フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 2022年3月 | トップページ | 2022年5月 »

2022/04/30

譚海 卷之四 同所小山驛天王寺古跡幷大谷の觀音・ゆづる觀音・岩船地藏尊の事 / 譚海 卷之四~了

 

○同所小山(おやま)驛に天王寺といふ有、小山判官の菩提寺也。驛より東の方ヘ松杉茂(しげ)たる道を四五町行(ゆく)所に有。則小山判官の系圖同じく鎧かぶとなど什物に傳(つたへ)て有。又此寺四五町脇に小山氏の古城の跡有、澤をわたりて山をこえて至る、荊棘(けいきよく)道をふさぐ。大(おほき)なる銀杏樹(いちやう)のもとに古井(ふるゐ)有、其かたわらに七つ石とて、殊に大なる石七つ有、はまぐりの如く、半月の形ちの如く、龜の甲の如く、ひきかへるの如く、皆一丈餘なる物也。此城の堀は昔龜の字の畫(ゑ)にほるといへり。めぐりめぐりて半(なかば)は草に沒し、人跡(じんせき)まれなる所とぞ。又ゆづる・岩船(いはふね)・大谷とて參詣する所は、日光山の西に付(つき)てあり。ゆづるの觀世昔は山谷(さんこく)の間にして岩を切(きり)うがち、洞(ほら)の中に丈六の觀音を同じ岩に鑱付(ほりつけ)て有。其洞の入口の上のかたに大蓮花をえり付(つけ)たる。わたり一丈餘有、山水(やまみづ)此蓮花をつたひてしたゝるゝ面白き事也。山上に胎内くゞりなどとて深き洞穴(ほらあな)有、甚(はなはだ)せばくして漸(やうやう)ぬけらるゝ所ありとぞ。又岩船地藏尊は山の高き所に、船のかたちにて大なる一枚の岩(いは)深谷(ふかきたに)にさし出(いで)てあり。其へさきに石體(せきたい)の地藏ぼさつ、谷のかたへむいて立(たち)ておはす、夫(それ)を正面より拜み奉らんとて、此岩船をめぐりて、谷をうしろにして地藏尊をおがむ事也、足うごもちて甚おそろしき所也。其岩の上より遠望すれば、村落所々に有(あり)て甚(はなはだ)佳景なりとぞ。又大谷の觀音は同じく深山中にあり、谷にのぞきて、大なるいはほかさなり出たるうヘに、本堂をつくりかけて、其堂なかばは岩石をつくり足したるもの也。山を洞の如くきりひらきて、奥に丈六の觀音をほりうがちたり、此邊すべて大石のみ多し、別當の庭池をうがち、山水を引(ひき)佳景也。

[やぶちゃん注:「同所」前の「下野國萱橋白蛇の異病はじまる事」を受けたもの。

「小小山驛に天王寺といふ有、山判官の菩提寺也」この寺は栃木県小山市本郷町にある曹洞宗の天翁院(てんのういん)の誤りであろう。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『小山氏の菩提寺として知られ』久寿二(一一五五)年、『小山政光の開基といわれる。当初は北山(小山市中久喜地内)に創建されたが』、文明四(一四七二)年、『小山持政が培芝正悦(ばいし しょうえつ)を中興開山の師として招聘し、現在地に移建した。とくに』十八『代小山高朝に崇敬され、この頃に小山市の菩提寺として発展した』。『院号の天翁院は、小山高朝の法名「天翁考運」にちなむ』とある。但し、ここに出る三人の当主は孰れも「判官」を名乗ったことはない。官位で判官を名乗ったのは小山氏第八代当主小山秀朝や、一族の一人である小山隆政がいるが、彼らを上の三名を差し置いて示すのはおかしい。よく判らぬ。以下の城の謂いから、津村は鎌倉初期の小山家の祖である政光を指してこう言っているものと断ずる。

「小山氏の古城の跡有」小山城。別名は「祇園城」。当該ウィキによれば、久安四(一一四八)年に『小山政光によって築かれたとの伝承がある。小山氏は武蔵国に本領を有し』、『藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った』。『小山城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった。当初は鷲城の支城であったが、南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となった』。康暦二(一三八〇)年から永徳二(一三八三)年に『かけて起こった』「小山義政の乱」(室町前期に下野守護であった小山義政が鎌倉公方足利氏満に対して起こした反乱)『では、小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城のうち「祇園城」が小山城と考えられている。小山氏は』この『乱で鎌倉府により追討され』、『断絶したが、同族の結城家から養子を迎えて再興した』。『その後は、代々小山氏の居城であったが』、天正四(一五七六)年に『小山秀綱が北条氏に降伏して開城し、北条氏の手によって改修され、北関東攻略の拠点と』なった。『小田原征伐ののち』、慶長一二(一六〇二)年『頃、本多正純が相模国玉縄より入封したが、正純は』元和五(一六一九)年、『宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった』とあり、さらに過去に『発掘調査で礎石と思われるものが確認され』、『小山城のあった場所は、現在、城山公園となっている。すぐ近くにある小山市役所の正面入り口前の駐車場に「小山評定跡」石碑と由来碑が設置されている。各曲輪はいずれも空堀によって隔てられており、土塁、空堀、馬出しなどの遺構が明瞭に残っている。また遺構は隣接する天翁院(小山氏の菩提寺)にも残っており、空堀や土塁が確認できる。城山公園の南側には小山御殿跡』(元和八年)があるとあり、また、『城跡内には実無しイチョウという古木があり、小山市の天然記念物』『に指定されている』とある。「龜」の字型の堀というのは異様に複雑で、そんな痕跡があるのであれば、これは見て見たいものだ。城跡はここ

「ゆづる・岩船・大谷」底本の竹内利美氏の注に、以上は、『いずる観音・岩舟地蔵・大谷観音』を指し、『栃木県の出流(いづる)山の観音、石灰洞の奇勝に仏を奉安する満願寺がある。大谷観音は多気山の洞窟に石仏を奉置してある、大谷寺。大谷石の産地でもある。岩舟山は都賀郡にあり、山上に地蔵尊を祭る高勝寺がある。同じく岩山の奇勝で、石材の産出もおこなわれている。』とある。一番目は栃木県栃木市出流町にある真言宗出流山(いずるさん)満願寺。本尊は伝空海作の千手観世音菩薩。二番目は。栃木県宇都宮市大谷町にある天台宗天開山浄土院大谷寺(おおやじ)。三番目は栃木県栃木市岩舟町静にある天台宗岩船山高勝寺の岩船地蔵尊

「うごもちて」どうもぴんとこない。この語はモグラの古名「うごろもち」で判る通り、「土などが高く盛り上がる」の意である。怖くなって足がむくんで思うように動かなくなるということか。]

譚海 卷之四 下野國萱橋白蛇の異病はじまる事

 

○下野(しもつけ)結城萱橋の邊にて、天明卯年淺間山燒(やけ)たる後より白蛇纏(しろへびまとひ)と云(いふ)病はやるよし。その病體(びやうたい)背中にかんぴやうほどの太さにて白きもの一筋橫に出來る。日數(ひかず)を經(ふ)ればたすきをかけたる如く胸へまはり、はらのうへにて此筋(このすぢ)合(がつ)するときは死するなり。醫療殊にむづかしく、難治の症也、いかなる事ともしらず、昔よりなき病(やまひ)也といへり。

[やぶちゃん注:「下野結城萱橋」栃木県小山(おやま)市萱橋(かやはし)(グーグル・マップ・データ)。この話、非常に興味があるのだが、ネット上には全く記載がない。何か見つけたら、追記する。]

譚海 卷之四 湖水の氣雲となり幷富士山雨占候の事

 

○甲州の人かたりしは、湖水の氣のぼりて雲と成(なる)と覺えたり。其國に湖水多し、時(とき)有(あり)て湖水の上に雲(くも)現ず。苒々(ぜんぜん)にして鮮(あざやか)なる形(かたち)其儘の湖水の中に現(あらは)る也。空に現ずる雲の姿にて湖水の形しらるゝといへり。又わたぼうしほどの雲空に現じて、苒々にふじの山に近づく、富士山の上に雲至る時、黑き色に成(なる)時はまのあたり雨ふる、白ければ雨降(ふら)ずと云。

[やぶちゃん注:「苒々」この場合は、時間がゆっくると経過するさまを言う。]

譚海 卷之四 箱根の湖水を拔取て甲州の田にかくる事

 

○近年箱根の湖水を拔(ぬき)て、甲州の田地にひたす事有、御代官田中氏の工夫也といへり。甲相のあひだにあたりて、湖水より三里ほど退(のき)てあらたに山間を掘(ほり)て、水道をこしらへたれば、三里のあひだ湖水地中を伏しくゞりて水道に出(いで)、迅瀨(はやせ)と成(なり)て落(おつ)るとぞ。豆州三島宿にて深夜に至る程、いづこともなく水の音漕々(さうさう)と聞ゆるは、此湖水の甲州へぬけるひゞきとぞ。

[やぶちゃん注:これは「箱根用水」。「深良(ふから)用水とも呼ぶ。但し、「甲州」というのは「駿州」の誤りである(津村はどうも地理に弱かったらしく、他でも、地理上のトンデモ齟齬を有意にやらかしている)。小学館「日本大百科全書」によれば、箱根外輪山湖尻峠の下に隧道を掘り、相模国芦ノ湖の水を駿河国駿東(すんとう)郡深良村(現在の静岡県裾野市)の深良川に注ぎ、さらに流路変更や新川掘削工事などを施して黄瀬(きせ)川に結び、嘗つての駿河国の井組(現在の水利組合)二十九ヶ村(現在の御殿場市の一部及び裾野市・長泉町(ながいずみちょう)・清水町などに相当する広域)、面積五百ヘクタール余に灌漑用水を供給した用水。この用水の特色は、相駿国境及び水系を越えた用水路であること、また、湖尻峠の下に長さ千三百四十一・八メートル、平均勾配二百五十分の一、取入口と取出口の標高差が九・八メートルという巨大な隧道を持つことである。深良村以南の地は箱根山及び愛鷹(あしたか)山の裾に開け、北から南に黄瀬川が流れているが、水量も少なく、また、深い侵食谷を形成しており、灌漑用には不十分で開発も不可能であった。寛文三(一六六三)年頃、深良村の名主大庭源之丞(おおばげんのじょう)が、江戸浅草の商人と伝えられる友野与右衛門らと図り、芦ノ湖の水につき、伝統的に権限をもつ箱根権現の別当快長の理解も得て、大庭・友野らが元締めとなって、幕府に開削願いを提出、寛文六(一六六六)年に着工、四年後の寛文十年に完成させた。動員された人夫は三十三万余人、工事費も六千両とも九千七百両などともされ、工法も、火薬などを用いず、鉄鑿(のみ)だけで掘り開けたという。隧道工事の進展につれ、箱根関所の存在に関ることから、幕府などの妨害をしばしば受け、また、完成後まもなく、友野らが消息不明になるなどの奇怪な事件もあった、とある。]

譚海 卷之四 豆州あたみ溫泉・修禪寺溫泉の事 附すゝの池・帝子孫彌陀等の事

 

○伊豆國三島郡は、箱根山にて北をふさぎたる故冬も暖氣也、江戶よりは綿入一つ滅ずるといへり。梅花も冬月の内いつも盛也。又同所熱海入湯は春秋冷(すず)しき時を見はからひて行(ゆく)べし。暑月には其往還南山の腰をめぐりて行(ゆく)所四里ばかりの處有、草いきれて人(ひと)病(やむ)事也。南山四里の際(きは)休むべき人家なく、高山にて南をふさぎたれば一陣の風もなく、北に谷をみてめぐりゆけども、谷のかたは木竹(ぼくちく)しげりて又風をうくる所なし。生ひかぶさりたるきりとほしを行(ゆく)事ゆゑ、盛暑(せいしよ)は甚(はなはだ)苦しく、土地の人も日中は往來せずといへり。又あたみの溫泉ほど奇麗なるはなしとぞ、海中より盬湯(しほゆ)湧(わき)て出(いづ)るを、湯屋の軒端(のきば)つづきに懸樋(かけひ)をして湯をとる也。湯のわく事晝夜二度、潮のさしくる時ばかりわきあがるゆゑ、潮のさすまへかたに湯船をあらひこぼして、鹽湯の湧てくるを待(まつ)ゆゑ、湯船每日掃除するゆゑ奇麗也。その湯のわく時に至りては、海邊壹丈ばかり湯けぶり立のぼる、恐しき體(てい)也。中々寄(より)つかるゝ事にあらずとぞ。又豆州修善寺の溫泉をば今は湯の河原と稱す。三島驛より本道七里有、外に山中をゆけば二里ほど近道なれども、山中蛭(ひる)おほくして甚(はなはだ)難儀なり。入湯をはつて同じ山中を歸るに、蛭一切脚(あし)にとりつく事なし。溫泉の氣を蛭きらふと見えたりと人のいへり。此外所々山中に溫泉有。又奧伊豆に靑すゝの池といふ有、東鑑(あづまかがみ)に見へて古跡也、今は人跡絕(たえ)て蛇蝎(じやかつ)の叢(くさむら)也、稀に遊山(ゆさん)する人冬のあいだに行(おこなふ)事なり。又同國帝王のみだは南海にむかひたる岸に有。乘船の岸(きし)甚(はなはだ)峻岨(しゆんそ)にして、船の着(つく)べき樣(やう)なければ、五六尺を隔てて船へとび入(いる)也。さて船頭五六人にて帝王のみだへ至る、南海の岸の風をうくる所に洞(どう)有、それへ船を乘入(のりいるる)ゆゑ、波(なみ)入(いり)て船をゆりあくれば[やぶちゃん注:ママ。「あぐれば」であろう。]、洞(ほら)の喉(のど)にあたり船を碎(くだ)くゆゑ、舟人杓子(しやくし)のやうなるろにて波のうつ度(たび)に、洞をさゝへつゝ漕入(こぎい)る。十間斗り眞黑なる内を行(ゆき)て彌陀如來立(たた)せ給ふ。波のうつ度にひらひらと金色の現ずるを拜する也。さて船に繩を繫留(つなぎとめ)て洞の内にて舷(ふなばた)をたゝけば、外に引出(ひきいだ)す也。又三島と沼津との間にさかい川といふ跡有、昔は大河成(なる)にや、かち渡りの人足、錢を上(かみ)より給はりたる事舊記に有(あり)といへり。千貫戶樋のあなた也といへり。

[やぶちゃん注:「南山」考えるに、ここでは江戸の読者に向けて書いているのが明白であるから、現在の広義の呼称の箱根山全体(南足柄から明神ヶ岳)を言っているように思われる。「腰をめぐりて行」というのは、しっくりくるからである。

「海中より盬湯(しほゆ)湧(わき)て出(いづ)るを」現在の「大湯間歇泉」がそこである(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「靑すゝの池」「東鑑」(吾妻鏡)「に見へて古跡也」とあるが、私は通常の人よりも「吾妻鏡」を読んでいるが、こんな池の名を見た記憶はない。試みに、「国文学研究資料館」の「吾妻鏡データベース」で「池」と「沼」の全検索を総て見たが、このような固有名詞は検検索結果を総て見た限りでは(見落としがなければ)、存在しない。ご存知の方は御教授あられたい。

「帝王のみだ」これは現在の静岡県賀茂郡南伊豆町手石(ていし)にある自然に形成された海食洞「手石の弥陀窟(阿弥陀三尊)」で、ここ(サイド・パネル画像も見られたい)。現在も陸からは行けず、小型の舟でしか入ることは出来ない(私は行ったことがない)。「伊豆半島ジオパーク」公式サイトの「弥陀窟とその周辺」によれば、『弥陀窟は国指定天然記念物にも指定された海食洞で』、『周辺には海底を流れた溶岩(水冷破砕溶岩)が分布しており、弥陀窟はこの溶岩の中の亀裂に沿って浸食されてできたもので』あり、『波の静かな晴天で大潮の正午に入ると、奥の暗闇に』三『体の仏像が浮かび上がるといい』。『海上からしかアクセスできない上、潮が大きく引かないと船が入れ』ないとあって、『年に一度一般参拝客向けに舟が出』るとあった。弥陀三尊は恐らくシミュラクラと思われる。にしても、標題の「帝子孫」や、ここの「帝王の」という冠は異様で意味も判らぬ。まあ、思うのは現在の「手石」という地名が「帝子」や「帝」になって、それに訳の分からぬ「孫」や「王」がおどろおどろしい下らぬ尾鰭となってくっ付いた昔話にありがちな変容なのかも知れぬ、ということぐらいなものである。

「十間」十八・一八メートル。

「三島と沼津との間にさかい川といふ跡有」サイト「川の名前を調べる地図」で確認。これであろう。]

譚海 卷之四 西國うんかの年に肥後熊本・備前の事 附肥前天草の事

 

○天明より六拾年前、西國うんかといふ災(わざはひ)有。列國の大名の人民、餓死をまぬかれたる者少し。其中に備前と肥前島原と、肥後熊本とは餓死なかりしと也。備前はその儒者熊澤了海、三年のたくはひをこしらへ置(おき)たる米をもちて一國をすくひ、三十五萬石の内一人も窮民なかりし事也。島原は松平主殿頭(とものかみ)殿領所也、其(その)奉行其(それ)兼て一日一人一錢といふ事を工夫致し置(おき)、年來(としごろ)儲置(まうけおき)たる錢を此時に出(いだ)し、七萬石の内一人も餓死なかりし故(ゆゑ)上聞に達し、有德院(ゆうとくゐん)殿御目見被仰付(おめみえおほせつけられ)、御紋付拜領にて、今に其子孫あふひの時服(じふく)を着し、國家老にて有(あり)とぞ。熊本は細川家の領所にて、其用達町人(ようたつのちやうにん)倉田七郞右衞門有德(うとく)なるもの也しが、身上(しんしやう)を抛(なげう)ち仕送(しおくり)せしゆゑ、五拾四萬石又困窮に及ばず。仍(より)て細川殿自筆の賞狀を七郞右衞門に賜り、永々二百人扶持賜りけるとぞ。此賞狀當人の子、萱場町(かやばちやう)鄰家(りんか)出火に、燒失せしかども、今猶勤功(きんこう)をもちて每月二十金づつ合力(こうりよく)せらるゝ、右うんかの年(とし)功あるもの三人也と人のいへり。

[やぶちゃん注:「天明」一七八一年から一七八九年まで。

「西國うんかといふ」災底本の竹内利美氏の注に、『稲の害虫イナゴやウンカが異常発生して災害をもたらしたことは、しばしばあったが、特に享保十七(一七三二)年、西日本の徨害ははなはだしく、餓死者一万二千余、飢者二六五万人に及んだという。天明より約六十年前である。』とある。イナゴ(蝗)は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 𧒂螽(いなご)」を、ウンカ(浮塵子)は「生物學講話 丘淺次郎 五 生血を吸ふもの~(2)」の私の注を参照されたい。

「熊澤了海」陽明学者熊沢蕃山(ばんざん 元和五(一六一九)年~元禄四(一六九一)年)の字(あざな)の一つ。当該ウィキによれば、彼は正保四(一六四七)年から明暦三(一六五七)年まで岡山藩に出仕し、承応三(一六五四)年に備前平野を襲った洪水と大飢饉の際、光政を補佐し飢民の救済に尽力する。また、津田永忠とともに光政の補佐役として岡山藩初期の藩政確立に取り組んだ。零細農民の救済、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させた』が、『大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらし』、『また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者である蕃山は、保科正之・林羅山らの批判を受けた』(彼は幕府からも終生に亙って睨まれた)結果、致仕している。ただ、この津村の言う天明の六十年前には、彼は既に亡くなっている。或いは、彼が慶安四(一六五一)年に岡山城下の花畠にあった屋敷「花畠教場」で陽明学を講じ、「花園会」会約を起草し、『これが蕃山の致仕後の岡山藩藩学の前身となった』とあり、これは実は日本最初の藩校であったと別な記載で確認出来たので、或いは、津村の言うような備蓄制度を在藩中に蕃山が提案しており、それがその後も行われたために、後代、飢饉を免れたということかも知れないが、これはただの思いつきで、よく判らぬ。

「松平主殿頭殿」肥前国島原藩の初代藩主松平忠房(元和五(一六一九)年~元禄一三(一七〇〇)年)が知られるが、ここは以下で、藩主の功として「有德院」(徳川吉宗の戒名の院号)の「御目見」を拝し、蓄財を図った奉行の子孫は国家老であるとあるからには(吉宗の将軍就任は享保元(一七一六)年で忠房はとうに亡くなっている)、松平分家の旗本深溝松平伊行の次男で忠房の養子となった、第二代藩主松平忠雄(延宝元(一六七三)年~享保二一(一七三六)年)となる。彼も官位は忠房と同じ主殿頭である。しかし、忠雄のウィキを見ると、元禄一五(一七〇二)年から『凶作が相次ぎ、さらに元禄期の貨幣経済の浸透により農業が衰退して藩財政が悪化した。このため、長崎商人の融資を受けている』とあり、『晩年の忠雄は次第に精彩を失うようになり』、種々の事件が勃発し、『島原藩は大いに混乱した。さらに』享保一五(一七三〇)年には五十人の『百姓が逃散し』、享保一八(一七三三)年『には虫害』(☜)、翌年には『養子に迎えていた忠救の早世』し、享保二〇(一七三五)年一月には『藩内で疫病が流行するなど、不幸の連続が続いた』とあって、竹内氏が注で指示しておられる六十年前がまさにその時期に当たり、調べれば調べるほど、うまくない反証事実しか出てこないというのは、この津村の話も話半分どころか、半分以下という気がしてくるのである。いや、そもそも最後の「倉田七郞右衞門」というのも、一体、何を生業としている御用町人一人が、どうやったら、熊本藩全体の飢民を救えるというのだ? そんな豪商で義人となら、当然の如く名も残って当たり前だろうに、ちょっと調べ見ても、見当たらない(というか、前の二つでやる気をなくしたから、熱心には調べていない。もし、実在するというのであれば、御教授戴きたい。――しかし、こうなると、これ、「三大ガッカリ」という感じが、強くしてきた。

譚海 卷之四 下野國佐野にて石炭を燒事

 

○下野(しもつけ)佐野にて石炭(いしずみ)をやく事、岩に似たる柔(やはらか)なる石山(いしやま)をのみやく。さいづちにてほりくだき、長さ十五六間に山の形に積(つみ)つゞけ、その下を火のよくとほるやうにし、石をばはにつちにてべつたりとぬりかくし、終りの所へ火氣(ひのけ)のぬけるやうに穴をこしらへ、扨(さて)下には五六箇所にて火をたくやうに拵へたる物也。是をやく事三日三夜ほどして、其後(そののち)火氣收(をさま)り冷灰(ひえばい)に成(なり)たるを見定めて、かたわらなる小屋に移しはこび、灰のかたまりたる上に水をそゝげば又にえかへりて夥敷(はなはだしき)熱氣を生じ、そののちぼろぼろとくだけて灰になる事也。それをしらずして山を燒(やき)たる灰のまゝ俵(たはら)につめ、馬におはせてはこびしに、川中にて馬倒れ、俵に水ひたりてにえあがり、馬を燒殺(やきころ)した事有しとぞ。

[やぶちゃん注:ここに出る最後のそれは石灰石を焼灼して作った消石灰(水酸化カルシウム)であろう。

「十五六間」二十七~二十九メートル。

譚海 卷之四 同國相馬郡山王村にて白玉を得し事

 

○同國相馬郡山王村といふ所に、三左衞門といふものの弟、庄兵衞といふもの有。白玉をひろひて、今は辨天信仰なれば、本尊に合祀して祕藏して傳へたり。元來此玉天明それの年の夜光物ありて、此村を照(てら)し過(すぎ)たる跡に落(おと)し置(おき)たる玉也。人家の垣の境(さかひ)に落(おち)たる折節(をりふし)、其一方の主人病(やめ)る事有(あり)て、かやうの物(もの)祟(たたり)をなす、よからぬ事なりとて、垣の境なれば鄰(となり)のものよとて、鄰なる人へ讓りわたしたるに、その鄰家(りんか)の人恐れおどろきて我物とせず。さる間に此庄兵衞行(ゆき)あひて、然(しか)らば我等にその玉給へとて、貰ひ來りて祀(まつ)れる也。玉の大さ一寸計(ばかり)にして、かしらはとがりて誠に寶珠の圖の如く、色いとしろし、夜陰に書一くだりをば能(よく)てらしみらるゝ、燈をかる事なしとぞ。

[やぶちゃん注:「同國」前の「下總國成田石の事」を受けたもの。

「相馬郡山王村」茨城県の旧北相馬郡の村。現在の取手市山王(グーグル・マップ・データ以下同じ)。同地区には北の端と南の端に「山王神社」はあるが、この白玉の現存はネット上では確認出来ない。最後の辺り、何となく実在は怪しい感じだ。

「天明」一七八一年から一七八九年まで。

「それの年」とある年。]

譚海 卷之四 下總國成田石の事

 

○下總成田不動尊の近きあたりに龍光寺と云(いふ)村有(あり)。夫(それ)に四つの井(ゐ)三つの岩やといふ物あり。此井にて一村飢渴に及(およぶ)事なし。岩屋は二つならびて大なる塚の裾に有、一つは別にはなれて、同じ如く塚のすそに有。岩屋の入口の大さ壹間に九尺、厚さも八九寸ばかりなる根府川石の如きを、二つをもて扉とせり。岩屋の内皆大なる石をあつめて組(くみ)たてたるもの也。其石にみな種々の貝のから付(つき)てあり、此石いづれも壹間に壹尺四五寸の厚さの石ども也。岩屋の内六七間に五六間も有、高さも壹丈四五尺ほどづつ也。此村邊(あたり)にすべてかやうの石なき所なるを、いづくより運び集めて、かほどまで壯大成(なる)ものを造(つくり)たる事にや、由緖しれがたし。村の者は隱里(かくれざと)とてそのかみ人住(ひとすめ)る所にて、よき調度などあまた持たり。人の客などありてねぎたる時は、うつはなどかしたり、今もそれをかへさでもちつたひたるものありといへり。

[やぶちゃん注:私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 九』を参照されたい。そこで柳田は『津村氏の譚海卷四に、下總成田に近き龍光寺村とあるのは、印旛郡安食(あじき)町大字龍角寺の誤聞で、卽ち盜人とも隱れ座頭とも言うた同じ穴のことらしい』とあり、そこで私は本篇を全文電子化して、がっちり考証注をしてあるので見られたい。最後の「椀貸伝説」も、その「隱れ里」その他で柳田の考察が読める。私のブログ・カテゴリ「柳田國男」で幾つもの論文を電子化注してあるので、ご覧あれ。]

譚海 卷之四 黑田家領所にて古印を土中より掘出せし事

 

○天明五年筑前黑田家の領所にて古印を掘出したり。金印にて倭奴國王印と有(あり)、後漢光武の時日本へ贈られたるものの由、後漢書等考證明據(めいきよ)ある事とぞ。印は領主の府に納られたりとぞ、珍敷(めづらしき)事也。

[やぶちゃん注:あまりに知られたものであれば、ウィキの「漢委奴国王印」をご覧あれかし。]

譚海 卷之四 江戶駿河臺名付の事

 

○東照宮慶長の比(ころ)は駿河の城にをはしまし、臺德院殿江戶の城に御座あるゆゑ、駿河より御旗本の衆、江戶の御城番に、一年に一度づつ詰(つめ)る事也。但一日一夜の御番にて、駿河より江戶ヘ二日一泊にくる事也。三百石五百石とる人も、自身と家老二人道中せしとぞ。主人は陣羽織を着し、やなぐひをおひ、弓を持(もち)、具足櫃(ぐそくびつ)を負(おひ)て旅行す。家老は主人の着用の服一つ板二枚にてはさみ、並(ならび)に麻上下(あさかみしも)共に棒にくゝり付(つけ)、白米二三升負て供をする也。白米は二日道中の用也。江戶着の節(せつ)番頭へ屆(とどけ)れば、伊奈半左衞門殿より御番中の飯米はわたし給はる事也。いづれも着(ちやく)の日は、神田すぢかひの内に居小屋(ゐごや)有(あり)て落着(おちつき)、明日(みやうにち)交代して御番に出(いで)たるゆゑ、かしこをするがだいと云ならはしたるとぞ。

[やぶちゃん注:「臺德院殿」第二代将軍徳川秀忠の戒名の院号。

「神田すぢかひ」江戸城筋違見附跡(筋違門)附近。東北東直近が現在の駿河台(グーグル・マップ・データ)。

「するがだい」後の徳川家康の死後に、駿府の旗本を呼んで居住させたことから、この名がある。]

譚海 卷之四 信州伊奈郡水帳に記したる信長公軍役の事 附一せんきりの事

 

○信長公諸國へ軍役の人を召さるゝに、信州伊奈郡(いなのこほり)五千石の所にして、步役(ぶやく)二人上京する定(さだめ)也。其二人路用ならびに在京の入用ども、壹人に鳥目(てうもく)二百文づつ渡し遣す事なるに、五千石の内をあなぐり集(あつめ)たるに、鳥目八拾四文ならでなし。其比(そのころ)其郡にいづかたよりか浪人にて近比(ちかごろ)在住せし人有、新來の人なれば百姓の交(まじは)りには入(いら)ず、只(ただ)穴山殿と號して外人(よそびと)にあひしらひ置(おき)たるが、穴山殿こそ有德(うとく)なる人なれば、鳥目はあるらめと申定(まうしさだめ)て、莊屋(しやうや)より鳥目を借(かり)に行(ゆき)たるに、穴山鳥目四百文を出していふやう、今迄は他國の我等事(われらこと)ゆへ交にもはぶかれたれども、此鳥目を出(いだ)し申(まうす)うヘは、向後(かうご)百姓中のかしらになし給はれといひければ、百姓ら大(おほき)にいかり、たとひ拂底(ふつてい)なる鳥目を出さるゝといへども、他國の人を頭にはなしがたし、但(ただし)向後我等等配(とうばい)の交りには入(い)らるべしとて、鳥目をかりて步行(かちだち)の人を仕立(したて)上京させしとぞ。其步役六十六里の道を六日半に京へ着(つく)事にて、一日の路用錢七文程にて飮食ともに辨(わきまへ)たるとぞ。此事其郡の水帳(みづちやう)のおくにしるし有とぞ。又信長記(しんちやうき)に一錢ぎりといふ事あり、是はむかしは髪月代(かみさかやき)も自鬢自剃(じびんじてい)にして、人にゆふてもらふ事はなし、只入牢の罪人あまり長髮に成(なり)て見苦しければ、繩付(なはつき)にてあるゆゑ自剃かなひがたきまま、牢獄の番人髮をゆふてやる也。信長公在陣のせつ牢獄の番人を召して、人々の髪月代をさせられて、その報に一人に一錢づつ出す事を定(さだめ)られたり。されば牢獄の番人罪人をもやがて斬罪するゆゑ、一錢ぎりとは番人の名を呼(よび)たる事也と、土岐異仙物がたり成(なる)由。

[やぶちゃん注:「信州伊奈郡」現在の飯田市・伊那市・駒ヶ根市・上伊那郡・下伊那郡に相当し、面積は信濃国の内の郡では最大であった。郡域は参照した当該ウィキの地図を参照されたい。

「信長公軍役」天正一〇(一五八二)年、織田信長は武田氏を滅ぼし、伊奈郡を手に入れていた。

「水帳」「御図帳」の当て字で「検地帳」のこと。江戸時代には人別帳をも指したが、ここは前者。

「あなぐり」「探り」。探り求め。

「穴山殿」甲斐武田氏の家臣で御一門衆の一人で穴山氏七代当主穴山信君(あなやまのぶただ天正一〇(一五八二)年 (享年三十九歳))がおり、彼は信玄末期より仕え、勝頼の代にも重臣として仕えたが、織田信長の甲州征伐が始まると、武田氏を離反、天正十年二月末に徳川家康の誘いに乗り、信長に内応、その後、信君は織田政権から甲斐河内領と駿河江尻領を安堵された織田氏の従属国衆となり、徳川家康の与力として位置づけられている。彼及び一党を「甲陽軍鑑」その他の文献では「穴山殿手勢」「穴山衆」と名づけている。或いは、その中の下級の一人が主家を離れ、流浪の末に旧地方へ立ち戻ったものでもあったものか。但し、明白に「他國の我等」と述べている点でやや不審があるが、自らこの名を、この地で名乗っている点では、やはり「穴山衆」の者ととるべきであろう。

「一錢ぎり」小学館「日本大百科全書」を見ると、安土桃山時代の刑罰とし、織田信長や豊臣秀吉が出した戦陣の禁制にみえる語で、乱暴狼藉などを働いた者は「一銭切たるべし」と定めている。その内容については江戸時代から二説あり、その一つは新井白石の説で、「たとえ一銭(=一文)を盗んでも、死刑に処することを意味した」とし、その二は旅行家で考証家の伊勢貞丈の説で、『「切」は「限り」を意味とし、過料銭、則ち、罰金を取り上げる場合、一文までも探して全財産を没収すること』と理解している。現代においても、孰れが正しいかは一定していないが、戦国時代から安土桃山時代にかけては、戦時体制のもとで厳罰主義がみられ、特に戦陣においては規律を保つためにこのような刑罰を予告したのである、とあった(別に、斬首したその切り口が緡銭(さしせん)のそれに形状が似ているからという説もある)。しかし、ここで津村が言っているそれは、まず、罪人の髪を切る「一銭切り」で、結果、罪人はその髪を切った番人が実務として斬罪に処したから「一銭斬り」という掛詞として述べている。どうもこの津村の説は、後代の作り話ように思われる。なお、「信長記」のそれは、第一巻末の国立国会図書館デジタルコレクションの画像(元和八(一六二二)年版のここの右丁七行目に現われる。永禄十一年十月十日の制札に関わる記載で(句読点・濁点・記号を添え、漢文の部分は訓読し、カタカナを総てひらがなに代えた)、

   *

角て、信長卿は清水寺に在々(ましまし)けるが、洛中洛外に於いて、上下、みだりがはしき輩(ともがら)あらば、「一銭切り」と御定して有て、則、柴田修理亮、坂井右近將監、森三左衞門尉、蜂屋兵庫頭、彼れ等四人に仰付られければ、則、制札(せいさつ)をぞ出しける。

   *

とある。私の思ったように、底本の竹内利美氏も以下のように注されておられる。『「一銭ぎり」は「一銭剃」あるいは「一銭職」の誤りであろう。近世初期の髪結職は一人一銭(文)で月代をそり結髪したから、一銭職・一銭剃と呼んだと伝え、その職の由来に信長や家康などに付会した説話があった。そしてその後も髪結職人や床屋は、一銭職の由来記を伝存し、正統たるを示すことがおこなわれてきた。この話はその由来譚の一種が、若干変形したものだろう。というのは別に「一銭ぎり」とは、戦国期の刑罰で、たとえ一銭でも盗んだものは斬罪にして軍規を保つに努めたとか、あるい斬賃一銭で賤民に処刑をおこなわせたというからである。この二つの伝承が牢番のことに習合したらしいのである。』とあった。

「辨たる」総てを賄うようにする。

「土岐異仙」不詳。]

譚海 卷之四 土州海上難儀の事

 

○土佐國より大坂へ海上直乘(ぢきの)り甚(はなはだ)難儀也。其國の士(し)物語せしは、土佐を出(いづ)るより大坂までの船中は、中々船の内に起(おき)て居(ゐ)らるゝ事成(なり)がたし。只ふしまろびて漸(やうやう)海路(かいろ)をへる也。尤(もつとも)入坂(にゆうはん)せざる間は飮食もなしがたき程の風波也。あやうき風に逢(あひ)たる事兩度有(あり)しが、風惡敷(あしく)成(なり)て波高く成(なり)ゆけば、大船(おほぶね)は急に進退成(なり)がたきゆゑ、漕(こぎ)つれたるはし船(ぶね)に乘(のり)うつりて命をたすかる、はしぶねをこぎよせたれど、大船の際(きは)へ波高く打(うち)あてて乘移(のりうつ)りがたき時は、大船よりはしぶねに幕を引(ひき)はり、其上をすべり落(おち)て、のりうつりたる事ありしとぞ。

[やぶちゃん注:「直乘(ぢきの)り」土佐から、大きく外洋を巡って反時計回りに直行する船便ということであろう。

「はし船(ぶね)」「端舟・端艇・橋船」で清音で「はしふね」とも呼ぶ。本船に対する端船で、大型船に積み込んでおき、人馬・貨物の積み下ろしや、陸岸との連絡用として使用する小船。「はしけぶね・はしけ」も同じ。

「大船よりはしぶねに幕を引(ひき)はり、其上をすべり落(おち)て、のりうつりたる事ありし」航空機の緊急脱出スライド式の発想が既に江戸時代に普通にあったのが面白い。]

譚海 卷之四 下野相馬領妙見菩薩祭禮の事

 

○相馬家妙見(めうけん)菩薩信仰にて、其國に祠る所の大社有、妙見の眷屬なりとて馬をとる事をせず。さる間(あひだ)相馬には別(べつし)て野馬(やば)多く、田畑の害をなす事ゆゑ、每年三月廿六日妙見の祭禮とて諸士甲冑(かつちう)を帶し、隊をわけ軍陣のよそほひして、野馬を狩(かり)て山中に追(おひ)やる也。是を野馬追(のまお)ひの祭禮とて、他國になき嚴重なる儀也。又正月三日の間は、妙見菩薩の爲に潔齋精進也。四日より肉をくふ事をする也。元日は諸人みな水をあびてものいみするなり。三日迄にはのしあはびをみても、けがれたりとて水をあびつゝしむなりとぞ。

[やぶちゃん注:「相馬家」初代は鎌倉初期の武将千葉常胤の次男相馬師常で、師常が父から相馬郡相馬御厨(現在の千葉県北西部の松戸から我孫子の一帯)を相続されたことに始まるが、相馬氏は後に幾流にも分派した。その内、ここに出る、現在の福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる相馬中村神社相馬太田神社相馬小高神社(グーグル・マップ・データ。巨視的な三社の位置関係は「相馬馬追」公式サイトはこちらの右のパネルで判る)の三つの妙見社の祭礼である軍事訓練を模した神事「相馬野馬追(そうまのまおい)」は、その内の陸奥(中村)相馬氏によって守られてきた神事である。ウィキの「相馬氏」によれば、『陸奥相馬氏(中村相馬氏)は、遠祖・千葉氏が源頼朝から奥州の小高に領地を受けた後、千葉氏族・相馬重胤が移り住み、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州において、数少ない北朝方の一族として活躍した。南北朝の争乱が収まると』、『やや衰退し、室町時代後期には争っていた標葉』(しべは/しねは/しめは)『氏を滅ぼしたものの、それでも戦国時代初期には行方』(なめかた)『・標葉・宇多の』三『郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった』。『しかし武勇に秀でた当主が続き、現在の米沢や宮城県を領する伊達氏や、現在の茨城県北部を領する佐竹氏に対しても一歩も引かなかった。伊達氏とは小高と中村の双方に目を配らせて』三十『回以上におよぶ戦闘を重ね、たびたび苦杯を舐めさせている。やがて伊達政宗が現われ、南奥州の諸大名が政宗の軍門に降った時も、相馬義胤は敗れたとはいえ』、『独立を維持し、伊達氏と戦う意地を見せ』、天正一八(一五九〇)年、『豊臣秀吉の小田原征伐に際し』、『豊臣方について本領を安堵され』、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では、『縁戚の佐竹氏と共に中立』の立場をとったが、『豊臣政権時代に西軍・石田三成と親密であった佐竹義宣の弟・岩城貞隆と婚姻を結ぶなどしていたため』、『西軍寄りとみなされ、徳川家康によって改易された。しかし』、『相馬利胤は幕閣に取り入ることで本領を安堵され、近世大名(中村藩主)として生き抜くことに成功した。対照的に常陸を追放され秋田に転封された佐竹氏とは、その後も養子を送りあうなど親密な関係を維持した。結果として、陸奥相馬氏は現在の浜通り夜ノ森以北を鎌倉開府から戊辰戦争終結に至る』七百四十『年もの長期にわたって統治した』。『中村相馬氏の戦国大名としての意地を思わせる相馬野馬追が現在でも行なわれ、後世に相馬氏の勇壮さを示しているが、一説にはこれが』「繋ぎ馬紋」の『原型になったともいう』(ここには「用出典要請」がかけられてある)。この「繋ぎ馬紋」は『今日でも築土神社や神田明神など、平将門を祀る諸社で社殿の装飾などに用いられている』。『毎年、旧相馬中村藩領で行われる相馬野馬追では藩主であった相馬氏の当主が総大将の役を務めると決まっている。しかし、近年』(二〇一五年現在)『は当主の名代として当主の子が務めることが多い』。『旧相馬中村藩領は』二〇一一年の『東日本大震災で打撃を受けた上、その一部に建つ福島第一原子力発電所の事故によって小高以南が立入禁止区域となった。これに伴い、旧藩主家とその一族は一時』、『北海道へ移った後』、後代になって『広島県東部にある神石高原町へ集団移住し』ている。『相馬家の遠祖は平将門とする伝承があるが、相馬野馬追の領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている』とある。ウィキの「相馬野馬追」によれば、『鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練が一切取り締まられたが、この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた。公的行事としての傾向が強くなったのは、江戸時代の相馬忠胤による軍制改革と、相馬昌胤による祭典化以降と考えられる』。明治元(一八六八)年の『戊辰戦争で中村藩が明治政府に敗北して廃藩置県により消滅すると』、明治五年には『旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り』、明治十一『年には内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である』。『相馬氏は将門の伝統を継承し、捕えた馬を神への捧げ物として、相馬氏の守護神である「妙見大菩薩」に奉納した』。『これが現在「野馬懸」に継承されている。この祭の時に流れる民謡』「相馬流れ山」は、『中村相馬氏の祖である相馬重胤が住んでいた下総国葛飾郡流山郷』『(現在の千葉県流山市)に因んでいる』。『騎馬武者を』五百『余騎を集める行事は現在国内で唯一である。馬は一部の旧中村藩士族の農家、相馬中村神社や野馬追参加者により飼育されてはいるが、多くは関東圏からのレンタルによって集められている。で、今年の開催日程は「相馬馬追」公式サイトのこちらPDF)。なお、現在(令和二(二〇二〇)年三月十日時点)の福島県の帰宅困難地域(立ち入り禁止区域)はこちら(福島県庁版)。

「妙見菩薩信仰」ウィキの「妙見菩薩」によれば、『妙見信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである』。『妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら』、『実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されている』。『道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになったと考えられる』。『「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである』。『妙見信仰は中国の南北朝時代には既にあったと考えられているが、当時からの仏像は未だに確認されていない』。『妙見を説く最古の経典は』、「七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経」(三一七~四二〇年成立:西晋から五胡十六国期)であり、そこ『では、妙見菩薩の神呪を唱えることで国家護持の利益を得られるとされている』。『唐代に入ると』、『妙見信仰が大きく発展し、妙見関連の経典や行法が流布した。円仁の旅行記』「入唐求法巡礼行記」『から、当時の中国では妙見信仰が盛んであったことが窺える』。『妙見信仰が日本へ伝わったのは』七『世紀(飛鳥時代)のことで、高句麗・百済出身の渡来人によってもたらされたものと考えられる。当初は渡来人の多い関西以西の信仰であったが、渡来人が朝廷の政策により』、『東国に移住させられた影響で東日本にも広まった。正倉院文書』(天平勝宝四(七五二)年頃)『に仏像彩色料として「妙見菩薩一躰並彩色」の記事』が見え、また「続日本紀」(延暦一六(七九七)年完成)の巻三十四には『上野国群馬郡(現・群馬県高崎市)にある妙見寺に関する記載がある』。『北斗七星の内にある破軍星(はぐんせい)』『にまつわる信仰の影響で、妙見菩薩は軍神として崇敬されるようになった』。また、密教経典の「仏説北斗七星延命経」(唐代の成立)では、『破軍星が薬師如来と同一視されたことから』、『妙見菩薩は薬師如来の化身とみなされた』、『なお、薬師如来のほか』、『本地仏に十一面観音』『あるいは釈迦如来』『を当てる例もある』。『千葉氏が使用した九曜紋の中央の星が北極星(妙見菩薩)を表すという説』もある。『中世においては、鷲頭氏、大内氏、千葉氏や九戸氏が妙見菩薩を一族の守り神としていた。千葉氏は特に妙見信仰と平将門伝承を取り込み、妙見菩薩を氏神とすることで一族の結束を図った』ことから、『千葉氏の所領であった地域に』は『必ずと』言っていいほどに『妙見由来の寺社が見られる。千葉氏の氏神とされる千葉妙見宮(現在の千葉神社)は源頼朝から崇拝を受けたほか、日蓮も重んじた。また、千葉氏が日蓮宗の中山門流の檀越であった関係で妙見菩薩は日蓮宗寺院に祀られることが多い』。『中世初期に中国から伝来し』、『陰陽道に取り入れられた「太上神仙鎮宅七十二霊符」(「太上秘法鎮宅霊符」とも)と呼ばれる』七十二『種の護符を司る鎮宅霊符神(道教の真武大帝に比定)とも習合された。大阪府にある小松神社(星田妙見宮)では元治元』(一八六五)『年の鎮宅霊符の版木が伝わっており、現在もこの霊符が配布されている』。『妙見信仰の聖地として有名な能勢妙見山(同府豊能郡能勢町)でも鎮宅霊符神と妙見菩薩が同一視されている』。『以上に加えて、地域によっては水神、鉱物神・馬の神としても信仰された。能勢がキリシタン大名の高山右近の領地であったことと、キリシタンの多い土地に日蓮宗の僧侶が送り込まれたことから、隠れキリシタンは日蓮宗系の妙見菩薩像(いわゆる能勢妙見)を天帝(デウス)に見立てたともみられている』。『平田篤胤の復古神道においては』、記紀に『登場する天之御中主神は天地万物を司る最高位の神、または北斗七星の神と位置づけられた。その影響で、明治維新の際の神仏分離令によって「菩薩」を公然と祀れなくなってしまった多くの妙見神社の祭神が天之御中主神』(あめのみなかぬしのかみ)『に改められた』。上記三社にあった妙見菩薩像は、そのおぞましき神仏分離令により、相馬中村神社のものは福島県相馬市の歓喜寺(真言宗)に、相馬小高神社のそれは南相馬市の金性(きんしょう)寺(真言宗)に、相馬太田神社のそれは相馬市の医徳寺(真言宗)へそれぞれ移されてしまった。]

2022/04/29

譚海 卷之四 相州三浦海照燈幷城が島大蛇の事

 

○相州三浦に海照燈(かいしやうとう)有、每夜かゞり火を燒(やき)て海舶(かいはく)の便宜(べんぎ)とせらる。其薪料(まきれう)は浦賀へ海舶來(きた)る時定額(ぢやうがく)ありて運上する事也。大山迄は三浦より十六里ばかり有、然るを登山して夜中三浦の方を望めば、篝火の大さ猶(なほ)松明(たいまつ)の如くに見ゆるといへり。又三浦城の島は三浦道寸の城跡也。今は番所を立(たて)て人の住居(すみゐ)亂入を禁ぜらるゝゆへ、常時より今に至るまで草木しげりたるまゝにて、大木の朽(くち)そんじたるなど充滿せり。又竹藪ことにしげりて、年々尺にあまる廻(まはり)の竹を生ずれども、人のとる事かなはず、夜陰に竹の子など取(とり)に至れ共(ども)、うはゞみありとて人(ひと)行(ゆく)事なし。此大蛇常に見たる事はなけれども、風雨の翌日などは立(たて)うすをころがしたるやうに田畑の麥(むぎ)なびきふして、海邊(うみべ)までつゞける事をみる事時々なり、是(これ)うはばみのかよひたる跡也とぞ。

[やぶちゃん注:「相州三浦に海照燈有」古来より浦賀水道は難所だったため、江戸時代に、城ヶ島の西側の安房崎に灯明台(狼煙(のろし)台)が設置された(後にその西側に移設)。現在の安房埼灯台がその跡地である(グーグル・マップ・データ。大山を入れてある)。

「大蛇」優れた龍の博物誌サイト「龍鱗」の「島に上陸した大蛇」と、ビジュアルな「恐ろしい大蛇と武将の伝説 城ヶ島の楫の三郎山神社(三浦市)」がお勧め。]

譚海 卷之四 唐山の人尺牘加餐の字幷扁額・姓名等の事

 

○華人尺牘(しやくとく)の末に加餐と云(いふ)事を書(かく)は、華人は飯をくふて仕廻(しまはし)の一碗(ひとわん)を汁懸(しるかけ)にしてくふ事を加餐といふとぞ。又遍額[やぶちゃん注:ママ。]にも華人は自身の名をば金箔にせず、天子の御名ならでは金にせざるゆゑといへり。黃檗寺(わうばくじ)の額など、すべて額の文字は金なれども、其人の名をば赤くしておく事此類(たぐひ)なりといへり。

[やぶちゃん注:「尺牘」書状。

「加餐」「食物を加える」の意から、「養生すること・健康に気をつけること」の意であるが、現行では、多く、手紙文で相手の健康を願って用いる語として、私は使ったことはないが、生きている。近代作家の書簡でよく見かける。

「黃檗寺」ここは江戸初期に来日した明(末期)の僧隠元隆琦(一五九二年~一六七三年:本邦で没した)を開祖とする日本の三禅宗の一つである黄檗宗の寺院、或いは、その隠元が開いた京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺のことを指す。]

譚海 卷之四 市村羽左衞門芝居休みに成たる事

 

○天明四年十月十八日、市村羽左衞門(うざゑもん)芝居借金にて休み、相州小田原驛の住桐大藏(きり おほくら)といふもの桐長桐(きり ちやうきり)と改名し、葺屋町芝居興行致し、かり芝居の積りにて仰付られ、同霜月十三日より顏見せ狂言はじまる。羽左衞門木挽町森田勘彌座へ狂言助力に出たり。凡三十八年の間芝居類燒八度に及び、芝居できがたく休(やすみ)に成(なり)たり。古來より羽左衞門借金高十六萬四千四百兩に及(およぶ)といへり。同年極月森田勘彌又類燒に及び、翌五年三月より、羽左衞門事さるわか勘三郞座へ助(すけ)に出(いで)群集に至る。ふきや町芝居休み困窮に及び、家主世話にて金子をこしらへ、桐長桐座をはじめたる故、又ふきや町にぎはへり。天明四年七月中より普請はじまり、廿日の内に出來、やぐらをあげ興行に及ぶ。每日家主立合世話致し、芝居失墜格別に減少し、山師の類(たぐひ)一切懸り合(あひ)に致さゞるゆへ繁昌す。後二年もへて羽左衞門事死去せり。

[やぶちゃん注:この人物は、九代目市村羽左衛門(享保九(一七二四)年~天明五(一七八五)年)。屋号は「菊屋」、俳名は「家橘」(かきつ)。当該ウィキによれば、『八代目市村羽左衛門の長男で』、享保十六年七月、『市村満蔵を名乗り市村座で初舞台』を踏み、延享2(一七四五)年『に市村亀蔵と改名』、宝暦一一(一七六一)年三月、『伊勢参りの名目で上方へ行き、伊勢参宮の』後、『大坂に行き、中山文七座に同座して五変化の所作事などを見せ』、後、『京にも行き』、『やはり五変化の所作を上演して名を』挙げ、『同年』十一月に『江戸に戻った』。宝暦一二(一七六二)年、『父八代目羽左衛門の死去により』、『市村座の座元を相続すると同時に市村羽左衛門を襲名。しかし』、『その後』、『火事や先代からの借金に苦しめられ』、天明四(一七八四)年には、『ついに市村座は倒産』、『閉場し、控櫓の桐座に興行権を譲るに至った。その翌年、中村座の座元中村勘三郎の勧めにより』、『羽左衛門は中村座に出演し、一世一代として変化舞踊を演じたが、その』中で、「猿まわし」の猿に扮し、「娘道成寺」の『所作事を演じ』、『同年』八『月に没』した。彼は、若い頃は、『魚のような顔つきだと評され』、『荒事ばかりを演じていたが、のちに和事や実事、また女の役も演じるようになり、八代目に劣らず』、『幅広い芸風を誇った。特に所作事においては』、『名人との評判を得ている。子に十代目市村羽左衛門が』おり、市村座を一度は復興している。「桐座」については、ウィキの「江戸三座」の「本櫓と控櫓」を参照されたい。]

譚海 卷之四 豐前宇佐石佛五百羅漢・石橋等の事

 

○豐前宇佐八幡宮より六里脇に、五百羅漢といふ山有。山中悉く石佛を等身に鏡刻せしもの充滿せり、三千體に餘れりとぞ。五百羅漢の外に諸佛の像を拵へて山中、露地に立てあり。又座頭佛と云有、中央に琵琶法師坐せり、其前後に座頭二十人ばかり坐したる所を拵たり。前より見、後より見ても、顯然たる座頭のやう也。此山の入口甚(はなはだ)峻(けはしき)坂にて、はひのぼらねば登りがたし。五六間もはいのぼれば立(たち)てゆかるゝやうに成(なる)也。山中に十間斗りの石橋(しやくきやう)有、是は自然の物也、幅三四尺斗りにて深谷(ふかきたに)へ懸りて有(あり)、尋常に渡りがたし、恐しき事いふばかりなし。

[やぶちゃん注:宇佐の五百羅漢というと、東光寺五百羅漢が知られる(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。但し、ここは宇佐八幡宮の北北東三キロ弱の直近であり、参謀本部の明治三一(一八九八)年測図・昭和七(一九三二)年修正の地図を見ても、ここが山であった感じはなく、あっても小山で、そもそもが、ここの五百羅漢は安政六(一八五九)年に建立が始まったもので、本「譚海」は寛政七(一七九五)年完成だから、全く、違う。距離と羅漢と嶮しいという点から、これは大分県中津市本耶馬渓町にある国内の羅漢寺の総本山である曹洞宗耆闍崛山(ぎじゃくっせん)羅漢寺である。当該ウィキによれば、『羅漢山の中腹に位置する。岩壁に無数の洞窟があり、山門も本堂もその中に埋め込まれるように建築されている。洞窟の中に』三千七百『体以上の石仏が安置されており、中でも無漏窟(むろくつ、無漏洞とも)の五百羅漢は五百羅漢としては日本最古のものである』とあり、延元二(一三三七)年乃至は北朝年号暦応元(一三三八)年、臨済僧『円龕昭覚』(えんがんしょうかく)『が当地に十六羅漢を祀ったのが』、『実質的な開山で』、『この時の寺は、現羅漢寺の対岸の岩山にある「古羅漢」と呼ばれる場所にあったと推定されている』。延元四(一三三九)年には『中国から逆流建順という僧が来寺し、円龕昭覚とともにわずか』一『年で五百羅漢像を造立したという』とある。リフトがあるくらいだから(前に掲げた地図のサイド・パネルの画像を見よ)、かなり険峻。因みに「古羅漢」の方の写真を見ると、これはもう嶮しいなんてものじゃない。この鎖場は流石に山馴れしている私でもちょっとキョウワい!

「座頭佛と云有、中央に琵琶法師坐せり、其前後に座頭二十人ばかり坐したる所を拵たり」不詳。

「山中に十間斗りの石橋有、是は自然の物也」不詳。]

譚海 卷之四 藝州嚴島明神鳥居雷火に燒亡せし事

○安藝嚴島明神の鳥居海中に建(たち)たる、高さ八間橫十三間有、銅にて包(つつみ)たるもの也。領主松平安藝守殿造進ありし物なるが、天明年中より十四五箇年以前雷火のために燒亡せり。雷(かみなり)鳥居の上に落(おち)て笠木のわたりをころげありきたる程に、其外とほり銅に透(すけ)りて、眞(まこと)の木より燒出(やけいで)せしとぞ。

[やぶちゃん注:「高さ八間橫十三間」高さ十四メートル半、横(笠木の先から先までであろう)二十三・六三メートル。現在の明治八(一八七五)年再建のものは、棟の高さ十六・六メートル、柱間幅で十・九メートルである。

「領主松平安藝守」安芸国広島藩第二代藩主浅野光晟(みつあきら 元和三(一六一七)年~元禄六(一六九三)年)か。彼は家康の外孫であったことから、松平姓を許され、初めて「松平安芸守」を名乗っている。

「天明年中」一七八一年~一七八九年。

「其外とほり銅に透りて」「その外」の部分にも電撃が「通り」、包んであった「銅」に通電してしまい。]

譚海 卷之四 同國兵庫湊繁昌の事

 

○攝州兵庫の湊は、大坂にこえたる繁昌の地也。そこの北風やといふ問屋は、和泉のめし左太郞と攝州かうべの俵や彥右衞門と云ものの問屋也。米舶(こめぶね)入津(にふしん)の日は一日に二三千兩程づつ仕切を出す。金銀をとりあつかふおびたゞしき事、外の湊になき事也。すべて兵庫は裏借屋住居(うらしやくやずまゐ)する者までゆたかにて、貧(ひん)なる體(てい)見えず、めでたき所也。

[やぶちゃん注:「同國」前の「同所ゆは海の藻を取て紙を製する事」及びその前の「播州池田酒造る水の事」を受けたもの。

「北風や」兵庫県の旧家北風家(きたかぜけ)は、当該ウィキによれば、『伝説によれば古代から続く歴史を持つ』とあり、『北風家は江戸時代、主要』七『家に分かれ、兵庫十二浜を支配した』。『江戸時代、河村瑞賢に先立ち』、寛永一六(一六三九)年、『加賀藩の用命で北前船の航路を初めて開いたのは一族の北風彦太郎である。また、尼子氏の武将山中幸盛の遺児で、鴻池家の祖であり、清酒の発明者といわれる伊丹の鴻池幸元が』慶長五(一六〇〇)年、『馬で伊丹酒を江戸まで初めて運んだ事跡に続き、初めて船で上方の酒を大量に江戸まで回送し、「下り酒」ブームの火付け役となったのも北風彦太郎である。さらに、これは後の樽廻船の先駆けともなった。なお、北風六右衛門家の』「ちとせ酢」『等の高級酢は』、『江戸で「北風酢」と呼ばれて珍重された。また、取扱店では』「北風酢颪 きたかぜすおろし」という『看板を出す酢屋もあったという』。『俳人与謝蕪村の主要なパトロンが』第六十三『代北風荘右衛門貞幹』(さだとも)『である。貞幹は無名時代の高田屋嘉兵衛』(江戸後期の廻船業者・海商。淡路島生まれ。兵庫津に出て、船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出、国後島・択捉島間の航路を開拓して、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献した。「ゴローニン事件」(文化八(一八一一)年に千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンらが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約二年三ヶ月間、日本に抑留された事件)でカムチャツカに連行されたが(ロシア側が交渉を有利に展開させるために拿捕されたもの)、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた人物として頓に知られる)『を後援したことで』も『知られる』。『また、幕末から明治にかけての当主・北風正造』(第六十六代荘右衛門貞忠)『は、表向き』、『幕府の御用達を勤めながら、勤王の志士側について百年除金・別途除金』(寛政八(一七九六)年以降、代々の主人が、個人の剰余金を、居間と土蔵の二つの地下秘密蔵に貯め、六十万両以上あったとされる)『の資金と情報を提供、倒幕を推進』し、『明治に入って』から『は、初代兵庫県知事伊藤博文の』下、『国事・県政に尽力した』とある豪商である。

「めし左太郞」「飯左太郞」私の『「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神』に、『予幼かりし時亡母つねに語りしは、厠を輕んずるは禮に非ず、昔し泉州の飯(めし)と呼ぶ富家は、其祖先が元旦雪隱の踏板に飯三粒落たるを見、戴いて食ひしより打ち續き幸運を得て大に繁昌に及べりと、平賀鳩溪實記卷一三井八郞右衞門源内へ對面の事の條、源内の詞に、「是の三井家は誠に日本一の金持にして、鴻池抔よりも名譽の家筋也云々、凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」と有る飯氏なるべし、是れも厠を敬せしより其神幸運を與えし[やぶちゃん注:ママ。]とせしならん』と出る。

「俵や彥右衞門」不詳。]

南方熊楠「今昔物語の硏究」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版)公開

南方熊楠「今昔物語の硏究」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・2.63MB・49頁)「心朽窩旧館」に公開した。

2022/04/28

甲子夜話卷之七 2 婦女の髮結樣、時世に從て替る事

 

[やぶちゃん注:今回は、余りにも多くの読みを注せねばならず、煩瑣なので、本文に特定的に読みを底本の東洋文庫にないものは(原本の読みのルビは存在しない)、推定で入れ込み、記号も挿入した。

 

7-2 婦女の髮結樣(かみゆひやう)、時世に從(したがひ)て替(かは)る事

婦女の髮結ふに、「鬢(びん)さし」迚(とて)頭髮の中にさすもの、予が幼少の頃迄は無(なか)りし。全く豔冶(えむや)の爲に設(まうけ)たる也。但(ただし)諸侯大夫士などの婦人は左有(さある)べきが、以前は娼妓(しやうぎ)の類(たぐゐ)まで「鬢さし」は無きなり。予十餘年前か、髮樣(かみざま)を古風に復(ふく)したく、侍女の輩(やから)に申付(まうしつけ)たるが、「今にては『鬢さし』なくては髮は結(ゆは)れず」と云ゆゑ、予と同齡なる老婦に、「以前は何にして結たるや」と詰(なじり)たれば、「某(それがし)もむかしを顧るに何にして結(ゆひ)たるか、今にては老髮(おひがみ)の少(すくな)きも、彼(かの)物無(なく)ては結(ゆひ)申されず」迚(とて)さて止(やみ)ぬ。又今の「鬢つけ油」と云(いふ)ものも、幼少の頃はなく、草を【「ビナン蔓」。所謂「五味子(ごみし)」なり】水に漬(ひた)し其汁にて結たり。このこと貴人計(ばかり)にもなく、部屋方、婢(はしため)迄皆然り。因(よつて)貴上(きじやう)には「鬘竪(かづらたて)」、「鬢水入(びんすいいれ)」とて有(あり)て、「鬘竪」には「五味子」の莖を截(きり)て立て、「鬢水入」には水をいれ、莖を漬して櫛を納(い)れ、これにて髮を梳(すけ)るなり。故に貴上の品は、黑漆に金銀の蒔繪にし、卑下のは竹筒に、淺ましき陶器の水入(みづいれ)にて、婦女も必(かならず)この物を持(もて)り。今は絕(たえ)て其品を見ることさへ無く、稀には蒔繪のもの抔(など)骨董肆(こつとうし)に見るのみ。又油(あぶら)と謂(いふ)ものも、以前は硬き「棒油(ぼうあぶら)」と云(いふ)計(ばかり)にて、「伽羅(きやら)の油」、「くこの油」、「すき油」、「ぎん出(だし)」と云(いふ)類(たぐゐ)は、皆予が幼少のときは無りし。又今の如く「鬢さし」入(いるる)る故は、以前は髮を額へかき下げて、あとにて髮の根結(ねゆひ)をなしたる也。夫(それ)を伊達(だて)に爲(せ)ん迚、「髮指(かみさし)」を入(いれ)たる故、如ㇾ今(いまのごとく)上(うへ)へ擧りたる也。因(よつて)試(こころみ)に今も「鬢さし」を拔(ぬき)て見れば、やはり髮の風(ふう)はむかしの如く成る也。又往古は髮は結(ゆは)ずして、天然のまゝ下(さ)げ置(おき)たるなり。既に舞(まひ)など爲(せ)んとするには、頭(かしら)の振囘(ふるまは)し不自由と見へて、古畫に白拍子(しらびやうし)、曲舞(くせまひ)などの體(てい)は、何(いづ)れも下髮(おろしがみ)のもとを結(ゆひ)てあるなり。靜(しづ)が賴朝卿の爲に、鶴岡(つるがをか)にて白拍子をせしこと「義經記(ぎけいき)」に見へしにも、靜、長(たけ)なる髮を高らかに結(ゆひ)あげと見えたり。是は臨時の仕方なるべし。前に云(いふ)如く油なきゆゑ、髮は下置(さげおき)ても衣服けがれず。今にて下置ては油にて衣類よごるゝ故、卑下等(ひげら)は是非なく上に結ぶ。是自然の理なり。北村季文が云(いひ)しは、古代の婦女は、髮下(さが)りて働(はたらく)に邪魔と見へて、卑賤なる者の體(てい)は、下(さが)りたる髮を上衣(うはぎ)の下(した)に入れてある容(やう)すなりと。さすれば働も自由なり。是等を以ても、如ㇾ今(いまのごと)く髮を揚げ油(あぶら)を用(もちひ)る、亦自然のことにぞあるべき。

■やぶちゃんの呟き

「鬢(びん)さし」「鬢差し」。江戸時代、女性が髪を結う際に、鬢の中に入れて、左右に張り出させるために用いた道具。鯨の鬚や針金などを用いて細工し、弓のような形に作ってあった。上方では「鬢張り」と称した。「精選版 日本国語大辞典」の「鬢張」の挿絵を参照されたい。

「豔冶(えむや)」現代仮名遣「えんや」。「艷冶」に同じ。なまめいて美しいこと。

「詰(なじり)たるに」詰問したところが。若い下女たちでは、まるで話にならないので、ちょっとじれったくなって、ちょっときつめな感じで質してしまったのである。

「さて止(やみ)ぬ」「扨(さて)、止みぬ」か。しかし、どうも「扨」ではしっくりこない。一読した際、私は「沙汰(さた)止みぬ」の誤字か、誤判読ではないかと疑った。この場合の「沙汰」は「髪型を嘗つての古風なものに結い直そうとする目論見」である。

「鬢つけ油」「鬢付油」。髪の乱れるのを防ぐために用いる練り油で、蠟(ろう)と油とを、固く練り合わせ、香料を加えたもの。元祿(一六八八年~一七〇四年)頃から用いられた。単に「びんつけ」とも呼んだ。

『「ビナン蔓」。所謂「五味子(ごみし)」』被子植物門アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科サネカズラ属サネカズラ Kadsura japonica 。常緑蔓性木本の一種。当該ウィキによれば、『単性花をつけ、赤い液果が球形に集まった集合果が実る。茎などから得られる粘液は、古くは整髪料などに用いられた。果実は生薬とされることがあり、また美しいため観賞用に栽培される。古くから日本人になじみ深い植物であり』、「万葉集」にも、多数、『詠まれている。別名が多く』、『ビナンカズラ(美男葛)の名があ』り、『関連して鬢葛(ビンカズラ)』、『鬢付蔓(ビンズケズル)』、『大阪ではビジョカズラ(美女葛)と称したともいわれる』とあり、具体な精製法は、茎葉を二『倍量の水に入れておくと粘液が出るので、その液を頭髪につけて、整髪料として利用』した。既に『奈良時代には、整髪料(髪油)としてサネカズラがふつうに使われていたと考えられて』おり、それは、『葛水(かずらみず)、鬢水(びんみず)、水鬘(すいかずら)とよばれた』、『また』、『サネカズラを浸けておく入れ物を蔓壺(かずらつぼ)、鬢盥(びんだらい)といったが、江戸時代には男の髪結いが持ち歩く道具箱を鬢盥というようになった』とある。また、『赤く熟した果実を乾燥したものは』、『南五味子(なんごみし)と』呼ばれ、生薬とし、『鎮咳、滋養強壮に効用があるものとされ、五味子(同じマツブサ科』マツブサ属チョウセンゴミシ Schisandra chinensis』『の果実)の代用品とされることもある』。但し、『本来の南五味子は、同属の Kadsura longipedunculata ともされる』とある。

「貴上(きじやう)」上流階級。但し、ここは武家・公家のそれではなく、裕福な町方の者の謂いであるようだ。

「鬘竪(かづらたて)」「立髮鬘」(たてがみかつ(づ)ら)。通常は立髪(月代(さかやき)を剃らずに長く伸ばした髪形を言うが、ここは、以下から、そのように成形するための固定サネカズラの茎材のようである。

「鬢水入(びんすいいれ)」鬢水(鬢のほつれを整え、艶を出すために櫛につける水。音に出る伽羅の油や上記のサネカズラを浸した水を用いる)を入れる金属・塗物・瀬戸物などで出来た器。長さは十五センチメートル、幅五センチメートル、深さも五センチメートル程の小判型をしていた。「鬢付入」とも言う。

「淺ましき」見栄えの悪い。

「骨董肆(こつとうし)」骨董屋。

「棒油(ぼうあぶら)」不詳。上記の「鬘竪(かづらたて)」の茎材を指すか。

「伽羅(きやら)の油」鬢付油の一種で、胡麻油に生蠟(きろう)・丁子(ちょうじ)・白檀(びやくだん)・竜脳(りゆうのう)・麝香(じやこう)等の香料を配合したもを加えて練ったもの。近世初期に京都室町の「髭の久吉」が販売を始めたという(なお、本来の「伽羅」は香木の一種で、「伽羅」はサンスクリット語の「黒」の漢訳であり、一説には香気のすぐれたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。別に催淫効果があるともされた)。

「くこの油」「枸杞の油」か。但し、実際の双子葉植物綱ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense からは有意に多量の精油成分は採取されないようであるから、胡麻油辺りにクコの実を混じて赤く着色したものかも知れない。

「すき油」「梳き油」。髪を梳き用の固形の油。胡麻油又は菜種油に生蝋蠟・香料などを加えて、堅く練り合わせたもの。

「ぎん出(だし)」「銀出し油」。上記のサネカズラの蔓の皮を水に浸し、強く粘りをつけたもの。光を反射して銀色の照りが出るので「銀出し」であろう。こちらは、普通は男性の鬢付け油に使用された。

「髮指(かみさし)」「髮揷」で簪(かんざし)の本来の発音。但し、この場合は、それを挿入することで、髪型全体が高くなるようなそれを指している。

「白拍子(しらびやうし)」平安末期に起こり、鎌倉時代にかけて盛行した歌舞及びその歌舞を生業とする舞女芸能者を指す。名称の起源は、声明道(しょうみょうどう)や延年唱歌(えんねんしょうが)、神楽歌の白拍子という曲節にあるとか、雅楽の舞楽を母胎にする舞いにあるといった諸説がある。「平家物語」では鳥羽天皇の御代に「島の千歳(せんざい)」と「和歌の前」という女性が舞い始めたとあり、「徒然草」には信西が「磯の禅師」という女に教えて舞わせたとある。ここに出る「静御前」は、この「磯の禅師」の娘ともされる。また、平清盛の寵愛を得た「祇王」・「祇女」・「仏御前」、頼朝や政子の侍女で平重衡との悲恋で知られる「千手の前」、後鳥羽天皇の寵姫亀菊などは、孰れも白拍子の名手として知られている。白拍子では「歌う」ことを「かぞえる」と称し、今様・和歌・朗詠などのほか、「法隆寺縁起白拍子」のような寺社縁起も歌った。伴奏は扇拍子・鼓拍子を用い、水干・烏帽子・鞘巻(鍔のない短刀)姿で舞ったので、「男舞(おとこまい)」とも言われた。白拍子の舞は、後の曲舞(くせまい)などの芸能に影響を与えたほか、能の「道成寺」ほかにも取り入れられ、その命脈は歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」などに連綿と受け継がれていった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「曲舞(くせまひ)」室町初期におこった舞踊で、散文的な詞章を謡いながら舞うもの。常の衣装は折烏帽子に直垂で、稚児曲舞・女房曲舞では立烏帽子に水干。楽は鼓で、舞うのは通常一人であった。祭礼や宴席に招かれた。嘉吉年間(一四四一年〜一四四四年)には、そ一派から「幸若舞」が起こり、織田・豊臣・徳川三代の保護を受け、発展した(旺文社「日本史事典」に拠った)。

「體(てい)」「風體」(ふうてい)。

「鶴岡にて白拍子をせし」「義經記」を出す前に「吾妻鏡」の文治二 (一一八六) 年四月八日の条を示すのが順序であろう。私の十年前の渾身の注のある「北條九代記 義經の妾白拍子靜」で臨場感を味わって戴ければ、これ、幸いである。

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「林泉雜稿」

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「林泉雜稿」

[やぶちゃん注:底本のここ(「一 憂欝なる庭」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。]

 

      林泉雜稿

 

 一 憂欝なる庭

 

 春になつてから庭を毀《こは》すことが最初の引越しの準備であるのに、一日づつ延期してゐるうちに芽生えが彼處此處に靑い頭を擡げ、一日づつ叡山苔の綠が伸びて行き、飛石のまはりに美しい綠を埋めてしまうた。樹や飛石、石手洗なども國の庭へ搬ばねばならなかつたが、芽の出揃うた鮮かさにはどうしても壞す氣にならなかつた。愛情といはうか、執着と言つたらいいのか、ともかく自分は一日づつ延期しながらも、早く庭の物の始末をつけたい氣持を苛立たした。隅の方にある離亭も取毀して送らねばならなかつたが、大工や人夫の入亂れる有樣、切角の芽先を踏みにじられることを思うて見ても、直ぐ取毀ちの仕事にかかる氣を挫かれ勝ちだつた。國の方の庭にこの離亭を移すと、國の俳人が月に一囘ある筈の運座の句會に此離亭をつかふことになつてゐた。大工等もその事で人を仲に入れて問合せて來たりしてゐるものの、氣乘りのしない幾らか悒欝になつた自分は、春雨の美しく霽(あが)つた叡山苔の鮮かさに見惚れながら、すぐ運送の手順に取懸かれさうもなかつた。

 自分は茲二年ばかりの間に「庭」を考へることに、憂欝の情を取除けることができなかつた。或時は自分の生涯の行手を立塞がれるやうな氣になり、或時はさういふ考へを持つときに、何か後戾りをする暗みの交つた氣持を經驗するのだ。愛する樹樹や、石のすべてが何か煩さく頭につき纏うて、夜眠つてゐても其眠りをさまたげられるやうで不快だつた。自分は心神の安逸を願ふときには努めて草木庭園のことを考へないやうにしてゐた。自分は頭の痛む午後や、變に昂奮してゐる時などに、石や草木の幻のやうなものに取つかれ、腦に描く空想を一層手强く締めつけられて來るのだつた。夢にうなされ晝は晝で疲れ、草木や石はそれぞれに何か宿命や因緣めいた姿で纏ひつき、銳い尖つた枝枝が弱つた神經に障つてくることも珍しくなかつた。自分はかういふ境涯から離れたい爲に、つとめて自然の中に、庭庭のまはりに近寄らないようにしてゐた。

 併し自分のさういふ息苦しい思ひの中でも、習慣になつてゐるのか何時の間にか庭の中に出て、樹や石を愛し弄ぶの情を制することができなかつた。頭の痛むなかに仲びて尖端を觸れて來る樹樹の姿は、一層親密な運命的な勢力を自分の肉體の中にも揮ひ、自分は傷ついた氣持で殆ど引摺られるやうな狀態で、これらの樹木や石に對ふより外はなかつた。。かういふ珍しい氣持はあり得るものであらうか。

[やぶちゃん注:「叡山苔」ヒカゲノカズラ植物門 Lycopodiophytaミズニラ綱イワヒバ目イワヒバ科 Selaginellaceaeイワヒバ属イワヒバ亜属StachygynandrumクラマゴケSelaginella remotifolia の異名。標準和名の漢字表記は「鞍馬苔」であるが、この叡山苔の他にも「愛宕苔」「瓔珞苔」の異名がある。当該ウィキによれば、『時に栽培されることがあ』り、『単体での鑑賞価値には乏しいが、土の表面を覆うのに苔を育てるのと同じ』ように扱え、『普通の苔より枝葉がはっきりしていて』、『模様のようになるところがおもしろい。栽培は難しくない』とある。但し、『近縁種に姿のよく似た種が多く、クラマゴケという名称はそれらの総称としても使われる』とあるので、本種に限定することは出来ない。類似する近縁種はリンク先を参照されたい。]

 

  二 「童子」の庭

 

  自分が此家に越してから八年ばかりになり、三人の愛兒を得、その一人を最初に亡くしたのも此家だつた。自分の亡兒を想ふの情は五篇の小說と一册の詩集になるまで哀切を極めたものだつたが、併し誠の愛情には未だ觸れるに遠いやうな心持だつた。自分は「童子」といふ小說の中に可憐な一人の童が、夕方打水をした門のあたりに佇んで、つくづく表札の文字を讀むあたりから書き始め、時を經て、「後の日の童子」といふ作の中には、到底何物にも較べがたい自分の每日の物思ひの中に、何時の間にか生きて一人の童子となつた彼を描いて、殆ど書き疲れ飽きることはなかつた。亡兒の事を書くことはそれ自らが、愛情の外のもので無いため、書くことに依つて濃かな愛情のきめを感じるのだつた。

  自分は二十篇餘りになる詩をつくり、寧ろ綿綿たる支那風な哀切を盡したのも、その亡兒への心殘りの切なることを示したものだつた。亡兒と「庭」との關係の深さは「庭」 へ抱いて立つた亡兒の悌は何時の間にか竹の中や枇杷の下かげ、或は離亭の竹緣のあたりにも絕えず目に映り、自分を呼び、自分に笑ひかけ、自分に邪氣なく話しかけ、最後に自分の心を搔きむしる悲哀を與へるものだつた。或日の自分は埒もなく疊を搔きながら死兒を慕ふの情に堪へなかつたのである。

 さういふ「庭」は自然に自分の考へをも育てる何者かであり、その何者かを自ら掃き淸めることは喜びに違ひなかつた。自分はさまざまな樹木や色色な花の咲く下草、亡兒の通ふ小さい徑への心遣りをする爲、冷たい動かぬ飛石を打ち、其處に自身で心を待設《まちまう》けるところの淺猿《あさま》しい人生の「父親」の相貌を持つてゐた。單なる樹木は樹木でなく「子供」に關係した宿緣的なものだつた。庭を掃淸めることは彼ヘの心づくし、彼への供物、彼へのいとしい愛情、彼への淸い現世的な德と良心の現れだつた。自分は老いて用なき人のやうに庭に立ち、石を濡らし樹樹の蟲を捕除《とりのぞ》いたりするのだつた。事實自分の妙に空想的になつた頭の内部には、それらの庭の光景は亡き愛兒の逍(さま)よふ園生《そのふ》のやうに思はれ、杖を曳いた一人の童子を何時も描かない譯にはゆかなかつた。自分の悲むで鶴の如く叫ぶ詩の凡ては每日その一二枚あてづつの原稿紙に書かれて行き、自分が初めて詩の中に分身を見、詩中に慟哭したのも稀な經驗だつた。

 その詩や小說の中にある自分の悲哀とても、本當の突き詰めた氣持の中では到底さういう藝術的な表現では訣して滿足されるものではなかつた。藝術の樣式は遂に藝術以外のものでないところに、未練深い現世的な自分の愛慕が低迷してゐた。

 自分が天上の星を見直し或は考へ直したのも、その悲哀の絕頂にゐた頃だつた。深い彎曲された層の中にある生涯的な悲哀は、每日自分に思ふさま殆ど人間の悲哀性の隅へまで苦苦《にがにが》しく交涉し、「烟《けぶ》れる私」をつくり上げるのだつた。顏の色の益益惡くなつた自分は決して笑ふといふことを、何物かに掠め奪はれてゐたも同樣の空しさで、自ら烟れる如き凄しい顏容をしてゐた。

[やぶちゃん注:「愛情」は底本では(ここ)傍点「●」である。

「その一人を最初に亡くした」室生犀星は大正八(一九一九)年十月に田端に移り、二年後の大正十年五月に長男豹太郎が生まれたが、翌年の六月に豹太郎は亡くなってしまった。その年の十二月に京文社から刊行した「忘春詩集」は事実上、亡児への追悼作品集であった。

「童子」大正十二年一月に京文社から刊行した作品集「萬花鏡」に亡児を題材した小説「童子」があるが、ここに書いたのと同じシークエンスは冒頭や作中にはない。寧ろ、私は前の「忘春詩集」に収録された詩「童子」が思い出される。国立国会図書館デジタルコレクションに同詩集があり、当該詩篇はここ。ややスレがあって読み難いので、以下に電子化しておく。

   *

 

童 子

 

やや秋めける夕方どき

わが家の門べに童子(わらべ)ひとりたたづめり。

 

行厨(うちかひ)かつぎいたく草疲れ

わが名前ある表札を幾たびか讀みつつ

去らんとはせず

その小さき影ちぢまり

わが部屋の疊に沁みきゆることなし。

 

かくて夜ごとに來り

夜ごとに年とれる童子とはなり

さびしが我が慰めとはなりつつ……

 

   *

この「行厨(うちかひ)」とは背負子型になった弁当箱で、「草疲れ」は「くたびれ」と読む。

「後の日の童子」は大正一二(一九二三)年二月号『女性』に初出された小説であるが、上記の詩篇「童子」のシークエンスが冒頭に配されてある(同作は「青空文庫」のこちらで読める。但し、新字新仮名)のだが、或いはその辺りを作者自身が混同したものかとも思われる。そうだとしても、そこには寧ろ、未だ癒えぬ豹太郎への彼の感懐が読者にもしみじみと沁み渡ってくるような気がする。]

 

 三 季節の痴情

 

 自分は決して値の高い植木や石を購うた譯ではなかつた。寧ろ若木を育てた位で、高價な大物は植ゑなかつた。些し許りの詩の稿料や他の小使錢を四季折折に使つた外は、殆ど餘財を傾けることはしなかつた。貧しいその日暮しの中から集めたものだから、賣ることになれば端錢にもならなかつた。と言つて此儘他人に讓り渡す氣にもなれなかつた。何故かといへば自分の愛園だといふ名目にしては餘りに貧しい木石の類だつた。せめて相應の石一つくらゐでもあればいいが、雜石をつかつた庭を他人に手渡すことは、末代までの名折であり、さういふ恥を殘すよりも一草一石の端にまでも原形無きまでに取毀《とりこは》すことが、本統[やぶちゃん注:ママ。]の自分の氣持だつた。

 若し愛してくれる人があれば、この儘讓り渡してもいいと考へたこともあるが、後に殘ることを考へると憂欝になり、矢張り壞すことに心を訣めるのだつた。それが自分の一つの德義でもあり良心でもなければならなかつた。自分を訪ねたことのある人人の眼に殘つてゐる小さな庭、庭らしい風致の中にある自分が、それ以上にその人人へ呼びかける必要はなかつた。潔く取毀《とりこぼ》つて又新しく移らなければならない――。

 自分が此庭を考へたことの最も烈しかつたのは、震災後一年を故鄕の山河に起居してゐる時であつたらう、その時は庭なぞいらない氣持だつたが、安つぽい鄕里の貸家には砂礫が土に雜つてゐて、何を植ゑても根をおろすことがなかつた。柔かい黑土のある東京の庭を思ひ出したのは寧ろ不思議な思ひ掛けない切ない氣待だつた。自分は家の者に何かの序に季節ごとに庭の話を繰り返しては話出し、殆ど見るに耐へない庭があれ程心に殘つてゐることは、意想外な氣持であつた。

 歸京して見た昔の庭は庭のままだつたけれど、愛情は昔に倍してゐると言つてよかつた。彼等は穩かだつたし又靜かさは一入《ひとしほ》深かつた。自分の最初に氣のついたことは庭の全面に漂ふ憂愁の情だつた。主人なくして過した一年の間に、彼等は茫茫たる十年の歲月を負うてゐる荒涼を持つてゐた。それは人間的な愛情だと言つていい位の靜かな重い荒れ樣だつた。自分が彼らの間に立つたときに自分を締めつけるものの多くを感じ、囁くものの哀切を經驗するのだつた。自分は僅かな一草の芽生えの中にも自分が六七年近く愛した情痴を感じた。全く庭を愛することも、文に淫することも凡て情痴に近いものだつた。さう言つても解り兼ねるかも知れぬが、實際人間同士の情痴以上の、重いものに心を壓せられることは愛する女以上の痴情に似たものだつた。自分が彼等の世界に住むことに頭を痛め心を暗くしたのも、それらが最早苦痛に近い樂しみであることも、やはり淸淨であるために憂欝になる情痴の表れに違ひなかつた。

[やぶちゃん注:犀星は大正一二(一九二三)年の関東大震災に田端で被災直後の十月に一家をあげて金沢に引き揚げ、上本多町川御亭(かみほんだまちかわおちん)三十一番地に落ち着いた。大正十四年十月には金沢市小立野(こだつの)にある曹洞宗の天徳院(被災後にここに滞在していた)の境内に土地を購入し、庭作りに熱中したりしていた。]

 

 四 田端の里

 

 自分は殆ど庭の中に隈なきまでに飛石を打ち、矢竹を植ゑ、小さい池を掘り、鄕里の磧にある石を搬び、庭は漸く形をつくつて行つたが、間もなく鄕里にも庭をつくりかけた關係上、鄕里の方にも庭木を送らなければならなかつた。さまざまな煩雜さに疲れた自分は一層此庭を壞し、庭のない貸家に引移りたい望みを持つやうになつてゐた。何故かといへば恣《ほしいまま》に庭のある家に居ればそれに頭をつかふことは當然なことであるから、一層庭のないところに行けば諦めもするし、樹や石を弄ぶことも自然なくなるであらう、さういふ考へで何處かに荷物の全部を預け一家こぞつて旅行に出る計畫をたてたのであつた。併し自分の執着はすぐに庭を毀す決心はしてゐても實行は益益遲れがちになつてゐた。

 自分が此田端に移つてから既《も》う十年になるが、「江戶砂子」にある生薑《しやうが》の名所である田端の村里は文字通りの田舍めいた靑靑しい生薑の畑と畑の續いた土地だつた。根津の町へ出て藍染川となる上流は田端の下臺《しただい》にあつたが、音無瀨川《おとなせがは》と呼ばれてゐた。名に負ふ煤と芥の淀み合ふ音の無い小川であつたが、それでも今の谷田橋《やたばし》附近は大根や生薑の洗ひ場になつてゐて女等の脛も見られる「江戸砂子」の風俗と俤《おもかげ》とを昔懷かしく殘してゐた。今の神明町車庫前あたりから上富士《かみふじ》への坂の中途迄、秋風の頃はざわめく黍畑《きびばたけ》や里芋の畑の段段の勾配をつくり、森や林も處處に圓い丘をつくつて見えてゐた。小川や淸水の湧く涼しい林もあつたが、今は待合や小料理屋が町家《まちや》を形づくり、昔の武藏野の風情は殆ど何處にも跡をとどめてゐなかつた。

 それでも音無瀨川の溝石の仄《ほの》ぐらい濕りには、晚春初秋の宵などに蛙の啼く聲も聞かないではなかつたが、若い椎の植木畑や生薑の畑には昔のやうな螢の飛び交ふ微《かすか》な光りさえ見られなかつた。十年の間に變つたものは單にこれらの郊外的な風致や町の姿ばかりではなく、兒を失ひ悲むだ自分には溝川のほとりを散步しながらゐる姿は昔のやうだつたが、もう子供が二人も生長してゐた。

 植木屋の多い田端の地主らも時勢と金利の關係から、植木屋は賣減《うりべ》らしにして何時の間にか貸家を建て、新建《しんだち》の小路をつくり、殆ど空地は見られない程だつた。秋口には涼しい高い木に啼く蟲の類も減つたばかりでなく春先の鶯が啼く朝なぞは年に一日か二日くらゐに過ぎなくなつた。以前は何處からともなく春を告げる鶯の聲を聞くのは、每朝の快いならひであつた。生溫かい雨の霽(あが)つた朝の食卓についてゐて、鶯を聞かない朝はなかつた。それだのに今年は鶯を聞かなかつたといふ年も近年になつてから折折に聞くやうになつてゐた。

[やぶちゃん注:「矢竹」狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica を指す。ウィキの「ヤダケ」によれば、『タケ(竹)と付いているが、成長しても皮が桿を包んでいるため』、『笹に分類される(大型のササ類)』。『種名は矢の材料となること』に由来し、『本州以西原産で四国・九州にも分布する』。『根茎は地中を横に這い、その先から粗毛のある皮を持った円筒形で中空の茎(桿)が直立。茎径は』五~十五ミリメートルで、『茎上部の節から各』一『本の枝を出し』、『分枝する。節は隆起が少なく、節間が長いので矢を作るのに適す。竹の皮は節間ほどの長さがあるため、見える稈の表面は僅かである』。『夏に緑色の花が咲く』。『昔は矢軸の材料として特に武家の屋敷に良く植えられた』。別名は「ヘラダケ」「シノベ」「ヤジノ」「シノメ」等、とある。

「江戶砂子」菊岡沾涼(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年:金工で俳人。伊賀上野の生まれ。本姓は飯束であるが、養子となって菊岡姓となった。名は房行。江戸神田に住んだ。俳諧を芳賀一晶(はがいっしょう)・内藤露沾に学び、点者となった。地誌・考証などの著述でよく知られる。私は彼の怪奇談集「諸國里人談」をこちらで全電子化注を終わっている)が享保一七(一七三二)年に板行した江戸地誌。江戸府内の地名・寺社・名所などを掲げて解説し、約二十の略図も付す。これはベスト・セラーとなり、同じ著者で「續江戶砂子」が二年後に上梓されている(内容は正編の補遺)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の巻之五の「豊島郡麻布」のパート内のここの右頁七行目に、

   *

 

 五 記錄

 

 自分の家や庭の客となる人人は、矢竹の茂りと音とを賞めてくれたが矢竹は庭一面に這出して相應の風致を形作つてゐた。一年の間に主人を三人まで持つた秋といふ女中も、自分の家を出ると不幸續きの暮しをして今では行方が分らず、彼女が風呂敷に包んで買つて來た小さい沈丁花は、六年の間に自分の背丈を越えるまで伸びてゐた。次ぎに來た女中の里である茨城の草加在の珍しい木賊《とくさ》の株も、庭の一隅に固く組み合うて、年年殖えて美しくなる一方だつた。彼女は自家から暇を取るとカフエの女になり、これも亦行方が分らなかつた。

 季節折折の子供の病氣の時の看護の女、植木屋が入代《いれかは》つてゐたそれぞれの記憶、國の母や兄、老俳友などの泊つたことのある離亭、飼猫や飼鳥の山雀《やまがら》、或時は仕事に疲れて卒倒しかけたことのある庭の奧、さういふ小さな覺えは一つとして「庭」を離れたものではなかつた。「庭」は彼らしい人生觀めいた記錄的なものを持ち、それらが今庭を壞さうとしてゐる自分に小癪なほど敍情詩めいた詠嘆の心を移さうとするのだつた。殆ど隅隅にまで手の觸れないところの無い庭土は、それに手をつけた日の記憶的な位置を今更らしく思ひ出させた。

 この家に來て自分の仕事をした數は、文字通り枚擧に暇が無いくらゐだつた。詩集「高麗の花」や「田舍の花」「亡春詩集」を書き、「童子」「嘆き」「押し花」「人生」「我こと人のこと」「わが世」等で亡兒に對する嘆きの限りを綴つたものである。その他數十篇の小說物語の類は自分でも覺えてゐない夥しい數だつた。どこの雜誌に出たかも分らず、それを搜し出すこともできないで散逸された小品隨筆の類は、殆ど數限りのない位だつた。さういふ反古《ほご》同樣の仕事に注いだ自分の制作的な情熱を考へるだけでも、自分は何か目當てもなく茫然とし、その情熱の費消によつて十年は命を縮めてゐると言つてよかつた。それすら自分には何一つ殘つてゐないことを考へると、情熱を賣買した天壽の制裁の空恐ろしさを思はない譯にはゆかなかつた。

 自分は第一流の文人である自信はあり實力もあるのだが、併し自分の書いたものか秋風の下に吹晒《ふきさら》され、しかも殘らないことを考へることは苦しかつた。自分にさへ其行衞の判らない原稿のことや雜誌のことを思ふだけでも陰鬱になり息窒《いきづま》る思ひだつた。その頃に書いたものの心の持ち方の低さ、氣持の張りの足りなさを考へると訂正削除の朱筆は動かしてゐても、自分の文章や意嚮《いかう》の拙劣さを犇犇と感じられるのであつた。或は却《かへつ》て原稿が散逸された方がよかつたかも知れない。惡文十年の罪を失した宜い機會であるかも知れぬ。唯自分はそれらに注いだ取り返しのつかぬ情熱の濫費だけは何と言つても一生の過失だつた。どういふ時にもよい仕事をすることは、永い安心を形づけるものであり、朝朝の寢ざめを淸くするものであるが、いい加減な仕事をした者の末路は自分で氣の付く時は、もう遲いに違ひない、併しその遲い時期に踏止まることも亦肝要なことに違ひなかつた。

 

 六 別れ

 

 自分は或日、まる一日外出をする機會があり、その間に植木屋に命じて樹木の幾株かを荷造りさせて、國へ送るのであつたが、幸ひ自分の歸宅したのは夜に入つてからだつたから、其樹木を拔いた跡は見ないで濟んだのである。次の日にも外出の折を見て飛石を拔き又次の目にも石を搬ばせるやうに命じて置いて何時も夜になつてから歸宅するのだつた。雨戶を開けることがないので、庭の模樣は分らなかつた。寢床で想像する淋しい庭のありさまは誰かを怨みたい氣持だつた。

 築庭造園は財を滅ぼし、人心に曲折ある皺を疊み込み、極度に淸潔を愛する者になることは事實である。自然に叛逆することは、自然を模倣すると同樣な叛逆だつた。彼は「庭」を造らうとしながら實は「自然」を造らうとするものらしかつた。そこに何か突詰めると淺ましい人間風な考へがないでもなかつた。それだから面白いといふ築庭的な標準は、自分には既《も》う亡びかかつてゐる考へであつた。それなら自分は後の半生を何に費したらいいだらうか?――自分の如きものの才能は何に向つて努力すべきだらうか、かういふ消極的な問題を自分の中に持出して、自分は荒れた破壞された庭の中を步いて見たが、何か永い間に疲れたものが拔け切つたやうな、それこそ精神的な或平和をさへ感じるのであつた。その感じは自分を一層孤獨な立場に勇敢に押出してくれ何よりも平穩と濶達とを與へて吳れた。小さな風流的な跼蹐《きよくせき》[やぶちゃん注:身の置き場所もない思いをすること。]から立ち上つた自分の行手は、寧ろ廣廣とした光景の中に數奇《すき》ある人生的な庭園を展いて見せてゐた。自分はその庭園を見ることに泉のごとき勇敢を感じた。自分はそれ故今は眼の前で此小さな「庭」の壞されることを希望し、過去の庭園に靜かに手を伸べてその姿に別れを告げるのであつた。

 

 七 曇天的な思想

 

 何時か自分は「過去の庭園」を物してから、庭を壞し離亭を取毀したが、いまは一草一木も無くなり、明るい空地になつて了うた。自分の氣持は爽快になり頭は輕くなつた。矢竹も掘り盡したが筍が處處に餘勢を示し、垣根に添うて殘つてゐる。

 自分は庭を壞して見て埋られた飛石は勿論、凡そ石といふ石の數の多いのに驚いた位である。雜石をあしらひ急仕立に自分の氣持を紛らはしたその折折の、自分の氣持の低さには熟熟(つくづく)呆れるばかりだつた。庭などといふものは決して間に合せの石や樹を植ゑて置くものではない。それは必ず棄てなければならぬ時期があるからである。周到な注意と懇切な愛好の下に、生涯それらの木石に心を寄せるほどのものを選ぶべきであつて、いい加減な選擇は嚴格に退けるべきであつた。

 自分は庭を壞しても決して淋しい思ひはしないばかりか、何か前途に最つと好い庭がありさうに思へるからである。庭はそれ自身が東洋の建築としつくり色を融け合せて生きてゐるもので、決して庭だけで生きてゐるものではない、東洋の寂しい建築と其精神とに彼は其姿を背景とせねばならぬ。建築の淋しい哀愁を劬(いたは)るものは、女人のやうに優雅な、しかも健康な「庭」でなければならぬ。誠に美しい庭に立つことは我我の愛する女人と半夜を物語ることと、どれだけも隔たつてゐるものではない。

 自分は梅雨曇りが廣がつてゐる中に、每日のやうに其美しい曇天を眺入つてゐた。その中に壞された庭を少時思ふに適した。折折の低い雲、蒼い空をも眺め、どうやら自分がこれから後にめぐり會ふべき、石や木、庭のありさまなども好《よ》き想像のうちに描くことができた。そして自分は半年ばかり極端に質素な、往昔の文人が試みた旅行のやうなものを實行するために、家具を友人の家に預け、永年の埃や垢を洗はうとするのである。文人の榮華の醒めた不況の時に昔の生活を抛《なげう》つことは、自分の好みにもあひ、今はその「時」を得てゐるからである。それ故自分は曇天の中に美しさを知ることも、人一倍の熱情を感じるからである。

 自分のやうな人間は何かしら「心」で飜弄(いぢ)る物の要《い》る種類の人間である。詩や詩情をいぢることにも倦きてゐないが、同樣に戀愛にも未だ飽きてゐない。戀愛的な雰圍氣は決して女人の間にばかりあるものではなく、それの正確な精神は凡ゆるものの美しさを詳かに眺め取入れることであらう、曇天も陶器も又女人もその内の重《おも》なるものであらう。

 荒土になつた庭の上に、杏の實が、今年もあかあかと梅雨曇りの中に熟れてゐる。此の杏は家に附いてゐる樹であるが、每年春は支那風な花を見せ、何時も今頃の季節には美しい實を見せてゐた。今日も机の上から見る朱と黃とを交ぜた杏の實は、堪へがたい程美しい。自分も家の者もこれを取らうとはせず、此儘次ぎに越して來る人の眼を樂しますであらう。

 杏は國の方にも今頃は熟れて輝いてゐるが、東京では滅多に見られない。何時か小石川の或裏町で見かけたことがあるが、その美しさ豐さは莫大な印象だつた。子供の時にその種子を石で磨つて穴を開け、笛のやうに吹いたことを覺えてゐる。「杏の笛」と言ふと幼い詩情を感じることが夥しい。今も鄕里の童子はその「杏の笛」を吹くことを忘れないであらう。

 矢竹は國の庭へも送つたが、根は庭ぢうに這ひ亂れてゐた。森川町(もりかはちやう)の秋聲氏からの使ひにも數株を分けたが、使ひの植木屋はかういふ美しい竹は植木屋も持つてゐないと褒めてゐた。自分もさういふ褒言葉を喜ぶものである。初め辻堂の中村氏に約束をしたが、辻堂までの車を仕立てることは困難だつた。中村氏の庭を訪れた秋聲氏との間に竹の話が出たものらしかつた。

 自分は初め此矢竹を靑山といふ禪客から讓り受けたものである。今度は色色手分けして頒けたが、雨が多く分け切れなかつた。關口町の佐藤君からの植木屋も、漸つと今朝になつて分けた竹を掘りに來た。ともあれ自分は後二日で半年の旅行に出るのだが、あとを亂したくないので土の穴や掘り返しを埋めさせてゐて、微妙な哀愁を感じた。多くの秋と冬の夜、これらの竹の葉擦れの音を聽いたが、春の深いころと晚秋の頃とが一番葉ずれの音がよかつた。皮を剝いで膏《あぶら》で拭いた幹は靑く沈んだ好い色をしてゐた。芥川君は此竹のある方を何時も「窓の穴」と言つてゐた。同君の庭にも竹があつたが二三日續いて庭を掃いて見て、氣持がよかつたといふ話も耳に殘つてゐる。――

 震災の時にも上野あたりからの灰が吹かれて、葉の上に白く埃をためたが、さういふ思ひ出も却却《なかなか》忘れられなかつた。自分は每年筍が出ると、古竹を粗い簾に編ませ、それを煤の垂れる軒に吊るして置いたが、野趣があつて粗雜な感じではあつたが好きだつた。

[やぶちゃん注:「辻堂の中村君」作家・評論家の中村武羅夫(むらお)。]

 

 八 壽齡

 

 この春母の危篤の報を得て遙遙と歸國して行つたが、母は七十八の高齡の中で死生の間を往來してゐた。自分は母が二三日のうちに絕命するであらうと思ひ、人として數奇な彼女の生涯と運命とに就て、絕えず頭をつかひ兎も角も死ぬことを氣の毒に思ひ、自分も出來るだけの藥餌の祕術を盡すやうに努力するのであつた。彼女を支配した運命はその晚年に物質的な苦衷を與へず、自足と平安とをのみ溫かに惠んでゐた。自分は父の死の前後が斯樣に平安で無かつたことを考へ、いぢらしい父への思ひ遣りを切ない氣持で顧みない譯に行かなかつた。

 四五日の後に母は急性肺炎の症狀から完全に救はれ、運命の惰勢は再び母を安逸な生活の中に取殘すもののやうだつた。彼女は粥を啜り魚の肉を食べ潑溂として餘生を盛り返し

て來た。自分は七十八年も生延びた彼女の止みがたい生活力が、その餘勢の上で舞ひ澄む獨樂《こま》のやうに停《とどま》ることを知らないのを恐ろしく思うた。血色を取り戾した一老母の戰ひは遂に現世的生活へまで再び呼戾《よびもど》され、暴威を揮ふ時は揮ふ苛酷な運命さへ、母の前ではその暗澹たる翼ををさめてゐると自分は思うたが、さういふ母を見ることは別な意味で壯烈な氣がしないでもなかつた。

 母を圍繞《ゐねう》する人人及び古い昔の彼女の知合《しりあひ》の悉くは、母が今度死ぬであらう豫測と天與の壽齡とに、寧ろその長命と平安とを祝福して、自分に一一その由を傳へて挨拶を交すのであつた。自分も母の壽命の終るの近きを思ひ、働く能力を缺いた人間は訣して六十以上は生きる必要の無いといふ、漠然とした通俗的な槪念を得たのだつた。六十以上生きるといふことは死を期待され、死を祝福されるのみで、死を激しく傷み悲しまれることは尠《すくな》いことらしかつた。ことに田舍の人人の率直な言葉は一つとして死を哀傷する情を披瀝せずに、不足のない死を、或は死そのものに利子的な計算を敢てすることにより、恰《あたか》も當然訪れるべき死の遲きを皮肉るやうなものだつた。

 母は自分に決して今度は生き延びたくなかつた事、唯ひたすらにお詣りがしたかつた事、再《ま》た御身らに厄介になることが心苦しい事などを、取盡《とりつ》した靜かな生活の中から物語るのであつた。自分は何よりも運命がまだ彼女を犯さなかつたことに就て、ひそかに運命の力が近代に至つて次第に稀薄になつてゐるやうに思はれてならなかつた。そして病室の窓の外にある執拗な一塊の殘雪は、北に面した杏の古い根にしがみつき、世は春であるのに凝り固り却却消えようとしなかつた。殘雪と運命、さういふ昔の文章世界の寄稿家の物するやうなことを考へ、我が尊敬すべき運命ヘの超越者、自分の母親を熟熟見守るのだつた。

[やぶちゃん注:「母」ここで彼が語っているのは彼の養母ハツである。犀星は明治二二(一八八九)年八月一日、金沢市裏千日町に生まれた。加賀藩足軽頭であった小畠弥左衛門吉種(当時六十四歳)と、小畠家の女中ハル(同三十四歳)との間に私生児として生まれた。世間の評判を嫌った父は、生れたこに名もつけず、生後間もなく、生家近くの雨宝院(真言宗)の住職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに貰い子として引き取られ、ハツの私生児として「照道」の名で戸籍に届出された。住職の室生家に正式に養子として入ったのは、七歳の時で、この時、室生照道を名乗ることとなった。犀星は私生児で、実の両親の顔を見ることもなかった。この赤井ハツは気の弱い住職を尻に敷いて朝から大酒を飲み、子供たち(貰い子は犀星を含めて四人であった)を理由もなく折檻し、「馬方ハツ」の異名をとるほどの、当時はかなり強烈な恐ろしい女丈夫であったという(所持する昭和四二(一九六七)年新潮社刊『日本詩人全集』第十五巻「室生犀星」の年譜に拠った)。ハツはこの後の昭和四(一九二九)年四月に永眠した。]

 

 九 邦樂座

 

 久振りで仕事も一先片づいて、冬がこひを施した樹樹の蓆を解いて見たが、彼らは藁の溫さの中に既に春の支度を終へてゐた。何か酸味を帶びた匂が自《おのづか》ら立つ埃とともに、自分の胸を妙に惱ましく壓してゐた。自分は少時《しばらく》日の當る土の上に踞んでゐたが、昨日邦樂座の玄關の段の上から辷《はづ》れ落ち、背中を打つた重い痛みが斯ういふ明るい日ざしの中で餘計に感じられた。

 何時か雨上りの電車道で轉んで危く轢かれようとしたが、さういふ不慮の出來事の起るときは、頭がひどく疲れてゐる時に違ひなかつた。健全だと思うてゐる頭腦も刺戟のある映畫見物の後には、每時《いつ》も烈しい疲勞を心身に感じてゐた。目まぐるしい電車道に立竦んで、少時頭の働きを待つやうな狀態になる時は、頭腦の働きよりも車や往來の烈しさが迅速に感じられるのだつた。或晚自動車から下り立つた自分は初めて帽子を冠つてゐないことを知り、自動車を見返るともう明るい街巷の中に紛れ込んでゐた。自分は帽子を冠らないで步く、無態な頭に何か締りの無いことを感じた。一昨日も邦樂座で危く頭を打てば或はそれきり腦貧血を起したかも知れなかつた。人間の命を落すやうなことがどれだけ自然に何等の注意力の無い時に起り、それが却つて偶然に救はれてゐることがあるかも知れなかつた。

  庭の中は眩しい春の日當りで一盃になり、竹の葉の上にあぶらを注いだやうな一面の光だつた。自分は自然の美しさを感じ、その自然がもう自分の心身にカツチリと塡つてゐる人生的な或事件でさへあるやうな氣がし、自ら感情的な此事件を懷しむの情に耐へなかつた。かういふ物の考へ方をする自分には、最早花や樹の美しさよりも自分の考へに思ひ耽る美しさが、どれだけ事件的なことを搬ぶかも知れなかつた。自分は身に沁みて人の死を感じ、その死を自ら企てた人のことも斯ういふ春光の下で餘計に沁沁感じられた。現世の美しさを深く感じることは死ぬことに於て、一層美しく見えることに違ひなかつた。現世に執着するほど死にたくなる念ひを深めることは、よき魂をもつた人間の最後の希望にちがひない――生活、金、死、女、そして目前に迫る何かの芽生えの狀態に、折折氣を取られながら殊勝に少時靜かにしてゐたが、昨日の背中のいたみは鈍重に徐ろに自分に影響してゐた。女達の華かに立つた光つた階段から墜ちた自分は、單に階段から落ちたばかりではなかつた。或はその時に當然不幸な運命の逆襲に遭ふべき自分が、その又運命の端に繫がつて怪我をしなかつたのかも知れなかつた。邦樂座の大玄關から自分は死の何丁目かヘ送られる筈はないと思うたものの、自分は常に新鮮な運命に立向ふ用意をせねばならないと考へるのだつた。それは自分ばかりではない、凡ゆる人間がいつもその準備に就かなければならない事だつた。何時どういふ不安と不詳事が待ち構へてゐるかも分らないからだ。誰がその不慮事の前に立ち得ることができよう。――

[やぶちゃん注:「邦樂座」現在の「丸の内ピカデリー」の前身の劇場。]

 

 十 短册揮毫

 

 自分のところへも每月短册や色紙の揮毫を迫る人が多く、氣の進まぬ時は一方ならぬ憂欝をすら感じてゐる。平常何も知らぬ人に自分の惡筆を献上することは、最早自分には神經的に嫌厭《けんえん》を感じてゐる位である。千葉縣の某と云ふ人なぞは先に短册を送り到《つ》けて置いて、每月揮毫の督促を根氣よく殆ど一年間續けて行うてゐた。その最後に短册返送を迫ることは勿論、或は謝儀を送るとか云ひ子供でも宥《なだ》め賺《すか》すやうであつた。併し自分は怒りを嚙み潰してゐた。かうなると脅迫的なものに近いやうである。

 自分は短册色紙の送り付けは其儘卽座に返還してゐる。今後奈何なる意味に於ても揮毫はしないことにした。その爲自分のやうな惡筆の品定めされる後代の憂を除きたいと考へてゐる。併乍ら自ら進んで書きたい時があれば、惡筆を天下に揮ふことの自信も無いではない。欲しきは私に取つて何事も勇躍だけである。

 

 十一 「自敍傳」

 

 自分は此頃もう一度今のうちに書いて置きたいと考へ、自敍傳小說を書き始めた。自分は處女作で自敍傳を書いて制作的に苦苦しく失敗した。それは言ふまでもなく詩的雜念の支配を受け、センチメンタリズムの洗禮を受けたからである。自分は噓を交ぜた、いい加減の美しさで揑ねた餅菓子のやうなものを造り上げ、それで自分は自敍傳を完成した如き氣持でゐたが、此頃の自分にはその噓が苛責的に影響し、苦痛の感情を伴うて來たのである。自分は暇を見て書き直した上、少しも文學的乃至詩的移入のない自傳の制作に從はなければならず、事實その仕事に打込んでゐた。

 自敍傳は作家の最初に書くものでなければ、相應の仕事をした後期の仕事でなければならない。その仕事は何處までも成年後の彼の見た「生ひ立ちの記」でなければならず、峻烈な自分自身への批評に代るべきものでもあらう。

[やぶちゃん注:「自分は處女作で自敍傳を書いて制作的に苦苦しく失敗した」大正八(一九一九)年に『中央公論』に発表した「幼年時代」であろう。小説家としては処女作である。]

 

 十二 「大槻傳藏」の上演

 

 帝國ホテルで自分の作「大槻傳藏」の道化座の公演を見て色色感心した。僕の戯作は幸か不幸か未だ公演されたことはなかつた。又自作が劇評家等の筆端に觸れたことも極めて斟いことだつた。自分はこれらの戯作が作集や叢書にさへ未だ談判を受けたことすら無いのを、大した不名譽に思つてゐないものである。それに據つて自信を逆挨《ぎやくね》ぢにする程稺拙《ちせつ》の心を有たない僕は、今度自作の公演を見に行く氣持の張方は、少少悲觀的でもあり又眞向からの自信では可成餘裕を持つてゐた。

 「大槻傳藏」は自作の中では唯一つの時代劇でもあり、或程度までの用意はしてある作品である。その公演を見て「大槻傳藏」が歌舞伎や帝劇で上演されないことを不思議に思ふ位、成功してゐた。道化座は無名の劇團であり大槻傳藏を演じた市川米左衞門氏は、その道の通でない自分には新しい名前である。玄人らしいところはあつたが自分には好印象を與へた。自作の場合大抵役者を貶《けな》すことがその批評の眼目であり條件である世の中で、自分は或程度までの滿足を以て見物した。かういふ自分を素人として笑ふものがあれば、それは物の素直さをわきまへない人人であらう。――自分は此劇を見物してゐる間、絕えず漫然として劇を書いてゐた自分が振顧《ふりかへり》みられた。必然性無き會話の受け渡しも目前で諷刺された位だ。自分は一層努めねばならぬ事、氣持の張方を少しも弛めてはならぬ事を忠告されたやうなものであつた。これは自作が最初に上演されたためであらう。

[やぶちゃん注:「大槻傳藏」人物としての彼は元禄一五(一七〇二)年生まれで寛延元(一七四八)年に自害した、江戸中期の加賀藩の家臣。諱は朝元。所謂、「加賀騒動」の中心人物である。第六代藩主前田吉徳に起用され、権勢を揮ったが、延享二(一七四五)年に吉徳が急死すると、反対派によって排斥され、五箇山に幽閉、配所で自死した。この事件は藩主後嗣紛争も絡んで、陰惨な諸説を生み、後世、色々と脚色された。犀星の同題の戯曲は読んだこともなく、調べても、よく知らなかった。悪しからず。]

 

 十三 茶摘

 

 自分の家の庭は廣くはなかつたが、茶畠が少し殘つてゐて季節には茶摘みもしたものだつた。李の樹の下に蓆を敷いて母は煙草盆を持出し、まだ小さかつた妹は茶を用意したりした。自分も茶摘みの手傳ひをしたが、一時間も同じい事を繰返す仕事には直ぐ退屈をし、風のある目は摘んだ茶の新葉が吹かれてよい匂ひがした。

 茶の根には古い去年の茶の實がこぼれ、僅な枯葉の間に蕗の芽が扭《ねぢ》れて出てゐた。母は退屈しないで丹念に摘んでゐたが、自分の摘む芽の中に古葉さへ雜つてゐて、臺所でそれ蒸しては莚の上でしごいてゐる姉から小言が出た。臺所は湯氣で一杯だつた。姉と雇の婆さんとが忙しく立働いてゐた。自分は茶といふものに恐怖を感じる程、摘むことに飽飽してしまつた。かういふ時に必ず誰か近くの母の友達が表から聲をかけ、母はうつ向いたまま返事をしてゐる記憶があつた。又定《きま》つて强い風が出るやうな日が多かつた。

 蒸された茶は餅のやうな柔らかい凝固になり、揉まれると鮮かな靑い色を沁み出してゐた。その莚を乾かしたあと、四五日といふものは矢張り茶の芽の匂ひがし、その匂ひは庭へ出ると直ぐに感じられた。二番茶を摘むころは日の當りが暑かつた。じりじりと汗を搔く母を見ることは、氣苦勞できらひだつた。

 

 十四 朝飯

 

 或初夏に伊豆の下田の旅籠屋に泊つて、その庭に桃に交る僅な綠の芽立を見たことが忘れられなかつた。それは優しい人情的と溫かみのある綠だつた。自分は朝飯の時にその風景の何ものかを、その膳の向うについた春のおひたしと一緖に嚙み味うたやうな氣がした。それに烟りながらに罩《こ》めてゐた雨は、此暖國にある早い些かの若綠の艶を深くしてゐた。自分が靑い梅の實に朝燒けのやうに流れてゐる茜色を覗き見たのも、此旅籠屋で初めて發見したやうな氣持だつた。何か棄石《すていし》を取圍む銳い尖つた芽の擴がり、それらの葉が一樣にとかげのやうな光を見せる日光の直射に、自分は眼に靑い薄い膜のやうなものを絕えず感じるのだつた。

 自分は午後から晴れた庭土の上に、若木の綠をうつらうつら見惚れながら、さういふ風景に意識を集中され、餘りに永い間茫然としてゐる自分の中に何か白痴めいたものを感じ出し、靜かさが呼ぶ不安を一心に感じ恐いやうな氣がした。餘りに靜かなときに人間は知らずに命を落すものかも知れないやうな氣がした。さういふ不安は反對に益益自分を靜かにし、自分にハガネのやうな鈍い光を感じさせてゐた。

[やぶちゃん注:ここでの太字は底本では傍点「﹅」である。

「罩めてゐた」ニュアンスとしては、霧のような細かな雨が景色を覆うように、濃淡を変化させながらも、たちこめているさまを言っている。

「棄石」日本の庭園で主たる要となる石ではなく、風趣を添えるために所々に配した石を言う。]

 

 十五 童話

 

 自分は凡ゆる童話に僞瞞を感じてゐた。それ故、童話を書かうといふ氣が起らず、また子供等に自ら童話を書きつづつて見せる氣もなかつた。童話といふものは卽座に作爲され同時に亡びていいものかも知れなかつた。ストリンドベルヒも童話を書いてゐるが、自分には性質の上からも童話は書けさうもなかつた。

 支那のお伽話も自分は大仕掛で好かなかつた。自分はどういふ話をしていいか、それらの話がどうしたら子供たちに喜び迎へられるかを考へると、しまひに憂欝になる外はなかつた。これは自分が作家であるための選擇上の苦衷に違ひない。作家は最後まで子供への讀物を選べないのが本當かも知れない。假令選擇はしても自分の物にして、子供等に薦めたかつた。いい加減な話を子供に說くことは何よりの僞瞞だつた。

 自分は童話の國のことは知らないが、よい子供は自身彼のものであるべき童話を作るべきであり、我我の示す必要のないものであるかも知れなかつた。童話が作家の煙草錢だつた時代はもう過ぎたらうが、自分はさういふ作家が朗かな高い美しい氣持で、童話を作つて書くことに尊敬を持つてゐる。さういふ作家の優しい愛情の中に我我は子女を連れ込みたい希望を持つが、さういふ作家は果して天下に幾人ゐるだらうか。さういふ秀れた作家を自分で見出すことができるだらうか。現世の卑俗な一作家たる自分にもその雅量を披瀝することができる作家を見ることがあらうか。――自分はそれを疑ひ、その疑ふことに依つて憂欝を感じてならないのだ。朗かであるべき童話の國に入るさへ、自分は並並ならぬ現世的な止み難い憂欝の情に先立たれてゐる。

[やぶちゃん注:「ストリンドベルヒも童話を書いてゐる」「令嬢ジュリー」や「死の舞踏」は私の偏愛する戯曲であるが、童話は不学にして知らなかった。サイト「福娘童話集」の「海の落ちたピアノ ヨハン・アウグスト・ストリンドベリの童話」を読んだ。彼らしい翳のある掌篇で、いい。]

 

 十六 童謠

 

 自分の子供はやはり北原白秋、西條八十氏等の童謠を唄ひ、母親自身もそれを敎へてゐるが、自分は童謠を書いた經驗がないので默つて聽いてゐる外はなかつた。兩氏以外の「コドモノクニ」の童謠をも唄うてゐるのであるが、中には到底自分の如き詩人を以て任ずる家庭に、鳥渡《ちよつと》聞き遁しがたい劣つた作品もないでもなかつた。併しそれに交涉することは自分の敢てしない方針であつた。

 自分の經驗では北原氏西條氏、または稀に百田宗治氏等の童謠が娘によつて唄はれることに、その作家等に知遇を得てゐる關係上、決して惡い氣持になることはなかつた、北原氏、百田氏などは時時子供等にも接する機會があるので、餘計に親しさを彼女の方で持つらしかつた。ともあれ童謠の作家等に望みたいのは、かういふ子供の世界から見た童謠詩人の人格化が、我我の家庭にまで行き亘る關係もあり、大雜誌には少し位樂なものを書いても、子供雜誌の場合は充分によい作品を發表されるやうにされたい。自分も漫然として童話などを書き棄てた既往の惡業を思ひ返すと、それを讀む小さい人人へ良くない事をしたやうに思はれてならない。何事も藝道の影響が子供へまで感化して行くことを考へると自分の如きは童話や童謠の淸淨の世界へは、罪多く邪念深いために行けないやうな氣がした。

 

 十七 輕井澤

 

 

    一 蟲の聲

 

 今年くらゐ諸諸の蟲の聲を聽いたことがない。まだ宵の口の程に啼くのや、淺い夜半に啼くのや、眞夜中に啼くのや夜明け方に啼き始めるのや樣樣な蟲がある。宵の口は賑やかに烈しく淺い夜には稍落着いて低めに、眞夜中には少少澁みのある嗄《しやが》れた聲がしてゐる。明け方には聽えるか聽えぬかくらゐに低く物佗しい。

 それらの蟲の聲の變つてゐることは言ふまでもないが、每年涼宵に聞く筈のこれらの蟲の音が、年齡の落着きとともに我物になるほど身を以て聽き入れられるのは、聽き落さずに心も次第に落着いて用意されて來てゐるからであらう。我我は今日《けふ》眺めたものは又明日どれほど新鮮に眺められるかも知れない。彼らは變らないが我我は日日に變つてゐるからであらう。來年は最つと今年よりも多く蟲を聽くことができよう。

 

    二 螢

 

 日が暮れてから散步に出ようとすると、乾いた豆畑の畝の上に何やら光るものを見たが、隣の燈火が映る露ではないかとも思うた。よく見ると明滅する螢火だつた。海拔二千七百尺の高原では螢のからだは米粒くらゐな小ささだつた。光にも乏しく淺間の熔岩の砂利屑の乾いたのに、取縋《とりすが》つて光つてゐる有樣は憐れ深かつた。

[やぶちゃん注:私は、この時、犀星が「飯田蛇笏 靈芝 昭和二年(三十三句) Ⅱ たましひのたとへば秋のほたるかな」の句を想起していたことは間違いないと思っている。

「二千七百尺」約八百十八メートル。例えば、軽井沢駅は標高九百四十メートル、犀星や龍之介が散歩した軽井沢町追分の国道十八号線沿道路は標高千三メートル、二人の定宿であった「鶴屋旅館」(現在は「つるや」は平仮名表記)九百七十メートルである。]

 

    三 夜の道

 

 今朝道端を步きながら晝顏の花を久濶《ひさしぶ》りで眺め、しまひに蹲んでじつくりと見恍《みと》れた。美しさ憐れさは無類にしをらしかつた。感傷的になつてゐる自分は此頃氣持にのしかかるものを多分に感じてゐた。昨夜Sの書いたAの追悼文をよんで、暗い山間の道ばたを考へ乍ら反對の道を、愛宕山の中腹まで步いた程だつた。

 家へかへると、啼き出したきりぎりすは一夜每に數をふやして、雨の中を通り拔ける程だつた。自分は懷中電燈できりぎりすの啼いてゐる豆の葉を照し、その靑い翼をひろげて無心に啼き續けてゐる姿を見て故もなく感心した。

[やぶちゃん注:「昨夜Sの書いたAの追悼文」これは、間違いなく、萩原朔太郎が雑誌『改造』昭和二(一九二七)年九月号に書いた「芥川龍之介の死」である。何故、断言出来るか?――ここで犀星は、そうでなくても、龍之介との思い出の残るこの軽井沢――龍之介が欠損した時空間のここで、ひどく「感傷的になつてゐる」のであり、さらに「此頃」、「氣持に」、何か「のしかかるものを多分に感じ」ているメランコリックな状態にあったのであり、そんな中、「昨夜」、犀星自身が登場し、彼が朔太郎と龍之介に対して強烈な一語を吐き、そこで朔太郎が田端の坂の上に呆然と立ち尽くした龍之介の影に手を振る――そうして、それが、作者と龍之介とが逢った最後であったと記す――「Sの書いたAの追悼文をよんで」、思わず堪え切れなくなり、「暗い山間の道ばたを考へ乍ら」、「反對の道を、愛宕山の中腹まで步いた程だつた」と述懐していると読めるからである。いや! 芥川龍之介を愛した室生犀星が、これほど強いパッションを受け得る、優れた芥川龍之介の追悼文というものは、萩原朔太郎のそれをおいて、ない、と私は断言出来るからである(地名が気になる方のために、グーグル・マップ・データ航空写真をリンクさせておく。中央下方に「つるや旅館」、その北北東に愛宕神社に向かって上る道が「愛宕山通り」である)。

 

    四 旅びと

 

  あはれ、あはれ、旅びとは

  いつかは心やすらはん。

  垣ほを見れば「山吹や

  笠にさすべき枝のなり。」

 

          (芥川龍之介氏遺作)

 

 

    旅びとにおくれる

 

  旅びとはあはれあはれ

  ひと聲もなき

  山ざとに「白桃や

  莟うるめる枝の反り」

 

    註。「山吹や」は芭蕉の句。

    「白桃や」は芥川君の句。

    これらは朗讀風にくちずさ

    まば一入あはれをおぼゆ。

[やぶちゃん注:各詩の後の添え辞は底本とは異なり、一行空けとし、ブラウザでの不具合を考えて、位置を上げ、後者のの「註」はベタ一行であるのを、行分けして添えた。

 前者の最後に鍵括弧で添えた句は芭蕉のもので、

   山吹や笠に揷すべき枝の形

で、元禄四(一六九一)年、江戸赤坂の庵にて、芭蕉四十七歳の作である。岩波旧全集の後記によると、元版全集には文末に「(大正十一年五月)」とあるとする。とすれば、前の一篇は龍之介満三十歳の作である。この詩は自死後の昭和二(一九二七)年八月発行の『文藝春秋』に掲載された「東北・北海道・新潟」に以下のように公にされた。但し、これは犀星が仰々しく掲げた「遺作」ではなく、リンク先を読んで頂く判るが、予定されたものであり、たまたま自死後に公開されたに過ぎない。脱稿は六月二十一日。ただ、この前日、彼は確信犯の遺作「或阿呆の一生」の決定稿を秘かに書き終えているから、広角的視野で見れば、確かに遺作と言えるのである。

   *

 羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」

  あはれ、あはれ、旅びとは

  いつかはこころやすらはん。

  垣ほを見れば「山吹や

  笠にさすべき枝のなり。」

   *

 一方、後者は室生犀星の前者への相聞歌である。私の「龍氏詩篇 室生犀星」の「二、旅びとに寄せてうたへる」を参照されたい。犀星が言うように、この、

  白桃や莟うるめる枝の反り

は、生前、龍之介が捨てに捨てて厳選した七十七句を収録する「澄江堂句集」(没後に私家版として四十九日法要の香典返しとして配られた)にも採られてある(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照)。]

 

    五 命令者

 

 雨上りの道路を自分は五つになる女の子供と一緖に散步してゐた。彼女は洗はれて美しい砂の洲になつてゐる處を自分に踏んではならぬと嚴然として命令するのだ。そして彼女自身もそこだけ步かなかつた。披女の美しいものを愛し保護する氣持を自分は認め、愉快な畏敬の念をさへ抱くのだつた。併乍ら自轉車や他の散步する人人は、それらの白砂の宮殿の上に惜氣もなく靴や下駄の跡を殘して行くのだつた。併乍ら彼女は父親である自分にのみ苛酷な程、その命令を散步の終へるまで自分に守らせるのであつた。自分はあらゆる柔順なる父親の如くその命令に唯唯《ゐゐ》として服してゐた。

 

    六 山脈の骨格

 

 軒も朽ち、板戶は風雨に曝されて年輪を露《む》き出してゐる、峠の上の村落だつた。風雨も多年の間には煤のやうに黑ずむらしく、此村落は暗い夕立雲の下にあつた。石も人の顏も黑ずんで見えた。自分はとある石の上に腰をおろした。

 信越の山脈が聳えて眼の前にある。-併し自分は茫乎《ばうこ》とそれらを打眺めた。自分はこれらの山脈が自分の滅亡後に猶聳えてゐることを考へると平和な落着いた氣持になれた。彼らの骨格が信じられるのだ。

[やぶちゃん注:「茫乎」ぼんやりと摑みどころのないさま。]

2022/04/27

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 四~(3) / 卷第十 宿驛人隨遺言金副死人置得德語第二十二 / 「今昔物語の硏究」~完遂

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、そちらの正規表現の原話を読まれたい。珍しく熊楠は原話全体を、相応に、訓読表現で、やや彼風の漢字表記で書き改めて記して紹介している。参考までに、ここでも冒頭にちらと出す南方熊楠がずっと批判してきた芳賀矢一の「攷証今昔物語集」の当該話のテクスト本文をリンクさせておく。底本ではここから。本篇は「今昔物語の硏究」の掉尾であり、さらりと読めるようにしたいので、読みは私が推定で歴史的仮名遣で( )で補った。]

 

〇宿驛人隨遺言金副死人置得ㇾ德語第二十二《宿驛の人、遺言に隨ひて金(こがね)を死にし人に副(そ)へて置きたるに德を得たる語(こと)》(卷一〇第二二)此語も芳賀博士は、出處類話共に出して居らぬ。其話は「今昔震旦の□□代に人有て他州へ行く間、日晚て驛と云ふ所に宿しぬ、其所に本より一人宿りして病む、相互に誰人と知る事无(な)し、而るに本より宿して病む人今宿りせる人を呼び語て云く、我れ今夜死むとす、我腰に金二十兩有り、死後必ず我を棺に入れて其金を以て納め置べしと、今宿る人、其姓名生所(せいしよ)を問ひ敢(あへ)ざるに、此病人絕入ぬれば、死人の腰を見るに實に金二十兩有り、此人死人の云しに隨て其金を取出して、少分を以て此死人を納め置くべき物の具共を買調へ、其殘りをば約の如く少しも殘さず死人に副(そへ)て納めけり、誰人と知ずと雖も如此(かくのごとく)して家に還りぬ。其後、不思懸(おもひかけざる)に主を知ざる馬離れ來れり、此人此れ定て樣有むと思て取り繫で飼ふ。而るに、我れ主也と云ふ人無し、其後亦飇(つむじかぜ)の爲に縫物の衾を卷き持來れり、其れも樣有むと思て取り置きつ。其後ち人來て云く、此馬は我子某と云し人の馬也、亦衾も彼が衾を飇の爲に卷揚げられぬ、既に君が家に馬も衾も共に有り此れ何(いか)なる事ぞと、家主答て云く、此の馬は思懸ざるに離れて出來れる也、尋ぬる人無きに依て繫で飼ふ、衾亦飇の爲に卷き持來れる也と、來れる人云く、馬も徒(いたづら)に離れて來れり、衾も飇卷き持來れり、君何なる德か有ると、家主答へて云く、我更に德無し、但し然々の驛に夜宿せりしに、病煩(やまひわづらひ)し人、本より宿して絕入にき、而るに彼が云しに隨て彼が腰に有りし金を以て葬(はうふ)り、殘りをば少しをも、殘さず彼に副て納め置て還りにし、其人の姓名生所を知らずと、來れる人此事を聞て地に臥し丸(まろ)びて泣く事限り無し、云く其死人は我子也、此馬も衾も皆彼が物也、君の彼が遺言を違へざりしに依て、隱れたる德有れば顯れたる驗(しるし)有て、馬も衾も天の彼が物を給ひたる也と云て、馬も衾も取らずして泣々還るに、家主、馬をも衾をも還し渡しけれども遂に取ずして去にけり。其後此事世に廣く聞え有て、其人直(ただしき)也けりとして世に重く用られけり、此を殆として飇の卷持來れる物をば本の主に還す事無し、亦主も我物と云事も無し、亦卷き持來れる所をも吉(よ)き所とも爲す也となむ語り傳へたるとや」(略文)と有る。此故事から始つたとは附會だらうが、兎に角今昔物語の成(なつ)た頃の風俗として、暴風が飛(とば)し込(こん)だ主知れぬ物品を其家主の所得と成しても後日(ごじつ)本主(もとのぬし)が異論を言得(いひえ)ず、隨(したがつ)て其場所を吉相の地としたと見える。

 扨此話の出處らしきものを往年控え置(おい)たのを、今(三月一日)夜見出(みいだし)たから書付(かきつけ)る。後漢書に云ふ、王忳甞詣京師、於空舍中見一書生疾困、愍而視之、書生謂忳曰、我當到洛陽、而被病、命在須臾、腰下有金十斤、願以相贈、死後乞藏骸骨、未及問姓名而絕、忳卽鬻金一斤、營其殯葬、餘金悉置棺下、人無知者、後歸數年、縣署忳大度亭長、初到之日、有馬馳入亭中而止、其日大風飄一繡被、復墯忳前、忳後乘馬到雒縣、馬遂奔走、牽忳入它舍、主人見之喜曰、今禽盜矣、問忳所由得馬、忳具說其狀、幷及繡被、主人悵然良久乃曰、被隨旋風、與馬俱亡、卿何陰德而致此二物、忳自念、有葬書生事、因說之、幷道書生形貌、及埋金處、主人大驚號曰、是我子也、姓金名彥、前往京師、不知所在、何意卿乃葬之、大恩久不報、天以此章卿德耳、忳悉以被馬還之、彥父不取、又厚遺忳、忳辭讓而去《王忳(わうじゆん)、甞つて京師(けいし)に詣(いた)る。空舍の中に於いて、一書生の疾ひに困(くる)しむを見いだし、愍(あは)れみて、之れを視る。書生、忳に謂いて曰はく、「我れ、當(まさ)に洛陽に到るべくも、病ひを被(かふむ)り、命は須臾(しゆゆ)に在り。腰の下に金(きん)十斤有り。願はくは、以つて相贈らん、死後に骸-骨(むくろ)を藏(をさ)められんことを乞ふ。」と。未だ姓名を問ふに及ばずして、絕ゆ。忳、卽ち、金一斤を鬻(ひさ)ぎ[やぶちゃん注:売り。]、其の殯葬(ひんさう)を營み、餘れる金は、悉く棺の下(もと)に置く。人、知る者、無し。後、歸りて、數年、縣は、忳をして大度(だいど)の亭長[やぶちゃん注:地名かも知れぬが、大きな川の渡し守(地方の下級官吏で地区長)の意で採る。]に署(わりあ)つ。初めて到るの日、馬、有り、亭中に馳せ入りて止(とど)まる。其の日、大風(たいふう)、一(いつ)の繡被(しゆうひ)[やぶちゃん注:刺繍を施した衾(ふすま)。通常、着衣の形を成している。]を飄(ひるがへ)して、復た、忳の前に墮つ。忳、後、馬に乘り、洛縣に至るに、馬、遂に奔走し、忳を牽(ひき)て、他(よそ)の舍(やしき)に入る。主人、之れを見て、喜びて曰はく、「今、盜(ぬすびと)を禽(とら)へたり。」と。忳に、馬を得たる所-由(いは)れを問ふ。忳、具(つぷさ)に、其の狀(さま)を說き、幷(ならび)に繡被にも及べり。主人、悵然(ちやうぜん)たり[やぶちゃん注:失意の状態で嘆くさま。]。良(やや)久しくして、乃(すなは)ち曰はく、「被(ひ)は旋風(つむじかぜ)に隨ひて、馬と俱に亡(うしな)へり。卿(けい)は何の陰德ありてか、此の二物を致(いた)せるや。」と。忳、自(おのづか)ら、書生を葬りし事有るを念(おも)ひ、因りて之れを說き、幷(あは)せて、書生の形貌(かほかたち)及び金(きん)を埋(うづ)めし處(ところ)を道(い)へり。主人、大きに驚き、號(さけ)びて曰はく、「是れ、我が子なり、姓は金、名は彥(げん)、前(さき)に京師へ往き、所在を知らず。何ぞ、意(い)はんや、卿、乃(すなは)ち、之れを葬らんとは。大恩、久しく報ひず、天、此れを以つて、卿の德を彰(しやう)すのみ。」と。忳、悉く被(ふすま)と馬を以つて之れに還さんとするも、彥(げん)の父、取らず、又、厚く、忳に遣(や)るも、忳、辭讓して去れり。》。此話の方が今昔の方より前後善(よ)く纏まつて居るが、其を記憶し損ねて今昔の話が出來たのだらう。

     (大正三年鄕硏第二卷第三號)

[やぶちゃん注:「漢書」のそれは「卷一百十一」の「獨行列傳第七十一」にある「王忳傳」である。原文対照校訂には「中國哲學書電子化計劃」のこちらから始まる影印本を視認したが、例によって、冒頭・掉尾及び中間部に省略がある上、一部を改変しており、かなり漢字に違いがある。或いは伝版本の違いかも知れぬが、底本よりも影印本を尊重し、改変部及び字の異なるものの内、熊楠のそれより判りが良いと判断したものは、上記リンク先の表字に、原則、改めた(熊楠がカットした部分は、確かに紹介するに必要条件ではないので、復元しなかった)。芳賀矢一の考証ならざるそれを補填して余りある。やったね! 熊楠先生!!!

