を以つて百丈の石の率堵婆を造り給ひける間に、既に造り畢(をは)りて、國王、思ひ給ひける樣(やう)、

「我れ、此の石の率堵婆を思ひの如く造り畢りぬ。極めて喜ぶ所也。而るに、此の工、外の國にも行きて、此の率堵婆をや起てむと爲(す)らむ。然れば、此の工を速かに殺してむ。」

と思ひ得給ひて、此の工の、未だ率堵婆の上に有る時に、下(おろ)さずして、麻柱(あななひ)を一度にはらはらと壞(こぼ)しめつ。

 工、下るべき樣も無くて、

『奇異也。』

と思て、

『率堵婆の上に徒(いたづら)に居て、爲方(せむはう)無し。我が妻子共(めこども)、然(さ)りとも、此の事を聞きつらむ。聞てば、必ず、來りて見つらむ。故無くして、我れ、死なむずらむとは、思はじ物を。』

と思ふと云へども、音(こゑ)を通(かよ)はす程ならばこそは呼ばゝめ、目も及ばず、音(こゑ)の通はぬ程なれば、力も及ばで、居たり。

 而る間、此の工の妻子共、此の事を聞て、卒堵婆の本に行て、匝(めぐ)り行て見れども、更に爲(す)べき方(はう)、無し。妻(め)の思はく、

『然りとも、我が夫は、爲(す)べき方(はう)無くては、死(し)なじ者を。構へ思ふ事、有らむ者を。』

と、憑(たの)み思て、匝(めぐ)り行て見るに、工、上に有て、着たる衣を、皆、解きて、亦、斫(さ)きて、糸に成しつ。其の糸を結び繼ぎつゝ、耎(やは)ら下(おろ)し降(くだ)すが、極めて細くて、風に吹かれて飄(ただよ)ひ下(くだ)るを、妻、下にて此れを見て、

『此れこそ、我が夫の、驗(しる)しに下(おろ)したる物なめり。』

と思て、耎(やは)ら動かせば、上に夫、此れを見て、心得て、亦、動かす。妻、此れを見て、

『然(さ)ればこそ。』

と思て、家に走り行て、続(う)み置きたる□□取り持て來て、前(さき)の糸に結(ゆ)ひ付けつ。上に動かすに隨ひて、下にも動かすを、漸く上げ取つれば、此の度は切りたる糸を結ひ付けつ。其れを絡(く)り取れば、亦、糸の程なる細き繩を結ひ付けつ。亦、其れを絡り取つれば、亦、太き繩を結ひ付けつ。亦、其れを絡り上げ取れば、其の度は、三絡(みより)・四絡(よより)の繩を上げつ。亦、其れを絡り上げ取りつ。其の時に、其の繩に付きて、構へて、傳ひ下(お)りぬれば、逃げて去りにけり。

 彼の卒堵婆造り給ひけむ國王、功德(くどく)、得給ひけむや。世、擧(こぞ)りて、此の事を謗(そし)りけりとなむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「百丈」中国で時代が明示されていないが、南方熊楠も今野氏も挙げている通り、本篇の種本は鳩摩羅什(くまらじゅう 三四四年〜四一三年)訳の馬鳴菩薩の「大荘厳論経」であり、訳者は五胡十六国時代の後秦の仏僧で、本名は「クマラジーヴァ」。父はインド人で、母はクチャ王の妹。この頃の「一丈」は二・四五メートルであるから、二百四十五メートルとなる。

「而るに、此の工、外の國にも行きて、此の率堵婆をや起てむと爲(す)らむ。然れば、此の工を速かに殺してむ。」国王は自身の不変にして絶対の権威を象徴するものとして頭抜けて屹立する安定した仏舎利塔(ストゥーパ)を唯一無二のものとして建立したのであり、それと同じような物が他国に作られては、その現世の自身の絶対的記念碑に疵がつくと考えたのであった。

「麻柱(あななひ)」広義に「高い所に登るための足がかり」を指す。ここは建築用の足場を指す。

「耎(やは)ら」副詞で「やをら」に同じ。「ゆっくり・静かに・そっと」の意。「学研全訳古語辞典」によれば、もとは平安時代の女性的な感じの強い語であるとある。

下(おろ)し降(くだ)すが、極めて細くて、風に吹かれて飄(ただよ)ひ下(くだ)るを、妻、下にて此れを見て、

「続(う)み置きたる」この場合の「続」は「績」と同じ。糸を縒(よ)って紡(つむ)いでおいた。

「□□取り持て來て」今野氏の注に、『底本欠損。糸巻のようなものを指示するか』とある。

「……亦、其れを絡り取つれば、亦、……」今野氏の注に、『この前後、「亦」のくり返しで動作が何度もくり返されたことを示す。漸層法。』とある。映像的なリアリズムの手法で、作者の度量が窺えるいいシークエンスである。

「三絡(みより)・四絡(よより)」三本或いは四本の糸を捻じ合わせて強度を高めたものを作ったのである。

「逃げて去りにけり」工人(たくみ)は、既にして、これが国王の陰謀であることを悟っていたのである。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    国王が百丈の石製の卒塔婆(そとば)を造って、工人(たくみ)を殺そうと謀った事第三十五

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、震旦(しったん)の□□代に、百丈もの石製の豪壮な卒塔婆を造る工人がいた。

 その時の国王は、その工人を使役して、以って百丈もの石の卒塔婆をお造りになられたのであるが、既に見事にそれを造り終わった折り、国王が、お思いになられたことには、

「我れ、この石の卒塔婆を思いのままに、造りあげた。これはこれ、極めて喜びとするところのものである。しかし、この工人、他所(よそ)の国へも行っては、こうした卒塔婆を建てようとするに違いあるまい。さすれば、この工人を速かに殺すに若(し)くはあるまいな。」

と、お思いつかれなさり、この工人が、最後の点検のために、未だ、卒塔婆の上にある時に、彼を下(おろ)さぬようにするため、足場を、総て、一遍に、がらがらと壊してしまった。

 工人は、降りようがなくなって、

『おかしいぞ?!』

と思って、

『卒塔婆の上に、かく、何も出来ずにおって、最早、なすべき工夫もない。私の妻子(さいし)たちは、しかし、必ずや、このことを耳にするであろう。聴けば、必ず、直ちに来たって、この事態を目にするであろう。成すすべもないままに、私が死んでしまうなんどとは、決して思わぬであろうに。』

と思いはしたものの、声を伝えるほどの高さであるならば、これ、救いを求めることは出来ようが、ろくに人の姿を視認することも出来ず、また、声も届かぬほどの高さであるからは、力も及ばず、ただ茫然と塔の天辺(てっぺん)にじっとしていたのであった。

 そうこうするうち、この工人の妻子たちは、この事態を聴いて、卒塔婆の下に行って、その基台の周囲を巡り歩いては上を見上げたけれども、さらに成すべき工夫も、思いつかない。

 しかし、妻の思うことには、

『そうは言っても、私の夫(おっと)は、成すべき工夫もないまま、空しく死ぬようなお人では、これ、ないものを。きっと構えて、思案することの、あるであろうに。』

と、夫の才覚を頼みに思って、卒塔婆の周囲を巡り歩いては見上げていた。

 すると、工人は、上にあって、着ている衣(ころも)を、皆、解(ほど)いて、さらに、また、それを細く裂いて、糸にした。そして、その糸を、結び継ぎつつ、やおら、下に向かって、下し降(おろ)すのであったが、極めて細いために、風に吹かれて、漂いながらも、確かに下ってくるのを、妻は、下にあって、これを見出だし、

『これこそ、私の夫が、降りるための方途の印(しるし)として、降(おろ)した物であるに相違ないのではなかろうか。』

と思って、やおら、その細い一筋の先を握って静かに動かしたところ、上にいた夫は、これを見て、心得て、それに応じて、糸筋を動かす。

 妻、これを見て、

『さればこそ!』

と思って、家に走り帰って、績(う)んで置いておいた□□を手に取り、持って来て、最前の糸に結いつた。

 夫が上に動かすに随って、妻は下にも動かしたところが、漸(ようや)く、妻の結いつけた部分を、夫がとり上げることができ、このたびは、それに別の細く切った糸筋を結ひつけた。

 妻は、それを繰(く)りとって、今度は、また、糸の程なる細い繩をそれに結びつけた。

 また、それを夫が繰りとったので、今度は、また、それよりも太い繩を結ひつけた。

 また、それを繰り上げてとったところ、そのたびは、三つ縒ったもの、或いは、四つ縒った繩を夫のもとへ上げた。

 また、それを繰り上げとった。

 その時に、その充分に支え得る太さとなった繩に縋(すが)って、構えて、繩を切らぬよう、最善の注意を怠らず。伝って降りることに成功した。

 されば、工人は、妻子とともに、この国から、障りなく、逃げて去ったのであった。

 さて、かの卒塔婆をお造りになった国王だが、彼は、果して仏(ほとけ)の功徳(くどく)を得遊ばされたもんだろうか?

 世の人々は、これ、挙(こぞ)って、この国王のなしたことを、強く非難したと、かく語り伝えているということである。

2022/04/17

「今昔物語集」卷第十「聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    聖人(しやうにん)、后(きさき)を犯して、國王の咎(とが)を蒙りて、天狗と成る語(こと)第三十四

 

 今は昔、震旦の□□代に、□□と云ふ所に、遙かに人(ひと)の氣を遠く去りて、深き山の奧なる谷に、柴の奄(いほり)を造りて、戶を閉ぢて、人にも知られずして、年來(としごろ)、行(おこな)ふ、聖人、有けり。

 此の聖人、年來の行(ぎやう)の力に依りて、護法を仕(つか)ひて、鉢を飛ばして食(じき)を繼ぎ、水甁(すいびやう)を遣(や)りて、水、汲ます。然れば、仕ふ人無しと云へども、諸事、思ひに叶ひて、乏(とも)しき事、無し。[やぶちゃん注:「仕ふ人無し」の「仕」は底本では『□』で、注に『底本破損。他本「仕」。』とあるのに従い、かくした。]

 而るに、此の聖人、國王の后の有樣を文(ふみ)の中に說けるを見て、

「何(いか)なれば、かくは讚(ほ)めたるにか。」

と、忽ちに見まほしき心、付きぬ。

「天女は境界(きやうがい)に非ず。只、間(ま)近き所の后を見ばや。」

と思ふ心有りて、久く成りぬ。然れば、爲(す)べき方(はう)、無し。[やぶちゃん注:「然れば」「されば」で順接なのはママ。「然れども」とあるべきところ。訳はそれで訳した。]

 而る間、祕文(ひもん)の中を見るに、不動尊の誓を說く事、有り、其の中に、

『仕者(つかひびと)有て、國王の后也と云ふとも、自(みづか)ら負ひて行者(ぎやうじや)の心に隨へむ。』

と有る誓を見て、愛欲の心に堪へずして、

「試みに、仕者に申さばや。」

と思ふ心、付きぬ。

 其の間に、宮迦羅(くから)と申す仕者、顯はれて、聖人と語らひ給ふ時に、聖人の申さく、

「我れ、年來、思ふ事、有り。叶へ給はむや。」

と。仕者の宣(のたま)はく、

「我れ、本より、『憑(たの)みを係(か)けたる人の願ふ事を、一(ひとつ)として叶へずと云ふ事無く聞かむ。』と云ふ、誓ひ、有り。行者に仕(つか)へむ事、佛に仕(つかまつ)るが如し。佛の境界は、虛言(そらごと)、無し。何(いか)なる事也と云ふとも、何ぞ誓を違へむや。」

と。行者、此れを聞て、喜びを成して申さく、

「我れ、本より不動尊を憑(たの)み奉て、獨り、深き山に居(ゐ)て、勤め、行ふ。亦、二(ふ)た心(ごころ)無し。而るに、國王の后と申すなる女人は、何(いか)なる有樣(ありやう)にか、有る、極めて見まほしきを、近來(このごろ)、候(さふら)ふなる三千人の后の中に、形貌(ぎやうめう)端正(たんじやう)ならむを、負ひて御坐(おはしま)しなむや。」

と申せば、空迦羅の宣はく、[やぶちゃん注:「空」はママ。音を適当に当てているだけなので、特に誤字ではないようである。後注「護法」参照。]

「糸(いと)安き事也。然らば、必ず、明日の夜、負ひて將(ゐ)て參らむ。」

と契りて、返り給ひぬ。

 其の後(のち)、聖人、喜び乍(ながら)、夜も曙(あけ)難(がた)く、日も晚れ難し。此の事を聞きてより後、更に他の事、思はず。心に思ひ亂れて居たり。既に、其の夜に成て、

「今や、今や。」

と待つ程に、夜、少し深-更(ふく)る程に、世に似ず、香(かうば)しき香、一山芬(かを)り、滿ちたり。

「此れは、何(いか)なる事にか、有らむ。」

と思ふ。柴の戶を押し開きて入る。天女と云ふなる者の如くなる者を、宮迦羅、負ひて、指(さ)し置きて、出で給ひぬ。聖人、見れば、金(こがね)の玉・銀(しろがね)の□□□、色〻の玉を以て、微妙(みめう)に身を莊(かざ)れり。百千の瓔珞(やうらく)を係(か)けたり。樣〻(さまざま)の錦を着て、種〻(くさぐさ)の花を造りて首(かうべ)に付け、衣に付けたり。諸(もろもろ)の財(たから)を盡くして、身の莊と爲(せ)り。香(かうば)しき香、譬(たと)ふべき方(はう)、無し。

 震旦の后は、必ず、其の匂(にほひ)、三十六町に香(かうば)し。況むや、狹き一(ひとつ)の奄(いほり)の内、思ひ遣(や)るべし。瓔珞の響き、玉の音、打ち合ひて、細く、鳴り合へり。髮を上げて、簪(かむざし)には色〻の瑠璃(るり)を以て、蝶(てふ)を造り、鳥を造りて、其の莊り、言(こと)も及ばず。御燈明(みあかし)の光りに、諸の玉、光り合ひて、其の人、光を放つが如し。打扇(うちは)を差し隱したり。天人の降下(くだ)れるが如し。其の人の顏(かほばせ)、初めて月の山の葉より出づるが如し。我にも非(あら)で、

『恐し。』

と思ひたる氣色(けしき)、實(まこと)に哀れなる、類ひ無く、嚴(いつ)くし。

 聖人、此れを見るに、心(むね)も遽(あわ)て、肝(きも)も迷ひぬ。年來(としごろ)の行ひも、忽ちに壞(やぶ)れて、念じ過(す)ぐべからず。三千人の后の中に、年若く、形、美麗なるを、宮迦羅の、撰(えら)びて、負ひて將(ゐ)て御(おは)しましたれば、世に並び無し。劣りならむにて、聖人の目には何(い)かが。況むや、世に類ひ無く、國の中に此れに等しき、無ければ、聖人、心(むね)・肝(きも)も無き樣にて、手を取り觸るゝに、后、遁(のが)るべき方(はう)、無し。山の中の、人も通はぬ所に、夢の樣にて來りたれば、只、怳(おそ)れて泣き居(ゐ)給へり。未だ、見習はぬ柴の奄(いほり)に、極めて恐し氣なる姿なる聖人の有れば、惣(すべ)て恐しきに、手をさへ取り觸るれば、生きたるにも非で、泣く事、限り無し。然れば、櫻の花の雨に濕(ぬ)れたるが如し。

 而る間、聖人、泣〻(なくな)く、佛の思(おぼ)し食(め)さむ事を恐れ思ふと云へども、年來(としごろ)の本意も堪へずして、遂に后を犯しつ。曉に成て、宮迦羅、來り給て、后を搔き負ひて返り給ひぬ。其の後、聖人、他(ほか)の事、思はずして、只、此の后の事をのみ、心に係けて、戀ひ歎き居たり。日晚(く)るる程に、亦、宮迦羅、御(おは)しまして、聖人に會ひ給ひて宣はく、

「亦や將(ゐ)て參るべき、亦、他の后をもや、見むと思(おぼ)す。」

と。聖人の申さく、

「只、有りしを將て御(おは)せ。」

と。然れば、前の如く、負ひて御しましぬれば、聖人の申さく、

「只、有りしを將難。」[やぶちゃん注:ママ。今野氏は「聖人の申さく」『からの衍文であろう』と注されてある。]

亦、曉に來り給て、搔き負ひて返り給ひぬ。此(かく)の如くして、既に數(す)月を經(へ)たるに、后、既に懷姙し給へり。

 而る程に、國王、三千人の后なれば、必ず、皆、知り給はざりけり。而る間、國王、此の所に渡り給へるに、既に懷姙したる氣色(けしき)也。國王の宣はく、

「汝、后の身として、既に他の男に近付けり。此れ、誰が爲(せ)る事ぞ。」

と。后の宣はく、

「我れ、更に態(わざ)と男に近付く事、無し。但し、極めて奇異なる事なむ、有る。」

と。國王、

「何事ぞ。」

と問ひ給ふに、后の宣はく、

「其れの程より、此の月來(つきごろ)、夜半許りに、十五、六歲許りなる童子、俄かに來りて、我れを搔き負ひて、飛ぶが如く行きて、極めて深き山の中に將て行きたれば、一(ひとつ)の柴の奄(いほり)の狹きに、恐ろし氣(げ)なる聖人の有るなむ、極めて恐ろしく、侘(わび)しけれども、遁(のが)るべき方(はう)無くして、近付く程に、自-然(おのづか)ら、かく罷り成りたる也。」

と。國王、宣はく、

「何方(いづかた)に行くとか、覺ゆる。幾時許りか、行く。」

と。后の宣はく、

「何方と、更に、思えず。只、鳥の飛ぶよりも、猶し、疾(と)く飛び行くに、一時(ひととき)許りに行き着くは、遙かに遠き所にこそ有るめれ。」

と申し給へば、國王の宣はく、

「今夜、將て行かむに、手の裏に、濃く、墨を塗りて、紙を濕(ぬ)らして持(も)て、其の奄(いほり)の障紙(しやうじ)に、押し付けよ。」

と、敎へ給まへば、后、國王の敎の如くにて、持ち給へり。

 而る間、宮迦羅、聖人の所に來て宣はく、

「今より後、此の事、止(とど)め給ふべし。惡しき事、出で來りなむとす。」

と。聖人の申さく、

「只、何(いか)にも有れ、前々の如く、迎へて、給へ。」

と。宮迦羅の宣はく、

「更に、恨み給ふ事、無かれ」

と宣ひて、前(さき)の如くに負ひて、將て御(おは)しぬ。后、さる氣(け)無き樣(やう)にて、濕(ぬ)れたる紙を以て、手の裏の墨を潤(ぬら)して、障子に押し付けつ。曉に、例の宮迦羅來て、負ひて返り給ひぬ。其の朝(あした)に、國王、后の所に渡り給ひて、問ひ給へば、后、

「然々(しかし)か押し付けつ。」

と申し給へば、國王、亦、后の手の裏に墨を塗りて、紙に多く押し付けしめて、諸(もろもろ)の人を召して、此れを給ひて、宣旨を下して宣はく、

「國の内に、深く幽(かす)かならむ山の中に、聖人の居たらむ所を尋ねて、此れに似たらむ手の跡有らむ所を、慥(たしか)に尋ね得て、見て參るべし。」

と下されぬ。

 使等、宣旨を奉(うけたまは)りて、四方・四角の山を尋ぬるに、遂に、彼の山の聖人の奄(いほり)に尋ね至りぬ。見るに、此の手の形、有り。違(たが)ふ事、無し。然れば、使、返りて、此の由を申し上ぐ。國王、此れを聞て宣はく、

「彼の聖人、既に后を犯せり。其の罪、輕(かろ)からず。」

と。然れば、

「速かに、遠き所に、流し遣(や)るべし。」

と定められて、□□と云ふ所に流し遣りつれば、聖人、流所にして、歎き悲しむで、思ひ入りて死(しに)ぬ。卽ち、天狗(てんぐ)に成ぬ。多く、天狗を隨へて、天狗の王と成ぬ。

 而るに、亦、傍(かたへ)の天狗、有りて、云く、

「彼の天狗は、既に、國王の責(せめ)を蒙(かうぶ)りて、流罪にて死(しに)たる者也。」

と云て、交(まじ)はらず。然れば、十萬人の伴(とも)の天狗を引き將(ゐ)て、他(ほか)の國に渡りにけりとなむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「震旦」は古代インドで中国を指した呼称「チーナスターナ」(「シナの土地」の意)と呼んだものの音写漢訳。

「護法」通常は護法善神の使者として仏法を護持する童形の天人を呼び、「護法童子」とも称する。しかし、安倍晴明が使役したように、その存在は仏教を放れて、独自に進化し(或いは仏教以前に存在したアニミズムの神の一つでもあったのかも知れない)、善悪に拘らず、使役神としてもよく出てくる。本篇の後に出る「仕者(つかひびと)」は同義で、さらに「宮迦羅(くから)」と言う名のそれも護法神である。但し、この「宮迦羅」は護法の中でも有名で、知られた名としては、「矜羯羅・金伽羅」で、「こんがら」と読む。八大童子の一りで、制吒迦(せいたか)とともに不動明王の脇士(脇侍)で、その左側に立つ。像は童形に表わされ、合掌して金剛杵を親指と人さし指の間に横に挟んでいる。サンスクリット語「キンカラ」(「奴僕」の意)の漢音写であるから、「宮」「空」でも音が近ければ問題がないのである。

「文(ふみ)」今野氏注に『具体的な文献は不明』とある。

「天女は境界(きやうがい)に非ず」仏教の六道の三善道の内の「修羅道」・「人間道」の最上にある「天上道」を指す。

「祕文(ひもん)の中を見るに、不動尊の誓を說く事、有り、其の中に、……」今野氏の調査によれば、『真言密教の経典』であるが、『具体的には不明』とする。

「試みに、仕者に申さばや。」今野氏も指摘しておられるが、この破戒聖人(しょうにん)、「宮迦羅」に対して一貫して敬語を用いている。ここに既に聖人の女淫願望による破戒が伏線として張られていることが判る。

「我れ、本より、『憑(たの)みを係(か)けたる人の願ふ事を、一(ひとつ)として叶へずと云ふ事無く聞かむ。』と云ふ、誓ひ、有り。行者に仕(つか)へむ事、佛に仕(つかまつ)るが如し。佛の境界は、虛言(そらごと)、無し。何(いか)なる事也と云ふとも、何ぞ誓を違へむや。」護法神の善悪判断のレベルの低さが露呈するところである。「宮迦羅」は不動の支配下にある善神であるが、聖人が淫欲のために何度も妃を連れて来させていることに迂闊にもなかなか気づかず、初会で既にして女犯(にょぼん)の大罪を犯したことさえ気づかない、「キンカラ」ならぬ「ボンクラ」の為体(ていたらく)である。(最後の忠告辺りの前に不動から示唆があったものか)。

「三十六町」三キロ九百二十七メートル。

「況むや、狹き一(ひとつ)の奄(いほり)の内、思ひ遣(や)るべし」本篇の著者が読者にサーヴィスで語りかけているのが面白い。『これから、もっとエッチにオモシロくなりますぜ!』というクスグリの示唆も感じられる。

「幾時許りか」後の表現から「幾時」は「いくとき」と読んでよかろう。

「天狗(てんぐ)に成ぬ」今野氏注に、『本集』(「今昔物語集」を指す)『では反仏法の魔物として一貫するが』、『ここでは怨霊のの具現のはやい例として注目される。これが崇徳院のごとき例につながる。聖人なので六道とも違う天狗道に堕すという設定』で、「天狗の王と成ぬ」を見ても、意識的に『国王に対する天狗の王』で、『崇徳院など王者との関連がつけやすい』と注されておられる。

「傍(かたへ)の天狗」今野氏注に、『そばにいた天狗の意だが、一方の天狗の王をさすか。でなければ、よそへゆく必要性がない。天狗の前世話(前生譚)の語り手ともなっている。』とある。

「十萬人の伴(とも)の天狗を引き將(ゐ)て、他(ほか)の國に渡りにけり」今野氏は、『他国とはどこか不明。異界としかいいようがない。』と記しておられるが、そもそもこの話、中国が舞台である。とすれば、これは、もう、本邦日本しか考えられないのではなかろうか? だいたいからして、「天狗」という語は中国では、凶事を予兆させる大流星を意味するものであり、大陸では「咆哮を上げて天を駆け降りる犬」の姿に見立てており、図像もそのようなものしか残らない。所謂、我々の馴染み深い鼻の長い「天狗」のイメージはせいぜい中世までしか遡れない日本独自のものである。近世の天狗譚では、智に奢った高僧が天狗に堕す話や、グループが存在したり、互いに仲の悪い天狗集団があって、天狗同士が戦ったりする怪談が、複数、ある(私の「怪奇談集」「続・怪奇談集」を参照されたい。私の乏しい記事の中でも一つを選び出せぬほどにあるのである)。されば、本篇での「天狗」は我々の想像するような形状ではないにしても、そのルーツの淵源の大きな一つであるように思われてならない。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    聖人(しょうにん)が、后(きさき)を犯して、国王の咎(とが)を蒙って、天狗となった事第三十四

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、震旦(しったん)の□□代に、□□という所に、遥かに人の気(き)を遠く去って、深い山の奥にある谷に、柴の庵(いおり)を造って、戸を閉じ、人にも知られずに、年来(としごろ)、修行を積んでいる、聖人があった。

 この聖人は、年来の行(ぎょう)の力に依って、護法童子を使役して、鉢を飛ばして斎料(ときりょう)を持って来させたり、水を入れる瓶(かめ)を同じく飛ばしやって、水を、汲(く)ませたりしていた。されば、使役する人がいないと雖も、諸事万端、思い通りに叶ってて、不足なことは、全く、なかった。

 ところが、この聖人、ある時、国王の妃のありさまを、文書の中に解説してあるのを見出し、読むに、

「どうして、こんなにまでして、後宮を褒め讃えおるのだろう?」

と、忽ち、その後宮の女たちを見たいという気持ちが、心を捕えて離さなくなってしまった。

「天女(てんにょ)は我らのおるところの人間道とは境界(きょうがい)を異にする天上道におる者であって、見ることは、到底、出来ぬ。……しかし……ただ、この世のま近にあるところの後宮の妃というのを見たいものだ。」

