譚海 卷之四 三味線琉球國より傳來の事
○三味線は琉球國より永祿の比わたる。もとは二絃なりしを、其比(そのころ)泉州境に中莊司[やぶちゃん注:底本では「莊」の右に『庄』らしき傍注があるのだが、印刷がスレて判然としない。]と云(いふ)盲人有(あり)、琵琶法師也、此人この器(き)を聞(きき)てはじめて工風(くふう)を付(つけ)、二絃にては調子とゝのはざるゆゑ、一絃を足して三味せんとせしなり。中莊司弟子に石村・淺田・虎澤などといふ盲人あり、それに曲を製して傳へたる也。此師弟轉傳(てんでん)の際に、りうきうの組、或は但馬組などと云(いふ)七組の曲出來たり、是を本手組(ほんてぐみ)と號す。其後寬永中京都に加賀のいち・城(じやう)ひでといふ兩人の盲人、右の曲を傳來して名手也。加賀の都(いち)は座頭の官位をして柳川檢校となり、城ひでは八橋檢校と成(なり)ぬ。此人々の際に工風をつけて、本手組の外にはて組などといふもの出來たり。扨(さて)柳川門人に淺利檢校・狹山檢校といふ兩人あり。此兩人工夫をつけて、二上(にあが)り・三下(さんさが)り等の長歌組等もいろいろ出來たり。又淺利の弟子に市川檢校などといふものありて、組百番の節出來たり。柳川・八橋兩人の工夫にて、本手はで組の外に八曲の祕曲を製したり。搖上(ゆりかみ)・亂後夜(らんこや)[やぶちゃん注:この上の二曲の読みは底本にルビがあるものである。]・七つ子・早舟・茶碗・淺黃・さらひ・なかじま也。もとは十曲成しが、二曲斷絕せし也。最初は後夜の曲といふものばかり也、それは絕(たえ)て又らんごやのみ殘りし也、夫(それ)に十曲を製しそへたる也。又りんじつ・雲井・らうさい等は、長歌組百餘番の中に有(ある)曲なり。さて淺井檢校の孫弟子に、越後の國に繁の都(いち)といふもの有(あり)、此ものゝ弟子に宗都(そういち)といふもの、天明三年江戶へ出て居たるとき、此來歷をかたりし也。
[やぶちゃん注:「永祿」一五五八年から一五七〇年まで。天皇は正親町天皇、室町幕府将軍は足利義輝・足利義栄・足利義昭。最早、戦国時代。
「境」自由都市として知られる大坂の堺。
「中莊司」底本では「莊」の右に『庄』らしき傍注があるのだが、印刷がスレて判然としない。講談社の「日本人名大辞典」では、戦国・織豊時代の琵琶法師中小路(なかしょうじ 生没年未詳)なる人物が、永禄の頃、琉球から堺に伝来した三弦の蛇皮の楽器を最初に改良して三味線として演奏したとされるが、三味線の創始者については、石村検校とする説や、両者を同一人とする説があり、また、この「中小路」を人名ではなく、堺の地名とする説もある、とあった。
「寬永中」一六二四年から一六四四年まで。
「柳川檢校」当該ウィキあり。
「八橋檢校」当該ウィキあり。
「淺利檢校」(寛永七(一六三〇)年?~元禄一一(一六九八)年)は柳川検校より三絃柳川流の相伝を受け、柳川検校と並ぶ名人と称された。
「狹山檢校」(元和六(一六二〇)年頃~元禄七(一六九四)年)は筝曲作曲家。姓は「狭山」とも表記される。長歌を創始したことで有名。当該ウィキを見られたいが、『柳川と同じ門人であった浅利検校と』ともに、『三味線に新しい弾き方を取り入れた撥である「片撥」を使った組歌を創始し』、『これが長歌の始まり』となり、『この技法を用いた組歌を多く作曲し、一躍名を馳せた』とある。
「二上り」一の糸に対し、二の糸を完全五度高く、三の糸をオクターブ高く合わせる。本調子の二の糸を上げると、この調子になることからの呼称。沖縄県では「二上げ」とも言う。
「三下り」一の糸に対し、二の糸を完全四度高く、三の糸を短七度高く合わせる。本調子の三の糸を下げると、この調子になることからの呼称。沖縄県では「三下げ」とも言う。
「市川檢校」(生没年未詳)は地歌演奏者・作曲者。柳川検校或いは浅利検校に入門し、寛文から延宝にかけて(一六六一年から一六八一年まで)、主に江戸で活躍し、貞享元 (一六八四) 年に検校にのぼった。浅利検校・佐山検校と並び称された。作品に長唄「狭衣(さごろも)」「四季」などがある。
「七つ子」底本は右注で『七草』とし、国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本のこちらでは、本文自体が『七草』となっている。
「繁の都(いち)」不詳。
「宗都(そういち)」不詳。読みは推定。
「天明三年」一七八三年。]
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