譚海 卷之四 江戶駿河臺名付の事
○東照宮慶長の比(ころ)は駿河の城にをはしまし、臺德院殿江戶の城に御座あるゆゑ、駿河より御旗本の衆、江戶の御城番に、一年に一度づつ詰(つめ)る事也。但一日一夜の御番にて、駿河より江戶ヘ二日一泊にくる事也。三百石五百石とる人も、自身と家老二人道中せしとぞ。主人は陣羽織を着し、やなぐひをおひ、弓を持(もち)、具足櫃(ぐそくびつ)を負(おひ)て旅行す。家老は主人の着用の服一つ板二枚にてはさみ、並(ならび)に麻上下(あさかみしも)共に棒にくゝり付(つけ)、白米二三升負て供をする也。白米は二日道中の用也。江戶着の節(せつ)番頭へ屆(とどけ)れば、伊奈半左衞門殿より御番中の飯米はわたし給はる事也。いづれも着(ちやく)の日は、神田すぢかひの内に居小屋(ゐごや)有(あり)て落着(おちつき)、明日(みやうにち)交代して御番に出(いで)たるゆゑ、かしこをするがだいと云ならはしたるとぞ。
[やぶちゃん注:「臺德院殿」第二代将軍徳川秀忠の戒名の院号。
「神田すぢかひ」江戸城筋違見附跡(筋違門)附近。東北東直近が現在の駿河台(グーグル・マップ・データ)。
「するがだい」後の徳川家康の死後に、駿府の旗本を呼んで居住させたことから、この名がある。]
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