譚海 卷之四 下野相馬領妙見菩薩祭禮の事
○相馬家妙見(めうけん)菩薩信仰にて、其國に祠る所の大社有、妙見の眷屬なりとて馬をとる事をせず。さる間(あひだ)相馬には別(べつし)て野馬(やば)多く、田畑の害をなす事ゆゑ、每年三月廿六日妙見の祭禮とて諸士甲冑(かつちう)を帶し、隊をわけ軍陣のよそほひして、野馬を狩(かり)て山中に追(おひ)やる也。是を野馬追(のまお)ひの祭禮とて、他國になき嚴重なる儀也。又正月三日の間は、妙見菩薩の爲に潔齋精進也。四日より肉をくふ事をする也。元日は諸人みな水をあびてものいみするなり。三日迄にはのしあはびをみても、けがれたりとて水をあびつゝしむなりとぞ。
[やぶちゃん注:「相馬家」初代は鎌倉初期の武将千葉常胤の次男相馬師常で、師常が父から相馬郡相馬御厨(現在の千葉県北西部の松戸から我孫子の一帯)を相続されたことに始まるが、相馬氏は後に幾流にも分派した。その内、ここに出る、現在の福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる相馬中村神社・相馬太田神社・相馬小高神社(グーグル・マップ・データ。巨視的な三社の位置関係は「相馬馬追」公式サイトはこちらの右のパネルで判る)の三つの妙見社の祭礼である軍事訓練を模した神事「相馬野馬追(そうまのまおい)」は、その内の陸奥(中村)相馬氏によって守られてきた神事である。ウィキの「相馬氏」によれば、『陸奥相馬氏(中村相馬氏)は、遠祖・千葉氏が源頼朝から奥州の小高に領地を受けた後、千葉氏族・相馬重胤が移り住み、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州において、数少ない北朝方の一族として活躍した。南北朝の争乱が収まると』、『やや衰退し、室町時代後期には争っていた標葉』(しべは/しねは/しめは)『氏を滅ぼしたものの、それでも戦国時代初期には行方』(なめかた)『・標葉・宇多の』三『郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった』。『しかし武勇に秀でた当主が続き、現在の米沢や宮城県を領する伊達氏や、現在の茨城県北部を領する佐竹氏に対しても一歩も引かなかった。伊達氏とは小高と中村の双方に目を配らせて』三十『回以上におよぶ戦闘を重ね、たびたび苦杯を舐めさせている。やがて伊達政宗が現われ、南奥州の諸大名が政宗の軍門に降った時も、相馬義胤は敗れたとはいえ』、『独立を維持し、伊達氏と戦う意地を見せ』、天正一八(一五九〇)年、『豊臣秀吉の小田原征伐に際し』、『豊臣方について本領を安堵され』、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では、『縁戚の佐竹氏と共に中立』の立場をとったが、『豊臣政権時代に西軍・石田三成と親密であった佐竹義宣の弟・岩城貞隆と婚姻を結ぶなどしていたため』、『西軍寄りとみなされ、徳川家康によって改易された。しかし』、『相馬利胤は幕閣に取り入ることで本領を安堵され、近世大名(中村藩主)として生き抜くことに成功した。対照的に常陸を追放され秋田に転封された佐竹氏とは、その後も養子を送りあうなど親密な関係を維持した。結果として、陸奥相馬氏は現在の浜通り夜ノ森以北を鎌倉開府から戊辰戦争終結に至る』七百四十『年もの長期にわたって統治した』。『中村相馬氏の戦国大名としての意地を思わせる相馬野馬追が現在でも行なわれ、後世に相馬氏の勇壮さを示しているが、一説にはこれが』「繋ぎ馬紋」の『原型になったともいう』(ここには「用出典要請」がかけられてある)。この「繋ぎ馬紋」は『今日でも築土神社や神田明神など、平将門を祀る諸社で社殿の装飾などに用いられている』。『毎年、旧相馬中村藩領で行われる相馬野馬追では藩主であった相馬氏の当主が総大将の役を務めると決まっている。しかし、近年』(二〇一五年現在)『は当主の名代として当主の子が務めることが多い』。『旧相馬中村藩領は』二〇一一年の『東日本大震災で打撃を受けた上、その一部に建つ福島第一原子力発電所の事故によって小高以南が立入禁止区域となった。これに伴い、旧藩主家とその一族は一時』、『北海道へ移った後』、後代になって『広島県東部にある神石高原町へ集団移住し』ている。『相馬家の遠祖は平将門とする伝承があるが、相馬野馬追の領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている』とある。ウィキの「相馬野馬追」によれば、『鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練が一切取り締まられたが、この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた。公的行事としての傾向が強くなったのは、江戸時代の相馬忠胤による軍制改革と、相馬昌胤による祭典化以降と考えられる』。明治元(一八六八)年の『戊辰戦争で中村藩が明治政府に敗北して廃藩置県により消滅すると』、明治五年には『旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り』、明治十一『年には内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である』。