「今昔物語集」卷第二十四「百濟川成飛驒工挑語第五」
[やぶちゃん注:採録理由は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。ここでの底本は歴史的仮名遣の読みの確認の便から、「日本古典文学全集」第二十四巻「今昔物語集 三」第五版昭和五四(一九七九)年(初版は昭和四九(一九七四)年)刊。校注・訳/馬淵和夫・国東文麿・今野達)を参考に切り替える。但し、恣意的に漢字を概ね正字化し、漢文脈は訓読し、読み易く、読みの一部を送り仮名で出し、読みは甚だ読みが振れるか、或いは判読の困難なものにのみとした。参考底本の一部の記号については、追加・変更も行い、改行も増やした。実は、私は、てっきり、本篇は電子化注したと思い込んでいたが、どうも私の勘違いで、本篇後半の飛驒の工人との技比べを、オリジナルに授業教材に仕上げて、授業を行ったことが十数年ほど前にあったのを、錯覚していたようだ。]
百濟川成(くだらのかはなり)、飛驒工(ひだのたくみ)に挑(いど)む語(こと)第五
今は昔、「百濟の川成」と云ふ繪師、有りけり。世に並び無き者にて有りける。「瀧殿(たきどの)」の石も、此の川成が立てたる也けり。同じき「御堂」の壁の繪も、此の川成が書きたる也。
而る間、川成、從者(じゆしや)の童(わらは)を逃(に)がしけり。東西を求めけるに、求め得ざりければ、或る高家(かうけ)の下部(しもべ)を雇ひて、語らひて云はく、
「己(おのれ)が年來(としごろ)仕(つか)ひつる從者の童、既に逃げたり。此れ、尋ねて捕へて得させよ。」
と。下部の云はく、
「安き事には有れども、童の顏を知りたらばこそ、搦(から)め、顏を知らずしては、何(いか)でか、搦めむ。」
と。川成、
「現(げ)に、然(さ)る事也(なり)。」
と云ひて、疊紙(たたうがみ)を取り出でて、童の顏の限(かぎり)を書きて、下部に渡して、
「此れに似たらむ童を捕らふべき也。東西の市(いち)は、人、集まる所也。其の邊(ほとり)に行きて伺ふべき也。」
と云へば、下部、其の顏の形(かた)を取りて、卽ち、市に行きぬ。人、極めて多かりと云へども、此れに似たる童、無し。暫く居(ゐ)て、
「若(もし)や。」
と思ふ程に、此れに似たる童、出で來りぬ。其の形(かた)を取り出して競(くら)ぶるに、露(つゆ)違(たが)ひたる所、無し。
「此れ也けり。」
と搦めて、川成が許に將(ゐ)て行きぬ。川成、此れを得て見るに、其の童なれば、極(いみ)じく喜びけり。其の比(ころほひ)、此れを聞く人、極じき事になむ云ひける。
而るに、其の比(ころ)、「飛驒の工(たくみ)」と云ふ工(たくみ)、有りけり。都遷(みやこうつり)の時の工也。世に並び無き者也。武樂院は其の工の起てたれば、微妙(みめう)なるべし。
而る間、此の工、彼の川成となむ、各(おのおの)の態(わざ)を挑みにける。飛驒の工、川成に云はく、
「我が家(いへ)に一間四面の堂をなむ、起(た)てたる。御(おは)して見給へ。亦、『壁に繪など書きて得させ給へ。』となむ、思ふ。」
と。
「互ひに挑み乍ら、中吉(なかよ)くてなむ、戲れければ、此(か)く云ふ事也。」
とて、川成、飛驒の工が家に行きぬ。
見れば、實(まこと)に可咲氣(をかしげ)なる、小さき堂、有り。四面に、戶、皆、開きたり。飛驒の工、
「彼の堂に入(い)りて、其の内、見給へ。」
と云へば、川成、延(えん)に上(あが)りて、南の戶より、入らむと爲(す)るに、其の戶、
「はた」
と、閉(と)づ。驚きて、𢌞(めぐ)りて西の戶より、入る。亦、其の戶、
「はた」
と閉ぢぬ。亦、南の戶は開きぬ。然(しか)れば北の戶より入るには、其の戶は閉ぢて、西の戶は、開きぬ。亦、東の戶より、入るに、其の戶は閉ぢて、北の戶は開きぬ。此(かく)の如く廻々(めぐるめぐ)る、數度(あまたたび)、入らむと爲るに、閉ぢ開きつ、入る事を得ず。侘びて延(えん)より下(お)りぬ。其の時に、飛驒の工、咲(わら)ふ事、限り無し。川成、
『妬(ねた)し。』
と思ひて返りぬ。
其の後(のち)、日來(ひごろ)を經て、川成、飛驒の工が許に云ひ遣(や)る樣(やう)、