「十斤」貨幣単位ではなく、重量。後漢の「一斤」は二百二十二・七三グラムであるから、二・八キログラム弱となる。

「雒縣」洛陽のこと。周代には「洛邑」(らくゆう)であったが、後漢になって「雒陽」に改名され、後漢終末期を除いて首都であった。後の魏の時代に「洛陽」に戻されている。

 なお、最後の初出記載は、底本では、最終行末の下インデントである。

 本篇を以って「今昔物語の硏究」は終わっている。数少ないネット上の私の読者に心より御礼申し上げるものである。なお、一括PDF縦書ルビ版を何時ものように作成し始めたが、ルビ化に恐ろしく時間がかかるので、暫くお待ち戴きたい。少し疲れたし、他にもやりたいものがある。悪しからず。

2022/04/26

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 四~(2) / 卷第九 歐尙戀父死墓造奄居住語第八

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。]

 

〇歐尙戀父死墓造奄居住語第八《歐尙、死にける父を戀ひ、墓に菴(いほり)を造りて居住(きよぢゆう)せる語」(卷九第八)予も此語の出處を確かに知ぬが、話中の記事に似た二傳說を淵鑑類函四二九から見出だし置た。乃ち王孚安成記曰、都區寳居父喪、里人格虎、虎匿其廬、寶以簑衣覆藏之、虎以故得免、時負野獸以報、寳由是知名《王孚(わうふ)の「安成記」に曰はく、都區寶(とくほう)、父の喪に居(を)れり。里人、虎を格(う)つ。虎、其の廬(いほり)に匿(かく)る。寶、簑-衣(みの)を以つてこれを覆ひ藏(かく)す。虎、故を以つて免(のが)るることを得(え)、時に野獸を負ひて以て報(むく)ゆ。寶、これに由りて名を知らる。》と有るのが、甚だ本話に似て居る。又[やぶちゃん注:「又」は熊楠の本文。]晋郭文嘗有虎、忽張口向文、文視其口有橫骨、乃以手探去之、虎至明日乃献一鹿于堂前《晉の郭文、嘗つて、虎、有り、忽ち、口を張りて文に向かふ。文、其の口を視るに、橫骨(よこぼね)、有り。乃(すなは)ち、手を以つて探り、之れを去る。虎、明日(みやうにち)、至りて、乃ち、一(いつ)の鹿(しか)を堂前に献ず。》是は羅馬帝國のアンドロクルスが、獅子の足に立た刺を拔た禮返しに食を受け、後日又其獅子に食るべき罪に中り[やぶちゃん注:「あたり」。]乍ら、食はれなんだ話に似居るが、虎が鹿を献じただけが今昔物語の此話に似て居る。

[やぶちゃん注:「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「夷堅志」は南宋の洪邁(こうまい 一一二三年~一二〇二年)が編纂した志怪小説集。一一九八年頃成立。二百六巻。南方熊楠は、この本が結構、好きで、他の論文でもしばしば引用元として挙げている。原文は「漢籍リポジトリ」のこちらを参考にした。

「安成記」元代の、現在の江西省の年代記。散佚しているが、後代の書に引用が見られる。

「都區」不詳。一種のある地区を管理する下級の者か。

「橫骨」摂餌した獣の骨が口蓋内で横に刺さってしまったものであろう。

「アンドロクルス」ローマの奴隷。Bakersfield氏のブログ「クラバートの樹」の「アンドロクレスとライオン」に、まず、ざっくりと梗概が紹介されており、それによれば、『逃亡奴隷のアンドロクレスが闘技場でライオンの餌食になりかけたとき、ライオンは彼を認識し、抱擁を交わして再会を喜び合った』、『不審に思った皇帝が事情を尋ねると、奴隷はかつてそのライオンの足の棘を抜いてやったことがあるという。ライオンはその恩を忘れずに彼を助けたのである』。『この話に感銘を受けた皇帝はアンドロクレスを赦ゆるし、ライオンともども自由の身にした』とある。以下、話が細かく語られてあるので(ディグが博物学的で敬服した)、一読をお勧めする。この皇帝が、かのカリギュラとあって、「ほう!」と思った。また、「イソップ寓話集」の「羊飼いとライオン」でリメイクされてもいるそうである。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 四~(1) / 卷第三阿闍世王殺父王語第(二十七)

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。なお、現行の諸本では標題最後の話柄ナンバーは欠落している。ここは底本では経典の漢文は白文で返り点が打たれていない。参照した「大蔵経データベース」の画像でも返り点はなく、訓読に難渋した。前回に引き続き、熊楠の本文がかなり読み難いので、( )推定の読みを歴史的仮名遣で附した。]

 

      

〇阿闍世王殺父王語《阿闍世王(あじやせわう)、父の王を殺せる語(こと)》(卷三第二七)此話は經律論共に屢ば繰り返された所で、其れ其れ文句が多少異つて居る。芳賀博士の纂訂本二五〇――二頁には、出處として法苑から大智度論と未生怨經と菩薩本行經を孫引きし居るが、孰れも確(しか)と精密に物語の本文と合はぬ。

[やぶちゃん注:芳賀矢一のそれは、ここからで、最後に以上が並べて置いてある。]

 予が明治二十八、九年書き拔き置た課餘隨筆と云(いふ)物を搜し出し見ると、物語の前半は佛說觀無量壽經(劉宋譯)から出たらしい。如是我聞、一時佛在王舍城耆闍崛山中云々《是くのごとく、我れ、聞く、一時、佛、王舍城、著闍崛山(ぎしやくつせん)の中に在り云々》。時に王舍大城の太子阿闍世其父を幽す、置於七重室内、制諸群臣、一不得往、國大夫人名韋提希、恭敬大王、澡浴淸淨、以酥蜜和麨、用塗其身、諸瓔珞中盛葡萄漿、密以上王、爾時大王、食麨飮漿、求水漱口、漱口云々《七重の室内に置き、諸群臣を制し、一(ひとり)も往(ゆ)くを得ず。國の大夫人、韋提希(いだいけ)と名づく。大王を恭敬し、澡浴(さうやく)[やぶちゃん注:体を洗い清めること。]して淸淨にし、酥(そ)[やぶちゃん注:牛乳から製した食用油。]と蜜を以つて麨(むぎこがし)に和(あ)え、以つて用ひるに、其の身に塗り、諸(もろもろ)の瓔珞(えうらく)の中(なか)に葡萄の漿(しる)を盛り、密かに以つて王に上(たてまつ)れり。爾(こ)の時、大王、麨を食し、漿を飮む。水を求めて口を漱ぎて云々。》、大目犍連(だいもくけんれん)、平生(へいぜい)王と親しかりし故、可鷹隼飛疾至王所、日日如是、授王八戒、世尊亦遣富樓那、爲王說法《鷹・隼の飛ぶべく、疾(はや)く王の所に至り、日々是くのごとくして、王に八戒を授く。世尊、亦、富樓那(ふるな)を遣はし、王の爲めに法を說く。》三七日[やぶちゃん注:二十一日。]斯くのごとし。王(わう)守門者(しゆもんしや)を鞫(ただ)し子細を聞き、怒(いかつ)て、即執利劍、欲害其母、時有一臣、名曰月光、聰明多智、及與耆婆、爲王作禮、白言大王、臣聞燈昆陀論經說、劫初已來、有諸惡王、貪國位故、殺害其父、一萬八千、未曾聞有無道害母、王今爲此殺逆之事、汚刹利種、臣不忍聞是栴陀羅、我等不宜復住、於此時、二大臣說此語竟、以手按劍、却行而退云々。王聞此語、懺悔求救、即便捨劍、止不害母、勅語内官、閉置深宮、不令復出《即ち、利劍を執り、其の母を害せんとす。時に一(ひとり)の臣有り、名づけて「月光」と曰ふ。聰明多智にして、耆婆(ぎば)[やぶちゃん注:大臣の名前。則ち、ここでは諫言する重臣が二人に分離しているのである。]と共に王の爲めに禮を作(な)し、大王に白(まう)して言はく、「臣、『昆陀(こんだ)論』[やぶちゃん注:狭義にはバラモン教の根本聖典で、広義にはウパニシャッド文献も含めたヴェーダ聖典を指す。但し、その経典自体は散佚してない。]の經說を聞くに、劫初已來、諸(もろもろ)の惡王有り、國位を貪る故に、其の父を殺害(せつがい)せるは、一萬八千あるも、未だ曾つて、無道に母を害せるもの有るを聞かず。王、今、この殺逆の事を爲さば、刹利(せつり)[やぶちゃん注:古代インドにおける四姓(カースト)の一つとして知られるクシャトリアの漢音訳。最高の婆羅門族の次位にして王族及び士族階級を言う。]の種(しゆ)を汚(けが)さん。臣、是の旃陀羅(せんだら)[やぶちゃん注:インドで四姓の最下級のスードラ=首陀羅(しゅだら)よりもさらに下の階級であるチャンダーラの漢訳。屠畜・漁猟・獄守などの職業に携わった。所謂、存在自体が穢ていると認識された不可触民のこと。]たらんことを聞くに忍びず。我等、宜しく、復た、住するべからざるなり。」と。時に二大臣、此の語(こと)を說き竟(をは)れば、手を以つて劍を按じ、卻-行(あとしさ)りして退(しりぞ)く云々、王、此の語を聞きて、懺悔して、救ひを求め、即ち、劍を捨て、止(や)め、母を害せず。内官に勅語し、深宮に閉(とざ)し置き、復た、出でしめず。》とある。寶物集には葡萄を蒲桃に作れるが、本草綱目に葡萄一名蒲桃《葡萄、一(いつ)に蒲桃と名づく。》と有る。芳賀博士が引いた三經よりは、此經の文がずつと善く物語の文に合(あふ)て居(を)る。なほ此の經の異譯諸本を見たら一層善く合たのも有るだらうが、座右に只今無い故調査が屆かぬ。涅槃部の諸經にも阿闍世王父を害したことが出居るから、其等の中にも有るだらうが、一寸見る譯に行かぬ。

[やぶちゃん注:「課餘隨筆」これ、実は、漢籍などの書名ではなく、南方熊楠自身が、思いついた時に種々の書物から抜書をするための資料ノートの私的な標題であるらしい。されば、以下、経典が引かれているのだが、正確に「佛說觀無量壽經(劉宋譯)」に再度当たったかどうか、甚だ怪しい気がする(特に末尾の断りはそれを深く窺わせる)。返り点がないことからも、これはその過去に於いて熊楠が書写したものがベースである可能性があり、「大蔵経データベース」で、同一であるはずの同経と比べてみても、かなり表記漢字に異同があるのである。個人的には、底本よりも、より確度が高いと判断される「大蔵経データベース」のものを優先した。

「耆婆」大臣の名前。則ち、ここでは諫言する重臣が二人に分離しているのである。

「昆陀論」狭義にはバラモン教の根本聖典で、広義にはウパニシャッド文献も含めたヴェーダ聖典を全体を指す。但し、その最古層の重要だった経典そのものは散佚して、ない。「刹利」古代インドにおける四姓(カースト)の一つとして知られるクシャトリアの漢音訳。最高の婆羅門族の次位にして王族及び士族階級を言う。

「旃陀羅」カースト最下級のスードラ=首陀羅(しゅだら)よりも、さらに下の階級とされるチャンダーラの漢訳。屠畜・漁猟・獄守などの職業に携わった。所謂、存在自体が穢(けが)ていると認識された不可触民のことを指す。]

 

 扨物語本文の後半の出處として予が書留置(おい)たは、北凉曇無讖(どんむせん)が詔を奉じて譯した大涅槃經で、その卷十九及二十の文頗る長いから悉く爰に引き得ぬが、此後半話の出處は一向芳賀氏の本に見えぬから大要を述(のべ)んに、耆婆(ぎば)、王に說(とき)て、阿鼻地獄極重之業、以是業緣必受不疑云々。唯願大王速往佛所、除佛世尊、餘無能救、我今愍汝故相勸導《『阿鼻地獄の極重(ごくぢゆう)の業(ごふ)、是れを以つて業緣、必ずや受けんことを疑はず』云々、『唯だ、願はくは、大王、速やかに佛所へ往(ゆ)かれんことを。佛世尊を除いて、餘(ほか)に能く救ふ、無し。我れ、今、汝を愍(あは)れむが故、相ひ勸導す』。》といふ。此時、故(こ)父王の靈、像(すがた)無くして、聲のみ、有り、耆婆の勸めに隨ひ佛に詣(まゐ)れと敎へ、王之を聞(きき)て大(おほい)に病み出す。佛之を知つて、入月愛三昧、入三昧已、放大光明、其光淸凉、往照王身、身瘡卽愈、欝蒸除滅、王語耆婆言、曾聞人說、劫將欲盡、三月並現、當是之時、一切衆生患苦悉除、時既未至、此光何來、照觸吾身瘡苦除愈、身得安樂《月愛三昧(がつあいざんまい)に入る。三昧に入り已(をは)つて大光明(だいくわうみやう)を放つ。その光、淸凉にして、往(ゆ)きて王の身を照らす。身の瘡(かさ)、卽ち愈え、鬱蒸(うつじよう)、除滅す。王、耆婆に語りて言はく、「曾つて人の說(と)くを聞くらく、『劫(こう)、將(まさ)に盡きんとすれば、三つの月、並び現(げん)ず。是の時に當(あ)たりて、一切衆生の患苦(げんく)、悉く、除かる。』と。時、既に、未だ至らざるに、此の光り、何(いづ)くより來たつて、吾が身を照-燭(てら)し、瘡苦(さうく)、除き愈え、身の安樂を得たるや。」と。》。耆婆、是は佛の光明なりと說き佛に詣るべく勸めると、王言我聞如來、不與惡人同止坐起語言談論、猶如大海不宿死屍云々《王言はく、「我れ、聞く、『如來は、惡人と同じくあるも、坐し、起き、語り、言ひ、談論をば同じく與(とも)にはせず。猶ほ、大海の、死屍を宿(とど)めざるがごとし。』[やぶちゃん注:この部分、訓読に自信がない。識者の御教授を乞う。]と。」云々》。其より耆婆長たらしく諸譬喩を引た後言く、大王世尊亦爾、於一闡提(無佛性(むぶつしやう)の奴)輩、善知根性而爲說法、何以故、若不爲說、一切凡夫當言如來無大慈悲云々《大王、世尊も亦、然り、一(ひとり)の闡提(せんだい)(無佛性の奴[やぶちゃん注:この熊楠の謂いはちょっと大きな誤解を与える。ここは「仏法を謗(そし)り、成仏する因を、今現在は持っていない者」を指す。])の輩(やから)に、能く根性(こんじやう)を知りて、爲めに法を說く、何を以つての故ぞ。若し、爲めに說かずんば、一切の凡夫、將に言ふべし、『如來には大慈悲なし。』と云々。》とて、如來が良醫の能くいかなる難症をも治する如くなるを言ふ。於是(ここにおいて)王然らば吉日を撰んで佛に詣でんといふと、耆婆吉日も何も入らぬ、即刻往き玉へと勸む。王便ち夫人と嚴駕車乘《嚴(いかめ)しき駕-車(くるま)に乘り》、大行列を隨へて佛に詣る。車一萬二千、大象五萬、馬騎十八萬、人民五十八萬、王に隨行したと有る。物語に五萬二千車五百象と有るは、經文が餘りに大層だから、加減して何かの本に出たのを採(とつ)たのだろ[やぶちゃん注:ママ。]。爾時佛告諸大衆言、一切衆生、爲阿耨多羅三藐三菩提近因緣者、莫先善友、何以故、阿闍世王、若不隨順耆婆語者、來月七日、必定命終墮阿鼻獄、是故近因莫若善友、阿闍世王復於前路聞、舍婆提毘流離王乘船入海遇火而死、瞿伽離比丘生身入地至阿鼻獄、須那刹多作種種惡、到於佛所衆罪得滅、聞是語已、語耆婆言、吾今雖聞如是二語、猶未審定、汝來耆婆、吾欲與汝同載一象、設我當入阿鼻地獄、冀汝捉持、不令我墮、何以故、吾昔曾聞得道之人不入地獄。《爾(そ)の時、佛、諸(もろもろ)の大衆に告げて言はく、「一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の近き因緣と爲(な)る者は、善友より先なるは莫(な)し。何を以つての故に。阿闍世王、復た耆婆の語(ことば)に隨順せずんば、未月(びげつ)七日、必定、命、終はり、阿鼻獄に墮ちん。是の故に、近き因は善友に若(し)くは無し。」と。阿闍世王、復た、前路に於いて、聞くらく、「舍婆提(しやばだい)の毘瑠璃(びるり)王は、乘船して、海に入り、火に遇ひて死す。瞿伽離(くぎやり)比丘は生身(しやうしん)にて、地に入り、阿鼻獄に至る。須那刹多(すなせつた)は、種種の惡を作(な)せしに、佛所に到りて、衆罪、滅するを得たり。」と。この語(ことば)を聞き已(をは)りて、耆婆に語りて曰はく、「吾れ、今、是くのごとき言を聞くと雖も、猶ほ、未だ審かに定(ぢやう)せず。汝、來たれ、耆婆よ、吾れ、汝と同じき一象に載らんと欲す。設(まう)けて、我れ、當(まさ)に阿鼻地獄に入るべきならば、冀(ねがは)くは、汝、捉(と)り持つて、我れをして墮ちしめざれ。何を以つての故に。我れ、昔、曾つて、『得道の人、地獄に入らず。』聞けばなり。」と。》其より佛の說法を拜聽し、證果得道した次第を長々と說き有る。

[やぶちゃん注:「月愛三昧」釈迦が、まさにこの阿闍世王の身心の苦悩を除くために入(はい)られた三昧の名。清らかな月の光が青蓮華(しょうれんげ)を開花させ、また、夜道を行く人を照らして歓喜を与えるように、仏が、この三昧に入れば、衆生の煩悩を除いて、善心を増やさせ、迷いの世界にあって、悟りの道を求める行者に歓喜を与えるとされる。

「鬱蒸」もの凄い蒸し暑さ。無間地獄への阿闍世王の懼れが生んだ心身症的なそれであろう。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 三 / 「卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四」の「出典考」の続き

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話は五年前に、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」の私の注の中で、全文を電子化し、簡単な語注を本文内に挟んである(今回、その部分のみを、再度校訂し、正字不全や、語注を追加しておいた)にので、まず、それを読まれたい。また、その宵曲の当該作自体が、恐らくは本論に対して有益な情報をも与えてくれる内容でもあろうからして、全文を読まれんことを強くお勧めする。参考底本ではここから。なお、本パートはやや長いので、「選集」の段落分けに従って十一段落とし、以下に全部を示した。各段落の後に注を附し、その後は一行空けた。以下の添え辞の「今昔物語集」の標題は私の記事標題が正しく、不全である。読みは「四國の邊地を通りし僧、知らぬ所に行きて、馬に打ち成さるる語(こと)」である。またまた、読みが難しい字が他出するので、今回は私が推定で( )で読みを直接に入れ、数少ない底本のそれは、《 》で示した。

 

        

  (通四國邊地僧被打成馬語出典考承前)

 

 予一切經を通覽せしも、此羅馬俗話其儘の同話又類話は無い、然し前の部分に酷似(よくに)たのと、後の部分に大體似たのが別々に有る、乃(すなは)ち唐の義淨譯根本說一切有部毘奈耶(いうぶびなや)雜事二七に、鞞提醯國の善生王(ぜんしやうわう)の夫人男兒を生む、此兒生れ已(をは)りて國民皆な飮食(おんじき)を得易く成(なつ)た迚、足飮食(すうおんじき)と名く、善生王の後又別に夫人を娶り子を生み、立(たて)て太子とす、足飮食王子住(とど)まれば、必ず誅せらるべしとて、半遮羅國に遯(のが)れ、其王女を娶り男兒を生む、其日國中飮食得易かつたので多足食(たすうじき)と名く。程無く父王子歿しければ、王命により其妃を或る大臣に再嫁し、多足食王子も母に隨て其大臣方に在り、時に、大臣家有ㇾ雞栖宿、相師見已、作如是語、若其有ㇾ人、食此雞者、當得爲ㇾ王、大臣聞已、不ㇾ問相師、便殺其雞、謂其妻曰、汝可營ㇾ膳待我朝還、夫人卽令烹煮、時多足食從學堂來、不ㇾ見其母、爲飢所ㇾ逼、見ㇾ有沸鐺、便作是念、我母未ㇾ來、暫觀鐺内、有ㇾ可ㇾ食不、遂見雞頭、卽便截取、以充小食、母既來至、問言食未、答曰且食雞頭、母卽與ㇾ食、令ㇾ歸學所《大臣の家に鷄(にはとり)有りて、栖み宿る。相師[やぶちゃん注:占い師。]、見已(をは)りて、是くのごとき語を作(な)す、「若し、其れ、人、有りて、此の鷄を食らへば、當(まさ)に王と爲(な)るを得べし。」と。大臣、聞き已りて、相師に問はずして、便(すなは)ち、其の鷄を殺し、其の妻に謂いて曰はく、「汝、膳を營んで、我が朝(てう)より還るを待つべし。」と。夫人、卽ち、烹煮(はうしや)せしむ。時に、多足食、學堂より來たりて、其の母を見ず。飢えの逼(せま)る所と爲(な)りて、沸ける鐺(なべ)の有るを見るや、便ち、是れ、念(おも)ひを作(な)すに、『我が母、未だ來たらず。暫く鐺の内を觀(み)ん、食ふべきものの、有りや不(いな)や。』と。遂に鷄の頭を見、卽ち便ち、截り取りて、以つて小食に充(あ)つ。母、既に來たり至り、問ふに、「食せりや、未だしや。」と言ふ。答へて言はく、「且つは、鷄の頭を食せり。」と。母、卽ち、食を與へ、學所に歸らしむ。》、大臣歸り見ると鷄頭無し、妻に問(とう)て兒が食(くふ)て去つたと知る。抑(そもそ)も此の鷄を全(まる)で食(くふ)て王と成得るか、少しく食ふても成れるかと疑ひを成(しやう)じ、彼(かの)相師に問ふと、答ふらく、全身を食(くは)ずとも、頭さへ食(くふ)たら王に成る、若し他人が鷄頭を食たなら、其奴(そやつ)を殺し、其頭を食ふと王に成ると、大臣便ち彼(かの)繼子を殺さんとて、妻に夫と子と何(いづ)れが王に成(なつ)て欲(ほし)いかと尋(たづね)る、妻、お座成(ざなり)に夫の方を望むと答へ、私(ひそか)に子をして其亡父の生國へ逃れしめた、其の途上で、丁度亡父の弟王病死し、群臣嗣王(しわう)を求むるに出會ひ、此兒人相非凡だから、選ばれて王に成(なつ)たと有る。

[やぶちゃん注:「鞞提醯」「選集」には『ヴイデハー』とルビする。古代インドのどこかは不詳。

「善生王(ぜんしやうわう)」底本は「無生王」。「選集」の表記を「大蔵経データベース」で同経典を確認して訂した。後の同語も、かくした。

「半遮羅」「選集」には『パンチアーラ』とルビする。同前。

「父王子」原文を見たが、以上のパートはもっと複雑で恐ろしく長い。熊楠はそれを、無理矢理、簡略化しているのである。そのため、判り難いが、ここは逃れた半遮羅国の義父王の嗣子の王子が亡くなったのである。以下、二国の継嗣問題が絡んでいるために実はかなり解読が難しいのだが、私はそのように読んだ。]

 

 一八四五年板「デ・ボデ」男「ルリスタン」及び「アラビスタン」紀行、卷二、頁一八に、「グラニ」人年々鷄の宴を催す、各村の戶主各一鷄を僧方に持集(もちよ)り、大鍋で煮た後、その僧一片づゝ鷄肉を一同へ輪次盛り廻るに、鷄頭を得る者は、其年中、特にアリ聖人の贔屓を受(うく)るとて欣喜す、此輩又墓上に鷄像を安置し、鷄像を形代(かたしろ)として諸尊者の祠に捧ぐと見ゆ、熊楠謂ふに、古印度の提醯國民も、此波斯(ペルシヤ)のグラニ人も、梵敎と囘敎を信じ乍ら、以前鷄を族靈《トテム》として尊崇した故風を殘存したのであらう。

[やぶちゃん注:「選集」では、以上の段落は全体が一字下げである。確かに、次の段落では

『一八四五年板「デ・ボデ」男「ルリスタン」及び「アラビスタン」紀行』イングランドの男爵クレメント・アウグストゥス・グレゴリ・ピーター・ルイス・ドゥ・ボーデ(Clement Augustus Gregory Peter Louis De Bode, baron 一七七七年~一八四六年)かと思われる。この“Travels in Luristan and Arabistan”の作者として知られるだけのようである。「ルリスタン」が現在のイランのロレスターン州:ラテン文字転写:Lorestān)。イランでも古い歴史をもつ地域で、紀元前第三千年紀・第四千年紀に、外から入ってきた人々がザーグロスの山地に住み着いたのが起源とする。位置は当該ウィキ地図を参照されたい。「アラビスタン」は旧アラビスタン首長国。十五世紀から一九二五年まで元「アラブ首長国連邦」であったが、現在はイランの一部。位置は英文ウィキ「Emirate of Arabistan」地図を参照。「Internet archive」で原本が見られるが、熊楠の指示したページにはない。「選集」でも同じページだが、今までにも、誤記を見出した経緯があったので、ダメモトでフル・テクストを機械翻訳して調べたところが、図に当たった! これは「一八〇頁」の誤りであった! 久々に南方熊楠のオリジナル注で快哉を叫んだ! ご覧あれ! 「180」ページの十一行目に「the Gúrani」とあり、「181」の十一行目に「Ali」、十四行目に「アリ聖人」の意らしい「Ali-Iláhi」とあって、ここで熊楠の言っていることが確かに載っている! 「南方熊楠全集」再版本では注して訂すべし!

 

 又同書卅に、老娼他の妓輩と賭(かけ)して、女嫌ひの若き商主を墮(お)とさんとて、自分の子も商用で久しく不在也、名も貌も同じき故、吾子同然に思う迚親交す、商主老娼の艷容無雙なるに惚れ、一所に成(なら)んと言出(いひだ)すと、汝の財物悉く我家に入(いれ)たら方(まさ)に汝が心を信ぜんと言ふ、因て悉く財物を運び入れしを、後門より他へ移し去り、酒に醉睡(ゑひねむ)れる商主を薦(こも)に裹んで衢(まち)へ送り出す、大に悲んで日傭(ひやとひ)となり、偶然父の親交有りし長者方に傭はれに之(ゆ)くと、その名を聞(きき)て憐れみ慰め、女婿(ぢよせい)とすべしと云ふ、商主何とか老娼に詐(かた)り取れた財貨を取還した上(うへ)にせんと、暫時婚儀の延期を乞ふ、是時遊方(商主の名)出ㇾ城遊觀、於大河中、見死屍隨流而去、岸上烏鳥欲ㇾ餐其肉、舒ㇾ嘴不ㇾ及、遙望河邊、遂以ㇾ爪ㇾ捉、箸揩拭其嘴、嘴便長、去食其死肉、食ㇾ肉足已、復將一箸揩ㇾ嘴、令縮如ㇾ故無ㇾ異。遊方見已、取ㇾ箸而歸、遂將五百金錢、往婬女舍、報言、賢首、往以無錢、縛ㇾ我舁出、今有錢物、可ㇾ共同歡、女見ㇾ有ㇾ錢、遂便共聚、是時遊方既得其便、即將一箸彼鼻梁、其鼻遂出、長十尋許、時家驚怖、總命諸醫、令其救療、竟無一人能令ㇾ依ㇾ舊、醫皆棄去、女見醫去、更益驚惶、報遊方曰、聖子慈悲、幸忘舊過、勿ㇾ念相負、爲ㇾ我治ㇾ之、遊方答曰、先當ㇾ立ㇾ誓、我爲ㇾ汝治、先奪我財、並相還者、我當爲療、答言、若令ㇾ差者、倍更相還、對衆明言、敢相欺負、即取一箸、揩彼鼻梁、平復如ㇾ故、女所ㇾ得物、並出相還、得ㇾ物歸ㇾ家、廣爲婚會云々《是の時、遊方(いうはう)(商主の名)、城を出でて遊觀す。大河の中に於いて、死-屍(しかばね)、有り、流れに隨ひて去るを見る。岩の上の烏鳥(うてう)その肉を餐(くら)はんと欲し、嘴(くちばし)を舒(の)ぶれども、及ばず。遙かに河邊(かはべ)を望み、遂に爪を以つて箸(はし)を捉(と)り、その嘴を揩-拭(こす)るに、嘴、便(すなは)ち長(の)ぶ。去(い)にて其の死肉を食らひ、肉を食らひ、足り已(をは)るや、復た、一つの箸を將(と)つて嘴を揩(こす)り、縮みて、故(もと)のごとく異なること無からしむ。遊方、見已りて、箸を取りて歸る。遂に五百金錢を將(も)つて、婬女の舍(いへ)に往(ゆ)く。報(つ)げて言はく、「賢首(そもじ)、往(さき)に、錢無きを以つて我れを縛りて、舁(かつ)ぎ出だせり。今は、錢-物(ぜに)有り。同じく歡を共にすべし。」と。女、錢あるを見て、遂に、便ち、共に聚(むつ)む。是の時、遊方、既に其の便(すき)を得て、即ち、一つの箸を將(も)て、彼の鼻梁を揩(こす)る。其の鼻、遂に出でて、長さ十尋(ひろ)[やぶちゃん注:中国では一尋は八尺。引用本は唐代であるから、一尺は三十一・一センチメートルなので、二メートル四十八・八センチメートルとなる。]許りなり。時に家のもの、驚き怖れ、總ての諸醫に命じて、其れを救療せしむ。竟(つひ)に、一人も、能く舊(もと)に依(もど)さしむるもの、無し。醫、皆、棄てて去る。女、醫の去るを見て、更に、益(ますま)す驚き惶(おそ)れ、遊方に報げて曰はく、「聖子(せいし)よ、慈悲もて、幸ひに舊過(きうくわ)を忘れ、相ひ負(そむ)くを念(おも)ふ勿(な)かれ、我が爲めに之れを治せよ。」と。遊方、答へて曰はく、「先(ま)づ、當(まさ)に誓ひを立つべくんば、我れ、汝が爲めに治せん。先(さき)に、我が財を奪ひしを、並(みな)、相ひ還(かへ)さば、我れ、當に爲めに療ずべし。」と。答へて言ふ、「若し、差(い)えしむれば、倍して、更に相ひ還さん。衆(しゆ)に對し、明言す。敢へて相ひ欺-負(あざむ)かんや。」と。即ち、一つの箸を取りて、彼の鼻梁を揩(こす)るに、平復して故(もと)のごとし。女、得し所の物、並(みな)、出だして相ひ還す。物を得て家に歸り、廣く婚會(こんくわい)を爲す云々》。

[やぶちゃん注:「同書三〇」は話が前々段落に戻って「根本說一切有部毘奈耶雜事」の第三十巻となる。ここでは、「大蔵経データベース」の当該巻のデータに不審があったので、「漢籍リポジトリ」のそれに切り替えた。このサイトは「本草綱目」の引用でよく使っており、信頼度は私的には非常に高い。]

 

 此二話は、「ラルストン」英譯「シエフネル」西藏說話一九〇六年板八章と十一章に出居るが、唐譯と少く異(ちが)ふ、唐譯英譯共に趣向凡て羅馬譚に似て居るが、草を食はせて女を驢にし報復する代りに、鼻を揩(こすつ)て高くし困らすとし居る。だから高木氏が、此篇の終りに明記を添えられ度(たい)のは、幻異志には、娘子に草を食はせて驢とする事有りや否(いなや)で、其が有らば、日本には存(そん)せぬが、支那には羅馬と同源から出た話が有(あつ)たと見て可(よ)い。又前にも言(いつ)た通り、幻異志に娘子を笞つて驢と作(な)すと明記有らば、他に此例は無いのだから、此一事が今昔物語の此話が幻異志より出た確證に立つ筈だ。

[やぶちゃん注: 『「ラルストン」英譯「シエフネル」西藏說話』「西藏說話」に「選集」では『チベタン・テイルス』とルビする。調べたところ、エストニア生まれのドイツの言語学者・チベット学者であったフランツ・アントン・シェイファー(Franz Anton Schiefner 一八一七年~一八七九年)がドイツ語で書いたものを、一八八二年にイギリスのロシア学者で翻訳家でもあったウィリアム・ラルストン・シェッデン-ラルストン(William Ralston Shedden-Ralston 一八二八年~一八八九年)が一八八二年に英訳した“Tibetan tales”と思われる。「Internet archive」のこちらで当該版の英訳原本が読める。ちょっと当該章を読むエネルギは、ない。悪しからず。

「幻異志には、娘子に草を食はせて驢とする事有りや否で、其が有らば、日本には存せぬが、支那には羅馬と同源から出た話が有たと見て可い。又前にも言た通り、幻異志に娘子を笞つて驢と作すと明記有らば、他に此例は無いのだから、此一事が今昔物語の此話が幻異志より出た確證に立つ筈だ」今回、再度、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」に出る「板橋三娘子」(はんきょうさんじょうし)の話を「河東記」で読み直してみた。すると、まず、熊楠の言う「草」というのは、ある。驢馬にするのに用いたものは、家の中のミニチュアの畑で、木彫りの牛と人形を使役して生えさせた蕎麦の実を元にした焼餅(シャオピン)だからである。また、鞭を打って驢馬にするシーンはないが、後半で驢馬にされてしまった三娘子に跨って主人公の李和(彼はその驢馬が三娘子であることを知っている)が驢馬に鞭打って旅をするというシークエンスはある。但し、乗る驢馬に鞭打つのは当たり前だから、熊楠の必要条件には、残念ながら、該当しない(因みに、彼女は最後には不思議な老人が、驢馬の口と鼻との辺りに手をかけて二つに裂くと、彼女がそこから躍り出て、目出度く元の人間に戻り、姿を晦まして、大団円となる)。やはり、かなり親和性の強い類話であることは、最早、間違いない。しかし、では、「今昔物語集」の例の話の原拠と言えるか? と問われると、やはり、クエスチョン、とせざるを得ない。]

 

 幼時和歌山で老人に聞いた譚に、或人(あるひと)鼓(つづみ)を天狗とかより授り、之を打つとお姬樣の鼻が無性に長くなり、又打變(うちかへ)ると低く成ると云(いふ)事有(あつ)たが、田邊には知(しら)ぬ人勝(ひとがち)だ。和歌山へ聞合(ききあは)せた上、本誌へ寄(よす)べし。

[やぶちゃん注:以上の短い段落は、やはり補足的なもので、「選集」では全体が一字下げになっている。なお、この類話は昔話にかなりある。]

 

 草を食(はせ)て人を驢とする話佛經にもあるは、出曜經卷十に、昔有一僑士、適南天竺、同伴一人、與彼奢婆羅呪術家女人交通、其人發意、欲ㇾ還歸家、輒化爲ㇾ驢、不ㇾ能ㇾ得ㇾ歸、同伴語曰、我等積年離ㇾ家、吉凶災變永無消息、汝意云何、爲ㇾ欲歸不、設欲ㇾ去者可時莊嚴、其人報曰、吾無遠慮、遭値惡緣、與呪術女人交通、意適欲ㇾ歸、便化爲ㇾ驢、神識倒錯、天地洞燃爲ㇾ一、不ㇾ知東西南北、以ㇾ是故、不ㇾ能ㇾ得ㇾ歸、同伴報曰、汝何愚惑、乃至ㇾ如ㇾ此、此南山頂、有ㇾ草名遮羅波羅、其有人被呪術鎭壓者、食彼藥草、即還服ㇾ形、其人報曰、不ㇾ識此草、知當如何、同伴語曰、汝以ㇾ次噉ㇾ草、自當ㇾ遇ㇾ之、其人隨語、如彼教誡、設成爲ㇾ驢、即詣南山、以ㇾ次噉ㇾ草、還服人形、採取奇珍異寶、得同伴安隱歸家《昔、一りの僑士(たびびと)有り、南天竺に適(ゆ)くに、一人と同伴するに、彼(か)の奢婆羅(じやばら)呪術家[やぶちゃん注:阿修羅を信望する呪術の家系の意か。]の女人(によにん)と交-通(まじは)りたり。其の人、發意(ほち)して、家へ還-歸(かへ)らんと欲すれば、輒(すなは)ち、化(け)して驢(ろば)と爲り、歸るを得る能はず。同伴、語りて曰はく、「我等(われら)、積年、家を離れ、吉凶災變、永く消息無し。汝の意は云何(いかん)、歸らんと欲するや不(いな)や。設(まう)けて去らんと欲さば、時に莊嚴(しやうごん)すべし。」と。其の人、報(こた)へて曰はく、「吾れ、遠き慮(おもんぱか)りなく、惡緣に遭(めぐ)り値(あ)ひ、呪術の女人と交-通れり。意、適(たまた)ま歸らんと欲すれば、便ち、化して驢と爲る。神識[やぶちゃん注:精神と意識。心。]、倒錯し、天地、洞然(どうねん)として[やぶちゃん注:すっかり抜けきってしまい。]一つとなり、東西南北を知らず。是の故を以つて、歸るを得る能はず。」と。同伴、報(こた)へて曰はく、「汝、何ぞ愚-惑(おろ)かなること、乃(すなは)ち、此くのごときに至るや。此の南の山の頂きに草有り、『遮羅波羅(じやらばら)』と名づく。其れ、人の呪術に鎭厭(ちんよう)[やぶちゃん注:「鎮圧」に同じ。]せらるる有らば、彼(か)の藥草を食せば、即ち、還(かへ)りて、形(すがた)を服(もど)す。」と。其の人、報(こた)へて曰はく、「此の草を識らず。知るには當(まさ)に如何にすべき。」と。同伴、語りて曰はく、「汝、次(つぎつ)ぎに、以つて、草を噉(くら)はば、自(おのづか)ら之れに遇ふべし。」と。其の人、語(ことば)に隨ひ、彼(か)の敎誡のごとく、設(もくろ)み成(な)して、驢と爲(な)り、即ち、南の山に詣(いた)り、次に、以つて、草を噉ひ、還(ま)た、還りて、人の形(すがた)を復(もど)せり。奇珍異寶を採取し、同伴と與(とも)に、安穩(あんのん)に家に歸ることを得たり」》、既に驢に化(かし)た人に復(もど)す草有りと云ふのだから、人に食はせると驢と成す草有りとの信念も行れた筈だ。

[やぶちゃん注:今回は、再び、原文を「大蔵経データベース」をもととした。]

 

 紀州田邊の昔話に、夫婦邪見なる家へ異人來り、祈りて其夫を馬に化す、妻懼れ改過(かいくわ)[やぶちゃん注:過ちを改めること。]し賴む故、其人復(また)祈り、夫の身體諸部一々人形(じんぎやう)に復すと、是れ何の據(よりどこ)ろ有るを知らずと雖も、外國に似た話有り、例せば、アプレイウスの金驢篇卷十に、「ルシウス」過つて自身に魔藥を塗り、驢に化し見世物に出で、能く持主の語を解するを見て、一貴婦其主に厚く餽(おく)り、一夜化驢(ばけろば)と交會して歡を盡せしより、更に死刑に當れる惡婦を其驢と衆中で婬せしめんとする話有り。蓋し羅馬が共和國たりし昔、「ラチウム」邊の法、姦婦を驢に乘せ引き廻せし後、其驢をして公衆環視中に其婦を犯さしめたるが、後には多人(あまたのひと)をして驢に代わらしめ、屢ば其婦死に至つた。其間其人々驢鳴(ろばなき)して行刑(しおき)したとぞ(一八五一年板ヂユフワル遊女史卷一、頁三一四以下)。希臘の古傳に、「クレト」島王「ミノス」神罰を受け、其后「パシプハエ」卒(にはか)に白牡牛に著(じやく)し[やぶちゃん注:色情を発し。]、熱情抑え[やぶちゃん注:ママ。]難く、靑銅製の牝牛像内に身を潛めて、牡牛の精を受け、怪物ミノタウロス(牛首人身又は人首牛身と云)を生み(グロート希臘史、一八六九年板卷一頁二一四)、埃及の「メンデス」の婦女は神廟附屬の牡山羊に身を施し、以色列《イスラエル》の女人亦神牛に身を捨(すて)し徵(あかし)あり(ダンカーヴヰル希臘巧藝の起原精神及進步、一七八五年板、一卷三二二頁)中世歐州の法に、婦女驢と交(まじは)るの罪有り、十九世紀にも馬驢牛等と姦し、其畜と俱に燒かれし人多し、(ヂユフワル卷三、頁二七六、卷六、頁一八―二五)近代醫家が實驗せる歐州婦女畜と交れる諸例、孰れも狗(いぬ)のみが共犯者たりと云ふ(ジヤクー編内外科新事彙、三九卷、五〇三頁、オット、ストール民群心理學上の性慾論、一九〇八年板、九八三―六頁參照)。

[やぶちゃん注:「アプレイウスの金驢篇」「二」~(5)で既出既注。

「クレト島」クレタ島。

「ミノス」ギリシア神話に登場するクレタ島の王で、冥界の審判官の一人。『クノッソスの都を創設し、宮殿を築いてエーゲ海を支配したとされる』。『ヘロドトスやトゥーキュディデスはミノスを実在の人物と考え、プルタルコスはミノスの子ミノタウロスを怪物ではなく』、『将軍の一人だとする解釈を示している』。『近年、クレタ島のクノッソス宮殿遺跡から世界最古の玉座とともに古文書が見つかり、その碑文の中にミヌテ、ミヌロジャ』『という名前があったことから、ミノス王の実在を示すものではないかと言われている』(より詳しくは引用(名前の中の長音符のあらかたは省略した)元の当該ウィキを参照されたい)。

「パシプハエ」現行では「パーシパエー」と表記することが多い。当該ウィキによれば(名前の中の長音符のあらかたは省略した)、『太陽神ヘリオスとペルセイスの娘で』、『クレタ島の王ミノスの妻とな』った。専ら、『ミノタウロスの母として』『知られる』。『魔術に優れており、また』、『神の血を引くために不死だったとも伝えられている』、『その名の意味は「すべてに輝く」であり、本来はクレタ島の大地の女神だったと考えられている。ミノスは義父であるクレタ王アステリオスが死んだとき、クレタの王位を要求したが』、『受け入れられなかった。そこでミノスは王国が神々によって授けられた証に、自分の願いは何でもかなえられると言った。彼は海神ポセイドンに犠牲を捧げ、海から牡牛を出現させることを願い、その牡牛をポセイドンに捧げると誓った。すると願いはかなえられ、海中から』一『頭の美しい牡牛(クレタの牡牛)が現れたので、ミノスは王位を得ることができた。ところがミノスはその牡牛が気に入って自分のものにしてしまい、ポセイドンには別の牡牛を捧げた。ポセイドンは怒って牡牛を凶暴に変え、さらにパーシパエーが』、『この牡牛に強烈な恋心を抱くように仕向けた』とある。また、『別の伝承では』、『愛の女神アプロディーテが、パーシパエーが自分を敬わなかったため、あるいは父であるヘリオス神が軍神アレスとの浮気をヘーパイストスに告げたことを怨んで、パーシパエーをエロスに彼の弓矢で射させ、彼女に牡牛への恋を抱かせたとされる』。『パーシパエーは思いを遂げるため工匠ダイダロスに相談した。するとダイダロスは木で牝牛の像を作り、内側を空洞にし、牝牛の皮を張り付けた。そして像を牧場に運び、パーシパエーを中に入れて牡牛と交わらせた。この結果、パーシパエーは身ごもり、牛の頭を持った怪物ミノタウロスを生んだ』。『ミノスは怒ってダイダロスを牢に入れたが、パーシパエーはダイダロスを救い出してやったともいわれる』とある。

「ミノタウロス」当該ウィキによれば(仕儀は同前)、『ミノタウロスは成長するに』従い、『乱暴になり、手におえなくなる。ミノス王はダイダロスに命じて迷宮(ラビュリントス)を建造し、そこに彼を閉じ込めた。そして、ミノタウロスの食料としてアテナイから』九『年毎に』七『人の少年』と、七『人の少女を送らせることとした。アテナイの英雄テーセウスは』三『度目の生け贄として自ら志願し、ラビュリントスに侵入してミノタウロスを倒した。脱出不可能と言われたラビュリントスだが、ミノス王の娘・アリアドネーからもらった糸玉を使うことで脱出できた』。『ダンテの』「神曲」では、『「地獄篇」に登場し、地獄の第六圏である異端者の地獄においてあらゆる異端者を痛めつける役割を持つ』。『この怪物の起源は、かつてクレタ島で行われた祭りに起源を求めるとする説がある。その祭りの内容は、牛の仮面を被った祭司が舞い踊り、何頭もの牛が辺り一帯を駆け巡るというもので、中でもその牛達の上を少年少女達が飛び越えるというイベントが人気であった。また、古代のクレタ島では実際に人間と牛が交わるという儀式があったとされる』とある。

「ヂユフワル遊女史」「選集」に、『イストワ・ド・ラ・プロスチチユチヨン』とルビする。ピエール・デュフォワール(Pierre Dufour 生没年未詳)の“Histoire de la prostitution chez tous les peuples du monde : depuis l'antiquité la plus reculée jusqu'à nos jous”(「世界の総ての人間世界に於ける売春の歴史:最も遠い古代から我々の時代まで」)。「Internet archive」のこちらでフランス語原本の当該一八五一年版が読める。

「ダンカーヴヰル希臘巧藝の起原精神及進步」「選集」に、『ルシヤーシユ・スル・デザルト・ド・ラ・グレク』とルビする。作者・書誌ともに調べ得なかった。

「ジャクー編内外科新事彙」「選集」に、『ヌーヴオー・ジクシヨネール・ド・メドシン・エ・ド・シルルジー』とルビする。スイス出身でフランスに帰化した医学者(病理学)フランシス・シギスモンド・ジャクー(François Sigismond Jaccoud 一八三〇年~一九一三年)が一八六四年から一八八六年まで監修し続けた大冊の“Nouveau dictionnaire de medecine et de chirurgie pratiques”(「実用医学及び外科新辞典」)。「Internet archive」のこちらで一八六四年初版原本が見られる。

「オット・ストール民群心理學上の性慾論」「選集」に『ガス・ゲシユレヒツレーベン・イン・デル・フオルカープシコロギエ』とルビする。スイスの言語学者・民族学者オットー・ストール(Otto Stoll 一八四九年~一九二二年)が一九〇八年に刊行した“Das Geschlechtsleben inderVölkerpsychologie”。]

 

 印度には星占の大家驢唇(ろしん)仙人の出生談が、大方等大集經(だいはうどうだいじつきやう)にも有るが、日藏經の方が較(やや)精(くはし)いから其を引(ひか)う。卷七に云く、此の賢劫初、膽波城の大三摩王聖主で、常樂寂靜云々、不ㇾ樂愛染、常樂潔ㇾ身、王有夫人、多貪色欲、王既不ㇾ幸、無ㇾ處ㇾ遂ㇾ心、曾於一時、遊戯園苑、獨在林下、止息自娯、見驢合群、根相出現、欲心發動、脫ㇾ衣就ㇾ之、驢見卽交、遂成胎藏、月滿生ㇾ子、頭耳口眼、悉皆似ㇾ驢、唯身類ㇾ人、而復麁澁、駮毛被ㇾ體、與ㇾ畜無ㇾ殊《常に寂靜を樂しみ云々、愛染を樂しまず、常に自ら身を潔くす。王に夫人有り、多く色欲を貪る。王、既に幸(みゆき)せず、心を遂ぐる處、無し。曾つて、一時に於いて、園苑に遊戯し、獨り、林下に在りて、止息(しそく)し、自ら娛(たの)しむ。驢(ろば)の合(あつ)まれる群れを見るに、根相、出現す。欲心、發動し、衣を脫ぎて、之れに就けり。驢、見て、卽ち、交わり、遂に胎藏を成す。月、滿ちて、子を生む。頭・耳・口・眼、悉く、皆、驢に似るも、唯だ、身(からだ)は人に類して、而して復た、麁澁(ざらつ)きて、駮(まだら)の毛、體を被(おほ)ひ、畜と殊なること、無し。》夫人見て怖れ棄(すて)しに、空中に在(あり)て墮ちず。驢神(ろしん)と名づくる羅刹婦(らせつふ)[やぶちゃん注:女の鬼。]拾ふて雪山に伴(つれ)行き乳哺す、兒の福力に因り、種々の靈草靈果を生じ、其を食ふて全身復た驢ならず、頗る美男と成たが、唇のみ驢に似たり、苦行上達して天龍鬼神に禮拜された相(さう)な。

[やぶちゃん注:今回の校閲は原経が見当たらなかったので、「大蔵経データベース」で語句で検索、最も近い「法苑珠林」(道世撰)のものを参考にしつつ、底本に従った。

「驢唇仙人」「選集」には『クハローチトハ』とルビがある。「佉盧虱吒」(かるしった:現代仮名遣)とも名乗る。サンスクリット語「カローシュティー」の音写。彼は釈迦の前身であるとも言われる。

「膽波」同前で『チヤンパ』とある。ガンジス河の南岸にあった国。玄奘の行った頃は小乗仏教国として記されてある。]

 

 大英博物館宗敎部の祕所に、牡牛が裸女を犯す所を彫(ほつ)た石碑が有つた、元と印度で田地の境界に立(たて)た物で、若し一方の持主が、他の地面を取込むと、家婦が此通りの恥辱に逢ふてう警戒(いましめ)ださうな。滅多に見せぬ物だが、予特許を得て、德川賴倫(よりみち)前田正名(まさな)鎌田榮吉野間口兼雄諸氏に見せた。十誦律六二に、佛比丘が、象牛馬駱駝驢騾(らば)猪羊犬猿猴麞(くじか)鹿鵝雁孔雀鷄等における婬欲罪を判(わか)ち居る、西曆紀元頃「ヴアチヤ」梵士作色神經(ラメイレツス佛譯、一八九一年板、六七―八頁)に根の大小に從ひ、男を兎(うさぎ)特(をうし)駔(をうま)、女を麞(のろ)騲(めうま)象と三等宛に別ち、交互配偶の優劣を論じ居るが、別に畜姦の事見えず。本邦には上古、畜犯すを國津罪の一に算へ、今も外邦と同じく、頑疾の者罕(まれ)に犬を犯すあるを聞けど、根岸鎭衝の耳袋初卷に、信州の人牝馬と語ひし由出せる外に、大畜を犯せし者有るを聞ず、或書に人身御供に立ちたる素女(きむすめ)を、馬頭神來り享(うけ)、終りて其女水に化せし由記したれど、其本據確かならず、但し人が獸裝を成(なし)て姦を行ふ事は、羅馬のネロ帝を首(はじ)め其例乏しからぬ、(ジユフワル卷二、頁三二二。十誦律卷五六。「ルヴユー・シアンチフヰク」、一八八二年一月十四日號に載せたる「ラカツサニユ」動物罪惡論三八頁)要するに、吾國に婦女が牛馬等と姦せし證左らしき者無ければ偶ま夫の根馬の大(おほき)さで常住せん事を願ひし話有りとも、本邦固有の者で無く、外より傳へたか、突然作り出したかだらう。

[やぶちゃん注:「德川賴倫」以下の人名注を附けるほど私は愚かなお人好しではない。悪しからず。

「元と印度で田地の境界に立(たて)た物で、若し一方の持主が、他の地面を取込むと、家婦が此通りの恥辱に逢ふてう警戒(いましめ)ださうな」これとかなり似た境界碑の民俗資料を(日本ではなく中国か台湾の孰れかであったように記憶する)確かに読んだことがあるのだが、今すぐには思い出せない。発見次第、追記する。

「騾(らば)」♂のロバと♀のウマの交雑種である家畜奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus 。その他の組み合わせが気になる方は、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 騾(ら) (ラバ/他にケッティ)」の私の注を参照されたい。

「麞(くじか)」鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis。朝鮮半島及び中国の長江流域の、アシの茂みや低木地帯に棲息する、小型のシカ。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麞(くじか・みどり) (キバノロ)」を参照。

「色神經」「選集」には『カマ・ストラ』とルビする。古代インドの性愛(カーマ)書「カーマスートラ」(「スートラ」は「経」の意)。四世紀頃のバラモンの学者バーツヤーヤナの作と伝えられる。性愛に関する事項をサンスクリットの韻文で記し、文学的価値も高い。「愛経」とも訳す。

「根岸鎭衝の耳袋初卷に、信州の人牝馬と語ひし由出せる」私のブログ版「耳囊 大陰の人因果の事 ≪R指定≫」を読まれたい。

「ルヴユー・シアンチフヰク」雑誌名だが、不詳。

「ラカツサニユ」不詳。]

 

 鈴木正三(しやうさん)の因果物語下の三に、參州の僧伯樂を業としたが、病(やん)で馬の行ひし、馬桶で水飮み、四足に立(たつ)抔して狂死せりと出づ、畜化狂とも言うべき精神病で(洋名リカンツロピー)、他人に化せられざりしと、身體の變ぜず、精神と動作のみ馬と成(なつ)た點が、今昔物語の話と差(ちが)ふ。若し見る人々の精神も偕(とも)に錯亂したなら、此人身體迄も馬に化したと見えるかも知れぬ。然る時は今昔物語の話を實際に現出する筈だ。故に這般(しやはん)の[やぶちゃん注:これらの。]諸話を全然無實と笑卻(わらひしりぞ)く可きで無い。因果物語中の卅三にも、馬に辛かうた者が、馬の眞似して煩ふた例三つ迄出し居る。歐州に狼化狂多く、北亞非利加に斑狼(ハイエナ)狂多く、今も日本に狐憑き多き如く、寬永頃馬を扱ふ事繁かつた世には、馬化狂が多かつたんだ。又同物語、下一六に、死後馬と生れし二人の例を列(つら)ぬ。是は變化(へんげ)ならで轉生(てんしやう)だ。佛典に例頗る多いが、一つを載(のせ)んに、佛敎嫌ひの梵志[やぶちゃん注:バラモン僧。]、豫(かね)て沙門が人の信施を食ひ乍ら精進せぬと、死(しん)で牛馬に生れ、曾て受(うけ)た布施を償ふと聞き、五百牛馬を得る積りで、五百僧を請じ、食を供へる、其中に一羅漢有り、神通力で其趣向を知り、諸僧に食後專心各(おのおの)一偈を說(とか)しめ、扨梵志に向ひ、最早布施を皆濟(すま)したと言(いふ)たので、大(おほい)に驚き悟道したと、經律異相卷四十に出ちよる。

[やぶちゃん注:「鈴木正三(しやうさん)の因果物語下の三に、參州の僧伯樂を業としたが、病(やん)で馬の行ひし、馬桶で水飮み、四足に立(たつ)抔して狂死せりと出づ」鈴木正三(天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年:江戸初期の曹洞僧で仮名草子作家。俗名の諱では「まさみつ」と訓じている。元は徳川家に仕えた旗本で、本姓は穂積氏)が生前に書き留めていた怪異譚の聞書を、没後に弟子たち(記名では義雲と雲歩撰とする)が寛文元(一六六一)年に出版したもの。江戸初期の怪奇談集として優れたもので、何時か電子化注をしたいと思っている。「愛知芸術文化センター愛知県図書館」の「貴重本和本デジタルライブラリ―」の一括PDF版の「64」コマ目の終りから視認出来る。初版原本だが、極めて読み易い。標題は「生ながら牛と成(なる)僧」。後の「付けたり」の話の最後に、「寛永十六年の春、不圖(ふと)、煩付(わづらひつき)て、百日程、馬(むま)の真似して、雜水(ざうみづ)を馬桶(むまをけ)に入(いれ)て吞(のま)せ、卽ち厩(むまや)に入て置(をく)に、四足(よつあし)に立(たち)て、足搔(あしかき)して、狂(くるひ)、力、強(つよく)、氣色(けしき)怖布(をそろしく)なり、卅八歳にて死にけり」と終っており、以下で熊楠が、「寬永頃」(一六二四年から一六四四年までで、家光の治世)と語っているのは、この記載に拠ったものであると考えられる。

「リカンツロピー」lycanthropy。ライキャンスォロフィー。狼狂・狼憑き。ギリシア語(ラテン文字転写)「lykos」(狼)と「anthrōpos」(人間)の合成語。

「變化」「選集」では『メタモルフオシス』とルビする。初出誌のルビかと思われる。

「轉生」同前で『トランスミグレーシヨン』とルビする。]

 

 歐州にも馬化狂がある。九年前の「ノーツ、エンド、キーリス」に據(よる)と、葡萄牙に「ロビシヨメ」とて、若い男女形貌枯槁し、長生せず、夜每に馬形を現じ、曙光出る迄休み無く山谷を走り廻る、夜中彼が村を走り過(すぐ)る音を聞く土民、十字を畫く眞似し、「神ロビシヨメを愍(あは)れみ祐(たす)けよ」と言ふ。之を救ふ法は唯一つ、勇進して其胸を刺し、血を出し遣(や)るのだ。或は言ふ、其人顏靑く疲れ果て、形容古怪で、他人之と語らず、怖れ且憐れむ、婦女續けて七男子を生むと、最末子(さいばつし)が魔力に依て「ロビシヨメ」となり、每土曜日驢形を受け、犬群に追れつゝ沼澤邑里(いうり)を走廻り、些(いささか)も息(やす)み無し、日曜の曙を見て纔かに止む、之を創(つ)くれば永く此患無しと。又言く、同國で狼に化する兒を「ヨビシヨメ」と言ひ、今も地下に住む「モール」人が、嬰兒に新月形(囘敎徒の徽章)を印し、斯(この)物に作(な)すと。熊楠謂ふに、「ロビシヨメ」「ヨビシヨメ」名近ければ、元或は驢又馬或は狼に化すとしたのが、後に二樣に別れたんだらう、之と較(やや)近いのは、同國の俚譚に、王后が馬頭の子でも可(よい)からと、神に祈つて馬頭の太子を產み、後年募(つのり)に應(わう)じ其妻と成(なつ)た貧女の盡力で端正の美男と成たと有る。(一八八二年板、ペドロソ葡萄國俚譚二六章)。誰も知る通り、印度の樂神乾闥婆(けんだつば)は馬頭の神だ(グベルナチス動物譚原《ゾーロヂカル・ミソロヂー》卷一、頁三六七)

        (大正二年鄕硏第一卷十號)

[やぶちゃん注:「ノーツ、エンド、キーリス」雑誌名。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and ueries)。一八四九年(天保十二年相当)にイギリスで創刊された学術雑誌。詳しくは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)」の私の注を参照されたい。

「ロビシヨメ」lobisomem。但し、現在のポルトガル語では「ロビゾーメーン」で、後の「ヨビシヨメ」の「狼憑き」を指す語である。

『地下に住む「モール」人』HG・ウェルズの「タイム・マシン」(The Time Machine:一八九五年)に登場する未来世界の地底人モーロック(Morlock)の元となったとされる、旧約聖書に出る「母親の涙と子供達の血に塗れた魔王」とも呼ばれ、人身御供が行われたことで知られる古代の中東で崇拝された神モレク(Molech)の変化したものか。綴りが判らないので調べようがない。

「ペドロソ葡萄國俚譚」ポルトガルの歴史家・民俗学者のゾフィモ・コンシリエーリ・ペドロソZófimo Consiglieri Pedroso 一八五一年~一九一〇年)が一八八二年にロンドンで発行した「ポルトガル民話譚」(Portuguese Folk-tales)。「Internet archive」で見つけた(対訳本)。英文の当該箇所はここ(右ページ)から。

「乾闥婆」「選集」では『ガンダールヴアス』とルビを振る。サンスクリット語「ガンダルヴァ」の漢音写で、「食香」「尋香」「香神」などと意訳する。仏法護持の八部衆の一人。帝釈に仕え、香(こう)だけを食し、伎楽を奏する神。「法華経」では観音三十三身の垂迹の一身に数えている。

「グベルナチス動物譚原《ゾーロヂカル・ミソロヂー》卷一、頁三六七」既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」(Zoological Mythology)。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ但し、決定的な記載は三六九頁の注辺りであろう。]

2022/04/25

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(5) / 卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四 / 二~了

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話は五年前に、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」の私の注の中で、全文を電子化し、簡単な語注を本文内に挟んである(今回、その部分のみを、再度校訂し、正字不全や、語注を追加しておいた)にので、まず、それを読まれたい。また、その宵曲の当該作自体が、恐らくは本論に対して有益な情報をも与えてくれる内容でもあろうからして、全文を読まれんことを強くお勧めする。参考底本ではここから。なお、本パートはやや長いので、「選集」の段落分けに従って四段落とし、以下に全部を示した。各段落の後に注を附し、その後は一行空けた。]

 

〇通四國邊地僧行不ㇾ知所、被打成ㇾ馬語《四國の邊地を通りし僧、知らぬ所に行きて、馬に打ち成さるる語(こと)》(卷卅一、第十四、本誌一卷五〇頁參照)人を馬にする談は諸國に多く、一八八七年板「クラウストン」の俗話小說之移化卷一の四一三至四六〇頁に夥しく亞細亞歐羅巴の諸傳を列ね居るが、亞非利加にも其例有るは、一八五三年板「パーキンス」の亞比西尼亞住記卷二、章三三に其證いづ。亞比西尼亞では、「ブーダ」と呼で、鍛工が自分をも他人をも獸に化する力有りとす、著者が遇た人々親しく、片足は人、片足は驢蹄の婦人を觀たと云ふ。此婦死して埋めた墓邊へ一人來たり、僧を語ひ其屍を購ひ、掘出し持去た、將來死人の家の門を過て市へ往く鍛工が、此頃から驢に乘て往く事と成たが、其驢が此家を過り、又家の子供を見ると高聲を發し近づき來らんとする、子なる一人何と無く、此は自分の母だらうと思付き、人をも驢をも執へると、驢、淚を流し、子に鼻を擦付る。色々鞫問すると鍛工終に白狀したは、此婦を魔法で死人同樣にし、扨[やぶちゃん注:「さて」。]埋後購ひ去て驢に化したと、其なら本へ復したら罪を赦すと約して、魔法で漸々本へ復し、片足丈驢蹄だつた時、鬱憤爆發して其子が鍛工を槍き殺したので、その母一生一足驢蹄で終つたと云ふ。

[やぶちゃん注:「本誌一卷五〇頁」初出誌である『鄕土硏究』の論文収載部の指示。「選集」に編者による『前出赤峯論文』という割注があるが、ここを指す。

『一八八七年板「クラウストン」の俗話小說之移化卷一の四一三至四六〇頁』「選集」には書名に『ポピユラル・テイルス・エンド・フイクシヨンズ』というルビが振られてある。これはイギリスの民俗学者ウィリアム・アレキサンダー・クラウストン(William Alexander Clouston 一八四三年~一八九六年)の“Popular Tales and Fictions” (「人気の高い譚と通俗小説」)。「Internet archive」のここから原本当該部が視認出来る(パート標題は“MAGICAL  TRANSFORMATIONS”(「魔術的変容」)。

『一八五三年板「パーキンス」の亞比西尼亞住記』「選集」には同前で『ライフ・イン・アビシニア』というルビが振られてある。「アビシニア」はエチオピアの別名。これはイギリスの上流階級の出身で旅行家であったマンスフィールド・ハリー・イシャム・パーキンス(Mansfield Harry Isham Parkyns 一八二三年~一八九四年)が書いた最も知られたエチオピア紀行(一八四三年から一八四六年まで滞在)“Life in Abyssinia”の初版。「Internet archive」のこちらからが当該部。ど真ん中に「ブーダ」(Bouda)と出る。

「鍛工」「かぢや」。

「驢蹄」「ろてい」。驢馬(ロバ)の蹄(ひづめ)。

「購ひ」「あがなひ」。「選集」は『購(か)い』と訓じている。

「將來」ここは「選集」に従い、「これまで」と訓じておく。

「過り」「よぎり」。

「驢」「ろば」。

「人をも驢をも執」(とら)「へる」「人」は乗っていた鍛冶屋。

「鞫問」「きくもん」と読む。厳しく問い糺すこと。「詰問」に同じ。

「終に」「つひに」。

「埋後」「まいご」と読んでおくが、あまり聴かないな。

「漸々」「やうやう」

「槍き」「つき」。]

 

 嬉遊笑覽十二に、「四國を巡りて猿と成ると云ふ諺は、風來が放屁論に、今童謠に、一つ長屋の佐次兵衞殿、四國を廻りて猿と成るんの、二人の伴衆は歸れども、お猿の身なれば置て來たんのと云り、其頃云初しには有可らず。諺は本より有しにや。扨此諺は誤ならむ、四國猿と云事より移りしか、舊本今昔物語に、通四國邊地僧行不ㇾ知所、被打成ㇾ馬語有り、奇異雜談に、丹波奧郡に人を馬に成て[やぶちゃん注:「なして」。]賣し事、又越中にて人馬に成たるに、尊勝陀羅尼の奇特にて助かりし事抔見ゆ、皆昔物語よりいひ出し事なり。されば此諺久しき事と知らる。後人、これを猿といひかへたりと思はる。又按るに搜神記に、蜀中西南高山之上、有物與猴相類。長七尺、能作人行、善走。名猴、猳。一名馬化、或曰玃、伺道人、有後者、輙盜取以去云々。取ㇾ女去而共爲室家、其無子者終身不得還、十年之後形皆類之《蜀中の西南、高山の上に、物、有り、「猴」と相ひ類(るゐ)す。長(た)け七尺、能く、人の行(おこなひ)を作(つくりな)し、善く、走る。「猳(か)」と名づけ、一つ、「馬化(ばくわ)」とも名づく。或いは「玃猨(かくえん)」とも曰ふ云々。女を取り去つて、共に室家を爲(な)す。其の子無きは、終身、還るを得ず、十年の後、形、皆、之れに類す。》と有り、是抔より出たる事か知るべからず。猴に類すと云へば、猴の形に似つかはしく、又馬化ともいふ名をひがめて[やぶちゃん注:底本(左ページ六行目)は「曲めては」。変更理由は次の注を参照。]は、馬ともいふべくや」と有る。

[やぶちゃん注:「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。岩波文庫版(筆者自筆本底本)で全巻を所持するが、漢字が新字なので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの昭和七(一九三二)年成光館出版部刊(上下二冊の「下」)の当該部を比較視認して校訂し、さらに、「捜神記」は上記二册の孰れもが複数個所で不審があるため(私は高校生の時以来、同書を偏愛している愛読者である)、「中國哲學書電子化計劃」の影印本(ここの最終行から次のページにかけて)で一部(異名の漢字が二冊とも受け入れ難いおかしなもであった)表記を正した。熊楠の引用も表記が熊楠の好みで書き換えられている箇所が多いため、結果して、南方熊楠の引用表現の一部を改めることとなったが、これは正規の正当な表現に限りなく近づけるための仕儀であり、批判される筋合いは全くないと信ずるものである。なお、ここで喜多村が引いている、「奇異雜談集」(これが正しい書名。「きいぞうだんしゅう」(現代仮名遣)と読む)のそれ、「丹波の奧の郡に人を馬になして賣し事」は、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」の私の注の中で電子化してある。

「風來が放屁論」これは風来山人(かの平賀源内の号の一つ)の書いた戯文。江戸両国橋で人気のあった昔語花咲男という曲屁芸人を論評するという形をとって、当時の閉塞した身分制社会を批判したもの。安永三(一七七四)年刊。

「猴」「玃」などは、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」を参照されたい。]

 

 諸國の人を馬や驢と作た[やぶちゃん注:「なした」。]話に就て、此方法を按ずるに、或は魔力有る藥料を身に塗付たり、(アプレユス金驢篇、西曆二世紀作、卷三)、或は魔力有る飮食を與へたり、(奇異雜談上、一八章、コラン、ド、プランシー妖怪事彙一八四五年板二八頁クラウストン上出)或は手綱や轡を加へるのだ(クラウストン同上、グベルナチス動物譚原一八七二年板卷一、三四二頁)。就れも[やぶちゃん注:「孰れも」の誤字か。]斯くして畜と成れた後で、鞭笞苦困[やぶちゃん注:「べんちくこん」。鞭打たれて苦役されること。]さるるが、此今昔物語の一條のみ、笞を以て打ち据て、引起こすと馬に成て居と[やぶちゃん注:「をると」。]有るは、此物語の特色と見える。但し高木君は幻異志の板橋三娘子の譚が此語の本源たる事疑ひ無しと言れたが、それに果たして笞で打て驢と作すと有りや、予も幻異志を見た事が有るが、十九年前の事故、一向記憶せぬ、如し[やぶちゃん注:「もし」。]笞で打て驢と作すと有らば、此話の本源たる事疑ひ無きも、其事無くば、單に類話と云ふべきのみ。高木君は本文を出さぬ故詳を知る能はざるも、其叙する所を見ると、件の幻異志中の譚は、「クラウストン」一卷九七頁に引た羅馬の俗話と同源の物に非ざるか。

[やぶちゃん注:「アプレユス金驢篇、西曆二世紀作、卷三」「選集」では書名に『デ・アシノ・アウレオ』と振る。北アフリカ・マダウロス出身の帝政ローマの弁論作家ルキウス・アプレイウス(Lucius Apuleius 一二三年頃~?:奇想天外な小説や極端に技巧的な弁論文によって名声を博した)の代表作である「変容、又は『黄金の驢馬(ロバ)』」(Metamorphoses  sive  Asinus Aureus)は、彼のウィキによれば、『魔術に興味を抱いた主人公ルキウスが誤ってロバに変えられ、数多の不思議な試練に堪えた後、イシスの密儀によって再び人間に復帰するという一種の教養小説』で、ローマ時代の小説のうち、完全に現存する唯一のものである、とある。

「奇異雜談上、一八章」これはその類別から、明らかに先の「喜遊笑覧」のそれを差しているとしか私には思えない。但し、「奇異雑談集」は、上下巻はなく、第一巻の第一話から数えると第三巻のそれは十六話目ではある。

「コラン、ド、プランシー妖怪事彙一八四五年板、二八頁」「選集」には書名に『ジクシヨネール・アンフエルナル』というルビが振られてある。フランスの文筆家コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)が一八一八年に刊行した“The Dictionnaire infernal” (「地獄の辞典」)。

「グベルナチス動物譚原一八七二年板、一卷三四二頁」同前で『ゾーロジカル・ミソロジー』とルビされている。本書電子化で複数回既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)が書いた“Zoological Mythology”(「動物に関する神話学」)。「Internet archive」の第一巻同年版原本の当該部はここ

「高木君」ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)。大正二~三年には、本篇の初出する『鄕土硏究』を柳田国男とともに編集している。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。ここで言う論文の収載書誌は不詳(『鄕土硏究』であろうとは思われる)。私も読みたい。

「幻異志の板橋三娘子の譚」「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」を参照。

「如し笞で打て驢と作すと有らば、此話の本源たる事疑ひ無きも、其事無くば、單に類話と云ふべきのみ」私はてっきりこれが典拠と思っていたが、言われてみると、確かにそんなシーンはないので、類話かなぁ。

『「クラウストン」一卷九七頁に引た羅馬の俗話』先の“Popular Tales and Fictions”の第一巻であるが、Internet archive」の一八八七年板(先に熊楠が挙げたものと同年)で調べたところ、この長いローマの物語は、熊楠の指示したページよりももっと前の、この「93」ページから「98」ページまでがそれであることが判明した。

 なお、以下の梗概は、例の熊楠特有の送り仮名の簡略や、変わった読み連発される。それを注形式で挿入すると、五月蠅くなるばかりで、読みのリズムが崩れてしまう。そこで特異的に「選集」を参考にしつつ、私の判断で独自の読みを( )で添えることとした。「私は読める」と言う御仁は、どうぞ、ご自由に。原本当該部で。

 

 言(いは)く貧人の二子(にし)、林中で大鳥が卵を落したるを拾ふと字を書付有る、庄屋に見せると、「吾頭を食ふ者帝たらん、吾心臟を食ふ者金(かね)常に乏しからじ」と有る。庄屋自身頭も心臟も食(くは)んと思ひ、二人に、是は此鳥を食ふと旨いと書て居(を)る、だから强(したたか)な棒を準備して、彼鳥を俟(まち)受けて殺せと命ず、斯(かく)て翌日二人其鳥を殺し、庄屋を待受(まちうけ)て食はんと炙(あぶ)る内、鳥の頭が火の中へ落(おち)た、焦(こげ)た物を庄屋に呈(おく)るべきで無いと思ひ、弟が拾ふて食ふて了(しま)ふ、次に心臟が火の中へ落て焦たから、兄が食て了ふ、所へ庄屋が來て、大に失望して怒り散(ちら)して去る、父に話すと斯(かか)る上は他國へ出(いで)よと云ふので、二人宛(あて)もなく旅立つ、其から每夜旅舍で睡(ねむ)ると、兄の枕の下に金が出て來る、弟其金を持(もつ)て兄より前に都に入ると、丁度國王が死んで嗣王(つぎのわう)を擁立する所だつたが、金(かね)の光で此弟が忽ち王と立てられた、斯(かく)とも知らず、兄も都に入(はいつ)て、母と娘二人暮しの家に宿ると、例の如く枕の下から金が每夜出る、娘此男を賺(すか)して事實を知り、吐劑(とざい)を酒に入れて飮せて、彼鳥の心臟を吐出さしめ、男を追出す、詮方無くて川畔(かはばた)に歎き居(を)ると、仙女三人現れ愍(あはれ)んで、手を探る每に金を出す袂有る衣を吳(くれ)る、男愚かにも其金で餽(おく)り物を求め、復た彼家へ往く。娘諜(てふ)して[やぶちゃん注:さりげなく探りを入れて。]其出處を知り、僞衣(にせごろも)を作り、男が睡つた間に掏(す)り替へる、明旦起出て其奸(かん)を知れども及ばず、復た河畔に往くと、仙女來て、案(つくえ)を打(うて)ば何でも出る棒を吳る、復た娘の宅へ往き竊まれる、例により例の川邊で、何でも望の叶ふ指環を貰ふ、是が最終だから、取れぬ樣注意せよと言れたが、懲(こり)ずに娘の宅に往き問落(とひおと)される、娘言く、そんなら吾等二人向ふの山へ飛往(とびゆ)き、鱈腹(たらふく)珍味を飮食(のみいくひ)せうと望んで見なさいな、依(よつ)て男其通り、環に向(むかひ)て望むと忽ち望み叶ふ、此時娘、酒に麻藥(しびれぐすり)を入(いれ)て男を昏睡せしめ、指環を盜み、自宅へ還らうと望むと、忽ち還り去る。男眼覺(めざめ)て大に弱り、三日泣き續けて夥しく腹空(すけ)る故、無鐵砲に手近く生た草を食ふと、即座に驢身(ろばのみ)に化し、兩傍に二籃(かご)懸れり、心丈(だけ)は確かで、其草を採(とり)て籃に容れ、麓迄下りて其處(そこ)な草を拔くと、忽ち人身に復(かへ)つた、因(よつ)て其草をも籃に入れ、姿を替(かへ)て彼(かの)娘の宅前に往き、莱を買はぬかと呼ぶ、娘菜は大好(だいすき)で、其草を執(とつ)て嘗みると、便ち驢形(ろばのかたち)に變ず、男之を打ち追(おつ)て街を通る、其打樣(そのうちやう)が餘り酷い故、町人之を捕へ王に訴出(うつたへで)る、男其王を見ると骨肉の弟だから、乞(こひ)て人を退(しりぞ)け事由(ことのよし)を談(かた)る。其處で王命じて驢化(ろばくわ)した女に兄と俱に宅に歸て、從來盜んだ物を悉く返さしめ其後靈草を食せよと本(もと)の人身に復した。(此項つゞく)

       (大正二年鄕硏第一卷九號)

[やぶちゃん注:「無鐵砲に手近く生た草を食ふと、即座に驢身(ろばのみ)に化し、兩傍に二籃(かご)懸れり、心丈(だけ)は確かで、其草を採(とり)て籃に容れ」個人的には、自分の背の両側に懸け渡されてしまった二つ籠に、ロバになった彼が、どうやってその籠を外し、草を入れることが出来たのか、そのシーンが私には頭に描けないのだが? まあ、お伽話だから、目をつぶることと致そうか。

「其處で王命じて驢化(ろばか)した女に兄と俱に宅に歸て、從來盜んだ物を悉く返さしめ其後靈草を食せよと」老婆心乍ら、最後の部分は、

   *

「其處(そこ)で王」(兄弟の弟の方)]は、「驢」(ろば)と「化」(か)した、その性悪「女」に対して、再び再会できた実の「兄と」「俱に」その驢馬女の前に毅然として立ちはだかって、まず、

――「宅(いへ)」「に歸つて、從來」(今まで)「盜んだ」沢山の「物を」、「悉く」持ち主に「返」すように――

と厳命した上で、加えて、

――「其後(そののち)」に、この「靈草を食せよ」――

と「命じ」た。

   *

という謂いである。私が最初に読んだ時、たった一ヶ所にしか読点のないこの文にちょっと躓いたので、一言言い添えた。]

2022/04/24

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(4) / 卷第五 王宮燒不歎比丘語第十五

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここ。]

 

〇王宮燒不歎比丘語《王宮(わうぐう)燒くるに歎かざりし比丘の語(こと)[やぶちゃん注:頭の「天竺」(天竺の)が脱落している。]》(卷五第十五)芳賀博士の今昔物語集の四二九頁に、此語の出處、類話一切出て居無い[やぶちゃん注:「をらない」。]。予も出處を知らぬが、類話を、趙宋の初め智覺禪師が集めた宗鏡錄卷六四より見出した。此書は今昔物語の作者てふ源隆國の薨去より先づ百廿年前に成た。其文は、諸苦所ㇾ困、貪欲爲ㇾ本、若貪心瞥起、爲五欲之火焚燒、覺意纔生、被三界之輪繫縛、如帝釋與脩羅戰勝、造得勝堂、七寶樓觀、莊嚴奇特云々、天福如之妙力能如ㇾ此、目連飛往、帝釋將目連看堂、諸天女皆羞目連、悉隱逃不ㇾ出、目連念、帝釋著樂、不ㇾ修道本、卽變化火、燒得勝堂、爀然崩壞、仍爲帝釋說無常、帝釋歡喜、後堂儼然、無灰煙色《『諸苦、困(くる)しむ所のものは、貪欲を本(もと)と爲(な)すなり。若(も)し、貪心、瞥(べつ)して[やぶちゃん注:ちょっとでも。]起こらば、五欲の火に焚き燒かれ、覺意[やぶちゃん注:ここはそれに触れることで生じてしまう悪しき意識を指す。]、纔かに生じて、三界の輪に繫縛せらる。如(たと)へば、「帝釋、修羅との戰ひに勝ち、勝堂(しやうだう)を造り得て、七寶の樓觀、莊嚴(しやうごん)奇特(きどく)たり」』云々、『「天福、之(か)くのごとく、妙力、能く此(か)くのごとくあらんも、目連、飛び往くに、帝釋、目連を將(ひき)ゐて堂を看(み)せしむに、諸天女、皆、目連に羞(は)ぢ、悉く、隱れ逃れて、出でず。目連、念(おも)ふに、「帝釋は樂しみに著(おぼ)れ、道の本(もと)を修めず。」と。卽ち、火に變化(へんげ)し、得勝堂(とくしやうだう)を燒き、爀然(かくぜん)として崩壞せり。仍(よ)りて、帝釋が爲めに、無常を廣く說けり。帝釋、歡喜したり。後(のち)、堂、儼然としてあり、灰煙の色、無し。」となり』。》と云[やぶちゃん注:「いふ」。]ので、多分四阿含抔の中に出た語と思ふが、多忙故今一寸見出し得ぬ。

[やぶちゃん注:「趙宋」宋(ここは北宋)に同じ。この呼称は王室の姓に基づくもの。

「智覺禪師」永明延寿(九〇四年~九七六年)は五代十国の呉越から北宋創建初期に生きた法眼(ほうげん)宗(中国の禅宗五宗の一つ)の僧。諡は宗照大師。杭州余杭県出身。「教禅一致」を説いた。なお、北宋は五代最後の王朝後周を九六〇年に滅ぼして成立した。その後、残っていた十国の国々も平定し、最後に北漢を九七九年に滅ぼして中国を統一しているので、熊楠の言う「宋の初め」というのは正しい(次注の成立年を見よ)。雪峰義存の弟子翠巌令参の下で出家し、天台徳韶の嗣法となった禅僧。

「宗鏡錄」現行では「すぎょうろく」(現代仮名遣)と読む。仏教論書。全百巻。九六一年成立。延寿の主著で、当該ウィキによれば、『禅をはじめとして、唯識宗・華厳宗・天台宗の各宗派の主体となる著作より、その要文を抜粋しながら、各宗の学僧によって相互に質疑応答を展開させ、最終的には「心宗」によってその統合をはかるという構成になっている』。『この総合化の姿勢は』『後世になって、「禅浄双修」「教禅一致」が提唱された時』、『注目されることとなった』とある。

「帝釋、修羅との戰ひに勝ち」帝釈天が阿修羅と戦ったという話はしばしば仏典に現われる。ウィキの「阿修羅」によれば、『阿修羅は帝釈天に歯向かった悪鬼神と一般的に認識されているが、阿修羅はもともと天界の神であった。阿修羅が天界から追われて修羅界を形成したのには次のような逸話がある』。『阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる』。『阿修羅の一族は、帝釈天が主である忉利天(とうりてん、三十三天ともいう)に住んでいた。また』、『阿修羅には舎脂という娘がおり、いずれ』、『帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。それを怒った阿修羅が帝釈天に戦いを挑むことになった』。『帝釈天は配下の四天王などや三十三天の軍勢も遣わせて応戦した。戦いは常に帝釈天側が優勢であったが、ある時、阿修羅の軍が優勢となり、帝釈天が後退していたところ』、『蟻の行列にさしかかり、蟻を踏み殺してしまわないようにという帝釈天の慈悲心から』、後退している『軍を止めた。それを見た阿修羅は』、『驚いて、帝釈天の計略があるかもしれないという疑念を抱き、撤退したという』。『一説では、この話が天部で広まって』、『阿修羅が追われることになったといわれる。また』、『一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂が帝釈天の正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうち』、『赦す心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると』、『善心を見失い妄執の悪となる。このことから』、『仏教では天界を追われ』、『人間界と餓鬼界の間に修羅界が加えられたともいわれる』とある。ここでは、阿修羅側ではなく、逆に帝釈天の奢りが描かれていて、面白い。私は、無論、阿修羅が好きである。遠い昔、教え子に案内されて見た興福寺の阿修羅像には、甚だ心動かされたのを思い出す。

「四阿含」四種の「阿含経」(あごんきょう)を指す。「長阿含経」(全二十二巻)・「中阿含経」(全六十巻)・「増一阿含経」(全五十一巻)・「雑阿含経」(全五十巻)の総称。原始仏教の経典を四部に分類したもので、仏教の系統としては、北方系の分類法に属す。南方系では五部に分ける。「大蔵経データベース」の検索で、ちょっとやりかけてみたが、熊楠ではないが、対象が膨大に過ぎ、語句での絞り込みも上手く出来なかったので、中途でやめた。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(3) / 巻第三 金翅鳥子免修羅難語第十

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。]

 

〇金翅鳥子免修羅難語《金翅鳥(こんじてう)の子(こ)、修羅の難を免(まぬか)れたる語》」(卷三、第十)芳賀博士の纂訂本一九三頁に、私聚百因緣集より少しく異文の同話を擧げた斗りで、出處も類語も載せず、予も此語の出處を見出し得ぬが、同態の類語が、姚秦竺佛念譯、菩薩處胎經四に出でたるを知る。云く、佛、智積菩薩[やぶちゃん注:「ちしやくぼさつ」。]の問に對ふらく、吾昔一時無央數劫、爲金翅鳥王云々、於百千萬劫時、乃入ㇾ海求ㇾ龍爲レ食、時彼海中有化生龍子、八日、十四日、十五日、受如來齋八禁戒法、不殺ㇾ不ㇾ盜不ㇾ婬不妄言綺語不ㇾ勸ㇾ飮ㇾ酒不ㇾ聽レ作倡伎樂香花脂粉高廣床、非時不ㇾ食。奉持賢聖八法、時金翅鳥王、身長八千由旬、左右翅各各長四千由旬、大海縱廣三百三十六萬里、金翅鳥以ㇾ翅斫ㇾ水取ㇾ龍、水未ㇾ合頃、銜ㇾ龍飛出、金翅鳥法、欲ㇾ食ㇾ龍時、先從ㇾ尾而吞、到須彌山北、有大緣鐵樹、高十六萬里、銜ㇾ龍至ㇾ彼、欲得ㇾ食噉、求龍尾、不ㇾ知處、以經日夜、明日龍出尾、語金翅鳥、化生龍者我身是也、我不ㇾ持八關齋法者、汝卽灰滅我、金翅鳥聞ㇾ之悔過自責《『吾れ、昔、一時、無央數劫(むあうしゆがふ)に、金翅鳥王(きんしてうわう)と爲る』云々、『百千萬劫の時に、乃(すなは)ち、海に入りて龍を求め、食と爲(な)す。時に、彼(か)の海中に化生(けしやう)せる龍の子(こ)あり。八日・十四日・十五日に、如來の八つの禁戒を齋(さい)する法を受く。殺さず、盜まず、婬せず、妄言綺語せず、酒を飮まず、倡伎の樂と香花と脂粉と、高く廣き床を作(な)すを聽かず、非時に食せず、賢聖の八法を奉持す。時に、金翅鳥王は、身の長(た)け八千由旬[やぶちゃん注:一由旬は説にはばがあり、七~十四・五キロメートル。]、左右の金翅、各各(おのおの)長さ四千由旬、大海は縱廣(じゆうくわう)三百三十六萬里なり。金翅鳥は、翅(はね)を以つて、水を斫(き)り、龍を取るに、水、未だ合はざる頃(ころあ)ひに、龍を銜(くは)へて、飛び出づ。金翅鳥の法(はう)は、龍を食らはんとする時、先づ、尾よりして吞み、須彌山(しゆみせん)の北に到るに、大鐵樹、有りて、高さ十六萬里。龍を銜へ、彼(か)に至りて、食ひ得て、噉(くら)はんと欲(ほつ)するも、龍の尾を求むるに、知れざる處(ところ)、以つて日夜を經(へ)たり。明日(みやうにち)、龍、尾を出し、金翅鳥に語(い)はく、「化生せる龍は、我が身、是れなり。我れ、八關の齋法(さいはふ)を持(じ)せざれば、汝、卽ち、我れを、灰滅(くわいめつ)せしならん。」と。金翅鳥、之れを聞きて、過(あやま)ちを悔ひて自責す。』と。》、夫より鳥王其宮殿に化生龍を請じ、八關齊法[やぶちゃん注:「はつかいさいはふ」。]を受け、誓ふて自後殺生せなんだと有る。中阿含經に見えた聖八支齊は則ち八關で、佛敎の初生時代には尤も信徒間に重んじ行はれた者だ、大智度論に、六齊日に八戒を受け、福德を修むる譯は、是日惡鬼逐ㇾ人、欲ㇾ奪人命、疾病凶衰、令人不吉、是故劫初聖人、敎人持齋、修ㇾ善作ㇾ福、以避凶衰、是時齋法、不ㇾ受八戒、直以一日不食爲ㇾ齋、後佛出世、敎語ㇾ之言。汝當一日一夜如諸佛八戒過ㇾ中不ㇾ食、是功徳將ㇾ人至涅槃《是の日、惡鬼、人を逐(お)ひ、人命を奪はんと欲し、疾病・凶衰もて、人をして不吉ならしむ。是の故に、劫初(こうしよ)の聖人(しやうにん)は、人に齋(さい)を持(じ)するを敎へ、善を修め、福を作(な)し、以つて凶衰を避けしむ。是の時の齋法は、八戒を受けずして、直(た)だ、一日、食らはざるを以つて齋と爲す。後、佛、出世し、敎へて之れを語りて言はく、「汝、當(まさ)に、一日一夜は、諸佛のごとく八戒を持し、中(ひる)を過ぎて食はざるべし。」と。是の功德、人を將つて涅槃に至らしむ》と有る、然るに佛敎支那に入て後、この八關齊は如法[やぶちゃん注:「によほふ」。仏陀の教えた教法の通りであること。]に行はれず、自分の戒行を愼み修めて涅槃を願ふよりも、死人の追善を重んじ、四十九日の佛事を專ら營む事と成たので、八關齊を七七日の施に切替へ、龍と金翅鳥を(類似重複の話が經中に多きを厭ひ)金翅鳥と阿修羅王と作た[やぶちゃん注:「つくつた」。]のだらう。釋氏要覽に、瑜伽論曰、人死中有身、若未ㇾ得生緣、極七日住、死而復生、如ㇾ是展轉生死、至七七日、決定得ㇾ生、若有生緣、卽不ㇾ定、今尋經旨極善惡無中有、(極善卽惡生淨土、極惡惡卽地獄)今人亡、每七日營亡毎至七日。必營齋追福者、令中有種子不ㇾ轉生惡趣也《人、死して中有(ちゆうう)の身ありて、若し未だ生緣を得ざれば、七日を極(かぎ)りとして住(ぢゆう)し、死して、復た、生く。是くのごとく、展轉として、生死(しやうじ)し、七七日(しちしちにち)に至りて決定(けつぢやう)して生(しやう)を得(う)。若し生緣(しやうえん)有れば、卽ち、定まらず。今、經旨(きやうし)を尋ぬるに、極善惡(ごくぜんあく)の者は、中有、無し(極善は、卽ち、淨土に生まれ、極惡は、卽ち、地獄に生まる。)。今、人、亡(ばう)じて七日每(ごと)に齋を營み、追福(ついぶく)するは、中有の種子(しゆじ)をして惡趣に轉生(てんしやう)せざらしむるものなり。》とあるを見ても、七七日の佛事と云ふ事は、後世佛敎徒間に起つた事らしい。

[やぶちゃん注:ここでの経典引用は、表記だけでなく、各部分からに合成部が甚だ多く、特に後の「釋氏要覽」からのそれは、原文中に丸括弧で挿入されるのを見ても不審が判る通り、切り張りが甚だしく、「大蔵経データベース」から、すっきり原文を抜き取ることが出来なかった。どう切り張りしたかもよく判らない箇所多かった(或いは正規の同書原本とは異なる抄録本を引用元に用いているのかも知れぬ)ため、やむを得ず、部分的に底本に従った箇所がある。但し、「齋」の字については、経典部分では「大蔵経データベース」に従い、「齋」を用い、熊楠の語る部分では、底本表記を重んじて、「齊」の字で表記した。なお、今さら言うまでもないとは思うのだが、若い読者のために注しておくと、「齋」=「齊」=「斎」は仏教語の和訓では「とき」と読み、「時」とも書き、僧侶の本来の午前中の一度きりの食事を指す。今や誰も実行している本邦の僧侶はいないと思うが、本来、仏僧は一日に午前中に一食しか食事を摂ることは許されないのである。しかし、現実的に、それだけでは、身が持たず、修行も滞るばかりか、栄養失調になって話にならないことから、非常に古くから、午後に非公式の食事を摂ることが許された。それを正しくない摂餌として心に戒めるために「非時」と呼ぶのである(現代では、そんなことを心にとめておる僧は、これまた、おるまいが)。なお、僧侶に布施として捧げる食物や物品・金銭を広く「斎料」(ときりょう)とも呼ぶ。

「第十」私の電子化訳注を見ればお判り戴ける通り、実際には、岩波「新日本古典文学大系」の底本「東大甲本」では話柄の数の番号が欠落している。但し、順列通りで欠損がないとすれば、「第十」である。

「芳賀博士の纂訂本一九三頁に、私聚百因緣集より少しく異文の同話を擧げた斗りで、出處も類語も載せず」ここ。「私聚百因緣集」(しじゆひやくいんねんしふ)は鎌倉前期の説話集。正嘉元(一二五七)年に当時四十八歳であった常陸国の浄土教の僧愚勧住信著。全九巻百四十七話。仏法の正しさを説話によって示し、衆生に極楽往生を遂げさせる機縁とすることを目的として著わされたもの。仏教の歴史に関する説話・高僧の伝記などが多いが、その総てが諸書からの引用で、その中でも特に「今昔物語集」の影響が著しく、他に「日本往生極楽記」や「発心集」の引用が目立つ。直接の関係は見られないが、親鸞布教前後の東国の浄土教の広まりを知る貴重な資料とされる。しかし、芳賀の引用を見ても判る通り、これは殆んど本篇に基づいて引用したに過ぎず、概ね、後代の本書に基づく類話や、甚だ怪しい類話でさえない話を挙げて「攷証」を書名に冠して満足している芳賀のそれは、今時の大学生でも出来てしまう頗る羊頭狗肉のつまらぬ論証が多過ぎる。私には南方熊楠の激しい苛立ちがよく判る。

「姚秦」「えうしん」(ようしん)。五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた後秦(三八四年~四一七年の別名。先行する統一国家秦と区別するための呼称。

「八關齊法」「八斎戒」に同じ。インド仏教の戒律。在家信者が一昼夜の間だけ守ると誓って受けるところの八つの戒律。則ち、㊀生物を殺さない。㊁他人のものを盗まない。㊂嘘をつかない。㊃酒を飲まない。㊄性行為をしない。㊅午後は食事をとらない。㊆花飾りや香料を身に附けず、歌舞音曲等を見たり聞いたりしない。㊇地上に敷いた床のみで寝て、脚の高立派な寝台を用いない、という八戒で、主に原始仏教と部派仏教で行われた。一般に在家信者は一ヶ月に六回、日の出とともに、この戒を受けて、翌朝の日の出までそれを守った。そこから「一日戒」(いちじつかい)とも称した。在家信者の、所謂、「精進日」で、出家者に準じた在家信者の修行の一つであった。

「中有」衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。この七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じ)が、その「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると、微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。恐らく、若い読者がこの語を知ることの多い契機は、芥川龍之介の「藪の中」の「巫女の口を借りたる死靈の物語」の中で、であろう。リンク先は私の古層の電子化物で、私の高校教師時代の授業案をブラッシュ・アップした『やぶちゃんの「藪の中」殺人事件公判記録』も別立てである。私は好んで本作を授業で採り上げた。されば、懐かしい元教え子もあるであろう。]

2022/04/23

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(2) / 巻第四 震旦國王前阿竭陀藥來語第三十二

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。今回のものは本篇の「一」の『「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(3)』に対する追加記事である。元が雑誌『鄕土硏究』所収のものを一括再録したものであることからこうした形を採っている。底本ではここ。当該原話は『「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(1)』の私の注にあるので、そちらを参照されたい。]

 

〇震旦國王前阿竭陀藥來語第(一の三六四頁)に追加す。本語に、「國王阿竭陀藥と聞き給て。其藥は服する人死ぬる事无かなり。皷に塗て打つに、其音を聞く人皆病を失ふ事疑ひ无しと聞く」。此事は予未だ出處を見出し得ぬ。但し似た事は有る。北凉譯大般涅槃經九に、有人、以雜毒藥、用塗大鼓、於大衆中、撃ㇾ之發ㇾ聲、雖ㇾ無心欲ㇾ聞聞ㇾ之皆死《人、有り、雜(もろもろ)の毒藥を以つて、用ひて、太鼓に塗り、大衆の中に於いて、之れを擊ちて、聲を發せば、聞かんと欲する心、無しと雖も、之れを聞けば、皆、死す。》と見ゆ。又姚秦頃譯せしてふ無明羅刹經に、折叱王が疫鬼を平げに往く出立を記して、以阿伽陀藥遍塗身體《阿伽陀藥を以つて遍(あまね)く身體に塗る》と有る、此の藥は通常樹葉に包まれ居たと見えて、蕭齊の朝に譯せる百喩經下の末に、編者僧伽斯那此經を譬へて、如阿伽陀藥、樹葉而裹ㇾ之、取藥塗ㇾ毒竟、樹葉還棄ㇾ之、戯笑如ㇾ葉裹、實義在其中、智者取正義、戯笑便應ㇾ棄《阿伽陀藥のごときは、樹の葉にて之れを裹(つつ)む。藥を取りて、毒に塗り、竟(をは)らば、樹の葉は、還(ま)た、之れを棄つ。戯笑は、葉の裹むがごとく、實義は、其の中にあり。智者は正義を取り、戲笑は、便(すなは)ち應(まさ)に棄(す)つべし。》と有る、是等の文に據ると、最初專ら毒を防ぎ毒を解く藥だうたのが追々誇大して、何樣な[やぶちゃん注:「どんな」。]病人でも此藥を見せたら忽ち治ると持囃され(華嚴)、其から鼓に塗て打つ音聞いても病が去ると信ぜられたらしい。似た例を一二擧んに、本草綱目に、鼯鼠[やぶちゃん注:「むささび」。]を一に飛生鳥と名ける譯は、此物飛乍ら子を產むからだ、其皮毛を臨產の婦女に持せ、又其上に寢せ、又其爪を懷かせても催生[やぶちゃん注:即効性の意。「選集」では『はやめ』とルビする。]の效有ると見え居る、實は子に乳を飮せ乍ら飛行[やぶちゃん注:「とびゆく」。]を見て、飛つゝ子を產むと速斷したのだ、斯る信念は、今に熊野の山地にも存し、二年前拙妻姙娠中、予安堵峰で鼯鼠を獲、肉を拔き去り持歸つた。皮を室の壁へ懸置いた處へ山民が來て、是は怪しからぬ事をする、此物は見ても催生の力が烈しい、臨月でも無い姙婦が每々見ると流產すると話され、大に氣味惡く成り棄てて了ふた。又熊野や十津川の深山大樹に寓生する蔦の實は、血を淸むるので、血道に大効有ると云ふのみか、眺むる斗りでも婦女を無病にする由で、微い[やぶちゃん注:「ちいさい」。]小屋住居にさへ栽られ居る。

[やぶちゃん注:「(一の三六四頁)」「一」の分が載った『鄕土硏究』のページ数。

「本語に」「ほんこと」にと読んでおく。

「死ぬる事无かなり」後半は「なかんなり」。一般的でなかった「ん」の無表記で、「死ぬ危険は全くありません」の意。

「皷」「鼓(つづみ)」」に同じ。

「此事は予未だ出處を見出し得ぬ」現在でも出典は不詳のようである。

「姚秦」「えうしん」(ようしん)。五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた後秦(三八四年~四一七年の別名。先行する統一国家秦と区別するための呼称。

「蕭齊」「しやうせい」(しょうせい)。南北朝時代に江南に存在した方の斉(四七九年~五〇二年)を、先行する春秋戦国の一国である「齊」と区別するための呼称。

「僧伽斯那」一般に「僧」を名に繋げて「そうぎやしな」と読まれる。

「戯笑」一部の経典にあるような、半ばふざけたように見える方便の経説のことを指すか。

「本草網目に、鼯鼠を一に飛生鳥と名ける」李時珍は大分類に於いてさえ、「獸」でも「鼠」でもなく、巻四十八のまさに「禽之二」に入れている(一度は正しく「獸」部に入れたものもあったのに、わざわざ配置換えをしていて致命的)。「漢籍リポジトリ」のこちら[112-50a] から[112-50b]を見られたい。ムササビは「䴎鼠」(ルイソ)という名で立項されてあるが、「鼯鼠」の表記も既にあげられてあり、「釋名」の最後に、その「飛生鳥」を認める。そうして、「發明」の箇所に、確かに、あった。「時珍曰、能飛而、且產。故、寢其皮懷其爪、皆、能催生。其性、相感也。濟生方治、難產、金液丸用、其腹下毛。爲丸服之。」がそれだ。寺島良安も本書に倣って「原禽類」に分類してしまい、この異名と、「飛びながら出産する」の部分を引いてはいる。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか) (ムササビ・モモンガ)」を参照されたい。但し、良安はどこかでこの鳥の仲間とする分類法に、深く疑問を持っていたようで、「第三十九 鼠類」にも、盛んにムササビらしき動物が、複数回、顔を出している。

「安堵峰」『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』の私の注を参照。地図をリンクさせてある。

「皮を室の壁へ懸置いた處へ山民が來て、是は怪しからぬ事をする、此物は見ても催生の力が烈しい、臨月でも無い姙婦が每々見ると流產すると話され、大に氣味惡く成り棄てて了ふた」熊楠先生の優しさがちらっと見えて、ええ感じやな❤

「蔦」「選集」では『やしお』とルビするが、この読みを聴いたことがなく、また、検索でも掛かってこない。更に、木蔦の特定種を指すのかどうかも判らなかったので、ここで注するに留める。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(1) / 卷第二十四 百濟川成飛驒工挑語第五

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。]

 

       

〇百濟河成(鄕硏一の五〇と一六六頁)が寫生に巧だつたのは、此人が死んだ年から纔か廿五年後に成た文德實錄五に、所寫古人眞、及山水草木等、皆如自生、昔在宮中、令或人喚從者、或人辭以ㇾ未ㇾ見顏容、河成卽取一紙形體其、或人遂驗得、其機妙類如ㇾ此、今之言ㇾ畫者、咸取ㇾ則焉《寫す所の古人の眞(かほ)、及び、山水草木等(など)、皆、自生するがごとし。昔、宮中に在り、或る人をして從者をして喚ばしむ。或る人、辭するに、未だ顏容を見ざるを以つてす。河成、卽ち、一紙を取りて、其の形體を圖す。或る人、遂に驗(けん)し得たり。その機妙、類(おほむ)ね、此くのごとし。今、畫(ゑ)を言ふ者は、咸(ことごと)くに、則(てほん)を取る。》とあるので知れる。これに似た話、五雜俎七に、相傳、戴文進至金陵、行李爲一傭肩去、杳不ㇾ可ㇾ識、乃從酒家紙筆、圖其狀貌、集衆傭示ㇾ之、衆曰是某人也、隨至其家、得行李焉《相ひ傳ふ、『戴文進、金陵に至るに、行李(かうり)、一(ひとり)の傭(にんぷ)に肩(にな)ひ去られて、杳(えう)として識るべからず。乃(すなは)ち、酒家より紙筆を借り、その狀貌(かほかたち)を圖し、衆(おほ)くの傭を集めて、之れを示すに、衆、曰はく、「是れ、某人(ぼうにん)なり。」と。隨つて、その家に至るに、行李を得たり。』と》。戴文進は明朝の初の人だから、河成が死んでより五百年も後の人だ。

[やぶちゃん注:「鄕硏一の五〇と一六六頁」「選集」によれば、前者は『鄕土硏究』第一巻五十ページから収載されてある赤峯太郎の論文「今昔物語集の研究」であり、後者は同巻の第三号の百六十六ページから収載されてある南方熊楠の論文「川成と飛驒の工の技を競べし話」である旨が編者割注で示されてある。私は「南方熊楠全集」を所持しないが、幸いにして、サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊で新字新仮名)で読むことが出来る。さらに、頗る面白いので指摘しておくと、そこに明治四一(一九〇八)年六月発行の『早稲田文学』三十一号に発表した「『大日本時代史』に載する古話三則」の「増補」パートに、恐らくは、その前文の附記クレジット『昭和二年九月三十日記』と同じ時に追加したと思われる文章で、以下がある。引用元では、「世説新語」からの引用で、表記不能字が『?』で示されているのであるが、それは所持する明治書院の新釈漢文大系の「世説新語」で確認し(巧芸篇第二十一の「4」話目)、漢字を入れておいた。他は引用元の表記のママである。

   *

 およそ『今昔物語』本朝部に載せたる古話に、インドと支那より転訛せるもの多し。その二四巻、百済河成飛驛匠と芸競べの条は、『世説新語』に出る。いわく、魏の鍾会かつて詐りて荀勗[やぶちゃん注:「じゅんきょく」。]の手書を作り、勗の母に就いて宝剣を取り去る。会まさに宅を造る、勗潜かに在って会の祖父の形を壁に画く。会の兄弟、門に入り、これをみて感慟し、すなわちその宅を廃す、と。インドにも、南天竺の画師が北天竺の巧師を訪うと、無類の美女が出て給侍した。夜分もその側に侍せるを呼んでも一向近づかず、前《すす》んで牽くと木造りの女だった。そこで。画師はおのれが頸縊った壁画を作り、牀下に隠れおると、明朝主人の巧師見て大いに怖れ、刀で繩を絶たんとする時、画師が牀下より出たので、二人おのおのの妙技に感じ、親愛をすて出家修道した、と『雑譬喩経』四にある。これだけ予見出だして『郷土研究』一巻三号一六六頁に載せた。また、川成が従童を逃がし、その顔を畳紙に画いて下部に渡すと、市の群集中よりたちまちその童を認め捉え来たという記事の類話として、明の戴文進のことを同巻九号五五一頁に出した。

 右いずれも予に無断で、故芳賀博士の『攷証今昔物語集』に、自分の発見のように転載されおる。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

そこで、熊楠が憤懣をぶつけているのは芳賀矢一の「攷証今昔物語集 下」で、大正一〇(一九二一)年刊であった。芳賀は、熊楠がこの「増補」を行った年の二月に没している。国文学の権威者であった芳賀が、南方熊楠の過去の類話考証論文から、無断で、自分の本に類型原拠を載せたのである。ここだ! こりゃ、もう、厚顔無恥のレベルだね。偉い奴が他人の功績を奪い取って、平然としているのは、今も変わらないな。

「文德實錄」正式には「日本文德天皇實錄」。藤原基経らの編。「六国史」の第五で、文徳天皇の代である嘉祥三(八五〇)年から天安二(八五八)年までの八年間が扱われている。編年体。漢文。全十巻。以上は国立国会図書館デジタルコレクションの宝永六 (一七〇九)年の出雲寺和泉掾板行の版では、ここ(左丁後ろから三行目の最後)から記されてある。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(5) / 卷第十 國王造百丈石卒堵婆擬殺工語第三十五 / 一~了

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここ。]

 

〇物語同卷、國王造百丈石卒堵婆擬ㇾ殺ㇾ工語第卅五」《國王、百丈の石の卒堵婆を造りて、工(たくみ)を殺さんと擬(せ)る語(こと)第三十五》も、芳賀博士は出所を擧げ居らぬが、是は羅什譯、馬鳴菩薩の大莊嚴經論卷十五に見ゆ、云く、我昔曾聞、有一國、中施設石柱、極爲高大、除去梯蹬、樚櫨繩索、置彼工匠、在於柱頭、何以故、彼若存活、或更餘處造立石柱、使ㇾ勝於此、時彼石匠親族宗眷、於其夜中、集聚柱邊、而語之言、汝今云何、可ㇾ得レ下耶、爾時石匠多諸方便、卽擿衣縷、垂二縷線、至於柱下、其諸宗眷、尋以麁線、繫彼衣縷、匠卽挽取、既至於上、手捉麁線諸親族、汝等今者、更可ㇾ繫著小麁繩索、彼諸親族、卽隨其語、如ㇾ是展轉、最後得ㇾ繫麁大繩索、爾時石匠、尋ㇾ繩來下《我れ、昔、曾て聞く、一國有り、中(うち)に石柱を施設(しせつ)し、極めて高大と爲す。梯磴(ていとう)[やぶちゃん注:足場。]・樚櫨(ろくろ)[やぶちゃん注:滑車。]・繩索(じやうさく)を除き去り、彼(か)の工匠を置きて、柱頭に在らす。何を以つての故か。「彼、若(も)し存-活(いきてあ)らせば、或いは更に餘處に石柱を造立し、此れに勝(まさ)らしめんに。」となり。時に、彼(か)の石匠の親族・宗眷(しゆうけん)[やぶちゃん注:一族の者。]、其の夜中に於いて柱の邊りに集ひ聚(あつ)まる。而して、之れを語りて言はく、「汝(なん)ぞ、今、何をか云はんや。下(くだ)るを得べきものか。」と。爾(こ)の時、石匠、諸(もろもろ)の方便を多くせり[やぶちゃん注:「いろいろな降りる工夫を、沢山、考えた。」の意か。]。卽ち、衣縷(いる)[やぶちゃん注:着ている破れた着物。]を擿(さ)きて、二縷(ふたすぢ)の線(いと)を垂らし、柱の下に至らす。其の諸宗眷、尋(つ)いで[やぶちゃん注:次に。]、麁(あら)き線を以つて彼(か)の衣縷に繫ぐ。匠(たくみ)、卽ち、挽(ひ)きて取り、既に上に至れば、手に麁き線を捉へ、諸親族に語(かた)らふに、「汝ら、今は、更に小(すこ)しく麁き繩索を繋ぎ著(と)むべし。」と。彼の諸親族、卽ち、其の語(ことば)に隨ひ、是(か)くのごとく、展-轉(くりかへ)して、最後に、麁き大きなる繩索を繫ぎ得たり。爾の時、石匠、繩を尋(つた)ひて來たり下れり。》、石柱は生死、梯磴樚櫨は過去佛已滅言抔と、くだくだしく佛敎に宛てゝ喩[やぶちゃん注:「たとへ」。]を說き居る所を見ると、佛敎前から行れ居た物語らしい。

      (大正二年八鄕硏第一卷第六號)

[やぶちゃん注:「芳賀博士は出所を擧げ居らぬ」ここ。本文のみ。

「石柱は生死、梯磴樚櫨は過去佛已滅言抔と、くだくだしく佛敎に宛てゝ喩を說き居る」「大蔵経データベース」で見ると、この話を記した後に、以下のように評釈されてあることを指す。

   *

言石柱者喩於生死。梯蹬樚櫨喩過去佛已滅之法。言親族者喩聲聞衆。言衣縷者喩過去佛定之與慧。言擿衣者喩觀欲過去味等法。縷從上下者喩於信心。繫麁縷者喩近善友得於多聞。細繩者多聞縷復懸持戒縷。持戒縷懸禪定縷。禪定縷懸智慧繩。以是麁繩堅牢繫者喩縛生死。從上下者喩下生死柱。

  以信爲縷線 多聞及持戒

  猶如彼麁縷 戒定爲小繩

  智慧爲麁繩 生死柱來下

   *

これまた、壮大な仏教原理で、この事件の内容を解説した上、偈まであって、あたかも宋代の僧無門慧開の「無門關」の一篇を見るような、公案的ブットビの様相を呈しているのは、私などは、思わず、ニンマリしてしまった。因みにリンク先は私の古い電子化物で野狐禅全訳附きである。にしても、熊楠の、原型は仏教以前とするその指摘は頗る鋭い。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(4) / 卷第十 聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。底本ではここから。]

 

〇今昔物語集卷十、聖人犯后蒙國王咎成天狗語第卅四《聖人(しやうにん)、后(きさき)を犯して、國王の咎(とが)を蒙りて、天狗と成る語(こと)第三十四》は、今度出版の芳賀博士の攷證本に出所も類話も出て居らぬ。或は其處こに示された卷廿、染殿后爲天宮被嬈亂語《染殿(そめどの)の后(きさき)、天宮(てんぐ)の爲に嬈亂(ねうらん)せらるる語(こと)》の所が出たら、載て居るかと思ふが、一寸管見を記すと、趙宋の法賢譯瑜伽大敎王經三に、不動尊大忿怒明王の眞言を法通り持誦すれば、能く諸童女を鉤召し、種々所欲の事を成す、唐の金剛菩提三藏が譯せる不動使者陀羅尼祕密法、矜羯羅[やぶちゃん注:「こんから」。](=宮迦羅)を招く法を載す、矜者問事也、羯邏者驅使也、若不ㇾ現者、心決定、念誦不動使者、必須ㇾ得ㇾ見、莫ㇾ生狐疑、直至平明、無不ㇾ來者、現已種種驅使、處分皆得、乃至洗ㇾ手、或用柳枝令ㇾ取、皆得、欲ㇾ得上ㇾ天入一ㇾ山、亦扶行人將去、欲ㇾ得欲界上天女等、令將來相見、亦得、何況人間、取人及物、乃至種種飮食、此神作小童子形、有兩種、一名矜羯邏、恭敬小心者是、一名制吒迦、難共語、惡性者是、猶如人間惡性、在ㇾ下雖ㇾ受驅使、常多過失也云々《「矜(こん)」とは「事を問ふ」なり、「羯羅」とは「驅使」なり。若(も)し現ぜざれば、心、決定(けつぢやう)して、不動使者を念誦す。必ず須(すべか)らく見ることを得べし。狐疑を生ずる莫かれ。直ちに平明に至れば、來たらざる者、無し。現じ已(をは)りて、種種に驅使すれば、處分(しよぶん)[やぶちゃん注:命令。]せること、皆、得。乃至(ないし)は手を洗ひ、或いは柳枝(やうじ)を用ひんとするに、取らしむれば、皆、得。天に上(のぼ)り、山に入ることを得んと欲(ほつ)せば、又、行く人を扶(たす)けて將(ゐ)て去(ゆ)く。欲界上の天女等(など)を見ることを得んと欲せば、將て來たらしめて相見んこと、亦、得たり。何ぞ況んや、人間(じんかん)にて、人及び物、乃至、種種の飮食を至らすことをや。此の神、小童子の形を作(な)し、兩種、有り。一(ひとり)は「矜羯羅」と名づく。恭敬にして、小心なる者は、是れなり。一は制吒迦(せいたか)と名づく。共に語り難くして[やぶちゃん注:会話が上手く交わせず。]、惡性(あくしやう)なる者は、是れなり。猶ほ、人間の惡性のごとし。下に在りて驅使を受くと雖も、常に過失多し云々》、唐の李無諂[やぶちゃん注:「りむてん」。]譯不空羂索陀羅尼經にも、此二童子を使ふ法を記す、唐の不空譯大寶廣博祕密陀羅尼經中卷に、隨心陀羅尼を五萬遍誦すれば、婇女や王后などを鉤召し得と有り、趙宋の法天譯金剛手菩薩降伏一切部多大敎王經上に、部多女(ヴエーターラ)を眞言で招き妹となし、千由旬内に所要の女人を卽時取り來たらしむることを載す。矜羯羅も天女をすら取來る程だから、王后位はお茶の子だらう、斯る迷信が今日の歐州にも隱れ行なはるゝは、例せば、米人「リーランド」の巫蠱經(一八九九年板三五頁)に、今もイタリアに月神「チアナ」を祀る者、自分が望む貴族女をして犬形に變じ、萬事を忘失して其家に來り、忽ち元の女と成て其思ひを晴させ、復た犬と成て自宅へ還ると、本來の女と成るが、何を他人の家でされたか一向覺えず、若くは夢程に微かに覺えしむる呪法を載て居る。又今日も「タナ」女神を念じて、睡れる男女と情交を遂る誦言を出して居る。

[やぶちゃん注:「今度出版の芳賀博士の攷證本に出所も類語も出て居らぬ」ここ。但し、最後に『(本書卷二十染殿后爲天宮被嬈亂語參閲)』とある。次注参照。

「或は其處に示された卷廿、染殿后爲天宮被嬈亂語」(正しくは最後に「第七」が附くのが正しい標題である)「の所が出たら、載て居るかと思ふが」この記事(「一」パート)は大正二(一九一三)年八月号『鄕土硏究』であるから、芳賀矢一の「攷証今昔物語集」の同巻を載せた「中」は翌三年の刊行で未刊であったことによるさて。では! 大きな期待を持って見てみましょうかね! あらま! 残念ですねえ! 「拾遺往生傳卷下相應傳(抄錄)」・「古事談第三僧行篇」・「宇治拾遺物語卷十五相應和尙上二都卒天一事付染殿の后奉ㇾ祈事」と並べて、『(元亨釋書卷十感進篇相應傳參閲)』とあるだけですねぇ。これって、同事件の話の同時代或いは近未来の並列のリストに過ぎませんぜ。最後のが気になるって? いやいや、国立国会図書館デジタルコレクションの写本画像で見ますか? 染殿の「狂疾」を修法したことが書いてあるだけですぜ。熊楠先生のように、漢籍経典をちっともディグしてないじゃねぇか。ダメだ、こりゃ! なお、この篇は『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)』で電子化訳注しておいた。但し、かなり猥褻な描写が出るので、ご注意あれ。

「鉤召」歴史的仮名遣「こうせう」。現代仮名遣「こうしょう」。実は底本は「釣召」だが、「選集」で訂した。密教に於ける護摩法の一種である「鉤召法」のこと。諸尊・善神、及び、自分の愛する者を召し集めるための修法。

「矜羯羅(=宮迦羅)」前者は「こんがら」、後者は「くがら」と読む。サンスクリット語の「キンカラ」の漢音写で、「キン」は同語の疑問詞でそれに「矜」と当て、「作為」の意を持つ「カラ」に「羯羅」を当てて合成した語。「何をなすべきかを問い、その命令の通りに動く」という意であるという。奴僕や従者を指す一般名詞であるが、ここは不動三尊において制多迦(せいたか)童子とともにに不動明王の脇侍を務める矜羯羅童子を指す(通常の像作では不動明王の左脇侍(向かって右)に配される。十五歳ほどの童子の姿をしており、蓮華冠をつけ、肌は白肉色、合掌した親指と人差し指の間に独鈷杵を挟んで持つ。天衣と袈裟を身に着けている(ウィキの「矜羯羅童子」に拠った)。脇侍としては超弩級に私の好きな二人である。

「婇女」「うねめ」。古代の宮中で食膳などに奉仕した女官。

「部多女(ヴエーターラ)」「屍鬼」と漢訳するインドの妖怪。死体に取り憑いてこれを生きているかのように活動させる鬼神。色が黒く、背丈が高く、首は駱駝、顔は象、脚は牡牛、眼は梟、耳は驢馬のようであるとされる。

「千由旬内」七千キロから一万四千キロ四方。

「米人「リーランド」の巫蠱經(一八九九年板三五頁)」「選集」では書名に『アラジヤ』とルビされてある。これは、アメリカの作家で民俗学者であったチャールズ・ゴッドフリー・リーランド(一八二四年~一九〇三年:フィラデルフィア出身。はプリンストン大学とヨーロッパで教育を受けた。ジャーナリズムに携わり、広い範囲を旅して、民俗学や民俗言語学に関心を抱き、アメリカとヨーロッパの言語や、民間伝承に関する書籍や記事を出版した)。一八九九年に書かれた「アラディア、或いは魔女の福音」(Aradia, or the Gospel of the Witches )。「Internet archive」のこちらで、原本の当該部が読める。それを見ると、何のことはない、思った通り、「チアナ」(「選集」では『ヂアナ』とする)は知られた「Diana」である。以下の、『今日も「タナ」女神を念じて、睡れる男女と情交を遂る誦言を出して居る』というのも次のページ当たりのそれと感じられ、されば、「タナ」(「選集」も同じ)もこれが「ディアナ」「ダイアナ」のことであろう。]

2022/04/22

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(3) / 卷第四 震旦國王前阿竭陀藥來語第三十二

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話は『「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(1)』の注の中で電子化注してある(「今昔物語四に靂旦國王前に阿竭陀藥來る話あり」に対する私の注)ので、まず、それを読まれたい。今回、再度、本文を校訂しておいた。

 

〇物語集卷四の震旦國王前、阿竭陀藥來語第卅二《震旦(しんだん)の國王の前に、阿竭陀藥(あかだやく)、來たれる語(こと)第三十二》は、徒然草に見えた、土大根を萬にいみじき藥とて、每朝二つ宛燒て食た筑紫の某押領使の急難の時、大根が二人の兵と現じて、敵を擊ち卻けた[やぶちゃん注:「しりぞけた」。]話に較[やぶちゃん注:「やや」。]似て居るが、芳賀博士と同樣、予も其出處を見出し居らぬ。但し阿竭陀藥其物については多少調べたから、此物語硏究者の參考迄に書て置く。翔譯名義集九に、阿伽陀は普く去るの意で、一切の病を去る故名く、華嚴に、此藥を見さえすると、衆病悉く除くと有ると見ゆ、唐の菩提流志譯不空羂索神變眞言經卷廿一に、如意阿伽陀藥品有り、餘り長いから爰に引き得ぬが、此藥は種々の病のみならず、王難(虐王に困しめ[やぶちゃん注:「くるしめ」。]らるゝ事)賊難、虎狼水火刀杖等の難を避け、諍論に勝ち、人民に敬はれ、壽を長くし、一切の神をして護らしめ、一切鬼魔に害されぬとてふ無類の效驗有りとて、之を調合する藥劑の名を擧て居るが、梵語許りで分らぬものが多い。且つ加持の祕法が却々[やぶちゃん注:「なかなか」。]込入た者で、一寸行ひ難い樣だ。但し此品[やぶちゃん注:「ほん」。]に製法を出たのは、大無勝寶阿伽陀首と名け、所有諸法悉無過者《所有(あらゆる)諸法、悉(ことごと)く過(す)ぐる者、無し。》と有るから、此外に劣等の阿伽陀藥も色々有つたらしい。北凉譯大般涅槃經十二に、摩羅毒蛇に螫るゝと[やぶちゃん注:「ささるると」。その毒牙に刺されると。]、どんな呪も藥も效ぬが、阿竭多星の呪のみ之を除愈すと有るを見ると、阿竭陀又阿伽陀は、本と星の名で、專ら療病を司つた星らしい。

[やぶちゃん注:「徒然草に見えた、土大根を萬にいみじき藥とて、每朝二つ宛燒て食た筑紫の某押領使の急難の時、大根が二人の兵と現じて、敵を擊ち卻けた話」第六十八段の大根好きの男の不思議な話で、同書の中では、唯一と言ってもいい、怪奇談である。以下に示「怪談老の杖 電子化注 始動 / 序・目次・卷之一 杖の靈異」の私の注で全電子化をしてあるので参照されたい。

「芳賀博士と同樣、予も其出處を見出し居らぬ」ここ。但し、本文の活字化だけで、典拠への言及は全くない。

「摩羅毒蛇」不詳。こう書くからには、実在する毒蛇に比定されていなければおかしい。大きいため、注入される毒液が多く、咬まれると、非常に危険な爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科キングコブラ属キングコブラ Ophiophagus hannah か。インド東部・インドネシア・カンボジア・タイ・中国南部・ネパール・バングラデシュ・フィリピン・ベトナム・マレーシア・ミャンマー・ラオスに棲息する。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(2) / 卷第四 天竺人於海中値惡龍人依比丘敎免害語第十三(注の最後で特殊な処理を施した参考文を挿入)

 

[やぶちゃん注:本電子化の方針は「一~(1)」を参照されたい。熊楠が採り上げた当該話はこちらで電子化訳注してあるので、まず、それを読まれたい。]

 

〇物語集卷四天竺人於海中惡龍人依比丘敎免ㇾ害語第十三《天竺の人、海中にて惡龍(あくりう)に値(あ)へる人、比丘の敎へにより、害を免れる語(こと)第十三》は三國傳記に出た同話異文を芳賀博士は引て居るが、此話の根本を擧て居らぬ。其根本話は、比丘道略集羅什譯、衆經撰雜譬喩經下に、昔有屠兒、欲供養道人、以其惡故、而無往者、後見一新學沙門威儀詳序、請歸飯食種種餚饍、食訖還請此道人、願終身在我家食、道人卽便受ㇾ之、玩習既久、切見其前殺生、不敢呵一ㇾ之、積有年歲、後屠兒父死、作河中鬼、以ㇾ刀割ㇾ身、卽復還、復道人渡ㇾ河、鬼捉ㇾ船曰、沒此道人河中、乃可ㇾ得ㇾ去、船人怖曰、鬼言、吾家昔日供養此道人、積年不ㇾ呵我殺生、今受此殃、恚故欲耳、船人曰、殺生尙受此殃、況乎道人、鬼曰、我知ㇾ爾、恚故耳、若能爲ㇾ我布施、作ㇾ福呼ㇾ名呪願、我便相放、船人盡許爲作ㇾ福、鬼便放之、道人卽爲ㇾ鬼作ㇾ會、呼ㇾ名呪願、餘人次復爲作ㇾ會、詣河中、呼ㇾ鬼曰、卿得ㇾ福未、鬼曰卽得、無復苦痛、船人曰、明日當爲卿作一ㇾ福、得自來不、鬼曰得耳、鬼旦化作婆羅門像來、手自供養、自受呪願、上座爲說經、鬼卽得須陀洹道、歡喜而去、是以主客之宜、理有諫正、雖ㇾ墮惡道、故有善緣、可ㇾ謂善知識者是大因緣也《昔、屠兒(とじ)[やぶちゃん注:家畜などの獣類を殺すことを生業(なりわい)とした人。ひどく差別されたことはご存知の通り。以下の「惡なるを……」以下はその殺生の故である。]、有り、道人を供養せん[やぶちゃん注:自身の殺生の業(ごう)を供養して貰うために僧に布施をしたいと思ったのである。]と欲す。その惡なるを以つての故に、往(おもむ)く者、無し。後(のち)、一(ひとり)の新學の沙門の、威儀、詳序(しやうじよ)なる[やぶちゃん注:述べ語る内容が非常に詳しかったのを。]を見て、請ひ歸りて、種種の餚饍(かうぜん)[やぶちゃん注:豪華な料理。御馳走。]を飯-食(く)はせしめ、食ひ訖(をは)りて還(ま)た、此の道人に請ひて、「願はくは、終身、我が家に在りて食せんことを。」と。道人、卽ち、之れを受く。玩-習(なれしたし)むこと、既に久しくして、切(しき)りに、其の前に在りて殺生せるを見るも、敢へて之れを呵(せ)めず。積もりて、年歲(ねんさい)、有り。後、屠兒の父、死し、河(かは)の中の鬼(き)となり、刀を以つて、身を割き、乃(すなは)ち、復た、還る。後、道人、河を渡るに、鬼、船を捉へて曰はく、「此の道人を沒して、河中に著(お)かば、乃(すなは)ち去るを得べし。」と。船人(ふなびと)、怖れ、白(まう)す[やぶちゃん注:その訳を尋ねたの意であろう。]。鬼の言(いは)く、「吾が家(いへ)、昔日、此の道人を供養す。積年、吾が殺生を呵めず、今、此の殃(わざは)ひを受く。恚(うら)むが故に殺すのみ。」と。船人曰はく、「殺生すら、尙ほ、此の殃ひを受く、況んや、道人をや。」と。鬼曰はく、「我れ、爾(こ)れ[やぶちゃん注:その僧がこの船に乗っていることであろう。]を知るは、恚むが故のみ。若(も)し、能く我が爲めに布施して、福を作(な)し、名を呼びて、呪願(じゆぐわん)せば、我れ、便(すなは)ち、相ひ放(ゆる)さん。」と。船人、盡(ことごと)く、爲めに、福を作さんことを許(ききとど)けり。鬼、便ち、之れを放つ[やぶちゃん注:船が普通に航行出来るように放した。]。道人、卽ち、鬼の爲めに會(ゑ)を作(な)し、名を呼びて、呪願す。餘人[やぶちゃん注:同船している他の乗客。]も、次に、復た、爲めに會を作し、河中に詣(まゐ)り、鬼を呼びて曰はく、「卿(けい)[やぶちゃん注:尊敬の二人称。]、福を得しや、未だしや。」と。鬼曰はく、「卽ち、得たり、復た、苦痛、無し。」と。船人曰はく、「明日、當に卿のた爲めに福を作すべし。自(みづか)ら來たるを、得るや不(いな)や。」と。鬼曰く、「得(う)。」と。鬼、旦(あした)に化(け)して、婆羅門の像(すがた)と作(な)りて、來たり、手ずから、供養し、自ら、呪願を受く。上座[やぶちゃん注:高位の僧。ここはかの僧侶を指す。]、爲めに、說經す。鬼、卽ち、須陀洹道(しゆだをんだう)[やぶちゃん注:サンスクリット語の「流れに従って与かる者」の意の「スローターパンナ」の漢音写。煩悩を脱して聖者の境地に入った位を得ることを言う。四果(しか)の第一。]を得、歡喜して去る。是(ここ)を以つて主・客の宜(よしみ)には、理(ことわり)として諫正すること有るべきなり。惡道に墮(お)つと雖も、故(もと)は、善緣、有り。善知識と謂ふべき者は、是れ、大因緣なり。》、次に、昔有賈客、入ㇾ海採ㇾ寶、逢大龍神、擧ㇾ船欲ㇾ飜、諸人恐怖、龍曰、汝等頗遊行彼國不、報言、曾行過ㇾ之、龍與一大卵、如五升瓶、汝持此卵、埋彼國市中大樹下、若不ㇾ爾者、後當ㇾ殺ㇾ汝、其人許ㇾ之、後過彼國、埋ㇾ卵著市中大樹下、從ㇾ是以後、國多災疾疫氣、國王召道術占ㇾ之、云有蟒卵國中、故令ㇾ有災疫、輒推掘燒ㇾ之、病悉除愈、賈客人後入ㇾ海、故見龍神、重問事狀、賈人曰、昔如神敎、埋卵市中、國中多有疾疫。王召梵志占ㇾ之、推得焚燒、病者悉除、神曰、恨不ㇾ殺奴輩、船人問、神何故乃爾也、神曰、卿曾聞某國有健兒某甲不、曰、聞ㇾ之、已終亡矣、神曰、我是也、我平存時、喜陵擽國中人民、初無呵我、但奬ㇾ我、使我墮蟒蛇中、悉欲ㇾ盡ㇾ殺ㇾ之耳、是以人當相諫從ㇾ善相順。莫自恃勢力、陵擽於人一、坐招其患、三惡道苦、但可ㇾ聞ㇾ聲、不ㇾ可形處《昔、賈客(こきやく)[やぶちゃん注:商人。]有り、海に入りて寶を採る。大龍神の、船を擧げて、飜(くつが)へさんと欲(す)るに逢ふ。諸人、恐怖す。龍曰はく、「汝ら、頗る彼(か)の國に遊行するや不(いな)や。」と。報(こた)へて曰はく、「曾つて行き、之れを過(よ)ぎるなり。」と。龍、一つの大きなる卵(たまご)の、五升瓶のごときを與へ、「汝、此の卵を持ちて、彼の國の市中(いちなか)の大樹の下に埋(うづ)めよ。若(も)し爾(しか)せずんば、後に汝を殺すべし。」と。其の人、之れを許す。後、彼の國を過ぎり、卵を埋むるに、市中の大樹下に著(お)けり。是れより以後、國に、災ひ・疫疾(えやみ)の氣(き)、多し。國王、道術を召して、之れを占ふ。云はく、「蟒(うわばみ)の卵、國の中に在り、故に災ひ・疫(えやみ)を有らしむ。」と。輒(すなは)ち、推(たづ)ねて、掘り、之れを燒くに、病ひ、悉く、除かれ、愈(い)えたり。賈客の人、後(のち)、海に入りて、故(ことさら)に龍神に見(まみ)ゆ。重ねて事狀(じじやう)を問ふ。賈人曰はく、「昔、神の敎へしごとく、卵を市中に埋むるに、國中、多く、疾疫あり。王、梵志(ぼんじ)[やぶちゃん注:「ぼんし」とも。バラモン教の僧を指す語。]を召して、之れを占ひ、推(たづ)ねて、焚-燒(やきはら)ひ、病む者、悉(ことごと)く除(い)ゆ。」と。神曰く、「恨むらくは、奴輩(やつばら)を殺さざるを。」と。船人、問ふ、「神は何故に、乃(すなは)ち爾(しか)するや。」と。神曰はく、「卿(けい)、曾つて、某國に健兒の某-甲(なにがし)の有りを聞けるや不(いな)や。」と。曰はく、「之れを聞けど、已に終-亡(なくな)れり。」と。神曰はく、「我れは、是れなり。我れ、平-存(いきてあ)りし時、喜(この)みて、國中(くにぢゆう)の人民を陵-擽(ふみにじ)るに、初めより、我れを、敎え、呵(せ)むる者、無く、但(た)だ、我れに奬(すす)め、我れをして蟒-蛇(うわばみ)の中(なか)に墮とせしむ。悉く、之れを殺し盡くさんと欲するのみ。」と。是れを以つて、人は、當(まさ)に相ひ諫(いさ)め、善に從ひてぞ、相ひ順(やはら)ぐべし。自(みづか)ら勢力を恃んで、人を陵-擽(ふみにじ)り、坐(よ)りて、其の患(わざはひ)を招くこと莫(な)かれ。三惡道は苦(くる)し。但(た)だ聲は聞くべくも、形(からだ)、處(を)るべからず」と》、此の二つの相似た談が、此經に相雙んで出て居るを見て、作合わせて今昔の四の十三語[やぶちゃん注:「のこと」と訓じておく。]を生じたのだらう、東晉の譯ならんてふ佛說目連問戒律中五百輕重事經には、龍の舊師が免る可からざるを知て、自ら進んで水に投じて死んだとして云く、昔迦葉佛時、有一比丘、度弟子不ㇾ敎ㇾ誡、弟子多作非法、命終生龍中、龍法七日一受ㇾ對時、火燒其身、肉盡骨在、尋復還復、復則復燒、不ㇾ能ㇾ堪ㇾ苦、便自思惟、我宿何罪、致苦如ㇾ此耶、便觀宿命、自見本作沙門、不ㇾ持禁戒、師亦不ㇾ敎、便作毒念、恚其本師、念欲傷害、會後其師、與五百人、乘ㇾ船渡ㇾ海、龍便出ㇾ水捉ㇾ船、衆人卽問、汝爲是誰、答我是龍、問汝何以捉ㇾ船、答汝若下此比丘、放ㇾ汝使ㇾ去、問此比丘何豫汝事、都不ㇾ索餘人、獨索此比丘者何、龍曰、此比丘、本是我師、不ㇾ敎誡我、使我今日受如ㇾ此苦痛、是以索ㇾ之、衆人事不ㇾ得ㇾ止、便欲此比丘下著水中、比丘曰、我自入ㇾ水、不ㇾ須ㇾ見ㇾ捉、卽便投ㇾ水喪身命滅、以ㇾ此驗ㇾ之、度ㇾ人事大不ㇾ可ㇾ不敎誡《昔、迦葉佛の時、一比丘有り、弟子を、度して敎戒せず、多く、非法を作(な)す。命、終へて、龍の中(なか)に生まる。龍の法、七日に一たび、對(むくい)を受くる時、火、其の身を燒き、肉、盡きて、骨、在り。尋(つい)で、復(ま)た、還り、復た、則ち、復た、燒かれ、苦しみに堪ふ能はず。便(すなは)ち、自(みづか)ら思惟して、「我れ、宿(むかし)、何の罪ありてか、此(か)くのごとき苦しみを致すや。」と。便ち、宿命を觀ずるに、自ら見(けみ)して、「本(もと)、沙門と作(な)りて、禁戒を持(じ)せず、師も亦、敎へざりき。」と。便ち、毒念(どくねん)を作し、その本師を恚(うら)み、「傷害せん。」と念欲(ねんよく)す。會(たまた)ま、後(のち)、其の師、五百人と、船に乘り、海を渡る。龍、便ち、水を出でて、船を捉ふ。衆人、卽ち、問ふ、「汝は、是れ、誰(たれ)と爲すや。」と。答へて、「我れは、是れ、龍なり。」と。問ふ、「汝、何を以つてか船を捉ふるや。」と。答へて、「汝、若(も)し、此の比丘を下ろさば、汝を放ちて去らしめん。」と。問ふ、「この比丘、何ぞ、汝の事に豫(あづか)るや。都(すべ)て、餘人を索(もと)めずして、獨り、此の比丘のみを索むるは、何ぞや。」と。龍曰はく、「此の比丘、本(もと)、是れ、我が師なり。我れを敎戒せず、我をして、今日(こんにち)、此くのごとく苦痛を受けせしむ。是れを以つて、之れを索む。」と。衆人、事(こと)やむを得ずして、便ち、此の比丘を捉へて、水中に著(お)かんと欲(ほつ)す。比丘曰わく、「我れ、自ら、水に入らん。須(すべか)らく捉らへらるべからず。」と。卽ち、便ち、水に投じ、身命を喪ひて、滅す。此れを以つて、之れを驗(み)れば、人を度するに、敎戒せざるべからず。》。[やぶちゃん注:以上の「佛說目連問戒律中五百輕重事經」については、熊楠の引用文には、かなりの有意な原本からの脱落部が存在し、返り点の位置もどうも妙なところがある。これでは正常に読むことが出来ないので、「大蔵経データベース」の当該部を、丸々、本文では引用した実際の底本「南方隨筆」所収の本文(右ページ一行目から次のページの三行目まで)とは大きく異なるので、必ず、対照して読まれたい。

