室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「林泉雜稿」
[やぶちゃん注:底本のここ(「一 憂欝なる庭」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。]
林泉雜稿
一 憂欝なる庭
春になつてから庭を毀《こは》すことが最初の引越しの準備であるのに、一日づつ延期してゐるうちに芽生えが彼處此處に靑い頭を擡げ、一日づつ叡山苔の綠が伸びて行き、飛石のまはりに美しい綠を埋めてしまうた。樹や飛石、石手洗なども國の庭へ搬ばねばならなかつたが、芽の出揃うた鮮かさにはどうしても壞す氣にならなかつた。愛情といはうか、執着と言つたらいいのか、ともかく自分は一日づつ延期しながらも、早く庭の物の始末をつけたい氣持を苛立たした。隅の方にある離亭も取毀して送らねばならなかつたが、大工や人夫の入亂れる有樣、切角の芽先を踏みにじられることを思うて見ても、直ぐ取毀ちの仕事にかかる氣を挫かれ勝ちだつた。國の方の庭にこの離亭を移すと、國の俳人が月に一囘ある筈の運座の句會に此離亭をつかふことになつてゐた。大工等もその事で人を仲に入れて問合せて來たりしてゐるものの、氣乘りのしない幾らか悒欝になつた自分は、春雨の美しく霽(あが)つた叡山苔の鮮かさに見惚れながら、すぐ運送の手順に取懸かれさうもなかつた。
自分は茲二年ばかりの間に「庭」を考へることに、憂欝の情を取除けることができなかつた。或時は自分の生涯の行手を立塞がれるやうな氣になり、或時はさういふ考へを持つときに、何か後戾りをする暗みの交つた氣持を經驗するのだ。愛する樹樹や、石のすべてが何か煩さく頭につき纏うて、夜眠つてゐても其眠りをさまたげられるやうで不快だつた。自分は心神の安逸を願ふときには努めて草木庭園のことを考へないやうにしてゐた。自分は頭の痛む午後や、變に昂奮してゐる時などに、石や草木の幻のやうなものに取つかれ、腦に描く空想を一層手强く締めつけられて來るのだつた。夢にうなされ晝は晝で疲れ、草木や石はそれぞれに何か宿命や因緣めいた姿で纏ひつき、銳い尖つた枝枝が弱つた神經に障つてくることも珍しくなかつた。自分はかういふ境涯から離れたい爲に、つとめて自然の中に、庭庭のまはりに近寄らないようにしてゐた。
併し自分のさういふ息苦しい思ひの中でも、習慣になつてゐるのか何時の間にか庭の中に出て、樹や石を愛し弄ぶの情を制することができなかつた。頭の痛むなかに仲びて尖端を觸れて來る樹樹の姿は、一層親密な運命的な勢力を自分の肉體の中にも揮ひ、自分は傷ついた氣持で殆ど引摺られるやうな狀態で、これらの樹木や石に對ふより外はなかつた。。かういふ珍しい氣持はあり得るものであらうか。
[やぶちゃん注:「叡山苔」ヒカゲノカズラ植物門 Lycopodiophytaミズニラ綱イワヒバ目イワヒバ科 Selaginellaceaeイワヒバ属イワヒバ亜属StachygynandrumクラマゴケSelaginella remotifolia の異名。標準和名の漢字表記は「鞍馬苔」であるが、この叡山苔の他にも「愛宕苔」「瓔珞苔」の異名がある。当該ウィキによれば、『時に栽培されることがあ』り、『単体での鑑賞価値には乏しいが、土の表面を覆うのに苔を育てるのと同じ』ように扱え、『普通の苔より枝葉がはっきりしていて』、『模様のようになるところがおもしろい。栽培は難しくない』とある。但し、『近縁種に姿のよく似た種が多く、クラマゴケという名称はそれらの総称としても使われる』とあるので、本種に限定することは出来ない。類似する近縁種はリンク先を参照されたい。]
二 「童子」の庭
自分が此家に越してから八年ばかりになり、三人の愛兒を得、その一人を最初に亡くしたのも此家だつた。自分の亡兒を想ふの情は五篇の小說と一册の詩集になるまで哀切を極めたものだつたが、併し誠の愛情には未だ觸れるに遠いやうな心持だつた。自分は「童子」といふ小說の中に可憐な一人の童が、夕方打水をした門のあたりに佇んで、つくづく表札の文字を讀むあたりから書き始め、時を經て、「後の日の童子」といふ作の中には、到底何物にも較べがたい自分の每日の物思ひの中に、何時の間にか生きて一人の童子となつた彼を描いて、殆ど書き疲れ飽きることはなかつた。亡兒の事を書くことはそれ自らが、愛情の外のもので無いため、書くことに依つて濃かな愛情のきめを感じるのだつた。
自分は二十篇餘りになる詩をつくり、寧ろ綿綿たる支那風な哀切を盡したのも、その亡兒への心殘りの切なることを示したものだつた。亡兒と「庭」との關係の深さは「庭」 へ抱いて立つた亡兒の悌は何時の間にか竹の中や枇杷の下かげ、或は離亭の竹緣のあたりにも絕えず目に映り、自分を呼び、自分に笑ひかけ、自分に邪氣なく話しかけ、最後に自分の心を搔きむしる悲哀を與へるものだつた。或日の自分は埒もなく疊を搔きながら死兒を慕ふの情に堪へなかつたのである。
さういふ「庭」は自然に自分の考へをも育てる何者かであり、その何者かを自ら掃き淸めることは喜びに違ひなかつた。自分はさまざまな樹木や色色な花の咲く下草、亡兒の通ふ小さい徑への心遣りをする爲、冷たい動かぬ飛石を打ち、其處に自身で心を待設《まちまう》けるところの淺猿《あさま》しい人生の「父親」の相貌を持つてゐた。單なる樹木は樹木でなく「子供」に關係した宿緣的なものだつた。庭を掃淸めることは彼ヘの心づくし、彼への供物、彼へのいとしい愛情、彼への淸い現世的な德と良心の現れだつた。自分は老いて用なき人のやうに庭に立ち、石を濡らし樹樹の蟲を捕除《とりのぞ》いたりするのだつた。事實自分の妙に空想的になつた頭の内部には、それらの庭の光景は亡き愛兒の逍(さま)よふ園生《そのふ》のやうに思はれ、杖を曳いた一人の童子を何時も描かない譯にはゆかなかつた。自分の悲むで鶴の如く叫ぶ詩の凡ては每日その一二枚あてづつの原稿紙に書かれて行き、自分が初めて詩の中に分身を見、詩中に慟哭したのも稀な經驗だつた。
その詩や小說の中にある自分の悲哀とても、本當の突き詰めた氣持の中では到底さういう藝術的な表現では訣して滿足されるものではなかつた。藝術の樣式は遂に藝術以外のものでないところに、未練深い現世的な自分の愛慕が低迷してゐた。
