曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その3)
[やぶちゃん注:「曲亭雜記」の「元吉原の記」は前回の「(その2)」までで、以下は、国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第一のここからだけが底本となる。以下の判読不能の多いそれは、吉原遊廓の創建者庄司甚右衞門が北角九郎兵衛なる人物に送った文書である。底本で見ると判るのだが、この□は判読不能字も含まれているのだが、後の解説によれば、書かれたものを、後から接ぎ合わせた結果、一行の文句が上下合わなくなった結果であると述べていることから、実は、原記載は、もっと遙かに読み難いものであったらしい。底本では、その上下の空隙を総て一行の末に寄せたものででもあるらしい。但し、実際、読んでみても、すんなり文が繋がっていないから、恐らくはそこに判読不能字も含まれてしまっているのであろう。かといって、吉川弘文館随筆大成版では、完全ベタで、ページの一行字数に合わせてしまった結果、異様な感じに□の列がランダムにガタガタと並んでしまい、さらに読む意欲を失わさせる結果となってしまっているのである。底本のママに電子化した。これを判読してそこに書かれた事態を推理・分析した馬琴には、正直、舌を巻いた。]
△庄司甚右衞門與二北角九郞兵衞一書【南無佛庵所藏。】
前文闕
與左衞門ヲはい名をつくり候、ちそう被ㇾ成お□□□
候事、其かくれも御座なく候。それがし□□□□□□
其方とゑんぺんをも相むすび候へば□□□□□□□
[やぶちゃん注:「ゑんぺん」「緣邊」。「えんぺん」で、「婚姻による縁続きの間柄」の意。]
おやこ三人之御のぼり候時分は、三人之丘□□□□
方之人に御座候も不ㇾ存して、我ら□□□□□□□□
罷なりやり申候。其しさい之事は、七十五□□□□□
方へくうぢをかけ申ゟゝと申候。□を九□□□□
[やぶちゃん注:「ゟゝ」は「よりより」と読んでおく。]
にはいちけんも申分有間敷候間、申分□□□□□□
付は九郞兵衞方へかけ申まじく候と申間□□□□□
そのさた其方へも我ら方へもくうぢ□□□□□□□
申はけすらそれは吉原之内にも二人も□□□□□□
かやう成者御座候て、もし九郞兵衞事□□□□□□
くらし□あけ可ㇾ申候と申に付ては、右之□□□□□
二三□□の者共さきだて候て、御公儀にて□□□□
せんさく可ㇾ申候と相ことわられ、七十五人□□□□
者□共さたもいたし不ㇾ申候。我々の事□□□□□□
ひとたび申合候に付、かやう成むづかしき□□□□
それがしが身上に請候。右に貴殿樣□□□□□□□
むごきにんしゆに御なり候事か。いか樣我、□□□□
御こうみ可レ有候間、其方樣とめんだん□□□□□□
申たがいのぞんぶんしさい申可レ承候。右□□□□□
しさいみゝきゝの御まいにて、京にて□□□□□□
たしか□□□□□□□成候。此かへし□□□□□□□
右に申通萬事之しさい共、たがいにそ□□□□□□
ぶんはれ不ㇾ申候内は、互のとりひき仕□□□□□□
申まじく候間、其分御心得可ㇾ被ㇾ成候。□□□□□□
四年以前より之公事之内より、申ぶん御さ□□□□
いか樣其方より御ふんべつも可ㇾ有候ところ□□□
先日之御狀に、我々身上をおかしく□□□□□□□
候との御狀はいけん申候。又われわれの□□□□□
その方をおかしく存候。江戶之けいせいとし□□□
いゑやしき迄も我々に其方御申候事、□□□□□□
何かの事も吉兵衞は不ㇾ存候間、あとあとの事□□□
其方賴合と御申候所に、吉兵衞は七十五人より□□
之目つけに罷成、我々所へ參は□□□□□□□□□
あさ夕之くらしの事委承候ては、庄助□□□□□□
市左衞門、十左衞門よびよせ、日に日に我等にたへ□
かゝりを承申候事、四年以前之極月十八日□□□□
十九日之ぢぶんに吉兵衞よこめいたし□□□□□□
