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2022/04/17

「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」

 

[やぶちゃん注:今回から暫くは、今までのように、私個人が好きな話柄ではなく、近日、ブログ・カテゴリ「南方熊楠」で電子化注に入ろうとしている南方熊楠の「今昔物語の研究」で採り上げている話を電子化訳注することとする。参考底本を所持する岩波書店「新日本古典文学大系」第三十三巻「今昔物語集一」及び同「二」(今野達氏校注。孰れも一九九九年刊)としつつ、カタカナを平仮名にし、漢文調部分を概ね訓読し、読みの一部を本文に出し、さらに恣意的に漢字を正字化して示す。底本原拠の歴史的仮名遣の誤りは正した。読みは振れるものに限定する。さらに句読点・記号等を変更・追加し、会話部分等は改行した。なお、原文中に出る「𡀍」であるが、底本では(つくり)の下方にある「心」が(へん)の「口」の下まで伸びているこの字体(「グリフウィキ」)であるが、表示出来ないので「𡀍」とした。]

 

   羅漢の比丘(びく)、國王太子の死を敎へたる語(こと)第十二

 

 今は昔、天竺(てんぢく)に一つの小國有り。其の國(く)に、本(もと)より、神をのみ信じて、佛法を信ぜず。而(しか)る間、其の國の王、一人の皇子(わうじ)有り、亦、子、無し。國王、此れを愛する事、玉の如し。太子、十餘歲に成る程に、身に重き病ひを受けたり。醫療を以て治(ぢ)するにも、𡀍(い)ゆる事、無し。陰陽(をんやう)を以て祈ると云へども、驗(しる)し、無し。此れに依りて、父の王、晝夜に歎き悲しむで、年月(としつき)を送るに、彌(いよい)よ、太子の病ひ、增さりて、𡀍ゆる事、無し。

 國王、此れを思ひ繚(わづら)ひて、此の國に上古(しやうこ)從(よ)り崇め祭る神在(まし)ます。國王、其の所に詣(いた)りて、自(みづか)ら祈り請ふ。諸(もろもろ)の財寶を運びて、山に成し、馬・牛・羊等を谷に滿(み)て、

「太子の病ひを𡀍やし給へ。」

と申す。宮司・巫(かむなぎ)、恣(ほしいまま)に取り、心に任せて、萬(よろづ)に飽き滿ちぬ。此に依りて、爲(す)べき方、無きまゝに、一人の神主、御神、付きて、出で來たりて、示して云はく、