自分が天上の星を見直し或は考へ直したのも、その悲哀の絕頂にゐた頃だつた。深い彎曲された層の中にある生涯的な悲哀は、每日自分に思ふさま殆ど人間の悲哀性の隅へまで苦苦《にがにが》しく交涉し、「烟《けぶ》れる私」をつくり上げるのだつた。顏の色の益益惡くなつた自分は決して笑ふといふことを、何物かに掠め奪はれてゐたも同樣の空しさで、自ら烟れる如き凄しい顏容をしてゐた。
[やぶちゃん注:「愛情」は底本では(ここ)傍点「●」である。
「その一人を最初に亡くした」室生犀星は大正八(一九一九)年十月に田端に移り、二年後の大正十年五月に長男豹太郎が生まれたが、翌年の六月に豹太郎は亡くなってしまった。その年の十二月に京文社から刊行した「忘春詩集」は事実上、亡児への追悼作品集であった。
「童子」大正十二年一月に京文社から刊行した作品集「萬花鏡」に亡児を題材した小説「童子」があるが、ここに書いたのと同じシークエンスは冒頭や作中にはない。寧ろ、私は前の「忘春詩集」に収録された詩「童子」が思い出される。国立国会図書館デジタルコレクションに同詩集があり、当該詩篇はここ。ややスレがあって読み難いので、以下に電子化しておく。
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童 子
やや秋めける夕方どき
わが家の門べに童子(わらべ)ひとりたたづめり。
行厨(うちかひ)かつぎいたく草疲れ
わが名前ある表札を幾たびか讀みつつ
去らんとはせず
その小さき影ちぢまり
わが部屋の疊に沁みきゆることなし。
かくて夜ごとに來り
夜ごとに年とれる童子とはなり
さびしが我が慰めとはなりつつ……
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この「行厨(うちかひ)」とは背負子型になった弁当箱で、「草疲れ」は「くたびれ」と読む。
「後の日の童子」は大正一二(一九二三)年二月号『女性』に初出された小説であるが、上記の詩篇「童子」のシークエンスが冒頭に配されてある(同作は「青空文庫」のこちらで読める。但し、新字新仮名)のだが、或いはその辺りを作者自身が混同したものかとも思われる。そうだとしても、そこには寧ろ、未だ癒えぬ豹太郎への彼の感懐が読者にもしみじみと沁み渡ってくるような気がする。]
三 季節の痴情
自分は決して値の高い植木や石を購うた譯ではなかつた。寧ろ若木を育てた位で、高價な大物は植ゑなかつた。些し許りの詩の稿料や他の小使錢を四季折折に使つた外は、殆ど餘財を傾けることはしなかつた。貧しいその日暮しの中から集めたものだから、賣ることになれば端錢にもならなかつた。と言つて此儘他人に讓り渡す氣にもなれなかつた。何故かといへば自分の愛園だといふ名目にしては餘りに貧しい木石の類だつた。せめて相應の石一つくらゐでもあればいいが、雜石をつかつた庭を他人に手渡すことは、末代までの名折であり、さういふ恥を殘すよりも一草一石の端にまでも原形無きまでに取毀《とりこは》すことが、本統[やぶちゃん注:ママ。]の自分の氣持だつた。
若し愛してくれる人があれば、この儘讓り渡してもいいと考へたこともあるが、後に殘ることを考へると憂欝になり、矢張り壞すことに心を訣めるのだつた。それが自分の一つの德義でもあり良心でもなければならなかつた。自分を訪ねたことのある人人の眼に殘つてゐる小さな庭、庭らしい風致の中にある自分が、それ以上にその人人へ呼びかける必要はなかつた。潔く取毀《とりこぼ》つて又新しく移らなければならない――。
自分が此庭を考へたことの最も烈しかつたのは、震災後一年を故鄕の山河に起居してゐる時であつたらう、その時は庭なぞいらない氣持だつたが、安つぽい鄕里の貸家には砂礫が土に雜つてゐて、何を植ゑても根をおろすことがなかつた。柔かい黑土のある東京の庭を思ひ出したのは寧ろ不思議な思ひ掛けない切ない氣待だつた。自分は家の者に何かの序に季節ごとに庭の話を繰り返しては話出し、殆ど見るに耐へない庭があれ程心に殘つてゐることは、意想外な氣持であつた。
歸京して見た昔の庭は庭のままだつたけれど、愛情は昔に倍してゐると言つてよかつた。彼等は穩かだつたし又靜かさは一入《ひとしほ》深かつた。自分の最初に氣のついたことは庭の全面に漂ふ憂愁の情だつた。主人なくして過した一年の間に、彼等は茫茫たる十年の歲月を負うてゐる荒涼を持つてゐた。それは人間的な愛情だと言つていい位の靜かな重い荒れ樣だつた。自分が彼らの間に立つたときに自分を締めつけるものの多くを感じ、囁くものの哀切を經驗するのだつた。自分は僅かな一草の芽生えの中にも自分が六七年近く愛した情痴を感じた。全く庭を愛することも、文に淫することも凡て情痴に近いものだつた。さう言つても解り兼ねるかも知れぬが、實際人間同士の情痴以上の、重いものに心を壓せられることは愛する女以上の痴情に似たものだつた。自分が彼等の世界に住むことに頭を痛め心を暗くしたのも、それらが最早苦痛に近い樂しみであることも、やはり淸淨であるために憂欝になる情痴の表れに違ひなかつた。
[やぶちゃん注:犀星は大正一二(一九二三)年の関東大震災に田端で被災直後の十月に一家をあげて金沢に引き揚げ、上本多町川御亭(かみほんだまちかわおちん)三十一番地に落ち着いた。大正十四年十月には金沢市小立野(こだつの)にある曹洞宗の天徳院(被災後にここに滞在していた)の境内に土地を購入し、庭作りに熱中したりしていた。]
四 田端の里
自分は殆ど庭の中に隈なきまでに飛石を打ち、矢竹を植ゑ、小さい池を掘り、鄕里の磧にある石を搬び、庭は漸く形をつくつて行つたが、間もなく鄕里にも庭をつくりかけた關係上、鄕里の方にも庭木を送らなければならなかつた。さまざまな煩雜さに疲れた自分は一層此庭を壞し、庭のない貸家に引移りたい望みを持つやうになつてゐた。何故かといへば恣《ほしいまま》に庭のある家に居ればそれに頭をつかふことは當然なことであるから、一層庭のないところに行けば諦めもするし、樹や石を弄ぶことも自然なくなるであらう、さういふ考へで何處かに荷物の全部を預け一家こぞつて旅行に出る計畫をたてたのであつた。併し自分の執着はすぐに庭を毀す決心はしてゐても實行は益益遲れがちになつてゐた。