「我が家(いへ)に御座(おほしま)せ。見せ奉るべき物なむ、有る。」
と。飛驒の工、
『定めて、我を謀(たばか)らむずるなめり。』
と思ひて行かぬを、度々(どど)、懃(ねんごろ)に呼べば、工、川成が家に行き、
「此(か)く來れる。」
由を云ひ入れたるに、
「入り給へ。」
と云はしむ。云ふに隨ひて、廊(らう)の有る遣戶(やりど)を引き開けたれば、門(かど)に大きなる人の、黑み、脹(ふく)れ臭(くさ)れたる、臥(ふ)せり。臭き事、鼻に入る樣(やう)也。思ひ懸けざるに、此(かか)る物を見たれば、音(こゑ)を放ちて、愕(おび)えて去(の)き返る。川成、内(うち)に居(ゐ)て、此の音(こゑ)を聞きて、咲(わら)ふ事、限り無し。飛驒の工、
『恐し。』
と思ひて、土(つち)に立てるに、川成、其の遣戶より、顏を差し出でて、
「耶(や)、己(おの)れ、此(か)く有りけるは。只、來れ。」
と云ひければ、恐々(おづお)づ寄りて見れば、障紙(しやうじ)の有るに、早(はや)う、其の死人の形(かた)を書きたる也けり。堂に謀られたるが、妬(ねた)きに依りて、此(か)くしたる也けり。
二人の者の態(わざ)、此(か)くなむ有りける。其の比(ころほひ)の物語には、萬人所(よろづのひとのところ)に此れを語りてなむ、皆人、譽めける、となむ語り傳へたるとや。
[やぶちゃん注:「百濟川成(くだらのかはなり)」(延暦元(七八二)年~仁寿三(八五三)年)は平安前期の画家。先祖は百済の出身で、本姓は余(あぐり)。承和七(八四〇)年に百済朝臣を賜る。武勇(特に強弓に才があった)に長じ、大同三(八〇八)年には、左兵衛府の舎人として出仕したが、絵画の才を発揮し、描くところの人物や山水草木は「自生の如し」(あたかも生きているようだ)と称賛された。本篇の第一エピソードは「文徳実録」にも載り、第二エピソード孰れもその卓抜な技量を物語っている。但し、実際の作品は現存していない。天長一〇(八三三)年、外従五位下。承和年中(八三四年~八四八年)備中介・播磨介を歴任している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「飛驒工(ひだのたくみ)」不詳。ここは一般名詞ではなく、そのように呼びなされた特定個人を指している。底本の注によれば、古くより、『飛驒の国にはすぐれた工匠が多く』、律令『時代、庸調を免除された代りに各里十人ずつ工匠を調進し、「飛驒ノ工」と称された』とある。
「瀧殿(たきどの)の石」参考底本頭注に、『泉石を配した寝殿造りの庭園の、滝のほとりに建てた殿舎』。『この滝殿について、諸注』は、『大覚寺の滝殿とするのが、確証はない』とする。但し、作者がかく書いた以上は、それは確かな当時の固有名詞として、特定の場所にあったそれを指していると考えねばならず、だからこそ直後に「同じき御堂」=滝殿「の壁の繪も、此の川成が書きたる也」と言ってるわけである。
「從者(じゆしや)の童(わらは)を逃(に)がしけり」普段から従者(じゅうしゃ)として使っていた少年が彼のもとから逃亡したのである。何故逃げたのか、弟子にするには、やや若過ぎるのであろうが、気になる。しかも、その童子を執拗に探しているのも、何か訳有りという感じがする。一つ思うのは、或いは、川成は、後の若衆道、少年愛者だったのかも知れない。それが童子には辛かったのではなかったか。
「東西」ここは「あちこち」の意。
「高家(かうけ)」摂関家・大臣家などの代々の権門家の総称。
「下部(しもべ)」下人。
「疊紙(たたうがみ)」「たたみがみ」の音変化。「折り畳んで懐中に入れ、鼻紙や詩歌の詠草などに用いる懐紙 (かいし)」、或いは「厚い和紙に渋又は漆を塗って折り目をつけた紙で、結髪や着物を包むのに使用する紙」を言うが、ここは前者であろう。
「童の顏の限(かぎり)」顔の部分だけを描いたことを指す。
「東西の市(いち)」ここは京の都の東西の市を指す。
「其の顏の形(かた)を取りて」ここは、先の川成の描いた似顔絵を受け取って、の意。
