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2022/04/06

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「月光的文献」

 

[やぶちゃん注:今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。なお、この章、全く芥川龍之介への言及がなく、一見、無関係なパートのように見える。しかし、これは巧妙な確信犯であると私は思う。それは標題の「月光」である。芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」が公開された際、直ちに諸氏の間で問題となった謎の女性――月光の女――がいるからである。同作中の「十八 月」、「二十三 彼女」、「二十七 スパルタ式訓練」、「三十 雨」の四章に出現する。この謎の女性については、私は三十近くの芥川龍之介の記事でこの〈月光の女〉を考察しており、特にその中の一つを選ぶことは読者に特定の女性をイメージさせてしまう虞れがあるので、敢えて掲げないが、最終的には龍之介の〈月光の女〉とは、龍之介が恋愛感情を抱いた複数の女性たちのハイブリッドな象徴総称であると言ってよい(その女性の姓名を私は、最低でも絶対的確信性を持った四人を即座に挙げられる。妻の文さんを除いて、である)。犀星は恐らくその中の片山廣子(犀星は龍之介よりも先に軽井沢で廣子を直に親しく知っていた。但し、龍之介は、それよりもずっと以前の大学生の時、彼女の歌集「翡翠」(かはせみ)の好意的書評を『新思潮』に載せたことから、ごく軽い交流はあった。なお、私は廣子こそ芥川龍之介の最後の至上の愛の対象者であったことを確信はしている)を「月光の女」に比定しているとまず断言してもよかろうとは思う。ともかくも私が言いたいのは、犀星は――この標題に龍之介の〈月光の女〉を匂わせている――ことは確実だということである。]

 

    月光的文献

 

 一 喫煙と死

 

 每月十五日に我我は小さい會合を催した。そして殆ど終夜喫煙を擅《ほしいまま》にするのだつたが、これはパイプの會と名付けられてゐた。會員には資格はないが一本のパイプを携へることが條件だつた。薔薇の根でつくつたパイプさへ携(も)てば、そして會員の内の誰かの懇切な紹介さへあればいいのであつた。パイプの會であるから珍しい煙草を試煙することは言ふまでもないが、會員は既にマイ・ミクスチユアの濃厚な直ぐ舌の上に重い氣分を感じさせるのに飽いて、寧ろクレブン、ミクスチユアを常用する程になつてゐた。

[やぶちゃん注:総標題の「月光的文献」の「献」の字はママである。底本の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを参照されたい。

「マイ・ミクスチユア」「クレブン、ミクスチユア」煙草の銘柄のようである。前者は見つけたが、後者は不明。「コレブン」の後が読点なのはママ。「マイ」の後の中黒は普通より大き目である。孰れも底本を参照。]

 彼らは啻《ただ》に喫煙するばかりではなく、料理をも併せて註文する關係上、上野の或大きな西洋料理店の階上か、或はオオケストラの聞える階下の特別なボツクスを選ぶのだつた。ボツクスは奇體に急行列車のやうに駢《なら》んで、オオケストラの起ると同時に恰も疾走してゐる感じを持つてゐた。併乍らこれは大抵會員が酒に醉うてゐる爲に、さういふ感じを與へられるのかも知れなかつた。ともかく可成りハイカラな此會合には主として或同人雜誌の關係者が多かつた。大學生、大學助手、詩を書く男、小說家といふ順序だつた。彼らは酒飮むものがそれに心を傾けるやうに、喫煙によつてそれぞれの心を傾けてゐた。

