多滿寸太禮巻㐧二 岩成内匠夢の契の事
岩成内匠(いわなりたくみ)夢の契(ちぎり)の事
過《すぎ》し元龜の初め比(ころ)、淀の城主岩成主稅亮(ちからのすけ)が猶子(いうし)に、内匠晴光(たくみはるみつ)といへるものあり。先年、桂川の一戰に、十六歲にて初陣に、敵三騎、馬上にて渡りあひ、二騎の武者を、切つておとし、のこる一騎と引組(ひつくみ)、川中(かわなか)へ落ち入、水中にて差し通し、三《みつ》の頸(くび)とつて、比類なき働きし、其の後(のち)、たびたびの戰ひに、每度、手柄を顯はし、誠に一騎當千の兵(つはもの)なり。力(ちから)、よのつねに越へ、情け、ふかく、近國無双(ぶさう)の男色(なんしよく)にて、みる者、心をよせずといふ事、なし。
[やぶちゃん注:「岩成内匠」「内匠晴光」不詳。
「元龜の初め比」「元龜」は一五七〇年から一五七三年までで、元亀四年までしかないから、永禄十三年四月二十三日(ユリウス暦一五七〇年五月二十七日)に元亀に改元しているから、この元年の後半か、下っても、翌二年内であろう。この時代の天皇は正親町天皇で室町幕府将軍は足利義昭だか、最早、戦国時代である。
「淀の城主岩成主稅亮」山城国久世郡淀(現在の京都府京都市伏見区淀本町)にあった淀城であるが(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、この話柄内時制では、城自体が存在していない。従って、「岩成主稅亮」も架空の名前と思われる。当該ウィキを参照されたい。
「猶子」公卿や武家社会で、兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの。義子。
「桂川の一戰」「桂川原(かわら)の戦い」とも呼ぶ。大永七年二月十二日(一五二七年三月十四日)夜半から二月十三日まで京都桂川原一帯で行われた戦い。この戦いは「堺公方」の誕生のきっかけとなった。詳しくはサイト「戦国ヒストリー」の東滋実氏の『「桂川原の戦い(1527年)」細川高国の敗北。政権は堺公方へ』が地図も完備しており、よい。しかし……作者は迂闊にして杜撰に過ぎる! これでは――内匠晴光は――作品内の主時制では――当年とって六十歳のジジイ――になってしまうぞッツ!?!
「男色」この場合は男性の同性愛の意ではなく、単に美男子、ハンサムなことを言っている。]
八幡(やわた)の別當何がしの御房、いつぞの比より、ふかく戀ひわび、千束(ちつか)にあまる文(ふみ)の數(かず)、さすが『哀(あはれ)』とや思ひけむ、折々、かよひ行けり。年(とし)已(すで)に廿一、器量・骨柄、又、双(なら)ぶ者、なし。軍さに打立《うつたつ》折からは、御房の同宿(どうじゆく)に、小大貮(こだいに)・少進房とて、大力(だいりき)の法師二人を晴光に付られけり。かれら三人は、いつも、一方をかけやぶらずと云《いふ》事なし。
[やぶちゃん注:「八幡(やわた)の別當」淀城とあるからには、直近の南西にある石清水八幡宮の別当僧であろう。同八幡宮は平安前期の創建以来、明治の神仏分離までは、ずっと境内の護国寺と一体となる宮寺形式をとり続けてきた。往時は多くの堂宇が立ち、山麓も壮大であった。だから、授業でやった「徒然草」の「仁和寺にある法師、年寄るまで石淸水を拜まざりければ、……」の痛い失敗談が腑に落ちるわけである。]
春も漸々(やうやう)半ばより、遠山の殘雪も霞の衣(きぬ)にぬぎかへ、余寒のあらしも、東風(こち)ふくかぜに、實(げに)、所がらなる川水に、花をうかめ、浪の聲も靜かに、
「『人、更に若き時なし、常に春ならず。酒をむなしうする事なかれ。』と、故人もいへれば、いざや、夜と共に神崎(かんざき)・枚方(ひらかた)のほとりへ、小船に竿さして、蒙氣(もうき)をはらさむ。」