 なお、「南方隨筆」ではこのパートはここで終わっているのであるが、恐らくは初出の大正二(一九一三)年八月発行の『鄕土硏究』初出に拠ったものと思われる「選集」版では、以下の一段落が存在する。新字新仮名である上に、南方熊楠による表記を恣意的に弄っている。しかし、『鄕土硏究』の当該号はネットでは見られないことから、その「選集」版を、ここまでの電子化で覚えた熊楠の表記癖に直して、以下に参考までに掲げておく。特殊な仕儀なので注意されたい。読みは筑摩書房「全集」版(筑摩「選集」版の底本)編者によって添えられた可能性が頗る高いが、総て歴史的仮名遣に従って残しておいた。或いは、ここも初出は総て漢文なのかも知れないと考え、「大蔵経データベース」で当該部を確認出来たので、一部の漢字を正字化し、また、句点を読点に代えて、今までのように本文にぶち込んで、訓読部を《 》後に置いた。但し、返り点は無しの白文にしておいた。この仕儀で、少なくとも「選集」版のそれよりも遙かに原形に近いものを復元出来たかも知れぬと、ちょいとばかり、自負している。

   

 又東晉頃の譯本ちふ阿育王譬喩經には平素豕(ぶた)を殺した者恆水(ガンジスがは)の鬼と也、曾て豕を殺すを諫めなんだ道人を捉り殺さうと爲たとし、云く、昔有賢者、居舍衞國東南三十里、家門奉法供養道人、家公好喜殺猪賣肉、道人漸漸知之、未及呵誡。老公遂便命終、在恒水中受鬼神形云々、後日道人渡恒水、在正與鬼神相値、其鬼便出半身在水上、捉船顧言、捉道人著水中、不者盡殺船上人、時有一賢者便問鬼神、何以故索是道人、鬼神言、我在世間時供養道人、道人心知我殺猪賣肉、而不呵誡我、是以殺道人耳、賢者便言、君坐殺猪乃致此罪、今復欲殺道人、罪豈不多乎、鬼神思惟、實如賢者之言、便放令去、道人得去、還語其家、子孫爲作追福、神卽得免苦、示語後世人、道人受供養不可不教誡時《『昔、賢者、有り、舍衞國の東南三十里に居れり。家内、法を奉じ、道人に供養す。家公(かこう)、好-喜(この)みて猪(ぶた)を殺し、肉を賣れり。道人、漸々(やうや)う、之れを知れども、未だ呵(せ)め誡(いまし)むるに及ばず。老公、遂に便(すなは)ち、命、終(を)へ、恆水(こうすい)の中にあって鬼神(きしん)の形を受く』云々。『後日、道人、恒水を渡り、正に鬼神と相ひ値(あ)ふ。其の鬼、便ち、半身を出だして水上に在り、船を捉へて顧みて言はく、「道人を捉へて水中に著(お)け。不者(しからず)んば、盡(ことごと)く、船上の人を、殺さん。」と。時に、一賢者、有り、便ち、鬼神に問ひて、「何を以つての故に是の道人を索(もと)むるや。」と。鬼神、言はく、「我れ、世間に在りし時、道人を供養す。道人、心には、我れ、豚を殺し、肉を賣るを知れり。而(しか)れども、我れを、呵め誡めず。是(これ)を以つて、道人を殺すのみ。」と。賢者、便ち、言はく、「君、豚を殺せしに坐(よ)りて、乃(すなは)ち、此の罪を致す。今、復た、道人を殺さんと欲す。罪、豈(あに)多からざらんや。」と。鬼神、思惟するに、「實(まこと)に。賢者の言(げん)のごとし。」と。便ち、放(ゆる)して去らしめ、道人、去るを得たり。還りて、其の家に語り、子孫の爲めに、追福を作(な)す。神、卽ち、苦しみを免(まぬが)るるを得たり。後世の人に示す。「道人、供養を受くれば、敎へ誡めざるべからず。」と。』。》。

   *]

「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 一~(1) / 卷第四 羅漢比丘敎國王太子死語第十二

 

[やぶちゃん注:本論考は「一」が大正二(一九一三)年八月、「二」が同年十一月、「三」が同年、最後の「四」が翌大正三年五月発行の『鄕土硏究』初出で、大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像ここが冒頭)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方随筆」(新字新仮名)で校合した。同選集は本篇の初出の誤りが補正してあり、しかも原文はなく、元版全集編者による読み下し文となっている(しかし、それは現代仮名遣の気持ちの悪い代物であり、無論、漢字は新字体である)。今までもそうしてきたが、底本の原文通り、まず、底本の返り点のみのついた漢文で示し(但し、返り点に誤りがあると認めた場合はそれを訂した)、その後に《 》で推定される訓読文を添えた。但し、私は可能な限り、引用原本を確認出来るものは、それで確認して誤りと判断し得たものは訂し、「選集」のみが拠り所となる場合でも、無批判の受け入れず、読みも私の我流で訓読し直してある。そうした部分は、実は甚だしく多くあるから、五月蠅くなるばかりなので、通常、その底本の誤りは、原則、注記しない。なお、原話の正確な部分を探すのに最も活用したのは「大蔵経データベース」である。

 なお、本論考の参考に供するため、熊楠が採り上げている「今昔物語集」の当該話のうち、私が電子化(注)していない作品については、本電子化注に先立って、この私のブログ・カテゴリ『「今昔物語集」を読む』で事前に電子化訳注をしておいた。実際、その話と比較しながらでなければ、本論考は素人では全く歯が立たないと思われるからである。

 なお、ブログでの本篇電子化注は「今昔物語集」の各話の論考の切れ目で分割して示す。]

 

      今 昔 物 語 の 硏 究

 

       

 

 今昔物語集卷四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」《羅漢の比丘、國王太子の死を敎へたる語(こと)第十二》の本話が芳賀博士の纂訂本に出て居らぬ。唯だ此話に綠の遠い史記の西門豹が河伯の爲に民の娘を川に沈むるを禁じた話を參看せよと有るのみだ。然し此話の出所は玄奘の西域記卷十二、達摩悉鐵帝國、昏馱多城、國之都也、中有伽藍、此國先王之所建立、疏ㇾ崖奠ㇾ谷式建堂宇、此國之先、未ㇾ被 佛敎 、但事邪神、數百年前、肇弘法化、初此國王愛子嬰ㇾ疾、徒究醫術、有ㇾ加無ㇾ瘳、王乃躬往天祠、禮請求ㇾ救、時彼主爲ㇾ神下ㇾ語、必當痊復、良無他慮、王聞喜慰、囘駕而歸、路逢沙門、容止可ㇾ觀、駭問其形服、問ㇾ所從至、此沙門者、已證聖果、欲ㇾ弘佛法故、此儀形、而報ㇾ王曰、我如來弟子、所謂苾芻也、王既憂心、卽先問曰、我子嬰疾、生死未分、沙門曰、王先靈可ㇾ起、愛子難濟《昏馱多城(こんだたじやう)は國の都なり。中に伽藍有り、此の國の先王の建立する所なり。崖を疏(ほりとほ)し、谷を奠(うづ)め、以つて堂宇を建つ。この國の先(せん)は[やぶちゃん注:この国はこれ以前に。]、未だ佛敎を被(う)けず、但(た)だ、邪神に事(つか)ふ。數首年前、肇(はじ)めて法化(ほふけ)を弘(ひろ)む。初め、此の國王の愛子(あいし)、疾ひに嬰(かか)る。徒(いたづら)に醫術を究め、加ふる有れども、瘳(い)ゆること無し。王、乃(すなは)ち、躬(みづか)ら、天祠(てんし)に往き、禮し、請ふて、救ひを求む。時に、彼(か)の主(しゆ)[やぶちゃん注:神主。神官。]、神と爲りて語(ことば)[やぶちゃん注:神託のお告げ。]を下して、「必ず、當(まさ)に痊復(せんぷく)すべし。良(まこと)に他慮すること、無かれ。」と。王、聞きて、喜び、慰められ、駕(が)を囘(めぐ)らして歸る。路(みち)に沙門に逢ふ。容止(ようし)[やぶちゃん注:姿や立ち居振る舞い。]、觀るべし。その形服に駭(おどろ)きて、從(よ)つて至る所を、問ふ。此の沙門、已(すで)に聖果(しやうくわ)を證(しやう)し、佛法を弘(ひろ)めむと欲するが故に此の儀形(ぎぎやう)あり。而して、王に報じて曰はく、「我れは如來の弟子、所謂(いはゆる)、苾芻(ひつしゆ)[やぶちゃん注:現代仮名遣「ひっしゅ」。比丘に同じ。]なり。」と。王、既に心に憂ふれば、卽ち、先づ、問ふて曰はく、「我が子は疾ひに嬰り、生死(しょうじ)、未だ分かたず。」と。沙門曰はく、「王の先靈(せんりやう)は起こすべきも、愛子は濟ひ難し。」と。》(是は、王の死んだ先祖の靈を復生らす[やぶちゃん注:「いきかへらす。]術有りとも、王の愛子の死を救ふ方は無いと云ふ意なるを物語集の筆者解し損ねて、沙門答て云く、御子必ず死給ひなむとす、助け給はむに力不ㇾ及ず《力(ちから)及ばず》、是れ天皇の御靈の所爲也と譯し居る)。王曰、天神謂其不ㇾ死、沙門言、其當ㇾ終、詭ㇾ俗之人言何可信。遲至宮中、愛子已死、匿不ㇾ發喪、更問神主、猶曰不ㇾ死、疹疾當瘳、王便發怒、縛神主而數曰、汝曹群居、長ㇾ惡妄行威福、我子已死、尙云當瘳、此而謬惑、孰不ㇾ可ㇾ忍、宜戮神主殄滅靈廟、於ㇾ是殺神主、除神像、投縛芻河、迴駕而還、又遇沙門、見而敬悅、稽首謝曰、曩無明導、佇足邪途、澆弊雖久、沿革在ㇾ茲、願能垂顧、降臨居室、沙門受ㇾ請、隨至中宮、葬子既已、謂沙門曰、人世糺紛、生死流轉、我子嬰ㇾ疾、問其去留、神而妄言、當必痊差、先承指告、果無虛脫、斯則其法可ㇾ奉、唯垂哀愍、導此迷徒、遂請沙門、揆度伽藍、依其規矩而便建立、自ㇾ爾之後、佛敎方隆云々、大精舍中有石佛像、像上懸金銅圓蓋、衆寶莊嚴、人有旋繞、蓋亦隨轉、人止蓋止、莫ㇾ測靈鑒。聞諸耆舊曰、或云聖人願力所ㇾ持、或謂機關祕術所ㇾ致、觀其堂宇、石壁堅峻、考厥衆議、莫知實録。《『王曰はく、「天神、其れ、死せざるを謂ふ。」と。沙門曰はく、「其れ、當(まさ)に終はるべし。俗を詭(いつは)る人の言(げん)、何ぞ信ずべけんや。」と。遲く、宮中に至るに、愛子、已に死せり。匿(かく)して、喪を發(はつ)せず。更に神主(しんしゆ)に問ふに、猶曰はく、「死せず。疹疾(しんしつ)、當に瘳(い)ゆべし。」と。王、便(すなは)ち、怒りを發し、神主を縛りて數(せ)めて[やぶちゃん注:罪を数えて相手を責めて。]曰はく、「汝曹(なんぢら)は群れ居(を)りて、惡を長(ちやう)じ、妄(みだ)りに威福を行なひ、我が子、已に死せるに、尙、『當に瘳ゆべし』と云ふ。此く、謬(あやま)り惑はすは、孰(いづくん)ぞ忍ぶべからざらん。宜しく神主を戮(ころ)し、靈廟を殄滅(てんめつ)すべし[やぶちゃん注:完全に殲滅せよ。]。」と。是(ここ)に於いて、神主を殺し、神像を除き、縛芻河(ばくすうが)[やぶちゃん注:オクサス川。Oxus。中央アジアの大河川アムダリヤのラテン名。私の『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の注を参照。地図をリンクさせてある。]に投じ、駕を廻(かへ)して歸る。又、沙門に遇ふ。見て、敬(つつし)んで、悅び、稽首して謝して曰はく、「晨(さき)に、明導、無くば、足を邪まなる途(みち)に佇(とど)めしならん。弊(へい)を澆(うすくす)ること、久しと雖も、沿革は玆(ここ)に在り[やぶちゃん注:「このような悪しき事態となったもとは我が国の歴史の信仰の誤りにこそある」の意か。]。願はくは、能く顧(いつくし)みを垂れ、居室[やぶちゃん注:この王国の宮廷。]に降臨されんことを。」と。沙門、請ひを受け、隨ひて中宮(ちゆうぐう)に至る。子を葬ること、既に已(をは)り、沙門に謂ひて曰はく、「人世は糺紛(きうふん)して、生死(しやうじ)、流轉す。我が子、疾ひに嬰(かか)りて、其の去留を問ふに、神をして妄言するに。『當に必ず痊-差(い)ゆべし』とせり。先に指告(しこく)を承(う)くるに、果して、虛脫、無し。斯(こ)れ便(すなは)ち、その法(ほふ)を奉ずべきなり。唯(た)だ、哀-愍(あはれ)みを垂れて、此の迷徒(めいと)を導け。」と。遂に、沙門に請ひて、伽藍を揆-度(はか)り[やぶちゃん注:全体を見渡して推し量って。]、其の規矩(きく)に依りて、便ち、建立す。爾(こ)れより後(のち)、佛法、方(まさ)に盛んとなる』云々。『伽藍の大精舍中、石佛像、有り。像の上に、金銅(こんどう)の圓蓋(ゑんがい)を懸け、衆(おほ)くの寶もて、莊嚴(しやうごん)す。人、旋(まは)り繞(めぐ)るもの有れば、蓋も亦、隨ひて轉(まは)る。人、止(とど)まれば、蓋も、止まり、靈鑒(れいきん)[やぶちゃん注:霊の鏡としてのあらたかなる験し。]、測ること、莫(な)し。諸(こ)れを耆舊(ぎきう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「ぎきゅう」。昔馴染みの老人。]に聞くに、曰はく、或いは、云はく、「聖人の願力(ぐわんりき)の持(じ)する所なり。」と。或いは謂はく、「機關(からくり)の祕術の致す所なり。」と。其の堂宇を觀るに、石壁は竪峻(けんしゆん)なり。厥(そ)の衆議を考ふるに、實錄を知るもの莫し」。》、慈恩傳卷五には、昏馱多城中有伽藍、此國先王所ㇾ立、伽藍中石佛像上有金銅圓蓋、雜寶裝瑩、自然住レ空、當於佛頂、人有禮旋、蓋亦隨轉、人停蓋止、莫ㇾ測其靈《昏駄多城中に、伽藍、有り。此の國の先王の立つる所なり。伽藍中の石の佛像の上に、金銅の圓蓋有り。雜寶(ざうはう)、莊(けだか)く瑩(かがや)き、自-然(おのづ)と、空(くう)に住(とどま)りて、佛頂に當(あ)たる。人、禮して、旋(めぐ)れば、蓋も亦、隨ひて轉(めぐ)る。人、停まれば、蓋も、止まる。其の靈、測る莫し。》とばかりあって緣起を說て無い(一九〇六年板「ビール」英譯西域記二の二九三頁と一九一一年板同氏譯玄奘傳一九七頁をも併せ見よ)。

[やぶちゃん注:以上で熊楠が採り上げている話は、こちらで電子化訳注してある

「芳賀博士の纂訂本」国文学者芳賀矢一「攷証今昔物語集」で、国立国会図書館デジタルコレクションで大正二年から十年にかけて冨山房から刊行したそれが読める。彼の批判した当該部は、ここと次のページである。「やたがらすナビ」で同芳賀校訂本の本文だけがここに電子化されてある。但し、全然パンチが弱い新字である。私の上記の正字正仮名版を強くお薦めする。

「史記の西門豹が河伯の爲に民の娘を川に沈むるを禁じた話を參看せよ」前注で示した話をただ活字にしただけの最後に、『(本書卷十第三十三條立生贄國王止此平國語參閲)』とだけあるのを指す。この標題は、「生贄(いけにへ)を立つるに、國の王、此れを止(とど)めて國を平(たひらげ)る語(こと)」と読む(「やたがらすナビ」のこちらで電子化された読み易いものが視認出来る。但し、新字である)。その指示するのは、ここにある「○史記卷百二十六滑𥡴傳」のそれなのであるが、この話、私が読んでも、こちらの話とはひどく異なっており、原拠であるどころか、類話でさえない、おかしな「見よ注記」と言わざるを得ぬ。熊楠の不満げな批判的物言いは頗る正当と言える。正直、芳賀は「源氏物語」を『乱倫の書物』と誹謗し、「こんなものが日本の大古典であることは情けない」と言い放って何とも思わないガチガチな常識人だった。されば、正直、優れた稗史で、時にエロティックで滑稽な「今昔物語集」を、これ、正当に評価・校訂するに相応しい学者だったとは、私は全く以って思わないと述べておく。

「慈恩傳」「大慈恩寺三藏法師傳」玄奘(六〇二年~六六四年)の伝記。全十巻。唐の慧立の編になる。

『「ビール」英譯西域記』イギリスの東洋学者で、最初に初期仏教の記録類を中国語から直接翻訳したサムエル・ビール(Samuel Beal 一八二五年~一八八九年)。よく判らないが、死後の一九一一年刊の“The Life of Hiuen-Tsiang”(「玄奘の生涯」)辺りに含まれるか。「Internet archive」のこちらに一九一四年版があるが、版が孰れも違うので、流石に探す気にはならない。悪しからず。]

2022/04/21

「今昔物語集」卷第十「宿驛人隨遺言金副死人置得德語第二十二」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    宿驛(しゆくえき)の人、遺言(ゆいごん)に隨ひて、金(こがね)を死人(しひと)に副(そ)へて置きたるに、德を得たる語(こと)第二十二

 

 今は昔、震旦(しんだん)の□□代に、人、有りて、他(ほか)の州(くに)へ行く間、日晚(く)れて、驛(うまや)と云ふ所に宿りしぬ。其の所に、本より、一人(ひとり)の人、宿して病む。相ひ互に、誰人(たれひと)と知る事、無し。

 而るに、本より宿りして病む人、今、宿せる人を呼ぶ。呼ぶに隨て寄りぬ。病む人、語りて云く、

「我れ、旅にして、病を受て、日來(ひごろ)、此こに有り。今夜、死なむとす。而るに、我が腰に、金二十兩、有り。我れ、死なむ後(のち)に、必ず、我れを棺に入れて、其の金(こがね)を以て、納(をさ)め置くべし。」

と。今、宿りせる人、此れを聞て、

「汝ぢ、姓(しよう)は何(いか)にぞ、名は何(いか)が云ふ、何れの洲(くに)に有る人ぞ、祖(おや)や、有る。」

など問はむと爲(す)る間に、其の事をも、問ひ敢(あ)へざる程に、此の病む人、絕え入りぬれば、今、宿りせる人、

『奇異也。』

と思ひて、死(しに)し人の腰を見るに、實(まこと)に、金(こがね)廿兩、有り。此の人、哀れびの心、有りて、死にし人の云ひしに隨ひて、其の金を取り出だして、少分を以ては、此の死にし人を納め置くべき物の具共(ども)を買ひ調へ、其の殘りをば、彼れが約の如く、少しをも殘さず、此の死に人に副(そ)へて、納め置きけり。誰人と知らずと云へども、此くの如くして、家に還りぬ。

 其の後、思ひ懸けざるに、主(ぬし)を知らざる馬、離れて來れり。此の人、此の馬を見て、

『此れ、定めて樣(やう)有るらむ。』

と思ひて、取り繫ぎて、飼ふ。而るに、「我れ、主也。」と云ふ人、無し。其の後、亦、颷(つむじかぜ)の爲に、縫物の衾(ふすま)を卷き持(も)て來れり。其れも、

『樣(やう)有らむ。』

と思ひて、取りて置きつ。亦、「我れ、主。」と云て尋る人、無し。

 其の後、人來りて云く、

「此の馬は、我が子、某(それ)と云ひし人の馬也。亦、衾も彼(か)れが衾を颷の爲に卷き揚げられぬ。既に、君が家に、馬も衾も、共に、有り。此れ、何(いか)なる事ぞ。」

と。家の主、答へて云く、

「此の馬は、思ひ懸けざるに、離れて出で來れる也。尋ぬる人無きに依りて、繫ぎて飼ふ。衾、亦、颷の爲に卷き持(も)て來れる也。」

と。來れる人の云く、

「馬も徒(いたづ)らに離れて來れり。衾も、颷、卷き持て來れり。君、何(いか)なる德か、有る。」

と。家の主(あるじ)、答へて云く、

「我れ、更に、德、無し。但し、然〻(しかじか)の驛(うまや)に、夜(よ)る、宿りせりしに、病み煩ひし人、本より宿りして、絕え入りにき。而(しか)るに、彼が云ひしに隨ひて、彼れが腰に有し金(こがね)二十兩を以て、遺言の如く、少分を以ては彼れを納め置くべき物の具を買ひ調(ととの)へ、其の殘りをば、少しも殘さず、彼れに副へて、納め置てなむ、還(かへ)りにし。『其の人の姓(しやう)は何(いか)にぞ、名をば何(いか)が云ふ。何(いづ)れの洲(くに)に有る人ぞ。』など、問はむとせし間に、絕え入りにき。」

と語れば、來れる人、此の事を聞て、地に臥し丸(まろ)びて、泣く事、限無し。淚を流して云く、

「其の死にけむ人は、卽ち、我が子也。此の馬も、衾も、皆、彼れが物也。君の、彼れが遺言を違(たが)へ給はざるに依りて、隱れたりし德、有れば、顯れたる驗(しる)し有て、馬も、衾も、天の、彼れが物を給ひたる也けり。」

と云て、馬も衾も取らずして、泣々(なくな)く還るに、家の主(あるじ)、馬をも、衾をも、還し渡しけれども、遂に取らずして去りにけり。

 其の後、此の事、世に廣く聞え有て、

「其の人、喎(ゆが)める心、無く、直(ただし)き也けり。」

とて、世に、重く、用ゐられけり。

 此れを始めとして、颷(つむじかぜ)の卷き持て來れる物をば、本の主(ぬし)に還す事、無し。亦、主も、「我が物」と云ふ事、無し。亦、卷き來れる所をも、吉(よ)き所とも爲(せ)る也となむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「本より」「もとより」。以前から。

「絕え入りぬれば」ここは「急に亡くなってしまったので」の意。

「其の金を取り出だして、少分を以ては、此の死にし人を納め置くべき物の具共(ども)を買ひ調へ、其の殘りをば、彼れが約の如く、少しをも殘さず、此の死に人に副(そ)へて、納め置きけり。誰人と知らずと云へども、此くの如くして、家に還りぬ」ここには埋葬のことが書かれていないが、宿に置いておくわけにはゆかないから、仮りの埋葬(土葬)をしたと考えねばならぬ。「仮りの」と私が言ったのは、彼が結局、どこの国の何んという名で、その親族の有無をさえ聞き取れなかった以上は、宿の主人も、仮埋葬するしかないからである。これは、時代が不明ではあるが、ここで私が特に「仮りの」と言ったのは、行政上の制約ではなく、中国の古来よりの習俗として、旅の途中や、異国で亡くなった死者は、生れ故郷に埋葬されない限り、その魂は決して浮かばれないという信仰があるからである。私の李復言撰「杜子春」の古い拙訳の「三」の最後で、仙人修行を決意した彼が、最後に片づけた世俗のやるべきこと中に、「客死して異郷に葬られたままの一族の者の遺骸は、それを引き取って、先祖の墳墓の地に合葬してやったのでした。」とあることからそれが判る。原文(リンク先は私の電子テクストである)では、僅かに「遷祔族親」(族親(ぞくしん)を遷祔(せんぷ)し)で、「旅の途中で亡くなり、他郷に埋葬されている一族の者の遺骸を、郷里の先祖の墳墓に合葬すること。」と私が注したものがそれである。

「此れ、定めて樣(やう)有るらむ。」「これは、きっと、何か深い訳(わけ)・理由がある、何か超自然の働きが係わっているのであろう。」と感じたのである。

「縫物の衾(ふすま)」高価な刺繡を施した寝具・夜具。今野氏の注に、『飛来した物が馬と衾であるところに生活に必要で』、且つ、贅沢な『ものだったことがうかがえる』とされる。

「徒(いたづ)らに」これと言った理由などもないのにも拘わらず、むやみやたらに馬小屋から逃げ出したというのである。

「君、何(いか)なる德か、有る。」この問いは、馬と衾の持ち主が、超自然的な力によってこの男の手元に向かったと感じ、何か、この男が天がそうするだけの徳分(とくぶん)のあることをしたか、何かそうした力を起動させる対象物を持っているのではないか、と推察したのである。

「馬も衾も取らずして、泣々(なくな)く還るに、家の主(あるじ)、馬をも、衾をも、還し渡しけれども、遂に取らずして去りにけり」一つのシークエンスを二人の男の両方向から描写したものであろう。今野氏も、『父の側からと家主の側からと双方から記述したため』、一見、まどろっこしい描写になっている旨の注記をされておられる。

「喎(ゆが)める心」「歪める心」。素直でないねじ曲がった根性。

『此れを始めとして、颷(つむじかぜ)の卷き持て來れる物をば、本の主(ぬし)に還す事、無し。亦、主も、「我が物」と云ふ事、無し』ここも前の事実を繰り返していて、ややくどい。しかも馬を外して、この後でも、高価な夜具の方をのみ二度出しているのはしつこい。今野氏も、『このことを起源として、習俗の起原譚の形となる。天に召しあげられ、天から授かるものという感覚であろう。無縁・公界の物という認識に近い』が、『陰徳、信義のテーマからやや逸脱する』と述べておられる。ここでまず、今野氏は、何故、馬をカットし、衾を特異的にここに出したかを説明されておられるものと思う。則ち、天の神が天空に、一度、旋風(つむじかぜ)で巻き上げた衾を、かの男のもとに褒美として吹き送ったと解釈出来、それが、語りとして「天」と結びつける格好の対象となっていることを指摘されているものと推察する。無論、馬は天馬を連想させ、馬もまたそのようにして送ってきたとも言えなくもないが、しかし、最後に今野氏のおっしゃる如く、本来の本話のコーダとしては、屋上屋の感を禁じ得ないとは言えよう。

「吉(よ)き所」今野氏注に『縁起のいい場所』とある。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    とある駅に宿った人が、遺言に従って、大金を亡くなった人に副え置いて供養し、徳を得た事第二十二

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、震旦(しったん)の、□□の時代に、ある男のあって、他の国へ行くとて、途中、日が暮れたので、とある宿駅に宿をとった。

 その宿には、以前から一の男が宿していたが、重い病いを患って、留まっているのであった。無論、その病人と、このある人とは、相い互いに、誰であるか、全く見知らぬ同士であった。

 ところが、その以前から泊まって病んでいた男が、今日、宿った、その人を呼んだ。

 呼ばれるに従って、傍らに寄り添ったところ、その病人は、次のように語り出した。

「……我れらは、旅の途中で、病いを得て……もう、かなりの間、ここに宿っておりましたが……今夜、もう、お迎えがくるように思われます……されど……我が腰には……金二十両、御座います……どうか! 我れら、死んだ後(のち)に……必ずや、我れらを棺桶にお入れ下さり……その金を……どうか……以って……その中に……お納め置いて下され……」

と。

 今夜、宿った男は、これを聴くや、

「そなた、その姓は何と申される? 名は何と言い、どちらの国のお人か? 父祖はご健在化かッツ?!」

などと問わんとする間に、その答えはおろか、男の問い質しも終わらぬうち、この病人は、息を引き取ってしまったのであった。

 今日、宿った男は、

『……何と……不思議なことじゃが……』

と思って、ふと、亡くなった男の腰の辺りに触れてみると、事実、金二十両があった。

 この看取った人は、しみじみと哀れみの情の起こって、故人の言うた遺言の通り、その金を取り出して、その内の少しばかりを以って、この男の骸(むくろ)を納めおくべき装具など買い調え、その残りを、彼の願ったように、鐚(びた)一銭をも残さず、その棺の中に副えて、納めおき、仮りの埋葬を成した。誰人(たれびと)と知らぬとは雖も、かくの如く、仕儀を済まして、自身の家へと帰った。

 その後(のち)、思いがけざることのあって、主人の不明な馬が、どこからともなく、この男のもとにやってきたのであった。

 男は、この馬のなかなかの駿馬(しゅんめ)なるを見て、内心、

『これは……きっと、人知を超えたなにものかが……働いているのでは、なかろうか?……』

と思って、轡を執って、自分の屋敷で飼うことにした。

 しかれども、「私が馬の持ち主である」と言ってくる人は、これ、誰もいなかった。

 その後(のち)、またしても、旋風(つむじかぜ)に乗って、縫いとりをした高価な夜具が、空から降ってきたのであった。それも、男は、

『……うむ……やはりこれは……何か、あるな。』

と思ってて、取ってしまっておいた。これもまた、「私が持ち主」と言って、尋ねてくる人が、同じく、おらぬのである。

 その後、とある日、ある人が来たって、とりあえず飼いおいてあった馬を眺め、たまたま風入(かざい)れのために日にかざしてあった衾(ふすま)を見て言うことには、

「この馬は、我が子の某(なにがし)と言う者の馬である。また、そこにある衾も、これ彼の衾が、たまたま日干ししておいたところが、旋風(つむじかぜ)のために、巻き揚げられて行方知れずとなったものだ。ところが、かくも、貴殿の家に、これ、馬も、衾も、ともにあるではないか! これは、どういうことかッツ!?!」

と息巻いて叫んだ。

 家の主(あるじ)は、穏やかに答えて言った。

「この馬は、思ひがけず、いずこからか、逃げ離れて、ここへやってきたものであります。尋ねてくる御仁もおらざれば、よって、繋いで飼(こ)うております。さて、衾(ふすま)ですが、これもまた、旋風(つむじかぜ)のために、巻き揚げられて、我が家に降って参ったもので御座る。」

と。

 来たった人は、それを聴くと、

「……馬も、知らぬ間にふいと、我が家から逃げて、ここへやってきたし、衾も、また、旋風(つむじかぜ)が巻き揚げてここへ来たった。……貴殿、もしや、何らかの『徳』をお持ちかな?」

と応じた。

 家の主(あるじ)が答えて言うに、

「私は、これといって、『徳』なんどは御座らぬ。……ただ……□□という宿駅に於いて、夜、宿(やど)致したのですが、そこに、病いを煩ったお人が一人、以前より泊まっておられ、その夜、亡くなられた。私はそれを独りで看取ったのですが、末期(まつご)にそのお人が言い残した言葉に従って、そのお人の腰を閲(けみ)致しまいたところ、金二十両の大金が御座いました。それを以って、その方の御遺言の通り、その金の僅かを以って、かのお人を納めおくべき祭具を買い調えて、その残りの大枚(たいまい)をば、少しも残すことなく、かのお人に副えて、納めおいて、仮りに埋葬を成して、しかして、帰ったということが御座います。その折り、『そなたの姓は何と? 名は何と言うか? いずこ国のお方であるか?』などと、問おうと致しましたが、その折りに息絶えられたのでありました。」[やぶちゃん注:「□□という宿駅」は私の敷衍訳。これは注で述べた通り、父は息子の遺体を改葬する習俗としての義務があると考え、宿駅の場所を父が尋ねるシークエンスなんどを後に継いだのでは、折角の本篇にスムースな流れが乱されると考えた仕儀であるとご理解戴きたいのである。]

と語ったところ、今、来たった人は、この主(あるじ)の言葉を聴くや、たちまち、地に臥して、蹲って、激しく泣くのであった。

 暫くして、その人は、涙を流しながら、

「……その死んだ人者は……これ、即ち、我が子で御座る! この馬も! この衾(ふすま)も! みな、彼の持ち物で御座る! 貴殿が、彼の最期の遺言を、お違(たが)えなさることなく、かくせられたによって……それこそ、隠れて御座った『徳』であってみれば……ここに顕(あらわ)れが、その験(しる)しで御座って……馬も……衾も……天が彼の物を、貴殿にお給えなされたのに相違御座いませぬ!……」

と言って、馬も衾も取り戻さずして、泣く泣く帰ってらんとしたので、家の主(あるじ)は、

「馬も、衾も、お還し致す。」

と、渡そうとしたけれども、その父なる人は、ついに受け取らずに、去って行ったのであった。

 その後(のち)、このこと、世に、広く聞え、あって、

「その人は、まっこと邪な心、これ全くなく、真正直な御仁ではないか!」

と、世に、重く用いられたということである。

 さても、この出来事を始めとして、旋風(つむじかぜ)の巻き揚げてもて来たれる物は、これ、本(もと)の主持ち主に還(かえ)す必要は、これ、ない、ということになった。また、その元の持ち主も、私の物と主張せぬこととなった、のである。

 そうしてまた、このような天来の、巻き揚げられて来ったところのものは、これ、「目出たい縁起物」として「天の下され物」とする風習が生まれたのであると、かく語り伝えているということである。

「今昔物語集」卷第九「歐尙戀父死墓造奄居住語第八」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    歐尙(おうしやう)、死にける父を戀ひて、墓に奄(いほり)を造りて居住(きよぢゆう)せる語(こと)第八

 

 今は昔、震旦(しんだん)の□□歐尙と言ふ人、有りけり。幼少の時より、孝養(けうやう)の心、深して、父母(ぶも)に奉仕する事、限り無し。

 其の父、死して後(のち)、歐尙、父の墓所に廬(いほり)を造りて居(ゐ)て、朝暮に、父を戀ひ悲む。

 而る間、一の虎、山より出でたるを、鄕(さと)の人、此れを見付けて、多くの人、或は桙(ほこ)を取り、或は弓箭(きうぜん)を持(も)て追ひて、虎を害せむと爲(す)る時に、虎、責められて、遁(のが)るべき方(はう)無きに依りて、命を存せむが爲に、歐尙が廬に走り入る。歐尙、此れを見て、哀れびて、虎を隱さむが爲に、衣を脫ぎて、虎に覆ひて、虎を隱す。卽ち、鄕の人等、虎を尋ねて、廬に來りて、或は桙を以つて突(つ)かむとし、或は弓を以て射むとして云く、

「此の虎、正く此の廬に來りぬ。」

と。歐尙が云く、

「我れ、虎を隱すべからず。虎は、此れ、惡しき獸也。我れも、共に殺すべし。何ぞ、强(あながち)に虎を隱さむや。虎、更に此の廬に見え來らず。」

と云て、出ださず。其の時に、鄕の人等、此れを聞て、皆、歸り去りぬ。

 其の後(のち)、日暮に臨みて、虎、廬を出でゝ、山に入ぬ。虎、卽ち、此の恩を深く知て、常に歐尙が廬に、死にたる鹿を持(も)て來たる。其の後、歐尙、自然(おのづか)らに富貴(ふつき)の身と成る。

「此れ、他(ほか)に非(あら)ず。偏へに孝養の心の深きに依り、亦、生命(しやうみやう)を害せむと爲(す)るを助けたるに依りて、天の授け給へる富也。」

と知ぬ。

 然れば、父母に孝養する事は、天の哀れび給ふ事也。不孝(ふけう)の人をば、天、皆、憎み給ふ事也。亦、自然(おのづか)ら、人、有りて、生命を害せむを見合はゞ、必ず、助け救ふべき事也となむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「歐尙(おうしやう)」底本の人名解説索引に、『伝未詳』。「太平御覧」に『「平都区宝者後漢人」』とする。名の前の欠字は後に地名を入れるための意識的欠字。

「廬」今野氏の注によると、原拠は漢籍の「孝子伝」(中国本土では散佚し、本邦で軌跡的に残った)上巻の十九であるが、原話では『墓所に庵を作ったとはないが、「廬」は親の喪に子が服する』ために作ってそこに籠る『丸いつぼ型の小屋をいう』とある。

「桙(ほこ)」木質の堅いもので制した木製の戟(ほこ)。

「死にたる鹿を持(も)て來たる。其の後、歐尙、自然(おのづか)らに富貴(ふつき)の身と成る。」何故、富貴になるか? 今野氏の脚注が、鹿は『食用のほか、皮も使えた。』という一言が解明している。氏はさらに、『虎の威による呪性もあろうか』という、民俗学的な類感呪術的解釈も加えておられて興味深い。因みに、私が改作者なら、里人に攻撃され、死に瀕した虎が、最後に欧尚の庵を訪れ、自らの肉と皮を彼に捧げて死ぬといういかにもなシークエンスを演出してしまうだろう。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    欧尚が、亡くなった父を恋いて、墓に庵(いおり)を造って住みついした事第八

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、震旦(しったん)の□□という所に、欧尚という人がいた。幼少の時から、孝養の心が深く、常に父母に奉仕して怠りなかった。

 その父が亡くなった。

 すると、欧尚は、埋葬が終わるや、直ちに父の墓所の敷地に庵を造って、朝暮(ちょうぼ)に、父を恋い悲しんだのであった。

 そんな、ある日、一匹の虎が、山から下りてきて、村を戦慄させた、里人らは、これを目撃するや、多くの男たちが、或いは戟(ほこ)を執り、或いは弓矢を携えて、虎を追いかけては、虎を殺そうと躍起になった。

 虎は、責められて、逃げられる隙がなくなってしまった。

 虎は命を永らえんがために、欧尚の庵に走り入った。

 欧尚は、その喘いでいる虎を見るや、憐みの情がこみ上げてきた。

 そこで、虎を隠さんがために、自身の着ていた上着を脱ぐと、それで、伏せさせた虎を覆って、その姿を匿(かく)してやったのであった。

 ちょうど、その時である。里の人々が、虎を探して、庵にやってきた。

 或る者は戟で以って突き殺そうと手ぐすねし、或る者は弓を以ってその急所を射らんと猛って、言った。

「あの虎は、確かに、この庵にきたはずだ!」

「おう! 確かに見たぞ!」

と。

 欧尚は答えた。

「私が虎を隠すいわれはありませんよ。虎は、これ、猛悪な獣(けだもの)ですから。私も、あなたがたとおもに、里人の安穏(あんのん)のため、殺すに決まっておりましょう! どうして、強いて、恐ろしい虎なんぞを、これ、匿(かく)すことなんぞ、ありましょうや! 虎は、一度たりとも、この庵にも来ておりませんし、ここ周辺でも見かけたことは御座いません!」

と言い切って、庵の奥に匿った虎を出さなかった。

 さても、この時、里人らは、孝行者として広く知れ渡っていた彼の言葉を聴いて、『本当のことを言っている』と感じて、みな、諦めて帰って行ったのであった。

 その後(のち)、日暮れになって、虎は自分から庵を出て、山へと帰って行った。

 さても――

――虎は、その後、この恩を深く感じて、何時(いつ)も、欧尚の庵の入り口に捕まえた死んだ鹿を持ち来たったのであった。

 そのお蔭で、欧尚は、自(おのず)と富貴(ふうき)の身となった。

 しかし、その時、欧尚が知ったことには、

「これは、何か、他の故(ゆえ)あることでも、何でもない。ひとえに、私が孝養の心を忘れずにあった故に、そうしてまた、生きとし生けるものの命が、害されんとするのを、助けた、人としての成すべき当たり前のことをした故に、天が私にお授け下さった恩寵としての富みなのである。」

ということなのであった。

 されば、父母に孝養することは、天がそれを無条件で愛おしみなさるのである。不孝の人を、天は、一人残らず、憎み遊ばされるのである。また、自然、人があって、他の息とし生けるものの生命が危くなっているのに邂逅した際には、これ、必ず、助け救うのが正しいことなのであると、かく語り伝えているということである。

 

2022/04/20

「今昔物語集」卷第三「阿闍世王殺父王語第」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。本巻は標題通し番号が「第七」で終わって、数字が入っていない。参考底本では第二十七に相当する。] 

 

    阿闍世王(あじやせわう)、父の王を殺せし語(こと)

 

 今は昔、天竺に、阿闍世王、提婆達多(だいばだつた)と、得意・知音(ちいん)にして、互ひに云ふ事を、皆、金口(きんく)の誠言(せいごん)と信ず。調達(でうだつ)、其の氣色(けしき)を見て、世王(せわう)に語りて云はく、

「君(きみ)は、父の大王を殺して、新王と成(な)れ。我れは、佛(ほとけ)を殺して新佛(しんぶつ)と成らむ。」

と。

 阿闍世王、提婆達多が敎へを信じて、父の頻婆沙羅王(びんばしやらわう)を捕へて、幽(かす)かに人離れたる所に、七重(しちぢう)の强き室(しつ)を造りて、其の内に籠(こ)め置きて、堅固に戶を閉ぢて、善く門を守る人を設(まう)けて、誡(いまし)めて云はく、

「努々(ゆめゆめ)、人を通はす事、無かれ。」

と。此(か)くの如く、度〻(どど)、宣旨を下(くだ)して、諸(もろもろ)の大臣・諸卿に仰せて、一人も通はす事、無し。

「必ず、七日(なぬか)の内に責め殺さむ。」

と構ふ。

 其の時に、母后(ははきさき)韋提希夫人(ゐだいけぶにん)、大きに哭(かな)しみて、我れ、邪見に惡しき子を生(しやう)じて、大王を殺す事を、歎き悲しむで、竊(ひそか)に蘇蜜(そみつ)を作りて、麨(むぎこ)に和合(わがふ)して、彼(か)の室に、密かに持(も)て行きて、大王の御身(おほむみ)に塗る。又、瓔珞(やうらく)を構へ造りて、其の中に漿(こむづ)を盛りて、密かに大王に奉る。大王、卽ち、麨を食(じき)して、手を洗ひ、口を洗ひて、合掌恭敬(くぎやう)して、遙かに耆闍崛山(ぎじやくつせん)の方に向ひて、淚を流して禮拜(らいはい)して、

「願はくは、一代敎主釋迦牟尼如來、我が苦患(くぐゑん)を助け給へ。佛法には遇ひ乍ら、邪見の子の爲に、殺されなむとす。目犍連(もくけんれん)は在(まし)ますや。我が爲に、慈悲を垂れて、八齋戒(はちさいかい)を授け給へ。後生(ごしやう)の資糧(しらう)とせむ。」

佛、此の事を聞き給ひて、慈悲を垂れて、目連・富樓那(ふるな)を遣はす。二人の羅漢、隼(はやぶさ)の飛ぶが如くに、空より飛びて、速かに頻婆沙羅王の所に至りて、戒(かい)を授け、法(ほふ)を說く。此(か)くの如く、日々に來たる。

 阿闍世王、

「父の王は、未だ、生きたりや。」

と、守門の者に問ふ。門守の者、答へて云はく、

「未だ、生き給へり。容顏、麗しく、鮮かにして、更に死に給はずして御(おは)す。此れ、則ち、國の大夫人(だいぶにん)韋提希、竊かに麨(むぎこ)を蘇蜜(そみつ)に和して、其の御身に塗り、瓔珞の中に漿(こむづ)を盛りて、密かに奉り給ふ。又、目犍連・富樓那、二人の大羅漢、空より飛び來りて、戒を授け、法を說く故也。卽ち、制止するに、及ばず。」

と。阿闍世王、此れを聞きて、彌(いよい)よ、嗔(いか)りを增して、云はく、

「我が母韋提希は、此れ、賊人(ぞくにん)の伴(ともがら)也。惡比丘(あくびく)の富樓那・目連を語らひて、我が父の惡王(あくわう)を今日まで生(い)けける。」

と云ひて、劍(つるぎ)を拔きて、母の夫人(ぶにん)を捕へて、其の頸(くび)を切らむとす。

 其の時に、菴羅衞女(あんらゑによ)の子に耆婆大臣(ぎばだいじん)と云ふ人、有り。闍王(じやわう)の前に進み出でて申さく、

「我が君、何(いか)に思(おぼ)して、かゝる大逆罪(だいぎやくざい)をば、造り給ふ。「毗陀論經(びだろんきやう)」に云はく、『劫初(ごふしよ)より以來(このかみ)、世に、惡王、有りて、王位を貪るが爲に、父を殺す事、一萬八千人也。』。但し、未だ曾て、聞かず、無道に母を害せる人をば。大王、猶ほ、善く思惟(しゆい)せしめ給ひて、此の惡逆を止(とど)め給へ。」

と。王、此の事を聞きて、大きに恐れて、劍を捨てて、母を害せず成りぬ。父の王は、遂に、死す。

 其の後(のち)、佛、鳩尸那城(くしなじやう)拔提河(ばだいが)の邊(ほと)り、沙羅林(しよらりん)の中に在(まし)まして、大涅槃の敎法を說き給ふ。其の時に、耆婆大臣、闍王を敎へて云はく、

「君(き)み、逆罪を造り給へり。必ず、地獄に墮ち給ひなむとす。此比(このごろ)、佛(ほと)け、鳩尸那城拔提河の邊り、沙羅林の中に在まして、常住佛性(じやうぢうぶつしやう)の敎法(けうぼふ)を說きて、一切衆生を利益(りやく)し給ふ。速かに其の所に參り給ひて、其の罪を懺悔(さんぐゑ)し給へ。」

と。闍王の云はく、

「我れ、既に、父を殺してき。佛、更に我を吉(よ)しと思(おぼ)さじ。又、我れを見給ふ事、非(あら)じ。」

と。耆婆大臣の云はく、

「佛は善を修(しゆ)するをも、見給ふ。惡を造るをも、見給ふ。一切衆生の爲めに、平等一子(びやうどういつし)の悲(かなしび)を垂れ給ふ也。只、參り給へ。」

と。闍王の云はく、

「我れ、逆罪を造れり。決定(くゑつぢやう)して無間地獄(むけんじごく)に墮ちなむとす。佛を見奉ると云へども、罪、滅せむ事、難し。又、我れ、既に、年老いにたり。佛の御許(みもと)に參りて、今更に恥(はぢ)を見む事、極めて、益(やく)、無し。」

と。大臣の云はく、

「君、此の度(た)び、佛を見奉り給ひて、父を殺せる罪を滅し給はずば、何(いづ)れの世にか、罪を滅し給はむ。無間地獄に墮ち入り給ひなば、更に出づる期(ご)、非(あら)じ。猶ほ、必ず、參り給へ。」

と寧(ねむごろ)に勸む。

 其の時に、佛の御光、沙羅林より、阿闍世王の身を指して照らす時に、闍王の云はく、

「劫(こふ)の終りにより、日・月、三つ出でて、世を照すべかなれ。若(も)し、劫の終りたるか、月の光り、我が身を照らす。」

と。大臣の云はく、

「大王、聞き給へ。譬へば、人に、數(あまた)の子、有り。其の中に、病ひ、有り、片輪(かたは)有るを、父母、懃(ねんごろ)に養育す。大王、既に父を殺し給へる罪、重し。譬へば、人の子の病ひ、重きに非ずや。佛は一子の悲び、在(まし)ます。大王を利益(りやく)し給はむが爲に、指し給へる所の光ならむ。」

と。闍王の云はく、

「然(さ)れば。試みに、佛の御許(みもと)へ參らむ。汝も我に具(ぐ)せよ。我れ、五逆罪を造れり。道行かむ間(あひだ)に、大地、割れて、地獄にもぞ、墮ち入る。若(も)し然(しか)る事有らば、汝を捕へむ。」

と云ひて、闍王、大臣を具して、佛の御許に參らむとす。

 既に出で立つに、車五萬二千兩に、皆、法幢(ほふどう)・幡蓋(ばんがい)を懸けたり。大象(だいざう)五百に、皆、七寶(しちほう)を負(おほ)せたり。其の所從(しよじゆう)の大臣の類幾(いくばく)、既に沙羅林に至りて、佛の御前(みまへ)に進み參る。佛、王を見給ひて、

「彼は阿闍世王か。」

と問ひ給ふに、卽ち、果(くわ)を證(しやう)して授記(じゆき)を蒙(かうふ)れり。佛の宣(のたま)はく、

「若(も)し、我れ、汝を道(だう)に入れずば、有るべからず。今、汝ぢ、我が許(もと)に來たれり。既に、佛道に入りつ。」

と。

 此れを以(も)て思ふに、父を殺せる阿闍世王、佛を見奉て、三界(さんがい)の惑ひを斷(だん)じて、初果(しよくわ)を得たり。かゝれば、佛を見奉る功德、量り無しとなむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「阿闍世王(あじやせわう)」(生没年不詳)紀元前五世紀頃の古代インドのマガダ国の国王アジャータシャトルの漢音訳。父のビンビサーラ=頻婆娑羅(びんばしゃら)王を殺し、実母ヴァイデーヒー=韋提希夫人を幽閉、王位に就いたが、後に同時代人であったゴータマ・ブッダ(釈迦)の教えに従い、仏教教団の熱心な保護者となった。

「提婆達多(だいばだつた)」(生没年不詳)デーヴァダッタの漢音訳。釈迦と同時代の仏教の異端者。略して「提婆」或いは「調達」(じょうだつ)、「天授」とも漢訳される。ブッダの従兄弟(いとこ)又は義兄弟といわれ、出家して一度はブッダの弟子となったものの、後にブッダに反旗を翻し、仏教教団を分裂に導いた。本篇にあるように、マガダ国のアジャータシャトル王子を唆(そそのか)し、父王を殺させて王位につかせた。また、彼はブッダの殺害を計画したが、失敗し、後に悶死したと伝える。厳格な生活法を主張したらしく、提婆達多の教えに従う徒衆が、後代にも存続したと伝えられている。

「得意・知音(ちいん)」孰れも同義で「親友」の意。

「金口(きんく)の誠言(せいごん)」絶対的に正しい真理。

「韋提希夫人(ゐだいけぶにん)」(生没年不詳)ここにある通り、実子の王子アジャータシャトルが父王を幽閉し、餓死させようとした際、密かに肌に小麦粉に酥蜜(そみつ:牛乳から採った油(食用となる)と蜂蜜。本篇の「蘇蜜」は同義)を混ぜたものを塗り、胸飾りの一つ一つに葡萄の汁を詰めて(本篇の「漿(こむづ)」に同じ)、密かに王のもとに行き、それを食べさせたが、発覚し、自らも幽閉された。牢内からの彼女の切なる祈りに応えて、釈迦が顕現し、この世に絶望して阿弥陀仏の浄土を願う妃に対し、阿弥陀仏や、その浄土を「観想」する方法を教えた。この折りの教えが「観無量寿経」であるとされる。

「麨(むぎこ)」炒った麦。

「耆闍崛山(ぎじやくつせん)」サンスクリット語の「グリドラクータ」の漢音写。「霊鷲山」(りょうじゅせん)などとも漢訳する。古代インドのマガダ国の首都王舎城、現在のラージギルの東北あるSaila-giri(グーグル・マップ・データ)の南面の山腹にあって、今はチャタ(Chata)山と呼ばれており、ここは釈尊が「大経」や「法華経」を説いた山として、とみに知られる。

「目犍連(もくけんれん)」サンスクリット語の「マウドガリヤーヤナ」の漢音写。「目連」に同じ。古代インドの修行僧で、釈迦の十大弟子の一人。優れた神通力の使い手として「神通第一」と称された。釈迦の直弟子中でも、舎利弗と並ぶ二大弟子として活躍したことから、「マハー」=摩訶=「大」を冠して「摩訶目犍連」「大目犍連」などとも記される。

「八齋戒(はちさいかい)」八戒。在家男女が一日だけ出家生活にならって守る八つの戒め。性行為をしない(在家の信者が普段守らなければならないとされる五戒、不殺生戒・不偸盗戒(盗みを働かない)・不邪淫戒(性行為をしない)・不妄語戒(嘘をつかない)・不飲酒(ふおんじゆ)の五種の内の不邪淫戒(不道徳な性行為の禁止。特に強姦や不倫・性行為に溺れることを指す)をより厳格な性行為を行わないという不淫戒に変え、さらに、不坐臥高広大床戒(高く立派な寝台に寝ない)と、不著香華瓔珞香油塗身戒+不作唱技楽故往観聴戒(装身や化粧をしない+歌舞音曲を視聴しない)と、不過中食戒(非時を摂らない。仏家では食事は午前中の一度だけを原則とするが、それではもたないので、それ以外に食す食事を総て「非時」と言った。具体的には正午から日の出までの間の食事摂取行為である。但し、通常、水はこの限りではない)の三つを加えたもの。

「後生(ごしやう)の資糧(しらう)」底本の今野氏の注に、『死後に善所に生まれ変わる助縁。資糧は命を支えるもととなる食べ物で、ここでは善根の譬喩的表現。』とある。

「富樓那(ふるな)」富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)サンスクリット語「プールナ=マイトラーヤニープトラ」の漢音写。釈迦仏の十大弟子の一人。略して、この「富楼那」で呼ばれることが多い。

「賊人(ぞくにん)」謀反人。

「菴羅衞女(あんらゑによ)」(生没年不詳)は釈迦の女性の弟子(比丘尼)の一人。サンスクリット語「アームラパーリー」の漢音写。「庵摩羅」など多数の表記があり、意訳でも「㮈女」「柰女」「非浄護」などがある。当該ウィキによれば、『ヴェーサーリー(毘舎離)の人で』、『ヴァイシャ出身。ヴェーサーリー城外のマンゴー林に捨てられ、その番人に育てられた』ことから、「アンバパーリー」=「マンゴー林の番人の子」と『いわれるようになった』。彼女は、『遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていた』が、『釈迦仏に帰依し、その所有していた林を僧団に献納した』とある。

「耆婆大臣(ぎばだいじん)」サンスクリット語「ジーヴァカ」の漢音写。「活」「命」「能活」「寿命」などと意訳する。仏弟子で古代インドの名医。頻婆娑羅王の王子で、阿闍世王の異母兄であった(頻婆娑羅王と前注の菴羅衞女の間にできた子とされる)。ここにあるように、父を殺した阿闍世王を導き、仏に帰依させたとされ、中国の名医扁鵲(へんじゃく)と並び称される。

「鳩尸那城(くしなじやう)」古代インドのマラ国の首都クシナガラ付近にあった城。現在はウッタルプラデシュ州東端のカシア付近に相当する。城外で釈迦が入滅した聖地として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「拔提河(ばだいが)」底本の地名解説索引に、「大唐西域記」によれば、前のクシナガラの西北の凡そ二キロメートルの『地を流れる川という』とある。

「沙羅林(しよらりん)」沙羅双樹(アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta)の林。言わずもがな、釈迦の入滅した林のこと。

「無間地獄(むけんじごく)」八大地獄の一つで、「八熱地獄」の八番目、最下底にある地獄。「五逆」と「謗法」(ほうぼう:仏法を誹謗すること)の大罪を犯した者が落ちて、絶え間なく、厳しい責め苦を受ける所とされる。「無間」は、「絶え間ないこと」を意味し、「むげん」とも読む。「五逆」は、五逆罪の略で、「父を殺す」・「母を殺す」・「仏弟子を殺す」・「仏の体から血を出させる」・「正しい仏道修行をしている団体の秩序を乱す」ことの五罪を指す。

「劫(こふ)の終り」今野氏の注に、「劫初」(こうしょ)の対語で、『劫末。宇宙が破滅する空劫の終末期。この世の終り。』とある。

「日・月、三つ出でて」今野氏注に、『涅槃経によるに、三つの月』で、『ここは』、「日」と「月」ではなく、『月でなければならない』のであり、これは『話が原経を離れて』しまい、『独り歩きしたための』誤った『変化』をしてしまったものと断じておられる。「月日」で、太陽のように光を発する月が、その時、三つ出現するという意味であるらしい。

「法幢(ほふどう)」今野氏注に、『仏教儀式に用いる旗鉾。鉾や鉾状の杖に旗や吹き流しを取り付けたもの。』とある。

「幡蓋(ばんがい)」同前で、『のぼり旗や天蓋』とする。

「七寶(しちほう)」「七珍」(しっちん)とも呼び、経に説く仏法を象徴する七種の宝。「無量寿経」では、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ:シャコガイ)・珊瑚・瑪瑙を、「法華経」では、金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰(まいかい:中国産の美しい赤色の石)とする。

「三界(さんがい)」一切の衆生の生死輪廻する三種の迷いの世界。欲望に呪縛されている「欲界」・美しい形象に繋がれてある「色界(しきかい)」・美しさへの捕らわれからは離脱しているものの、なお未だ迷いの残っている「無色界」を指す。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やし、今回は場面転換のために行空けも行った。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    阿闍世皇子(あじゃせおうじ)が父の王を殺した事第

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、天竺にあった、阿闍世皇子、提婆達多(だいばだった)と親友であって、互いに言い合ったことは、みな、

「絶対の真理の言葉である。」

と信じ合っていた。その調達(=提婆達多)が、阿闍世の鬱々とした様子を見るや、彼にに語って言うことには、

「君は、一つ、君の実の父の大王を殺して、新王と、なれ! 我れらは、仏(ほとけ)を殺して、新仏(しんぶつ)たらんとする!」

と。

 

 阿闍世皇子は、提婆達多の教えを信じて、即座に、父の頻婆沙羅王(びんばしゃらおう)を捕えて、寂寥たる人気のない場所に、七重の壁で囲まれた監禁室を造って、その中に父王を押し込めおいて、厳重に扉を閉ざして、怠りなく出入り口を守る者を任じて、きつく誡(いまし)めて言うことには、

「ゆめゆめ、ここに、人を通わすことの、無きように!」

と命じた。

 かくたる命令を、たびたび、かく、厳しい禁制の宣旨をも下して、あらゆる大臣・諸卿にも仰せられ、一人も、そこに通わすことが、なかった。

「必ず、七日の内に、責め殺してやる!」

と堅く決意し、身構えていた。

 

 そのころ、王子の実母の妃である韋提希(いだいけ)夫人は、この監禁を知って、激しく慟哭し、

「私は……邪悪な見識にとらわれた悪しき子を生んでしまい……大王を殺させてしまうことになるなんて!……」

と、歎き悲しんだ。

 そうして、窃(ひそ)かに蘇蜜(そみつ)を作って、麦焦がしを交ぜ併せ、かの監禁室に密かに持って行っては、こっそりと大王のお体に塗ったのであった。

 また、瓔珞(ようらく)の内側を刳り抜いて空洞を作り、その中に漿(こんず)を盛っては、やはり、見張りの番人の目を偸んで、大王にさし上げた。

 大王、その麦焦がしや葡萄の汁を食(しょく)されて飢えを凌がれた。

 

 さて王は、手を洗い、口を漱(すす)いで、清浄になし、合掌恭敬して、遙かに、仏陀のおられる耆闍崛山(ぎじゃくつさん)の方に向って、涙を流しつつ、礼拝し、

「願はくは、一代の教主たる釈迦牟尼如来、我が苦患(くげん)を助け給え。仏法に、かくも邂逅致すことが出来ましたが、しかし、邪見の子のために殺されんとしております。目犍連はおられますか? 我がために慈悲を垂れて、八斎戒を授け給え。後生(ごしょう)の資糧と致そうと存じます故に。」

と祈られた。

 

 仏陀は、この事を遙かにお聴きになられて、慈悲を垂れて、目連と富楼那(ふるな)を直ちに遣はした。

 二人の羅漢は、隼(はやぶ)が飛ぶように、空を翔って、速かに頻婆沙羅王のところへ至って、戒を授け、法を説いた。

 そのようにして、日々、二人の弟子は、王のもとを訪ねたのである。

 

 阿闍世皇子はと言えば、

「父の王は、未だに生きておるのか?」

と、守衛の者に問うた。

 門番は、答えて言った。

「未だ、生きておられます。お顔の感じも麗しく、生き生きとしていて、さらにお死になるような感じはまるで御座いませぬ。まあ、その、これはですな……まんず、お国の大夫人たる韋提希さまが……これ、窃かに麦粉を蘇蜜に和(あ)えては、その御身(おんみ)にお塗りになって持ち込まれ……また、瓔珞(ようらく)の中に漿(こんず)を仕込んで、密かに差し上げ申して遊ばされるから、と存じます。……また、目犍連とか、富楼那とか申、二人の大羅漢が、飛ぶ鳥のごと、空から飛び来たって、戒を授けては、法を説いておる故で御座いましょう。これらは、その……凡そ、我らには……制止することが出来ぬので御座います。」

と。

 

 阿闍世皇子は、これを聞くや、いよいよ、怒りを増して、叫んだ。

「我が母韋提希は、これ、謀反人の仲間だ! 悪僧の富楼那や目連と語らって、我が父の悪王を、今日(きょう)まで、生かしおるのじゃッツ!」

と吐き捨てるように言うと、剣(つるぎ)を抜いて、自ら、母夫人を捕えて、その首を斬ろうとした。

 その時、これ、庵羅衛女(あんらえにょ)の子で、耆婆大臣(ぎばだいじん)と申すお人があり、剣を引っ提げて母夫人のところへ行こうとする皇子の前に進み出て、申さされた。

「我が君! 一体、いかに思し召して、かかる大逆の罪(つみ)を、犯さんとなされるのですか?! 「毗陀論経(ひだろんきょう)」に曰わく、『劫初(こうしょ)よりこの方、世に、悪王のあって、王位を貪らんがために、父を殺すこと、一万八千人なり。』とあります。しかし! 未だ嘗つて私は聞いたことが御座らぬのは、無道にも母を殺害する人であります! 大王、なお、よく思惟(しゆい)なさせしめ遊ばされ、このおぞましき悪逆をお止め下されよ!」

と。

 皇子は、この事を聴いた途端、ひどく恐れて、剣を捨て、母を害せずに終わった。

 しかし、父の王は、ほどなく、遂に亡くなられたのであった。

 

 その後(のち)、仏陀は、鳩尸那城(くしなじょう)の抜提河(ばっだいが)の畔(ほと)り、沙羅林(しゃらりん)の中にましまして、「大涅槃経」に記された教法を説きなさっていた。

 

 そのころ、耆婆大臣は、皇子――いや、もう、阿闍世王(あじゃせおう)と呼ぼう――に教えて進言をした。

「君(きみ)は、逆罪を、お造り遊ばされてしまいました。必ずや、地獄に堕ち遊ばされんとしておるので御座います。さても。このごろ、仏陀は、鳩尸那城の抜提河の畔りの沙羅林の中にましまして、常住仏性(じょうじゅうぶっしょう)の教法を説かれて、一切衆生を利益(りやく)なさっておられます。速かにその場所に参られて、その罪を懺悔(さんげ)遊ばされませ!」

と。

 阿闍世王は、しかし、かく答えた。

「我れは、既に、父を、殺してしまった。……仏陀は、さらには、我れらを善(よ)しとは思われまいよ。……また、我れをご覧になられることも、これ、あるまい……。」

と。

 耆婆大臣は食い下がった。

「仏陀は、善(ぜん)を修(しゅ)することをもお見通しであられる! 同時にまた、悪を造るをことをもお見通しであられるのです! 一切衆生のために、平等一子(びようどいっし)の大慈悲を、遍く、お与え下さるのです! ただただ、まず、参り遊ばれませ!!」

と。

 阿闍世王は、気弱に応じた。

「……我れは、大逆の罪を造ってしまった。……さればこそ、その報いは決定(けつじょう)して、無間地獄に堕ちようとしている。……そんな罪深い我らが、仏を見申し上げたと雖も、罪が滅するなんどということは、到底、難しいことであろうじゃないか。また、我れら、既に、年老いてしまった。……仏陀の御許(みもと)に参って、いまさら、おめおめと恥を見せることなど、これ、すこぶる、益(えき)無きことではないか?……」

と。

 しかし、さらに大臣は言い寄った。

「君、このたび、釈迦を見申し上げ遊ばされ、結果として父を殺した罪、その罪を滅(めっ)しなさらなければ、これ、いづれ世に於いてか、その大罪を滅し遊ばされるおつもりか?! 無間地獄にお堕ち入りなさったとならば、さらにそこを出でる後世(ごぜ)の機会は、これ、もう御座いますまい! なお、必ず! 参りましょうぞ!!」

と、懇ろに勧めたのであった。

 その時、仏陀の御光(ごこう)が、その沙羅林の方から、急に阿闍世王の身を指(さ)して、照らし出(い)でてきた!

 時に、阿闍世王が独り言のように言った。

「……劫(こう)の終りとなって、日のように光り輝く月が三つ出でて、世を照すとか、いうらしいじゃないか。……もしや……これは……劫の終りなのか?……月の光りが、ああっ……我が身を、照らすではないか……」

と。

 大臣は、たたみかけて言った。

「大王、お聞き下されよ。譬えば……人に数多(あまた)の子のあって、その中に病にの子がある。生涯治らぬ障碍を持った子があった。しかし、父母というものは、その子を大切に養育する。……大王さま、あなたさまが、既に父を殺害なされたその罪は、確かに重い。しかし、それは譬えば、人の子の、病いの重いのと変わらぬのではありませぬか? 仏陀は、たった独りの子に対しても、その広大無辺の慈悲を無条件で差し出だして下さるのです。さればこそ、これこそ、大王さまを利益(りやく)しなさろうとせんがために、その行くべき場所を差しなさっているところの光りなのではないでしょうか?!」

と。

 阿闍世王が遂に言った。

「……されば……まあ、試みに、仏陀の御許(みもと)へ参ってみよう。……そちも、我れに伴って参れ。我れは、五逆の罪を犯したのだ。……これから参る道中……大地が裂け、無間地獄にでも、これ……ざあっと……堕ち入るやも、知れんからな。……もしも、そんなことが起こったら……そちを捕えて、道連れじゃ……」

と呟くや、阿闍世王は、その大臣を連れて、仏陀の御許(みもと)へと向かおうとするのであった。

 

 既に出で立つに、車は五万二千両、みな、法幢(ほうどう)と幡蓋(ばんがい)を懸けている。大きな象は五百匹、みな、七宝を背負わせてある。その行列に扈従するところの大臣らは、これ、数えることが出来ぬほどに、多い。

 既にして沙羅林(しゃりん)に至った。

 阿闍世王が、仏陀の御前(みまえ)に進み参った。

 仏陀が、王をご覧になって、

「あなたは阿闍世王か。」

と、お問になられる。

 すると――即座に――その場で正しき仏果(ぶっか)の証果が示され――しかも速やかに未来の成仏が――仏陀自身の口から――予言され――保証されたのであった。――

 仏陀はおっしゃられた。

「もし、私が、そなたを正法(しょうぼう)の道に迎い入れなかったとしたら、それは、真の仏道を志すものとして、あるべからざる存在となる。今、そなたは、我がもとに来った。それで、もう、既に、そなたは、正しく仏道に入ったのである。」

と。

 以上を以って思うに、父を殺害した阿闍世王が、仏陀を見申し上げて、三界の惑いを断って、正しき初果を得たのである。さればこそ、仏(ほとけ)を見申し上げる功徳というのは、これ、無量であると、かく語り伝えているということである。

「今昔物語集」巻第五「天竺王宮燒不歎比丘語第十五」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    天竺(てんぢく)の王宮(わうぐう)燒くるに歎かざりし比丘の語(こと)第十五

 

 今は昔、天竺の國王の宮に、火、出來ぬ。片端(かたはし)より燒け持(も)て行くに、大王より始めて、后(きさき)・皇子(わうじ)・大臣・百官、皆、騷ぎ迷(まど)ひて、諸(もろもろ)の財寶を運び出だす。

 其の時に、一人の比丘、有り。國王の護持僧として、此れを歸依し給ふ事、限り無し。而(しか)るに、其の比丘、此の火を見て、頭(かしら)を振り、首を撫でて、喜びて、財寶を運び出だすを、止(とど)む。其の時に、大王、此の事を怪(あやし)びて、比丘に問ひて宣(のたま)はく、

「汝(なん)ぢ、何の故有りてか、宮内(みやのうち)に火の出で來(く)るを見て、歎かずして、我が無量の財(たから)、燒け失(う)するを見て、頭(かしら)を振り、首(かうべ)を撫でて喜ぶぞ。若(も)し、此の火は、汝が出だせる所か。汝ぢ、既に、重き咎(とが)、有り。」

と。

 比丘、答へて云はく、

「此の火、我が出だす所には有らず。然(さ)れども、大王、財(たから)を貪るが故に、三惡趣(さんあくしゆ)に堕(お)ち給ふべきを、今日、皆、悉く燒け失(うしな)ひ給ひつれば、三惡趣に堕ち給ふべき報(ほう)を遁(のが)れ給ひぬる事の、極めて喜ばしき也。人の惡道(あくだう)を離れず、六趣(りくしゆ)に輪𢌞(りんね)する事は、只、一塵(いちぢん)の貯へを貪りて、愛する故也。」

と申す。大王、此れを聞きて、

「比丘の云ふ所、尤も然(しか)るべし。我れ、此れより後(のち)、財(たから)を貪ぼる事、有らじ。」

と宣ひけりとなむ、語り伝へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「三惡趣(さんあくしゆ)」「三惡道」(さんまくだう) とも呼ぶ。生命あるものが、生前の悪い行為の結果として、死後、余儀なく赴かなければならぬ六道の内の三悪道(さんあくどう)としての地獄道・餓鬼道・畜生道という三種の世界。

「六趣(りくしゆ)」六道に同じ。上記三つの三悪道に、三善道の修羅道・人間道・天上道を加えた総称。六道輪廻から解脱しなければ、極楽往生は出来ない。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    天竺の王宮(おうきゅう)が焼けたにも拘わらず、歎かなかった僧の事第十五

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、天竺のとある国王の宮殿から、火が出た。

 片っ端(ぱし)から、延焼してゆくのを見て、大王を始めとして、妃(きさき)・皇子(おうじ)・大臣・百官に至るまで、みな、騒ぎ惑いて、諸々の財宝を運び出すのにやっきになる。

 ところが、その時、一人の僧がおり、その僧は国王の護持僧として、国王以下、誰もが心から、この僧に帰依し申し上げていたのであるが、何んと! その僧、この大火を見るや、満足そうに頭を振り、得心したように首を撫でて、喜んで、財宝を運び出すのを、止めるのである。

 それを見て、大王は、この制止を強く疑って、僧に向かって問うて、仰せられたことには、

「そなたは、如何なる故(ゆえ)あってか、宮の内に火の出来(しゅったい)したのを見て、嘆くことないばかりか、我が量り知れぬこの上もなき財宝が焼け失せるのを見て、頭を振り、首を撫でては、喜ぶのだ!? もしや? この火は、そなたがつけたのではないのか?! そなたには、既にして、重い罪があろうぞ!」

と。

 僧は、それに答えて言うことには、

「この火は、我が付け火したものでは、御座らぬ。されども、大王が、数多(あまた)の財宝を貪らるる故に、後世(ごぜ)に於いて、三悪道に堕ちなさるべきところを、今日(きょう)、みな、ことごとく、焼け失い遊ばされたによって、三悪道に堕ちなさる応報を遁(のが)れなさった。このことは、何よりも、極めて喜ばしいことなので御座る。人間が、かの悪道を離れ得ず、六道を輪廻せねばならぬ所以(ゆえん)は、ただただ、一塵(いちじん)の貯えを貪って、それを愛するが故、なので御座る。」

と申し上げた。

 大王は、これを聞くや、

「僧の申すところ、これ、最もしかるべき謂いである。我れは、これより後(のち)、財宝を貪ぼることは、これ、決してするまい!」

と仰せになられたと、かく語り伝えているということである。

「今昔物語集」卷第四「金翅鳥子免修羅難語第」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。本巻は御覧の通り、標題終りの通し番号の数字が「第七」で終わって、以降は数字が入っていない。参考底本では第十に相当する。]

 

    金翅鳥(こんじてう)の子(こ)、修羅の難を免(まぬ)かれたる語(こと)

 

 今は昔、「金翅鳥」と云ふ鳥、有り。其の鳥は、須彌山(しゆみせん)の片岫(かたくき)に巢を作りて、子共(こども)を生み置けり。須彌山は高さ十六萬由旬(ゆじゆん)の山也。水の際より上八萬由旬、水の際より下八萬由旬也。其の水の際より上、四萬由旬に、此の鳥の、巢をば、作る也。

 亦、「阿修羅王(あしゆらわう)」と云ふ者、有り。身の勢(せい)、極めて大き也。栖(すみか)、二所也。一は海の側(ほと)り也。一は大海(だいかい)の底也。其の海の側りと云ふは、須彌山の峽(かひ)・大海の岸也。其れに、金翅鳥の巢を咋(く)ひて生み置ける子共を、阿修羅、山を動かして、鳥の子を振るひ落して、取りて食らはむとす。

 其の時に、金翅鳥、此の事を歎き悲しむで、佛の御許(みもと)に參りて、佛に白(まう)して言(まう)さく、

「海の側りの阿修羅王の爲に、我が子を、食はる。更に爲(す)べき方(はう)無し。何(いか)にしてか、此の難を遁(のが)るべき。願はくは、佛(ほと)け、此れを敎しへ給へ。」

と。佛、金翅鳥に告げて宣(のたま)はく、

「汝等、『此の難を遁れむ』と思はば、世間に、人、死ににて後、七〻日(しちしちにち)に當る佛事を脩(しゆ)する所、有り。比丘、有りて、供養を受けて、呪願(じゆぐわん)して、施食(せじき)を取る。其の施食の飯(いひ)を取りて、山の角(すみ)に置くべし。然(しか)らば、其の難を、遁るべし。」

と。金翅鳥、此の事を聞きて歸りぬ。

 佛の敎への如く、其の施食の飯を求め取りて、山の角に置きつ。其の後(のち)、阿修羅王、來りて、山を動かすに、敢へて動かず。力を發(おこ)して動かすと云へども、塵許(ちりばか)りも、山、動かざれば、阿修羅王、力、及ばずして、歸りぬ。山、動かざれば、鳥の子、落ちずして、平安に養ひ立つ。

 此れを以(も)て知るに、四十九日の施(せ)は、尤(もと)も重し。然(さ)れば、人、勤むる所無くして、四十九日の佛事の所に至りて、食用(じきよう)せむ事は、有るべからざる也となむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「金翅鳥(こんじてう)」「ガルダ」「迦楼羅」(かるら)に同じ。インド神話に現れる巨大な鳥の名。鳥族の首長であり、ナーガ(龍蛇族)の敵。伝説では、ガルダは母親が龍蛇族に辱められたのを恨み、それ以来、ナーガらを捕食するようになったとされる。ビシュヌ神の乗物で、両翼を伸ばすと、三百三十六万里あり、金色で、口から火を吐き、龍蛇を取って食うとされる。仏教に取入れられ、迦楼羅と漢音写され、別に「金翅鳥」(こんじちょう)「迦楼荼」(かるだ)とも漢訳される。密教では、仏法を守護し、衆生を救うために梵天が化したものとする。仏法を守護する八部衆の一つ。

「須彌山(しゆみせん)」サンスクリット語「スメール」(「善の山」「ス」は「善」を意味する美称の接頭辞)は、古代インドの世界観の中で中心に聳え、宇宙の軸となる山のこと。その宇宙構造は当該ウィキのこちらの模式図を参照。その南にある「贍部洲」(せんぶしゅう)という島が人間の住んでいる場所(インド亜大陸)である。

「片岫(かたくき)」底本の今野氏の脚注に、『切り立った岩壁の洞窟』とある。

「十六萬由旬」「由旬」は古代インド及び仏教に於ける距離単位。一由旬は凡そ七~十四キロメートルとされる。七十七万~百二十一万キロメートル。

「阿修羅王(あしゆらわう)」インド神話で、不思議な力を備えていた神々の称。後に悪神とされて、常にインドラ神と争う悪魔・鬼神とされた。仏教では、六道の一つである修羅道(阿修羅道)の王とされ、経によって数々の王名が見られる。「法華経」では婆稚(ばち)・佉羅騫駄(きゃらけんだ)・毗摩質多羅(びましったら)・羅睺羅(らごら)の四王を挙げる。結果して仏法を守護する天龍八部衆の一つに繰り込まれた。

「比丘、有りて、供養を受けて」ここは四十九日の忌日法要の際に、それを施法して呉れた僧侶らに、施主がお礼に斎料(ときりょう)としての布施、本文で言うところの「施食の飯(いひ)」=饗応のための食膳を捧げることを指す。

「呪願(じゆぐわん)」底本の今野氏の注に、『祈りの呪文を唱えて、施主に対する仏の加護を願うこと。布施を受ける時の僧の作法の一』つ、とある。

「山の角(すみ)に置くべし」今野氏も注で述べておられる通り、これは仏教の供養の仕儀との親和性がよく感じられる。そこに、『ここに記す作法は、食事の少量を取り分けて鬼神・餓鬼・畜生・無縁』仏『などに施す散飯(生飯(さば))の習俗に酷似する。』とある。私の電子化注では無数にあるが、祭壇の図が一見忘れ難い、「小泉八雲 海のほとりにて(大谷正信訳)」をリンクさせておく。

「然(しか)らば、其の難を、遁るべし」今野氏は、ここより前の、事件の大前提である『其れに、「金翅鳥」の巢を咋(く)ひて生み置ける子共を、阿修羅、山を動かして、鳥の子を振るひ落して、取りて食らはむとす』以降の内容が経典類には『見当たらない』と注記され、逆に、幾つかの経典には、『須弥山の周海の北岸に一大樹があって竜王と金翅鳥が』棲んでいるが、『金翅鳥が大樹から竜を振るい落して餌食とする』『話が見える』とある。或いは、それをヒントに作者が龍族を阿修羅に役柄を変え、強弱者関係を逆転させて作り替えたものかも知れない。本邦の民俗誌では、巨鳥の猛悪というは、比較的イメージされにくいように思われ、それなりに私には腑に落ちる。

「施食の飯」以下、施主と法事を修した僧の敬虔な思いが籠ったそれが、「だいだらぼっち」のような巨魁阿修羅王の怪力をも、仏法の金剛力で、びくともしないという素敵な展開である。

「勤むる所無くして」この「勤むる所」に就いても、今野氏は、ここも先のように、『少量を分かって万霊に供養する所作をさす』とされる。非常に繊細な注に頭が下がる思いがした。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    金翅鳥(こんじちょう)の子の、修羅の難を免かれる事

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、「金翅鳥」と言う鳥がいた。

 その鳥は、須弥山(しゅみせん)の鋭く切り立った断崖絶壁の洞穴に巣を作って、子供を生み、そこで、育てていた。

 須弥山は、高さ、実に十六万由旬(ゆじゅん)の山である。

 水際(みずぎわ)からは、高さ八万由旬、水際から海の底に向かって、下(した)は八万由旬の山麓が連なる。

 さて、その水際から上、四万由旬の所に、この鳥は、巣を作る性質があった。

 一方、また「阿修羅王」と申す者が、いた。

 この男、身体、これ極めて巨魁なる者であった。

 その巨人に住み家(か)は、二ヶ所ある。

 一つは海の畔(ほと)りであり、今一つは大海の海の底である。

 その海の畔りというのが、須弥山の山峡(やまかい)にして、大海の岸辺なのであった。

 そう、その上の方(ほう)に、金翅鳥が巣を作って生みおいてある子供を、この阿修羅は、山をぐらぐらと動かしては、鳥の子を振るい落として、捕って食ってしまうのであった。

 その時、金翅鳥は、このことをいたく嘆き悲しんで、仏(ほとけ)の御許(みもと)に参って、仏に申し上げて頼むことには、

「海の畔りに棲む阿修羅王のために、我が子が、食われてしまうのです。最早、それを防ぐ術(すべ)は私には御座いませぬ。どのようにすれば、この災難を遁(のが)れることができましょうか? 願わくは、仏さま、それを、お教え下さい。」

と。

 仏は、金翅鳥に告げて、仰せられることには、

「汝ら、『この災難を遁れよう』と思うのであれば、世間に於いて、人の亡くなって後(のち)、七七日(しちしちにち)の四十九日目に当たる仏事を修(しゅ)する風習がある。僧が、やってきて、亡き人を供養して後、祈りの呪文を唱えて、今度は、施主に対し、仏の御加護を願い、しかして施食(せじき)を受ける作法となっておる。その施食の飯(めし)を少しばかり銜えとらせて貰い、須弥山の傍らに置いておくがよい。そうすれば、その難をたちどころに遁れることができる。」

と。

 金翅鳥(こんじちょう)は、このことを聞きとめて、帰った。

 仏の教えのごとく、その施食の飯を少しだけ銜えとって、須弥山の傍らに置いた。

 その後(のち)、阿修羅王がやってきて、いつものように、山を揺り動かしたのだが、どういうわけか、これ、微動だにせぬ。

 渾身の力を込めて動かした。

 しかると雖も、これ、塵(ちり)ほども、山は、動かない。

 阿修羅王は、力(ちから)及ばずして、帰って行ってしまった。

 山が動かなくなったので、金翅鳥の子供は、落ちることがなくなり、平安に養い育ったのである。

 さて、これを以って知ることがある。それは、四十九日の忌日法要の布施は、最も大切なものであるということである。されば、人は、その供養の際、心から亡き人の菩提を祈り、また、そこで僧の受けた供物の些少を、諸々の霊に供えることもせずして、四十九日の仏事を修(しゅ)しておる場に至ってて、むやみに食用(じきよう)せんとすることは、これ、厳に慎むべきことなのであると、かく語り伝えているということである。

 

2022/04/19

「今昔物語集」卷第二十四「百濟川成飛驒工挑語第五」

 

[やぶちゃん注:採録理由は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。ここでの底本は歴史的仮名遣の読みの確認の便から、「日本古典文学全集」第二十四巻「今昔物語集 三」第五版昭和五四(一九七九)年(初版は昭和四九(一九七四)年)刊。校注・訳/馬淵和夫・国東文麿・今野達)を参考に切り替える。但し、恣意的に漢字を概ね正字化し、漢文脈は訓読し、読み易く、読みの一部を送り仮名で出し、読みは甚だ読みが振れるか、或いは判読の困難なものにのみとした。参考底本の一部の記号については、追加・変更も行い、改行も増やした。実は、私は、てっきり、本篇は電子化注したと思い込んでいたが、どうも私の勘違いで、本篇後半の飛驒の工人との技比べを、オリジナルに授業教材に仕上げて、授業を行ったことが十数年ほど前にあったのを、錯覚していたようだ。]

 

   百濟川成(くだらのかはなり)、飛驒工(ひだのたくみ)に挑(いど)む語(こと)第五

 

 今は昔、「百濟の川成」と云ふ繪師、有りけり。世に並び無き者にて有りける。「瀧殿(たきどの)」の石も、此の川成が立てたる也けり。同じき「御堂」の壁の繪も、此の川成が書きたる也。

 而る間、川成、從者(じゆしや)の童(わらは)を逃(に)がしけり。東西を求めけるに、求め得ざりければ、或る高家(かうけ)の下部(しもべ)を雇ひて、語らひて云はく、

「己(おのれ)が年來(としごろ)仕(つか)ひつる從者の童、既に逃げたり。此れ、尋ねて捕へて得させよ。」

と。下部の云はく、

「安き事には有れども、童の顏を知りたらばこそ、搦(から)め、顏を知らずしては、何(いか)でか、搦めむ。」

と。川成、

「現(げ)に、然(さ)る事也(なり)。」

と云ひて、疊紙(たたうがみ)を取り出でて、童の顏の限(かぎり)を書きて、下部に渡して、

「此れに似たらむ童を捕らふべき也。東西の市(いち)は、人、集まる所也。其の邊(ほとり)に行きて伺ふべき也。」

と云へば、下部、其の顏の形(かた)を取りて、卽ち、市に行きぬ。人、極めて多かりと云へども、此れに似たる童、無し。暫く居(ゐ)て、

「若(もし)や。」

と思ふ程に、此れに似たる童、出で來りぬ。其の形(かた)を取り出して競(くら)ぶるに、露(つゆ)違(たが)ひたる所、無し。

「此れ也けり。」

と搦めて、川成が許に將(ゐ)て行きぬ。川成、此れを得て見るに、其の童なれば、極(いみ)じく喜びけり。其の比(ころほひ)、此れを聞く人、極じき事になむ云ひける。

 而るに、其の比(ころ)、「飛驒の工(たくみ)」と云ふ工(たくみ)、有りけり。都遷(みやこうつり)の時の工也。世に並び無き者也。武樂院は其の工の起てたれば、微妙(みめう)なるべし。

 而る間、此の工、彼の川成となむ、各(おのおの)の態(わざ)を挑みにける。飛驒の工、川成に云はく、

「我が家(いへ)に一間四面の堂をなむ、起(た)てたる。御(おは)して見給へ。亦、『壁に繪など書きて得させ給へ。』となむ、思ふ。」

と。

「互ひに挑み乍ら、中吉(なかよ)くてなむ、戲れければ、此(か)く云ふ事也。」

とて、川成、飛驒の工が家に行きぬ。

 見れば、實(まこと)に可咲氣(をかしげ)なる、小さき堂、有り。四面に、戶、皆、開きたり。飛驒の工、

「彼の堂に入(い)りて、其の内、見給へ。」

と云へば、川成、延(えん)に上(あが)りて、南の戶より、入らむと爲(す)るに、其の戶、

「はた」

と、閉(と)づ。驚きて、𢌞(めぐ)りて西の戶より、入る。亦、其の戶、

「はた」

と閉ぢぬ。亦、南の戶は開きぬ。然(しか)れば北の戶より入るには、其の戶は閉ぢて、西の戶は、開きぬ。亦、東の戶より、入るに、其の戶は閉ぢて、北の戶は開きぬ。此(かく)の如く廻々(めぐるめぐ)る、數度(あまたたび)、入らむと爲るに、閉ぢ開きつ、入る事を得ず。侘びて延(えん)より下(お)りぬ。其の時に、飛驒の工、咲(わら)ふ事、限り無し。川成、

『妬(ねた)し。』

と思ひて返りぬ。

 其の後(のち)、日來(ひごろ)を經て、川成、飛驒の工が許に云ひ遣(や)る樣(やう)、

「我が家(いへ)に御座(おほしま)せ。見せ奉るべき物なむ、有る。」

と。飛驒の工、

『定めて、我を謀(たばか)らむずるなめり。』

と思ひて行かぬを、度々(どど)、懃(ねんごろ)に呼べば、工、川成が家に行き、

「此(か)く來れる。」

由を云ひ入れたるに、

「入り給へ。」

と云はしむ。云ふに隨ひて、廊(らう)の有る遣戶(やりど)を引き開けたれば、門(かど)に大きなる人の、黑み、脹(ふく)れ臭(くさ)れたる、臥(ふ)せり。臭き事、鼻に入る樣(やう)也。思ひ懸けざるに、此(かか)る物を見たれば、音(こゑ)を放ちて、愕(おび)えて去(の)き返る。川成、内(うち)に居(ゐ)て、此の音(こゑ)を聞きて、咲(わら)ふ事、限り無し。飛驒の工、

『恐し。』

と思ひて、土(つち)に立てるに、川成、其の遣戶より、顏を差し出でて、

「耶(や)、己(おの)れ、此(か)く有りけるは。只、來れ。」

と云ひければ、恐々(おづお)づ寄りて見れば、障紙(しやうじ)の有るに、早(はや)う、其の死人の形(かた)を書きたる也けり。堂に謀られたるが、妬(ねた)きに依りて、此(か)くしたる也けり。

 二人の者の態(わざ)、此(か)くなむ有りける。其の比(ころほひ)の物語には、萬人所(よろづのひとのところ)に此れを語りてなむ、皆人、譽めける、となむ語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「百濟川成(くだらのかはなり)」(延暦元(七八二)年~仁寿三(八五三)年)は平安前期の画家。先祖は百済の出身で、本姓は余(あぐり)。承和七(八四〇)年に百済朝臣を賜る。武勇(特に強弓に才があった)に長じ、大同三(八〇八)年には、左兵衛府の舎人として出仕したが、絵画の才を発揮し、描くところの人物や山水草木は「自生の如し」(あたかも生きているようだ)と称賛された。本篇の第一エピソードは「文徳実録」にも載り、第二エピソード孰れもその卓抜な技量を物語っている。但し、実際の作品は現存していない。天長一〇(八三三)年、外従五位下。承和年中(八三四年~八四八年)備中介・播磨介を歴任している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「飛驒工(ひだのたくみ)」不詳。ここは一般名詞ではなく、そのように呼びなされた特定個人を指している。底本の注によれば、古くより、『飛驒の国にはすぐれた工匠が多く』、律令『時代、庸調を免除された代りに各里十人ずつ工匠を調進し、「飛驒ノ工」と称された』とある。

「瀧殿(たきどの)の石」参考底本頭注に、『泉石を配した寝殿造りの庭園の、滝のほとりに建てた殿舎』。『この滝殿について、諸注』は、『大覚寺の滝殿とするのが、確証はない』とする。但し、作者がかく書いた以上は、それは確かな当時の固有名詞として、特定の場所にあったそれを指していると考えねばならず、だからこそ直後に「同じき御堂」=滝殿「の壁の繪も、此の川成が書きたる也」と言ってるわけである。

「從者(じゆしや)の童(わらは)を逃(に)がしけり」普段から従者(じゅうしゃ)として使っていた少年が彼のもとから逃亡したのである。何故逃げたのか、弟子にするには、やや若過ぎるのであろうが、気になる。しかも、その童子を執拗に探しているのも、何か訳有りという感じがする。一つ思うのは、或いは、川成は、後の若衆道、少年愛者だったのかも知れない。それが童子には辛かったのではなかったか。

「東西」ここは「あちこち」の意。

「高家(かうけ)」摂関家・大臣家などの代々の権門家の総称。

「下部(しもべ)」下人。

「疊紙(たたうがみ)」「たたみがみ」の音変化。「折り畳んで懐中に入れ、鼻紙や詩歌の詠草などに用いる懐紙(かいし)」、或いは「厚い和紙に渋又は漆を塗って折り目をつけた紙で、結髪や着物を包むのに使用する紙」を言うが、ここは前者であろう。

「童の顏の限(かぎり)」顔の部分だけを描いたことを指す。

「東西の市(いち)」ここは京の都の東西の市を指す。

「其の顏の形(かた)を取りて」ここは、先の川成の描いた似顔絵を受け取って、の意。

「都遷(みやこうつり)」平安遷都のこと、延暦一二(七九三)年から建設が開始され、翌年に遷った。

「武樂院」正しくは「豐樂院」。平安京大内裏の朝堂院の西にあり、大嘗会・節会・射礼(じゃらい:正月十七日に、この豊楽院又は建礼門門前で、天皇臨席の下、親王以下五位以上及び六衛府の官人が参加して射技を披露したもの。終了後には宴が開かれ、禄を賜った)・競(くら)べ馬・相撲などが行われた祭場の正殿。

「一間四面」約一・八二メートル四方。

「壁に繪など書きて得させ給へ」無論、川成に願ったの意で、策略として誘いを促したのである。

「中吉(なかよ)く」「仲良く」。

「延(えん)」「緣」の俗字。

「云ひ入れたる」川成の下人を介して言ったことを指す。

「土(つち)に立てるに」恐らくは裸足で飛び出して、地面に突っ立っていたのである。

「耶(や)」感動詞のそれ。

「己(おの)れ」底本頭注に、本書では『自称、他称いずれにも用いており、いずれにとるかによって解釈は異なってくる。自称とみれば、わしはここにこうしているぞの意。他称とみれば、お前はそんなところにいたなの意』とあるが、私は余裕を持った、とぼけたおもむろな誘い(だから「來れ」と続く)の意であり、前者で採る。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の頭注や現代語訳を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

   百済川成(くだらのかわなり)、飛驒の工人(たくみ)に挑(いど)んだ事第五

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、「百済の川成」という絵師があった。

 世に並びない名匠であった。かの「瀧殿(たきどの)」の石も、この川成が立てたものである。また、同じくその「御堂(みどう)」の壁の絵も、この川成が描いたものである。

 さて、ある時、川成は、自身の従者であった童子に逃げられてしまった。

 あちこち、探し求めたのであるが、どうしても見つからない。そこで、とある高家(こうけ)の下人を雇って、頼んで言ったことには、

「拙者の家にて、永年、使って御座った従者の童子が、知らぬうちに、逃げてしもうた。どうか、一つ、この者を探して、捕まえて我らにお渡しあれ。」

と。

 かの下人が答えるには、

「それは簡単なことにては御座れど、その童子の顔を知っておればこそ、搦(から)めとるは容易なことなれど、顔を知らねば、これ、どうして搦めとることが出来ようか、とてものことに無理というものじゃて。」

と。

 川成は応じて、

「なるほど。それは尤もなことじゃな。」

と言うや、畳紙(たとうがみ)を取り出すと、童子の顔だけをそこに描いて、下人に渡して、

「これに似たような童子を捕らえてくれんかの。京の東西の市(いち)は、人がぎょうさん集まる所なればの。そのあたりに行って、探してみておくんない。」

と言ったので、下人は、その顔の似顔絵を受け取って、即座に市に参った。

 人はたいそう多かったが、この絵に似た童子は、おらなんだ。

 それでも、暫くの間、そこで見まわしておるうち、

「もしや!」

と思うほど、その似顔絵に似た童子が、出て参った。

 その顔形を、描かれた絵を懐から、再度」取り出して比べてみたところが、これ、少しも違ったところが、これ、ない。

「これだわ!」

と直ちに搦め捕って、川成のもと引き連れて行った。

 川成がその少年を見てみたところ、まさしくかの童子であったので、たいそう喜んだ。

 その頃、この話を聴いた人は、

「そらで描いた絵だけで見つかるとは! これ、たいしたもんじゃ!」

と言い合ったものであったと。

 さても。別の折りの話である。

 その頃、「飛驒の工(たくみ)」と称された工人(たくみ)がおった。

 かの平安遷都の折りの工人であり、まさに世に並びなき名人である。

 かの内裏の中の「武楽院」は、その工人の建てたものであればこそ、かくも見事なものであると賞賛されたことでも、その力量の凄さは判ろうというものもじゃ。

 さても、この工人(たくみ)、かの川成と、それぞれ、その匠みの技(わざ)を競い合っておった。

 ある日のこと、飛驒の工人が、川成に向かって言うことに、

「我が家(いえ)に、これ、一間四方の堂を、建て申した。お出かけになられて、是非ともご覧あれかし。それにまた、貴殿に『壁に絵なんど描いて下さりたく。』なんどとも、思うて御座る。」

と。

 川成は、

「互いに挑(いど)みながらも、仲良くしており、冗談も言い合うような間柄だからな、そんな風に、好意で誘って呉れたものであろうから。」

と、川成は、素直に飛驒の工人の家を訪れたのであった。

 見れば、これ、まことに趣向を凝らした、新造の小さな堂が建っている。

 四面に戸があり、それが、みな、開いておった。

 飛驒の工人は、

「さあ! かの堂に入って、存分にその内部を、ご覧あれ!」

と言うたので、川成は縁に上(あが)って、南の戶口から入ろうとした。

 ところが、その戸が、

「はた」

と、閉じてしまった。

 内心、驚いたが、それは表に出さず、ぐるりと廻って、今度は、西の戸から入ろうとした。

 ところが、またしても、その戸が、

「はた」

と閉じてしまった。

 慌てて見たところが、南の戸は開いていた。

 そこで川成は、慌てて、北の戸から入ろうとしたが、またしても、そのとは閉じてしまい、またまた、西の戸が、これ、開いておる。

 また、東の戸から、入らんとするに、その戶は、またまた、閉じて、今度は、北の戸が開いておるではない。

 かくのごとく同道巡りすること、これ、数多度(あまたたび)――入らんとするに、閉じ――別の戸が開きく――という繰り返しで、遂に堂の内に入いる事が出来なかった。

 川成は、仕方なく、縁(えん)から下(お)りざるを得なかった。

 その時である。

 飛驒の工人(たくみ)は、思いっきり、大きな声で、笑ったのである。

 川成は、内心、

『悔しいことじゃ!』

と思いつつ、帰って行った。

 さて、その後(のち)のことじゃ。

 かの出来事から数日をへて、今度は、川成が、飛驒の工人のもとに使いの者をやって、

「ご主人が、『我が家におわしませ。お見せしたい面白い物が、これ、御座います。』とのことにて御座います。」

と伝えた。

 飛驒の工人は、

『きっと、先般の報復のために我れにひとあわふかしたろうという算段であろうに。』

と思って行かなかったのであるが、再三、慇懃に来訪を促してきたので、工人(たくみ)は、仕方なく川成の家に行き、

「かく参ったぞ。」

と下人を通じて挨拶したところ、

「お入り下され。」

と下人に言わせた。

 それに随って、廊下の先にある、遣戸(やりど)を引き開けたところが、その入り口に、――大きな人間で

――黒ずんで

――腹が腐敗し

――脹ふく)れて腐ったそれが

――横たわっているではないか!

――その臭さと言ったら!

――これ! もう! 一度(ひとたび)吸ったなら、鼻が曲がるほどのものであったのだ!

 思いがけな場所で、かかる物を見たからに、飛驒の工人は、

「ぎょえッツ!」

と、悲鳴を放って、驚き慌てて、外に逃げ飛び、退(しりぞ)いた。

 すると、川成は家内に居(お)って、この声を聴くや、たいそうな大声で笑い続けた。

 しかし飛驒の工人は、ただただ、

『恐しや!』

と思う一心で、地面に裸足で、ぶるぶると震えて凍りついたように屹立している。

 川成は、やおら、まさに、その遣戸をゆっくりと開けると、顔を差し出して、

「やあ! どうなされた? 拙者はここにおりますぞ? どうぞ!どうぞ! お入りあれ!」

と余裕で応じたので、工人はおそるおそる近寄って見たところが、なんと! まあ! その遣戸の前に立てた衝立(ついたて)に、死体の絵が描かれていただけなのであった。

 工人に堂で騙されたことを悔しく思うておったが故に、かく返報したのであった。

 二人の者の技は、これほどに神がかっておったのである。

 その当時は、これ、何処(いずこ)に参っても、この話で持ちっきりというありさまで、皆人(みなひと)、この二人をともに誉め讃えたと、かく語り伝えているということである。

「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)

 

[やぶちゃん注:採録理由は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。ここでの底本は歴史的仮名遣の読みの確認の便から、「日本古典文学全集」第二十四巻「今昔物語集 三」第五版昭和五四(一九七九)年(初版は昭和四九(一九七四)年)刊。校注・訳/馬淵和夫・国東文麿・今野達)を参考に切り替える。但し、恣意的に漢字を概ね正字化し、漢文脈は訓読し、読み易く、読みの一部を送り仮名で出し、読みは甚だ読みが振れるか、或いは判読の困難なものにのみとした。参考底本の一部の記号については、追加・変更も行い、改行も増やした。]

 

  染殿(そめどの)の后(きさき)、天宮(てんぐ)の爲に嬈亂(ねうらん)せらるる語(こと)第七

 

 今は昔、染殿の后と申すは、文德天皇の御母(おほむはは)也。良房の太政(だいじやう)大臣と申しける關白の御娘(おほむむすめ)也。形ち、美麗なる事、殊に微妙(めでた)かりけり。而(しか)るに、此の后、常に物の氣(け)に煩ひ給ければ、樣々の御祈り共(ども)有りけり。其の中に、世に驗し有る僧をば召し集めて、驗者(げんじや)の修法(しゆほふ)有れども、露(つゆ)の驗し、無し。

 而る間、大和の葛木(かつらき)の山の頂きに、金剛山(こんがうせむ)と云ふ所有り。其の山に、一人(ひとり)の貴(たふと)き聖人(しやうにん)住(ぢう)しけり。年來(としごろ)、此の所に行(おこな)ひて、鉢を飛ばして、食(じき)を繼ぎ、甁(かめ)を遣りて、水を汲む。此くの如く行ひ居(ゐ)たる程に、驗し、並び無し。然(しか)れば、其の聞え、高く成りにければ、天皇幷びに父の大臣(おとど)、此の由を聞食(きこしめ)して、

「彼れを召して、此の御病(おほむやまひ)を祈らしめむ。」

と思(おぼ)し食(め)して、召すべき由、仰下されぬ。使ひ、聖人の許に行き、此の由を仰(おほ)するに、聖人、度々(どど)辭(いな)び申すと云へども、宣旨、背(そむ)き難きに依りて、遂に參りぬ。御前(おほむまへ)に召して、加持を參ら□するに、其の驗し新たにして、后の一人(ひとり)の侍女、忽ちに狂ひて、哭(な)き嘲(あざけ)る。侍女、神(かみ)、託(つ)きて、走り叫ぶ。聖人、彌(いよい)よ此れを加持(かぢ)するに、女、縛られて、打ち責めらるる間、女(をむな)の懷(ふところ)の中(なか)より、一つの老狐、出でて、轉(まろび)て、倒れ臥して、走り行く事能(あた)ふからず。其の時に、聖(ひじり)、人を以つて狐を繫がしめて、此れを敎ふ。父の大臣、此れを見て、喜び給ふ事、限り無し。后の病ひ、一兩日の間に止み給ひぬ。

 大臣、此れを喜び給ひて、

「聖人、暫く候ふべき。」

由を仰せ給へば、仰せに隨ひて、暫く候ふ間、夏の事にて、后、御單衣(おほむひとへぎぬ)許りを着給ひて御(おは)しけるに、風、御几帳(みきちやう)の帷(かたびら)を吹き返へしたる迫(はさま)より、聖人、髴(ほのか)に后を見奉けり。見も習はぬ心地に、此の端正美麗の姿を見て、聖人、忽ちに、心、迷(まど)ひ、肝(きも)、碎けて、深く、后に、愛欲の心を發(おこ)しつ。

 然(しか)れども、爲(す)べき方無き事なれば、思ひ煩ひて有るに、胸に火を燒くが如くにして、片時(かたとき)も思ひ過ぐべくも思(おぼ)えざりければ、遂に、心、澆(あは)で、狂ひて、人間(ひとま)を量りて、御帳(みちやう)の内に入りて、后の臥せ給へる御腰(おほむこし)に抱(いだ)き付きぬ。后、驚き迷(まど)ひて、汗水に成りて、恐(お)ぢ給ふと云へども、后の力に、辭(いな)び得難し。然(しか)れば、聖人、力を盡して掕(れう)じ奉るに、女房達、此れを見て、騷ぎ喤(ののし)る時に、侍醫當麻(たいま)の鴨繼(かもつぐ)と云ふ者、有り、宣旨を奉(うけたまは)りて、后の御病(おほむやまひ)を療(れう)せむが爲めに、宮(みや)の内に候(さぶら)ひけるが、殿上の方(かた)に、俄かに、騷ぎ喤る音(こゑ)しければ、鴨繼、驚きて、走り入りたるに、御帳(みちやう)の内より、此の聖人、出でたり。鴨繼、聖人を捕へて、天皇に此の由を奏す。天皇、大きに怒り給ひて、聖人を搦(から)めて、獄(ひとや)に禁(いまし)められぬ。

 聖人、獄に禁められたりと云へども、更に云ふ事無くして、天に仰(あふ)ぎて、泣々く誓ひて云はく、

「我れ、忽ちに死にて、鬼と成りて、此の后の世に在(まし)まさむ時に、本意(ほんい)の如く、后に睦びむ。」

と。獄(ひとや)の司(つかさ)の者、此れを聞きて、父の大臣(おとど)に此の事を申す。大臣、此れを聞き驚き給ひて、天皇に奏して、聖人を免(ゆる)して、本(もと)の山に返し給ひつ。

 然(しか)れば、聖人、本の山に返りて、此の思ひに堪へずして、后に馴れ近付き奉るべき事を强(あながち)に願ひて、憑(たの)む所の三寶(さむぼう)に祈請(きしやう)すと云へども、現世(げんぜ)に其の事や難(かた)かりけむ、

「本の願(ねがひ)の如く、鬼と成らむ。」

と思ひ入りて、物も食はざりければ、十餘日(じふよにち)を經て、餓ゑ死(し)にけり。

其(そ)の後(のち)、忽ちに鬼と成りぬ。其の形、身、裸にして、頭(かしら)は禿(かぶろ)也。長(た)け八尺許りにして、肌の黑き事、漆を塗れるが如し。目は鋺(かなまり)を入れたるが如くして、口、廣く開きて、劔の如くなる、齒、生ひたり。上下(うへした)に牙を食(く)ひ出だしたり。赤き裕衣(たふさぎ)を搔きて、槌(つち)を腰に差したり。此の鬼、俄かに后の御(おは)します御几帳の喬(そば)に立ちたり。人、現(あら)はに此れを見て、皆、魂(たましひ)を失ひ、心を迷はして、倒れ、迷ひて逃げぬ。女房などは、此れを見て、或は絕え入り、或は衣を被(かつ)ぎて臥しぬ。疎(うと)き人は、參り入(い)らぬ所なれば、見えず。

 而る間、此の鬼の魂、后を怳(ほ)らし、狂はし奉りければ、后、糸(いと)吉(よ)く取り疏(つくろ)ひ給ひて、打ち咲(ゑ)みて、扇(あふぎ)を差し隱して、御帳(みちやう)の内に入り給ひて、鬼と二人、臥させ給ひにけり。女房などの聞きければ、只、日來(ひごろ)戀しく侘(わび)しかりつる事共をぞ、鬼、申ける。后も咲み嘲(あざけ)らせ給ひける。女房など、皆、逃げ去りにけり。良(やや)久しく有りて、日(ひ)暮(く)るる程に、鬼、御帳より出て去りにければ、

『后、何(いか)に成らせ給ひぬらむ。』

と思ひて、女房達、怱(いそ)ぎ參りたれど、例(れい)に違ふ事なくして、然(さ)る事や有りつらむと、思し食したる氣色も無くてぞ、居させ給たりける。少し、御眼見(おほむまみ)ぞ、怖ろし氣(げ)なる氣(け)付かせ給ひにける。

 此の由を内に奏してければ、天皇、聞こし食して、奇異(あさま)しく怖しきよりも、

「何(いか)に成らせ給ひなむずらむ。」

と歎かせ給ふ事、限り無し。其の後(のち)、此の鬼、日每に同じ樣にて參るに、后、亦、心・肝(きも)も失せ給はずして、移し心も無く、只、此の鬼を媚(うつく)しき者に思し食したりけり。然(しか)れば、宮の内の人、皆、此れを見て、哀れに悲しく、歎き思ふ事、限り無し。

 而る間、此の鬼、人に託(つ)きて云はく、

「我れ、必ず、彼(か)の鴨繼が怨(あた)を報ゆべし。」

と。鴨繼、此れを聞きて、心に恐(お)ぢ怖るる間、其の後(のち)、幾(いくば)く程を經ずして、鴨繼、俄かに死にけり。亦、鴨繼が男(をとこ)、三、四人、有けり、皆、狂病(わうびやう)有りて、死にけり。然(しか)れば、天皇幷(ならび)に父の大臣(おとど)、此れを見て、極めて恐ぢ怖れ給ひて、諸(もろもろ)の止事無(やんごとな)き僧共を以つて、此の鬼を降伏(がうぶく)せむ事を懃(ねむご)ろに祈らせ給ひけるに、樣々の御祈共(おほむいのりごとども)有りける驗(しるし)には、此の鬼、三月(みつき)許り、參らざりければ、后の御心(みこころ)も少し直りて、本の如く成り給ひければ、天皇、聞こし食して、喜ばせ給ける程に、天皇、

「今一度(いまひとたび)、見奉らむ。」

とて、后(きさい)の宮(みや)に行幸(ぎやうがう)有りけり。例より殊に哀れなる御哀れ也。百官、闕(か)けず、皆、仕(つかまつ)りたりけり。

 天皇、既に宮に入られ給ひて、后を見奉らせ給ひて、泣々(なくな)く、哀れなる事共申させ給へば、后も哀れに思し食したり。形ち、本の如くにて御(おは)す。而る程の間、例の鬼、俄かに角(すみ)より踊り出でて、御帳の内に入りにけり。天皇、此れを、

『奇異(あさま)し。』

と御覽ずる程に、后、例の有樣にて、御帳の内に忩(いそ)ぎ入り給ひぬ。暫(しばし)許り有りて、鬼、南面(みなみおもて)に踊り出でぬ。大臣・公卿より始めて、百官、皆、現(あらは)に此の鬼を見て、恐れ迷(まど)ひて、

『奇異し。』

と思ふ程に、后、又、取り次(つづ)きて、出でさせ給ひて、諸(もろもろ)の人の見る前に、鬼と臥(ふ)させ給ひて、艷(えもいは)ず、見苦しき事をぞ、憚る所も無く爲(せさ)せ給ひて、鬼、起きにければ、后も起きて、入らせ給ひぬ。天皇、爲(す)べき方(かた)無く、思し食し、歎きて、返らせ給ひにけり。

 然(しか)れば、止事無(やむごと)なからむ女人(によにん)は、此の事を聞きて、專(もはら)に然(し)かの如し有らむ法師の、近づ付くべからず。此の事、極めて便無(びんな)く、憚り有る事也と云へども、末の世の人に見(み)しめて、法師に近付かむ事を强(あながち)に誡(いまし)めむが爲に、此(か)くなむ語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:この藤原明子(あきらけいこ/めいし)は、少なくとも、この様子を現実に即したものをモデルとしてみるならば、彼女は後宮内での陰に陽にあったであろう嫉妬や虐めに遭い、重度の精神疾患を患い、特にそれが甚だしいニンフォマニア(nymphomania)の症状として出現したものと私は思う。後半の鬼となった聖人が衆人の中でコイツスをするというのは、恐らくは性交する相手の男がいるかのように振る舞う媚態や、体位や、動作や、表情に至るまでが余りにもリアルであったために、こうした宮中内の赤裸々な際どい怪異譚として形成されたものと私は考える。以下に示す彼女のウィキでは『双極性障害』(躁鬱病)とするが、その躁状態の一型として、ヒステリー様の色情症傾向を示したものと言ってもよい。本篇の一見平常に見える状態から、ニンフォマニア的行動を見せるところは、確かに双極性障害を疑える感じがあるようには見えはする。

「染殿(そめどの)の后(きさき)」藤原明子(天長六(八二九)年~ 昌泰三(九〇〇)年)は文徳天皇(もんとく 天長四(八二七)年~天安二(八五八)年/在位:嘉祥三(八五〇)年~没年)の女御で、清和天皇の母。当該ウィキに手を入れて示すと、父は太政大臣藤原良房(延暦二三(八〇四)年~貞観一四(八七二)年)、母は嵯峨天皇皇女。夫の死後、皇太夫人、さらに皇太后となった。染殿(藤原良房の邸宅。平安京の正親町(おおぎまち)小路の北、京極大路の西にあった)が里邸だったため、「染殿后(そめどののきさき)」と呼ばれた。文徳天皇が皇太子時代に入内して東宮御息所となった。文徳帝即位直後に第四皇子惟仁親王(清和天皇)を産んだ。この時、惟仁親王にはすでに三人の異母兄がおり、天皇は更衣紀静子(きのしづこ)所生の第一皇子惟喬親王を鍾愛して、これに期待していたが、結局、良房の圧力に屈し、惟仁親王が生後八ヶ月で立太子した。父の良房が、

    そめどののきさきのおまへに、

    花がめに櫻の花をささせ給へる

    を見てよめる

 年經れば齢は老いぬしかはあれど

     花をし見れば物思ひもなし

と明子を桜花と見做して詠じた話が「古今和歌集」(五二番)で伝わっており、大変な美貌の持ち主だったという。貞観七(八六五)年頃から、物の怪に悩まされるようになったという記述が「今昔物語集」(本篇)・「古事談」(巻第三(三―一六、二一一)。所持する岩波新古典文学大系の同書で確認したところ、ここの冒頭に「貞観七年の比(ころ)。染殿皇后、天狐の爲めに惱まされ」と年号が明記されている。この年は既に夫文徳帝の薨去から七年後であり、本文に出る帝(実は本篇では彼女を「文德天皇の御母」と誤っている。私はこれは宮中を憚る意識的な誤りのように思われる)はこの年ならば、彼女の実子で次代の清和天皇ということになる。事実、底本頭注によれば、本篇と同じ内容を伝える「真言伝・略記所引善家秘記佚文」では、最後のシークエンスで彼女を訪ねるのは清和天皇である・「平家物語」(延慶本)・「宇治拾遺物語」(第百二十三話)などに散見され、『これらの記述にある言動により』、『一種の双極性障害に罹患していたとみる説もある』。『明子の存在は結果的には藤原氏に摂関政治をもたらす一つの歴史的要因となったが』、『本人は病』い『のせいもあってか』、『引きこもりがちで』、『自ら表に出ることはなかった』とある。六『代の天皇の治世を見届けたのち』、七十二『歳で崩御した』。こうしてみると、複数の書物に赤裸々に描かれて後世に刺激的なエロティクな存在として伝えられてしまった彼女が、かなり可哀そうに思われてくる。

「天宮(てんぐ)」「天狗」に同じ。但し、「今昔物語集」卷第十「第聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四」で既に述べたが、この平安末期には我々のイメージするような鼻の長い天狗像は未だ形成されていない。あれは全くの本邦に於けるオリジナルのフォルムであり、恐らくは中世以降に形成されたものと私は考えている。但し、奈良・平安頃から、密教や山岳信仰の中で、自身の知恵や修法・法術などに奢り高ぶった高僧・修験者・山伏などが、死後にその罪業によって、六道とはことなる、日本独自の魔界の一種として「天狗道」が想定され、解釈された。多分、この頃の「天狗」の実体は所謂、人に近い感じの「鬼」であったように想像される。但し、上記のリンク先の話柄で見るように、「天狗」が中国の妖怪として勝手に想定され、他本で「天狐」と別称されている点は、中国から渡り来ったという認識は既にあったものと思われる。「狐」の怪異は中国が本家本元であるからである。但し、そのチャンピオンであるまさに大陸から飛来したとする「玉藻前」の伝説の成立は、現在、室町時代前期以前と考えられていることは一言言っておかねばなるまい。

「嬈亂(ねうらん)」「あれこれと悩んで乱れること」或いは「何かが纏わりついて心を乱すこと」で、ここは後者。

「大和の葛木(かつらき)の山の頂きに、金剛山(こんがうせむ)と云ふ所有り」金峯山(きんぷせん)。七世紀に活躍した伝説的な山林修行者役小角(えんのおずぬ)が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする金峯山寺が建つ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一人の貴(たふと)き聖人(しやうにん)」先に示した「古事談」では、天狐を名僧で円仁の弟子である相応和尚が調伏して染殿が平癒するという、本話のようには奇体度がかなり下がる話になっている(この僧が鬼となる話柄ではないので注意されたい)。

「御單衣(おほむひとへぎぬ)」この場合は下着の単衣(ひとえ)で、裏地のつかない、恐らくは紗(しゃ)のすけすけの薄いものであり、夏の暑い盛りに常用した。それだけを着た場合は、乳房などは透けてよく見えるのである。なんなら、「源氏物語」の初めの方にある空蟬(うつせみ)と軒端荻(のきばのおぎ)が碁を打つのを、光の君が覗き見するシークエンス(サイト「源氏物語の世界」のここ)をお読みになれば判る。そこでは、夏の夜で、光が覗いていようなどとは、微塵も思わない二人は、まさにこの透け透けルックで、空蟬の義理の娘軒端荻(夫伊予介の先妻の子であるが、空蝉とは殆んど年は変わらない)に至っては、だらしなく前を開けてしまい、ボイン丸出なのである。

「澆(あは)で」「あはづ」の原義は、「水で薄めるように薄くなる・淡くなる」或いは「浅薄になる・衰える」で、ここは後者で僧としての本来の戒律ばかりか、自制心・道徳がすっかりなくなってしまうことを指す。

「人間(ひとま)を量りて」人気(ひとけ)のないのを見計らって。

「掕(れう)じ」凌辱し。

「當麻(たいま)の鴨繼(かもつぐ)」(?~貞観一五(八七三)年)は官吏で医師。侍医に任じられ、越後介・筑前介・典薬頭(てんやくのかみ)を兼任した。仁明・文徳・清和天皇の三代に亙って仕えた。天安二(八五八)年、清和天皇の践祚後、間もなく主殿頭(とのものかみ)に遷り、貞観二(八六〇)年には従五位上に昇叙されたが、ほどなく侍医を辞したと見られる。最終官位は従四位下行主殿頭兼伊予権守。「古事談」の染殿の異悩のクレジットからは、彼の死は八年後ということにはなる。本聖人が鬼となったという話を聴いて、恐懼して死んだということになっているのだが、これ、如何にも遅いという気はするわな。

「殿上」清涼殿の「殿上の間」。以下に宣旨があったとしても、男である鴨継は「黒戸の間から北の後宮には入れないので、想像するに、染殿は物の怪に憑かれて以降は療養のために、清涼殿の東に接続する後涼殿(こうろうでん)の一部屋にでも移っていたのではないかと思われる。後涼殿が天皇の意向でそうした自由な使われ方(時に寵愛する妃を保護するためなど)をしたことは「源氏物語」や他の歴史物語などでもよく目にするからである。

「禿(かぶろ)」童子のようなおかっぱ頭。如何にも定番の鬼っぽい。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「鋺(かなまり)」金属製のお椀。

「裕衣(たふさぎ)」褌(ふんどし)。男のそれは古代からあった。「犢鼻褌」とも表記するが、これは装着した際、特に男子の場合はそれが「牛の子の鼻」に似ていることによる当て字である。

「怳(ほ)らし」正気を失わせ。

「移し心も無く」「移し心」は「現(うつ)し心」で、「正気を失って」。

「媚(うつく)しき者」愛すべき者。

「託(つ)きて」「憑きて」に同じ。

「狂病(わうびやう)」気が狂う病い。

「角(すみ)」恐らくは鬼門の東北の隅からであろう。「今昔物語集」では、既に鬼の出現や逃走の方角として定番化していた節がある。

「南面(みなみおもて)」あろうことか、鬼は白日の下(もと)、その宮殿の南面(私の仮定では後涼殿であるが、生憎、後涼殿の南方は建物二棟あり、凡そ百官どころか、おぞましく大きい悪鬼一人が立つほどの空間しかないようだ。個人的には紫宸殿(これは都合がいいことに「南殿(なでん)」とも別称する)の南が相応しい。内裏内最大の広庭だからであり、この紫宸殿は天皇の即位礼など行われる内裏中央南の重要な御殿であるが、普段は人気なく、怪異が出来(しゅったい)する心霊スポットとして平安時代は知られていた場所であり、その北の仁寿(じゆうでん)とともに怪奇現象がよく起こり、鬼が人を驚かすともされたのであってみれば、これほどロケーションとしてピッタリな場所は実は他にないとも言えるのである。因みに、清涼殿の南西端に「鬼の間」というのがあるが、これは裏鬼門に当たる位置に配された呪的結界に過ぎない)以下の諸人の前に姿を現わすのである。かなり他では見られないシーンで、しかも以下、その公卿・百官の面前で、鬼は何んと、染殿と――まぐわう――のである。但し、これは本話を染殿が文徳帝の妃であった時代という本篇の設定で私が勝手に解釈したものであって、そのそもが、本文に「后(きさい)の宮(みや)に行幸(ぎやうがう)有りけり」という表現は内裏内には決して使われないから、私の妄想映像に過ぎぬのである。実際には、底本に頭注によれば、「真言伝・略記所引善家秘記佚文」では、元慶二(八七八)年九月二十五日行われた『染殿后五十の賀(三代実録)の当日、清和天皇が参賀のため行幸した際の事件とする』とあるから、この舞台は、染殿の実家である父藤原良房の邸宅染殿であるというのが、正しい。されば、南面も寝殿造の寝殿の前の広庭ということになる。

「然(し)かの如し有らむ法師」このような感じの僧侶。才知があって修法に優れている坊主は、逆に「危険がアブないよ」と言っているのだが、どうもまどろっこしい感じがするのは、本書の教訓擱筆という縛りのせいもあるが、私には、コーダが猥褻極まりないこの話を、無理矢理、ここで断ち切ろうとした作者の強い憚りが逆に感じられる。それだけ、作者も、ちょっと、やんごとなき実在の人物を、えげつなく書き過ぎたと思ったのであろう。そうした添え辞が例になく、わざとらしいではないか。

「便無(びんな)く」不都合なことで。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の頭注や現代語訳を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である) 

 

  染殿のお妃が、天狗のために、激しくお心を乱され遊ばされた事第七

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、染殿のお后と名乗られたお方は、文徳(もんとく)帝の御母(おんはは)である[やぶちゃん注:注で示した通り、妃の大誤謬。]。良房の太政(だいじょう)大臣と名乗らせられた関白さまの御娘である。

 見目形、美麗なること、これ殊に格別なものであられた。

 ところが、この妃、常に物の怪(け)に憑かれて、患いなさったので、さまざまなお祈りなんどを施した。その中には、世に霊験あらたかなる法力を持つ僧を特に召し集めて、そうした立派なる修験者の修法を行ったのだが、これ、全く、験(しる)しが出ぬ。

 そんな中、大和の葛木(かつらぎ)の山の頂きに、金剛山(こんがうせん)という所がある。その山に、一人(ひとり)の貴お聖人(しょうにん)は住んでおった。年来(としごろ)、この所で修行し、鉢を飛ばして、斎料(ときりょう)を手に入れ、甕(かめ)を同じように飛ばしやって、水を汲む。かくのごとく修法を持(じ)して清閑に住んでいたから、その霊験、これ、並ぶ者も、おらぬのであった。

 されば、その評判、いやさかに高くなっておったので、帝や父の大臣、この由(よし)をお聴き遊ばされて、

「彼を召して、この御病(おんやまい)の平癒を祈らせよう。」

とお思いなられ、

「召し上げよ。」

という旨、仰せ下されたのであった。

 使者が聖人(しょうにん)の許に行き、この由の仰せを伝えたのだが、聖人は、何度も、

「辞退申し上げる。」

と答えたのだが、これ、宣旨に背(そむ)くことは難きことなれば、遂に参上したのであった。

 染殿の御前(おんまへ)に召し出され、加持し申し上げたところが、何んと! その験しが即座に現われた。

 妃の一人(ひとり)の侍女が、その場で忽ちのうちに狂い出し、大声で哭(な)き、また口汚き言葉を吐いて嘲(あざけ)るのである。

 この侍女には、神が憑(つ)いて、走り叫ぶありさまであった。

 聖人は、いよいよ、この侍女に憑いた物の怪に向かって加持したところが、侍女は、周囲の者に縛られて、打ち責められる。

 その瞬間、女の懐(ふところ)の中(なか)から、一匹の老狐が、出でて、じたばたと転び廻り、倒れ臥して、そこから逃げ去ることもできない。

 その時、聖(ひじり)は、仕長の男を呼び出して命じ、狐を捕縛させ、その顛末を伝えた。

 それを聴き、父の大臣、即座に場に至って、それを見て、大いに喜びなさった。

 さても、妃の病いは、これ、一両日の間にすっかり平癒したのであった。

 大臣、これをお喜びになり、

「聖人(しょうにん)殿、暫く、ここに滞在されるがよい。」

という旨を仰せになられたので、聖人は仰せに随って、暫くそこに留まった。

 そのようにしている間、時は夏のことなれば、妃は、御単衣(おんひとえぎぬ)ばかりをお召しになられておられたのだが、風は御几帳(みきちょう)の簾(すだれ)を、

「さっ」

と吹き返えした。

 その隙間から、聖人は、仄(ほの)かに、妃のお姿を見申し上げてしまったのだった。

 見慣れぬ、女体(にょたい)があられもなく透けて見える……その心地に酔い……その端正美麗なる姿を見るや、聖人は忽ちのうちに、心、惑い、肝(きも)、が一瞬で砕けて、深く、妃に、愛欲の心を起こしてしまったのである。

 と言っても、なすべき術(すべ)もないことであるから、ただただ思い煩っていたところが、胸のうち、火を焼くような心地がして、片時(かたとき)も、思わないではいられる心地となって、遂に、平常心を失い、狂って、人気のない折りを密かに窺って、御机帳の中へと潜り込み、妃のお臥せになっておられる御腰(おんこし)に抱(だ)きついてしまったのである。妃は、驚き、惑って、汗水になって、恐れなされると雖も、妃の力では、とても拒絶することはし得なかった。

 されば、聖人(しょうにん)は、力を尽して、むごたらしく妃を凌辱してしまったのであった。[やぶちゃん注:敬語を訳すと現代語ではおかしな感じなるので、確信犯で謙譲語を外した。]

 女房たちが、それに気づいて、騒ぎ罵(のの)しった。

 その時、侍医の当麻鴨継(たいまのかもつぐ)という者が、宮中に控えていた。

 彼は、宣旨を承って、妃の御病い全般を療治せんがために、宮(みや)のうちに伺候していたのだが、清涼殿の殿上の間の方から、俄かに、騒ぎ罵しる声がしたので、鴨継、驚いて、走り入ったところが、妃のおられる御几帳の内から、なんと! かの聖人(しょうにん)が、出てくるではないか!

 鴨継は、即座に、聖人を捕えて、帝にこの由を奏した。

 帝は、激しくお怒り遊ばされて、聖人を搦(から)め捕って、獄屋に監禁なさったのであった。

 聖人は獄屋に閉じ込められていたのだが、特に一言の言い訳をするでもなく、天を仰いで、血の涙を流しつつ、自ら、自身に誓いを立てて、

「我れ、たちまちに死んで、鬼となって、この妃が、この世に在(ま)します間に、我らが本意(ほんい)のごとく、妃と、思う存分! まぐわってやろうぞッツ!。」

と叫んだ。

 獄屋の司長の者は、このおぞましい誓約を聞いて、直ちに、父の大臣に、このことを申し上げた。

 大臣は、その忌まわしい言葉を聴くや、驚きなさって、帝に奏上し、聖人(しょうにん)を免(ゆる)して、本(もと)の山に、追い帰しなさったのであった。

 されば、聖人は本の山に帰ったが、しかし、かの愛執の思いに堪えられずに、妃に馴れ近づき申し上げる方途を願ってて、頼みとするところの仏法の三宝にかけて祈請(きしょう)したりしたのであるが、最早、無慚な破戒僧と化した現世(げんせ)では、その成就は当然のごとく難しかったからであろう、

「本(もと)の願いのごとく、我れ、鬼となろうぞッツ!」

と意を決し、物も食はずなったので、十余日をへて、餓え死(じ)にした。

 その後(のち)、彼は、即座に、鬼となったのであった。

 その異形(いぎょう)たるや、身は、すっ裸か、頭(かしら)は禿(かむろ)、背長けは八尺ばかりもあり、肌の黒いことと言ったら、漆を塗りたくったよう。目は金属の皿を嵌め込んだのに似て、口は、大きく広く開いて、そこから剣(つるぎ)のような歯が、ニョキニョキと生えておる。唇の上下に、この長い牙をはみ出させておる。赤い犢鼻褌(ふんどし)を股に挟んで、恐ろしげな太い大きな槌(つち)を腰に差している。

 さても。この鬼が、俄かに、妃のおわします御几帳の傍(そば)に立ったのである。

 宮中の人々が、事実、はっきりとこれを見た。

 見た者は、これ、みな、魂(たましい)も消え入り、心が異乱しては、倒れ、惑って、逃げてゆく。

 女房などは、これを見て、或る者は完全に気絶し、或る者は、衣(ころも)を被(かつ)いでうち臥すありさま。後宮のことなれば、禁裏と関係がない者は、参り入ることはできない場所であるから、これを目にすることはなかったのである。

 さても。この邪悪な鬼の魂(たましい)は、妃の正気を奪い、またしても、お狂はせ申し上げたので、妃は、何んと! たいそう、美麗に身繕いなさって、頰に笑みまで浮かべて、扇をさして顔を隠しては、御几帳の中にお入りになられて、鬼と二人、お臥せ遊ばされる為体(ていたらく)!

 女房などが、そうっと近くに寄って行って、こっそりと立ち聴きしてみると、

「ただただ、毎日毎日、そなたを恋しく、独り寝をわびしく感じていたのだよ。」

なんどということを、鬼は、染殿に申し上げているのだった。

 しかも、妃もまた、その言葉に酔うように、笑い声を挙げおられるではないか。

 女房などは、これ、みな、逃げ去ってしまったのだった。

 こうして暫く時が移って、日暮れになろうかというほどになって、鬼は御几帳から出でて、去ったので、

『お妃はさまは、どうなさっておられるのか。』

と思って、立ち戻った女房たちが、急ぎ、妃のもとに参上したのだけれども、いつもと全く同じで、別に変わったこともなく、『そんなこと、あったのかしら?』と気づかれておられる気配も微塵もない様子で、ちんまりとお座りなっておられるのだった。

 ……いや……少し……その御眼差(おんまなざ)しに……何やらん……怖ろしげな気配を、これ、漂わせておられたのだった。

 さて、急ぎ、この一部始終を内に奏上したところ、帝は、お聴き遊ばれるや、それを、浅ましく、怖しいとお思いになるよりも、

「……お妃は……この先、どうおなりに遊ばされるのだろうか?」

と、限りなく、お嘆きになられるのであった。

 その後(のち)、この鬼は、連日、同じように染殿のもとにやって参り、妃もまた、他の女房連中にようには気絶はおろか、恐懼なさることもなさらず、常軌も逸しているにもかかわらず、ただただ、この鬼を慕わしい者としてお思いになってしまっているのであった。

 されば宮中の人々は、みな、この染殿のご様子を見ては、限りなく、哀れに悲しくて、思い嘆いているのであった。

 そんな中、この鬼が、とある人に憑いて、

「我れ、必ず、かの鴨継への怨みを、晴らさで、おくべきかッツ!」

と喚(わめ)き立てたのであった。

 鴨継はこれを伝え聴いて、心の内で激しく怖(お)じけ、恐れておったが、その後(のち)、幾(いくば)くもせずして、鴨継は、俄かに、死んだ。

 また、鴨継には男子が三、四人あったが、それらの者も、孰れも気狂いとなって、そのまま、総て、頓死したのであった。

 されば、帝並びに父の大臣は、この異様な事態を見るにつけ、極めて恐懼なされて、諸々のやんごとなき僧らを以って、この鬼を降伏(ごうぶく)せんことを、念を入れて祈らせなさったところ、さまざまの御祈(おんいの)りをし続けた験しであろうか、この鬼、三月(みつき)ばかり、宮中に姿を現わさなかったので、妃の御気分も、少し、よくなられて、もとのような感じにおなり遊ばされたので、帝は、それをお聴きになられて、お喜びになられた上、さらに、

「今一度(いまひとたび)、見奉らむ。」

とて、妃のおられる御部屋に行幸(ぎょうこう)なさった。その行幸は常よりも格別に感慨深い仕儀として、また、文官・武官併せて百官、一人も欠けず、扈従(こじゅう)したのであった。

 帝がかの染殿のお部屋にお入りになられて、后とお逢い遊ばされて、涙ながらに、しみじみと物語など申し上げなさると、妃も、同じくしんみりとなされ、姿形も、嘗つてのように、優しく、麗しげにあられるように見えたのであった。

 ところが、その瞬間!

――例の鬼が!

――俄かに!

部屋の角(すみ)から踊り出ると、御几帳の内に、

「ざっ」

と、入ったのだ!