と、思う心、起こってより、もう相当に久しい年月が過ぎた。しかし、成すすべも、ないのであった。

 そうこうしている間に、とある密教の秘文(ひもん)の中を見ていたところ、不動尊の誓(せい)を説くことが書かれてあったのだが、その中に、

『仕者(つかいびと)があって、国王の妃であると雖も、自(みずか)ら、背負って、行者(ぎようじゃ)の心の思うままに随(したが)う存在がいる。』

とある誓を見て、愛欲の心に堪えられなくなってしまい、

「試みに、その仕者(つかいびと)に言うてみたいものじゃ。」

と思う気持ちが、すっかり心にこびりついてしまった。

 その間に、「宮迦羅(くから)」と申す仕者(つかいびと)が、彼の前に顕われて、聖人(しょうにん)と語らいなさった折りのこと、聖人が申したことには、

「我れは、年来(としごろ)、思うことが、ある。それ、叶えて下さるか?」

と。

 仕者(つかいびと)の語られるに、

「我れは、もとより、『我に、頼みをかけた人の願うことを、一つとして叶えずということはなく、確実に叶える。』という誓いを堅持しております。行者(ぎょうじゃ)に仕(つか)えることは、これ、仏(ほとけ)に仕るのと同じで御座る。仏の境界(きょうがい)は、噓は御座らぬ。いかなることと雖も、どうして誓(せい)を違えることがあろうか、いや、御座らぬ。」

と。

 行者、これを聞きて、喜びをなして、語ることには、

「我れ、もとより、不動尊を頼みと奉って、独り、深き山に居(を)えりてて、修行に勤め、行って参った。また、二心(ふたごころ)は、ない。しかし、国王の妃と申すという女人(にょにん)は、いかなる有様(ありよう)にてあるものか、これ、極めて見てみとうなったによって、近来(このごろ)、そこに伺候しておるという三千人の妃の中の、見目形の端正(たんせい)なるらしい女人を、背負って、ここのお連れ申し上げることは出来るだろうか?」

と、申したところ、宮迦羅の仰せになるには、

「たいそう簡単なことである。さらば、必ず、明日(あす)の夜、負ひて率(い)て参らせようぞ。」

と約束して、お帰りになった。

 その後(のち)、聖人(しょうにん)、喜び乍ら、夜が明けるのも遅く感じ、日が暮れるのも待ち遠しくなるほどになった。

 この事を聞いてより後(のち)、さらに他のことは、一切、これ、心に思わずにいた。

 心は、ただ、その一つのために、思い乱れていたのだった。

 既にして、その夜になって、

「今か、今か。」

と待つほどに、夜(よ)、少し更(ふ)けたる頃に、この世のものとも思われぬ、香(こうば)しき香りがし、その匂いが、一山(いちざん)全てに満ち渡った。

「こ、これは、いかなることの、起こったものか?」

と思う聖人(しょうにん)であった。

 柴の戸を押し開いて入ってくる。

 「天女」とかいうところの者のような者を、宮迦羅が背負って、その女を庵の内にさし置いて、出て行かれた。

 聖人は見た。

……金(こがね)の玉

……銀(しろがね)の□□□

……色々の玉を以って、微妙に身を飾っていた……

……百千の瓔珞(ようらく)を懸けていた……

……様々の錦(にしき)を着て

……種々(くさぐさ)の花を造りて

……首につけ

……衣につけている……

……諸々の宝(たから)を尽くして

……身の飾りとしていた……

……その、香(かうば)しい香りといったら、喩えようもないほどのものであった……

……震旦の妃は、必ず、其の匂いが、三十六町に香るという……

――況や、狭い一つの庵の内ですぞ――思いやって御覧なさいな――

……瓔珞の響きと、玉の音が、互いに打ち合って、それが細く、鳴り合っている……

……髪を上げて、簪(かんざし)には色々の瑠璃(るり)を以って、蝶を造り、鳥を造って、その飾りたるや、言葉で表現することも出来ぬ。御灯明(みあかし)の光りに、諸々の玉が、これまた、光り合って、その人が、光を放つようにさえ見えるのだ。

 団扇(うちわ)を差して顔を隠している。

 が、しかし、天女の天下(あまくだ)ったに等しい。

 その人の顔(かんばせ)は、初めて、月が、山の木の葉の間から出づるようではないか!

 我も忘れて、

『恐ろしい。』

と思うている気色(けしき)は、これまた実(まこと)に哀れにして美しく、類い稀なる、較べようのない、完璧な美しさだ!

 聖人(しょうにん)は、これを見るや、心も慌て、肝(きも)も迷うた。

 年来(としごろ)の行いも、忽ちにして、完全に無化されてしまい、全く以って、仏への信念が遠く去ってしまうことをとどめ得なかった。

 三千人の妃の中に、年若く、形、美麗なる者を、宮迦羅が選んで、背負って連れてこられたのであってみれば、これ、世に並びなきものであるに決まっている。彼女より劣れるであろう女人を連れ来ったとしても、この聖人の目には、これ、どうであったろうか。況んや、世に類いなく、国中に、これに等しい女人なんど、これ、実際に、おらねばこそ、聖人は、心も肝(きも)も失せたごとく、手を取り触れたのであるが、妃は、最早、遁(のが)れるべき方途は、ない。山の中の、人も通わぬ所に、夢の様にして来たったのであってみれば、ただ、恐れて泣いておられるばかり。

 未だ、見慣れぬ柴の庵に、見るからに恐ろしげな姿の聖人が目の前にあるだけで、全く以って恐しいのは当たり前で、その男が、手をさえとって触ったのであるからして、生きたる心地もせず、泣くこと、言うまでもない。されば、桜の花が、雨に濡れたようなものである。

 そうこうするうち、聖人、泣く泣く、仏の思(おぼ)しめされることを恐れ思うと雖も、年来(としごろ)の本意も、我慢出来ずなって、遂には、妃を犯してしまった。

 暁に成なって、宮迦羅がこられて、妃を背に舁(か)き負いて、お返りになった。

 その後(のち)、聖人(しょうにん)は他(ほか)のことを思うこともなく、ただただ、この妃のことをのみ、心に懸けて、恋い、嘆いておった。

 日が暮れる頃合い、また、宮迦羅がこられて、聖人に逢って、おっしゃられたことには。

「またしても、かの妃を連れて参ろうか? それとも、また、他の妃をも、見たいと思(おぼ)しめすか?」

と言う。

 聖人の申すことには、

「ただ、あの方を、お連れ下され。」

と。

 されば、前のごとく、背負うて来られた。

 また、暁に来られて、背に舁いてお帰りになった。

 このようにして、既に数月を経たところが、妃、既に懐妊しておられたのであった。

 こうしているうちに、国王は、三千人もの妃があったので、必ずしも、そのみんなを、ご存知であったわけではなかった。

 さすれば、国王、彼女のところにお渡りになられたところが――これ――既に懐妊しているのは一目瞭然。

 国王の仰せらるるは、

「そなた、妃の身でありながら、既に他の男に近づいたのだな。これ、誰がなしたことであるか!」

と糺した。

 妃がおっしゃるには、

「私、とてものことに、自ら男に近づくことなど、微塵もありませぬ。ただ、ひどく奇異なることが、これ、御座いました。」

と答えた。

 国王は、

「いかなることか?」

と問ひなさったところが、妃、仰せられて、

「かくなるほどの以前より、その月来(つきごろ)、夜半許りのこと、十五、六歳ほどの童子は、突如、来りて、我れを舁き負いて、飛ぶようにして行きて、ひどく深い山の中に連れて行きました。そうして、一つの柴の庵の甚だ狭いところに、恐ろし気(げ)なる聖人(しょうにん)のあって、それ、まさに、ひどく恐ろしゅう見え、いっかな、心細く思いましたけれども、遁(のが)れるべきすべもなくて……その聖人の近づいてきて……自(おのずか)ら……かくのごときありさまに……まかりなって……御座いまする……。」

と告白したのであった。

 国王は仰せられて、

「どの方向に行ったとか、覚えておるか? また、そこに至るにどれほどの時をかけて、行ったか?」

と糺した。

 妃が仰せになるには、

「どの方向とお訪ねになられても……これ……覚えて御座いませぬ。ただ、鳥の飛ぶよりも、なおなお、疾(と)く飛び行きましたによって、一時(ひととき)ばかりに行き着きました……それは……恐ろしく遥かに……遠い所かと存じまする……。」

と申し遊ばされたによって、国王、ここで仰せられて、

「今夜、連れられて行く前に、掌(てのひら)に、濃く、墨を塗って、紙を濡らして、それを持って、その庵の障子に、その紙を押しつけてこい。」

と、お教えなさったので、妃は国王の教えの通りにして、隠してお持ちになって待っておられた。

 さて、その頃、宮迦羅が聖人の所に来て、仰せになるには、

「今より後(のち)、かのこと、おやめになられるのが宜しいでしょう。悪しきことが出来(しゅったい)するように思われます。」

と忠告された。

 聖人(聖人)が答えるには、

「ただ、どのような虞(おそ)れがあろうとも、以前のごとくに迎え来たって、これ、よろしくお願い申す。」

と懇願した。

 宮迦羅が仰せに、

「さらに、お恨みなさること、なきように。」

と宣(のたま)うと、先(さき)のごとく、かの妃を背負って、連れて来られた。

 妃は、自分の内心を悟られぬようにして、濡れた紙を以って、手の裏の墨を濡らして、障子に押しつけた。

 暁(あかつき)に、例(れい)の宮迦羅、来たって、背負いてお帰りになった。

 その翌朝に、国王は、その妃のところにお渡り遊ばされて、お尋ねになったところ、妃は、

「しかじか仰せの通りに押しつけまして御座います。」

と申し上げなさったので、国王は、また、妃の掌に墨を塗って、紙に、多く、押しつけさせて、諸々(もろもろ)の人々を召し出だし、これをお与えになって、宣旨を下して、仰せられることには、

「国の内に、山深く、人気のないような山の中に、『聖人(しょうにん)』の居(お)るような場所を尋ねて、この手形で押した形(かたち)に、似たような手跡(しゅせき)がありそうなところを、虱潰しに尋ね廻り、探して参れ!」

とお下しになったのであった。

 使ひの者らは、宣旨を承って、四方のあらゆる隅(すみ)をも漏らさず、山々を尋ねたところ、遂に、かの山の、聖人の庵に、尋ね至ったのであった。

 その庵の障子を調べてみたところが、まさに、この手の形があった。そうして、それは、細部まで、違った箇所はなかったのであった。

 されば、使いは都城に帰って、この由を申し上げた。

 国王は、これを聴いて、宣はく、

「かの聖人(しょうにん)、既に我が妃を犯した。その罪、これ、軽からざるものなり。」

と告げられた。

 されば、

「速かに、遠い場所に、流刑とせよ。」

と定められて、□□という所に流しやったので、聖人は、配流所にて、嘆き悲しんで、病的に思い入り死(じに)したのであった。

 而して、その死ぬや、即座に「天狗(てんぐ)」となったのであった。

 そうして、多くの天狗を従えて、「天狗の王」となったのであった。

 しかし、また、そやつの、近くに、別の天狗がおって、言うことには、

「あの天狗は、既に、国王の責めを蒙って、流罪となって死(しに)たる者の変化(へんげ)である。」

と言って、交わることをしなかった。

 そのため、そのままでは居るも困難となり、十万人もの伴(とも)の天狗を率いて、他(ほか)の国に渡ったと、かく語り伝えているということである。

「今昔物語集」卷第四「天竺人於海中値惡龍人依比丘敎免害語第十三」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    天竺の人、海中にて惡龍(あくりう)に値(あ)へる人、比丘の敎へにより、害を免れる語(こと)第十三

 

 今は昔、天竺の人は、道を行く時は、必ず、比丘を具(ぐ)す。守(まぼ)り有るが故也。

 昔、一人の人、有り。商ひの爲に、船に乘りて、海に出でぬ。惡風、俄かに出で來て、船を海の底へ卷き入る。其の時に、梶取(かぢとり)有りて、船の下を見れば、一人の優婆塞(うばそく)有り。梶取の云はく、

「汝は、此れ、何人(なにびと)ぞ。」

と。優婆塞、答へて云はく、

「我は、此れ、龍王也。『汝が船を海底に卷き入れむ』と思ふ。」

と云へり。梶取の云はく、

「何の故有りてか、汝、我等を忽ちに殺さむと爲(す)る。」

と。龍王の云はく、

「汝が船に具したる比丘は、前生(ぜんしやう)に、我れ、人と有りし時、我が家に有りし比丘也。朝暮(あしたゆふべ)に、我が供養を受けて、數(あまた)の歲を過ぐすと云へども、我れに呵嘖(かしやく)を加へずして、罪業(ざいごふ)を造らせて、今、既に、蛇道(じやだう)に墮(だ)したり。一日に三度、劍(つるぎ)を以つて切らるる事を得たり。此れ、偏へに此の比丘の咎(とが)也。其の事の妬(ねた)く、情無きに依りて、『彼の比丘を殺さむ』と思へり。」

と云ふ。

 梶取の云はく、

「汝、蛇身を受けて、三熱の苦に預りて、連日に刀剣の悲しみを得る事は、此れ、卽ち、前生に惡業(あくごふ)を造れる故也。亦、何(いか)に愚かに數(あまた)の人を殺害(せつがい)して、其の果報を增さむと爲(す)る。」

と。龍王の云はく、

「我れ、昔を思ひ遣(や)れば、前後の事を知らず。只、云ひ敎へずして、罪を造らしめて、惡業を得て、苦を受くるが、極めて情無ければ、『殺さむ』と思ふ。」

と。梶取の云はく、

「汝ぢ、一日一夜(いちにちいちや)、此(こ)こに留(とどま)り給へ。法を聞かしめて、汝が蛇道を遁れしめむ。」

と。此の語(こと)に依りて、龍王、一日一夜、其の所に留りて、比丘、經を誦(じゆ)して、龍王に聞かしむ。龍王、經を聞きて、忽ちに蛇身(じやしん)を轉じて、天上に生ると云へり。

 然れば、

「專(もはら)に善根を修(しゆ)せよ。」

と親しからむ人をば、敎ふべき也となむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:この話、不作為犯(後注参照)の悪の元である比丘が、最後に誦経役として登場するばかりで、全くその僧の姿がリアルに見えて来ず、消化不良を起こす。後注参照。

「優婆塞(うばそく)」在家のままで、仏道修行に励んでいる人。修行者に奉仕する在俗の信者。正式に出家得度しないで修道の生活を行なう人。男性に限る。女性の場合は、「優婆夷」(うばい)と呼ぶ。

「龍王」これは狭義の仏教上の神格化された龍王ではなく、水界を牛耳るところの、蛇の転じたブラッキーな海の妖怪の王の謂いであろう。前世の罪で、死後、蛇に転生され、その中でも親玉のそれになったというのである。それでも、同時に、現に「一日に三度、劍(つるぎ)を以つて切らるる事を得たり」という罪業を受ける境涯にあるのである。

「我れに呵嘖(かしやく)を加へずして」「呵嘖」は「呵責」に同じ。責め苛(さいな)むこと。龍王の前世の事実の優婆塞を、呵責することなく、仏説に反する行いを犯させたというのである。この朧な表現ではとんでもない売僧(まいす)、破戒僧のようにしか読めぬのだが、実際の原話では、悪龍の前世は屠殺業者であり、その彼に飯を食わせて貰って、永く彼の護持僧となったのが、この比丘であって、その長年の間、僧は、彼の生業(なりわい)たる忌まわしい殺生行為を直(じか)に見ても、一切、これ、咎めだてしなかった点で不作為犯の破戒僧だったとあって、すっきりと意味が判る。私が冒頭で不満を言ったのは、「売僧(まいす)どころの騒ぎでない、とんでもない破戒僧である」と思ったからなのであるが、しかし、彼が今も僧として生き続けており、最後のシーンでは、その僧が、その誦経で以って、悪龍王を正しく天上界へ昇天させる法力があるということから見て、改心して、ちゃんとした修行を積んだことが判るし、よほどこの僧、前世ではいいことをしたのであろうなぁ、と考えるしかあるまい。しかし、それらをここに盛り込んでいないのが、甚だよろしくない。そうした輻輳を組み上げたなら、本話は遙かに面白くなったはずだからである。そうして、実は原話には、もう少し、自然な感じで、その僧がどんな不作為犯だったのかを悪龍自身に語らせて、ちゃんと、その悪龍が殺そうとした同乗する僧の法会(この場合は、異類たる悪龍に転生しているので、一種の施餓鬼と言ってよい)行うというシークエンスが、ちゃんと、語られてあるのである。それはまた、南方熊楠の「今昔物語の研究」で明らかにされるので、少しくお待ちあれ。

「三熱の苦」畜生道で龍・蛇などが受けるとされる、三つの激しい苦しみ。「熱風や熱砂で皮肉や骨髄を焼かれること」、「悪風が吹き起こって居所や周囲の附属物などを失うこと」、「金翅鳥(こんじちょう)に子を食われる」の三種。

亦、何(いか)に愚かに數(あまた)の人を殺害(せつがい)して」この船には梶取と比丘の他にも有意な乗船者がいることが判る。それなりの大きさの中ぐらいの船と思われる。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    天竺の人で、海中に於いて悪龍に遇った人が、比丘の教えに依って、害を免れた事第十三

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、天竺の人は、道を行く時には、必ず、僧を同道させる。これは、災いから身を守る力が僧にあるからである。

 昔、一人の人があった。商いのために、船に乗って、海に出た。

 ところが、俄に悪風が吹き荒(すさ)び、船を海の底へ巻き入れんばかりの有様であった。

 その時、梶取(かじとり)の者が、船端の外側の下の方を見たところが、一人の優婆塞(うばそく)が舷側へばりついているのを発見した。

 梶取が声をかけるに、

「お前はッツ! これ、一体、何者じゃッツ!?」

と。

 優婆塞は答えて言うことには、

「我は、これ、龍王である。『お前の船を海底に巻き入れてやろう』と思うておる。」

と言った。

 梶取、応じて、

「何のわけあって、お前は、我らを、かくも無慚に、殺さむとするかッツ!?」

と。

 龍王の言うことには、

「お前の船に同乗している坊主は、前生(ぜんしょう)に於いて、我れが人であった折り、我が家に居った僧だ。朝夕に、我から供養を受けて、長い年月をともに過ごしたのだが、こやつ、我れに呵責を加へることなく、巧妙に言いかけては、罪業(ざいごう)を我に造らせて、そのために、今、我は、既に蛇道(じゃどう)に堕(だ)しておる始末! 一日に三度(みたび)、剣(つるぎ)を以って斬られる苦しみを受けておる! これ、偏えに、この坊主に教唆された咎(とが)に他ならぬ! その事が、激しく嫉(ねた)くも、情けなくもあるによって、『かの坊主を殺してやる!』と思うたのだ!」

と言う。

 梶取が答えて、

「お前は、蛇身となされて、三熱の苦を受けることとなり、連日、刀剣の悲しみを得るということは、これ、即ち、お前の前生(ぜんしょう)の悪業(あくごう)が造ったことにようものではないか! なおまた、どうして、愚かにも、さらに数多(あまた)の人を殺害して、その悪しき果報を増そうとするのだッツ!?」

と。

 竜王が応えて、

「我れ、昔を思いやれば、後先(あとさき)のことは判らなくなるのだ! ただただ、口に出して確かには言わずに、我れに罪を造らせて、我れが悪業を得て、苦を受けねばならなくなっていることが、極めて情けないからこそ、『殺してやる!』と思うのだ!」

と。

 梶取はそこで言うことには、

「お前さん! 一日一夜(いちにちいちや)、ここに、まず、留まられよ! 仏法のまことを聴かせて、お前さんを蛇道から遁(のが)れさせてやるから!」

と。

 この言葉を諾(だく)して、龍王は、一日一夜、その所に留(とど)まって、かの僧が、懇ろに、経を誦(じゅ)して、龍王に聴かさせた。

 すると、龍王は、経を聴くや否や、忽ちに蛇身(じゃしん)を転じて、天上へと生まれ昇っていったという。

 であるからして、

「専らに善根を修(しゅ)しなさい。」

と、親しい感じのする人には、よくそれを教えることが何より肝要であると、かく語り伝えているということである。

「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」

 

[やぶちゃん注:今回から暫くは、今までのように、私個人が好きな話柄ではなく、近日、ブログ・カテゴリ「南方熊楠」で電子化注に入ろうとしている南方熊楠の「今昔物語の研究」で採り上げている話を電子化訳注することとする。参考底本を所持する岩波書店「新日本古典文学大系」第三十三巻「今昔物語集一」及び同「二」(今野達氏校注。孰れも一九九九年刊)としつつ、カタカナを平仮名にし、漢文調部分を概ね訓読し、読みの一部を本文に出し、さらに恣意的に漢字を正字化して示す。底本原拠の歴史的仮名遣の誤りは正した。読みは振れるものに限定する。さらに句読点・記号等を変更・追加し、会話部分等は改行した。なお、原文中に出る「𡀍」であるが、底本では(つくり)の下方にある「心」が(へん)の「口」の下まで伸びているこの字体(「グリフウィキ」)であるが、表示出来ないので「𡀍」とした。]

 

   羅漢の比丘(びく)、國王太子の死を敎へたる語(こと)第十二

 

 今は昔、天竺(てんぢく)に一つの小國有り。其の國(く)に、本(もと)より、神をのみ信じて、佛法を信ぜず。而(しか)る間、其の國の王、一人の皇子(わうじ)有り、亦、子、無し。國王、此れを愛する事、玉の如し。太子、十餘歲に成る程に、身に重き病ひを受けたり。醫療を以て治(ぢ)するにも、𡀍(い)ゆる事、無し。陰陽(をんやう)を以て祈ると云へども、驗(しる)し、無し。此れに依りて、父の王、晝夜に歎き悲しむで、年月(としつき)を送るに、彌(いよい)よ、太子の病ひ、增さりて、𡀍ゆる事、無し。

 國王、此れを思ひ繚(わづら)ひて、此の國に上古(しやうこ)從(よ)り崇め祭る神在(まし)ます。國王、其の所に詣(いた)りて、自(みづか)ら祈り請ふ。諸(もろもろ)の財寶を運びて、山に成し、馬・牛・羊等を谷に滿(み)て、

「太子の病ひを𡀍やし給へ。」

と申す。宮司・巫(かむなぎ)、恣(ほしいまま)に取り、心に任せて、萬(よろづ)に飽き滿ちぬ。此に依りて、爲(す)べき方、無きまゝに、一人の神主、御神、付きて、出で來たりて、示して云はく、

「御子(みこ)の御病(みやまひ)は、國王還らせ給はむまゝに、平𡀍し給ひなむとす。國を持(たも)たせ給て、民も安く、世も平かに、天下・國内、皆、喜びを成すべし。」

と。國王、此を聞きて、喜び給ふ事、限り無し。感に堪へずして、着(は)ける所の太刀を解きて、神主に給ひて、增〻(ますま)す、財を與へ給ふ。

 此くの如くし畢(をは)りて、宮に還り給ふに、途中にして、一人の比丘に値(あ)ひ給ひぬ。國王、比丘を見て、

「彼(か)れは何人(なにびと)ぞ。形も人に似ず、衣も人に違(たが)へり。」

と問ひ給へば、人、有りて、申す、

「此れは沙門となむ申す、佛の御弟子(みでし)也。頭(かしら)を剃れる者也。」

と。國王の宣(のたま)はく、

「然らば、此の人、定めて、物知りたらむ。」

とて、輿(みこし)を留(とど)めて、

「彼(か)の沙門、此(こ)こへ召せ。」

と宣へば、召しに依りて、沙門、參りて立てり。國王、沙門に宣はく、

「我が一人の太子有り。月來(つきごろ)、身に病ひ有りて、醫(くすし)の力にも叶はず、祈りも驗し、無し。生き死に、未だ、定まらず。此の事、何(いか)に。」

と。沙門、答へて云はく、

「御子、必ず死に給ひなむとす。助け給はむに、力、及ばず。此れ、天皇(てんわう)の御靈(ごりやう)の所爲(しよゐ)也。宮に還らせ給はむを、待ち付くべからず。」

と。國王、

『二人の云ふ事、不同也。誰(た)が云ふ事、實(まこと)ならむ。』

と、知り難くて、

「神主は『病ひ、𡀍え給ひなむ。命、百歲に餘るべし。』と云ひつるを、此の沙門は、かく云ふを、何れにか、付くべき。」

と宣へば、沙門の申さく、

「其れは、片時(へんし)、御心(みこころ)を息(やす)め奉らむが爲に、知らぬ事を申す也。世の人の物思はぬが云はむ事を、何(いかで)か捕へ仰せ給ふ。」

と申し切りつ。

 宮に還りて、先づ、怱(いそ)ぎ問ひ給へば、

「昨日、太子は、既に失(う)せ給ひき。」

と申す。國王、

「努〻(ゆめゆめ)、人に、此の事を、知らしむべからず。」

と宣ひて、神付きたりし神主を召しに遣(つかは)しつ。二日許り有りて、神主、參れり。仰せて云く、

「此の御子の御病ひ、未だ𡀍えず畢りぬ。何(いか)が有るべき、不審にて召しつる也。」

と。神主、亦、御神付て、示して云はく、

「何(いか)に我をば疑ふぞ。『一切衆生(いつさいしゆじやう)を羽含(はぐく)み哀れむで、其の憂へを背(そむ)かじ。』と誓ふ事、父母(ぶも)の如し。況むや、國の王の苦(ねむごろ)に宣はむ事、愚かに思ふべからず。我れ、虛言(そらごと)を成すべからず。若(も)し、虛言せらば、我を崇(あが)むべからず。我が巫(かむなぎ)を貴(たふと)ぶべからず。」

と、此(か)くの如く、口に任せて、云ふ。

 國王、善〻(よくよ)く聞きて後(のち)、神主を捕へて、仰せて云はく、

「汝等、年來(としごろ)、人を謀(あざむ)き、世を計りて、人の財(たから)を恣に取り、虛神(そらかみ)を付けて、國王より始めて、民に至るまで、心をも、とろかし、人の物を計り取る。此れ、大きなる盜人(ぬすびと)也。速かに其の頸を切り、命を絕(た)つべし。」