 その晚は十五日のせゐか混んでゐて、我我會員の席が漸《や》つと取れたくらゐだつた。勿論音樂は夕方から引切りなしに續いて、街路の電車道では諸《もろもろ》の車が動いてゐたことは言ふまでもない、それが女達のゐる控部屋の鏡に映つて、この西洋料理店全體がメリイ・ゴオラウンドのやうに動いてゐた。先にも言つた樣に我我は醉うてゐたし音樂は夕方から歇《や》む間もなく續いてゐたし、それに我我は二時間以上も喫煙してゐたから、階上で客同士の喧嘩のあつたことも、すぐ屋後《をくご》の洗濯屋に小火《ぼや》のあつたことも知らなかつた。我我は我我同士のパイプの壺が段段に熱してくることや、醉と喫煙との過度からお互同士の顏が縱に長く伸びて見える事、舌の尖端に花火のやうな剌激のある痛みなどをそろそろ感じる頃であつた。我我のボツクスから勘定場のすぐ前の椅子に、我我に背後を見せてゐる一人の靑年が、酒場の方に向ひながら靜かに茶を喫《の》んでゐるのを見た。その後頭から頸、頸からの線が猫背になつてゐるところは我我に親しい誰かに似てゐた。併し我我はすぐ想ひ出せなかつた。我我同士はその誰かに肖《に》てゐるといふ考へを皆口に出しては云はずに、皆の氣持の中で感じ合うてゐた。

 夜が更けるとメリイ・ゴオラウンドのやうな料理店のボツクスの中では、六人の會員は音樂のまにまに映畫觀賞家の特異な或感覺に依つて、悲劇中の女主人公を物色するのであつた。彼女らは客の間を縫ひながら又引き返しては、注文書に料理の名前を書き入れる爲に鉛筆を走らせてゐた。

 常夜パイプの會員は十二時七分前までメリイ・ゴオラウンドに坐つてゐたから、都合夕方から六時間喫煙してゐた譯だつた。が、彼らの中の最年長者である籾山が顧みた時には酒場の鏡に向ひ背後を見せて坐ってゐた男は、とうにその姿を消してゐた。

[やぶちゃん注:「籾山」不詳。]

 

 二 月と歷史に就て

 

 千九百十二年六月下浣《げくわん》の月のある晚、自分は何の爲か塔の七階目から一度市街の燈火を眺め、更に十二階目から家根の上を見下ろしてゐた。曾て斯樣に彼は彼の住む都會を見下ろした經驗を持たなかつた。彼の視界はフイリスチアン、ロツプスの畫面と同樣な、奇異な蝙蝠の暗い翼の羽ばたく音を幾度となく耳に入れた。其他の光景は何の誇張もなくロツプスの神祕と惡戯との世界であつた。

[やぶちゃん注:「千九百十二年」明治四十五年。翌月末に明治天皇が崩御した。

「下浣」月の最後の十日間。下旬。

「塔」浅草の「十二階」。

「フイリスチアン、ロツプス」ベルギーの画家で、エッチングやアクアチント技法の版画家フェリシアン・ロップス(Félicien Rops 一八三三年~一八九八年)。エロチックな幻想的怪奇的作品がよく知られる。]

 暗い屋根裏に錢を算へる老婆や、女の裸の足を嚙る男の數珠つなぎになつてゐるのや、また八度目のお化粧を仕直す女、煙草を拾うて喫《の》む男が義眼を落した騷ぎや、小路の奧の下水に陷ち込んでそれきりで絕命したのや、其他樣樣の出米事が此千九百十二年代の公園を中心として起つたのである。つづめて云へば千九百十二年代の此公園はロツプスとゴヤとを捏《つ》き交ぜ、フツクスとモールの寫眞版の複製で一杯だつた。その證據には美しい池の水は夜は石油のやうな虹色をぎらつかせ、それに映るものは可憐な玉乘少女であつた。その可憐な少女を描くことは當時の新しい畫家の好題目だつたに違ひない、――自分ら千九百十二年代の詩人の多くは槪ね此癡情ある風景の中で擅に飮食し生長した。あらゆる惡德をも見遁さなかつた。最も美しい彼女らの中の一人が彼らの上に乘りかかり呶鳴るのであつた。

「ああ此文なしの畜生。」

 塔の上で自分らの發見した「思想」は、遂に神を呪はないところの正しい生活を慾望してゐた。痴情ある風景から田舍の新鮮を思惟するところと一般であつた。そして今日の自分は凡人の一賣文者であり、何れの惡德にも超然とするところの一紳士の假面をかむつてゐた。しかも今はその塔の上に再び登り彼の生活を俯仰することができなくなつたのである。千九百十二年代の病欝なる月光が再び我我の上に無いやうに、その公園すら昔日の「歷史」の中に編纂されるだけだつた。