 帝はこれを、

『な、なんと! 浅ましいこと!』

と御覧になられているうち、妃は妃で、例の異様なありさまに変ぜられ、御几帳の内に、急ぎ、飛び入りなさった。

 しかして、ややしばしの沈黙の後(のち)、鬼は! な、何んと! 宮殿の南面(みなみおもて)に踊り出た!

 大臣・公卿より始めて、百官、皆、白昼、露わに、この堂々と出現した鬼を見え、恐れ惑って、

『な、なんと! 浅ましい!』

と思うているところに、今度は、妃もまた、とり続き、宮殿より、

「ひたひた」

とお出で遊ばされたかと思うと、諸々(もろもろ)の人の見守る庭前(にわさき)にて……

鬼と一緒に臥せられ……

何とも、その……言葉に表わすることの……

これ、憚られるところの……

おぞましくも、見るも堪えぬ……

謂わば、猥褻極まりない見苦しきことをば……

憚(はばか)るようすも微塵もなく……

……やらかしなさったのである……

そうして、やおら、鬼は妃から離れて起きたところ、妃も起き上がって、宮殿に中にお入りになられた……。

 帝は、なすすべもなくお思いになられ、深く嘆かられて、そのまま、お帰り遊ばされた。

 さても、こうした次第であればこそ、やんごとない、高位に等しいような女人(にょにん)は、以上の話を聴いたなら、決してこのようなる感じに等しい僧侶に近づいていけない。この物語は、これ、甚だ不都合極まりなく、憚って本当なら語るべきではない奇怪な話であるのだが、末(すえ)の世の人に、かく書き残して知らせ、是非とも、坊主連に近づかぬよう強く戒(いまし)めんがために、かく語り伝えているということである。

2022/04/18

「今昔物語集」卷第十「國王造百丈石率堵婆擬殺工語第三十五」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    國王、百丈の石(いは)の率堵婆(そとば)を造りて、工(たくみ)を殺さむと擬(せ)る語(こと)第三十五

 

 今は昔、震旦(しんだん)の□□代に、百丈の石(いは)の率堵婆を造る工有けり。

 其の時の國王、其の工を以つて百丈の石の率堵婆を造り給ひける間に、既に造り畢(をは)りて、國王、思ひ給ひける樣(やう)、

「我れ、此の石の率堵婆を思ひの如く造り畢りぬ。極めて喜ぶ所也。而るに、此の工、外の國にも行きて、此の率堵婆をや起てむと爲(す)らむ。然れば、此の工を速かに殺してむ。」

と思ひ得給ひて、此の工の、未だ率堵婆の上に有る時に、下(おろ)さずして、麻柱(あななひ)を一度にはらはらと壞(こぼ)しめつ。

 工、下るべき樣も無くて、

『奇異也。』

と思て、

『率堵婆の上に徒(いたづら)に居て、爲方(せむはう)無し。我が妻子共(めこども)、然(さ)りとも、此の事を聞きつらむ。聞てば、必ず、來りて見つらむ。故無くして、我れ、死なむずらむとは、思はじ物を。』

と思ふと云へども、音(こゑ)を通(かよ)はす程ならばこそは呼ばゝめ、目も及ばず、音(こゑ)の通はぬ程なれば、力も及ばで、居たり。

 而る間、此の工の妻子共、此の事を聞て、卒堵婆の本に行て、匝(めぐ)り行て見れども、更に爲(す)べき方(はう)、無し。妻(め)の思はく、

『然りとも、我が夫は、爲(す)べき方(はう)無くては、死(し)なじ者を。構へ思ふ事、有らむ者を。』

と、憑(たの)み思て、匝(めぐ)り行て見るに、工、上に有て、着たる衣を、皆、解きて、亦、斫(さ)きて、糸に成しつ。其の糸を結び繼ぎつゝ、耎(やは)ら下(おろ)し降(くだ)すが、極めて細くて、風に吹かれて飄(ただよ)ひ下(くだ)るを、妻、下にて此れを見て、

『此れこそ、我が夫の、驗(しる)しに下(おろ)したる物なめり。』

と思て、耎(やは)ら動かせば、上に夫、此れを見て、心得て、亦、動かす。妻、此れを見て、

『然(さ)ればこそ。』

と思て、家に走り行て、続(う)み置きたる□□取り持て來て、前(さき)の糸に結(ゆ)ひ付けつ。上に動かすに隨ひて、下にも動かすを、漸く上げ取つれば、此の度は切りたる糸を結ひ付けつ。其れを絡(く)り取れば、亦、糸の程なる細き繩を結ひ付けつ。亦、其れを絡り取つれば、亦、太き繩を結ひ付けつ。亦、其れを絡り上げ取れば、其の度は、三絡(みより)・四絡(よより)の繩を上げつ。亦、其れを絡り上げ取りつ。其の時に、其の繩に付きて、構へて、傳ひ下(お)りぬれば、逃げて去りにけり。

 彼の卒堵婆造り給ひけむ國王、功德(くどく)、得給ひけむや。世、擧(こぞ)りて、此の事を謗(そし)りけりとなむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「百丈」中国で時代が明示されていないが、南方熊楠も今野氏も挙げている通り、本篇の種本は鳩摩羅什(くまらじゅう 三四四年〜四一三年)訳の馬鳴菩薩の「大荘厳論経」であり、訳者は五胡十六国時代の後秦の仏僧で、本名は「クマラジーヴァ」。父はインド人で、母はクチャ王の妹。この頃の「一丈」は二・四五メートルであるから、二百四十五メートルとなる。

「而るに、此の工、外の國にも行きて、此の率堵婆をや起てむと爲(す)らむ。然れば、此の工を速かに殺してむ。」国王は自身の不変にして絶対の権威を象徴するものとして頭抜けて屹立する安定した仏舎利塔(ストゥーパ)を唯一無二のものとして建立したのであり、それと同じような物が他国に作られては、その現世の自身の絶対的記念碑に疵がつくと考えたのであった。

「麻柱(あななひ)」広義に「高い所に登るための足がかり」を指す。ここは建築用の足場を指す。

「耎(やは)ら」副詞で「やをら」に同じ。「ゆっくり・静かに・そっと」の意。「学研全訳古語辞典」によれば、もとは平安時代の女性的な感じの強い語であるとある。

下(おろ)し降(くだ)すが、極めて細くて、風に吹かれて飄(ただよ)ひ下(くだ)るを、妻、下にて此れを見て、

「続(う)み置きたる」この場合の「続」は「績」と同じ。糸を縒(よ)って紡(つむ)いでおいた。

「□□取り持て來て」今野氏の注に、『底本欠損。糸巻のようなものを指示するか』とある。

「……亦、其れを絡り取つれば、亦、……」今野氏の注に、『この前後、「亦」のくり返しで動作が何度もくり返されたことを示す。漸層法。』とある。映像的なリアリズムの手法で、作者の度量が窺えるいいシークエンスである。

「三絡(みより)・四絡(よより)」三本或いは四本の糸を捻じ合わせて強度を高めたものを作ったのである。

「逃げて去りにけり」工人(たくみ)は、既にして、これが国王の陰謀であることを悟っていたのである。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    国王が百丈の石製の卒塔婆(そとば)を造って、工人(たくみ)を殺そうと謀った事第三十五

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、震旦(しったん)の□□代に、百丈もの石製の豪壮な卒塔婆を造る工人がいた。

 その時の国王は、その工人を使役して、以って百丈もの石の卒塔婆をお造りになられたのであるが、既に見事にそれを造り終わった折り、国王が、お思いになられたことには、

「我れ、この石の卒塔婆を思いのままに、造りあげた。これはこれ、極めて喜びとするところのものである。しかし、この工人、他所(よそ)の国へも行っては、こうした卒塔婆を建てようとするに違いあるまい。さすれば、この工人を速かに殺すに若(し)くはあるまいな。」

と、お思いつかれなさり、この工人が、最後の点検のために、未だ、卒塔婆の上にある時に、彼を下(おろ)さぬようにするため、足場を、総て、一遍に、がらがらと壊してしまった。

 工人は、降りようがなくなって、

『おかしいぞ?!』

と思って、

『卒塔婆の上に、かく、何も出来ずにおって、最早、なすべき工夫もない。私の妻子(さいし)たちは、しかし、必ずや、このことを耳にするであろう。聴けば、必ず、直ちに来たって、この事態を目にするであろう。成すすべもないままに、私が死んでしまうなんどとは、決して思わぬであろうに。』

と思いはしたものの、声を伝えるほどの高さであるならば、これ、救いを求めることは出来ようが、ろくに人の姿を視認することも出来ず、また、声も届かぬほどの高さであるからは、力も及ばず、ただ茫然と塔の天辺(てっぺん)にじっとしていたのであった。

 そうこうするうち、この工人の妻子たちは、この事態を聴いて、卒塔婆の下に行って、その基台の周囲を巡り歩いては上を見上げたけれども、さらに成すべき工夫も、思いつかない。

 しかし、妻の思うことには、

『そうは言っても、私の夫(おっと)は、成すべき工夫もないまま、空しく死ぬようなお人では、これ、ないものを。きっと構えて、思案することの、あるであろうに。』

と、夫の才覚を頼みに思って、卒塔婆の周囲を巡り歩いては見上げていた。

 すると、工人は、上にあって、着ている衣(ころも)を、皆、解(ほど)いて、さらに、また、それを細く裂いて、糸にした。そして、その糸を、結び継ぎつつ、やおら、下に向かって、下し降(おろ)すのであったが、極めて細いために、風に吹かれて、漂いながらも、確かに下ってくるのを、妻は、下にあって、これを見出だし、

『これこそ、私の夫が、降りるための方途の印(しるし)として、降(おろ)した物であるに相違ないのではなかろうか。』

と思って、やおら、その細い一筋の先を握って静かに動かしたところ、上にいた夫は、これを見て、心得て、それに応じて、糸筋を動かす。

 妻、これを見て、

『さればこそ!』

と思って、家に走り帰って、績(う)んで置いておいた□□を手に取り、持って来て、最前の糸に結いつた。

 夫が上に動かすに随って、妻は下にも動かしたところが、漸(ようや)く、妻の結いつけた部分を、夫がとり上げることができ、このたびは、それに別の細く切った糸筋を結ひつけた。

 妻は、それを繰(く)りとって、今度は、また、糸の程なる細い繩をそれに結びつけた。

 また、それを夫が繰りとったので、今度は、また、それよりも太い繩を結ひつけた。

 また、それを繰り上げてとったところ、そのたびは、三つ縒ったもの、或いは、四つ縒った繩を夫のもとへ上げた。

 また、それを繰り上げとった。

 その時に、その充分に支え得る太さとなった繩に縋(すが)って、構えて、繩を切らぬよう、最善の注意を怠らず。伝って降りることに成功した。

 されば、工人は、妻子とともに、この国から、障りなく、逃げて去ったのであった。

 さて、かの卒塔婆をお造りになった国王だが、彼は、果して仏(ほとけ)の功徳(くどく)を得遊ばされたもんだろうか?

 世の人々は、これ、挙(こぞ)って、この国王のなしたことを、強く非難したと、かく語り伝えているということである。

2022/04/17

「今昔物語集」卷第十「聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    聖人(しやうにん)、后(きさき)を犯して、國王の咎(とが)を蒙りて、天狗と成る語(こと)第三十四

 

 今は昔、震旦の□□代に、□□と云ふ所に、遙かに人(ひと)の氣を遠く去りて、深き山の奧なる谷に、柴の奄(いほり)を造りて、戶を閉ぢて、人にも知られずして、年來(としごろ)、行(おこな)ふ、聖人、有けり。

 此の聖人、年來の行(ぎやう)の力に依りて、護法を仕(つか)ひて、鉢を飛ばして食(じき)を繼ぎ、水甁(すいびやう)を遣(や)りて、水、汲ます。然れば、仕ふ人無しと云へども、諸事、思ひに叶ひて、乏(とも)しき事、無し。[やぶちゃん注:「仕ふ人無し」の「仕」は底本では『□』で、注に『底本破損。他本「仕」。』とあるのに従い、かくした。]

 而るに、此の聖人、國王の后の有樣を文(ふみ)の中に說けるを見て、

「何(いか)なれば、かくは讚(ほ)めたるにか。」

と、忽ちに見まほしき心、付きぬ。

「天女は境界(きやうがい)に非ず。只、間(ま)近き所の后を見ばや。」

と思ふ心有りて、久く成りぬ。然れば、爲(す)べき方(はう)、無し。[やぶちゃん注:「然れば」「されば」で順接なのはママ。「然れども」とあるべきところ。訳はそれで訳した。]

 而る間、祕文(ひもん)の中を見るに、不動尊の誓を說く事、有り、其の中に、

『仕者(つかひびと)有て、國王の后也と云ふとも、自(みづか)ら負ひて行者(ぎやうじや)の心に隨へむ。』

と有る誓を見て、愛欲の心に堪へずして、

「試みに、仕者に申さばや。」

と思ふ心、付きぬ。

 其の間に、宮迦羅(くから)と申す仕者、顯はれて、聖人と語らひ給ふ時に、聖人の申さく、

「我れ、年來、思ふ事、有り。叶へ給はむや。」

と。仕者の宣(のたま)はく、

「我れ、本より、『憑(たの)みを係(か)けたる人の願ふ事を、一(ひとつ)として叶へずと云ふ事無く聞かむ。』と云ふ、誓ひ、有り。行者に仕(つか)へむ事、佛に仕(つかまつ)るが如し。佛の境界は、虛言(そらごと)、無し。何(いか)なる事也と云ふとも、何ぞ誓を違へむや。」

と。行者、此れを聞て、喜びを成して申さく、

「我れ、本より不動尊を憑(たの)み奉て、獨り、深き山に居(ゐ)て、勤め、行ふ。亦、二(ふ)た心(ごころ)無し。而るに、國王の后と申すなる女人は、何(いか)なる有樣(ありやう)にか、有る、極めて見まほしきを、近來(このごろ)、候(さふら)ふなる三千人の后の中に、形貌(ぎやうめう)端正(たんじやう)ならむを、負ひて御坐(おはしま)しなむや。」

と申せば、空迦羅の宣はく、[やぶちゃん注:「空」はママ。音を適当に当てているだけなので、特に誤字ではないようである。後注「護法」参照。]

「糸(いと)安き事也。然らば、必ず、明日の夜、負ひて將(ゐ)て參らむ。」

と契りて、返り給ひぬ。

 其の後(のち)、聖人、喜び乍(ながら)、夜も曙(あけ)難(がた)く、日も晚れ難し。此の事を聞きてより後、更に他の事、思はず。心に思ひ亂れて居たり。既に、其の夜に成て、

「今や、今や。」

と待つ程に、夜、少し深-更(ふく)る程に、世に似ず、香(かうば)しき香、一山芬(かを)り、滿ちたり。

「此れは、何(いか)なる事にか、有らむ。」

と思ふ。柴の戶を押し開きて入る。天女と云ふなる者の如くなる者を、宮迦羅、負ひて、指(さ)し置きて、出で給ひぬ。聖人、見れば、金(こがね)の玉・銀(しろがね)の□□□、色〻の玉を以て、微妙(みめう)に身を莊(かざ)れり。百千の瓔珞(やうらく)を係(か)けたり。樣〻(さまざま)の錦を着て、種〻(くさぐさ)の花を造りて首(かうべ)に付け、衣に付けたり。諸(もろもろ)の財(たから)を盡くして、身の莊と爲(せ)り。香(かうば)しき香、譬(たと)ふべき方(はう)、無し。

 震旦の后は、必ず、其の匂(にほひ)、三十六町に香(かうば)し。況むや、狹き一(ひとつ)の奄(いほり)の内、思ひ遣(や)るべし。瓔珞の響き、玉の音、打ち合ひて、細く、鳴り合へり。髮を上げて、簪(かむざし)には色〻の瑠璃(るり)を以て、蝶(てふ)を造り、鳥を造りて、其の莊り、言(こと)も及ばず。御燈明(みあかし)の光りに、諸の玉、光り合ひて、其の人、光を放つが如し。打扇(うちは)を差し隱したり。天人の降下(くだ)れるが如し。其の人の顏(かほばせ)、初めて月の山の葉より出づるが如し。我にも非(あら)で、

『恐し。』

と思ひたる氣色(けしき)、實(まこと)に哀れなる、類ひ無く、嚴(いつ)くし。

 聖人、此れを見るに、心(むね)も遽(あわ)て、肝(きも)も迷ひぬ。年來(としごろ)の行ひも、忽ちに壞(やぶ)れて、念じ過(す)ぐべからず。三千人の后の中に、年若く、形、美麗なるを、宮迦羅の、撰(えら)びて、負ひて將(ゐ)て御(おは)しましたれば、世に並び無し。劣りならむにて、聖人の目には何(い)かが。況むや、世に類ひ無く、國の中に此れに等しき、無ければ、聖人、心(むね)・肝(きも)も無き樣にて、手を取り觸るゝに、后、遁(のが)るべき方(はう)、無し。山の中の、人も通はぬ所に、夢の樣にて來りたれば、只、怳(おそ)れて泣き居(ゐ)給へり。未だ、見習はぬ柴の奄(いほり)に、極めて恐し氣なる姿なる聖人の有れば、惣(すべ)て恐しきに、手をさへ取り觸るれば、生きたるにも非で、泣く事、限り無し。然れば、櫻の花の雨に濕(ぬ)れたるが如し。

 而る間、聖人、泣〻(なくな)く、佛の思(おぼ)し食(め)さむ事を恐れ思ふと云へども、年來(としごろ)の本意も堪へずして、遂に后を犯しつ。曉に成て、宮迦羅、來り給て、后を搔き負ひて返り給ひぬ。其の後、聖人、他(ほか)の事、思はずして、只、此の后の事をのみ、心に係けて、戀ひ歎き居たり。日晚(く)るる程に、亦、宮迦羅、御(おは)しまして、聖人に會ひ給ひて宣はく、

「亦や將(ゐ)て參るべき、亦、他の后をもや、見むと思(おぼ)す。」

と。聖人の申さく、

「只、有りしを將て御(おは)せ。」

と。然れば、前の如く、負ひて御しましぬれば、聖人の申さく、

「只、有りしを將難。」[やぶちゃん注:ママ。今野氏は「聖人の申さく」『からの衍文であろう』と注されてある。]

亦、曉に來り給て、搔き負ひて返り給ひぬ。此(かく)の如くして、既に數(す)月を經(へ)たるに、后、既に懷姙し給へり。

 而る程に、國王、三千人の后なれば、必ず、皆、知り給はざりけり。而る間、國王、此の所に渡り給へるに、既に懷姙したる氣色(けしき)也。國王の宣はく、

「汝、后の身として、既に他の男に近付けり。此れ、誰が爲(せ)る事ぞ。」

と。后の宣はく、

「我れ、更に態(わざ)と男に近付く事、無し。但し、極めて奇異なる事なむ、有る。」

と。國王、

「何事ぞ。」

と問ひ給ふに、后の宣はく、

「其れの程より、此の月來(つきごろ)、夜半許りに、十五、六歲許りなる童子、俄かに來りて、我れを搔き負ひて、飛ぶが如く行きて、極めて深き山の中に將て行きたれば、一(ひとつ)の柴の奄(いほり)の狹きに、恐ろし氣(げ)なる聖人の有るなむ、極めて恐ろしく、侘(わび)しけれども、遁(のが)るべき方(はう)無くして、近付く程に、自-然(おのづか)ら、かく罷り成りたる也。」

と。國王、宣はく、

「何方(いづかた)に行くとか、覺ゆる。幾時許りか、行く。」

と。后の宣はく、

「何方と、更に、思えず。只、鳥の飛ぶよりも、猶し、疾(と)く飛び行くに、一時(ひととき)許りに行き着くは、遙かに遠き所にこそ有るめれ。」

と申し給へば、國王の宣はく、

「今夜、將て行かむに、手の裏に、濃く、墨を塗りて、紙を濕(ぬ)らして持(も)て、其の奄(いほり)の障紙(しやうじ)に、押し付けよ。」

と、敎へ給まへば、后、國王の敎の如くにて、持ち給へり。

 而る間、宮迦羅、聖人の所に來て宣はく、

「今より後、此の事、止(とど)め給ふべし。惡しき事、出で來りなむとす。」

と。聖人の申さく、

「只、何(いか)にも有れ、前々の如く、迎へて、給へ。」

と。宮迦羅の宣はく、

「更に、恨み給ふ事、無かれ」

と宣ひて、前(さき)の如くに負ひて、將て御(おは)しぬ。后、さる氣(け)無き樣(やう)にて、濕(ぬ)れたる紙を以て、手の裏の墨を潤(ぬら)して、障子に押し付けつ。曉に、例の宮迦羅來て、負ひて返り給ひぬ。其の朝(あした)に、國王、后の所に渡り給ひて、問ひ給へば、后、

「然々(しかし)か押し付けつ。」

と申し給へば、國王、亦、后の手の裏に墨を塗りて、紙に多く押し付けしめて、諸(もろもろ)の人を召して、此れを給ひて、宣旨を下して宣はく、

「國の内に、深く幽(かす)かならむ山の中に、聖人の居たらむ所を尋ねて、此れに似たらむ手の跡有らむ所を、慥(たしか)に尋ね得て、見て參るべし。」

と下されぬ。

 使等、宣旨を奉(うけたまは)りて、四方・四角の山を尋ぬるに、遂に、彼の山の聖人の奄(いほり)に尋ね至りぬ。見るに、此の手の形、有り。違(たが)ふ事、無し。然れば、使、返りて、此の由を申し上ぐ。國王、此れを聞て宣はく、

「彼の聖人、既に后を犯せり。其の罪、輕(かろ)からず。」

と。然れば、

「速かに、遠き所に、流し遣(や)るべし。」

と定められて、□□と云ふ所に流し遣りつれば、聖人、流所にして、歎き悲しむで、思ひ入りて死(しに)ぬ。卽ち、天狗(てんぐ)に成ぬ。多く、天狗を隨へて、天狗の王と成ぬ。

 而るに、亦、傍(かたへ)の天狗、有りて、云く、

「彼の天狗は、既に、國王の責(せめ)を蒙(かうぶ)りて、流罪にて死(しに)たる者也。」

と云て、交(まじ)はらず。然れば、十萬人の伴(とも)の天狗を引き將(ゐ)て、他(ほか)の國に渡りにけりとなむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:「震旦」は古代インドで中国を指した呼称「チーナスターナ」(「シナの土地」の意)と呼んだものの音写漢訳。

「護法」通常は護法善神の使者として仏法を護持する童形の天人を呼び、「護法童子」とも称する。しかし、安倍晴明が使役したように、その存在は仏教を放れて、独自に進化し(或いは仏教以前に存在したアニミズムの神の一つでもあったのかも知れない)、善悪に拘らず、使役神としてもよく出てくる。本篇の後に出る「仕者(つかひびと)」は同義で、さらに「宮迦羅(くから)」と言う名のそれも護法神である。但し、この「宮迦羅」は護法の中でも有名で、知られた名としては、「矜羯羅・金伽羅」で、「こんがら」と読む。八大童子の一りで、制吒迦(せいたか)とともに不動明王の脇士(脇侍)で、その左側に立つ。像は童形に表わされ、合掌して金剛杵を親指と人さし指の間に横に挟んでいる。サンスクリット語「キンカラ」(「奴僕」の意)の漢音写であるから、「宮」「空」でも音が近ければ問題がないのである。

「文(ふみ)」今野氏注に『具体的な文献は不明』とある。

「天女は境界(きやうがい)に非ず」仏教の六道の三善道の内の「修羅道」・「人間道」の最上にある「天上道」を指す。

「祕文(ひもん)の中を見るに、不動尊の誓を說く事、有り、其の中に、……」今野氏の調査によれば、『真言密教の経典』であるが、『具体的には不明』とする。

「試みに、仕者に申さばや。」今野氏も指摘しておられるが、この破戒聖人(しょうにん)、「宮迦羅」に対して一貫して敬語を用いている。ここに既に聖人の女淫願望による破戒が伏線として張られていることが判る。

「我れ、本より、『憑(たの)みを係(か)けたる人の願ふ事を、一(ひとつ)として叶へずと云ふ事無く聞かむ。』と云ふ、誓ひ、有り。行者に仕(つか)へむ事、佛に仕(つかまつ)るが如し。佛の境界は、虛言(そらごと)、無し。何(いか)なる事也と云ふとも、何ぞ誓を違へむや。」護法神の善悪判断のレベルの低さが露呈するところである。「宮迦羅」は不動の支配下にある善神であるが、聖人が淫欲のために何度も妃を連れて来させていることに迂闊にもなかなか気づかず、初会で既にして女犯(にょぼん)の大罪を犯したことさえ気づかない、「キンカラ」ならぬ「ボンクラ」の為体(ていたらく)である。(最後の忠告辺りの前に不動から示唆があったものか)。

「三十六町」三キロ九百二十七メートル。

「況むや、狹き一(ひとつ)の奄(いほり)の内、思ひ遣(や)るべし」本篇の著者が読者にサーヴィスで語りかけているのが面白い。『これから、もっとエッチにオモシロくなりますぜ!』というクスグリの示唆も感じられる。

「幾時許りか」後の表現から「幾時」は「いくとき」と読んでよかろう。

「天狗(てんぐ)に成ぬ」今野氏注に、『本集』(「今昔物語集」を指す)『では反仏法の魔物として一貫するが』、『ここでは怨霊のの具現のはやい例として注目される。これが崇徳院のごとき例につながる。聖人なので六道とも違う天狗道に堕すという設定』で、「天狗の王と成ぬ」を見ても、意識的に『国王に対する天狗の王』で、『崇徳院など王者との関連がつけやすい』と注されておられる。

「傍(かたへ)の天狗」今野氏注に、『そばにいた天狗の意だが、一方の天狗の王をさすか。でなければ、よそへゆく必要性がない。天狗の前世話(前生譚)の語り手ともなっている。』とある。

「十萬人の伴(とも)の天狗を引き將(ゐ)て、他(ほか)の國に渡りにけり」今野氏は、『他国とはどこか不明。異界としかいいようがない。』と記しておられるが、そもそもこの話、中国が舞台である。とすれば、これは、もう、本邦日本しか考えられないのではなかろうか? だいたいからして、「天狗」という語は中国では、凶事を予兆させる大流星を意味するものであり、大陸では「咆哮を上げて天を駆け降りる犬」の姿に見立てており、図像もそのようなものしか残らない。所謂、我々の馴染み深い鼻の長い「天狗」のイメージはせいぜい中世までしか遡れない日本独自のものである。近世の天狗譚では、智に奢った高僧が天狗に堕す話や、グループが存在したり、互いに仲の悪い天狗集団があって、天狗同士が戦ったりする怪談が、複数、ある(私の「怪奇談集」「続・怪奇談集」を参照されたい。私の乏しい記事の中でも一つを選び出せぬほどにあるのである)。されば、本篇での「天狗」は我々の想像するような形状ではないにしても、そのルーツの淵源の大きな一つであるように思われてならない。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    聖人(しょうにん)が、后(きさき)を犯して、国王の咎(とが)を蒙って、天狗となった事第三十四

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、震旦(しったん)の□□代に、□□という所に、遥かに人の気(き)を遠く去って、深い山の奥にある谷に、柴の庵(いおり)を造って、戸を閉じ、人にも知られずに、年来(としごろ)、修行を積んでいる、聖人があった。

 この聖人は、年来の行(ぎょう)の力に依って、護法童子を使役して、鉢を飛ばして斎料(ときりょう)を持って来させたり、水を入れる瓶(かめ)を同じく飛ばしやって、水を、汲(く)ませたりしていた。されば、使役する人がいないと雖も、諸事万端、思い通りに叶ってて、不足なことは、全く、なかった。

 ところが、この聖人、ある時、国王の妃のありさまを、文書の中に解説してあるのを見出し、読むに、

「どうして、こんなにまでして、後宮を褒め讃えおるのだろう?」

と、忽ち、その後宮の女たちを見たいという気持ちが、心を捕えて離さなくなってしまった。

「天女(てんにょ)は我らのおるところの人間道とは境界(きょうがい)を異にする天上道におる者であって、見ることは、到底、出来ぬ。……しかし……ただ、この世のま近にあるところの後宮の妃というのを見たいものだ。」

と、思う心、起こってより、もう相当に久しい年月が過ぎた。しかし、成すすべも、ないのであった。

 そうこうしている間に、とある密教の秘文(ひもん)の中を見ていたところ、不動尊の誓(せい)を説くことが書かれてあったのだが、その中に、

『仕者(つかいびと)があって、国王の妃であると雖も、自(みずか)ら、背負って、行者(ぎようじゃ)の心の思うままに随(したが)う存在がいる。』

とある誓を見て、愛欲の心に堪えられなくなってしまい、

「試みに、その仕者(つかいびと)に言うてみたいものじゃ。」

と思う気持ちが、すっかり心にこびりついてしまった。

 その間に、「宮迦羅(くから)」と申す仕者(つかいびと)が、彼の前に顕われて、聖人(しょうにん)と語らいなさった折りのこと、聖人が申したことには、

「我れは、年来(としごろ)、思うことが、ある。それ、叶えて下さるか?」

と。

 仕者(つかいびと)の語られるに、

「我れは、もとより、『我に、頼みをかけた人の願うことを、一つとして叶えずということはなく、確実に叶える。』という誓いを堅持しております。行者(ぎょうじゃ)に仕(つか)えることは、これ、仏(ほとけ)に仕るのと同じで御座る。仏の境界(きょうがい)は、噓は御座らぬ。いかなることと雖も、どうして誓(せい)を違えることがあろうか、いや、御座らぬ。」

と。

 行者、これを聞きて、喜びをなして、語ることには、

「我れ、もとより、不動尊を頼みと奉って、独り、深き山に居(を)えりてて、修行に勤め、行って参った。また、二心(ふたごころ)は、ない。しかし、国王の妃と申すという女人(にょにん)は、いかなる有様(ありよう)にてあるものか、これ、極めて見てみとうなったによって、近来(このごろ)、そこに伺候しておるという三千人の妃の中の、見目形の端正(たんせい)なるらしい女人を、背負って、ここのお連れ申し上げることは出来るだろうか?」

と、申したところ、宮迦羅の仰せになるには、

「たいそう簡単なことである。さらば、必ず、明日(あす)の夜、負ひて率(い)て参らせようぞ。」

と約束して、お帰りになった。

 その後(のち)、聖人(しょうにん)、喜び乍ら、夜が明けるのも遅く感じ、日が暮れるのも待ち遠しくなるほどになった。

 この事を聞いてより後(のち)、さらに他のことは、一切、これ、心に思わずにいた。

 心は、ただ、その一つのために、思い乱れていたのだった。

 既にして、その夜になって、

「今か、今か。」

と待つほどに、夜(よ)、少し更(ふ)けたる頃に、この世のものとも思われぬ、香(こうば)しき香りがし、その匂いが、一山(いちざん)全てに満ち渡った。

「こ、これは、いかなることの、起こったものか?」

と思う聖人(しょうにん)であった。

 柴の戸を押し開いて入ってくる。

 「天女」とかいうところの者のような者を、宮迦羅が背負って、その女を庵の内にさし置いて、出て行かれた。

 聖人は見た。

……金(こがね)の玉

……銀(しろがね)の□□□

……色々の玉を以って、微妙に身を飾っていた……

……百千の瓔珞(ようらく)を懸けていた……

……様々の錦(にしき)を着て

……種々(くさぐさ)の花を造りて

……首につけ

……衣につけている……

……諸々の宝(たから)を尽くして

……身の飾りとしていた……

……その、香(かうば)しい香りといったら、喩えようもないほどのものであった……

……震旦の妃は、必ず、其の匂いが、三十六町に香るという……

――況や、狭い一つの庵の内ですぞ――思いやって御覧なさいな――

……瓔珞の響きと、玉の音が、互いに打ち合って、それが細く、鳴り合っている……

……髪を上げて、簪(かんざし)には色々の瑠璃(るり)を以って、蝶を造り、鳥を造って、その飾りたるや、言葉で表現することも出来ぬ。御灯明(みあかし)の光りに、諸々の玉が、これまた、光り合って、その人が、光を放つようにさえ見えるのだ。

 団扇(うちわ)を差して顔を隠している。

 が、しかし、天女の天下(あまくだ)ったに等しい。

 その人の顔(かんばせ)は、初めて、月が、山の木の葉の間から出づるようではないか!

 我も忘れて、

『恐ろしい。』

と思うている気色(けしき)は、これまた実(まこと)に哀れにして美しく、類い稀なる、較べようのない、完璧な美しさだ!

 聖人(しょうにん)は、これを見るや、心も慌て、肝(きも)も迷うた。

 年来(としごろ)の行いも、忽ちにして、完全に無化されてしまい、全く以って、仏への信念が遠く去ってしまうことをとどめ得なかった。

 三千人の妃の中に、年若く、形、美麗なる者を、宮迦羅が選んで、背負って連れてこられたのであってみれば、これ、世に並びなきものであるに決まっている。彼女より劣れるであろう女人を連れ来ったとしても、この聖人の目には、これ、どうであったろうか。況んや、世に類いなく、国中に、これに等しい女人なんど、これ、実際に、おらねばこそ、聖人は、心も肝(きも)も失せたごとく、手を取り触れたのであるが、妃は、最早、遁(のが)れるべき方途は、ない。山の中の、人も通わぬ所に、夢の様にして来たったのであってみれば、ただ、恐れて泣いておられるばかり。

 未だ、見慣れぬ柴の庵に、見るからに恐ろしげな姿の聖人が目の前にあるだけで、全く以って恐しいのは当たり前で、その男が、手をさえとって触ったのであるからして、生きたる心地もせず、泣くこと、言うまでもない。されば、桜の花が、雨に濡れたようなものである。

 そうこうするうち、聖人、泣く泣く、仏の思(おぼ)しめされることを恐れ思うと雖も、年来(としごろ)の本意も、我慢出来ずなって、遂には、妃を犯してしまった。

 暁に成なって、宮迦羅がこられて、妃を背に舁(か)き負いて、お返りになった。

 その後(のち)、聖人(しょうにん)は他(ほか)のことを思うこともなく、ただただ、この妃のことをのみ、心に懸けて、恋い、嘆いておった。

 日が暮れる頃合い、また、宮迦羅がこられて、聖人に逢って、おっしゃられたことには。

「またしても、かの妃を連れて参ろうか? それとも、また、他の妃をも、見たいと思(おぼ)しめすか?」

と言う。

 聖人の申すことには、

「ただ、あの方を、お連れ下され。」

と。

 されば、前のごとく、背負うて来られた。

 また、暁に来られて、背に舁いてお帰りになった。

 このようにして、既に数月を経たところが、妃、既に懐妊しておられたのであった。

 こうしているうちに、国王は、三千人もの妃があったので、必ずしも、そのみんなを、ご存知であったわけではなかった。

 さすれば、国王、彼女のところにお渡りになられたところが――これ――既に懐妊しているのは一目瞭然。

 国王の仰せらるるは、

「そなた、妃の身でありながら、既に他の男に近づいたのだな。これ、誰がなしたことであるか!」

と糺した。

 妃がおっしゃるには、

「私、とてものことに、自ら男に近づくことなど、微塵もありませぬ。ただ、ひどく奇異なることが、これ、御座いました。」

と答えた。

 国王は、

「いかなることか?」

と問ひなさったところが、妃、仰せられて、

「かくなるほどの以前より、その月来(つきごろ)、夜半許りのこと、十五、六歳ほどの童子は、突如、来りて、我れを舁き負いて、飛ぶようにして行きて、ひどく深い山の中に連れて行きました。そうして、一つの柴の庵の甚だ狭いところに、恐ろし気(げ)なる聖人(しょうにん)のあって、それ、まさに、ひどく恐ろしゅう見え、いっかな、心細く思いましたけれども、遁(のが)れるべきすべもなくて……その聖人の近づいてきて……自(おのずか)ら……かくのごときありさまに……まかりなって……御座いまする……。」

と告白したのであった。

 国王は仰せられて、

「どの方向に行ったとか、覚えておるか? また、そこに至るにどれほどの時をかけて、行ったか?」

と糺した。

 妃が仰せになるには、

「どの方向とお訪ねになられても……これ……覚えて御座いませぬ。ただ、鳥の飛ぶよりも、なおなお、疾(と)く飛び行きましたによって、一時(ひととき)ばかりに行き着きました……それは……恐ろしく遥かに……遠い所かと存じまする……。」

と申し遊ばされたによって、国王、ここで仰せられて、

「今夜、連れられて行く前に、掌(てのひら)に、濃く、墨を塗って、紙を濡らして、それを持って、その庵の障子に、その紙を押しつけてこい。」

と、お教えなさったので、妃は国王の教えの通りにして、隠してお持ちになって待っておられた。

 さて、その頃、宮迦羅が聖人の所に来て、仰せになるには、

「今より後(のち)、かのこと、おやめになられるのが宜しいでしょう。悪しきことが出来(しゅったい)するように思われます。」

と忠告された。

 聖人(聖人)が答えるには、

「ただ、どのような虞(おそ)れがあろうとも、以前のごとくに迎え来たって、これ、よろしくお願い申す。」

と懇願した。

 宮迦羅が仰せに、

「さらに、お恨みなさること、なきように。」

と宣(のたま)うと、先(さき)のごとく、かの妃を背負って、連れて来られた。

 妃は、自分の内心を悟られぬようにして、濡れた紙を以って、手の裏の墨を濡らして、障子に押しつけた。

 暁(あかつき)に、例(れい)の宮迦羅、来たって、背負いてお帰りになった。

 その翌朝に、国王は、その妃のところにお渡り遊ばされて、お尋ねになったところ、妃は、

「しかじか仰せの通りに押しつけまして御座います。」

と申し上げなさったので、国王は、また、妃の掌に墨を塗って、紙に、多く、押しつけさせて、諸々(もろもろ)の人々を召し出だし、これをお与えになって、宣旨を下して、仰せられることには、

「国の内に、山深く、人気のないような山の中に、『聖人(しょうにん)』の居(お)るような場所を尋ねて、この手形で押した形(かたち)に、似たような手跡(しゅせき)がありそうなところを、虱潰しに尋ね廻り、探して参れ!」

とお下しになったのであった。

 使ひの者らは、宣旨を承って、四方のあらゆる隅(すみ)をも漏らさず、山々を尋ねたところ、遂に、かの山の、聖人の庵に、尋ね至ったのであった。

 その庵の障子を調べてみたところが、まさに、この手の形があった。そうして、それは、細部まで、違った箇所はなかったのであった。

 されば、使いは都城に帰って、この由を申し上げた。

 国王は、これを聴いて、宣はく、

「かの聖人(しょうにん)、既に我が妃を犯した。その罪、これ、軽からざるものなり。」

と告げられた。

 されば、

「速かに、遠い場所に、流刑とせよ。」

と定められて、□□という所に流しやったので、聖人は、配流所にて、嘆き悲しんで、病的に思い入り死(じに)したのであった。

 而して、その死ぬや、即座に「天狗(てんぐ)」となったのであった。

 そうして、多くの天狗を従えて、「天狗の王」となったのであった。

 しかし、また、そやつの、近くに、別の天狗がおって、言うことには、

「あの天狗は、既に、国王の責めを蒙って、流罪となって死(しに)たる者の変化(へんげ)である。」

と言って、交わることをしなかった。

 そのため、そのままでは居るも困難となり、十万人もの伴(とも)の天狗を率いて、他(ほか)の国に渡ったと、かく語り伝えているということである。

「今昔物語集」卷第四「天竺人於海中値惡龍人依比丘敎免害語第十三」

 

[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    天竺の人、海中にて惡龍(あくりう)に値(あ)へる人、比丘の敎へにより、害を免れる語(こと)第十三

 

 今は昔、天竺の人は、道を行く時は、必ず、比丘を具(ぐ)す。守(まぼ)り有るが故也。

 昔、一人の人、有り。商ひの爲に、船に乘りて、海に出でぬ。惡風、俄かに出で來て、船を海の底へ卷き入る。其の時に、梶取(かぢとり)有りて、船の下を見れば、一人の優婆塞(うばそく)有り。梶取の云はく、

「汝は、此れ、何人(なにびと)ぞ。」

と。優婆塞、答へて云はく、

「我は、此れ、龍王也。『汝が船を海底に卷き入れむ』と思ふ。」

と云へり。梶取の云はく、

「何の故有りてか、汝、我等を忽ちに殺さむと爲(す)る。」

と。龍王の云はく、

「汝が船に具したる比丘は、前生(ぜんしやう)に、我れ、人と有りし時、我が家に有りし比丘也。朝暮(あしたゆふべ)に、我が供養を受けて、數(あまた)の歲を過ぐすと云へども、我れに呵嘖(かしやく)を加へずして、罪業(ざいごふ)を造らせて、今、既に、蛇道(じやだう)に墮(だ)したり。一日に三度、劍(つるぎ)を以つて切らるる事を得たり。此れ、偏へに此の比丘の咎(とが)也。其の事の妬(ねた)く、情無きに依りて、『彼の比丘を殺さむ』と思へり。」

と云ふ。

 梶取の云はく、

「汝、蛇身を受けて、三熱の苦に預りて、連日に刀剣の悲しみを得る事は、此れ、卽ち、前生に惡業(あくごふ)を造れる故也。亦、何(いか)に愚かに數(あまた)の人を殺害(せつがい)して、其の果報を增さむと爲(す)る。」

と。龍王の云はく、

「我れ、昔を思ひ遣(や)れば、前後の事を知らず。只、云ひ敎へずして、罪を造らしめて、惡業を得て、苦を受くるが、極めて情無ければ、『殺さむ』と思ふ。」

と。梶取の云はく、

「汝ぢ、一日一夜(いちにちいちや)、此(こ)こに留(とどま)り給へ。法を聞かしめて、汝が蛇道を遁れしめむ。」

と。此の語(こと)に依りて、龍王、一日一夜、其の所に留りて、比丘、經を誦(じゆ)して、龍王に聞かしむ。龍王、經を聞きて、忽ちに蛇身(じやしん)を轉じて、天上に生ると云へり。

 然れば、

「專(もはら)に善根を修(しゆ)せよ。」

と親しからむ人をば、敎ふべき也となむ、語り傳へたるとや。

 

[やぶちゃん注:この話、不作為犯(後注参照)の悪の元である比丘が、最後に誦経役として登場するばかりで、全くその僧の姿がリアルに見えて来ず、消化不良を起こす。後注参照。

「優婆塞(うばそく)」在家のままで、仏道修行に励んでいる人。修行者に奉仕する在俗の信者。正式に出家得度しないで修道の生活を行なう人。男性に限る。女性の場合は、「優婆夷」(うばい)と呼ぶ。

「龍王」これは狭義の仏教上の神格化された龍王ではなく、水界を牛耳るところの、蛇の転じたブラッキーな海の妖怪の王の謂いであろう。前世の罪で、死後、蛇に転生され、その中でも親玉のそれになったというのである。それでも、同時に、現に「一日に三度、劍(つるぎ)を以つて切らるる事を得たり」という罪業を受ける境涯にあるのである。

「我れに呵嘖(かしやく)を加へずして」「呵嘖」は「呵責」に同じ。責め苛(さいな)むこと。龍王の前世の事実の優婆塞を、呵責することなく、仏説に反する行いを犯させたというのである。この朧な表現ではとんでもない売僧(まいす)、破戒僧のようにしか読めぬのだが、実際の原話では、悪龍の前世は屠殺業者であり、その彼に飯を食わせて貰って、永く彼の護持僧となったのが、この比丘であって、その長年の間、僧は、彼の生業(なりわい)たる忌まわしい殺生行為を直(じか)に見ても、一切、これ、咎めだてしなかった点で不作為犯の破戒僧だったとあって、すっきりと意味が判る。私が冒頭で不満を言ったのは、「売僧(まいす)どころの騒ぎでない、とんでもない破戒僧である」と思ったからなのであるが、しかし、彼が今も僧として生き続けており、最後のシーンでは、その僧が、その誦経で以って、悪龍王を正しく天上界へ昇天させる法力があるということから見て、改心して、ちゃんとした修行を積んだことが判るし、よほどこの僧、前世ではいいことをしたのであろうなぁ、と考えるしかあるまい。しかし、それらをここに盛り込んでいないのが、甚だよろしくない。そうした輻輳を組み上げたなら、本話は遙かに面白くなったはずだからである。そうして、実は原話には、もう少し、自然な感じで、その僧がどんな不作為犯だったのかを悪龍自身に語らせて、ちゃんと、その悪龍が殺そうとした同乗する僧の法会(この場合は、異類たる悪龍に転生しているので、一種の施餓鬼と言ってよい)行うというシークエンスが、ちゃんと、語られてあるのである。それはまた、南方熊楠の「今昔物語の研究」で明らかにされるので、少しくお待ちあれ。

「三熱の苦」畜生道で龍・蛇などが受けるとされる、三つの激しい苦しみ。「熱風や熱砂で皮肉や骨髄を焼かれること」、「悪風が吹き起こって居所や周囲の附属物などを失うこと」、「金翅鳥(こんじちょう)に子を食われる」の三種。

亦、何(いか)に愚かに數(あまた)の人を殺害(せつがい)して」この船には梶取と比丘の他にも有意な乗船者がいることが判る。それなりの大きさの中ぐらいの船と思われる。]

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

    天竺の人で、海中に於いて悪龍に遇った人が、比丘の教えに依って、害を免れた事第十三

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、天竺の人は、道を行く時には、必ず、僧を同道させる。これは、災いから身を守る力が僧にあるからである。

 昔、一人の人があった。商いのために、船に乗って、海に出た。

 ところが、俄に悪風が吹き荒(すさ)び、船を海の底へ巻き入れんばかりの有様であった。

 その時、梶取(かじとり)の者が、船端の外側の下の方を見たところが、一人の優婆塞(うばそく)が舷側へばりついているのを発見した。

 梶取が声をかけるに、

「お前はッツ! これ、一体、何者じゃッツ!?」

と。

 優婆塞は答えて言うことには、

「我は、これ、龍王である。『お前の船を海底に巻き入れてやろう』と思うておる。」

と言った。

 梶取、応じて、

「何のわけあって、お前は、我らを、かくも無慚に、殺さむとするかッツ!?」

と。

 龍王の言うことには、

「お前の船に同乗している坊主は、前生(ぜんしょう)に於いて、我れが人であった折り、我が家に居った僧だ。朝夕に、我から供養を受けて、長い年月をともに過ごしたのだが、こやつ、我れに呵責を加へることなく、巧妙に言いかけては、罪業(ざいごう)を我に造らせて、そのために、今、我は、既に蛇道(じゃどう)に堕(だ)しておる始末! 一日に三度(みたび)、剣(つるぎ)を以って斬られる苦しみを受けておる! これ、偏えに、この坊主に教唆された咎(とが)に他ならぬ! その事が、激しく嫉(ねた)くも、情けなくもあるによって、『かの坊主を殺してやる!』と思うたのだ!」

と言う。

 梶取が答えて、

「お前は、蛇身となされて、三熱の苦を受けることとなり、連日、刀剣の悲しみを得るということは、これ、即ち、お前の前生(ぜんしょう)の悪業(あくごう)が造ったことにようものではないか! なおまた、どうして、愚かにも、さらに数多(あまた)の人を殺害して、その悪しき果報を増そうとするのだッツ!?」

と。

 竜王が応えて、

「我れ、昔を思いやれば、後先(あとさき)のことは判らなくなるのだ! ただただ、口に出して確かには言わずに、我れに罪を造らせて、我れが悪業を得て、苦を受けねばならなくなっていることが、極めて情けないからこそ、『殺してやる!』と思うのだ!」

と。

 梶取はそこで言うことには、

「お前さん! 一日一夜(いちにちいちや)、ここに、まず、留まられよ! 仏法のまことを聴かせて、お前さんを蛇道から遁(のが)れさせてやるから!」

と。

 この言葉を諾(だく)して、龍王は、一日一夜、その所に留(とど)まって、かの僧が、懇ろに、経を誦(じゅ)して、龍王に聴かさせた。

 すると、龍王は、経を聴くや否や、忽ちに蛇身(じゃしん)を転じて、天上へと生まれ昇っていったという。

 であるからして、

「専らに善根を修(しゅ)しなさい。」

と、親しい感じのする人には、よくそれを教えることが何より肝要であると、かく語り伝えているということである。

「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」

 

[やぶちゃん注:今回から暫くは、今までのように、私個人が好きな話柄ではなく、近日、ブログ・カテゴリ「南方熊楠」で電子化注に入ろうとしている南方熊楠の「今昔物語の研究」で採り上げている話を電子化訳注することとする。参考底本を所持する岩波書店「新日本古典文学大系」第三十三巻「今昔物語集一」及び同「二」(今野達氏校注。孰れも一九九九年刊)としつつ、カタカナを平仮名にし、漢文調部分を概ね訓読し、読みの一部を本文に出し、さらに恣意的に漢字を正字化して示す。底本原拠の歴史的仮名遣の誤りは正した。読みは振れるものに限定する。さらに句読点・記号等を変更・追加し、会話部分等は改行した。なお、原文中に出る「𡀍」であるが、底本では(つくり)の下方にある「心」が(へん)の「口」の下まで伸びているこの字体(「グリフウィキ」)であるが、表示出来ないので「𡀍」とした。]

 

   羅漢の比丘(びく)、國王太子の死を敎へたる語(こと)第十二

 

 今は昔、天竺(てんぢく)に一つの小國有り。其の國(く)に、本(もと)より、神をのみ信じて、佛法を信ぜず。而(しか)る間、其の國の王、一人の皇子(わうじ)有り、亦、子、無し。國王、此れを愛する事、玉の如し。太子、十餘歲に成る程に、身に重き病ひを受けたり。醫療を以て治(ぢ)するにも、𡀍(い)ゆる事、無し。陰陽(をんやう)を以て祈ると云へども、驗(しる)し、無し。此れに依りて、父の王、晝夜に歎き悲しむで、年月(としつき)を送るに、彌(いよい)よ、太子の病ひ、增さりて、𡀍ゆる事、無し。

 國王、此れを思ひ繚(わづら)ひて、此の國に上古(しやうこ)從(よ)り崇め祭る神在(まし)ます。國王、其の所に詣(いた)りて、自(みづか)ら祈り請ふ。諸(もろもろ)の財寶を運びて、山に成し、馬・牛・羊等を谷に滿(み)て、

「太子の病ひを𡀍やし給へ。」

と申す。宮司・巫(かむなぎ)、恣(ほしいまま)に取り、心に任せて、萬(よろづ)に飽き滿ちぬ。此に依りて、爲(す)べき方、無きまゝに、一人の神主、御神、付きて、出で來たりて、示して云はく、

「御子(みこ)の御病(みやまひ)は、國王還らせ給はむまゝに、平𡀍し給ひなむとす。國を持(たも)たせ給て、民も安く、世も平かに、天下・國内、皆、喜びを成すべし。」

と。國王、此を聞きて、喜び給ふ事、限り無し。感に堪へずして、着(は)ける所の太刀を解きて、神主に給ひて、增〻(ますま)す、財を與へ給ふ。

 此くの如くし畢(をは)りて、宮に還り給ふに、途中にして、一人の比丘に値(あ)ひ給ひぬ。國王、比丘を見て、

「彼(か)れは何人(なにびと)ぞ。形も人に似ず、衣も人に違(たが)へり。」

と問ひ給へば、人、有りて、申す、

「此れは沙門となむ申す、佛の御弟子(みでし)也。頭(かしら)を剃れる者也。」

と。國王の宣(のたま)はく、

「然らば、此の人、定めて、物知りたらむ。」

とて、輿(みこし)を留(とど)めて、

「彼(か)の沙門、此(こ)こへ召せ。」

と宣へば、召しに依りて、沙門、參りて立てり。國王、沙門に宣はく、

「我が一人の太子有り。月來(つきごろ)、身に病ひ有りて、醫(くすし)の力にも叶はず、祈りも驗し、無し。生き死に、未だ、定まらず。此の事、何(いか)に。」

と。沙門、答へて云はく、

「御子、必ず死に給ひなむとす。助け給はむに、力、及ばず。此れ、天皇(てんわう)の御靈(ごりやう)の所爲(しよゐ)也。宮に還らせ給はむを、待ち付くべからず。」

と。國王、

『二人の云ふ事、不同也。誰(た)が云ふ事、實(まこと)ならむ。』

と、知り難くて、

「神主は『病ひ、𡀍え給ひなむ。命、百歲に餘るべし。』と云ひつるを、此の沙門は、かく云ふを、何れにか、付くべき。」

と宣へば、沙門の申さく、

「其れは、片時(へんし)、御心(みこころ)を息(やす)め奉らむが爲に、知らぬ事を申す也。世の人の物思はぬが云はむ事を、何(いかで)か捕へ仰せ給ふ。」

と申し切りつ。

 宮に還りて、先づ、怱(いそ)ぎ問ひ給へば、

「昨日、太子は、既に失(う)せ給ひき。」

と申す。國王、

「努〻(ゆめゆめ)、人に、此の事を、知らしむべからず。」

と宣ひて、神付きたりし神主を召しに遣(つかは)しつ。二日許り有りて、神主、參れり。仰せて云く、

「此の御子の御病ひ、未だ𡀍えず畢りぬ。何(いか)が有るべき、不審にて召しつる也。」

と。神主、亦、御神付て、示して云はく、

「何(いか)に我をば疑ふぞ。『一切衆生(いつさいしゆじやう)を羽含(はぐく)み哀れむで、其の憂へを背(そむ)かじ。』と誓ふ事、父母(ぶも)の如し。況むや、國の王の苦(ねむごろ)に宣はむ事、愚かに思ふべからず。我れ、虛言(そらごと)を成すべからず。若(も)し、虛言せらば、我を崇(あが)むべからず。我が巫(かむなぎ)を貴(たふと)ぶべからず。」

と、此(か)くの如く、口に任せて、云ふ。

 國王、善〻(よくよ)く聞きて後(のち)、神主を捕へて、仰せて云はく、

「汝等、年來(としごろ)、人を謀(あざむ)き、世を計りて、人の財(たから)を恣に取り、虛神(そらかみ)を付けて、國王より始めて、民に至るまで、心をも、とろかし、人の物を計り取る。此れ、大きなる盜人(ぬすびと)也。速かに其の頸を切り、命を絕(た)つべし。」

と宣ひて、目の前に、神主の頸を切らせつ。亦、軍(いくさ)を遣して、神の社を壞(こほ)ちて、□河と云ふ大河に流しつ。其の宮司、上下、多くの人の頸を、切り捨てつ。年來、人の物を計り取りたる千萬の貯へ、皆、亡(ほろぼ)し取りつ。

 其の後、彼(か)の沙門を召すべき仰せ有りて、參りぬ。國王、自ら出で向かひて、宮の内に請じ入れ、高き床(ゆか)に居(す)ゑて、禮拜して宣ふ樣(やう)、

「我れ、年來、此の神人共(じんにんども)に計られて、佛法を知らず、比丘を敬(うやま)はず。然(さ)れば、今日より、永く、人の藉(かり)なる言を、信ぜじ。」

と。比丘、爲に法を說きて聞かしむ。國王より始めて、此れを聞きて、貴み、禮(をが)む事、限り無し。忽ちに其の所に寺を造り、塔を起てゝ、此の比丘を居(す)ゑたり。多くの比丘を居ゑて、常に供養す。

 但し、其の寺に一つの不思議なむ有る。佛の御上に天蓋(てんがい)有り、微妙(みめう)の寶を以て莊嚴(しやうごん)せり。極めて大きなる、天上に懸けたる天蓋の、人、寺に入りて、佛を匝(めぐ)り奉れば、人に隨ひて天蓋も匝る。人、匝り止めば、天蓋も、匝り止みぬ。其の事、今に、世の人、心を得ず。

「佛の御不思議の力にや有るらむ。亦、工(たくみ)の目出たき風流(ふりう)の至す所にや有るらむ。」

とぞ、人云ふなる。其の國王の時より、其の國に、巫(かむなぎ)、絕えにけり、となむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注(注には底本を参考にした)

「羅漢」サンスクリット語の「悟りを得、人々の尊敬と供養を受ける資格を備えた人」を指す「アルハット」の音写「阿羅漢」の略称。「応供」(おうぐ)とも呼ぶ。煩悩を総て断ち去って最高の境地に達した人。狭義には「小乗の悟りを得た最高の聖者」を指し、その修行段階を「阿羅漢向」、到達した境を「阿羅漢果」と称する。小乗仏教では仏弟子の最高位とされるが、大乗仏教では衆生の救済を目ざす菩薩(如来になるための修行中の存在)の下に配される(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「天竺に一つの小國有り」今野氏は、『西域記に達磨悉鉄帝国の首都昏駄多城とする。同書にトカラ族の故地とするが所在不明。アフガニスタン北部、あるいはそれに隣接する西天竺の辺国か。』とされる。個人サイト「三蔵法師~苦難の西域への旅」の『三十七、「達磨悉鉄帝(ダルマステイテイ)国、尸棄尼(シグニ)国、商弥(シャミ)国など」』に、『達磨悉鉄帝(ダルマステイテイ)国は二つの山間にあり、ヴァクュ(縛芻)河に臨んでいました』。『形が小さくでも健(すこ)やかな善馬を産します』。『風俗は礼儀を知らず』、『性凶暴(きょうぼう)で、形も醜悪で、目は碧緑色(へきりょくしょく)の人が多く、他の諸国とは違っていたのでした』。『伽藍は十余か所にあり、その国都は昏駄多(カンダータ)城にあるのでした』。『城内には先王の建てた伽藍があり、その中に石の仏像があるのですが、不思議なことに、上に雑宝で飾った金銅の円蓋(えんがい)があって、自然に空中に浮かんで仏像の上にかかっています』。『もし人が、礼拝して像の周りを回ると円蓋もともにまわり、人が止まると円蓋も止まり、その霊妙なことは測(はかる)ることができないのでした。』とある。また、個人サイト「聞其名号~PARTⅢ」の「玄奘の旅」の中の「パミール諸国」の注では、『【ダルマスティティ国】達磨悉鉄帝国。また護密と名づける。法の位置の意。恐らくヌリスタン山脈の北端を越えてゼバク経由イシュカシムに達したのであろう。都城カンダータはイシュカシム、今日もカンドゥドと呼ばれるという。ダルマスティティの名の由来はワハン渓谷の南部がダルママスツージと呼ばれ、それが地域名になったという。』とあった。調べてみると、アフガニスタンの東北にタジキスタンに突き出た国境近くのここに「カンドゥド」はあった。奥深い山岳地であるが、川の畔りである。

「陰陽(をんやう)」位置的にはイスラム教やゾロアスター教辺りが想定されるが、或いは、もっと山岳部の局地的な既に失われた原始信仰ででもあるのかも知れない。本邦の読者に判り易いように中国の道教のそれを転用したものであろう。今野氏もそのように解され、『ここでは病気平癒を祈願する呪的宗教側面を利用したもの』と記されておられる。

「谷に滿(み)て」難解な箇所である。私は「谷」から、その神として、老荘思想の「谷神」(こくしん)、則ち、無為自然の核心にある原母(グレート・マザー)的な玄牝(げんぴん)を想起したが、今野氏は『直訳すれば、谷に満たしての意となるが、前出の「山ニ成シ」の対句で、無数の馬・牛・羊等の供犠、つまりいけにえとして供えた意。』とされる。確かに、その方が躓かない。訳でもそのようにした。

「巫(かむなぎ)」ここはシャーマン。男女を問わない。悪のバイプレーヤーとしての「一人の神主」も無論、そうした中の一人で神官の位を得ている者である。寧ろ、こやつは、後から、計略を巡らし、私腹を肥やし、しかも王の信頼厚く、故に王室の内部まで、惡どく深く食い込んでいることが明らかになることから、特定の歴代神官を務めてきた豪族の男性のそれと考えるべきであろう。謂わば、「巫女」ではなく「巫覡(ふげき)」ということである。しかも、後の逆切れの謂いから、多くの巫(かんなぎ)連中も、皆、彼の子飼いなのであろう。

「國王還らせ給はむまゝに、平𡀍し給ひなむとす」この場合、この神を祀る場所から宮城へお戻りになると、直(じき)に平癒すると述べていることが判り、有意に宮城からは離れた位置にあり、二日以上かかる場所にあることが、王子死亡の知らせから、判る。

「沙門」言わずもがな、世俗を遁れた仏教に修行僧を指す一般名詞。

「御子、必ず死に給ひなむとす。助け給はむに、力、及ばず。」症状を聴くシーンがカットされているか。本人を見るわけでも、病態を問うこともせずに、かく言っているならば、一種のハッタリのように読めるが、「宮に還らせ給はむを、待ち付くべからず」とまで言い切っているのであれば、王子の様態は伝えられたととるべきであろう。また、この謂いを仏教の無常観に基づいて、この沙門がそれを中・長期的に語っているとならば、悪意の有無は別として、しかも人間に当然やってくるところの「死」の到来の、予言者の常套的やり口ではある。但し、そこで若き王子の病いの原因を、「天皇(てんわう)の御靈(ごりやう)の所爲(しよゐ)」と個別的に断定している点では、かなりアクロバティクな部分がある。この謂い方は、現在、目の前にいる王の父或いは先代の王の御霊(ごりょう)、則ち、「亡き先王の遺恨に基づく」と、当時の読者は読んだはずである。但し、今野氏によれば、『西域記の「王先霊」によれば、国王の前生の霊の意となる。』とある。すると、この沙門はこの国に行脚に入った際、或いはその周辺国にあった時に、この国の先代王と現在の王のよからぬ紛争或いは事件を知り得ていたのかも知れない。しかし、よく考えると、これを、「王さま、あなたの中の御霊(みたま)の成すところの因果によって王子は死の病いを遁れらぬのです。」と語っているのだという意味に、この沙門の言葉の真意とることは、必ずしも、難しいことではない。寧ろ、因果応報の輪廻思想を語り出したら、一時では伝えることは修行僧の身では無理であるからして、それなりの知識から病態が重篤であることを、感じ取った沙門が、王子の死という最悪の事態の到来をごく近いと認識して、かく意味深長に述べたとすれば、私はそれなりに腑に落ちはするのである。

「不同也」特に和訓が振られていないので、「不同(ふどう)なり」と読む。言わずもがなだが、「二人」とは、「一人の神主」と、この沙門と、である。

「何(いかで)か捕へ仰せ給ふ」この「捕へ」は現行の「捉える」と同義である。王子の助かることを望んでいる王自身が、軽薄な一神主のおべんちゃらを、希望的に安易に捉えて安心していることに対して、強く批難しているのである。

「二日許り有りて、神主、參れり」この神官が宮城の近くには住んでいなかったとは思われず、或いは、王はわざと「都合のいい時に来ればよい」と伝えて、神官が疑心暗鬼を起こして何かの探りや準備や逃走などを起こさないように、わざと使者に言わしめたのであろう。

「努〻(ゆめゆめ)、人に、此の事を、知しむべからず。」この王の禁制は、専ら、神主の神託の噓を暴き糺すためのそれである。

「未だ𡀍えず畢りぬ」未だに平癒しないままである。「畢りぬ」は現在進行形で「ある状態がそのまま続いてしまっている」の意。王は敢えて死を隠して、どう答えるかを探ろうとしているのである。

「一切衆生(いつさいしゆじやう)を羽含(はぐく)み哀れむで、其の憂へを背(そむ)かじ。」仏教説話として、異教徒の神官の言葉を判り易く変換したものだが、その不遜なわめきが、寧ろ、王子の死を感知出来ていない似非者であることを暴く致命的に救い難いシークエンスとして見事に描かれている。なお、言わずもがなであるが、これは「と誓ふ事、父母(ぶも)の如し」とあるからには、これはその現在の王に対する、絶対誓約ではなく、その異教国の神に対するそれである点で、第三者である読者は、既にして救う余地のない売僧(まいす)としか思えないように、この台詞が決定的に示されているところがツボと言える。

「苦(ねむごろ)に」「苦」には「苦学」「苦心」のように「努める・骨を折る」、や「苦求」のように、「普通でなく・甚だ・ひどく・極度に」の意がある。

「□河」「今昔物語集」でしばしば出現する、その場で漢字を忘れたので後に漢字を書き入れるために空けた意識的欠字とするが、私は諸本で注されるこの文句がやや不審である。時には何かを憚って欠字にしたと考えられるものもあるからである。例えば、本篇でも国名をわざと隠してあるのであるから、河川名をちゃんと書くこと自体が、天竺のどこかというボカした設定と矛盾するから、わざと欠字とした方が遙かに納得出来るからである。なお、今野氏によれば、「西域記」では、『縛芻河』とあるとする。この川、調べてみると、ギリシア語文献で「オクソス」と呼ばれている川で、アフガニスタンとタジキスタンの国境を流れる現在のアムダリヤ川(グーグル・マップ・データ)に比定されている。昏駄多城の五〇キロ以上西方であるが、頗る腑に落ちるものである。

「藉(かり)なる」「藉口」(しゃこう)という熟語があり、「何かにかこつけて言うこと・適当に口実を作って言いわけすること」の意がある。

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

   羅漢の僧、国王の太子の死を教えた事第十二

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、遠い天竺に、一つの小さな国があった。

 その国は、もとより、異神をのみ信じて、仏法を信じていなかった。

 さても、そのような中、その国の王に一人の王子(おうじ)があり、また、他には子はなかった。

 さればこそ、国王はこの王子を愛すること、宝玉を愛するようであった。

 ところが、この王子、十歳あまりになった頃、身に甚だ重い病いを患った。

 医師たちの療治を以ってするも、一向に癒ゆるようすがなかった。

 呪術師に命じて処方の秘術を行ってはみたが、やはり、験(しる)しは、ない。

 そのため、父の王は、一日中、嘆き悲しんで、年月(としつき)を送ったのだが、しかし、王子の病いは、いよいよ、増すばかりで、癒ゆる気配は、微塵もなかった。

 国王は、このことを深く思いわずらって、この国に、上古(じょうこ)より崇め祭ってきている古き神がましせばこそ、国王、その神のましますという所に詣(まい)って、自(みずか)ら祈請をなされた。その折りには諸々の財宝を運び、山のように積み上げ、馬や牛や羊などを、生贄として谷に一杯に満たし、

「王子の病いを速やかに癒やし給え。」

と申し上げた。

 宮司や巫(かんなぎ)連中は、その生贄を恣(ほしいまま)に取り、思うままに飲食や供物を、堂々と、自分の腹や隠しの中に収め、まさに飽きるほどに満足していた。

 さても、かくまでして、最早、することがなくなったと思うと、一人の神官に神さまが憑(つ)いて、王の前に出で来たって、啓示して言うことには、

「……御子(みこ)の御病(おんやまい)は……国王が宮城へお還りなされたその折り……まさに平癒し給はんとする……国を平和に保たせなさって……民も平安にして……世も平静となり……この天下と我らが国の内(うち)……どこもかしこも総て皆……喜びをなすであろう……」

と。

 国王はこれを聞いて、喜びなさること、限りなく、感に堪えず、腰に佩(は)いていたところの重宝の太刀を、帯を解いて、その神官に賜い、さらに褒美の金品を加えてお与えになられた。

 かくのごとく、滞りなく祭祀は終わって、宮城にお還りになる、その途中で、一人の仏僧とすれ違われた。

 国王は、僧を見て、

「あの者は何者であるか? 容貌も普通の我らと似ておらず、衣服も常人と違うが。」

と問われたので、お側にあった者が申し上げた。

「これは『沙門(しゃもん)』と申します者にて、仏教の仏陀の御弟子(みでし)で御座います。頭(かしら)を剃って『出家』した者に御座います。」

と。

 国王が仰せられるには、

「然(しか)らば、この人は、きっといろいろと物を知っておるであろうな。」

とて、輿(こし)を止めさせて、

「かの沙門をここへ召せ。」

と仰せになられたので、その召しによって、沙門は、王の前に参って立った。

 国王が沙門に仰せらるるには、

「私には一人の王子がある。長い月日、身に病いがあって、医師の力もまるで及ばず、我らが神へ祈っても、その験(しるし)、これ、全く、ない。その生き死に、未だ、定まらぬ有様である。このこと、そちは如何に思うか?」

と。

 沙門は答えて言うに、

「御子(みこ)は、必ず、死になさるに違いないと存ずる。お助け申し上げるには、我らの力は、及ばぬもの。それは、これ、国王御自身に纏わる御霊(ごりょう)の結果なればこそに御座いまする。宮城にお還りなさるる、その間も、御子の死は、待ってはくれませぬ。」

と。

 国王は、

『神官と沙門と、二人の言うことは、全く違うではないか。誰の言うことが、真実なのだ?』

と、知り難く思われて、

「神官は『病いは治癒なされましょう。御子の命は百歳を超えることで御座いましょう。』と言ったに、この沙門は、かく言ったのだが、一体、孰れを信ずるべきか?」

と仰せられたので、それを聴いた沙門が申し上げることには、

「それは、僅かに、ちょっと御心(みこころ)を安らかにし申し上げようとの思いつきで、自らも判っていない、真意の微塵もないことを申したに過ぎませぬ。世の中の凡人の、何のまことの分別も持ち合わせていない者が言うようなことを、どうしてそのように意固地に都合よく信じようとなされるのですか?」

と、きっぱりと断言した。

 さて、王は宮に還り着いた。

 真っ先に、急ぎ問い糺されたところ、何んと、

「昨日、王子は、既にお亡くなりになられまして御座います。」

と上奏されたのであった。

 すると、国王は、

「ゆめゆめ、他の誰にも、この事を、知らせてはならぬ!」

と仰せられて、先般、神憑きを起こした神官を召すために使者を遣わした。

 二日ばかりあって、神官が参上した。

 国王は、仰せられて言うに、

「我が王子の病い、未だに快方に向かわぬ状態にある。一体、どういうことなのか? 頗る不審なるによって召したのだ。」

と。

 すると、神官に、再び、神が憑いて、啓示して言うことには、

「どうしてお前は私を、かくも疑うのか?! 私は『一切の人々を育み、憐れんで、その憂えを解き放つこと、これ、背(そむ)くまいぞ!』と誓うこと、これ、父母(ふぼ)に誓うのと同じじゃ! 況んや、国の王の、心を込めて願わるることなればこそ、愚かに思うことなど ない! 我れ、虚言(きょげん)をなすことなど、ない! もし、虚言したと言うなら、正しき我れを崇(あが)めるべきではなかろうぞッツ! 我れの正しき巫(かんなぎ)らをも貴(とうと)ぶべきであるまいぞッツ!」

と、かくのごとく、言いたい放題、言い放った。

 国王は、それを、よくよく聞いた後(のち)、有無を言わせず、神官を捕えて、仰せになることに、

「汝ら、年来(としごろ)、人を欺(あざむ)き、世界に謀略をなし、人々の蓄財を恣(ほしいまま)に搾取し、偽物の神を以って『憑依した』と噓をつき、国王を始めとして、人民に至るまで、その誠実な心をも、惑わし、人の持ち物を不法に騙し取っているではないか! こやつは、巨悪に盗人(ぬすびと)に他ならぬ! 速かに、その首を斬り、命を断つべきものだッツ!」

と仰せられて、目の前で、神官の首を刎(は)ねさせた。

 また、軍隊を遣(つかわ)して、神の社(やしろ)を突き壊して、□河という大河にそれを流した。

 そればかりではない。その宮司や、神官の身分の高いものから、低い者まで総て、多くの人の首を、刎ねて野に捨て去った。

 年来(としごろ)、人の物を謀(たばか)り盗(と)ったところの千万の貯えも、総て、没収した。

 その後(のち)、

「かの沙門を召せ。」

という仰せがあって、沙門が参った。

 国王は、自(みづか)ら出でて迎え、王宮の内に請(しょう)じ入れ、高床(たかゆか)にしつらえてある場所に座らせ、礼拝(らいはい)して仰せになったことには、

「我れ、年来(としごろ)、この神官や神人(じにん)どもに謀(はか)られて、仏法の何たるかを知らず、また僧を敬(うやま)うことをせなんだ。されば、今日(きょう)より、永く、人の愚かな言葉を信ずるまいぞ。」

と。

 僧は、それを聴くと、王と王国と、ひいては人民のために、法を説きて聴聞させた。

 国王を始めとして王宮の人々や人民は、皆、これを聞いて、貴(とうと)み、拝んだことは、これ言うまでもない。

 即座に、その王城の一郭(いっかく)に寺を造り、塔を起てて、この僧を住まわせた。そこにまた、多くの僧を招いて、常に供養を怠らなかった。

 但し、その寺には、一つの不思議があるのである。

 主尊の仏像の御上(みうえ)に、天蓋があって、美しく輝く金銀宝石を以って荘厳(しょうごん)してある。極めて大きな、その天上に懸けてある天蓋の下、人が寺に入って、仏像を巡(めぐ)り奉れば、その人の巡るに随って、天蓋も、また巡るのである。人が、巡る歩みをやめれば、天蓋も、また、巡りが、やむのである。そのことについては、今に至るまで、世の人、何故そうした不思議が起こるのか判らぬのである。

「仏(ほとけ)の御不思議の力によるものであろうか。或いはまた、その天蓋を拵えた内匠(たくみ)のありがたい仕掛け物によるものであろうか。」

と、人は言うているということである。

 その国王の時より以降、その国では、巫(かんなぎ)が絶えたと、かく語り伝えているということである。

2022/04/16

南方熊楠「龍燈に就て」(一括縦書ルビ附PDF版)公開

南方熊楠「龍燈に就て」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・2.9MB・51頁)を「心朽窩旧館」に公開した。

2022/04/15

譚海 卷之四 同所ゆは海の藻を取て紙を製する事

 

○池田より七里半西の宮のかたにあたりてゆはと云(いふ)所有。そこになしを村[やぶちゃん注:編者右注があり、『(名鹽)』とある。]といふ所有、六十竃ほどある村也。其村長孫右衞門と云もの、海の藻をとり紙に漉(すき)入る事をなし富をなせり。すべて大坂東海道に至るまで用る所の紙は、皆孫右衞門が製する所のものにて、日々十駄廿駄程づつ運び出す事也。

[やぶちゃん注:「同所」「播州池田酒造る水の事」を受けたもの。

「ゆは」不詳。兵庫県西宮市弓場町(ゆばちょう)があるが、ここ(グーグル・マップ・データ)で、以下の名塩とは遙かに離れている。思うに、ウィキの「塩瀬村(兵庫県)」を見たところ、『弓場家は名塩の名望家』とあり、或いは、それを聴き誤ったものかも知れない。

「なしを村」かなり内陸であるが、兵庫県西宮市塩瀬町名塩か(グーグル・マップ・データ)。ここで漉かれた紙は「名塩紙」(なじおがみ)或いは「名塩雁皮紙」(なじおがんぴし)と呼ばれ、古くから知られるものの、海藻が原料ではない。小学館「日本大百科全書」によれば、越前国から紙漉きが伝えられたとの伝説が知られており、ガンピ(雁皮)を原料に、この土地特産の色相の異なる粘土を漉き込むのが特徴で、東久保(とくぼ)土(白)、天子(あまご)土(微黄)、蛇豆(じゃまめ)土(薄褐色)、五寸土(青)などの粘土が紙料に混入される。「泥入間似合」(どろいりまにあい)の名で室町時代末期(十六世紀中頃)から有名になったが、「間似合」は「半間(はんげん:約九十センチメートル)の間尺(まじゃく)に合う幅の広い紙」の意味で、「間合」とも書き、襖や屏風に利用された。また、泥入り紙は耐熱性があるため、箔打ち紙に賞用されるほか、防虫性のため、薬袋(やくたい)紙や、茶室の腰張り紙としても使われる。ごく薄手の名塩紙は、京都の本願寺の聖経用紙にされたこともある、とあり、津村は「塩」からか、大勘違いをしているようである。]

譚海 卷之四 播州池田酒造る水の事

 

○播州池田は一村酒家也。其酒を造る水を其所の川水をくみてつくる也。其川上に穢多住(すみ)て常にけものの皮をあらふ。池田の方言にゑたをば藤内と云也。一とせ酒家とも相談して、いかに藤内川上に住(すま)ばとて、まさしく酒に造る水をくむ川上にて、皮をあらふ事、もののけがれいはんかたなし。皮をあらはせじとて、穢多と公訴に及(および)ければ、ゑた終(つひ)にまけて皮をあらはぬ事に成(なり)たり。其秋池田にて造(つくり)たる酒殘らず風味よろしからず、翌年同じ事にて三年に及(および)ければ、いかにも是は先年より仕來(しきた)りたる事を止(やめ)たるはあしとて、又穢多に降參して、もとの如く皮を洗ふ事に成たれば、池田の酒の風味又もとの如く宜しく出來(いでき)たるとぞ。

譚海 卷之四 大坂城銅の御殿張付畫の事

 

○大坂城中銅の御殿といふは大奧の間也。其書院の繪に鳴き鶯といふ有、籠に入(いれ)て飼(かひ)たる所を繪がきたるが、さながら聲を發してさへづる如く、精神言語同斷也。むかしは聲をたてて鳴(なき)たりといひ傳ふ。又御黑書院には臺德院殿の御筆の鷄をゑがゝせ給ふあり、すべてふすまの張付の金箔、今時の金とは雲泥の光なりと云り。

[やぶちゃん注:「鳴き鶯」この絵は現存しないようである。]

譚海 卷之四 和州春日社鹿の事 附東照宮御由緖の事

 

○和州春日社の鹿殺生禁斷の事は、すでに東照宮御自筆の證文を出され、御自筆の手判を押れたる免狀、其法務一乘院宮の寶庫に納め、鹿の御朱印とて傳へたり。さる間(あひだ)今に至(いたり)て報制にあまへ、鹿の橫行する事他邦に異也(ことなり)。凡(およそ)鹿の角を隕(おと)す事、春の彼岸より十日以前に有(あり)、其比(そのころ)に至れば鹿たけくいさみて、人にとりかゝる事有。角にて人をそこなふ事ある故、角のおつべき比になれば、あらかじめ穢多(ゑた)に仰(おほせ)て、鹿を逐ひとらへて角を切(きる)事也。此(この)穢多五六人程づつ手を組(くみ)て、竿の先に網を付(つけ)たるを持(もち)、鹿を追(おひ)つめる、其時は町々門戶(もんこ)をとぢ、木戶をさして往來を禁ず。あやまちて人家に鹿追入(おひい)らるゝ時は難儀起る故也。さて穢多鹿を木戶際に追つめ、網をかぶせ地に倒(たふ)しとらへて、鋸(のこ)にて角を切取り、坊主にして追放(おひはな)せば一さんにかけ行(ゆく)也。其角を斷(たち)たる跡少し殘りたれど、角の落(おつ)る時にはかゆみ堪(たへ)がたきゆゑ、殘りたる角にて人を追來(おひきた)り、かしらにて人の胸を押行(おしゆき)、とまる所まで押し行(ゆく)也。塀或(あるい)はついぢなどに押付られたる時、兩の手にて鹿の耳を打(うて)ば驚きはしりさる也。又往還にて人にかゝりたる時は、そのまゝ地にうつふしてをれば、鹿兩の手にて人のうなぢを打(うち)たゝき、しばらく有(あり)て其人息をせずこらへをれば、鹿人の鼻息をかきて死(しに)うせたるとこゝろへて鹿立去(たちさる)也。少しも身を動かさば鹿思ひのままにたゝきて、衣裳をかきやぶり、はだへに疵(きず)を付(つけ)らるる事儘有(ままあり)。又町中にて鹿(しか)子をうむ事有(あり)、その時はそのまゝ一乘院へ訴へ申(まうし)、其時宮より檢使來りて糺(ただ)し養育すべき由申渡(まうしわたし)歸る也。其(その)肥立(ひだつ)間(あひだ)母鹿(ははしか)子をとられん事を恐れて人にかゝるゆゑ、鹿の子生たる町へは皆人惧(おそれ)てあしぶみせず。又病(やみ)たる鹿來る時は町送りにして、其鹿たふれふしたる町よりかたの如く訴へ出る。是を養鹿(やしなひじか)とて子をうみたる鹿の如く大切にする也。若(もし)鹿死(しし)たる時は西大寺の邊(あたり)に小山有(ある)所へ埋(うづ)み、宮より法事を行(おこなは)るゝ也。すべて其(その)町に住馴(すみなれ)たる鹿有(あり)、其鹿他の町へゆけば、又其所(そのところ)の鹿とあらそふゆゑ、外(ほか)へ移る事なし、ならの一厄(いちやく)也。前年も水戶播磨守殿家士、鹿(しか)子うみたる町をおして通り鹿をたゝき、大(おほき)にむづかしき事ありし也。又奈良の町に布屋(ぬのや)やしきといふ所あり、是は往昔(そのかみ)東照宮しばらく御旅館の跡なれば、明地(あきち)にして繩を張(はり)て猥(みだり)に人の入(いる)事を禁ず。誤(あやまり)て亂入するものあれば、卽時に狂氣などする事儘多(ままおほ)し。神君の威靈(いれい)思ひやるべし。又其かたわらに勘合明神の祠(ほこら)あり、是も東照宮の甲胃を奉納させ給ひしとて今に有。國初の時東照宮の御由緖あるものは訟(うつた)へ出(いづ)べき御由緖有(あり)しに、其時の神主懶惰の者にて其義に及ばず、はるかに時をへて後の神主訴へ出けれども、御朱印の御沙汰にも及ばず。御かぶとは上へ召れて、今は御鎧ばかりありと云。

[やぶちゃん注:「勘合明神の祠」奈良県奈良市漢国町(かんごくちょう)にある漢國神社(かんごうじんじゃ:グーグル・マップ・データ)。慶長年間(一五九六年~一六一五年)に徳川家康から、法蓮村において知行田五反余りを寄付され、社殿の修理を行っており、鎧蔵があり、宝物として、慶長一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」の際、徳川家康が社参し、奉納した鎧一領がある。これを納める土蔵を鎧蔵と呼んでいるが、現在、その鎧は市指定有形文化財に指定され、奈良国立博物館に保管されており、現在の同神社には、神楽殿にレプリカが展示されていると、同神社のウィキにあった。]

譚海 卷之四 藝州用聞町人傘屋善六事

 

○松平安藝守殿用達町人に、傘屋善六と云ものあり。恆例にて每年始目見得(めみえ)に、鳥目貳拾疋づつ緡(さし)にさしたるまゝにて進上する事也。夫を取次の人をへずして、自身守のまへゝ持出さゝぐる例也。

[やぶちゃん注:理由が不明なだけに消化不良を起こす。]

譚海 卷之四 山城國淀住人田村源太郞事

 

○山城の淀の橋本村に田村源太郞と云人有、是は田村將軍の末葉なるよし。その所のもの甚崇敬する事なり。其家元日には四品(しほん)の裝束して嘉儀をとゝのふる事とぞ。

[やぶちゃん注:「橋本村」京都府八幡市橋本(グーグル・マップ・データ)。

「田村將軍」かの二度に亙って征夷大将軍を勤めた坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)のこと。]

譚海 卷之四 上野國世良田住人隼人の事

 

○上州世良田(せらだ)に生田(しようだ)[やぶちゃん注:底本のルビ。ママ。]隼人と云もの有、代々生田村の住人也。德川家御由緖のものにて、年始の御禮には每年江戶へ出仕登城し侍る事也。其せつ小判一兩獻上する事舊例にて、今にかくのごとし。此隼人元は一村の領主成しかども、微祿して所領はのこらずその村の百姓のものとなり、只浪人の如くその村に住居し、一村主人の如く崇め居る事也。夫ゆゑ每年始には駕籠のもの、供に具する人まで、一村の百姓これをつとめ、尤進獻の小判も村中にて拵ひ、よろづ介抱して出立する事也。享保年中御禮の節、名を披露するを御聞被レ遊、御旗本に生田(いけた)[やぶちゃん注:同前。]隼人と云人有、文字同じ事なれば、臺命(たいめい)にてそのせつより此世良田の隼人は、正田と姓名を改させ給ふとぞ。

[やぶちゃん注:「世良田」現在の群馬県太田市世良田町(せらだちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ここに世良田東照宮があり、この社殿は、元和三(一六一七)年に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、寛永二一(一六四四)年にここへ移築したものである。ウィキの「世良田東照宮」によれば、『この地は新田氏の開祖・新田義重の居館跡とされ、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田氏の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされ』、嘗ては三大東照宮を名乗っていたことがあったという。クロ氏のブログ「古今東西 御朱印と散策」の「徳川東照宮 (群馬県太田市)」(ここは世良田東照宮から南東直近(一キロ強)同市徳川町にある。ここ)に書かれてある歴史的解説を読まれたいが、そこに『徳川氏始祖得川義季(世良田義季)公から八代目である親氏公は、南北朝の戦いで室町幕府による新田氏残党追捕の幕命により新田之庄を出国せざるをえなくなり』、『得川郷(徳川郷)の生田隼人は、親氏公の出国時に銭一貫文と品物を餞別とし、郷内の百姓とともに中瀬(現 埼玉県深谷市)までお見送りをし』『た』が、『その時に親氏の領地を預けられたことで、以後』、『生田家が徳川郷主とな』り、『親氏はその後、三河国の松平郷(現愛知県豊田市松平町)に流れ着き、松平親氏として、そこを拠点とし』たとあり、この『松平親氏は八幡神社松平東照宮に徳川家康とともに祀られてい』るとある。さらに、天正一九(一五九一)年、『徳川郷主生田家十六代生田義豊は、武州川越(現埼玉県川越市)で徳川家康に拝謁し、「新田徳川系図」の提出と生田姓から正田姓への改めを命じられ』、『同年十一月には、家康公より徳川郷へ三百石の御朱印を寄進、正田家に徳川遠祖の御館跡を子孫末代まで居屋敷として所持してよいと仰せつけら』れたとある。そして寛永二一年(一六四四)年の先の『世良田東照宮勧請にともない、十八代正田義長は邸内に私的な東照宮を建立し』、『これが徳川東照宮の始まりと』されているとする。『この正田邸内に建立された東照宮への参拝は四月十七日と正月のみ庶民に許可され』、『祭祀は正田家が執り行ってい』たとある。さて、「正田」という姓で気づかれるであろうサイト「物語を物語る」のこちらを見られたいのだが、『正田家が新田一族の末裔であるという説明は、簡素ではあるが、ちょっと気のきいた本にも書かれている』として、「平成皇室辞典」(主婦の友社)を引き、『「正田家 皇后陛下のご実家は新田義重(源義家の孫)の重臣生田隼人重幸を祖とすると伝えられ、江戸時代に正田姓を名のり……」』と説明され、別に生田氏は『新田氏の家臣、新田一門だったといった記述も見られる』とある通り、現在の上皇后美智子さまが、まさにこの正田家の正統な子孫なのである。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「三」・「附言」・「後記」・「龍燈補遺」 /「龍燈に就て」~完遂

 

[やぶちゃん注:本篇の特別な仕儀については、「一」の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 

 諸國里人談三や倭漢三才圖會四一に、鵁鶄〔ごいさぎ[やぶちゃん注:ママ。]〕夜飛べば火の如く光ると有り、大和本草には蒼鷺〔みどさぎ〕を妖怪とするは夜光るからと云ふ。七、八年前田邊近所岩城山稻荷の神林から、夏の夜粗(ほぼ)定(きま)つた時刻に光り物低く飛下(とびくだ)るを、數夜予も橋上の納凉衆(すずみしゆ)と俱(とも)に見た。狩獵に年を積んだ人が彼(あれ)は蒼鷺が田に餌を求め下るんぢやと言うた。林羅山の說に、夜中に小兒の啼聲の樣なる怪を「うぶめ」と名くるを、ひそかに伺ふと靑鷺だったと或人語つたとある(梅村載筆天卷)。倭漢三才圖會には、九州海濱に多い鷗の樣で夜光る特種の鳥だと有る。伊太利人は鬼火を山のと平野のと二種に分(わか)ち、何れも腹部等が螢の如く光る鳥だと信ず。プリニウスの博物志十卷六七章に、獨逸のヘルキニアの林中にその羽夜火の如く光る鳥住むと云ひ、一八八五年板ベントの希臘諸島住記〔ゼ・シクラデス〕四八頁には、希臘の舟人今もエルモ尊者の火を惡兆を示す鳥が來て檣頭(しやうとう)に止る者と做(みな)すを以て考ふれば、ユリツセスが航海中ハルピースなる怪鳥に惱(なやま)されたと傳ふるも、同じくこの火を鳥と見立てたのだらうと述べて居る。ペンナントが十八世紀に出した動物學には、冬鷗〔ウインター・ガル〕、冬中海を去(さり)て遠く英國内地の濕原に食を覓(もと)む。星彈〔スター・シヨツト〕又は星膠〔スター・ジエリー〕とて膠樣(にかはやう)の光り物は、其實此鳥等が食つて消化不十分な蚯蚓を吐出(はきだ)したのだと有るが(ハズリツト諸信及俚傳二・六三六頁)、其が本當なら樹梢に吐懸けて光らすこともあらう。

[やぶちゃん注:「諸國里人談三」既出。私の「諸國里人談卷之三 焚火(たくひ)」を参照されたい。

「倭漢三才圖會四一」私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」を見られたい。

「大和本草には蒼鷺〔みどさぎ〕を妖怪とするは夜光るからと云ふ」不審。何故なら、「大和本草」にはそんな記載はないからである。国立国会図書館デジタルコレクションの原本で示すと、同書のこちらが「鷺」(総論)の項で、こちらには「五位鷺」の項があるが、孰れにもこれに類する記載はなく、「蒼鷺」の独立項もない(図品部も確認した)。私は思うに、これは直前で述べた和漢三才圖會第四十一 水禽類  鵁鶄(ごいさぎ)を熊楠は誤認したのではないかと思う。そこで寺島良安は、

   *

凡そ、五位鷺、夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし。月夜、最も明なり。其の大なる者、岸邊に立ちては、猶ほ、人の停立するがごとく、之れに遇ふ者、驚きて、妖怪と爲す。

   *

と記しているからである。但し、一点、気になることはある。そこで良安は「五位鷺」とし、「蒼鷺」とはなっていないことである。しかも「和漢三才圖會」では独立して「第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」を立項しているが、熊楠の言うような記載は全くないのである。なお且つ、それぞれの私の注を見るまでもなく、ゴイサギとアオサギは別種である。無論、同じサギ亜科 Ardeinae で背が青いところは似てはいる。私が気になるのは、熊楠直前で「鵁鶄〔ごいさぎ〕」(正しくは「ごゐさぎ」)と書いて、すぐ、ここでは「蒼鷺」と明記している点である。この錯誤は何に拠ったのか? 気になり出すと、放ってはおけないのが私の性分である。一つ、「これでは?」と思うものを見つけた。人見必大の「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したものである。)の「〈五 水禽〉」にある「五位鷺」の記載である。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像で訓読する(同書は訓点附き漢文。読みは大幅に私が補った)。その「集解」である。下線は私が引いた。

   *

五位鷺

釋名[やぶちゃん注:略す。]

集解 狀(かた)ち、蒼鷺(あをさぎ)に似て、小さし。灰白色にして、碧光(へきくわう)、有り。頂きに、紅、有りて、毛、冠(かんむり)のごとし。翠(みどり)の鬣(たてがみ)、碧(あを)の斑(まだら)、丹(に)の觜(はし)、靑き脛(はぎ)、高き樹(き)に巢くひ、樹の杪(こぬれ)に宿(やど)し、水中に飮む。能く魚(うを)・鰕(えび)を捕ふ。其の味、甘鹹(かんしん)と雖も、夏は、味はひ、蒼鷺に似て、稍(やゝ)佳(か)なり。冬は、臊氣(さうき)[やぶちゃん注:腥い臭い。]有りて佳ならず。凡そ、五位、夜、飛ぶときは、則ち、光り有りて、火のごとく、月夜、最も明(あきらか)なり。或いは、大なる者、岸邊に立てば、巨人のごとし。若(も)し、人、識らずして之れに遇へば、驚惧(きやうく)し、「妖怪」と爲(な)して、斃(たふ)る。此れ、妖(えう)と爲(す)るに非(あら)ず、人、驚きて妖と爲るなり。或るひとの謂はく、「若し悞(あやま)りて、夜、小兒の衣服を暴(さら)して[やぶちゃん注:取り入れずに干し続けて。]、五位、其の衣の上に糞(くそ)して、人、之れを知(しら)ずして、小兒に著せしめば、則ち、驚啼して止まず、竟(つひ)に奇病を發す。」と。是れ、未だ其の證を詳らかにせず。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

私が何故、これを挙げるかというと、「蒼鷺」「五位鷺」「光」「妖怪」の四五が完全に総て含まれており、後半は更なる「妖怪」性の具体例が語られているからである。但し、ご覧の通り、これは「五位鷺」であって「蒼鷺」ではない。しかし、アオサギの方がゴイサギより大きく、私は見かけるたびに、「妖怪」どころか、何時も「沈思黙考に耽る哲学者」のように感ぜられて、大好きな鳥なのである。なお、サイト「tenki.jp」の『光る鷺「青鷺火」の真相とは?田園の守り神・鷺のミステリー』の前編がよく書けており、なお、そこにも書かれてある通り、サギ類が発光する理由として発光バクテリアが附着しているからだとする説がまことしやかに語られているのであるが、そのような標本を採取し、示したデータは未だに皆無であり、信ずるに足らない。寧ろ、私は腹部の白さが、僅かな月などの自然光や、遠い街頭・人家の燈火などの人工光を反射させているものと考えている。

「岩城山稻荷」伊作田稲荷(いさいだいなり)神社(グーグル・マップ・データ)。

『「うぶめ」と名くるを、ひそかに伺ふと靑鷺だったと或人語つたとある(梅村載筆天卷)』三種の写本を縦覧したが、発見出来なかった。

「倭漢三才圖會には、九州海濱に多い鷗の樣で夜光る特種の鳥だと有る」「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」を参照。そこで妖怪としての「うぶめ」についての私の複数の電子化物へリンクもさせてある。

「プリニウスの博物志十卷六七章に、獨逸のヘルキニアの林中にその羽夜火の如く光る鳥住むと云ひ」所持する平成元(一九八九)年雄山閣刊の中野定雄他訳になる第三版「プリニウスの博物誌Ⅰ」から引く。『われわれはゲルマニアのヘルキニアの森に、夜になると火のように輝く翼をもつ不思議な種類の鳥がいると聞かされている。しかし他の森ではそれが遠いというので評判が悪いこと以上に別に変ったことは起こらない。』。ヘルキニアの森は、現在のドイツ南部からチェコにかけての山岳地帯、特に現在のチューリンゲン・ボヘミア・モラヴィアの辺りを指すと考えられているらしい(ブログ「地球と気象・地震を考える」の『地球環境の主役 植物の世界を理解する22 森の民ゲルマーニー人を「ガリア戦記」より読み解く』に拠った)。この中央附近に当たる(グーグル・マップ・データ)。

「一八八五年板ベントの希臘諸島住記〔ゼ・シクラデス〕四八頁」イギリスの探検家・考古学者で作家でもあったジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の“The Cyckades”(「キクラデス諸島」:エーゲ海中部に点在するギリシア領の二百二十以上の島から成る諸島。位置は当該ウィキの地図を参照されたい)。当該箇所は「Internet archive」のこちら

「ユリツセス」ホメロスの「オデュッセイア」の主人公でギリシャ神話の英雄オデュッセウス。彼の英名「Ulysses」(ユリシーズ)の音写。

「ハルピースなる怪鳥」オデュッセウスが海上で誘惑された海の怪物セイレーンは、当初は上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿とされたが、ロケーションから後世には魚の姿と変化してしまった。熊楠の音写もの元はよく判らぬが、古代ギリシャ語の異名の一つに「パルテノペー」「テレース」辺りを混同したものか。

「ペンナントが十八世紀に出した動物學」ウェールズ出身の博物学者トーマス・ペナント(Thomas Pennant 一七二六 年~一七九八年)動物学を冠した書は複数あるが、以下の記載からは、一七六六年に刊行した最初の“The British Zoology, Class 1, Quadrupeds. 2, Birds.” の「第二部 鳥」か。

「冬鷗〔ウインター・ガル〕」winter gull。チドリ目カモメ科カモメ属セグロカモメ Larus argentatus の後頭部から頸にかけて褐色の小斑が現われる冬羽のそれか。

「星彈〔スター・シヨツト〕」star shot。

「星膠〔スター・ジエリー〕」star jerry。

「蚯蚓」発光するミミズは、北半球の温帯地域(ヨーロッパ・南北アメリカ及び日本)に広く分布する環形動物門貧毛綱ナガミミズ目ムカシフトミミズ科 Microscolex 属ホタルミミズ Microscolex phosphoreus 等(同種については当該ウィキを参照されたい)が知られており、腑に落ちる。

「ハズリツト諸信及俚傳二・六三六頁」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著“Faiths and Folklore”(「信仰と民俗学」)。Internet archive」のここだが、六三七ページにかかっている。]

 

 本篇の首に引いた夏竦(かしよう)上元應制詩に龍燈に對して用いた鶴燄も、或は鶴に似た鳥の羽が火の如く夜光るを指した物か。新井白石が室鳩巢に話せし其頃、常陸の鹿島の社への鳳凰來義と云ふ事、「一夕(いつせき)夜深(ふけ)てサワサワと社も鳴動仕り候て、暫く有之(これあり)何かは不分明に候へども廣庭の中ひしと寶珠の如く成(なる)もの敷(しき)候、光輝申候。稍(やや)有(あり)てのし申(まうす)と見え、又最前の如く鳴動有之。右の珠一所により候樣に見え候て飛去り申候。怪異の義と社人ども駭(おどろ)き候て鳳凰抔(など)と申す義は存(おもひ)も寄(よら)ず、翌日託宣を上(たてまつ)候處、神託に夜前鳳凰來賓嬉しく被思召(おぼしめしなさる)との義候云々」とあって、白石鳩巢共に之を眞實と心得たらしい書振(かきぶり)だ(鳩巢小說下)。是は何か光り物を見た者が、朧げに孔雀が尾を開き又摺〔たゝ〕む事などに思ひ合せて言出(いひだ)した事らしく、託宣を聞いて始めて分かる樣では餘り宛に成らぬが、鳥が夜光る例の序に書いておく。一九〇五年板フレザーの王職古史〔アーリー・ヒストリー・オヴ・キングシプ〕に、インド洋マルヂヴ島において、每年定期にマレちふ所に鬼を乘せた光る船が夜來るに一室女(ひとりのむすめ)を供へた事を述べて、カイウス大學のガージナー氏親しく彼(かの)島に遊び著者に報ぜしは、今も其潟(かた)共の淺瀨に時々光り物を見るに、磨(すり)ガラスで覆ふた晶燈〔ランプ〕の火のごとしとあるを、老友ジキンス是は未だ學者に精査せられざる動物が一疋每に斯(かか)る無類の大きな光を出すのだらうと說いた(一九〇六年板上古・中古の日本文〔プリミチヴ・エンド・メジエヴアル・ジヤパニース・テキスツ〕飜譯之卷、八八頁)。吾邦なども古(いにしへ)諸處に森林有り、煙突鐵砲は愚か竈の煙や弓矢さえ知らぬ樣な人少ない地多かつた世には、今日既に蹟を絕つた生物も多かつた筈で、鵁鶄〔ごいさぎ〕蒼鷺〔みどさぎ〕斑蜘蛛〔ぢよらうぐも〕螢等現存する僅々諸種の外に、夜光る動物も數有つたなるべく、其光を目擊する機會は今より迥(はる)かに多かるたゞらう。此等生物が光を出すは雨夜とか月夜とかそれぞれ得意の時有り、螢は初夏と云ふ風に、季節の定つた者も多かうつたらう。されば其最も盛(さかん)な夜を多年の經驗で心得置いて、當夜を待ち設けて眺めて其靈異を讃歎し、種々の迷說を附會したのが龍燈崇拜の起りだらう。

[やぶちゃん注:「鳩巢小說下」の当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの「続史籍集覧第六冊」の画像のここから次のページにかけてで視認出来る。活字がすっきりとしていて読み易い。

「一九〇五年板フレザーの王職古史〔アーリー・ヒストリー・オヴ・キングシプ〕」イギリスの社会人類学者で「金枝篇」で知られるジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一九〇五年刊行した“Lectures on the early history of the kingship”(「王権の初期の歴史に関する講義」)。

「今も其潟(かた)共の淺瀨に時々光り物を見るに、磨(すり)ガラスで覆ふた晶燈〔ランプ〕の火のごとし」これは一読、発光性ゴカイではないかと私は確信した。無論、ウミホタルやヤコウチュウでもよいのだが、この潟が本当に潟ならば、この二種よりもゴカイである可能性が有意に高くなる。例えば、本邦では環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ亜目シリス科Odontosyllis属クロエリシリス Odontosyllis undecimdonta が知られる。グーグル画像検索「Odontosyllis undecimdonta fire wormをリンクさせておく。この発光は、まさに「磨(すり)ガラスで覆ふた晶燈〔ランプ〕の火」と形容するに相応しいではないか!

「一九〇六年板上古・中古の日本文〔プリミチヴ・エンド・メジエヴアル・ジヤパニース・テキスツ〕飜譯之卷、八八頁」“Primitive and Mediaeval Japanese Texts” はイギリスの日本文学研究者・翻訳家でフレデリック・ヴィクター・ディキンズ(Frederick Victor Dickins、一八三八年~一九一五年)の著。「Internet archive」で原本の当該部が読める。面白いところに挿入されている。前のページのある通り、「万葉集」の山上憶良の「日本挽歌一首」(七九四番)だ! しかし、ここから前の記載を「不知火」の光学現象とする訳には、私は、絶対に「ノー!」だね!

 

 似た譚は、巖谷(いはや)君の東洋口碑大全に、本朝怪談雜事から、出雲佐田(さだ)の社に每年十月初卯の日、龍宮から牲(いけにへ)として龍子(たつのこ)一疋上(のぼ)る由引き居るが、懷橘談には、「十月十一日より十七日までを齋(さい)と云ふ、其間に風波烈しく寄來る波に、化度草(けどさう)と云ふ藻に乘れる龍蛇、龍宮より貢ぐ云々」と有る。予彼(かの)邊(あたり)に每々航せし船頭に聞きしは、何の日と定らず、其頃風波烈しく成つて多少の海蛇打上(うちあが)るを、初めて見出したるを吉兆とする例と云うた。故に天然の龍燈乃(すなは)ちエルモ尊者の火、又鳥蟲朽木から起る光も、必しも年中一日を限らず、唯季節が向いて來ると每夜現はるゝを、その月の滿月又は十六夜とか齋日の夜とか、神佛に緣ある夜を人が特定して、その夜尤も見るに都合よきを、其夜しか出ぬ樣に言ひ傳へたに外ならじ。特定の木の上に龍燈が懸かるも、天然を人爲で抂(まぐ)れば成る事で、古(いにしへ)地峽有つて今海と成了(なりをは)つたに渡鳥が依然地峽の蹟の海を後生大事と守つて飛ぶと云ふ話も多く、兎や猪(ゐのしし)鹿や鴨などの路が定まり居るは狩人の熟知する所で、比年(としごろ)予自宅の庭園へ夕に天蛾〔ゆふがおべつたう〕など來て花を吸ふを視るに、その行路から花を尋ぬる順序迄一定せる者の如く、又自宅の近街何れも陰囊の影を火玉と間違へ怖るゝ程淋しい處へ、電線の柱が多く立竝び居る、其頂へ夏の夜每に角鴟〔みゝづく〕が來り鳴くを見聞するに、其行路と順序がちやんと定り有る。先(まづ)は不景氣ゆゑ方法を立替へるなどいふ考(かんがへ)の出ぬ所が畜生で、古く慣習附(づ)いたことを出來得る限り改變せぬ。

[やぶちゃん注:「東洋口碑大全」作家・児童文学者の巖谷小波(いわやさざなみ 明治三(一八七〇)年~昭和八(一九三三)年)が編したもの(大正二(一九一三)博文館刊・上巻のみ出版か)。国立国会図書館デジタルコレクションのここから次のページにかけてで視認出来る。

「本朝怪談雜事」上記の引用元では「本朝怪談祕事」とあるが、恐らくは孰れも誤りで「本朝怪談故事」ではないかと思われる。それなら、厚誉春鶯廓玄の著。江戸中期の刊のようである。

「出雲佐田の社」佐太(さだ)神社が正しい。「東洋口碑大全」自体が誤っているので、熊楠のミスではない。

「龍子」実在する海蛇(うみへび)の爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科(ウミヘビ科とする説もある)セグロウミヘビ属セグロウミヘビ Pelamis platura である。この龍神祭は古くから有名で、私も幾つかの記事で注してきたが、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (五)』にとどめを刺すであろう。

「懷橘談」藩儒であった黒沢石斎による出雲地誌。但し、熊楠が引用している部分は、「佐太」のパートではなく、「杵築」の出雲大社の解説の中に現われる。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここである(左ページ二行目)。「佐太」神社はこちらになる。

化度草((けどさう))」かく名づける以上は藻体が特徴的でなくてはならないだろう。私は真っ先に気泡体を持つホンダワラであろうと踏んだ。如何にもそれらしいと感じたからである。種や博物誌は「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ) (ホンダワラの仲間)」の私の注を参照されたいが、さて、「佐太神社」公式サイトを見たところ、ここに、まさにホンダワラが供物や神からの縁起物とされている記載があった。自信を固くした次第である。

天蛾(ゆふがおべつたう)」これは「夕顏別當」で、広義には鱗翅目カイコガ上科スズメガ科 Sphingidaeの仲間を指すが、狭義には、特にスズメガ科スズメガ亜科 AcherontiiniAgrius 属エビガラスズメ Agrius convolvuli を指す。南方熊楠が言う以上、私はここでは同種ととっておく。]

 

 エルモ尊者の火も又電氣の作用と云ふから、適當した駐(とま)り木は粗(ほぼ)定つて居るだらう。されば他へ飛反(とびそ)れぬ樣に此等の光に尤も適した高木を保存して徐々(そろそろ)其傍(かたはら)の高木を伐り去るとか何とか、龍燈を一定の木に懸くる方法は追々案出實行されたゞらう。斯て其後世中も事繁く人煙も濃くなり、天然の龍燈閉口して跡を絕つに及び、種々の祕計もて人爲の電燈を點すと成るとサア旨い物で、雨が降らうが鎗が飛ばうが興業主の決心次第で、何月何日何時何分と期しても確かに龍燈を一つでも五つでも出し得る筈で、尾芝君が想ふ程の人間界の不思議では決してなく、たゞ吾輩如き何樣な妙案でも腹藏なく自ら言散(いひちら)し書散して一文にも成らぬに紙や暇を潰す者共と異なり、昔の坊主などが祕事妙訣ちふ事を首が飛んでも世間へ洩(もら)さなんだから、億萬の生靈が龍燈如き手近い神變で感化せられて、佛敎や天主敎を根限り信仰歸依した一件は、今の人の大いに留意して勇猛に反省すべき所と、此二、三日飮まぬを幸ひ、柄にも無い事を演(の)べて置く。

結論 佛敎は――實は其他多くの宗敎も――光を以て佛德の表識とし、從つて佛菩薩に光を名とせるが多い。佛說大阿彌陀經に、彌陀の十三異號を說く(鄕硏究三卷三號一七〇頁參照)。其號孰れも光の字有り。言(いは)く、此佛の光、勝於日月之明千萬億倍、而爲諸佛光明之王、故號無量壽佛、亦號無量光佛、無邊光佛、無礙光佛、無對光佛、炎王光佛、清淨光佛、歡喜光佛、智慧光佛、不斷光佛、難思光佛、難稱光佛、超日月光佛《日月の明るさに勝ること、千萬億倍にして、諸佛光明の王たり。故に無量壽佛と號(なづ)け、亦、無量光佛、無邊光佛、無礙光(むげくわう)佛、無對光佛、炎王光佛、淸淨光佛、歡喜光佛、智慧光佛、不斷光佛、難思光佛、難稱光佛、超日月光佛とも號く。》。起世因本經には、人間の營火(いとなみのひ)、燈焰(ともしび)、炬火(たいまつ)、火聚(くわしゆ)[やぶちゃん注:激しく燃える猛火。仏教では地獄の業火も指す。]、星宿、月宮(つきのみや)、日宮(ひのみや)、四天王天と次第して、長たらしく諸天光明の甲乙を述べ、世間所有光明よりも如來の光が最も勝妙と有る。扨(さて)最も手近く光明を標示する者は燈火だから、維摩經の佛國品の執寶炬菩薩などよりは、寶燈世界(大寶廣博祕密陀羅尼經)須彌燈佛(阿闍世王決疑經)燃燈佛など、燈を名とした佛士佛菩薩の名が多い。斯(かく)て佛の勢力が光明で顯はれる。其光明に滋養分を加へ奉る考(かんがへ)で佛に燈を獻ずるを大功德としたので、言はゞ竈に薪を添えるやうぢや。

 されば涅槃經には、若於佛法僧、供養一香燈、乃至獻一花、則生不動國云々、此卽淨土常嚴、不爲三災所動也。《若(も)し佛法僧に於いて、一(いつ)の香燈を供養し、乃至(ないし)は一花を獻ずれば、則ち、不動國に生まる云々。此(ここ)は、卽ち、淨土常嚴(じやうごん)にして、三災の動かす所と爲らざるなり。》。東晉譯大方廣華嚴經一五に、諸光明の由來と功德を說いた中に、有勝三昧、名安樂、又放光明、名照耀、映蔽一切諸天光、所有闇障靡不除、普爲衆生作饒益、此光覺悟一切衆、令執燈明供養佛、以燈供養諸佛故得成世中無上燈、然諸油燈及酥燈、亦然種種諸明炬、衆香妙藥上寶燭、以是供佛獲此光[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。なお、「大蔵経データベース」で確認したところ、この引用は一部に省略があるので、それが判るように二十鍵括弧を入れてある。]《『勝(しよう)に三昧有り、安樂と名づく』。『又、光明を放ち、昭曜と名づく。一切の諸天の光を映(つつ)み蔽ひ、所有(あらゆ)る暗障(あんしやう)を除(のぞ)かざるなく、普(あまね)く衆生の爲に饒益(ねうやく)[やぶちゃん注:慈悲の心を持って有情に利益を与えること。]を作(な)す。この光は一切の衆(しゆ)を覺-悟(めざ)めしめ、燈明を執(と)つて佛を供養せしむ。燈を以つて諸佛を供養する故に世上の無上の燈となるを得(う)。諸(もろもろ)の油燈及び酥燈(そとう)[やぶちゃん注:牛乳から製したバターに似た油。密教で護摩の修法で用いる。食用にもなる。]を然(も)やし、また種種諸(もろもろ)の明炬、衆は香妙藥上の寶燭を然やし、是れを以つて佛に供へ、此の光を獲(う)。』》と說かれ、超日月三昧經には[やぶちゃん注:以下の一文は底本では甚だ読み難いので、一部に読点や記号を挿入した。]、日天、前生、施を好み、行を愼み、戒を奉じ、佛寺に燃燈し、月天、前生、貧に施し、戒を持し、三尊に事(つか)へ、君・父・師等に燈を設けたから、今生(こんじやう)、日天・月天と成るつたと有り。悲華經には轉輪王頂戴一燈、肩有二燈、左右手中執持四燈、其二膝上、各置一燈、兩足以亦各一燈、竟夜供養如來《轉輪王は頂きに一燈を戴(いただ)き、肩に二燈有り、左右の手中、四燈を執り持ち、其の二つの膝は上、各(おのおの)一燈を置き、兩足の上に亦各一燈を以つてし、夜の竟(をは)るまで、如來を供養す。》とは、寄席の落語家が頭と口と兩手足に扇一つ宛(づつ)持つて、「チツ、一本めーには」と松盡しを碁盤の上で舞ふより以上の珍藝だ。

 月燈三昧經こそ大法螺吹きなれ。云く、聲德(しやうとく)如來涅槃に入りしを德音王供養すとて、八十四千萬億の塔を起こし、一々塔前に百千萬那由他(なゆた)[やぶちゃん注:一那由他は一千億。]の燈明を燃す。安穩德比丘負嫌ひで自ら臂(ひぢ)を斷つて燈を燃して獻ぜしに、今まで烱然(くゑいぜん)たる[やぶちゃん注:光り輝くさま。]紅燄四方に遍照せし王の無量百千の燈一時に光を奪はれ、王を始め後宮眷屬妃后采女、總て八萬の別嬪急いで彼(かの)比丘に見(まみ)えんとて、千肘(せんちう)の高殿より飛下(とびおり)るを、天龍夜叉乾闥婆(けんだつば)等の鬼神護持して落ちざらしめた。島田の宿の朝顏盲女の川留の場の如しと有る。扨兎角女ならでは夜が曉(あ)けぬから、彼(かの)比丘を貧女と作り換へて、阿闍世王決疑經や今昔物語十五の貧女の一燈の譚を作つたのだ(芳賀博士の攷證本には、本邦の類話を擧居(あげを)るが、決疑經等を引いて居無い)。例の法華經の藥王菩薩本事品は菩薩が燈供養の爲に身を燒いた話で、臂ばかり燒いた所の騷ぎに非ず。これに傚(なろ)うて頭燈臂燈(ひとう)等の外に全身を燒失(やきうしな)ふ者も有つたのだ。今昔物語に天智帝が志賀寺の燈を揭げた指を切(きつ)て、燈と共に佛に供へ玉ふと有るも、指を燃す御心で行ひ玉ひし事と知らる。

[やぶちゃん注:「島田の宿の朝顏盲女の川留の場」浄瑠璃「生写朝顔話」(しょううつしあさがおばなし)(通称「朝顔日記」)。講釈師司馬芝叟(しばしそう)の「蕣」(あさがお)を原拠とした浄瑠璃。現行のものは天保三(一八三二)年大坂稲荷文楽芝居で初演。秋月家の娘深雪(みゆき)が、恋人宮城阿曾次郎(あそじろう)を慕って家出し、盲目の門付芸人朝顔となり、恋人の残した歌を唄いながら流浪する哀話。「大井の渡し」で知られる島田の宿で恋人と逢いながら、朝顔が盲目ゆえにそれと判らず、後で知り、半狂乱で彼を追う「島田宿戎屋の段」から「大井川の段」が知られる。

「今昔物語十五の貧女の一燈の譚」これが、一向、判らぬ。「今昔物語集」の「巻第十五 本朝仏法」では、第四十八話から最後の五十四話の七話にのみ女性・童子の往生譚が纏められてあるのだが(それ以外は著名な僧尼のそれである)、そこに「一燈の譚」はないからである。ある種、最も似ていると思われるのは、私も好きな「伊勢國飯高郡老嫗往生語第五十一」(伊勢の國の飯高郡(いひたかのこほり)の老いたる嫗(おうな)往生する語(こと)第五十一)である。「やたがらすナビ」のここで新字であるが原文が読める。しかし、そこで老婆で持つのは「一葉の蓮花」であり、また、彼女は使用人もいるので「貧女」とは言えない。さて?……因みに、芳賀矢一の「攷證本」というのは「攷証今昔物語集」で、国立国会図書館デジタルコレクションの冨山房では私の示した話はここ

「今昔物語に天智帝が志賀寺の燈を揭げた指を切て、燈と共に佛に供へ玉ふと有る」巻第十一「天智天皇建志賀寺語第二十九」(天智天皇志賀寺を建てたる語第二十九)。同前でここ。]

 

 蓋(けだ)し人間のみが燈を佛に奉るを大功德としたので無く、鬼人や龍王も亦爭うて此功德を修めたので、例せば法顯傳(ほふけんでん)に、舍衞域の外道が天神を祀る寺で燈を供ふると、明旦(みやうたん)燈が近處(きんじよ)の佛寺に移る。是れ佛僧の所爲(しはざ)ならんと疑うて夜自ら伺ふと、自分が祀る所の天神其燈を持ち、佛寺を三匝(みめぐり)して佛に供へて消失(きえう)せた。因つて成程佛は天神より勝〔えら〕いと知つて出家入道したと有る。龍が燈を佛に供養した例を只今出し得ぬが、其は例乏しくて引き能はざるに非ず、餘り多いから藏經通覽の際書留めなんだのだ。扨(さて)手近い梵語字彙を二三種見るも、龍燈ちふ意の語を見出でぬが、三國の吳の領内來住の天竺僧康僧會が譯した六度集經五に、槃達〔はんだ〕龍王世を厭ひ陸地に登り、於私黎樹下、隱形變爲蛇身、槃屈而臥、夜則有燈火之明、在彼樹上、數十枚矣、日日雨若干種華、色耀香美、非世所覩、國人有能厭龍者、名陂圖、入山求龍、欲以行乞、覩牧牛兒、問其有無、兒曰、吾見一蛇、蟠屈而臥於斯樹下、夜樹上有數十燈。火光明耀曄、華下若雪、色耀香美、其爲難喩、吾以身附之、亦無賊害之心《私黎樹(ぼだいじゆ)下に於いて、形を隱し、變じて、蛇身となり、蟠屈して臥す。夜は、則ち、燈火の明(めい)有り。彼(か)の樹上[やぶちゃん注:「大蔵経データベース」では「下」であるが、ここは敢えて熊楠の記す「上」で示した。]に在りて、數十枚(すじふばい)たり。日日、若干の種の華を雨(あめふ)らす。色、耀き、香、美にして、世の覩(み)る所に非ず。國人、能(よ)く、龍を厭(まじな)ふ者有り、「陂圖(はと)」と名づく。山に入りて龍を求め、以つて行乞(ぎやうこつ)をせんと欲す。牧牛の兒を覩て、其の有無を問ふに、兒曰はく、「吾、一蛇の蟠屈して、斯(こ)の樹下に臥すを見る。夜、樹上に數十の燈あり。火。明る耀(ひか)り曄(かかや)き、華の下(ふ)ること、雪のごとし。色、耀き、香美なること、其れ、喩へ難しと爲(な)す。吾、身を以つて之れに附(ちかづ)くに、亦、賊害の心無し。」と。》。其(それ)からその龍使ひの見世物師に捉へられて齒を拔かれ、所々へ伴(つれ)行きて舞はさるゝを龍王の母が來て救うたと有る。是れ取りも直さず龍燈で、印度に古く龍の上に燈火が樹に懸るてふ迷信有りしを知るに足る。

[やぶちゃん注:「法顯傳」現行では「ほっけんでん」と読まれる、五世紀初頭に約十七年に亙ってインド求法の大旅行を行った中国僧法顯の記録。中央アジアと南海沿岸を含む紀行ともなっている。「大蔵経データベース」では、熊楠が引いたのはこの前後部分である。

「舎衞城」は古代インドのコーサラ国にあった首都。現在のウッタル・プラデーシュ州北東部のラプティ川の近くに相当する。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。]

 

 又大集大雲請雨經に、電光大電光炎光炎肩火光など、光字のついた龍王の名多し。乃(すなは)ち古印度も支那と同じく龍は種々の光を發すると信じたので、支那に佛敎入らぬ時已に龍が光を點すとしたは、楚辭の燭龍何照《燭龍何ぞ照らせる》の語を、王逸注して曰く、大荒西北有山而不合、因名之曰不周山、故有神龍、銜燭而破照之《大荒の西北、山有りて合(がつ)せず、因りて之れを不周山と名づく。故に神龍有りて、燭を銜(くは)へて之れを照らす」(淵鑑類函四三八)。康煕字典に楚辭天問を引いて、日出不到、燭龍何ぞ耀《日出でて到らず、燭龍、何ぞ耀(かがや)ける》。日出(いで)ぬ内に龍が燭を銜(くは)へて光らせ行くと云ふのだから、燭龍乃ち龍燈だ。斯く古來燭龍の話や前述龍火の迷信が有つた支那へ、印度から佛敎と共に龍燈の譚が傳はつたので、諸州の道觀佛精舍や大小名嶽に天然の龍燈多く見出され、追々人造の物も出來た處へ、日本から渡海の僧など、其事を聞き其現象を睹(み)て歸る船中海上の龍燈卽ちエルモ尊者の火に遭ふも少なからず、歸朝して尋ね廻ると自國も隨分龍燈に乏しからず。因つて弘敎(ぐきやう)の方便として種々の傳說を附會して、俗衆をアツと言はせ續くる内、海埋(うづ)まり林伐(き)られて自然の龍燈少なく成り行く。是では成らぬと、困却は發明の母とはよく言つた物で、種々計策して人造の龍燈を出しても、因襲の久しき習慣天性を成して誰も其人造たるに氣付かず、偶(たまた)ま玄奘が菩提寺の舍利光に於ける如く、臭い事と氣が付いても、勝軍居士が玄奘を諭した通り、誰も彼も睹(み)て信ずる上は一人彼是いふは野暮の骨頂といふ論法で差控えた事と見える。

 さてダーウヰンは蘚蟲〔ブリオゾア〕と海龜と鳥が甚だ相異なる動物で何の近緣無きに、三者の喙〔くちばし〕の結構が頗る酷似し居るを指摘し、予も或菌族と男女根の組織と、機械力が全く同一轍なる事を二十五年來硏究して、隨分有益な考案を持つて居るが、斯る外目(よそめ)に詰(つま)らぬことも學術上非常に大切だと云ふ事だけを一昨年不二新聞へ揭げて大枚百圓の科料に處せられ、前に火の玉幻出法の發明に間に合ふた陰囊を大きに縮めた事で有る。先づ千年や二千年で迚も變更の成らぬ動植物の構造や組織にすら、相似た範圍に應じて永久の内には斯く能く似合うた物も出來る。されば風俗作法など變化萬態なる人間界の現象が、因(いん)異(こと)にして偶ま同一又極似の果を生出(せいしゆつ)する有るも、固より怪しむに足らず。例せば、吾邦婦女が齒を染めたのは東南亞細亞の土人が檳榔(びんらう)を咬むに起因したということを森三溪氏など唱へ、故坪井博士も同意の氣味らしかった。然るに二十年程前予大英博物館で色々調ぶると、印度の梵志(ぼんじ)種や柬埔寨(カンボジア)土人の女子が、月經初(はじめ)て到る時、非常に齒に注意する。又中央亞細亞のブハラ人歐州の大露西亞人など、一向檳榔を吃せぬに其妻は齒を涅〔くろ〕くした。其等から攷〔かんが〕へて、廣い世界には南米の或部分の土人の如く、齒の健康を氣遣ふばかりで齒を染めるも有り、馬島〔マダガスカル〕の或種族の如く裝飾をのみ心懸けて齒を染める者、亞細亞東南諸島民の如く檳榔を咀〔か〕むから自然に染まる者、日本や印度ヂーウ邊の婦女の如き成女期や既婚や葬喪を標示する齋忌〔タブー〕の上から涅齒〔はぐろめ〕した者と、同じ涅齒にも種々格別の目的有りて此風が生じたと曉(さと)り、英國科學奬勵會〔ブリチシユ・アツソシエーシヨン〕で論文を讀んだ事が有つた。

[やぶちゃん注:「蘚蟲〔ブリオゾア〕」小さな群体を形成し、サンゴに似た炭酸カルシウムなどの外壁からなる群体を作る動物である外肛動物門 Bryozoaの一般に「コケムシ」(苔蟲)のこと。下位タクソンで狭喉綱 Stenolaemata・裸喉綱 Gymnolaemata・掩喉綱 Phylactolaemataに分けられている。小学館「日本大百科全書」によれば、世界で約四千種が知られている。古い動物で、化石は古生代の末期から出現している。嘗ては、擬軟体動物や触手動物の門に属したこともあるが、現在では外肛動物という独立した門を構成する。海産の種が淡水産よりも多く、潮間帯から深海にまで分布する。微小な個虫が多数集まって樹枝状・鶏冠状・円盤状などの群体を作る。群体は石灰質又はキチン質を含むため、硬く、岩石や他の動植物に付着する。それぞれの個虫は虫室の中に棲み、袋状を成し、口の周りには触手冠がある。消化管はU字状で、肛門は触手冠の外側に開く。血管と排出器がなく、雌雄同体で無性生殖により群体を拡大するとある。当該ウィキには、『裸喉綱では、群体を構成する個虫に多形がみられる例が多い。触手を持ち、えさをとる普通の個虫を常個虫という。これに対して、特殊な形になったものを異形個虫と呼んで』おり、その内の「鳥頭体」(avicularia)と呼称するものがあり、これは『個室の入り口がくちばし状になって突出したもの』で、『外敵の防衛や群体の清掃』を担うとある。探すのに少し苦労したが、英文サイトのこちらのブラジル産のコケムシ当該部分の顕微鏡写真四葉を見ると、それ「嘴」と比喩することが、激しく腑に落ちる。

「檳榔(びんらう)」南方熊楠 小兒と魔除 (5)」の私の当該注を参照されたい。

「森三溪」(元治元(一八六四)年~昭和一七(一九四二)年)は明治三一(一八九八)年民友社刊の「江戸と東京」を書いた人物ではないかと推察する。但し、以上の説はどこから引用したかは不詳。因みに、「江戸と東京」の鉄漿(おはぐろ)の記載はここ

「坪井博士」日本初の人類学者坪井正五郎(文久三(一八六三)年~大正二(一九一三)年)。日本に於ける考古学や人類学の普及と確立に尽力した。]

 

 其から類推すると、尾芝君は盆の燈籠も柱松も龍燈も同一系統、乃(すなは)ち同じ目的を以て一つの起原から生出した樣に云はるゝが、其は形骸を察して神髓を遺(わす)れた見(けん)で無らうか。磁石に鐵を拾ふと北を指すと二つの別の力有る如く――究竟の原因は一に歸すと云はゞ、人が生まるゝも焦死(こげし)ぬも太陽の爲す所と云ふ如くで、其迄ながら――火には熱と光との二つの異なる力有り、吾邦の柱松や歐州の辟牛疫火〔ニード・フアイヤー〕など、主として其火の熱を以て凶災を避け吉利を迎ふるの慾願に創(はじ)まりたるに、盆燈籠や人作の龍燈は、原(も)と其火の光を假りて神佛の勢威を助成し死人の冥福を修する信切(しんせつ)から起つた者で、言はゞ齊(ひと)しく火で有りながら、火鉢の火と行燈の火ほど意味と所用に差別(けじめ)有りと愚存す。加之(しかのみならず)柱松は其式何の祕する事無く初めから仕組を公開するに、龍燈は自然人造共に其事曖昧で、凡衆に解し得ぬ所を妙としたのも大(おほい)に相異なり。(大正四年六月二十三日起稿、多用中に時々書き綴り、三十日夜半終切(をはりきる)。唯一度閱して便ち發送。故に意を盡さぬ所や跡先き揃はぬ言無きを保せず。讀者其大體を了せらるれば幸甚。)

[やぶちゃん注:「辟牛疫火〔ニード・フアイヤー〕」「Need-fire」或いは「Wild-fire」。スコットランドの古い民間伝承に基づく儀式で、羊飼いたちが、羊の群れの病気を防ぐために火を用いたものを指す。英文のウィキの「Need-fireに拠ったが、そこに牛のことが書かれてあるが、熊楠の漢訳の「辟牛」は、羊とともに飼っている牛も疫病を避けられるということか。よく判らない。「浄火」などと訳されるようである。

 以下、底本では一行空けだが、二行空けた。]

 

 

附 言

 此稿を終る少し前に、湯屋に往(いつ)て和歌山生れの六十ばかりの人に逢うて、七月九日夜紀三井寺に上る龍燈の事を問ふに、八、九歲の時父に負はれて一度往き見た事有り。夜半に喚(よび)起こされて眠たきを忍び待つて居ると、山上に忽然燈(ひ)點(とも)るを見たばかり覺え居ると言うた。其邊に人が忍び居(をつ)て、何かの方法で高い所へ燈を點じ素速く隱れ去つたのらしい。貞享四年の自序ある懷硯(ふところすずり)三の二に、紀三井寺の龍燈を見に夜更くるまで人群集する由を述べて、「昔より所の人の言傳へしは、この光を見ること人の中にも稀なり。隨分の後生願(ごしやうねが)ひ、人事(ひとごと)を言はず、腹立てず、生佛樣と言(いは)るゝ程の者が、仕合せよければちらと拜み奉ると聞きし所に云々」と有つて、十人の内七八人は磯に釣する火を龍燈と心得て拜し、其他は觀音堂に通夜して、夢に龍燈布引の松に上るを見たとあり。布引の松は紀三井寺から大分離れた所で、それを後年山内の千手谷へ龍燈の場所換へをしたらしい。

[やぶちゃん注:「貞享四年」一六八七年。

「懷硯三の二」同書は井原西鶴著の諸国奇談異聞集の体裁を採った浮世草子で外題は「一宿道人 懷硯」で、当該篇の標題は「龍灯は夢のひかり」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(PDF全巻一括PDF版)の51コマ目から原本が視認出来る。

「人事」人の悪口。

「其他は觀音堂に通夜して、夢に龍燈布引の松に上るを見たとあり」とあるが、同篇では、実は、その瑞夢を見るのは、当の無欲な主人公の一宿道人自身である。そこがこの話の面白みともなっているのである。

 以下、底本では一行空け。二行空けた。]

 

 

後 記

 前文記し畢(をは)つて四日後、人類學雜誌昨年十二月號原田淑人君の「新疆發掘壁畫に見えたる燈樹の風俗に就て」を讀み、甚だ益を得た。氏が臚列(ろれつ)[やぶちゃん注:「羅列」に同じ。] せる諸材料に據つて考ふれば、史記樂書、漢家祀太一、以昏時祠到明《漢家、太一を祀る。昏(く)るる時を以つて祠(まつ)り、明くるに至る。》等、古く神を祀るに燈を獻ずる事有りし一方には、印度燃燈供佛の風を傳へ、唐人上元の夜華燈寶炬燈樹火山を設け、宋に至つて上中下元咸張燈し、吾邦之に倣うて又中元燈籠を點ずるに及んだので、先づ盆燈籠は華燈、柱松は寶炬、火山は熊野濱の宮等中元に墓場で野火を盛んにするに相肖(あひに)た物、燈樹は原田君が引いた圖や說に據ると、先づ七夕に俗間竹の枝葉間に多く小挑燈(こちやうちん)を點ずるやうな奴の至つて大層なものだらう。是等何れも設備者其人巧に出(いづ)るを隱さず、寧ろ自慢で作つたので、觀る者も初(はじめ)から其心で見たるに反し、人造電燈は始終設備者之を神異に托し、觀る者亦靈物として之を恭敬禮拜したのである。(七月五日)

 此篇書き畢つて後、七月七日の大阪每日新聞獨石馬(どくせきば)の淸末の祕史を見ると、長髮賊魁洪秀全と楊秀淸を月水に汚れた布の冠で呪うた趙碧孃は、事顯はれて楊の爲に天燈の極刑に處すべく命ぜられた。天燈とは罪人に油を泌ませた單衣を著せ、高き梁上に倒懸(さかさがけ)して下より徐(おもむろ)に肉體を油煎(あぶらいり)にする五右衞門以上の酷刑だが、碧孃は刑前自殺したとある。(七月七日)

     (大正四年十一月鄕硏三卷九號)

 龍燈と云ふもの、始めの程は知らず、後年目擊せられたのはほんの一寸の間の現象で、至極曖昧な物だった(鄕硏三卷九號五三二-三頁參照)。高名なる丹後切戶の龍燈天燈なども亦さうであつたと見えて、寬永十年に成つた犬子集(ゑのこしふ)十七にも、貞德(?)の「有りとは見えて亦無かりけり」、「橋立や龍(たつ)の燈あぐる夜に」と云ふ句がある、此序(ついで)に云ふ。同書十四又貞德の「びやうびやうとせし與謝の海づら」。「龍燈のかげに驚く犬の聲」と云ふ句がある。其頃は犬の鳴聲を邦人がびやうびやうと聞いたので、狂言記にも犬の聲を皆かく記してある。偶ま英語のバウワウ佛語のブーブー(孰れも犬吠(いぬぼえ)の名)に似て居るのが面白い。(四月十一日)

    (大正五年十二月鄕硏究四卷九號)

[やぶちゃん注:『人類學雜誌昨年十二月號原田淑人君の「新疆發掘壁畫に見えたる燈樹の風俗に就て」j-stage」のこちらで原本画像で読める

「熊野濱の宮」和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)の境内に浜の宮王子社跡(グーグル・マップ・データ)として残る。

「獨石馬」久木独石馬(ひさきどくせきば 明治一八(一八八五)年~昭和一三(一九三八)年)は評論家。茨城県出身。本名は東海男(とみお)。『常總新聞』の記者などを経て、明治四三(一九一〇)年、大阪毎日新聞社に入った。この後の大正七(一九一八)年に退社し、東京に移って著述に専念した。『雄辯』などに寄稿するとともに、幕末の水戸藩史を研究。野口雨情と親しかった。「淸末の祕史」は不詳。

 以下、底本では一行空け。二行空けた。

「洪秀全」(一八一四年~一八六四年)は清末の「太平天国の乱」を起こした最高指導者。自らを「エホバの子」であると称し、「上帝会」を組織。一八五一年、挙兵して自ら「天王」と称し、国名を「太平天国」とぶち上げた。南京を攻略して都としたが、内紛を起こして清軍に敗れ、南京陥落直前に病死した。

「楊秀淸」(一八二〇年頃~一八五六年)は「太平天国」の最高指導者の一人。一八四八年の弾圧によって、初期の信徒集団に動揺が起こった際、上帝エホバが乗り移った(「天父下風」と称した)として、その意志を伝えて危機を克服、以後、しばしばこの「天父下風」を利用して軍事的指導権を握り、天王洪秀全に次ぐ「東王」に任ぜられ、「太平天国」運動の発展を推進した。南京建都後、その専横に対する天王らの反感が強まり、一族及び部下約二万名とともに殺害された。

「月水」生理の血であろう。

「趙碧孃」不詳。識者の御教授を乞う。

「寬永十年」一六三三年。

「犬子集」俳諧集。全十七巻五冊。松江重頼編。「守武千句」「犬筑波集」以後の発句・付句の秀作集。

「貞德(?)」原本を確認出来ないので、「?」は外せない。

「英語のバウワウ佛語のブーブー(孰れも犬吠(いぬぼえ)の名)」英語では「bow-wow」、フランス語では「ouah-ouah 」(音写は「ウワウワ」が正しい)。因みに、イタリア語では「bau-bau」(バウバウ) 、スペイン語では「jau-jau」(ジャウジャウ)、ドイツ語では「haff-haff」(ハフハフ)とこちらにあった。

 以上の最後の段落は「選集」では『【追記】』と冒頭して、本篇の一番最後に配されてある。なお、以下は底本では一行空けであるが、二行空けた。]

 

 

 椋梨(むくなし)一雪の新著聞集往生篇第十三に、上總福津(ふつつ)のじやじや庄右衞門てふ大若黨者、一心の念佛者となり人多く導いた。自ら死期を知り、三日前から日來(ひごろ)賴んだ寺に往つて、本堂彌陀の前に端坐合掌唱名して眠る如く往生した。信者輩に七日間死骸を拜ませると、「虛空に花ふり夜は龍燈上りて堂内に入りしを拜みし人多かりし」と載す。死んで間も無く龍燈まで上つたのは予に取つて未聞なれば一寸記して補遺とする。(十二月三日)

 松屋筆記卷七十八に佐渡奇談より引いた、寬永の頃鈴木源吾なる浪人が根本寺(こんぽんじ)祖師堂側(そば)の櫻の古木より夏の夜龍燈來ると聞き行きて射たる處、忽ち消え翌日見れば鷺(さぎ)なり、寺僧、電燈の奇瑞を妨げられしを含み、寺内で殺生せし罪を訴へると、龍燈を射たり鷺を射ずと辯じて事解けた由は、尾芝君も短く引かれた。然るに十月十六日のノーツ、エンド、キーリスに、英國のイー、イー、コープ氏が書かれたは、彼方(あちら)でも鷺が夜光ると云ふに付(つい)て、同氏曾て一九〇六年十二月のカナリア及小鳥飼養雜誌に載せ、又バーチングのレクリエイション、オヴ、ア、ナチユラリストてふ書にも出であるとの事だ。(十二月四日)

 又前號四五八乃至九頁に載せた天狗の炬火は不定時に出たものらしいが、龍燈同樣に定日の夜出た天狗火もある。紀伊續風土記卷八十一に、今の東牟婁郡三輪崎村の丑の方十七町、往還の下海邊平らかなる岩の上に、輿(こし)の如く窪みたる所が三つ有るを、三所洗岩と謂ふ。此岩に每月七日二十八日頃天狗來つて身を淸むると言傳へて、天狗の火時に見ゆと云ふてある。(十二月四日)

     (大正五年一月鄕硏究三卷十號)

[やぶちゃん注:「新著聞集往生篇第十三に、上總福津(ふつつ)のじやじや庄右衞門てふ大若黨者、……」「新著聞集」は寛延二(一七四九)年刊の説話集。各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めたもの。当該ウィキによれば、全八冊十八篇三百七十七話。書名は鎌倉時代の説話集「古今著聞集」に倣ったもの。先行する同一作者によると目される説話集「古今犬著聞集」や「続著聞集」との『関連が深い』。『著者名は記されておらず』、『不詳』『とされていたが、森銑三の指摘により紀州藩士の学者』『神谷養勇軒が藩主の命令によって著したことが定説となっている。しかし』、「新著聞集」の内容は俳諧師椋梨一雪による説話集「続著聞集」を再編集したもので、正確には、『神谷養勇軒は編者であると考えられる』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(PDF巻十三と十四の合本・初版の後刷)の20コマ目から視認して電子化しておく。句読点・記号を打った。読みは一部に留めた。なお、本文の「大若黨者」はママ。「選集」もママであるが、以下に見る通り、「大惡黨者」が正しい。

   *

   竜灯(りうとふ)室(しつ)に入り彩花(さいくわ)空に充(みつ)

上總の福津(ふつつ)に、じやじや庄右衞門とて、大惡黨者(あくたうもの)有(あり)しが、いかなる過去の因緣やありけん、一不乱の念仏者(ねんぶつしや)となり、人多くすゝめて、勤(つと)めさせけり。少し違例(いれい)のこゝちなりしが、兼(かね)て、死(し)を、しり、一族朋友の方、悉く、いとまごひに步(あり)き、死の三日まへより、日來(ひごろ)たのみし大樹寺(だいしゆじ)[やぶちゃん注:「し」清音はママ。]にゆきて、本堂の彌陀のまへに端座合掌し、念佛、間(ひま)なく申、眠(ねふる)がごとくに、息たへ侍りしを、年來の信者、「殊に往生のやうす、たゞならず。」とて、七日が間、死骸を拜(をがま)せけるに、虛空(こくう)に五色(ごしき)の花(はな)、ふり、夜(よ)は、龍灯、あがりて、堂内に入りしを拜(をがみ)し人、多かりし。

   *

この「福津」は現在の千葉県富津市(グーグル・マップ・データ)。「大樹寺」は不詳。

「松屋筆記七十八に佐渡奇談より引いた、寬永の頃鈴木源吾なる浪人が……」「松屋筆記」は国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここから。「(十三)龍燈」の末尾(次のページになる)に配された頭書の中に出る。「根本寺」は現存する。日蓮宗で、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「ノーツ、エンド、キーリス」雑誌名。『ノーツ・アンド・クエリーズ』(Notes and ueries)。一八四九年(天保十二年相当)にイギリスで創刊された学術雑誌。詳しくは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)」の私の注を参照されたい。

「バーチングのレクリエイション、オヴ、ア、ナチユラリスト」不詳。

「紀伊續風土記卷八十一に、……」同書は紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年)完成した。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年帝国地方行政会出版部刊の活字本のここだが、その標題は「御手洗岩」だ。「今の東牟婁郡三輪崎村」現在の和歌山県新宮市三輪崎附近(グーグル・マップ・データ)。「丑の方十七町」は北北東一キロ八百五十四メートル。「三所洗岩」は読みも位置も不詳だが、現行、「洗岩」(あらいいわ)というのは、干潮時の水面直下に現れる(「洗われる」というのがより正しいか)岩礁を言い、国土地理院図でその辺りを探すと、ここに如何にも怪しげな複雑した岩礁性入り江があり、これをグーグル・マップ・データ航空写真で見ると、いや、これじゃないかい? と言いたくなるもので、しかもその西北直近には「御手洗の念仏碑」というのがあるのである(江戸時代に建てられた碑で熊野古道の休息場所らしい)。実は「三所洗」で「みたらひ」と読ませるのではなかろうか?