と宣ひて、目の前に、神主の頸を切らせつ。亦、軍(いくさ)を遣して、神の社を壞(こほ)ちて、□河と云ふ大河に流しつ。其の宮司、上下、多くの人の頸を、切り捨てつ。年來、人の物を計り取りたる千萬の貯へ、皆、亡(ほろぼ)し取りつ。

 其の後、彼(か)の沙門を召すべき仰せ有りて、參りぬ。國王、自ら出で向かひて、宮の内に請じ入れ、高き床(ゆか)に居(す)ゑて、禮拜して宣ふ樣(やう)、

「我れ、年來、此の神人共(じんにんども)に計られて、佛法を知らず、比丘を敬(うやま)はず。然(さ)れば、今日より、永く、人の藉(かり)なる言を、信ぜじ。」

と。比丘、爲に法を說きて聞かしむ。國王より始めて、此れを聞きて、貴み、禮(をが)む事、限り無し。忽ちに其の所に寺を造り、塔を起てゝ、此の比丘を居(す)ゑたり。多くの比丘を居ゑて、常に供養す。

 但し、其の寺に一つの不思議なむ有る。佛の御上に天蓋(てんがい)有り、微妙(みめう)の寶を以て莊嚴(しやうごん)せり。極めて大きなる、天上に懸けたる天蓋の、人、寺に入りて、佛を匝(めぐ)り奉れば、人に隨ひて天蓋も匝る。人、匝り止めば、天蓋も、匝り止みぬ。其の事、今に、世の人、心を得ず。

「佛の御不思議の力にや有るらむ。亦、工(たくみ)の目出たき風流(ふりう)の至す所にや有るらむ。」

とぞ、人云ふなる。其の國王の時より、其の國に、巫(かむなぎ)、絕えにけり、となむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注(注には底本を参考にした)

「羅漢」サンスクリット語の「悟りを得、人々の尊敬と供養を受ける資格を備えた人」を指す「アルハット」の音写「阿羅漢」の略称。「応供」(おうぐ)とも呼ぶ。煩悩を総て断ち去って最高の境地に達した人。狭義には「小乗の悟りを得た最高の聖者」を指し、その修行段階を「阿羅漢向」、到達した境を「阿羅漢果」と称する。小乗仏教では仏弟子の最高位とされるが、大乗仏教では衆生の救済を目ざす菩薩(如来になるための修行中の存在)の下に配される(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「天竺に一つの小國有り」今野氏は、『西域記に達磨悉鉄帝国の首都昏駄多城とする。同書にトカラ族の故地とするが所在不明。アフガニスタン北部、あるいはそれに隣接する西天竺の辺国か。』とされる。個人サイト「三蔵法師~苦難の西域への旅」の『三十七、「達磨悉鉄帝(ダルマステイテイ)国、尸棄尼(シグニ)国、商弥(シャミ)国など」』に、『達磨悉鉄帝(ダルマステイテイ)国は二つの山間にあり、ヴァクュ(縛芻)河に臨んでいました』。『形が小さくでも健(すこ)やかな善馬を産します』。『風俗は礼儀を知らず』、『性凶暴(きょうぼう)で、形も醜悪で、目は碧緑色(へきりょくしょく)の人が多く、他の諸国とは違っていたのでした』。『伽藍は十余か所にあり、その国都は昏駄多(カンダータ)城にあるのでした』。『城内には先王の建てた伽藍があり、その中に石の仏像があるのですが、不思議なことに、上に雑宝で飾った金銅の円蓋(えんがい)があって、自然に空中に浮かんで仏像の上にかかっています』。『もし人が、礼拝して像の周りを回ると円蓋もともにまわり、人が止まると円蓋も止まり、その霊妙なことは測(はかる)ることができないのでした。』とある。また、個人サイト「聞其名号~PARTⅢ」の「玄奘の旅」の中の「パミール諸国」の注では、『【ダルマスティティ国】達磨悉鉄帝国。また護密と名づける。法の位置の意。恐らくヌリスタン山脈の北端を越えてゼバク経由イシュカシムに達したのであろう。都城カンダータはイシュカシム、今日もカンドゥドと呼ばれるという。ダルマスティティの名の由来はワハン渓谷の南部がダルママスツージと呼ばれ、それが地域名になったという。』とあった。調べてみると、アフガニスタンの東北にタジキスタンに突き出た国境近くのここに「カンドゥド」はあった。奥深い山岳地であるが、川の畔りである。

「陰陽(をんやう)」位置的にはイスラム教やゾロアスター教辺りが想定されるが、或いは、もっと山岳部の局地的な既に失われた原始信仰ででもあるのかも知れない。本邦の読者に判り易いように中国の道教のそれを転用したものであろう。今野氏もそのように解され、『ここでは病気平癒を祈願する呪的宗教側面を利用したもの』と記されておられる。

「谷に滿(み)て」難解な箇所である。私は「谷」から、その神として、老荘思想の「谷神」(こくしん)、則ち、無為自然の核心にある原母(グレート・マザー)的な玄牝(げんぴん)を想起したが、今野氏は『直訳すれば、谷に満たしての意となるが、前出の「山ニ成シ」の対句で、無数の馬・牛・羊等の供犠、つまりいけにえとして供えた意。』とされる。確かに、その方が躓かない。訳でもそのようにした。

「巫(かむなぎ)」ここはシャーマン。男女を問わない。悪のバイプレーヤーとしての「一人の神主」も無論、そうした中の一人で神官の位を得ている者である。寧ろ、こやつは、後から、計略を巡らし、私腹を肥やし、しかも王の信頼厚く、故に王室の内部まで、惡どく深く食い込んでいることが明らかになることから、特定の歴代神官を務めてきた豪族の男性のそれと考えるべきであろう。謂わば、「巫女」ではなく「巫覡(ふげき)」ということである。しかも、後の逆切れの謂いから、多くの巫(かんなぎ)連中も、皆、彼の子飼いなのであろう。

「國王還らせ給はむまゝに、平𡀍し給ひなむとす」この場合、この神を祀る場所から宮城へお戻りになると、直(じき)に平癒すると述べていることが判り、有意に宮城からは離れた位置にあり、二日以上かかる場所にあることが、王子死亡の知らせから、判る。

「沙門」言わずもがな、世俗を遁れた仏教に修行僧を指す一般名詞。

「御子、必ず死に給ひなむとす。助け給はむに、力、及ばず。」症状を聴くシーンがカットされているか。本人を見るわけでも、病態を問うこともせずに、かく言っているならば、一種のハッタリのように読めるが、「宮に還らせ給はむを、待ち付くべからず」とまで言い切っているのであれば、王子の様態は伝えられたととるべきであろう。また、この謂いを仏教の無常観に基づいて、この沙門がそれを中・長期的に語っているとならば、悪意の有無は別として、しかも人間に当然やってくるところの「死」の到来の、予言者の常套的やり口ではある。但し、そこで若き王子の病いの原因を、「天皇(てんわう)の御靈(ごりやう)の所爲(しよゐ)」と個別的に断定している点では、かなりアクロバティクな部分がある。この謂い方は、現在、目の前にいる王の父或いは先代の王の御霊(ごりょう)、則ち、「亡き先王の遺恨に基づく」と、当時の読者は読んだはずである。但し、今野氏によれば、『西域記の「王先霊」によれば、国王の前生の霊の意となる。』とある。すると、この沙門はこの国に行脚に入った際、或いはその周辺国にあった時に、この国の先代王と現在の王のよからぬ紛争或いは事件を知り得ていたのかも知れない。しかし、よく考えると、これを、「王さま、あなたの中の御霊(みたま)の成すところの因果によって王子は死の病いを遁れらぬのです。」と語っているのだという意味に、この沙門の言葉の真意とることは、必ずしも、難しいことではない。寧ろ、因果応報の輪廻思想を語り出したら、一時では伝えることは修行僧の身では無理であるからして、それなりの知識から病態が重篤であることを、感じ取った沙門が、王子の死という最悪の事態の到来をごく近いと認識して、かく意味深長に述べたとすれば、私はそれなりに腑に落ちはするのである。

「不同也」特に和訓が振られていないので、「不同(ふどう)なり」と読む。言わずもがなだが、「二人」とは、「一人の神主」と、この沙門と、である。

「何(いかで)か捕へ仰せ給ふ」この「捕へ」は現行の「捉える」と同義である。王子の助かることを望んでいる王自身が、軽薄な一神主のおべんちゃらを、希望的に安易に捉えて安心していることに対して、強く批難しているのである。

「二日許り有りて、神主、參れり」この神官が宮城の近くには住んでいなかったとは思われず、或いは、王はわざと「都合のいい時に来ればよい」と伝えて、神官が疑心暗鬼を起こして何かの探りや準備や逃走などを起こさないように、わざと使者に言わしめたのであろう。

「努〻(ゆめゆめ)、人に、此の事を、知しむべからず。」この王の禁制は、専ら、神主の神託の噓を暴き糺すためのそれである。

「未だ𡀍えず畢りぬ」未だに平癒しないままである。「畢りぬ」は現在進行形で「ある状態がそのまま続いてしまっている」の意。王は敢えて死を隠して、どう答えるかを探ろうとしているのである。

「一切衆生(いつさいしゆじやう)を羽含(はぐく)み哀れむで、其の憂へを背(そむ)かじ。」仏教説話として、異教徒の神官の言葉を判り易く変換したものだが、その不遜なわめきが、寧ろ、王子の死を感知出来ていない似非者であることを暴く致命的に救い難いシークエンスとして見事に描かれている。なお、言わずもがなであるが、これは「と誓ふ事、父母(ぶも)の如し」とあるからには、これはその現在の王に対する、絶対誓約ではなく、その異教国の神に対するそれである点で、第三者である読者は、既にして救う余地のない売僧(まいす)としか思えないように、この台詞が決定的に示されているところがツボと言える。

「苦(ねむごろ)に」「苦」には「苦学」「苦心」のように「努める・骨を折る」、や「苦求」のように、「普通でなく・甚だ・ひどく・極度に」の意がある。

「□河」「今昔物語集」でしばしば出現する、その場で漢字を忘れたので後に漢字を書き入れるために空けた意識的欠字とするが、私は諸本で注されるこの文句がやや不審である。時には何かを憚って欠字にしたと考えられるものもあるからである。例えば、本篇でも国名をわざと隠してあるのであるから、河川名をちゃんと書くこと自体が、天竺のどこかというボカした設定と矛盾するから、わざと欠字とした方が遙かに納得出来るからである。なお、今野氏によれば、「西域記」では、『縛芻河』とあるとする。この川、調べてみると、ギリシア語文献で「オクソス」と呼ばれている川で、アフガニスタンとタジキスタンの国境を流れる現在のアムダリヤ川(グーグル・マップ・データ)に比定されている。昏駄多城の五〇キロ以上西方であるが、頗る腑に落ちるものである。

「藉(かり)なる」「藉口」(しゃこう)という熟語があり、「何かにかこつけて言うこと・適当に口実を作って言いわけすること」の意がある。

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

   羅漢の僧、国王の太子の死を教えた事第十二

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、遠い天竺に、一つの小さな国があった。

 その国は、もとより、異神をのみ信じて、仏法を信じていなかった。

 さても、そのような中、その国の王に一人の王子(おうじ)があり、また、他には子はなかった。

 さればこそ、国王はこの王子を愛すること、宝玉を愛するようであった。

 ところが、この王子、十歳あまりになった頃、身に甚だ重い病いを患った。

 医師たちの療治を以ってするも、一向に癒ゆるようすがなかった。

 呪術師に命じて処方の秘術を行ってはみたが、やはり、験(しる)しは、ない。

 そのため、父の王は、一日中、嘆き悲しんで、年月(としつき)を送ったのだが、しかし、王子の病いは、いよいよ、増すばかりで、癒ゆる気配は、微塵もなかった。

 国王は、このことを深く思いわずらって、この国に、上古(じょうこ)より崇め祭ってきている古き神がましせばこそ、国王、その神のましますという所に詣(まい)って、自(みずか)ら祈請をなされた。その折りには諸々の財宝を運び、山のように積み上げ、馬や牛や羊などを、生贄として谷に一杯に満たし、

「王子の病いを速やかに癒やし給え。」

と申し上げた。

 宮司や巫(かんなぎ)連中は、その生贄を恣(ほしいまま)に取り、思うままに飲食や供物を、堂々と、自分の腹や隠しの中に収め、まさに飽きるほどに満足していた。

 さても、かくまでして、最早、することがなくなったと思うと、一人の神官に神さまが憑(つ)いて、王の前に出で来たって、啓示して言うことには、

「……御子(みこ)の御病(おんやまい)は……国王が宮城へお還りなされたその折り……まさに平癒し給はんとする……国を平和に保たせなさって……民も平安にして……世も平静となり……この天下と我らが国の内(うち)……どこもかしこも総て皆……喜びをなすであろう……」

と。

 国王はこれを聞いて、喜びなさること、限りなく、感に堪えず、腰に佩(は)いていたところの重宝の太刀を、帯を解いて、その神官に賜い、さらに褒美の金品を加えてお与えになられた。

 かくのごとく、滞りなく祭祀は終わって、宮城にお還りになる、その途中で、一人の仏僧とすれ違われた。

 国王は、僧を見て、

「あの者は何者であるか? 容貌も普通の我らと似ておらず、衣服も常人と違うが。」

と問われたので、お側にあった者が申し上げた。

「これは『沙門(しゃもん)』と申します者にて、仏教の仏陀の御弟子(みでし)で御座います。頭(かしら)を剃って『出家』した者に御座います。」

と。

 国王が仰せられるには、

「然(しか)らば、この人は、きっといろいろと物を知っておるであろうな。」

とて、輿(こし)を止めさせて、

「かの沙門をここへ召せ。」

と仰せになられたので、その召しによって、沙門は、王の前に参って立った。

 国王が沙門に仰せらるるには、

「私には一人の王子がある。長い月日、身に病いがあって、医師の力もまるで及ばず、我らが神へ祈っても、その験(しるし)、これ、全く、ない。その生き死に、未だ、定まらぬ有様である。このこと、そちは如何に思うか?」

と。

 沙門は答えて言うに、

「御子(みこ)は、必ず、死になさるに違いないと存ずる。お助け申し上げるには、我らの力は、及ばぬもの。それは、これ、国王御自身に纏わる御霊(ごりょう)の結果なればこそに御座いまする。宮城にお還りなさるる、その間も、御子の死は、待ってはくれませぬ。」

と。

 国王は、

『神官と沙門と、二人の言うことは、全く違うではないか。誰の言うことが、真実なのだ?』

と、知り難く思われて、

「神官は『病いは治癒なされましょう。御子の命は百歳を超えることで御座いましょう。』と言ったに、この沙門は、かく言ったのだが、一体、孰れを信ずるべきか?」

と仰せられたので、それを聴いた沙門が申し上げることには、

「それは、僅かに、ちょっと御心(みこころ)を安らかにし申し上げようとの思いつきで、自らも判っていない、真意の微塵もないことを申したに過ぎませぬ。世の中の凡人の、何のまことの分別も持ち合わせていない者が言うようなことを、どうしてそのように意固地に都合よく信じようとなされるのですか?」

と、きっぱりと断言した。

 さて、王は宮に還り着いた。

 真っ先に、急ぎ問い糺されたところ、何んと、

「昨日、王子は、既にお亡くなりになられまして御座います。」

と上奏されたのであった。

 すると、国王は、

「ゆめゆめ、他の誰にも、この事を、知らせてはならぬ!」

と仰せられて、先般、神憑きを起こした神官を召すために使者を遣わした。

 二日ばかりあって、神官が参上した。

 国王は、仰せられて言うに、

「我が王子の病い、未だに快方に向かわぬ状態にある。一体、どういうことなのか? 頗る不審なるによって召したのだ。」

と。

 すると、神官に、再び、神が憑いて、啓示して言うことには、

「どうしてお前は私を、かくも疑うのか?! 私は『一切の人々を育み、憐れんで、その憂えを解き放つこと、これ、背(そむ)くまいぞ!』と誓うこと、これ、父母(ふぼ)に誓うのと同じじゃ! 況んや、国の王の、心を込めて願わるることなればこそ、愚かに思うことなど ない! 我れ、虚言(きょげん)をなすことなど、ない! もし、虚言したと言うなら、正しき我れを崇(あが)めるべきではなかろうぞッツ! 我れの正しき巫(かんなぎ)らをも貴(とうと)ぶべきであるまいぞッツ!」

と、かくのごとく、言いたい放題、言い放った。

 国王は、それを、よくよく聞いた後(のち)、有無を言わせず、神官を捕えて、仰せになることに、

「汝ら、年来(としごろ)、人を欺(あざむ)き、世界に謀略をなし、人々の蓄財を恣(ほしいまま)に搾取し、偽物の神を以って『憑依した』と噓をつき、国王を始めとして、人民に至るまで、その誠実な心をも、惑わし、人の持ち物を不法に騙し取っているではないか! こやつは、巨悪に盗人(ぬすびと)に他ならぬ! 速かに、その首を斬り、命を断つべきものだッツ!」

と仰せられて、目の前で、神官の首を刎(は)ねさせた。

 また、軍隊を遣(つかわ)して、神の社(やしろ)を突き壊して、□河という大河にそれを流した。

 そればかりではない。その宮司や、神官の身分の高いものから、低い者まで総て、多くの人の首を、刎ねて野に捨て去った。

 年来(としごろ)、人の物を謀(たばか)り盗(と)ったところの千万の貯えも、総て、没収した。

 その後(のち)、

「かの沙門を召せ。」

という仰せがあって、沙門が参った。

 国王は、自(みづか)ら出でて迎え、王宮の内に請(しょう)じ入れ、高床(たかゆか)にしつらえてある場所に座らせ、礼拝(らいはい)して仰せになったことには、

「我れ、年来(としごろ)、この神官や神人(じにん)どもに謀(はか)られて、仏法の何たるかを知らず、また僧を敬(うやま)うことをせなんだ。されば、今日(きょう)より、永く、人の愚かな言葉を信ずるまいぞ。」

と。

 僧は、それを聴くと、王と王国と、ひいては人民のために、法を説きて聴聞させた。

 国王を始めとして王宮の人々や人民は、皆、これを聞いて、貴(とうと)み、拝んだことは、これ言うまでもない。

 即座に、その王城の一郭(いっかく)に寺を造り、塔を起てて、この僧を住まわせた。そこにまた、多くの僧を招いて、常に供養を怠らなかった。

 但し、その寺には、一つの不思議があるのである。

 主尊の仏像の御上(みうえ)に、天蓋があって、美しく輝く金銀宝石を以って荘厳(しょうごん)してある。極めて大きな、その天上に懸けてある天蓋の下、人が寺に入って、仏像を巡(めぐ)り奉れば、その人の巡るに随って、天蓋も、また巡るのである。人が、巡る歩みをやめれば、天蓋も、また、巡りが、やむのである。そのことについては、今に至るまで、世の人、何故そうした不思議が起こるのか判らぬのである。

「仏(ほとけ)の御不思議の力によるものであろうか。或いはまた、その天蓋を拵えた内匠(たくみ)のありがたい仕掛け物によるものであろうか。」

と、人は言うているということである。

 その国王の時より以降、その国では、巫(かんなぎ)が絶えたと、かく語り伝えているということである。

2022/04/16

南方熊楠「龍燈に就て」(一括縦書ルビ附PDF版)公開

南方熊楠「龍燈に就て」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・2.9MB・51頁)を「心朽窩旧館」に公開した。

2022/04/15

譚海 卷之四 同所ゆは海の藻を取て紙を製する事

 

○池田より七里半西の宮のかたにあたりてゆはと云(いふ)所有。そこになしを村[やぶちゃん注:編者右注があり、『(名鹽)』とある。]といふ所有、六十竃ほどある村也。其村長孫右衞門と云もの、海の藻をとり紙に漉(すき)入る事をなし富をなせり。すべて大坂東海道に至るまで用る所の紙は、皆孫右衞門が製する所のものにて、日々十駄廿駄程づつ運び出す事也。

[やぶちゃん注:「同所」「播州池田酒造る水の事」を受けたもの。

「ゆは」不詳。兵庫県西宮市弓場町(ゆばちょう)があるが、ここ(グーグル・マップ・データ)で、以下の名塩とは遙かに離れている。思うに、ウィキの「塩瀬村(兵庫県)」を見たところ、『弓場家は名塩の名望家』とあり、或いは、それを聴き誤ったものかも知れない。

「なしを村」かなり内陸であるが、兵庫県西宮市塩瀬町名塩か(グーグル・マップ・データ)。ここで漉かれた紙は「名塩紙」(なじおがみ)或いは「名塩雁皮紙」(なじおがんぴし)と呼ばれ、古くから知られるものの、海藻が原料ではない。小学館「日本大百科全書」によれば、越前国から紙漉きが伝えられたとの伝説が知られており、ガンピ(雁皮)を原料に、この土地特産の色相の異なる粘土を漉き込むのが特徴で、東久保(とくぼ)土(白)、天子(あまご)土(微黄)、蛇豆(じゃまめ)土(薄褐色)、五寸土(青)などの粘土が紙料に混入される。「泥入間似合」(どろいりまにあい)の名で室町時代末期(十六世紀中頃)から有名になったが、「間似合」は「半間(はんげん:約九十センチメートル)の間尺(まじゃく)に合う幅の広い紙」の意味で、「間合」とも書き、襖や屏風に利用された。また、泥入り紙は耐熱性があるため、箔打ち紙に賞用されるほか、防虫性のため、薬袋(やくたい)紙や、茶室の腰張り紙としても使われる。ごく薄手の名塩紙は、京都の本願寺の聖経用紙にされたこともある、とあり、津村は「塩」からか、大勘違いをしているようである。]

譚海 卷之四 播州池田酒造る水の事

 

○播州池田は一村酒家也。其酒を造る水を其所の川水をくみてつくる也。其川上に穢多住(すみ)て常にけものの皮をあらふ。池田の方言にゑたをば藤内と云也。一とせ酒家とも相談して、いかに藤内川上に住(すま)ばとて、まさしく酒に造る水をくむ川上にて、皮をあらふ事、もののけがれいはんかたなし。皮をあらはせじとて、穢多と公訴に及(および)ければ、ゑた終(つひ)にまけて皮をあらはぬ事に成(なり)たり。其秋池田にて造(つくり)たる酒殘らず風味よろしからず、翌年同じ事にて三年に及(および)ければ、いかにも是は先年より仕來(しきた)りたる事を止(やめ)たるはあしとて、又穢多に降參して、もとの如く皮を洗ふ事に成たれば、池田の酒の風味又もとの如く宜しく出來(いでき)たるとぞ。

譚海 卷之四 大坂城銅の御殿張付畫の事

 

○大坂城中銅の御殿といふは大奧の間也。其書院の繪に鳴き鶯といふ有、籠に入(いれ)て飼(かひ)たる所を繪がきたるが、さながら聲を發してさへづる如く、精神言語同斷也。むかしは聲をたてて鳴(なき)たりといひ傳ふ。又御黑書院には臺德院殿の御筆の鷄をゑがゝせ給ふあり、すべてふすまの張付の金箔、今時の金とは雲泥の光なりと云り。

[やぶちゃん注:「鳴き鶯」この絵は現存しないようである。]

譚海 卷之四 和州春日社鹿の事 附東照宮御由緖の事

 

○和州春日社の鹿殺生禁斷の事は、すでに東照宮御自筆の證文を出され、御自筆の手判を押れたる免狀、其法務一乘院宮の寶庫に納め、鹿の御朱印とて傳へたり。さる間(あひだ)今に至(いたり)て報制にあまへ、鹿の橫行する事他邦に異也(ことなり)。凡(およそ)鹿の角を隕(おと)す事、春の彼岸より十日以前に有(あり)、其比(そのころ)に至れば鹿たけくいさみて、人にとりかゝる事有。角にて人をそこなふ事ある故、角のおつべき比になれば、あらかじめ穢多(ゑた)に仰(おほせ)て、鹿を逐ひとらへて角を切(きる)事也。此(この)穢多五六人程づつ手を組(くみ)て、竿の先に網を付(つけ)たるを持(もち)、鹿を追(おひ)つめる、其時は町々門戶(もんこ)をとぢ、木戶をさして往來を禁ず。あやまちて人家に鹿追入(おひい)らるゝ時は難儀起る故也。さて穢多鹿を木戶際に追つめ、網をかぶせ地に倒(たふ)しとらへて、鋸(のこ)にて角を切取り、坊主にして追放(おひはな)せば一さんにかけ行(ゆく)也。其角を斷(たち)たる跡少し殘りたれど、角の落(おつ)る時にはかゆみ堪(たへ)がたきゆゑ、殘りたる角にて人を追來(おひきた)り、かしらにて人の胸を押行(おしゆき)、とまる所まで押し行(ゆく)也。塀或(あるい)はついぢなどに押付られたる時、兩の手にて鹿の耳を打(うて)ば驚きはしりさる也。又往還にて人にかゝりたる時は、そのまゝ地にうつふしてをれば、鹿兩の手にて人のうなぢを打(うち)たゝき、しばらく有(あり)て其人息をせずこらへをれば、鹿人の鼻息をかきて死(しに)うせたるとこゝろへて鹿立去(たちさる)也。少しも身を動かさば鹿思ひのままにたゝきて、衣裳をかきやぶり、はだへに疵(きず)を付(つけ)らるる事儘有(ままあり)。又町中にて鹿(しか)子をうむ事有(あり)、その時はそのまゝ一乘院へ訴へ申(まうし)、其時宮より檢使來りて糺(ただ)し養育すべき由申渡(まうしわたし)歸る也。其(その)肥立(ひだつ)間(あひだ)母鹿(ははしか)子をとられん事を恐れて人にかゝるゆゑ、鹿の子生たる町へは皆人惧(おそれ)てあしぶみせず。又病(やみ)たる鹿來る時は町送りにして、其鹿たふれふしたる町よりかたの如く訴へ出る。是を養鹿(やしなひじか)とて子をうみたる鹿の如く大切にする也。若(もし)鹿死(しし)たる時は西大寺の邊(あたり)に小山有(ある)所へ埋(うづ)み、宮より法事を行(おこなは)るゝ也。すべて其(その)町に住馴(すみなれ)たる鹿有(あり)、其鹿他の町へゆけば、又其所(そのところ)の鹿とあらそふゆゑ、外(ほか)へ移る事なし、ならの一厄(いちやく)也。前年も水戶播磨守殿家士、鹿(しか)子うみたる町をおして通り鹿をたゝき、大(おほき)にむづかしき事ありし也。又奈良の町に布屋(ぬのや)やしきといふ所あり、是は往昔(そのかみ)東照宮しばらく御旅館の跡なれば、明地(あきち)にして繩を張(はり)て猥(みだり)に人の入(いる)事を禁ず。誤(あやまり)て亂入するものあれば、卽時に狂氣などする事儘多(ままおほ)し。神君の威靈(いれい)思ひやるべし。又其かたわらに勘合明神の祠(ほこら)あり、是も東照宮の甲胃を奉納させ給ひしとて今に有。國初の時東照宮の御由緖あるものは訟(うつた)へ出(いづ)べき御由緖有(あり)しに、其時の神主懶惰の者にて其義に及ばず、はるかに時をへて後の神主訴へ出けれども、御朱印の御沙汰にも及ばず。御かぶとは上へ召れて、今は御鎧ばかりありと云。