自分が此田端に移つてから既《も》う十年になるが、「江戶砂子」にある生薑《しやうが》の名所である田端の村里は文字通りの田舍めいた靑靑しい生薑の畑と畑の續いた土地だつた。根津の町へ出て藍染川となる上流は田端の下臺《しただい》にあつたが、音無瀨川《おとなせがは》と呼ばれてゐた。名に負ふ煤と芥の淀み合ふ音の無い小川であつたが、それでも今の谷田橋《やたばし》附近は大根や生薑の洗ひ場になつてゐて女等の脛も見られる「江戸砂子」の風俗と俤《おもかげ》とを昔懷かしく殘してゐた。今の神明町車庫前あたりから上富士《かみふじ》への坂の中途迄、秋風の頃はざわめく黍畑《きびばたけ》や里芋の畑の段段の勾配をつくり、森や林も處處に圓い丘をつくつて見えてゐた。小川や淸水の湧く涼しい林もあつたが、今は待合や小料理屋が町家《まちや》を形づくり、昔の武藏野の風情は殆ど何處にも跡をとどめてゐなかつた。
それでも音無瀨川の溝石の仄《ほの》ぐらい濕りには、晚春初秋の宵などに蛙の啼く聲も聞かないではなかつたが、若い椎の植木畑や生薑の畑には昔のやうな螢の飛び交ふ微《かすか》な光りさえ見られなかつた。十年の間に變つたものは單にこれらの郊外的な風致や町の姿ばかりではなく、兒を失ひ悲むだ自分には溝川のほとりを散步しながらゐる姿は昔のやうだつたが、もう子供が二人も生長してゐた。
植木屋の多い田端の地主らも時勢と金利の關係から、植木屋は賣減《うりべ》らしにして何時の間にか貸家を建て、新建《しんだち》の小路をつくり、殆ど空地は見られない程だつた。秋口には涼しい高い木に啼く蟲の類も減つたばかりでなく春先の鶯が啼く朝なぞは年に一日か二日くらゐに過ぎなくなつた。以前は何處からともなく春を告げる鶯の聲を聞くのは、每朝の快いならひであつた。生溫かい雨の霽(あが)つた朝の食卓についてゐて、鶯を聞かない朝はなかつた。それだのに今年は鶯を聞かなかつたといふ年も近年になつてから折折に聞くやうになつてゐた。
[やぶちゃん注:「矢竹」狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica を指す。ウィキの「ヤダケ」によれば、『タケ(竹)と付いているが、成長しても皮が桿を包んでいるため』、『笹に分類される(大型のササ類)』。『種名は矢の材料となること』に由来し、『本州以西原産で四国・九州にも分布する』。『根茎は地中を横に這い、その先から粗毛のある皮を持った円筒形で中空の茎(桿)が直立。茎径は』五~十五ミリメートルで、『茎上部の節から各』一『本の枝を出し』、『分枝する。節は隆起が少なく、節間が長いので矢を作るのに適す。竹の皮は節間ほどの長さがあるため、見える稈の表面は僅かである』。『夏に緑色の花が咲く』。『昔は矢軸の材料として特に武家の屋敷に良く植えられた』。別名は「ヘラダケ」「シノベ」「ヤジノ」「シノメ」等、とある。
「江戶砂子」菊岡沾涼(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年:金工で俳人。伊賀上野の生まれ。本姓は飯束であるが、養子となって菊岡姓となった。名は房行。江戸神田に住んだ。俳諧を芳賀一晶(はがいっしょう)・内藤露沾に学び、点者となった。地誌・考証などの著述でよく知られる。私は彼の怪奇談集「諸國里人談」をこちらで全電子化注を終わっている)が享保一七(一七三二)年に板行した江戸地誌。江戸府内の地名・寺社・名所などを掲げて解説し、約二十の略図も付す。これはベスト・セラーとなり、同じ著者で「續江戶砂子」が二年後に上梓されている(内容は正編の補遺)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の巻之五の「豊島郡麻布」のパート内のここの右頁七行目に、
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五 記錄
自分の家や庭の客となる人人は、矢竹の茂りと音とを賞めてくれたが矢竹は庭一面に這出して相應の風致を形作つてゐた。一年の間に主人を三人まで持つた秋といふ女中も、自分の家を出ると不幸續きの暮しをして今では行方が分らず、彼女が風呂敷に包んで買つて來た小さい沈丁花は、六年の間に自分の背丈を越えるまで伸びてゐた。次ぎに來た女中の里である茨城の草加在の珍しい木賊《とくさ》の株も、庭の一隅に固く組み合うて、年年殖えて美しくなる一方だつた。彼女は自家から暇を取るとカフエの女になり、これも亦行方が分らなかつた。
季節折折の子供の病氣の時の看護の女、植木屋が入代《いれかは》つてゐたそれぞれの記憶、國の母や兄、老俳友などの泊つたことのある離亭、飼猫や飼鳥の山雀《やまがら》、或時は仕事に疲れて卒倒しかけたことのある庭の奧、さういふ小さな覺えは一つとして「庭」を離れたものではなかつた。「庭」は彼らしい人生觀めいた記錄的なものを持ち、それらが今庭を壞さうとしてゐる自分に小癪なほど敍情詩めいた詠嘆の心を移さうとするのだつた。殆ど隅隅にまで手の觸れないところの無い庭土は、それに手をつけた日の記憶的な位置を今更らしく思ひ出させた。
この家に來て自分の仕事をした數は、文字通り枚擧に暇が無いくらゐだつた。詩集「高麗の花」や「田舍の花」「亡春詩集」を書き、「童子」「嘆き」「押し花」「人生」「我こと人のこと」「わが世」等で亡兒に對する嘆きの限りを綴つたものである。その他數十篇の小說物語の類は自分でも覺えてゐない夥しい數だつた。どこの雜誌に出たかも分らず、それを搜し出すこともできないで散逸された小品隨筆の類は、殆ど數限りのない位だつた。さういふ反古《ほご》同樣の仕事に注いだ自分の制作的な情熱を考へるだけでも、自分は何か目當てもなく茫然とし、その情熱の費消によつて十年は命を縮めてゐると言つてよかつた。それすら自分には何一つ殘つてゐないことを考へると、情熱を賣買した天壽の制裁の空恐ろしさを思はない譯にはゆかなかつた。