2022/04/13

「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」

 

[やぶちゃん注:本篇の特別な仕儀については、「一」の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 

 田邊の絲川恒太夫てふ老人中年迄熊野諸村を每度行商した(鄕硏究一卷三號一七四頁參照)。この翁今年七十五。廿七八歲の時新鹿〔あたしか〕村の湊に宿す。湊川の上に一里餘續ける淺谷てふ谷有り。其と竝んで、二木島(にぎしま)片村曾根と續く谷有り。此二谷間の山を古來天狗道と呼び懼(おそ)るゝも、誰一人(たれひとり)天狗を見た者無し。絲川氏湊に宿つた夜大風雨で屋根板飛び、其壓(おさ)えに置いた大石墮下(おちくだ)るを避けん爲、古胴著(ふるどうぎ)等を被(かぶ)り、鴨居の下に頭を突つ張り柱を抱き立(たつ)て居た。家主老夫婦は天井張つた三疊の室(ま)に楯籠(たてこも)る。老主人の甥羽島に住む者、茶の木原に住む從弟を訪ひ、裸に成り褌の上に帶しめて、川二つ渡り來り著いたは夜二時也、曉に及び風漸く止んだ。二人大闇黑中件(くだん)の山上を大なる炬〔たいまつ〕廿ばかり列(つら)なり行くを見て、始めて昔も斯(かか)る事有つた故天狗道と名(なづ)けたと曉〔さと〕つたと云ふ。

[やぶちゃん注:この話と続く次の段の話は、何んと! 巨匠泉鏡花の未完の無題遺稿の中に、本書の本篇に基づいたとして語りが出てくる! このために、ブログ横書版、及び、サイト版縦書PDF縦書版を作っておいたので、是非、読まれたい。

「絲川恒太夫」詳しい事績は知らぬが、他の記事にも登場し、南方熊楠の紀州民俗の情報の重要な提供者であったようだ。

「新鹿村」三重県南牟婁郡にあった旧村。現在の熊野市の東部、紀勢本線新鹿駅・波田須駅の周辺に相当する。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「湊」「湊川」「淺谷」国土地理院図のここでやっと発見した。現在の新鹿町の沿岸部に「湊」の地名が見え、そこから北から流れる川が「湊川」であり、その川上が分岐したその北部分に「浅谷越」(あさだにごえ)という四百九十八メートルのピークが判る。現在も非常に山深いところである。

「二木島」国土地理院図のここを見られたい。「片村」は不明だが(或いはこの「片村」は位置的見て、現在の三木島町の東海浜の「二木島里町」かも知れない)、「二木島」は現在の二木島町で、先の湊川の下流から「熊野古道」を東へ登ると、「二木島峠」を経て「二木島町」、そこから古道をさらに東北に登ると、「曽根坂」があって、地図を北東へずらすと「曽根町」が見える。

「羽島」不詳。

「茶の木原」この名は三重県四日市市水沢町(すいざわちょう:グーグル・マップ・データ)に冠山(かんざん)茶の木原があるが、話にならないほど離れるから違う。前の羽島とともに識者の御教授を乞うものである。]

 

 斯樣の時は小さな火も大きく見ゆるは、熊楠、先年西牟婁郡安堵峯(あんどがみね)下より坂泰(さかたい)の巓(いただき)を踰えて日高郡丹生川(にうのかわ)に著き憇ひ居たるを、安堵の山小屋より大勢搜しに來(きた)るに提燈一つ點せり。其が此方の眼には炬火數十本束ね合せて燃すほど大きく見えた。されば右述天狗の炬も實はエルモ尊者の火だらう。一九(いつく)の善光寺道中續膝栗毛九に、彌次と北八が天狗を惡口するうち、火繩が高き樹の上に飛揚(とびあが)り、今迄吸殼〔すひがら〕ほどの火が忽ち松明大(たいまつだい)となり、風も無きに樹の枝ざわざわ鳴出す事有り。戯作ながら、是も山中にエルモ尊者の火現ずる由を傳聞して書いたであらう[やぶちゃん注:ママ。「の」の脱字か。]。一九〇六年板、レオナード少佐の下ニゲル及其諸民族〔ゼ・ラワー・ニゲル・エンド・イツ・トライブス〕四八六頁に、藪榛中〔こもりのうち〕の高樹上に夜分大なる火出で燃ゆるを、翌朝見るに燒け居らぬ事有り、土人之を妖巫〔ウヰツチ〕其樹下に集り踊ると信ずと見え、英領中央亞非利加(アフリカ)でも、妖男巫〔アフヰチ〕空中を飛ぶ時大なる羽音して樹梢(こずゑ)に留まり行く、その携ふる火遠方より見得るが人近づけば消して了ふと云ふ(ワーナー英領中央亞非利加土人〔ゼ・ネチヴス・オヴ・ブリツシユ・セントラル・アフリカ〕一九〇六年板八八頁)。何れも天狗の炬に似た事だ。

[やぶちゃん注:「安堵峯」和歌山県と奈良県の県境にある安堵山(あんどさん:国土地理院図)。標高は千百三十四メートル。

「坂泰の巓」この附近の孰れかのピーク(国土地理院図)。

「丹生川」この附近(同前)。

「善光寺道中續膝栗毛」十返舎 一九が享和二(一八〇二)年から文化一一(一八一四)年にかけて初刷した「東海道中膝栗毛」の大ヒットを受けて書いた、弥次喜多膝栗毛物の続編内の一つ。文政二(一八一九)年初刷。熊楠が、この部分を語っているところを、泉鏡花は前に示した遺稿の中で、作中人物を借りて高く評価している。

「一九〇六年板、レオナード少佐の下ニゲル及其諸民族〔ゼ・ラワー・ニゲル・エンド・イツ・トライブス〕四八六頁」アメリカの地質学者アーサー・グレイ・レオナルド(Arthur Gray Leonard 一八六五年~一九三二年)の“The Lower Niger And Its Tribes ”。「Internet archive」のこちらで同年版原本で当該箇所が視認出来る。ニジェールの民俗誌。

「藪榛中〔こもりのうち〕」このルビは「小森の内」で、「雑木林の中」の意。

「ワーナー英領中央亞非利加土人(ゼ・ネチヴス・オヴ・ブリツシユ・セントラル・アフリカ)一九〇六年板八八頁」オーストリア生まれの女性で、アフリカ研究者であり、作家・詩人でもあったアリス・ワーナー(Alice Werner 一八五九年~一九三五年:彼女はスワヒリ語とバントゥー語に堪能であった)の“The Natives of British Central Africa”(「イギリス領中央アフリカの先住民族」)は一九〇六年刊。同じく「Internet archive」のこちらで同年版原本で当該箇所が視認出来る。]

 

 エルモ尊者の火が多く風浪中の舟人の眼に付いて、海中の龍の所爲(しわざ)と想はれたは自然の成行で、其上既に慈覺大師の行記から例示した通り、山にも龍宮有りとする處も有り、龍が塔を守ると云ふ寺も有るから、山上や塔の頂に現ずるエルモ尊者の火をも龍燈と呼んだゞらう。龍が塔を守る例は經中に少なく無いが、最も奇拔なは三寶感通錄一に云く、益州の道卓〔だうたく〕は名僧なり。隋の大業の初、𨿅縣寺塔、無人修葺く、纔有下基、卓乃率化四部、造木浮圖、莊飾備矣、塔爲龍護、居在西南角井中、時相有現、側有三池、莫知深淺、三龍居之、人莫敢臨視、貞觀十三年、三龍大鬪、雷霆震擊、水火交飛、久之乃靜、塔如本、住人皆龍拾取毛、長三尺許、黃赤可愛《𨿅(らく)縣の寺塔、人の修葺(しゆしふ)する無く、纔かに下に、基、有るのみ。卓、乃(すなは)ち四部を率化(そつけ)し、木の浮圖(ふと)を造り、莊飾、備はれり。塔は龍に護られ、西南の角(すみ)に在る井の中に居せり。時に相(すがた)の現ずる有り、側(そば)に三池有り、深淺、知る無し。三龍、之(ここ)に居(を)るも、人、敢へて臨み視ること莫(な)し。貞觀十三年、三龍、大いに鬪ひ、雷霆(らいてい)、震(ふる)ひ擊ち、水・火、交(こもごも)に飛ぶ。之れ、久しくして、靜まり、塔、本(もと)のごとし。住人、皆、龍の毛を拾ひ取るに、長さ三尺ばかり、黃赤(わうしやく)にして愛すべし。》。吾邦に貴人の三婦嫉妬で亂鬪して三目錐〔みつめぎり〕の名を獲た話があるが、是は又正法(しやうぼふ)護持の爲に佛塔を守る三龍が毛を落とす迄混戰したのだ。根來〔ねごろ〕の大塔燒けた時、龍が水を吐いて防いだ事、紀伊國名所圖會に畫添へて出し有る。

[やぶちゃん注:「三寶感通錄」「一」で既出既注。

「率化」教導すること。

「浮圖」「浮屠」「佛圖」とも書く。中国で、仏教伝来から南北朝時代にかけて「仏陀」又は「仏塔」を呼ぶのに用いた言葉。サンスクリット語の「ブッダ」の音写、或いは「ストゥーパ」の誤った音写とされる。「仏陀」を意味する用法は、史書などに見いだされるものの、仏教徒の間では避けられ、「仏塔」を意味する用法は、漢訳仏典の中にもしばしば見られる。但し、中国における仏塔は、「三層浮図」とか「九層浮屠」と書くように、重層型の仏塔を指すことが多かった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「貞觀十三年」六三九年。唐の太宗の治世。

「貴人の三婦嫉妬で亂鬪して三目錐〔みつめぎり〕の名を獲た話」出典不詳。識者の御教授を乞う。

「根來〔ねごろ〕の大塔」和歌山県岩出市にある真言宗一乗山根来寺(ねごろじ)。「大塔」は正式には「大毘廬遮那法界体性塔」と呼び、現在、国宝。本尊は胎蔵大日如来で、高さ四十メートル、幅十五メートル。木造では日本最大の多宝塔(二重塔で初層の平面が方形を成し、上層の塔身が円形に造られたものを言う)である。文明一二(一四八〇)年頃から建築が始まり、半世紀以上経た天文一六(一五四七)年頃に竣工したと考えられている(当該ウィキに拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 扨最初龍燈は皆天然生の火だったが、後には衆心を歸依させる爲、龍燈や舍利光佛光を僧侶が祕する方術を以て出す事と成つたは疑を容れず。現今も印度や西藏(チベツト)の僧は、室内に皓月(こうげつ)眞に逼(せま)れるを出(いだ)したり、空中に神燈炫耀(げんえう)するを現じたり、中々歐州の幻師〔てじなつかひ〕の思ひも寄らぬ事を仕出〔しで〕かすと、每々其輩から聞いた。付法藏因緣傳五に、馬鳴(めみやう)大士、十一祖富那奢(ふなしや)に議論で負けて弟子と成つたが、心猶愧(はぢ)恨みて死せんと欲す。冨那奢之を察知し、馬鳴をして闇室中に經典を取らしむ。闇(くら)くて取れないと言ふと、師告(つげ)らく、但去、當令汝見、爾時尊者卽以神力、遙伸右手、徹入屋内、五指放光、其明照曜、室中所有、皆悉顯現、爾時馬鳴心疑是幻、凡幻之法、知之則滅、而此光明轉更熾盛、盡其技術、欲滅此光、爲之既疲、了無異相、知師所爲、卽便摧伏《但(た)だ去(ゆ)け。當(まさ)に汝をして見しむべし。爾(ここ)に尊者、卽ち、神力を以つて、遙かに右手を伸べ、室内に徹(とほ)し入る。五指、光を放ち、其の明り、照り耀き、室中に有る所のもの、皆、悉く顯現す。爾に、馬鳴、心に『是れ、幻しならん。』と疑ふ。凡そ、幻(げん)の法は、之れを知れば、則ち、滅す。而るに、此の光明は轉(ますます)更に熾-盛(さかん)なり。其の技術を盡して、此の光を滅せんと欲するも、之れが爲に既に疲れ、了(つひ)に、異相、無し。師の爲す所なるを知りて、卽ち、摧伏(さいふく)す。》。其から懸命に勉强して遂に佛法第十二祖と迄成つたと出づ。此文を見て當時方術で指端に光を出した事有つたと知る。辟支佛〔びやくしぶつ〕や羅漢が、人を敎化したり身の潔白を託するに口辯を用ひず、默(だんま)りで身體から火光を出した例は頗る多い。何か其祕術が有つのだらう。

[やぶちゃん注:「炫耀」光り強く輝くこと。

「付法藏因緣傳」釈尊の入滅後、付法相伝した 二十三祖師の因縁を叙述したもの。全六巻。北魏の吉迦夜・曇曜共訳で四七二年成立とされるが、サンスクリット語からの訳本ではなく、口伝による作成らしい。特に天台宗・禅宗では、古来。尊重されている。「大蔵経データベース」で調べたが、導入のシークエンスは少し長く、熊楠が内容を簡約している。以下が、当該部。

   *

有一大士名曰馬鳴。智慧淵鑒超識絕倫。有所難問靡不摧伏。譬如猛風吹拔朽木。起大憍慢草芥群生。計實有我甚自貢高。聞有尊者名富那奢。智慧深邃多聞博達。言諸法空無我無人。懷輕慢心往詣其所。而作是言。一切世間所有言論。我能毀壞如雹摧草。此言若虛而不誠實。要當斬舌以謝其屈。富那奢言。佛法之中凡有二諦。若就世諦假名爲我。第一義諦皆悉空寂。如是推求我何可得。爾時馬鳴心未調伏。自恃機慧猶謂己勝。富那語曰。汝諦思惟無出虛語。我今與汝定爲誰勝。於是馬鳴卽作是念。世諦假名定爲非實。第一義諦性復空寂。如斯二諦皆不可得。既無所有云何可壞。我於今者定不及彼。便欲斬舌以謝其屈。富那語言。我法仁慈不斬汝舌。宜當剃髮爲吾弟子。爾時尊者度令出家。心猶愧恨欲捨身命時富那奢得羅漢道。入定觀察知其心念。尊者有經先在闇室。尋令馬鳴往彼取之。白言大師。此室闇冥云何可往。告曰、

   *

「馬鳴大士」(生没年不詳)は一~二世紀頃の中インド出身の仏教論師。サンスクリット名「アシュバゴーシャ」の漢訳。仏教音楽・仏教文学の創始者的存在とされ、仏陀伝の傑作「ブッダチャリタ」(「仏所行讃」)を作った。「大乗起信論」の作者とされる馬鳴が居るが、これは後世の別人と考えられる。三十の頃、「大乗起信論」を読んだが、読み終わるのに一ヶ月もかかったのを思い出した。

「富那奢」脇比丘(きょうびく:二世紀初頭の中インドの僧。脇尊者とも呼ぶ。サンスクリット名は「パールシュヴァ」。付法蔵第九祖。カニシカ王の下で、彼以下五百人の比丘がカシュミールで第四回の仏典結集を行い、「大毘婆沙論」(だいびばしゃろん:小乗仏教教理の集大成。全二百巻)を編纂したとされる人物)に師事して法を受け、主に小乗教を弘めて多くの衆生を教化した。

「摧伏」本来は他動詞的で「打ち挫(くじ)いて屈伏させること」を言う。

「辟支佛」「各自独りで悟った者」の意の「プラティエーカ・ブッダ」の漢訳。仏の教えに拠らず、自分自身で真理を悟り、その悟りの内容を人に説くことをしない聖者を指す。「独り悟りを開いてそれを楽しむ仏」で、「独覚」とも意訳する。また、十二因縁の理法を悟るところから、「縁覚」とも訳したが、これはどうも「プラティエーカ」(「独りの」の意)を「プラティヤヤ」(「縁」の意)と誤読したか、あるいはこの聖者が十二因縁を観ずる修行をして覚ったとされることを特に言ったためかとも考えられている。現行では「縁覚」の方が使用度が高い。]

 

 續高僧傳十に、周の太祖の時、西域獻佛舍利《西域より佛舍利を獻ず》、帝、僧道妙をして供養せしむるに、經于一年、忽於中宵、放光滿室。螺旋出窻、漸引於外、須臾光照四遠、騰扇其熖。照屬天地、當有見者、謂寺家失火、競來救之、及覩神光乃從金瓶而出、皆歎未曾有也。《一年を經て、忽ち、中宵(やはん)に、光を放ち、室に滿つ。螺旋して窻(まど)を出で、漸(ぜんぜん)と外に引(ひきの)びて、須臾(しゆゆ)にして、光、四遠を照らし、其の熖(ほのほ)を騰(のぼ)し扇(あふ)ぎ、天地に照り屬(つらな)る。當(とき)に見る者有りて、「寺家、失火す。」と謂(おも)ひて、競ひ來たりてこれを救ふに、神光、乃(すなは)ち金瓶(きんぺい)より出づるを覩(み)るに及び、皆、「未だ曾て有らず。」と歎ず。》。十四に、隋の文帝舍利を梓州華林寺に送らしむ、既至州館、夜大放光、明徹屋上、如火焰發、食頃方滅《既して州館に至るに、夜、大いに光を放ち、屋の上、明るく徹(とほ)りて、火焰の發するがごとし。食-頃(しばらく)して方(まさ)に滅す。》。三寶感通錄二、梁武帝同奉寺に幸(みゆき)し、始到瑞像殿、帝纔登階像大放光。照竹樹山水並作金色。遂半夜不休《始めて瑞像殿に到る。帝、纔かに階(きざはし)を登れば、像、大いに光を放ち、竹樹山水を照らし、並(とも)に金色(こんじき)を作(な)し、遂に夜半まで休(や)まず。》。

[やぶちゃん注:「續高僧傳十」調べたところ、これは「續高僧傳」の巻第八の誤りである。「CBETA 漢文大藏經」(中文)のこちらの、[0486a18]の四行目以降を見られたい。

「十四に隋の文帝舍利を梓州華林寺に送らしむ、……」これも調べたところ、「續高僧傳」の巻第十二の誤りである。「維基文庫」版の同巻の「唐京師淨影寺釋善胄傳九」の丁度、真ん中の部分に出現する。]

 

 慈恩傳四に、玄奘天竺に在つた時、西國法、以此(正)月、菩提寺出佛舍利、諸國道俗咸來觀禮《西國の法、此の(正)月を以つて、菩提寺、佛舍利を出だし、諸國の道俗、咸(みな)來たりて觀禮す。》玄奘、其師勝軍居士と共に往き見る、至夜過一更許、勝軍共法師、論舍利大小不同云々。更經少時、忽不見室中燈、内外大明、怪而出望、乃見舍利塔、光暉上發、飛燄屬天、色含五彩、天地洞朗、無復星月、兼聞異香氛氳溢院、於是、遞相告報言、舍利有大神變、諸衆乃知、重集禮拜稱歎希有、經食頃光乃漸收、至餘欲盡、遶覆鉢數匝、然始總入、天地還闇、辰象復出、衆覩此已、咸除疑網。《夜、一更ばかりを過ぐるに至り、勝軍、法師と共に、舍利の大小の不同を論ず云々。更に少時を經て、忽ち、室中、燈(ひ)を見ざるに、内外(うちそと)、大いに明るし。怪しみて、出でて望めば、乃(すなは)ち、舍利塔より、光暉、上(のぼ)り發し、飛燄(ひえん)、天に屬(つらな)り、色は五彩を含み、天地、洞朗(どうらう)として、復(ま)た星・月の無きを見る。兼(あは)せて、異香、氛氳(ふんうん)として、院に溢(あふ)るるを聞(か)ぐ。是に於いて遞(たが)ひに相ひ告げ、報じて言はく、「舍利に大神變有り。」と。諸衆、乃(すなは)ち知り、重ねて集まりて禮拜し、「希有なり。」と稱歎す。食-頃(しばらく)、經(た)ちて、光、乃(すなは)ち、漸く收まり、餘り盡きんと欲(す)るに至り、覆鉢(ふくばち)を遶(めぐ)ること、數匝(すめぐ)りし、然して始めて總て入れり。天地、還(また)、闇(くら)く、辰象(しんしやう)、復た出づ。衆、此れを覩(み)て、咸(みな)、疑網を除く》。續高僧傳四には彼土十二月三十日、當此方正月十五日、世稱大神變月、若至其夕、(舍利)必放光瑞、天雨奇花。《彼(か)の土(ど)の十二月三十日は、此方(こなた)の正月十五日に當たり、世に「大神變月」と稱す。若し、その夕べに至れば、(舍利)必ず、光瑞を放ち、天、奇花を雨(あめふ)らす。》。其夜、玄奘其師と對話する内(うち)忽失燈明、又覩所佩珠璫瓔珞、不見光彩、但有通明晃朗、内外洞然、而不測其由也、怪斯所以、共出草廬、望菩提樹、乃見有僧手擎舍利、大如人指、在樹基上、遍示大衆、所放光明、照燭天地、于時衆鬧、但得遙禮、雖目覩瑞、心疑其火、合掌虔跪、乃至明晨、心漸萎頓、光亦歇滅、居士問曰、既覩靈瑞、心無疑耶、奘具陳意、居士曰、余之昔疑、還同此也、其瑞既現、疑自通耳《忽ち、燈明を失(しつ)す。復た佩(お)ぶる所の珠璫(しゆたう)・瓔珞(えうらく)を見るに、光彩を見ず、但(た)だ、通明(つうめい)して晄朗(くわうらう)、内外、洞然(とうぜん)たる有り。然して其の由(いはれ)を測れず。斯(こ)の所以(しよい)を怪しみ、共に草廬を出でて、菩提樹を望むに、乃(すなは)ち、僧、有りて手に舍利を擎(ささ)ぐるを見る。大いさは人の指のごとし。樹の基の上に在りて、遍(あまね)く大衆(たいしゆ)に示し、放つ所の光明は、天地を照燭(しやうしよく)す。時に衆(しゆ)、鬧(かまびす)しく、但(た)だ、遙かに禮するを得るのみ。目に瑞(ずい)を覩(み)ると雖も、心に其の火を疑ふ。合掌し、虔(つつし)んで跪き、乃(すなは)ち、明くる晨(あさ)に至る。心、漸く萎-頓(つか)れ、光も復た、歇(つ)き滅す。居士、對いて曰はく、「すでに靈瑞を覩る、心に疑ひ無からんや。」と。奘、具(つぶさ)に意を陳(の)ぶ。居士曰はく、「余の昔の疑ひも、還(ま)た此れに同じなり。其の瑞、既に現(げん)じたれば、疑ひ自(おのづか)ら通ずるのみ。」と。》

[やぶちゃん注:「慈恩傳」「大慈恩寺三藏法師傳」。三蔵法師として知られる唐の玄奘(六〇二年~六六四年)の伝記。全十巻。唐の慧立の編になる。「大蔵経データベース」で正規本文を確認・補正した。

「洞朗」広々として明るいさま。

「氛氳」気の盛んなさま。

「覆鉢」相輪  などの露盤上にある、鉢を伏せたような形のもの。その上に請花 (うけばな) ・九輪 (くりん) などをのせる。「デジタル大辞泉」の画像を参照されたい。

「辰象」ここは月や星のこと。

「珠璫」宝珠。

「晄朗」明るく輝くさま。

「洞然」盛んに燃えるさま。]

 

 此珍事は西域記には出て居なかつたと記憶するが、玄奘の弟子が書いた慈恩傳には、一同此瑞光を覩て疑網を除いたと有るに、道宣が親しく玄奘から聞書した續高僧傳を案ずると、遠方から禮し得たと云ひ、目に光を見ながら心其を火たるかと疑うたと云ひ、玄奘が充分其瑞光たるを信ぜぬに、勝軍が、予も昔汝の如く疑うたが、實際見た上は疑ふに及ばぢや無いかと樣々諭したなど、隨分怪しいことで、ビールの慈恩傳英譯に此處を註して、其頃印度既に斯(かか)る信敎上の詐騙(だまし)行はれたを此文で知り得ると有るが、氏が件(くだん)の續高僧傳の文を見たなら一層其然るを知り得た筈だ。此玄奘はルナンが言つた通り、佛を奉ずる事篤(あつ)き餘り奇瑞神異な事は味噌も糞も信じた人なるに、猶舍利光を目擊しながら其を火で無いかと疑うた由、後年道宣に話した所から推すに、此光は大仕掛の人工で出したものに相違ない。

[やぶちゃん注:「ビールの慈恩傳英譯」イギリスの東洋学者で、最初に初期仏教の記録類を中国語から直接翻訳したサムエル・ビール(Samuel Beal 一八二五年~一八八九年)。よく判らないが、死後の一九一一年刊の“The Life of Hiuen-Tsiang”(「玄奘の生涯」)辺りに含まれるか。「Internet archive」のこちらに一九一四年版があるが、流石に探す気にはならない。悪しからず。

「ルナン」フランスの宗教史家ジョゼフ・エルネスト・ルナン(Joseph Ernest Renan 一八二三年~一八九二年)。近代合理主義的な観点によって書かれたイエス・キリストの伝記「イエス伝」(Vie de Jésus:一八六三年)の著者として知られる。]

 

 エルサレムの聖墓に、每年聖土曜日〔ホリー・サターデー〕(三月下旬にあり)天より神火降り、詣衆(けいしゆう)押合(おしあ)うて大混雜中に其火を移し點じ、持歸つて舊火を更(あらた)む。其時一番に新火を移し點した者を大吉と羨む事、備前西大寺の會式(ゑしき)の如く、此火點した蠟燭の蠟で十字を畫いた經帷子を著せて死人を埋(うづ)むれば、樂土に往く事受合(うけあひ)也と云ひ、其他種々の吉祥ありとす(一八四三年ブライトン板ピエトロ、デラ、ヴァレ紀行〔ヴヰアツジ〕一卷二九五頁)。此夜信心の輩、夫妻打連れて聖墓を取廻(とりまはら)せる圓堂〔ロトンド〕に集り秘密の事を行ひ、斯(かく)て孕む所の子心身完全なりと信ず。翌朝其迹を見るに、口筆述難(のべがた)き體(てい)たらくだ(ゴダール埃及巴列斯丁〔エジプト・エ・パレスチン〕、一八六七年板、三八七頁)。ピエトロ此式を見た時既心有る者は、昔は眞の天火が降つたが當世のは人作だと云つた。然るに、近時に至る迄僧輩依然其人作に非(あらざ)るを主張し、當日法主〔パトリアーク〕、脫衣露頭跣足して身に一物を仕掛けざるを示し、單衣墓に入つて神火忽ち出づ。其體(そのてい)手品師の箱改めに異ならず、ある說に、墓内の秘部に數百年點し續けた晶燈〔ランプ〕あり、法主其から聖火を拵へ出すと。又云ふ、何の事は無い、マツチを藏(かく)し置いて火を作るのだと。希臘敎で此式を廢すると、聖週七日〔ホリー・ウヰーク〕にエルサレムへ巡禮する最富の徒の半分が來なくなり土地衰微すべしと一八七五年板バートン夫人の西里亞巴列斯丁並聖地内情〔ゼ・インナ・ライフ・オヴ・サイリア・パレスチナ・エンド・ゼ・ホリーランド〕卷二、頁一一〇に說き居る。

[やぶちゃん注:「備前西大寺」「日本三大奇祭」の一つともされる「会陽(えよう)」=「裸祭り」で知られる岡山県岡山市東区西大寺にある真言宗金陵山西大寺(さいだいじ:グーグル・マップ・データ)。

「一八四三年ブライトン板ピエトロ、デラ、ヴァレ紀行〔ヴヰアツジ〕一卷二九五頁」『「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (4)』の私の注の冒頭にある「‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843」を参照されたい。

「ゴダール埃及巴列斯丁〔エジプト・エ・パレスチン〕、一八六七年板、三八七頁」、フランスの医師・人類学者であったエルネスト・ゴダール(Ernest Godard 一八二六年~一八六二年)の一八六七年発表の“Egypte et Palestine; observations médicales et scientifiques.”(「エジプトとパレスチナ――医学的・科学的観察」)「Internet archive」で同年版の原本が視認出来る。ここ。]

 

 本論斯(か)う長く成(なつ)て南方先生も三升五合ばかり欲しく成り、讀者諸君も倦(う)んで來たゞらうから、中入りに實曆の椿譚(ちんたん)を述べんに、予が現に此文を草する所は學問に最も適した閑靜な地所の隅の炭部屋だが、其橫町は夜分至(いたつ)て淋しく、數年前まで特種民[やぶちゃん注:差別用語なので批判的に読まれたい。]が芝居見に往つた還りがけに、勿體無くも予が人天を化度(けど)せんと寂想に耽りおる壁一つ隔てゝ、行き掛の駄賃に大便を垂れ置く事每度なれば、人呼んで糞橫町と做(な)す。然るに一夏連夜餘り暑さに丸裸に成つて庭に立ち天文を察し居ると、壁外に芝居歸りの特種殿原(とのばら)喧々喃々(けんけんなんなん)するを妻が怪んで立聽(たちぎ)くと、町を隔てた鄰家の庭に密生した「まさき」の大木の上に、幽靈と兼て古くより噂有る火の玉が出て居ると云ふのだ。不審甚しくて、其輩立ち去(さつ)た後、妻を彼輩の蹟に立たせ色々試し見ると、「何のこつちや阿呆らしい、火の玉で無(の)うて睾丸でんす」と田邊詞で吐(ぬか)すから、子細を聞くと顯微鏡を夜見るとてランプの周邊を闇くし、一方に喇叭のような紙筒をあてた口から光が强く彼(かの)「まさき」の上の方に向ひ出(いで)た。燈(ひ)と木との間に予が裸で立(たつ)て天文を考へおる股と陰囊の影が彼(か)の樹の枝葉間に髣髴と映つたが幽靈の正體で、佐靑有公〔さをなるきみ〕の提燈たる人魂と擬(まが)ひしは、先尅(せんこく)降つた雨の餘滴が此方の光を反射するのと判つたので、予も陰囊の序(ついで)に龍燈で無くつて龍をも出して映さうかと苦笑した事だつた。其から氣が付(つい)て種々自宅で試驗の末、樹の位置葉の性質に隨つて、尋常のランプや蠟燭の火でも一寸(ちよつと)龍燈樣(やう)の物を出(で)かし得(え)、其が餘り近づくと見えず適宜に遠ざかるとよく見えるを知つた。上にワーナーの著や三寶感通錄二から引いた妖男巫〔アフヰチ〕の火や簡州の神燈が、遠方から見ゆるに近方から見えぬと有るも似たことで、何に致せ暇(いとま)少ない吾輩さへ、不慮に陰囊の影から此だけの發明をした位故、俗信を起し固むる方便に永代苦辛した佛僧中には、種々の機巧(からくり)や材料もて龍燈舍利光佛光を現出しり、又ヨングハズバンドが覩(み)た燈巖〔ランプ・ロツク〕如き天然に異光を發する場所を見出(みいだ)した者少なく無かつたと知らる。

[やぶちゃん注:南方熊楠自身が知らぬうちに現出させた「金玉龍燈」という、この実話、まことに面白い。「龍燈」の思いもしなかった光学実験の契機が彼の睾丸だったというのは、実に臭ってくるほどにリアルなものである。文字通りの「チンたん」でげすな! 熊楠先生! なお、最終一文の「見出」は底本では「現出」(左ページ二行目)であるが、これは文脈を検討して「選集」の方を採用した。

 なお、以下の段落は、底本では全体が一字下げである。]

 

 序に言ふ。昔波斯〔ペルシヤ〕のケルマン州の汗(ハン)が、拜火敎徒〔ガウル〕の尊奉する聖火堂に押し入つて、其聖火を見るに尋常の火だつたので、惡言して其火に唾を吐くと、火が穢(けがれ)を怒つて白鳩と化(な)つて飛び去つたので、僧共不信の汗に聖火を覩(み)せたのを悔過し、信徒と共に祈禱し又大施行をすると、白鳩復(かへ)り來つて再び聖火と現じた(タヴエルニエー汝斯紀行〔ヴオヤージユ・ド・ペルス〕)、一六七六年板四三九頁)。尾芝君が越後野志より引かれた、八海山頂の神に山麓で捧げた火が飛び行く話に似た事で、火が心有つて自ら飛び行くのか、神が靈驗以て火を動かすのか、孰れにしても全く虛構の言か、多少斯(こ)の樣な自然現象有るか、見る人一同精神錯誤に陷つたのか、又は何かの設備(こしらへ)で斯(かか)る手品を現ずる法が有つたか、四つの一つを出でじ。

[やぶちゃん注:「タヴエルニエー汝斯紀行〔ヴオヤージユ・ド・ペルス〕」フランスの宝石商人にして旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)は、一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。以上は、“Voyages de Perse”となるが、彼の“Les six voyages de Jean-Baptiste Tavernier”の中のペルシャ部分か。「Internet archive」には、英訳版の「Travels through Turkey to Persia」というのがある

「尾芝君が越後野志より引かれた、八海山頂の神に山麓で捧げた火が飛び行く話」『尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」』を参照されたい。]

 

 上に出した眼目山〔さつかさん〕の山燈龍燈は每七月十三夜、九世戶の天燈龍燈は正五九月と每月の十六夜、三學山寺の神燈は大齋(たいさい)の夜多く出で、玄奘が目擊した菩提寺の舍利光は印度の大晦日(支那の上元の日)、エルサレムの神火は聖土曜日〔ホリー・サターデー〕と云ふ風に、出る時が定(きまつ)ており(尾芝君の文、二〇七頁參照)、續高僧傳二六に、五臺山南佛光山寺の佛光は華彩甚盛、至夏大發、昱人眼目《華彩、甚だ盛んにして、夏に至りて大いに發し、人の眼目に昱(あきら)かなり。》とある。天主敎のシメオン尊者は紀元四六二年に六十九で圓寂したが、四十七年の長い間高さ五十四呎〔フイート〕の柱の尖に徑三呎の臺を造り、其上で行ひ澄(すま)した難有い聖人ぢやつたと有るが、あのそれ川柳とやらに「大佛の××の長さは書落(かきおと)し」の格で、大小便をどう始末したと肝心の事を傳へて居無い。或人終日(ひねもす)視察すると右の柱上臺で朝から暮迄額を踵(きびす)に加へて跪拜千二百四十回したが、南方先生同前無類の女嫌ひで、若い時遁世してから一向會(あは)なんだ老母が、命の有る内に一度會はんと來たのを會はずに卻〔かへ〕した一方に、入らぬ處へ大悲を垂れて、曾て瘡(かさ)を生じた中に蛆生じたのを大切に養育し、蛆が蚑落〔はひお〕ちたのを飯運びに來た弟子して瘡中へ拾入(ひろひい)れさせたとは不屆きな聖人ぢや。その永年苦行した一柱觀は今に安息城近傍に存し、難有屋連(ありがたやれん)これを渴仰するが、每年正月五日其柱上に一大星輝くを見ると云ふ(一八二二年板、コラン、ド、プランチーの遺寶靈像評彙〔ヂクシヨネール・クリチク・デー・レリク・エ・デー・イマージ・ミラクロース〕三卷八九-九〇頁)。

[やぶちゃん注:「尾芝君の文、二〇七頁參照」『尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」』の第五段落「此推測の果して當つて居るか否かを確かめる爲には、第一に龍燈出現の期日の有無を調べて見ねばならぬ。」で始まる部分であろう。

「シメオン尊者」最初の登塔者(正教会で塔に登る苦行を行う修道士のこと)聖シメオン。詳しくは、ウィキの「登塔者シメオンを見られたいが、現行では永眠は四五九年七月二十四日とする。

「五十四呎〔フィート〕」約十六・五メートル。

「三呎」約九十一センチメートル。

「大佛の××の長さは書落(かきおと)し」の伏字は文脈からすれば、「くそ」か。私なら「まら」としたくなるが。

「一柱觀」原本に当たれないので、不詳。

「安息城」同前。

「一八二二年板、コラン、ド、プランチーの遺寶靈像評彙(ヂクシヨネール・クリチク・デー・レリク・エ・デー・イマージ・ミラクロース)三卷八九-九〇頁」コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。詳しくは当該ウィキを見られたいが、掲げられたものは“Dictionnaire critique des reliques et des images miraculeuses”(「遺物と奇跡のイメージに関する評論的辞書」一八二一年刊)。]

 

 嬉遊笑覽十云く、隴蜀餘聞、蜀金堂縣三學山、有古樹三四株、不記年代、每春月、其葉夜輙有光、似炬、遠近數百里、以爲佛、裹粮往覽《「隴蜀餘聞」に、蜀の金堂縣の三學山に、古樹三、四株有り、年代を記(しる)さず。春月每(ごと)に、其の葉に、夜、輙(すなは)ち、光、有り、炬(たいまつ)に似たり。遠近數百里、以つて佛光と爲(な)し、糧(かて)を裹(つつ)んで往きて此れを觀る。》春に限つて光つたのは生理又病理學上說明し得べしと想ふ。吾邦では山茶〔つばき〕の朽幹(くちき)が夜光を放つ事他の朽木より多い。予幼時和歌山城近く山茶屋敷とて天方(あまがた)ちふ侍の邸あり。何故か年中戶を閉めず、夜分人通れば天狗高笑するとて其邊行く人稀だつた。熊野には山茶の木の槌(つち)は怪〔ばけ〕るとて今に製(つく)らぬ所あり。その理由は前日來訪せられたスヰングル氏が、本年八月上旬桑港(サンフランシスコ)で催す米國科學奬勵會で代讀さるる予の論文で公けにする筈だが、嬉遊笑覽に云へる通り、朽木が光を發する事も山茶を怪木と云ふ理由の一つに相違ない。

   (大正四年十月鄕硏第三卷八號)

[やぶちゃん注:最後のクレジット附初出は最終行の下方にインデントされているが、ブラウザの不具合を考えて改行し、引き上げた。

「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。この部分には困らされた。まず、「選集」はこの巻数を底本の「十一」を『一〇』に修正している。当該部を所持する岩波文庫版第五巻(長谷川強他校注・二〇〇九年刊・新字)で調べたところ、「巻十下目録」で「夜光木(ヒカリギ)」とあるので、ここにあるに違いないと、当該部を見たところ、ところがどっこい、ない。三度、「巻十」を縦覧したが、ない。しかし、ここになければおかしいと思い、「或いは、底本が違うかも?」と、国立国会図書館デジタルコレクションにある昭和七 (一九三二)年(五版)成光館出版部刊の当該部を視認したところ、あった! 左ページの二行目である。一部、読点がおかしいが、これだ! しかも漢文ベタの後に『此は』、『つはき』(椿)『の光る類とみゆ』という解釈も添えられている。

「隴蜀餘聞」清の王士禛撰。全一巻。隴・蜀の地誌。原影印本を「中國哲學書電子化計劃」のこちらで確認出来る。

「スヰングル氏」アメリカ合衆国の農学者・植物学者ウォルター・テニソン・スウィングル(Walter Tennyson Swingle 一八七一年~一九五二年)。アメリカ農務省などで働き、柑橘類・果樹の品種改良・柑橘類の分類学研究などで知られる。詳しく(もないが)は当該ウィキを参照されたいが、所持する「南方熊楠を知る事典」(松居竜五・月川和雄・中瀬喜陽・桐本東太編/一九九三年四月講談社現代新書刊)の人名解説での松居氏の記載を引用する。

   《引用開始》

米国の農業植物学者。農務省に勤務していた。一九〇六年、南方熊楠に手紙を送り、ジャクソンヴィルで採集した菌類を送ってほしいと求めた。その後、文通による付き合いが続き、一九〇九年[やぶちゃん注:明治四十二年。]には渡米を要請している。当初、熊楠はこの要請にかなり乗り気であったようだが、結局、家族の事情により断念した。だが、この時の渡米要請の一件が新聞で報道され、熊楠が国内で名声を得るきっかけとなった。スウィングルはまた、熊楠に中国から日本への植物移入の歴史について書くように勧めたりもしている。一九一五年[やぶちゃん注:大正四年。]に来日した折りは、田辺に熊楠を訪ね、数日ともに周辺を遊び、この時、再び渡米の要請をしたが熊楠は断わった。

   《引用終了》

「予の論文」不詳。何で光るのかだけでも知りたいな……。]

2022/04/12

尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」

 

[やぶちゃん注:本篇は大正四(一九一五)年六月発行の『鄕土硏究』に尾芝古樟(こしょう)の変名で柳田國男が発表した論文である。尾芝は柳田國男の母の実家の姓である。柳田國男の談話「故郷七十年」(「青空文庫」のこちらで読める)の「匿名のこと」に、『私の匿名の一つに尾芝古樟(こしょう)というのがある。これは北条の母の実家の姓と、同家にあった古い樟くすの老樹にあやかったものである。』と記しているが、思うに、この当時、彼は貴族院書記官長となっていたから、官職を憚ってのことであろうと推定する。後の昭和二八(一九五三)年実業之日本社から刊行された「柳田國男先生著作集 第十二册」に「神樹篇」と総題する中の一篇として再録されている(戦後の刊行物であるが、正字正仮名表記である)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションにある、その「柳田國男先生著作集 第十二册」の当該論文に拠った。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は「定本柳田國男集 第十一卷(新装版)」(一九六九年筑摩書房刊))を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本電子化は、現在、ブログ・カテゴリ「南方熊楠」で進行中の、南方熊楠の論文「龍燈に就て」で取り上げられていることから、急遽、電子化することとした。そちらが私のメイン作業であるからして、時間をかけたくないので、一部気になる箇所以外は注をしない。傍点「﹅」は太字に代えた。典籍注記の( )等はポイント落ちであるが、同ポイントとした。]

 

      龍 燈 松 傳 說

 

 盆の燈籠は、やはり柱松の行事と系統起原を同じくするものであらう。角な切籠(きりこ)が廢れて、圓い岐阜提燈(ぎふちやうちん)が多く行はれると共に、今では軒に吊(つる)すのが盆燈籠の常の習のやうになつて居るが、昔は是も高い柱の上に揭げたものであつた。明月記寬喜二年[やぶちゃん注:一二三〇年。]七月十四日の條に、長竿の末に紙を張つて灯樓(とうろう)を附けて立つる風、次第に流行すると云ふ記事は、松屋筆記其他の隨筆類に引用せられて既に有名である。而も鬼貫(おにつら)の發句で世に知られた攝州伊丹(いたみ)の高燈籠の類は、近世になつても決して珍しい例では無かつた。例へば百年前の秋田の風俗答書にも、七月には三丈四丈の伸良(のびよ)き丸太を立て、其尖(さき)に燈籠を揚げることを述べ、新佛(しんぼとけ)ある家で三年目まで、其後は七年十三年と年回每に立てるもあれば、年々立てる家もある。七月は朔日に始つて晦日に至る。大抵一町内に三四箇所は必ず立つ故に、高い處より望めば星の林のやうだと言つて居る。柱の構造としては、尖端に近く橫木を結ひ附けて、三角に繩を張り幣(しで)を切掛け、三角の角ごとに杉又は笹の葉を附け、燈籠は其橫木に吊るすのだとあつて精密な揷畫があるが、山中笑翁が明治二十年の七月三十日に、相模平塚の附近を通行して、目擊せられたと云ふ農家の高燈籠の見取圖が、不思議なほどそれとよく似て居る(共古日錄十九)。卽ち此も亦繩と橫木を以て三角形を作つて兩端に杉の葉を附け、燈籠は其下に吊したものである。而して以前江戶市中に於て立てたと云ふものも亦殆と[やぶちゃん注:「ほとほと」「ほとんど」はこれが塩転訛したもの。]同樣であつた。昔々物語に、「昔は御旗本衆死去し其年七月高燈籠と云ふ物を立る云々。大方七回忌まで每年立るもあり、七八間ばかりの杉丸太の上に三角に甍(いらか)結(ゆ)ひ、杉の葉にて包みしでを切りて附け、燈籠は辻番の行燈なりに、上へ開き下つぼませ、屋根は板にて拵らへ、玄關と臺所との間の廣き所に立つ。七月朔日より晦日まで每夜暮六つより明六つまでとぼす。一向宗にては見ず、他宗は皆々此の如し、見分哀に見ゆるなり云々」。今から略々二百年前の事を述べたもので後は絕えたやうに見えるが、必ずしもさうでなかつた證は十方菴の遊歷雜記初篇にある。卽ち靑山百人町に住する與力同心などの組屋敷では、それから尙百年の後まで七月中此柱を立てゝ燈籠を點(とぼ)し、之をば星燈籠と呼んで居た。家々柱の高きを競ふ故に遠くから見えて壯麗であつた。是は八代將軍目黑御成の歸途に此光景を賞せられ、一統の者に銀を下された。それより愈古例となつて永く殘つたと云ふ。之を以て推測すると、少なくも市中に於て揚燈籠の風が衰へたのは、經費が次第に多くかゝつて、箇人の所作に適しなくなつた爲であるかと思ふ。

 盆の聖靈祭(しやうりやうまつり)が家々別々の祭となつたのは、さして古い時代の事で無かつたらしい。所謂三界萬靈(さんがいばんりやう)の中から、各自有緣の亡者を持分けて供養することになると、柱松の設備は成ほど些し大規模に過ぎるやうである。木材も人手も有餘る片田舍で無ければ、冨豪大身の他は、其入費の負擔に堪へなかつた筈である。是に於てか或地方では、此點ばかりを永く部落の共同事業として、個人主義の新念佛道との不調和を來し、他の地方では之に代ふるに門火(かどび)や軒提灯の略式を以てし、何れも次第に柱祭(はしらまつり)の古い思想から、遠ざかるに至つたものであらう。然るに茲に一つ、偶然にも都合のよかつたことは、所謂檀那寺の仲介と調和とである。御寺は個々の檀家の信仰上の代表者として、祖師檀の片脇などに、家々から多數の位牌を預つて置いて供養すると同じく、個人の獨力では實行し難いこの柱祭の任務を、一手に請負うて勤めたものらしい。是は單に盆の柱祭のみでは無かつた。葬式の跡始末でも、春秋の彼岸の施餓鬼(せがき)でも、何れも個人が父祖を追慕するの情を傷ふ[やぶちゃん注:「そこなふ」。]ことなしに、昔の厲鬼[やぶちゃん注:「れいき」と読む。流行病などを起こさせる悪神、厄病神のこと。]驅逐の術を完成し得た故に、常に村の爲に有用であつたのである。此號に阿波の遠藤君が報ぜられた眞言寺の招き旗なども、現に陸中遠野鄕の村々では、今なほ新盆の家では家々に於て之を建てること、恰も他の地方の五月幟と同じやうである(遠野物語序[やぶちゃん注:私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版)始動 序・目次・一~八 遠野地誌・異形の山人・サムトの婆』の柳田の序を参照されたい。])。西京では大和大路四條の東南の角に、眼疾地藏(めやみぢざう)を以て有名な仲源寺の如き、每歲盆には門前に揚燈籠(あげとうろう)を燃した。山州名跡志には其由來を說明して、此邊は慶安の頃まで農村であつて、此寺が恰も村の總堂(墓所?)であつた爲に、此種の遺風が存するのだと云つて居るが、それだけでは寺が其任務を引受けた理由が充分明白で無い。必ず別に個人にも部落にも之を繼續し得なかつた事情のあるものと認めねばならぬ。尤も寺院の境内に高い柱を建てることが、新たに柱祭の委託を受けた時に始つたか、はた又朝鮮の刹柱[やぶちゃん注:「さつちゆう」は仏塔の中心にある柱を言う。]などの如く寺には古くより柱を立てる風があつて、其爲に村の總代として此儀式を行ふに好都合であつたのかは、決して容易に決し得べき問題では無いが、兎に角次に言はんとする諸國の龍燈松(りうとうまつ)の傳說、多分は其傳說が意味するらしい寺々の高燈籠は、御靈會(ごりやうえ[やぶちゃん注:「え」はママ。])卽ち集合的聖靈送りの衰微、竝に之に伴つて盛になつた佛敎の個人主義と、深い因緣のあるものに違ひない。

 柱松と高燈籠と、假令同じく中元の習俗であつたにしても、一方は騷々しい破壞的事業で他の一方は美觀を專とする靜かな行事であれば、或は二者を一括して論ずるのを不當と考へる人があるかも知れぬ。此は自分の說の出發點だから確かにして置くが、其非難は恐らくは蠟燭の普及せず燈蓋(とうがい)の工夫せられなんだ時代を想像したら、容易に消滅するだらうと思ふ。語を換へて申せば、二種の柱の火の相異は、單に篝火(かゞりび)と軒行燈(のきあんどう)、又は松明と提灯との差別である。簡便に高い處で火を燃して置く方法が無いから、大袈裟な傘や酸漿を造つた迄である。其目的は生きた人間に對するものから類推しても知らるゝ如く、暗夜の道しるべに他ならぬので、此用途に向つて時代相應の人の智慧を働かせたのである。此說明は尙進んで柱と天然の樹木との關係にも適用し得られる。高燈籠の頂點に杉の葉を附ける風は、柱の材木が杉丸太であることゝ考へ合すべきものであらう。卽ち柱は單に高い處へ燈火を達せしむる手段であつて、天然の喬木があれば之を用ゐたのが本意であらう。此點は折口君も既に言はれたから詳しくは論ぜぬが、我邦の神木崇敬を批評する人たちには、是非とも一顧を煩はすべき事柄である。

 諸國に數多くもてはやさるゝ龍燈(りうとう)松、又は龍燈の杉の傳說が、槪ね大社舊寺の緣起と終始して居るのは注意すべきことゝ思ふ。全體緣起と名の附いた昔話には型に嵌(はま)つたものが多く、殊に漢文を以て書かれたものに至つては、殆と一步も元亨釋書の外へ蹈出さぬのが通例であるが、それにしても本尊の靈驗乃至は開祖の道力と、必ずしも適切な關係が無いのに此松此杉が無ければ寺門の格式を墮しでもするかの如く、競うて一本の名木(めいぼく)を稱讃するのは、單純なる流行とは認めにくいやうである。蓋し龍燈と云ふ漢語はもと水邊の怪火を意味して居る。日本でならば筑紫の不知火(しらぬひ)河内の姥が火等に該當する。時あつて高く喬木の梢の邊を行くなどは、怪火としては固より怪しむに足らぬが、常に一定の松杉の上に懸ると云ふに至つては、則ち日本化したる龍燈である。察する所五山の學僧などが試に龍燈の字を捻し[やぶちゃん注:「ねんし」ひねくりいじって。]來つて此燈の名としたのが最初で、龍神が燈を獻じたと云ふ今日普通の口碑は、却つて其後に發生したものであらう。各地の山の名に燈籠塚山(とうろうづかやま)、又地名として燈籠木などと云ふのがあるが、龍燈松の昔の俗稱は多分それであらうと思ふ。

 此推測の果して當つて居るか否かを確かめる爲には、第一に龍燈出現の期日の有無を調べて見ねばならぬ。尤も人が龍燈と云ふ物の中にも、夏秋の交[やぶちゃん注:「かはり」と訓じておく。]大小多數の火が螢などの如く水邊より出て四方を飛んであるくと云ふのがある。近刊の入間郡誌に八十歲の老人之を記憶すと云ふ同郡小畔川(をぐろがは)の龍燈、長久保赤水の東奧紀行等に記した磐城四倉(いはきよつくら)の龍燈、さては越後野志卷十四に龍燈天燈と題して各地に多くありと云ふものなどはそれである。佐渡の根本寺に於て或浪人が弓を以て射留めた龍燈は、實は大なる鷺であつた(松屋筆記七十八所引、佐渡奇談)。此等は龍燈と云ふ漢語の本の意味に合致するもので、不思議は不思議ながら要するに一種の天然現象である。之に反して每年特定の一夜又は數夜、特定の木の上に來て懸ると云ふ龍燈に至つては、卽ち人間界の不思議と言はねばならぬ。近い例から擧げると、江戸名所記には東郊木下川(きねがは)淨光寺の藥師、每月八日と元三(ぐわんさん)の朝と、本尊の前に龍燈揚ると云ひ、別に木下川藥師緣起の一篇があつて、嘉曆二年[やぶちゃん注:一三二七年。]といふ靑龍出現の瑞相が重くるしく說立[やぶちゃん注:「ときたて」。]てゝある(柳庵隨筆九)。下總印旛沼附近の天竺山龍角寺の龍神社では、每月朔日十五日二十八日の三度、燈火此沼の百丈穴より飛上つて社頭に懸つたと云ふは(相馬日記)あまりに律義な龍燈である。常陸筑波山の龍燈は五月の晦日の晚揚り、其月小なるときは二十九日に揚つた(一話一言補遺)。此等は皆龍神の手元に其年の曆が無い限りは一寸守り難い約束であり、新曆の今日はどうなつたか聞きたい。此類の期日の中でかの柱松の行事を思合さしむるものは七月と十二月の龍燈である。阿波那賀郡見能林(みのはやし)村の津峯權現と、同郡加茂谷村舍身山大龍寺との兩所は、何れも除夜の晚に山の頂上へ龍燈が上つた(阿州奇事雜話一)。大龍寺には龍燈杉と云ふ山中第一の名木があつたのを、大佛殿建立の爲に豐太閤の時に伐つたと言へば、今では其龍燈も昔話であらう。能登鳳至(ふげし)郡穴水鄕(あなみづがう)に鎭座する最勝森住吉神社は、一名を龍燈社とも呼ばれた。每年十二月晦日の夜、龍燈の奇事があつた故に此名がある(能登國式内等舊社記)。龍燈の奇事とは奇現象か、はた奇習俗か、社傳にも之を詳かにせぬと見える。更に七月の例を言ふと、紀州で有名な紀三井寺(きみゐでら)では、爲光上人[やぶちゃん注:「ゐくわうしやうにん」。]大般若書寫の功成らんとするとき龍女化現の奇異があつた。其時の約により每年七月九日の夜、本堂の艮(うしとら)五町ばかり千手谷(せんじゆだに)の松間に龍燈が現はれたと云ふ(續風土記十五)。此等の高燈籠は果して龍族の寄進するものと當初から信ぜられて居たのか、或は單に昔あの邊に燈籠が揚つたと云ふだけの言傳へに、斯る荒唐なる說明を附したものか。勿論此だけの材料では決し兼ねるが、特に一定の日を期して此事のあつたと云ふ話は、自分の如く解釋するのが、自然では無いかと思ふ。越後南魚沼郡八海山(はつかいざん)の頂上には八海明神の社がある。麓の里に住む人々は每年七月晦日の夜は登山參拜して一宿する習であるが、此夜山から麓の方を下し臨めば、數十の火が燈の如く連り聯綿として山中に飛來るを見る。土人は之を八海明神を遙拜する山下諸邑の人の捧ぐる燈が自ら飛來るのだと信じ、因つて其夜は諸村の者も戶每に燈燭を捧げて八海山を遙拜する。飛火に大小があるのは捧げる燈の大小に由ると云つて、各人燭の大なるを競うたと云ふことである(越後野志)。此話も亦寺々の龍燈と同じく、何れの點までが神祕で何れの點迄が實際生活であるかを區分し難いが、此夜が恰も神を送るの季節であつたことを考合せると、信仰ある者の夜目の迷ひにも若干の因由が無かつたとは言はれぬ。

 之を要するに自分の解する龍燈松は、天然の樹木を利用した柱松の故跡である。而も此が又柱松の本然の形式であつた。但し人が喬木の梢に燈火を揭げたと云ふ例證は不幸にしてまだ見出さぬが、略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]其光景を伺はしむべき昔話も亦殘つて居る。例へば美作久米郡稻岡北庄(きたのしやう)の櫔社山(とちこそさん)誕生寺は、法然上人誕生の舊地である。寺の東南五十町ばかりの地にある龍燈松は、一名を篝松(かゞりまつ)と謂ふ。弘治年間[やぶちゃん注:戦国時代の一五五五年から一五五八年まで。室町幕府将軍は足利義輝。]のことであるが、此松の邊に神燈屢現れた。住持玉興なる者夜々來つて經を誦し居ると、一夕恍然として故上人が此樹上に現ずるを見た。彌陀の名號を唱ふること十餘遍、玉興拜して之に和す。少時にして冉々として天に昇る。後人時々異光を見る者多かりしより、此木を龍燈松と名づけたと云ふ(作陽誌)。此話は前に揭げた平家物語の一說とすこぶる似て居る上に、篝松の名は其火の曾ては篝であつたことを思はせる。備後深安郡の深津と云ふ所に燈明松(とうみやうまつ)と稱する古木が今もある。福山侯入部の當時埋立新田を拓いて鹽崎明神を祀り、松は其時其社の傍に栽ゑた木である。世人此樹の下に燈明を點し八百萬の神を祀りしより、燈明松の名が出來たと云ふ(大日本老樹名木誌)。樹下と云ふことは果して誤聞で無いだらうか。尙彼地の人に訂したいと思ふ。瀨戸内海の埋立地には往々にして龍燈木の話がある。水に近いから龍神の緣が深いと見ればそれ迄であるが、何か別に此類の開作に住む者に、永く柱松風の祭典を營むべき特殊の事情があつたのでは無からうか。殊に八百萬を祀るとあつて、鹽崎明神を祭ると言はぬのは意味があるやうに思ふ。

 柱の天然の樹木との關係を說いたついでに、一つ最近の見聞を附記して置かう。此まで汽車で東海道線を通るたびに心附いて居たのであるが、美濃の西部大垣驛の前後に二三ケ所、高い松の梢上に赤色の旗を立てた村がある。もとは天氣豫報の標幟であらうと思つて居たが、今度の旅で此地方出身の今西龍君に聞いて見ると、全く一種信仰上の物であるらしい。今西氏は曰く、自分は美濃でばかりすることゝは今まで心附かなんだ。日淸戰爭の頃にふと何れかの村でやり始め、追々に之に倣ふ者が出來た。村の中でも最も高い木を擇び、非常な骨折を以て攀ぢ登り、あの赤い旗を頂邊の枝に結はへ附けて來るので、もとは戰捷祈念の意味を以てしたものらしいと。此習慣はどう考へても突如として起るべきもので無い。從前樹木に旗を立てゝ祈念する風があつたのか。或は又柱に旗を附けて立てる風のみあつて、高きを競ふ極[やぶちゃん注:「きはみ」。]、此の如き樹梢を利用することになつたのか。赤色は何を意味するか。何れも更に揖斐地方の人に尋ねたいものである。柱の燈と柱の旗とは、至つて密接な關係を有して居るかと思ふ。夜の祭の柱松に對して、我々は尙晝の祭の旗鉾(はたほこ)を、講究して見なければならぬのである。

     (大正四年六月、鄕土硏究三卷四號)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧のクレジット・初出は底本では最終行の下インデントであるが、ブラウザの不具合を考慮して、改行し、上方に引き上げた。]

「泉鏡花 (遺稿) 正規表現版 オリジナル注附」PDF縦書版 公開

「泉鏡花 (遺稿) 正規表現版 オリジナル注附」PDF縦書版「心朽窩旧館」に公開した。

泉鏡花 (遺稿) 正規表現版 オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:本篇の発見の経緯は冒頭にある水上瀧太郞氏(彼の著作は既にパブリック・ドメインである)の附記に詳しいが、泉鏡花の没後(昭和一四(一九三九)年九月七日に癌性肺腫瘍のため亡くなった)、未亡人のすずさんが家内より発見されたもので、無題の草稿原稿である。所持する岩波書店刊「鏡花全集」(一九七八年初版の一九八九年二刷)の「別卷」の村松定孝氏の「作品解題」によれば、昭和一四(一九三九)年十一月発行の『文藝春秋』に「遺稿」として発表された。村松氏によれば、以下の水上氏の附記の通り、『執筆された時期は定かではないが、水上は昭和十四年の初頭に超稿されたものと推定している。「薄紅梅」』(昭和十二年一月五日から三月二十五日まで『東京日日新聞』に連載)『や「「縷紅新草」』(るこうしんさう:昭和十四年七月発行の『中央公論』に発表)『の主人公と同名の辻町糸七が登場し、赤蜻蛉の飛翔する光景は「縷紅新草」と共通しているが、内容は右作とは關連はない。また筋の展開はなく、未完の作である。月報25に掲載に掲載の檜谷照彦「鏡花自筆原稿目錄について」に、本作の原稿についての考察が述べられていて、推敲のあとが比較的少い草稿としての硏究上意義のあることを指摘している』とある。

 底本は上記全集の「卷廿四」を用いた。但し、「青空文庫」に二〇〇三年九月三日に公開された同篇の電子データ(入力・門田裕志氏/校正・多羅尾伴内)があるので、そのテキスト・ファイル(こちらの下段からダウン・ロード出来る)を加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。因みに、「青空文庫」版のそれは「旧字・旧仮名」と名打ってはいるのであるが、「青空文庫」の規定の文字コード制約があるため、原本との表記の違いが有意にあり、とても正規表現とは私には言えないものにしか見えないのである。それこそ特に鏡花が見たら、慄然とするであろう代物である。それほど、正規表現にこそ、鏡花の夢幻性は十二分に発揮されるからである。そのため、私は私が示し得るより原本に近い電子データの作成を目指したものである。また、数ある鏡花作品の中で、特に本篇をここで選んだ理由であるが、これは、現在、私が電子化注をブログ・カテゴリ「南方熊楠」で進行中の、南方熊楠「龍燈の就て」の、その「二」の冒頭部分が、実は、この「(遺稿)」の中に出現するからなのである。私は大の鏡花好きであるが、総ルビ作品の多い鏡花の作品の電子化は通常のルビを打ち難いブログでは気が引けていた。しかし、この事実と対峙するに、自分で鏡花作品を電子化をする決心がついたのである。なお、実は、幸いにして、この遺稿は着手初期の草稿原稿であるためか、ルビが全く振られていない。されば、PDF縦書版の他に、ブログ版も公開することとした。

 但し、私は踊り字「〱」「〲」が生理的に嫌いで(生涯、自分の書いた文書や板書で用いたことは一度もない)、ワードで縦書にして、拡大し、二字分相当にさせても、巨大な太字の「く」「ぐ」のようになって、化け鰻のごと見えて気持ち悪く目立つばかりだった(盛んに電子化物でみられる「/\」などは論外の一昨日だ)。されば、そこだけは正字化させてある。

 また、注は、若い読者のために難読かと思われる読みや意味、また、読みが振れると判断したもののみに限り、段落末に続けて附した。

 以下、冒頭の水上氏の附記(ポイント落ち)は、底本では全体が三字下げであるが、引き上げてある。]

 

 

 この無題の小說は、泉先生逝去後、机邊の篋底に、夫人の見出されしものにして、いつ頃書かれしものか、これにて完結のものか、はたまた未完結のものか、今はあきらかにする術なきものなり。昭和十四年七月號中央公論揭載の、「縷紅新草」は、先生の生前發表せられし最後のものにして、その完成に盡されし努力は既に疾を内に潜めゐたる先生の肉體をいたむる事深く、其後再び机に對はれしこと無かりしといふ。果して然らばこの無題の小說は「縷紅新草」以前のものと見るを至當とすべし。原稿は稍古びたる半紙に筆と墨をもつて書かれたり。紙の古きは大正六年はじめて萬年筆を使用されし以前に購はれしものを偶々引出して用ひられしものと覺しく、墨色は未だ新しくして此の作の近き頃のものたる事を證す。主人公の名の糸七は「縷紅新草」のそれとひとしく、點景に赤蜻蛉のあらはるゝ事も亦相似たり。「どうもかう怠けてゐてはしかたが無いから、春になつたら少し稼がうと思つてゐます。」と先生の私に語られしは昨年の暮の事なりき。恐らく此の無題の小說は今年のはじめに起稿されしものにはあらざるか。

 雜誌社としては無題を迷惑がる事察するにあまりあれど、さりとて他人がみだりに命題すべき筋合にあらざるを以て、强て其のまゝ揭出すべきことを希望せり。(水上瀧太郞附記)

 

 

 伊豆の修禪寺の奧の院は、いろは假名四十七、道しるべの石碑を畷、山の根、村口に數へて、ざつと一里餘りだと言ふ、第一のいの碑はたしか其の御寺の正面、虎溪橋に向つた石段の傍にあると思ふ……ろはと數へて道順ににのあたりが俗に釣橋釣橋と言つて、渡ると小學校がある、が、それを渡らずに右へ𢌞るとほの碑に續く、何だか大根畠から首をもたげて指示しをするやうだけれど、此のお話に一寸要があるので、頰被をはづして申して置く。[やぶちゃん注:「畷」「なはて」。「頰被」「ほほかぶり」。]

 もう溫泉場からその釣橋へ行く道の半ばからは、一方が小山の裙、左が小流を間にして、田畑に成る、橋向ふへ𢌞ると、山の裙は山の裙、田畑は田畑それなりの道續きが、大畝りして向ふに小さな土橋の見えるあたりから、自から靜かな寂しい參拜道となつて、次第に俗地を遠ざかる思ひが起るのである。[やぶちゃん注:「裙」「すそ」。「大畝り」「おほうねり」。]

 土地では弘法樣のお祭、お祭といつて居るが春秋二季の大式日、月々の命日は知らず、不斷、この奧の院は、長々と螺線をゆるく田畝の上に繞らした、處々、萱薄、草草の茂みに立つたしるべの石碑を、杖笠を棄てゝ彳んだ順禮、道しやの姿に見せる、それとても行くとも皈るともなく煢然として獨り佇むばかりで、往來の人は殆どない。[やぶちゃん注:「萱薄」「かやすすき」。「彳んだ」「たたずんだ」。「道しや」「道者」で巡礼と同義、或いは、巡礼は多く共連れがいたことから、その道連れの意ともなった。しかし、ここは前の「巡禮」と差別化されていることから考えると、行脚僧や修行者のように見える者の意か、或いは、単なる旅人を指しているのかも知れない。「皈る」「かへる」。「煢然」「けいぜん」は「孤独で淋しそうなさま」の意。]

 またそれだけに、奧の院は幽邃森嚴である。畷道を桂川の上流に辿ると、迫る處怪石巨巖の磊々たるはもとより古木大樹千年古き、楠槐の幹も根も其のまゝ大巖に化したやうなのが纍々と立聳えて、忽ち石門砦高く、無齋式、不精進の、わけては、病身たりとも、がたくり、ふらふらと道わるを自動車にふんぞつて來た奴等を、目さへ切塞いだかと驚かれる、が、慈救の橋は、易々と欄干づきで、靜に平かな境内へ、通行を許さる。[やぶちゃん注:「畷道」「なはてみち」。「磊々」「らいらい」。大きな石が積み重なるさま。「槐」「えんじゆ」。「纍々」「るゐるゐ」。「砦」「まがき」と訓じておく。籬。「無齋式」「むさいしき」と読んでおく。神仏への敬虔の念のないこと。「道わる」「道惡」。]

 下車は言ふまでもなからう。

 御堂は颯と松風よりも杉の香檜の香の淸々しい森森とした樹立の中に、靑龍の背をさながらの石段の上に玉面の獅子頭の如く築かれて、背後の大碧巖より一筋水晶の瀧が杖を鳴らして垂直に落ちて仰ぐも尊い。

 境内わきの、左手の庵室、障子を閉して、……たゞ、假に差置いたやうな庵ながら構は緣が高い、端近に三寶を二つ置いて、一つには橫綴の帳一册、一つには奉納の米袋、ぱらばらと少しこぼれて、おひねりといふのが捧げてある、眞中に硯箱が出て、朱書が添へてある。これは、俗名と戒名と、現當過去、未來、志す處の差によつて、おもひおもひに其の姓氏佛號を記すのであらう。

「お札を頂きます。」

 ――お札は、それは米袋に添へて三寶に調へてある、其のまゝでもよかつたらうが、もうやがて近い……年頭御慶の客に對する、近來流行の、式臺は惡冷く外套を脫ぐと嚔が出さうなのに御内證は煖爐のぬくもりにエヘンとも言はず、……蒔繪の名札受が出て居るのとは些と勝手が違ふやうだから――私ども夫婦と、もう一人の若い方、と云つて三十を越えた娘……分か?女房の義理の姪、娘が緣づいたさきの舅の叔母の從弟の子で面倒だけれど、姉妹分の娘だから義理の姪、どうも事實のありのまゝにいふとなると說明は止むを得ない。とに角、若いから紅氣がある、長襦袢の褄がずれると、緣が高いから草履を釣られ氣味に伸上つて、

「ごめん下さいまし。」

 すぐに返事のない處へ、小肥りだけれど氣が早いから、三寶越に、眉で覗くやうに手を伸ばして障子腰を細目に開けた。[やぶちゃん注:「惡冷く」「わるづめたく」。「嚔」「くさめ」。「些と」「ちと」。]

 山氣は翠に滴つて、詣づるものゝ袖は墨染のやうだのに、向つた背戶庭は、一杯の日あたりの、ほかほかとした裏緣の障子の開いた壁際は、留守居かと思ふ質素な老僧が、小机に對ひ、つぐなんで、うつしものか、かきものをしてござつた。[やぶちゃん注:「對ひ」「むかひ」。「つぐなんで」しゃがんで。]

「ごめん下さいまし、お札を頂きます。」

 黑い前髮、白い顏が這ふばかり低く出たのを、蛇體と眉も顰めたまはず、目金越の睫の皺が、日南にとろりと些と伸びて、

「あゝ、お札はの、御隨意にの頂かつしやつてようござるよ。」

 と膝も頭も聲も圓い。[やぶちゃん注:「蛇體」が姿を見せるかのように見えたという比喩。「日南」「ひなた」と読んでいると私はみる。例は『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 郊外』の私の注を参照されたい。]

「はい。」

 と、立直つて、襟の下へ一寸端を見せてお札を受けた、が、老僧と机ばかり圓光の裡の日だまりで、あたりは森閑した、人氣のないのに、何故か心を引かれたらしい。

「あの、あなた。」

 かうした場所だ、對手は弘法樣の化身かも知れないのに、馴々しいことをいふ。

「お一人でございますか。」

「おゝ、留守番の隱居爺ぢや。」

「唯たお一人。」[やぶちゃん注:「唯た」「たつた」であろう。]

「さればの。」

「お寂しいでせうね、こんな處にお一人きり。」

「いや、お堂裏へは、近い頃まで猿どもが出て來ました、それはもう見えぬがの、日和さへよければ、此の背戶へ山鳥が二羽づゝで遊びに來ますで、それも友になる、それ。」

 目金がのんどりと、日に半面に庭の方へ傾いて、

「巖の根の木瓜の中に、今もの、來て居ますわ。これぢや寂しいとは思ひませぬぢや。」

「はア。」

 と息とゝもに娘分は胸を引いた、で、何だか考へるやうな顏をしたが、「山鳥がお友だち、洒落てるわねえ。」と下向の橋を渡りながら言つた、――「洒落てるわねえ」では困る、罪障の深い女性は、こゝに至つてもこれを聞いても尼にもならない。[やぶちゃん注:「木瓜」「ぼけ」。木本のボケ。「下向の橋」「げかうのはし」。寺から下る橋をかく言ったものであろう。]

 どころでない、宿へ皈ると、晚餉の卓子臺もやひ、一銚子の相伴、二つ三つで、赤くなつて、あゝ紅木瓜になつた、と頰邊を壓へながら、山鳥の旦那樣はいゝ男か知ら。いや、尼處か、このくらゐ悟り得ない事はない。「お日和で、坊さんはお友だちでよかつたけれど、番傘はお茶を引きましたわ。」と言つた。[やぶちゃん注:「晚餉」「ばんしやう」。晩飯。「卓子臺」「ちやぶだい」。卓袱台。「もやひ」「催合ひ・最合ひ」で。ここは晩飯の卓袱台に集って「それをともにすること」の意。「頰邊」「ほほべた」。ほっぺた。]

 出掛けに、實は春の末だが、そちこち梅雨入模樣で、時時氣まぐれに、白い雲が薄墨の影を流してばらばらと掛る。其處で自動車の中へ番傘を二本まで、奧の院御參詣結緣のため、「御緣日だと此の下で飴を賣る奴だね、」「へへへ、お土產をどうぞ。」と世馴れた番頭が眞新しい油もまだ白いのを、ばりばりと綴枠をはづして入れた。[やぶちゃん注:「綴枠」「とぢわく」。傘を畳んだものを止めている具。]

 贅澤を云つては惡いが、此の暖さと、長閑さの眞中には一降り來たらばと思つた。路近い農家の背戶に牡丹の緋に咲いて蕋の香に黃色い雲の色を湛へたのに、舞ふ蝶の羽袖のびの影が、佛前に捧ぐる妙なる白い手に見える。遠方の小さい幽な茅屋を包んだ一むら竹の奧深く、山はその麓なりに咲込んだ映山紅に且つ半ば濃い陽炎のかゝつたのも里親しき護摩の燃ゆる姿であつた。傘さして此の牡丹に彳み、すぼめて、あの竹藪を分けたらばと詣づる道すがら思つたのである。[やぶちゃん注:「幽な」「かすかな」。]

 土手には田芹、蕗が滿ちて、蒲公英はまだ盛りに、目に幻のあの白い小さな車が自動車の輪に競つて飛んだ。いま、その皈りがけを道草を、笊に洗つて、緣に近く晚の卓子臺を圍んで居たが、

 ――番傘がお茶を引いた――

 おもしろい。

 悟つて尼に成らない事は、凡そ女人以上の糸七であるから、折しも欄干越の桂川の流をたゝいて、ざつと降出した雨に氣競つて、

「おもしろい、其の番傘にお茶をひかすな。」

 宿つきの運轉手の馴染なのも、ちやうど帳場に居はせた。

 九時頃であつた。

「さつきの番傘の新造を二人……どうぞ。」

「はゝゝ、お樂みで……」

 番頭の八方無碍の會釋をして、其の眞新しいのを又運轉手の傍へ立掛けた。

 しばらくして、此の傘を、さらさらと降る雨に薄白く暗夜にさして、女たちは袖を合せ糸七が一人立ちで一畝の水田を前にして彳んだ處は、今しがた大根畑から首を出して指しをした奧の院道の土橋を遙に見る――一方は例の釣橋から、一方は鳶の嘴のやうに上へ被さつた山の端を潜つて、奧在所へさながら谷のやうに深く入る――俗に三方、また信仰の道に因んで三寶ケ辻と呼ぶ場所である。

 ――衝き進むエンジンの音に鳴留んだけれども、眞上に突出た山の端に、ふアツふアツと、山臥がうつむけに息を吹掛けるやうな梟の聲を聞くと、女連は眞暗な奧在所へ入るのを可厭がつた。元來宿を出る時この二人は溫泉街の夜店飾りの濡灯色と、一寸野道で途絕えても殆ど町續きに齊しい停車場あたりの靄の燈を望んだのを、番傘を敲かぬばかり糸七が反對に、もの寂しいいろはの碑を、辿つたのであつたから。[やぶちゃん注:「鳴留んだ」「なきやんだ」。「可厭がつた」「いやがつた」。]

 それでは、もう一方奧へ入つてから其の土橋に向ふとすると、餘程の畷を拔けなければ、車を返す足場がない。

 三寶ケ辻で下りたのである。

「あら、こんな處で。」

「番傘の情人に逢はせるんだよ。」

「情人ツて?番傘の。」

「蛙だよ、いゝ聲で一面に鳴いてるぢやあないか。」

「まあ、風流。」

 さ、さ、その風流と言はれるのが可厭さに、番傘を道具に使つた。第一、雨の中に、立つた形は、うしろの山際に柳はないが、小野道風何とか硯を惡く趣向にしたちんどん屋の稽古をすると思はれては、いひやうは些とぞんざいだが……ごめんを被つて……癪に障る。

 糸七は小兒のうちから、妙に、見ることも、聞くことも、ぞつこん蛙といへば好きなのである。小學最初級の友だちの、――現今は貴族院議員なり人の知つた商豪だが――邸が侍町にあつて、背戶の蓮池で飯粒で蛙を釣る、釣れるとも、目をぱちぱちとやつて、腹をぶくぶくと膨ます、と云ふのを聞くと、氏神の境内まで飛ばないと、蜻蛉さへ易くは見られない、雪國の城下でもせゝこましい町家に育つたものは、瑠璃の丁斑魚、珊瑚の鯉、五色の鮒が泳ぐとも聞かないのに、池を蓬萊の嶋に望んで、靑蛙を釣る友だちは、寶貝のかくれ蓑を着て、白銀の糸を操るかと思つた。[やぶちゃん注:「丁斑魚」「めだか」と読む。]

 學問半端にして、親がなくなつて、東京から一度田舍へ返つて、朝夕のたつきにも途方に暮れた事がある。

「あゝ、よく鳴いてるなあ。」――

 城下優しい大川の土手の……松に添ふ片側町の裏へ入ると廢敗した潰れ屋のあとが町中に、棄苗の水田に成つた、その田の名には稱へないが、其處をこだまの小路といふ、小玉といふのゝ家跡か、白晝も寂然として居て谺をするか、濁つて呼ぶから女の名ではあるまいが、おなじ名のきれいな、あはれな婦がこゝで自殺をしたと傳へて、のちのちの今も尙ほ、その手提灯が闇夜に往來をするといつた、螢がまた、こゝに不思議に夥多しい。[やぶちゃん注:「棄苗」「すてなえ」。「婦」以下でも何度も単漢字で使用されるが、「をんな」と読んでおく。]

 が、提灯の風說に消されて見る人の影も映さぬ。勿論、蛙なぞ聞きに出掛けるものはない。……世の暗さは五月闇さながらで、腹のすいた少年の身にして夜の灯でも繁華な巷は目がくらむで瘦脛も捩れるから、こんな處を便つては立樹に凭れて、固からの耕地でない證には破垣のまばらに殘つた水田を熟と闇夜に透かすと、鳴くわ、鳴くわ、好きな蛙どもが裝上つて浮かれて唱ふ、そこには見えぬ花菖蒲、杜若、河骨も卯の花も誘はれて來て踊りさうである。[やぶちゃん注:「便つては」「たよつては」。「熟と」「じつと」。「裝上つて」「もりあがつて」。]

 此處だ。

「よく、鳴いてるなあ。」

 世にある人でも、歌人でも、こゝまでは變りはあるまい、が、情ない事には、すぐあとへ、

「あゝ、嘸ぞお腹がいゝだらう。」

 ――さだめしお飯をふんだんに食つたらう―ても情ない事をいふ―と、喜多八がさもしがる。……三嶋の宿で護摩の灰に胴卷を拔かれたあとの、あはれはこゝに彌次郞兵衞、のまず、くはずのまず、竹杖にひよろひよろと海道を辿りながら、飛脚が威勢よく飛ぶのを見て、其の滿腹を羨んだのと思ひは齊しい。……又膝栗毛で下司ばる、と思召しも恥かしいが、こんな場合には繪言葉卷ものや、哲理、科學の橫綴では間に合はない。[やぶちゃん注:「橫綴」「よこつづり」。欧文。]

 生芋の缺片さへ芋屋の小母さんが無代では見向きもしない時は、人間よりはまだ氣の知れない化ものゝ方に幾分か憑賴がある、姑獲女を知らずや、嬰兒を抱かされても力餠が慾しいのだし、ひだるさにのめりさうでも、金平式の武勇傳で、劍術は心得たから、糸七は、其處に小提灯の幽靈の怖れはなかつた。[やぶちゃん注:「缺片」「かけら」。「憑賴」「ひようらい」。或いは「たよりがひ」と訓じているか。頼り甲斐。「姑獲女」「うぶめ」。妖怪の名。「産女」「姑獲鳥」とも書く。「宿直草卷五 第一 うぶめの事」の私の注を参照されたい。「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」も参考になろう。「金平」昔話の金太郎、後の坂田金時の息子坂田金平(きんぴら)のこと。そうさ、ウィキの「金平浄瑠璃」辺りを参照されるがよかろう。]

 奇異ともいはう、一寸微妙なまはり合はせがある。これは、ざつと十年も後の事で、糸七もいくらか稼げる、東京で些かながら業を得た家業だから雜誌お誂への隨筆のやうで、一度話した覺えがある。やゝ年下だけれど心置かれぬ友だちに、――ようから、本名俳名も――谷活東といふのが居た。[やぶちゃん注:「――ようから、」の「よ」の右に編者注のママ注記であろう『原』と打ってある。「谷活東」「たにかつとう」という俳人は実在する。尾崎紅葉門下の小説家でもあったので、鏡花も知り合いであったと思われる。]

 

 作意で略其の人となりも知れよう、うまれは向嶋小梅業平橋邊の家持の若旦那が、心がらとて俳三昧に落魄れて、牛込山吹町の割長屋、薄暗く戶を鎖し、夜なか洋燈をつける處か、身體にも油を切らして居た。[やぶちゃん注:「略」「ほぼ」。]

 昔から恁うした男には得てつきものゝ戀がある。最も戀をするだけなら誰がしようと御隨意で何處からも槍は出ない。許嫁の打壞れだとか、三社樣の祭禮に見初めたとかいふ娘が、柳橋で藝妓をして居た。[やぶちゃん注:「恁うした」「かうした」。]

 さて、其の色にも活計にも、寐起にも夜晝の區別のない、迷晦朦朧として黃昏男と言はれても、江戶兒だ、大氣なもので、手ぶらで柳橋の館――いや館は上方――何とか家へ推參する。その藝しやの名を小玉といつた。[やぶちゃん注:「活計」「たつき」或いは「くらし」であろう。]

 借りたか、攫つたか未だ審ならずであるが、本望だといふのに、絹糸のやうな春雨でも、襦袢もなしに素袷の膚薄な、と畜生め、何でもといつて貸してくれた、と番傘に柳ばしと筆ぶとに打つけたのを、友だち中へ見せびらかすのが晴曇りにかゝはらない。况や待望の雨となると、長屋近間の茗荷畠や、水車なんぞでは氣分が出ないとまだ古のまゝだつた番町へのして淸水谷へ入り擬寶珠のついた辨慶橋で、一振柳を胸にたぐつて、ギクリと成つて……あゝ、逢ひたい。顏が見たい。[やぶちゃん注:「膚薄」「はだうす」。]

 

    こたまだ、こたまだ

     こたまだ……

 

 其の邊の蛙の聲が、皆こたまだ、こたまだ、と鳴くといふのである。

 唯、糸七の遠い雪國の其の小提灯の幽靈の徜徉ふ場所が小玉小路、斷然話によそへて拵へたのではない、とすると、蛙に因んで顯著なる奇遇である。かたり草、言の花は、蝶、鳥の翼、嘴には限らない、其の種子は、地を飛び、空をめぐつて、いつ其の實を結ばうも知れないのである、――此なども、道芝、仇花の露にも過ぎない、實を結ぶまではなくても、幽な葉を裝ひ儚い色を彩つて居る、たゞし其にさへ少からぬ時を經た。[やぶちゃん注:「徜徉ふ」「さまよふ」。]

 明けていふと、活東の其の柳橋の番傘を隨筆に撰んだ時は、――其以前、糸七が小玉小路で蛙の聲を聞いてから、ものゝ三十年あまりを經て居たが、胸の何處に潜み、心の何處にかくれたか、翼なく嘴なく、色なく影なき話の種子は、小机からも、硯からも、其の形を顯はさなかつた、まるで消えたやうに忘れて居た。

 それを、其の折から尙ほ十四五年ののち、修禪寺の奧の院路三寶ケ辻に彳んで、蛙を聞きながら、ふと思出した次第なのである。

 悠久なるかな、人心の小さき花。

 あゝ、悠久なる……

 そんな事をいつたつて、わかるやうな女連ではない。

「――一つ此の傘を𢌞はして見ようか。」

 糸七は雨のなかで、――柳橋を粗と話したのである。[やぶちゃん注:「粗と」「ざつと」。]

「今いつた活東が辨慶橋でやつたやうに。」

「およしなさい、澤山。」

 と女房が聲ばかりでたしなめた。田の緣に並んだが中に娘分が居ると、もうその顏が見えないほど暗かつた。

「でも、妙ね、然ういへば……何ですつて、蛙の聲が、其の方には、こがれる女の小玉だ、小玉だと聞こえたんですつて、こたまだ。あら、眞個だ、串戲ぢやないわ、叔母さん、こたまだ、こたまだツて鳴いてるわね、中でも大きな聲なのねえ、叔母さん。」[やぶちゃん注:「眞個だ」「ほんとだ」と訓じておく。「串戲」「じようだん」。]

「まつたくさ、私もをかしいと思つて居るほどなんだよ、氣の所爲だわね、……氣の所爲といへば、新ちやんどう、あの一齊に鳴く聲が、活東さんといやしない?……

 

    かつと、かつと、

    かつと、……

 

 それ、揃つて、皆して……」

「むゝ、聞こえる、――かつと、かつと――か、然ういへば。――成程これはおもしろい。」

 女房のいふことなぞは滅多に應といつた事のない奴が、これでは濟むまい、蛙の聲を小玉小路で羨んだ、その昔の空腹を忘却して、圖に乘氣味に、田の緣へ、ぐつと踞んで聞込む氣で、いきなり腰を落しかけると、うしろ斜めに肩を並べて廂の端を借りて居た運轉手の帽子を傘で敲いて驚いたのである。

「あゝ、これは何うも。」

 其の癖、はじめは運轉手が、……道案内の任がある、且つは婦連のために頭に近い梟の魔除の爲に、降るのに故と臺から出て、自動車に引添つて頭から黑扮裝の細身に腕を組んだ、一寸探偵小說のやみじあひの揷繪に似た形で屹として彳んで居たものを、暗夜の畷の寂しさに、女連が世辭を言つて、身近におびき寄せたものであつた。

「ごめんなさい、熊澤さん。」

 こんな時の、名も賴もしい運轉手に娘分の方が――其のかはり糸七のために詫をいつて、

「ね、小玉だ、小玉だ、……かつと、かつと……叔母さんのいふやうに聞こえるわね。」

「蛙なかまも、いづれ、さかり時の色事でございませう、よく鳴きますな、調子に乘つて、波を立てゝ鳴きますな、星が降ると言ひますが、あの聲をたゝく雨は花片の音がします。」[やぶちゃん注:「花片」「はなびら」。]

 月があると、晝間見た、畝に咲いた牡丹の影が、こゝへ重つて映るであらう。

「旦那。」

「………」

 妙に改つた聲で、

「提灯が來ますな――むかふから提灯ですね。」

「人通りがあるね。」

「今時分、やつぱり在方の人でせうね。」

 娘分のいふのに、女房は默つて見た。

 溫泉の町入口はづれと言つてもよからう、もう、あの釣橋よりも此方へ、土を二三尺離れて一つ灯れて來るのであるが、女連ばかりとは言ふまい、糸七にしても、これは、はじめ心着いたのが土地のもので樣子の分つた運轉手で先づ可かつた、然うでないと、いきなり目の前へ梟の腹で鬼火が燃えたやうに怯えたかも知れない。……見える其の提灯が、むくむくと灯れ据つて、いびつに大い。……軒へ立てる高張は御存じの事と思ふ、やがて其のくらゐだけれども、夜の畷のこんな時に、唯ばかりでは言ひ足りない。たとへば、翳して居る雨の番傘をばさりと半分に切つて、やゝふくらみを繼足したと思へばいゝ。[やぶちゃん注:「翳して」「かざして」。]

 樹蔭の加減か、雲が低いか、水濛が深いのか、持つて居るものゝ影さへなくて、其の其の提灯ばかり。[やぶちゃん注:「水濛」「すいもう」で霧雨のようなものを指す。「其の其の」の頭の右に先に注した『原』の注記がある。]

 つらつらつらつらと、動くのに濡色が薄油に、ほの白く艶を取つて、降りそゝぐ雨を露に散らして、細いしぶきを立てると、その飛ぶ露の光るやうな片輪にもう一つ宙にふうわりと仄あかりの輪を大きく提灯の形に卷いて、且つ其のづぶ濡の色を一息に一息に熟と撓めながら、風も添はずに寄つて來る。[やぶちゃん注:「一息に一息に」の上の三字の中程の右に先に注した『原』の注記がある。]

 姿が華奢だと、女一人くらゐは影法師にして倒に吸込みさうな提灯の大さだから、一寸皆聲を㖭んだ。[やぶちゃん注:「㖭んだ」「のんだ」と訓じておく。]

「田の水が茫と映ります、あの明だと、縞だの斑だの、赤いのも居ますか、蛙の形が顯はれて見えませうな。」

 運轉手がいふほど間近になつた。同時に自動車が寐て居る大な牛のやうに、其の灯影を遮つたと思ふと、スツと提灯が縮まつて普通の手提に小さくなつた。汽車が、其の眞似をする古狸を、線路で轢殺したといふ話が僻地にはいくらもある。文化が妖怪を減ずるのである。が、すなほに思へば、何かの都合で圖拔けに大きく見えた持手が、吃驚した拍子にもとの姿を顯はしたのであらう。

「南無、觀世音……」

 打念じたる、これを聞かれよ。……村方の人らしい、鳴きながらの蛙よりは、泥鼈を抱いて居さうな、雫の垂る、雨蓑を深く着た、蓑だといつて、すぐに笠とは限らない、古帽子だか手拭だか煤けですつぱりと頭を包んだから目鼻も分らず、雨脚は濁らぬが古ぼけた形で一濡れになつて顯はれたのが、――道巾は狹い、身近な女二人に擦違はうとして、ぎよツとしたやうに退ると立直つて提灯を持直した。[やぶちゃん注:「泥鼈」「すつぽん」。「退る」「さがる」。]

 音を潜めたやうに、跫音を立てずに山際について其のまゝ行過ぎるのかと思ふと、ひつたりと寄つて、運轉手の肩越しに糸七の橫顏へ提灯を突出した。

 蛙かと思ふ目が二つ、くるツと映つた。

 すぐに、もとへ返して、今度は向ふ𢌞りに、娘分の顏へ提灯を上げた。

 爾時である、菩薩の名を唱へたのは――[やぶちゃん注:「爾時」「このとき」。]

「南無觀世音。」

 續けて又唱へた。

「南無觀世音……」

 この耳近な聲に、娘分は湯上りに化粧した頸を垂れ、前髮でうつむいた、その白粉の香の雨に傳ふ白い顏に、一條ほんのりと紅を薄くさしたのは、近々と蓑の手の寄せた提灯の――模樣かと見た――朱の映つたのである、……あとで聞くと、朱で、かなだ、「こんばんは」と記したのであつた。

 このまざまざと口を聞くが、聲のない挨拶には誰も口へ出して會釋を返す機を得なかつたが、菩薩の稱號に、其の娘分に續いて、糸七の女房も掌を合はせた。

「南無觀世音……」

 又繰返しながら、蓑の下の提灯は、洞の口へ吸はるゝ如く、奧在所の口を見るうちに深く入つて、肩から裙へすぼまつて、消えた。

「まるで嘲笑ふやうでしたな、歸りがけに、又あの梟めが、まだ鳴いて居ます――爺い……老爺らしうございましたぜ。……爺も驚きましたらう、何しろ思ひがけない雨のやみに第一ご婦人です……氣味の惡さに爺もお慈悲を願つたでせうが、觀音樣のお庇で、此方が助かりました、……一息冷汗になりました。」[やぶちゃん注:「お庇」「おかげ」。]

 するすると車は早い。

「觀音樣は――男ですか、女で居らつしやるんでございますか。」

 響の應ずる如く、

「何とも言へない、うつくしい女のお姿ですわ。」

 と、淺草寺の月々のお茶湯日を、やがて滿願に近く、三年の間一度も缺かさない姪がいつた。

「まつたく、然うなんでございますか、旦那。」

「それは、その、何だね……」

 いゝ鹽梅に、車は、雨もふりやんだ、靑葉の陰の濡色の柱の薄り靑い、つゝじのあかるい旅館の玄關へ入つたのである。

 出迎へて口々にお皈んなさいましをいふのに答へて、糸七が、

「唯今、夜遊の番傘が皈りました――熊澤さん、今のはだね、修禪寺の然るべき坊さんに聞きたまへ。」

 

 天狗の火、魔の燈――いや、雨の夜の畷で不思議な大きな提灯を視たからと言つて敢て圖に乘つて、妖怪を語らうとするのではない、却つて、偶然の或場合には其が普通の影象らしい事を知つて、糸七は一先づ讀しやとゝもに安心をしたいと思ふのである。

 學問、といつては些と堅過ぎよう、勉强はすべきもの、本は讀むべきもので、後日、紀州に棲まるゝ著名の碩學、南方熊楠氏の隨筆を見ると、其の龍燈に就て、と云ふ一章の中に、おなじ紀州田邊の糸川恒太夫といふ老人、中年まで每度野諸村を行商した、秋の末らしい……一夜、新鹿村の湊に宿る、此の湊の川上に淺谷と稱ふるのがある、それと並んで二木嶋、片村、曾根と谿谷が續く二谷の間を、古來天狗道と呼んで少からず人の懼るゝ處である。時に糸川老人の宿つた夜は恰も樹木挫折れ、屋根廂の摧飛ばむとする大風雨であつた、宿の主とても老夫婦で、客とゝもに搖れ撓む柱を抱き、僅に板形の殘つた天井下の三疊ばかりに立籠つた、と聞くさへ、……わけて熊野の僻村らしい……其の佗しさが思遣られる。唯、こゝに同郡羽鳥に住む老人の一人の甥、茶の木原に住む、其の從弟を誘ひ、素裸に腹帶を緊めて、途中川二つ渡つて、伯父夫婦を見舞に來た、宿に着いたのは眞夜中二時だ、と聞くさへ、其の膽勇殆ど人間の類でない、が、暴風强雨如法の大闇黑中、かの二谷を呑むだ峯の上を、見るも大なる炬火廿ばかり、烈烈として連り行くを仰いで、おなじ大暴風雨に處する村人の一行と知りながら、かゝればこそ、天狗道の稱が起つたのであると悟つて話したといふ、が、或は云ふ處のネルモの火か。[やぶちゃん注:「中年まで每度野諸村を行商した」近いうちにブログ・カテゴリ「南方熊楠」で当該部を電子化するが、以上は南方熊楠の「南方隨筆」の「龍燈に就て」の「二」の冒頭である。国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該部の画像を見られたいが、鏡花の原稿はここは「每度熊野諸村を行商した」の「熊」の脱字であることが判る。「新鹿村」「あたしかむら」と読む。「二木嶋」「にぎしま」と読む。但し、原本は「二木島」である。「挫折れ」「ひしをれ」と訓じておく。「摧飛ばむ」「くだけとばむ」と読んでおく。「羽鳥」げんぽんは「羽島」である。「連り」「つらなり」。「ネルモの火」セント・エルモの火のこと。「二」でも言及しているが、「一」の方で既に熊楠は述べている。]

 なほ當の南方氏である、先年西牟婁郡安都ケ峯下より坂泰の巓を踰え日高丹生川にて時を過ごしすぎられたのを、案じて安堵の山小屋より深切に多人數で搜しに來た、人數の中に提灯唯一つ灯したのが同氏の目には、ふと炬火數十束一度に併せ燃したほどに大きく見えた、と記されて居る。然も嬉しい事には、談話に續けて、續膝栗毛善光寺道中に、落合峠のくらやみに、例の彌次郞兵衞、北八が、つれの獵夫の舌を縮めた天狗の話を、何だ鼻高、さあ出て見ろ、其の鼻を引挘いで小鳥の餌を磨つてやらう、といふを待たず、獵夫の落した火繩忽ち大木の梢に飛上り、たつた今まで吸殼ほどの火だつたのが、またゝくうちに松明の大さとなつて、枝も木の葉もざわざわと鳴つて燃上つたので、頭も足も獵師もろとも一縮み、生命ばかりはお助け、と心底から淚……が可笑しい、櫔面屋と喜多利屋と、這個二人の呑氣ものが、一代のうちに唯一度であらうと思ふ……淚を流しつゝ鼻高樣に恐入つた、といふのが、いまの南方氏の隨筆に引いてある。[やぶちゃん注:「安都ケ峯」「あんどがみね」。「坂泰」「さかたい」。「踰え」「こえ」。「丹生川」「にうのかは」。「櫔面屋」「とちめんや」。後の「喜多利屋」で判ると思うが、「彌次郞兵衞」の屋号。「栃面屋」とも書く。]

 夜の燈火は、場所により、時とすると不思議の象を現はす事があるらしい。

 幸に運轉手が獵師でなかつた、婦たちが眞先に梟の鳴聲に恐れた殊勝さだつたから、大きな提灯が無事に通つた。

 が、例を引き、因を說き蒙を啓く、大人の見識を表はすのには、南方氏の說話を聽聞することが少しばかり後れたのである。

 實は、怪を語れば怪至る、風說をすれば影がさす――先哲の識語に鑒みて、溫泉宿には薄暗い長廊下が續く處、人の居ない百疊敷などがあるから、逗留中、取り出ては大提灯の怪を繰返して言出さなかつたし、東京に皈ればパツと皆消える……日記を出して話した處で、鉛筆の削屑ほども人が氣に留めさうな事でない、婦たちも、そんな事より釜の底の火移りで翌日のお天氣を占ふ方が忙しいから、たゞ其のまゝになつて過ぎた。

 翌年――それは秋の末である。糸七は同じ場所――三寶ケ辻の夜目に同じ處におなじ提灯の顯はれたのを視た。――

 ……然うは言つても第一季節は違ふ、蛙の鳴く頃ではなし、それに爾時は女房ばかりが同伴の、それも宿に留守して、夜步行をしたのは糸七一人だつたのである。[やぶちゃん注:「夜步行」「よあるき」。]

 夕餉が少し晚くなつて濟んだ、女房は一風呂入らうと云ふ、糸七は寐る前にと、その間をふらりと宿を出た、奧の院の道へ向つたが、

「まづ、御一名――今晚は。」

 と道しるべの石碑に挨拶をする、微醉のいゝ機嫌……機嫌のいゝのは、まだ一つ、上等の卷莨に火を點けた、勿論自費購求の品ではない、大連に居る友達が土產にくれたのが、素敵な薰りで一人其の香を聞くのが惜い、燐寸の燃えさしは路傍の小流に落したが、さらさらと行く水の中へ、ツと音がして消えるのが耳についたほど四邊は靜で。……あの釣橋、その三寶ケ辻――一昨夜、例の提灯の暗くなつて隱れた山入の村を、とふと眗したが、今夜は素より降つては居ない、がさあ、幾日ぐらゐの月だらうか、薄曇りに唯茫として、暗くはないが月は見えない、星一つ影もささなかつた、風も吹かぬ。[やぶちゃん注:「とふと眗したが」「と」、「ふと」、「眗」(みまは)「したが」であろう。]

 煙草の薰が來たあとへも、ほんのりと殘りさうで、袖にも匂ふ……たまさかに吸つてふツと吹くのが、すらすらと向ふへ靡くのに乘つて、畷のほの白いのを蹈むともなしに、うかうかと前途なる其の板橋を渡つた。

 こゝで見た景色を忘れない、苅あとの稻田は二三尺、濃い霧に包まれて、見渡すかぎり、一面の朧の中に薄煙を敷いた道が、ゆるく、長く波形になつて遙々と何處までともなく奧の院の雲の果まで、遠く近く、一むらの樹立に絕えては續く。

 その路筋を田の畔畷の左右に、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つと順々に數へるとふわりと霧に包まれて、ぼうと末消えたのが浮いて出たやうに又一つ二つ三つ四つ五つ、稻塚――其の稻塚が、ひよいひよいと、いや、實のあとゝいへば氣は輕いけれども、夜氣に沈んだ薄墨の石燈籠の大きな蓋のやうに何處までも行儀よく並んだのが、中絕えがしつゝ、雲の底に姿の見えない、月にかけた果知れぬ八ツ橋の狀に視められた。[やぶちゃん注:「實のあと」稲の「み」のあと。「狀」「かたち」。「視められた」「みつめられた」。]

 四邊は、ものゝ、たゞ霧の朧である。

 糸七は、然うした橋を渡つた處に、うつかり恍惚と彳んだが、裙に近く流の音が沈んで聞こえる、その沈んだのが下から足を浮かすやうで、餘り靜かなのが心細くなつた。

 あの稻塚がむくむくと動き出しはしないか、一つ一つ大きな笠を被た狸になつて、やがては誘ひ合ひ、頷きかはし、寄合つて手を繫ぎ、振向いて見返るのもあつて、けたけたと笑出したら何うだらう。……それはまだ與し易い。宿緣に因つて佛法を信じ、靈地を巡拜すると聞く、あの海豚の一群が野山の霧を泳いで順々に朦朧と列を整へて、ふかりふかりと浮いつ沈んつ音なく頭を進めるのに似て、稻塚の藁の形は一つ一つ其の頂いた幻の大な笠の趣がある。……[やぶちゃん注:「與し易い」「くみしやすい」。]

 いや、串戲ではない、が、ふと、そんな事を思つたのも、餘り夜たゞ一色の底を、靜に搖つて動く流の音に漾はされて、心もうはの空になつたのであらう……と。[やぶちゃん注:「漾はされて」「ただよはされて」。]

 何も體裁を言ふには當らない、ぶちまけて言へば、馬鹿な、糸七は……狐狸とは言ふまい――あたりを海洋に變へた霧に魅まれさうに成つたのであらう、然うらしい……[やぶちゃん注:「魅まれさうに」「つままれさうに」。]

 で幽谷の蘭の如く、一人で聞いて居た、卷莨を、其處から引返しざまに流に棄てると、眞紅な莟が消えるやうに、水までは屆かず霧に吸はれたのを確と見た。が、すぐに踏掛けた橋の土はふわふわと柔かな氣がした。

 それからである。

 恁る折しも三寶ケ辻で、又提灯に出會つた。[やぶちゃん注:「恁る」「かかる」。]

 もとの三寶ヶ辻まで引返すと、丁どいつかの時と殆ど同じ處、その溫泉の町から折曲一つ折れて奧の院參道へあらたまる釣橋の袂へ提灯がふうわりと灯も仄白んで顯はれた。

 糸七は立停つた。

 忽然として、仁王が鷲摑みにするほど大きな提灯に成らうも知れない。夜氣は――夜氣は略似て居るが、いま雨は降らない、けれども灯の角度が殆ど同じだから、當座仕込の南方學に敎へられた處によれば、此の場合、偶然エルモの火を心して見る事が出來ようと思つたのである。

 ――違ふ、提灯が動かない霧に据つたまゝの趣ながら、靜にやゝ此方へ近づいたと思ふと、もう違ふも違ひすぎた――そんな、古蓑で頰被りをした親爺には似てもつかぬ。髮の艶々と黑いのと、色のうつくしく白い顏が、丈だちすらりとして、ほんのり見える。

 婦人が、いま時分、唯一人。

 およそ、積つても知れるが、前刻、旅館を出てから今になるまで、糸七は人影にも逢はなかつた。成程、くらやみの底を拔けば村の地へ足は着かう。が、一里あまり奧の院まで、曠野の杜を飛々に心覺えの家數は六七軒と數へて十に足りない、この心細い渺漠たる霧の中を何處へ吸はれて行くのであらう。里馴れたものといへば、たゞ遙々と畷を奧下りに連つた稻塚の數ばかりであるのに。――然も村里の女性の風情では斷じてない。

 霧は濡色の紗を掛けた、それを透いて、却つて柳の薄い朧に、霞んだ藍か、いや、淡い紫を掛けたやうな衣の彩織で、しつとりともう一枚羽織はおなじやうで、それよりも濃く黑いやうに見えた。

 時に、例の提灯である、それが膝のあたりだから、褄は消えた、而して、胸の帶が、空近くして猶且つ雲の底に隱れた月影が、其處にばかり映るやうに艶を消しながら白く光つた。

 唯、こゝで言ふのは、言ふのさへ、餘り町じみるが、あの背負揚とか言ふものゝ、灯の加減で映るのだらうか、ちらちらと……いや、霧が凝つたから、花片、緋の葉、然うは散らない、すツすツと細く、毛引の雁金を紅で描いたやうに提灯に映るのが、透通るばかり美しい。[やぶちゃん注:「背負揚」「しよいあげ」女性の和装で、帯の結び目の内側に当てて結ぶ、絞りや綸子(りんず)などの小布。普通は帯枕を芯にいれて、帯を高く結んだり、形を整えるのに用いる。「帯揚げ」とも呼ぶ。]

「今晚は。」

 此の靜寂さ、いきなり聲をかけて行違つたら、耳元で雷……は威がありすぎる、それこそ梟が法螺を吹くほどに淑女を驚かさう、默つてぬつと出たら、狸が泳ぐと思はれよう。

 こゝは動かないで居るに限る。

 第一、あの提灯の小山のやうに明るくなるのを、熟として待つ筈だ。

 糸七は、嘗て熱海にも兩三度入湯した事があつて、同地に知己の按摩がある。療治が達しやで、すこし目が見える、夜話が實に巧い、職がらで夜戶出が多い、其のいろいろな話であるが、先づ水口園の前の野原の眞中で夜なかであつた、茫々とした草の中から、足もとへ、むくむくと牛の突立つやうに起上つた大漢子が、いきなり鼻の先へ大きな握拳を突出した、「マツチねえか。」「身ぐるみ脫ぎます――あなたの前でございますが。……何、此の界隈トンネル工事の勞働しやが、醉拂つて寐ころがつて居た奴なんで。しかし、其の時は自分でも身に覺えて、ぐわたぐわたぶるぶると震へましてな、へい。」まだある、新溫泉の別莊へ療治に行つた皈りがけ、それが、眞夜中、時刻も丁ど丑滿であつた、來の宮神社へ上り口、新溫泉は神社の裏山に開けたから、皈り途の按摩さんには下口になる、隧道の中で、今時、何と、丑の時參詣にまざまざと出會つた。黑髮を長く肩を分けて蓬に捌いた、靑白い、細面の婦が、白裝束といつても、浴衣らしい、寒の中に唯一枚、糸枠に立てると聞いた蠟燭を、裸火で、それを左に灯して、右手に提げたのは鐵槌に違ひない。さて、藁人形と思ふのは白布で、小箱を包んだのを乳の下鳩尾へ首から釣した、頰へ亂れた捌髮が、其の白色を蛇のやうに這つたのが、あるくにつれて、ぬらぬら動くのが蠟燭の灯の搖れるのに映ると思ふと、その毛筋へぽたぽたと血の滴るやうに見えたのは、約束の口に啣へた、その耳まで裂けるといふ梳櫛の然もそれが燃えるやうな朱塗であつた。いや、其の姿が眞の闇暗の隧道の天井を貫くばかり、行違つた時、すつくりと大きくなつて、目前を通る、白い跣足が宿の池にありませう、小さな船。あれへ、霜が降つたやうに見えた、「私は腰を拔かして、のめつたのです。あの釘を打込む時は、杉だか、樟だか、其の樹の梢へ其の靑白い大きな顏が乘りませう。」といふのである。[やぶちゃん注:「夜戶出」「よとで」。夜の外出。「糸枠」「いとわく」。紡いだ糸を巻き取る枠。軸があり、回転するようになっているもの。糸繰り。グーグル画像検索「糸枠」をリンクさせておく。「鳩尾」「みぞおち」。]

 ――まだある、秋の末で、其の夜は網代の鄕の舊大莊屋の内へ療治を賴まれた。旗櫻の名所のある山越の捷陘は、今は茅萱に埋もれて、人の往來は殆どない、伊東通ひ新道の、あの海岸を辿つて皈つた、爾時も夜更であつた。[やぶちゃん注:「旗櫻」「はたざくら」は桜の一種。桜の中に花弁化が不完全で、葯だけが花弁状に変わり、花糸の先に旗のようにつくことから、これを「旗弁」と呼び、旗桜には旗弁が顕著にあるので、この名がつけられた。グーグル画像検索をリンクさせておく。「捷陘」「しようけい」は山あいの近道。]

 やがて二時か。

 もう、網代の大莊屋を出た時から、途中松風と浪ばかり、路に落ちた緋い木の葉も動かない、月は皎々昭々として、磯際の巖も一つ一つ紫水晶のやうに見えて山際の雜樹が靑い、穿いた下駄の古鼻緖も霜を置くかと白く冴えた。[やぶちゃん注:「昭々」「せうせう」「照々」に同じ。明るく輝くさま。明らかなさま。]

 ……牡丹は持たねど越後の獅子は……いや、然うではない、嗜があつたら、何とか石橋でも口誦んだであらう、途中、目の下に細く白浪の糸を亂して崖に添つて橋を架けた處がある、其の崖には瀧が掛つて橋の下は淵になつた所がある、熱海から網代へ通る海岸の此處は謂はゞ絕所である。按摩さんが丁ど其の橋を渡りかゝると、浦添を曲る山の根に突出た巖膚に響いて、カラカラコロコロと、冱えた駒下駄の音が聞こえて、ふと此方の足の淀む間に、其の音が流れるやうに、もう近い、勘でも知れる、確に若い婦だと思ふと悚然とした。[やぶちゃん注:「嗜」「たしなみ」。「悚然」「しようぜん」。ぞっとしてすくむさま。]

 寐鳥の羽音一つしない、かゝる眞夜中に若い婦が。按摩さんには、それ、嘗て丑の時詣のもの凄い經驗がある、さうではなくても、いづれ一生懸命の婦にも突詰めた絕壁の場合だと思ふと、忽ち颯と殺氣を浴びて、あとへも前へも足が縮んだ、右へのめれば海へ轉がる、左へ轉べば淵へ落ちる。杖を兩手に犇と摑んで根を極め、がツしりと腰を据ゑ、欄干のない橋際を前へ九分ばかり讓つて、其處をお通り下さりませ、で、一分だけわがものに背筋へ瀧の音を浴びて踞んで、うつくしい魔の通るのを堪へて待つたさうである。それがまた長い間なのでございますよ、あなたの前でございますが。カラン、コロンが直き其處にきこえたと思ひましたのが、實は其の何とも寂然とした月夜なので、遠くから響いたので、御本體は遙に遠い、お渡りに手間が取れます、寒さは寒し、さあ、然うなりますと、がつがつがうがうといふ瀧の音ともろともに、ぶるぶるがたがたと、ふるへがとまらなかつたのでございますが、話のやうで、飛でもない、何、あなた、ここに月明に一人、橋に嚙りついた男が居るのに、其のカラコロの調子一つ亂さないで、やがて澄して通過ぎますのを、さあ、鬼か、魔か、と事も大層に聞こえませうけれども、まつたく、そんな氣がいたしましてな、千鈞の重さで、すくんだ頸首へ獅嚙みついて離れようとしません、世間樣へお附合ばかり少々櫛目を入れました此の素頭を捻向けて見ました處が、何と拍子ぬけにも何にも、銀杏返の中背の若い婦で……娘でございますよ、妙齡の――姊さん、姊さん――私は此方が肝を冷しましただけ、餘りに對手の澄して行くのに、口惜くなつて、――今時分一人で何處へ行きなさる、――いゝえ、あの、網代へ皈るんでございますと言ひます、農家の娘で、野良仕事の手傳を濟ました晚過ぎてから、裁縫のお稽古に熱海まで通ふんだとまた申します、瘦せた按摩だが、大の男だ、それがさ、活きた心地はなかつた、といふのに、お前さん、いゝ度胸だ、よく可怖くないね、といひますとな、おつかさんに聞きました、簪を逆手に取れば、婦は何にも可恐くはないと、いたづらをする奴の目の球を狙ふんだつて、キラリと、それ、あゝ、危い、此の上目を狙はれて堪るもんでございますか、もう片手に拔いて持つて居たでございますよ、串戲ぢやありません、裁縫がへりの網代の娘と分つても、そのうつくしい顏といひ容子といひ、月夜の眞夜中、折からと申し……といつて揉み分けながらその聞手の糸七の背筋へ頭を下げた。觀音樣のお腰元か、辨天樣のお使姬、當の娘の裁縫といふのによれば、そのまゝ天降つた織姬のやう思はれてならない、といふのである。[やぶちゃん注:「飛でもない」「とんでもない」。「千鈞」「せんきん」。「鈞」は重さの単位で、一鈞は三十斤(十八キログラム)。非常に重いこと。「獅嚙みついて」「しがみついて」。「中背」「ちゆうぜい」。「可怖く」「こはく」と訓じておく。「天降つた」「あまくだつた」。]

 かうしたどの話、いづれの場合にも、あつて然るべき、冒險の功名と、武勇の勝利がともなはない、熱海のこの按摩さんは一種の人格しやと言つてもいゝ、學んで然るべしだ。

 ――處で、いま、修禪寺奧の院道の三寶ケ辻に於ける糸七の場合である。

 夜の霧なかに、ほのかな提灯の灯とゝもに近づくおぼろにうつくしい婦の姿に對した。

 糸七は其のまゝ人格しやの例に習つた、が、按摩でないだけに、姿勢は渠と反對に道を前にして洋杖を膝に取つた、突出しては通る人の裳を妨げさうだから。で、道端へ踞んだのである。[やぶちゃん注:「渠」「かれ」。彼。]

 がさがさと、踞込む、その背筋へ觸るのが、苅殘しの小さな茄子畠で……然ういへば、いつか番傘で蛙を聞いた時こゝに畝近く蠶豆の植つて居たと思ふ……もう提灯が前を行く……その灯とともに、枯莖に殘つた澁い紫の小さな茄子が、眉をたゝき耳を打つ礫の如く目を遮るとばかりの隙に、婦の姿は通過ぎた。[やぶちゃん注:「蠶豆」「そらまめ」と訓じておく。「礫」「つぶて」。]

 や、一人でない、銀杏返しの中背なのが、添並んでと見送つたのは、按摩さんの話にくツつけた幻覺で、無論唯一人、中背などゝいふよりは、すつとすらりと背が高い、そして、氣高く、姿に威がある。

 その姿が山入の眞暗な村へは向かず、道の折めを、やゝ袖なゝめに奧の院へ通ふ橋の方へ、あの、道下り奧入りに、揃へて順々に行方も遙かに心細く思はれた、稻塚の數も段々に遠い處へ向つたのである。

 釣橋の方からはじめは左の袖だつた提灯が、然うだ、その時ちらりと見た、糸七の前を通る前後を知らぬ間に持替へたらしい、いま其の袂に灯れる。

 その今も消えないで、反つて、色の明くなつた、ちらちらと映る小さな紅は、羽をつないで、二つつゞいた赤蜻蛉で、形が浮くやうで、沈んだやうで、ありのまゝの赤蜻蛉か、提灯に描いた畫か、見る目には定まらないが、態は鮮明に、其の羽摺れに霧がほぐれるやうに、尾花の白い穗が靡いて、幽な音の傳ふばかり、二つの紅い條が道芝の露に濡れつゝ、薄い桃色に見えて行く。[やぶちゃん注:本篇原稿はここで途絶えている。]

2022/04/11

泉鏡花「一葉の墓」(新規PDF縦書総ルビ正規表現版)公開

皮切りに、HTML縦書版が今一つ間が抜けていて気に入らなかった、泉鏡花「一葉の墓」の新規PDF縦書総ルビ正規表現版をサイトの「心朽窩旧館」で公開した。零から始めたが、やはりルビ化の方に時間がかかる。しかし、何となく落ち着いて読める。これで行くこととする。

サイト版「泉鏡花句集」全面リニューアル・カテゴリ「泉鏡花」創始

私のサイト版「泉鏡花句集」を全面リニューアルした。

向後、偏愛する泉鏡花の作品の中でも私の特に好きな作品を正規表現ルビ附き縦書PDF版でサイトに公開する決意を昨夜した。故にカテゴリ「泉鏡花」を創始する。

私が永く鏡花に手を出さなかったのは、彼の作品は殆んどが総ルビだからである。しかも、彼の原稿を見たことがあるが、驚いたことに、彼はちゃんと原稿にルビを振っている(しかも、彼の原稿は恐らく近代作家のものの中でも超弩級に美しい)からである。ワードの機能向上で正字の正規表現は容易に可能となったが、ルビは一つ一つ手作業となるので、ちょっとした短編でも、ルビ化に相当な時間がかかるため、気が引けていたのである。

しかし、現在進行中のブログ。カテゴリ「南方熊楠」の彼の「龍燈に就て」の一節が鏡花の「遺稿」とされるものの中にあることから、ここで、決意して、一念発起した。

まあ、ゆるゆるとしか出来ないが、永い目で見てやって貰えるならば、恩幸、これに過ぎたるはない。

2022/04/10

ブログ・アクセス1,710,000突破記念 梅崎春生 ある男の一日

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二三(一九四八)年六月刊『文体』第二号(但し、底本解題によれば、同初出誌は『裏表紙の奥付が五月三十日発行、裏表紙が六月十日発行となっている』とある)に初出され、後の同年十二月河出書房刊の作品集「B島風物誌」に所収された。

 底本は「梅崎春生全集」第二巻(昭和五九(一九八四)年六月沖積舎刊)に拠った。最後に私の感想と注を添えた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、一時間半程前に、1,710,000アクセスを突破した記念として公開する。【2022410日 藪野直史】]

 

   ある男の一日

 

 坂道を降りたところに、魚の配給所があった。その前にトラックがついていて、四五人の雨合羽(あまがっぱ)を着た男たちが、荷をおろしているところであった。両側に繩(なわ)の輪がついた木の箱が、次から次へ地面におろされた。トラックの上にも人がいた。木箱はつぎつぎに、配給所の軒下に積まれた。

 絹糸のような雨が、そこにも音もなく降っていた。

 木箱のなかには、黒い背をした平たい鰈(かれい)がたくさん積みかさなっていた。魚のにおいがそこら中にながれていた。木の箱を乱暴にうごかすので、鰈が二三匹宙をとんで電柱のそばに落ちたりした。

 こんなに朝早くから大変だな、と思いながら、彼は洋傘をかたむけてその側を通りぬけた。通りぬけるとき、洋傘の骨のさきが、木箱をうごかしている男の雨合羽にちょっとふれた。雨合羽は朝の光にぬれて、ごわごわとひかっていた。そして魚くさいにおいがぷんとした。彼は洋傘をなお傾けて、すこし足早にあるいた。

(ハリバットと言ったかな。鰈は)

 そんなことを考えながら、水たまりを飛びこえた。水たまりには油が浮いていた。七彩の色がうつくしくひろがっていた。

 駅の近くまできて、曲角にある外食食堂に彼は入って行った。登録票に捺印してもらって、ひきかえに食事をうけとった。

 うすい味噌汁をすすりながら、彼はあたりを見廻した。客は彼の他に三人しかいなかった。汚れた卓には、飯粒がこびりついてのこっていた。客は向うの卓で、皆彼に背をむけて食べていた。一人は女であった。三人とも同じような背の曲げ方をして、飯を食べていた。自分もうしろから見ると、あんな恰好(かっこう)をして食べているにちがいない。そう思いながら、彼はまずしい膳を食べ終えた。彼が食堂を出るとき、同じく食事を終ったその女が、口を手巾(ハンカチ)で拭きながら出てきた。彼はその女と前後しながら、道をあるいた。女も駅の方に行くらしかった。

 私鉄のその駅は黄色いペンキ塗りの、小さな建物であった。

 歩廊のベンチに腰かけて、彼は顎(あご)を洋傘の柄で支えていた。彼の前には、むこうむきになって、さっきの女が立っていた。うすい靴下が見えた。底の平たい靴の、外側がへっていた。彼は先刻見たこの女の歩き方を思い出した。その靴の減り方が、妙に歴然と女の歩きぶりを髣髴(ほうふつ)とさせた。(どこかの女事務員というわけだな)

 短いレインコートを着ていて、スカートがその下から出ていた。風がすこし吹いて雨がしぶいたので、女は二三歩うしろに下りながら、身体をかたむけた。女の横顔が彼に見えた。ごく善良そうな眼で、女は彼をちらと見た。まだ二十を越えていないような顔かたちであった。美しい顔ではなかったが、ととのった表情をしていた。雨をさけた眉の辺が、どこか良子に似ていた。

 彼はふと視線を外(そ)らせて、駅のむこうに生えている大きな柳の木をながめた。たくさん垂れた枝は風にすこし揺れながら、雨にぬれていた。それを見ながら、彼はふとかんがえた。

(今日良子にあったら、良子は何かと言うだろうか?)

 良子を彼が愛していると思っていたのは、自分の錯覚ではないのか、と近頃彼は気付き始めていた。彼はそのような気持を、数日前手紙にかいて、良子に送っていた。今日ある喫茶店で逢(あ)いたいと良子が言ってきたのも、久しく逢っていないせいもあっただろうが、直接にはその手紙のためであるに違いなかった。彼はその手紙のなかで、もう良子とは逢いたくないということを、遠廻しに書いたつもりであった。良子とこのような状態でつながっていることが、鎖のように重くるしく思われるようになったのも、彼の感じをたどってゆけば、良子と相知った当初からであるような気がした。戦争中の空白をうずめるために、行きあたりぱったりに彼は良子をとらえていたのかも知れなかった。しかしそのことは、はっきりとは彼に判らなかった。それを確める方法は、彼にはなかった。けれどもこんな風に一日一日を過してゆくことが、彼には堪え難い気がした。それは良子に対してだけではなかった。すべてのものに対して、自分が近頃中ぶらりんの位置にあることを彼は漠然と感じていた。

 歩廊には人々が立てこめてきた。濡れた布地のにおいが、そこらにただよった。彼は今

日はある事件の証人として、裁判所から呼び出しをうけていた。その呼出状には、もし出頭しなければ拘引されることがある、と記してあった。朝早くから彼が起き出したのも、そのためであった。

 

 裁判所の中庭では、幌(ほろ)を冠ったトラックが着くたびに、車体のなかから、手錠をかけた男たちが次々に飛び降りた。彼は渡り廊下にたたずんで、それをしばらく眺めていた。

 手錠は大てい二人が一組としてつけられていて、だからトラックの後尾から巡査の指示で飛び降りるとき二人がうまく呼吸を合せないとまずかった。一人が先にとび降りて、後のが引きずられて落ち、地面にかさなってよろめき倒れたりした。そういうのを巡査が手荒くたすけおこした。ひとつの車から皆が降りてしまうと、ぞろぞろと中庭を横断して、建物の方にあるいて行った。手錠をつけられた男たちは、ほとんどが良い服装をしていた。巡査の方が慘めに見えた。二人ずつの組が順々に建物の入口に消えて行った。そしてまた別のトラックが門から入ってきた。

(二人で手錠につながっているのは、いやだろうな!)

 彼はそれらを眺めながら、そう考えた。そして何故ともなく身慄いした。

(栗田もあんな具合にしてやってくるのか?)

 栗田というのが、今日彼がよび出された事件の被告であった。栗田は彼の死んだ友達の甥(おい)にあたる男であった。彼はその友達の家で、栗田に紹介された。きれいな皮膚をした、善良そうな青年であった。彼はその時、栗田の皮膚のうつくしさに、ちょっと心を動かされたことを覚えている。彼がその友達にそのことを言うと、友達はすこし妙な表情になって答えた。

「あいつは、中学生のとき、ずいぶん騒がれたそうだ」

 その友達は好男子ではなかった。むしろひどく醜い方であった。ある日ひどく酔っぱらって、そして河のなかに落ちて死んでしまったが――。

 開廷の時刻まで、十五分ほどあった。呼出状にしるされた法廷は、十三号というのである。彼は渡り廊下から一旦中庭に出て、その方向にあるき出した。手錠をつけて中庭を行く男たちは、顔や頭を雨に濡らしていた。雨はだんだん細かになるらしかった。雲は灰白色にどんより低く垂れていた。

 教えられた通り、道をへだてた建物に彼は入って行った。迷路のような廊下をたどって、でたらめに曲ったりまた戻ったりした。いくつも裁判を行う部屋があるらしく、部屋の入口のところに、今日開廷される事件の木札がさげてあった。半開きの扉から、傍聴席や法廷の一部がちらと見えたりした。

 変な造りの建物で、廊下には窓がすくなかった。ある廊下のつきあたりは水呑場になっていて、頭髪の白い使丁らしい男が、一所懸命歯をみがいていた。彼の跫音(あしおと)にふりかえると、とがめるような顔付になって彼を見た。彼は立ちどまって、また廊下を引き返した。部屋の番号をさがしながら、何度か廊下を行ったり来たりした。

 十三号法廷は、三階にあった。

 

 十三号法廷では、しばらく待った。

 彼は証人席に腰かけて、司法官たちの出廷を待ちながら、乾いた眼球をあちこちに動かしていた。ときどき頭を廻して、うしろの傍聴席をふりむいた。傍聴席は満員で、うしろの方にも立っている人影がちらちらした。その背後の縦長の窓の外に、隣接した建物の赤煉瓦(れんが)が迫っていた。その色も霧雨に沈んでいた。

(こんなところに傍聴に来ているのは、どんな連中なのだろう?)

 彼は身じろぎして、椅子の堅さを気にしながら、ぼんやりとそんなことを考えた。傍聴に来ているのは、ほとんど若い男たちで、服装も雑多であった。がやがやした話声や、扉をあけたてする音や、堅い床をふむ靴のひびきがした。彼がふりむくと直ぐ、皆の視線が彼に集まるらしかった。彼はすこし厭な気がした。彼ひとりにあつまってくる視線は、変に粗(あら)くするどかった。

(この連中は、ただの好奇心だけで、傍聴に来ているのではないか?)

 やがて弁護人入口の扉がすこし開いて、書類鞄を小脇にかかえた弁護士がすたすたと入ってきた。ちょび鬚(ひげ)を立てた瘦せた男であった。身体つきのせいか、弁護服の着け方が、妙にだらしない感じであった。がたがたと音立てながら弁護人席に腰をおろすと、鞄を卓の上にひらき、眼鏡のサックをその中から取り出した。大きな黒ぶちの眼鏡を耳にかけると、ときどき忙がしそうに貧乏ゆるぎをしながら、鞄からひきだした書類を点検し始めた。その一挙一動に眼をそそぎながら、彼は始めてこの自分の視線が、背後の傍聴人たちの視線と同じものであることに気がついた。まるで見逃すことの出来ぬもののように、彼はこの弁護士の行動に視線をそそいでいたのである。それに気づくと、彼の頰にゆがんだような笑いが、ふと浮んで消えた。

 巡査に連れられて、栗田が入ってきた。入ってくる時、傍聴席の方から顔をそむけるようにしながら、被告席についた。そこまでの挙動を、彼は見たくないような気持になりながら、その癖はっきり視野に収めていた。顔色はいくぶん青白くなっていたが、思ったよりやつれていない印象であった。被告席についた後姿は、髪をきちんと刈り上げて、きちんとした背広を見せていた。その後姿には、ある感じがあった。彼は刈り上げた襟足のあたりをしげしげ眺めながら、背後の傍聴席のざわめきが、すこし高まってくるのを感じていた。貧乏ゆるぎをする弁護人の背中にくらべて、栗田の肩はブリキのように堅く張っていた。

(入ってくるとき栗田は、俺がいることを認めただろうか?)