[やぶちゃん注:「勘合明神の祠」奈良県奈良市漢国町(かんごくちょう)にある漢國神社(かんごうじんじゃ:グーグル・マップ・データ)。慶長年間(一五九六年~一六一五年)に徳川家康から、法蓮村において知行田五反余りを寄付され、社殿の修理を行っており、鎧蔵があり、宝物として、慶長一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」の際、徳川家康が社参し、奉納した鎧一領がある。これを納める土蔵を鎧蔵と呼んでいるが、現在、その鎧は市指定有形文化財に指定され、奈良国立博物館に保管されており、現在の同神社には、神楽殿にレプリカが展示されていると、同神社のウィキにあった。]

譚海 卷之四 藝州用聞町人傘屋善六事

 

○松平安藝守殿用達町人に、傘屋善六と云ものあり。恆例にて每年始目見得(めみえ)に、鳥目貳拾疋づつ緡(さし)にさしたるまゝにて進上する事也。夫を取次の人をへずして、自身守のまへゝ持出さゝぐる例也。

[やぶちゃん注:理由が不明なだけに消化不良を起こす。]

譚海 卷之四 山城國淀住人田村源太郞事

 

○山城の淀の橋本村に田村源太郞と云人有、是は田村將軍の末葉なるよし。その所のもの甚崇敬する事なり。其家元日には四品(しほん)の裝束して嘉儀をとゝのふる事とぞ。

[やぶちゃん注:「橋本村」京都府八幡市橋本(グーグル・マップ・データ)。

「田村將軍」かの二度に亙って征夷大将軍を勤めた坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)のこと。]

譚海 卷之四 上野國世良田住人隼人の事

 

○上州世良田(せらだ)に生田(しようだ)[やぶちゃん注:底本のルビ。ママ。]隼人と云もの有、代々生田村の住人也。德川家御由緖のものにて、年始の御禮には每年江戶へ出仕登城し侍る事也。其せつ小判一兩獻上する事舊例にて、今にかくのごとし。此隼人元は一村の領主成しかども、微祿して所領はのこらずその村の百姓のものとなり、只浪人の如くその村に住居し、一村主人の如く崇め居る事也。夫ゆゑ每年始には駕籠のもの、供に具する人まで、一村の百姓これをつとめ、尤進獻の小判も村中にて拵ひ、よろづ介抱して出立する事也。享保年中御禮の節、名を披露するを御聞被レ遊、御旗本に生田(いけた)[やぶちゃん注:同前。]隼人と云人有、文字同じ事なれば、臺命(たいめい)にてそのせつより此世良田の隼人は、正田と姓名を改させ給ふとぞ。

[やぶちゃん注:「世良田」現在の群馬県太田市世良田町(せらだちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ここに世良田東照宮があり、この社殿は、元和三(一六一七)年に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、寛永二一(一六四四)年にここへ移築したものである。ウィキの「世良田東照宮」によれば、『この地は新田氏の開祖・新田義重の居館跡とされ、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田氏の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされ』、嘗ては三大東照宮を名乗っていたことがあったという。クロ氏のブログ「古今東西 御朱印と散策」の「徳川東照宮 (群馬県太田市)」(ここは世良田東照宮から南東直近(一キロ強)同市徳川町にある。ここ)に書かれてある歴史的解説を読まれたいが、そこに『徳川氏始祖得川義季(世良田義季)公から八代目である親氏公は、南北朝の戦いで室町幕府による新田氏残党追捕の幕命により新田之庄を出国せざるをえなくなり』、『得川郷(徳川郷)の生田隼人は、親氏公の出国時に銭一貫文と品物を餞別とし、郷内の百姓とともに中瀬(現 埼玉県深谷市)までお見送りをし』『た』が、『その時に親氏の領地を預けられたことで、以後』、『生田家が徳川郷主とな』り、『親氏はその後、三河国の松平郷(現愛知県豊田市松平町)に流れ着き、松平親氏として、そこを拠点とし』たとあり、この『松平親氏は八幡神社松平東照宮に徳川家康とともに祀られてい』るとある。さらに、天正一九(一五九一)年、『徳川郷主生田家十六代生田義豊は、武州川越(現埼玉県川越市)で徳川家康に拝謁し、「新田徳川系図」の提出と生田姓から正田姓への改めを命じられ』、『同年十一月には、家康公より徳川郷へ三百石の御朱印を寄進、正田家に徳川遠祖の御館跡を子孫末代まで居屋敷として所持してよいと仰せつけら』れたとある。そして寛永二一年(一六四四)年の先の『世良田東照宮勧請にともない、十八代正田義長は邸内に私的な東照宮を建立し』、『これが徳川東照宮の始まりと』されているとする。『この正田邸内に建立された東照宮への参拝は四月十七日と正月のみ庶民に許可され』、『祭祀は正田家が執り行ってい』たとある。さて、「正田」という姓で気づかれるであろうサイト「物語を物語る」のこちらを見られたいのだが、『正田家が新田一族の末裔であるという説明は、簡素ではあるが、ちょっと気のきいた本にも書かれている』として、「平成皇室辞典」(主婦の友社)を引き、『「正田家 皇后陛下のご実家は新田義重(源義家の孫)の重臣生田隼人重幸を祖とすると伝えられ、江戸時代に正田姓を名のり……」』と説明され、別に生田氏は『新田氏の家臣、新田一門だったといった記述も見られる』とある通り、現在の上皇后美智子さまが、まさにこの正田家の正統な子孫なのである。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「三」・「附言」・「後記」・「龍燈補遺」 /「龍燈に就て」~完遂

 

[やぶちゃん注:本篇の特別な仕儀については、「一」の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 

 諸國里人談三や倭漢三才圖會四一に、鵁鶄〔ごいさぎ[やぶちゃん注:ママ。]〕夜飛べば火の如く光ると有り、大和本草には蒼鷺〔みどさぎ〕を妖怪とするは夜光るからと云ふ。七、八年前田邊近所岩城山稻荷の神林から、夏の夜粗(ほぼ)定(きま)つた時刻に光り物低く飛下(とびくだ)るを、數夜予も橋上の納凉衆(すずみしゆ)と俱(とも)に見た。狩獵に年を積んだ人が彼(あれ)は蒼鷺が田に餌を求め下るんぢやと言うた。林羅山の說に、夜中に小兒の啼聲の樣なる怪を「うぶめ」と名くるを、ひそかに伺ふと靑鷺だったと或人語つたとある(梅村載筆天卷)。倭漢三才圖會には、九州海濱に多い鷗の樣で夜光る特種の鳥だと有る。伊太利人は鬼火を山のと平野のと二種に分(わか)ち、何れも腹部等が螢の如く光る鳥だと信ず。プリニウスの博物志十卷六七章に、獨逸のヘルキニアの林中にその羽夜火の如く光る鳥住むと云ひ、一八八五年板ベントの希臘諸島住記〔ゼ・シクラデス〕四八頁には、希臘の舟人今もエルモ尊者の火を惡兆を示す鳥が來て檣頭(しやうとう)に止る者と做(みな)すを以て考ふれば、ユリツセスが航海中ハルピースなる怪鳥に惱(なやま)されたと傳ふるも、同じくこの火を鳥と見立てたのだらうと述べて居る。ペンナントが十八世紀に出した動物學には、冬鷗〔ウインター・ガル〕、冬中海を去(さり)て遠く英國内地の濕原に食を覓(もと)む。星彈〔スター・シヨツト〕又は星膠〔スター・ジエリー〕とて膠樣(にかはやう)の光り物は、其實此鳥等が食つて消化不十分な蚯蚓を吐出(はきだ)したのだと有るが(ハズリツト諸信及俚傳二・六三六頁)、其が本當なら樹梢に吐懸けて光らすこともあらう。

[やぶちゃん注:「諸國里人談三」既出。私の「諸國里人談卷之三 焚火(たくひ)」を参照されたい。

「倭漢三才圖會四一」私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」を見られたい。

「大和本草には蒼鷺〔みどさぎ〕を妖怪とするは夜光るからと云ふ」不審。何故なら、「大和本草」にはそんな記載はないからである。国立国会図書館デジタルコレクションの原本で示すと、同書のこちらが「鷺」(総論)の項で、こちらには「五位鷺」の項があるが、孰れにもこれに類する記載はなく、「蒼鷺」の独立項もない(図品部も確認した)。私は思うに、これは直前で述べた和漢三才圖會第四十一 水禽類  鵁鶄(ごいさぎ)を熊楠は誤認したのではないかと思う。そこで寺島良安は、

   *

凡そ、五位鷺、夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし。月夜、最も明なり。其の大なる者、岸邊に立ちては、猶ほ、人の停立するがごとく、之れに遇ふ者、驚きて、妖怪と爲す。

   *

と記しているからである。但し、一点、気になることはある。そこで良安は「五位鷺」とし、「蒼鷺」とはなっていないことである。しかも「和漢三才圖會」では独立して「第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」を立項しているが、熊楠の言うような記載は全くないのである。なお且つ、それぞれの私の注を見るまでもなく、ゴイサギとアオサギは別種である。無論、同じサギ亜科 Ardeinae で背が青いところは似てはいる。私が気になるのは、熊楠直前で「鵁鶄〔ごいさぎ〕」(正しくは「ごゐさぎ」)と書いて、すぐ、ここでは「蒼鷺」と明記している点である。この錯誤は何に拠ったのか? 気になり出すと、放ってはおけないのが私の性分である。一つ、「これでは?」と思うものを見つけた。人見必大の「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。)の「〈五 水禽〉」にある「五位鷺」の記載である。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像で訓読する(同書は訓点附き漢文。読みは大幅に私が補った)。その「集解」である。下線は私が引いた。

   *

五位鷺

釋名[やぶちゃん注:略す。]

集解 狀(かた)ち、蒼鷺(あをさぎ)に似て、小さし。灰白色にして、碧光(へきくわう)、有り。頂きに、紅、有りて、毛、冠(かんむり)のごとし。翠(みどり)の鬣(たてがみ)、碧(あを)の斑(まだら)、丹(に)の觜(はし)、靑き脛(はぎ)、高き樹(き)に巢くひ、樹の杪(こぬれ)に宿(やど)し、水中に飮む。能く魚(うを)・鰕(えび)を捕ふ。其の味、甘鹹(かんしん)と雖も、夏は、味はひ、蒼鷺に似て、稍(やゝ)佳(か)なり。冬は、臊氣(さうき)[やぶちゃん注:腥い臭い。]有りて佳ならず。凡そ、五位、夜、飛ぶときは、則ち、光り有りて、火のごとく、月夜、最も明(あきらか)なり。或いは、大なる者、岸邊に立てば、巨人のごとし。若(も)し、人、識らずして之れに遇へば、驚惧(きやうく)し、「妖怪」と爲(な)して、斃(たふ)る。此れ、妖(えう)と爲(す)るに非(あら)ず、人、驚きて妖と爲るなり。或るひとの謂はく、「若し悞(あやま)りて、夜、小兒の衣服を暴(さら)して[やぶちゃん注:取り入れずに干し続けて。]、五位、其の衣の上に糞(くそ)して、人、之れを知(しら)ずして、小兒に著せしめば、則ち、驚啼して止まず、竟(つひ)に奇病を發す。」と。是れ、未だ其の證を詳らかにせず。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

私が何故、これを挙げるかというと、「蒼鷺」「五位鷺」「光」「妖怪」の四五が完全に総て含まれており、後半は更なる「妖怪」性の具体例が語られているからである。但し、ご覧の通り、これは「五位鷺」であって「蒼鷺」ではない。しかし、アオサギの方がゴイサギより大きく、私は見かけるたびに、「妖怪」どころか、何時も「沈思黙考に耽る哲学者」のように感ぜられて、大好きな鳥なのである。なお、サイト「tenki.jp」の『光る鷺「青鷺火」の真相とは?田園の守り神・鷺のミステリー』の前編がよく書けており、なお、そこにも書かれてある通り、サギ類が発光する理由として発光バクテリアが附着しているからだとする説がまことしやかに語られているのであるが、そのような標本を採取し、示したデータは未だに皆無であり、信ずるに足らない。寧ろ、私は腹部の白さが、僅かな月などの自然光や、遠い街頭・人家の燈火などの人工光を反射させているものと考えている。

「岩城山稻荷」伊作田稲荷(いさいだいなり)神社(グーグル・マップ・データ)。

『「うぶめ」と名くるを、ひそかに伺ふと靑鷺だったと或人語つたとある(梅村載筆天卷)』三種の写本を縦覧したが、発見出来なかった。

「倭漢三才圖會には、九州海濱に多い鷗の樣で夜光る特種の鳥だと有る」「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」を参照。そこで妖怪としての「うぶめ」についての私の複数の電子化物へリンクもさせてある。

「プリニウスの博物志十卷六七章に、獨逸のヘルキニアの林中にその羽夜火の如く光る鳥住むと云ひ」所持する平成元(一九八九)年雄山閣刊の中野定雄他訳になる第三版「プリニウスの博物誌Ⅰ」から引く。『われわれはゲルマニアのヘルキニアの森に、夜になると火のように輝く翼をもつ不思議な種類の鳥がいると聞かされている。しかし他の森ではそれが遠いというので評判が悪いこと以上に別に変ったことは起こらない。』。ヘルキニアの森は、現在のドイツ南部からチェコにかけての山岳地帯、特に現在のチューリンゲン・ボヘミア・モラヴィアの辺りを指すと考えられているらしい(ブログ「地球と気象・地震を考える」の『地球環境の主役 植物の世界を理解する22 森の民ゲルマーニー人を「ガリア戦記」より読み解く』に拠った)。この中央附近に当たる(グーグル・マップ・データ)。

「一八八五年板ベントの希臘諸島住記〔ゼ・シクラデス〕四八頁」イギリスの探検家・考古学者で作家でもあったジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の“The Cyckades”(「キクラデス諸島」:エーゲ海中部に点在するギリシア領の二百二十以上の島から成る諸島。位置は当該ウィキの地図を参照されたい)。当該箇所は「Internet archive」のこちら

「ユリツセス」ホメロスの「オデュッセイア」の主人公でギリシャ神話の英雄オデュッセウス。彼の英名「Ulysses」(ユリシーズ)の音写。

「ハルピースなる怪鳥」オデュッセウスが海上で誘惑された海の怪物セイレーンは、当初は上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿とされたが、ロケーションから後世には魚の姿と変化してしまった。熊楠の音写もの元はよく判らぬが、古代ギリシャ語の異名の一つに「パルテノペー」「テレース」辺りを混同したものか。

「ペンナントが十八世紀に出した動物學」ウェールズ出身の博物学者トーマス・ペナント(Thomas Pennant 一七二六 年~一七九八年)動物学を冠した書は複数あるが、以下の記載からは、一七六六年に刊行した最初の“The British Zoology, Class 1, Quadrupeds. 2, Birds.” の「第二部 鳥」か。

「冬鷗〔ウインター・ガル〕」winter gull。チドリ目カモメ科カモメ属セグロカモメ Larus argentatus の後頭部から頸にかけて褐色の小斑が現われる冬羽のそれか。

「星彈〔スター・シヨツト〕」star shot。

「星膠〔スター・ジエリー〕」star jerry。

「蚯蚓」発光するミミズは、北半球の温帯地域(ヨーロッパ・南北アメリカ及び日本)に広く分布する環形動物門貧毛綱ナガミミズ目ムカシフトミミズ科 Microscolex 属ホタルミミズ Microscolex phosphoreus 等(同種については当該ウィキを参照されたい)が知られており、腑に落ちる。

「ハズリツト諸信及俚傳二・六三六頁」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著“Faiths and Folklore”(「信仰と民俗学」)。Internet archive」のここだが、六三七ページにかかっている。]

 

 本篇の首に引いた夏竦(かしよう)上元應制詩に龍燈に對して用いた鶴燄も、或は鶴に似た鳥の羽が火の如く夜光るを指した物か。新井白石が室鳩巢に話せし其頃、常陸の鹿島の社への鳳凰來義と云ふ事、「一夕(いつせき)夜深(ふけ)てサワサワと社も鳴動仕り候て、暫く有之(これあり)何かは不分明に候へども廣庭の中ひしと寶珠の如く成(なる)もの敷(しき)候、光輝申候。稍(やや)有(あり)てのし申(まうす)と見え、又最前の如く鳴動有之。右の珠一所により候樣に見え候て飛去り申候。怪異の義と社人ども駭(おどろ)き候て鳳凰抔(など)と申す義は存(おもひ)も寄(よら)ず、翌日託宣を上(たてまつ)候處、神託に夜前鳳凰來賓嬉しく被思召(おぼしめしなさる)との義候云々」とあって、白石鳩巢共に之を眞實と心得たらしい書振(かきぶり)だ(鳩巢小說下)。是は何か光り物を見た者が、朧げに孔雀が尾を開き又摺〔たゝ〕む事などに思ひ合せて言出(いひだ)した事らしく、託宣を聞いて始めて分かる樣では餘り宛に成らぬが、鳥が夜光る例の序に書いておく。一九〇五年板フレザーの王職古史〔アーリー・ヒストリー・オヴ・キングシプ〕に、インド洋マルヂヴ島において、每年定期にマレちふ所に鬼を乘せた光る船が夜來るに一室女(ひとりのむすめ)を供へた事を述べて、カイウス大學のガージナー氏親しく彼(かの)島に遊び著者に報ぜしは、今も其潟(かた)共の淺瀨に時々光り物を見るに、磨(すり)ガラスで覆ふた晶燈〔ランプ〕の火のごとしとあるを、老友ジキンス是は未だ學者に精査せられざる動物が一疋每に斯(かか)る無類の大きな光を出すのだらうと說いた(一九〇六年板上古・中古の日本文〔プリミチヴ・エンド・メジエヴアル・ジヤパニース・テキスツ〕飜譯之卷、八八頁)。吾邦なども古(いにしへ)諸處に森林有り、煙突鐵砲は愚か竈の煙や弓矢さえ知らぬ樣な人少ない地多かつた世には、今日既に蹟を絕つた生物も多かつた筈で、鵁鶄〔ごいさぎ〕蒼鷺〔みどさぎ〕斑蜘蛛〔ぢよらうぐも〕螢等現存する僅々諸種の外に、夜光る動物も數有つたなるべく、其光を目擊する機會は今より迥(はる)かに多かるたゞらう。此等生物が光を出すは雨夜とか月夜とかそれぞれ得意の時有り、螢は初夏と云ふ風に、季節の定つた者も多かうつたらう。されば其最も盛(さかん)な夜を多年の經驗で心得置いて、當夜を待ち設けて眺めて其靈異を讃歎し、種々の迷說を附會したのが龍燈崇拜の起りだらう。

[やぶちゃん注:「鳩巢小說下」の当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの「続史籍集覧第六冊」の画像のここから次のページにかけてで視認出来る。活字がすっきりとしていて読み易い。

「一九〇五年板フレザーの王職古史〔アーリー・ヒストリー・オヴ・キングシプ〕」イギリスの社会人類学者で「金枝篇」で知られるジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一九〇五年刊行した“Lectures on the early history of the kingship”(「王権の初期の歴史に関する講義」)。

「今も其潟(かた)共の淺瀨に時々光り物を見るに、磨(すり)ガラスで覆ふた晶燈〔ランプ〕の火のごとし」これは一読、発光性ゴカイではないかと私は確信した。無論、ウミホタルやヤコウチュウでもよいのだが、この潟が本当に潟ならば、この二種よりもゴカイである可能性が有意に高くなる。例えば、本邦では環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ亜目シリス科Odontosyllis属クロエリシリス Odontosyllis undecimdonta が知られる。グーグル画像検索「Odontosyllis undecimdonta fire wormをリンクさせておく。この発光は、まさに「磨(すり)ガラスで覆ふた晶燈〔ランプ〕の火」と形容するに相応しいではないか!

「一九〇六年板上古・中古の日本文〔プリミチヴ・エンド・メジエヴアル・ジヤパニース・テキスツ〕飜譯之卷、八八頁」“Primitive and Mediaeval Japanese Texts” はイギリスの日本文学研究者・翻訳家でフレデリック・ヴィクター・ディキンズ(Frederick Victor Dickins、一八三八年~一九一五年)の著。「Internet archive」で原本の当該部が読める。面白いところに挿入されている。前のページのある通り、「万葉集」の山上憶良の「日本挽歌一首」(七九四番)だ! しかし、ここから前の記載を「不知火」の光学現象とする訳には、私は、絶対に「ノー!」だね!

 

 似た譚は、巖谷(いはや)君の東洋口碑大全に、本朝怪談雜事から、出雲佐田(さだ)の社に每年十月初卯の日、龍宮から牲(いけにへ)として龍子(たつのこ)一疋上(のぼ)る由引き居るが、懷橘談には、「十月十一日より十七日までを齋(さい)と云ふ、其間に風波烈しく寄來る波に、化度草(けどさう)と云ふ藻に乘れる龍蛇、龍宮より貢ぐ云々」と有る。予彼(かの)邊(あたり)に每々航せし船頭に聞きしは、何の日と定らず、其頃風波烈しく成つて多少の海蛇打上(うちあが)るを、初めて見出したるを吉兆とする例と云うた。故に天然の龍燈乃(すなは)ちエルモ尊者の火、又鳥蟲朽木から起る光も、必しも年中一日を限らず、唯季節が向いて來ると每夜現はるゝを、その月の滿月又は十六夜とか齋日の夜とか、神佛に緣ある夜を人が特定して、その夜尤も見るに都合よきを、其夜しか出ぬ樣に言ひ傳へたに外ならじ。特定の木の上に龍燈が懸かるも、天然を人爲で抂(まぐ)れば成る事で、古(いにしへ)地峽有つて今海と成了(なりをは)つたに渡鳥が依然地峽の蹟の海を後生大事と守つて飛ぶと云ふ話も多く、兎や猪(ゐのしし)鹿や鴨などの路が定まり居るは狩人の熟知する所で、比年(としごろ)予自宅の庭園へ夕に天蛾〔ゆふがおべつたう〕など來て花を吸ふを視るに、その行路から花を尋ぬる順序迄一定せる者の如く、又自宅の近街何れも陰囊の影を火玉と間違へ怖るゝ程淋しい處へ、電線の柱が多く立竝び居る、其頂へ夏の夜每に角鴟〔みゝづく〕が來り鳴くを見聞するに、其行路と順序がちやんと定り有る。先(まづ)は不景氣ゆゑ方法を立替へるなどいふ考(かんがへ)の出ぬ所が畜生で、古く慣習附(づ)いたことを出來得る限り改變せぬ。

[やぶちゃん注:「東洋口碑大全」作家・児童文学者の巖谷小波(いわやさざなみ 明治三(一八七〇)年~昭和八(一九三三)年)が編したもの(大正二(一九一三)博文館刊・上巻のみ出版か)。国立国会図書館デジタルコレクションのここから次のページにかけてで視認出来る。

「本朝怪談雜事」上記の引用元では「本朝怪談祕事」とあるが、恐らくは孰れも誤りで「本朝怪談故事」ではないかと思われる。それなら、厚誉春鶯廓玄の著。江戸中期の刊のようである。

「出雲佐田の社」佐太(さだ)神社が正しい。「東洋口碑大全」自体が誤っているので、熊楠のミスではない。

「龍子」実在する海蛇(うみへび)の爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科(ウミヘビ科とする説もある)セグロウミヘビ属セグロウミヘビ Pelamis platura である。この龍神祭は古くから有名で、私も幾つかの記事で注してきたが、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (五)』にとどめを刺すであろう。

「懷橘談」藩儒であった黒沢石斎による出雲地誌。但し、熊楠が引用している部分は、「佐太」のパートではなく、「杵築」の出雲大社の解説の中に現われる。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここである(左ページ二行目)。「佐太」神社はこちらになる。

化度草((けどさう))」かく名づける以上は藻体が特徴的でなくてはならないだろう。私は真っ先に気泡体を持つホンダワラであろうと踏んだ。如何にもそれらしいと感じたからである。種や博物誌は「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ) (ホンダワラの仲間)」の私の注を参照されたいが、さて、「佐太神社」公式サイトを見たところ、ここに、まさにホンダワラが供物や神からの縁起物とされている記載があった。自信を固くした次第である。

天蛾(ゆふがおべつたう)」これは「夕顏別當」で、広義には鱗翅目カイコガ上科スズメガ科 Sphingidaeの仲間を指すが、狭義には、特にスズメガ科スズメガ亜科 AcherontiiniAgrius 属エビガラスズメ Agrius convolvuli を指す。南方熊楠が言う以上、私はここでは同種ととっておく。]

 