「御子(みこ)の御病(みやまひ)は、國王還らせ給はむまゝに、平𡀍し給ひなむとす。國を持(たも)たせ給て、民も安く、世も平かに、天下・國内、皆、喜びを成すべし。」

と。國王、此を聞きて、喜び給ふ事、限り無し。感に堪へずして、着(は)ける所の太刀を解きて、神主に給ひて、增〻(ますま)す、財を與へ給ふ。

 此くの如くし畢(をは)りて、宮に還り給ふに、途中にして、一人の比丘に値(あ)ひ給ひぬ。國王、比丘を見て、

「彼(か)れは何人(なにびと)ぞ。形も人に似ず、衣も人に違(たが)へり。」

と問ひ給へば、人、有りて、申す、

「此れは沙門となむ申す、佛の御弟子(みでし)也。頭(かしら)を剃れる者也。」

と。國王の宣(のたま)はく、

「然らば、此の人、定めて、物知りたらむ。」

とて、輿(みこし)を留(とど)めて、

「彼(か)の沙門、此(こ)こへ召せ。」

と宣へば、召しに依りて、沙門、參りて立てり。國王、沙門に宣はく、

「我が一人の太子有り。月來(つきごろ)、身に病ひ有りて、醫(くすし)の力にも叶はず、祈りも驗し、無し。生き死に、未だ、定まらず。此の事、何(いか)に。」

と。沙門、答へて云はく、

「御子、必ず死に給ひなむとす。助け給はむに、力、及ばず。此れ、天皇(てんわう)の御靈(ごりやう)の所爲(しよゐ)也。宮に還らせ給はむを、待ち付くべからず。」

と。國王、

『二人の云ふ事、不同也。誰(た)が云ふ事、實(まこと)ならむ。』

と、知り難くて、

「神主は『病ひ、𡀍え給ひなむ。命、百歲に餘るべし。』と云ひつるを、此の沙門は、かく云ふを、何れにか、付くべき。」

と宣へば、沙門の申さく、

「其れは、片時(へんし)、御心(みこころ)を息(やす)め奉らむが爲に、知らぬ事を申す也。世の人の物思はぬが云はむ事を、何(いかで)か捕へ仰せ給ふ。」

と申し切りつ。

 宮に還りて、先づ、怱(いそ)ぎ問ひ給へば、

「昨日、太子は、既に失(う)せ給ひき。」

と申す。國王、

「努〻(ゆめゆめ)、人に、此の事を、知らしむべからず。」

と宣ひて、神付きたりし神主を召しに遣(つかは)しつ。二日許り有りて、神主、參れり。仰せて云く、

「此の御子の御病ひ、未だ𡀍えず畢りぬ。何(いか)が有るべき、不審にて召しつる也。」

と。神主、亦、御神付て、示して云はく、

「何(いか)に我をば疑ふぞ。『一切衆生(いつさいしゆじやう)を羽含(はぐく)み哀れむで、其の憂へを背(そむ)かじ。』と誓ふ事、父母(ぶも)の如し。況むや、國の王の苦(ねむごろ)に宣はむ事、愚かに思ふべからず。我れ、虛言(そらごと)を成すべからず。若(も)し、虛言せらば、我を崇(あが)むべからず。我が巫(かむなぎ)を貴(たふと)ぶべからず。」

と、此(か)くの如く、口に任せて、云ふ。

 國王、善〻(よくよ)く聞きて後(のち)、神主を捕へて、仰せて云はく、

「汝等、年來(としごろ)、人を謀(あざむ)き、世を計りて、人の財(たから)を恣に取り、虛神(そらかみ)を付けて、國王より始めて、民に至るまで、心をも、とろかし、人の物を計り取る。此れ、大きなる盜人(ぬすびと)也。速かに其の頸を切り、命を絕(た)つべし。」

と宣ひて、目の前に、神主の頸を切らせつ。亦、軍(いくさ)を遣して、神の社を壞(こほ)ちて、□河と云ふ大河に流しつ。其の宮司、上下、多くの人の頸を、切り捨てつ。年來、人の物を計り取りたる千萬の貯へ、皆、亡(ほろぼ)し取りつ。

 其の後、彼(か)の沙門を召すべき仰せ有りて、參りぬ。國王、自ら出で向かひて、宮の内に請じ入れ、高き床(ゆか)に居(す)ゑて、禮拜して宣ふ樣(やう)、

「我れ、年來、此の神人共(じんにんども)に計られて、佛法を知らず、比丘を敬(うやま)はず。然(さ)れば、今日より、永く、人の藉(かり)なる言を、信ぜじ。」

と。比丘、爲に法を說きて聞かしむ。國王より始めて、此れを聞きて、貴み、禮(をが)む事、限り無し。忽ちに其の所に寺を造り、塔を起てゝ、此の比丘を居(す)ゑたり。多くの比丘を居ゑて、常に供養す。

 但し、其の寺に一つの不思議なむ有る。佛の御上に天蓋(てんがい)有り、微妙(みめう)の寶を以て莊嚴(しやうごん)せり。極めて大きなる、天上に懸けたる天蓋の、人、寺に入りて、佛を匝(めぐ)り奉れば、人に隨ひて天蓋も匝る。人、匝り止めば、天蓋も、匝り止みぬ。其の事、今に、世の人、心を得ず。

「佛の御不思議の力にや有るらむ。亦、工(たくみ)の目出たき風流(ふりう)の至す所にや有るらむ。」

とぞ、人云ふなる。其の國王の時より、其の國に、巫(かむなぎ)、絕えにけり、となむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注(注には底本を参考にした)