と、二人の法師もろともに、下部(しもべ)、少々(せうせう)召し具して、何となくうかれ出《いで》、川下に行くに、男山の姿も妹背の中(なか)、芦邊(あしべ)の葉、分けて、けふも入日の鳴戶、波風もなき人の心に、『唯だ、殘鶯《ざんあう》と落花とに別る。』といへる、誠(まこと)なる哉《かな》、たなゝし小舟(をぶね)棹(さほ)さして、芦間(あしま)にあさる漁人(ぎよじん)になぐさみ、浪(なみ)にうかべる鷗(かもめ)の、入日に、をのが影を洗(あら)ふも、おかし。
[やぶちゃん注:「人、更に若き時なし。常に春ならず。酒をむなしうする事なかれ。」「竹林の七賢」や陶淵明の詩文にありそうだが、前半部で、ぱっと浮ぶのは授業でやった劉希夷の「代悲白頭翁」の「年年歲歲花相似 歲歲年年人不同」だろうな。
「蒙氣」気分が塞ぐことを言う。
「男山」石清水八幡宮のある山。
「妹背」一般に川などを挟んで対する山を妹背山と呼ぶことが多い。但し、どこを称しているかは、私には判らない。男山は宇治川左岸の独立峰だからである。川下に向かっているので、枚方附近の丘陵に包まれてゆくことを言うか。但し、ここは同じ左岸であり、しかも、この丘陵、古い地図を見ても、高いところでも八十メートルほどしかない。
「殘鶯《ざんあう》」底本では「ざんわう」と歴史的仮名遣を誤っている。国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右丁後ろから五行目)、さらに後刷の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像(PDF一括版・九コマ目・同前)を見られたい。さらに指摘しておかねばならないのは、国書刊行会の「江戸文庫」の「浮世草子怪談集」(同書の底本は上の国立国会図書館の蔵本である)で、致命的なミスを犯していることである。そこでは『殘鷲』となっているのだが、「鷲」の崩し字では、上の部分は、こんな簡略には絶対にならない。これは絶対に「鶯」である。また、鷹は「渡り」をするが、秋であって、シークエンスとしてもあり得ない。字起こしをした学生のデータも「鷲」になっており、木越治先生の見落としである。「江戸文庫」はどれも高い。本書は購入時、四千六百円であった。ちょいと、ムッときたね。
「たなゝし小舟」「棚無し小舟」船棚(ふなだな:中世以降の和船で航 (かわら:和船の船首から船尾に通す長く厚い舟底の板材)以外の外板)のない小さな舟。丸木舟や一枚棚の小舟などを指す。船端の上部にとくに握り手や座れるような補助材が全くないのである。]
夫(それ)より神埼(かんざき)の入江にうかれよるに、いづちともなく、春風かすかに、琴(きん)の音(ね)をおくり、遙香(ようかう)ほのかに、袖にうつれり。
[やぶちゃん注:「神埼(かんざき)の入江」よく判らぬが、宇治川の下流で、右岸で分岐する川があり、これが神崎川である。「今昔マップ」の古い地図で見ると、この分岐の辺りに「江口」の地名を確認出来る。]
人々、興に乘じて、この琴の音を便りに、舟をさし行《ゆく》に、とある岸に造りかけたる大家(たいか)あり。一間なる書院の障子おしひらき、簾下(すだれした)に一つの風鈴(ふれう)をさげ、おばしまに、色々の小鳥を、ならべ置きたり。
「いかなる人か、住みて。」
と、奧ゆかしく、ちかぢかと、舟をよせてみしに、大なる酒店(しゆてん/さかや[やぶちゃん注:右/左のルビ。])にてぞ有ける。遙かのおくに、十六、七の、容顏美麗の女たゞ一人、春の夕暮にあくがれて、琴(きん)をしらべてあり。そのさま、更に輕粉(けいふん)をぬらずして、をのづからの風流、よろづ、つくろはぬさま、此の世の人とも、見へず。