 使丁ががたがたと椅子の位置を直してゆくのを眺めながら、彼はそんなことをかんがえた。そうかんがえながら、栗田がこちらを見ようと見まいと、自分にはどうでもいいことを、彼自身の気持のなかに同時にさぐりあてていた。

 暫くして足を組み直しながら、彼はちらと時計を見た。予定の開廷時刻よりも、一時間あまり過ぎていた。窓の外には相変らず灰をふきちらしたような霧雨がおちているらしかった。彼はひからびた視線でそれを眺めたり、天井から下った貧弱なシャンデリヤをあおいだり、また時々栗田の方を眺めたりした。同じ眼球の動きを、彼は執拗(しつよう)にくりかえした。この十三号室は、彼の中学校時代の物理教室に、感じが似ていた。そのことを彼はここに入ってきた時から強く感じていたのであった。それは霧雨の窓を通す青ぐらい光線のせいかも知れなかった。その物理教室もうす暗かった。さっきから彼は何となく、汚れたビーカーやコップの底に乾いた薬品のかすの臭いなどを聯想した。そしてまた、長い時間が経った。

 段の上の扉を乱暴にひらいて、書記らしい男が入ってきた。あの烏帽子(えぼし)みたいな冠(かんむり)がよく似合う、背の小さな男であった。段の上から上半身を乗出して、使丁になにか低声で話しかけるらしかった。そして笑いながら、文鎮で卓の上を掃くようにした。開け放された扉にその時、法服の人影がちらちらと重なって、検事や判事らしい男たちがどやどやと入ってきた。がたがたと靴音をひびかせて、それらが所定の席につくかつかないうちに、段の端でいまの使丁が大きな号令をかけた。ざわざわと皆が立ちあがって礼をした。再びざわざわと腰をおろすと、裁判が始まった。

 栗田が立ちあがって、裁判長の前に出ていった。裁判長は顔の幅のひろい、眼付のするどい男であった。聴取書らしい書類をめくりながら、次々に訊間した。栗田の答える声は、あまり徹らなかった。響きのないような声であった。そして訊問はつぎつぎ進んで行った。

(良子はもうあの契茶店に来て、待っているかも知れない)

 そのやりとりを耳に収めながら、彼はそんなことを頭のすみで考えた。そうすると彼はひどく物憂い気がした。けれどもその物憂(う)い気持の源は、彼には茫漠として摑めなかった。契茶店の卓についている良子の姿を思いうかべながら、しかし彼の耳は裁判長と栗田の応答を、確実にとらえていた。栗田の答弁はどもったり、時にはしばらく黙りこんだりした。首をすこしうなだれて、両手を手錠で前に廻しているせいで、肩がほっそりと見えた。腰かけているときは、背中の感じがちがっていた。彼は珍しいものでも見るように、そこを暫(しばら)く眺めていた。

 局長印を盗用して書類をつくり、本局へ資金受領に行ったという事件であった。そして六万円の金を受領して、十日間に栗田は消費したらしかった。この事件の概要は、彼は一週間ほど前から知っていた。その三等郵便局に栗田の就職をあっせんしたのは、彼であった。三等郵便局長と彼とは、碁会所で知り合った友達であったから、栗田はすぐに採用された。しかしそれはもう、三年も前のことになる。三年間まじめに勤め上げて、なぜこのようなことを仕出かしたのか。その六万円も、一部を借金に戻しただけで、あとの残りは馬鹿みたいな使い方で、栗田は飲食に消費していた。何放公文書を偽造してまで、そんな金が必要であったのか。そこを裁判長からつっこまれるたびに、栗田は身もだえするように肩を動かした。借金を催促されて辛かったということを、栗田は低い声でどもりながら答えたりした。

「しかしその借金は、全部で八千円ということだな」

 裁判長はすこし身体を乗りだすようにして、そうきめつけた。

「那須鉄五郎に二千五百円。野島一作に五千五百円。お前が借金しているのは、これだけである。金額を書きこむとき、六万円という数字は、どこから浮んだのか」

 栗田は首をさらにうなだれて、暫く経って聴き取れない程の声でなにか呟(つぶや)いた。その栗田の姿を、裁判長は眼を据(す)えて見つめていた。その表情は、なにか職業的な修練といったものを、彼に感じさせた。そしてその眼は力があって、彼は自分が見据えられているような気がした。

(――なぜ六万円と書きこんだのか、栗田にも判っていないのだ!)

 彼はなんとなく、そう思った。蒼白い栗田の襟足(えりあし)から眼を外らすと、半眼になっている検事の顔や、うつむいている判事の顔をつぎつぎに見廻した。そして窓の外に視線をはなった。赤煉瓦の建物には、雨のいろが滲(にじ)んでいた。郷愁に似たものが、彼の胸にぼんやりひろがってきた。暫く彼はじっと窓を見ていた。訊問はその間にも、単調な調子でつづいていた。この公金横領が、発覚しないという自信があったのか、という裁判長の間いであった。

「発覚すると思いました」

「何故、そう思ったか」

「郵便局のそのような資金受領は、必ず月報に出るのです。それを引き合せば、すぐに判ります」

「直ぐ発覚することが判っていて、なぜお前はこんなことをやる気持になったか」

 栗田の声は急にひくくなったり、またはっきりなったりした。彼は眼を栗田の背にもどしてその言葉をききとろうとした。

 

 弁護人の発言の前に、彼は在廷証人として名前をよばれた。宜誓をすませると、彼は裁判長のいくつかの質問にこたえた。証言はすぐに終った。

 質間は、簡単であった。栗田をその郵便局に就職させた前後のことや、栗田の素行や性格についての問いであった。素行や性格については、深く知らないと、彼は答えた。

「しかし貴方は、被告の就職のさい、保証人になっておられるようだが」

「それは単に名前の上だけです」

 彼はそう答えた。そう答えるより仕方がなかった。裁判長は、急に疑わしそうな顔つきになって、しばらく、彼の顔をみつめていた。

「被告とさいきん逢われたのは、何時ですか?」

「この一年ばかり逢いません」

「名前だけであったかも知れないが――」裁判長は探るような口調になって言った。「貴方は保証人として、被告のことに責任を感じますか」

 証人台に片手をかるく置いて、彼はうつむいてしばらく黙っていた。一昨日裁判所の使丁が彼の家にきて、証人としての呼出状を渡したとき、彼は栗田について確信をもって証言することが、何ひとつとして出来ないことを、ふと感じていたのである。それは一週間前、栗田のその所業を知らされた時も、まだあそこに勤めていたのか、と思っただけで、それ以外の感動とか憐憫(れんびん)とか驚愕(きょうがく)とかの感情は、あたらしくは湧いて来なかったからだ。そのような感情は、ずっと以前に確実に彼の心のなかで死んでいた。それは栗田にたいしてだけではなかった。近頃彼は、すべてにたいしてそうであった。いま彼を栗田にむすびつけているのは、本質的には保証人という関係でなく、栗田の所業にたいする淡い好奇心にすぎないことを、彼は漠然と感じていた。

(この俺に、どんな責任をもつ資格があるのだろう?)

 彼はすこし戸惑いしたような表情になって、顔を上げ、低い声で、しかしはっきりと発言した。

 「責任は、感じません」

 彼はそのとき背中いっぱいに、栗田の視線と、在廷するすべての人々の視線をかんじると、またつけたすように言葉をついだ。

「あの保証人は、そのような意味のものではなかったのです。ただ身元を保証するというだけで――」

 もうよろしい、という風に裁判長が片手を上げた。そして質問はそれで終った。彼は軽く一礼すると証人台からしりぞいて、元の席にもどってきた。

 それから弁護士の弁論が始まった。ぶかぶかする弁護服の肩をしきりにゆすって、変に語尾を引き伸ばしたような口調であった。それを聞きながら、彼は自分の最後の答弁が、後味悪く胸にもたれてくるのを感じて、しきりに唇を嚙んだ。また元の席にもどってくるときに傍聴席からたくさんの粗(あら)くするどい視線が凝集してくるような気がして、うつむいて足早に戻ってきたことを思い出した。それをまぎらわすために、彼はまた窓から入る青い薄光に眼をむけたりした。外ではますます細かい雨が吹き散っているらしかった。弁論はなかなか終らなかった。彼の胸に、弁護士の言葉が、ときどき雫(しづく)のようにしたたってきた。

[……被告は年齢二十五歳の青年でありましてえ……]

「……甦生の機会をお与え下されたく……」

「……ひたすら寛大なる御処置今……」

 なるほど、弁論とはこのような調子なんだなと、彼は気持がそこから急に遠のいてゆくのを覚えながら、膝の上で指を組んで、ぼんやり窓の方をながめていた。

 やがて長々しい弁護がすんだ。

 検事が椅子をがたがたとずらせて、そっけない調子で求刑した。栗田は細いうなじをたれて聞いていた。その求刑は、彼が想像していたより軽かった。判決は来週ということになって、閉廷した。あたりの空気が急にざわざわとみだれ、靴の音が床にひびき、扉を開閉する音がぎいぎいと鳴った。黒い法服をきた裁判官たちが全部退席してしまうのと一緒に、背後の傍聴人たちも、潮のひくように廊下ヘ出てゆくらしかった。彼は証人席にかけたまま、その音を聞いていた。

 手錠をつけたまま、両側を巡査にまもられ、栗田が顔をあおくして被告席をたち上ったところであった。出口の方に歩きながら、彼のいる前までくると、栗田はとつぜん立ち止った。彼の顔を見ないようにしながら、しかし身体だけを曲げて、彼に深く深くお辞儀をした。それからやはり彼の顔から一寸外れたところに視線を浮かせながら、巡査に腕をとられて引かれて行った。栗田の瞼がすこし薄赤くふくらんでいたのを、彼ははっきりと見た。

 すこし経って彼はゆっくり立ち上り、壁にかけておいた洋傘をとって、扉をおして廊下に出た。頬がすこし紅潮していた。廊下には傍聴人たちがたくさん莨(たばこ)を喫っていて、彼はそれをかきわけて附段まであるいた。皆が道をあけながら、彼を見ているような気がした。空気がしめっているせいか、の煙はひくく層をなして廊下を流れていた。階段の手すりは濡れてつめたかった。階段の窓から見える中庭は、彼が階段を降下してゆくにしたがって、その風景の感じを変えて行った。中庭には幌(ほろ)をつけたトラックがいくつもとまっていて、それに人々が群れていた。

 彼はそれを見まもりながら一段一段降りた。

 外に出ると、霧雨が顔につめたくあたった。

 

 良子はすでに喫茶店にきていた。

 洋傘をたたんで硝子扉を押すとき、カウンターの上にある大きな時計が彼の眼に入った。約束の時間から、一時間半もすぎていた。帰ったかも知れない、と彼は思いながら店の内部を見廻した。いちばん隅の卓の、鉢植の棕櫚(しゅろ)のかげに良子はいた。

 良子は緑の透きとおった雨外套を着ていた。それは奇妙に美しい感じがした。うす暗い片隅にそれを見たとき、突然彼はなにか美しい昆虫を聯想(れんそう)した。彼がその卓に近づくと、良子は首をあげて、遅いわね、と低い声で言った。別段責めるような口調でもなかった。彼は椅子にかけながら、急に裁判所から証人に呼びだされたことを、だから遅れたことを簡単に説明した。そして珈琲を注文した。

 すると良子は、法廷のことをしきりに聞きたがった。いろいろと彼に質間してきた。彼は口重くそれに応答しながら、良子の顔をみたり、雨外套に視線を走らせたりした。近くで見ると、その雨外套のいろも、平凡に見えた。あの時は、鉢植の葉の色とかさなっていたから、美しく見えたのかも知れなかった。珈琲(コーヒー)をすすりながら、彼はぽつりぽつりと良子の問いにこたえていた。

「やはり裁判官たちは、威張ってる?」

「――傍聴人などからすれば、そう見えるだろうね」

「裁判って、面白いの?」

「――そう。傍聴人は、退屈していたよ」

「傍聴人、傍聴人って、あなたよ。あなたはどうだったのよ」

 彼は困ったような顔になって、すこしわらった。そして口をつぐんで、また珈琲をすすった。珈俳は不味(まず)かった。脇によせた彼の洋傘の尖(さき)から、雨が床に滲んできた。良子はすこし怒ったような表情をして、彼の方をみつめていた。その視線を彼は皮膚でいたくうけとめていた。

 それから暫(しばらく)くして彼等は立ちあがった。そして外に出た。良子が映画をみたいというので、道をその方にとった。良子は彼の洋傘に入ってあるいた。雨外套が彼の身体にふれて、さやさやと鳴った。良子と身体をくっつけてあるいていると、だんだん彼は道のはたに押されてゆくような気がした。傘をさしていても微粒になった雨が散っているので、しばらく歩くと眼鏡がくもってきた。

 映画館は満員であった。彼は入るのを止そうと言ったが、良子はすぐ空くからと頑強に主張して彼をひきとめた。映画をみる興味はなくなっていたが、彼は良子のことばに引きずられていた。少し待って切符を買い、中に入った。立見席にやっと身体を押し入れて、人の肩の間から、灰色に動くスクリーンを一目見たとき、彼はなぜかひどく退屈な気分におそわれた。平たい一枚の幕の上を、灰色の人影は正確にうごいていた。ぽっと変って風景があらわれたりした。彼は洋傘に身体をもたせて、人の肩と肩にはさまれた三角形のスクリーンを、眼を凝(こ)らしてしばらく眺めていた。物語は途中らしく、うまく関係がたどれなかった。あるいらいらした気分が、しだいに彼の胸にひろがってきた。彼が身じろぎするたびに、暗がりのなかで、レインコートや革のようなにおいがした。彼はそっと扉から廊下にぬけ出ると、喫煙室に入って行った。長椅子にふかぶかとかけて、莨に火を点じた。

(おれは何のために、こんなところで映画などを見ているのだろう?)

 莨がしめっていて、煙の味はにごっていた。喫煙室には誰もいなかった。煙をはきだしながら、彼は意識の一部でそんなことを考えた。喫煙室から廊下が見えて、半開きになった扉にも人の背が群っていた。しばらくするとそこから身体を脱けだすようにして、緑色の雨外套が廊下に現われてきた。そしてこちらへ歩いてきた。長椅子にかけている彼の姿を、その時あやまたず認めたらしかった。ためらうように喫煙室の入口で立ちどまったが、靴をこつこつ鳴らしながら入ってきた。良子はへんに青い顔をしていた。そして彼に並んで腰をかけた。

「――満員だから、見えないだろう」

 少し経ってから彼はそう聞いた。良子は黙っていた。拡声器からながれ出る濁った男の声が、かすかにここまで届いてきた。

 しばらくして良子がかすれたような声で言った。

「この間のお手紙ね」

 彼は莨をもみけしながら、微かにうなずいた。それに元気づけられたように、良子は言葉をついだ。

「もうあまり逢えないかも知れない、と書いてあったわね。あれはどういう意味?」

「意味って」彼はくるしそうな声でやがて答えた。「意味って、そのままさ」

「あたしと別れたいということなの」

 彼はだまって、また莨を取り出して火をつけた。沈黙がかたくその場にきた。しばらくして彼は低い声で言った。

「別れるって、別れるほどぼくらは一緒じゃなかった」

 彼は自分のその声が、妙に冷酷にひびいたのを意識した。次に言葉をつづけようとしたのを、その意識がさえぎってしまった。彼はすこし固い表情になって、口をつぐんだ。

 観客席の方からわらい声が聞えてきた。そのどよめきは、波状になってあとからあとから重なってきた。

 莨一本を喫い終るまで、彼等はだまっていた。莨を彼がすてるのを合図のように、良子が口を開いた。いつもの声になっていた。

「満員だから、もう帰りましょうか」

 彼はふたたび微かにうなずいたが、洋傘を支えにして立ちあがりながら、すこし意地わるい口調になって言った。

「さっきは、あんなに見たがっていたじゃないか」

「でも満員ですもの。見えはしないわ」

 廊下をぬけて外にでると、やはり雨は鋪石に音なく落ちていた。風景はさっきより色褪(あ)せて見えた。良子は再び彼によりそってきた。身体がやわらかく触れた。良子はあるきながら、自分が二三日前みた夢の話をした。それは彼が良子の部屋で、猫をつかまえてその尻尾を釘ぬきで抜こうとしているというのであった。良子はその夢の話をしながら身体をゆすってわらった。

「あたし、もう可笑(おか)しくって、可笑しくて、夢のなかだけじゃなく笑っていたのよ」

「なにがそんなに可笑しかったんだね」

「だって可笑しかったんですもの」

 良子はころころと止度(とめど)なく笑いつづけた。変な夢をみるものだな、と思いながら、彼はだまってあるいた。その気配に気づいたように、良子は急に笑い声を止めた。

 道を曲ると、掘割であった。掘割の水は黒かった。むこうは電車の高架線で、混凝土(コンクリート)の灰色の壁が、水からいきなり切り立っていた。その倒影は暗く水におちた。掘割にそった道には、ぬかのような雨が降っているだけで、ずっとむこうまで人影はなかった。

 この風景を一目見たとき、彼はひとつの感じが心をぎゅっとつかんでくるのを感じて、思わず立ちどまった。その瞬間彼はこの道を、良子ひとりに歩かせてみたいと、ふと考えていたのである。その感じがどこから起ってきたのか、それは判らなかったが、確実にはげしく彼をつかんできた。身体のなかをはしりぬけるものを感じながら、彼は気持をおさえて、低い声で呼びかけた。

「君はここから、ひとりでお帰り」

「なぜ?」良子はぎょっとしたようにふりむいた。「用事でもあるの?」

「そう。今思いだしたんだ」

 良子は歩道のはしに足をおいて、彼をじっと見つめた。洋傘からはみ出た良子の顔は、しだいに霧雨に濡れてゆくので、やがて顔め皮膚があおく艶をおびてきた。視線がまっすぐに彼にそそがれてきて、彼は洋傘をかざしたまま、暫く良子を見返していた。堀をへだてた高架の上を、轟となりひびいて電車が通った。良子は唇をすこし動かして、なにか言ったらしかった。何と言ったのか、わからなかった。良子はかすかに頭を下げた。そしてくるりとむこうヘむくと、歩道と車道の間をぬうようにあるき出した。

 彼は濡れた電柱のかげに身体をかくして、良子の後姿をまじまじと見送っていた。緑の雨外套の背がだんだん遠ざかって行った。良子はその間、いちども振り返らなかった。

(――なぜ女というものは、別れる時になると、あんなきれいな顔をするのだろう)

 良子の後姿は、電柱や並木にかくれたり現われたりしながら、次第にちいさく緑色の点になって行った。舗道(ほどう)にも、暗い水のなかにも、雨は音なく落ちていた。

 反対の方角に足をふみだしながら、どこかですこし酒を飲もうか、と彼はぼんやり考えた。

 

 小さな黄色い駅にもどってきたのは、七時をちょっと過ぎていた。まだ食堂はひらいているかなと思いながら、彼は改札を通りぬけた。

 先刻あおった二三杯の酒の酔いが、いまほのぼのと廻ってくるようで、彼は洋傘を半開きにしたまま、踏む切を通りぬけた。あたりはすっかり暮れていた。そこから始まる街に、電燈が柔かくうるんで、坂道の方角に点々とつらなっていた。道はひどくぬかるんでいた。水たまりのひとつひとつが、うすい光をたたえていた。酔いが快よく彼の身体を弾いた。

(身体と器官さえあれば、人間はどうにか生きて行けるものだ!)

 何故ともなく、そんなことを思いながら、彼は水たまりを避け、とびとびに歩いた。

 食堂は、まだ開いていた。しかしそろそろ片付けにかかるところらしく、小女が布巾で空(あ)いた卓を拭き始めていた。調理場で空樽にこしかけて、莨をすっていた男が、乱暴な手付きで膳をととのえて、彼によこした。

 薄暗い燈のしたで、客は彼ともう一人であった。他の卓には小女が椅子を逆さに乗せ始めたので、止むなくその客はむき合う椅子にかけねばならなかった。彼がむき合ったその客は、ふと気がつくと、今朝駅まで一緒になったあの若い女であった。

 女は背をまるく曲げて、一心不乱に御飯をたべていた。薄暗い燈のせいか、今朝見たときよりも、ずっと老(ふ)けた感じであった。善良そうな丸い眼をぱちぱちさせながら、女の箸は御飯とおかずの間をリズミカルに動いた。こんな若い女で、こんな食堂で朝夕食事をとっていることから、彼はある情景をぼんやり心の中で組み立てていた。

(この女が間借りしている部屋も、電燈がうすぐらくて、机の上にのせた小さな鏡台には、よく洗濯した赤い布がかかっているにちがいない)

 色の剝げた塗箸をうごかして、彼も皿をつついた。皿にのっているのは、鰈(かれい)の煮付であった、彼は今朝の配給所の風景を思い出した。彼の皿にあるのは、鰈をふたつに切った、その頭の方であった。その鰈の顔は、頭の中央からぐっと一方に寄っていて、なんだかぐしゃぐしゃと眼や鼻がかたまり、まるで泣きだしているように見えた。腹のところの身は、彼の箸の先にほぐれて、しろく脂肪をたたえていた。脂肪は、彼の舌のさきでやわらかく溶けた。

 女の皿にのっているのは、やはり鰈の切身であった。彼のとは違って、尻尾の部分であった。その大きさから言い、切り口の具合から言い、それはたしかに彼の皿のものの下半身にちがいなかった。彼は自分の皿とむこうの皿を、しきりにちらちら見くらべながら、箸をうごかした。たしかにそれは、一匹の半分ずつに相違なかった。

 どこか遠い海で泳いでいたこの鰈が、とうとうつかまえられて、いろんな人間の手を経てこの食堂に入り、二つに切られて鍋で煮られて、その半分ずつを別々の人間に食べられてしまう。そんなことが彼の頭にうかんだ。この想念は、遥かなほのぼのとしたものを彼に運んできた。――この二人の人間は、一匹の鰈を半分ずつ食べ、食べ終るとお互に口も利かず、食堂から夜の街に出て行き、そして自分の部屋を指して戻ってゆく。二三日も経(た)てば、あの夜食に鰈をたべたことなども、忘れてしまうだろう。そしてお互の顔や服装なども。雑多な記憶のなかに、なにもかも死んでしまうだろう。……

 彼は丹念に鰈の身をむしり食べて、白い骨だけにしてしまった。そして貧しい食事が終った。女は彼よりも先に立ち上って、特徴のある歩き方で食堂を出て行った。女のひろげる洋傘が、食堂の繩(なわ)のれんにあたって、ばらばらと鳴る音がした。

 生ぬるい白湯(さゆ)を丼いっぱい、ゆっくり時間をかけて飲みほすと、彼も立ち上った。酔いが少しずつ散ってゆくらしく、土間を踏む彼の靴のなかで、水気をふくんだ足指がつめたかった。

 (今日も、これで終った!)

 持ち重りのする洋傘を掌にかんじながら、彼は配給所のある坂道の方へ、ゆっくり歩いて行った。

 

[やぶちゃん注:冒頭で主人公は「鰈」の英語として「ハビバット」(halibut:ハリバット)を想起しているが、この「halibut」は、厳密には北洋産の超巨大(全長一~二メートル、大きい個体では三メートルを越えるものもざらである)カレイである条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科オヒョウ属 Hippoglossus  のオヒョウ類を指す。しかし、そんなことを言うために、ここに注をしたのでは――ない――。まず、カレイの一般的英語は「flatfish」或いは「flounder」であろうが、日本人のようには、西洋人はヒラメとカレイを区別しないから、これらはヒラメにも使われる。肉食人種の標準的外国人は、驚くほど、魚介類の名前、その種や類を指す一般名詞を、知識として全く持っていないのである。と言って、英語に堪能なあなたは、「halibut」を知っていましたか? 私はこの小説を読んだ二十代の頃、英語の教師や生徒に試みに聴いたが、誰も知らなかった。而して――そんなことを言いたいのでも――ない――。何故、彼=梅崎春生は、こんな単語を記憶していたのか? という素朴な疑問なのである。実はこのことについては、「幻化」のオリジナル注で述べているのである(『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (4)』(リンク先はブログ版。サイト一括PDF縦書版もある)の「ズルフォナール」注)である。病気を抱えて複数の薬物を服用していると、確かに薬物の名前を異様に知っている人は多い(かく言う私もその一人だ)。それはそれで不思議ではないかも知れないが、異様に長い日本語らしからぬ薬剤名をすらすら言える人というのは、そうした非日常的な奇体な語を記憶することにかけては、いい意味で言うなら、特異な才能を有していると言え、やや精神医学的に見るなら、ある偏執的な嗜好癖が感じられないとも言えなくはないだろう(かく言う私もやはりその一人で、ウルトラ第一次世代申し子である私は、「ウルトラQ」から「ウルトラセブン」までの怪獣や兵器その他諸々の単語を六十五にもなった今現在でもちゃんと総て覚えているのである。私に強い海産生物指向があって、異様に広汎な魚介類の標準和名や、一部の種の学名まで記憶しているのは恐らくそれほど異様には思われないだろうが、無価値な少年期の他愛もないそれらを、今も明確に暗誦出来るというのは、我ながら「異常」と感じる)。実は、私は梅崎春生には、そうした特定の単語(群)や言葉(群)に対する偏執的な固執的な記憶傾向があったのではないかと考えている。これが――例えば漢字を凝っと見ながら、突然、その漢字の読みや意味が判らなくなり、「へん」や「つくり」等の各部分が分解をし始める現象を「ゲシュタルト崩壊」と呼ぶが、これは正常人でも起こる。しかし、同様の症状を示した著名な人物に夏目漱石がおり、私は彼は重度の強迫神経症であったと考えている。無論、私や梅崎春生の場合、長期学習記憶が壊れるのではなく、異様に覚えている必要性が表面上感じられない長期記憶への固執が残存されるのだから、病的とは言えないのだが、しかし、或いは、これはある種、梅崎春生の病跡学に於いて、極めて特徴的なものと捉え得るものだと私はずっと思っているのである。

「外食食堂」第二次世界大戦中の昭和一六(一九四一)年から戦後にかけて、主食の米の統制のため、政府が外食者用に食券を発行し(発券に際しては米穀通帳を提示させた)、その券を持つ者に限り、食事を提供した食堂。というより、これ以外の飲食店には主食は

原則、一切配給されなかった。私が古本屋で入手した昭和二〇年(一九四五)年十月の戦後最初の『文芸春秋』復刊号の編集後記に記されていた、その外食券食堂の状況は、調理人の手洟や蛆が鍋の中で煮えている、という凄絶な不潔さを具体に訴える内容であった(当該雑誌は書庫の深淵に埋まってしまい、見出せないので、発見したら、追記する)。小学館の「日本大百科全書」梶龍雄氏の「外食券食堂」によれば、外食券は闇値で取引されることも多くなり、昭和二二(一九四七)年入浴料が二円の当時、一食一枚分の闇値が十円もしたという例もある。しかし、昭和二五(一九五〇)年ごろより食糧事情が好転し、外食券利用者は激減、飲食店が事実上、主食類を販売するようになってからは、システム自体が形骸化して、昭和四四(一九六九)年には廃止された、とある。因みに、私は昭和三十二年生まれであるが、券も食堂も記憶にはない(私の梅崎春生「猫の話」オリジナル授業ノート(PDF縦書版)」の注に手を加えた)。

「烏帽子(えぼし)みたいな冠(かんむり)」ウィキの「法服」の写真を見れば一発で判る。当該ウィキによれば、『判事、検事並びに裁判所書記の制服及び弁護士の職服は、国学者で前年に開校した東京美術学校の和文・歴史教員であった黒川真頼により考案された。古代美術や有職故実に精通し、服飾史に関しても造詣の深かった黒川は、聖徳太子像より考証した古代官服風の東京美術学校最初の制服を考案しており、出来上がったものは東京美術学校の制服に似た古代官服風となった』。『そのため、黒川が裁判所に事件の証人として召喚された際、廷丁に判事と間違えられたという逸話もあり』。刑部芳則氏は「洋服・散髪・脱刀 服制の明治維新」(二〇一〇年講談社刊)で『「古代官服風の服制は(当時でも)稀有であった」と指摘している』。『司法官らの制服及び職服は上衣と帽から成っていた。帽は黒地雲紋で、古代の官人が被っていた冠に似た形状であった』。『上衣は黒地の闕腋袍で、襟と胸に唐草模様と桐の刺繍が施され、刺繍の色で官職、桐の個数で裁判所の等級を区別した』。『服制を定めた当時、弁護士であった砂川雄峻は、「判事が職服を着て始めて(ママ)訟廷に臨んだときは、言ひ合はした如く皆極まり悪る気(きまりわるげ)に微笑を洩らして居つた」と回想』しているとある。『戦後、裁判所構成法が廃止され、裁判所法が制定されたとき、特に法服の規定はなかった。そのため、従来の法服を着用する者、法服を着用しない者とが混在した』が、『最高裁は』昭和二四(一九四九)年に、『「裁判官の制服に関する規則」(最高裁判所規則)で裁判官について新しく「制服」(法服)を定めた』とある(太字は私が附した)。本篇は昭和二三(一九四八)年発表だから、それこそその狭間のシークエンスで、裁判官は大方、けったいな旧法服だっただろう。私なんぞは、こんな注はいらない。何故なら、黒澤明の「醜聞(スキャンダル)」を見てるからさ(昭和二五(一九五〇)年四月公開)。その作品内裁判のニュース映像で志村喬扮する弁護士蛭田乙吉が旧法服を着て出廷して、観客も笑いを買うというシーンが用意されているからね。黒澤の作品の中でも、あれは映画ファンの若い人でも、見ていない(私が言っているのはちゃんと映画館で見ることだ)人も今や多いだろうなあ。]

多滿寸太禮巻㐧二 四花の爭論 / 多滿寸太禮巻㐧二~了

 

[やぶちゃん注:詩歌本文にはベタで入っているが、改行して独立させ、和歌は上・下句を分離し、漢詩は句で改行した。漢詩の一部は白文を示した後に、( )で訓点に従った訓読を示し、一部に字空けを施した。但し、一部は読み下しと訓点が混入しているため、そこは臨機応変の処置をとった。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版のそれをトリミングした。]

 

        四花(しくわ)の爭論

 住古(そのかみ)、出雲の國に、一人の聖(ひじり)あり。名を連藏といへり。常に深山幽谷を栖(すみか)とし、法華を讀誦し、ながく人倫を離れ、二十余年のとし月を送り給ひける。あやしき柴の庵(いほり)をむすび、嵐にむせぶ軒の松風、夢を破り、深洞(しんとう)に月をうけて、夜すがら、讀經(どくきやう)おこたらず。衣(ころも)、つきては、木葉(このは)を重ね、苦修練行(くしゆれんぎやう)に身をやつし給ひしが、壯年のころより、四季の草花を愛し、庵の四面、岩のはざまに、色々の花をやしなひ、すべて、春より、冬の雪間(ゆきま)にも、花なき事をいとひて、明暮、これをもてたのしみ給ひけるに、いつのほどよりか、四人の從者(ずさ)、日にかはり夜に代り、水を汲み、薪(たきゞ)をこり、菓物そのほか、無數(むしゆ)の供物を捧げて、隨從給仕しける。

Sikuwanosautonn
[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

  その一人は、白髮の翁(おきな)、常に靑き衣を着たり。

 一人は、容貌、いつくしくみえし童(わらは)の、かみをみだして有《あり》。

 又一人は、よはひ、さかむに[やぶちゃん注:「かさむに」の錯字か。]、美麗の女性(によしやう)、髮をからわにゆひあげ、常に紫の衣をきたり。

 今一人は、紅衣(こうゑ)を身にまとひたる小法師にてぞ有ける。

 かれら、明暮、一人、二人づゝ、日がわりに、かしづきて、御經(おんきやう)、聽聞(ちやうもん)しけり。かくする事、年、久し。

 聖も、誰(たれ)ととがむる事なく、或る時、四人(よつたり)ひとつに出來(いでき)て聽聞しけるが、女性(によしやう)、すゝみ出《いで》て云ひけるは、

「各(をのをの)、としごろ、師につかへて私(わたくし)、なし。此の御經の功力(くりき)にひかれて、佛果菩提に至らむ事、誠に有り難からずや。我等、たまたま生(しやう)をうくるといへども、一朝の間(あひだ)に、如幻(によげん)[やぶちゃん注:「無常」に同じ。]のかたちを、なす。然りといへども、我れ、百花の長(ちやう)とし、人の心を、なぐさむ。いかに、かく、禮をみだして、吾を、かく下座に、をくや。されば、歐陽永叔(おうやうえいしゆく)も、牡丹を「花の王」とす、とこそ見へたり。又、家隆卿(かりうきやう)の歌にも、

 紫の露さへ野邊のふかみ草

  たが住(すみ)捨(すて)し庭のまがきぞ

和漢の才人、詩歌によせ、わが名を尊(たつと)ぶ。いかでか、凡草(ぼんさう)の及ぶ事、あらむ。」

[やぶちゃん注:「歐陽永叔」唐宋八大家の一人、北宋の政治家にして詩人・学者として知られる欧陽修(おうようしゅう 一〇〇七年~一〇七二年)。永叔は字(あざな)。彼は「洛陽牡丹記」という文で、「洛陽地脈花最宜、牡丹猶爲天下奇」(洛陽の地脈は花に最も宜しく、牡丹は猶ほ天下の奇とす。)と呼び、中国に於ける「花の王」牡丹の美しさを讃え、これを以って牡丹は中華のまさに第一の花とする習慣が定着した。

「家隆卿」音読みは有職読みで尊敬を示す。鎌倉初期の公卿で歌人の藤原家隆の「壬二集」(みにしゅう)の「建保四年百首」(一二一六年)の「夏」に載るもの。]

 中にも、小法師の云ふやうは、

「仰せはさる事に候へども、千草萬木(せんさうばんぼく)、何れを尊とし、何れを卑しとせん。 仰(そもそも)、荷葉(かよう)は花の君子として、周茂蓮符(しうもれんふ)の樂(がく)となる。それのみならず、諸佛諸菩薩も、蓮花に坐せしめ、一切の經王(きやうわう)にも、妙法蓮華を以つて題號(だいがう)とす。されば、

 點溪(てんけい)に 荷葉は 疊む靑錢(せいせん)

とは、杜甫が句なり。

 荷花(かくわ) 嬌(けう)として 欲ㇾ語(かたらんとほつす)

とは、李白が詩なり。退之は、

 太華峯頭 玉井《ぎよくせゐ》の蓮(れん)

と、いへり。又、歌にも、

 浪に入《いる》海より西の夕日こそ

    蓮(はちす)の花の姿なりけり

其の外、世々(よゝ)の詩人・歌人、もて遊ばずといふ事、なし。いかに、我等こそ、人々に、おとらめや。」

[やぶちゃん注:「點溪に 荷葉は 疊む靑錢」杜甫の七絶「絕句漫興 九首 其七」の起・承句。杜甫草堂での吟。紀頌之氏の「杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」がよい。

「荷花 嬌として 欲ㇾ語」李白の五絶「淥水曲」(りょくすきょく)」の起・承句。やはり同じ方の別ブログ「漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩・唐詩・詩詞 解釈」のこちらがよい。

「太華峯頭 玉井の蓮」韓愈の七律「古意」。邦文では適切なものがない。全詩を中文繁体字のこちらでリンクさせて示しておく。

「浪に入海より西の夕日こそ蓮の花の姿なりけり」藤原為家の一首で「夫木和歌抄」に載る。「日文研」の「和歌データベース」で確認(03523番)。

   *

なみにいる うみよりにしの ゆふひこそ はちすのはなの すかたなりけれ

   *]

と、なごやかに申せば、童子(どうじ)の云《いふ》、

「各、其の威をまして、我身の德を述べ給ふ。誰(たれ)とても、いはれなき身は、あらじ。屈原が、秋菊(しうきく)の落英(らくえい)をくらひ、淵明が、東籬の下(もと)に菊を愛す。自然の醇精(ふせい)、たれか、もてあそんで、看執(かんしう)せざらん。それのみならず、荊州(けいしう)の菊潭水(きくたんすい)、三十余家(《さんじふ》よか)の長壽をたもち、慈童、八百歲の齡(よわひ)を、ふる。王荊公(わうけいこう)が詩(し)に、

 千花萬草凋零後 始見閑人把一枝

 (千花(せんくわ)萬草(ばんさう) 凋零(しうれい)の後(のち)

  始めて見る 閑人(かんじん) 一枝を把(と)る)

されば、定家卿の歌に、

 此里の老(おひ)せぬ千世(ちよ)はみなせ川

             せき入《いる》る庭の菊の下水

又、

 白かねと金のいろに咲(さき)まがふ

       玉のうてなの花にぞ有ける

其外、古人、これを愛し、家々(いへいへ)の詩歌、かぞへがたし。かゝる聖花(せいくわ)を下に置かむはいかに。恐れ、なからんや。」

[やぶちゃん注:「屈原が、秋菊の落英をくらひ」「楚辭」の知られた、屈原の「離騷」の一節。「夕餐秋菊之落英」(夕(ゆふべ)には秋菊の落英を餐す)。サイト「碇豊長の詩詞」のこちらがよい。

「淵明が、東籬の下に菊を愛す」授業でも盛んにやった、陶淵明の詩篇では最も知られる五言古詩「飮酒」二十首の「 其五」の一節。全体は古くからお世話になっている「WEB漢文大系」のこちらをリンクさせておく。

「醇精(ふせい)」読みはママ。「じゆんせい」が正しい。混じり物のない純粋なエッセンス。

「荊州の菊潭水」荊州は現在の湖北省一帯。そこにあるとされる「菊潭」の水は不老長寿の妙薬とする伝承があり、恐らくはこの不老水、本家より本邦の方が人気があって、和歌や能の「菊慈童」の素材となっている。

「千花萬草凋零後 始見閑人把一枝」北宋の政治家で詩人・文学者としても知られた王安石。「荊国公」を贈られたことから「荊公」とも呼ばれる。彼の「菊」の詩として引かれているが、検索しても、中文サイトでも、この二句の部分しか出ない。不審。

「此里の老せぬ千世はみなせ川せき入る庭の菊の下水」「日文研」の「和歌データベース」の定家の「拾遺愚草」では(01931番)、

   *

このさとに おいせぬちよは みなせかは せきいるるにはの きくのしたみつ

   *

と初句が違う。

「白かねと金のいろに咲まがふ玉のうてなの花にぞ有ける」不詳。]

 翁、眉をしはめて、

「何れも、やさしきあらそひ、其人によつて、其人をあひす[やぶちゃん注:「相(あひ)す」か。或いは「愛す」の転訛か。]。いづれを是(ぜ)とし、何れを非とせん。吾は、玄冬(げんとう)の寒きをいとはず、春を逐(おつ)て開く。此の故に、梅(むめ)を兄(あに)とし、山茶(さんさ)をもつて弟(おとゝ)とす。淸香(せいかう)幽美にして、『凌波(れうは)の仙子』ともいはれたり。其の外、貴文(きぶん)が詩にも、

 早於桃季晚於梅

 氷雪肌膚姑射來

 明月寒霜中夜靜

 素娥靑女共徘徊

 (桃季より早く 梅(むめ)より晚(おそ)し

 (氷雪 肌膚(きふ) 姑射(こや)來たる

  明月 寒霜 中夜靜なり

  素娥(そが) 靑女(せいぢよ) 共に徘徊す)

[やぶちゃん注:転句には原本では「静」という訓点が打たれてある。]

と、いへり。ある歌に、

 白妙に庭のきり芝ふる雪に

  しらず貌《かほ》なる水仙のはな

と、よめり。賢聖の、もてあそびと、なれり。

 凡そ、花木草花(くわぼくさうくわ)は、たゞ品(しな)を、いはず。時にふれ、興(けう)にめでて、人の氣(き)を、なぐさむ。豈(あに)尊卑高下(かうげ)をあらそはむ。夢の世に、かりなる生(しやう)をうけ、飛花落葉をかなしみ、我れと、吾が身に、着(ぢやく)を、のこす。かの唯摩居士(ゆいまこじ)の「佛道、猶《なほ》捨(すつ)べし。いかにいはんや、非法(ひほう)をや。」と、說き給ふ、むべなるかな、此事。かならずしも、爭ひ給ふべからず。只(たゞ)、「草木國土悉皆成佛(さうもくこくどしつかいじやうぶつ)」の金言をたのみ、かゝる尊(たうと)き聖人(しやうにん)に、ちぐうし、たてまつり、猶《なほ》し、菩提の種(たね)をも、うへ給へ。」

と、念比(ねむごろ)に宥(なだ)め、をのをの、退散しけり。

[やぶちゃん注:「山茶」山茶花。

「凌波の仙子」水仙の美称。波をかきわけて進むような軽やかな美人の仙女の歩みに喩えたもの。

「貴文(きぶん)が詩」「水仙花」という題名で宋代に纂せられた「彭城集」に載るが、この作者は不詳。識者の御教授を乞うものである。

「唯摩居士」普通は「維摩居士」。まあ、漢訳だからどうでもいいが。大乗仏教の一経典「維摩詰所説経」(クマーラジーバ訳・略称「維摩経」)の中で中心となって活躍する居士の名。「維摩」は「維摩詰」の略で、サンスクリットの原名は「ビマラキールティ」。同経の玄奘による別訳が「無垢称」と訳しているように「無垢という評判をとった(人)」という意で、「浄名」とも訳される。古代インドの商人で釈迦の在家の弟子となった。「多滿寸太禮卷㐧一 仁王冠者の叓」で注したので参照されたい。

「草木國土悉皆成佛」「涅槃経」で説かれるかなり知られたフレーズ。草木や国土のような非情なものも、仏性(ぶっしょう)を具有して成仏するという意。この思想はインドにはなく、六世紀頃の中国仏教の中に出現するが、特に本邦でもて囃された。日本では空海が最初とされ、次いで天台宗の円珍や安然らによって説かれた。それが鎌倉新仏教の興隆台頭の中、親鸞・道元・日蓮らによって再び説法の中で主張されるようになった。]

  聖(ひじり)、つくづくと、是を聞給ひ、

「誠(まこと)に。草木(さうもく)といへども、かりの執心をとゞむるにしたがひて、をのが形(かた)ちを顯はす。此とし月、多くの草花(さうくわ)をやしなひ、愛しける事の、うたてさよ。」

と、日比の心を捨(す)て、此の後(のち)、ながく、愛心(あいしん)をとゞめ給へば、四人の者も、をのづから、來らず。

 いよいよ、勤修(きんじゆ)おこたらず。

 天(てん)の童子《どうじ》、二人、いつとなく來りて、聖人(しやうにん)に給仕し給ひけれ。

 こゝに、妙慶といへる尊(たつ《と》)き僧、一旦、此の山にまよひ入《いり》給ふに、遙かの峯に鐘の音(ね)を聞きて、尋ね行き、見給ふに、柴の庵、あり、獨りの僧、「法花」をよむ。其とし、いまだ三十計り。妙慶をみて、經をとゞめて、内に請じて、やゝ物語りし給ふ。

 妙慶、申されけるは、

「幾年(いくとせ)をか、此山に住(ぢう)し給ふ。」

 聖、答へて、

「我れ、人倫をはなれてこのかた、麓に下(お)りず。花咲き、雪ふるを、かぞへてみるに、とし、已(すで)に、一百余歲。」

 こゝに於《おい》て、唯人(たゞひと)ならぬ事を、しる。

 「安樂行品(あんらくぎやうほん)」を、よみ給ふ。

「天乃諸童子以爲給仕(てんのしよどうじいゐきうじ)。」

の句に、二童子、忽ちに顯はれ、一人は供物をさゝげ、一人は蓋(がい)をおゝふ。聖、供物をふたつに分け、一ぶんは、くひ、一分を妙慶に與(あた)ふ。

 其の味、甘露のごとく、人中(にんちう)の食(しよく)に非ず。聖、仰せけるは、

「此の地、常の人の來たる所に、あらず。今、ふしぎに對顏(たいがん)して、昔を語る事の嬉しさよ。」

 妙慶、三拜して、

「吾れ、不思義に此の所に至る。再會、期(ご)し難し。今、尊前の所行、世に傳へむと思ふに、更に印(しるし)なし。片原(かたはら)に有《あり》ける『木のは衣(ころも)』を、吾れに與へ給へ。」

と、あれば、聖、惜しむ氣色(きそく)あり。忽ちに、十人の童子、顯はれ、此の衣を、守る。

 妙慶、本(もと)より、不動尊に歸して、多年、有驗(うげん)ありければ、しばらく觀念ありしに、金伽羅(こんがら)・勢多伽(せいたか)の二童子、形(かた)ちを現じて、衣を、奪ひ取《とり》給ふ。

 十童子、これを、つよく引《ひき》て、いかる。

 其の衣、半ばより烈(さけ)て、二つ、となる。

 一衣(いちゑ)は聖(ひじり)のもとに有《あり》、一衣は妙慶の手に、わたる。

 則ち、これをたづさえて、後生(ごしやう)を契り、歸り給ふ。

  又の春、かの聖の庵室(あんしつ)を尋ね給ふに、いづちへか、おはしけん、垣(かき)も、とぼそも、苔むして、その行方(ゆきかた)、なし。庵室の窓下(まどのもと)に、

 一枕仙遊足自娛

 蕭然情思離塵區

 (一枕(いつしん)の仙遊 自(おのづか)ら娛(たの)しむに足(た)るを

  蕭然(せうぜん)たる情思(せいし) 塵區(ぢんく)を離(はな)る)

此の句、書き付けて有《あり》しを、妙慶、なくなく、是を形見に取りて、歸りたまひ、世に傳へ給ひけるとかや。

[やぶちゃん注:「十童子」不詳。密教に於いて、不動明王の使者である八人の童子がいる(慧光(えこう)・慧喜・阿耨達(あのくだつ)・指徳・烏倶婆迦(うぐばか)・清浄・矜羯羅(こんがら)・制吒迦(せいたか)の八大(金剛)童子)がいるが、これは以下に出る不動のそれと重なっているから、違う。因みに引っ張り合う妙慶方の「金伽羅」と「勢多伽」は不動尊像に脇侍としてよく造形される童子である。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 始動 「一」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年九月・十月・十一月(本文)及び翌五年一月(補遺)と十二月(追記)発行の『鄕土硏究』初出で、大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここが冒頭)で視認して用いた。

 但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方随筆」(新字新仮名)で校合した。同選集は本篇の初出の誤りが補正してあり、しかも原文はなく、元版全集編者による読み下し文となっている(しかし、それは現代仮名遣の気持ちの悪い代物であり、無論、漢字は新字体である)。今までもそうしてきたが、底本の原文通り、まず、白文で示し、その後に《 》で推定される訓読文を添えた。但し、私は可能な限り、引用原本を確認出来るものは、それで確認して誤りと判断し得たものは訂し、「選集」のみが拠り所となる場合でも、無批判の受け入れず、読みも私の我流で訓読し直してある。そうした部分は、実は甚だしく多くあるから、五月蠅くなるばかりなので、通常、その底本の誤りは、原則、注記しない。

 さらに、南方熊楠本人の使用語・表現もかなり難読で、仏語に到っては私も見たことがない漢語もかなり多い。されば、今までのように注で示したのでは、読み難くなるばかりか、只管に煩瑣となるだけで、百害一利に等しくなってしまう。そこで全篇を通じて、読みが難読であったり、振れそうなものは、私の推定で歴史的仮名遣で( )で挿入した。なお、本篇は流石に熊楠も底本編者も考えたらしく、ルビがそれでも振られている割合が本書中の多篇に比しても、有意にある。なお、それらは区別して、〔 〕で底本にあるルビを指す

 さらに、熊楠の文は思うところ自在無礙で、一つの段落が異様に長く、そのままでは注を附しても甚だ読み難いものとなるため、「選集」を参考に段落を細かく入れ、そこに注を挟んだ。注の後は一行空けた。なお、私が十全に知っているものや、その反対に、私に出来たとしても生没年ぐらいしか附せない人物や、よく判らない書名で本文内で重要対象と認められないと判断したものには注を附さなかった。悪しからず。]

 

       龍 燈 に 就 て

 

       

 

 尾芝君の龍燈松(りゆうとうのまつ)傳說に、「龍燈と云ふ漢語は、もと水邊の怪火(あやしび)を意味して居る。日本でならば筑紫の不知火(しらぬひ)、河内の姥(うば)が火等に該當する」とあるが(鄕硏究三卷四號二〇六頁)、果たして左樣な意味の龍燈てふ漢語ありや。類聚名物考卷三三八に、「龍燈の事古書にも和漢共に見當たらず、似たる事はあり。中山傳信錄に天妃靈應記の事をいふ内に、康煕四年、昇化於湄州嶼、時顯靈應、或示夢、或示神燈、漁舟獲庇無數。《康煕四年、湄州嶼(びしうしよ)に昇化す。時に靈應を顯はす。或いは夢に示し、或いは神燈に示す。漁舟(ぎよしう)の庇(まも)りを獲(う)ること、無數なり。》。光武、暗夜火光(くわくわう)を見、皇朝不知火の類も似たれども、龍燈の名は曾て見えず」とあるが是も間違で、佩文韻府二五を見ると、夏竦上元應制詩、寶坊月皎龍燈淡、紫館、風微鶴平焰《夏竦(かしよう)が「上元應制」の詩に「寶坊(はうばう) 月 皎(かう)にして 龍燈 淡(あは)し / 紫館 風 微(かす)かにして 鶴焰 平らかなり」。》と有る。其全詩を知らぬから何の事か判らぬが、兎に角古書に龍燈の字が無いと言はれぬ。又佛名經(ぶつみやうきやう)や諸佛世尊如來菩薩尊者名稱歌曲(みやうしやうかごく)などにも龍燈の字が有つたと記憶するが、今座右に無いから仕方が無い。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「○」。

「龍燈」「龍燈松伝說」「諸國里人談卷之三 橋立龍」の私の注などを参照されたい。

「尾芝君」【二〇二二年四月十二日追加】当初、「不詳」とのみ注していたが、長年、私の記事を丹念に読まれ、情報を提供して下さるT氏からメールを頂戴し、『「尾芝君」は尾芝古樟で、柳田國男が『郷土研究』発行時代に使った変名です。柳田の『故郷七十年』項目「匿名のこと」に尾芝古樟を含め色々な変名が書かれています。』とあって、「青空文庫」の「故郷七十年」(同作品は昭和三二(一九五七)年に神戸新聞社が翌年の創立六十周年を迎えるに当たって、兵庫県出身で当時八十二歳であった柳田國男に回顧談を求め、柳田はこれを快諾し、全二十五回に亙って聞き書きが行われ、二百回に亙る連載記事となったものであるが、これは聞き書きであるからか、「ちくま文庫」版全集には載らない(その後の一九九七年刊の新しい「柳田國男全集」第二十一巻に載っているようである)を紹介して下さった(こちら)。その「匿名のこと」の章で、柳田は『私の匿名の一つに尾芝古樟(こしょう)というのがある。これは北条の母』(柳田國男の実母)『の実家の姓と、同家にあった古い樟(くす)の老樹にあやかったものである。思えば私にはこうした匿名が二十近くもある。』と述べていた。私はこの「青空文庫」の記事は数年前に発見したものの、全篇を読んではいなかったため、気づかなかった。さらにT氏は『熊楠が 「尾芝君の………」で引用している文章は 『神樹篇』の龍燈松傳説(大正四年六月、鄕土研究三卷四號)です』とのことであった。同評論は国立国会図書館デジタルコレクションの実業之日本社版「柳田國男先生著作集」中に正規表現のものを発見したので、本日午後、こちらに電子化公開した。T氏に心より御礼申し上げる。なお、熊楠はそれに触発されて本論を書いているのであるからして、そちらをまず読まれたい。

「不知火」「諸國里人談卷之三 不知火」を参照。

「姥が火」「古今百物語評判卷之四 第九 舟幽靈附丹波の姥が火、津國仁光坊事」の本文及び私の注(及びそこにリンクした私の過去の別記事)を参照。

「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(巻三百三十八の「雜部十三」の「靈鬼 妖怪」の内の「龍燈」の一節である。引用部は次のページにあるので、見られたい。「筑紫の不知火」を熊楠が出したのも、ここを見てのことであろう。末尾を見られたい。

「中山傳信錄」清の徐葆光(じょほこう)が一七二一年に著した琉球地誌。全六巻。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの第一巻のここPDF一括版)の37コマ目以下に琉球へ渡る経路を語る文脈の中で「天妃靈應記」が載る(前のコマに天妃の絵が載る)。訓点附きなので読み易い。

「康煕四年」清代。一六六五年。

「湄州嶼」現在の福建省莆田市湄州島。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「光武」後漢王朝の初代皇帝光武帝劉秀(紀元前六年~紀元後五七年)。

「佩文韻府」清代の蔡升元らが康熙帝の勅を奉じて編纂した韻書。百六巻。補遺である汪灝ら撰の「韻府拾遺」百六巻と合わせて用いられる。前者が一七一一年に、後者が一七二〇年に成った。内容は経・史・子・集の四部の書物から、二字から四字の語彙を集めて、末尾の字の韻母によって平水韻の百六韻に分類排列し、さらに、その語彙の出典を注記したもの。「佩文」とは康熙帝の書斎名。

「佛名經」元魏の菩提流支訳。全十二巻。懺悔滅罪のために三世十方の諸仏の名号を受持することを説く。但し他にも「仏名経」と題する経典は多いので、これを指しているかどうかは不詳。

「諸佛世尊如來菩薩尊者名稱歌曲」明代の一四一七年序のある「大蔵経」に所収される仏典の一つ。]

 

 五雜俎九に、「又云龍火與人火相反、得濕則燄、得水則燔、惟以火投之則反熄、此亦不知其信否也」《又、云はく、「龍火(りゆうくわ)、人火(じんくわ)と相ひ反し、濕(しつ)を得(う)れば、則ち、燄(も)え、水を得れば、則ち、燔(や)く。惟(ただ)、火を以つて、之れに投ずれば、則ち、反(かへ)つて熄(き)ゆ。」と。此れ、又、其の信(まこと)か否かを知らず。》。この龍火(龍燈と言はず)は水邊の怪火(くわいくわ)らしいが、本草網目に火を分類して天火四、人火三、地火五、共に十二とす。天火四とは太陽の眞火星精の飛火、此の二つが天の陽火で、龍火と雷火、此の二つが天の陰火と有つて、龍火を天のものとし居るから考ふると、本草に所謂龍火は水邊の怪火よりも、主として高く空中に現ずる歐洲で所謂エルモ尊者の火や日本で呼ぶ龍燈を指したらしく、乃(すなは)ち水濕の地の燐一名鬼火と別(わかち)て、高空中の怪火を龍火と云つたらしく、綱目に、人の陰火二(命門〔めいもん〕の相火〔しやうくわ〕、三昧〔さんまい〕の火)地の陰火二(石油の火、水中の火)、龍火はこれらに隷〔つい〕たものと見立てたのだらう。果たして然らば、高空中に現ずる怪火を龍燈と云ふは、龍火と同源若くは其より出(いで)た名で、尾芝君が五山の學僧の倭製の如く謂はれたは誤見かと惟(おも)ふ。

[やぶちゃん注:「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに出るのは、巻九の「物部一」にある以下の一節。前の部分も引いておく。

   *

俗有立夏分龍之說、蓋龍於是時始分界而行雨、各有區域、不能相渝、故有咫尺之間而晴雨頓殊者、龍爲之也。又云、「龍火與人火相反、得濕則焰、得水則燔。惟以火投之、則反熄。」。此亦不知其信否也。

   *

なお、「燄」は「焰」の異体字。

「本草網目に火を分類して……」明の李時珍「本草綱目」巻六の「火」の部の冒頭にある「陽火隂火」での分類。「漢籍リポジトリ」のこちらの頭を参照されたい。訓点がない読めないと仰せなら、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年の訓点附きがある。

「エルモ尊者の火」悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象を言う「セントエルモの火」(St. Elmo's fire)。当該ウィキによれば、その『名は、船乗りの守護聖人である聖エルモ(エラスムス)』((Erasmus ?~三〇三年頃)『に由来する。彼はイタリアに向かう船に乗船中、嵐に見舞われ、船は転覆の危険にさらされる。聖人が熱心に神に祈ると、嵐はおさまる。そして帆柱の先端に青い炎が踊り出した、と伝えられている』ことに基づく。物理学的には、『尖った物体の先端で静電気などがコロナ放電を発生させ、青白い発光現象を引き起こ』すと説明され、『先端が負極の場合と正極の場合とでは、形状が異なる。雷による強い電界が船のマストの先端(檣頭)を発光させたり、飛行船に溜まった静電気でも起こることがある。放電による「シュー」という音を伴う場合がある』とある。また、一七五〇年に『ベンジャミン・フランクリンが、この現象と同じように、雷の嵐の際に先のとがった鉄棒の先端が発光することを明らかにした』ともある。

「本草に所謂龍火は……」ここでの「本草」は、「本草綱目」を始めとして広義の漢籍の本草書の謂いであろう。無論、後の「綱目」は「本草綱目」を指す。

「尾芝君が五山の學僧の倭製の如く謂はれた」『尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」』を参照されたい。]

 

 橘南谿の東遊記後編二に、大徹禪師、越中の眼目山〔さつかさん〕を開いた時、山神龍神助力して色々奇特有り。今も每七月十三夜其庭の松の梢に燈火二つ留〔とま〕まる。一は立山の巓(いただき)より、一は海中より飛(とび)來たる。これを山燈龍燈と云て此邊の人例年見る。世に海中より龍燈出ずる事多きも、此等の如く山燈龍燈一度に來るは稀有じぢやと載す。大徹の師永平寺の開祖道元は宋に遊んだ人だから、其頃支那で山に出るこの類の火を山燈、海より現ずるを龍燈と云ふこと、丁度蜃氣樓が山又海に顯はるゝに隨て山市〔さんし〕又海市〔かいし〕と呼んだ如くだつたのかと惟(おも)ふ。土佐の蹉跎(あしずり)明神にも同時に山燈龍燈出で、伊勢安濃津(あのつ)邊にも山上より火出で、塔世浦〔とうせいがうら〕より來たる火と鬪ふて後、一つは山の方へ、一つは沖の方へ飛び去るといふ(諸國里人談三)。淵鑑類函三六〇に孔帖を引いて、于頔爲襄陽、點山燈《于頔(うてき)、襄陽を爲(をさ)めしとき、山燈を點(とも)す。》。是は人民便利の爲山上に燈臺を設けたのか、若くは京都東山の大文字の樣に火を點したのを山燈と呼んだらしいが、明〔みん〕の陸應陽の廣輿記一六に、「山燈、蓬州現凡五處、初不過三四點、漸至數十、在蓬山者最異、土人呼爲聖燈」《山燈、蓬州に現はるること、凡そ五處なり。初めは三、四點に過ぎず、漸(ぜんぜん)に數十に至る。蓬山に在る者、最も異(い)なり。土人、呼んで「聖燈」と爲す。》と載せたは、疑ひ無く、越中眼目山の山燈同樣の火で、最初は山から出ずるを山燈、海より來たるを龍燈と眼目山同樣支那で言つたのが、日本に傳はりて後山燈では山の燈火〔ともしび〕と聞えて一向神異は無いから、之を神異にする念より専ら龍燈とのみ呼ぶ風と成(なつ)たのであらう。

[やぶちゃん注:「橘南谿の東遊記後編二に、大徹禪師、越中の眼目山〔さつかさん〕を開いた時、……」医師であったが著述家としても知られた橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)。本名は宮川春暉(はるあきら)。伊勢久居(現在の三重県津市久居(ひさい))西鷹跡町に久居藤堂藩に勤仕する宮川氏(二百五十石)の五男として生まれた。明和八(一七七一)年一九歳の時、医学を志して京都に上り、天明六(一七八六)年には内膳司(天皇の食事を調達する役所)の史生となり、翌年には正七位下・石見介に任ぜられ、光格天皇の大嘗祭にも連なって医師として大成した。一方で諸国遍歴を好み、また、文もよくしたため、夥しい専門の医学書以外にも、この「東遊記」や「西遊記」(併せて「東西遊記」と称する)等の紀行類や名随筆「北窓瑣談」等で知られる。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原版本が見られる(PDF一括版。当該部は2コマ目から)。それを視認して示す。句読点等を打ち、読みの一部は私が歴史的仮名遣で推定追加・修正した。

   *

東遊記後編巻之二

  龍燈           南谿子著

越中新川郡(にいかはのこほり)に眼目山といへる寺あり。「眼目山」と書(かき)て「サツクワ山」と讀む。わけは知らず。宗㫖(しうし)は禅にして道元禅師の弟子大徹禅師の開基なり。此大徹禅師、此山を開かれし時、山神(さんじん)・龍神、助力して、色々の奇特ありしよし。今に至り、毎年七月十三日の夜は、眼目山の庭の松の梢に、燈火(とうか)、のぼる。一ツは立山(たてやま)の絕頂より飛來(とびきた)り、一ツは海中より飛來り、皆、松の梢にとゞまる。是を「山燈(さんとう)」「龍燈(りうとう)」といひて、此あたりの人は例年の事也。世に龍燈とて、海中より、火の出づるは多けれども、此寺のごとく、山燈・龍燈、壱度に來りて、松の梢に留(とゞま)るは、希有(けう)の事なりといふ。越前の敦賀常宮(じやうぐう)にも「龍燈の松」とて、例年正月元日の夜、かゝる事あるを、其あたりの人は、皆、見る事たり。

   *

この寺は曹洞宗の名刹として知られ、現行では眼目山立山寺(がんもくざんりゅうせんじ)と読む。但し、地元では確かに「さっかの寺」とも呼ばれている。建徳元(一三七〇)年に立山権現が樵(きこり)の姿となって大徹宗令禅師(大本山総持寺第二祖峨山禅師の高弟で宗門五派の随一とされる僧であった)を導き、寺院の建立をすすめたと伝えられている。因みに、「眼目」をネットで自動翻訳すると、中国語で「薩卡」と表示された。これが元か。なお、「敦賀常宮」は現在の常宮(じょうぐう)神社(グーグル・マップ・データ)。

「土佐の蹉跎(あしずり)明神」「諸國里人談卷之三 嗟跎龍燈」の本文と私の注を参照されたい。地図もリンクさせてある。

「伊勢安濃津(あのつ)邊にも山上より火出で、……」私の「諸國里人談卷之三 分部火」の本文と私の注を参照。地図もリンクさせてある。

「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「夷堅志」は南宋の洪邁(こうまい 一一二三年~一二〇二年)が編纂した志怪小説集。一一九八年頃成立。二百六巻。同文字列は確認出来たが、引用元「孔帖」というのは如何なる書物か不明。

「明〔みん〕の陸應陽の廣輿記」清の康熙帝の時に陸応陽らによって書かれた中国とその周辺国の地誌。

「蓬州」南北朝時代から民国初年にかけて、現在の四川省南充市(グーグル・マップ・データ)一帯に設置された旧州名。]

 

 但し、支那の山嶽又廣い内地一向海無い處にも龍は棲むと信ぜられたから、(例せば慈覺大師入唐求法巡禮行記二に、老俗等云、古來相傳、此山多有龍宮《老俗等(らうぞくら)云はく、「古來、相ひ傳ふ、『此の山に、多く、龍宮、有り。』と。」。》、)山燈を龍燈と呼ぶ事古くより彼國に在つたのかとも惟ふ。現に一八九六年板ヨングハズバンド大尉の大陸之心臟(Capt. Younghusband, ‘The Heart of a Continent’)三〇二頁に、支那トルキスタンのランクル湖邊でチラグ、タシユ(燈巖〔ランプ・ロツク〕の義)を見る。其巓〔いたゞき〕に不斷燃居(もえを)る燈ありて、龍の眼より出(いづ)る光とも、龍の頭上の寶珠より生ずる光とも云ふ。著者往きて仰ぎ視るに、洞(ほら)の天井に弱い白光有つて燐光の如し。依つて苦辛して徒者と俱に巖を登り見れば、洞と思ひしは實は巖頂を橫貫した孔〔あな〕で、他方より通る日光が孔の天井に著いた白い堆積層に反射して白く光る。其を數百年來事々しく不斷燈の窟(いはや)と傳唱したのだと有つて、特に龍燈の號〔な〕は擧(あげ)ぬが、龍の眼や珠から出(いづ)る燈と云ふ所を見ると、龍燈の種類・起因は種々異なりとするも、龍が燈火を出(いだ)すと云ふ迷信は日本で始まつたのでも日本ばかりに存する者でも無く、どうもアジア大陸から傳來の者らしう見える。兎に角越中で山燈龍燈を併稱する、其山燈が支那の書に見え居る上、龍より生ずる燈の話が支那の領地に在る上は、龍燈ちふ稱は吾邦五山の僧などの手製で無く、全く山燈と等しく支那傳來と定めて大過無かるべしだ。猶大淸一統志など片端から調べたら斯(かか)る火を呼んだ龍燈なる名が支那に在つた例も有るだらうと、著手(ちやくしゆ)はしたが事多くて一寸濟まぬ。

[やぶちゃん注:「慈覺大師」最後の遣唐使僧で、最澄に師事し、後に第三代天台座主となった円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年)。

「入唐求法巡禮行記」円仁が承和五(八三八)年に博多津を出港した場面から始まり、揚州へ向かい、承和十四年に帰国するまでを日記式の文体で書いた旅行記。当該部は、

   *

開成四年[やぶちゃん注:八三九年。承和六年相当。]九月三日  日本國僧圓仁等帖

十二日午時。雲雷雹雨。五更之後。龍相鬪鳴。雹雨交下。電光紛耀。數尅不息。到曉便止。朝出見之。氷雹流積三四寸許。凝積如雪。老僧等云。古來相傳。此山多有龍宮。

   *

である。引用は中文サイト「CBETA 漢文大藏經」のこちらに拠った。

「一八九六年板ヨングハズバンド大尉の大陸之心臟(Capt. Younghusband, The Heart of a Continent’)三〇二頁」イギリスの軍人で探検家のフランシス・エドワード・ヤングハズバンド(Francis Edward Younghusband 一八六三年~一九四二年:インドのマリー生まれ。軍人として一八八二年にインドに赴任し、一八八六から一八八八年にかけて、満州・モンゴルなどを踏査する。以降、英国のインド経営の辺境への拡大に功績を上げた。一九〇三年から翌年にかけてチベットに侵入・征圧し、「ラサ条約」を締結した。英国エベレスト登山の推進役も務めた。帰国後、「王立地理学会」会長・「エベレスト委員会」議長等を歴任した)が、一八八六年に踏破した北京・満州・ゴビ砂漠・トルキスタン・ヤルカンド・ヒマラヤ等の探検記。「カラコラムを越えて」という邦訳題で知られる。「Internet archive」で当該年版の原本が読めるが、熊楠が言っているページ数の前ページからそれが当該ページにかけて記されてある。

 

 古印度に龍燈てふ名の有無は知(しら)ぬが燈が龍の居る上の樹に懸る話はある(後文を見よ)。釋迦方誌卷中に、尼波羅國(にはらこく)の熱水池底の慈氏佛の冠を火龍が護る事有るが、火龍は小說西遊記等にも見え火を吐き物を燒散(やきちら)す龍で龍火とは別だ。神僧傳四に、劉宋の竺道生吳の虎丘山に講經した時、雷震靑園佛殿、龍昇于天、光影西壁、因改寺名曰龍光《雷、靑園の佛殿に震(ふる)ひ、龍、天に昇る。光、西壁に影ず。因つて寺名を改め、「龍光」と曰ふ。》と見ゆ。宗鏡錄(すぎやうろく)九七に、燈と光と二名有れども其體別ならず、卽ち燈是れ光、光是れ燈と有るが、爰の龍光は落雷の閃光が寺壁に映つたので龍燈ではない。又佛祖統記四、唐の代宗、「於大明宮建道場、感佛光現、諸王公主近侍諸臣竝視光相、自子夜至鷄鳴」《大明宮に於いて道場を建て、佛光の現ずるを感ず。諸王・公主・近侍の諸臣、竝(なら)びに光相(くわうさう)を視る。子夜(しや)[やぶちゃん注:(ね)の刻。真夜中。] より鷄鳴に至る。》。又憲宗佛骨を禁中に迎え入れた時の記に、「初舍利入大内、夜放光明、早朝群臣皆賀曰、聖德所感、韓愈獨不言、上、問愈、愈曰、微臣曾見佛經、佛光は非靑黃赤白等相、此是龍神衞護光云々」《初め、舍利、大内(だいだい)に入るや、夜、光明を放つ。早朝、群臣、皆、賀して曰はく、「聖德の感ずる所なり。」と。韓愈、獨り、言はず。上(かみ)、愈に問ふ。愈、曰はく、「微臣、曾つて佛經を見るに、『佛の光は靑・黃・赤・白等の相(さう)非(あら)ず。』と。此(こ)れは是(こ)れ、龍神衞護の光なり」云々》。此(この)所謂(いはゆる)佛光は僧輩が方術もて佛舍利から夜分光明出る樣(やう)見せたらしい。其を韓愈は眞の佛光とは信ぜなんだが、舍利を衞護する龍の體から出る光と信じたので、先(まづ)は人造の龍燈だ。其から韻府拾遺二五に、「拾遺記、海人乘霞舟、以雕囊、盛數升龍膏、獻燕昭王。王坐通雲臺、然龍膏爲燈火、光曜日、烟色如丹」《「拾遺記」に、『海人、霞舟(かしう)に乘り、雕囊(てうなう)を以つて數升の龍膏を盛り、燕の昭王に獻ず。王、通雲臺に坐し、龍膏を然(も)やし、燈火と爲(な)す。光、日に曜(かがや)き、烟(けふ)りの色は丹(に)のごとし。』と。》。此龍膏燈は何か鯨族(げいぞく)の油膏〔あぶら〕を燈に用ひたのを誇張した譚だらう。字が龍燈と混(まぎ)れ易〔やす〕いから記し置く。さて予が知り得た所、本邦で專ら龍燈と呼ぶ者の異名を列ねて見やう。

[やぶちゃん注:「古印度」底本では不自然に字空けがある(右ページ後ろから二行目。活字落ちと判る)ので、「選集」で「古」を補った。]

「釋迦方誌」「釈迦方志」とも。唐代の高僧道宣(五九六年~六六七年)によって編纂された「封疆篇」・「統摂篇」・「中辺篇」・「遺迹篇」・「游履篇」・「通局篇」・「時住篇」・「教相篇」の八つの篇に分け、仏祖釈迦牟尼の誕生地や、教説流布地などを記述した仏教史跡地誌であり、その内容は、西域、特にインドの地理環境や中インドの交通ルートや経由国、西行求法の人物、仏教の中国伝来に関する史実や伝説、歴代帝王の奉仏事績、各時代の寺院の数や僧尼の人数などの多岐に亙る。中国仏教研究に欠かせない典籍の一つ。

「尼波羅國」ネパールのこと。

「神僧傳」漢籍の仏教僧の伝記らしいが、成立も作者も不詳。

「劉宋」(四二〇年~四七九年)は中国の南北朝時代の南朝の国名。

「吳の虎丘山」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「宗鏡錄」(すぎょうろく)は中国五代十国時代の呉越から北宋初の僧の永明延寿が撰した仏教論書、全百巻。九六一年成立。当該ウィキによれば、『撰者の永明延寿は、雪峰義存の弟子である翠巌令参のもとで出家し、天台徳韶の嗣法となった禅僧である。永明延寿の主著が、本書であり、禅をはじめとして、唯識宗・華厳宗・天台宗の各宗派の主体となる著作より、その要文を抜粋しながら、各宗の学僧によって相互に質疑応答を展開させ、最終的には「心宗」によってその統合をはかるという構成になっている』とある。

「佛祖統記」南宋の僧志磐が一二六九年に撰した仏教史書。全五十四巻。当該ウィキによれば、『天台宗を仏教の正統に据える立場から編纂され』たものとある。詳しくはそちらを見られたい。なお、引用の内、「諸王公主近侍諸臣竝視光相」の「竝」は「選集」では、「皆」となっているが、中文サイトその他を見るに、「並」となっており、採らない。

「子夜」午前零時前後。

「鷄鳴」午前二時頃。

「韻府拾遺」既注。「佩文韻府」を見よ。

「拾遺記」中国の伝承を集めた志怪小説。全十巻。作者は後秦(四世紀)の王嘉。三皇五帝から、西晋末の石虎(せきこ)の事績にまで及ぶが、原本は滅び、現在の「漢魏叢書」等に収められているものは、梁の蕭綺が再編したもの。内容は奇怪で淫乱な話柄が多く、総てが事実ではないとされる。第十巻は崑崙山・蓬莱山などの名山記となっている。王嘉は隴西安陽の出身で、容貌、醜く、滑稽を好んだが、崖に穴居したり、その言動は奇矯であった。後趙の石季竜(せききりゅう=石虎:在位:三三五年~三四九年)の末年、長安に出て、終南山に隠棲したが、その予言はよく当たるとされ、前秦の苻堅(ふけん)が淮南で敗れることを予知したとされる。後秦の姚萇(ようちょう)に召されたが、彼の機嫌を損ねたため、殺された(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

 (山燈)。上に述べた通り。

 (天燈)。趙宋の范成大詩、「山頭一任天燈現」《山頭は 一(ひと)へに天燈の現ずるに任(まか)す》、楊萬里詩、「澄泓無復現天燈」《澄泓(ちようわう)として 復(ま)た 天燈の現ずること無し》(韻府廿五)。南宋末の劉壎(りゆうけん)が書いた隱居通議三十に神怪窈冥(しんかいえうめい)と題して、「廬阜天池、則見文珠天燈、西蜀峨眉、則見普賢天燈」《廬阜(ろふ)の天池には、則ち、文珠の天燈を見、西蜀の峨眉には、則ち、普賢の天燈を見る。》。龍火と龍燈と同じきに反し、天火と天燈とは別だ。「人火曰火天火曰災」《人火は火と曰ひ、天火は災と曰ふ。》(淵鑑類函三五九、左傳を引く)。天火は人爲(じんゐ)に出(いで)ず、天然に生ずる總ての火を云ふた名だらうが、主として天より落つる隕石の火を云うたらしく、卽ち日本でも俗にテンビと呼ぶ。上に引いた本草網目火の分類中所謂星精の飛火だ。異苑、「晋義煕十一年、京都火災大行、吳界尤甚。火防甚峻、猶自不絕。時王弘守吳郡、晝座廳視事、忽見天上有一赤物下、狀如信幡、遙集南人家屋、須臾火遂大發、弘知天爲災、故に不罪始火之家、識者知晋室微弱之象也」《晉の義煕十一年、京都(けいと)、火災、大いに行はれ、吳界、尤も甚だし。火防、甚だ峻(きび)しけれど、猶ほ自(おのづ)と絕えず。時に王弘、吳郡に守(しゆ)たり。晝(ひる)、廳に坐して事を視るに、忽ち、天上より、一つの赤き物の下(お)つる有るを見る。狀(かたち)は信幡(しんぱん)のごとし。遙かに南人(なんじん)の家屋に集まり、須臾(しゆゆ)にして、火、遂に、大いに發す。弘、天の災ひを爲すを知り、故に火を始めし家を罪(つみ)せず。識る者、晉室の微弱となれる象(きざし)と知れり。》(類聚名物考三三七、天火)。佩文韻府五〇に、史記孝景紀、三年長星出西方、天火燔雒陽東宮大殿城室。蜀志劉焉傳、劉焉爲益州刺史、志意漸盛、造作乘輿車具千餘乘、後被天火燒城、車具蕩盡。竹書紀年、武王將伐紂、天火流下、應以告也云々。易林、天火大起、飛鳥驚駭《「史記」の「孝景紀」に、『三年、長星(はうきぼし)、西方に出でて、天火、雒陽(らくやう)の東宮・大殿・城室を燔(や)く。』と。「蜀志」の「劉焉傳」に、『劉焉、益州の刺史と爲(な)る。志意、漸(やうやう)盛んにして、乘輿の車具千餘乘を造作(ざうさく)す。後、天火に城を燒かれ、車具、蕩盡す。』と。「竹書紀年」に、『武王、紂を伐たんとするや、天火、流れ下る。應(わう)じて以つて告ぐるものなり』云々。「易林」、『天火、大いに起こり、飛鳥、驚駭(けいがい)す。』と。》等の例を擧げたは、何れも奔星(ながれぼし)が飛び隕(お)ちて火災を生じ若くは人畜を騷がせたのだ。東鏡一二に「建久三年四月三十日丑尅、若宮職掌紀藤太夫宅燒亡、不移他所、諸人走集之處、家主云、是非失火放火等之疑。偏存天火之由云々」《建久三年四月三十日丑の尅(こく)、若宮の職掌(しきしやう)紀藤大夫(きのとうだいふ)が宅、燒亡(しやうばう)す。他所(たしよ)へ移らず。諸人(しよにん)、走り集まる處、家主云はく、「是れ、失火・放火等の疑ひに非ず。偏(ひと)へに、天火の由(よし)を存ず。」と云々》。後文に據ると、翌日藤太夫狂亂して、實は或女を口說(くど)いたが、鶴が岡の宮に納むべき神鏡が自宅に在るを憚るとて聽入(ききい)れぬ故、彼女の宅と思ひ放火したら自宅ぢやつたと自白したので、賴朝神威の嚴重なるに驚き鶴岡上下宮(じやうげぐう)へ神馬二疋を獻じた、と有る。さて福本日南に曾て聞いたは、筑前の俗傳に隕星(ゐんせい)[やぶちゃん注:隕石。]が落ちた人家はいたく衰えるか、きわめて繁昌するかだと云ふ、と。

[やぶちゃん注: 「神怪窈冥」(しんかいようめい:現代仮名遣)人為を超えた不可思議なものは奥深くて測り知ることの出来ないことを言う。

「廬阜天池」現在の新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州阜康市にある天池(天山天池・新疆天池とも呼ぶ)。ボゴダ山の北麓にある氷河湖で、西王母神話や宗教的でユニークな民族民俗・習慣で知られ、その景色は絶佳とされる。

『異苑、「晋義煕十一年、京都火災大行……」底本に明らかに誤りが複数あることが素人の私にも感じられた。そこで「中國哲學書電子化計劃」の「異苑」の影印本の当該部で特異的に訂した。一々挙げないが、比較されたい。「異苑」は六朝の宋代の説話集。全十巻。劉敬叔撰。現存のテキストは明代に改編集されたもので、『津逮秘書』及び『学津討源』という二つの叢書に収録されいるものが最もよく纏まっている。六朝時代に数多く著された志怪小説の一つで、当時の人物に関する怪奇な挿話や、民間に伝わる超自然的な説話から仏教説話にも亙り、他の志怪物と比べ、かなり多彩である。著者劉敬叔は彭城(ほうじょう)県(現在の江蘇省)の人で、宋に仕え、文帝の時、拝謁・奏上の取次などを掌った給事黄門郎となり、泰始年間(四六五年~四七一年)に病没したと伝えられる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。私の非常に好きな作品である。【二〇二二年四月十二日追記】先のT氏より、『熊楠は類書からの引用を正しく書いていますが、そのため、類書の間違いがそのまま反映されます。この「異苑」の一寸変なのは、「類聚名物考」三百三十七雑十二「災異」の「〇天火」から取っているためです。』とお教え下さり、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を添えて下さった。ここである。再拝謝意を申し上げる。

「晉の義煕十一年」東晋の元号。四一五年。

「京都」東晋の首都は建康(南京の古称)。

「吳界」呉郡との堺の意。

「信幡」印とする旗。

「南人」賤人の意か。

「類聚名物考」既注。国立国会図書館デジタルコレクションのここ

「東鏡一二に「建久三年四月三十日丑尅、若宮職掌紀藤太夫宅燒亡……」これも底本に引用の不備があるので所持する「吾妻鏡」によって訂してある。この話、「吾妻鏡」では、かなりけったいな話の一つとして、かなり知られたものである。一つはこの年の三月に後白河法皇が崩御し、同年七月十二日に即位した後鳥羽天皇によって頼朝が征夷大将軍に任ぜられた、その絶妙なインター・ミッションの時期に当たるからである。実は、この日の前日の記載に(以下、本文の後ろに( )で書き下し文を示した)、

   *

廿九日庚午。大流星飛行云々。天文所示。吉凶難定者歟。

(廿九日庚午(かのえむま)。大流星(だいりゆうせい)、飛行(ひぎやう)すと云々。天文(てんもん)の示す所は「吉凶、定め難き者か」と。)

   *

という異変が記されてあって(「天文」は天文学的変異を占う天文家)、次が深夜丑三つ時の鶴岡八幡宮の神楽を演ずる役の者であった「紀藤大夫」の家が焼け落ち、彼がまた、異様にも自ら、「これは、絶対に、天の神がつけた火で御座る。」と言ったというのである。而して、熊楠が述べる通り、実は、そのまた翌日の記事に、

   *

五月一日壬申。鶴岡宮備供祭。巫女職掌等群參。而紀藤大夫俄以狂亂。吐詞云。見小壺楠前【在町末邊女云々。】日來通艶言之處。奉鑄神鏡。安家中。近日欲持參于鶴岡宮之由稱之。不許容之間。去廿九日夜。雖欲令燒彼家。依指合默止畢。去夜取松明。出行之時。思彼女宅之由。燒自宅云々。則義慶房。題學房加持之云々。

(五月一日壬申(みづのえさる)。鶴岡宮に供祭(ぐさい)を備(そな)ふ。巫女・職掌等、群參す。而(しか)るに、紀藤大夫、俄かに以つて狂亂し、詞(ことば)を吐きて云はく、

「小壺の楠前【「町末(まちすゑ)の邊りに在る女と」云々。】〕を見て、日來(ひごろ)、艶言(つやごと)を通ずるの處、『神鏡(しんきやう)を鑄(い)奉りて、家の中(うち)に安(やす)んず。近日(きんじつ)、鶴岡宮に持參せんと欲する。』の由、之れを稱して、許容せざる間(あひだ)、去(いん)ぬる廿九日の夜、『彼(か)の家を燒かしめん。』と欲(ほつ)すと雖も、指合(さしあひ)に依つて、默止し畢(をは)んぬ。去ぬる夜、松明(たいまつ)を取りて、出で行くの時、彼(か)の女の宅の由を思ひて、自宅を、燒く。」

と云々。

 則ち、義慶房・題學房、之れを加持すと云々。)

   *

という大珍事が起こったのであった。「供祭」は神仏へ御供え物をして祀ることを指す。「小壺」は現在の逗子市小坪。頼朝が開幕以来最大の危機を迎えた『「亀の前」事件』で彼女を最初に隠していたのも、実は、ここであったのである。私のサイト版「新編鎌倉志卷之七」の「飯島」の条を読まれたい。「指合に依て默止し」とは「差し支えることがあったので止めた」の意。或いは先の「大流星」が気になったのかも知れない。この発狂(神職である者の過度の淫欲の罰が当たったと概ね考えられたのであろう)や自宅への火付け、そうして、その実行予定日の大流星の符合が、頼朝を始めとした幕閣や、鎌倉の民草総てに、神意の恐ろしさを告げたものとなり、その神の怒りを鎮めんがために、最後の加持祈禱が修せられたというわけである。寧ろ、私は、先に太字にした部分から、女好きであった頼朝にとっては、トラウマのフラッシュ・バックされる事件であったと踏んでいるのである。そうして、未だ到来しない征夷大将軍の宣旨に対する焦燥感も加わってくれば、我々の想像以上の恐懼を頼朝は感じたに違いないと私は考えるのである。それが意想外に深刻なものとして頼朝に捉えられていたことは、熊楠が記している通り、その発狂事件から、十一日後の、五月十二日の条に、

   *

十二日癸未。幕下令奉神馬二疋於鶴岡上下宮給。是紀藤大夫所爲聞食及間。神威巖重。今更依有御崇重。如此云々。

(十二日癸未(みづのとひつじ)。幕下、神馬二疋を、鶴岡上・下宮に奉らしめ給ふ。是れ、紀藤大夫が所爲(しよゐ)を聞(き)こし食(め)し及ぶの間(あひだ)、神威の巖重、今更に、御崇重(ごすうちやう)有るに依りて、此(か)くのごとしと云々。)

   *

ことからも、よく判ると私は感ずるのである。言っておくと、鎌倉史は私の三十五年来の守備範囲で、ど素人ではない。

「福本日南」(にちなん 安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)はジャーナリスト・政治家・史論家。ウィキの「福本日南」によれば、勤王家の福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生まれた。本名は福本誠。司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学したが、「賄征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で原敬・陸羯南らとともに退校処分となった。その後、『北海道やフィリピンの開拓に情熱を注ぎ』、明治二一(一八八八)年、同じ『南進論者である菅沼貞風と知友となり、当時スペイン領であったフィリピンのマニラに菅沼と共に渡ったが、菅沼が現地で急死したため、計画は途絶した』。『帰国後、政教社同人を経て』、翌明治二十二年には陸羯南らと『新聞『日本』を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。日本新聞社の後輩には正岡子規がおり、子規は生涯日南を尊敬していたという』明治二十四年には、発起人の一人となって『アジア諸国および南洋群島との通商・移民のための研究団体である東邦協会を設立』、『その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる』明治三八(一九〇五)年、『招かれて』、『玄洋社系の「九州日報」(福陵新報の後身、西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任』、二年後の第十回『衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し』て当選した。一方、同年に「元禄快挙録」の連載を『九州日報』紙上で開始している。これは『赤穂浪士称讃の立場にたつ日南が』、「忠臣蔵」の『巷説・俗説を排して』、『史実をきわめようと著わしたものであり、日露戦争後の近代日本における忠臣蔵観の代表的見解を示し』、『現在の』「忠臣蔵」の『スタイル・評価を確立』したものとされる。彼は明治三一(一八九八)年から翌年にかけて、パリやロンドンに滞在しており、ロンドンでは、南方熊楠と出会い、この時の交遊を描いた随筆「出てきた歟(か)」を明治四三(一九一〇)年に『大阪毎日新聞』に連載、これがまさに熊楠を日本に初めて紹介した記事であるとされるのである。]

 

 (神燈)。唐の釋道宣の列塔像神瑞迹に、「簡州三學山寺、有佛跡、每夜神燈在空、遠見近滅、至大齋夜、其燈則多」《簡州の三學山寺に、佛跡有り。每夜、神燈、空に在り、遠きは見え、近きは滅(き)ゆ。大齋(だいさい)の夜に至れば、その燈、則ち、多し。》。淵鑑類函三六〇に、「孔帖、唐玄宗朝謁亳州太淸、上尊號、是夜神燈現」《「孔帖」に、『唐の玄宗、亳州(はくしう)の太淸に朝謁し、尊號を上(たてまつ)らる。是(こ)の夜、神燈、現ず。』と。》。韻府二五に、朱子の方廣聖燈の詩、「神照燈夜惟聞說、皓月當空不用尋」《神燈 夜を照らすこと 惟(た)だ聞說(ぶんせつ)するのみ 皎月 空に當りて 尋ぬるを用いず》。是で聖燈神燈は同一物と判る。

[やぶちゃん注:「釋道宣の列塔像神瑞迹」初唐の律宗僧で南山律宗の開祖である道宣(五九六年~六六七年)の「広弘明集」(こうぐめいしゅう)の中の巻十五の「仏徳篇」中の一篇らしい。

「簡州」唐代から民国初年にかけて現在の四川省成都市簡陽市(グーグル・マップ・データ)一帯に置かれた州。

『朱子の方廣聖燈の詩、「神照燈夜惟聞說、皓月當空不用尋」』底本では「神」は「仙」であるが、朱熹の詩篇文字列で検索したところ、複数の信頼出来るサイトで「神」であることが判ったので、訂した。]

 

 (仙燈)。韻府二五、丁復送僧過廬山《僧の應山を過ぐるを送る》詩に、「仙燈夜半天人落、佛屋春深海客過」《仙燈 夜半に 天人 落ち 佛屋 春深くして 海客 過ぐ》。隱居通議の、廬阜の文珠の天燈を云ふのだ。

[やぶちゃん注:「丁復」元代の詩人。この詩は中国ではよく知られている詩のようである。]

 

 (文珠燈)韻府二五に、周必大天池觀文珠燈(天池に文珠燈を觀る)詩を抄載す。倭漢三才圖會七七、天の橋立の松林の中有文珠堂、自海底出現云々、每月十六日夜半後、丑寅方海澳出龍火、浮寄堂北邊、正五九月十六夜則一火天降、謂天燈、又一燈者名伊勢御燈者、堂前有松一株、名御燈松(拾芥抄云、智恩寺ハ丹後九世文珠、天龍六齋供燈明云々)《「松林の中に文珠堂有り。海底より出現ありし」云々。「每月十六日の夜半の後(のち)に、丑寅の方の海-澳(をき)より、龍火を出だす。堂の北邊に浮き寄る。正・五・九月の十六夜には、則ち、一火、天より降(くだ)る。之れを「天燈」と謂ふ。又、一燈、「伊勢の御燈」と名づくる者有り、堂の前に松一株有り、「御燈」の松と名づく【「拾芥抄」に云はく、『智恩寺は丹後九世の戶の文珠。天龍、六齋、燈明を供(きよう)す』云々)】。》妙法蓮華經の提婆達多品に、智積(ちしやく)菩薩、多寶如來に本土寶淨國に還らんことを勸めると、「釋迦牟尼佛、告智積曰、善男子、且待須臾、此有菩薩名文珠師利、可與相見、論說妙法、可還本土、爾時文珠師利坐千葉蓮華、大如車輪、俱來菩薩亦坐寶蓮華、從於大海裟竭羅龍宮、自然涌出、住虛空中、詣靈鷲山」《釋迦牟尼佛、智積に告げて曰はく、「善男子、且つ、須臾(しばら)く待て。此(ここ)に菩薩有り、『文珠師利(もんじゆしり)』と名づく。共に相ひ見るべく、妙法を論說して、本土に還るべし。」と。爾(そ)の時、文珠師利は、千葉(せんえふ)の蓮華、大なること、車輪のごときに坐す。俱(とも)に來たりし菩薩も、亦、寶蓮華(はうれんげ)に坐し、大海の裟竭羅龍宮(しやかつらりゆうぐう)より自然に涌き出だし、虛空の中(うち)に住み、靈鷲山(りやうしゆうせん)に詣(いた)る。》。其から智積が法華經の力を問ふに答へて、娑竭龍王の女(むすめ)八歲なるが、此經を持した功德で忽ち男子(なんし)と化(な)り成佛した由を述べ居る。この他にも、諸經に天と龍が文珠を敬禮する話多く、ネパウル國[やぶちゃん注:ネパール。]の古傳に、初め毘婆尸佛〔ヴイバシイぶつ〕が龍住池〔ナガヴアサ〕に蓮を種えると、獨一法身〔アジブツダ〕[やぶちゃん注:四字へのルビ。]が其蓮華から火熖身〔ジヨチルブブツダ〕を化出〔けしゆつ〕し、此火今に燃居(もえを)る。唯一法身〔アヂブツダ〕の后〔きさき〕般若水〔プラジユナ〕と現〔げん〕じた時、火熖佛出(いで)て來たので、文珠菩薩かの聖火(乃(すなは)ち火熖佛)の上に無骨身塔〔チアイチア〕を建てんとするに水出(いで)て止まず、石を据(すゑ)る事成らず。文珠精誠念誦して甫〔はじ〕めて水止まり、塔を築(きづ)き得たと有る(一八四二年板ベンガル亞細亞協會雜誌卷一二、ホジソン譯ネパール國經四〇二頁)。何だか夢の樣な譚だが、彼國でも文珠は多少龍と火に關係ある證〔あかし〕とは成る。此樣(このやう)に文珠と龍と緣が切れぬ所から、切戶(きれと)(一名九世戶(くせのと))へ天燈など點(とも)ると云ふたので、此等の名は文珠燈と俱に支那傳來に外ならじ。

[やぶちゃん注:「倭漢三才圖會」は所持する原本と比較対照した。【 】で示したのはその原本の二行割注部である。]

 

 (聖燈)。田中由恭の祇園南海先生詩集三、「遊紀三井山」《紀(き)の三井(みゐ)に遊ぶ》詩、「昌國一燈傳聖燄」《昌國(しやうこく)の一燈 聖燄(しやうえん)を傳ふ》の句の注に、「補陀落山在昌國縣海中、其八景中有洛伽燈火蓮洋古渡」《補陀落山(ふだらくさん)は昌國縣の海中に在り。其の八景の中(うち)に、洛伽(らくか)の燈火、蓮洋の古き渡し、有り。》。この洛伽燈は果して紀三井山の龍燈と同樣の物か否か分らぬが、兎に角南海が紀三(きみ)の龍燈を聖燄と做〔し〕たのは、支那で龍燈を聖燈と呼ぶ例あるに據つたので、上に引いた廣輿記に、蓬州の山燈の最も異なる奴〔やつ〕を「土人呼爲聖燈」《土人、呼んで聖燈と爲す。》とあり、朱子の方廣聖燈の詩も、上の神燈の條に既に言うた。韻府二五、宋史渤海國傳、「拜聖燈五臺之上」《聖燈を五臺の上に拜す》、また上[やぶちゃん注:「の」の脱字か。]廬山紀事、「天池文殊院西、有聖燈巖」《天池は文殊院の西。聖燈巖有り。》、また淸凉山志(せいりやうさんし)、「張商英來游、至眞容院、僧曰、此處有聖燈、商英乃稽首默禱、酉後見黃金寶階、戌初北山有大火炬、僧曰、聖燈也」《張商英、來游して眞容院に至る。僧曰はく、「此處(ここ)に聖燈有り。」と。商英、乃(すなは)ち、稽首默禱す。酉(とりのこく)の後、黃金の寶階を見、戌(いぬのこく)の初め、北山に大火炬(だいくわきよ)有り。僧曰はく、「聖燈なり。」と。》、孔武仲宿天池《天地に宿(しゆく)す》詩、「聖燈稍々出、弄影何窈窕」《聖燈は稍々(しようしよう)と出(い)で 影を弄ぶこと 何ぞ窈窕(えうちやう)たる》。慈覺大師入唐求法巡禮行記三に、五臺山に上った時、「初夜臺東、隔一谷嶺上、空中見聖燈一盞、衆人同見禮拜、其燈光初大如鉢許、後漸大如小屋、大衆至心高聲唱大聖號、更有一盞燈、近谷現、亦初如笠而漸大、兩燈相去遠望十丈許、燈火熖然、直至半夜沒而現矣」《初夜[やぶちゃん注:午後六時から九時頃。]、臺の東、一谷を隔つる嶺上に、空中に聖燈一盞(せん)[やぶちゃん注:ここは「一つの小さな盃ほどの丸い光りの球」の意。]あるを見る。衆人(しゆじん)、同じく見て禮拜(らいはい)す。其の燈光、初め、大いさ、鉢許(ばか)りのごとく、後(のち)、漸(やうやう)、大いさ、小屋のごとし。大衆は、至心もて、高聲に「大聖(たいせい)」の號(みな)を唱(とな)ふ。更に、一盞の燈、有り、谷に近く現(げん)ず。亦、初め、笠のごとくして、後、漸、大(だい)たり。兩燈、相ひ去ること、遠く望むに、十丈許り、燈火、熖然(えんぜん)として、直(ぢき)に半夜に至り、沒して、現ぜず。》。是は羅馬人の所謂カストル及ポルクスの火だらう(下を見よ)。大淸一統志一四八、「商州聖燈龕、在鎭安縣北三十里、相傳每良夜、常見燈懸崖畔因名」《商州の聖燈龕(しやうとうがん)は鎭安縣の北三十里に在り。相ひ傳ふ、良夜每(ごと)に、常に、燈の、崖畔(がいはん)に懸かるを見る、因つて名づくと。》。前述支那土耳其斯坦[やぶちゃん注:「トルキスタン」。]の燈巖〔ランプ・ロツク〕の如く、月明かな夜每に其光を反射して點燈した樣見えるのであらう。

[やぶちゃん注:「淸凉山志」明の釈鎮澄撰の山西省五台県の東北にある五台山の仏教的地誌かと思われる。なお、この「淸凉山志」中の「酉後見黃金寶階」の「階」は底本も「選集」も「堦」であるが、信頼出来る複数のサイトで「階」とするので、そちらを採用した。

「カストル及ポルクスの火」双子座のことであろう。ポリュデウケースはボクシングの名手で、兄のカストールと協力し、数々の手柄をたてた。ポリュデウケースは神の血を受け継いで不死身だったが、人間だった兄が戦死してしまい、神に慈悲を乞うて、兄とともに天にいることを許されたというローマ神話がある(ウィキの「ポリュデウケース」に拠った)。]

 

 (菩薩燈)。斯樣〔こん〕な名は無いが、龍燈を菩薩が空中に放光すと見たのだから、此名を用ひても差支(さしつかへ)なからう。宋高僧傳一五、唐朝の僧鑑源の傳に、「其山寺(漢州開照寺)云々、有慧觀禪師、見三百餘僧、持蓮燈凌空而去、歷々若流星焉、開元中崔冀公寧疑其妖妄、躬自入山宿、預禁山四方面各三十里火光、至第三夜、有百餘支燈現、兼紅光可千尺餘、冀公蹷然作禮、歎未曾有、時松間出金色手、長七尺許、有二菩薩、黃白金色閃爍然、復庭前柏樹上、晝現一燈、其明如日、橫布玻瓈山可三里所、寶珠一顆圓一丈、熠爚可愛、西嶺山門懸大虹橋、橋上梵僧老叟童子間、出有二炬爛然空中、如相迎送交過之狀、下有四菩薩、兩兩偶立、放通身光、可高六七十尺。復見大松林、後忽有寺、額篆書三學字、又燈下埀繡帶二條、東林之間夜出金山、月當于午、金銀二色燈、列於知鉉師墳側、韋南康臯、每三月就寺設三百菩薩大齋、菩薩現形捧燈、僧持香燈、引挹之爐、在寺門矣《「其の山寺(漢州の開照寺)」云々、「慧觀(ゑくわん)禪師有り、三百餘の僧、蓮燈を持して空(そら)を凌(わた)りて去るを見る。歷々として流星のごとし。開元中、崔冀公(さいきこう)、「寧(なん)ぞ、其れ、妖妄(えうまう)ならんや。」と疑ひ、躬-自(みづか)ら山に入りて宿(しゆく)し、預(あらかじ)め、山の四方面、各々、三十里[やぶちゃん注:唐代の一里は五百五十九・八メートル。十六・七九四キロメートル四方。]の火光を禁ず。第三夜に至りて、百餘支の燈、現じ、兼ねて、紅光、千尺餘たり。冀公、蹶然(けつぜん)として禮を作(な)し、「未だ曾てあらず。」と歎ず。時に松の間(あひだ)に、金色の手、長さ七尺許(ばか)りなるが、出づ。二菩薩、有りて、黃・白・金、色、閃爍(せんしやく)たり[やぶちゃん注:明るく照り輝くさま。]。然(しか)るに、又、庭前の柏樹の上に、晝、一燈を現(げん)ず。其の明るきこと、日のごとく、橫ざまに玻瓈(はり)[やぶちゃん注:「玻璃」に同じ。水晶。]を布(し)く。山の三里の所に、寶珠、一顆あり、圓(まろ)さ一丈、熠爚(しふやく)[やぶちゃん注:はっきりと光り輝く火の光り。]として愛すべし。西嶺の山門には、大虹橋、懸かり、橋上に梵僧・老叟(らうさう)・童子、間(まじ)はりて出づる。二つの炬あり、空中に爛然として、相ひ迎へ送りて、交はり過(す)ぐる狀(さま)のごとし。下に四菩薩有りて、兩々(ふたつなが)ら偶(なら)びて立ちて、通身(つうしん)、光を放つ。高さ六、七十尺ばかりなり。復(ま)た、大松林の後ろに、忽ち、寺額有るを見る。「三學」の字を篆書し、又、燈下に繡(ぬひとり)の帶二條を埀(た)る。東林の間には、夜、金山を出だす。月の午(みなみ)するに當たりて、金銀二色の燈、知鉉(ちげん)師の墳(はか)の側(かたは)らに列(なら)ぶ。韋南康皐(いなんこうこう)[やぶちゃん注:「韋皐」は唐代の官人の姓名。「南康」は地名であろう。ちょっと珍しい表記である。]、三月每(みつきごと)に寺に就いて三百菩薩の大齋(たいさい)を設(まう)くるに、菩薩、形を現じて、燈を捧ぐ。僧、香燈を持(じ)し、引き挹(うつ)したる鑪(ろ)、寺門に在り。」と。》。餘り大層な話で、どうも僧輩が結構〔しくん〕でした事としか解し得ぬが、菩薩が燈を捧げて出た時、僧が香爐(線香か)を以て其火を香爐に挹〔うつ〕し、今に寺門に存すと云ふのは、後文に出すべきエルサレムの聖火の事と同じである。

[やぶちゃん注:この長大な引用については、「中國哲學書電子化計劃」の「宋高僧傳」の影印本の当該条を視認し(引用の開始は次の丁から)、底本とも「選集」とも違うより正確と判断した原文を示した(表記はその影印本に従った)。また、訓読も私がよしとする読みで示した。読んでいて、最後の「鑪」がよく判らなかったのだが、熊楠が指示する「香爐」で腑に落ちた。なお、「宋高僧傳は唐・五代・北宋初期の高僧の伝記を集めた書物で、全三十巻。北宋の賛寧による奉勅撰にして九八八年に成立したものである。]

 

 斯種々の支那名が有り、又本邦と同物を指す龍燈なる名が確かに支那に在つたと云ふ證據は未だ見出さぬが、便宜の爲以下書物から引く每に各(おのおの)其書に用ひた通りの火の名を用ひ、一汎に法類の火を指す時は龍燈の名を用ひる事とする。

[やぶちゃん注:「法類」は「選集」では『この類』となっている。しかし、前出の不思議な「火」は圧倒的に仏教絡みであるからして、「法」でも何ら違和感はない。但し、中国や本邦のそれらの中には、怪火(くわいくわ)として、凶悪なものもある。ただ、それらを「龍燈」とは区別して絶対にそうは呼ばないし、ある種の怪火の伝承には、この世に怨念や未練を残した亡者が悪鬼となって怪火を成すというストーリーも多く見られ(仏の慈悲で目出度く往生する話もある)、これもまた、仏教範疇の辺縁にあるものも多い。]

 

 扨(さて)龍燈は、多くは高空中又は樹とか塔とか高い物の尖〔さき〕へ出る樣だ。吾邦の例は尾芝君既に擧げたから今更復言はずとして、續高僧傳四に、摩竭陀〔まかだ〕國の鷄足山(けいそくせん)、「頂樹大塔、夜放神炬、光明通照、即大迦葉波寂定所也」《頂きに大塔を樹(た)つ。夜、神炬を放ちて、光明、通(あまね)く照らす。即ち、大迦葉波(だいかせうは)の寂定(じやくじやう)せる所なり。》。西域記九には、山上に塔を建つ、靜かな夜これを遠望すると炬(たいまつ)のごとき明光有るも、山を登れば何も見えぬと有る。三寶感通錄二に、「簡州三學山寺有佛跡、常有神燈、自空而現、每夕常爾、齋日則多、州宰、意欲尋之、乘馬來寺、十里已外、空燈列現、漸近漸昧、遂竝失之、返還十里、如前還現、至今不絕」《簡州の三學山寺に佛跡有り。常に神燈の空よりして現ず。每夕、常に爾(しか)り。齋日は、則ち、多し。州宰(しうさい)、之れを尋ねんとする意を欲(ほつ)し、馬に乘りて寺に來たる。十里已外より、空燈、列(なら)び現じ、漸(やうやう)近づけば、漸、昧(くら)く、遂に、竝びて、之れを失ふ。返-還(かへ)ること十里、前(さき)のごとく、復た、現ず。今に至るも絕えず。》。隋の王劭(わうせう)の舍利感應記に、「蒲州、栖嚴寺起塔(仁壽元年の事)。十月十三夜、浮圖上又有光、如三佛像、竝高尺、停住久之」《蒲州、栖嚴(せいがん)寺に塔を起つ(仁壽元年の事)。十月の十三夜、浮圖の上に、又、光り有り、三佛の像のごとく、竝びの高さ尺にして、停住すること之れを久しうす。》。此塔より夜分光を出(いだ)す、「諸光多紫赤、而見者色狀不必同、或云大電、或云如燎火、其都無所見者十二三、有婦人、抱新死小兒、來乞救護、至夜便蘇、遇燈光照以愈疾者非一」《諸光、多く、紫赤にして、見る者、而して、色・狀、必ずしも同じからず。或いは大電(いなづま)のごとしと云ひ、或いは燎火(かがりび)のごとしと云ふ。その都(すべ)て見ることなき者は、十に二、三なり。婦人有り、新たに死せし小兒を抱き、來たつて救護を乞ふに、夜に至りて、便(すなは)ち、蘇(よみがへ)る。光の照らすに遇ひて以つて疾ひを愈(いや)せし者、一(ひとり)のみに非(あら)ず。》。見る人の說も一定せず全〔まる〕で見ぬ人も有り、又光に照されて病愈えたなど群集錯誤が流染したと見える。又云く、「鄭州於定覺寺起塔、舍利將至寺東、有光如大流星、入至佛堂前沒、輿到此處、無故自止、既而定塔基於西岸、其東岸舊舍利塔、有三光、西流入於基所入云々」《鄭州(ていしう)、定覺寺に塔を起つ。舍利、將に寺の東に至らんとしするに、光、有り、大流星のごとし。入りて佛堂の前に至りて、沒(き)ゆ。輿(こし)、此の處に到りて、故無くして自(おのづか)ら止まる。既にして、塔基を西岸に定む。其の東岸の舊舍利塔に、三光、有り、西に流れて基(もと)の所に入る云々》。これは流星の花火でも仕掛けて愚人共を欺いたのであらう。續高僧傳四、「烏荼國東境、臨海有發行城云々、次南大海中僧伽羅國有云々。相去約指二萬餘里、每夜南望、見彼國中佛牙塔上寶珠、光明騰焰、暉赫見於天際」《烏荼國(うだこく)の東の境、海に臨みて、發行城、有り云々、次いで、南の大海中に僧伽羅國(そうぎやらこく)有り云々。相ひ去ること約(おほよ)そ指すに二萬餘里。每夜、南望すれば、かの國中の佛牙塔上の寶珠、光り明(かがや)きて焰を騰(あ)げ、暉(て)り赫(きら)めきて天際に現ずるを見る。》。是も高塔上に强い光を仕掛〔しかけ〕で出(いだ)した事と見えるが、塔が時に異光を放つと云ふ事古くより人心に浸潤し居たは、高僧傳一に、「晉の咸和中蘇峻作亂、焚康僧會所建塔、司空何充復更修道造、平西將軍趙誘世不奉法、夢入此寺、謂諸道人、久聞此塔屢放光明、虛誕不經、所未能信、若必自覩、所不論耳、言竟塔卽出五色光、照耀堂刹、誘肅然毛竪、由此信敬」《晉の咸和中、蘇峻、亂を作(な)し、康僧會(こうそうゑ)の建てし所の塔を焚(や)く。司空何充、又、更に、修造す。平西將軍趙誘、世に法を奉(ほう)ぜず。夢に、この寺に入りて、諸道人に謂ふ、「久しく聞く、『此の塔、屢(しばしば)光明を放つ。』と。虛誕不經(きよたんふけい)にして、未だ信ずる能(あた)はざる所なり。若(も)し、必ず、自(みづか)ら覩(み)れば、論ぜざる所とすのみ。」と。言ひ竟(をは)るや、塔、卽ち、五色の光を出だし、堂刹を照り耀かす。誘、肅然として、毛(け)竪(た)つ。此れに由りて、信敬す。》。居常(いつも)、塔頂放光のことを聞いて自然心(こころ)に浸(し)んで居たから、疑ひながらも夢に見たのだ。

[やぶちゃん注:以上の漢籍仏典は概ね日中の「大蔵経」のデータベースで原表記を確認して底本を訂した。

「吾邦の例は尾芝君既に擧げた」『尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」』を参照されたい。

「續高僧傳」梁の慧皎(えこう)の「高僧伝」に続けて撰せられた中国の高僧の伝記集。盛唐の道宣(五九六年~六六七年)撰で、全三十巻。六四五年の成立である。

「摩竭陀〔まかだ〕國」「マガダ」国は古代インドのガンジス川中流域を支配した王朝名。紀元前六世紀から紀元前五世紀頃から栄えた。

「鷄足山」伽耶(がや)城の南東にあり、釈迦の弟子迦葉が入寂したと伝えられる鶏足洞がある。ククタパダ山。現行ではここ(グーパ山:グーグル・マップ・データ)に比定されているようだが、しかし、ここは逆立ちしてもガンジス川中流とは言えない。

「三寶感通錄」「集神州三寶感通錄」。同じく道宣によって編纂されたもの。

「王劭」(?~六〇八年?)は隋の学者。字は君懋(くんぼう)。山東省太原の出身。著作郎・秘書少監を歴任し、道教と仏教を交えた教理により、「真人革命」を説き。「皇隋霊感誌」を著わした。

「蒲州」南北朝時代から民国初年にかけて現在の山西省運城市(グーグル・マップ・データ)一帯に設置された州。

「仁壽元年」隋の文帝楊堅の治世に行われた二番目の元号で元年は六〇一年。

「鄭州」現在の河南省の省都である鄭州市附近(グーグル・マップ・データ)。三千五百年前の商(殷)王朝の都邑があったことで知られる。

「烏荼國」東インドの旧国名。

「僧伽羅國」現在のスリランカ。

「晉の咸和中」南北朝時代の東晋の成帝司馬衍の治世に行われた最初の元号。三二六年~ 三三四年。

「蘇峻」(そしゅん ?~三二八年)は東晋の武将。当該ウィキによれば、『西晋末期の動乱による流民を糾合して豪族として台頭し、東晋の建国と共に官位を得て軍功を挙げた。しかし』、『後に東晋朝廷からの警戒が強まると』、『朝廷への反乱を起こし(蘇峻の乱)、首都建康を陥落させるまでに至ったが、その後の会戦』で、『優勢に驕って少数の兵で敵陣へと攻め込んだ結果、落馬して戦死した』とある。

「康僧會」(?~二八〇年)は三国時代の呉の訳経僧。当該ウィキによれば、先祖は康居(嘗て中央アジアにあったとされる遊牧国家)の人で、『インドに住んでいた。僧会の父親は商人であり、交阯(ベトナム)に渡った』。『父母に死別し、その後、出家修道を始めた。また、天文学・讖緯の学にも通じていた』。二四七年、『呉の都の建業に入り、孫権の支持を得て、江南地方で最初の仏教寺院の建初寺を建立した、とされている。但し、康僧会に先立って、支謙が既に』二十『年以上前に江南に宣教していることを考えると、この建初寺のエピソードは、僧会を讃仰するために出来た俗説とも考えられる。また、交阯では江南より早く仏教が伝わっていたことから、ベトナム』の『建初寺』『が先に建立されたという前提で、名前を取ったという説もある』。『その後、経典の漢訳に従事し、中でも』、「六度集経」は『訳経されたものではなく、康僧会自身の著述であろうと考えられている』。『また、孫晧との間で繰り広げられた、因果応報に関する対論が、その伝記に記載されており、初期の中国仏教と儒教的な観念との接触、交渉の端緒として、見るべきものがある』とある。

「平西將軍趙誘」(?~三一七年)は西晋末期から東晋初期の官僚で軍人。当該ウィキによれば、『淮南郡の人』で、『西晋末期からの反乱討伐で活躍するも、最期は杜曾に敗れて討死した』。『西晋に仕え、揚州刺史郗隆』(きりゅう)『の主簿に任じられていた』。三〇一年三月、『趙王司馬倫の専横を打倒すべしとの斉王司馬冏』(しばけい)『の檄文が揚州に至った。郗隆は檄文に応じるべきか、吏僚を召し出して問うた。趙誘と虞潭は「趙王の簒逆の意は、皆憎むところであり、四方から義兵が起ち、必ず趙王を破るでしょう。自ら精兵を率いて許昌に赴くのが上策。将兵を遣わし、加勢するのが中策。少数の兵を遣わし、形ばかりの助勢で勝ちに乗じるのが下策です」と進言した。郗隆はどっちつかずの対応をしたために、参軍王邃に攻められ、子及び別駕顧彦とともに殺害された』。『趙誘は官を辞して家に還り、門を閉ざして、家から出ることはなかった』が、後に『左将軍王敦の参軍に任じられ、広武将軍を加えられた』。三一一年六月、『歴陽内史甘卓・揚烈将軍周訪とともに華軼』(かいつ;西晋の武将)『討伐にあたり、これを破った』。三一三年八月、『西晋に反乱を起こした杜弢』(ととう ?~三一五年:西晋末に活動した流民勢力の首領)『討伐にあたり、龍驤将軍陶侃』(とうかん:陶淵明の曾祖父として知られる)『の指揮下に入り、振威将軍周訪とともに前鋒として杜弢軍を破った。荊州刺史に転じた陶侃に代わり、武昌郡太守に任じられた』。『その後も杜弢討伐に甘卓とともにあたり、これを滅ぼし』、『長年の累功により、平阿県侯に封じられた』。三一七年八月、『大将軍王敦』(おうおとん)『の命により、襄陽郡太守朱軌・将軍李恒とともに荊州で反乱を起こした鄭攀』(ていはん)『らを討伐した。鄭攀らは懼れ、司馬孫景が主謀したとこれを斬り、降伏した』。翌九月、『荊州刺史王暠』(おうこう)『の命により、朱軌・陵江将軍黄峻とともに反乱を起こしていた杜曾と女観湖で戦った。趙誘らは敗れ、子の趙龔』(ちょうきょう)『とともに討ち取られた』。『王敦は趙誘の死を惜しみ、征虜将軍・秦州刺史を贈位するよう上表、敬と諡された。晋王司馬睿は趙龔に新昌郡太守を贈位した』とある。

「虛誕不經」根拠がなく出鱈目なこと。]

 

 甲子夜話續十四、崇德上皇、白峯陵へ天より御靈〔みたま〕降〔くだ〕つて夜光を放つ故光堂〔ひかりだう〕と云ふと有る。上に類聚名物考から孫引した中山傳信錄所謂天妃の神燈は、五雜俎四に、「海上有天妃、神甚靈、航海者多著應驗、如風濤之中、忽蝴蝶雙飛、夜半忽現紅燈、雖甚危必獲濟焉」《海上に天妃あり、神、甚だ靈(あらたか)なり。航海者に應驗(わうげん)著(あらは)るる者、多し。如(も)し、風濤の中に、忽ち蝴蝶(こてふ)の雙(なら)び飛び、夜半、忽ち、紅燈の現はれば、甚だ危うしと雖も必ず濟(すく)はるるを獲(う)。》と出(いづ)ると同物だ。諸國里人談三に隱岐の海中に夜火海上に現ず是は燒火(たくひ)權現の神靈也、何れの國でも難風に遭うた船夜中方角を別(わか)たざるに、此神に立願(りうぐわん)し神號を唱ふれば此火現じて助け吳れると有つて、後鳥羽上皇流されたまひし時、この火に風難を救はれ玉ひし節の御詠を載す。甲子夜話續九七には備後木梨(きなし)の海の事とし、後醍醐帝の御歌を出(いだ)す。同書六〇に寬政の頃長崎に向ふ支那舶(しなぶね)、海上惡風四方闇黑なるに遭ひて方角を辨ぜず、折節(をりふし)神(かみ)有(あ)り舳(へさき)に現じ、洋中火光を見る方に向へ、吾は日本金毘羅神也と告げたので、火光を尋ねて行き舶を全(まつた)くした。その報賽(ほうさい)に額を讃州金毘羅に捧げたと有る。

[やぶちゃん注:「甲子夜話續十四、崇德上皇、……」「フライング単発 甲子夜話續篇卷之十四 9 讚岐院の御陵」を参照。

「諸國里人談三に隱岐の海中に夜火海上に現ず……」私の「諸國里人談卷之三 焚火(たくひ)」を参照されたい。

「甲子夜話續九七には備後木梨の海の事とし、後醍醐帝の御歌を出(いだ)す」「フライング単発 甲子夜話續篇卷之九十七 9 備後國木梨海中陰〔火〕幷證謌 付 隱岐國智夫郡神火之事」を参照。

「同書六〇に寬政の頃長崎に向ふ支那舶……」「フライング単発 甲子夜話卷之六十 18 金毘羅の靈異邦に及ぶ」を参照。以上の「甲子夜話」のそれは、本篇のこれらの注のために、新たに電子化したものである。

「報賽」祈願が成就したお礼に神仏に参拝する「お礼参り」のこと。]

 

 是等の火光は無論悉く一類の物で無く原因種々有るべきも、槪して言へば西洋でエルモ尊者の火と稱ふるものを指すのだろう。エンサイクロペジア、ブリタンニカ一一板卷二及び二十四に據ると、此火は空中から徐々と地上に向ひ發する雷氣に伴ふ光で、其性質は物理試驗室で行ふ刷毛出(ブラシユで)の摩擦電氣に伴ふ光と同じく、物がひゞわれたり又竈の火が嘯(うそぶ)き鳴る樣な音之に伴ふこと多く、之を最も多く見るは冬月風雪中及び其後、又迅雷中にも屢ば生ず。墺太利[やぶちゃん注:「オーストリア」。]のソンブリク山殊に此火多きをエルスター及びガイテルが調べて一八九一年に報告せしは其發電時として陰性で光赤く時として陽性で光靑し。ゴツケル言(いは)く、雪中に此光出(いづ)るを檢するに、雪片大なれば、其電氣陽性、雪片細かければ其電氣陰性だと。而して此光主〔むね〕と現ずるは尖つた物の末で、塔頂檣端(しやうたん)又人が手を擴げた指尖(ゆびさき)にすら附くことあり(以上エンサイクロペジア)。同書に、エルモ尊者の名は伊太利人がエラスムスを訛つたので、エラスムス尊者は紀元三百四年車裂されて殉敎したが、永く地中海航者の守本尊と仰がれ、舟人此火を尊者庇護し賜ふ徵(しるし)とす。英國水夫之をコルポサンツと呼ぶは、伊語のコルポ・サント(聖體)より訛つたのだと見ゆ。

[やぶちゃん注:「エンサイクロペジア、ブリタンニカ一一板卷二及び二十四」「Internet archive」では前者はここで、後者はここ。南方熊楠が確認したのは、まず、後者の「ST ELMO'S FIRE」の項目

   *

 ST ELMO'S FIRE, the glow accompanying the slow discharge of electricity to earth from the atmosphere. This discharge, which is identical with the " brush " discharge of laboratory experiments, usually appears as a tip of light on the extremities of pointed objects such as church towers, the masts of ships, or even the fingers of the outstretched hand: it is commonly accompanied by a crackling or fizzing noise. St Elmo's fire is most frequently observed at low levels through the winter season during and after snowstorms.

The name St Elmo is an Italian corruption through Sant’ Ermo of St Erasmus, a bishop, during the reign of Domitian, of Formiae, Italy, who was broken on the wheel about the 2nd of June 304. He has ever been the patron saint of Mediterranean sailors, who regard St Elmo's fire as the visible sign of his guardianship. The phenomenon was known to the ancient Greeks, and Pliny in his Natural History states that when there were two lights sailors called them Castor and Pollux and invoked them as gods. To English sailors St Elmo's fires were known as "corposants" (Ital. corpo sanlo).

 See Hazlitt's edition of Brand's Antiquities (1905) under " Castor and Pollux." .

   *

さらに第二巻は、探すのに手間取ったが、「ATMOSPHERIC RAILWAY」(「大気中に於ける電気的軌道」?)の大項目の細目中のここの以下である。

   *

  1. St Elmo's Fire. — Luminous discharges from masts, lightning conductors, and other pointed objects are not very infrequent, especially during thunderstorms. On the Sonnblick, where the phenomenon is common, Elster and Geitel (87) have found St Elmo's fire to answer to a discharge sometimes of positive sometimes of negative electricity. The colour and appearance differ in the two cases, red predominating in a positive, blue in a negative discharge. The differences characteristic of the two forms of discharge are described and illustrated in Gockel's Das Gewittcr. Gockel states (l.c. p. 74) that during snowfall the sign is positive or negative according as the flakes are large or are small and powdery. The discharge is not infrequently accompanied by a sizzling sound.

   *

「ソンブリク山」ホーアー・ゾンブリック(The Hoher Sonnblick:ラウリスター・ゾンブリック(Rauriser Sonnblick)とも)。オーストリアのケルンテン州とザルツブルク州の国境にあるアルプス山脈中の標高三千百六 メートルの氷河 に覆われた山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「エルスター」ドイツの物理学者ジュリアス・ヨハン・フィリップ・ルードヴィヒ・エルスター(Julius Johann Phillipp Ludwig Elster 一八五四年~一九二〇年)。

「ガイテル」エルスターと共同研究したドイツの物理学者ハンス・フリードリッヒ・カール・ガイテル(Hans Friedrich Geitel 一八五五年~一九二三年)。因みに彼は「原子エネルギー」という語の創始者とも言われているようである。]

 

 一九〇五年板ハズリツトの諸信及俚傳(Hazliitt, ‘Faiths and Folklore’)卷一・九四頁に、西班牙[やぶちゃん注:「スペイン」。]人、佛蘭西人は之をヘルメス又テルメス尊者の火、伊太利人はペトロ又ニコラス尊者の火と云ふと有つて、一五九八年板、ハクロイトの航記集から此火の實視譚を引き言(いは)く、「予船上大風波に遭うた夜、小蠟燭に點(とも)した程の小光、西班牙人の所謂聖體〔ケルポ・サント〕が中檣〔メーン・マスト〕の頂に來り、其より他の檣頂(しやうちやう)へ飛び移り又飛び戾り或は二三檣頭(しやうたう)一時に光り出した」と。又一七〇四年板暴風誌(‘History of Storms’)等を引いて、俗信に此火一つ現ずれば風浪の兆(きざし)、二つ相(あひ)近づいて出ずれば晴天の徵(しるし)と云ふ。或は云(いは)く、此火五つ群がり出(いづ)れば風浪將に息(や)まんとするを示す。葡人[やぶちゃん注:ポルトガル人。]これを救世主の頸〔コラ・デ・ノストラ・セニヨラ〕と名くと。古ローマのプリニウスの博物志(‘Historia Naturalis’)卷二の三七章に此火を說いて云く、「此星、海陸共に出づ。予曾て夜警兵卒の槍上に星樣の光を見た。又鳥が飛び廻はる樣な音して進航中の舟の帆架〔ほげた〕等に留(とま)る。一つ見ゆれば難破の兆で、船體の下部に觸るれば火を燃出(ねんしゆつ)する事有り。然(しか)るに二つ現ずれば吉兆でヘレナちふ惡星を逐攘(おひはら)ふと信ぜられ、之を神としてカストル及びポルクスと稱(とな)ふ。又時として夜分人の頭の周りに輝く事有つて、或大事件を前示(ぜんじ)す」と。カストルとポルクスは大神ゼウスの二子で、カストル人(ひと)と鬪つて死せしを悲しみ、ポルクスその身不死なるにゼウスに請(こう)て自分亦死せんとす。ゼウス其悌心(ていしん)を賞し隔日に冥界に降つてカストルを見せしむ。或は云くゼウス二人を天上に寘〔お〕き、太白〔あけのめうぜう〕と長庚〔よひのめうぜう〕たらしむと、雅典〔アテネ〕の人之を神と崇め守護尊〔アナーケース〕と號〔なづ〕け、航海に軍旅に其助力を賴み、難風に逢ふ舟人檣頭に熖光を見れば此神靈なりとて、白羊兒(しろきひつじのこ)を牲〔いけにへ〕し奉らんと祈念すれば風浪忽ち靜まると信じた(一九〇八年板サイツフエルトの希臘羅馬考古辭典英譯 ‘A Dictionary of Classical Antiquities,’ 百九四頁)。

     (大正四年九月鄕土硏究第三卷七號)

[やぶちゃん注:最後の初出は底本では前行下方の下インデントであるが、ブラウザえの不具合を考え、改行し、上に引き上げた。

「一九〇五年板ハズリツトの諸信及俚傳(Hazliitt, ‘Faiths and Folklore’)卷一・九四頁」中黒「・」使用は本書では珍しい。イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。「Internet archive」の当該書原本のこちらの前ページから始まる「Castor and Pollux」の左ページの左が当該部。

「一五九八年板、ハクロイトの航記集」上記原文に“Scotish Encyclopcedia, v. Lights, Steevens quotes the subsequent passage from Hakluyt's Voyages, 1598 ”とある。

「予船上大風波に遭うた夜、小蠟燭に點(とも)した程の小光、西班牙人の所謂聖體(ケルポ・サント)が中檣(メーン・マスト)の頂に來り、其より他の檣頂(しやうちやう)へ飛び移り又飛び戾り或は二三檣頭(しやうたう)一時に光り出した」同じく原文は、

   *

" I do remember that in the great and boysterous storme of this foule weather, in the night there came upon the top of our maine yard and maine mast a certaine little light, much like unto the light of a little candle, which the Spaniards call the Cuerpo Santo, This light continued aboord our ship about three houres, flying from maste to maste, and from top to top; and sometimes it would be in two or three places at once."

   *

「一七〇四年板暴風誌(‘History of Storms’)等を引いて、俗信に此火一つ現ずれば風浪の兆(きざし)、二つ相(あひ)近づいて出ずれば晴天の徵(しるし)と云ふ。或は云(いは)く、此火五つ群がり出(いづ)れば風浪將に息(や)まんとするを示す。葡人[やぶちゃん注:ポルトガル人。]これを救世主の頸(コラ・デ・ノストラ・セニヨラ)と名くと」同じく原文は、

   *

“ When thin clammy vapours, arising from the salt water and ugly slime, hover over the sea, they, by the motion in the winds and hot blasts, are often fired ; these impressions will oftemtimes cleave to the masts and ropes of ships by reason of their clamminess and glutinous substance and the mariners by experience find that when but one flame appears it is the forerunner of a storm ; but when two are seen near together, they betoken fair weather and good lucke in a voyage. The naturall cause why these may foretell fair or foul weather, is, that one flame alone may forewarn a tempest, forasmuch as the matter being joyn'd and not dissolved, so it is like that the matter of the tempest, which never wanteth, as winds and clouds^ is still together^ and not dissipate, so it IS likely a storm is engendering ; but two flames appearing together, denote that the exhalation is divided, which is very thick, and so the thick matter of the tempest is dissolved and scattered abroad by the same cause that the flame is divided : therefore no violent storm can ensue, but rather a calme is promised." History of Stormes, 1704, p. 22.