自分は第一流の文人である自信はあり實力もあるのだが、併し自分の書いたものか秋風の下に吹晒《ふきさら》され、しかも殘らないことを考へることは苦しかつた。自分にさへ其行衞の判らない原稿のことや雜誌のことを思ふだけでも陰鬱になり息窒《いきづま》る思ひだつた。その頃に書いたものの心の持ち方の低さ、氣持の張りの足りなさを考へると訂正削除の朱筆は動かしてゐても、自分の文章や意嚮《いかう》の拙劣さを犇犇と感じられるのであつた。或は却《かへつ》て原稿が散逸された方がよかつたかも知れない。惡文十年の罪を失した宜い機會であるかも知れぬ。唯自分はそれらに注いだ取り返しのつかぬ情熱の濫費だけは何と言つても一生の過失だつた。どういふ時にもよい仕事をすることは、永い安心を形づけるものであり、朝朝の寢ざめを淸くするものであるが、いい加減な仕事をした者の末路は自分で氣の付く時は、もう遲いに違ひない、併しその遲い時期に踏止まることも亦肝要なことに違ひなかつた。
六 別れ
自分は或日、まる一日外出をする機會があり、その間に植木屋に命じて樹木の幾株かを荷造りさせて、國へ送るのであつたが、幸ひ自分の歸宅したのは夜に入つてからだつたから、其樹木を拔いた跡は見ないで濟んだのである。次の日にも外出の折を見て飛石を拔き又次の目にも石を搬ばせるやうに命じて置いて何時も夜になつてから歸宅するのだつた。雨戶を開けることがないので、庭の模樣は分らなかつた。寢床で想像する淋しい庭のありさまは誰かを怨みたい氣持だつた。
築庭造園は財を滅ぼし、人心に曲折ある皺を疊み込み、極度に淸潔を愛する者になることは事實である。自然に叛逆することは、自然を模倣すると同樣な叛逆だつた。彼は「庭」を造らうとしながら實は「自然」を造らうとするものらしかつた。そこに何か突詰めると淺ましい人間風な考へがないでもなかつた。それだから面白いといふ築庭的な標準は、自分には既《も》う亡びかかつてゐる考へであつた。それなら自分は後の半生を何に費したらいいだらうか?――自分の如きものの才能は何に向つて努力すべきだらうか、かういふ消極的な問題を自分の中に持出して、自分は荒れた破壞された庭の中を步いて見たが、何か永い間に疲れたものが拔け切つたやうな、それこそ精神的な或平和をさへ感じるのであつた。その感じは自分を一層孤獨な立場に勇敢に押出してくれ何よりも平穩と濶達とを與へて吳れた。小さな風流的な跼蹐《きよくせき》[やぶちゃん注:身の置き場所もない思いをすること。]から立ち上つた自分の行手は、寧ろ廣廣とした光景の中に數奇《すき》ある人生的な庭園を展いて見せてゐた。自分はその庭園を見ることに泉のごとき勇敢を感じた。自分はそれ故今は眼の前で此小さな「庭」の壞されることを希望し、過去の庭園に靜かに手を伸べてその姿に別れを告げるのであつた。
七 曇天的な思想
何時か自分は「過去の庭園」を物してから、庭を壞し離亭を取毀したが、いまは一草一木も無くなり、明るい空地になつて了うた。自分の氣持は爽快になり頭は輕くなつた。矢竹も掘り盡したが筍が處處に餘勢を示し、垣根に添うて殘つてゐる。
自分は庭を壞して見て埋られた飛石は勿論、凡そ石といふ石の數の多いのに驚いた位である。雜石をあしらひ急仕立に自分の氣持を紛らはしたその折折の、自分の氣持の低さには熟熟(つくづく)呆れるばかりだつた。庭などといふものは決して間に合せの石や樹を植ゑて置くものではない。それは必ず棄てなければならぬ時期があるからである。周到な注意と懇切な愛好の下に、生涯それらの木石に心を寄せるほどのものを選ぶべきであつて、いい加減な選擇は嚴格に退けるべきであつた。
自分は庭を壞しても決して淋しい思ひはしないばかりか、何か前途に最つと好い庭がありさうに思へるからである。庭はそれ自身が東洋の建築としつくり色を融け合せて生きてゐるもので、決して庭だけで生きてゐるものではない、東洋の寂しい建築と其精神とに彼は其姿を背景とせねばならぬ。建築の淋しい哀愁を劬(いたは)るものは、女人のやうに優雅な、しかも健康な「庭」でなければならぬ。誠に美しい庭に立つことは我我の愛する女人と半夜を物語ることと、どれだけも隔たつてゐるものではない。
自分は梅雨曇りが廣がつてゐる中に、每日のやうに其美しい曇天を眺入つてゐた。その中に壞された庭を少時思ふに適した。折折の低い雲、蒼い空をも眺め、どうやら自分がこれから後にめぐり會ふべき、石や木、庭のありさまなども好《よ》き想像のうちに描くことができた。そして自分は半年ばかり極端に質素な、往昔の文人が試みた旅行のやうなものを實行するために、家具を友人の家に預け、永年の埃や垢を洗はうとするのである。文人の榮華の醒めた不況の時に昔の生活を抛《なげう》つことは、自分の好みにもあひ、今はその「時」を得てゐるからである。それ故自分は曇天の中に美しさを知ることも、人一倍の熱情を感じるからである。
自分のやうな人間は何かしら「心」で飜弄(いぢ)る物の要《い》る種類の人間である。詩や詩情をいぢることにも倦きてゐないが、同樣に戀愛にも未だ飽きてゐない。戀愛的な雰圍氣は決して女人の間にばかりあるものではなく、それの正確な精神は凡ゆるものの美しさを詳かに眺め取入れることであらう、曇天も陶器も又女人もその内の重《おも》なるものであらう。
荒土になつた庭の上に、杏の實が、今年もあかあかと梅雨曇りの中に熟れてゐる。此の杏は家に附いてゐる樹であるが、每年春は支那風な花を見せ、何時も今頃の季節には美しい實を見せてゐた。今日も机の上から見る朱と黃とを交ぜた杏の實は、堪へがたい程美しい。自分も家の者もこれを取らうとはせず、此儘次ぎに越して來る人の眼を樂しますであらう。
杏は國の方にも今頃は熟れて輝いてゐるが、東京では滅多に見られない。何時か小石川の或裏町で見かけたことがあるが、その美しさ豐さは莫大な印象だつた。子供の時にその種子を石で磨つて穴を開け、笛のやうに吹いたことを覺えてゐる。「杏の笛」と言ふと幼い詩情を感じることが夥しい。今も鄕里の童子はその「杏の笛」を吹くことを忘れないであらう。
矢竹は國の庭へも送つたが、根は庭ぢうに這ひ亂れてゐた。森川町(もりかはちやう)の秋聲氏からの使ひにも數株を分けたが、使ひの植木屋はかういふ美しい竹は植木屋も持つてゐないと褒めてゐた。自分もさういふ褒言葉を喜ぶものである。初め辻堂の中村氏に約束をしたが、辻堂までの車を仕立てることは困難だつた。中村氏の庭を訪れた秋聲氏との間に竹の話が出たものらしかつた。