心も空(そら)に成《なり》て、なりを靜めて、ながめ入《いり》たり。磯にねむれる子がひの水鳥の、船のよるせに驚きて、馴し欄檻(らんかん)に飛びあがるに、此の娘、
「いかなるものゝ、おどろかすにや。」
と、ふと立《たち》て、人々を見つけ、うちおどろきたるが、晴光が男色(なんしよく)に忽ち、まよひ、
「世には。かゝる人も、有《あり》けるよ。」
と、あからめもせず、ながめ立《たち》たり。
「折から、船中に酒をむなしくなし侍る。酒、もとむべき家《いへ》も侍らば、敎へ給へ。」
と、詞(ことば)をかはせば、此女、貌(かほ)うちあかめ、
「此の家こそ往來の酒家(さかや)にてさむらへ。あがらせ給ひて、もとめ給へ。」
と、いらへければ、人々、うれしく、舟をつけて、かの家に立入《たちいり》、
「こよひは、月もくまなきに、春の夜(よ)、爰(こゝ)にて、暫く休らひ侍らんに。」
と、いへば、亭(あるじ)、よろこび、さまざまの珍味をとゝのへ、酒を、すゝめける。
「先(さき)に聞つる琴(きん)の音(ね)こそ、ゆかしけれ。」
と、口々《くちぐち》にいひのゝしれば、主(あるじ)、
「それこそ野人(やじん)が娘の手すさびもて遊びさぶらふ。中々、御見參(《ご》げんざん)に入《いれ》奉るべき物に、あらず。」
とて、つれなき返事に、たかぬさきよりこがれて、障子の間(あい)より、此女と、目とめを見あはせ、心に物をいはせて、千々(ちゞ)に思ひをくだきけるに、さすが、人めもはづかしく、既に夜も更けゆけば、
「さのみは、いかゞ。」
と、をのをの、いとまを乞ひて、又のよるせをちぎり、舟に棹さして歸りぬ。
[やぶちゃん注:「たかぬさきよりこがれて」「焚かぬ先より焦がれて」であろうか。洒落である。]
かゝる程に、此の娘、晴光を見初めて、
「我、たまたま、人界(にんがい)に生(むま)れ、思ふ人にもそはざらむこそ本意(ほい)ならね。今までの通(かよ)はせ文《ぶみ》、あげてだに見ず。世の人に『情けしらず』と名にたつも、心にそまぬ故ぞかし。わが心をも『哀れ』と思ひ給はゞ、二世(《に》せ)かけてのゑにしを結び給へ。」
と、天にあこがれ、俄かに口ばしり、心みだれ、手がひの虎の綱を引《ひき》、長刀(なぎなた)のさやをはづし、持ち出《いづ》れば、人、あたりへも、よりつかず、漸々(やうやう)、めのと[やぶちゃん注:乳母。]、命(いのち)を捨てて、すがりつき、
「彼(かの)人を媒(なかだち)し、御ねがひの通り、夫婦(ふうふ)となしまいらせん。」
と、さまざま、すかしいたはるに、次第に、たのみ少く、禰宜・神主にはらひし、佛神にいのるに、更に甲斐なし。
あるじ夫婦も、
「たとへいかなる人なりとも、吾が子の思ひ入《いり》たらむに、などか逢はせざらむ。」
と、いろいろ、尋ね求むるに、いづちの人ともしらねば、爲方(せんかた)なく、只、ひたすらに、
「かの人に、今一たび、めぐり合《あはせ》て、たび給へ。」
と、氏神に祈誓申《まうし》けるこそ、せめての事と、哀れなり。
「かく身のうへを取り亂しなば、後(のち)の世の罪も、いかならん。」
と、色々に看病しけれども、今はかぎりのうき世と、時をまつ折ふし、枕を、我(われ)と上げ、
「うれしや。かの人、あすの夕ぐれには、こゝにおはすべし。かしこを掃き、こゝを拂(はら)へ。」
と、よろこび、いさむ、けしきあり。
『これも、例(れい)のうつゝ事よ。』
と思ひながら、町のはづれに人を置くに、案のごとく、内匠(たくみ)、いつぞや見初めし折からより、夜每に相ひ逢ふて、夢にちぎりをかはしけるが、あまりに不思義(《ふ》しぎ)に思ひける間(あいだ)、又、かのほとりへ、さすらひ行《ゆき》けるを、かの家にいざなひ、主(あるじ)、ひそかに、始終(はじめをはり)を語る。