目つけをいたし候事、あらわれ申候に付て□□□□
吉兵衞をよびよせ、我々の壹がせう□□□□□□□
せんさくいたし候。さてもさてもむごき人に□□□□
候、さだめて是は、九郞兵衞殿よりさしひか□□□□
御座候と、吉兵衞に相ことわり候へば、そ□□□□□
我等所へはふつうに參不ㇾ申候。其上京に□れ□□□
七十五人之者共を御よせ彼ㇾ成、あさ夕て□□□□□
御ちそう被ㇾ成、我々のしさいを御きゝ□る□□□□
候事共かくれなく候。七十五人之者共□□□□□□
かみがたへ女かいに參候者共、又は我々の方之□□
者共女かいに參候所に、一たん申合候へば、七十□
五人之者共にはめんだん不ㇾ申ば、是はたん□□□□
\/に候へ共、ぎりをわけかやうに□□□□□□□
[やぶちゃん注:「\/」は踊り字「く」である。不明の字の踊り字であるので、特異的にこう示すしかない。]
かくに仕候、其方と我々の事は、ちいさき□□□□□
子共ゑんぺん申合候事、京都にても□□□□□□□
江戶にても人之存候所に、我々のく□□□□□□□
らい申者共、朝夕之御ふるまい被ㇾ成、御ち□□□□
そう被成候事は、但七十五人之内にては□□□□□
其方は御座なく候が、七十五人之内□□□□□□□
江戶□なり其たがいにぞんぶんのしさい□□□□□
その方樣も我々もたがいのぞんぶ□□□□□□□□
罷なり候はゞ、たがいのとりひきの□□□□□□□
仕候。そのうちはたがいにとりひき□□□□□□□
うけたまはるまじく候。右にゑんぺん□□□□□□
候事も、たがい之ちからになり候。た□□□□□□□
ゑんぺんには、御さゝ此度の我々の身□□□□□□
つぶし可ㇾ申候者共と一とうに御座□□□□□□□
我々いかんともめいわくに存候間、御ふんべ□□□
被成、□□かこらかたにてなり共、江戶にても貴□□
ぞんぶん之通可二申分一候。申分あまた□□□□□□
御座候へ共、あまりくどくど御座候、□□□□□□□□
早々申入候。謹言。
十二月四日 庄司甚右衞門 花押
北角九郞兵衞樣
同 御 か も じ樣
右の料紙は「西の内」にて、竪匠尺一尺一分餘、橫五尺五寸三分、四枚繼也。つぎめより、段々、字のあがりしは、書て後につぎ合せし故に、上下の揃はぬなるべし。上におしたる印はつぎ印なり。惡筆不文を、そのまゝ縮字して、摹し[やぶちゃん注:「うつし」。]とゞめつ。書中に『くうぢ』とあるは「公事」にて、猶、「訴訟」といふがごとし。
[やぶちゃん注:「西の内」「西ノ内紙(にしのうちし)」。茨城県常陸大宮市の旧山方町域で生産された和紙で、コウゾのみを原料として漉かれ、ミツマタやガンピなどが用いられていないことを特徴とする。江戸時代には水戸藩第一の特産品となり、各方面で幅広く使われた。強靱で保存性に優れたその性質から、江戸では商人の大福帳として用いられた(当該ウィキに拠った)。
「匠尺」曲尺(かねじゃく)と同義であろう。]
按に、庄司甚右衞門は、初の名を甚内といへり。慶長十一年の頃、橫山町に向坂甚内といふ惡黨ありて、甚右衞門に、出入をしかけ、遂に公裁に及びしとき、『相手、同名にて紛しく、御裁許、面倒。』の由に付、甚右衞門と改名せしよし、「吉原由緖書」に見へたり。庄司甚右衞門が子も、亦、甚右衞門と云。二代め甚右衞門が子を甚之丞といふ。三代め甚之丞が子を又左衞門といふ。是より代々、又左衞門と名のりたり。享保十年に、吉原起立の事を書つめて奉りし名主又左衞門は、元祖甚右衞門より六世の孫也。かゝれば、右なる書簡を、初代の甚右衞門が筆也とは定めがたし。予をもて、これを見れば、二代めの甚右衞門なるべし。無益のわざながら、その考評を左にしるす。
甚右衞門が書中に、『吉原の内』云々とあるは、元吉原にあらず、新吉原になりてのことなるべし【これらのわけは、末に記すべし。】。又同書に、『先日之御狀に、我々身上をおかしく』存ぜられ歟『候との御狀はいけん申候』とあるによりておもふに、甚右衞門が遊女見世の西田屋も、やゝおとろへたる頃のことゝ聞ゆるなり。