自分は初め此矢竹を靑山といふ禪客から讓り受けたものである。今度は色色手分けして頒けたが、雨が多く分け切れなかつた。關口町の佐藤君からの植木屋も、漸つと今朝になつて分けた竹を掘りに來た。ともあれ自分は後二日で半年の旅行に出るのだが、あとを亂したくないので土の穴や掘り返しを埋めさせてゐて、微妙な哀愁を感じた。多くの秋と冬の夜、これらの竹の葉擦れの音を聽いたが、春の深いころと晚秋の頃とが一番葉ずれの音がよかつた。皮を剝いで膏《あぶら》で拭いた幹は靑く沈んだ好い色をしてゐた。芥川君は此竹のある方を何時も「窓の穴」と言つてゐた。同君の庭にも竹があつたが二三日續いて庭を掃いて見て、氣持がよかつたといふ話も耳に殘つてゐる。――
震災の時にも上野あたりからの灰が吹かれて、葉の上に白く埃をためたが、さういふ思ひ出も却却《なかなか》忘れられなかつた。自分は每年筍が出ると、古竹を粗い簾に編ませ、それを煤の垂れる軒に吊るして置いたが、野趣があつて粗雜な感じではあつたが好きだつた。
[やぶちゃん注:「辻堂の中村君」作家・評論家の中村武羅夫(むらお)。]
八 壽齡
この春母の危篤の報を得て遙遙と歸國して行つたが、母は七十八の高齡の中で死生の間を往來してゐた。自分は母が二三日のうちに絕命するであらうと思ひ、人として數奇な彼女の生涯と運命とに就て、絕えず頭をつかひ兎も角も死ぬことを氣の毒に思ひ、自分も出來るだけの藥餌の祕術を盡すやうに努力するのであつた。彼女を支配した運命はその晚年に物質的な苦衷を與へず、自足と平安とをのみ溫かに惠んでゐた。自分は父の死の前後が斯樣に平安で無かつたことを考へ、いぢらしい父への思ひ遣りを切ない氣持で顧みない譯に行かなかつた。
四五日の後に母は急性肺炎の症狀から完全に救はれ、運命の惰勢は再び母を安逸な生活の中に取殘すもののやうだつた。彼女は粥を啜り魚の肉を食べ潑溂として餘生を盛り返し
て來た。自分は七十八年も生延びた彼女の止みがたい生活力が、その餘勢の上で舞ひ澄む獨樂《こま》のやうに停《とどま》ることを知らないのを恐ろしく思うた。血色を取り戾した一老母の戰ひは遂に現世的生活へまで再び呼戾《よびもど》され、暴威を揮ふ時は揮ふ苛酷な運命さへ、母の前ではその暗澹たる翼ををさめてゐると自分は思うたが、さういふ母を見ることは別な意味で壯烈な氣がしないでもなかつた。
母を圍繞《ゐねう》する人人及び古い昔の彼女の知合《しりあひ》の悉くは、母が今度死ぬであらう豫測と天與の壽齡とに、寧ろその長命と平安とを祝福して、自分に一一その由を傳へて挨拶を交すのであつた。自分も母の壽命の終るの近きを思ひ、働く能力を缺いた人間は訣して六十以上は生きる必要の無いといふ、漠然とした通俗的な槪念を得たのだつた。六十以上生きるといふことは死を期待され、死を祝福されるのみで、死を激しく傷み悲しまれることは尠《すくな》いことらしかつた。ことに田舍の人人の率直な言葉は一つとして死を哀傷する情を披瀝せずに、不足のない死を、或は死そのものに利子的な計算を敢てすることにより、恰《あたか》も當然訪れるべき死の遲きを皮肉るやうなものだつた。
母は自分に決して今度は生き延びたくなかつた事、唯ひたすらにお詣りがしたかつた事、再《ま》た御身らに厄介になることが心苦しい事などを、取盡《とりつ》した靜かな生活の中から物語るのであつた。自分は何よりも運命がまだ彼女を犯さなかつたことに就て、ひそかに運命の力が近代に至つて次第に稀薄になつてゐるやうに思はれてならなかつた。そして病室の窓の外にある執拗な一塊の殘雪は、北に面した杏の古い根にしがみつき、世は春であるのに凝り固り却却消えようとしなかつた。殘雪と運命、さういふ昔の文章世界の寄稿家の物するやうなことを考へ、我が尊敬すべき運命ヘの超越者、自分の母親を熟熟見守るのだつた。
[やぶちゃん注:「母」ここで彼が語っているのは彼の養母ハツである。犀星は明治二二(一八八九)年八月一日、金沢市裏千日町に生まれた。加賀藩足軽頭であった小畠弥左衛門吉種(当時六十四歳)と、小畠家の女中ハル(同三十四歳)との間に私生児として生まれた。世間の評判を嫌った父は、生れたこに名もつけず、生後間もなく、生家近くの雨宝院(真言宗)の住職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに貰い子として引き取られ、ハツの私生児として「照道」の名で戸籍に届出された。住職の室生家に正式に養子として入ったのは、七歳の時で、この時、室生照道を名乗ることとなった。犀星は私生児で、実の両親の顔を見ることもなかった。この赤井ハツは気の弱い住職を尻に敷いて朝から大酒を飲み、子供たち(貰い子は犀星を含めて四人であった)を理由もなく折檻し、「馬方ハツ」の異名をとるほどの、当時はかなり強烈な恐ろしい女丈夫であったという(所持する昭和四二(一九六七)年新潮社刊『日本詩人全集』第十五巻「室生犀星」の年譜に拠った)。ハツはこの後の昭和四(一九二九)年四月に永眠した。]
九 邦樂座
久振りで仕事も一先片づいて、冬がこひを施した樹樹の蓆を解いて見たが、彼らは藁の溫さの中に既に春の支度を終へてゐた。何か酸味を帶びた匂が自《おのづか》ら立つ埃とともに、自分の胸を妙に惱ましく壓してゐた。自分は少時《しばらく》日の當る土の上に踞んでゐたが、昨日邦樂座の玄關の段の上から辷《はづ》れ落ち、背中を打つた重い痛みが斯ういふ明るい日ざしの中で餘計に感じられた。
何時か雨上りの電車道で轉んで危く轢かれようとしたが、さういふ不慮の出來事の起るときは、頭がひどく疲れてゐる時に違ひなかつた。健全だと思うてゐる頭腦も刺戟のある映畫見物の後には、每時《いつ》も烈しい疲勞を心身に感じてゐた。目まぐるしい電車道に立竦んで、少時頭の働きを待つやうな狀態になる時は、頭腦の働きよりも車や往來の烈しさが迅速に感じられるのだつた。或晚自動車から下り立つた自分は初めて帽子を冠つてゐないことを知り、自動車を見返るともう明るい街巷の中に紛れ込んでゐた。自分は帽子を冠らないで步く、無態な頭に何か締りの無いことを感じた。一昨日も邦樂座で危く頭を打てば或はそれきり腦貧血を起したかも知れなかつた。人間の命を落すやうなことがどれだけ自然に何等の注意力の無い時に起り、それが却つて偶然に救はれてゐることがあるかも知れなかつた。