   *

である。

「古ローマのプリニウスの博物志(‘Historia Naturalis’)卷二の三七章に此火を說いて云く、……」プリニウスの「博物誌」第二巻三十七章には、以下のように記載する(所持する平成元(一九八九)年雄山閣刊の中野定雄他訳になる第三版「プリニウスの博物誌Ⅰ」から引く)。前の三十六章も親和性が強いので一緒に掲げておく。訳者注は私の既注や熊楠の叙述とダブるが、載せておく(但し、ブラウザの不具合を考えて引き上げ、さらに改行を早くしてある)。

   《引用開始》

 星の軌道逸脱

 三六 また星があちらこちらへ飛ぶように見えることがあるが、これは間違いなくその方角から大暴風が起る凶兆である。

 

 「カストル星」について

 三七 星はまた海にも陸にも出現する。わたしは輝く星のようなもの、が、夜間塁壁の前で歩哨に立っている兵士の槍にくっついているのを見たことがある。また、航海中星が声に似た音を立てて、帆桁やその他の部分に下りて、鳥のように止り木から止り木へと跳ぶのを見た。こういう星が単独で来るようなことがあれば、それはひどく重くて船を破壊する。そしてもしそれが船倉にでも落ちれば船を全焼させる。そういう星が二つあれば、それは安全のしるしで、航海成功の前触れだ。そしてそれらが近づくとヘレナと呼ばれる恐ろしい星を追い払うということだ。そういうわけで、それらはカストルとポルクス(注1)と呼ばれ、人々は神神のようにそれらに航海の安全を祈る。それらはまた夜間人間の頭の周りで輝くことがあるが、これはたいへんな凶兆だ。これらはすべてはっきりした説明ができないもので、それらは壮大な自然の中に隠されているのだ。

注1 カストルとポルクスはゼウスとレダの息子。
   カストルは戦争の術に、ポルクスは拳闘の
   技にすぐれていた。一説ではゼウスは二人
   を天上の双生児として星座の中においたと
   いう(双子座のカストル屋とポルックス星)。
   なお、ヘレナは二人の姉妹。

   《引用終了》

「悌心」兄弟愛。「悌」は「兄弟の仲がよいこと」を言う。

「寘〔お〕き」「置」の字に同じ。

「一九〇八年板サイツフエルトの希臘羅馬考古辭典英譯 ‘A Dictionary of Classical Antiquities,’ 百九四頁)」ドイツの古典哲学者(ローマの劇作家プラウトゥスを専門とした)オスカー・サイフェルト(Oskar Seyffert 一八四一年~一九〇六年)の著。版の近い一九〇一年版のものを「Internet archive」で見たが、兄弟のことが記されてあった。こちら。]

2022/04/09

フライング単発 甲子夜話續篇卷之九十七 9 備後國木梨海中陰〔火〕幷證謌 付 隱岐國智夫郡神火之事

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「龍燈に就て」の注に必要となったため、急遽、ばらばらの三篇を電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も追加し、鍵括弧記号も用いた。なお、⦅ ⦆は極めて珍しい原本の静山自身のカタカナ・ルビである。目録標題は「陰」では意味が通じないので、「火」の脱字と断じて、かくした。]

 

97-9 備後國木梨海中陰〔火〕幷《ならびに》證謌 付〔つけたり〕 隱岐國智夫郡《ちぶのこほり》神火《しんび》之事

予、先年、旅行せし頃、備後國、裏海⦅イリウミ⦆の邊に「糸崎八幡」と云《いふ》宮居《みやゐ》あり。每《つね》に、この社頭に駕《かご》を憩ふ。この社司の梓行《しぎやう》せし「緣記」あり。この中に有《あり》しを、今、憶《おも》ひ出《いだ》せば、云へり。備後國に木梨⦅キナシ⦆と云所あり。その海中に陰火を生《しやう》ず。里人、呼《よん》で「たくらふ」と云。肥後の「不知火《しらぬひ》」と同じ。舟人、因《より》て、この火處を認《みとめ》て海岸に達⦅イタ⦆ることを得《う》、と。昔、後醍醐帝、隱州へ遷行の後、或とき、逃《のが》れ出《いで》、中國を指《さし》て渡り給ふとき、夜《よ》闇《くら》ふして、其《その》地方《ちかた》を辨ずること、莫《な》し。然るに、遙《はるか》に火光あり。帝船、これを望んで行くに、人に非ず。彼《か》の火にして、廼《すなはち》、備後に到る。帝《みかど》、因《より》て一首の和歌を詠じ給ふ。

 沖⦅ヲキ⦆の國燒火⦅タクヒ⦆の浦に燒⦅タカ⦆ぬ火の

      備後の木梨に今ぞたくらふ

『和漢三才圖會』云。隱岐國、離火(タクヒ)權現、在二海部郡島前。祭神、比奈麻治比賣神、又大日孁貴(オホヒルメノムチ)、禁裏内侍所三十番神第一離火神。是也。

『日本後紀』【桓武。】〕延曆十八丙辰【十三日。】、前遣渤海使外從五位下内藏宿禰賀茂麻呂等言。歸ㇾ鄕之日、海中夜暗、東西掣曳、不ㇾ識ㇾ所ㇾ着。于ㇾ時遠有火光。尋逐其光。忽到嶋濱。訪ㇾ之是隱岐國智夫郡、其處無ㇾ有人居。或云。比奈麻治比賣神常有靈驗。商賈之輩、漂宕海中。必揚火光。賴ㇾ之得ㇾ全者、不ㇾ可勝數。神之祐助、良可喜報。伏望奉ㇾ預幣例。許レ之。

『圖會』、又云。此乃天照太神之垂跡同一ニシテ、而於ㇾ今海舶多ルヽ漂災者、因レリ神火。最レ可カラレ疑

■やぶちゃんの呟き

「裏海⦅イリウミ⦆」瀬戸内海のことか。

「糸崎八幡」現在のここ(広島県県境に近い岡山県井原市芳井町西三原。グーグル・マップ・データ。以下同じ)だが、瀬戸内海側から行くの意としても、相対的にはえらく内陸ではある。

「梓行」出版すること。

「緣記」「緣起」に同じ。

「備後國に木梨⦅キナシ⦆と云所あり」広島県尾道市木ノ庄町木梨があるが、前の「糸崎八幡」に比すれば、まあ、瀬戸内海には近いが……。

「たくらふ」「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、「多久良不火」(タクラウビ)として載り、元を頼杏坪(らい きょうへい 宝暦六(一七五六)年~天保五(一八三四)年)編「芸藩通志」巻九十九名を出典とし、広島県三原市での怪異とし、『曙のころ、波が赤くなり、火のようなものが見える。土民はそれを』「たくらふび」『という。雨の夜に出てきて』、『波の上に燃える火も』「たくらうび」『というが、前のと』は『別である』とある。頼は儒学者で安芸竹原の出身。名は惟柔(ただなご)。杏坪は号。安永二(一七七三)年に大坂に遊学、兄春水に従い、「混沌社」に出入りした。後に兄とともに江戸に出て、服部栗斎の教えを受け、天明五(一七八五)年、広島藩の藩儒となった。宋学の興隆に専念し、春水に代わり、江戸邸の藩侯世子や在府子弟の教育に努めるとともに、甥山陽の教導にも力を注いだ。文政元(一八一八)年に、この「芸藩通志」編修の命を受け、七年で完成させた。加禄されて三次町奉行専任となって郡務に努めた篤実な人物である。

「『和漢三才圖會』云。……」以下、実は後の「日本後記」もそこに載っている。但し、静山は正しく原本に拠ったようで、表現が有意に異なる)。前者」には一部省略があるが、それも含めて、所持する原本で訓読(一部は私の推定読み仮名)しておく。「卷の第七十八」の「十八」折りの「隱岐(をき)」の項の内にある。

   *

離火(たくひ)權現  海部郡(あまのこほり)島前(たふぜん)に在り。

祭神 比奈麻治比賣神(ひなまちひめのかみ)【又の名は「大日孁貴(おほひるめのむち)」。[やぶちゃん注:天照大神の異名。]】

禁裏内侍所(きんりないしどころ)三十番神(さんじゅうばんじん)の第一に離火(たくひ)の神、有り【此れを「午比留尊(むまひるのみこと)」と云云(うんぬん)。】。是れなり。

「日本後紀」に云ふ。延曆十八年[やぶちゃん注:七九九年。]五月、渤海使【朝鮮屬國。渤海と名づく。】外從五位下・内藏宿禰(くらのすくね)賀茂麻呂等(ら)、言(まふ)す。「皈鄕(ききやう)の日、海中、夜闇(やあん)にして、着く處を識らず。時に、遠く、火の光り、有り。其の光りを尋ね逐(を)ひて、忽ち、嶋濱(しまのはま)に到(いた)る。之れを訪(と)ふに、是れ、隱岐國(をきのくに)智夫郡(ちぶのこほり)、其の處に、人、無く、比奈麻治比賣の神、或(あ)り、常に、靈驗、有り。商賈(しやうばい)の輩(やから)、海中に漂宿(へうしゆく)するに、火光を揚(あ)ぐるがごとし。之れに賴(たよ)りて、全きを得る者、勝(あ)へて數(かぞ)ふべからず。神の祐助(いうじよ)、最も嘉報とすべし。

一(いつ)に曰はく、此れ、乃(すなは)ち、天照太神の埀跡(すいじやく)同一にして、今に於いて、海舶、多く漂災(へうさい)を免(まるか)る者、神火の光りに因(よ)る。最も疑ふべからず。

   *

「『日本後紀』【桓武。】〕延曆十八丙辰【十三日。】、前遣渤海使外從五位下内藏宿禰賀茂麻呂等言……」という本篇の訓読文も別に以下に示す。多少、語を添えた。

   *

「日本後紀」【桓武。】、『延曆十八丙辰【十三日。】、前(ぜん)遣渤海使、外從五位下・内藏宿禰賀茂麻呂等、言(まう)す。鄕(くに)に歸へるの日、海中、夜暗(やあん)にして、東西に、掣(せい)し、曳(ひ)き、着く所を識らず。時に于(お)いて、遠く、火光、有り。其の光り尋ね逐ひて、忽ち、嶋濱の到る。之れを訪へば、是れ、隱岐國智夫郡、其の處に人居(じんきよ)有る無し。或いは云ふ、比奈麻治比賣の神、常に、靈驗、有り。商賈の輩、海中に宕(ほしいまま)に漂へば、必ず、火光、揚がる。之れに賴りて全きを得る者、勝へて數(かぞ)ふべからず。神の祐助、良く喜報すべし。伏して望み、幣例を預り、奉ると。之れを許す。

   *

フライング単発 甲子夜話續篇卷之十四 9 讚岐院の御陵

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「龍燈に就て」の注に必要となったため、急遽、ばらばらの三篇を電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も追加し、鍵括弧記号も用いた。]

 

14―9 讚岐院の御陵

又、荻野長が曰《いはく》。「京の安井觀勝寺の金毘羅にも、爲義、爲朝二人の像、脇士《わきじ》たると云。永代寺の先住某の話なり。

又曰。「この安井の金毘羅は新院【崇德帝】、讚州より、御枕と、御守佛の觀世音の像とを、阿波内侍《あはのないし》のもとに「御形見に。」と贈らせ給ひしと。宇治左府【賴長。】の靈とを配して觀勝寺に祭りければ、其寺の藤の上に、每夜、光りもの、降《くだ》りて、神異を顯はせり。卽ち、今の觀勝寺の地にて、其御神靈を金毘羅權現と申す。」と。天明年中公儀へ、安井門跡「勸化願書」の趣《おもむき》も、此《かく》の如くなり。

[やぶちゃん注:以下、長いが、最後まで底本では全体が一字下げである。]

『都名所圖會』云《いはく》。「安井觀勝寺光明院は、安井御門跡前《さきの》大僧正性演、再興し給ふ。古より藤の名所にて、崇德天皇の后妃阿波内侍、此所に住せ給ふ。天皇、「保元の亂」に、讃岐國へうつりましまして、御形見に、束帶の尊影、御隨身二人の像を畫《ゑがき》て、かの地より皇后に送り給へり。其後、天皇【讚岐院とも申す。】、配所松山に於て『大乘經』を書寫し、和哥一首を添給ひて、「都の内に納めん。」とて、送り給ふ。

 濱千鳥跡は都にかよへども

      身は松山にねをのみぞなく

然るを、少納言入道信西、奏しけるは、「若《もし》咒咀《じゆそ》の御心にや。」とて、御經をば、返しければ、帝《みかど》、大《おほき》に憤り給ひ、「大魔王となつて、天下を、朕《ちん》がはからひになさん。」と誓ひて、御指《おんゆび》の血を以て、願文を書《かき》給ひ、かの經の箱に、「奉納龍宮城」と記し、堆途といふ海底にしづめ給ふに、海上に、火、燃《もえ》て、童子、出《いで》て、舞蹈《ぶたう》す。是を御覽じて、「所願、成就す。」と宣へり。夫《それ》より、爪、髮を截《きり》玉はず。六年を經て、長寬二年八月廿六日に崩御し給ふ。御年四十六。讚州松山の白峯に葬り奉る。夫より、御靈《ごりやう》、此地に來《きたり》て、夜々《よよ》、光を放つ故に、「光堂」ともいふ。然るに、大圓法師といふ眞言の名僧、此所ヘ來つて參籠す。崇德帝、尊體を現《あらは》し、往事の趣を示《しめし》給へり。大圓、これを奏達《そうたつ》し、詔《みことのり》を蒙りて、堂塔を建立し、かの尊靈を鎭め奉り、「光明院」と號しける。佛殿の本尊は「堆昵觀音《たいじちくわんおん》」なり。奧の社は崇德天皇、北の方、金毘羅權現、南の方、源三位賴政。世人、おしなべて「安井の金毘羅」と稱し、都下の詣人、常に絕《たゆ》る事なし。崇德帝、金毘羅、同《おなじ》一體にして、和光の塵《ちり》を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ、利生靈驗《りしやうれいげん》いちじるし、とぞ見えにける。これを見れば、御隨身二人の像を繪がきて賜ふと云《いふ》は、爲義、爲朝の像なりしか。○阿波内侍は、『日本史』「后妃傳」云《いはく》。「崇德妃、源氏、參河權守師經女《むすめ》也。生僧元性。又、「皇子傳」云。「崇德二皇子、内侍、源氏、生僧元性。宮人藤原氏、生重仁親王。」と。蓋し、源氏は阿波内侍なり。

■やぶちゃんの呟き

「荻野長」(天明元(一七八一)年~天保一四(一八四三)年)は静山の知人で幕臣。天守番を務めた。仏教学者として知られ、特に天台宗に精通して寛永寺の僧らに教えた。「続徳川実紀」編修に参加している。名は長・董長。通称は八百吉。

「大圓法師といふ眞言の名僧、此所ヘ來つて參籠す。崇德帝、尊體を現し……」現在の京都市東山区下弁天町にある「安井金毘羅宮」公式サイトのこちらの「御由緒」に『崇徳天皇』『は特にこの』社にある『藤を好まれ』、久安二(一一四六)年、『堂塔を修造して、寵妃である阿波内侍』『を住まわされました』。『崇徳上皇が保元の乱』『に敗れて讃岐』『で崩御された時に、阿波内侍は上皇より賜った自筆の御尊影を寺中の観音堂にお祀りされました』。『治承元年』(一一七七年)、『大円法師』『が御堂にお籠りされた時に、崇徳上皇がお姿を現わされ』、『往時の盛況をお示しになられました。このことは直ちに後白河法皇』『に奏上され、法皇のご命令により』、『建立された光明院観勝寺が当宮の起こりといわれています』とある。

「堆昵觀音」不詳。この名の観音名を見たことが私はない。ネット検索でもかかってこない。「僧元性」崇徳天皇の第五皇子で、真言僧となった覚恵(仁平元(一一五一)年~元暦元(一一八四)年)の舊僧名。母はここに出る村上源氏の三河権守源師経の娘。重仁親王(足の疾患により二十三で早逝した)の異母弟。「宮法印」と呼ばれた。当該ウィキによれば、応保二(一一六二)年に『仏門に入り』、『叔父覚性』(かくしょう)『法親王のもとに入室。法名は初め元性』(げんしょう)『と称し、その後』、『覚恵と改めた』。仁安四(一一六九)年二月、『仁和寺観音院において灌頂を受けた後、同寺華蔵院に住し、法印に叙された』とある。

フライング単発 甲子夜話卷之六十 18 金毘羅の靈異邦に及ぶ

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「龍燈に就て」の注に必要となったため、急遽、ばらばらの三篇を電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も追加し、鍵括弧記号も用いた。

 本篇標題は以下の通りであるが、タイトルでは訓読文で示した。]

 

60-18 金毘羅の靈及異邦

去々年か、行智、讚州に往《ゆき》て、金毘羅に詣《まうで》たるに、堂に大なる橫匾《よこがく》に、行書の三大字を揭ぐ。

  「降神觀」

前に「乾隆四十三年」云云、後に「仁和弟子劉靈臺敬立」と書せりと。行智、因《より》て里人に聞《きく》に、日《いはく》。「寬政の頃、劉雲臺、長崎に來りしに、洋中にて惡風に遭《あひ》、舶《ふね》、已に傾《かたぶき》覆《ふく》せんとす。時《ときに》、四方、雲、覆ひ、闇夜の如《ごとく》にして、向《むかふ》べき方《かた》を辨ぜず。折ふし、神、有《あり》て、船に現じて曰《いはく》。『洋中、火光《くわくわう》を見る方に向はゞ、免るゝことを得べし。我は日本金毘羅神なり。』と告《つげ》て消《しやう》す。卽《すなはち》火光を尋《たづね》て行き、舶の全きことを得たり。因て、崎に滯留の間、額を造りて、かの祠《し》に奉賽《はうさい》せしとぞ。我神靈、異國に逮《およ》ぶも、亦、奇なり。

又、長崎、立山《たてやま》の後山《うしろやま》にも金昆羅祠あり。この祠にも、唐商《たうしやう》の揚《あげ》たる額、多し。又、年々、渡來の商舶より、銀子等を賽《さい》すること多く、祠、甚《はななだ》、繁昌なり。」とぞ。これ、洋中安穩を祈るためなり。俗、云ふ。「商舶、唐山《たうざん》を發して、その州《くに》の見ゆる迄は『天后聖母』【長崎、これを「ボサ」と謂ふ。】を祈り、日本の地を望む所よりは、『金毘羅』を祈る。」とぞ。さすれば、必ず、靈應ありて、難風を免る、と。因て、願成就の額、其餘《そのよ》にも各種を寄附すること絕《たえ》ずと云《いふ》。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

先年、費晴湖と云《いふ》商も、金毘羅信仰にて、長崎にて金毘羅山の全景を畫《ゑが》きし、となり。晴湖は畫を善くするの名あり。

■やぶちゃんの呟き

「行智」静山の知り合いの修験者の名。

「乾隆四十三年」一七七八年。

「寬政」一七八九年から一八〇一年まで。松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜で、静山が没するまでの実に二十年に亙って書き続けられた。作品内にクレジットがあるものは少ない。但し、正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻であるから、二十年を概ね三分した年代でだいたいを推定するのは問題ないであろう。

「劉雲臺」彼の書いた扁額は現在の金比羅宮に現存する。参拝階段の途中にある旭社の楼上に掲げられてあり、「金刀比羅宮 参拝ガイド 御本宮編」のこちらで確認でき、この『「降神觀」の額は、清国の翰林院侍讀探花及第王文治の筆で、同国の劉雲臺の献納』したものであるという記載がある。

「長崎、立山の後山にも金昆羅祠あり」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「唐山」「州」中国本土。

「天后聖母」「長崎、これを「ボサ」と謂ふ。」航海・漁業の守護神として中国沿海部を中心に広い信仰を今も集めている道教の女神媽祖(まそ)の別名。詳しくは当該ウィキを見られたい。「ボサ」というのは、別名の一つである「媽祖菩薩」のそれであろう。

「費晴湖」(生没年不詳)は清の商人で画家。当該ウィキによれば、『江戸時代中期、日本に渡来し』、『南宗画様式の画技を伝え』た。『名は肇陽』(ちょうよう)、『字は得天。晴湖と号し』、『他に耕霞使者と称した。湖州府呉興県の人』。『天明から寛政年間』(一七八一年から一八〇一年)『に船主として来舶した。同じく来舶清人の費漢源の同族とされる。父が長崎に居を構えていたが』、『薩摩沖で遭難して』亡くなり、『その遺骨を引き取ることを長崎奉行所から許され』、寛政七(一七九五)年に『祖国に持ち帰ったという記録がある』。『増山雪斎の名を受けて、長崎に遊歴した画家・春木南湖や十時梅厓が』、『晴湖から画技と書法を伝授されている。背丈は標準で』、『赤黒い顔色、逞しい体格だったと伝えている』。「費氏山水画式」(一七八七年)の『序文には』、明代の文人として知られた董其昌(とうきしょう)と、北宋末の文人で書家として知られる米芾(べいふつ)に『私淑して筆意を得たという。女流俳人・一字庵菊舎に会』い、『その漢詩と七弦琴の才能を喜び、漢詩と序文を贈っている』。また、『晴湖を来舶四大家の一人』『とすることがある』とある。

2022/04/08

南方熊楠「龍燈」の電子化注進行中

昨日より南方熊楠の「龍燈」の電子化注に入ったが、やはり一筋縄では行かない。「一」だけでも明日一杯かかるであろう。漢籍の引用を原典に当たって確認し、それを訓読するのが、これ、異様に大変なのである。

2022/04/07

多滿寸太禮巻㐧二 芦名式部が妻鬼女と成事

 

   芦名(あしな)式部(しきぶ)が妻(つま)鬼女(きぢよ)と成事

 むかし、遠江國に、芦名式部大輔(しきぶのたゆふ)と聞えし人は、家、とみ、榮へ、郡(こほり)、あまた領して、妻は、四とせ以前に、同じ國、池田の邊(へん)より迎へて、寵愛しけるが、或る時、都にのぼり、大番(おほばん)つとめて歸るさに、忍びて契りける女を具して、古鄕(ふるさと)に歸り、本妻に深くかくして、片里(かたさと)なる所をしつらひ置《おき》て、忍びに通ひける。

[やぶちゃん注:「芦名式部大輔」不詳。同名通称で鎌倉末期から南北朝初期の武将で蘆名式部太輔高盛(蘆名遠江守盛員の嫡男)がいるが、彼は文保二(一三一八)年生まれで、建武二(一三三五)年、相州藤沢の片瀬川で父とともに十八歳で討死しており、違う。]

 いつとなく、此女、懷姙して、月、みち、既に產むとせし比、此の事を、本妻、聞き傳へて、大きに妬(ねた)みいかり思ひけれども、さすが、夫に向ひ、うらむべきよすがもなく、心にとめて、ねたみ思ひける。

  後(のち)は、あからさまに、人も、のゝしり、

「若子(わこ)なんど出來(でき)させ給はゞ、めでたき事、なんめり。」

と、聞つたへければ、いよいよ、いかり、つよく、

『いかなる事をもして、此の『目かけ』を、殺さばや。』

と思ひけれども、家人(けにん)どもゝ、懷姙の後(のち)は、ふかく、彼方(かのかた)をのみ、慕ひければ、折りもあらで、思ひ煩ひけるが、あまりの妬さに、衣(ころも)、ひきかづきて、臥しける。

 かくて、

『やみやみと死なむも口惜し。』

と思ひめぐらし、或る夜(よ)、打ちふけて、貌(かほ)にも身にも、「べに」といふものをつけて、白き絹をうちかづきて、髮をみだし、をそろしくつくりなし、ひそかに忍び行《ゆき》、庭の草村に伏しかくれて、人の靜まるをまちて、かの女の寢屋(ねや)に忍びいりて、枕もとに立ちよりて、おどろかし、

「ぢやう」

と、にらまへたりければ、

「わつ。」

と、さけびて、息、たえぬ。

『しすましたり。』

と思ひ、いそぎ、我もとにかへり、しらず貌(かほ)にて、ふしぬ。

[やぶちゃん注:「ぢやう」は「定(ぢやう)」で「真っ向から確かに睨み据えた」ことの様態をさすものかとは思うが、ここはそうした強烈な目つきの特異なオノマトペイアとして、かく表記した。

「息、たえぬ」「気絶した」の意。]

 隙(ひま)をうかゞひ、かくする事、たびたび、なれば、女の方(かた)にも守りを付けて、宿居(とのゐ)させければ、忍ぶべき便りもなくて、日數(ひかず)、經(へ)ければ、遂に男子(なんし)をうみ出しけるに、父、大きに悅び、あまたの人を付けて養育しける。

 かくて、三七夜(さんしちや)[やぶちゃん注:出産から二十一日目に行う祝いの夜。]も過ぎんとしけるに、宿(との)ゐの者も、あまりに草臥(くたびれ)て打《うち》ふし、つぎつぎの者も、いつとなく、おこたりければ、

「よき隙(ひま)ぞ」

と、例のごとく、出立て、忍び行き、枕によりて、にらまへければ、つぎつぎの女ばらを始めて、二目(ふため)とも見ず、

「わつ。」

と、さけびて、息、たえぬ。

 

Kijyo1

[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

 

 則ち、喉(のんど)の下(した)に喰ひ付き、胸のあたりまで、くひちらして、歸りぬ。

 かくて、時うつりて、女(め)の童(わらは)ども、やうやう、人心ちつきてみれば、むなしき形(かたち)は、朱(あけ)の千入(ちしほ)に、そみてあり。

 とのゐの者ども、おどろき、あはて、いそぎ、式部に、

「かく。」

と申ければ、

「これはいかなる事やらむ」

と、おどろき、さはぎあへり。

 歎きて叶はぬ事なれば、なくなくも葬(ほうむり)てげり。

 されども、子息(しそく)は、つゝがなふして、養育す。

 かゝる程に、女房は、人しれず本望(ほんまう)を達し、胸の熖(ほのほ)も晴れて、心よく思ひ、口に付きたる血を、洗へども、更に落ちず。貌につけたる紅も、はげず、皮のごとくにとぢ付《つき》、喉(のんど)をくらひける時、口も、さけて、大になり、肌(はだへ)は、血、

「ひし」

と、つきたり。にらみたる眼(まなこ)も、ふたゝび、歸らず。

「いかゞせん。」

と、心も空(そら)になりて、洗へども、猶、赤く、とかくする程に、額(ひたい)に、角(つの)、生ひ出でて、さながら、夜叉のごとくに、なれり。

 我が身ながら、せんかたなく、夜の物、打かぶりて、二、三日は、

「心ち、例(れい)ならぬ。」

よしして、居たりけれども、しきりに飢(うへ)て、傍らに伏したる女の童に喰ひ付きたりければ、

「わつ。」

と、叫びて、逃げ出でたるを、

「にがさじ。」

と、追ひめぐりける程に、家内(かない)、大きに噪(さは)ぎて、上下、ふしまろび、にげ、ふためき、

「鬼よ。」

「鬼よ。」

と、さけびて、人、ひとりもなく、逃げ失《うせ》たれば、爲方(せんかた)なく走り出《いで》、高師山(たかし《やま》)のおくへ蒐(かけ)入《いり》けり。

[やぶちゃん注:「高師山」(たかしやま)は現在の豊橋市高師町から静岡県湖西市新居町にかけて広がる丘陵地を指していたという。グーグル・マップ・データ航空写真で見ると、この北部或いは浜名湖西南の丘陵となるか。同前で後者の静岡県湖西市新居町浜名に高師山の地名(交差点)は残る。但し、ここは現在は平地である。さすれば、この北の丘陵か。]

 其後《そののち》よりは、

「此《この》山に、鬼の住《すむ》。」

とて、木こり・杣人(そま《びと》)も、入《いる》事なければ、まして、里人は稀れにも麓に立《たち》よらず。

 國の守(かみ)も、大勢を催(もよを)して、山をとり卷き、求むれども、出《いで》あはず。

 其の後(のち)、年月、重なりて、式部が兒(こ)、成人(せいじん)して、出家となりて、下の醍醐(だいご)に學文して、顯密有驗(けんみつうげん)の僧と成《なり》て、其名を「智見(ちけん)」と云けるが、[やぶちゃん注:「下の醍醐」ウィキの「醍醐寺」によれば、京伏見の真言宗醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯を「上醍醐」と呼び、そこを中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、延喜七(九〇七)年には醍醐天皇の御願により、薬師堂が建立されている。その圧倒的な財力によって延長四(九二六)年には、醍醐天皇の御願により、釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立して発展した、とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

「我れ、壯年の昔より、學業におこたらず、三密瑜伽(《さん》みつゆが)の窓(まど)に入《いり》て、いまだ一日も犯戒(ほんかい)せず。つたへ聞《きく》、繼母(けいぼ)、生きながら鬼と成《なり》て、わが實母・けんぞく、あまた、取《とり》くらいて、深山(しんざん)に入たるよし。急ぎ、尋ね下り、敎化(けうけ)をもし、降伏(ごうふく)せばや。」[やぶちゃん注:「三密瑜伽」修行者の「身・口・意」の「三密」が、仏菩薩の「三密」と相応し、融合することを言う。]

と思ひ立《たち》て、人にもしらせず、只一人、都を出《いで》て、やうやう、遠江に下り、昔の父の旧跡を尋《たづね》、なきあとの墓に詣で、なくなく、𢌞向《えかう》し、かの山の麓、あれたる御堂の有けるに、暫く立ちより給ふに、年比、聞ゆる魔所(ま《しよ》)とて、人の往來(ゆきゝ)もたえだえに、煩惱卽(そく)菩提の窓の前には、善惡迷語の雲きえ、生死(しやうじ)卽(そく)涅盤(ねはん)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。]の床《ゆか》のうへには、邪正我執(じやしやうがしう)の風、靜かにて、本《もと》より、一心法界の源をさとりたまへば、吹毛(すいもう)の和風(くわふう)、遙かにあふひで、三世不可得(さんぜふかとく)の妙智を顯はし、身に隱形(をんぎやう)の印を結びて、座禪三昧に入《いり》給ひ、寂莫(じやくまく)として、居《ゐ》給ひけるに、さも、はなやかに出立《いでたち》たる小法師原(こぼうしばら)、數百人(すひやくにん)、玉(たま)の輿(こし)を舁きつらね、堂の緣にかきすへければ、輿の内より、淸らかに、色白く、いとけだかき僧の、素絹(そけん)の衣(ころも)に、大口、きて、打刀《うちがたな》、さし、[やぶちゃん注:「打刀」太刀続いて室町後期から武士の主流となった日本刀の一種。太刀と短刀の中間の様式を持つ刀剣であり、太刀と同じく「打つ」という機能を持った斬撃主体の刀剣で、主に白兵戦用に作られた刀剣であり、通常は太刀とは逆に、刃を上に向けて帯刀する。室町中期以降に広まり、以降は「刀」というと打刀を指す場合が多い(当該ウィキに拠った)。]

「小法師原、罷り出でて、遊び候へ。」

といへば、

「はらはら」

と、堂の大場(おほには)に出《いで》て、踊りあそびけるに、主(しう)の僧、御堂に入《いり》て、智見(ちけん)に向ひ、

「やゝ。御房の隱形の印こそ、わるけれ。敎へ奉らん。」

とて、則ち、傳へ、

「それにてこそ、御姿(おんすがた)も、見えね。『小法師原に見せ奉らじ』と思ひてこそ出《いだ》し侍る。今は、とくとく罷《まかり》歸れ。」[やぶちゃん注:最後の指示は恐らく、首尾よく姿を消す「隱形の印」を習得したので、さてこそ「今は、印を解いて、元の姿に帰って姿を見せなさい。」と言ったものであろう。当初は伴って来た小法師連中への退去命令と読んだが、どうもそれではおかしいと感じた。]

と、御堂の内に呼び入れて、酒飯をちらし、をどりあそびけるが、客僧(きやくそう)、智見にさゝやきけるは、

「君が繼母、鬼と成て、此山の峯の北原《きたはら》に、大《おほき》なる洞(ほら)あり。その内に篭りてあり。行《ゆき》て、敎化(けうげ)し給へ。」

とて、夜も東雲(しのゝめ)になれば、各(をのをの)、堂を出《いで》けるが、行衞しらずに成けり。

 かくて、夜も、漸々(やうやう)、明けければ、則ち、峯に至りて、敎へのごとく、大なる洞岩(ほらいわ)あり。

 

Kijyo2

 

 人倫のかよひ、なければ、茅萱(ちがや)、生ひ茂り、諸木、枝をつらねて、分け入いるべき便りもなきに、漸々にして彼(か)の所にゆきて見給ふに、洞(ほら)のあたりは、白骨累々として、鹿(しか)・兎を引き割(さ)き、くらひのこせし有樣は、身の毛もよだち、怖ろしとも云斗《いふばかり》なし。

 されども、智見は、暫く穩形の印を結び、うかゞひ寄《より》、見給ふに、風一しきり吹き落ちて、ものすさまじきに、例の鬼、鹿をつかみて、弓手(ゆんで)にさげ、髮はおどろをみだし、兩の眼(まなこ)は、日にかゝやき、二つの角は熖につゝみ、洞の口に鹿をねぢふせ、引き裂き、くらふありさまは、淺ましともいふ斗なし。鬼は、人有ともしらずして、悉く、鹿を食(くらひ)て、洞に入ぬ。[やぶちゃん注:「江戸文庫」版では、何故か、最後の一文が前の段落文の最後に続いている。国立国会図書館デジタルコレクション本・国立国会図書館本・早稲田大学図書館「古典総合データベース」本の他に、富山大学「ヘルン文庫」所蔵本も見たが、三本とも総てがここにある。不審。

 智見、此ありさまを見て淚をながし、則ち、妙典(めうてん)の紐(ひぼ[やぶちゃん注:ママ。])をとき、洞に向ひて尊(たふと)く讀み給へば、鬼は、人音(《ひと》おと)を聞て、洞より飛んで出《いで》、摑まむとするに、五體、すくみて、働らかず。

 其時、智見、鬼に向ひて呪文を唱へ、御經を以つて頭(かしら)をなで給へば、ふたつの角(つの)、

「はらはら」

と落ちて、忽ちに、形體、もとのごとくに變じければ、則《すなはち》、本心に歸りて、手を合せ、

「吾れ、一念の嫉妬にしづみ、生きながら、鬼と成《なり》て、多くの者の命を斷ちて、ながく鬼畜の身となる所に、御僧(お《ん》そう)の法力にて、ふたゝび、鬼道をまぬかれ申《まうす》事、生々世々(しやうじやうせせ)の報恩を、いかでか報じ盡くさむ。」

と、淚をながし申せば、智見、

「吾は、是《これ》、君(きみ)が繼兒(けいし)也。かゝる御ありさまと承り、『二度《ひたたび》、もとの姿となし奉らばや。』と、年比の願望(ぐわんまう)にて、死《しし》たる母に、ふたゝび、相ひ見る心ちよ。」

とて、墨染の袖をしぼり給へば、繼母も、もろ共に、恥ぢ嘆き給ひて、夜すがら、昔の事ども、語りつゞけて、明ければ、麓に伴ひ、ゆかりを尋ねて、有《あり》つる父の屋形《やかた》の跡に、一宇の伽監(がらん)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。]を建立して、繼母、すなはち、發心(ほつしん)して、此寺を守り、智見は、上京し給ひ、官位に進み、時めき給ひ、後には「醍醐僧正(だいごのそうじやう)」とかや申《まうし》て、聖宝(しやうぼう)の法跡(ほつせき)をつぎ給ひしとかや。

 

[やぶちゃん注:個人的には、この話、好みである。なお、「醍醐」の「僧正」と呼ばれた「智見」なる僧は、ネットで調べる限りでは見当たらない。]

多滿寸太禮巻㐧二 岩成内匠夢の契の事

 

   岩成内匠(いわなりたくみ)夢の契(ちぎり)の事

  過《すぎ》し元龜の初め比(ころ)、淀の城主岩成主稅亮(ちからのすけ)が猶子(いうし)に、内匠晴光(たくみはるみつ)といへるものあり。先年、桂川の一戰に、十六歲にて初陣に、敵三騎、馬上にて渡りあひ、二騎の武者を、切つておとし、のこる一騎と引組(ひつくみ)、川中(かわなか)へ落ち入、水中にて差し通し、三《みつ》の頸(くび)とつて、比類なき働きし、其の後(のち)、たびたびの戰ひに、每度、手柄を顯はし、誠に一騎當千の兵(つはもの)なり。力(ちから)、よのつねに越へ、情け、ふかく、近國無双(ぶさう)の男色(なんしよく)にて、みる者、心をよせずといふ事、なし。

[やぶちゃん注:「岩成内匠」「内匠晴光」不詳。

「元龜の初め比」「元龜」は一五七〇年から一五七三年までで、元亀四年までしかないから、永禄十三年四月二十三日(ユリウス暦一五七〇年五月二十七日)に元亀に改元しているから、この元年の後半か、下っても、翌二年内であろう。この時代の天皇は正親町天皇で室町幕府将軍は足利義昭だか、最早、戦国時代である。

「淀の城主岩成主稅亮」山城国久世郡淀(現在の京都府京都市伏見区淀本町)にあった淀城であるが(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、この話柄内時制では、城自体が存在していない。従って、「岩成主稅亮」も架空の名前と思われる。当該ウィキを参照されたい。

「猶子」公卿や武家社会で、兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの。義子。

「桂川の一戰」「桂川原(かわら)の戦い」とも呼ぶ。大永七年二月十二日(一五二七年三月十四日)夜半から二月十三日まで京都桂川原一帯で行われた戦い。この戦いは「堺公方」の誕生のきっかけとなった。詳しくはサイト「戦国ヒストリー」の東滋実氏の『「桂川原の戦い(1527年)」細川高国の敗北。政権は堺公方へ』が地図も完備しており、よい。しかし……作者は迂闊にして杜撰に過ぎる! これでは――内匠晴光は――作品内の主時制では――当年とって六十歳のジジイ――になってしまうぞッツ!?!

「男色」この場合は男性の同性愛の意ではなく、単に美男子、ハンサムなことを言っている。

 八幡(やわた)の別當何がしの御房、いつぞの比より、ふかく戀ひわび、千束(ちつか)にあまる文(ふみ)の數(かず)、さすが『哀(あはれ)』とや思ひけむ、折々、かよひ行けり。年(とし)已(すで)に廿一、器量・骨柄、又、双(なら)ぶ者、なし。軍さに打立《うつたつ》折からは、御房の同宿(どうじゆく)に、小大貮(こだいに)・少進房とて、大力(だいりき)の法師二人を晴光に付られけり。かれら三人は、いつも、一方をかけやぶらずと云《いふ》事なし。

[やぶちゃん注:「八幡(やわた)の別當」淀城とあるからには、直近の南西にある石清水八幡宮の別当僧であろう。同八幡宮は平安前期の創建以来、明治の神仏分離までは、ずっと境内の護国寺と一体となる宮寺形式をとり続けてきた。往時は多くの堂宇が立ち、山麓も壮大であった。だから、授業でやった「徒然草」の「仁和寺にある法師、年寄るまで石淸水を拜まざりければ、……」の痛い失敗談が腑に落ちるわけである。]

 春も漸々(やうやう)半ばより、遠山の殘雪も霞の衣(きぬ)にぬぎかへ、余寒のあらしも、東風(こち)ふくかぜに、實(げに)、所がらなる川水に、花をうかめ、浪の聲も靜かに、

「『人、更に若き時なし、常に春ならず。酒をむなしうする事なかれ。』と、故人もいへれば、いざや、夜と共に神崎(かんざき)・枚方(ひらかた)のほとりへ、小船に竿さして、蒙氣(もうき)をはらさむ。」

と、二人の法師もろともに、下部(しもべ)、少々(せうせう)召し具して、何となくうかれ出《いで》、川下に行くに、男山の姿も妹背の中(なか)、芦邊(あしべ)の葉、分けて、けふも入日の鳴戶、波風もなき人の心に、『唯だ、殘鶯《ざんあう》と落花とに別る。』といへる、誠(まこと)なる哉《かな》、たなゝし小舟(をぶね)棹(さほ)さして、芦間(あしま)にあさる漁人(ぎよじん)になぐさみ、浪(なみ)にうかべる鷗(かもめ)の、入日に、をのが影を洗(あら)ふも、おかし。

[やぶちゃん注:「人、更に若き時なし。常に春ならず。酒をむなしうする事なかれ。」「竹林の七賢」や陶淵明の詩文にありそうだが、前半部で、ぱっと浮ぶのは授業でやった劉希夷の「代悲白頭翁」の「年年歲歲花相似 歲歲年年人不同」だろうな。

「蒙氣」気分が塞ぐことを言う。

「男山」石清水八幡宮のある山

「妹背」一般に川などを挟んで対する山を妹背山と呼ぶことが多い。但し、どこを称しているかは、私には判らない。男山は宇治川左岸の独立峰だからである。川下に向かっているので、枚方附近の丘陵に包まれてゆくことを言うか。但し、ここは同じ左岸であり、しかも、この丘陵、古い地図を見ても、高いところでも八十メートルほどしかない。

「殘鶯《ざんあう》」底本では「ざんわう」と歴史的仮名遣を誤っている。国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右丁後ろから五行目)、さらに後刷の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像PDF一括版・九コマ目・同前)を見られたい。さらに指摘しておかねばならないのは、国書刊行会の「江戸文庫」の「浮世草子怪談集」(同書の底本は上の国立国会図書館の蔵本である)で、致命的なミスを犯していることである。そこでは『殘鷲』となっているのだが、「鷲」の崩し字では、上の部分は、こんな簡略には絶対にならない。これは絶対に「鶯」である。また、鷹は「渡り」をするが、秋であって、シークエンスとしてもあり得ない。字起こしをした学生のデータも「鷲」になっており、木越治先生の見落としである。「江戸文庫」はどれも高い。本書は購入時、四千六百円であった。ちょいと、ムッときたね。

「たなゝし小舟」「棚無し小舟」船棚(ふなだな:中世以降の和船で航(かわら:和船の船首から船尾に通す長く厚い舟底の板材)以外の外板)のない小さな舟。丸木舟や一枚棚の小舟などを指す。船端の上部にとくに握り手や座れるような補助材が全くないのである。]

 夫(それ)より神埼(かんざき)の入江にうかれよるに、いづちともなく、春風かすかに、琴(きん)の音(ね)をおくり、遙香(ようかう)ほのかに、袖にうつれり。

[やぶちゃん注:「神埼(かんざき)の入江」よく判らぬが、宇治川の下流で、右岸で分岐する川があり、これが神崎川である。「今昔マップ」の古い地図で見ると、この分岐の辺りに「江口」の地名を確認出来る。]

 

 人々、興に乘じて、この琴の音を便りに、舟をさし行《ゆく》に、とある岸に造りかけたる大家(たいか)あり。一間なる書院の障子おしひらき、簾下(すだれした)に一つの風鈴(ふれう)をさげ、おばしまに、色々の小鳥を、ならべ置きたり。

「いかなる人か、住みて。」

と、奧ゆかしく、ちかぢかと、舟をよせてみしに、大なる酒店(しゆてん/さかや[やぶちゃん注:右/左のルビ。])にてぞ有ける。遙かのおくに、十六、七の、容顏美麗の女たゞ一人、春の夕暮にあくがれて、琴(きん)をしらべてあり。そのさま、更に輕粉(けいふん)をぬらずして、をのづからの風流、よろづ、つくろはぬさま、此の世の人とも、見へず。

 心も空(そら)に成《なり》て、なりを靜めて、ながめ入《いり》たり。磯にねむれる子がひの水鳥の、船のよるせに驚きて、馴し欄檻(らんかん)に飛びあがるに、此の娘、

「いかなるものゝ、おどろかすにや。」

と、ふと立《たち》て、人々を見つけ、うちおどろきたるが、晴光が男色(なんしよく)に忽ち、まよひ、

「世には。かゝる人も、有《あり》けるよ。」

と、あからめもせず、ながめ立《たち》たり。

「折から、船中に酒をむなしくなし侍る。酒、もとむべき家《いへ》も侍らば、敎へ給へ。」

と、詞(ことば)をかはせば、此女、貌(かほ)うちあかめ、

「此の家こそ往來の酒家(さかや)にてさむらへ。あがらせ給ひて、もとめ給へ。」

と、いらへければ、人々、うれしく、舟をつけて、かの家に立入《たちいり》、

「こよひは、月もくまなきに、春の夜(よ)、爰(こゝ)にて、暫く休らひ侍らんに。」

と、いへば、亭(あるじ)、よろこび、さまざまの珍味をとゝのへ、酒を、すゝめける。

「先(さき)に聞つる琴(きん)の音(ね)こそ、ゆかしけれ。」

と、口々《くちぐち》にいひのゝしれば、主(あるじ)、

「それこそ野人(やじん)が娘の手すさびもて遊びさぶらふ。中々、御見參(《ご》げんざん)に入《いれ》奉るべき物に、あらず。」

とて、つれなき返事に、たかぬさきよりこがれて、障子の間(あい)より、此女と、目とめを見あはせ、心に物をいはせて、千々(ちゞ)に思ひをくだきけるに、さすが、人めもはづかしく、既に夜も更けゆけば、

「さのみは、いかゞ。」

と、をのをの、いとまを乞ひて、又のよるせをちぎり、舟に棹さして歸りぬ。

[やぶちゃん注:「たかぬさきよりこがれて」「焚かぬ先より焦がれて」であろうか。洒落である。]

 かゝる程に、此の娘、晴光を見初めて、

「我、たまたま、人界(にんがい)に生(むま)れ、思ふ人にもそはざらむこそ本意(ほい)ならね。今までの通(かよ)はせ文《ぶみ》、あげてだに見ず。世の人に『情けしらず』と名にたつも、心にそまぬ故ぞかし。わが心をも『哀れ』と思ひ給はゞ、二世(《に》せ)かけてのゑにしを結び給へ。」

と、天にあこがれ、俄かに口ばしり、心みだれ、手がひの虎の綱を引《ひき》、長刀(なぎなた)のさやをはづし、持ち出《いづ》れば、人、あたりへも、よりつかず、漸々(やうやう)、めのと[やぶちゃん注:乳母。]、命(いのち)を捨てて、すがりつき、

「彼(かの)人を媒(なかだち)し、御ねがひの通り、夫婦(ふうふ)となしまいらせん。」

と、さまざま、すかしいたはるに、次第に、たのみ少く、禰宜・神主にはらひし、佛神にいのるに、更に甲斐なし。

 あるじ夫婦も、

「たとへいかなる人なりとも、吾が子の思ひ入《いり》たらむに、などか逢はせざらむ。」

と、いろいろ、尋ね求むるに、いづちの人ともしらねば、爲方(せんかた)なく、只、ひたすらに、

「かの人に、今一たび、めぐり合《あはせ》て、たび給へ。」

と、氏神に祈誓申《まうし》けるこそ、せめての事と、哀れなり。

「かく身のうへを取り亂しなば、後(のち)の世の罪も、いかならん。」

と、色々に看病しけれども、今はかぎりのうき世と、時をまつ折ふし、枕を、我(われ)と上げ、

「うれしや。かの人、あすの夕ぐれには、こゝにおはすべし。かしこを掃き、こゝを拂(はら)へ。」

と、よろこび、いさむ、けしきあり。

『これも、例(れい)のうつゝ事よ。』

と思ひながら、町のはづれに人を置くに、案のごとく、内匠(たくみ)、いつぞや見初めし折からより、夜每に相ひ逢ふて、夢にちぎりをかはしけるが、あまりに不思義(《ふ》しぎ)に思ひける間(あいだ)、又、かのほとりへ、さすらひ行《ゆき》けるを、かの家にいざなひ、主(あるじ)、ひそかに、始終(はじめをはり)を語る。

「いかなる御方(おんかた)にて侍るも、いさ、しらねども、且つは、人を助くる道なれば、草の枕の一夜(《ひと》よ)をも、情けをかけて助けさせおはしませ。」

と、淚をながし、夫婦ともに、ふししづみ、くどきけり。

[やぶちゃん注:「いさ」副詞後に「知らず」の意の語句を伴って「さあ、どうだか」「さてまあ、どうなるか判りませぬが」の意。]

 晴光も、あはれに引《ひか》れありし事ども、語り出《いだ》し、あまりのふしぎに、これまで來《きた》る事を說(と)く。

 やがて、枕にちかづき、よりて見るに、すべて、夢にみし俤(おもかげ)に違(たが)ふ所、なし。

 娘、忽ちに起き上がり、もとの姿となり、年月(としつき)の思ひを語る。

「身はこゝに有《あり》ながら、魂(たましひ)は前々(さきざき)に付《つき》そひ、人こそしらね、幻しのたはむれ。」

「あるときは、難波(なには)・住吉(すみよし)をめぐりて、天王寺(てんわうじ)の御坊にて、一夜をあかし、旅の衾(ふすま)の下(した)にこがれて、物いはぬ契りをこめ、夢中に、かはせし。」

かたみの者も、互ひの袖にくらべて、うたがひをはらし、二世(《に》せ)の契りをこめ、とし比《ごろ》かよひけるに…………

……中三《なかみ》とせを過ぎて、織田信長公、數萬(すまん)の軍士を卒(そつ)して、淀の城、十重廿重(とへはたへ)にとり卷き、月を經て攻め給へば、籠城の人々も、網代(あじろ)の魚(うを)のごとくに忍びて、通ふ事もなく成《なり》しかば、娘は、あるにもあられずして、淀のほとりに徘徊しけるを、佐久間信盛(さくまのぶもり)が手にとられ、暫く、陣中に有《あり》ける。

『猶、これまでも、何とぞし、城内へ入《いり》、今一度(いまひとたび)、逢ひ見ばや。』

と やたけに思へど、女の身の淺ましさ、空しく日數(ひかず)をふるほどに、終《つひ》に、元龜四年七月廿七日に、城(しろ)、おちて、一族、ことごとく自害して、一朝(《いつ》てう)の煙(けふり)と立《たち》のぼる。

 此まぎわに、石をふところに入《いれ》て、淀川のふかみに身を投げて、底の、みくづとなり、共に貞女の道を失はず。

「誠に。やさしき事どもや。」

と、諸人(しよにん)、袖をぞ、ぬらしける。

 

[やぶちゃん注:本篇には挿絵はない。

 なお、以上のエンディングにジョイントする部分は、ちょっと原文に難がある。二人の幸せが急激に暗転する部分の展開を焦るあまり、詞が足らず、どうも上手くない。そこで特異的に点線を用いて、そのぎくしゃくする部分を、かく改行して示した。

「輕粉(けいふん)」粉白粉(こなおしろい)。「はらや」とも呼ぶ。伊勢白粉。白粉以外に顔面の腫れ物・血行不良及び腹痛の内服・全般的な皮膚病外用薬、さらには梅毒や虱の特効薬や利尿剤として広く使用された。伊勢松坂の射和(いざわ)で多く生産された。成分は塩化第一水銀Hg₂Cl₂=甘汞(かんこう)であり、塗布でも中毒の危険性があり、特に吸引した場合、急性の水銀中毒症状を引き起こす可能性がある。現在は使用されていない。

「織田信長公、數萬の軍士を卒して、淀の城、十重廿重にとり卷き、月を經て攻め給へば」既に淀城の注で述べた通り、このような史実は確認出来ない。

「佐久間信盛」(?~天正一〇(一五八二)年)当時は織田家家老。初め、織田信秀に仕え、後に信長に従って「近江佐々木氏討伐」・「比叡山焼打」・「三方ヶ原の戦い」・「朝倉攻め」や一向一揆の鎮圧、及び、松永氏の討伐などに功があったが、天正八(一五八〇)年に信長に追放され(誰かの讒言によるともされる)、高野山に入って落飾した。

「やたけ思へど」「彌猛に思ふ」は「心が勇み立ってあせる・気が揉めて苛立つ」の意。

「元龜四年七月廿七日」ユリウス暦一五七三年八月二十四日(グレゴリオ暦換算九月三日)。まさにこの月、信長は足利義昭を追放し、室町幕府は名実ともに滅亡した。]

2022/04/06

譚海 卷之四 三味線琉球國より傳來の事

 

○三味線は琉球國より永祿の比わたる。もとは二絃なりしを、其比(そのころ)泉州境に中莊司[やぶちゃん注:底本では「莊」の右に『庄』らしき傍注があるのだが、印刷がスレて判然としない。]と云(いふ)盲人有(あり)、琵琶法師也、此人この器(き)を聞(きき)てはじめて工風(くふう)を付(つけ)、二絃にては調子とゝのはざるゆゑ、一絃を足して三味せんとせしなり。中莊司弟子に石村・淺田・虎澤などといふ盲人あり、それに曲を製して傳へたる也。此師弟轉傳(てんでん)の際に、りうきうの組、或は但馬組などと云(いふ)七組の曲出來たり、是を本手組(ほんてぐみ)と號す。其後寬永中京都に加賀のいち・城(じやう)ひでといふ兩人の盲人、右の曲を傳來して名手也。加賀の都(いち)は座頭の官位をして柳川檢校となり、城ひでは八橋檢校と成(なり)ぬ。此人々の際に工風をつけて、本手組の外にはて組などといふもの出來たり。扨(さて)柳川門人に淺利檢校・狹山檢校といふ兩人あり。此兩人工夫をつけて、二上(にあが)り・三下(さんさが)り等の長歌組等もいろいろ出來たり。又淺利の弟子に市川檢校などといふものありて、組百番の節出來たり。柳川・八橋兩人の工夫にて、本手はで組の外に八曲の祕曲を製したり。搖上(ゆりかみ)・亂後夜(らんこや)[やぶちゃん注:この上の二曲の読みは底本にルビがあるものである。]・七つ子・早舟・茶碗・淺黃・さらひ・なかじま也。もとは十曲成しが、二曲斷絕せし也。最初は後夜の曲といふものばかり也、それは絕(たえ)て又らんごやのみ殘りし也、夫(それ)に十曲を製しそへたる也。又りんじつ・雲井・らうさい等は、長歌組百餘番の中に有(ある)曲なり。さて淺井檢校の孫弟子に、越後の國に繁の都(いち)といふもの有(あり)、此ものゝ弟子に宗都(そういち)といふもの、天明三年江戶へ出て居たるとき、此來歷をかたりし也。

[やぶちゃん注:「永祿」一五五八年から一五七〇年まで。天皇は正親町天皇、室町幕府将軍は足利義輝・足利義栄・足利義昭。最早、戦国時代。

「境」自由都市として知られる大坂の堺。

「中莊司」底本では「莊」の右に『庄』らしき傍注があるのだが、印刷がスレて判然としない。講談社の「日本人名大辞典」では、戦国・織豊時代の琵琶法師中小路なかしょうじ 生没年未詳)なる人物が、永禄の頃、琉球から堺に伝来した三弦の蛇皮の楽器を最初に改良して三味線として演奏したとされるが、三味線の創始者については、石村検校とする説や、両者を同一人とする説があり、また、この「中小路」を人名ではなく、堺の地名とする説もある、とあった。

「寬永中」一六二四年から一六四四年まで。

「柳川檢校」当該ウィキあり。

「八橋檢校」当該ウィキあり。

「淺利檢校」(寛永七(一六三〇)年?~元禄一一(一六九八)年)は柳川検校より三絃柳川流の相伝を受け、柳川検校と並ぶ名人と称された。

「狹山檢校」(元和六(一六二〇)年頃~元禄七(一六九四)年)は筝曲作曲家。姓は「狭山」とも表記される。長歌を創始したことで有名。当該ウィキを見られたいが、『柳川と同じ門人であった浅利検校と』ともに、『三味線に新しい弾き方を取り入れた撥である「片撥」を使った組歌を創始し』、『これが長歌の始まり』となり、『この技法を用いた組歌を多く作曲し、一躍名を馳せた』とある。

「二上り」一の糸に対し、二の糸を完全五度高く、三の糸をオクターブ高く合わせる。本調子の二の糸を上げると、この調子になることからの呼称。沖縄県では「二上げ」とも言う。

「三下り」一の糸に対し、二の糸を完全四度高く、三の糸を短七度高く合わせる。本調子の三の糸を下げると、この調子になることからの呼称。沖縄県では「三下げ」とも言う。

「市川檢校」(生没年未詳)は地歌演奏者・作曲者。柳川検校或いは浅利検校に入門し、寛文から延宝にかけて(一六六一年から一六八一年まで)、主に江戸で活躍し、貞享元 (一六八四) 年に検校にのぼった。浅利検校・佐山検校と並び称された。作品に長唄「狭衣(さごろも)」「四季」などがある。

「七つ子」底本は右注で『七草』とし、国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本のこちらでは、本文自体が『七草』となっている。

「繁の都(いち)」不詳。

「宗都(そういち)」不詳。読みは推定。

「天明三年」一七八三年。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 梭螺(ヒカイ) / 未詳

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Higai

 

梭螺【「ひがい」。】

 

予、曰はく、「ひ貝(がい)」は、又、別種にあり。此の者、詳らかならず。「峯(みね)の葉貝(はがひ)」は、則ち、此の者なり。

 

[やぶちゃん注:正真正銘のヒガイは、既にずっと昔にフライングして電子化した『毛利梅園「梅園介譜」 梭貝(ヒガイ)』(既に電子化を順にし終えた中の底本のここにあるもの)を見られたい。

 さて、本図はシュールレアリスムの絵画を見るような強烈なデフォルメがなされたものの如く見えるのであるが、幾つかの図版やネット上の画像を見るに、私は、かなりの異形として知られる、

腹足綱前鰓亜綱盤足目ヤツシロガイ超科イボボラ科シマイボボラ属シマイボボラ Distorsio anus の稚貝或いは風化して色落ちした小型個体

ではないかと、初めは、見た。ゴツゴツ感は描写としては悪くないのだが、しかし、よく見ると、シマイボボラに極めて特徴的な水管の前溝の内唇下部が、ぐいっと開口部に強く突き出ていなくてはならないものが、ない。これはだめだ。というわけで、諦めた。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 郎君子(スガイ) / スガイの石灰質の蓋とそれを酢に投入した際の二個体の発泡図!!!

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Sugai

 

「多識扁」

  郎君子(ラウクンシ)【「すがい」・「何時貝」・「がんがら」。】

「海槎餘録(かいさよろく)」

  相思子(サウシシ)

  相思螺(サウシラ)

 

酢の中に入るれば、則ち、自(おのづか)ら動き、歩行す。

 

[やぶちゃん注:これは、

腹足綱古腹足目ニシキウズ上科リュウテン科オオベソスガイ属スガイ Lunella coreensis

である。一番右が、

その蓋の軟体部に附着している蒂を含んだ図

であり、左の二個体は、

それを皿等の浅い器に酢を入れた中に、蒂を削り取り、丸く隆起した蓋の外側を下にして置いた際の、泡を吹いて動き回る様子をスカルプティング・イン・タイムした図

と判断した。ウィキの「スガイ」によれば、『極東』の『温帯域の潮間帯に生息して藻類などを食べる。食用貝』で、『日本の磯に於いてはイボニシなどともに普通に見られる種の一つである。特に西日本の静穏な海岸域では個体数が多い』。『和名はその蓋を酢に入れて自然に動くのを楽しんだことに由来する。このため』、『「酢貝」という名は本来は本種の蓋に対する名であって、貝自体にはカラクモガイ(唐雲貝)などの』異『名がある。他に郎君子、相思螺、津美(つび)、鬼眼睛、雌雄石などの名があるが、そのうちのいくつかは「酢貝」と同様に本種の蓋に付けられたものである』。二十『世紀中は、より南方に分布するカンギク』Lunella granulata 『の亜種とされることも多く、両者は殻の突起の強弱などで区別されて来たが、ミトコンドリアDNAによる系統解析を行った』結果、二〇〇七年に『スガイとカンギクはそれぞれが独立種であると結論』された。『しかし』、『カンギクの殻の突起は環境によっても変化することが知られており』、『ときにはカンギクとスガイとの中間的な外見をもつ個体もあるため、殻の外見での区別が容易でない場合もある』。『殻径』二~三センチメートル『のつぶれた独楽型で、サザエ』リュウテン科リュウテン属サザエ亜属サザエ Turbo sazae 『を丸く小さくし』、『螺塔部を押し込んで平たくしたような形をしている。硬く厚い石灰質の蓋をもつことや、殻の内側に真珠層が発達することなどもサザエと同じであるが、螺塔はほとんど高まらないため、上面は弱いドーム状で、ときには平坦に近いものもある。成貝では殻頂が摩滅していることも多く、その場合は殻頂中央に小さな穴が開いたようになり、その周りがオレンジ色を帯びているのが普通である。殻底と肩にはそれぞれ結節を持った螺肋を持つほか、殻表には顆粒状の細い螺肋を複数持つ。特に幼貝では肩が角張るが、成貝では大分丸みを帯びるものが多くなる』。『殻色は多少の絣模様を持った黄褐色、赤褐色、緑褐色などで若干の変異があるが、殻面はやや厚い褐色の殻皮で覆われ、さらに』以下で示す『カイゴロモ』(緑藻植物門アオサ藻綱ミドリゲ目シオグサ属カイゴロモ Cladophora conchopheria )『に覆われることも多いため』、『磯では総じて暗緑色に見えることが多い。殻質は厚く、持つと大きさの割には重厚感がある。臍孔は幼貝では開くが、成貝ではほとんどの個体で閉じている』。『蓋は円形で厚く、内面は平たく外面は半球状に盛り上がっている。外面中央部はほぼ白色で、周縁部から暗緑色が一部溶け込んだような色彩をしている。表面には磨り減ったような極く弱い多数のイボ状彫刻が認められるが、全体にはほぼ滑らかでサザエの蓋のような明瞭な凹凸はない。本来の蓋は渦巻き模様が見えるクチクラ質でできた内側の褐色の部分で、外面に炭酸カルシウム層が沈着して厚くなる石灰質の蓋はリュウテン科』Turbinidae『の派生形質である』。『軟体はサザエと基本的に同じで、体表には緑がかった地に暗色の線状班が多数あって全体に黒っぽく見える。頭部には触角が』一『対あり、その基部の内側には』一『対の眉毛のような肉襞が、外側基部には目がある。両目の後方は肉が襞状に伸びており、活動時はこれらが半筒状に丸まって管状になり、左の襞が入水孔、右の襞は出水孔として機能する。腹足の裏は』二『分して左右を交互に動かして歩く。腹足の上部周縁には数対の上足突起(触角に似た長い触手)がある』。『北海道南部~九州南部、朝鮮半島などの沿岸に広く分布するとされるが、基本的には暖流系のグループであるため、本州中部以北の太平洋岸ではあまり多くない。潮間帯の岩礁や転石地などに生息し、特に比較的穏やかな磯を好む。昼間は岩と岩の間や転石下に見られるが、夜間は表面に出て這って採餌する。藻食性で、岩などに付着した藻類を食べる。そのため全くの泥や砂しかない場所には生息しない。雌雄異体で、放精と放卵によって受精する』。『本種の殻表にはしばしば』先に示した『シオグサ属の緑藻』類であるカイゴロモが『生育し、その群落が殻表をビロード状に覆うため』、『貝全体が藻の団子のように見えることがある。このカイゴロモはスガイの殻上にのみに生育するが、その理由は不明である』。『日本では磯で普通に見られることから、昔から磯遊びの対象として親しまれてきた。著名な例としてこの貝の蓋を半球面側を下にして酢に浸すと、酸で蓋の石灰質が溶解する際に、二酸化炭素の気泡を出しつつ、くるくると回転することから、古くから子供の遊びとなっていたという。冒頭に述べたように「酢貝」という名はこの遊びに由来し、本来は蓋のみの呼称で、本体の方にはカラクモガイ(唐雲貝)の名がある』。『また、近似種も含め』(リンク先にリストがある)、『食用として利用され、煮貝、塩茹で、味噌汁などでサザエと同様の』、『ほろ苦さと磯の香りを有し』、『美味とされる。広く一般に流通することは稀で』、『産地で消費されることがほとんどである』とある。

 私は実は二十代の頃に、サザエの蓋などで何度も実験してみたのだが、サザエのそれは、個体重量が有意にあるため、全く動かず、がっくりきたのを思い出す。ところが、それをコマ撮り動画を含めて、実験されたページを見つけた! YOSHIKOTO.HATTORI氏のサイト「サバイバル節約術」の中の「番外編 ~スガイのふた~」である。感動した! 是非、見られたい!

「多識扁」羅山道春が書いた辞書「多識編」。慶安二(一六四九)年の刊本があり、それが早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあったので、調べたところ、「卷四」のこちらに、

   *

郎君子(ラウクンシ) 相思子(サウシシ) 鬼眼睛 尓那乃加良

   *

最後は「鬼眼睛」(キガンセイ)で、如何にも蒂の雰囲気と眼球のような蓋で腑に落ち、「尓那乃加良」はまさに「になのから」(螺の殼)であろう。巻貝の蓋は殻の一部と見做すであろうから、これも目から鱗だ!

「何時貝」読みも意味も不詳。識者の御教授を乞う。

「がんがら」「岩殼」であろう。現行ではスガイと似たようなリュウテン科クボガイ亜科クボガイ属にコシダカガンガラ Tegula rustica がいる。漢字表記は「腰高岩殻」。「磯もの」としてスガイと同じく食用にされ、結構、人気のある種である(昔、私もよく食べた)。但し、同種は石灰質の蓋は持たないはずである。

「海槎餘録(かいさよろく)」明の顧玠(こかい)撰になる一五四〇年成立の南方の地誌のようである。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、明の陶珽(とうてい)の纂になる「説郛」の中に見出せ、ここに「相思螺」が載り、内容からスガイの蓋と同じ現象が記されてある。これもまた、感動したので、暴虎馮河で訓読を試みる。

   *

相思子は海中に生ず。螺(にな)のごときの狀(かたち)にして、中に實(み)あり、石のごとし。焉(こ)れ、大いさ、荳(まめ)の粒に比す。好事の者、筐笥(けふし)[やぶちゃん注:現代仮名遣「きょうし」。長方形の竹製の文箱。]に藏(をさ)め置きて、積むに、歲(としふ)るも、壞れず。亦、轉び動かず。若(も)し、醋(す)一盂(ひとはち)を置き、試みに、其の中に投ずれば、遂に移動し、盤旋(ばんせん)して、已(や)まず。亦、一奇物なり。

   *

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 朗光(サルボウ) / サルボウ或いはマルサルボウ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Sarubou

 

朗光(さるぼう)

 竒品

 

[やぶちゃん注:まあ、名前通り、

斧足綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科リュウキュウサルボウ属サルボウ Anadara kagoshimensis 

を挙げておくが、殻頂は欠損しているものか、もし殻が壊れていなければそこはかなり膨らんでいたとも考えられ、しかも貝の全体の形が、円形に纏まっているところは、別名「マルサルボウ」とも呼ぶ、

サトウガイAnadara satowi

の可能性も否定出来ない。通常のサルボウを見慣れていれば、このサトウガイは「竒品」となろう。しかし、この「竒品」というのが、すぐ右手に描かれている奇体な「蛤(ハマグリ)」のように、単に殻頂が欠損しているものを言っている気もしなくはない。但し、描かれているそれの放射肋は甚だ少なく(見えるものは辺縁を入れても二十本を数えるのみ)、だとすると、放射肋が有意に少ない(それでも三十二条)サルボウの可能性が高くはなる。「大和本草卷之十四 水蟲 介類 朗光(さるぼ)」も参照されたい。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 蛤(ハマクリ・竒品) / ハマグリ(広義或いは同定不能)の左殻の中央部を人為的に三角上に状にカットしたものか?

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。ここではその記載も画像で示した。]

 

Hanaguri

 

蛤【「はまぐり」。】竒品。

 

此の數品(すひん、和田氏藏、同九月廿二日、眞写す。

 

[やぶちゃん注:これは、ハマグリ(学名その他は『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 蛤蜊(ハマグリ) / ハマグリ(四個体)・チョウセンハマグリ(三個体)』を見られたい。但し、本当に種としてそれらのどれかにはっきり同定出来るかどうかは、甚だ心許ない)左殻の中央部が、三角形状に人為的に切り取られた(殻頂正面直下の中央の一部分の内面が少し残っている)ものとしか思えない。「竒品」と言うのも、何か憚られる、何となく嫌な感じさえ漂っている。それは、見えているはずの殻の内側を暗褐色に彩っているせいであろう。或いは、実はこの部分は完全に抜き去ったのではなく、職人が表面を内側を残して削り取ったものであり、この部分は殻の内層の色なのかも知れない(私はホシダカラで貝殻の表面を削って、色の変異を見たことがあったが、ハマグリはやったことがないから果してこんな色やや輪状痕が見えるかどうかは判らない)。ともかくも「イヤナカンジ」は拭えない。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 巻物貝(マキモノガイ) / トウガタガイ科の仲間か

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Makimonogai

 

巻物貝(まきものがい)【三種。「まきぎぬ」。「百介圖」。】

 

 

[やぶちゃん注:現行の和名異名に「マキギヌ」があり、それは現在は、

腹足綱異鰓亜綱異旋目トウガタガイ上科トウガタガイ科Monotygma 属ヒメゴウナ Monotygma eximia

に与えられているようである。吉良図鑑では「マキギヌ」を標準和名として、他に「マキモノガイ」「キスガイ」を挙げ、よくお世話になるサイト「微小貝」の同種では、他の異名に「ハナシクチキレガイ」を載せる。この画像を見ると、図の下方の個体が、ややそれに近いようには見受けられる。但し、上の二個体はそれではない。

 左上の個体は、螺塔の感じが、どうも風化が進んだもののように思われ、この色や螺層から同定することは出来そうもないが、トウガタガイ上科Pyramidelloidea の一種であろうことは、何となくは判る。

 而して、右の小さな個体は、螺層が有意に茶褐色を呈していることと、螺塔がやや短いことから、

トウガタガイ科チャイロクチキレ属チャイロクチキレ Colsyrnola brunnea

の稚貝かとも思われる。]

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「月光的文献」

 

[やぶちゃん注:今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。なお、この章、全く芥川龍之介への言及がなく、一見、無関係なパートのように見える。しかし、これは巧妙な確信犯であると私は思う。それは標題の「月光」である。芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」が公開された際、直ちに諸氏の間で問題となった謎の女性――月光の女――がいるからである。同作中の「十八 月」、「二十三 彼女」、「二十七 スパルタ式訓練」、「三十 雨」の四章に出現する。この謎の女性については、私は三十近くの芥川龍之介の記事でこの〈月光の女〉を考察しており、特にその中の一つを選ぶことは読者に特定の女性をイメージさせてしまう虞れがあるので、敢えて掲げないが、最終的には龍之介の〈月光の女〉とは、龍之介が恋愛感情を抱いた複数の女性たちのハイブリッドな象徴総称であると言ってよい(その女性の姓名を私は、最低でも絶対的確信性を持った四人を即座に挙げられる。妻の文さんを除いて、である)。犀星は恐らくその中の片山廣子(犀星は龍之介よりも先に軽井沢で廣子を直に親しく知っていた。但し、龍之介は、それよりもずっと以前の大学生の時、彼女の歌集「翡翠」(かはせみ)の好意的書評を『新思潮』に載せたことから、ごく軽い交流はあった。なお、私は廣子こそ芥川龍之介の最後の至上の愛の対象者であったことを確信はしている)を「月光の女」に比定しているとまず断言してもよかろうとは思う。ともかくも私が言いたいのは、犀星は――この標題に龍之介の〈月光の女〉を匂わせている――ことは確実だということである。]

 

    月光的文献

 

 一 喫煙と死

 

 每月十五日に我我は小さい會合を催した。そして殆ど終夜喫煙を擅《ほしいまま》にするのだつたが、これはパイプの會と名付けられてゐた。會員には資格はないが一本のパイプを携へることが條件だつた。薔薇の根でつくつたパイプさへ携(も)てば、そして會員の内の誰かの懇切な紹介さへあればいいのであつた。パイプの會であるから珍しい煙草を試煙することは言ふまでもないが、會員は既にマイ・ミクスチユアの濃厚な直ぐ舌の上に重い氣分を感じさせるのに飽いて、寧ろクレブン、ミクスチユアを常用する程になつてゐた。

[やぶちゃん注:総標題の「月光的文献」の「献」の字はママである。底本の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを参照されたい。

「マイ・ミクスチユア」「クレブン、ミクスチユア」煙草の銘柄のようである。前者は見つけたが、後者は不明。「コレブン」の後が読点なのはママ。「マイ」の後の中黒は普通より大き目である。孰れも底本を参照。]

 彼らは啻《ただ》に喫煙するばかりではなく、料理をも併せて註文する關係上、上野の或大きな西洋料理店の階上か、或はオオケストラの聞える階下の特別なボツクスを選ぶのだつた。ボツクスは奇體に急行列車のやうに駢《なら》んで、オオケストラの起ると同時に恰も疾走してゐる感じを持つてゐた。併乍らこれは大抵會員が酒に醉うてゐる爲に、さういふ感じを與へられるのかも知れなかつた。ともかく可成りハイカラな此會合には主として或同人雜誌の關係者が多かつた。大學生、大學助手、詩を書く男、小說家といふ順序だつた。彼らは酒飮むものがそれに心を傾けるやうに、喫煙によつてそれぞれの心を傾けてゐた。

 その晚は十五日のせゐか混んでゐて、我我會員の席が漸《や》つと取れたくらゐだつた。勿論音樂は夕方から引切りなしに續いて、街路の電車道では諸《もろもろ》の車が動いてゐたことは言ふまでもない、それが女達のゐる控部屋の鏡に映つて、この西洋料理店全體がメリイ・ゴオラウンドのやうに動いてゐた。先にも言つた樣に我我は醉うてゐたし音樂は夕方から歇《や》む間もなく續いてゐたし、それに我我は二時間以上も喫煙してゐたから、階上で客同士の喧嘩のあつたことも、すぐ屋後《をくご》の洗濯屋に小火《ぼや》のあつたことも知らなかつた。我我は我我同士のパイプの壺が段段に熱してくることや、醉と喫煙との過度からお互同士の顏が縱に長く伸びて見える事、舌の尖端に花火のやうな剌激のある痛みなどをそろそろ感じる頃であつた。我我のボツクスから勘定場のすぐ前の椅子に、我我に背後を見せてゐる一人の靑年が、酒場の方に向ひながら靜かに茶を喫《の》んでゐるのを見た。その後頭から頸、頸からの線が猫背になつてゐるところは我我に親しい誰かに似てゐた。併し我我はすぐ想ひ出せなかつた。我我同士はその誰かに肖《に》てゐるといふ考へを皆口に出しては云はずに、皆の氣持の中で感じ合うてゐた。

 夜が更けるとメリイ・ゴオラウンドのやうな料理店のボツクスの中では、六人の會員は音樂のまにまに映畫觀賞家の特異な或感覺に依つて、悲劇中の女主人公を物色するのであつた。彼女らは客の間を縫ひながら又引き返しては、注文書に料理の名前を書き入れる爲に鉛筆を走らせてゐた。

 常夜パイプの會員は十二時七分前までメリイ・ゴオラウンドに坐つてゐたから、都合夕方から六時間喫煙してゐた譯だつた。が、彼らの中の最年長者である籾山が顧みた時には酒場の鏡に向ひ背後を見せて坐ってゐた男は、とうにその姿を消してゐた。

[やぶちゃん注:「籾山」不詳。]

 

 二 月と歷史に就て

 

 千九百十二年六月下浣《げくわん》の月のある晚、自分は何の爲か塔の七階目から一度市街の燈火を眺め、更に十二階目から家根の上を見下ろしてゐた。曾て斯樣に彼は彼の住む都會を見下ろした經驗を持たなかつた。彼の視界はフイリスチアン、ロツプスの畫面と同樣な、奇異な蝙蝠の暗い翼の羽ばたく音を幾度となく耳に入れた。其他の光景は何の誇張もなくロツプスの神祕と惡戯との世界であつた。

[やぶちゃん注:「千九百十二年」明治四十五年。翌月末に明治天皇が崩御した。

「下浣」月の最後の十日間。下旬。

「塔」浅草の「十二階」。

「フイリスチアン、ロツプス」ベルギーの画家で、エッチングやアクアチント技法の版画家フェリシアン・ロップス(Félicien Rops 一八三三年~一八九八年)。エロチックな幻想的怪奇的作品がよく知られる。]

 暗い屋根裏に錢を算へる老婆や、女の裸の足を嚙る男の數珠つなぎになつてゐるのや、また八度目のお化粧を仕直す女、煙草を拾うて喫《の》む男が義眼を落した騷ぎや、小路の奧の下水に陷ち込んでそれきりで絕命したのや、其他樣樣の出米事が此千九百十二年代の公園を中心として起つたのである。つづめて云へば千九百十二年代の此公園はロツプスとゴヤとを捏《つ》き交ぜ、フツクスとモールの寫眞版の複製で一杯だつた。その證據には美しい池の水は夜は石油のやうな虹色をぎらつかせ、それに映るものは可憐な玉乘少女であつた。その可憐な少女を描くことは當時の新しい畫家の好題目だつたに違ひない、――自分ら千九百十二年代の詩人の多くは槪ね此癡情ある風景の中で擅に飮食し生長した。あらゆる惡德をも見遁さなかつた。最も美しい彼女らの中の一人が彼らの上に乘りかかり呶鳴るのであつた。

「ああ此文なしの畜生。」

 塔の上で自分らの發見した「思想」は、遂に神を呪はないところの正しい生活を慾望してゐた。痴情ある風景から田舍の新鮮を思惟するところと一般であつた。そして今日の自分は凡人の一賣文者であり、何れの惡德にも超然とするところの一紳士の假面をかむつてゐた。しかも今はその塔の上に再び登り彼の生活を俯仰することができなくなつたのである。千九百十二年代の病欝なる月光が再び我我の上に無いやうに、その公園すら昔日の「歷史」の中に編纂されるだけだつた。

[やぶちゃん注:「フツクス」オーストラリアの印象派の画家エマニュエル・フィリップ・フォックス(Emanuel Phillips Fox 一八六五年~一九一五年)。

「モール」不詳。音写に問題があるか。]

 

 三 月から分れたる者

 

 月から分れて出て來た男は、やはり同樣の女と冷たいアスパラガスの料理を食ベてゐたが、彼女の指はアスパラガスと同樣に白い冷たいものだつた。

 

 四 月光的詩人

 

 若し月光的詩人といふ言葉があれば、ボオドレエルやヴエルレエヌはより多き生彩ある月光的詩人であらう。ボオドレエルには病欝な黃ろい月光を、ヴエルレエヌには明鏡的な同時に詠嘆的な都會的古典趣味を各各感じるであらう。近代にはアポリネエルやコクトオや、或はポール・モオランの諸短篇にも各各月光的なる詩人の精神を閃かしてゐる。その外グウルモンにせよ、フランシス・ジアムにせよ、レニヱにせよ、新古典へ送り込まれた彼等の孰れも、月光的精神以外の詩人ではない。大摑みに云へば西歐の諸詩人は月か星かの匂ひを含まない詩は稀だと云つてよい。彼らは月光をも溶解して製られた舶來の石鹸のやうに、時に我我の心腸を洗滌して吳れると云つてよいのである。

[やぶちゃん注:フランスの外交官で作家のポール・モラン(Paul Morand 一八八八年~一九七六年)。短編集「夜ひらく」(Ouvert la nuit :一九二二 年)や「夜とざす」(Fermé la nuit :一九二三年)で、一躍、ベストセラー作家となった。]

 今の詩壇でこれらの詩人と比較して匂高い昨日の石嶮に數へらるべきものは、約言すればその月光的精神を生かしてゐるものは僅に詩集「月に吠える」の著者であつ萩原朔太郞氏であらう。大正五年代以前に萩原氏が既に「月に吠える」と稱する奇拔斬新の命題を撰んだことは、云ふまでもなく何等かの先覺的な使命を、當時にあつて上包《うはづつみ》を解かれざる新しい石鹸であつたことも實際であつた。當時新しがりの私でさえ此締りなき散文的な「月に吠える」を餘りによき命題だとは思はなかつた。寧ろ彼が斯樣《かやう》に新しがる程効果のない題意を窺に[やぶちゃん注:「竊に」(ひそかに)の誤字ではなかろうか。]萩原氏に傳へた程であつたが、彼は深く信據《しんきよ》するところがあつたのであらう、後になつても更めることがなかつた。

 萩原氏が月光的詩人であるとすれば、ボオドレエル型の黃ろく歪んだ屋根の上の月光とでも云つた方が適當であらう。明明皓皓の月光でない限り物凄い利鎌の如きものでもない。彼は病(やみ)しげで加之《しか》も片雲の間に漏れる黃ろい月光であると云つてよい。――併乍ら彼の詩の中で月光を唄ったものは殆ど稀だと云ってもよい程である。

 

  五 活動寫眞の月

 

 明治四十三、四年といふ年代に自分は東京に出て、初めて活動寫眞を見物したものであつた。當時にあつては歐洲諸國の文明開化をもつてすら未だ活動寫眞といふものは、人生の數奇多樣の生活を現すものではなく、奈何にして自然の美を會得せしむべきものであるかと云ふことに腐心してゐた。ロツキイ山脈や砂漠の映寫は、我我を生きたる寫眞として感激させたことは云ふまでもない、――二十數年後に「カリガリ博士」や又五年の後に「サルベエシヨン・ハンターズ」が表れるなどといふことは、殆ど當時に於て夢にさへ見られなかつたことだつた。

[やぶちゃん注:先行する「天上の梯子」の「十一 一本の映畫」の私の注を参照。次の段落の示すのもその文章である。]

 自分らは樂しい明治末期の活動小屋の中にゐて、奇異なる文字通りの活動寫眞を見物してゐたことを前以て述べた。しかも自分らはダンスといふものが西歐人の肢體によつて斯くも完全に、斯くも私どもの前に如實の如く踊り演じられることに、又なき好奇の眼を睜《みは》つたことは新しい喜びでもあり驚きでもあつた。當時は月光の中から瞬きしてゐる間に、數人の女が羅布《らふ/うすぎぬ》を纏ひながら、嫣然《えんぜん》[やぶちゃん注:美人が艶やかにほほ笑む様子。]として我我の面前で踊り續けるのであつた。彼らは月光から分れて出たもののやうに美しい長い手足を素早い動作によつて左右にヘシ曲げ、或は飛上つたりするのであつた。月ばかりではなく花束や或は星の群からも、手品師の扇からも、卓の上の煙草入れからも、舞うてゐる胡蝶や小鳥の籠や手帕《しゆはく》[やぶちゃん注:ハンカチーフ。]の皺からも、殆ど總《あら》ゆる物體の化身のやうに彼女らは舞ひ出てくるのだつた。しかも夫等《それら》の花や月から女が出る前には、必ず一人の奇怪な惡魔が、絕えず畫面の中を指揮し彷徨してゐるのだつた。

 當時自分は映寫中の一美人が嫣乎《につこり》と微笑する時、何となくきまり惡い思ひをし、そして何となく羞恥の情や赮面《かめん》[やぶちゃん注:赤面すること。]の面持をしたことは、强ち年少な好色にのみ耽つてゐた譯ではなく、餘りに我我の眼に近く物言ふごとく囁くごとく現れ踊つたからであつた。自分は永い間艶美で露骨な西洋人の微笑に惱まされてゐたのも、これらの映寫中の美人が物言ふごとく迫つてゐたからである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。]

 

 六 上田秋成

 

 上田秋成もまた月光的詩人であらう。

「淺茅が宿」や「靑頭巾」や「蛇性の婬」の物語には、軒漏る月かげでなければ、蔭をつくる物凄い月が射してゐる。或は彼らしく淸閑の月がほのかに照してゐる。西行も月の大家であるとしたら亦芭蕉も月の大家でなければならぬ。亦秋成も大家の外のものではない。彼の文章の中に何か仄かな月のあかりが漂ひ、不斷な「淺茅が宿」をあらはしてゐる。

      初    秋

 月あかき夜を誰かはめでざらん、ふん月望のこよひ、庵を出て、わづかに杖をひけば、鴨の河面なり、雨ふらぬほどなれば、月は流を尋ねやすむらん、音をしるべにとめくれば、むべも淸しとて、人々手にむすび、かいそうぶりなどして遊ぶ、風高く吹き、雲消え、影さやかにて、何をか思ふくまのあるべき、――(藤簍册子)

 十日あまりの月は峯にかくれて、木のくれやみのあやふきに、夢路にやすらふがごとし。(雨月物語)

 やよひの望の夜ごろ、かすみながらに、夕かけて月いと花やかにさしのぼりて、庭の梅が枝に先かかれる影の、花の色あらそふは、似て物もなくあはれ也。(つゝらふみ)

[やぶちゃん注:標題の「初秋」以降は底本ではポイント落ちであるが、同ポイントで示した。

「藤簍册子」は最後の「つゝらふみ」と同じ。これで「つづらぶみ」と読み、上田秋成著の歌文集。全六巻六冊。前三冊は享和二(一八〇二)年自序で文化二(一八〇五)年刊。後の三冊は文化三(一八〇六)年刊。和歌・紀行・文集から成る。歌は万葉調と古今調の中間的な作風で才気に溢れ、紀行・文集では流麗な雅文体によって、その文才を示している。歌人秋成の面目を窺うに足る作品集である。

「ふん月」陰暦七月の「文月」(ふみづき)の音変化。

「とめくれば」「尋(と)め來れば」。たずね求めて来たれば。

「かいそうぶり」歴史的仮名遣がおかしいが、「搔(か)添ふ振り」であろうか。「ぴったりと寄り添うような仕草をすること」のことである。]

 

 七 古い月

 

 芭蕉は月光の大家であるよりも、月の大家とあると言つた方が適當である。月光の新體詩人に冠すべきであるが、單にの大家であらう。しかも芭蕉の月の句は彼の英才を以てしても、大して新しくはない、と言っても決して古くはない。その句の殆ど總てに前書があり、偶吟といふよりも紀行や題意に叶うて詠じたものが多いやうである。「三日月や蕣《あさがほ》の夕べつぼむらん」旅中の吟「悌や姨《をば》ひとり泣く月の友」悼遠流天宥法印「其の玉を羽黑へかへせ法《のり》の月」燧山《ひうちやま》「義仲の寢覺の山か月悲し」稍《やや》晚年の作「秋もはやはらつく雨に月の形《なり》」等枚擧に暇がない。みな古風な、それ自身月の面影を持つてゐる。芭蕉は或は月の大家ではないかも知れぬ。彼はそれ以上の明明皓皓たる何者かであらう。或は蒼古二百年の古い月かも知れない。――

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。この条はいろいろと問題がある。

 まず冒頭の「芭蕉は月光の大家であるよりも、月の大家とあると言つた方が適當である」という部分で、非常に判り難い。私は、犀星は、

――芭蕉は「世間的に言うところの『風流の月の大家』と称すべき存在」なのではなく、「世間的に『月の大家』などと称されてしまっているところの不当な存在」と言うのが正しい――

という意味と採る。それは而して哲学的であって、最後の部分で、

――芭蕉はまさに時空間を突き抜けて「明明皓皓たる何者かであ」るところの「蒼古二百年の古い月」を、心象の中に『真の月存在』として確かにつらまえているところの、正に芭蕉自身が絶対的存在としての『月』的な存在であったのではないか?――

と言いたいのではないかと感じている。

「三日月や蕣《あさがほ》の夕べつぼむらん」「ウェッジ文庫」ではこの「蕣」に「むくげ」と読みを振ってしまっている。話にならない、大変な誤りである。

『悼遠流天宥法印「其の玉を羽黑へかへせ法《のり》の月」』私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 42 羽黒山 其玉や羽黑にかへす法(のり)の月』を参照されたいが、犀星が挙げているのは、「奥の細道」に採った句の異形である。]

 

 八 月光的感情に就て

 

 私は所謂月光派の詩人でもなければ、又特に古い月を詠むところの俳人でもない。併乍ら私の文學的生涯の過半には、いみじき月影は不斷に射してゐたに違ひないやうである。今も私の喜怒哀樂の夕には或は月光以上の明りが射し込んでゐる。私は今は西行のやうに月見れば悲しむといふ古への思想を輕蔑してゐるものに近いかも知れない。――日本に於ける總《あら》ゆる和歌や發句道の精神はこの月に事寄せて哀歡の情を述べたものであつたが、私は却てこの古き歷史と文學の背景とをもつところの月光に、直ちに情を述べる文學に贊成することができないやうである。萬葉集や元祿俳人の詩的精神、ボードレエルやヴエルレエヌの哀調を育て來たことを思へば、後代の月光も亦別樣な文學の榮光を生みつけるであらう。併し月に事寄せる文學は今のところ行き盡いてゐることも實際である。殆ど洗ひつくしたと云つてよい。

 高山樗牛が月夜の美感を書いたころは、今から二十年も昔であつた。空虛な文字ではあつたが當時にあつては私は愛讀したものであつた。彼には彼の熱情に依つて仄かに射すところの月光があつたことを私は記憶してゐる。德富蘆花や尾崎紅葉もまた月光的新派の一旗幟《きし》を持つてゐた。尾崎紅葉は何かしら一月十七日の月光を自分に印象させたことは、未だに可笑しい記億を殘してゐる。

[やぶちゃん注:「旗幟」「はっきりした態度・明確にした立場」の意。

「德富蘆花」ママ。蘆花は自ら姓は「德冨」という字体であることに拘った。

「尾崎紅葉は何かしら一月十七日の月光を自分に印象させたこと」「金色夜叉」の熱海の河岸のシークエンスは一月十七日である。]

曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その5) / 元吉原の記~了

 

   △再考原三郞左衞門事

 「寫本洞房語園」に云、『及ㇾ承候者、京都六條の三筋町と申は、天正年中に浪人原三郞左衞門と申者、取立候よし。此三郞左衞門儀は、元は大坂太閤樣御方に、御厩付の御奉公仕たる者にて、御出馬之節は、御馬の口取仕候處、病氣に付、致浪人、彼遊女町を取立申候。』。

[やぶちゃん注:以下、「證とす。」まで、底本では「あらずかし。」まで全体が一字下げ。]

 北峯、案るに、原三郞左衞門、この後、江戶に來り、柳町の遊女やをとり立しにや。同じ時代なるを思ヘば、何れか謬り傳へなるべし。

 𪈐齋、案るに、「吉原由緖書」に記せし趣と、心牛子の書れし原三郞左衞門が事は、同じからず。卽、「由緖書」の本文を引て、證とす。

 「吉原由緖書」云、『大橋之内柳町に、傾城や貳拾軒程、有ㇾ之。右大橋と申候は、今の常磐橋御門之通、柳町と申候は、道三河岸之邊に御座候。其頃、京都萬里小路と申所に、傾城屋、有ㇾ之候。是は原三郞左衞門と申者、天正年中に取立、柳町と申候。然ば、京都之遊女町之地を借り、用候樣に相聞候得共、大橋之内柳町と申は、其町之入口に、大木之柳二本、有ㇾ之候故、直に其町之名に致し、柳町と申候。右柳町之傾城屋共は、皆々、御當地素生之者共に御座候。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

 かゝれば、「寫本語園」と「吉原由緖書」と、その記ところ、相同じ。「由緖書」にいふよしは、京都萬里小路なる傾城やは、天正年中に、原三郞左衞門といふ者が取立たる也。その傾城屋は、京の柳の馬場の邊にあるをもて、柳町と呼なしたり。江戶の柳町にも傾城屋あれば、京の柳町の名をかり用て、しか、呼なしたるやうに聞ゆれども、さにあらず。江戶の柳町には、元來、大木の柳二本あるによりて、やがて柳町とよびて候と云也。且、江戶の柳町なる傾城や等は、江戶素生のよしなるにても、他鄕の人のとり立たるに、あらざること明けし。心牛子は、「由緖」に載たる此くだりを見あやまりて、『江戶の柳町の傾城屋を原三郞左衞門が取立し』と書れしが、その謬也。原三郞左衞門は、天正年中に、京の六條柳町なる傾城やを取立しのみ。江戶の柳町なるけいせい屋を、取立しものにはあらずかし。

   △明和以前吉原失火類燒過半の事

 北峯云、『「洞房語園」卷中、「きてう物語」の條に、『頃は延寶六年吉原類燒の砌にて、家作も、いまだ出來揃はず、桐屋が家も、ひら家にて、客あれば、局にてもてなしたり』云々とあるを見れば、五、六軒の火事とも思はれず。又、「南北燒亡記」【吉原と芝居の火災を記たる册子なり。】」に、『延寶四丙辰年十二月七日、夜、戌の刻、新吉原傾城町西側、湯屋市兵衞宅より出火、類燒之輩、京町壹丁目・新町・角町・江戶町貳丁目・揚屋町、何れも、兩がは、不ㇾ殘外へ燒出』云々。『傾城燒死十三人、逐電十六人也。』とあるを倂考るに、こゝに『延寶四』といヘるは、「六年」の謬にやあらん。「語園」の此の段の物語に、延寶七年の事をいへるなれば、しか、おもふ也。』といヘり。

[やぶちゃん注:以下の最終段落は底本では全体が一字下げ。]

 此說によれば、延寶の火災を逃れしは、江戶町壹丁目と伏見町・堺町のみなるべし。心牛子の筆記に、『明曆後、出火も有ㇾ之由』とのみいへるは、かやうの事は、吉原にても、くはしくは傳はらぬにや。但し、『五町、不ㇾ殘類燒せし。』は、明和五年を始とすること、勿論也。延寶も大火ならぬにあらざれども、猶、兩三巷路、殘りし歟。且、このころは假宅など唱て、廓外に出て商賣することはなかりしによりて、世の人も明和以前の火災は、多く、しらぬなるべし。

 

 

元 吉 原 の 記 終

 

曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その4)

 

[やぶちゃん注:底本のここから。以下の引用の内容を示す「その3」の馬琴の附言の末尾を以下に引用しておく。

   *

 附て云、心牛子の記されし、吉原起立の條々は、「吉原由緖書」の趣を抄錄せし也。又大橋の内柳町の遊女屋は、原三郞右衞門と云ものゝ、取立しといふこと、「吉原由緖書」にも見へたり。

 「御高札の事」、「鎭守の札の事」、「惣人別」、「藝者人別」、「『水吐尾』なる火之見やぐらの興廢」、「秋葉の常夜燈」、「吉原數度の火災の年月日時」等は、後の考にもなるべければ、珍とすべきものになん。よりて錄する事、左の如し。

   *

以下を書いた山口心牛なる人物は既に出た馬琴の年上の友人で「吉原図屛風」を所持していた書家中村仏庵の知人で、最後に「新吉原角町名主」であった「山口庄兵衞」なるものであることが記されてある。]

 

   △山口心牛筆記の内

 『大橋之内柳町と申侯者、道三河岸之通之由。是は原三郞右衞門と申者、天正年中に取立、柳町と申候由。其頃、庄司甚右衞門と申者』云々【原三郞右衞門が事は、「吉原由緖書」にあり。「由緖書」のまゝを書れし也。」】『御高札は、奧御祐筆御認之由、御高札は御番所にて、惣代之者並に名主へ御渡し、笠木並に建串は、御作事方より、五十軒道御高札場へ御持參、大工並に人足も御同道にて、笠木・建串・□繼等、補理[やぶちゃん注:「ほりし」。補い修理すること。設け整える。建て増す。]、御建替相濟、以前之御高札は、御作事方被ㇾ成御持參候事、鎭守之儀は、元吉原町之古例にて、神田明神より、年々、守札、神主より差越候事。

 惣人別は、年々增減有ㇾ之、凡、惣人數八千人程、右之内、遊女・禿とも三千六百人程、其外、遊女や・茶屋・商人屋等、月々にも增減有ㇾ之に付、巨細に記不ㇾ申候。

 名主は、江戶町壹丁目竹島仁左衞門、同町貳丁目西村佐兵衞、角町京町貳丁目兩町山口庄兵衞、京町壹丁目駒宮六左衞門、揚や町之儀は、年番名主、順番に支配致候故、名主無ㇾ之。

 醫師は、揚屋町に金山運庵、角町金山永示、其外、町每に醫師有ㇾ之候へども、久住之者無ㇾ之に付、記不ㇾ申候。

 大門預り會所守四郞兵衞儀は、從前々之通構にて、番人之支配を爲ㇾ致置候。

 秋葉常燈、「水吐尻」へ安置之儀は、寬政十二申年二月廿二日、下谷龍泉寺より出火、吉原町、類燒後、初て安置致候事、同所に十四年已前類燒後、補理不ㇾ申候事。

[やぶちゃん注:「秋葉常燈」「秋葉燈」は「秋葉常夜燈」の略。吉原にあった常明灯で、吉原仲の町の突き当たりの「水吐尻」(次注参照)に火除けの神として知られる秋葉山権現を祀る小社があり、その社前にあった高い銅製の灯籠を指す。

「水吐尻」は「すいどじり・すいだうじり」。元は「水道尻」で、「水戶尻」とも書いた。江戸の元吉原及び新吉原遊郭内にあった郭内の上水道の終点周辺の場所の名。]

男女藝者引請人、角町家持庄六儀は、安永八亥年中、五町之惣町人へ及對談一己に引受候事。

   男藝者 貳拾人程

 凡

   女藝者 百六拾人程

時々、增減有ㇾ之候得共、當時人數、右之通。

 大門、高さ棟迄、貳丈[やぶちゃん注:六メートル六センチ。]、冠木より地幅迄、八尺八寸[やぶちゃん注:二メートル六十六センチ。]、門之明、壹丈貳尺[やぶちゃん注:三メートル六十四センチ弱。]、門柱、壹尺六寸[やぶちゃん注:約四十八センチ半。]に壹尺貳寸に御座候。

右は先日被仰下以に付、取調差上申候。色々取込罷在、心外延引御用捨可ㇾ披ㇾ下候。

    文政八酉年二月廿日   心  牛

      佛  庵  樣

 尙々、御座見御無用奉願上候、以上。

[やぶちゃん注:以下、標題前までは底本では全体が二字下げ。馬琴の補足。]

 右、山口心牛、應仲村佛庵之囑て所ㇾ識也。此記文之中、新吉原御高札御文言、並、元吉原起立之略文等、與「吉原由緖」所一ㇾ載同。因略省之畢。

   △新吉原火災之事

 明曆二申年十月九日、當所へ替地被仰付候處、翌三酉正月十八日、本鄕本妙寺より出火にて、御府内、大槪類燒、吉原町も不ㇾ殘類燒に付、所替之儀、追て可ㇾ被仰付、當時、小屋懸を致し、渡世可レ致旨、町奉行所にて被仰渡候處、同年六月、被召出、代地へ引移候樣被仰渡、節其、近邊、今戶村・山谷村・新鳥越邊へ、假に引移、新吉原町惣普請に取懸り、同八月中、當所へ引移り渡世致し候由。其後、吉原町も出火有ㇾ之候得共、二、三軒、或は、五、六軒之類燒にて、一圓之燒失は無ㇾ之候。然處、明和五子年四月五日、江戶町貳丁目四つ目屋喜三郞申遊女屋より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 明和以前、吉原町出火之事、下に錄す。倂考べし。

 明和八卯年四月廿二日、揚屋町河岸角梅屋と申遊女屋より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 明和九辰年二月廿九日、目黑行人坂より出火、五町、不ㇾ殘類燒致候。

 天明元丑年九月晦日、伏見町淸七店[やぶちゃん注:「だな」。]宗田屋と申茶屋より出火、江戶町貳丁目計[やぶちゃん注:「ばかり」。]、類燒。[やぶちゃん注:最後のものは改行がないが、改行した。

 以下、「いひしことあり。」まで、底本では全体が一字下げ。]

 按ずるに、これを「小夜ぎぬ火事」と云。伏見町河岸家田屋のあそび、「さよぎぬ」といふものゝ、つけ火せしよし、その頃、忽に、ことあらはれて、火刑に行れし也。「その怨靈のわざ頃[やぶちゃん注:不審。「歟」か。]、この後、しばしば、吉原町、失火す。」とて、世の風聞あり。文化の中ごろにや。「德本行者の念佛の功力によりて、『さよぎぬ』は成佛せし。」など、世俗のいひしことあり。

[やぶちゃん注:「德本行者」(とくほん 宝暦八(一七五八)年?~文政元(一八一八)年?)は浄土宗の僧。当該ウィキによれば、文化一一(一八一四)年、『江戸増上寺典海の要請により』、『江戸小石川伝通院の一行院に住した。一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は関東・北陸・近畿まで及んだ。「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた。徳本の念仏は、木魚と鉦を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれた』とある。]

 天明四辰年四月十六日、京町壹丁目分水吐尻明家[やぶちゃん注:「あきや」。空家。]より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

[やぶちゃん注:以下の段落も同前。]

 按ずるに、この年のかり宅は、淺草並木町、兩國尾上町邊、中洲等也ければ、ことの外、繁昌しけり。「凡、假宅の盛なりしこと、これに增ことなし。」といへり。

 天明七未年十一月九日、角町分仲の町彥五郞店菊屋五郞兵衞より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 寬政六寅年四月二日、江戶町貳丁目丁字屋長兵衞・津の國屋重藏居宅地、境より、出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 寬政十二申年二月廿三日、下谷龍泉寺町より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 文化九申年十一月廿一日、淺草田圃非人頭善七小屋内より、出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 文化十三子年五月九日、京町壹丁目藤八店明店より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 文政七中年四月三日、京町貳丁目助右衞門店遊女屋金兵衞より出火、五町、不ㇾ殘類燒。

 右之通に御座候。但し、大門、燒殘、柱、取寄置申候。記事御認に御座候はゞ、兩面にて字數何程と申事、兩面御認之寸法等、御仰下候樣奉願上候。

  正月廿日       心   牛

    佛庵樣

    文政七甲申年四月三日、京町失火後、

    吉原大門左之方燒殘柱圖【圖、省略。】

 「此燒殘大門柱、みがきて、如ㇾ此、兩面、窪め、此度、吉原町起立より、廓内、數度、燒等まで、惣記を作り刻候て、小梅精舍前庭へ建候積り。後々、此記文、吉原内へも、建碑可ㇾ致。」との心牛子、相談なり。

 但し、心牛とあるは、新吉原角町名主山口庄兵衞也。

  五月十三日    南  無  佛

[やぶちゃん注:大門を大事にしたのは、先に見た通り、この特別な限定遊廓施設としての新吉原の、特別な幕府の定めた結界門たる大門の建造費用を幕府が負担したものだからと考えてよい。]

2022/04/05

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 烏帽子貝(ヱボシガイ) / エボシガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、右下に、梅園の親しい町医師のコレクションからで、『此』(この)『數品』(すひん)『和田氏藏』、『同九月廿二日、眞写』す、という記載がある(前二丁と同日である)。従ってこれは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日となる。]

 

Ebosigai

 

烏帽子貝(ゑぼしがい)【二種。】

 

[やぶちゃん注:これは「蛤蚌類」ではない。特異な形状であることから、梅園先生、やや勝手が違って、いかにも貝っぽく描こうというバイアスが感じられるのだが、固着性甲殻類の一種、

節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目エボシガイ亜目ボシガイ科エボシガイ属エボシガイ Lepas anatifera

としてよかろう。栗本丹洲が「栗氏千蟲譜」の巻九で、オニフジツボ Coronula diadema に附着寄生した Conchoderma 属ミミエボシ Conchoderma auritum を描いているが、やはり苦戦している。

 当該ウィキを引いておく。『流木などに付着し、海面を漂って生活する』。『体は』五『枚の白い殻板に覆われた頭状部と、殻板のない柄部からなる。殻板は白くて表面はなめらかだが、成長線と呼ばれる筋がある』。『頭状部の大きさは』二~五センチメートル『ほど。殻板の中には他の蔓脚類と同じく、蔓脚がある。柄部は肌色・ベージュ色で細長く、長さは個体によって異なるが』、十センチメートル『を超えることもある』、『また』、『柄部は伸縮するため、ときには』三十センチメートル『ほどにまで伸びるとされる』。『流木などの漂流物や船底に集団で付着して生活し、全世界の海洋に広く分布する』。『漂流物とともに海岸に流れ着き、漂着物として採集されることもある』。『蔓脚を用いて小型のプランクトンを食べる』。『雌雄同体だが』、『自家受精はせず、陰茎を通じて』、『他個体に精子を渡して繁殖する』。『蔓脚下綱(亜綱とされることも)は』三『つの上目(超目)からなるが、エボシガイ類はフジツボ類とともに完胸上目(超目)に含まれる。完胸上目はさらに』、『柄部を持つ有柄目と持たない無柄目に二分され、エボシガイを含むエボシガイ亜目』Lepadomorpha『は前述の通り柄部を持つので、有柄目の』一『群である。本種はそのなかでもエボシガイ科』Lepadidae『・エボシガイ属に分類される』。『エボシガイ属には本種の他に、同じく漂流物に付着するカルエボシなどが含まれる。エボシガイ科にはエボシガイ属以外に』五『つの属(うち』、一『つは絶滅している)が含まれ、クラゲに付着するクラゲエボシ』Alepas pacifica 、『ウオジラミ類』(甲殻亜門貧甲殻上綱ウオヤドリエビ綱鰓尾亜綱鰓尾(チョウ)目チョウ科Argulidae)『に付着するスジエボシ』Conchoderma virgatum 『など』、『さまざまな生態を持つ種が含まれている』。『和名は、頭状部のかたちが烏帽子に似ていること』に由来しよう。『エボシガイ属の学名Lepasはカサガイ』(腹足綱カサガイ目ヨメガカサ科 Cellana)『を指すギリシャ語で、リンネがこの仲間を貝類とみなしていたことに由来する。種小名 anatifera はラテン語で「カモを産む」という意味。同属のカルエボシの種小名 anserifera も「ガンを産む」という意味である。これらの名前は、中世ヨーロッパでエボシガイ類がガンやカモの卵であると信じられていたために名付けられた』。『この仲間を英語でgoose barnacleと呼ぶのも同じ迷信に由来する』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その3)

 

[やぶちゃん注:「曲亭雜記」の「元吉原の記」は前回の「(その2)」までで、以下は、国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第一のここからだけが底本となる。以下の判読不能の多いそれは、吉原遊廓の創建者庄司甚右衞門が北角九郎兵衛なる人物に送った文書である。底本で見ると判るのだが、この□は判読不能字も含まれているのだが、後の解説によれば、書かれたものを、後から接ぎ合わせた結果、一行の文句が上下合わなくなった結果であると述べていることから、実は、原記載は、もっと遙かに読み難いものであったらしい。底本では、その上下の空隙を総て一行の末に寄せたものででもあるらしい。但し、実際、読んでみても、すんなり文が繋がっていないから、恐らくはそこに判読不能字も含まれてしまっているのであろう。かといって、吉川弘文館随筆大成版では、完全ベタで、ページの一行字数に合わせてしまった結果、異様な感じに□の列がランダムにガタガタと並んでしまい、さらに読む意欲を失わさせる結果となってしまっているのである。底本のママに電子化した。これを判読してそこに書かれた事態を推理・分析した馬琴には、正直、舌を巻いた。

 

 △庄司甚右衞門與北角九郞兵衞一書【南無佛庵所藏。】

前文闕

與左衞門ヲはい名をつくり候、ちそう被ㇾ成お□□□

候事、其かくれも御座なく候。それがし□□□□□□

其方とゑんぺんをも相むすび候へば□□□□□□□

[やぶちゃん注:「ゑんぺん」「緣邊」。「えんぺん」で、「婚姻による縁続きの間柄」の意。]

おやこ三人之御のぼり候時分は、三人之丘□□□□

方之人に御座候も不ㇾ存して、我ら□□□□□□□□

罷なりやり申候。其しさい之事は、七十五□□□□□

方へくうぢをかけ申ゟゝと申候。□を九□□□□

[やぶちゃん注:「ゟゝ」は「よりより」と読んでおく。]

にはいちけんも申分有間敷候間、申分□□□□□□

付は九郞兵衞方へかけ申まじく候と申間□□□□□

そのさた其方へも我ら方へもくうぢ□□□□□□□

申はけすらそれは吉原之内にも二人も□□□□□□

かやう成者御座候て、もし九郞兵衞事□□□□□□

くらし□あけ可ㇾ申候と申に付ては、右之□□□□□

二三□□の者共さきだて候て、御公儀にて□□□□

せんさく可ㇾ申候と相ことわられ、七十五人□□□□

者□共さたもいたし不ㇾ申候。我々の事□□□□□□

ひとたび申合候に付、かやう成むづかしき□□□□

それがしが身上に請候。右に貴殿樣□□□□□□□

むごきにんしゆに御なり候事か。いか樣我、□□□□

御こうみ可レ有候間、其方樣とめんだん□□□□□□

申たがいのぞんぶんしさい申可レ承候。右□□□□□

しさいみゝきゝの御まいにて、京にて□□□□□□

たしか□□□□□□□成候。此かへし□□□□□□□

右に申通萬事之しさい共、たがいにそ□□□□□□

ぶんはれ不ㇾ申候内は、互のとりひき仕□□□□□□

申まじく候間、其分御心得可ㇾ被ㇾ成候。□□□□□□

四年以前より之公事之内より、申ぶん御さ□□□□

いか樣其方より御ふんべつも可ㇾ有候ところ□□□

先日之御狀に、我々身上をおかしく□□□□□□□

候との御狀はいけん申候。又われわれの□□□□□

その方をおかしく存候。江戶之けいせいとし□□□

いゑやしき迄も我々に其方御申候事、□□□□□□

何かの事も吉兵衞は不ㇾ存候間、あとあとの事□□□

其方賴合と御申候所に、吉兵衞は七十五人より□□

之目つけに罷成、我々所へ參は□□□□□□□□□

あさ夕之くらしの事委承候ては、庄助□□□□□□

市左衞門、十左衞門よびよせ、日に日に我等にたへ□

かゝりを承申候事、四年以前之極月十八日□□□□

十九日之ぢぶんに吉兵衞よこめいたし□□□□□□

目つけをいたし候事、あらわれ申候に付て□□□□

吉兵衞をよびよせ、我々の壹がせう□□□□□□□

せんさくいたし候。さてもさてもむごき人に□□□□

候、さだめて是は、九郞兵衞殿よりさしひか□□□□

御座候と、吉兵衞に相ことわり候へば、そ□□□□□

我等所へはふつうに參不ㇾ申候。其上京に□れ□□□

七十五人之者共を御よせ彼ㇾ成、あさ夕て□□□□□

御ちそう被ㇾ成、我々のしさいを御きゝ□る□□□□

候事共かくれなく候。七十五人之者共□□□□□□

かみがたへ女かいに參候者共、又は我々の方之□□

者共女かいに參候所に、一たん申合候へば、七十□

五人之者共にはめんだん不ㇾ申ば、是はたん□□□□

\/に候へ共、ぎりをわけかやうに□□□□□□□

[やぶちゃん注:「\/」は踊り字「く」である。不明の字の踊り字であるので、特異的にこう示すしかない。]

かくに仕候、其方と我々の事は、ちいさき□□□□□

子共ゑんぺん申合候事、京都にても□□□□□□□

江戶にても人之存候所に、我々のく□□□□□□□

らい申者共、朝夕之御ふるまい被ㇾ成、御ち□□□□

そう被成候事は、但七十五人之内にては□□□□□

其方は御座なく候が、七十五人之内□□□□□□□

江戶□なり其たがいにぞんぶんのしさい□□□□□

その方樣も我々もたがいのぞんぶ□□□□□□□□

罷なり候はゞ、たがいのとりひきの□□□□□□□

仕候。そのうちはたがいにとりひき□□□□□□□

うけたまはるまじく候。右にゑんぺん□□□□□□

候事も、たがい之ちからになり候。た□□□□□□□

ゑんぺんには、御さゝ此度の我々の身□□□□□□

つぶし可ㇾ申候者共と一とうに御座□□□□□□□

我々いかんともめいわくに存候間、御ふんべ□□□

被成、□□かこらかたにてなり共、江戶にても貴□□

ぞんぶん之通可申分候。申分あまた□□□□□□

御座候へ共、あまりくどくど御座候、□□□□□□□□

早々申入候。謹言。

 十二月四日   庄司甚右衞門 花押

  北角九郞兵衞樣

  同 御 か も じ樣

 右の料紙は「西の内」にて、竪匠尺一尺一分餘、橫五尺五寸三分、四枚繼也。つぎめより、段々、字のあがりしは、書て後につぎ合せし故に、上下の揃はぬなるべし。上におしたる印はつぎ印なり。惡筆不文を、そのまゝ縮字して、摹し[やぶちゃん注:「うつし」。]とゞめつ。書中に『くうぢ』とあるは「公事」にて、猶、「訴訟」といふがごとし。

[やぶちゃん注:「西の内」「西ノ内紙(にしのうちし)」。茨城県常陸大宮市の旧山方町域で生産された和紙で、コウゾのみを原料として漉かれ、ミツマタやガンピなどが用いられていないことを特徴とする。江戸時代には水戸藩第一の特産品となり、各方面で幅広く使われた。強靱で保存性に優れたその性質から、江戸では商人の大福帳として用いられた(当該ウィキに拠った)。

「匠尺」曲尺(かねじゃく)と同義であろう。]

 按に、庄司甚右衞門は、初の名を甚内といへり。慶長十一年の頃、橫山町に向坂甚内といふ惡黨ありて、甚右衞門に、出入をしかけ、遂に公裁に及びしとき、『相手、同名にて紛しく、御裁許、面倒。』の由に付、甚右衞門と改名せしよし、「吉原由緖書」に見へたり。庄司甚右衞門が子も、亦、甚右衞門と云。二代め甚右衞門が子を甚之丞といふ。三代め甚之丞が子を又左衞門といふ。是より代々、又左衞門と名のりたり。享保十年に、吉原起立の事を書つめて奉りし名主又左衞門は、元祖甚右衞門より六世の孫也。かゝれば、右なる書簡を、初代の甚右衞門が筆也とは定めがたし。予をもて、これを見れば、二代めの甚右衞門なるべし。無益のわざながら、その考評を左にしるす。

 甚右衞門が書中に、『吉原の内』云々とあるは、元吉原にあらず、新吉原になりてのことなるべし【これらのわけは、末に記すべし。】。又同書に、『先日之御狀に、我々身上をおかしく』存ぜられ『候との御狀はいけん申候』とあるによりておもふに、甚右衞門が遊女見世の西田屋も、やゝおとろへたる頃のことゝ聞ゆるなり。

[やぶちゃん注:太字は、底本ではここの右ページ下段一行目から二行目で、罫線の囲み字。]

 さて又、元吉原の一廓を立下され、遊女屋渡世御免の後も、猶、甚右衞門が手につかずして、江戶のはしばしなる、あちこちにて、妓女をもて世をわたりし茶屋【世に、これを『浮世風爐』といへり。「吉原由緖書」に、『茶やの遊女持』といへるは、これなり。】、凡、七十五軒ありしなり。甚右衞門が書中に、『七十五人』といひしは、このものどものことにぞ有ける。されば、「明曆の火災」已前より、吉原町にて、件の賣女屋[やぶちゃん注:「ばいたや」・「ばいぢよや」。]等を相手どりて、しばしば訴訟したれども、この頃までは賣女を御制禁のことも、今の如く嚴重なる御條目もなく、且、彼等も亦、申立る趣あるをもて、年をかさぬるのみにて、裁許なかりしとぞ。こは予が臆說にあらず。故老の口碑にも傳へ、「吉原由緖書」にも、粗、その事、見へたり。又、甚右衞門が書を贈りし北角九郞兵衞が事は、考るよしなけれ共、文面につきておもふに、甚右衞門に舊緣ある京の遊女屋歟。さらずは、遊女の賣買をもて、世わたりとするにてもあるべし。

「此ものは、もし、寫本「洞房語園」に見へたる、岡田九郞右衞門が子にはあらずや。」

と、北峯子、いへり。これにより、予も考合することなきにあらねど、そは又、すゑに記すべし。

[やぶちゃん注:「北峯子」この直前の「けんどん爭ひ」で既に絶交した山崎美成の号。]

 しかるに、九郞兵衞が、彼七十五人のものどもに荷擔せしを、何の故とはしるよしなけれど、當時、吉原よりも、又は、しばしなる賣女やも、京へ賣女を買出しに行によりて、九郞兵衞に、したしく交れるやうなれば、『九郞兵衞は遊女の賣買をもて、世わたりとするものにや。』と思ふなり。又、甚右衞門が子どもと、九郞兵衞が子ども、矧を結ぶ[やぶちゃん注:「やはぎを結ぶ」。喧嘩をするということか。]といへども、七十五人の賣女屋ども一隊となりて、甚右衞門が身上の衰へたることなどをもて、あしざまにいひしにより、遂に九郞兵衞も、七十五人に荷擔せしことは聞ゆれども、詳には考るよしもなし。又、吉兵衞がことの考は、末の條にていはん。又庄助、市左衞門、十左衞門などいへるは、吉原の者のやうに聞ゆれば、甚右衞門が訴訟の相談相手になりしものなるべき歟。又吉兵衞が方人のやうにも聞ゆれば、詳に評しがたし。當時、元古原に引はなれたる賣女屋の、江戶の中あちこちに猶有といへども、はじめの程、吉原より、いたくさはりを申出ざりしは、新に一廓を立下されし御めぐみに憚り奉り、且、世の人の吉原をめづらしがりて、繁昌したるによりてなるべし。かくて、三、四十年を經るまゝに、世のみやびをらの、吉原をめづらしと思ふものなく、彼はしばしなる賣女屋には、かへりて艷麗なる娼婦どものあるをもて、端々なる妓樓のかたに、けおさるゝやうになりにければ、ついに吉原より、さはりを申立て、訴訟し奉りしなるべし。然れども、その公事、久しく相持して、はかばかしき裁許なかりしに、明曆三年正月の大災後、元吉原の替地を、日本堤のほとり、今の地所にて下されしとき、江戶中なる茶屋の賣女を、嚴重に制禁あらせられて、「隱賣女御制禁」等の御條目を定められ、新吉原の御高札にも、猶、又、嚴重の御文言を示させ給ヘり【「吉原由緖書」に、『元吉原大門口にも、端々、遊女の御制禁の御高札を、立下されし。』よしなれども、明曆火災後、□嚴重になりし也。】。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

 「『吉原遊女町御高札は、葺屋町へ初て廓御免の節、相渡りたる、それより今に同樣也。』と、「語園」に見へたり。」と、北峯子、いへり。しかれども、御文言の事、明曆以前も今の如くなるや、詳ならず。いづれにまれ、はしばしなる賣女や、嚴しく禁ぜられしは、明曆よりのことゝおぼゆかし。

 これにより、はしばしなる賣女屋等は、難儀至極して、しばしば、あちこちにて、忍び忍びに渡世したるもありしかど、それも長久のわざならねば、七十五人のはしばしなる賣女屋ども、新吉原へ手を入れて、さまざにわびしかば、遂に和熟して、件の賣女屋を新吉原へ移し住するに及びて、その家作すべき地所なかりしかば、江戶町なる遊女屋等屋敷に、この地尻を切ちゞめ、新に一巷路を開きて、堺町と名づけ、こゝへ、件の賣女屋等に、家作をさして、住つかせし也。されば、「吉原由緖書」に云、『堺町之儀は、新吉原へ引越申、寬文八年戊申の三月中、江戶町貳丁目名主町人共、御訴訟申上候て、面々之居屋敷之内を切り、新造に堺町と名付申候。此時分、端々に罷在候、茶屋の遊女持ども、吉原町へ佗言侘候間、其段、御訴訟申上候得ば、御慈悲を以被ㇾ遊御免候に付、每度、御訴訟申上候茶屋・遊女持ども、惣て七十餘人、從方々吉原へ入込申候。依レ之、右之道をつくり、此者どもに借地いたさせ候事。』といへるは、これなり。かゝれば、端々の賣女屋の吉原へ歸參して、廓中へ移り住しは、新吉原にせし明曆三年より、十二ケ年後の事なり。「由緖」の中、右の條に、『每度、御訴訟申上候茶や・遊女持ども』云々とあるにて、吉原より、かの七十五人を相手どりて、訴訟せしことの久しきをしるに足れり。『元祖庄司甚右衞門は、正保元年十一月十八日、享年六十九歲にて身まかりし。』よし、「寫本洞房語園」に載たるを、北峯子、はやく見出て、忠告せられたりければ、元祖甚右衞門が歿せし正保元甲申年より、彼端々なる遊女屋七十五人、吉原へ移り住し、寬文八戊申年まで、二十五ケ年をへたれば、右の書翰は、二代めの甚右衞門なること、推て知るべし。又、新吉原になりし明曆三丁酉の年は、元祖甚右衞門が死せし年より、十四ケ年後也。「語園」に載たること、左之如し。「寫本洞房語園」【享保五年、庄司又左衞門草記。】云、『甚右衞門、出處は、相州小田原のもの、父は北條家の御内に、僅なる御扶持を蒙り、輕き奉公相勤候よし。父、果て後、天正十一年、小田原落去之節、甚右衞門年十五歲、家來の介抱になり、御當地へ罷越、柳町に所緣ありて、この所に住居しけるが、□正保元年甲申霜月十八日、甚右衞門、年六十九歲にて終る。

[やぶちゃん注:ここで初めにあった「相摸(さがみ)の小田原浪人」という素性説が合致することとなる。

 以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

 又、右の甚右衞門が書翰に、『我々事は、ちひさき子共、えんぺん申合候』云々、とあるをもて思んに、この甚右衞門は、齡四十前後之時の筆跡なるべし、これも亦、二代めの甚右衞門ならんと云考の一つ也。また、甚右衞門が書をおくりし、北角九郞兵衞が事は、北峯子の考有。よりてこゝに錄す。

「寫本洞房語園」云、『甚右衞門が遊女町の事、御訴訟の相談云を指加[やぶちゃん注:「いふを、さしくはへ」か。]、岡田九郞右衞門と云し人』云々、『開基の砌、一應、江戶へ引越し、寬永五年の比、抱の傾城廿餘人、並に家屋敷に家財を添、久しく召仕たる半三郞といふ手代にゆづり、その身は京都長者町へ引込、世間にて云、「仕𢌞ふた屋」[やぶちゃん注:「しまふたや」。しもた屋。]と云ものにて、有福にくらしけると也』云々。美成、案に、北角九郞兵衞といふものは、これなどの子にてもあらんか。苗字に相違あれども、岡田は遊女屋の名まへも、しるべからず。その家財とゝもに、手代にあたへ、自分は本姓をもて稱しけるにや。「語園」に之所を推考るに、やゝ似たるやうにおぼゆ。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では一字下げ。]

 𪈐齋[やぶちゃん注:「らいさい」。馬琴の号の一つ。]云、右の說、おもしろし。もて、よりどころとすべし。よりて、又、思ふに、甚右衞門が書中に見へたる吉兵衞といふものは、九郞兵衞が徒也。若、此吉兵衞は、出所、京の者にて、右之、半三郞が養子名跡などに也し者歟。さらずは、岡田屋の吉原にありし家は、手代もちにて、半三郞が歿後、吉兵衞が支配せしにやと推計らる。岡田九郞右衞門といふもの、當時、京都へ退隱すといふとも、生涯ゆたかにておくらんには、さばかりの活業[やぶちゃん注:「なりはひ」と訓じておく。]はあるべきことなければ、江戶吉原なる家をば、半三郞に支配させ、その身は京にて遊女を多く抱設て、日每に他へ出し、又、かたはら、遊女の賣買をもて、世わたりの資とせしなるべし。かく思ふよしは、甚右衞門が書中に、『江戶之けいせいどもにいゑ屋敷迄も、我々に其方御申候事は、何かの事も吉兵衞は不ㇾ存候間、あとあとの事、其方賴入候と御申候所に、吉兵衞は七十五人之目つけに罷成』云々とあり。『江戶のけいせい共家屋敷』といへるは、九郞兵衞所持の江戶吉原なる傾城共、並に九郞兵衞が相傳所持の家屋敷のことなるべし。それを吉兵衞に支配させし時に、吉兵衞は不案内にて、何もしらず候間、前手代の半三郞が跡々のことを、甚右衞門に賴むと、九郞兵衞が云しことあるを云なるべし。然に九郞兵衞は、竊に甚右衞門をあしく思ふよしありて、彼七十五人に荷擔するに及びて、吉兵衞をもて間者として、甚右衞門が訴訟の内談を聞せしに、其事、終に顯れしかば、甚右衞門が九郞兵衞を怨み憤り、郵書[やぶちゃん注:「かきおくり」と訓じておく。]、年を重て後、右の手切の書翰を贈しことゝ聞ゆる也。されば、北角九郞兵衞は、岡田九郞右衞門が子にてあるべき歟といはれし、北峯子の考、尤、據あり。又、按に、當時、甚右衞門、憤りは、七十五人を相手どりて、訴訟せしのみのことには、あるべからず。端々なる賣女屋のさはりを申立るねぎこと[やぶちゃん注:願い事。]は、吉原町一圓之事なり。當時、甚右衞門は吉原の惣名主なりければ、これらの事を己が任とするものなるべけれども、右の書中に、『我々のくび切はからひ申者どもを、朝夕御ふるまひ披ㇾ成、御ちそう被ㇾ成候事は、但、七十五人之内にては、其方は御座なく候か』云々とあるをもて思ふに、甚右衞門が身ひとつに、かゝれるわけの、あるなるべし。しかれども、深き意味は、はかり知るべくもあらず。そは、とまれ、かくもあれ、此程、文によるときは、思ひ半に過ること、あらん。こゝをもて、予がこの無益の筆跡□も、翁の爲には、雪中の二老馬□といふべきのみ。

 友人佛庵老翁は、好古をもて世にしられたり。されば、その所藏に、庄司甚右衞門が簡牘[やぶちゃん注:「かんとく」。書簡。]あり。一日、これを予に示して、云々の□めありても、亦、素より雅俗となく、古書畫の時代緣故抔の定かならぬを見る每に、考たゞさんと、ほつする癖あれば、えうなきわざと知ながら、愚按を記しつけたり。かくて、その書を返す日に、亦、これをしも贈れるは、同好の義をおもふが爲なり。

 文政八年暑月廿一日     𪈐齋陳人藏

 附て云、心牛子の記されし、吉原起立の條々は、「吉原由緖書」の趣を抄錄せし也。又大橋の内柳町の遊女屋は、原三郞右衞門と云ものゝ、取立しといふこと、「吉原由緖書」にも見へたり。

 「御高札の事」、「鎭守の札の事」、「惣人別」、「藝者人別」、「『水吐尾』なる火之見やぐらの興廢」、「秋葉の常夜燈」、「吉原數度の火災の年月日時」等は、後の考にもなるべければ、珍とすべきものになん。よりて錄する事、左の如し。

[やぶちゃん注:長くなったので、末尾に記された、以下の「山口心牛筆記の内」という文章は次回に送ることとする。なお、町名や年号などは労多くして私に益が全くない故に(吉原は極めて限定された地域であり、時制も上限・下限が限られた中での叙述であるからである)カットしてある。以下でも同様の仕儀とする。悪しからず。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 角貝(ツノカイ) / ツノガイ(ヤカドツノガイとムカドツノガイか)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部、マスキングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『町医和田氏藏』『數品』(すひん)、『九月廿二日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、ここで町医師であることが判明する前の二丁のクレジットの翌日であり、その和田某のコレクションを連日写生したことが判る。従ってこれは、天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日と考えよい。なお、右上のカメノテは二〇一八年五月二十八日に既に電子化注している。本図を以って、この見開きの図譜の電子化注は終わる。]

 

Tunogai

 

角貝(つのがい)【「駒(こま)の角」・「牛の角」。】

 

[やぶちゃん注:図では、断面が見えないのだが、殻の頂孔から殻口向って、有意に盛り上がった縦肋が見える。上の個体が三本、下の個体が二本こちら向きの位置に縦肋が見える。とすると、可能性として上が、

掘足綱軟体動物門掘足綱ゾウゲツノガイ科ゾウゲツノガイ属ヤカドツノガイ Dentalium octangulatum

の可能性があり、下方は、縦肋が六本の近縁亜種の、

ムカドツノガイ Dentalium octangulatum hexagonum

かも知れない。但し、前者は縦肋が一定せず、六本のものもあり、七、八、九本まで幅がある(奥谷喬司先生の小学館「日本大百科全書」のヤカドツノガイ解説に拠る)。しかし、上・下の個体が図の端部分にも縦肋を有しているとなら、上がまさに八角形、下が六角形の断面を持つことになり、上記の二種と見事に合致するのである。惜しいかな、梅園先生、断面図を添えて欲しかったなぁ……]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 漣(サヽナミ) / 不詳(ハザクラガイ?)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部、マスキングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『町医和田氏藏』『數品』(すひん)、『九月廿二日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、ここで町医師であることが判明する前の二丁のクレジットの翌日であり、その和田某のコレクションを連日写生したことが判る。従ってこれは、天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日と考えよい。なお、右上のカメノテは二〇一八年五月二十八日に既に電子化注している。]

 

Sazanami

 

「百貝圖」。

漣【「さざなみ」。】

 

[やぶちゃん注:やはり、吉良図鑑の図版を見る限りでは、

斧足綱異歯亜綱ザルガイ目シオサザナミ科マスオガイ属ハザクラガイ Gari minor

らしく見えるのだが、殻表はこんな甃(いしだたみ)状には逆立ちしても見えない。不詳としておく。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 竹蟶(タケノコ貝) / タケノコガイ・ウシノツノガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部、マスキングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『町医和田氏藏』『數品』(すひん)、『九月廿二日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、ここで町医師であることが判明する前の二丁のクレジットの翌日であり、その和田某のコレクションを連日写生したことが判る。従ってこれは、天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日と考えよい。なお、右上のカメノテは二〇一八年五月二十八日に既に電子化注している。]

 

Umitake

 

「漳州府志」に曰はく、

   竹蟶【「たけのこ貝」・「うみたけ」。】 二種。

 

「八閩通志(はちびんつうし)」、

   泥笋【「うみたけ」。】

 

[やぶちゃん注:「二種」とした梅園の判断は正しい。まず、左と右下方の二個体は、

腹足綱前鰓亜綱新腹足目イモガイ超科タケノコガイ科タケノコガイ属タケノコガイ Terebra subulata

に比定してよいだろう。右上の一個体は、

同属ウシノツノガイTerebra areolata

としてよいように私には思われる。

「漳州府志」(しょうしゅうふし)清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌。しかし、そこに出る「竹蟶」は恐らく、斧足綱異歯亜綱 incertae 目マテガイ上科マテガイ科マテガイ Solen strictus である。それは、フライングしている『毛利梅園「梅園介譜」 マテガイ』でも、梅園は同じ出典引用をしており、しかも、現代中国でも「竹蟶」はマテガイを指すので、誤認と思う。にしても、写生時日が違うとは言え、マテガイの方は、この二年後の天保七年の写生で、この同名異物の放置は、ちょっとひど過ぎると思うね、梅園さんよ!

「うみたけ」現行では斧足綱異歯亜綱オオノガイ目ニオガイ超科ニオガイ科ウミタケ属ウミタケ Barnea dilatata に与えられており、以下を見ても、「泥沙中に生ず」とあるからには、まず、「八閩通志」は勿論のこと、原文を確認出来ないが、「漳州府志」の方も、既にして、このウミタケの仲間を指していることは、私は諸条件から見て自明であると考えている。それは、先輩の栗本丹洲が、文化八(一八一一)年に完成させた『千虫譜』「栗氏千蟲譜」の巻九(リンク先は巻九の私の古いサイト版電子化注)で、これを正しくウミタケに同定し、見事な写生図をものしていることからも明らかであるからである。

「八閩通志」(はちびんつうし)明の黄仲昭の編になる福建省(「閩」(びん)は同省の略古称)の地誌。福建省は宋代に福州・建州・泉州・漳州・汀州・南剣州の六州と邵武・興化の二郡に分かれていたことから、かくも称される。一四九〇年跋。全八十七巻。巻之二十五に『泥筍其形如筍而小、生泥沙中。』とある。こりゃ、確実にウミタケだぜ? 梅園さんよ!

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 雪屋貝(ユキヤカイ) / モシオガイ?

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部、マスキングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『町医和田氏藏』『數品』(すひん)、『九月廿二日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、ここで町医師であることが判明する前の二丁のクレジットの翌日であり、その和田某のコレクションを連日写生したことが判る。従ってこれは、天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日と考えよい。なお、右上のカメノテは二〇一八年五月二十八日に既に電子化注している。]

 

Yukiyagai

 

雪屋貝(ゆきやがい)

 

[やぶちゃん注:吉良図鑑の図版を見ていて、酷似すると思うものは、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目モシオガイ超科モシオガイ科モシオガイ亜科モシオガイ属モシオガイ Nipponocrassatella japonica

ではあった。同図鑑によれば(コンマを読点に代えた)、『殻は中型重厚で膨れは弱い。後端は截切状で後腹隅は僅に延びる。殻表は褐色で濃色の放射肋があり、成長輪脈は弱い』。『本州中部以南』に棲息するとある。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 貝子(タカラ貝) / タカラガイの一種(同定不能)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部、マスキングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『町医和田氏藏』『數品』(すひん)、『九月廿二日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、ここで町医師であることが判明する前の二丁のクレジットの翌日であり、その和田某のコレクションを連日写生したことが判る。従ってこれは、天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日と考えよい。なお、右上のカメノテは二〇一八年五月二十八日に既に電子化注している。]

 

Tkaragai

 

「本草」に出づ。

  貝子【「たから貝」。】

    貝齒(バイシ)【「別録」。】

    白貝(ハクバイ)【「日華」。】

     海𧵅(カイハ)

「怡顔齋貝品」

『貝子、上古は、此れを以つて金錢に代(か)ふ。「珂(カ)」は子安貝の白色なる者。』

       「百貝」

 

[やぶちゃん注:腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae のタカラガイの一種であることは間違いないが、腹部側だけしか描かれておらず、種同定は無理である。というより、この開口部を持つタカラガイならば、殆んどが背部に極めて個別的に特徴的な模様を有するはずであり、それを描かないということはあり得ない。それを描かなかったとすれば、完全に真っ白であったか、或いは背部全体が描くには致命的に欠損していた可能性を考えねばならない。白いからと言って、背部が白色の種を選べばよいことには、実はならない。この開口を持ち、特徴もなく、ただ背部が白い種というのは、私が知る限り、写欲を全くそそらない種というのは、ちょっと思いつかないからである。なお且つ、和田がこれを所蔵品としているとすれば、図に見る通り、かなり大きなものと考えてよいと思われ、そうなると、ますます白いノッペラボウのタカラガイというのは、それを探す方が難しいと思われるのである。ただ、殻の図の上部の膨らみ方からは所謂、至宝とされる三種の貴種の宝貝「日本の三名宝」の腹部ではない。

『「本草」に出づ』李時珍の「本草綱目」の巻四十六「介之二蛤蚌類」に「貝子」として出る。「漢籍リポジトリ」のこちらの[108-22b]以下を参照。主要解説部分を寺島良安が「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「貝子 こやすがひ たからがひ」で引いているので、私の訓読文を参考にされたい。

「別録」中国で、三~四世紀に成立したと推定される「名醫別錄」。七百三十品以上の薬物を記述したものと思われ、「本草綱目」にはしばしば引かれているが、散逸して、原本は現代には伝わらない。

「日華」北宋の大明の撰になる「日中華子諸家本草」。散逸したが、その内容は、かく「本草綱目」等の本草書に引かれて残る。

「海𧵅」交易の際に使われる貝の名。次の注の「海𧴩」も同じ。

「怡顏齋介品」本草学者(博物学者と言ってよい)松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達(げんたつ)。恕庵は通称、「怡顏齋」(いがんさい)は号。門弟には、かの「本草綱目啓蒙」を著わした小野蘭山がいる)が動植物や鉱物を九品目に分けて書いた「怡顔斎何品」の中の海産生物を記したもの。早稲田大学古典総合データベースのこちらに「貝子」の解説がある。訓読し、読みは一部は推定で歴史的仮名遣で附した。

   *

貝子【卽、「海𧴩(カイハ)」。】「華夷珍玩考」に曰はく、海𧴩、人に採られ、積みて、山のごとく、淹爛の内肉(ないにく)、轉じて、暹羅(シヤム)・榜葛刺(ベンガラ)國に賣り、錢に當てゝ、使用す。「呉氏本草」に曰はく、『貝子、小なる者、小児、之れを握れば、驚(きよう)を治(ぢ)す。俗に「壓驚螺」と呼ぶ。』と。○達、按ずるに、貝子、俗に子安貝(こやすがい)、又、「歯貝(はかい)」とも云ふ。狀(かたち)、「身無貝(みなしかい)」に似て、両方より巻き、合へる口に歯-刻(きざ)あり。五色錦紋の者、尤も貴し。上古は、此れを以つて金錢に代(か)ふ。「珂」は「子安貝」の白色潔白なる者なり。「相貝經」に十七種の「貝子」の名を出だす。本邦にも十種許(ばかり)あり。錦紋の者は好事(こうず)の士、穴を穿(うが)ち、紐(ひも)を通して、荷苞墜(ねつけ)とす。『産婦、握れば、産し易(やす)し。』と。

   *

・「華夷珍玩考」「華夷花木鳥獸珍玩考」十巻のこと。明の愼懋官(しんぼかん)の撰になる動植物の考証本。「早稲田大学図書館「古典総合データベース」で天保六(一八三五)年の写本を見ることができ、そのここと、ここに「海𧴩」として載る。

・「淹爛の内肉」は、思うに、「内肉を淹爛(あんらん)して」の誤読か。「水に入れて貝の内部の肉を爛らかして取り去る」の意と思う。

・「呉氏本草」華佗の弟子の呉普の著「呉普本草」か。全六巻で、薬物の範囲は四百四十一種に及ぶ。「呉普本草」の書名が最初に確認出来るのは、梁代の元孝緒著の「七録」、陶弘景著の「本草経集注」で、中国医学史上、作者の明らかな本草学書の一つとして貴重なものである。

・「驚」は夜驚症のこと。睡眠障害の一種で、恐怖の叫び声などを伴って、突然、目を覚まし、怯えたような表情や動作を示し、通常、その間、家族などが話しかけても反応は鈍く、目を覚ました後は、殆んど何も覚えていない症状を持つ小児疾患を指す。

・「身無貝」一般にはイモガイ科Conidae或いはその近縁種の種群を指す総称。海水から挙げた際、軟体部が螺殻の内部奥に引っ込み、身がないように見えることに由来する。

・「荷苞墜(ねつけ)」根付。

   *

「百貝」寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」に拠った)。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 キズ貝 / カニモリガイ(再出)の欠損殻

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部、マスキングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『町医和田氏藏』『數品』(すひん)、『九月廿二日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、ここで町医師であることが判明する前の二丁のクレジットの翌日であり、その和田某のコレクションを連日写生したことが判る。従ってこれは、天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日と考えよい。なお、右上のカメノテは二〇一八年五月二十八日に既に電子化注している。]

 

Kizugai

 

キズ貝

 

 

「前歌仙」内三十六の内

 「夫木」

    與謝(よさ)の海に古きくだけの破(や)れ貝も

     捨ゑる數に又まじりぬる

[やぶちゃん字注:「捨」はママ。ド素人が見ても「拾」の誤字。]

 

[やぶちゃん注:これは、

腹足綱前鰓亜綱中腹足目オニノツノガイ超科オニノツノガイ科タケノコカニモリ属カニモリガイ Rhinoclavis kochi

の波間に風化した欠損殻であろう。既に『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 苧手巻貝(ヲダマキ) / カニモリガイ・アサガオガイ』で描いているが、ここでは、かなり、力(りき)が入って、細かな部分まで精緻に色を再現している。寧ろ、これは風化した結果として、殻下層の多色の色がより鮮やかに出たものと思われ、それだけに梅園も腕が鳴ったのであろう。

「與謝(よさ)の海に古きくだけの破(や)れ貝も捨ゑる數に又まじりぬる」これはちょっと困った。国立国会図書館デジタルコレクションの「貝盡浦之錦」に載る「前歌仙三十六種和歌」のそれは、

   *

   破 介(われかい) 左十六

「夫木」

 和哥(わか)の浦(うら)にふるきくたけののやれ貝も拾(ひろ)へるかずに又(また)まじりぬる

   *

であるからであり、また、「日文研」の「和歌データベース」の「夫木和歌抄」をみると、藤原信実の一首として(13095番)、

   *

わかのうらに ふるきくたけの われかひも ひろへるかすに またましりぬる

   *

とあるからである。にしても――「捨」とやらかす梅園は――かなり……イタイわ……]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 曲貝(マガリカイ) / オオヘビガイ或いはソメワケヘビガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『町医和田氏藏』『數品』(すひん)、『九月廿二日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、ここで町医師であることが判明する前の二丁のクレジットの翌日であり、その和田某のコレクションを連日写生したことが判る。従ってこれは、天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日と考えよい。なお、右上のカメノテは二〇一八年五月二十八日に既に電子化注している。]

 

Magarigai

 

「大和本草」に出づ。

    曲貝(まがりがい) 「海蛇」とす。

 

[やぶちゃん注:強い不規則な巻き方から殼表に赤い色を配してあること、上下二種を別種と判断した。ムカデガイ科Vermetidae のヘビガイ類と考える。上部は螺管は非常に強く癒着しているから、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目ムカデガイ科オオヘビガイSerpulorbis imbricatus (北海道以南)

或いは、殻表面に薄紫や褐色の斑を有する、

同属ソメワケヘビガイ Serpulorbis dentiferus (紀伊半島以南)

に同定する。

 一方、左下方のそれは、癒着がないので、当初、別属で、強い赤色を呈する個体もあることから、

盤足目オニノツノガイ超科ミミズガイ科ミミズガイ属ミミズガイSiliquaria cumingi

を考えたのだが、実は学名の画像検索をかけると、ムカデガイ科の上記の二種でも、幼体、或いは、癒着個体の欠損片を取り出してみると、癒着が見られない標本画像が複数見られることから、彩色を同じくしていることからも、これはオオヘビガイ・ソメワケヘビガイの孰れかであると判断する(個人的にはソメワケヘビガイに比定したい気はする)。

『大和本草」に出づ』「大和本草諸品圖下 子安貝・海扇・マガリ・紅蛤 (ヤツシロガイ或いはウズラガイ・イタヤガイ・オオヘビガイ・ベニガイ)」に図入りで、

   *

「まがり」  蠣(かき)の類。海邊の岩に付きて生ず。其の殻、屈曲す。肉、其の中に在り。味、頗る好し。其の漢名、未だ知らず。

   *

とあって、これは間違いなくオオヘビガイの類を限定している。各種の同属などは、そちらの私のウィキの引用等を参照されたい。なお、益軒は漢名を知らないと言っているが、少なくとも現在の同種の中文名は「覆瓦小蛇螺」で異名を「大蛇螺」とする。

 ……にしても――この図は――下手糞だなぁ……]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 クズ屋貝 / イガイの仲間(ムラサキインコ?)