[やぶちゃん注:太字は、底本ではここの右ページ下段一行目から二行目で、罫線の囲み字。]
さて又、元吉原の一廓を立下され、遊女屋渡世御免の後も、猶、甚右衞門が手につかずして、江戶のはしばしなる、あちこちにて、妓女をもて世をわたりし茶屋【世に、これを『浮世風爐』といへり。「吉原由緖書」に、『茶やの遊女持』といへるは、これなり。】、凡、七十五軒ありしなり。甚右衞門が書中に、『七十五人』といひしは、このものどものことにぞ有ける。されば、「明曆の火災」已前より、吉原町にて、件の賣女屋[やぶちゃん注:「ばいたや」・「ばいぢよや」。]等を相手どりて、しばしば訴訟したれども、この頃までは賣女を御制禁のことも、今の如く嚴重なる御條目もなく、且、彼等も亦、申立る趣あるをもて、年をかさぬるのみにて、裁許なかりしとぞ。こは予が臆說にあらず。故老の口碑にも傳へ、「吉原由緖書」にも、粗、その事、見へたり。又、甚右衞門が書を贈りし北角九郞兵衞が事は、考るよしなけれ共、文面につきておもふに、甚右衞門に舊緣ある京の遊女屋歟。さらずは、遊女の賣買をもて、世わたりとするにてもあるべし。
「此ものは、もし、寫本「洞房語園」に見へたる、岡田九郞右衞門が子にはあらずや。」
と、北峯子、いへり。これにより、予も考合することなきにあらねど、そは又、すゑに記すべし。
[やぶちゃん注:「北峯子」この直前の「けんどん爭ひ」で既に絶交した山崎美成の号。]
しかるに、九郞兵衞が、彼七十五人のものどもに荷擔せしを、何の故とはしるよしなけれど、當時、吉原よりも、又は、しばしなる賣女やも、京へ賣女を買出しに行によりて、九郞兵衞に、したしく交れるやうなれば、『九郞兵衞は遊女の賣買をもて、世わたりとするものにや。』と思ふなり。又、甚右衞門が子どもと、九郞兵衞が子ども、矧を結ぶ[やぶちゃん注:「やはぎを結ぶ」。喧嘩をするということか。]といへども、七十五人の賣女屋ども一隊となりて、甚右衞門が身上の衰へたることなどをもて、あしざまにいひしにより、遂に九郞兵衞も、七十五人に荷擔せしことは聞ゆれども、詳には考るよしもなし。又、吉兵衞がことの考は、末の條にていはん。又庄助、市左衞門、十左衞門などいへるは、吉原の者のやうに聞ゆれば、甚右衞門が訴訟の相談相手になりしものなるべき歟。又吉兵衞が方人のやうにも聞ゆれば、詳に評しがたし。當時、元古原に引はなれたる賣女屋の、江戶の中あちこちに猶有といへども、はじめの程、吉原より、いたくさはりを申出ざりしは、新に一廓を立下されし御めぐみに憚り奉り、且、世の人の吉原をめづらしがりて、繁昌したるによりてなるべし。かくて、三、四十年を經るまゝに、世のみやびをらの、吉原をめづらしと思ふものなく、彼はしばしなる賣女屋には、かへりて艷麗なる娼婦どものあるをもて、端々なる妓樓のかたに、けおさるゝやうになりにければ、ついに吉原より、さはりを申立て、訴訟し奉りしなるべし。然れども、その公事、久しく相持して、はかばかしき裁許なかりしに、明曆三年正月の大災後、元吉原の替地を、日本堤のほとり、今の地所にて下されしとき、江戶中なる茶屋の賣女を、嚴重に制禁あらせられて、「隱賣女御制禁」等の御條目を定められ、新吉原の御高札にも、猶、又、嚴重の御文言を示させ給ヘり【「吉原由緖書」に、『元吉原大門口にも、端々、遊女の御制禁の御高札を、立下されし。』よしなれども、明曆火災後、□嚴重になりし也。】。
[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]
「『吉原遊女町御高札は、葺屋町へ初て廓御免の節、相渡りたる、それより今に同樣也。』と、「語園」に見へたり。」と、北峯子、いへり。しかれども、御文言の事、明曆以前も今の如くなるや、詳ならず。いづれにまれ、はしばしなる賣女や、嚴しく禁ぜられしは、明曆よりのことゝおぼゆかし。