[やぶちゃん注:「フツクス」オーストラリアの印象派の画家エマニュエル・フィリップ・フォックス(Emanuel Phillips Fox 一八六五年~一九一五年)。

「モール」不詳。音写に問題があるか。]

 

 三 月から分れたる者

 

 月から分れて出て來た男は、やはり同樣の女と冷たいアスパラガスの料理を食ベてゐたが、彼女の指はアスパラガスと同樣に白い冷たいものだつた。

 

 四 月光的詩人

 

 若し月光的詩人といふ言葉があれば、ボオドレエルやヴエルレエヌはより多き生彩ある月光的詩人であらう。ボオドレエルには病欝な黃ろい月光を、ヴエルレエヌには明鏡的な同時に詠嘆的な都會的古典趣味を各各感じるであらう。近代にはアポリネエルやコクトオや、或はポール・モオランの諸短篇にも各各月光的なる詩人の精神を閃かしてゐる。その外グウルモンにせよ、フランシス・ジアムにせよ、レニヱにせよ、新古典へ送り込まれた彼等の孰れも、月光的精神以外の詩人ではない。大摑みに云へば西歐の諸詩人は月か星かの匂ひを含まない詩は稀だと云つてよい。彼らは月光をも溶解して製られた舶來の石鹸のやうに、時に我我の心腸を洗滌して吳れると云つてよいのである。

[やぶちゃん注:フランスの外交官で作家のポール・モラン(Paul Morand 一八八八年~一九七六年)。短編集「夜ひらく」(Ouvert la nuit :一九二二 年)や「夜とざす」(Fermé la nuit :一九二三年)で、一躍、ベストセラー作家となった。]

 今の詩壇でこれらの詩人と比較して匂高い昨日の石嶮に數へらるべきものは、約言すればその月光的精神を生かしてゐるものは僅に詩集「月に吠える」の著者であつ萩原朔太郞氏であらう。大正五年代以前に萩原氏が既に「月に吠える」と稱する奇拔斬新の命題を撰んだことは、云ふまでもなく何等かの先覺的な使命を、當時にあつて上包《うはづつみ》を解かれざる新しい石鹸であつたことも實際であつた。當時新しがりの私でさえ此締りなき散文的な「月に吠える」を餘りによき命題だとは思はなかつた。寧ろ彼が斯樣《かやう》に新しがる程効果のない題意を窺に[やぶちゃん注:「竊に」(ひそかに)の誤字ではなかろうか。]萩原氏に傳へた程であつたが、彼は深く信據《しんきよ》するところがあつたのであらう、後になつても更めることがなかつた。

 萩原氏が月光的詩人であるとすれば、ボオドレエル型の黃ろく歪んだ屋根の上の月光とでも云つた方が適當であらう。明明皓皓の月光でない限り物凄い利鎌の如きものでもない。彼は病(やみ)しげで加之《しか》も片雲の間に漏れる黃ろい月光であると云つてよい。――併乍ら彼の詩の中で月光を唄ったものは殆ど稀だと云ってもよい程である。

 

  五 活動寫眞の月

 

 明治四十三、四年といふ年代に自分は東京に出て、初めて活動寫眞を見物したものであつた。當時にあつては歐洲諸國の文明開化をもつてすら未だ活動寫眞といふものは、人生の數奇多樣の生活を現すものではなく、奈何にして自然の美を會得せしむべきものであるかと云ふことに腐心してゐた。ロツキイ山脈や砂漠の映寫は、我我を生きたる寫眞として感激させたことは云ふまでもない、――二十數年後に「カリガリ博士」や又五年の後に「サルベエシヨン・ハンターズ」が表れるなどといふことは、殆ど當時に於て夢にさへ見られなかつたことだつた。

[やぶちゃん注:先行する「天上の梯子」の「十一 一本の映畫」の私の注を参照。次の段落の示すのもその文章である。]