庭の中は眩しい春の日當りで一盃になり、竹の葉の上にあぶらを注いだやうな一面の光だつた。自分は自然の美しさを感じ、その自然がもう自分の心身にカツチリと塡つてゐる人生的な或事件でさへあるやうな氣がし、自ら感情的な此事件を懷しむの情に耐へなかつた。かういふ物の考へ方をする自分には、最早花や樹の美しさよりも自分の考へに思ひ耽る美しさが、どれだけ事件的なことを搬ぶかも知れなかつた。自分は身に沁みて人の死を感じ、その死を自ら企てた人のことも斯ういふ春光の下で餘計に沁沁感じられた。現世の美しさを深く感じることは死ぬことに於て、一層美しく見えることに違ひなかつた。現世に執着するほど死にたくなる念ひを深めることは、よき魂をもつた人間の最後の希望にちがひない――生活、金、死、女、そして目前に迫る何かの芽生えの狀態に、折折氣を取られながら殊勝に少時靜かにしてゐたが、昨日の背中のいたみは鈍重に徐ろに自分に影響してゐた。女達の華かに立つた光つた階段から墜ちた自分は、單に階段から落ちたばかりではなかつた。或はその時に當然不幸な運命の逆襲に遭ふべき自分が、その又運命の端に繫がつて怪我をしなかつたのかも知れなかつた。邦樂座の大玄關から自分は死の何丁目かヘ送られる筈はないと思うたものの、自分は常に新鮮な運命に立向ふ用意をせねばならないと考へるのだつた。それは自分ばかりではない、凡ゆる人間がいつもその準備に就かなければならない事だつた。何時どういふ不安と不詳事が待ち構へてゐるかも分らないからだ。誰がその不慮事の前に立ち得ることができよう。――
[やぶちゃん注:「邦樂座」現在の「丸の内ピカデリー」の前身の劇場。]
十 短册揮毫
自分のところへも每月短册や色紙の揮毫を迫る人が多く、氣の進まぬ時は一方ならぬ憂欝をすら感じてゐる。平常何も知らぬ人に自分の惡筆を献上することは、最早自分には神經的に嫌厭《けんえん》を感じてゐる位である。千葉縣の某と云ふ人なぞは先に短册を送り到《つ》けて置いて、每月揮毫の督促を根氣よく殆ど一年間續けて行うてゐた。その最後に短册返送を迫ることは勿論、或は謝儀を送るとか云ひ子供でも宥《なだ》め賺《すか》すやうであつた。併し自分は怒りを嚙み潰してゐた。かうなると脅迫的なものに近いやうである。
自分は短册色紙の送り付けは其儘卽座に返還してゐる。今後奈何なる意味に於ても揮毫はしないことにした。その爲自分のやうな惡筆の品定めされる後代の憂を除きたいと考へてゐる。併乍ら自ら進んで書きたい時があれば、惡筆を天下に揮ふことの自信も無いではない。欲しきは私に取つて何事も勇躍だけである。
十一 「自敍傳」
自分は此頃もう一度今のうちに書いて置きたいと考へ、自敍傳小說を書き始めた。自分は處女作で自敍傳を書いて制作的に苦苦しく失敗した。それは言ふまでもなく詩的雜念の支配を受け、センチメンタリズムの洗禮を受けたからである。自分は噓を交ぜた、いい加減の美しさで揑ねた餅菓子のやうなものを造り上げ、それで自分は自敍傳を完成した如き氣持でゐたが、此頃の自分にはその噓が苛責的に影響し、苦痛の感情を伴うて來たのである。自分は暇を見て書き直した上、少しも文學的乃至詩的移入のない自傳の制作に從はなければならず、事實その仕事に打込んでゐた。
自敍傳は作家の最初に書くものでなければ、相應の仕事をした後期の仕事でなければならない。その仕事は何處までも成年後の彼の見た「生ひ立ちの記」でなければならず、峻烈な自分自身への批評に代るべきものでもあらう。
[やぶちゃん注:「自分は處女作で自敍傳を書いて制作的に苦苦しく失敗した」大正八(一九一九)年に『中央公論』に発表した「幼年時代」であろう。小説家としては処女作である。]
十二 「大槻傳藏」の上演
帝國ホテルで自分の作「大槻傳藏」の道化座の公演を見て色色感心した。僕の戯作は幸か不幸か未だ公演されたことはなかつた。又自作が劇評家等の筆端に觸れたことも極めて斟いことだつた。自分はこれらの戯作が作集や叢書にさへ未だ談判を受けたことすら無いのを、大した不名譽に思つてゐないものである。それに據つて自信を逆挨《ぎやくね》ぢにする程稺拙《ちせつ》の心を有たない僕は、今度自作の公演を見に行く氣持の張方は、少少悲觀的でもあり又眞向からの自信では可成餘裕を持つてゐた。
「大槻傳藏」は自作の中では唯一つの時代劇でもあり、或程度までの用意はしてある作品である。その公演を見て「大槻傳藏」が歌舞伎や帝劇で上演されないことを不思議に思ふ位、成功してゐた。道化座は無名の劇團であり大槻傳藏を演じた市川米左衞門氏は、その道の通でない自分には新しい名前である。玄人らしいところはあつたが自分には好印象を與へた。自作の場合大抵役者を貶《けな》すことがその批評の眼目であり條件である世の中で、自分は或程度までの滿足を以て見物した。かういふ自分を素人として笑ふものがあれば、それは物の素直さをわきまへない人人であらう。――自分は此劇を見物してゐる間、絕えず漫然として劇を書いてゐた自分が振顧《ふりかへり》みられた。必然性無き會話の受け渡しも目前で諷刺された位だ。自分は一層努めねばならぬ事、氣持の張方を少しも弛めてはならぬ事を忠告されたやうなものであつた。これは自作が最初に上演されたためであらう。
[やぶちゃん注:「大槻傳藏」人物としての彼は元禄一五(一七〇二)年生まれで寛延元(一七四八)年に自害した、江戸中期の加賀藩の家臣。諱は朝元。所謂、「加賀騒動」の中心人物である。第六代藩主前田吉徳に起用され、権勢を揮ったが、延享二(一七四五)年に吉徳が急死すると、反対派によって排斥され、五箇山に幽閉、配所で自死した。この事件は藩主後嗣紛争も絡んで、陰惨な諸説を生み、後世、色々と脚色された。犀星の同題の戯曲は読んだこともなく、調べても、よく知らなかった。悪しからず。]
十三 茶摘
自分の家の庭は廣くはなかつたが、茶畠が少し殘つてゐて季節には茶摘みもしたものだつた。李の樹の下に蓆を敷いて母は煙草盆を持出し、まだ小さかつた妹は茶を用意したりした。自分も茶摘みの手傳ひをしたが、一時間も同じい事を繰返す仕事には直ぐ退屈をし、風のある目は摘んだ茶の新葉が吹かれてよい匂ひがした。