これにより、はしばしなる賣女屋等は、難儀至極して、しばしば、あちこちにて、忍び忍びに渡世したるもありしかど、それも長久のわざならねば、七十五人のはしばしなる賣女屋ども、新吉原へ手を入れて、さまざにわびしかば、遂に和熟して、件の賣女屋を新吉原へ移し住するに及びて、その家作すべき地所なかりしかば、江戶町なる遊女屋等屋敷に、この地尻を切ちゞめ、新に一巷路を開きて、堺町と名づけ、こゝへ、件の賣女屋等に、家作をさして、住つかせし也。されば、「吉原由緖書」に云、『堺町之儀は、新吉原へ引越申、寬文八年戊申の三月中、江戶町貳丁目名主町人共、御訴訟申上候て、面々之居屋敷之内を切り、新造に堺町と名付申候。此時分、端々に罷在候、茶屋の遊女持ども、吉原町へ佗言侘候間、其段、御訴訟申上候得ば、御慈悲を以被ㇾ遊二御免一候に付、每度、御訴訟申上候茶屋・遊女持ども、惣て七十餘人、從二方々一吉原へ入込申候。依レ之、右之道をつくり、此者どもに借地いたさせ候事。』といへるは、これなり。かゝれば、端々の賣女屋の吉原へ歸參して、廓中へ移り住しは、新吉原にせし明曆三年より、十二ケ年後の事なり。「由緖」の中、右の條に、『每度、御訴訟申上候茶や・遊女持ども』云々とあるにて、吉原より、かの七十五人を相手どりて、訴訟せしことの久しきをしるに足れり。『元祖庄司甚右衞門は、正保元年十一月十八日、享年六十九歲にて身まかりし。』よし、「寫本洞房語園」に載たるを、北峯子、はやく見出て、忠告せられたりければ、元祖甚右衞門が歿せし正保元甲申年より、彼端々なる遊女屋七十五人、吉原へ移り住し、寬文八戊申年まで、二十五ケ年をへたれば、右の書翰は、二代めの甚右衞門なること、推て知るべし。又、新吉原になりし明曆三丁酉の年は、元祖甚右衞門が死せし年より、十四ケ年後也。「語園」に載たること、左之如し。「寫本洞房語園」【享保五年、庄司又左衞門草記。】云、『甚右衞門、出處は、相州小田原のもの、父は北條家の御内に、僅なる御扶持を蒙り、輕き奉公相勤候よし。父、果て後、天正十一年、小田原落去之節、甚右衞門年十五歲、家來の介抱になり、御當地へ罷越、柳町に所緣ありて、この所に住居しけるが、□正保元年甲申霜月十八日、甚右衞門、年六十九歲にて終る。
[やぶちゃん注:ここで初めにあった「相摸(さがみ)の小田原浪人」という素性説が合致することとなる。
以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]
又、右の甚右衞門が書翰に、『我々事は、ちひさき子共、えんぺん申合候』云々、とあるをもて思んに、この甚右衞門は、齡四十前後之時の筆跡なるべし、これも亦、二代めの甚右衞門ならんと云考の一つ也。また、甚右衞門が書をおくりし、北角九郞兵衞が事は、北峯子の考有。よりてこゝに錄す。
「寫本洞房語園」云、『甚右衞門が遊女町の事、御訴訟の相談云を指加[やぶちゃん注:「いふを、さしくはへ」か。]、岡田九郞右衞門と云し人』云々、『開基の砌、一應、江戶へ引越し、寬永五年の比、抱の傾城廿餘人、並に家屋敷に家財を添、久しく召仕たる半三郞といふ手代にゆづり、その身は京都長者町へ引込、世間にて云、「仕𢌞ふた屋」[やぶちゃん注:「しまふたや」。しもた屋。]と云ものにて、有福にくらしけると也』云々。美成、案に、北角九郞兵衞といふものは、これなどの子にてもあらんか。苗字に相違あれども、岡田は遊女屋の名まへも、しるべからず。その家財とゝもに、手代にあたへ、自分は本姓をもて稱しけるにや。「語園」に之所を推考るに、やゝ似たるやうにおぼゆ。
[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では一字下げ。]