 エルモ尊者の火も又電氣の作用と云ふから、適當した駐(とま)り木は粗(ほぼ)定つて居るだらう。されば他へ飛反(とびそ)れぬ樣に此等の光に尤も適した高木を保存して徐々(そろそろ)其傍(かたはら)の高木を伐り去るとか何とか、龍燈を一定の木に懸くる方法は追々案出實行されたゞらう。斯て其後世中も事繁く人煙も濃くなり、天然の龍燈閉口して跡を絕つに及び、種々の祕計もて人爲の電燈を點すと成るとサア旨い物で、雨が降らうが鎗が飛ばうが興業主の決心次第で、何月何日何時何分と期しても確かに龍燈を一つでも五つでも出し得る筈で、尾芝君が想ふ程の人間界の不思議では決してなく、たゞ吾輩如き何樣な妙案でも腹藏なく自ら言散(いひちら)し書散して一文にも成らぬに紙や暇を潰す者共と異なり、昔の坊主などが祕事妙訣ちふ事を首が飛んでも世間へ洩(もら)さなんだから、億萬の生靈が龍燈如き手近い神變で感化せられて、佛敎や天主敎を根限り信仰歸依した一件は、今の人の大いに留意して勇猛に反省すべき所と、此二、三日飮まぬを幸ひ、柄にも無い事を演(の)べて置く。

結論 佛敎は――實は其他多くの宗敎も――光を以て佛德の表識とし、從つて佛菩薩に光を名とせるが多い。佛說大阿彌陀經に、彌陀の十三異號を說く(鄕硏究三卷三號一七〇頁參照)。其號孰れも光の字有り。言(いは)く、此佛の光、勝於日月之明千萬億倍、而爲諸佛光明之王、故號無量壽佛、亦號無量光佛、無邊光佛、無礙光佛、無對光佛、炎王光佛、清淨光佛、歡喜光佛、智慧光佛、不斷光佛、難思光佛、難稱光佛、超日月光佛《日月の明るさに勝ること、千萬億倍にして、諸佛光明の王たり。故に無量壽佛と號(なづ)け、亦、無量光佛、無邊光佛、無礙光(むげくわう)佛、無對光佛、炎王光佛、淸淨光佛、歡喜光佛、智慧光佛、不斷光佛、難思光佛、難稱光佛、超日月光佛とも號く。》。起世因本經には、人間の營火(いとなみのひ)、燈焰(ともしび)、炬火(たいまつ)、火聚(くわしゆ)[やぶちゃん注:激しく燃える猛火。仏教では地獄の業火も指す。]、星宿、月宮(つきのみや)、日宮(ひのみや)、四天王天と次第して、長たらしく諸天光明の甲乙を述べ、世間所有光明よりも如來の光が最も勝妙と有る。扨(さて)最も手近く光明を標示する者は燈火だから、維摩經の佛國品の執寶炬菩薩などよりは、寶燈世界(大寶廣博祕密陀羅尼經)須彌燈佛(阿闍世王決疑經)燃燈佛など、燈を名とした佛士佛菩薩の名が多い。斯(かく)て佛の勢力が光明で顯はれる。其光明に滋養分を加へ奉る考(かんがへ)で佛に燈を獻ずるを大功德としたので、言はゞ竈に薪を添えるやうぢや。

 されば涅槃經には、若於佛法僧、供養一香燈、乃至獻一花、則生不動國云々、此卽淨土常嚴、不爲三災所動也。《若(も)し佛法僧に於いて、一(いつ)の香燈を供養し、乃至(ないし)は一花を獻ずれば、則ち、不動國に生まる云々。此(ここ)は、卽ち、淨土常嚴(じやうごん)にして、三災の動かす所と爲らざるなり。》。東晉譯大方廣華嚴經一五に、諸光明の由來と功德を說いた中に、有勝三昧、名安樂、又放光明、名照耀、映蔽一切諸天光、所有闇障靡不除、普爲衆生作饒益、此光覺悟一切衆、令執燈明供養佛、以燈供養諸佛故得成世中無上燈、然諸油燈及酥燈、亦然種種諸明炬、衆香妙藥上寶燭、以是供佛獲此光[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。なお、「大蔵経データベース」で確認したところ、この引用は一部に省略があるので、それが判るように二十鍵括弧を入れてある。]《『勝(しよう)に三昧有り、安樂と名づく』。『又、光明を放ち、昭曜と名づく。一切の諸天の光を映(つつ)み蔽ひ、所有(あらゆ)る暗障(あんしやう)を除(のぞ)かざるなく、普(あまね)く衆生の爲に饒益(ねうやく)[やぶちゃん注:慈悲の心を持って有情に利益を与えること。]を作(な)す。この光は一切の衆(しゆ)を覺-悟(めざ)めしめ、燈明を執(と)つて佛を供養せしむ。燈を以つて諸佛を供養する故に世上の無上の燈となるを得(う)。諸(もろもろ)の油燈及び酥燈(そとう)[やぶちゃん注:牛乳から製したバターに似た油。密教で護摩の修法で用いる。食用にもなる。]を然(も)やし、また種種諸(もろもろ)の明炬、衆は香妙藥上の寶燭を然やし、是れを以つて佛に供へ、此の光を獲(う)。』》と說かれ、超日月三昧經には[やぶちゃん注:以下の一文は底本では甚だ読み難いので、一部に読点や記号を挿入した。]、日天、前生、施を好み、行を愼み、戒を奉じ、佛寺に燃燈し、月天、前生、貧に施し、戒を持し、三尊に事(つか)へ、君・父・師等に燈を設けたから、今生(こんじやう)、日天・月天と成るつたと有り。悲華經には轉輪王頂戴一燈、肩有二燈、左右手中執持四燈、其二膝上、各置一燈、兩足以亦各一燈、竟夜供養如來《轉輪王は頂きに一燈を戴(いただ)き、肩に二燈有り、左右の手中、四燈を執り持ち、其の二つの膝は上、各(おのおの)一燈を置き、兩足の上に亦各一燈を以つてし、夜の竟(をは)るまで、如來を供養す。》とは、寄席の落語家が頭と口と兩手足に扇一つ宛(づつ)持つて、「チツ、一本めーには」と松盡しを碁盤の上で舞ふより以上の珍藝だ。

 月燈三昧經こそ大法螺吹きなれ。云く、聲德(しやうとく)如來涅槃に入りしを德音王供養すとて、八十四千萬億の塔を起こし、一々塔前に百千萬那由他(なゆた)[やぶちゃん注:一那由他は一千億。]の燈明を燃す。安穩德比丘負嫌ひで自ら臂(ひぢ)を斷つて燈を燃して獻ぜしに、今まで烱然(くゑいぜん)たる[やぶちゃん注:光り輝くさま。]紅燄四方に遍照せし王の無量百千の燈一時に光を奪はれ、王を始め後宮眷屬妃后采女、總て八萬の別嬪急いで彼(かの)比丘に見(まみ)えんとて、千肘(せんちう)の高殿より飛下(とびおり)るを、天龍夜叉乾闥婆(けんだつば)等の鬼神護持して落ちざらしめた。島田の宿の朝顏盲女の川留の場の如しと有る。扨兎角女ならでは夜が曉(あ)けぬから、彼(かの)比丘を貧女と作り換へて、阿闍世王決疑經や今昔物語十五の貧女の一燈の譚を作つたのだ(芳賀博士の攷證本には、本邦の類話を擧居(あげを)るが、決疑經等を引いて居無い)。例の法華經の藥王菩薩本事品は菩薩が燈供養の爲に身を燒いた話で、臂ばかり燒いた所の騷ぎに非ず。これに傚(なろ)うて頭燈臂燈(ひとう)等の外に全身を燒失(やきうしな)ふ者も有つたのだ。今昔物語に天智帝が志賀寺の燈を揭げた指を切(きつ)て、燈と共に佛に供へ玉ふと有るも、指を燃す御心で行ひ玉ひし事と知らる。

[やぶちゃん注:「島田の宿の朝顏盲女の川留の場」浄瑠璃「生写朝顔話」(しょううつしあさがおばなし)(通称「朝顔日記」)。講釈師司馬芝叟(しばしそう)の「蕣」(あさがお)を原拠とした浄瑠璃。現行のものは天保三(一八三二)年大坂稲荷文楽芝居で初演。秋月家の娘深雪(みゆき)が、恋人宮城阿曾次郎(あそじろう)を慕って家出し、盲目の門付芸人朝顔となり、恋人の残した歌を唄いながら流浪する哀話。「大井の渡し」で知られる島田の宿で恋人と逢いながら、朝顔が盲目ゆえにそれと判らず、後で知り、半狂乱で彼を追う「島田宿戎屋の段」から「大井川の段」が知られる。

「今昔物語十五の貧女の一燈の譚」これが、一向、判らぬ。「今昔物語集」の「巻第十五 本朝仏法」では、第四十八話から最後の五十四話の七話にのみ女性・童子の往生譚が纏められてあるのだが(それ以外は著名な僧尼のそれである)、そこに「一燈の譚」はないからである。ある種、最も似ていると思われるのは、私も好きな「伊勢國飯高郡老嫗往生語第五十一」(伊勢の國の飯高郡(いひたかのこほり)の老いたる嫗(おうな)往生する語(こと)第五十一)である。「やたがらすナビ」のここで新字であるが原文が読める。しかし、そこで老婆で持つのは「一葉の蓮花」であり、また、彼女は使用人もいるので「貧女」とは言えない。さて?……因みに、芳賀矢一の「攷證本」というのは「攷証今昔物語集」で、国立国会図書館デジタルコレクションの冨山房では私の示した話はここ

「今昔物語に天智帝が志賀寺の燈を揭げた指を切て、燈と共に佛に供へ玉ふと有る」巻第十一「天智天皇建志賀寺語第二十九」(天智天皇志賀寺を建てたる語第二十九)。同前でここ。]

 

 蓋(けだ)し人間のみが燈を佛に奉るを大功德としたので無く、鬼人や龍王も亦爭うて此功德を修めたので、例せば法顯傳(ほふけんでん)に、舍衞域の外道が天神を祀る寺で燈を供ふると、明旦(みやうたん)燈が近處(きんじよ)の佛寺に移る。是れ佛僧の所爲(しはざ)ならんと疑うて夜自ら伺ふと、自分が祀る所の天神其燈を持ち、佛寺を三匝(みめぐり)して佛に供へて消失(きえう)せた。因つて成程佛は天神より勝〔えら〕いと知つて出家入道したと有る。龍が燈を佛に供養した例を只今出し得ぬが、其は例乏しくて引き能はざるに非ず、餘り多いから藏經通覽の際書留めなんだのだ。扨(さて)手近い梵語字彙を二三種見るも、龍燈ちふ意の語を見出でぬが、三國の吳の領内來住の天竺僧康僧會が譯した六度集經五に、槃達〔はんだ〕龍王世を厭ひ陸地に登り、於私黎樹下、隱形變爲蛇身、槃屈而臥、夜則有燈火之明、在彼樹上、數十枚矣、日日雨若干種華、色耀香美、非世所覩、國人有能厭龍者、名陂圖、入山求龍、欲以行乞、覩牧牛兒、問其有無、兒曰、吾見一蛇、蟠屈而臥於斯樹下、夜樹上有數十燈。火光明耀曄、華下若雪、色耀香美、其爲難喩、吾以身附之、亦無賊害之心《私黎樹(ぼだいじゆ)下に於いて、形を隱し、變じて、蛇身となり、蟠屈して臥す。夜は、則ち、燈火の明(めい)有り。彼(か)の樹上[やぶちゃん注:「大蔵経データベース」では「下」であるが、ここは敢えて熊楠の記す「上」で示した。]に在りて、數十枚(すじふばい)たり。日日、若干の種の華を雨(あめふ)らす。色、耀き、香、美にして、世の覩(み)る所に非ず。國人、能(よ)く、龍を厭(まじな)ふ者有り、「陂圖(はと)」と名づく。山に入りて龍を求め、以つて行乞(ぎやうこつ)をせんと欲す。牧牛の兒を覩て、其の有無を問ふに、兒曰はく、「吾、一蛇の蟠屈して、斯(こ)の樹下に臥すを見る。夜、樹上に數十の燈あり。火。明る耀(ひか)り曄(かかや)き、華の下(ふ)ること、雪のごとし。色、耀き、香美なること、其れ、喩へ難しと爲(な)す。吾、身を以つて之れに附(ちかづ)くに、亦、賊害の心無し。」と。》。其(それ)からその龍使ひの見世物師に捉へられて齒を拔かれ、所々へ伴(つれ)行きて舞はさるゝを龍王の母が來て救うたと有る。是れ取りも直さず龍燈で、印度に古く龍の上に燈火が樹に懸るてふ迷信有りしを知るに足る。

[やぶちゃん注:「法顯傳」現行では「ほっけんでん」と読まれる、五世紀初頭に約十七年に亙ってインド求法の大旅行を行った中国僧法顯の記録。中央アジアと南海沿岸を含む紀行ともなっている。「大蔵経データベース」では、熊楠が引いたのはこの前後部分である。

「舎衞城」は古代インドのコーサラ国にあった首都。現在のウッタル・プラデーシュ州北東部のラプティ川の近くに相当する。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。]

 

 又大集大雲請雨經に、電光大電光炎光炎肩火光など、光字のついた龍王の名多し。乃(すなは)ち古印度も支那と同じく龍は種々の光を發すると信じたので、支那に佛敎入らぬ時已に龍が光を點すとしたは、楚辭の燭龍何照《燭龍何ぞ照らせる》の語を、王逸注して曰く、大荒西北有山而不合、因名之曰不周山、故有神龍、銜燭而破照之《大荒の西北、山有りて合(がつ)せず、因りて之れを不周山と名づく。故に神龍有りて、燭を銜(くは)へて之れを照らす」(淵鑑類函四三八)。康煕字典に楚辭天問を引いて、日出不到、燭龍何ぞ耀《日出でて到らず、燭龍、何ぞ耀(かがや)ける》。日出(いで)ぬ内に龍が燭を銜(くは)へて光らせ行くと云ふのだから、燭龍乃ち龍燈だ。斯く古來燭龍の話や前述龍火の迷信が有つた支那へ、印度から佛敎と共に龍燈の譚が傳はつたので、諸州の道觀佛精舍や大小名嶽に天然の龍燈多く見出され、追々人造の物も出來た處へ、日本から渡海の僧など、其事を聞き其現象を睹(み)て歸る船中海上の龍燈卽ちエルモ尊者の火に遭ふも少なからず、歸朝して尋ね廻ると自國も隨分龍燈に乏しからず。因つて弘敎(ぐきやう)の方便として種々の傳說を附會して、俗衆をアツと言はせ續くる内、海埋(うづ)まり林伐(き)られて自然の龍燈少なく成り行く。是では成らぬと、困却は發明の母とはよく言つた物で、種々計策して人造の龍燈を出しても、因襲の久しき習慣天性を成して誰も其人造たるに氣付かず、偶(たまた)ま玄奘が菩提寺の舍利光に於ける如く、臭い事と氣が付いても、勝軍居士が玄奘を諭した通り、誰も彼も睹(み)て信ずる上は一人彼是いふは野暮の骨頂といふ論法で差控えた事と見える。

 さてダーウヰンは蘚蟲〔ブリオゾア〕と海龜と鳥が甚だ相異なる動物で何の近緣無きに、三者の喙〔くちばし〕の結構が頗る酷似し居るを指摘し、予も或菌族と男女根の組織と、機械力が全く同一轍なる事を二十五年來硏究して、隨分有益な考案を持つて居るが、斯る外目(よそめ)に詰(つま)らぬことも學術上非常に大切だと云ふ事だけを一昨年不二新聞へ揭げて大枚百圓の科料に處せられ、前に火の玉幻出法の發明に間に合ふた陰囊を大きに縮めた事で有る。先づ千年や二千年で迚も變更の成らぬ動植物の構造や組織にすら、相似た範圍に應じて永久の内には斯く能く似合うた物も出來る。されば風俗作法など變化萬態なる人間界の現象が、因(いん)異(こと)にして偶ま同一又極似の果を生出(せいしゆつ)する有るも、固より怪しむに足らず。例せば、吾邦婦女が齒を染めたのは東南亞細亞の土人が檳榔(びんらう)を咬むに起因したということを森三溪氏など唱へ、故坪井博士も同意の氣味らしかった。然るに二十年程前予大英博物館で色々調ぶると、印度の梵志(ぼんじ)種や柬埔寨(カンボジア)土人の女子が、月經初(はじめ)て到る時、非常に齒に注意する。又中央亞細亞のブハラ人歐州の大露西亞人など、一向檳榔を吃せぬに其妻は齒を涅〔くろ〕くした。其等から攷〔かんが〕へて、廣い世界には南米の或部分の土人の如く、齒の健康を氣遣ふばかりで齒を染めるも有り、馬島〔マダガスカル〕の或種族の如く裝飾をのみ心懸けて齒を染める者、亞細亞東南諸島民の如く檳榔を咀〔か〕むから自然に染まる者、日本や印度ヂーウ邊の婦女の如き成女期や既婚や葬喪を標示する齋忌〔タブー〕の上から涅齒〔はぐろめ〕した者と、同じ涅齒にも種々格別の目的有りて此風が生じたと曉(さと)り、英國科學奬勵會〔ブリチシユ・アツソシエーシヨン〕で論文を讀んだ事が有つた。

[やぶちゃん注:「蘚蟲〔ブリオゾア〕」小さな群体を形成し、サンゴに似た炭酸カルシウムなどの外壁からなる群体を作る動物である外肛動物門 Bryozoaの一般に「コケムシ」(苔蟲)のこと。下位タクソンで狭喉綱 Stenolaemata・裸喉綱 Gymnolaemata・掩喉綱 Phylactolaemataに分けられている。小学館「日本大百科全書」によれば、世界で約四千種が知られている。古い動物で、化石は古生代の末期から出現している。嘗ては、擬軟体動物や触手動物の門に属したこともあるが、現在では外肛動物という独立した門を構成する。海産の種が淡水産よりも多く、潮間帯から深海にまで分布する。微小な個虫が多数集まって樹枝状・鶏冠状・円盤状などの群体を作る。群体は石灰質又はキチン質を含むため、硬く、岩石や他の動植物に付着する。それぞれの個虫は虫室の中に棲み、袋状を成し、口の周りには触手冠がある。消化管はU字状で、肛門は触手冠の外側に開く。血管と排出器がなく、雌雄同体で無性生殖により群体を拡大するとある。当該ウィキには、『裸喉綱では、群体を構成する個虫に多形がみられる例が多い。触手を持ち、えさをとる普通の個虫を常個虫という。これに対して、特殊な形になったものを異形個虫と呼んで』おり、その内の「鳥頭体」(avicularia)と呼称するものがあり、これは『個室の入り口がくちばし状になって突出したもの』で、『外敵の防衛や群体の清掃』を担うとある。探すのに少し苦労したが、英文サイトのこちらのブラジル産のコケムシ当該部分の顕微鏡写真四葉を見ると、それ「嘴」と比喩することが、激しく腑に落ちる。

「檳榔(びんらう)」南方熊楠 小兒と魔除 (5)」の私の当該注を参照されたい。

「森三溪」(元治元(一八六四)年~昭和一七(一九四二)年)は明治三一(一八九八)年民友社刊の「江戸と東京」を書いた人物ではないかと推察する。但し、以上の説はどこから引用したかは不詳。因みに、「江戸と東京」の鉄漿(おはぐろ)の記載はここ

「坪井博士」日本初の人類学者坪井正五郎(文久三(一八六三)年~大正二(一九一三)年)。日本に於ける考古学や人類学の普及と確立に尽力した。]

 

 其から類推すると、尾芝君は盆の燈籠も柱松も龍燈も同一系統、乃(すなは)ち同じ目的を以て一つの起原から生出した樣に云はるゝが、其は形骸を察して神髓を遺(わす)れた見(けん)で無らうか。磁石に鐵を拾ふと北を指すと二つの別の力有る如く――究竟の原因は一に歸すと云はゞ、人が生まるゝも焦死(こげし)ぬも太陽の爲す所と云ふ如くで、其迄ながら――火には熱と光との二つの異なる力有り、吾邦の柱松や歐州の辟牛疫火〔ニード・フアイヤー〕など、主として其火の熱を以て凶災を避け吉利を迎ふるの慾願に創(はじ)まりたるに、盆燈籠や人作の龍燈は、原(も)と其火の光を假りて神佛の勢威を助成し死人の冥福を修する信切(しんせつ)から起つた者で、言はゞ齊(ひと)しく火で有りながら、火鉢の火と行燈の火ほど意味と所用に差別(けじめ)有りと愚存す。加之(しかのみならず)柱松は其式何の祕する事無く初めから仕組を公開するに、龍燈は自然人造共に其事曖昧で、凡衆に解し得ぬ所を妙としたのも大(おほい)に相異なり。(大正四年六月二十三日起稿、多用中に時々書き綴り、三十日夜半終切(をはりきる)。唯一度閱して便ち發送。故に意を盡さぬ所や跡先き揃はぬ言無きを保せず。讀者其大體を了せらるれば幸甚。)

[やぶちゃん注:「辟牛疫火〔ニード・フアイヤー〕」「Need-fire」或いは「Wild-fire」。スコットランドの古い民間伝承に基づく儀式で、羊飼いたちが、羊の群れの病気を防ぐために火を用いたものを指す。英文のウィキの「Need-fireに拠ったが、そこに牛のことが書かれてあるが、熊楠の漢訳の「辟牛」は、羊とともに飼っている牛も疫病を避けられるということか。よく判らない。「浄火」などと訳されるようである。

 以下、底本では一行空けだが、二行空けた。]

 

 

附 言

 此稿を終る少し前に、湯屋に往(いつ)て和歌山生れの六十ばかりの人に逢うて、七月九日夜紀三井寺に上る龍燈の事を問ふに、八、九歲の時父に負はれて一度往き見た事有り。夜半に喚(よび)起こされて眠たきを忍び待つて居ると、山上に忽然燈(ひ)點(とも)るを見たばかり覺え居ると言うた。其邊に人が忍び居(をつ)て、何かの方法で高い所へ燈を點じ素速く隱れ去つたのらしい。貞享四年の自序ある懷硯(ふところすずり)三の二に、紀三井寺の龍燈を見に夜更くるまで人群集する由を述べて、「昔より所の人の言傳へしは、この光を見ること人の中にも稀なり。隨分の後生願(ごしやうねが)ひ、人事(ひとごと)を言はず、腹立てず、生佛樣と言(いは)るゝ程の者が、仕合せよければちらと拜み奉ると聞きし所に云々」と有つて、十人の内七八人は磯に釣する火を龍燈と心得て拜し、其他は觀音堂に通夜して、夢に龍燈布引の松に上るを見たとあり。布引の松は紀三井寺から大分離れた所で、それを後年山内の千手谷へ龍燈の場所換へをしたらしい。

[やぶちゃん注:「貞享四年」一六八七年。

「懷硯三の二」同書は井原西鶴著の諸国奇談異聞集の体裁を採った浮世草子で外題は「一宿道人 懷硯」で、当該篇の標題は「龍灯は夢のひかり」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(PDF全巻一括PDF版)の51コマ目から原本が視認出来る。

「人事」人の悪口。

「其他は觀音堂に通夜して、夢に龍燈布引の松に上るを見たとあり」とあるが、同篇では、実は、その瑞夢を見るのは、当の無欲な主人公の一宿道人自身である。そこがこの話の面白みともなっているのである。

 以下、底本では一行空け。二行空けた。]

 

 

後 記

 前文記し畢(をは)つて四日後、人類學雜誌昨年十二月號原田淑人君の「新疆發掘壁畫に見えたる燈樹の風俗に就て」を讀み、甚だ益を得た。氏が臚列(ろれつ)[やぶちゃん注:「羅列」に同じ。] せる諸材料に據つて考ふれば、史記樂書、漢家祀太一、以昏時祠到明《漢家、太一を祀る。昏(く)るる時を以つて祠(まつ)り、明くるに至る。》等、古く神を祀るに燈を獻ずる事有りし一方には、印度燃燈供佛の風を傳へ、唐人上元の夜華燈寶炬燈樹火山を設け、宋に至つて上中下元咸張燈し、吾邦之に倣うて又中元燈籠を點ずるに及んだので、先づ盆燈籠は華燈、柱松は寶炬、火山は熊野濱の宮等中元に墓場で野火を盛んにするに相肖(あひに)た物、燈樹は原田君が引いた圖や說に據ると、先づ七夕に俗間竹の枝葉間に多く小挑燈(こちやうちん)を點ずるやうな奴の至つて大層なものだらう。是等何れも設備者其人巧に出(いづ)るを隱さず、寧ろ自慢で作つたので、觀る者も初(はじめ)から其心で見たるに反し、人造電燈は始終設備者之を神異に托し、觀る者亦靈物として之を恭敬禮拜したのである。(七月五日)

 此篇書き畢つて後、七月七日の大阪每日新聞獨石馬(どくせきば)の淸末の祕史を見ると、長髮賊魁洪秀全と楊秀淸を月水に汚れた布の冠で呪うた趙碧孃は、事顯はれて楊の爲に天燈の極刑に處すべく命ぜられた。天燈とは罪人に油を泌ませた單衣を著せ、高き梁上に倒懸(さかさがけ)して下より徐(おもむろ)に肉體を油煎(あぶらいり)にする五右衞門以上の酷刑だが、碧孃は刑前自殺したとある。(七月七日)

     (大正四年十一月鄕硏三卷九號)

 龍燈と云ふもの、始めの程は知らず、後年目擊せられたのはほんの一寸の間の現象で、至極曖昧な物だった(鄕硏三卷九號五三二-三頁參照)。高名なる丹後切戶の龍燈天燈なども亦さうであつたと見えて、寬永十年に成つた犬子集(ゑのこしふ)十七にも、貞德(?)の「有りとは見えて亦無かりけり」、「橋立や龍(たつ)の燈あぐる夜に」と云ふ句がある、此序(ついで)に云ふ。同書十四又貞德の「びやうびやうとせし與謝の海づら」。「龍燈のかげに驚く犬の聲」と云ふ句がある。其頃は犬の鳴聲を邦人がびやうびやうと聞いたので、狂言記にも犬の聲を皆かく記してある。偶ま英語のバウワウ佛語のブーブー(孰れも犬吠(いぬぼえ)の名)に似て居るのが面白い。(四月十一日)

    (大正五年十二月鄕硏究四卷九號)

