「今昔物語集」卷第四「天竺人於海中値惡龍人依比丘敎免害語第十三」
[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]
天竺の人、海中にて惡龍(あくりう)に値(あ)へる人、比丘の敎へにより、害を免れる語(こと)第十三
今は昔、天竺の人は、道を行く時は、必ず、比丘を具(ぐ)す。守(まぼ)り有るが故也。
昔、一人の人、有り。商ひの爲に、船に乘りて、海に出でぬ。惡風、俄かに出で來て、船を海の底へ卷き入る。其の時に、梶取(かぢとり)有りて、船の下を見れば、一人の優婆塞(うばそく)有り。梶取の云はく、
「汝は、此れ、何人(なにびと)ぞ。」
と。優婆塞、答へて云はく、
「我は、此れ、龍王也。『汝が船を海底に卷き入れむ』と思ふ。」
と云へり。梶取の云はく、
「何の故有りてか、汝、我等を忽ちに殺さむと爲(す)る。」
と。龍王の云はく、
「汝が船に具したる比丘は、前生(ぜんしやう)に、我れ、人と有りし時、我が家に有りし比丘也。朝暮(あしたゆふべ)に、我が供養を受けて、數(あまた)の歲を過ぐすと云へども、我れに呵嘖(かしやく)を加へずして、罪業(ざいごふ)を造らせて、今、既に、蛇道(じやだう)に墮(だ)したり。一日に三度、劍(つるぎ)を以つて切らるる事を得たり。此れ、偏へに此の比丘の咎(とが)也。其の事の妬(ねた)く、情無きに依りて、『彼の比丘を殺さむ』と思へり。」
と云ふ。
梶取の云はく、
「汝、蛇身を受けて、三熱の苦に預りて、連日に刀剣の悲しみを得る事は、此れ、卽ち、前生に惡業(あくごふ)を造れる故也。亦、何(いか)に愚かに數(あまた)の人を殺害(せつがい)して、其の果報を增さむと爲(す)る。」
と。龍王の云はく、
「我れ、昔を思ひ遣(や)れば、前後の事を知らず。只、云ひ敎へずして、罪を造らしめて、惡業を得て、苦を受くるが、極めて情無ければ、『殺さむ』と思ふ。」
と。梶取の云はく、
「汝ぢ、一日一夜(いちにちいちや)、此(こ)こに留(とどま)り給へ。法を聞かしめて、汝が蛇道を遁れしめむ。」
と。此の語(こと)に依りて、龍王、一日一夜、其の所に留りて、比丘、經を誦(じゆ)して、龍王に聞かしむ。龍王、經を聞きて、忽ちに蛇身(じやしん)を轉じて、天上に生ると云へり。
然れば、
「專(もはら)に善根を修(しゆ)せよ。」
と親しからむ人をば、敎ふべき也となむ、語り傳へたるとや。
[やぶちゃん注:この話、不作為犯(後注参照)の悪の元である比丘が、最後に誦経役として登場するばかりで、全くその僧の姿がリアルに見えて来ず、消化不良を起こす。後注参照。
「優婆塞(うばそく)」在家のままで、仏道修行に励んでいる人。修行者に奉仕する在俗の信者。正式に出家得度しないで修道の生活を行なう人。男性に限る。女性の場合は、「優婆夷」(うばい)と呼ぶ。
「龍王」これは狭義の仏教上の神格化された龍王ではなく、水界を牛耳るところの、蛇の転じたブラッキーな海の妖怪の王の謂いであろう。前世の罪で、死後、蛇に転生され、その中でも親玉のそれになったというのである。それでも、同時に、現に「一日に三度、劍(つるぎ)を以つて切らるる事を得たり」という罪業を受ける境涯にあるのである。
「我れに呵嘖(かしやく)を加へずして」「呵嘖」は「呵責」に同じ。責め苛(さいな)むこと。龍王の前世の事実の優婆塞を、呵責することなく、仏説に反する行いを犯させたというのである。この朧な表現ではとんでもない売僧(まいす)、破戒僧のようにしか読めぬのだが、実際の原話では、悪龍の前世は屠殺業者であり、その彼に飯を食わせて貰って、永く彼の護持僧となったのが、この比丘であって、その長年の間、僧は、彼の生業(なりわい)たる忌まわしい殺生行為を直(じか)に見ても、一切、これ、咎めだてしなかった点で不作為犯の破戒僧だったとあって、すっきりと意味が判る。私が冒頭で不満を言ったのは、「売僧(まいす)どころの騒ぎでない、とんでもない破戒僧である」と思ったからなのであるが、しかし、彼が今も僧として生き続けており、最後のシーンでは、その僧が、その誦経で以って、悪龍王を正しく天上界へ昇天させる法力があるということから見て、改心して、ちゃんとした修行を積んだことが判るし、よほどこの僧、前世ではいいことをしたのであろうなぁ、と考えるしかあるまい。しかし、それらをここに盛り込んでいないのが、甚だよろしくない。そうした輻輳を組み上げたなら、本話は遙かに面白くなったはずだからである。そうして、実は原話には、もう少し、自然な感じで、その僧がどんな不作為犯だったのかを悪龍自身に語らせて、ちゃんと、その悪龍が殺そうとした同乗する僧の法会(この場合は、異類たる悪龍に転生しているので、一種の施餓鬼と言ってよい)行うというシークエンスが、ちゃんと、語られてあるのである。それはまた、南方熊楠の「今昔物語の研究」で明らかにされるので、少しくお待ちあれ。