茶の根には古い去年の茶の實がこぼれ、僅な枯葉の間に蕗の芽が扭《ねぢ》れて出てゐた。母は退屈しないで丹念に摘んでゐたが、自分の摘む芽の中に古葉さへ雜つてゐて、臺所でそれ蒸しては莚の上でしごいてゐる姉から小言が出た。臺所は湯氣で一杯だつた。姉と雇の婆さんとが忙しく立働いてゐた。自分は茶といふものに恐怖を感じる程、摘むことに飽飽してしまつた。かういふ時に必ず誰か近くの母の友達が表から聲をかけ、母はうつ向いたまま返事をしてゐる記憶があつた。又定《きま》つて强い風が出るやうな日が多かつた。
蒸された茶は餅のやうな柔らかい凝固になり、揉まれると鮮かな靑い色を沁み出してゐた。その莚を乾かしたあと、四五日といふものは矢張り茶の芽の匂ひがし、その匂ひは庭へ出ると直ぐに感じられた。二番茶を摘むころは日の當りが暑かつた。じりじりと汗を搔く母を見ることは、氣苦勞できらひだつた。
十四 朝飯
或初夏に伊豆の下田の旅籠屋に泊つて、その庭に桃に交る僅な綠の芽立を見たことが忘れられなかつた。それは優しい人情的と溫かみのある綠だつた。自分は朝飯の時にその風景の何ものかを、その膳の向うについた春のおひたしと一緖に嚙み味うたやうな氣がした。それに烟りながらに罩《こ》めてゐた雨は、此暖國にある早い些かの若綠の艶を深くしてゐた。自分が靑い梅の實に朝燒けのやうに流れてゐる茜色を覗き見たのも、此旅籠屋で初めて發見したやうな氣持だつた。何か棄石《すていし》を取圍む銳い尖つた芽の擴がり、それらの葉が一樣にとかげのやうな光を見せる日光の直射に、自分は眼に靑い薄い膜のやうなものを絕えず感じるのだつた。
自分は午後から晴れた庭土の上に、若木の綠をうつらうつら見惚れながら、さういふ風景に意識を集中され、餘りに永い間茫然としてゐる自分の中に何か白痴めいたものを感じ出し、靜かさが呼ぶ不安を一心に感じ恐いやうな氣がした。餘りに靜かなときに人間は知らずに命を落すものかも知れないやうな氣がした。さういふ不安は反對に益益自分を靜かにし、自分にハガネのやうな鈍い光を感じさせてゐた。
[やぶちゃん注:ここでの太字は底本では傍点「﹅」である。
「罩めてゐた」ニュアンスとしては、霧のような細かな雨が景色を覆うように、濃淡を変化させながらも、たちこめているさまを言っている。
「棄石」日本の庭園で主たる要となる石ではなく、風趣を添えるために所々に配した石を言う。]
十五 童話
自分は凡ゆる童話に僞瞞を感じてゐた。それ故、童話を書かうといふ氣が起らず、また子供等に自ら童話を書きつづつて見せる氣もなかつた。童話といふものは卽座に作爲され同時に亡びていいものかも知れなかつた。ストリンドベルヒも童話を書いてゐるが、自分には性質の上からも童話は書けさうもなかつた。
支那のお伽話も自分は大仕掛で好かなかつた。自分はどういふ話をしていいか、それらの話がどうしたら子供たちに喜び迎へられるかを考へると、しまひに憂欝になる外はなかつた。これは自分が作家であるための選擇上の苦衷に違ひない。作家は最後まで子供への讀物を選べないのが本當かも知れない。假令選擇はしても自分の物にして、子供等に薦めたかつた。いい加減な話を子供に說くことは何よりの僞瞞だつた。
自分は童話の國のことは知らないが、よい子供は自身彼のものであるべき童話を作るべきであり、我我の示す必要のないものであるかも知れなかつた。童話が作家の煙草錢だつた時代はもう過ぎたらうが、自分はさういふ作家が朗かな高い美しい氣持で、童話を作つて書くことに尊敬を持つてゐる。さういふ作家の優しい愛情の中に我我は子女を連れ込みたい希望を持つが、さういふ作家は果して天下に幾人ゐるだらうか。さういふ秀れた作家を自分で見出すことができるだらうか。現世の卑俗な一作家たる自分にもその雅量を披瀝することができる作家を見ることがあらうか。――自分はそれを疑ひ、その疑ふことに依つて憂欝を感じてならないのだ。朗かであるべき童話の國に入るさへ、自分は並並ならぬ現世的な止み難い憂欝の情に先立たれてゐる。
[やぶちゃん注:「ストリンドベルヒも童話を書いてゐる」「令嬢ジュリー」や「死の舞踏」は私の偏愛する戯曲であるが、童話は不学にして知らなかった。サイト「福娘童話集」の「海の落ちたピアノ ヨハン・アウグスト・ストリンドベリの童話」を読んだ。彼らしい翳のある掌篇で、いい。]
十六 童謠
自分の子供はやはり北原白秋、西條八十氏等の童謠を唄ひ、母親自身もそれを敎へてゐるが、自分は童謠を書いた經驗がないので默つて聽いてゐる外はなかつた。兩氏以外の「コドモノクニ」の童謠をも唄うてゐるのであるが、中には到底自分の如き詩人を以て任ずる家庭に、鳥渡《ちよつと》聞き遁しがたい劣つた作品もないでもなかつた。併しそれに交涉することは自分の敢てしない方針であつた。
自分の經驗では北原氏西條氏、または稀に百田宗治氏等の童謠が娘によつて唄はれることに、その作家等に知遇を得てゐる關係上、決して惡い氣持になることはなかつた、北原氏、百田氏などは時時子供等にも接する機會があるので、餘計に親しさを彼女の方で持つらしかつた。ともあれ童謠の作家等に望みたいのは、かういふ子供の世界から見た童謠詩人の人格化が、我我の家庭にまで行き亘る關係もあり、大雜誌には少し位樂なものを書いても、子供雜誌の場合は充分によい作品を發表されるやうにされたい。自分も漫然として童話などを書き棄てた既往の惡業を思ひ返すと、それを讀む小さい人人へ良くない事をしたやうに思はれてならない。何事も藝道の影響が子供へまで感化して行くことを考へると自分の如きは童話や童謠の淸淨の世界へは、罪多く邪念深いために行けないやうな氣がした。
十七 輕井澤
一 蟲の聲
今年くらゐ諸諸の蟲の聲を聽いたことがない。まだ宵の口の程に啼くのや、淺い夜半に啼くのや、眞夜中に啼くのや夜明け方に啼き始めるのや樣樣な蟲がある。宵の口は賑やかに烈しく淺い夜には稍落着いて低めに、眞夜中には少少澁みのある嗄《しやが》れた聲がしてゐる。明け方には聽えるか聽えぬかくらゐに低く物佗しい。
それらの蟲の聲の變つてゐることは言ふまでもないが、每年涼宵に聞く筈のこれらの蟲の音が、年齡の落着きとともに我物になるほど身を以て聽き入れられるのは、聽き落さずに心も次第に落着いて用意されて來てゐるからであらう。我我は今日《けふ》眺めたものは又明日どれほど新鮮に眺められるかも知れない。彼らは變らないが我我は日日に變つてゐるからであらう。來年は最つと今年よりも多く蟲を聽くことができよう。