[やぶちゃん注:『人類學雜誌昨年十二月號原田淑人君の「新疆發掘壁畫に見えたる燈樹の風俗に就て」j-stage」のこちらで原本画像で読める

「熊野濱の宮」和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)の境内に浜の宮王子社跡(グーグル・マップ・データ)として残る。

「獨石馬」久木独石馬(ひさきどくせきば 明治一八(一八八五)年~昭和一三(一九三八)年)は評論家。茨城県出身。本名は東海男(とみお)。『常總新聞』の記者などを経て、明治四三(一九一〇)年、大阪毎日新聞社に入った。この後の大正七(一九一八)年に退社し、東京に移って著述に専念した。『雄辯』などに寄稿するとともに、幕末の水戸藩史を研究。野口雨情と親しかった。「淸末の祕史」は不詳。

 以下、底本では一行空け。二行空けた。

「洪秀全」(一八一四年~一八六四年)は清末の「太平天国の乱」を起こした最高指導者。自らを「エホバの子」であると称し、「上帝会」を組織。一八五一年、挙兵して自ら「天王」と称し、国名を「太平天国」とぶち上げた。南京を攻略して都としたが、内紛を起こして清軍に敗れ、南京陥落直前に病死した。

「楊秀淸」(一八二〇年頃~一八五六年)は「太平天国」の最高指導者の一人。一八四八年の弾圧によって、初期の信徒集団に動揺が起こった際、上帝エホバが乗り移った(「天父下風」と称した)として、その意志を伝えて危機を克服、以後、しばしばこの「天父下風」を利用して軍事的指導権を握り、天王洪秀全に次ぐ「東王」に任ぜられ、「太平天国」運動の発展を推進した。南京建都後、その専横に対する天王らの反感が強まり、一族及び部下約二万名とともに殺害された。

「月水」生理の血であろう。

「趙碧孃」不詳。識者の御教授を乞う。

「寬永十年」一六三三年。

「犬子集」俳諧集。全十七巻五冊。松江重頼編。「守武千句」「犬筑波集」以後の発句・付句の秀作集。

「貞德(?)」原本を確認出来ないので、「?」は外せない。

「英語のバウワウ佛語のブーブー(孰れも犬吠(いぬぼえ)の名)」英語では「bow-wow」、フランス語では「ouah-ouah 」(音写は「ウワウワ」が正しい)。因みに、イタリア語では「bau-bau」(バウバウ) 、スペイン語では「jau-jau」(ジャウジャウ)、ドイツ語では「haff-haff」(ハフハフ)とこちらにあった。

 以上の最後の段落は「選集」では『【追記】』と冒頭して、本篇の一番最後に配されてある。なお、以下は底本では一行空けであるが、二行空けた。]

 

 

 椋梨(むくなし)一雪の新著聞集往生篇第十三に、上總福津(ふつつ)のじやじや庄右衞門てふ大若黨者、一心の念佛者となり人多く導いた。自ら死期を知り、三日前から日來(ひごろ)賴んだ寺に往つて、本堂彌陀の前に端坐合掌唱名して眠る如く往生した。信者輩に七日間死骸を拜ませると、「虛空に花ふり夜は龍燈上りて堂内に入りしを拜みし人多かりし」と載す。死んで間も無く龍燈まで上つたのは予に取つて未聞なれば一寸記して補遺とする。(十二月三日)

 松屋筆記卷七十八に佐渡奇談より引いた、寬永の頃鈴木源吾なる浪人が根本寺(こんぽんじ)祖師堂側(そば)の櫻の古木より夏の夜龍燈來ると聞き行きて射たる處、忽ち消え翌日見れば鷺(さぎ)なり、寺僧、電燈の奇瑞を妨げられしを含み、寺内で殺生せし罪を訴へると、龍燈を射たり鷺を射ずと辯じて事解けた由は、尾芝君も短く引かれた。然るに十月十六日のノーツ、エンド、キーリスに、英國のイー、イー、コープ氏が書かれたは、彼方(あちら)でも鷺が夜光ると云ふに付(つい)て、同氏曾て一九〇六年十二月のカナリア及小鳥飼養雜誌に載せ、又バーチングのレクリエイション、オヴ、ア、ナチユラリストてふ書にも出であるとの事だ。(十二月四日)

 又前號四五八乃至九頁に載せた天狗の炬火は不定時に出たものらしいが、龍燈同樣に定日の夜出た天狗火もある。紀伊續風土記卷八十一に、今の東牟婁郡三輪崎村の丑の方十七町、往還の下海邊平らかなる岩の上に、輿(こし)の如く窪みたる所が三つ有るを、三所洗岩と謂ふ。此岩に每月七日二十八日頃天狗來つて身を淸むると言傳へて、天狗の火時に見ゆと云ふてある。(十二月四日)

     (大正五年一月鄕硏究三卷十號)

[やぶちゃん注:「新著聞集往生篇第十三に、上總福津(ふつつ)のじやじや庄右衞門てふ大若黨者、……」「新著聞集」は寛延二(一七四九)年刊の説話集。各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めたもの。当該ウィキによれば、全八冊十八篇三百七十七話。書名は鎌倉時代の説話集「古今著聞集」に倣ったもの。先行する同一作者によると目される説話集「古今犬著聞集」や「続著聞集」との『関連が深い』。『著者名は記されておらず』、『不詳』『とされていたが、森銑三の指摘により紀州藩士の学者』『神谷養勇軒が藩主の命令によって著したことが定説となっている。しかし』、「新著聞集」の内容は俳諧師椋梨一雪による説話集「続著聞集」を再編集したもので、正確には、『神谷養勇軒は編者であると考えられる』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(PDF巻十三と十四の合本・初版の後刷)の20コマ目から視認して電子化しておく。句読点・記号を打った。読みは一部に留めた。なお、本文の「大若黨者」はママ。「選集」もママであるが、以下に見る通り、「大惡黨者」が正しい。

   *

   竜灯(りうとふ)室(しつ)に入り彩花(さいくわ)空に充(みつ)

上總の福津(ふつつ)に、じやじや庄右衞門とて、大惡黨者(あくたうもの)有(あり)しが、いかなる過去の因緣やありけん、一不乱の念仏者(ねんぶつしや)となり、人多くすゝめて、勤(つと)めさせけり。少し違例(いれい)のこゝちなりしが、兼(かね)て、死(し)を、しり、一族朋友の方、悉く、いとまごひに步(あり)き、死の三日まへより、日來(ひごろ)たのみし大樹寺(だいしゆじ)[やぶちゃん注:「し」清音はママ。]にゆきて、本堂の彌陀のまへに端座合掌し、念佛、間(ひま)なく申、眠(ねふる)がごとくに、息たへ侍りしを、年來の信者、「殊に往生のやうす、たゞならず。」とて、七日が間、死骸を拜(をがま)せけるに、虛空(こくう)に五色(ごしき)の花(はな)、ふり、夜(よ)は、龍灯、あがりて、堂内に入りしを拜(をがみ)し人、多かりし。

   *

この「福津」は現在の千葉県富津市(グーグル・マップ・データ)。「大樹寺」は不詳。

「松屋筆記七十八に佐渡奇談より引いた、寬永の頃鈴木源吾なる浪人が……」「松屋筆記」は国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここから。「(十三)龍燈」の末尾(次のページになる)に配された頭書の中に出る。「根本寺」は現存する。日蓮宗で、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「ノーツ、エンド、キーリス」雑誌名。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and ueries)。一八四九年(天保十二年相当)にイギリスで創刊された学術雑誌。詳しくは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)」の私の注を参照されたい。

「バーチングのレクリエイション、オヴ、ア、ナチユラリスト」不詳。

「紀伊續風土記卷八十一に、……」同書は紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年)完成した。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年帝国地方行政会出版部刊の活字本のここだが、その標題は「御手洗岩」だ。「今の東牟婁郡三輪崎村」現在の和歌山県新宮市三輪崎附近(グーグル・マップ・データ)。「丑の方十七町」は北北東一キロ八百五十四メートル。「三所洗岩」は読みも位置も不詳だが、現行、「洗岩」(あらいいわ)というのは、干潮時の水面直下に現れる(「洗われる」というのがより正しいか)岩礁を言い、国土地理院図でその辺りを探すと、ここに如何にも怪しげな複雑した岩礁性入り江があり、これをグーグル・マップ・データ航空写真で見ると、いや、これじゃないかい? と言いたくなるもので、しかもその西北直近には「御手洗の念仏碑」というのがあるのである(江戸時代に建てられた碑で熊野古道の休息場所らしい)。実は「三所洗」で「みたらひ」と読ませるのではなかろうか?

2022/04/13

「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」

 

[やぶちゃん注:本篇の特別な仕儀については、「一」の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 

 田邊の絲川恒太夫てふ老人中年迄熊野諸村を每度行商した(鄕硏究一卷三號一七四頁參照)。この翁今年七十五。廿七八歲の時新鹿〔あたしか〕村の湊に宿す。湊川の上に一里餘續ける淺谷てふ谷有り。其と竝んで、二木島(にぎしま)片村曾根と續く谷有り。此二谷間の山を古來天狗道と呼び懼(おそ)るゝも、誰一人(たれひとり)天狗を見た者無し。絲川氏湊に宿つた夜大風雨で屋根板飛び、其壓(おさ)えに置いた大石墮下(おちくだ)るを避けん爲、古胴著(ふるどうぎ)等を被(かぶ)り、鴨居の下に頭を突つ張り柱を抱き立(たつ)て居た。家主老夫婦は天井張つた三疊の室(ま)に楯籠(たてこも)る。老主人の甥羽島に住む者、茶の木原に住む從弟を訪ひ、裸に成り褌の上に帶しめて、川二つ渡り來り著いたは夜二時也、曉に及び風漸く止んだ。二人大闇黑中件(くだん)の山上を大なる炬〔たいまつ〕廿ばかり列(つら)なり行くを見て、始めて昔も斯(かか)る事有つた故天狗道と名(なづ)けたと曉〔さと〕つたと云ふ。

[やぶちゃん注:この話と続く次の段の話は、何んと! 巨匠泉鏡花の未完の無題遺稿の中に、本書の本篇に基づいたとして語りが出てくる! このために、ブログ横書版、及び、サイト版縦書PDF縦書版を作っておいたので、是非、読まれたい。

「絲川恒太夫」詳しい事績は知らぬが、他の記事にも登場し、南方熊楠の紀州民俗の情報の重要な提供者であったようだ。

「新鹿村」三重県南牟婁郡にあった旧村。現在の熊野市の東部、紀勢本線新鹿駅・波田須駅の周辺に相当する。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「湊」「湊川」「淺谷」国土地理院図のここでやっと発見した。現在の新鹿町の沿岸部に「湊」の地名が見え、そこから北から流れる川が「湊川」であり、その川上が分岐したその北部分に「浅谷越」(あさだにごえ)という四百九十八メートルのピークが判る。現在も非常に山深いところである。

「二木島」国土地理院図のここを見られたい。「片村」は不明だが(或いはこの「片村」は位置的見て、現在の三木島町の東海浜の「二木島里町」かも知れない)、「二木島」は現在の二木島町で、先の湊川の下流から「熊野古道」を東へ登ると、「二木島峠」を経て「二木島町」、そこから古道をさらに東北に登ると、「曽根坂」があって、地図を北東へずらすと「曽根町」が見える。

「羽島」不詳。

「茶の木原」この名は三重県四日市市水沢町(すいざわちょう:グーグル・マップ・データ)に冠山(かんざん)茶の木原があるが、話にならないほど離れるから違う。前の羽島とともに識者の御教授を乞うものである。]

 

 斯樣の時は小さな火も大きく見ゆるは、熊楠、先年西牟婁郡安堵峯(あんどがみね)下より坂泰(さかたい)の巓(いただき)を踰えて日高郡丹生川(にうのかわ)に著き憇ひ居たるを、安堵の山小屋より大勢搜しに來(きた)るに提燈一つ點せり。其が此方の眼には炬火數十本束ね合せて燃すほど大きく見えた。されば右述天狗の炬も實はエルモ尊者の火だらう。一九(いつく)の善光寺道中續膝栗毛九に、彌次と北八が天狗を惡口するうち、火繩が高き樹の上に飛揚(とびあが)り、今迄吸殼〔すひがら〕ほどの火が忽ち松明大(たいまつだい)となり、風も無きに樹の枝ざわざわ鳴出す事有り。戯作ながら、是も山中にエルモ尊者の火現ずる由を傳聞して書いたであらう[やぶちゃん注:ママ。「の」の脱字か。]。一九〇六年板、レオナード少佐の下ニゲル及其諸民族〔ゼ・ラワー・ニゲル・エンド・イツ・トライブス〕四八六頁に、藪榛中〔こもりのうち〕の高樹上に夜分大なる火出で燃ゆるを、翌朝見るに燒け居らぬ事有り、土人之を妖巫〔ウヰツチ〕其樹下に集り踊ると信ずと見え、英領中央亞非利加(アフリカ)でも、妖男巫〔アフヰチ〕空中を飛ぶ時大なる羽音して樹梢(こずゑ)に留まり行く、その携ふる火遠方より見得るが人近づけば消して了ふと云ふ(ワーナー英領中央亞非利加土人〔ゼ・ネチヴス・オヴ・ブリツシユ・セントラル・アフリカ〕一九〇六年板八八頁)。何れも天狗の炬に似た事だ。

[やぶちゃん注:「安堵峯」和歌山県と奈良県の県境にある安堵山(あんどさん:国土地理院図)。標高は千百三十四メートル。

「坂泰の巓」この附近の孰れかのピーク(国土地理院図)。

「丹生川」この附近(同前)。

「善光寺道中續膝栗毛」十返舎 一九が享和二(一八〇二)年から文化一一(一八一四)年にかけて初刷した「東海道中膝栗毛」の大ヒットを受けて書いた、弥次喜多膝栗毛物の続編内の一つ。文政二(一八一九)年初刷。熊楠が、この部分を語っているところを、泉鏡花は前に示した遺稿の中で、作中人物を借りて高く評価している。

「一九〇六年板、レオナード少佐の下ニゲル及其諸民族〔ゼ・ラワー・ニゲル・エンド・イツ・トライブス〕四八六頁」アメリカの地質学者アーサー・グレイ・レオナルド(Arthur Gray Leonard 一八六五年~一九三二年)の“The Lower Niger And Its Tribes ”。「Internet archive」のこちらで同年版原本で当該箇所が視認出来る。ニジェールの民俗誌。

「藪榛中〔こもりのうち〕」このルビは「小森の内」で、「雑木林の中」の意。

「ワーナー英領中央亞非利加土人(ゼ・ネチヴス・オヴ・ブリツシユ・セントラル・アフリカ)一九〇六年板八八頁」オーストリア生まれの女性で、アフリカ研究者であり、作家・詩人でもあったアリス・ワーナー(Alice Werner 一八五九年~一九三五年:彼女はスワヒリ語とバントゥー語に堪能であった)の“The Natives of British Central Africa”(「イギリス領中央アフリカの先住民族」)は一九〇六年刊。同じく「Internet archive」のこちらで同年版原本で当該箇所が視認出来る。]

 

 エルモ尊者の火が多く風浪中の舟人の眼に付いて、海中の龍の所爲(しわざ)と想はれたは自然の成行で、其上既に慈覺大師の行記から例示した通り、山にも龍宮有りとする處も有り、龍が塔を守ると云ふ寺も有るから、山上や塔の頂に現ずるエルモ尊者の火をも龍燈と呼んだゞらう。龍が塔を守る例は經中に少なく無いが、最も奇拔なは三寶感通錄一に云く、益州の道卓〔だうたく〕は名僧なり。隋の大業の初、𨿅縣寺塔、無人修葺く、纔有下基、卓乃率化四部、造木浮圖、莊飾備矣、塔爲龍護、居在西南角井中、時相有現、側有三池、莫知深淺、三龍居之、人莫敢臨視、貞觀十三年、三龍大鬪、雷霆震擊、水火交飛、久之乃靜、塔如本、住人皆龍拾取毛、長三尺許、黃赤可愛《𨿅(らく)縣の寺塔、人の修葺(しゆしふ)する無く、纔かに下に、基、有るのみ。卓、乃(すなは)ち四部を率化(そつけ)し、木の浮圖(ふと)を造り、莊飾、備はれり。塔は龍に護られ、西南の角(すみ)に在る井の中に居せり。時に相(すがた)の現ずる有り、側(そば)に三池有り、深淺、知る無し。三龍、之(ここ)に居(を)るも、人、敢へて臨み視ること莫(な)し。貞觀十三年、三龍、大いに鬪ひ、雷霆(らいてい)、震(ふる)ひ擊ち、水・火、交(こもごも)に飛ぶ。之れ、久しくして、靜まり、塔、本(もと)のごとし。住人、皆、龍の毛を拾ひ取るに、長さ三尺ばかり、黃赤(わうしやく)にして愛すべし。》。吾邦に貴人の三婦嫉妬で亂鬪して三目錐〔みつめぎり〕の名を獲た話があるが、是は又正法(しやうぼふ)護持の爲に佛塔を守る三龍が毛を落とす迄混戰したのだ。根來〔ねごろ〕の大塔燒けた時、龍が水を吐いて防いだ事、紀伊國名所圖會に畫添へて出し有る。

[やぶちゃん注:「三寶感通錄」「一」で既出既注。

「率化」教導すること。

「浮圖」「浮屠」「佛圖」とも書く。中国で、仏教伝来から南北朝時代にかけて「仏陀」又は「仏塔」を呼ぶのに用いた言葉。サンスクリット語の「ブッダ」の音写、或いは「ストゥーパ」の誤った音写とされる。「仏陀」を意味する用法は、史書などに見いだされるものの、仏教徒の間では避けられ、「仏塔」を意味する用法は、漢訳仏典の中にもしばしば見られる。但し、中国における仏塔は、「三層浮図」とか「九層浮屠」と書くように、重層型の仏塔を指すことが多かった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「貞觀十三年」六三九年。唐の太宗の治世。

「貴人の三婦嫉妬で亂鬪して三目錐〔みつめぎり〕の名を獲た話」出典不詳。識者の御教授を乞う。

「根來〔ねごろ〕の大塔」和歌山県岩出市にある真言宗一乗山根来寺(ねごろじ)。「大塔」は正式には「大毘廬遮那法界体性塔」と呼び、現在、国宝。本尊は胎蔵大日如来で、高さ四十メートル、幅十五メートル。木造では日本最大の多宝塔(二重塔で初層の平面が方形を成し、上層の塔身が円形に造られたものを言う)である。文明一二(一四八〇)年頃から建築が始まり、半世紀以上経た天文一六(一五四七)年頃に竣工したと考えられている(当該ウィキに拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 扨最初龍燈は皆天然生の火だったが、後には衆心を歸依させる爲、龍燈や舍利光佛光を僧侶が祕する方術を以て出す事と成つたは疑を容れず。現今も印度や西藏(チベツト)の僧は、室内に皓月(こうげつ)眞に逼(せま)れるを出(いだ)したり、空中に神燈炫耀(げんえう)するを現じたり、中々歐州の幻師〔てじなつかひ〕の思ひも寄らぬ事を仕出〔しで〕かすと、每々其輩から聞いた。付法藏因緣傳五に、馬鳴(めみやう)大士、十一祖富那奢(ふなしや)に議論で負けて弟子と成つたが、心猶愧(はぢ)恨みて死せんと欲す。冨那奢之を察知し、馬鳴をして闇室中に經典を取らしむ。闇(くら)くて取れないと言ふと、師告(つげ)らく、但去、當令汝見、爾時尊者卽以神力、遙伸右手、徹入屋内、五指放光、其明照曜、室中所有、皆悉顯現、爾時馬鳴心疑是幻、凡幻之法、知之則滅、而此光明轉更熾盛、盡其技術、欲滅此光、爲之既疲、了無異相、知師所爲、卽便摧伏《但(た)だ去(ゆ)け。當(まさ)に汝をして見しむべし。爾(ここ)に尊者、卽ち、神力を以つて、遙かに右手を伸べ、室内に徹(とほ)し入る。五指、光を放ち、其の明り、照り耀き、室中に有る所のもの、皆、悉く顯現す。爾に、馬鳴、心に『是れ、幻しならん。』と疑ふ。凡そ、幻(げん)の法は、之れを知れば、則ち、滅す。而るに、此の光明は轉(ますます)更に熾-盛(さかん)なり。其の技術を盡して、此の光を滅せんと欲するも、之れが爲に既に疲れ、了(つひ)に、異相、無し。師の爲す所なるを知りて、卽ち、摧伏(さいふく)す。》。其から懸命に勉强して遂に佛法第十二祖と迄成つたと出づ。此文を見て當時方術で指端に光を出した事有つたと知る。辟支佛〔びやくしぶつ〕や羅漢が、人を敎化したり身の潔白を託するに口辯を用ひず、默(だんま)りで身體から火光を出した例は頗る多い。何か其祕術が有つのだらう。

[やぶちゃん注:「炫耀」光り強く輝くこと。

「付法藏因緣傳」釈尊の入滅後、付法相伝した 二十三祖師の因縁を叙述したもの。全六巻。北魏の吉迦夜・曇曜共訳で四七二年成立とされるが、サンスクリット語からの訳本ではなく、口伝による作成らしい。特に天台宗・禅宗では、古来。尊重されている。「大蔵経データベース」で調べたが、導入のシークエンスは少し長く、熊楠が内容を簡約している。以下が、当該部。

   *

有一大士名曰馬鳴。智慧淵鑒超識絕倫。有所難問靡不摧伏。譬如猛風吹拔朽木。起大憍慢草芥群生。計實有我甚自貢高。聞有尊者名富那奢。智慧深邃多聞博達。言諸法空無我無人。懷輕慢心往詣其所。而作是言。一切世間所有言論。我能毀壞如雹摧草。此言若虛而不誠實。要當斬舌以謝其屈。富那奢言。佛法之中凡有二諦。若就世諦假名爲我。第一義諦皆悉空寂。如是推求我何可得。爾時馬鳴心未調伏。自恃機慧猶謂己勝。富那語曰。汝諦思惟無出虛語。我今與汝定爲誰勝。於是馬鳴卽作是念。世諦假名定爲非實。第一義諦性復空寂。如斯二諦皆不可得。既無所有云何可壞。我於今者定不及彼。便欲斬舌以謝其屈。富那語言。我法仁慈不斬汝舌。宜當剃髮爲吾弟子。爾時尊者度令出家。心猶愧恨欲捨身命時富那奢得羅漢道。入定觀察知其心念。尊者有經先在闇室。尋令馬鳴往彼取之。白言大師。此室闇冥云何可往。告曰、

   *

「馬鳴大士」(生没年不詳)は一~二世紀頃の中インド出身の仏教論師。サンスクリット名「アシュバゴーシャ」の漢訳。仏教音楽・仏教文学の創始者的存在とされ、仏陀伝の傑作「ブッダチャリタ」(「仏所行讃」)を作った。「大乗起信論」の作者とされる馬鳴が居るが、これは後世の別人と考えられる。三十の頃、「大乗起信論」を読んだが、読み終わるのに一ヶ月もかかったのを思い出した。

「富那奢」脇比丘(きょうびく:二世紀初頭の中インドの僧。脇尊者とも呼ぶ。サンスクリット名は「パールシュヴァ」。付法蔵第九祖。カニシカ王の下で、彼以下五百人の比丘がカシュミールで第四回の仏典結集を行い、「大毘婆沙論」(だいびばしゃろん:小乗仏教教理の集大成。全二百巻)を編纂したとされる人物)に師事して法を受け、主に小乗教を弘めて多くの衆生を教化した。

「摧伏」本来は他動詞的で「打ち挫(くじ)いて屈伏させること」を言う。

「辟支佛」「各自独りで悟った者」の意の「プラティエーカ・ブッダ」の漢訳。仏の教えに拠らず、自分自身で真理を悟り、その悟りの内容を人に説くことをしない聖者を指す。「独り悟りを開いてそれを楽しむ仏」で、「独覚」とも意訳する。また、十二因縁の理法を悟るところから、「縁覚」とも訳したが、これはどうも「プラティエーカ」(「独りの」の意)を「プラティヤヤ」(「縁」の意)と誤読したか、あるいはこの聖者が十二因縁を観ずる修行をして覚ったとされることを特に言ったためかとも考えられている。現行では「縁覚」の方が使用度が高い。]

 

 續高僧傳十に、周の太祖の時、西域獻佛舍利《西域より佛舍利を獻ず》、帝、僧道妙をして供養せしむるに、經于一年、忽於中宵、放光滿室。螺旋出窻、漸引於外、須臾光照四遠、騰扇其熖。照屬天地、當有見者、謂寺家失火、競來救之、及覩神光乃從金瓶而出、皆歎未曾有也。《一年を經て、忽ち、中宵(やはん)に、光を放ち、室に滿つ。螺旋して窻(まど)を出で、漸(ぜんぜん)と外に引(ひきの)びて、須臾(しゆゆ)にして、光、四遠を照らし、其の熖(ほのほ)を騰(のぼ)し扇(あふ)ぎ、天地に照り屬(つらな)る。當(とき)に見る者有りて、「寺家、失火す。」と謂(おも)ひて、競ひ來たりてこれを救ふに、神光、乃(すなは)ち金瓶(きんぺい)より出づるを覩(み)るに及び、皆、「未だ曾て有らず。」と歎ず。》。十四に、隋の文帝舍利を梓州華林寺に送らしむ、既至州館、夜大放光、明徹屋上、如火焰發、食頃方滅《既して州館に至るに、夜、大いに光を放ち、屋の上、明るく徹(とほ)りて、火焰の發するがごとし。食-頃(しばらく)して方(まさ)に滅す。》。三寶感通錄二、梁武帝同奉寺に幸(みゆき)し、始到瑞像殿、帝纔登階像大放光。照竹樹山水並作金色。遂半夜不休《始めて瑞像殿に到る。帝、纔かに階(きざはし)を登れば、像、大いに光を放ち、竹樹山水を照らし、並(とも)に金色(こんじき)を作(な)し、遂に夜半まで休(や)まず。》。

[やぶちゃん注:「續高僧傳十」調べたところ、これは「續高僧傳」の巻第八の誤りである。「CBETA 漢文大藏經」(中文)のこちらの、[0486a18]の四行目以降を見られたい。