 自分らは樂しい明治末期の活動小屋の中にゐて、奇異なる文字通りの活動寫眞を見物してゐたことを前以て述べた。しかも自分らはダンスといふものが西歐人の肢體によつて斯くも完全に、斯くも私どもの前に如實の如く踊り演じられることに、又なき好奇の眼を睜《みは》つたことは新しい喜びでもあり驚きでもあつた。當時は月光の中から瞬きしてゐる間に、數人の女が羅布《らふ/うすぎぬ》を纏ひながら、嫣然《えんぜん》[やぶちゃん注:美人が艶やかにほほ笑む様子。]として我我の面前で踊り續けるのであつた。彼らは月光から分れて出たもののやうに美しい長い手足を素早い動作によつて左右にヘシ曲げ、或は飛上つたりするのであつた。月ばかりではなく花束や或は星の群からも、手品師の扇からも、卓の上の煙草入れからも、舞うてゐる胡蝶や小鳥の籠や手帕《しゆはく》[やぶちゃん注:ハンカチーフ。]の皺からも、殆ど總《あら》ゆる物體の化身のやうに彼女らは舞ひ出てくるのだつた。しかも夫等《それら》の花や月から女が出る前には、必ず一人の奇怪な惡魔が、絕えず畫面の中を指揮し彷徨してゐるのだつた。

 當時自分は映寫中の一美人が嫣乎《につこり》と微笑する時、何となくきまり惡い思ひをし、そして何となく羞恥の情や赮面《かめん》[やぶちゃん注:赤面すること。]の面持をしたことは、强ち年少な好色にのみ耽つてゐた譯ではなく、餘りに我我の眼に近く物言ふごとく囁くごとく現れ踊つたからであつた。自分は永い間艶美で露骨な西洋人の微笑に惱まされてゐたのも、これらの映寫中の美人が物言ふごとく迫つてゐたからである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。]

 

 六 上田秋成

 

 上田秋成もまた月光的詩人であらう。

「淺茅が宿」や「靑頭巾」や「蛇性の婬」の物語には、軒漏る月かげでなければ、蔭をつくる物凄い月が射してゐる。或は彼らしく淸閑の月がほのかに照してゐる。西行も月の大家であるとしたら亦芭蕉も月の大家でなければならぬ。亦秋成も大家の外のものではない。彼の文章の中に何か仄かな月のあかりが漂ひ、不斷な「淺茅が宿」をあらはしてゐる。

      初    秋

 月あかき夜を誰かはめでざらん、ふん月望のこよひ、庵を出て、わづかに杖をひけば、鴨の河面なり、雨ふらぬほどなれば、月は流を尋ねやすむらん、音をしるべにとめくれば、むべも淸しとて、人々手にむすび、かいそうぶりなどして遊ぶ、風高く吹き、雲消え、影さやかにて、何をか思ふくまのあるべき、――(藤簍册子)

 十日あまりの月は峯にかくれて、木のくれやみのあやふきに、夢路にやすらふがごとし。(雨月物語)

 やよひの望の夜ごろ、かすみながらに、夕かけて月いと花やかにさしのぼりて、庭の梅が枝に先かかれる影の、花の色あらそふは、似て物もなくあはれ也。(つゝらふみ)

[やぶちゃん注:標題の「初秋」以降は底本ではポイント落ちであるが、同ポイントで示した。

「藤簍册子」は最後の「つゝらふみ」と同じ。これで「つづらぶみ」と読み、上田秋成著の歌文集。全六巻六冊。前三冊は享和二(一八〇二)年自序で文化二(一八〇五)年刊。後の三冊は文化三(一八〇六)年刊。和歌・紀行・文集から成る。歌は万葉調と古今調の中間的な作風で才気に溢れ、紀行・文集では流麗な雅文体によって、その文才を示している。歌人秋成の面目を窺うに足る作品集である。

「ふん月」陰暦七月の「文月」(ふみづき)の音変化。

「とめくれば」「尋(と)め來れば」。たずね求めて来たれば。

「かいそうぶり」歴史的仮名遣がおかしいが、「搔(か)添ふ振り」であろうか。「ぴったりと寄り添うような仕草をすること」のことである。]

 

 七 古い月

 

