譚海 卷之四 西國うんかの年に肥後熊本・備前の事 附肥前天草の事
○天明より六拾年前、西國うんかといふ災(わざはひ)有。列國の大名の人民、餓死をまぬかれたる者少し。其中に備前と肥前島原と、肥後熊本とは餓死なかりしと也。備前はその儒者熊澤了海、三年のたくはひをこしらへ置(おき)たる米をもちて一國をすくひ、三十五萬石の内一人も窮民なかりし事也。島原は松平主殿頭(とものかみ)殿領所也、其(その)奉行其(それ)兼て一日一人一錢といふ事を工夫致し置(おき)、年來(としごろ)儲置(まうけおき)たる錢を此時に出(いだ)し、七萬石の内一人も餓死なかりし故(ゆゑ)上聞に達し、有德院(ゆうとくゐん)殿御目見被二仰付一(おめみえおほせつけられ)、御紋付拜領にて、今に其子孫あふひの時服(じふく)を着し、國家老にて有(あり)とぞ。熊本は細川家の領所にて、其用達町人(ようたつのちやうにん)倉田七郞右衞門有德(うとく)なるもの也しが、身上(しんしやう)を抛(なげう)ち仕送(しおくり)せしゆゑ、五拾四萬石又困窮に及ばず。仍(より)て細川殿自筆の賞狀を七郞右衞門に賜り、永々二百人扶持賜りけるとぞ。此賞狀當人の子、萱場町(かやばちやう)鄰家(りんか)出火に、燒失せしかども、今猶勤功(きんこう)をもちて每月二十金づつ合力(こうりよく)せらるゝ、右うんかの年(とし)功あるもの三人也と人のいへり。
[やぶちゃん注:「天明」一七八一年から一七八九年まで。
「西國うんかといふ」災底本の竹内利美氏の注に、『稲の害虫イナゴやウンカが異常発生して災害をもたらしたことは、しばしばあったが、特に享保十七(一七三二)年、西日本の徨害ははなはだしく、餓死者一万二千余、飢者二六五万人に及んだという。天明より約六十年前である。』とある。イナゴ(蝗)は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 𧒂螽(いなご)」を、ウンカ(浮塵子)は「生物學講話 丘淺次郎 五 生血を吸ふもの~(2)」の私の注を参照されたい。
「熊澤了海」陽明学者熊沢蕃山(ばんざん 元和五(一六一九)年~元禄四(一六九一)年)の字(あざな)の一つ。当該ウィキによれば、彼は正保四(一六四七)年から明暦三(一六五七)年まで岡山藩に出仕し、承応三(一六五四)年に備前平野を襲った洪水と大飢饉の際、光政を補佐し飢民の救済に尽力する。また、津田永忠とともに光政の補佐役として岡山藩初期の藩政確立に取り組んだ。零細農民の救済、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させた』が、『大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらし』、『また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者である蕃山は、保科正之・林羅山らの批判を受けた』(彼は幕府からも終生に亙って睨まれた)結果、致仕している。ただ、この津村の言う天明の六十年前には、彼は既に亡くなっている。或いは、彼が慶安四(一六五一)年に岡山城下の花畠にあった屋敷「花畠教場」で陽明学を講じ、「花園会」会約を起草し、『これが蕃山の致仕後の岡山藩藩学の前身となった』とあり、これは実は日本最初の藩校であったと別な記載で確認出来たので、或いは、津村の言うような備蓄制度を在藩中に蕃山が提案しており、それがその後も行われたために、後代、飢饉を免れたということかも知れないが、これはただの思いつきで、よく判らぬ。
「松平主殿頭殿」肥前国島原藩の初代藩主松平忠房(元和五(一六一九)年~元禄一三(一七〇〇)年)が知られるが、ここは以下で、藩主の功として「有德院」(徳川吉宗の戒名の院号)の「御目見」を拝し、蓄財を図った奉行の子孫は国家老であるとあるからには(吉宗の将軍就任は享保元(一七一六)年で忠房はとうに亡くなっている)、松平分家の旗本深溝松平伊行の次男で忠房の養子となった、第二代藩主松平忠雄(延宝元(一六七三)年~享保二一(一七三六)年)となる。彼も官位は忠房と同じ主殿頭である。しかし、忠雄のウィキを見ると、元禄一五(一七〇二)年から『凶作が相次ぎ、さらに元禄期の貨幣経済の浸透により農業が衰退して藩財政が悪化した。このため、長崎商人の融資を受けている』とあり、『晩年の忠雄は次第に精彩を失うようになり』、種々の事件が勃発し、『島原藩は大いに混乱した。さらに』享保一五(一七三〇)年には五十人の『百姓が逃散し』、享保一八(一七三三)年『には虫害』(☜)、翌年には『養子に迎えていた忠救の早世』し、享保二〇(一七三五)年一月には『藩内で疫病が流行するなど、不幸の連続が続いた』とあって、竹内氏が注で指示しておられる六十年前がまさにその時期に当たり、調べれば調べるほど、うまくない反証事実しか出てこないというのは、この津村の話も話半分どころか、半分以下という気がしてくるのである。いや、そもそも最後の「倉田七郞右衞門」というのも、一体、何を生業としている御用町人一人が、どうやったら、熊本藩全体の飢民を救えるというのだ? そんな豪商で義人となら、当然の如く名も残って当たり前だろうに、ちょっと調べ見ても、見当たらない(というか、前の二つでやる気をなくしたから、熱心には調べていない。もし、実在するというのであれば、御教授戴きたい。――しかし、こうなると、これ、「三大ガッカリ」という感じが、強くしてきた。]
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