『相馬氏は将門の伝統を継承し、捕えた馬を神への捧げ物として、相馬氏の守護神である「妙見大菩薩」に奉納した』。『これが現在「野馬懸」に継承されている。この祭の時に流れる民謡』「相馬流れ山」は、『中村相馬氏の祖である相馬重胤が住んでいた下総国葛飾郡流山郷』『(現在の千葉県流山市)に因んでいる』。『騎馬武者を』五百『余騎を集める行事は現在国内で唯一である。馬は一部の旧中村藩士族の農家、相馬中村神社や野馬追参加者により飼育されてはいるが、多くは関東圏からのレンタルによって集められている。で、今年の開催日程は「相馬馬追」公式サイトのこちら(PDF)。なお、現在(令和二(二〇二〇)年三月十日時点)の福島県の帰宅困難地域(立ち入り禁止区域)はこちら(福島県庁版)。
「妙見菩薩信仰」ウィキの「妙見菩薩」によれば、『妙見信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである』。『妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら』、『実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されている』。『道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになったと考えられる』。『「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである』。『妙見信仰は中国の南北朝時代には既にあったと考えられているが、当時からの仏像は未だに確認されていない』。『妙見を説く最古の経典は』、「七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経」(三一七~四二〇年成立:西晋から五胡十六国期)であり、そこ『では、妙見菩薩の神呪を唱えることで国家護持の利益を得られるとされている』。『唐代に入ると』、『妙見信仰が大きく発展し、妙見関連の経典や行法が流布した。円仁の旅行記』「入唐求法巡礼行記」『から、当時の中国では妙見信仰が盛んであったことが窺える』。『妙見信仰が日本へ伝わったのは』七『世紀(飛鳥時代)のことで、高句麗・百済出身の渡来人によってもたらされたものと考えられる。当初は渡来人の多い関西以西の信仰であったが、渡来人が朝廷の政策により』、『東国に移住させられた影響で東日本にも広まった。正倉院文書』(天平勝宝四(七五二)年頃)『に仏像彩色料として「妙見菩薩一躰並彩色」の記事』が見え、また「続日本紀」(延暦一六(七九七)年完成)の巻三十四には『上野国群馬郡(現・群馬県高崎市)にある妙見寺に関する記載がある』。『北斗七星の内にある破軍星(はぐんせい)』『にまつわる信仰の影響で、妙見菩薩は軍神として崇敬されるようになった』。また、密教経典の「仏説北斗七星延命経」(唐代の成立)では、『破軍星が薬師如来と同一視されたことから』、『妙見菩薩は薬師如来の化身とみなされた』、『なお、薬師如来のほか』、『本地仏に十一面観音』『あるいは釈迦如来』『を当てる例もある』。『千葉氏が使用した九曜紋の中央の星が北極星(妙見菩薩)を表すという説』もある。『中世においては、鷲頭氏、大内氏、千葉氏や九戸氏が妙見菩薩を一族の守り神としていた。千葉氏は特に妙見信仰と平将門伝承を取り込み、妙見菩薩を氏神とすることで一族の結束を図った』ことから、『千葉氏の所領であった地域に』は『必ずと』言っていいほどに『妙見由来の寺社が見られる。千葉氏の氏神とされる千葉妙見宮(現在の千葉神社)は源頼朝から崇拝を受けたほか、日蓮も重んじた。また、千葉氏が日蓮宗の中山門流の檀越であった関係で妙見菩薩は日蓮宗寺院に祀られることが多い』。『中世初期に中国から伝来し』、『陰陽道に取り入れられた「太上神仙鎮宅七十二霊符」(「太上秘法鎮宅霊符」とも)と呼ばれる』七十二『種の護符を司る鎮宅霊符神(道教の真武大帝に比定)とも習合された。大阪府にある小松神社(星田妙見宮)では元治元』(一八六五)『年の鎮宅霊符の版木が伝わっており、現在もこの霊符が配布されている』。『妙見信仰の聖地として有名な能勢妙見山(同府豊能郡能勢町)でも鎮宅霊符神と妙見菩薩が同一視されている』。『以上に加えて、地域によっては水神、鉱物神・馬の神としても信仰された。能勢がキリシタン大名の高山右近の領地であったことと、キリシタンの多い土地に日蓮宗の僧侶が送り込まれたことから、隠れキリシタンは日蓮宗系の妙見菩薩像(いわゆる能勢妙見)を天帝(デウス)に見立てたともみられている』。『平田篤胤の復古神道においては』、記紀に『登場する天之御中主神は天地万物を司る最高位の神、または北斗七星の神と位置づけられた。その影響で、明治維新の際の神仏分離令によって「菩薩」を公然と祀れなくなってしまった多くの妙見神社の祭神が天之御中主神』(あめのみなかぬしのかみ)『に改められた』。上記三社にあった妙見菩薩像は、そのおぞましき神仏分離令により、相馬中村神社のものは福島県相馬市の歓喜寺(真言宗)に、相馬小高神社のそれは南相馬市の金性(きんしょう)寺(真言宗)に、相馬太田神社のそれは相馬市の医徳寺(真言宗)へそれぞれ移されてしまった。]