𪈐齋[やぶちゃん注:「らいさい」。馬琴の号の一つ。]云、右の說、おもしろし。もて、よりどころとすべし。よりて、又、思ふに、甚右衞門が書中に見へたる吉兵衞といふものは、九郞兵衞が徒也。若、此吉兵衞は、出所、京の者にて、右之、半三郞が養子名跡などに也し者歟。さらずは、岡田屋の吉原にありし家は、手代もちにて、半三郞が歿後、吉兵衞が支配せしにやと推計らる。岡田九郞右衞門といふもの、當時、京都へ退隱すといふとも、生涯ゆたかにておくらんには、さばかりの活業[やぶちゃん注:「なりはひ」と訓じておく。]はあるべきことなければ、江戶吉原なる家をば、半三郞に支配させ、その身は京にて遊女を多く抱設て、日每に他へ出し、又、かたはら、遊女の賣買をもて、世わたりの資とせしなるべし。かく思ふよしは、甚右衞門が書中に、『江戶之けいせいどもにいゑ屋敷迄も、我々に其方御申候事は、何かの事も吉兵衞は不ㇾ存候間、あとあとの事、其方賴入候と御申候所に、吉兵衞は七十五人之目つけに罷成』云々とあり。『江戶のけいせい共家屋敷』といへるは、九郞兵衞所持の江戶吉原なる傾城共、並に九郞兵衞が相傳所持の家屋敷のことなるべし。それを吉兵衞に支配させし時に、吉兵衞は不案内にて、何もしらず候間、前手代の半三郞が跡々のことを、甚右衞門に賴むと、九郞兵衞が云しことあるを云なるべし。然に九郞兵衞は、竊に甚右衞門をあしく思ふよしありて、彼七十五人に荷擔するに及びて、吉兵衞をもて間者として、甚右衞門が訴訟の内談を聞せしに、其事、終に顯れしかば、甚右衞門が九郞兵衞を怨み憤り、郵書[やぶちゃん注:「かきおくり」と訓じておく。]、年を重て後、右の手切の書翰を贈しことゝ聞ゆる也。されば、北角九郞兵衞は、岡田九郞右衞門が子にてあるべき歟といはれし、北峯子の考、尤、據あり。又、按に、當時、甚右衞門、憤りは、七十五人を相手どりて、訴訟せしのみのことには、あるべからず。端々なる賣女屋のさはりを申立るねぎこと[やぶちゃん注:願い事。]は、吉原町一圓之事なり。當時、甚右衞門は吉原の惣名主なりければ、これらの事を己が任とするものなるべけれども、右の書中に、『我々のくび切はからひ申者どもを、朝夕御ふるまひ披ㇾ成、御ちそう被ㇾ成候事は、但、七十五人之内にては、其方は御座なく候か』云々とあるをもて思ふに、甚右衞門が身ひとつに、かゝれるわけの、あるなるべし。しかれども、深き意味は、はかり知るべくもあらず。そは、とまれ、かくもあれ、此程、文によるときは、思ひ半に過ること、あらん。こゝをもて、予がこの無益の筆跡□も、翁の爲には、雪中の二老馬□といふべきのみ。
友人佛庵老翁は、好古をもて世にしられたり。されば、その所藏に、庄司甚右衞門が簡牘[やぶちゃん注:「かんとく」。書簡。]あり。一日、これを予に示して、云々の□めありても、亦、素より雅俗となく、古書畫の時代緣故抔の定かならぬを見る每に、考たゞさんと、ほつする癖あれば、えうなきわざと知ながら、愚按を記しつけたり。かくて、その書を返す日に、亦、これをしも贈れるは、同好の義をおもふが爲なり。
文政八年暑月廿一日 𪈐齋陳人藏
附て云、心牛子の記されし、吉原起立の條々は、「吉原由緖書」の趣を抄錄せし也。又大橋の内柳町の遊女屋は、原三郞右衞門と云ものゝ、取立しといふこと、「吉原由緖書」にも見へたり。
「御高札の事」、「鎭守の札の事」、「惣人別」、「藝者人別」、「『水吐尾』なる火之見やぐらの興廢」、「秋葉の常夜燈」、「吉原數度の火災の年月日時」等は、後の考にもなるべければ、珍とすべきものになん。よりて錄する事、左の如し。
[やぶちゃん注:長くなったので、末尾に記された、以下の「山口心牛筆記の内」という文章は次回に送ることとする。なお、町名や年号などは労多くして私に益が全くない故に(吉原は極めて限定された地域であり、時制も上限・下限が限られた中での叙述であるからである)カットしてある。以下でも同様の仕儀とする。悪しからず。]
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