「羅漢」サンスクリット語の「悟りを得、人々の尊敬と供養を受ける資格を備えた人」を指す「アルハット」の音写「阿羅漢」の略称。「応供」(おうぐ)とも呼ぶ。煩悩を総て断ち去って最高の境地に達した人。狭義には「小乗の悟りを得た最高の聖者」を指し、その修行段階を「阿羅漢向」、到達した境を「阿羅漢果」と称する。小乗仏教では仏弟子の最高位とされるが、大乗仏教では衆生の救済を目ざす菩薩(如来になるための修行中の存在)の下に配される(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「天竺に一つの小國有り」今野氏は、『西域記に達磨悉鉄帝国の首都昏駄多城とする。同書にトカラ族の故地とするが所在不明。アフガニスタン北部、あるいはそれに隣接する西天竺の辺国か。』とされる。個人サイト「三蔵法師~苦難の西域への旅」の『三十七、「達磨悉鉄帝(ダルマステイテイ)国、尸棄尼(シグニ)国、商弥(シャミ)国など」』に、『達磨悉鉄帝(ダルマステイテイ)国は二つの山間にあり、ヴァクュ(縛芻)河に臨んでいました』。『形が小さくでも健(すこ)やかな善馬を産します』。『風俗は礼儀を知らず』、『性凶暴(きょうぼう)で、形も醜悪で、目は碧緑色(へきりょくしょく)の人が多く、他の諸国とは違っていたのでした』。『伽藍は十余か所にあり、その国都は昏駄多(カンダータ)城にあるのでした』。『城内には先王の建てた伽藍があり、その中に石の仏像があるのですが、不思議なことに、上に雑宝で飾った金銅の円蓋(えんがい)があって、自然に空中に浮かんで仏像の上にかかっています』。『もし人が、礼拝して像の周りを回ると円蓋もともにまわり、人が止まると円蓋も止まり、その霊妙なことは測(はかる)ることができないのでした。』とある。また、個人サイト「聞其名号~PARTⅢ」の「玄奘の旅」の中の「パミール諸国」の注では、『【ダルマスティティ国】達磨悉鉄帝国。また護密と名づける。法の位置の意。恐らくヌリスタン山脈の北端を越えてゼバク経由イシュカシムに達したのであろう。都城カンダータはイシュカシム、今日もカンドゥドと呼ばれるという。ダルマスティティの名の由来はワハン渓谷の南部がダルママスツージと呼ばれ、それが地域名になったという。』とあった。調べてみると、アフガニスタンの東北にタジキスタンに突き出た国境近くのここに「カンドゥド」はあった。奥深い山岳地であるが、川の畔りである。

「陰陽(をんやう)」位置的にはイスラム教やゾロアスター教辺りが想定されるが、或いは、もっと山岳部の局地的な既に失われた原始信仰ででもあるのかも知れない。本邦の読者に判り易いように中国の道教のそれを転用したものであろう。今野氏もそのように解され、『ここでは病気平癒を祈願する呪的宗教側面を利用したもの』と記されておられる。

「谷に滿(み)て」難解な箇所である。私は「谷」から、その神として、老荘思想の「谷神」(こくしん)、則ち、無為自然の核心にある原母(グレート・マザー)的な玄牝(げんぴん)を想起したが、今野氏は『直訳すれば、谷に満たしての意となるが、前出の「山ニ成シ」の対句で、無数の馬・牛・羊等の供犠、つまりいけにえとして供えた意。』とされる。確かに、その方が躓かない。訳でもそのようにした。

「巫(かむなぎ)」ここはシャーマン。男女を問わない。悪のバイプレーヤーとしての「一人の神主」も無論、そうした中の一人で神官の位を得ている者である。寧ろ、こやつは、後から、計略を巡らし、私腹を肥やし、しかも王の信頼厚く、故に王室の内部まで、惡どく深く食い込んでいることが明らかになることから、特定の歴代神官を務めてきた豪族の男性のそれと考えるべきであろう。謂わば、「巫女」ではなく「巫覡(ふげき)」ということである。しかも、後の逆切れの謂いから、多くの巫(かんなぎ)連中も、皆、彼の子飼いなのであろう。

「國王還らせ給はむまゝに、平𡀍し給ひなむとす」この場合、この神を祀る場所から宮城へお戻りになると、直(じき)に平癒すると述べていることが判り、有意に宮城からは離れた位置にあり、二日以上かかる場所にあることが、王子死亡の知らせから、判る。