「三熱の苦」畜生道で龍・蛇などが受けるとされる、三つの激しい苦しみ。「熱風や熱砂で皮肉や骨髄を焼かれること」、「悪風が吹き起こって居所や周囲の附属物などを失うこと」、「金翅鳥(こんじちょう)に子を食われる」の三種。
亦、何(いか)に愚かに數(あまた)の人を殺害(せつがい)して」この船には梶取と比丘の他にも有意な乗船者がいることが判る。それなりの大きさの中ぐらいの船と思われる。]
□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)
天竺の人で、海中に於いて悪龍に遇った人が、比丘の教えに依って、害を免れた事第十三
今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、天竺の人は、道を行く時には、必ず、僧を同道させる。これは、災いから身を守る力が僧にあるからである。
昔、一人の人があった。商いのために、船に乗って、海に出た。
ところが、俄に悪風が吹き荒(すさ)び、船を海の底へ巻き入れんばかりの有様であった。
その時、梶取(かじとり)の者が、船端の外側の下の方を見たところが、一人の優婆塞(うばそく)が舷側へばりついているのを発見した。
梶取が声をかけるに、
「お前はッツ! これ、一体、何者じゃッツ!?」
と。
優婆塞は答えて言うことには、
「我は、これ、龍王である。『お前の船を海底に巻き入れてやろう』と思うておる。」
と言った。
梶取、応じて、
「何のわけあって、お前は、我らを、かくも無慚に、殺さむとするかッツ!?」
と。
龍王の言うことには、
「お前の船に同乗している坊主は、前生(ぜんしょう)に於いて、我れが人であった折り、我が家に居った僧だ。朝夕に、我から供養を受けて、長い年月をともに過ごしたのだが、こやつ、我れに呵責を加へることなく、巧妙に言いかけては、罪業(ざいごう)を我に造らせて、そのために、今、我は、既に蛇道(じゃどう)に堕(だ)しておる始末! 一日に三度(みたび)、剣(つるぎ)を以って斬られる苦しみを受けておる! これ、偏えに、この坊主に教唆された咎(とが)に他ならぬ! その事が、激しく嫉(ねた)くも、情けなくもあるによって、『かの坊主を殺してやる!』と思うたのだ!」
と言う。
梶取が答えて、
「お前は、蛇身となされて、三熱の苦を受けることとなり、連日、刀剣の悲しみを得るということは、これ、即ち、お前の前生(ぜんしょう)の悪業(あくごう)が造ったことにようものではないか! なおまた、どうして、愚かにも、さらに数多(あまた)の人を殺害して、その悪しき果報を増そうとするのだッツ!?」
と。
竜王が応えて、
「我れ、昔を思いやれば、後先(あとさき)のことは判らなくなるのだ! ただただ、口に出して確かには言わずに、我れに罪を造らせて、我れが悪業を得て、苦を受けねばならなくなっていることが、極めて情けないからこそ、『殺してやる!』と思うのだ!」
と。
梶取はそこで言うことには、
「お前さん! 一日一夜(いちにちいちや)、ここに、まず、留まられよ! 仏法のまことを聴かせて、お前さんを蛇道から遁(のが)れさせてやるから!」
と。
この言葉を諾(だく)して、龍王は、一日一夜、その所に留(とど)まって、かの僧が、懇ろに、経を誦(じゅ)して、龍王に聴かさせた。
すると、龍王は、経を聴くや否や、忽ちに蛇身(じゃしん)を転じて、天上へと生まれ昇っていったという。
であるからして、
「専らに善根を修(しゅ)しなさい。」
と、親しい感じのする人には、よくそれを教えることが何より肝要であると、かく語り伝えているということである。
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