「都遷(みやこうつり)」平安遷都のこと、延暦一二(七九三)年から建設が開始され、翌年に遷った。
「武樂院」正しくは「豐樂院」。平安京大内裏の朝堂院の西にあり、大嘗会・節会・射礼(じゃらい:正月十七日に、この豊楽院又は建礼門門前で、天皇臨席の下、親王以下五位以上及び六衛府の官人が参加して射技を披露したもの。終了後には宴が開かれ、禄を賜った)・競(くら)べ馬・相撲などが行われた祭場の正殿。
「一間四面」約一・八二メートル四方。
「壁に繪など書きて得させ給へ」無論、川成に願ったの意で、策略として誘いを促したのである。
「中吉(なかよ)く」「仲良く」。
「延(えん)」「緣」の俗字。
「云ひ入れたる」川成の下人を介して言ったことを指す。
「土(つち)に立てるに」恐らくは裸足で飛び出して、地面に突っ立っていたのである。
「耶(や)」感動詞のそれ。
「己(おの)れ」底本頭注に、本書では『自称、他称いずれにも用いており、いずれにとるかによって解釈は異なってくる。自称とみれば、わしはここにこうしているぞの意。他称とみれば、お前はそんなところにいたなの意』とあるが、私は余裕を持った、とぼけたおもむろな誘い(だから「來れ」と続く)の意であり、前者で採る。]
□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の頭注や現代語訳を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)
百済川成(くだらのかわなり)、飛驒の工人(たくみ)に挑(いど)んだ事第五
今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、「百済の川成」という絵師があった。
世に並びない名匠であった。かの「瀧殿(たきどの)」の石も、この川成が立てたものである。また、同じくその「御堂(みどう)」の壁の絵も、この川成が描いたものである。
さて、ある時、川成は、自身の従者であった童子に逃げられてしまった。
あちこち、探し求めたのであるが、どうしても見つからない。そこで、とある高家(こうけ)の下人を雇って、頼んで言ったことには、
「拙者の家にて、永年、使って御座った従者の童子が、知らぬうちに、逃げてしもうた。どうか、一つ、この者を探して、捕まえて我らにお渡しあれ。」
と。
かの下人が答えるには、
「それは簡単なことにては御座れど、その童子の顔を知っておればこそ、搦(から)めとるは容易なことなれど、顔を知らねば、これ、どうして搦めとることが出来ようか、とてものことに無理というものじゃて。」
と。
川成は応じて、
「なるほど。それは尤もなことじゃな。」
と言うや、畳紙(たとうがみ)を取り出すと、童子の顔だけをそこに描いて、下人に渡して、
「これに似たような童子を捕らえてくれんかの。京の東西の市(いち)は、人がぎょうさん集まる所なればの。そのあたりに行って、探してみておくんない。」
と言ったので、下人は、その顔の似顔絵を受け取って、即座に市に参った。
人はたいそう多かったが、この絵に似た童子は、おらなんだ。
それでも、暫くの間、そこで見まわしておるうち、
「もしや!」
と思うほど、その似顔絵に似た童子が、出て参った。
その顔形を、描かれた絵を懐から、再度」取り出して比べてみたところが、これ、少しも違ったところが、これ、ない。
「これだわ!」
と直ちに搦め捕って、川成のもと引き連れて行った。
川成がその少年を見てみたところ、まさしくかの童子であったので、たいそう喜んだ。
その頃、この話を聴いた人は、
「そらで描いた絵だけで見つかるとは! これ、たいしたもんじゃ!」
と言い合ったものであったと。
さても。別の折りの話である。
その頃、「飛驒の工(たくみ)」と称された工人(たくみ)がおった。
かの平安遷都の折りの工人であり、まさに世に並びなき名人である。
かの内裏の中の「武楽院」は、その工人の建てたものであればこそ、かくも見事なものであると賞賛されたことでも、その力量の凄さは判ろうというものもじゃ。