「いかなる御方(おんかた)にて侍るも、いさ、しらねども、且つは、人を助くる道なれば、草の枕の一夜(《ひと》よ)をも、情けをかけて助けさせおはしませ。」
と、淚をながし、夫婦ともに、ふししづみ、くどきけり。
[やぶちゃん注:「いさ」副詞後に「知らず」の意の語句を伴って「さあ、どうだか」「さてまあ、どうなるか判りませぬが」の意。]
晴光も、あはれに引《ひか》れありし事ども、語り出《いだ》し、あまりのふしぎに、これまで來《きた》る事を說(と)く。
やがて、枕にちかづき、よりて見るに、すべて、夢にみし俤(おもかげ)に違(たが)ふ所、なし。
娘、忽ちに起き上がり、もとの姿となり、年月(としつき)の思ひを語る。
「身はこゝに有《あり》ながら、魂(たましひ)は前々(さきざき)に付《つき》そひ、人こそしらね、幻しのたはむれ。」
「あるときは、難波(なには)・住吉(すみよし)をめぐりて、天王寺(てんわうじ)の御坊にて、一夜をあかし、旅の衾(ふすま)の下(した)にこがれて、物いはぬ契りをこめ、夢中に、かはせし。」
かたみの者も、互ひの袖にくらべて、うたがひをはらし、二世(《に》せ)の契りをこめ、とし比《ごろ》かよひけるに…………
……中三《なかみ》とせを過ぎて、織田信長公、數萬(すまん)の軍士を卒(そつ)して、淀の城、十重廿重(とへはたへ)にとり卷き、月を經て攻め給へば、籠城の人々も、網代(あじろ)の魚(うを)のごとくに忍びて、通ふ事もなく成《なり》しかば、娘は、あるにもあられずして、淀のほとりに徘徊しけるを、佐久間信盛(さくまのぶもり)が手にとられ、暫く、陣中に有《あり》ける。
『猶、これまでも、何とぞし、城内へ入《いり》、今一度(いまひとたび)、逢ひ見ばや。』
と やたけに思へど、女の身の淺ましさ、空しく日數(ひかず)をふるほどに、終《つひ》に、元龜四年七月廿七日に、城(しろ)、おちて、一族、ことごとく自害して、一朝(《いつ》てう)の煙(けふり)と立《たち》のぼる。
此まぎわに、石をふところに入《いれ》て、淀川のふかみに身を投げて、底の、みくづとなり、共に貞女の道を失はず。
「誠に。やさしき事どもや。」
と、諸人(しよにん)、袖をぞ、ぬらしける。
[やぶちゃん注:本篇には挿絵はない。
なお、以上のエンディングにジョイントする部分は、ちょっと原文に難がある。二人の幸せが急激に暗転する部分の展開を焦るあまり、詞が足らず、どうも上手くない。そこで特異的に点線を用いて、そのぎくしゃくする部分を、かく改行して示した。
「輕粉(けいふん)」粉白粉(こなおしろい)。「はらや」とも呼ぶ。伊勢白粉。白粉以外に顔面の腫れ物・血行不良及び腹痛の内服・全般的な皮膚病外用薬、さらには梅毒や虱の特効薬や利尿剤として広く使用された。伊勢松坂の射和(いざわ)で多く生産された。成分は塩化第一水銀Hg₂Cl₂=甘汞(かんこう)であり、塗布でも中毒の危険性があり、特に吸引した場合、急性の水銀中毒症状を引き起こす可能性がある。現在は使用されていない。
「織田信長公、數萬の軍士を卒して、淀の城、十重廿重にとり卷き、月を經て攻め給へば」既に淀城の注で述べた通り、このような史実は確認出来ない。
「佐久間信盛」(?~天正一〇(一五八二)年)当時は織田家家老。初め、織田信秀に仕え、後に信長に従って「近江佐々木氏討伐」・「比叡山焼打」・「三方ヶ原の戦い」・「朝倉攻め」や一向一揆の鎮圧、及び、松永氏の討伐などに功があったが、天正八(一五八〇)年に信長に追放され(誰かの讒言によるともされる)、高野山に入って落飾した。
「やたけ思へど」「彌猛に思ふ」は「心が勇み立ってあせる・気が揉めて苛立つ」の意。
「元龜四年七月廿七日」ユリウス暦一五七三年八月二十四日(グレゴリオ暦換算九月三日)。まさにこの月、信長は足利義昭を追放し、室町幕府は名実ともに滅亡した。]