 芭蕉は月光の大家であるよりも、月の大家とあると言つた方が適當である。月光の新體詩人に冠すべきであるが、單にの大家であらう。しかも芭蕉の月の句は彼の英才を以てしても、大して新しくはない、と言っても決して古くはない。その句の殆ど總てに前書があり、偶吟といふよりも紀行や題意に叶うて詠じたものが多いやうである。「三日月や蕣《あさがほ》の夕べつぼむらん」旅中の吟「悌や姨《をば》ひとり泣く月の友」悼遠流天宥法印「其の玉を羽黑へかへせ法《のり》の月」燧山《ひうちやま》「義仲の寢覺の山か月悲し」稍《やや》晚年の作「秋もはやはらつく雨に月の形《なり》」等枚擧に暇がない。みな古風な、それ自身月の面影を持つてゐる。芭蕉は或は月の大家ではないかも知れぬ。彼はそれ以上の明明皓皓たる何者かであらう。或は蒼古二百年の古い月かも知れない。――

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。この条はいろいろと問題がある。

 まず冒頭の「芭蕉は月光の大家であるよりも、月の大家とあると言つた方が適當である」という部分で、非常に判り難い。私は、犀星は、

――芭蕉は「世間的に言うところの『風流の月の大家』と称すべき存在」なのではなく、「世間的に『月の大家』などと称されてしまっているところの不当な存在」と言うのが正しい――

という意味と採る。それは而して哲学的であって、最後の部分で、

――芭蕉はまさに時空間を突き抜けて「明明皓皓たる何者かであ」るところの「蒼古二百年の古い月」を、心象の中に『真の月存在』として確かにつらまえているところの、正に芭蕉自身が絶対的存在としての『月』的な存在であったのではないか?――

と言いたいのではないかと感じている。

「三日月や蕣《あさがほ》の夕べつぼむらん」「ウェッジ文庫」ではこの「蕣」に「むくげ」と読みを振ってしまっている。話にならない、大変な誤りである。

『悼遠流天宥法印「其の玉を羽黑へかへせ法《のり》の月」』私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 42 羽黒山 其玉や羽黑にかへす法(のり)の月』を参照されたいが、犀星が挙げているのは、「奥の細道」に採った句の異形である。]

 

 八 月光的感情に就て

 

 私は所謂月光派の詩人でもなければ、又特に古い月を詠むところの俳人でもない。併乍ら私の文學的生涯の過半には、いみじき月影は不斷に射してゐたに違ひないやうである。今も私の喜怒哀樂の夕には或は月光以上の明りが射し込んでゐる。私は今は西行のやうに月見れば悲しむといふ古への思想を輕蔑してゐるものに近いかも知れない。――日本に於ける總《あら》ゆる和歌や發句道の精神はこの月に事寄せて哀歡の情を述べたものであつたが、私は却てこの古き歷史と文學の背景とをもつところの月光に、直ちに情を述べる文學に贊成することができないやうである。萬葉集や元祿俳人の詩的精神、ボードレエルやヴエルレエヌの哀調を育て來たことを思へば、後代の月光も亦別樣な文學の榮光を生みつけるであらう。併し月に事寄せる文學は今のところ行き盡いてゐることも實際である。殆ど洗ひつくしたと云つてよい。

 高山樗牛が月夜の美感を書いたころは、今から二十年も昔であつた。空虛な文字ではあつたが當時にあつては私は愛讀したものであつた。彼には彼の熱情に依つて仄かに射すところの月光があつたことを私は記憶してゐる。德富蘆花や尾崎紅葉もまた月光的新派の一旗幟《きし》を持つてゐた。尾崎紅葉は何かしら一月十七日の月光を自分に印象させたことは、未だに可笑しい記億を殘してゐる。

[やぶちゃん注:「旗幟」「はっきりした態度・明確にした立場」の意。

「德富蘆花」ママ。蘆花は自ら姓は「德冨」という字体であることに拘った。

「尾崎紅葉は何かしら一月十七日の月光を自分に印象させたこと」「金色夜叉」の熱海の河岸のシークエンスは一月十七日である。]

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