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングしてある。なお、この見開きの丁は、右下に、『町医和田氏藏』『數品』(すひん)、『九月廿二日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、ここで町医師であることが判明する前の二丁のクレジットの翌日であり、その和田某のコレクションを連日写生したことが判る。従ってこれは、天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日と考えよい。なお、右上のカメノテは二〇一八年五月二十八日に既に電子化注している。]

 

Kuzuyagai

 

くず屋貝

 

[やぶちゃん注:腹縁に向かうラインが如何にも平板に描かれてしまっているので迷ったのだが、殻表の同心円状の脈から、これは所謂、イガイ類(斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科 Mytilidae)の仲間であろうと踏んで、図鑑やネット画像を眺めるに、

イガイ科イガイ亜科クジャクガイ属ムラサキインコ Septifer virgatus

がそれらしくは感じられた。グーグル画像検索「ムラサキインコ Septifer virgatus をリンクさせておく。

 なお、ここに出る一見、差別和名に見える「クズ屋貝」は、本図とは全く異なるウノアシに似た笠型の貝である腹足綱前鰓亜綱古腹足目スカシガイ超科スカシガイ科クズヤガイ属クズヤガイ Diodora sieboldii の標準和名であるが、これは「葛屋貝」で、「葛」は蔓性植物のクズであって、「屑」ではないので、差別和名ではない。しかも、この場合の「葛屋」とは、広義の「草葺きの屋根」や、「その家屋」を指す。グーグル画像検索「クズヤガイ Diodora sieboldii を見られると判る通り、この現行のクズヤガイの全体の形と、強い放射肋が、丁度、それに似ていることからの命名である。梅園の本図にこの和名が当てられているのは、イガイ類の殻が、やはり、軒を深く突き出した草葺き屋根を連想させることからの命名と思われる。

2022/04/04

曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その2)

 

 元吉原の事を書きたるもの、是より外にまさしく據(よりどころ)とすべきは、なし。おもふに、當時坊間の繪草紙などもありつらんを、みな、明曆の火にうせて、今は一枚(ひとひら)も傳はらぬなるべし。しかれども、萬治・寬文よりこなた、貞享・元祿中、刊行の草紙によりて考ふるに、最初、妓院(ぎゐん)の光景をも、想像するよし、なきにあらず。就ㇾ中(なかんづく)、「江戶名所記」は、寬文二年の印本なれば、その書の刊行、元吉原の、新吉原へ移されしより、纔かに六箇年の程也ければ、「名所記」に寫し出せし吉原の圖說を見て、元吉原に在りし程の形勢(ありさま)も、かくこそありつらめと、思ひ合はするに足れり。又、寬永・明曆の「江戶繪圖」は、なほ、彼(か)の妓院どもの元吉原に在りし時也。廓中(くわくちう)のありさまを、しるにしも足るよしなけれど、その地と巷路(こふぢ)の方位においては、明證とすべきもの也。この他、吉原の草紙【予が見つるは缺本の多ければ、書名も卷數も定かならず。友人松蘿館の藏書なりき。】天和三年の印本にて、明曆三年、新吉原へうつされしより、纔かに十七年後の物なり。此書には、直之(なほゆき)といふ幇間(たいこ)の事を㫖(むね)と綴りなしたり。そのさし繪を見るに、かの直之がありさま、鬢(びん)薄くして、卷立(まきたて)の茶筅髮(ちやせんかみ)也。[やぶちゃん注:以下の図は参考にしている一冊である国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」巻第二の下のここの本文中にある挿絵を、トリミング補正した。この図は底本や吉川弘文館随筆大成版には載っていない。]

Tyasenngami

【かくの如し。】黑羽二重(くろはぶたえ)とおぼしき小袖を着て羽折(はをり)を着ず。其の紋(もん)は、丸の中に、四ツ目結(むすび)をつけたり。[やぶちゃん注:以下の図は所持する吉川弘文館随筆大成版の本文に挿入された図をトリミング補正した。底本ではここの右ページ上段にある。これは逆に「曲亭雜記」には載らない。]

Yotumemusubi

【かくの如し。】此の直之が揚屋與五兵衞へ遣はす狀、同書にあり。こは揚屋さし紙の格(かく)にて書たり。この直之は、なきぶしやうの小歌(こうた)に、妙(めう)なるものにやありけん。むかしある人の藏書に、直之直傳(ぢきでん)としるせし、「土手節(どてぶし)」の本を見たり。この二書は、只今、唯一本なるべきものにして、尤、珍書とするに足れり。おもふに、直之は、元吉原より、新吉原へ、移り來(き)にたる、全盛の幇間(たいこ)にて有けんかし。これらを見ても、吉原の體(てい)たらくをおもひ合はすること、多かり。又、由之軒政房(ゆうしけんまさふさ)といふものゝ著はせし、「誰(た)が袖の海」【全本五卷歟。是も予が見たりしは缺本也き。】は、元祿十七年甲申春正月の印本也【この年、寶永と改元。】。明曆三年より既に四十七年後の物なれば、元吉原を距(さ)ること、いよいよ遠けれ共、猶、をかしき事あり。此二書【卷二。】に、「吉原詞」といふものを載せたるを、今、略抄すること、如ㇾ左。

[やぶちゃん注:「由之軒政房」「誰が袖の海」全六巻合綴二冊。元禄一七(一七〇四)年板行。長編の好色物。作者の事績は私にはよく判らない。「霞亭文庫」のこちらで原本をダウン・ロード出来る

「直之」こてちゃい氏のブログ『「幇間、ほうかん、たいこもち、たいこ持ち、太鼓持ち」関連資料』のこちらで、山根秋伴著「日本花柳史」(大正二(一九一三)年山陽堂刊)の一部電子化がなされており、そこに「幇間」の条を引き(一部の正字不全・仮名遣の誤りを訂した)、『藝者の出現と同じ理由で男藝人卽ち男藝者なるものが出來た、幇間の始祖は織田信長の臣似家興左衞門、太鼓持伊太夫の二人と云ふ說もあるが、元より取るに足らぬ訛傳(くわでん)で、何時(いつ)の程にか大盡の相伴(しやうばん)を事とする遊郞(いうやらう)が轉じて之を常業とするやうに成つたので江戶も上方(かみがた)も其起源は殆ど同時代である、卽ち吉原では元吉原時代直之(なほゆき)と云ふ男黑羽織に立四つ目の紋羽織を着、土手節を唄つて座興を添へたのが始まりで、萬治年間には沓(くつは)の二郎左衞門と云ふ者出で更らに元祿に入つて一時に多數の取卷きを生じた、卽ち當時の畫家英(はなぶさ)一蝶、俳人寶井其角(たからゐきかく)、稻津敬雨(いなづまけいう)、畫家佐文山、髪結長七なんどがそれで髭の意休(いきう)も又仲間であった』。『此頃は太鼓持とも太夫衆とも男藝者とも云つてゐたが純然(じゆんぜん)たる常業の純幇間は前に云つた、役者の二朱判吉兵衞、坊主小兵衞などで、お座敷では口拍子(くちびやうし)で間の拔けた音頭を取り、藝渡しと云つて勝手な藝をして次から次へと渡して興を助け、或は踊り或は跳ねて大盡の旨のまゝに働いたものである』。『此初期の幇間中最も傑出したのは二朱判吉兵衛で、大盡舞と稱する座興唄を作つて吉原全般の騷ぎ唄とした』。『明和安永期に一瓢と云ふのが現はれ、從來廓外に居住してゐた幇間が此時から廓内に入つて名主の支配に屬して鑑札を受けるやうに成つた』。『安永七年吉原の幇間二十人、玉代は暮六ツより引け四つまで一兩であつた』とある。引用の元は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらである。]

 「吉原言ば」は、

「呼でこい」といふことを「よんできろ」

「急げ」を「はやくうつぱしろ」

「いでくる」を「いつこよ」

「ありく」を「あよびやれ」

「こぼす」を「ぶつこぼす」

「わるい」と云ふことを「けちなこと」

「そうせよ」を「こうしろ」

「あそばるゝ」を「うなさるゝ」

「腹の痛む」を「むしがいたい」

「しやんな」を「よしやれ」【これは「よしにしろ」の言也。】

「こそばい」を「こそつぱい」

「女郞のよこぎる」を「てれんつかふ」[やぶちゃん注:「てれんつかふ」は底本の表記。「曲亭雜記」では「てれんいかふ」。]と云ふ【是は唐音也。】。

 「盆の踊歌(をどりうた)」をきくに、

〽ことしの盆はぼんとも思はない

〽かう屋がやけて

〽もかりがぶつこけて

〽ぼん帷子(かたびら)を白で着た[やぶちゃん注:「白で着た」「曲亭雜記」の表記。底本では「付て着た」。なお、庵点は私が附した。]

ひとゝせ、「吉原詞」を、うたに作りて見しに、

 おさらばへのしけをさゝりこはしやうしたふさかふさはおつかない哉

[やぶちゃん注:底本の表記。「曲亭雜記」では(左頁中央下方から)、

 おさらばへのしけおさたりとはしやうしさふさかふさはおつかないかな

であり、「雜記」には今一首、以下が載る。

 さふすべいかうすべい又さつしやれいはてふていことやつちやなりけり

後者は何んとなく判るが、前者は、全然、判らない。識者の御教授を乞う。]

 是は明曆・寬文の比より、貞享・元祿に至れる「吉原詞」なるべし。その詞のゐなかびたること、あまりに甚だしければ、わるくちにて作り設(まふけ)けたるにやと思へど、さすがに板(はん)せしものなれば、なきことを書きあらはすべくも、あらず。これを見ても、元吉原に在し程の里詞(さとことば)は、いよいよ、ひなびて、絕倒[やぶちゃん注:「曲亭雜記」に拠った。底本は「强□」だからである。]することの多かりけんとおもふ也。又、「大全」などは、いと後にいで來たるものなれば、疑しきことなきにあらぬを、なかなかに證とは、しがたし。又は、菱川師宣・鳥居淸信、及、予が舊族羽川珍重(はかはちんちやう)等(ら)が畫(ゑが)きしは、みな、今の吉原になりての畫圖なれば、元吉原の考へには、えう、なし。ふるき繪卷の殘缺などにも、元吉原の圖の傳らざりしは、元和・寬永のころまで、江戶は、なほ、しかるべき浮世畫師の、なかりし故也。

 予、一日(あるひ)、小梅村なる南無佛菴(なむぶつあん)を訪ひたるに、座邊にふりたる二枚折りの屛風ありけり。そのおしたる畫(ゑ)を見れば、元吉原の圖に似たり。卒爾(あからさま)[やぶちゃん注:「曲亭雜記」に拠った。底本ではカタカナのみで漢字を示さず、「アカラサマ」である。]にして、

「こは、云々(しかじか)ならずや。」

といふに、あるじの翁(おきな)、驚きて、

「われ、未だ、さるよしを、しらず。その說あらば、聞まほし。いかにぞや。」

と問るゝに、已(やむ)ことを得ず、答へて云、

「今、この畫中(ぐわちう)の人物を見るに、遊女と客の風俗と、彼寬文の「江戶名所記」及(また)、天和中の印本なる吉原の草紙に圖したる、妓院の風俗と、よく相ひ似て、それより少々ふるく思わるゝ。むかしの遊女は結髮せず。慶長の頃までも、髮のうらを少しむすびて、うしろざまにこれをさげたり。寬永・明曆に至りても、只、その髮を推(お)し紈(わが)ねて、頂におけるのみ。寬文・延寶の頃と云とも、猶、今の遊女のごとくに、髮に飾りを盡(つく)せしもの、なし。當初は市中に伽羅(きやら)の油(あぶら)なければなり。「吉原大全」に、大橋柳町兵庫屋の家風をまなびて、今も「兵庫屋風(ふう)」といふ髷(わげ)をなすといへるは、疑ふべし。抑(そもそも)、慶長・元和の頃の遊女どもが、何風(なにふう)といはるべき髷をすべきよしは、なし。凡そ遊女の髮の風は、新町(しんちやう)なる山本屋の勝山(かつやま)などよりや始りけん。今も女の髷に「勝山」といふは是也【「兵庫髷」といへるも、これと同時代前後のことなるべし。】。又、當時、遊女の衣裳に、摺箔(すりはく)・縫箔(ぬひはく)をゆるされず【その事、「吉原由緖がき」に見へたり。】。多くは無地の絹紬(きぬつむぎ)、又は縞類(しまるゐ)をのみ着たり。「昔昔物語」に、『むかしは、縞類、はやる。遊女のまね也。昔は、常(つね)の女、縫箔光る小袖を着る故、遊女共は無地物、縞の類を着たり。常の女とかはるべき爲なり、といへるは、是なり。かの物語に、『むかし』といひしは、寬永中のこと也。寬永中は女の帶の幅、凡、一寸五分より二寸までなりし由、「春臺獨語(しゆんだいどくご)」にも、いへり。この時も、遊女の帶は、その幅、ひろかりしよしなれど、猶、三、四寸の上を、出づべからず。この屛風に圖したる遊女も、其全體にくらぶれば、その帶の幅、三、四寸なるべく見ゆ。しかれども、これらは、未だ元吉原の考證とするに足らず。大約(おほよそ)、萬治・寬文以來、元祿に至るまで、かの日本堤の體たらく、及(また)、大門口の光景をゑがきたるには、嫖客(ひようかく)、必ず、馬に乘りて行きかへりする處なきは、なし。當時、「土手馬(どてむま)」といふものゝ流行せしによりてなり【そのゝち、土手馬を禁止せられし後は、二挺立の小船はやりしを、享保の末に至りて、又、これをも禁止せられたり。】。しかるに、この屛風の圖は、いとふるき圖に見へながら、大門口とおぼしき處に、かの土手馬を畫(ゑが)かざりしは、明曆以前の風俗にて、元吉原の圖にやあらん。只、是のみならず、この圖中なる大門口には、外の方に松を畫きたり。予が總角(あげまき)なりし頃、一老人の言(こと)を聞きしに、元吉原の大門口と、南の方なる塹際(ほりきは)に、大きなる松、兩三株(りやうさんかぶ)ありけり。かくて、その松は、明曆の火に、皆、燒けしを、新吉原へ移されては、さるものをも栽(うゑ)ずなりしよし、故老のいわれしこともぞある。彼(か)の舊地のほとりには、松島町(まつしまちやう)といへるあり。思ふに、かの松のなごりにて、さる名も負(おは)したるにや、といへり。予は、尙、總角(あげまき)なるをもて、そのよしをしるしたる書もやあると問ふベかりしを、得(え)敲(たゝ)かざりければ、今に至りて、憾(うらみ)とす。かくて、今、ゆくりなく、この屛風なる畫を見れば、大門口に松をゑがけり。是は昔、予が聞たる老人の言(こと)と吻合(ふがふ)せり。こゝをもて、予は、この畫圖を元吉原にやあらんと思へり。しかはあれども、寬永中の古筆とは、見へず。もし、後に好事(こうず)のもの、元吉原の趣を傳へ聞くよしあるをもて、しかじかとあつらへて、畫工にゑがゝせたるもの歟。さらば、當時(そのかみ)、古圖のありしを、摹(も)[やぶちゃん注:「模」の異体字。]せしものにやあらんずらん。とにもかくにも、此畫をもて、元吉原の圖とするとも、よりどころなきにあらずや。」

と、まめだちて、そゝのかせば、翁、そゞろに頷(うなづ)きて、歡ぶこと、大かたならず。

「さらば、只今、筆を染めて、この屛風の上のかたに、「元吉原圖」と書きてよ。」

とて、みづから祕藏の硯を出だしつ。墨、すりながして、譴(せ)められけり。いとおぼつかなきわざながら、吾には、齡ひ十あまり、五つ、六つ、兄なる人の、かくねもごろに求らるゝを、猶、いなまんは、さすがにて、あたら屛風を汚(けが)せしに、翁は、かくても、あかずや、ありけん、この後、又、をちこちに、友人つどへるむしろにて、予と、亦、相ひ見つるごとに、

「元吉原の考へを、つまびらかに、書きてたべ。さきの屛風もろともに、後に遣(のこ)さんず。」

と、いはれたり。

 予は、この二十年(はたとせ)あまり、こなた、よしや、むかしのことなりとも、遊女・冶郞(やらう)のうへなどは、あなぐり糺(ただ)す事を、たしまず、えうなきわざとは思ふものから、是すら、いなむにいなみかねたる、口(くち)から高野(かうや)の諺(ことわざ)に得(え)もれず。暇(いとま)なき身の、いとまを費し、曲りなりなる墨さへ減らして、さらでも、ちびたる筆を走らし、硯の海の底(そこ)はかとなく、よに淺(あさ)はかなる考へを、綴りて贈りまゐらするになん。

  よし原の世をのがれてもいける身のしにかへらねば人につかはる

 文政八年正月中澣   著作堂瀧澤解拜具

     進 上     神田川信天翁拜具

   無佛庵大兄老翁梧下

[やぶちゃん注:「南無佛菴」幕府畳方の棟梁を務める一方で、書家でもあった中村仏庵 (宝暦元(一七五一)年~天保五(一八三四)年)。江戸の人。梵字に優れた。名は蓮・連。通称は弥太夫・吉寛。別号に至観。彼は「耽奇会」の会員で七回参加しており、馬琴とは仲が良かったらしい。葬儀の折りの記録が馬琴の日記にある。]

 附て云ふ。予が藏弆(ぞうきよ)に、寬永・明曆の「江戶圖」、二本あり。今、畧抄して、元吉原の舊趾(きうし)を考ふる一端とす。前件の愚說と合はし見給へかし。

 「吉原由緖書」に、『元和三年の春、葺屋町の下の方(かた)にて、方(はう)二町の地を下し給はりし。』と見へたれど、當時は、なほ、葺屋町と云ふ町名、なし。抑(そもそも)、彼(か)の「由緖書」は、享保十年の秋七月、庄司甚右衞門が六世の孫、名主又左衞門が家の舊記と、口碑に傳ふる趣きを書きつめて、奉りしものなれば、後世の町名によりて、『云々(しかじか)』としるせしのみ。その書に、いはゆる葺屋町は、禰宜町なること、疑ひなし。

 寬文の「江戶圖」には、禰宜町・尾張町ありて、堺町、なし。明曆板の「江戶圖」には、禰宜町・堺町ありて、尾張町、なし。且、寬永板に比すれば、その圖、稍(やや)精細なり。按ずるに、寬永板に、いはゆる、禰宜町は、葺屋町・堺町の舊名なるべし。寬永之後、明曆の前に至て、吉原の西の方を開發せられて、堺町と名づけしころ、勘三郞が芝居は、禰宜町より堺町に移り、又、禰宜町には、市村竹之丞が芝居その他、人形座などの、猶、ありけんかし。かくて明曆大火の後、吉原はさら也、こゝらの寺院を、みな、御曲輪外(おくるわそと)へ移させ給ひて、扨(さて)、寬文中に至り、町割、ことごとく改(あらたま)りし時、中村・市村の兩歌舞伎は、元の禰宜町のあたり、二町の間に推(お)しならびて、勾欄(やぐら)を建てしころ、市村がをれるかたの、禰宜町を改て、葺屋町とし、中村勘三郞がをれるかたをば、元の町名によりて、堺町と唱へしならん。それは今の堺町も、明曆板に見えたる堺町の地所に、あらず。又、今の葺屋町も、昔の禰宜町の地にあらざること、猶、今の大門通りは昔の大門通りと、その道筋、異(こと)なるがごとくなるべし【寬永版、及、明曆版の地圖、省略。】

曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その1)

 

[やぶちゃん注:本篇も「兎園小説」の中では非常に知られた一篇である。前回の「けんどん争ひ」と同じく冒頭注で述べたが、中巻は底本が変わって、

国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第一のここから

となるので、注意されたい。さらに、本篇の初めの部分は、

国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」の巻第二の下のここから

にも所収し(但し、標題は「佛庵所藏元吉原𤲿屛風圖」)、やや表現が異なる箇所があるが、同書は読みが豊富に附されてあるので、こちらも参考にして、( )で一部の読みを挿入することとする。さらに読み易さを考えて段落も成形した。時に後者の方が表記が判り易いと考えた場合は、そちらを採用した(特に断っていない)。その方が読者にはよろしいかろうと考えたからである。なお、やや長いので分割した。]

 

   ○元吉原の記

 元吉原(もとよしはら)は、元和三年の春より始まりて、明曆三年の春、今の地にうつされにき。はじめの地にありけるは、四十年の程になん、よりて「吉原由緖書(よしはらゆいしよがき)」とか云ものを按ずるに、慶長七年の頃、相摸(さがみ)の小田原浪人、庄司甚右衞門【一本、作勘右衞門。】といふもの、當時江戶の町々に【麹町八丁目・鎌倉河岸・大橋の内柳町・京橋角町等なり。】わかれをる遊女屋どもを、ひとつ處につどふべき、地所(ちしよ)を給はらんよしを願ひまうして、箇條(かぜう)の目安(めやす)を奉りしかば、元和三午丁巳の春、傾城町(けいせいまち)を御免ありけり【此時の町奉行は米津勘兵衞ぬし也。本多佐渡守着座にて、仰わたされしと云。】則、葺屋町(ふきやちやう)の下のかたにて、二町四方之地所を給はり、やがて甚右衞門をもて、惣名主(さうなぬし)になされしと云ふ。

[やぶちゃん注:「元和三年」一六一七年。ウィキの「吉原遊廓」によれば、『江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などは』、『たびたび移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初、幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後』、慶長一七(一六一二)年、『元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)』(本篇の「相摸の小田原浪人」とは全く異なる当該ウィキによれば、天正三(一五七五)年生まれで、寛永二一(一六四四)年没とし、『吉原遊郭の創設者として知られる。幼名は甚内』。『相模小田原北条家の家臣』の子『として生まれる。その後、『江戸に出て』、慶長一七(一六一二)年に『道三河岸の傾城町で遊郭の創設の出願のために遊女屋を営んだと言われるが、諸説がある』。五年後の元和三(一六一七)年に『吉原町に遊郭が創設する事が許可されると、惣名主となり』、『以後』、『甚右衛門の子孫が代々惣名主を継いだ』とある)『を代表として、陳情した際に』、○『客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。』

○『偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。』

○『犯罪者などは届け出る。』

『という』三『つの条件で陳情した結果、受理された。受理されたものの、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなく、陳情から』五『年後の元和』三年『に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、

○『江戸市中には一切遊女屋を置かないこと』。

○『遊女の市中への派遣もしないこと』。

○『遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすること』。

『を申し渡した。しかし、寛永』(一六二四年~一六四四年)『の頃までは、遊女が評定所に出向いて』、『お茶を出す係を務めていた。結局、遊廓を公許にすることで』、『そこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある』。さて、この時、『幕府が甚右衛門らに提供した土地は、日本橋葺屋町続きの』二町(約二百二十メートル)『四方の区画で、海岸に近くヨシが茂り、当時の江戸全体からすれば』、『僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。吉原移転後、跡地には難波町、住吉町、高砂町、新和泉町が出来た。現在の日本橋人形町』二・三『丁目と日本橋富沢町に跨がるあたりである』とある。グーグル・マップ・データ(以下同じ)のこの中央附近に相当する。

「明曆三年」一六五六年。同前のウィキによれば、『江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっていた。そのような中で』明暦二年十月、『幕府は吉原の移転を命じる。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。吉原側はこのままの営業を嘆願した』ものの、『聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意した。この際に北町奉行・石谷貞清は以下の便宜を図っている』。

○吉原の営業可能な土地を五割り増し(三丁四方)とする。

○夜の営業を許可する。

○風呂屋者(私娼)を抱える風呂屋(これ以前から流行った風俗営業をする銭湯で、遊郭と競合した)二百軒を取り潰す。

○周辺の火事・祭への対応を免除する。

○一万五千両を賦与する。

『この内容から』、『風呂屋の盛況も移転の理由だったことが窺える。幕府は同年』九『月に風呂屋者を置くことを禁止している(それ以前との記録もあり)。もっとも、周辺』の『火事への対応免除は、逆に』、『吉原で火事が発生した場合に』は、『周りから』の『応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。折りしも翌明暦』三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日相当)まで、江戸の大半を焼いた大火災「明暦の大火」が『起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもあった。大火のため』、『移転は予定よりも少し遅れたが、同年』六『月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋は』、『すべて移転した。移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。新吉原には、京町』一・二『丁目、江戸町』一・二『丁目、仲之町、揚屋町、角町があった』(京町以外は全て「ちょう」と読む)。寛文八(一六六八)年、『江戸市中の私娼窟取り締まりにより』、娼家主』五十一『人、遊女』五百十二『人が検挙され』、『新吉原に移された。これらの遊女に伏見の墨染遊郭や』、『堺の乳守』(ちもり)『遊郭の出身が多かったため、移転先として郭内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。また』、『この時に入った遊女達の格を「散茶(さんちゃ)」「埋茶(うめちゃ、梅茶とも)」と定め、遊郭での格付けに大きな影響を与えた』。『新吉原を開設したのは尾張国知多郡の須佐村の人だったという論文が『知多半島郷土史往来』第四号『(はんだ郷土史研究会刊)で発表されている。著者は作家の西まさる』で、『西論文によると、吉原遊郭の揚屋は総数約』二十『軒で、そのうち』十三『軒以上が知多郡須佐村の出身であることが、地元寺院の過去帳や寄進物記録で明白になったという。その背後に千賀志摩守』(尾張藩船奉行であった千賀(せんが)志摩守重親(しげちか))『がいたはず』である『と発表している』。同じ西氏の「吉原はこうしてつくられた」(新葉館出版)に『よれば、明暦大火後の』八『月に浅草田圃に出来上がった三町四方の新吉原遊郭であるが、その埋め立て、造成、建設の指揮をしたのは知多の陰陽師で、実際に作業にあたったのは非人頭の車善七が率いる』三『千人の非人とされた人たちという。また、完成した新吉原の町を俯瞰すると』、五『つの稲荷神社に囲まれた陰陽道の陰陽の法則に基づいていることが解るという。また、遊郭街へ入る五十間道の曲がり方、見返りの柳、さらには花魁道中の花魁の独特の歩行方も陰陽道に沿ったものという』とある。新吉原の位置はこの中央附近

 以下、割注まで底本では全体が一字下げ。]

 寬永の「江戶圖」、幷に、明曆三午正月開板の「江戶圖」によりて考(かんがふ)るに、元吉原の一廓(いつかく)は、今の「曲突河岸(へつゝひがし)」のほとりにて、「禰宜町(ねぎちやう)」と「尾張町」【この尾張町は間なる「をはり町」にはあらず。】、「京橋」と「新橋」の艮(うしとら)にあり。こゝに云ふ「禰宜町」は、「堺町(さかいちやう)」の舊名也。寬文二年「江戶名所記」刊行の頃までも、その書【四卷。】に、「禰宜町」としるしたるは、これ、則、「堺町」・「葺屋町」のこと也。しかれども、此の禰宜町は、今の堺町より北の方に、相距(あいさ)ること、凡一町ばかりにして、今の和泉町(いづみちやう)・高砂町(たかさごちやう)のほとりなるべし。かくて、明曆丁酉の大火後に、こゝらわたりの町わりを、すべて改められしかば、今はいづれを何れの町とも、定かに考がたかり【「江戶名所記」に、中村・市村の兩歌舞伎を禰宜町としるせしは、舊名によれるなり。寬文中に堺町にいで來たり。下の圖說を考ふべし。】。

 しかるに、當時、その處、あちこちに沼にてありければ、俄に葭蒹(よし)[やぶちゃん注:二字への読み。]を刈り拂ひて、平坦(たひらか)に築(きづ)きならせし。この義によりて、里の名を「葭原(よしはら)」と呼び出せしを、後にめでたき文字にかへて、「吉」に作るといへり。

 かくて、その一廓に、巷路をひらくもの、すべて五町、その第一を「江戶町一丁目」と云ふ。こは、開基の地なる故に、江戶繁昌の御餘澤(ごよたく)を蒙り奉らん爲に、祝して、云々(しかじか)と名づけたり。こゝには「柳町」なる遊女屋どものうち、つどひて、家作り、しける。且、名主甚右衞門も此處にをりしと云ふ。

[やぶちゃん注:「寬文二年」一六六二年。

「江戶名所記」私の偏愛する、真宗僧で作家としても知られた浅井了意によって著された江戸の名所記。寛文二年五月に京の五条寺町河野道清を版元とする。当該ウィキによれば、『江戸全体を概括した純粋な地誌としては最初のものである』。『著者浅井了意は京都出身で』、『江戸の滞在歴がある仮名草子作家で、先に東海道を題材とした』「東海道名所記」を『著しているが、本書は中川喜雲著の京都初の名所記』「京童」(きょうわらべ)に『影響を受け、江戸内外の人々に対し』、『江戸の名所を紹介するものである。江戸の繁栄ぶりを強調する記述が目立ち、先に明暦の大火の見聞を』「むさしあぶみ」に『著した著者が、その後の復興を他国に知らしめようとする意図も窺える』とある。

 以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

 「吉原大全」に、庄司甚右衞門が家名を西田屋と云ふ。これが抱(かゝえ)の遊女「たそや」が事より、「たそや行燈(あんどう)をともす」といへり。しからば、甚右衞門は名主にて、遊女屋をも兼(かね)たる者也。

[やぶちゃん注:「吉原大全」著者は醉郷散人(事績不詳)で、鈴木春信が絵を担当している。明和五(一七六八)年板行か。

「たそや行燈」ここに書かれている源氏名の話は載らないが、飯田孝氏の「今昔あつぎの花街」に「たそやあんどん」の記載がある。『「たそやあんどん」は、「たそやあんどう」ともいわれ、「誰哉行燈」「誰也行燈」の漢字があてられている。たそやあんどんは、江戸新吉原の遊廓で、各妓楼の前に立ち並べた屋根形をのせた辻行燈であるが、これとは別に歌舞伎舞台に出す木製の灯籠の意味もある(『日本国語大辞典』)』。『また、江戸時代末期頃の見聞をまとめた『守貞漫稿』には、次のように記されている』。『たそや行燈或人曰「たそやあんどう」は、「たそがれあんどう」の訛言也元吉原町にありし時より、毎院の戸前に之を建、今の新吉原町に遷りて、また之は廃れず。今に至りて江戸町及び以下、妓舘毎に戸前往来の正中に此行燈一基と、天水桶上に手桶十ばかり積たるとを必ず之を置く行燈には終夜燈を挑て、往来を照す、けだし此行燈の形、他所にも之を用ゆれども、「たそや」の名は当郭に唱ふのみ』。『『守貞漫稿』の記述に』『よれば、江戸時代、たそやあんどんは、新吉原の各妓楼が、その前の道に立てて灯をともし、夜の道を照らすあかりとしたものであるが、新吉原以外でも用いられていたことがわかる』。『これがいつしか料亭などの目印や看板となって、電灯がともるようになった後も、たそやあんどんは、花柳界でその姿が生き続けることになる』とあり、近現代の話が続く。]

 第二を江戶町二丁目といふ。こは、鎌倉河岸にありし遊女屋が、皆、移徙(わたまし)してこゝに住ひき。

 第三を京町一丁目と云ふ。こは麹町なる遊女や等が、この處にうつり住ぬ。故鄕は京のもの共なれば、云々(しかじか)と名づけしと云。

 第四を京町二丁目と云ふ。吉原開基のよしを聞て、こたび京より來つるものさへ、かれこれ、多くなりにければ、この處に集めをきつ。この故に町づくりの、一兩年おくれしかば、「新町(しんちやう)」ともいふといへり。

 第五を角町(すみちやう)といふ。こは京橋角町なる遊女屋のもの、いたくおくれて移り住みぬ。これによりて、此處は、寬永三年冬十月十九日に、町づくり成就せしと云。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

 寬永の「江戶圖」によりて考るに、當時、吉原なる五丁町は、江戶町・京町・新町・角町・賢藏寺町、則、是也。この「けんざう寺町」を改めて、江戶町二丁目と唱へしは、寬永の末なる歟、正保・慶安の頃にても有ベし。

[やぶちゃん注:「寬永の末」寛永は二一(一六四四)年まで。

「正保・慶安の頃」寛永の後が「正保」(一六四四年~一六四八年)で、その次が「慶安」(一六四八年~一六五二年)。]

 さりし程に、明曆二年丙中の冬十月、吉原の地所、御用地になるに及びて、同じ月の九日に、云々(しかじか)と仰せわたされ、「外(ほか)にて代地(かへち)をくださるべし」と、仰せ渡されたりけるに【このときの町奉行は石谷將監ぬし、神尾備前守なりといふ。】、その明年丁酉の春正月十八日、本鄕なる本妙寺より失火して、江戶中、殘りなく燒けにければ、更に所替(ところかへ)の義を急がせ給ふ程に、山谷(さんや)・鳥越(とりこえ)のほとりなる百姓家を借りて、しばらく渡世したりける。これ、吉原假宅(かりたく)の始め也。この後、いく程もなく、淺草寺のうしろなる、日本堤(につほんつゝみ)のほとりにて、二町に三町のかえ地をくだされ【大門口より水道尻まで、京間百三十五間、橫幅百八十間、内の坪數二萬七百六十七坪、「吉原大全」に記せしもかくの如し。舊地よりは五わり增の替地なり。】、晝夜ともに渡世を致すべき旨を仰わたされ【是までは晝ばかり也。】、引料(ひきれう)として御金壹萬五千兩下され【但、小間一間に、金十五兩づゝの積り也。】、同年八月上旬に、家作、落成してければ、みな、新吉原へ移徙(わたまし)して、生業をせしといへり【江戶中なる風爐屋の髮結女と唱へる、隱賣女を嚴禁にせられしも、このときのこと也。かくて、そのものどもの、うちわびて、みな、吉原へうつり住ひし程に、茶屋・遊女持ともに、すベて七十餘人ましたりと云ふ。】

 右、「元吉原由緖書」の趣を略抄して、愚按を加へたり。

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(笊や味噌こしの類ではない。……) / 萩原朔太郎 未発表詩篇(正規表現)全電子化注~完遂

 

 

 

笊や味噌こしの類ではない。

長い歲月のあひだ

おれは臺所に獨りで棲んでた。

煤ぽけた天井裏で

おれの老ひた母親が歌つてゐた。

ああ いつまでも――悲しい歌だ。

天窓の向ふに

星が見えてる。

それからまた長い間、默りこん沈默して、日曆のめくりゆく、人間の塑史が過ぎた

ああすべて――過去の日を

逝きてかへらぬ日の嘆き→日の思ひ出 日の思ひ出に*の嘆き//日の夢は*

[やぶちゃん注:「*」「//」は私が附した。二つのフレーズが並置残存していることを示す。]

夏→晚の 息も絕えなむ君が接吻

その日、

太陽のかがやける、岩の 赫土の上

ああ息も絕えなむ その日、君が口吻(くちづけ)。

干潮の井戶のある町のほとりで

ああ許せ、息も絕えなむ 君が口吻 口吻を。

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。但し、後ろから三行目の下線は底本では、右傍線で、朔太郎自身がふったものである。編者注があり、『本稿には以下がない』とする。

 以上を以って、筑摩版全集の「未發表詩篇」及び『草稿詩篇「未發表詩篇」』の正規表現での全電子化注を完遂した。始動時に述べた通り、過去に、独立して電子化したものや、注の中で電子化したものがあり、底本の順列では並んでいないが、探して戴ければ、総てがブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」及び「萩原朔太郎Ⅱ」のどこかに、必ず、電子化されてある。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(憂鬱のながい柄から……)

 

 

 

憂鬱のながい柄から

雨がしとしととしづくをしてゐる。

眞黑(まつくろ)な大きな洋傘(かうもり)!

だれがその下にかくれてゐて

泥濘(ぬかるみ)の道を步くのだろう。

 

不思議なさびしい貴婦人よ

あなたの影は地上にひき

瘠せた鴉のやうにさまよつてゐる。

みれば買物をする店鋪の中でも

鋏や釘拔の類が錆びつき

記憶が轉がつてゐるではないか。

何を買はうと言ふのだろう!

みれば雜貨店の店鋪の中にも

鋏や釘拔の類が錆びつき

記憶が轉がつてゐるではないか。

どこにも意志や感情がなく

日除天幕(ひよけてんと)のびらびらしてゐる

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。但し、太字は底本では傍点「﹅」である。編者注があり、『本稿には以下がない。また冒頭三行は、『宿命』の「黑い洋傘」と同じ内容のもの。その前に一行記されているが解讀不可能。右橫欄外に次の二行が記されている。』として、

 

憂鬱の洋傘にかくれて

たれがそのどうした意志や感情やが、

 

とある。「黑い洋傘」はこちら。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(かなしい遠景の中に……)

 

 

 

かなしい遠景の中に

わたしはうなだれた馬うなれた馬をみた

草のほそいやせた草はしのしのともえる

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『本稿は「月に吠える」の「孤獨」の原型斷片か。このあと一字分上げて「いつの頃か知らないが、」と書かれているが、本文とは別の一行と思われる。』とある。「孤獨」はこちら。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 幸福な晩 /添え辞「ある日、東京に出でゝ友と共に叫べる言葉」

 

 幸福な夜

 幸福な晚

     東京の 夜景を見て叫ぶ、 出でて 着きて
     夜景を見る、

     ある日、友と共に 唄へる 詩、東京に
     出でゝ友と共に □える詩、叫べる言葉

     ある夜出京して友と共に數度も唄へる、

 

この今夜の明るい月夜をどうしてくらさふ、

たれがなにものが私を不幸な人間だといふのか、にすることであらう、

今夜の美しい東京の夜景はどうだ、

□□この高い建築の家根の堂々たる家竝はどうだ、を見ろ、

その停車場の大きなことはどうを走りいづる無數の汽車の煙はどうか、

あの安→雜白な→美しい→このすばらしいホテルの三階窓からもれる美しい燈灯をみろの紅い色彩を見たか、

あ→この そして堀割のくらい 水面 道路にそうて立たる電柱の

そしてこのカフヱの女 のきれいなことはたちはきれいに咲いた花のやうだ、東京の 女たちのきれいなことはまるでひらいた花のやうではないか、

ああ夜の〈東京〉大都會の美しさを思ふと私の戀びとのやうだ 大き なこと くして美しい姿をみるに胸はおどる、空に映るこの美しはどうしたものだ、

今夜、空には月やこの美しさはどうしたものだ、

今夜は君たちと酒をのんであかるいカフヱの店先で酒をのまふ

なにが舶來のうまい酒をのまふ、

おどろくべき東京のカフヱ 見ろ東京の

そうして東京のカフヱで酒をのまふ、どこでも立派なことはどうだ

あのたくさんの椅子を見ておどろくな

今夜おれはむやみに幸福だ、

おれを不幸にするなにものゝ影もここにはないのだ、

こゝにはよく澄んだ月光があるとその月の輪とがある、

なつかしいああ君たちとあついも腕をくんで

今夜はなんといふ幸福の晚だ、

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(この海岸の別莊に來て病を養ふ人々の父親も……)

 

 

 

この海岸の別莊に來て病を養ふ人々の父親も

また琴をひく見知らぬ美しき異性の詩人も貴族の娘も

庭に出でゝ見よ

障子を開けて空 をみよ、 に見入れよ

前裁に立ちて眺めよ

神の聲

その求める汝等の神の聲異性の愛は松の木の天上にありてきみを……

松が枝高く

いかに美しき明月の夜なるぞ

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。この後に親和性の強い無題断片(この景色のよい海岸の別莊はだれの家か、……)が載るが、それは既に「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(この景色のよい海岸の別莊はだれの家か)」の注で電子化してあるので、比較されたい。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(竹籠をかついだ男たちが……) / 抹消標題は「山に住む男の生活」

 

 山に住む男の生活

 

竹籠にのつた旅びとをかついだ男たちが

けはしい山みちをのぼつてゆく

籠の中には若い娘がのつてゐるが

ときどき山みちはうねりくねつて石ころだらけで

くらい竹やぶのかけを つて りすぎたがことさらにさびしかつた

行方におほきな山があつた重なつてゐて

向ふ 行方 におほきな山があ つて る、

それをこえてまた山が重なりあつた

山の中腹に湖水が あつた ある

とほい山頂をながむれば

とほい山頂に湖水の水がきらきら光つてゐ

このふるいゆめのやうな 景色 風景を

まだ見も知らぬ高原のかなたにこころにめざして足をむけ

山の上には湖水の水が光つてゐる、

とほい國境のかなたに足をむけ

こゝろてんでにふしぎなゆめゆめをいたゐる籠かき

籠かきはみちをのぼつて行 くのだ つた

あはれ けふも用なき旅びとの娘を籠にのせて渡世の男たち

ちいさな籠が山道をのぼつてゆく

ところどころにはるかにみゆる

杉の 山むら 木立

とほく山のいただきが見え

籠の中には女が

いとけない女の子は都育ちの女の子

籠の中でゆられながら ていゐたながら

眼をあげて高い山行手をあほいだ

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『十一・十三行目は消し忘れとみられるので上欄本文』(校訂本文のこと)『では省いた』とある。しかし、初版はその部分に抹消し忘れを示す傍点がなく、後の差し込みで訂正してある。則ち、生きている十一行目の「とほい山頂に湖水の水が」「光つてゐる」の部分と、十三行目の「まだ見も知らぬ高」「原のかなたに」「足をむけ」を全部カットしたものが校訂本文となっている。私はこの説に組み出来ないので、校訂本文は示さない。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(まつすぐに生えたる樹木のつめたいてんぺんで。ちつぽけな蟬がないてゐた。……)

 

 

 

家のまわりにはえてゐる

まつすぐに生えたる樹木のつめたい 水の中におよいでゐる魚てんぺんで。ちつぽけな蟬の子がないてゐた。

もうもうともえ

かなしい蟬の鳴聲である、

われは、いまおほきなそのとき山のふもとで かなたに日かげになるところで雷のなるけはひをきく

おれの心おだやかに眠つてゐる。

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『本稿は上部が破損しているので冒頭二行の頭部は缺落している。六行目「わたしは空の」はあとにつづかず、消し忘れと思われるので上欄本文』(校訂本文のこと)『では省いた。』とある。

五行目「雷のなる」は抹消されているが、前後のつながりのため上欄本文』(校訂本文のこと)『では生かした。最後の行は「おれは」だけが抹消されていないが、中斷のまま。』とあり、さらに『同一用紙の左半分に次の二行が書かれている』。

 

山の日かけになるところに、まつしろな兎がねむつてゐた はいちめんのはこんもりした杉の木立であつた、

たびびと

 

とある。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(  牧場の方へ……)

 

 

 

  牧場の方ヘ

   れて くゆくやうだ、→ゆく、 ゐる、

ふともの遠い林

わたしはふとの方へ向つて、私は風のやうに手をふつた

なぜかしらないさびしさが〈〉□の心をくひつめた

わたしは空の

山では草木が光つてゐる

 

ああ わたしは この憂愁をわすれてゐ

「ああ、ながいながい年つきのあひだ

おれはあまりに孤獨に育つたこの種の憂愁になれすぎた

 

むしろいまでも子供らしい唄歌でもうたつて居やう

山の頂に座つてゐると

からぢうが靑靑としてしまつて

なんにもかんがへることのなくなるものだ、

いつか馬鹿のやうになつてしまつた

とほくで海なりの音がきこえるやうだ、

空には草木が光つてゐる。

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。冒頭と二行目の字下げもママである。編者注があり、『本稿は上部が破損しているので冒頭二行の頭部は缺落している。六行目「わたしは空の」はあとにつづかず、消し忘れと思われるので上欄本文』(校訂本文のこと)『では省いた。』とある。まず、削除部分を消去して示す。

   *

 

 

 

  牧場の方ヘ

ふとの方へ向つて、私は風のやうに手をふつた

なぜかしらないさびしさが□の心をくひつめた

わたしは空の

山では草木が光つてゐる

 

「ああ、ながい年つきのあひだ

おれはこの種の憂愁になれすぎた

 

いまでも子供らしい唄歌でもうたつて居やう

山の頂に座つてゐると

からぢうが靑靑としてしまつて

なんにもかんがへることのなくなるものだ、

とほくで海なりの音がきこえるやうだ、

空には草木が光つてゐる。

 

 

   *

以下に校訂本文を示す。

   *

 

 

 

牧場の方ヘ

ふもとの方へ向つて、私は風のやうに手をふつた

なぜかしらないさびしさが私の心をくひつめた

山では草木が光つてゐる

 

「ああ、ながい年つきのあひだ

おれはこの種の憂愁になれすぎた」

 

いまでも子供らしい唄歌でもうたつて居やう

山の頂に坐つてゐると

からぢゆうが靑靑としてしまつて

なんにもかんがへることのなくなるものだ

とほくで海なりの音がきこえるやうだ

空には草木が光つてゐる

 

   *

そもそも、草稿を弄る事自体の限界がここに悪しく露呈していると私は思う。

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(とある高い山のいたゞきに……)

 

 

 

とある高い山のいたゞきに

およそ二十步ばかりの二十步ばかりのさびしい遊步場があつた、

遊步場には草もいちめんに生えてゐた、

草が生 そこの白い棚にもたれて

わたしは

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 さびしい松林

 

 さびしい松林

 

さびしい松林の中を汽車が通る步いてゐる

いちにち□□ちに淚

海がさびしい人間の瞳 が木立のあひ→がのぞいて の色をして瞳があるきつかれてゐる

日かずをかぞへてくらす囚從のこゝろでやうに

われ われ□□□は のこゝろは 木立に

木立は→木立を 木にふれてゐるいたみ

われはじつに こゝろ→足を

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。なお、編者注があり、『本稿には以下がない。末尾やや離れて「だ」「だれ」と二行に書かれている。』とある。なお、校訂本文は四行目の「囚從」を『囚徒』としている。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(さびしい丘の上には空家がある……)/全体が三候補並存の特異な草稿

 

 

 

さびしい丘の上には空家がある

┃丘の上にはすゝきが生えて

すゝきがぼうぼうと生えしげつてゐます→た→る

┃さびしい海岸野道をたどつてゆくと

砂山きたない丘の上に空屋があつた

家星の前 砂山空屋にはすゝきが生えしげり

┃すゝきが風にふかれてゐる

風のふくさびしい濱邊 海岸をたどりながら、わたしの感情

しづかな山みちをたどりなりながら

わたしはさびしい眼をあげた

丘の上に砂ひくい砂丘の上に空屋があるあつた。

┃さびしい丘の上にはひからびたすゝきが生えしげ

すゝきが風にふかれてゐ

 

[やぶちゃん注:「┃」と「↕」は私が附した。三つのパート(詩篇冒頭断片か)が並列して残存していることを示す。底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。なお、編者注があり、『本稿は『月に吠える』の「白い共同椅子」の二番目の草稿』『と同一用紙に書かれている』とある。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 白い共同椅子』の私の注の最後に電子化されてあるものが、それである。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(おれは美しい風景なんかみたくもない)

 

 

 

〈高い山〉

おれがときどき 旅行 田舍に出るわけは

おれはよい美しい風景をみるのが がきらひだなんかみたくもない

おれはあつたかい山の中の溫泉がきらひだ、

あれは靑い海をみるのがきらひだ、

すべての田舍の生活がきらひだおれは田園及び地方人の生活を呪つてゐる、

しかしけれどもおれは旅がすきだ

さびしい田舍山道をあるくのかすきだ、

山みち また知らぬ國々の

泣きたいやうなこゝろで

日のくれ方に竹籔のそば

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。なお、底本の本篇のすぐ前にある「無題(おれの旅する心は)」の編者注を参照されたい。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(おれの旅をする心は……)

 

 

 

田舍の風景といふものは

おれはおゝきな下駄をはいて

田舍の □□ 生活をふみ あらし つけたい

おれはき れいな都會 がすきた にあこがれる

都會の建築にあこがれる

おれの旅をする心は

まだ知らぬ世界のはてに

美しい都會を求める心べ

いまも山路をくだりながら

もしや都會ロンドンのやうな町でもみえるかと

ときどき山の 方へ旅へでる 峯の向をのぞいてゐ

いつもひとりで旅をするおれの心はさびしい、

いつも旅をするおれの心は

大きな 不思議なまだ見もしらぬ大建築と流行の衣裝にあこがれる、

白い雲の向ふに夢みてゐる、

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、編者注があり、『同一用紙の冒頭に「旅館の」「松林の中をのぞいてみると」の二行が書かれているが、本文とはつながらない。また下方に次揭の「(おれは美しい風景なんかみたくもない)」が書かれており、これは本篇の別稿とも見られる。』とある。「(おれは美しい風景なんかみたくもない)」はこの後に電子化する。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 消息・無題(おれは仙術をまなびたい、……)

 

 消息

 

山は山の上に重つてゐる

ふかい谷の底では

ゆめのやうないちにちほそい瀧がながれてゐる

白い人間の足が 山の頂上 山のいたゞき峯から峯をあるいてゐる

いちにちそれをんな愁をかんじてゐる。

さびしい

靑い 靑い鹿の上に ねこんで 座りこんで、

 

   *

 

  □□をみる

 

蟲けらでさへも□きあるものを

おれは仙術をまなんでみたいびたい、

 

山の頂は

眼にも及はぬ

見あげても見あげてもいたゞきの見えない山だ、

その山をよぢのぼうとして

おれの手はふるえた

まだらにゆるる手

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、削除された『□□をみる』の『行は、他の行より少し下げて書かれており、題名かともみられるがはっきりしない。』とある。私は標題説をとるが、一応、底本では連続した詩篇として採用しているので、読者の判断に任せるため、セットで示し、代わりに、記事標題では分離して示したが、後者の「□□をみる」は本文同ポイントとしておいた。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(みんなは手をつなて山路を散步した、……)

 

 

 

みんなは醉つ手をつなて山路山路を散步した、

路ばたには美しい商店が竝んでゐた、

花やうな貴族の娘たちの

くらい町は崖のほとりには

百合の花がさいてゐた

都からの自働車は

日每にほそい山路をうねりながら

いろいろな化粧品をはこんでゐた、

ホテルの廣間では 音樂

別莊のみればふかい谷の底にも

夜つぴとへ □→ピアノの→歡樂の むらさきの燈がともつてゐた、

立派な不思議な建築の家→の廊橋の家が竝んでゐた。

          (美しき箱根にて)

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『本稿は『月に吠える』の「白い共同椅子」の草稿と同一用紙に書かれている』とある。『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 白い共同椅子』の注で電子化してあるので参照されたい。]

2022/04/03

萩原朔太郎 未発表詩篇 女にちかづくな

 

 女にちかづくな

 

女にちかづくな

女にちかづいてでれでしとし

女におべつかをいひ

女をくすぐして

女のきりようをほめて

女の手をにぎり

女のきりようをほめてその飮心を買ふこと勿れ

たた女を尊びたつとべ

は我々の神聖なる神像偶像のやうなものである、

泣くから女をみてゐるだけでも

遠くから女のことを考へてゐるだけでも

私どもはどんなに嚴肅な氣もちになれるか、

わけても日本の娘の美しさどうだ

そのたまらなく善良なたましい

女らしいしとやかさ媚をふくんだ姿態のしなやかさしとやかさ、

舞踊でまなびおぼへた手つき足つき、袂の仕草、ふり工合

はばのひろい帶の藝術でしつくりとまきつけた胸のふくらみ

白いやうでよくみると黃色い皮膚のいろ、

明るやうでくらい皮膚の音樂

かぎりなき憂鬱と

その皮膚の しづかなる憂鬱さ、

美しきたそがれの

たそがれどきのやうな夢にら似たる憂鬱さ、

ああ、それはそれは美しい宗敎のやうなものである、

そこには人生のあらゆる幸福がある、

そこ には からすべての男性の詩

そこにはすべての

そこには男性のあらゆるよろこびがある、

・女は美しい偶然である、

・女にだた近づくな、ながめてゐよ、

・女に近づくものをいやしめよ

たとへば川路柳虹バイロン、ハイネの輩

つねに女に近づいてでれでれと

女たらしを本織とする詩人のともがら

かくの如きものを私はいやしめる、にくめよ、

ただ女をたうとびあがめ

遠くよりして合掌しろ、女に近づくな、よ、

女に近ぐことは女を恥じいましめ、つつしめ、

は人生の宗敎である。に手をふれざる所にありてざるやうにし、

つねに遠方にゐて女の操を 愛らしき言葉を味へ嚴肅なる美術を味へ生活を見守れ。

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。後半の三行の頭に「・」がふられてあるのは、朔太郎自身によるものである。ちょっと珍しい仕儀である。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(ああ 私は愛を求めてゐる、……)

 

 

 

ああ 私は愛を求めてゐる、

愛を求めるさびしい狐獨の旅の長い道

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。編者注があり、『本稿は『月に吠える』の「靑樹の梢をあふぎて」の一部と關係がある』とある。私の電子化注をリンクさせておいた。]

多滿寸太禮巻㐧二 丹州橋立曉翁銀河に登る事

 

[やぶちゃん注:途中に現われる漢詩文の句や和歌は、底本類では本文に組みこまれてあるが、改行し、漢詩文の句は、まず、白文で示し、後に( )で訓点に従って書き下し文を示した。挿絵は一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

 

Gyouousyokujyo

多滿寸太禮巻㐧二

  丹州橋立(はしだての)曉翁(げうおう)銀河(あまのがわ)に登る事

 そのかみ、丹後の國、与佐(よさ)の浦、成合(なりあひ)のほとりに、ひとりの隱士(ゐんし)あり。とし、いまだ三十をこへず。容貌、ゆうびにして、氣質、また、溫和なり。

[やぶちゃん注:「成合」成相山(なりあいさん)。京都府北部の丹後半島の南東部、天橋立の北側にある宮津市に属する山。別称「鼓ヶ岳」。標高五百六十九メートル。中腹に西国三十三所第二十八番札所の成相寺(なりあいじ)があり、傘松公園からの天橋立の眺望は、「天橋立股のぞき」で知られる。山麓の府中は、丹後国府の所在地で国分寺もあった。ここ(グーグル・マップ・データ。以下も同じ)。]

 何がしの中將とかやいひて、威勢ときめきしに、いかなる故にや、

「病ひ。」

と稱して、此の所に、唯一人、曉翁と名をかへ、「篠(さゝ)の庵(いほり)の」と、ことはに、世を外(ほか)になし、常は釣りをたれ、住み給ひしが、本より、此の所は不双(ぶさう)の眺望(てうまう)、山水をたのしみ、千巖(せんがん)、きほひて秀(ひいで)、萬嶽(ばんごく)、あらそひて流るゝ。句を吟じ、終日(ひねもす)、遊興。やまず。

[やぶちゃん注:「篠(さゝ)の庵(いほり)の」知られる類型のものでは、西行の「山家集」の歌に「もろともに影を並ぶる人もあれや月のもりくるささのいほりに」がある。]

 一葉(いちよう)の小船(せうせん)に乘(じやう)じ、風帆(ふうはん)ながれゆく所にまかせ、或(あるひ)は、魚の水涯(すいがい)にをどるを見、又は、鷗の沙(いさご)にあそび、洲崎(すさき)の白鷺(はくろ)を友とす。飛ぶもの、走るもの、浮かぶもの、をどるもの、その體(てい)、とりどり也。文珠樓(もんじゆろう)は雲にそばたち、成合寺(なりあひ《じ》)は海底にうつり、天の橋立の松は、浪にあらはれ、おもしろかりしかば、興に乘じ、初秋(はつあき)の夕《ゆふべ》、舟(ふね)を橋立の濱にとゞめけるに、凉風(すゞかぜ)、俄かにおこり、星斗、光りをまじへ、海水、天を混(ひた)す。

[やぶちゃん注:「文珠樓」不詳。現在の成相寺の本尊は聖観音立像で脇侍は地蔵菩薩・千手観音。他に十王堂があり、閻魔大王像と孔雀明王像を安置し、観音堂には三十三体の観音像を祀るが、文殊像はない。]

 ねむるともなく、うつゝともなく、芦(あし)の笛、波の鞁(つゞみ)を汀(みぎは)に聞きて、船中に打《うち》ふしぬ。

 遙かに時移り、晴天をみれば、しらきぬ、萬丈(まんぢやう)の南北によこたふがごとし。雲、跡を拂ひ、舟、忽ちにうごき出《いで》、そのゆく事、甚だ、すみやかなり。風水(ふうすい)、みなぎり、わかれ、ものありて、引《ひく》がごとし。

  曉翁、

「いかなる事。」

と、はかる事なし。

 須臾(しゆゆ)にして岸につく。

 寒氣、肌(はだへ)に通《とほ》り、淸光、目をうばふ。

 玉田(ぎよくでん)、湛(たんたん)とし、花草(くわさう)、その中に生ずるがごとし。

 銀海(ぎんかい)漫々とし、異獸(いじう)・神魚(しんぎよ)、其内に遊ぶ。

 烏鴉(うあ)、むらがりなく、名木、生ひしげれり。

 翁、漸々(やうやう)、人界(にんがい)にあらざる事を、しる。

 遙かに向ふをみれば、珠宮(しゆきう)・金閣、高くそびへ、一人の仙女(せんぢよ)、内よりいづる。

 氷りのごとくに、きらゝかなる衣の裳(もすそ)をとり、玉(たま)の冠(かぶり)をいたゞき、おもと人、二人、金(きん)の扇をかざし、一人は、玉の如意をさゝぐ。岸のほとりに至り、曉翁に、とはく、

「汝、來たるる事、なんぞ遲きや。」

 翁(おきな)、答へて曰わく、

「やつがれは、跡を海邊(かいへん)にくらまし、形(かたち)を魚鳥(うをとり)にひとし。君と誓約、いかであらん。いかなる故に、『遲く來る』とは宣まふぞや。」

 仙女、笑ひて、

「汝、いかでか吾をしらむ。舟を迎へて爰(こゝ)に至らしむる。その故は、汝、夙(つと)に高義(かうぎ)をおひ、久敷(ひさしく)碩德(せきとく)に存(そん)するを以《もつて》、汝をかりて、世に傳へむのみ。」

[やぶちゃん注:「碩德」徳の高い人。高徳の人。いっぱんには学徳ともにすぐれた僧を指すことが多いが、ここは前者。]

 則ち、曉翁をむかへて、岸にのぼらしめ、これをむかへて、門に入《いり》、ゆく事、一町斗り、一の大殿(たいでん)あり。「天章殿(てんしやうでん)」と額あり。殿の後ろに高樓あり。題して「靈光閣(れいくわうかく)」といふ。うちに雲母(きらゝ)の屛風(へいふ)をまうけ、錦(にしき)のしとね、四面(しめん)、みな、水晶の簾(すだれ)、珊瑚の鈎(つりばり)を以、是れを、かくる。あたかも、白晝(はくちう)のごとし。蘭麝(らんじや)のかほり、芬々(ふんふん)として、

『つたへ聞《きき》し都卒(とそつ)の内院(ないゐん)も、かくや。』

と思ふ斗なり。

[やぶちゃん注:「蘭麝」「蘭の花と麝香の香り。また、よい香り。]

 則《すなはち》、翁(おきな)を席につかしむ。仙女、語り給ふは、

「汝、此の地をしるや。世の人、云ひ傳へし『銀河(あまのがわ)』といふは、是なり。我は織女(おりひめ)の神なり。人間界(にんげんかい)をさる事、八萬余里。」

[やぶちゃん注:「八萬余里」三十一万四千百八十一キロメートル超え。]

 翁、大きにおどろき、頭(かうべ)を地につけ、

「下界の人間、草木(さうもく)と榮(ゑい)をひとしくす。今、何(なに)の幸ひありて、此の身、天府に來たり、足に仙宮をふむ事、何事を以、こゝに召さるゝ。願(ねがはく)は、詳らかなる詞(ことば)を聞きて、愚慮を休めむ。」

 仙女、端正(たんしやう)にして、打ち笑ひ、

「我、天帝の孫(そん)、靈星(れいせい)の娘、ことに貞姓(ていしやう)をうけ、群(ぐん)をはなれて、あらけ居(お)る。あに、思はん、下界の愚民、好誕(こうたん)を妻(つま)に、秋夕(しうせき)の期(ご)をつたへて、我をさして、牽牛の妻とす。淸潔の汚れ、此の恥の名を、うくる。その源(みなもと)をきけば、專ら、多作(たさく)の書を作る世俗不經(ふけい)の語(ご)、その說を傳言(でんげん)して、是れをいふものは、唐の柳宗元、「乞巧(きつこう)」のふみを作る。その事をうけて、和(くわ)する者、代々(よゝ)の歌人、七夕の詠、詞辨(しべん)、みづから明らかにする事なく、鄙語邪言(ひごじやげん)、なんぞ至らざる所あらむ。往々(わうわう)に惑書(わくしよ)に顯はし、篇章につゞる。或(あるひ)は、

北斗佳人双淚流

眼穿膓斷爲牽牛

(北斗佳人 双淚 流る

 眼(まなこ)を穿(うが)つて 膓(はらわた)を斷つ 牽牛の爲(た)めに)

といひ、或は、

莫言天上稀相見

猶勝人間去不囘

(言ふ莫(なか)れ 天上 稀れに相ひ見ることを

 猶を 勝(すぐ)る人間(にんげん) 去つて囘(かへ)らず)

又は、

としごとにあふとはすれど七夕のぬる夜の數ぞすくなかりける

 漢和の才文(さいもん)、あげて、かぞふべからず。神靈をなれあなどり、忌み憚かる事を、しらず。我、これを、忍ぶに、たへず。」

[やぶちゃん注:「貞姓」正しい正式の姓。一箇の独立した神存在として名指されていることを言う。

「あらけ居る」「散去ける」は「ちりぢりになる・間を離す」の意でよく判らないが、神として独立して認められていることを指すか。日本神話では女神は夫の男神とペアで語られることが多い。

「好誕」不詳。幸いにして神として生まれ出でたことを言うか。

「秋夕の期」陰暦七月七日のこと。ウィキの「七夕」によれば、中国では、『織女と牽牛の伝説は』「文選」の『中の漢の時代に編纂された』「古詩十九首」が『文献として初出とされている』ものの、この時点では七月七日との『関わりは明らかではない』。一方、「西京雑記」(前漢の出来事に関する逸話を集めた書で、著者は晋の葛洪ともされるが、明らかでなく、その内容の多くは史実とは考え難く、小説類に近い)には、『前漢の采女』(うねめ:宮中の女官の一つ。皇帝・皇后の側近に仕え、日常の雑事に従った)『が七月七日に七針に糸を通すという乞巧奠』(きっこうでん:陰暦七月七日の行事で、女子が手芸・裁縫などの上達を祈ったもの。元は中国の行事で、日本でも奈良時代、宮中の節会としてとり入れられ、在来の棚機女(たなばたつめ)の伝説や祓(はらえ)の行事と結びつき、民間にも普及して現在の七夕行事となった)『の風習が記されているが、織女については記されていない』。『その後、南北朝時代の』「荊楚歳時記」には、七月七日、『牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが』七『本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており』、それ以前の七月七日に行われてきた乞巧奠と『織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した』「小説」には、『「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている』。『七夕は日本に入ってきた当初、貴族の文化であ』り、『元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた』。『「たなばた」の語源は』「古事記」で『アメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は』「日本書紀」の葦原中国(なかのくに)の平定の一書第一にある『「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡』(はた)『から棚幡という。また』、「萬葉集」巻第十の「春雜歌」(二〇八〇番)の「織女之今夜相奈婆如常明日乎阻而年者將長」(たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長(なが)けむ)『など七夕に纏わる歌が存在する』。『そのほか、牽牛織女の二星が』、『それぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある』。『日本では、雑令によって』七月七日が『節日と定められ、相撲御覧(相撲節会』『)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた』。『その後、平城天皇が七月七日に亡くな』ったことから、二年後の天長三(八二六)年に、『相撲御覧が別の日に移され』、『行事は分化して星合』(ほしあい)『と乞巧奠が盛んになった』。『乞巧奠』『は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い』七月七日の『夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは』「荊楚歳時記」に『見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を』四『脚並べて果物などを供え、ヒサギ』(シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata 或いはキントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属 アカメガシワ Mallotus japonicus の古名とされるが、同定比定は明確でない)『の葉』一『枚に金銀の針をそれぞれ』七『本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また』、「平家物語」では、『貴族の邸では願い事をカジ』(バラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera )『の葉に書いた』とする。『二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女性が当然身につけておくべき技能であった訳ではない』とある。

「不經」常軌を逸すること。

「柳宗元」「乞巧」高校時代か私の好きな中唐の詩人柳宗元の「乞巧文」。中文の「維基文庫」のこちらで全文が読める。

「北斗佳人双淚流」「眼穿膓斷爲牽牛」私の好きな明の瞿佑(くゆう)の書いた志怪小説「剪灯新話」の「鑑湖夜泛記」(鑑湖(かんこ)夜(やはん)記)の一節に出る。ブログ「井手敏博の日々逍遥」の「剪灯新話(二)」で訓読・訳文(参考先は以下の明治書院)以下のが載るが、同(一)から見られると判る通り、この話全体が、この「鑑湖夜泛記」を日本に移しただけの、殆んど――そのマンマ――であることがお判り戴けるであろう。私は一読、すぐに判った。翻案のレベルでなく、最下劣にまんまである。所持する二〇〇八年明治書院刊の「中国古典小説選8」によれば、『唐の曹唐の「織女懐牽牛」(『全唐詩』)の句』とある。同書の訓読は、『北斗(ほくと)の佳人(かじん) 双淚(そうるい)流(ながれ、眼(まなこ)穿(うが)たれ 膓(ちよう)斷(た)たるるは牽牛(けんぎゅう)の爲(た)めに)』(同書はルビを現代仮名遣でふるう気持ちの悪いもの)である。

「莫言天上稀相見」「猶勝人間去不囘」同前で『原注に宋の朱熹(しゅき)』(南宋の著名な儒学者)『の詩によるとあるが不明』とする。同じくそちらでは、『言(い)ふ莫(な)かれ 天上(てんじょう) 稀(まれ)に相見(あいまみ)るは、猶(な)ほ 勝(まさ)る人間(じんかん)の去(さ)りて囘(かへ)らざるに』となっており、こちらの訓読の方が遙かによい。

「としごとにあふとはすれど七夕のぬる夜の數ぞすくなかりける」「新古今和歌集」の巻四「秋歌上」の凡河内躬恒の一首(一七九番)、

   *

   なぬかの日によめる  凡河内みつね

年ごとにあふとはすれど七夕のぬるよのかずぞすくなかりける

   *

である。男牽牛の立場から詠じた同衾の回数の少ないことを言ったもの。下劣。]

 翁(おきな)、申《まうし》て云《いはく》、

「鵲(かさゝぎ)の橋の會(くわい)、牛跡(ぎうと)のあそび、今、尊靈の詞を聞て、その妄語を、しる。嫦娥(じやうが)の月宮殿(げつきうでん)の事、湘㚑冥會(しやうれいめいくわい)の詩のごとき事は、果して、ありや。抑(そもそも)いまだ、しからずや。」

[やぶちゃん注:「牛跡のあそび」牽牛を牛飼いとする設定を指すのであろう。

「嫦娥」中国古代の伝説に登場する女性。姮娥(こうが)とも呼ぶ。弓の名人羿(げい)の妻。夫の羿が崑崙山に住む女仙の西王母から貰い受けた不死の薬を盗み出し、それを服用したのち、月世界へ昇って蝦蟇(がまがえる)に化したと伝えられる。嫦娥を仲立ちとして不死の薬と月が結び付いたのは、人々が永遠に変わることなく満ち欠けを繰り返す月に不死性を感じ取ったためと思われる。また、蝦蟇に変身したというのも、月の表面の模様を蛙に見立てた古代の中国人の観念によるものであろう。しかし後になると、醜い蛙に化したという伝承は消失し、嫦娥は、ただ一人で、月中に孤独をかこつ、憂愁の美女と考えられるようになった。そうした嫦娥の姿を唐代の詩人たちは、しばしば詩に月を読み込む際の素材としている(概ね小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「湘㚑冥會の詩」前に出した「中国古典小説選8」によれば、『湘霊は堯帝の二人の妃。堯帝が没した時、悲しんで湘水に身を投げた故事』を『後世』、晩唐の詩人『李群玉が詩に詠じている』とある。以下の本文では「堯の娘、舜の后」とあるが、誤りか。或いはそうした異伝もあるのか。興味ない。悪しからず。]

 仙女のいはく、

「嫦娥は月宮殿の仙女、湘靈は堯(げう)の娘、舜(しゆん)の后(きさき)。これ、みな、賢聖の孫(そん)、貞烈の神(しん)、何ぞ世俗の云《いふ》ごとくならん。情欲(せいよく)、生(しやう)じ易く、事跡、又、掩(おほひ)がたきもの也。世の人、月を詠ずる詩に、

嫦娥可悔偸靈藥碧海靑天夜々心

(嫦娥 悔(く)ゆべし 靈藥を偸(ぬす)み 碧海靑天 夜々(よゝ)の心(こゝろ))

と、いへり。

 それ、日月(じつげつ)・兩曜(りやうよく)、混沌の際(きは)は、開闢(かいびやく)の始めの、已にそなはる。いかに藥(くすり)をぬすむ事、あらんや。雲は山川(さんせん)の靈氣、雨は天地(《てん》ち)の沛澤(はいたく)、何ぞ、あやまりて、房閨(ばうけい)のたのしみとせん。天をあなどり、神(しん)を汚(けが)す事、是れより甚敷(はなはだしき)はなし。邪婬の詞(ことば)を以つて、神靈を、かろしむ。それ、欲界の諸天、各《おのおの》、みな、配妻(はいさい)あり。その妻(つま)なきものは、則ち、欲なきもの也。かゝる故をしらずして、その心をあざむき、世をまどはす。汝、幸ひに、世につたへて、悉く、これらの事を、あかせ。」

[やぶちゃん注:「嫦娥可悔偸靈藥碧海靑天夜々心」晩唐の詩人李商隠の七言絶句の転・結句。中文サイトのこちらで全文が見られる。]

 曉翁(げうおう)、一々(つくづく)承(うけたまは)り、又、問ふて云ふ、

「誠に、世俗の妄語、尊女(そんぢよ)の言葉を聞きて、僞り來たる事を、しる。むかし、張騫(ちやうけん)が朽木に乘り、天にのぼりしごときは、虛妄(こまう)ならずや。」

[やぶちゃん注:「張騫が朽木に乘り」「多滿寸太禮卷㐧一 仁王冠者の叓」で既注済み。]

 仙女いはく、

「此の事は、誠(まこと)に、しかなり。それ、張騫先生は金門の眞史(しんし)、玉符(ぎよくふ)の仙曹(せんそう)、あに常人(じやうじん)のたぐひにあらむや。暫く人間(にんげん)に謫(たく)して、四方八極(しはうはつきよく)にあそびて、異物(いぶつ)を、しる。汝、三星(さんせい)に緣あるによりて、今、こゝに、至る。」

[やぶちゃん注:「金門の眞史(しんし)」恐らくは前に掲げた種本からの写し間違い。張騫は異名を「金門の直吏(ちょくり)」であった。「金門」は「禁門」と同じで、そこから先は霊域として神のいるところを指す語。

「玉符の仙曹」神仙から直々に仙人の筆頭であること証明した符を所持する正統な仙人の位階「仙曹」(全き不死身とされる)。]

 瑞錦(ずいきん)二疋(ひき)を出《いだ》して、これを与へ、

「今は、とくとく歸り去るべし。わがいふ所、必ずしも忘るゝ事、なかれ。」

 曉翁、再拜して、もとの所に出《いで》、舟にのるに、たゞ風露(ふうろ)・高寒(かうかん)・波瀾の音を聞《きく》。

[やぶちゃん注:「瑞錦」唐代の文様によく見られる織模様で、胡錦のペルシャ模様に、中国伝統の瑞祥思想によって胡錦の霊化された鳥獣文(もん)を同化したもの。漢・六朝以来の幽暗で錯雑した模様を、より明快な性質に成し上げたものとされる。]

 やゝ半時(はんじ)ほど有《あり》て、もとの渚に歸れば、雲霧(くもきり)、忽ちにはれ、大星(たいせい)、漸々(やうやう)、東天におち、鷄(にはとり)、三たび、鳴く。五更の天に及ぶ。

[やぶちゃん注:「大星」「おおぼし」なら、「おおいぬ座α星シリウス」の和名である。シリウスは全天で最も明るく輝く恒星であることから、かく称された。特に中国地方及び近畿地方で使われた。「オリオン座」のベテルギウス、「こいぬ座」のプロキオンともに、所謂、「冬の大三角」を形成しており、「冬のダイヤモンド」を形成する恒星の一つでもある。挿絵からもそれであろう。さすれば、話柄内の時節も自ずから明らかとなる。]

 錦をとり出《いだ》してみるに、此の世の織る所にあらず。廣學の者に見するに、

「これ、天上の至寶、人間(にんげん)のものにあらず。いかにといへば、其紋(もん)、順(じゆん)にして亂れず。色(いろ)、妙へにして、瑞氣、常に、たつ。塵(ちり)を以《もつて》つゞるに、おのれと飛揚(ひやう)して、つかず。几帳(き《ちやう》)とすれば、蚊蜂毒蟲(ぶんぼうどくちう)、いらず、衣裳(《い》しやう)とすれば、雨雪(うせつ)に、ぬれず。冬天(とうてん)には暖か也。盛夏には凉しく、そのかいこは、扶桑の葉の飼ふところ、糸は銀河(ぎんが)の水にて、さらす。織女の機(はた)に織りしもの也。いかにしてか、求め給ふ。」

とあれど、曉翁、祕(ひ)して、此事を、いはず。

 或る時、又、小船(こぶね)に棹さして出《いで》けるが、二たび歸らず。

 遙かに過《すぎ》て、大江山(おほゑ《やま》)にて、古人に逢ふ。

 容顏、むかしに替らず。

 黃なる帽子をいたゞき、異體(いてい)あり。

「いかに。」

と問へば、風に乘じて去る。

 その早き事、飛ぶがごとし。

 追ひ行くに、及ぶ事、なし。

 今に猶、一社のほこらを立て、その遺跡(ゆいせき)をのこすとかや。

[やぶちゃん注:なお、「中国古典小説選8」には最後に『本話は日本の『伽婢子(おとぎぼうこ)』(浅井了意)の「伊勢兵庫仙境に到る」に翻案されている』とあるのだが、これ、どう読み比べても、この辻堂兆風子の「多滿寸太禮」の本篇がかく呼ばれるべきものである。大いに信頼している竹田晃氏の編著なんだが、何か、とんでもない勘違いしてないかねぇ?]

 

2022/04/02

本日教え子の女性の結婚披露宴

本日は教え子の女性の結婚披露宴に招かれているので、これにておしまい――

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 扉(タイトル)・序・「天上の梯子」

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、所持する「ウェッジ文庫」(二〇一〇年刊)の同書をOCRで読み込み、加工用に用いた。同書は現代の刊行物としては画期的に歴史的仮名遣(但し、漢字は新字体)を使用したもので、私は高く評価している一冊である。

 電子化は私の偏愛する芥川龍之介関連に特化した本書の「澄江堂雜記」パートから開始したが、他の部分は原本の最初に戻って電子化する(他にも龍之介関連の文章は本書に散在するが、それだけを先に抜いて電子化注するのは、室生犀星に対して失礼と存ずれば、以下では既にこのブログ・カテゴリ「室生犀星」で終わった「澄江堂雜記」まで冒頭からの順列で電子化する。

 底本の傍点「﹅」は太字とした。何時も通り、原本の読み(ルビ)は( )で示したが、本書は殆んどルビがなく、若い読者の中には読みや意味で途惑う向きもあろうとも思われることから、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した(かなり造語もあり、また、当て訓もある)。

 但し、私は室生犀星については、正直、芥川龍之介と関連のある事績にしか知識がない。されば、龍之介関連に箇所で気になる部分には注するが、その他の非芥川龍之介関連の随筆・評論には、私が躓いたところ、及び、よほど気になった部分以外には注を附さないこととする。私は注で拘って本文から脱線する傾向が強く、読者によっては五月蠅いだけの駄文となろうかとも思われるからである。【二〇二二年四月一日 藪野直史】] 

 

  天馬の脚

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションは、残念ながら、外装が損壊したためであろう、修理されて館内用のそれに作り替えらえてしまっており、原表紙ではない。幸いにして、K. Kojima氏のサイト「室生犀星書籍博物館」のこちらで、小さな画像であるが、本書原本の函及び表紙を見ることが出来る。孰れも上記の書名が太枠罫に毛筆で記されている題簽を視認される。この題簽の揮毫者は、目録の末尾から、芥川龍之介の主治医にして友人であった、田端に住んでいた、龍之介の遺体の検死者にして死亡診断書も書いた医師で俳人でもあった下島勲(俳号・空谷)であることが判る(私の下島勲「芥川龍之介氏のこと」や、『小穴隆一「鯨のお詣り」(36) 「二つの繪」(25)「彼の自殺」』を参照されたい)。さればこそ、本書には、どこを開いても、芥川龍之介の遺香が、仄かに漂っていると言えるのである。]

  

Tennmanoasi

 

[やぶちゃん注:扉。毛筆。室生自身の筆か。国立国会図書館デジタルコレクションではここだが、国立国会図書館の蔵印・内交印(内務省検閲済印)]・「納本」印が捺されてあり、あたかも検死解剖台のような様相を呈していて、とても画像として挙げられる代物ではない。そこで、所持する「ウェッジ文庫」版の目録の後に挿入されてある原本から加工補正したと推定されるページを画像で取り込み、裏の写り込みその他を補正・清拭して掲げた。なお、文化庁は平面的に写真に撮られたパブリック・ドメインの絵画作品等の写真には著作権は発生しないと規定しており、この同文庫のそれも、写真で撮ったものを補正・清拭ものと推定されるから著作権侵害にはならない。]

 

 

 

 

 自分は最近隨筆ばかり書いて暮してゐた。隨筆も小說や詩と同樣に苦しい作品であることを經驗し、文章に自分の心境身邊の雰圍氣を沁み込ませることも、容易な仕事ではなかつた。自分は此隨筆的な愛すべき境致にゐて、靜かに自分を鍛へることに喜びを感じてゐた。

 自分は自ら好む閑文字と倶に文藝評論や映畫の時評をも試み、これまでの隨筆的佶屈《きつくつ》を蹶破つて出た明るい感じを經驗してゐた。「天馬の脚」と題したのも、そ

の明るさを表象したものに過ぎない。[やぶちゃん注:「閑文字」「かんもんじ」或いは「かんもじ」と読み、「無駄な字句や言葉」、「無用の文章」の意。「蹶破つて」敢えて読むならば、「ふみやぶつて」であるが、迫力がない。「蹴破つて」で「けりやぶつて」「けやぶって」なら最も腑に落ちる。しかし「蹶」に「ける」の意味はない。或いは犀星の誤字か慣用語なのかも知れない。]

 原稿は當然破棄すべきものを捨てて、自分の氣に入つたものだけを本集にをさめた。林泉的閑文字の中にも後日の集に讓つたものも尠《すくな》くない、主として「天馬の脚」には何か自分の變りかけてゐる、氣持の中に光る鋭いギザギザなものを蒐めたものである。[やぶちゃん注:「林泉的閑文字」「林泉」は隠棲の地として選ばれるような場所を指す。悠々自適晴耕雨読といった感じで勝手気儘に書いた自分の文章を謙遜して表現したもの。]

 

              著   者

 

[やぶちゃん注:この後に「天馬の脚目錄」が続くが、それは総ての電子化注を終えた後に回す。

 以下はパート標題。]

 

 

   天上の梯子

 

 

 一 純文藝的な存在

 

 現代に於て純文藝的な作品のみで、一作家が生活を支へることは最早危險なことに違ひない。詩人が頑固に詩作ばかりで生計を爲すことは、最早現今に於ては不可能のことにされてゐるやうに、凡ゆる文藝の士もまた純粹な藝術的表現でのみ、その牢乎《らうこ》[やぶちゃん注:しっかりしているさま。ゆるぎないさま。]たる藝術的潔癖を手賴ることは危險に近い努力であらう。一作家の氣魂にまで割り込んで行くところの熱と愛とをもつ讀者は、殆ど文藝的な忠實な使徒以外には求められず、多くは興味本位のものを要求しそれを愛讀するに至るであらう。

 自分のごときは天下に百萬の讀者を持つものではないが、併し猶百騎の讀者を信じることに於て人後に落ちるものではない、俊英と愛慕との百騎はそれ自身後代ヘの續きを意味し、百萬の蜉蝣《かげらふ》はそれ自體何時しか散り易きものの常として散り失せるであらう。誠を愛し讀み味ふことは、却却(なかなか)讀者に求められるものではない。併も今日のごとく讀者が右往左往する時代に、何人が彼らの心臟的讀物たることを期し得よう。誠に淸節であり得た讀者は一作家にどれだけも無いやうに、又その讀者の烈しい淸節さは陰乍《かげなが》らよく努める作家らの轡《くつわ》を嘸でて、なほ溫恭の陣頭へ送り込むことは昔と渝《かは》りはないのだ。

 併しかういふ大衆化の時勢に於てこそ、純文藝的な作品の透明を持することが出來、嚴しき朝暮の霜を人人に思はしめるであらう。純文藝風なものの存在の危ない時にこそ、その輝かしい烈しいものを叩きあげることが出來、詩錢を得ざる詩もなほ後代を信じることが出來るのだ。自分の如く何事にも融通の利かない作風すら此儘押し上げることにより、役立たない才能を役立てることにより後代を信じることが出來るであらう。益益純文藝的な、寧ろ頑固なまでの薀奧《うんわう》[やぶちゃん注:「うんおう」の連声(れんじょう)。教義・学問・技芸などの最も奥深いところ。奥義に同じ。]を刺し貫いた古代と新代との續きにかがり[やぶちゃん注:「縢り」。布の裁ち目などがほつれないように縫い糸やしつけ糸でからげることからの喩え。]、胡魔化し捩ぢ伏せて純粹なものに取り縋《すが》ることにより、我我の存在が決して輕蔑できない處にまで、行くところに行き着く氣槪と勇勵とを併せ感じるであらう。純文藝的なものの呼吸づかひのヤサシさ、そのきめの細かさ、粗大に優れた量積、「時」を抱きしめてゐる雄雄しい姿を人人は見るであらう。仕事場にゐる彼を見直し彼の仕事場にある「時代」の新しい面容を見ることが出來るであらう。

 我我が大衆に割り込むことの不可能な才能を信じ、我我の過去の文學が大衆をどういふ風に育てたかを思ふ時に、我我の文學に大衆は間もなく踵《きびす》を返すことを信じて疑はない。また我我の純文藝の立場にまで彼らを引き戾すことは、我我の古代のよき藝術がいつもそれに力があつたやうに、決して不思議な徒勞な現象ではない。我我はツルゲエネフの過去から既にその用意があり、それを迎へるに寧ろ微笑《うすわら》ひながら談《はな》し得るであらう。

 

 二 文藝の士

 

 紅葉、露伴や漱石、藤村なども文藝の士ではあるが、各發句や詩情を述べるに遂に一代の大名を爲してゐる。西鶴も亦俳諧をよくし、芥川や久米三汀も亦發句道の達人である。齋藤茂吉の隨筆も亦自ら風格ある重厚な文章を爲し、古くは虛子も亦數編の小說を書いてゐる。

 自分は文人的好みを普遍的に叙說する時文家《じぶんか》の徒ではないが、歌人俳人が小說を書くことや小說家が發句和歌を物することは、各《おのおの》その道の難きを知り自らその道の苦衷を慮る上に於て、我我文藝の士のみが感じる或親愛さへ念ふものである。これらを以て直に文人墨客趣味とは云はない、藝術の士はその分野の分けがたき雜草をも分け入り、岐路の微妙を大悟することは當然といへば當然過ぎることであらう。徒らに俳詩人のみが詩俳諧の殿堂に弓箭を番《つが》へることは、小說家がなほ小說の宮殿に己れを護るの頑愚と一般である。凡《あら》ゆる藝術の士は又凡ゆる藝術の諸道に通じ、それの作者たることに遠慮は要らないと同樣、それらの作品を齎《もたら》すことに據つて美事な文藝の士たることは恥ではない。又別の意味で文藝の士の資格たるや歌俳諧の秘術を露くことも其一つではなからうか。[やぶちゃん注:「時文家」現代文学評論家或いは「文人的好みを普遍的に叙說する」というところまで裾野を広げるならば(狭義の文人の辺縁や外延まで及ぶとなら)、寧ろ、社会評論家も含むことになる。]

 小說家であり得て生涯小說を物してゐるのも惡いことではないが、なほ一藝に秀でるは一層作者たるの所以を手厚くするやうである。秋聲に句道の志あり、鏡花に小唄や發句の閑境を窺ひ見られるからである。一代の文藝の士の諸道になほ一見識を持つことは、輓近漸く廢れて、荒野に花を見ることなきは詩情漸く地に墜ちようとするに似てゐる。とは云へ强《あなが》ち文人趣味無き文人をなみする譯ではないが、荒涼たる人生の記述者にも此詩情あることは我我一讀者としても望むところである。

 自分の如きは詩人ではあり幼にして文藝的生ひ立ちの朝暮には、和歌や發句や詩の道に己れを學ぶ機會を與へられ、長ずるに之らの精神を感じてゐながら遂に忘却の時をさへ强ひられたが、今にして顧るに之らの文藝的苗代《なはしろ》の時代に學び得たるものが、蓊鬱《をううつ》[やぶちゃん注:元は「草木が盛んに茂るさま」で、そうした様態の喩え。]として胸裡に蟠《わだかま》るの幸福は、徒らに作者たるのみの面目を持するの徒にくらべ、遙に喜びであるに違ひない。詩情は得難く法度に卽《つ》かざるの嘆きは、遂に今日では自分に繰返す要がないやうである。

 今、五十代の人人は多くは漢籍詩史により明治中期の、しかも明治人として最後の文人的資質の典型人として殘つてゐるが、彼ら以後今四十代に近からんとする人人には、明治人としての平淺粗笨《へいせんそほん》[やぶちゃん注:「粗笨」は大まかでぞんざいなこと。]の時勢的惡夢の時永く、文人的好尙の時を經ないでゐる。しかも時勢とは用なき之らの漢籍詩史の埒外《らちがい》の敎育は第三期の今の二十代の靑年には、殆ど視目に觸れる事なく用無き徒事《あだごと》として忘れられてゐる。況やその道の士にして顧ることなき文藝的枝葉の成果は、今後益益滅び行くであらう。自分が又一讀書家として、彼ら文藝的達人の徒が己れの城砦《じやうさい》にのみ籠るの域を出て廣き諸道の光彩を手に取り詠ずることを望むのは、荒唐の世に背く譯ではなく、荒唐の世に處するの素志であることを說きたいからである。[やぶちゃん注:「徒事」は「とじ」「ただごと」とも読める。]

 

 三 文人趣味への反逆

 

 あらゆる文人墨客の趣味は、當代にあつては一つの心境上に試用される洗練や彫琢の類ではない。その趣味が社交的な隱遁生活者の一つの資格であり得た時代、爲人《ひととなり》としての嚥《の》み込みによつて煩雜な時代の相貌に嘲笑しかける卑怯な「思ひ上り」であつた時代、何事も文人趣味に己れのみよしと決定したいい加減な心境者の時代はもう過ぎた。凡ゆる文人趣味の表面的な爲人振りである誤謬は、遂にそれらの淸閑と目された精神的高揚の中には、何等の霸氣もなく徒らに沈んだ退屈そのものだといふよりも、何よりもその趣味は當代にあつては完成されざる「心境上の疾患」であるといふ冷笑をさへ浴びせられるのも、いい加減な風流才子の輩出が起因してゐた。

 あらゆる風流意識や傳統保持者の持つ「古い黃金」を粉碎してみて存外瓦石を發見することが多かつたのは、彼らの持つ心境が一時的のものであり、氣質的のものでないことに原因してゐた。隱遁それ自身の隱れ蓑だった風流意識は、我我が幾たびも之をたたき破ることによつて、誠の心境者、戰國時代風な心境者を形づくることに、己れを鞭打ち練磨を怠らせなかつたものだつた。凡ゆる文明の中にある寧ろ戰鬪的な思想をすら、その心境上の背景に抑制してゐる一種の寂靜な心境、しかも橫からも縱からも打ち込む隙間もない四方に鏡をもつ境涯にゐてこそ、初めて心境の達眼者たることも得、また風流者の資格をも得るものであらう。些《わづか》の茶事造園の著書によりながら、また些の睨みをそなへる自信に媚びることによる今日の鼠輩が、風流を單なる文字面の淺慮な解釋によつて斬り捨てることは、彼自身の名譽を重んじることによつて自ら口を襟《つぐ》むべきことであらう。風流はそれ自身個個の氣質がもつ凡ゆる藝術的な分野を領し得るところの、それぞれの達人者によつて名づけられる名稱であり、一つの辭書的な解釋による單なる風流でないことが分つて來た今の時代には、何人も風流人であり得る譯だ。これを嘲り笑ふことは彼自身の淺薄さを我我に暴露するものに外ならない。

 我我はもはや「古い黃金」の中身に欺かれず、またそれを欲しようともしない。唯我我の求めるものは中身もまた輝くところの「古い黃金」の心境であるものに限るのだ。風流が單なる風流意識の封建的な埒の外に、あらゆる世相を抱へ込むことを怠らない限り、初めて完成されるのだ。いい加減な枯淡思想は一種の胡魔化しを吹き込むことによつて、もう亡びてゐることは事實である。我我が輕蔑されて來たこれらの明快な悒欝《いふうつ》[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じ。但し、「憂鬱」の歴史的仮名遣は「いううつ」である。]を拒絕した意識の下では、もはや何人の前にも「風流」そのものがなほ一時逃れのものでなく、我我の生涯を圍饒《いねう》する鋭い新鮮な一つの「今日の思想」であることに心付くであらう。

 

 四 僕の文藝的危機

 

 自分の熟熟《つくづく》この頃おもふことは樂な仕事をしてはならぬといふことである。樂な仕事それ自身三枚書けば三枚分だけだらけ、五枚書けば五枚分だけだらける習慣が永い間に恐ろしい病疾になるからだ。樂な友人交際には何の緊張もなくダラけ切つてしまふのだ。自分は不惑の年齡にゆきあうて又思ふことは、もう最後に緊め付け打ち込まねばならぬと云ふことである。もう一度立ち直らねばならぬ事、いま立たねば飢ゑかつゑてしまふ事、それは絕對に取返しのつかない大飢饉である事、結局は絕對に取返しのつかない大飢饉である事、結局妻子や一門を嘆かすことの前に私自身が是が非でも力一杯で打《ぶ》つかつていかねばならぬ事、力一杯で打ち込むことは必ずもう一度立つことを意味するであらう。根《こん》の限り揮ひ立たねばならぬ。樂なものは一枚でも書いてはならぬことである。それはどういふ意味に於ても必要であり、自分の死物狂ひを正氣まで引き戾し勉强させるであらう。

 芥川君の死は自分の何物かを蹶散《けち》らした。彼は彼の風流の假面を肉のついた儘、引《ひつ》ぺがしたのだつた。彼は僕のごとき者を其末期《まつご》に於ては輕蔑したであらう。自分は漸く友の溫容の中に一すぢ烈しい輕蔑を感じることに依つて、一層この友に親しみを感じた。自分は自分自身に役立たせるために此友の死をも攝取せねばならぬ。何と云つても彼が作の上にないもの、僕自身が勝手に考へ耽るものを僕の中に惹き入れることに據つて彼自身を閻魔の廳から引き摺り出さねばならぬのだ。彼自身が持つ僕への微かな輕蔑の情を彼自身の爪によつて、自分の諸《もろもろ》の仕事に據つて取り消させることが出來るであらう。彼の死を僕の或文藝的の危期から立つことに依り、劃然としきることが出來るであらう。

 彼の長髮瘦軀は實際自分には樣樣な場所に見えた。自動車のドアから下りようとする彼、動坂の埃と煙の中から出て來る彼、田端の垣根と垣根の間を步く彼、そして僕の彼から取り戾すことは此一つの輕蔑の思念だつた。

 

 五 時代の經驗

 

 或日自分のところに支那の古硯を商ふ男が來て、掘出し物の古い壺を見せてくれ、自分はそれらの壺を人目には氣永に丹念に捻《ひね》り𢌞して眺めてゐた。其座に來合せてゐた一靑年は、時折自分と陶器とを見較べゐたが、硯を商ふ男が歸ると、一靑年は徐《おもむろ》に自分に對《むか》うて質《ただ》すがごとく云ふのであつた。

「あなたが陶器を見たり硯に息を吹きかけてゐられるのを見てゐると、僕らの氣持とは全然異つてゐるやうに思はれるのです。あなたはああいふ硯や陶器を見ることは愉快なんですか。」

「君はどうです。」

「僕には解らないんです。併し今の僕らの氣持はああいふ陶器なぞに絕對に好意を持ちません。」

 自分は此靑年が歸つたあと、靑年が硯や陶器を見て興味の起らない氣持に同感することが出來、彼の人生には死んだ表情をしか見られない硯や陶器に就ては、絕對に必要の無い路傍の瓦石の類と同じであらう。詩や小說への熱情を持ち、凡ゆる新しい時代の氣持を嚙み分けようとする年若い彼に取つて、古陶の精神や硯の石質に就て思ひを碎くことは、愚昧なる戯事でなければ骨董屋の手すさびとしか見えなかつたであらう。自分がそれを捻り𢌞してゐる時に、彼は靑年らしく自分を恐らく輕蔑した氣持で見てゐたかも知れない。さういふ靜寂さは靑年に取つて息塞《いきづま》る退屈なものであり、充分に輕蔑すべき事柄であつたかも知れない。

 靑年には古い物質から新しい物を考へようとする氣持、秀れた古さの中に必然に身ごもる新しさの潜《ひそ》みが、彼の短い生涯からは見えよう筈がなかつた。凡ゆる新しい時代の呼吸づかひを生活しようとする劇しい氣質の中にある彼には、古代の背景と光とをもつ新しさよりも目前の新しさがどういふ新しさでも其形をもつて居ればよかつた。新しさのもつ危機、新しさのもつ輕佻と淺薄とさへも彼らは屢屢忘れ勝ちな程の新時代の靑年だつた。併も靑年の人生にはさういふ古さを引摺る生ぬるい必要はなかつたのだ。

 自分は性質として凡ゆる古代を渴愛した。古代の精髓の中にある新鮮を汲むことを熱望した。陶器にせよ硯にせよ文學にせよ、それらの古色蒼然の中からは百代に光茫を搖曳する新鮮を見極めることによつて、嚴格無雙の「古代」の額緣の中にある新しさを發見しなければならなかつた。これは永い生涯を經驗したもののみが讀み分けられる特異な新しさではなかつたか、我我の生涯へまで彼らが來なければ見られぬ「古代」の姿ではなかつたか。

 人間はそれ自身生きることの深い層をたたむことによつて、彼自身の存在を明かにすることは云ふまでもない。靑年と自分との分岐點、自分と彼との、存在の距離には、自分としては生き得た光茫とともにあることも、軈《やが》て彼もまた生き得て後に初めて今日の自分を理解することであらう。

 

 六 生活的な流浪

 

 自分は此頃物を書く時には机のわきに一物を置くことさへ、神經的な煩しさを感じ、もう絕對に書物や茶器を手元に置かないことにしてゐる。一帖の原稿紙に鋭い冬の寒氣の揮ふ中に坐つて居れば、心足りるやうな思ひがしてゐる。自分のやうな表面的にも落着いた生活をしてゐるものは、年年歲歲その生活の古い枝葉が組み合ひ鳥渡《ちよつと》引越すにしても並大抵の苦勞ではない。石を起し樹を移し代へるだけでも自分には重荷である。陶器や書物、器物なども年年に殖えて數を增し、生活は複雜な層を作るばかりである。さういふ通俗的な複雜さは彌《いや》が上にも自分を憂鬱にし、身動きの出來ないやうな退嬰的な狀態に置き、心に固い物質的な感覺ばかりをこだはらせ、それらの古い由緖をもつ物質の中に坐つてゐると、神經の疲勞は日に增して重く苛立たしく募つてくる許りである。自分は身輕に立ち上るためにそれらの生活を、身悶えしながら其鎖を斷ち切らうとしてゐる。

 自分は此春になつて荷物を引纏めて何處かの知人の許に預け、幾つかの行李とトランクを携へたまま、一家を擧げて漂然と旅に出ることを考へてゐる。半年くらゐ流浪の暮しをしたら心も自由になり、身輕な朝夕を送ることができよう。今のままでは落着くだけ落つく危險さが感じられてならぬ。最初信州へ行き二三ケ月を山の中で暮し、故鄕へ𢌞り其處でしばらく遊び、京都で二三ケ月をくらした上で、歸鄕して來たら少しは氣持に廣さができ、佶屈と憂鬱さから解き放たれるやうになるだらう。さういふ長期の旅行には一家をあげて流れ步くのが、生活の重みを感じられていい。自分一人で旅へ出るよりも一家とともに行くのが、何か自分の意嚮《いかう》とぴつたりしてゐて氣の張り方も感じられる。尠くとも土地土地の人情を感じるにしても、一家の生活から沁み出してくるものから感じるのが、本統[やぶちゃん注:ママ。]の物を的確に思ひ當て搜ぐることが出來るのだ。

 誠の意嚮は物質的な固い氣持から放れるだけでよい。四五年の生活的な埃や垢から立ち上るだけでも少しは氣持の淸淨と新鮮とを感じられるだらう。どういふ家庭でも三年目くらゐにその生活を新鮮な方に引寄せる必要がある。又どういふ家庭でも三年目くらゐにそれ自身に或轉期を醗酵させることも有勝ちのことだ。倦怠を叩き破ることも左ういふ時に勇敢に進まなければ、その機會を外す怖れがある。自分の一家を擧げて流浪しようとする氣持の根ざしも、その機會をうまく自分の氣持に添はせる爲に外ならない、――そして又新しい自分を親しみ合せることに喜びと努力とを感じたいのだ。

 

 七 詩錢と稿料

 

 自分は今までに詩や文を賣つて不安ながら今目の生活を支へてゐる。。僅か一枚の詩稿でも需《もとめ》に應じて金に換へてゐるが、詩の稿料の場合はどうかすると微《かす》か乍ら感傷的な氣持になり、成可く有用な家事につかふことにしてゐる。年少詩を志して上京した自分は、まだ此幼い王國に遊行した日の種種な憂苦を忘れることが出來なかつた。この私に何時も絕えず良心の刺戟があつたからであらう。

 自分は三十歲まで詩錢や原稿料を取ることが出來なかつた。併も自分には其等の不平や呪咀の經驗を持たなかつた。自分は父の遺產を僅かづつ取り出して暮してゐたからである。その頃の大抵の詩人は詩の稿料を取ることが出來なかつたのも殆ど當然だつた。自分は詩の稿料に相應の金を求めるのも、天下に恥ぢる事無き今日までの「我々」への感謝の氣持があるからだ。曾て或日詩錢を得て一羽の鶯を飼うてゐたが、春暖の候に佐藤春夫が來てその話を聞いて、甚だ不機嫌な顏付をして恰も鶯を飼ふ自分が贅澤のやうな口調だつた。併し自分は間もなく彼が他の小鳥を飼養してゐるのを見て、夫子自ら辯無きことを思うた程であつた。四五年の後に彼が果してその小鳥が、偶々「鶯」だつた爲に、自分に攻勢的態度を取つたのではないかと思ひ付いた。そのころ自分は既に「鶯」の境涯を卒業してゐたばかりでなく、凡ゆる小鳥を飼ふ氣持の中に烈しい寂莫の情を感じ出してゐたからである。さういふ安價なその爲に烈しい寂莫の想ひは到底自分には我慢のできる程度のものでは無かつた。

 自分は三十歲後に小說を書いて漸つと生計上の一人前の資格を得たが、同時に小說を書き出してから、その仕事から人間が次第に出來上つてゆくことを感じた。詩に遊ぶこと十五年だつたが小說を書いて二三年の間に、どれだけ自分は人になれたかも知れなかつた。作の上の苦衷は自ら自分を新しく組立てるに忙しい程だつた。自分が人前に立つことの出來る所以は、凡下の微笑裡に悠然と自分を疊み得ることも、小說を學んだための餘光を浴びたからであらう。小說學の途に就かない前の自分は依然として草花詩人の群の中に、聞くに耐へない囈言《たわごと》を綴り乍ら或は一生を終つたかも知れなかつた。自分の如きは元より學園に友無く又その榮光をさへ負はないものであるが、それ故に「人に」ならうとする氣持の烈しい中に立つたものかも知れない。さういふ意味で小說學は物質的といふより寧ろ「人に」なるための鞭や笞《しもと》の熾烈さを、自分のごときぼんくらの腦漿にひびき立てて打ち卸されるものの一つであらう。

 不思議なことには自分は未だに原稿料について、それを得ることに或謙遜を感じてゐる。これは狡猾な言葉で無い意味で自分の中にある或物質的センチメンタリズムである。それ故にこそ自分は時に原稿料のことにケチ臭く奮鬪するのである。穩やかな交涉の中にそれらの取引を了することは、同時に仕事の幸福さを思ひ益益それに昂じてはならぬと思ふ程である。併乍らそれらの期日の相違に反射される不愉快な氣持で、殘酷な文人墨客的平靜の努力に敢て就かなければならぬことは何たる文人墨客的不幸さであらう。さういふ時に自分に取つて美しい謙遜の情は消え失せるのが常である。

 

 八 第一流の打込み

 

 心境小說に就て餘り人人は最《も》う云はないやうである。併も私自身にはどういふ意味にも心境小說の存在を捩ぢ上げ驅逐することができない、――心境小說はそれ自身どういふ非難の中に立ち辣み乍らも、益益自身を掘り下げ磨き上げ、次から次へと新鮮な彼自身の役目を發見することに據つて、僕の場合には依然として存在するであらう。心境小說の病根は寫眞を引き伸したやうな日記的生活の腐肉を抉ることにより、漸く人人に飽かれもし沒落もしたのであらう。

 凡ゆる藝術は優秀な作家的心境を外にして立ち得るものではない。唯その心境にまで達し得ないもの、既に腐肉的心境の墮勢を綴ることによつて下り坂のものは、到底救ひ得ないものであらう。そして又沒落したものは既にさういふ種類のものであつたらう。それらの心境の練磨や進步や度外れの勇躍に對しては、我我は非難の劍を取つて袈裟がけに斬り下す必要はないやうである。唯、恐るべきことは書きよいために心境小說をかくことは飽迄我我の中から退治しなければならぬ。心境へ這入ることは容易なことであつて、同時にその縹渺を手摑みにすることはその道の達人でなければ、出來ない仕事である。我我にしろ彼らにせよ、危い日記的陷穽《かんせい》と寫眞引伸し的の境涯を完全に蹶散《けちら》し蹈み破ることの把握の大きさにより、私は私の心境的小說を示し又彼らにも承認させねばならぬ。寫眞引仲し的小說の壁を衝《つ》き拔けることは、云ふごとくして行はれざる至難の道であり、同時に我我の鳥渡した油斷してゐる間に小說自身がそれを搬《はこ》ぶからである。三四行ばかりの引伸し的描寫自身の運びが恐ろしい日記的引伸しの機運を與へ、それの弛みが全篇に物憂い疲勞を漂はすからだ。心境小說にはそれらの危險を油斷なく虱潰しにしてゆくことによつて、光榮ある存在をその將來に於て益益物語るであらう。

 或意味に於て心境小說は第一流の切迫的な打込みを要し、又第一流の新鮮な文章以前の文章の素朴を要するであらう。彼らに肝要なものは最早あらゆる藝術的要素の最高のものありと凡《あら》ゆるうまさ氣高さ、その比類のない濁らぬ禀性《ひんせい》から出發すべき條件を忘れてはならない。日記引伸し的作者の心境が既に我我のいふ心境のかたちさへ保つてゐない如く、我我の溫順の情を有つてさへそれらを振顧る必要はない。我我の心境にある埃や瓦や石やブリキや當用日記や生活ボロが騷然と入り交つてゐても、それらの上になほ不斷にきりつとしてゐるものや、眞面目な一杯の力や、每日幾らかづつ良くなるやうに心掛ける努力あつてこそ、我我の心境は人前に怖ぢず又彼らに匹敵し、次第に良くなつて行くであらう。

 

 九 「巖(いはほ)」

 

 自分は機會があつて昨年中に文學者に接見することが多かつた。そして島崎藤村氏にも或會合で度度お會ひした。自分は藤村氏の端正すぎる文藝的身構に或恐怖と誤解とを有《もつ》つてゐたことを、卽座に逐《お》ひ出すことが出來て仕合せだつた。凡ゆる老大家のもつところの又優れた人人のもつ「巖」を藤村氏は有つて居られた。秋聲、臼鳥の二氏も亦その「巖」に手をかけられてゐるが、藤村氏には就中それが强く感じられた。自分のこの見方を朗らかに藤村氏に達し得たことは、私自身に快適な心持であつた。

 自分も亦「巖」を戀してゐると云つたら人人は嗤《わら》ふだらう。自分はむしろ「巖」に壓迫されて呻吟することもよいが、自分の見た「巖」は瞬間的に何ともいへずよい氣持であつた。自分の文學的小學時代に「島崎藤村」といふ名前は實に遙かに高い處にあつた。「春」や「破戒」を讀んだ自分はまだ人生への方向さへ分らなかつた。しかも「島崎藤村」とは自分の生涯の中で、それと膝を交へて語ることの機會の無いことは覺悟してゐた。そして漸く昨今「島崎藤村」と膝を交へ、話すことができたのは、自分の年少にして熱烈な文學的希望めいたものを、何等の面倒や辭令無くして叶へられたと同樣の喜ばしさだつた。誰かの言草ではないが、手におへねえ餓鬼の手柄だつた。自分は白哲童顏の「島崎藤村」を一瞥した時に、他の言葉は知らず直ちに「島崎藤村」を理解するに十分間を要しなかつた程だつた。十年間「島崎藤村」を讀んだものとしては當然の事であらう。

 自分は不惑の年になり色色の機會あるごとに、文壇の諸君子の風咳に接したい熱望をもつてゐる。その樂しい最初の十分間に自分は行き會ふだけのものを用意し、大抵人見知りや厭な氣持にならずにゐたいものである。自分はかういふ用意のできる時を持つために話をしなかつた人人に、會うて又敎へられるところを攝らねばならない。

 

 十 作家生活の不安

 

 輓近雜誌の廢刊や世上の不況から、作家は一荐《ひとしき》りのやうな收入を得るに困難であり、同時にこれらの不景氣は心ある文人をして昔の「破垣《やれがき》を結ぶ」氣持の烈しさヘ追ひ戾されたことは實際である。眼光自らその「時代」の落着いた美の中に住むことに慣れて、より良き作家はかういふ時に徐ろに立つであらう。

 一圓本流行はそれらの標的になるべき作家を網羅したものの、さういふ印稅は作家を一年半位しか休息させないことを考へると、大して稅務署まで騷ぐ必要はなからう。當然酬いらるべき作家の「もの」だつたものが、年月を經て作家の手に落ちて來たものに過ぎないであらう。何も改造社や新潮社春陽堂の仕事ばかりでなく、作家と和合半ばした共同事業のそれであると云つてもよい位、彼らに酬いらるべきものば酬いられたと云つてよいであらう。風雨の永い歲月の間に一年くらゐの休息は精神勞役に近い仕事にたづさはる者には、當然酬いられてよいことであらう。自分はこれらの印稅的現象は大して作家を樂にさせないと思うてゐる。不況の時代は一層その底を洗ふとしても、我我は既にその用意が出來てゐるとしか云へない。

 我我は約(つつま)しやかな破垣を結ぶことにより、生活の幅をちぢめることにより、その底に物凄い昔の苦行的な自身に再會することにより、決して良くなつても萎え凋むことはなからう。圓本に漏れるものは或者は猶十年後の圓本を超越してまでも、一行二行の苦節を守ることに精神するであらう。我我は遂に百萬の讀者を失うても、我我の子女は靜に夕方の涼しい蔭をつくる楡の木の下で、我我の「靑い汗」を慈《いつく》しみ讀み耽るであらう。我我や我我の友は遂にさういふ誠の一人か二人かの讀者を後代に選み出して、安らかに眠りに就くであらう。安んぜよ、我我と我我の友よ。

 

 十一 一本の映畫

 

 自分は何時か生涯のうちに一本の映畫を自分で監督し乍ら製作したい考へを持つてゐる。自分は最早文學の力を用ひず映畫の表現により、總《あら》ゆる自分の自叙傳的なものの曾て自分に取つて失ふことの出來ない光景、過去の幽靈、または既に剝落されたその時代の經過的な文明、さういふ自己を表現することは最早文學に於て陳套であり、又敢て先人の道を踏むに耐へない思ひがするからである。

 映畫はあらゆる文學に淸新な肉づけを爲し、又映畫自身のサイコロヂイを文學に寄與することに依つて、我我は我我の自叙傳的な受難と數奇と情熱とを完全に把握し描寫することができるであらう。文章に表せない我我の情操的なエエテル、千九百十年代の淺草の糜亂した韻律、その瞬間的な經過、結局音樂的な表出による我我の悲哀化は美事に製作され完成されるであらう。我我はその影靑き世界に充分に號泣もし又少しも妥協することなき命運への反逆、惡を蹶落《けおと》すところのサルベーシヨン・ハンターズ風な立場を獲得することが出來るであらう。誠に自分は今は映畫が單なる他山の石や形式ではなく、既に自分に役立つ藝術上の一樣式だつたことを發見し、今後の自分が奈何に映畫を自分の内外に生かすかと言ふことに就いて、自分は今日もこの選ばれた生涯の中に「一本の映畫」を考へ耽つてゐる。[やぶちゃん注:「サルベーシヨン・ハンターズ」一九二五年(本邦での公開は同年(大正十四年)十月)のアメリカ映画“The Salvation Hunters ”。邦訳題は「救ひを求むる人々」。ジョセフ・フォン・スタンバーグ(Josef von Sternberg 一八九四年~一九六九年)の監督デビュー作。詳細は邦文サイト「MOVIE WALKER PRESS」のこちらを参照。]

 

 十二 フリイドリヒ・ニイチエ

 

 自分は或不機嫌な朝に山の頂を彷徨してゐる風體の惡い男を一氣に蹶落した。彼は殆ど抵抗することも無く千仭《せんじん》の谷間に逆さまに墜落して行つた。

 自分は彼のゐた後を叮嚀に見𢌞つたけれど、鳶色の反古紙一枚殘されてゐなかつた。自分は自分の疳癪を起したことをさへ遂に後悔した。餘りに永い間擅《ほしいまま》に自分の中に巢喰ひ、餘りに永い間自分に影響を殘さうとしてゐた彼を、自分は谷の上から慘酷な目附で見下ろしてゐた。自分は寧ろ耶蘇に溫かい愛情を感じた。縱令《たとひ》同じ噓吐き同志であるにせよ、彼程完全に我我の中にその傲岸の泥足をもつて、猛猛しく居直ってゐた男はなかつた。爾《なんぢ》、フリイドリヒ・ニイチエ!

 

 十三 東洋の眞實

 

 あらゆる西洋の作家はその晚年に至つて或宗敎を完成し表現した。彼らは均しく宗敎風な觀念に美と愛とを感じてゐた。トルストイ、ドストエフスキイは云はずもあれ、ルツソオ、ストリンドベリイ、ヴエルレエヌ、――併乍ら東洋の諸詩人は宗敎よりも一層手厚い眞實を自然や人情の中に求めてゐた。芭蕉や元義《もとよし》、西行や蕪村、子規や龍之介、彼等は眞實を搜ね求めるために、或は生涯妻を求めず、又永い間病褥《びやうじよく》にあり乍ら天地の幽遠に思を馳せることを怠らなかつた。[やぶちゃん注:「元義」江戸後期の歌人・国学者平賀元義(寛政一二(一八〇〇)年~慶応元(一八六六)年)のことであろう。岡山藩中老池田憲成家臣平尾長春の子。弟に家督を譲り、国学研究に没頭、天保三(一八三二)年に脱藩、自由な身分となって古典籍の抄録・研究に努めた。美作(みまさか)飯岡に「楯之舎塾」を開き、国学の傍ら、万葉調の和歌を門人に指導した。飲酒と好色の癖、甚だしく、破滅的な人生を送ったが、その鮮烈な歌風は近代になって評価され、特異な人間像とともに脚光を浴びるに至り、近代短歌に影響を与えた人物でもある。]

 詩人芥川龍之介の求め喘いでゐたものも、眞實以外の人生ではなかつた。また正宗白鳥があれ程永い間人間の荒凉の中にうろついてゐるのも、結局眞實を的確に握り締める以外彼の誠の欲望は無かつた。西洋の諸詩人が均しく宗敎の觀念へ辷り込むのも、彼らの本質的な寧ろ血液的な傳統にまで逆流するに外ならない現象だつた。チントレットやダ・ヴインチ、ルウべンスやマンテニア、ミレーの昔から彼らの中に交流してゐる宗敎だつた。[やぶちゃん注:「チントレット」イタリア・ルネサンス期の画家でドラマティクな宗教画を多く描いたティントレット(Tintoretto 一五一八年~一五九四年)。「マンテニア」やはり宗教画が多い同期の画家・版画家アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna 一四三一年 ~一五〇六年)。細部の凄絶なリアリズム描出で知られる。]

 東洋の寂しい諦めは鳥羽僧正の戲𤲿をして、七百年の昔の高雅な諷刺や嘲笑に變貌させ、芭蕉をして眞實の中に微かな宗敎の炎を仰がしめたことは事實であるが、それらは眞實の掟以外、斷じて宗敎的な基督敎的憂欝を帶びるものではなかつた。唯彼らには何か知ら佛敎的な法悅の微風の中にゐることは否めなかつたが、併乍ら子規や龍之介の時代には――殊に龍之介は一切を自己の中に叩き込んでゐた。自己の中に整理されない人生をも彼は苦虫を嚙み潰して耐へてゐた。彼を喜ばしめたものは啻《ただ》に藝術の止むなき一途あるのみだつた。彼は最後まで正直な藝道の使徒でありペテロだつた。わが正宗白鳥は、最後まで下駄ばきのまま人生の殿堂に詣でいそしみ、露骨に眞實を訪れることは昨日と何等の渝《かは》りは無かつた。彼白鳥の如く寂しくその道を丹念に步き求める人があらうか? 風流韻事を憎惡しながら何と彼は空寂な氣持で押切る詩人だつたらうか?――

 

 十四 ドラクロア

 

 自分は烈しい寒さの中に窓外を過ぎる鐵の蹄の音を聞いてゐた。自分は書き物をしながら時時ちらりとそれらの馬上の者を見過してゐたが、自分は書き物に夢中となりそれらの者を折折忘れてゐた。彼らは自分を呼び出さうとするのか? 鐵の蹄の音は殆ど絕え間もなく石の上を敲いて過ぎてゐた。自分は其時初めて獅子の群を、若いドラクロアの姿を鬣《たてがみ》のかげに眼に入れたのだつた。靑い獅子の上に跨る若いドラクロア、自分自身の中に既に失ひかけてゐるドラクロア風な情熱、自分はペンを擱《お》いて窓外を四顧した。天氣は既に暗澹たる雲の中に凄じく亂れかけてゐた。わがドラクロアはその雲間を目がけて馳り續けてゐるのであらう。鐵蹄に似た音は自分の机のほとりにまで入り亂れてゐた。自分は激しい身震ひを感じながら、ドラクロアの大册を埃の中から引摺り出した。そして「靑い獅子」を搜りはじめた。自分は永い間この獅子の姿を忘れてゐたからだつた。

 

 十五 賣文生活

 

 自分が賣文の嘆きを綴るのも亦久しいものである。自分は何時此嘆きから釋放されるかは疑問であるが、恐らく生涯同じい嘆息と喘ぎとを續け乍ら、些か壯烈な思ひがしないでもないやうである。燃え殘りの熱情に鞭打つものの無慘さは、遂に心神の疲勞以外何物も殘さないであらう。人はみじめに最後まで生活するものであらば、自分もその慘めな一役の道化を演じてゐるに過ぎない。

 芭蕉や萬葉の諸詩人は決して賣文の嘆きを繰り返してはゐない。或は芭蕉も拙劣な句撰の嘆きを同じうしたかも分らぬ。唯それはそれとして彼は彼の生活の内外に煩はされるところが無かつたかも知れぬ。彼の詩人としての潔癖と高踏風な布置は、その賣文生括に觸れた一句をさへ示してないやうである。併も彼程生活の中には入つてゐるものは稀であると言つてよい。唯彼は日常些細の嘆きを己の魂に鍊《ね》り込んごゐたに過ぎないやうである。波の嘆きは彼の詩の中にのみ喘いでゐたであらう。彼は彼の生活的困窮をさへ彼の詩の中へ追ひ込み、しかも彼は莞爾たる溫姿のうちに、言無きがごとく淸風面《おもて》を過ぎるが如き面持でゐたであらう。[やぶちゃん注:「溫姿」私は見たことがない熟語である。「温顔」(穏やかな、温かみのある顔つきのこと)と同義でとる。]

 併乍ら後代の蕪村には生活苦は犇犇《ひしひし》として逼《せま》つてゐたらしい。百年の後には自ら世相も又元祿の悠長を夢見られなかつたことは勿論であらうが、蕪村は自ら𤲿と句との卷を作り之を賣つてゐた。その詩句も生活苦に直面したものも少數ではない。 芭蕉がその魂魄の中に溶解しつくした生活苦すら、天明の時代には許されなかつたのであらう。

 自分の賣文の嗟嘆はこれらの諸詩人に較べては、或は贅澤の沙汰かも知れぬ。時勢は既に賣文の嘆きをすら嘆かして置かないやうになるかも知れぬ。併も今は自分に殘るものは此嘆き以外の物ではないのである。古來の支那の諸詩人は皆同じく斗酒の中に醉吟を擅にした。併し彼らも亦生活苦の域を脫する事ができなかつた。ヴエルレエヌも亦一章の詩を書肆に賣つてゐたことは、彼の賣文的嗟嘆に據らずとも容易に想像することが出來よう。最早我我に一途あるものはあらゆる疲弊盡したる賣文の徒も、猶あらゆる慘忍なる編輯者とともにその喝采の慘忍たる光榮の道を進まねばならぬ。又あらゆる我我廢馬的心神に甦る「天馬」の美しい脚なみを調練せねばならぬ。斯くて我我の嘆きは次第に消失するであらう。[やぶちゃん注:このコーダに於いて本随筆集の標題の意味が明らかにされる。]

 

 十六 ミケランゼロ

 

 自分らは何時も目に見えぬ無數の惡魔と戰うてゐる。此惡魔の中には借金取も戀敵も又生活苦も雜つてゐる。夜半に目覺めて描くところはミケランゼロの壁畫と變りのない地獄の中に、常に顚倒してゐる自身の呻吟のみである。惡魔は外に低迷してゐるものでなく、遂に無慘にも「我」の中で暴風のやうに荒れ狂うてゐた。

 惡魔は百本の足を持つて自分を趁《お》うてゐる。夢の中で犬に嚙付かれたやうに惡魔はもはや自分を離れようとはしない。自分は彼と追ひくらをしながら暮してゐるやうなものである。ミケランゼロは又その莊嚴なる貧窮の中に自分の錯覺するところのものを日夜夢見たであらうか。自分も亦地獄篇の中に喘ぐところの現世の我である。

 

 十七 時なき人

 

 この頃自分はよく「時」に關係のない淸爽な人間にたびたび出會し、その人と話を交す氣持になることがある。その人は自分の記億の中にももう無くなつてゐる人だが、無くなつてゐるといふ事實が一層記億に新しかつた。自分はかつて「時」の人であつた彼が「時」の境域を拒絕してから、一倍彼を熱慕するに耐へなかつた。

 「時」の人だつた彼へ書くその追憶文を自分は諸所から求められた。しかし時を拒んだ彼へ送る追憶の文は墓下にある彼を騷騷しくするために、自分は一切書かなかつた。しかし自分は殆ど每日氣持の中で追悼文を書いてゐたといつてよい。精神で書き疲れてゐた自分は彼への活字の文は書かなかつた。

 自分は常に一介の賣文の徒だつた。時を拒んだ人へは、自分はその業を休んで謹んでゐたのである。正直な靴屋は昔その童話の國の同じ兄弟の死に遭うては、王者の靴をさへ縫はなかつた。今人《きんじん》である自分が時なき人への恭愼《きようしん》の情を護るためには、その文をも暫く封ずべきであつた。尠くとも性利發ならざる自分の信ずるところは、その愚直なる一途の謹愼あるのみであつた。

 時なき人は現世の自分の前に無言のまま佇んで、「時」を持つ自分を愍《あはれ》むに近かつた。自分もその「時」の煩しさ辛さを感じながらも、仕方なしに彼の前に躊躇しながら佇んでゐた。時なき人は何時かは鞭を持つて自分を打つであらう。

 打て、然して君のなほ自分に敎へんとするところを示せよ。[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、これは無論、芥川龍之介へのそれである。]

 

 十八 雲

 

 自分は今年信州の高原に夏百目を送り、秋風を肌身に感じながら每日雲の去來を見て暮した。朝に湧き夕に散る片雲の去來は、容易に自分達人類の滅びた後にもなほその惡魔の如き形相を示すことを歇《や》めないであらう。彼はまさに「時」なき不斷なる惡魔だつた。

 自分は彼を數へるに數十の惡鬼の姿を想像し、又あらゆる知己朋有の面相を思ひ描いて見た。彼は優しい或女の顏をさへ浮ばせて見せた。あらゆる宮殿や高雅なる園庭をも、遙か下界の椅子の上に臥てゐる自分にひろげて見せた。自分の妻子や朋友の凡てがなくなつても、彼、漠漠たる片雲のみがこの世を領してゐることは疑ヘなかつた。彼は自分の死滅の靜寂さへも浮べてゐたからである。自分がかう考へてゐる中にも、山上の密雲はぎらぎら底光りを潜ませ、悠悠と或は奇峰や深淵や斷續を續けながら迫つてゐた。それを見てゐると自分は何か恐怖以上の恐怖を感じるのが常だつた。

 彼は時をも又何者をも持たなかつた。唯、その物凄い千古の形相は百萬の惡魔を日夜に駈り立てて靜かに仰臥してゐる自分を脅かした。自分はこの密雲のぎつしりした息苦しさを双肩に感じてゐた。

 

 十九 彼

 

 惡魔も持たない如く神も亦「時」を持ち合はさないであらう「時」を持つものは我我人間の外には無いのかも知れぬ。[やぶちゃん注:「持ち合はさないであらう」の後に句点がないのはママ。]

 

 二十 或平凡

 

「時」の無い國に曾て「時」を經驗した人人が、山吹や蓮の莖をお互の手に持ち合ひ乍ら坐つてゐた。自分は彼らに退屈かどうか、愉樂はあるかどうかを尋ねて見ようと心がけてゐたが、自分のこの考へは直ぐ彼らに見破られてしまふ不安の方が先立つので、默つて眺めてゐた。彼らは物憂く動いてゐたが、孰れもその動作に超時間的なゆつたりしたものを顯してゐた。

 自分は味氣なく笑ひかけて見たが、彼らは決して笑はうとはしなかつた。曾て笑つた人も笑はなかつた。彼らは皆一樣に眞面目な顏付をしてゐて、笑ふまいといふ努力などしてゐないやうであつた。

 自分は何時の間にか、これらの山吹の枝や蓮の莖を手に持つところの、彼等の中の一人に姿や形相を變へて、石の壇の上のやうなところに腰かけてゐた。自分は實際をかしくも又味氣ないこともなかつた。昏昏として半睡のやうな狀態が永く續いてゐるだけだつた。自分は他のものと話をしたい欲望も起らなければ、他の者の存在意識が少しも自分に影響しない不思議さが打ちつづくだけだつた。

 自分はその時やつと氣付いたことは物を食ひたい欲望の喪失されてゐる、干乾びた狀態だつた。その狀態に氣づいた時、自分は絕望的にさへ嘆息した。しかしもう自分は遲いやうに思はれた。もう自分はとうに山吹の枝を持ち、彼等の中に坐つてゐたから、――彼らの如く何も興味のない顏付で、苦り切ることもできず又燥《はしや》ぐこともできない、例の眞面目過ぎる狀態に壓せられてゐた。

 

[やぶちゃん注:最後に、この「天上の椅子」は前半はやや長めのアフォリズム集であるが、後半は強い散文詩体となり、しかもその内容は私の偏愛するツルゲーネフの「散文詩」を、確信犯で、強く意識して書かれてあると断言出来る。未読の方は、サイト一括版(中山省三郎譯)(私の注附き)、或いは、ブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」の神西淸の訳、上田敏の訳、生田春月の訳なども完備しているので、是非、読まれたい。

2022/04/01

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(しづかに我は椅子をはなれ、……)

 

 

 

しづかに我は椅子をはなれ、

まつすぐに立上りて我はあゆむ、

いま戶外をながれゆく水の音の、

秋の夜の風の、ええてるのしめやかさをおびて、

月は白み、*窓//扉*はほのかにもひらかれた。

[やぶちゃん注:「*」「//」は私が附した。「窓」と「扉」は並置残存していることを示す。後の草稿でもこの記号の意味は同じ。]

あの、しんにこの荒(すさ)みたる椅子をはなれては、

身をすむべき眠り瑕睡(まどろみ)の里とてもなし

いかなればこよひ夢よりさめて

靑白き懺悔の寺を訪はんとするか

路は遠々み

ゆくゆく月に吠え

森の水車で おび→あやかされ→魔 もおびやかれつつも

狂犬のごとくに さびたつて→なりて→さびて聖牙をならしてかみならして行かねぱならぬ、

聖人の→行路の

いはんや行路を遠みの露をしげみ

よしやわれ夜道に死ぬとても

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。但し、太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇には『草稿詩篇「未發表詩篇」』に『本篇原稿二種二枚』としつつ、無題の一種のみがチョイスして示されてある。以下に示す。同じく表記は総てママである。

   *

  

しづかに我は椅子をはなれ

我はまつすぐに立あがり我はしつかり步んだむ、

我は音なき步みを好む

いま戶外をながれるがれゆく水の音のごとくに音の

秋の空氣(エーテル)の、夜のしめやかさをおびて

月は白み、月は床をてらし窓はほのかにもひらかれた、

ああ、しんにこれ人のこのさびしき椅子をはなれては

もの悲しくもランプの影

猫は我はゆくすむべき住家もなしとて眠りの里もなし

いかなれば夢よりさめて

遠遠き いたましき懺悔の

遠遠き僧院の

靑白き*苦行の→未知の殲悔の僧院を//戀人の門→里家を*とはんとするか、

路は遠遠み

ゆくゆく我は狂犬の如く 怖ろしく→すさまじく哀しげにも吠えて行かねばならぬ

よしや我、路に死ぬとて

よしや君かへりはせじ、ゆめにも知らぢあだには知らぢ、

ゆめ、我は今宵僧院に行くまじきぞ、

しづかに祈れ、我が心よ、また明日をも、

ああ寂しくもけれども明日 こそ巡禮

この大いなる椅子を放れて、我は行くべき父母の家もなし

は心 が影は床の上 を步みつゝ ほゝ うすら笑みつゝさびしき影は床の上にさまよひつゝ

 

   *]

萩原朔太郎 未発表詩篇 子供の死

 

 子供の死

 

子供は月をみると快活になる、

まるい月の方へ手をのばしたくなる、

子供は月と話がしたくなる

おまへは

お月さん

めづらしいすきに奇拔なおもちやを頂戴な

あまいぽんぽん菓子を頂載な』

そうすると月がこたへる

『子供や

おまへがおほきくなつたらもつと可愛らしかつたらかつたら

おまへが猫の兒のやう になつたら だつたらをつかまへたら

子供を月夜の外へ出すのはわるい

おまへはひとりでおどりができるかい』

子供はかなしくなる

子供はすゝりなきをする

すると月がにこにこ笑ふ

『こどもや

あすこをごらんでおまへの母さんがよんでるよ

おまへの母さんはまるで卵 姉さんは乾ぶどうのや うにしなびてるに うだし→みたいだしのおばけだし

おまへの母さんはあれは卵のやうよ、

おれはおまへはなに が食べたいのになりたいの、」

『わたしはね

わたしは橫笛が たべたい ふきたいの

それからおどりがおぼへたい

わたしはこんな大きなあんずがたべたいの實になりたい』

山もおまへのあんずの核ごとたべるかい』

あのひと子はそれをたべる

あの子おまへが大きるときつときつとあの子がおまへをたべてしまふよ」

むしやむしや、むしやむしや、』

 

[やぶちゃん注:惨酷童話である。底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。但し、太字は底本では傍点「﹅」。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 さくらのにほひ

 

 さくらのにほひ

 

ゆうべおれはせつとうをした、

非常に下等なけれども非常に美しい動機から罪を犯した、

おれはお母さんもつともおれは少し酒をのんでゐた、

おれは 妹たちの眼をしのんでそつと奧の座しきへはりいこんだ、

お母さんは外出してゐる

おれは用だんすの前にこつそりと立つた

おれは金のありかをよくしつてゐる、

おれは耳をすばや ひき出をひき出しをあけた

おれはねずみのやうにすばやくあたりをみた、

五圓の紙幣がひやりと指さきに光つた

おれはぞつとぎよつとした

けれどうれしかつたくなつた、

なんだかうまく成巧した冒嶮がすてきにうれしかつた、

おれは石川五右衞門のやうにお財(たから)を押しいたゞいたまねまでをした、

おれは芝居がゝりのこわいろまでやつつけかつた、

ちようてんに

むやみにおどけてみたかつた、

もつともおれは少し酒をのんでゐた

わたしおれは友だちがにくらしくなつた、

きれい女たちがにくらしかつた敵のやうにみえた

あいつらをやつつけてしまひたくなつた、

すべておれの心の中の善良なるものがむほんをくわだた、

おれは何も知らん顏をしてお母さんといつた、

お母さんは私の罪

おれは罪びと蛇のやうに居間にかくれた

おれは飯も食ばすにゐる泣いてゐる、

には董が光つてゐた、

おれは董は恐ろしいいたまし紫色をしての花が光つてゐる、

木製の椅子の足がゆがんだ、

おれはくちびるをかみしめた

懺悔するときの恥とくるしさとをかんがへる

いはんやおれは詩人でそうして無紳論者 そして ありましてや無宗敎敎

おれは友だちから、キリストイエスから許しをえたいとは思はない、

そのときお母さんは窓の下で張物をして居る、お母さ

おれを許してくれ.る人はおれの神さまだお母さんはおれの神さまだ、

おれは顏をそむけて泣いてゐる、しのびなきをしてゐる、

うらうらと春は そよ風がわが家の庭そのときほんのりとした軒にさくらのにほひをふきおくつたをかいだ、

さくらは利根川の方から岸べにむらがりさいてゐる

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。私には青年期に、これに酷似した体験がある。されば、ここに描かれた情景がデジャ・ヴュする。

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(『こんな……)

 

 

 

『こんな天氣

『みんなはどこを步いてるのだ、そしてどんな面白いことをして遊んで居る居るだろう、』私は一人ぼつちなのに

僕はここに居る』

『君以外の友だちは、どこに居るへ行つたの』

『みんなかうして家に座つて居る』

『そんなことはないだろう、こんないゝ日曜日に』

『でもたいがいの奴はかうして話 家で兄弟や友人と話かうして家に居るさ、僕等だつてそうぢやないか』

『僕にはそう思へない』

『ああ、太田がきた』の聲がする』

『あいつはどこへ行つたんだ』

『そんなことを僕がしるものか』

      ――太田登場

『失敬、こいつを見ろ』→ああつかれた』ああ、しづにすてきだ』

『どうした』

『どこへ行つた』

『林で雀を 二疋 五疋うつて來た、これを見給へ』

 

[やぶちゃん注:戯曲風(レーゼ・ドラマ風と言いたいところだが、萩原朔太郎はしばしば詩篇を朗吟せよと言っているので、それは避けた)。底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。なお、編者注があり、『冒頭一行は意味不明、消し忘れと見なして上欄本文』(校訂本文のこと)『では省いた。』とある。他に原形及び校訂本文では、以上の、

・二行目を「『みんなはどこを步いてるのだ、そしてどんな面白いことをして遊んで居るのだ』と改変

・五行目の「座」を「坐」に改変

・六行目の「だろう」を「だらう」に改変

・七行目の「そうぢやないか」を「さうぢやないか」に改変

・八行目の「そう」を「さう」に改変

・十三行目の「しづにすてきだ」を「じつにすてきだ」に改変

・最終抹消行の二つの「疋」を「羽」の誤字

としている。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 春

 

 

 

小僧代りだね、

そうしておいてみるのもいゝさ、

北國の々境からくるのは何か、

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。校訂本文は最終行を『北國の國境からくるのは何か、』とする。なお、編者注があり、『題名の右下方に「春は花をとどめない」の一行が書かれている』とある。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 植木

 

 植木

 

畸形

曲りたる松の梢に

われは月を見たり

雪をふらしむ

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。なお、編者注があり、『本稿は「草稿詩篇 月に吠える」の「光る鉢」と同一用紙の下方に書かれている。なお同じ用紙左方に「敍情的」と記され、やや離して』、

つめた

ぱいふ

きんぎよ

きんぎよ

の全四行が全抹消され、さらに『その下方に「みゝず」が』書かれて、これも『抹消されている』旨の記載がある。「光る鉢」は『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 苗』の私の注で電子化してあるので参照されたい。]

« 2022年3月 | トップページ | 2022年5月 »