「沙門」言わずもがな、世俗を遁れた仏教に修行僧を指す一般名詞。

「御子、必ず死に給ひなむとす。助け給はむに、力、及ばず。」症状を聴くシーンがカットされているか。本人を見るわけでも、病態を問うこともせずに、かく言っているならば、一種のハッタリのように読めるが、「宮に還らせ給はむを、待ち付くべからず」とまで言い切っているのであれば、王子の様態は伝えられたととるべきであろう。また、この謂いを仏教の無常観に基づいて、この沙門がそれを中・長期的に語っているとならば、悪意の有無は別として、しかも人間に当然やってくるところの「死」の到来の、予言者の常套的やり口ではある。但し、そこで若き王子の病いの原因を、「天皇(てんわう)の御靈(ごりやう)の所爲(しよゐ)」と個別的に断定している点では、かなりアクロバティクな部分がある。この謂い方は、現在、目の前にいる王の父或いは先代の王の御霊(ごりょう)、則ち、「亡き先王の遺恨に基づく」と、当時の読者は読んだはずである。但し、今野氏によれば、『西域記の「王先霊」によれば、国王の前生の霊の意となる。』とある。すると、この沙門はこの国に行脚に入った際、或いはその周辺国にあった時に、この国の先代王と現在の王のよからぬ紛争或いは事件を知り得ていたのかも知れない。しかし、よく考えると、これを、「王さま、あなたの中の御霊(みたま)の成すところの因果によって王子は死の病いを遁れらぬのです。」と語っているのだという意味に、この沙門の言葉の真意とることは、必ずしも、難しいことではない。寧ろ、因果応報の輪廻思想を語り出したら、一時では伝えることは修行僧の身では無理であるからして、それなりの知識から病態が重篤であることを、感じ取った沙門が、王子の死という最悪の事態の到来をごく近いと認識して、かく意味深長に述べたとすれば、私はそれなりに腑に落ちはするのである。

「不同也」特に和訓が振られていないので、「不同(ふどう)なり」と読む。言わずもがなだが、「二人」とは、「一人の神主」と、この沙門と、である。

「何(いかで)か捕へ仰せ給ふ」この「捕へ」は現行の「捉える」と同義である。王子の助かることを望んでいる王自身が、軽薄な一神主のおべんちゃらを、希望的に安易に捉えて安心していることに対して、強く批難しているのである。

「二日許り有りて、神主、參れり」この神官が宮城の近くには住んでいなかったとは思われず、或いは、王はわざと「都合のいい時に来ればよい」と伝えて、神官が疑心暗鬼を起こして何かの探りや準備や逃走などを起こさないように、わざと使者に言わしめたのであろう。

「努〻(ゆめゆめ)、人に、此の事を、知しむべからず。」この王の禁制は、専ら、神主の神託の噓を暴き糺すためのそれである。

「未だ𡀍えず畢りぬ」未だに平癒しないままである。「畢りぬ」は現在進行形で「ある状態がそのまま続いてしまっている」の意。王は敢えて死を隠して、どう答えるかを探ろうとしているのである。

「一切衆生(いつさいしゆじやう)を羽含(はぐく)み哀れむで、其の憂へを背(そむ)かじ。」仏教説話として、異教徒の神官の言葉を判り易く変換したものだが、その不遜なわめきが、寧ろ、王子の死を感知出来ていない似非者であることを暴く致命的に救い難いシークエンスとして見事に描かれている。なお、言わずもがなであるが、これは「と誓ふ事、父母(ぶも)の如し」とあるからには、これはその現在の王に対する、絶対誓約ではなく、その異教国の神に対するそれである点で、第三者である読者は、既にして救う余地のない売僧(まいす)としか思えないように、この台詞が決定的に示されているところがツボと言える。

「苦(ねむごろ)に」「苦」には「苦学」「苦心」のように「努める・骨を折る」、や「苦求」のように、「普通でなく・甚だ・ひどく・極度に」の意がある。

「□河」「今昔物語集」でしばしば出現する、その場で漢字を忘れたので後に漢字を書き入れるために空けた意識的欠字とするが、私は諸本で注されるこの文句がやや不審である。時には何かを憚って欠字にしたと考えられるものもあるからである。例えば、本篇でも国名をわざと隠してあるのであるから、河川名をちゃんと書くこと自体が、天竺のどこかというボカした設定と矛盾するから、わざと欠字とした方が遙かに納得出来るからである。なお、今野氏によれば、「西域記」では、『縛芻河』とあるとする。この川、調べてみると、ギリシア語文献で「オクソス」と呼ばれている川で、アフガニスタンとタジキスタンの国境を流れる現在のアムダリヤ川(グーグル・マップ・データ)に比定されている。昏駄多城の五〇キロ以上西方であるが、頗る腑に落ちるものである。

「藉(かり)なる」「藉口」(しゃこう)という熟語があり、「何かにかこつけて言うこと・適当に口実を作って言いわけすること」の意がある。

 