さても、この工人(たくみ)、かの川成と、それぞれ、その匠みの技(わざ)を競い合っておった。
ある日のこと、飛驒の工人が、川成に向かって言うことに、
「我が家(いえ)に、これ、一間四方の堂を、建て申した。お出かけになられて、是非ともご覧あれかし。それにまた、貴殿に『壁に絵なんど描いて下さりたく。』なんどとも、思うて御座る。」
と。
川成は、
「互いに挑(いど)みながらも、仲良くしており、冗談も言い合うような間柄だからな、そんな風に、好意で誘って呉れたものであろうから。」
と、川成は、素直に飛驒の工人の家を訪れたのであった。
見れば、これ、まことに趣向を凝らした、新造の小さな堂が建っている。
四面に戸があり、それが、みな、開いておった。
飛驒の工人は、
「さあ! かの堂に入って、存分にその内部を、ご覧あれ!」
と言うたので、川成は縁に上(あが)って、南の戶口から入ろうとした。
ところが、その戸が、
「はた」
と、閉じてしまった。
内心、驚いたが、それは表に出さず、ぐるりと廻って、今度は、西の戸から入ろうとした。
ところが、またしても、その戸が、
「はた」
と閉じてしまった。
慌てて見たところが、南の戸は開いていた。
そこで川成は、慌てて、北の戸から入ろうとしたが、またしても、そのとは閉じてしまい、またまた、西の戸が、これ、開いておる。
また、東の戸から、入らんとするに、その戶は、またまた、閉じて、今度は、北の戸が開いておるではない。
かくのごとく同道巡りすること、これ、数多度(あまたたび)――入らんとするに、閉じ――別の戸が開きく――という繰り返しで、遂に堂の内に入いる事が出来なかった。
川成は、仕方なく、縁(えん)から下(お)りざるを得なかった。
その時である。
飛驒の工人(たくみ)は、思いっきり、大きな声で、笑ったのである。
川成は、内心、
『悔しいことじゃ!』
と思いつつ、帰って行った。
さて、その後(のち)のことじゃ。
かの出来事から数日をへて、今度は、川成が、飛驒の工人のもとに使いの者をやって、
「ご主人が、『我が家におわしませ。お見せしたい面白い物が、これ、御座います。』とのことにて御座います。」
と伝えた。
飛驒の工人は、
『きっと、先般の報復のために我れにひとあわふかしたろうという算段であろうに。』
と思って行かなかったのであるが、再三、慇懃に来訪を促してきたので、工人(たくみ)は、仕方なく川成の家に行き、
「かく参ったぞ。」
と下人を通じて挨拶したところ、
「お入り下され。」
と下人に言わせた。
それに随って、廊下の先にある、遣戸(やりど)を引き開けたところが、その入り口に、――大きな人間で
――黒ずんで
――腹が腐敗し
――脹ふく)れて腐ったそれが
――横たわっているではないか!
――その臭さと言ったら!
――これ! もう! 一度(ひとたび)吸ったなら、鼻が曲がるほどのものであったのだ!
思いがけな場所で、かかる物を見たからに、飛驒の工人は、
「ぎょえッツ!」
と、悲鳴を放って、驚き慌てて、外に逃げ飛び、退(しりぞ)いた。
すると、川成は家内に居(お)って、この声を聴くや、たいそうな大声で笑い続けた。
しかし飛驒の工人は、ただただ、
『恐しや!』
と思う一心で、地面に裸足で、ぶるぶると震えて凍りついたように屹立している。
川成は、やおら、まさに、その遣戸をゆっくりと開けると、顔を差し出して、
「やあ! どうなされた? 拙者はここにおりますぞ? どうぞ!どうぞ! お入りあれ!」
と余裕で応じたので、工人はおそるおそる近寄って見たところが、なんと! まあ! その遣戸の前に立てた衝立(ついたて)に、死体の絵が描かれていただけなのであった。
工人に堂で騙されたことを悔しく思うておったが故に、かく返報したのであった。
二人の者の技は、これほどに神がかっておったのである。
その当時は、これ、何処(いずこ)に参っても、この話で持ちっきりというありさまで、皆人(みなひと)、この二人をともに誉め讃えたと、かく語り伝えているということである。
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