「十四に隋の文帝舍利を梓州華林寺に送らしむ、……」これも調べたところ、「續高僧傳」の巻第十二の誤りである。「維基文庫」版の同巻の「唐京師淨影寺釋善胄傳九」の丁度、真ん中の部分に出現する。]

 

 慈恩傳四に、玄奘天竺に在つた時、西國法、以此(正)月、菩提寺出佛舍利、諸國道俗咸來觀禮《西國の法、此の(正)月を以つて、菩提寺、佛舍利を出だし、諸國の道俗、咸(みな)來たりて觀禮す。》玄奘、其師勝軍居士と共に往き見る、至夜過一更許、勝軍共法師、論舍利大小不同云々。更經少時、忽不見室中燈、内外大明、怪而出望、乃見舍利塔、光暉上發、飛燄屬天、色含五彩、天地洞朗、無復星月、兼聞異香氛氳溢院、於是、遞相告報言、舍利有大神變、諸衆乃知、重集禮拜稱歎希有、經食頃光乃漸收、至餘欲盡、遶覆鉢數匝、然始總入、天地還闇、辰象復出、衆覩此已、咸除疑網。《夜、一更ばかりを過ぐるに至り、勝軍、法師と共に、舍利の大小の不同を論ず云々。更に少時を經て、忽ち、室中、燈(ひ)を見ざるに、内外(うちそと)、大いに明るし。怪しみて、出でて望めば、乃(すなは)ち、舍利塔より、光暉、上(のぼ)り發し、飛燄(ひえん)、天に屬(つらな)り、色は五彩を含み、天地、洞朗(どうらう)として、復(ま)た星・月の無きを見る。兼(あは)せて、異香、氛氳(ふんうん)として、院に溢(あふ)るるを聞(か)ぐ。是に於いて遞(たが)ひに相ひ告げ、報じて言はく、「舍利に大神變有り。」と。諸衆、乃(すなは)ち知り、重ねて集まりて禮拜し、「希有なり。」と稱歎す。食-頃(しばらく)、經(た)ちて、光、乃(すなは)ち、漸く收まり、餘り盡きんと欲(す)るに至り、覆鉢(ふくばち)を遶(めぐ)ること、數匝(すめぐ)りし、然して始めて總て入れり。天地、還(また)、闇(くら)く、辰象(しんしやう)、復た出づ。衆、此れを覩(み)て、咸(みな)、疑網を除く》。續高僧傳四には彼土十二月三十日、當此方正月十五日、世稱大神變月、若至其夕、(舍利)必放光瑞、天雨奇花。《彼(か)の土(ど)の十二月三十日は、此方(こなた)の正月十五日に當たり、世に「大神變月」と稱す。若し、その夕べに至れば、(舍利)必ず、光瑞を放ち、天、奇花を雨(あめふ)らす。》。其夜、玄奘其師と對話する内(うち)忽失燈明、又覩所佩珠璫瓔珞、不見光彩、但有通明晃朗、内外洞然、而不測其由也、怪斯所以、共出草廬、望菩提樹、乃見有僧手擎舍利、大如人指、在樹基上、遍示大衆、所放光明、照燭天地、于時衆鬧、但得遙禮、雖目覩瑞、心疑其火、合掌虔跪、乃至明晨、心漸萎頓、光亦歇滅、居士問曰、既覩靈瑞、心無疑耶、奘具陳意、居士曰、余之昔疑、還同此也、其瑞既現、疑自通耳《忽ち、燈明を失(しつ)す。復た佩(お)ぶる所の珠璫(しゆたう)・瓔珞(えうらく)を見るに、光彩を見ず、但(た)だ、通明(つうめい)して晄朗(くわうらう)、内外、洞然(とうぜん)たる有り。然して其の由(いはれ)を測れず。斯(こ)の所以(しよい)を怪しみ、共に草廬を出でて、菩提樹を望むに、乃(すなは)ち、僧、有りて手に舍利を擎(ささ)ぐるを見る。大いさは人の指のごとし。樹の基の上に在りて、遍(あまね)く大衆(たいしゆ)に示し、放つ所の光明は、天地を照燭(しやうしよく)す。時に衆(しゆ)、鬧(かまびす)しく、但(た)だ、遙かに禮するを得るのみ。目に瑞(ずい)を覩(み)ると雖も、心に其の火を疑ふ。合掌し、虔(つつし)んで跪き、乃(すなは)ち、明くる晨(あさ)に至る。心、漸く萎-頓(つか)れ、光も復た、歇(つ)き滅す。居士、對いて曰はく、「すでに靈瑞を覩る、心に疑ひ無からんや。」と。奘、具(つぶさ)に意を陳(の)ぶ。居士曰はく、「余の昔の疑ひも、還(ま)た此れに同じなり。其の瑞、既に現(げん)じたれば、疑ひ自(おのづか)ら通ずるのみ。」と。》

[やぶちゃん注:「慈恩傳」「大慈恩寺三藏法師傳」。三蔵法師として知られる唐の玄奘(六〇二年~六六四年)の伝記。全十巻。唐の慧立の編になる。「大蔵経データベース」で正規本文を確認・補正した。

「洞朗」広々として明るいさま。

「氛氳」気の盛んなさま。

「覆鉢」相輪  などの露盤上にある、鉢を伏せたような形のもの。その上に請花 (うけばな) ・九輪 (くりん) などをのせる。「デジタル大辞泉」の画像を参照されたい。

「辰象」ここは月や星のこと。

「珠璫」宝珠。

「晄朗」明るく輝くさま。

「洞然」盛んに燃えるさま。]

 

 此珍事は西域記には出て居なかつたと記憶するが、玄奘の弟子が書いた慈恩傳には、一同此瑞光を覩て疑網を除いたと有るに、道宣が親しく玄奘から聞書した續高僧傳を案ずると、遠方から禮し得たと云ひ、目に光を見ながら心其を火たるかと疑うたと云ひ、玄奘が充分其瑞光たるを信ぜぬに、勝軍が、予も昔汝の如く疑うたが、實際見た上は疑ふに及ばぢや無いかと樣々諭したなど、隨分怪しいことで、ビールの慈恩傳英譯に此處を註して、其頃印度既に斯(かか)る信敎上の詐騙(だまし)行はれたを此文で知り得ると有るが、氏が件(くだん)の續高僧傳の文を見たなら一層其然るを知り得た筈だ。此玄奘はルナンが言つた通り、佛を奉ずる事篤(あつ)き餘り奇瑞神異な事は味噌も糞も信じた人なるに、猶舍利光を目擊しながら其を火で無いかと疑うた由、後年道宣に話した所から推すに、此光は大仕掛の人工で出したものに相違ない。

[やぶちゃん注:「ビールの慈恩傳英譯」イギリスの東洋学者で、最初に初期仏教の記録類を中国語から直接翻訳したサムエル・ビール(Samuel Beal 一八二五年~一八八九年)。よく判らないが、死後の一九一一年刊の“The Life of Hiuen-Tsiang”(「玄奘の生涯」)辺りに含まれるか。「Internet archive」のこちらに一九一四年版があるが、流石に探す気にはならない。悪しからず。

「ルナン」フランスの宗教史家ジョゼフ・エルネスト・ルナン(Joseph Ernest Renan 一八二三年~一八九二年)。近代合理主義的な観点によって書かれたイエス・キリストの伝記「イエス伝」(Vie de Jésus:一八六三年)の著者として知られる。]

 

 エルサレムの聖墓に、每年聖土曜日〔ホリー・サターデー〕(三月下旬にあり)天より神火降り、詣衆(けいしゆう)押合(おしあ)うて大混雜中に其火を移し點じ、持歸つて舊火を更(あらた)む。其時一番に新火を移し點した者を大吉と羨む事、備前西大寺の會式(ゑしき)の如く、此火點した蠟燭の蠟で十字を畫いた經帷子を著せて死人を埋(うづ)むれば、樂土に往く事受合(うけあひ)也と云ひ、其他種々の吉祥ありとす(一八四三年ブライトン板ピエトロ、デラ、ヴァレ紀行〔ヴヰアツジ〕一卷二九五頁)。此夜信心の輩、夫妻打連れて聖墓を取廻(とりまはら)せる圓堂〔ロトンド〕に集り秘密の事を行ひ、斯(かく)て孕む所の子心身完全なりと信ず。翌朝其迹を見るに、口筆述難(のべがた)き體(てい)たらくだ(ゴダール埃及巴列斯丁〔エジプト・エ・パレスチン〕、一八六七年板、三八七頁)。ピエトロ此式を見た時既心有る者は、昔は眞の天火が降つたが當世のは人作だと云つた。然るに、近時に至る迄僧輩依然其人作に非(あらざ)るを主張し、當日法主〔パトリアーク〕、脫衣露頭跣足して身に一物を仕掛けざるを示し、單衣墓に入つて神火忽ち出づ。其體(そのてい)手品師の箱改めに異ならず、ある說に、墓内の秘部に數百年點し續けた晶燈〔ランプ〕あり、法主其から聖火を拵へ出すと。又云ふ、何の事は無い、マツチを藏(かく)し置いて火を作るのだと。希臘敎で此式を廢すると、聖週七日〔ホリー・ウヰーク〕にエルサレムへ巡禮する最富の徒の半分が來なくなり土地衰微すべしと一八七五年板バートン夫人の西里亞巴列斯丁並聖地内情〔ゼ・インナ・ライフ・オヴ・サイリア・パレスチナ・エンド・ゼ・ホリーランド〕卷二、頁一一〇に說き居る。

[やぶちゃん注:「備前西大寺」「日本三大奇祭」の一つともされる「会陽(えよう)」=「裸祭り」で知られる岡山県岡山市東区西大寺にある真言宗金陵山西大寺(さいだいじ:グーグル・マップ・データ)。

「一八四三年ブライトン板ピエトロ、デラ、ヴァレ紀行〔ヴヰアツジ〕一卷二九五頁」『「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (4)』の私の注の冒頭にある「‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843」を参照されたい。

「ゴダール埃及巴列斯丁〔エジプト・エ・パレスチン〕、一八六七年板、三八七頁」、フランスの医師・人類学者であったエルネスト・ゴダール(Ernest Godard 一八二六年~一八六二年)の一八六七年発表の“Egypte et Palestine; observations médicales et scientifiques.”(「エジプトとパレスチナ――医学的・科学的観察」)「Internet archive」で同年版の原本が視認出来る。ここ。]

 

 本論斯(か)う長く成(なつ)て南方先生も三升五合ばかり欲しく成り、讀者諸君も倦(う)んで來たゞらうから、中入りに實曆の椿譚(ちんたん)を述べんに、予が現に此文を草する所は學問に最も適した閑靜な地所の隅の炭部屋だが、其橫町は夜分至(いたつ)て淋しく、數年前まで特種民[やぶちゃん注:差別用語なので批判的に読まれたい。]が芝居見に往つた還りがけに、勿體無くも予が人天を化度(けど)せんと寂想に耽りおる壁一つ隔てゝ、行き掛の駄賃に大便を垂れ置く事每度なれば、人呼んで糞橫町と做(な)す。然るに一夏連夜餘り暑さに丸裸に成つて庭に立ち天文を察し居ると、壁外に芝居歸りの特種殿原(とのばら)喧々喃々(けんけんなんなん)するを妻が怪んで立聽(たちぎ)くと、町を隔てた鄰家の庭に密生した「まさき」の大木の上に、幽靈と兼て古くより噂有る火の玉が出て居ると云ふのだ。不審甚しくて、其輩立ち去(さつ)た後、妻を彼輩の蹟に立たせ色々試し見ると、「何のこつちや阿呆らしい、火の玉で無(の)うて睾丸でんす」と田邊詞で吐(ぬか)すから、子細を聞くと顯微鏡を夜見るとてランプの周邊を闇くし、一方に喇叭のような紙筒をあてた口から光が强く彼(かの)「まさき」の上の方に向ひ出(いで)た。燈(ひ)と木との間に予が裸で立(たつ)て天文を考へおる股と陰囊の影が彼(か)の樹の枝葉間に髣髴と映つたが幽靈の正體で、佐靑有公〔さをなるきみ〕の提燈たる人魂と擬(まが)ひしは、先尅(せんこく)降つた雨の餘滴が此方の光を反射するのと判つたので、予も陰囊の序(ついで)に龍燈で無くつて龍をも出して映さうかと苦笑した事だつた。其から氣が付(つい)て種々自宅で試驗の末、樹の位置葉の性質に隨つて、尋常のランプや蠟燭の火でも一寸(ちよつと)龍燈樣(やう)の物を出(で)かし得(え)、其が餘り近づくと見えず適宜に遠ざかるとよく見えるを知つた。上にワーナーの著や三寶感通錄二から引いた妖男巫〔アフヰチ〕の火や簡州の神燈が、遠方から見ゆるに近方から見えぬと有るも似たことで、何に致せ暇(いとま)少ない吾輩さへ、不慮に陰囊の影から此だけの發明をした位故、俗信を起し固むる方便に永代苦辛した佛僧中には、種々の機巧(からくり)や材料もて龍燈舍利光佛光を現出しり、又ヨングハズバンドが覩(み)た燈巖〔ランプ・ロツク〕如き天然に異光を發する場所を見出(みいだ)した者少なく無かつたと知らる。

[やぶちゃん注:南方熊楠自身が知らぬうちに現出させた「金玉龍燈」という、この実話、まことに面白い。「龍燈」の思いもしなかった光学実験の契機が彼の睾丸だったというのは、実に臭ってくるほどにリアルなものである。文字通りの「チンたん」でげすな! 熊楠先生! なお、最終一文の「見出」は底本では「現出」(左ページ二行目)であるが、これは文脈を検討して「選集」の方を採用した。

 なお、以下の段落は、底本では全体が一字下げである。]

 

 序に言ふ。昔波斯〔ペルシヤ〕のケルマン州の汗(ハン)が、拜火敎徒〔ガウル〕の尊奉する聖火堂に押し入つて、其聖火を見るに尋常の火だつたので、惡言して其火に唾を吐くと、火が穢(けがれ)を怒つて白鳩と化(な)つて飛び去つたので、僧共不信の汗に聖火を覩(み)せたのを悔過し、信徒と共に祈禱し又大施行をすると、白鳩復(かへ)り來つて再び聖火と現じた(タヴエルニエー汝斯紀行〔ヴオヤージユ・ド・ペルス〕)、一六七六年板四三九頁)。尾芝君が越後野志より引かれた、八海山頂の神に山麓で捧げた火が飛び行く話に似た事で、火が心有つて自ら飛び行くのか、神が靈驗以て火を動かすのか、孰れにしても全く虛構の言か、多少斯(こ)の樣な自然現象有るか、見る人一同精神錯誤に陷つたのか、又は何かの設備(こしらへ)で斯(かか)る手品を現ずる法が有つたか、四つの一つを出でじ。

[やぶちゃん注:「タヴエルニエー汝斯紀行〔ヴオヤージユ・ド・ペルス〕」フランスの宝石商人にして旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)は、一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。以上は、“Voyages de Perse”となるが、彼の“Les six voyages de Jean-Baptiste Tavernier”の中のペルシャ部分か。「Internet archive」には、英訳版の「Travels through Turkey to Persia」というのがある

「尾芝君が越後野志より引かれた、八海山頂の神に山麓で捧げた火が飛び行く話」『尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」』を参照されたい。]

 

 上に出した眼目山〔さつかさん〕の山燈龍燈は每七月十三夜、九世戶の天燈龍燈は正五九月と每月の十六夜、三學山寺の神燈は大齋(たいさい)の夜多く出で、玄奘が目擊した菩提寺の舍利光は印度の大晦日(支那の上元の日)、エルサレムの神火は聖土曜日〔ホリー・サターデー〕と云ふ風に、出る時が定(きまつ)ており(尾芝君の文、二〇七頁參照)、續高僧傳二六に、五臺山南佛光山寺の佛光は華彩甚盛、至夏大發、昱人眼目《華彩、甚だ盛んにして、夏に至りて大いに發し、人の眼目に昱(あきら)かなり。》とある。天主敎のシメオン尊者は紀元四六二年に六十九で圓寂したが、四十七年の長い間高さ五十四呎〔フイート〕の柱の尖に徑三呎の臺を造り、其上で行ひ澄(すま)した難有い聖人ぢやつたと有るが、あのそれ川柳とやらに「大佛の××の長さは書落(かきおと)し」の格で、大小便をどう始末したと肝心の事を傳へて居無い。或人終日(ひねもす)視察すると右の柱上臺で朝から暮迄額を踵(きびす)に加へて跪拜千二百四十回したが、南方先生同前無類の女嫌ひで、若い時遁世してから一向會(あは)なんだ老母が、命の有る内に一度會はんと來たのを會はずに卻〔かへ〕した一方に、入らぬ處へ大悲を垂れて、曾て瘡(かさ)を生じた中に蛆生じたのを大切に養育し、蛆が蚑落〔はひお〕ちたのを飯運びに來た弟子して瘡中へ拾入(ひろひい)れさせたとは不屆きな聖人ぢや。その永年苦行した一柱觀は今に安息城近傍に存し、難有屋連(ありがたやれん)これを渴仰するが、每年正月五日其柱上に一大星輝くを見ると云ふ(一八二二年板、コラン、ド、プランチーの遺寶靈像評彙〔ヂクシヨネール・クリチク・デー・レリク・エ・デー・イマージ・ミラクロース〕三卷八九-九〇頁)。

[やぶちゃん注:「尾芝君の文、二〇七頁參照」『尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」』の第五段落「此推測の果して當つて居るか否かを確かめる爲には、第一に龍燈出現の期日の有無を調べて見ねばならぬ。」で始まる部分であろう。

「シメオン尊者」最初の登塔者(正教会で塔に登る苦行を行う修道士のこと)聖シメオン。詳しくは、ウィキの「登塔者シメオンを見られたいが、現行では永眠は四五九年七月二十四日とする。

「五十四呎〔フィート〕」約十六・五メートル。

「三呎」約九十一センチメートル。

「大佛の××の長さは書落(かきおと)し」の伏字は文脈からすれば、「くそ」か。私なら「まら」としたくなるが。

「一柱觀」原本に当たれないので、不詳。

「安息城」同前。

「一八二二年板、コラン、ド、プランチーの遺寶靈像評彙(ヂクシヨネール・クリチク・デー・レリク・エ・デー・イマージ・ミラクロース)三卷八九-九〇頁」コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。詳しくは当該ウィキを見られたいが、掲げられたものは“Dictionnaire critique des reliques et des images miraculeuses”(「遺物と奇跡のイメージに関する評論的辞書」一八二一年刊)。]

 

 嬉遊笑覽十云く、隴蜀餘聞、蜀金堂縣三學山、有古樹三四株、不記年代、每春月、其葉夜輙有光、似炬、遠近數百里、以爲佛、裹粮往覽《「隴蜀餘聞」に、蜀の金堂縣の三學山に、古樹三、四株有り、年代を記(しる)さず。春月每(ごと)に、其の葉に、夜、輙(すなは)ち、光、有り、炬(たいまつ)に似たり。遠近數百里、以つて佛光と爲(な)し、糧(かて)を裹(つつ)んで往きて此れを觀る。》春に限つて光つたのは生理又病理學上說明し得べしと想ふ。吾邦では山茶〔つばき〕の朽幹(くちき)が夜光を放つ事他の朽木より多い。予幼時和歌山城近く山茶屋敷とて天方(あまがた)ちふ侍の邸あり。何故か年中戶を閉めず、夜分人通れば天狗高笑するとて其邊行く人稀だつた。熊野には山茶の木の槌(つち)は怪〔ばけ〕るとて今に製(つく)らぬ所あり。その理由は前日來訪せられたスヰングル氏が、本年八月上旬桑港(サンフランシスコ)で催す米國科學奬勵會で代讀さるる予の論文で公けにする筈だが、嬉遊笑覽に云へる通り、朽木が光を發する事も山茶を怪木と云ふ理由の一つに相違ない。

   (大正四年十月鄕硏第三卷八號)

[やぶちゃん注:最後のクレジット附初出は最終行の下方にインデントされているが、ブラウザの不具合を考えて改行し、引き上げた。

「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。この部分には困らされた。まず、「選集」はこの巻数を底本の「十一」を『一〇』に修正している。当該部を所持する岩波文庫版第五巻(長谷川強他校注・二〇〇九年刊・新字)で調べたところ、「巻十下目録」で「夜光木(ヒカリギ)」とあるので、ここにあるに違いないと、当該部を見たところ、ところがどっこい、ない。三度、「巻十」を縦覧したが、ない。しかし、ここになければおかしいと思い、「或いは、底本が違うかも?」と、国立国会図書館デジタルコレクションにある昭和七 (一九三二)年(五版)成光館出版部刊の当該部を視認したところ、あった! 左ページの二行目である。一部、読点がおかしいが、これだ! しかも漢文ベタの後に『此は』、『つはき』(椿)『の光る類とみゆ』という解釈も添えられている。

「隴蜀餘聞」清の王士禛撰。全一巻。隴・蜀の地誌。原影印本を「中國哲學書電子化計劃」のこちらで確認出来る。

「スヰングル氏」アメリカ合衆国の農学者・植物学者ウォルター・テニソン・スウィングル(Walter Tennyson Swingle 一八七一年~一九五二年)。アメリカ農務省などで働き、柑橘類・果樹の品種改良・柑橘類の分類学研究などで知られる。詳しく(もないが)は当該ウィキを参照されたいが、所持する「南方熊楠を知る事典」(松居竜五・月川和雄・中瀬喜陽・桐本東太編/一九九三年四月講談社現代新書刊)の人名解説での松居氏の記載を引用する。

   《引用開始》

米国の農業植物学者。農務省に勤務していた。一九〇六年、南方熊楠に手紙を送り、ジャクソンヴィルで採集した菌類を送ってほしいと求めた。その後、文通による付き合いが続き、一九〇九年[やぶちゃん注:明治四十二年。]には渡米を要請している。当初、熊楠はこの要請にかなり乗り気であったようだが、結局、家族の事情により断念した。だが、この時の渡米要請の一件が新聞で報道され、熊楠が国内で名声を得るきっかけとなった。スウィングルはまた、熊楠に中国から日本への植物移入の歴史について書くように勧めたりもしている。一九一五年[やぶちゃん注:大正四年。]に来日した折りは、田辺に熊楠を訪ね、数日ともに周辺を遊び、この時、再び渡米の要請をしたが熊楠は断わった。

   《引用終了》

「予の論文」不詳。何で光るのかだけでも知りたいな……。]

2022/04/12

尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」

 

[やぶちゃん注:本篇は大正四(一九一五)年六月発行の『鄕土硏究』に尾芝古樟(こしょう)の変名で柳田國男が発表した論文である。尾芝は柳田國男の母の実家の姓である。柳田國男の談話「故郷七十年」(「青空文庫」のこちらで読める)の「匿名のこと」に、『私の匿名の一つに尾芝古樟(こしょう)というのがある。これは北条の母の実家の姓と、同家にあった古い樟くすの老樹にあやかったものである。』と記しているが、思うに、この当時、彼は貴族院書記官長となっていたから、官職を憚ってのことであろうと推定する。後の昭和二八(一九五三)年実業之日本社から刊行された「柳田國男先生著作集 第十二册」に「神樹篇」と総題する中の一篇として再録されている(戦後の刊行物であるが、正字正仮名表記である)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションにある、その「柳田國男先生著作集 第十二册」の当該論文に拠った。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は「定本柳田國男集 第十一卷(新装版)」(一九六九年筑摩書房刊))を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本電子化は、現在、ブログ・カテゴリ「南方熊楠」で進行中の、南方熊楠の論文「龍燈に就て」で取り上げられていることから、急遽、電子化することとした。そちらが私のメイン作業であるからして、時間をかけたくないので、一部気になる箇所以外は注をしない。傍点「﹅」は太字に代えた。典籍注記の( )等はポイント落ちであるが、同ポイントとした。]

 

      龍 燈 松 傳 說

 

 盆の燈籠は、やはり柱松の行事と系統起原を同じくするものであらう。角な切籠(きりこ)が廢れて、圓い岐阜提燈(ぎふちやうちん)が多く行はれると共に、今では軒に吊(つる)すのが盆燈籠の常の習のやうになつて居るが、昔は是も高い柱の上に揭げたものであつた。明月記寬喜二年[やぶちゃん注:一二三〇年。]七月十四日の條に、長竿の末に紙を張つて灯樓(とうろう)を附けて立つる風、次第に流行すると云ふ記事は、松屋筆記其他の隨筆類に引用せられて既に有名である。而も鬼貫(おにつら)の發句で世に知られた攝州伊丹(いたみ)の高燈籠の類は、近世になつても決して珍しい例では無かつた。例へば百年前の秋田の風俗答書にも、七月には三丈四丈の伸良(のびよ)き丸太を立て、其尖(さき)に燈籠を揚げることを述べ、新佛(しんぼとけ)ある家で三年目まで、其後は七年十三年と年回每に立てるもあれば、年々立てる家もある。七月は朔日に始つて晦日に至る。大抵一町内に三四箇所は必ず立つ故に、高い處より望めば星の林のやうだと言つて居る。柱の構造としては、尖端に近く橫木を結ひ附けて、三角に繩を張り幣(しで)を切掛け、三角の角ごとに杉又は笹の葉を附け、燈籠は其橫木に吊るすのだとあつて精密な揷畫があるが、山中笑翁が明治二十年の七月三十日に、相模平塚の附近を通行して、目擊せられたと云ふ農家の高燈籠の見取圖が、不思議なほどそれとよく似て居る(共古日錄十九)。卽ち此も亦繩と橫木を以て三角形を作つて兩端に杉の葉を附け、燈籠は其下に吊したものである。而して以前江戶市中に於て立てたと云ふものも亦殆と[やぶちゃん注:「ほとほと」「ほとんど」はこれが塩転訛したもの。]同樣であつた。昔々物語に、「昔は御旗本衆死去し其年七月高燈籠と云ふ物を立る云々。大方七回忌まで每年立るもあり、七八間ばかりの杉丸太の上に三角に甍(いらか)結(ゆ)ひ、杉の葉にて包みしでを切りて附け、燈籠は辻番の行燈なりに、上へ開き下つぼませ、屋根は板にて拵らへ、玄關と臺所との間の廣き所に立つ。七月朔日より晦日まで每夜暮六つより明六つまでとぼす。一向宗にては見ず、他宗は皆々此の如し、見分哀に見ゆるなり云々」。今から略々二百年前の事を述べたもので後は絕えたやうに見えるが、必ずしもさうでなかつた證は十方菴の遊歷雜記初篇にある。卽ち靑山百人町に住する與力同心などの組屋敷では、それから尙百年の後まで七月中此柱を立てゝ燈籠を點(とぼ)し、之をば星燈籠と呼んで居た。家々柱の高きを競ふ故に遠くから見えて壯麗であつた。是は八代將軍目黑御成の歸途に此光景を賞せられ、一統の者に銀を下された。それより愈古例となつて永く殘つたと云ふ。之を以て推測すると、少なくも市中に於て揚燈籠の風が衰へたのは、經費が次第に多くかゝつて、箇人の所作に適しなくなつた爲であるかと思ふ。