□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)

 

   羅漢の僧、国王の太子の死を教えた事第十二

 

 今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、遠い天竺に、一つの小さな国があった。

 その国は、もとより、異神をのみ信じて、仏法を信じていなかった。

 さても、そのような中、その国の王に一人の王子(おうじ)があり、また、他には子はなかった。

 さればこそ、国王はこの王子を愛すること、宝玉を愛するようであった。

 ところが、この王子、十歳あまりになった頃、身に甚だ重い病いを患った。

 医師たちの療治を以ってするも、一向に癒ゆるようすがなかった。

 呪術師に命じて処方の秘術を行ってはみたが、やはり、験(しる)しは、ない。

 そのため、父の王は、一日中、嘆き悲しんで、年月(としつき)を送ったのだが、しかし、王子の病いは、いよいよ、増すばかりで、癒ゆる気配は、微塵もなかった。

 国王は、このことを深く思いわずらって、この国に、上古(じょうこ)より崇め祭ってきている古き神がましせばこそ、国王、その神のましますという所に詣(まい)って、自(みずか)ら祈請をなされた。その折りには諸々の財宝を運び、山のように積み上げ、馬や牛や羊などを、生贄として谷に一杯に満たし、

「王子の病いを速やかに癒やし給え。」

と申し上げた。

 宮司や巫(かんなぎ)連中は、その生贄を恣(ほしいまま)に取り、思うままに飲食や供物を、堂々と、自分の腹や隠しの中に収め、まさに飽きるほどに満足していた。

 さても、かくまでして、最早、することがなくなったと思うと、一人の神官に神さまが憑(つ)いて、王の前に出で来たって、啓示して言うことには、

「……御子(みこ)の御病(おんやまい)は……国王が宮城へお還りなされたその折り……まさに平癒し給はんとする……国を平和に保たせなさって……民も平安にして……世も平静となり……この天下と我らが国の内(うち)……どこもかしこも総て皆……喜びをなすであろう……」

と。

 国王はこれを聞いて、喜びなさること、限りなく、感に堪えず、腰に佩(は)いていたところの重宝の太刀を、帯を解いて、その神官に賜い、さらに褒美の金品を加えてお与えになられた。

 かくのごとく、滞りなく祭祀は終わって、宮城にお還りになる、その途中で、一人の仏僧とすれ違われた。

 国王は、僧を見て、

「あの者は何者であるか? 容貌も普通の我らと似ておらず、衣服も常人と違うが。」

と問われたので、お側にあった者が申し上げた。

「これは『沙門(しゃもん)』と申します者にて、仏教の仏陀の御弟子(みでし)で御座います。頭(かしら)を剃って『出家』した者に御座います。」

と。

 国王が仰せられるには、

「然(しか)らば、この人は、きっといろいろと物を知っておるであろうな。」

とて、輿(こし)を止めさせて、

「かの沙門をここへ召せ。」

と仰せになられたので、その召しによって、沙門は、王の前に参って立った。

 国王が沙門に仰せらるるには、

「私には一人の王子がある。長い月日、身に病いがあって、医師の力もまるで及ばず、我らが神へ祈っても、その験(しるし)、これ、全く、ない。その生き死に、未だ、定まらぬ有様である。このこと、そちは如何に思うか?」

と。

 沙門は答えて言うに、

「御子(みこ)は、必ず、死になさるに違いないと存ずる。お助け申し上げるには、我らの力は、及ばぬもの。それは、これ、国王御自身に纏わる御霊(ごりょう)の結果なればこそに御座いまする。宮城にお還りなさるる、その間も、御子の死は、待ってはくれませぬ。」

と。

 国王は、

『神官と沙門と、二人の言うことは、全く違うではないか。誰の言うことが、真実なのだ?』

と、知り難く思われて、

「神官は『病いは治癒なされましょう。御子の命は百歳を超えることで御座いましょう。』と言ったに、この沙門は、かく言ったのだが、一体、孰れを信ずるべきか?」

と仰せられたので、それを聴いた沙門が申し上げることには、

「それは、僅かに、ちょっと御心(みこころ)を安らかにし申し上げようとの思いつきで、自らも判っていない、真意の微塵もないことを申したに過ぎませぬ。世の中の凡人の、何のまことの分別も持ち合わせていない者が言うようなことを、どうしてそのように意固地に都合よく信じようとなされるのですか?」