二 螢
日が暮れてから散步に出ようとすると、乾いた豆畑の畝の上に何やら光るものを見たが、隣の燈火が映る露ではないかとも思うた。よく見ると明滅する螢火だつた。海拔二千七百尺の高原では螢のからだは米粒くらゐな小ささだつた。光にも乏しく淺間の熔岩の砂利屑の乾いたのに、取縋《とりすが》つて光つてゐる有樣は憐れ深かつた。
[やぶちゃん注:私は、この時、犀星が「飯田蛇笏 靈芝 昭和二年(三十三句) Ⅱ たましひのたとへば秋のほたるかな」の句を想起していたことは間違いないと思っている。
「二千七百尺」約八百十八メートル。例えば、軽井沢駅は標高九百四十メートル、犀星や龍之介が散歩した軽井沢町追分の国道十八号線沿道路は標高千三メートル、二人の定宿であった「鶴屋旅館」(現在は「つるや」は平仮名表記)九百七十メートルである。]
三 夜の道
今朝道端を步きながら晝顏の花を久濶《ひさしぶ》りで眺め、しまひに蹲んでじつくりと見恍《みと》れた。美しさ憐れさは無類にしをらしかつた。感傷的になつてゐる自分は此頃氣持にのしかかるものを多分に感じてゐた。昨夜Sの書いたAの追悼文をよんで、暗い山間の道ばたを考へ乍ら反對の道を、愛宕山の中腹まで步いた程だつた。
家へかへると、啼き出したきりぎりすは一夜每に數をふやして、雨の中を通り拔ける程だつた。自分は懷中電燈できりぎりすの啼いてゐる豆の葉を照し、その靑い翼をひろげて無心に啼き續けてゐる姿を見て故もなく感心した。
[やぶちゃん注:「昨夜Sの書いたAの追悼文」これは、間違いなく、萩原朔太郎が雑誌『改造』昭和二(一九二七)年九月号に書いた「芥川龍之介の死」である。何故、断言出来るか?――ここで犀星は、そうでなくても、龍之介との思い出の残るこの軽井沢――龍之介が欠損した時空間のここで、ひどく「感傷的になつてゐる」のであり、さらに「此頃」、「氣持に」、何か「のしかかるものを多分に感じ」ているメランコリックな状態にあったのであり、そんな中、「昨夜」、犀星自身が登場し、彼が朔太郎と龍之介に対して強烈な一語を吐き、そこで朔太郎が田端の坂の上に呆然と立ち尽くした龍之介の影に手を振る――そうして、それが、作者と龍之介とが逢った最後であったと記す――「Sの書いたAの追悼文をよんで」、思わず堪え切れなくなり、「暗い山間の道ばたを考へ乍ら」、「反對の道を、愛宕山の中腹まで步いた程だつた」と述懐していると読めるからである。いや! 芥川龍之介を愛した室生犀星が、これほど強いパッションを受け得る、優れた芥川龍之介の追悼文というものは、萩原朔太郎のそれをおいて、ない、と私は断言出来るからである(地名が気になる方のために、グーグル・マップ・データ航空写真をリンクさせておく。中央下方に「つるや旅館」、その北北東に愛宕神社に向かって上る道が「愛宕山通り」である)。]
四 旅びと
あはれ、あはれ、旅びとは
いつかは心やすらはん。
垣ほを見れば「山吹や
笠にさすべき枝のなり。」
(芥川龍之介氏遺作)
旅びとにおくれる
旅びとはあはれあはれ
ひと聲もなき
山ざとに「白桃や
莟うるめる枝の反り」
註。「山吹や」は芭蕉の句。
「白桃や」は芥川君の句。
これらは朗讀風にくちずさ
まば一入あはれをおぼゆ。
[やぶちゃん注:各詩の後の添え辞は底本とは異なり、一行空けとし、ブラウザでの不具合を考えて、位置を上げ、後者のの「註」はベタ一行であるのを、行分けして添えた。
前者の最後に鍵括弧で添えた句は芭蕉のもので、
山吹や笠に揷すべき枝の形
で、元禄四(一六九一)年、江戸赤坂の庵にて、芭蕉四十七歳の作である。岩波旧全集の後記によると、元版全集には文末に「(大正十一年五月)」とあるとする。とすれば、前の一篇は龍之介満三十歳の作である。この詩は自死後の昭和二(一九二七)年八月発行の『文藝春秋』に掲載された「東北・北海道・新潟」に以下のように公にされた。但し、これは犀星が仰々しく掲げた「遺作」ではなく、リンク先を読んで頂く判るが、予定されたものであり、たまたま自死後に公開されたに過ぎない。脱稿は六月二十一日。ただ、この前日、彼は確信犯の遺作「或阿呆の一生」の決定稿を秘かに書き終えているから、広角的視野で見れば、確かに遺作と言えるのである。
*
羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」
あはれ、あはれ、旅びとは
いつかはこころやすらはん。
垣ほを見れば「山吹や
笠にさすべき枝のなり。」
*
一方、後者は室生犀星の前者への相聞歌である。私の「龍氏詩篇 室生犀星」の「二、旅びとに寄せてうたへる」を参照されたい。犀星が言うように、この、
白桃や莟うるめる枝の反り
は、生前、龍之介が捨てに捨てて厳選した七十七句を収録する「澄江堂句集」(没後に私家版として四十九日法要の香典返しとして配られた)にも採られてある(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照)。]
五 命令者
雨上りの道路を自分は五つになる女の子供と一緖に散步してゐた。彼女は洗はれて美しい砂の洲になつてゐる處を自分に踏んではならぬと嚴然として命令するのだ。そして彼女自身もそこだけ步かなかつた。披女の美しいものを愛し保護する氣持を自分は認め、愉快な畏敬の念をさへ抱くのだつた。併乍ら自轉車や他の散步する人人は、それらの白砂の宮殿の上に惜氣もなく靴や下駄の跡を殘して行くのだつた。併乍ら彼女は父親である自分にのみ苛酷な程、その命令を散步の終へるまで自分に守らせるのであつた。自分はあらゆる柔順なる父親の如くその命令に唯唯《ゐゐ》として服してゐた。
六 山脈の骨格
軒も朽ち、板戶は風雨に曝されて年輪を露《む》き出してゐる、峠の上の村落だつた。風雨も多年の間には煤のやうに黑ずむらしく、此村落は暗い夕立雲の下にあつた。石も人の顏も黑ずんで見えた。自分はとある石の上に腰をおろした。
信越の山脈が聳えて眼の前にある。-併し自分は茫乎《ばうこ》とそれらを打眺めた。自分はこれらの山脈が自分の滅亡後に猶聳えてゐることを考へると平和な落着いた氣持になれた。彼らの骨格が信じられるのだ。
[やぶちゃん注:「茫乎」ぼんやりと摑みどころのないさま。]