 盆の聖靈祭(しやうりやうまつり)が家々別々の祭となつたのは、さして古い時代の事で無かつたらしい。所謂三界萬靈(さんがいばんりやう)の中から、各自有緣の亡者を持分けて供養することになると、柱松の設備は成ほど些し大規模に過ぎるやうである。木材も人手も有餘る片田舍で無ければ、冨豪大身の他は、其入費の負擔に堪へなかつた筈である。是に於てか或地方では、此點ばかりを永く部落の共同事業として、個人主義の新念佛道との不調和を來し、他の地方では之に代ふるに門火(かどび)や軒提灯の略式を以てし、何れも次第に柱祭(はしらまつり)の古い思想から、遠ざかるに至つたものであらう。然るに茲に一つ、偶然にも都合のよかつたことは、所謂檀那寺の仲介と調和とである。御寺は個々の檀家の信仰上の代表者として、祖師檀の片脇などに、家々から多數の位牌を預つて置いて供養すると同じく、個人の獨力では實行し難いこの柱祭の任務を、一手に請負うて勤めたものらしい。是は單に盆の柱祭のみでは無かつた。葬式の跡始末でも、春秋の彼岸の施餓鬼(せがき)でも、何れも個人が父祖を追慕するの情を傷ふ[やぶちゃん注:「そこなふ」。]ことなしに、昔の厲鬼[やぶちゃん注:「れいき」と読む。流行病などを起こさせる悪神、厄病神のこと。]驅逐の術を完成し得た故に、常に村の爲に有用であつたのである。此號に阿波の遠藤君が報ぜられた眞言寺の招き旗なども、現に陸中遠野鄕の村々では、今なほ新盆の家では家々に於て之を建てること、恰も他の地方の五月幟と同じやうである(遠野物語序[やぶちゃん注:私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版)始動 序・目次・一~八 遠野地誌・異形の山人・サムトの婆』の柳田の序を参照されたい。])。西京では大和大路四條の東南の角に、眼疾地藏(めやみぢざう)を以て有名な仲源寺の如き、每歲盆には門前に揚燈籠(あげとうろう)を燃した。山州名跡志には其由來を說明して、此邊は慶安の頃まで農村であつて、此寺が恰も村の總堂(墓所?)であつた爲に、此種の遺風が存するのだと云つて居るが、それだけでは寺が其任務を引受けた理由が充分明白で無い。必ず別に個人にも部落にも之を繼續し得なかつた事情のあるものと認めねばならぬ。尤も寺院の境内に高い柱を建てることが、新たに柱祭の委託を受けた時に始つたか、はた又朝鮮の刹柱[やぶちゃん注:「さつちゆう」は仏塔の中心にある柱を言う。]などの如く寺には古くより柱を立てる風があつて、其爲に村の總代として此儀式を行ふに好都合であつたのかは、決して容易に決し得べき問題では無いが、兎に角次に言はんとする諸國の龍燈松(りうとうまつ)の傳說、多分は其傳說が意味するらしい寺々の高燈籠は、御靈會(ごりやうえ[やぶちゃん注:「え」はママ。])卽ち集合的聖靈送りの衰微、竝に之に伴つて盛になつた佛敎の個人主義と、深い因緣のあるものに違ひない。

 柱松と高燈籠と、假令同じく中元の習俗であつたにしても、一方は騷々しい破壞的事業で他の一方は美觀を專とする靜かな行事であれば、或は二者を一括して論ずるのを不當と考へる人があるかも知れぬ。此は自分の說の出發點だから確かにして置くが、其非難は恐らくは蠟燭の普及せず燈蓋(とうがい)の工夫せられなんだ時代を想像したら、容易に消滅するだらうと思ふ。語を換へて申せば、二種の柱の火の相異は、單に篝火(かゞりび)と軒行燈(のきあんどう)、又は松明と提灯との差別である。簡便に高い處で火を燃して置く方法が無いから、大袈裟な傘や酸漿を造つた迄である。其目的は生きた人間に對するものから類推しても知らるゝ如く、暗夜の道しるべに他ならぬので、此用途に向つて時代相應の人の智慧を働かせたのである。此說明は尙進んで柱と天然の樹木との關係にも適用し得られる。高燈籠の頂點に杉の葉を附ける風は、柱の材木が杉丸太であることゝ考へ合すべきものであらう。卽ち柱は單に高い處へ燈火を達せしむる手段であつて、天然の喬木があれば之を用ゐたのが本意であらう。此點は折口君も既に言はれたから詳しくは論ぜぬが、我邦の神木崇敬を批評する人たちには、是非とも一顧を煩はすべき事柄である。

 諸國に數多くもてはやさるゝ龍燈(りうとう)松、又は龍燈の杉の傳說が、槪ね大社舊寺の緣起と終始して居るのは注意すべきことゝ思ふ。全體緣起と名の附いた昔話には型に嵌(はま)つたものが多く、殊に漢文を以て書かれたものに至つては、殆と一步も元亨釋書の外へ蹈出さぬのが通例であるが、それにしても本尊の靈驗乃至は開祖の道力と、必ずしも適切な關係が無いのに此松此杉が無ければ寺門の格式を墮しでもするかの如く、競うて一本の名木(めいぼく)を稱讃するのは、單純なる流行とは認めにくいやうである。蓋し龍燈と云ふ漢語はもと水邊の怪火を意味して居る。日本でならば筑紫の不知火(しらぬひ)河内の姥が火等に該當する。時あつて高く喬木の梢の邊を行くなどは、怪火としては固より怪しむに足らぬが、常に一定の松杉の上に懸ると云ふに至つては、則ち日本化したる龍燈である。察する所五山の學僧などが試に龍燈の字を捻し[やぶちゃん注:「ねんし」ひねくりいじって。]來つて此燈の名としたのが最初で、龍神が燈を獻じたと云ふ今日普通の口碑は、却つて其後に發生したものであらう。各地の山の名に燈籠塚山(とうろうづかやま)、又地名として燈籠木などと云ふのがあるが、龍燈松の昔の俗稱は多分それであらうと思ふ。

 此推測の果して當つて居るか否かを確かめる爲には、第一に龍燈出現の期日の有無を調べて見ねばならぬ。尤も人が龍燈と云ふ物の中にも、夏秋の交[やぶちゃん注:「かはり」と訓じておく。]大小多數の火が螢などの如く水邊より出て四方を飛んであるくと云ふのがある。近刊の入間郡誌に八十歲の老人之を記憶すと云ふ同郡小畔川(をぐろがは)の龍燈、長久保赤水の東奧紀行等に記した磐城四倉(いはきよつくら)の龍燈、さては越後野志卷十四に龍燈天燈と題して各地に多くありと云ふものなどはそれである。佐渡の根本寺に於て或浪人が弓を以て射留めた龍燈は、實は大なる鷺であつた(松屋筆記七十八所引、佐渡奇談)。此等は龍燈と云ふ漢語の本の意味に合致するもので、不思議は不思議ながら要するに一種の天然現象である。之に反して每年特定の一夜又は數夜、特定の木の上に來て懸ると云ふ龍燈に至つては、卽ち人間界の不思議と言はねばならぬ。近い例から擧げると、江戸名所記には東郊木下川(きねがは)淨光寺の藥師、每月八日と元三(ぐわんさん)の朝と、本尊の前に龍燈揚ると云ひ、別に木下川藥師緣起の一篇があつて、嘉曆二年[やぶちゃん注:一三二七年。]といふ靑龍出現の瑞相が重くるしく說立[やぶちゃん注:「ときたて」。]てゝある(柳庵隨筆九)。下總印旛沼附近の天竺山龍角寺の龍神社では、每月朔日十五日二十八日の三度、燈火此沼の百丈穴より飛上つて社頭に懸つたと云ふは(相馬日記)あまりに律義な龍燈である。常陸筑波山の龍燈は五月の晦日の晚揚り、其月小なるときは二十九日に揚つた(一話一言補遺)。此等は皆龍神の手元に其年の曆が無い限りは一寸守り難い約束であり、新曆の今日はどうなつたか聞きたい。此類の期日の中でかの柱松の行事を思合さしむるものは七月と十二月の龍燈である。阿波那賀郡見能林(みのはやし)村の津峯權現と、同郡加茂谷村舍身山大龍寺との兩所は、何れも除夜の晚に山の頂上へ龍燈が上つた(阿州奇事雜話一)。大龍寺には龍燈杉と云ふ山中第一の名木があつたのを、大佛殿建立の爲に豐太閤の時に伐つたと言へば、今では其龍燈も昔話であらう。能登鳳至(ふげし)郡穴水鄕(あなみづがう)に鎭座する最勝森住吉神社は、一名を龍燈社とも呼ばれた。每年十二月晦日の夜、龍燈の奇事があつた故に此名がある(能登國式内等舊社記)。龍燈の奇事とは奇現象か、はた奇習俗か、社傳にも之を詳かにせぬと見える。更に七月の例を言ふと、紀州で有名な紀三井寺(きみゐでら)では、爲光上人[やぶちゃん注:「ゐくわうしやうにん」。]大般若書寫の功成らんとするとき龍女化現の奇異があつた。其時の約により每年七月九日の夜、本堂の艮(うしとら)五町ばかり千手谷(せんじゆだに)の松間に龍燈が現はれたと云ふ(續風土記十五)。此等の高燈籠は果して龍族の寄進するものと當初から信ぜられて居たのか、或は單に昔あの邊に燈籠が揚つたと云ふだけの言傳へに、斯る荒唐なる說明を附したものか。勿論此だけの材料では決し兼ねるが、特に一定の日を期して此事のあつたと云ふ話は、自分の如く解釋するのが、自然では無いかと思ふ。越後南魚沼郡八海山(はつかいざん)の頂上には八海明神の社がある。麓の里に住む人々は每年七月晦日の夜は登山參拜して一宿する習であるが、此夜山から麓の方を下し臨めば、數十の火が燈の如く連り聯綿として山中に飛來るを見る。土人は之を八海明神を遙拜する山下諸邑の人の捧ぐる燈が自ら飛來るのだと信じ、因つて其夜は諸村の者も戶每に燈燭を捧げて八海山を遙拜する。飛火に大小があるのは捧げる燈の大小に由ると云つて、各人燭の大なるを競うたと云ふことである(越後野志)。此話も亦寺々の龍燈と同じく、何れの點までが神祕で何れの點迄が實際生活であるかを區分し難いが、此夜が恰も神を送るの季節であつたことを考合せると、信仰ある者の夜目の迷ひにも若干の因由が無かつたとは言はれぬ。

 之を要するに自分の解する龍燈松は、天然の樹木を利用した柱松の故跡である。而も此が又柱松の本然の形式であつた。但し人が喬木の梢に燈火を揭げたと云ふ例證は不幸にしてまだ見出さぬが、略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]其光景を伺はしむべき昔話も亦殘つて居る。例へば美作久米郡稻岡北庄(きたのしやう)の櫔社山(とちこそさん)誕生寺は、法然上人誕生の舊地である。寺の東南五十町ばかりの地にある龍燈松は、一名を篝松(かゞりまつ)と謂ふ。弘治年間[やぶちゃん注:戦国時代の一五五五年から一五五八年まで。室町幕府将軍は足利義輝。]のことであるが、此松の邊に神燈屢現れた。住持玉興なる者夜々來つて經を誦し居ると、一夕恍然として故上人が此樹上に現ずるを見た。彌陀の名號を唱ふること十餘遍、玉興拜して之に和す。少時にして冉々として天に昇る。後人時々異光を見る者多かりしより、此木を龍燈松と名づけたと云ふ(作陽誌)。此話は前に揭げた平家物語の一說とすこぶる似て居る上に、篝松の名は其火の曾ては篝であつたことを思はせる。備後深安郡の深津と云ふ所に燈明松(とうみやうまつ)と稱する古木が今もある。福山侯入部の當時埋立新田を拓いて鹽崎明神を祀り、松は其時其社の傍に栽ゑた木である。世人此樹の下に燈明を點し八百萬の神を祀りしより、燈明松の名が出來たと云ふ(大日本老樹名木誌)。樹下と云ふことは果して誤聞で無いだらうか。尙彼地の人に訂したいと思ふ。瀨戸内海の埋立地には往々にして龍燈木の話がある。水に近いから龍神の緣が深いと見ればそれ迄であるが、何か別に此類の開作に住む者に、永く柱松風の祭典を營むべき特殊の事情があつたのでは無からうか。殊に八百萬を祀るとあつて、鹽崎明神を祭ると言はぬのは意味があるやうに思ふ。

 柱の天然の樹木との關係を說いたついでに、一つ最近の見聞を附記して置かう。此まで汽車で東海道線を通るたびに心附いて居たのであるが、美濃の西部大垣驛の前後に二三ケ所、高い松の梢上に赤色の旗を立てた村がある。もとは天氣豫報の標幟であらうと思つて居たが、今度の旅で此地方出身の今西龍君に聞いて見ると、全く一種信仰上の物であるらしい。今西氏は曰く、自分は美濃でばかりすることゝは今まで心附かなんだ。日淸戰爭の頃にふと何れかの村でやり始め、追々に之に倣ふ者が出來た。村の中でも最も高い木を擇び、非常な骨折を以て攀ぢ登り、あの赤い旗を頂邊の枝に結はへ附けて來るので、もとは戰捷祈念の意味を以てしたものらしいと。此習慣はどう考へても突如として起るべきもので無い。從前樹木に旗を立てゝ祈念する風があつたのか。或は又柱に旗を附けて立てる風のみあつて、高きを競ふ極[やぶちゃん注:「きはみ」。]、此の如き樹梢を利用することになつたのか。赤色は何を意味するか。何れも更に揖斐地方の人に尋ねたいものである。柱の燈と柱の旗とは、至つて密接な關係を有して居るかと思ふ。夜の祭の柱松に對して、我々は尙晝の祭の旗鉾(はたほこ)を、講究して見なければならぬのである。

     (大正四年六月、鄕土硏究三卷四號)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧のクレジット・初出は底本では最終行の下インデントであるが、ブラウザの不具合を考慮して、改行し、上方に引き上げた。]

「泉鏡花 (遺稿) 正規表現版 オリジナル注附」PDF縦書版 公開

「泉鏡花 (遺稿) 正規表現版 オリジナル注附」PDF縦書版「心朽窩旧館」に公開した。

泉鏡花 (遺稿) 正規表現版 オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:本篇の発見の経緯は冒頭にある水上瀧太郞氏(彼の著作は既にパブリック・ドメインである)の附記に詳しいが、泉鏡花の没後(昭和一四(一九三九)年九月七日に癌性肺腫瘍のため亡くなった)、未亡人のすずさんが家内より発見されたもので、無題の草稿原稿である。所持する岩波書店刊「鏡花全集」(一九七八年初版の一九八九年二刷)の「別卷」の村松定孝氏の「作品解題」によれば、昭和一四(一九三九)年十一月発行の『文藝春秋』に「遺稿」として発表された。村松氏によれば、以下の水上氏の附記の通り、『執筆された時期は定かではないが、水上は昭和十四年の初頭に超稿されたものと推定している。「薄紅梅」』(昭和十二年一月五日から三月二十五日まで『東京日日新聞』に連載)『や「「縷紅新草」』(るこうしんさう:昭和十四年七月発行の『中央公論』に発表)『の主人公と同名の辻町糸七が登場し、赤蜻蛉の飛翔する光景は「縷紅新草」と共通しているが、内容は右作とは關連はない。また筋の展開はなく、未完の作である。月報25に掲載に掲載の檜谷照彦「鏡花自筆原稿目錄について」に、本作の原稿についての考察が述べられていて、推敲のあとが比較的少い草稿としての硏究上意義のあることを指摘している』とある。

 底本は上記全集の「卷廿四」を用いた。但し、「青空文庫」に二〇〇三年九月三日に公開された同篇の電子データ(入力・門田裕志氏/校正・多羅尾伴内)があるので、そのテキスト・ファイル(こちらの下段からダウン・ロード出来る)を加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。因みに、「青空文庫」版のそれは「旧字・旧仮名」と名打ってはいるのであるが、「青空文庫」の規定の文字コード制約があるため、原本との表記の違いが有意にあり、とても正規表現とは私には言えないものにしか見えないのである。それこそ特に鏡花が見たら、慄然とするであろう代物である。それほど、正規表現にこそ、鏡花の夢幻性は十二分に発揮されるからである。そのため、私は私が示し得るより原本に近い電子データの作成を目指したものである。また、数ある鏡花作品の中で、特に本篇をここで選んだ理由であるが、これは、現在、私が電子化注をブログ・カテゴリ「南方熊楠」で進行中の、南方熊楠「龍燈の就て」の、その「二」の冒頭部分が、実は、この「(遺稿)」の中に出現するからなのである。私は大の鏡花好きであるが、総ルビ作品の多い鏡花の作品の電子化は通常のルビを打ち難いブログでは気が引けていた。しかし、この事実と対峙するに、自分で鏡花作品を電子化をする決心がついたのである。なお、実は、幸いにして、この遺稿は着手初期の草稿原稿であるためか、ルビが全く振られていない。されば、PDF縦書版の他に、ブログ版も公開することとした。

 但し、私は踊り字「〱」「〲」が生理的に嫌いで(生涯、自分の書いた文書や板書で用いたことは一度もない)、ワードで縦書にして、拡大し、二字分相当にさせても、巨大な太字の「く」「ぐ」のようになって、化け鰻のごと見えて気持ち悪く目立つばかりだった(盛んに電子化物でみられる「/\」などは論外の一昨日だ)。されば、そこだけは正字化させてある。

 また、注は、若い読者のために難読かと思われる読みや意味、また、読みが振れると判断したもののみに限り、段落末に続けて附した。

 以下、冒頭の水上氏の附記(ポイント落ち)は、底本では全体が三字下げであるが、引き上げてある。]

 

 

 この無題の小說は、泉先生逝去後、机邊の篋底に、夫人の見出されしものにして、いつ頃書かれしものか、これにて完結のものか、はたまた未完結のものか、今はあきらかにする術なきものなり。昭和十四年七月號中央公論揭載の、「縷紅新草」は、先生の生前發表せられし最後のものにして、その完成に盡されし努力は既に疾を内に潜めゐたる先生の肉體をいたむる事深く、其後再び机に對はれしこと無かりしといふ。果して然らばこの無題の小說は「縷紅新草」以前のものと見るを至當とすべし。原稿は稍古びたる半紙に筆と墨をもつて書かれたり。紙の古きは大正六年はじめて萬年筆を使用されし以前に購はれしものを偶々引出して用ひられしものと覺しく、墨色は未だ新しくして此の作の近き頃のものたる事を證す。主人公の名の糸七は「縷紅新草」のそれとひとしく、點景に赤蜻蛉のあらはるゝ事も亦相似たり。「どうもかう怠けてゐてはしかたが無いから、春になつたら少し稼がうと思つてゐます。」と先生の私に語られしは昨年の暮の事なりき。恐らく此の無題の小說は今年のはじめに起稿されしものにはあらざるか。

 雜誌社としては無題を迷惑がる事察するにあまりあれど、さりとて他人がみだりに命題すべき筋合にあらざるを以て、强て其のまゝ揭出すべきことを希望せり。(水上瀧太郞附記)

 

 

 伊豆の修禪寺の奧の院は、いろは假名四十七、道しるべの石碑を畷、山の根、村口に數へて、ざつと一里餘りだと言ふ、第一のいの碑はたしか其の御寺の正面、虎溪橋に向つた石段の傍にあると思ふ……ろはと數へて道順ににのあたりが俗に釣橋釣橋と言つて、渡ると小學校がある、が、それを渡らずに右へ𢌞るとほの碑に續く、何だか大根畠から首をもたげて指示しをするやうだけれど、此のお話に一寸要があるので、頰被をはづして申して置く。[やぶちゃん注:「畷」「なはて」。「頰被」「ほほかぶり」。]

 もう溫泉場からその釣橋へ行く道の半ばからは、一方が小山の裙、左が小流を間にして、田畑に成る、橋向ふへ𢌞ると、山の裙は山の裙、田畑は田畑それなりの道續きが、大畝りして向ふに小さな土橋の見えるあたりから、自から靜かな寂しい參拜道となつて、次第に俗地を遠ざかる思ひが起るのである。[やぶちゃん注:「裙」「すそ」。「大畝り」「おほうねり」。]

 土地では弘法樣のお祭、お祭といつて居るが春秋二季の大式日、月々の命日は知らず、不斷、この奧の院は、長々と螺線をゆるく田畝の上に繞らした、處々、萱薄、草草の茂みに立つたしるべの石碑を、杖笠を棄てゝ彳んだ順禮、道しやの姿に見せる、それとても行くとも皈るともなく煢然として獨り佇むばかりで、往來の人は殆どない。[やぶちゃん注:「萱薄」「かやすすき」。「彳んだ」「たたずんだ」。「道しや」「道者」で巡礼と同義、或いは、巡礼は多く共連れがいたことから、その道連れの意ともなった。しかし、ここは前の「巡禮」と差別化されていることから考えると、行脚僧や修行者のように見える者の意か、或いは、単なる旅人を指しているのかも知れない。「皈る」「かへる」。「煢然」「けいぜん」は「孤独で淋しそうなさま」の意。]

 またそれだけに、奧の院は幽邃森嚴である。畷道を桂川の上流に辿ると、迫る處怪石巨巖の磊々たるはもとより古木大樹千年古き、楠槐の幹も根も其のまゝ大巖に化したやうなのが纍々と立聳えて、忽ち石門砦高く、無齋式、不精進の、わけては、病身たりとも、がたくり、ふらふらと道わるを自動車にふんぞつて來た奴等を、目さへ切塞いだかと驚かれる、が、慈救の橋は、易々と欄干づきで、靜に平かな境内へ、通行を許さる。[やぶちゃん注:「畷道」「なはてみち」。「磊々」「らいらい」。大きな石が積み重なるさま。「槐」「えんじゆ」。「纍々」「るゐるゐ」。「砦」「まがき」と訓じておく。籬。「無齋式」「むさいしき」と読んでおく。神仏への敬虔の念のないこと。「道わる」「道惡」。]

 下車は言ふまでもなからう。

 御堂は颯と松風よりも杉の香檜の香の淸々しい森森とした樹立の中に、靑龍の背をさながらの石段の上に玉面の獅子頭の如く築かれて、背後の大碧巖より一筋水晶の瀧が杖を鳴らして垂直に落ちて仰ぐも尊い。

 境内わきの、左手の庵室、障子を閉して、……たゞ、假に差置いたやうな庵ながら構は緣が高い、端近に三寶を二つ置いて、一つには橫綴の帳一册、一つには奉納の米袋、ぱらばらと少しこぼれて、おひねりといふのが捧げてある、眞中に硯箱が出て、朱書が添へてある。これは、俗名と戒名と、現當過去、未來、志す處の差によつて、おもひおもひに其の姓氏佛號を記すのであらう。

「お札を頂きます。」

 ――お札は、それは米袋に添へて三寶に調へてある、其のまゝでもよかつたらうが、もうやがて近い……年頭御慶の客に對する、近來流行の、式臺は惡冷く外套を脫ぐと嚔が出さうなのに御内證は煖爐のぬくもりにエヘンとも言はず、……蒔繪の名札受が出て居るのとは些と勝手が違ふやうだから――私ども夫婦と、もう一人の若い方、と云つて三十を越えた娘……分か?女房の義理の姪、娘が緣づいたさきの舅の叔母の從弟の子で面倒だけれど、姉妹分の娘だから義理の姪、どうも事實のありのまゝにいふとなると說明は止むを得ない。とに角、若いから紅氣がある、長襦袢の褄がずれると、緣が高いから草履を釣られ氣味に伸上つて、

「ごめん下さいまし。」

 すぐに返事のない處へ、小肥りだけれど氣が早いから、三寶越に、眉で覗くやうに手を伸ばして障子腰を細目に開けた。[やぶちゃん注:「惡冷く」「わるづめたく」。「嚔」「くさめ」。「些と」「ちと」。]

 山氣は翠に滴つて、詣づるものゝ袖は墨染のやうだのに、向つた背戶庭は、一杯の日あたりの、ほかほかとした裏緣の障子の開いた壁際は、留守居かと思ふ質素な老僧が、小机に對ひ、つぐなんで、うつしものか、かきものをしてござつた。[やぶちゃん注:「對ひ」「むかひ」。「つぐなんで」しゃがんで。]

「ごめん下さいまし、お札を頂きます。」

 黑い前髮、白い顏が這ふばかり低く出たのを、蛇體と眉も顰めたまはず、目金越の睫の皺が、日南にとろりと些と伸びて、

「あゝ、お札はの、御隨意にの頂かつしやつてようござるよ。」

 と膝も頭も聲も圓い。[やぶちゃん注:「蛇體」が姿を見せるかのように見えたという比喩。「日南」「ひなた」と読んでいると私はみる。例は『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 郊外』の私の注を参照されたい。]

「はい。」

 と、立直つて、襟の下へ一寸端を見せてお札を受けた、が、老僧と机ばかり圓光の裡の日だまりで、あたりは森閑した、人氣のないのに、何故か心を引かれたらしい。

「あの、あなた。」