と、きっぱりと断言した。

 さて、王は宮に還り着いた。

 真っ先に、急ぎ問い糺されたところ、何んと、

「昨日、王子は、既にお亡くなりになられまして御座います。」

と上奏されたのであった。

 すると、国王は、

「ゆめゆめ、他の誰にも、この事を、知らせてはならぬ!」

と仰せられて、先般、神憑きを起こした神官を召すために使者を遣わした。

 二日ばかりあって、神官が参上した。

 国王は、仰せられて言うに、

「我が王子の病い、未だに快方に向かわぬ状態にある。一体、どういうことなのか? 頗る不審なるによって召したのだ。」

と。

 すると、神官に、再び、神が憑いて、啓示して言うことには、

「どうしてお前は私を、かくも疑うのか?! 私は『一切の人々を育み、憐れんで、その憂えを解き放つこと、これ、背(そむ)くまいぞ!』と誓うこと、これ、父母(ふぼ)に誓うのと同じじゃ! 況んや、国の王の、心を込めて願わるることなればこそ、愚かに思うことなど ない! 我れ、虚言(きょげん)をなすことなど、ない! もし、虚言したと言うなら、正しき我れを崇(あが)めるべきではなかろうぞッツ! 我れの正しき巫(かんなぎ)らをも貴(とうと)ぶべきであるまいぞッツ!」

と、かくのごとく、言いたい放題、言い放った。

 国王は、それを、よくよく聞いた後(のち)、有無を言わせず、神官を捕えて、仰せになることに、

「汝ら、年来(としごろ)、人を欺(あざむ)き、世界に謀略をなし、人々の蓄財を恣(ほしいまま)に搾取し、偽物の神を以って『憑依した』と噓をつき、国王を始めとして、人民に至るまで、その誠実な心をも、惑わし、人の持ち物を不法に騙し取っているではないか! こやつは、巨悪に盗人(ぬすびと)に他ならぬ! 速かに、その首を斬り、命を断つべきものだッツ!」

と仰せられて、目の前で、神官の首を刎(は)ねさせた。

 また、軍隊を遣(つかわ)して、神の社(やしろ)を突き壊して、□河という大河にそれを流した。

 そればかりではない。その宮司や、神官の身分の高いものから、低い者まで総て、多くの人の首を、刎ねて野に捨て去った。

 年来(としごろ)、人の物を謀(たばか)り盗(と)ったところの千万の貯えも、総て、没収した。

 その後(のち)、

「かの沙門を召せ。」

という仰せがあって、沙門が参った。

 国王は、自(みづか)ら出でて迎え、王宮の内に請(しょう)じ入れ、高床(たかゆか)にしつらえてある場所に座らせ、礼拝(らいはい)して仰せになったことには、

「我れ、年来(としごろ)、この神官や神人(じにん)どもに謀(はか)られて、仏法の何たるかを知らず、また僧を敬(うやま)うことをせなんだ。されば、今日(きょう)より、永く、人の愚かな言葉を信ずるまいぞ。」

と。

 僧は、それを聴くと、王と王国と、ひいては人民のために、法を説きて聴聞させた。

 国王を始めとして王宮の人々や人民は、皆、これを聞いて、貴(とうと)み、拝んだことは、これ言うまでもない。

 即座に、その王城の一郭(いっかく)に寺を造り、塔を起てて、この僧を住まわせた。そこにまた、多くの僧を招いて、常に供養を怠らなかった。

 但し、その寺には、一つの不思議があるのである。

 主尊の仏像の御上(みうえ)に、天蓋があって、美しく輝く金銀宝石を以って荘厳(しょうごん)してある。極めて大きな、その天上に懸けてある天蓋の下、人が寺に入って、仏像を巡(めぐ)り奉れば、その人の巡るに随って、天蓋も、また巡るのである。人が、巡る歩みをやめれば、天蓋も、また、巡りが、やむのである。そのことについては、今に至るまで、世の人、何故そうした不思議が起こるのか判らぬのである。

「仏(ほとけ)の御不思議の力によるものであろうか。或いはまた、その天蓋を拵えた内匠(たくみ)のありがたい仕掛け物によるものであろうか。」

と、人は言うているということである。

 その国王の時より以降、その国では、巫(かんなぎ)が絶えたと、かく語り伝えているということである。

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