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2022/04/12

尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」

 

[やぶちゃん注:本篇は大正四(一九一五)年六月発行の『鄕土硏究』に尾芝古樟(こしょう)の変名で柳田國男が発表した論文である。尾芝は柳田國男の母の実家の姓である。柳田國男の談話「故郷七十年」(「青空文庫」のこちらで読める)の「匿名のこと」に、『私の匿名の一つに尾芝古樟(こしょう)というのがある。これは北条の母の実家の姓と、同家にあった古い樟くすの老樹にあやかったものである。』と記しているが、思うに、この当時、彼は貴族院書記官長となっていたから、官職を憚ってのことであろうと推定する。後の昭和二八(一九五三)年実業之日本社から刊行された「柳田國男先生著作集 第十二册」に「神樹篇」と総題する中の一篇として再録されている(戦後の刊行物であるが、正字正仮名表記である)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションにある、その「柳田國男先生著作集 第十二册」の当該論文に拠った。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は「定本柳田國男集 第十一卷(新装版)」(一九六九年筑摩書房刊))を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本電子化は、現在、ブログ・カテゴリ「南方熊楠」で進行中の、南方熊楠の論文「龍燈に就て」で取り上げられていることから、急遽、電子化することとした。そちらが私のメイン作業であるからして、時間をかけたくないので、一部気になる箇所以外は注をしない。傍点「﹅」は太字に代えた。典籍注記の( )等はポイント落ちであるが、同ポイントとした。]

 

      龍 燈 松 傳 說

 

 盆の燈籠は、やはり柱松の行事と系統起原を同じくするものであらう。角な切籠(きりこ)が廢れて、圓い岐阜提燈(ぎふちやうちん)が多く行はれると共に、今では軒に吊(つる)すのが盆燈籠の常の習のやうになつて居るが、昔は是も高い柱の上に揭げたものであつた。明月記寬喜二年[やぶちゃん注:一二三〇年。]七月十四日の條に、長竿の末に紙を張つて灯樓(とうろう)を附けて立つる風、次第に流行すると云ふ記事は、松屋筆記其他の隨筆類に引用せられて既に有名である。而も鬼貫(おにつら)の發句で世に知られた攝州伊丹(いたみ)の高燈籠の類は、近世になつても決して珍しい例では無かつた。例へば百年前の秋田の風俗答書にも、七月には三丈四丈の伸良(のびよ)き丸太を立て、其尖(さき)に燈籠を揚げることを述べ、新佛(しんぼとけ)ある家で三年目まで、其後は七年十三年と年回每に立てるもあれば、年々立てる家もある。七月は朔日に始つて晦日に至る。大抵一町内に三四箇所は必ず立つ故に、高い處より望めば星の林のやうだと言つて居る。柱の構造としては、尖端に近く橫木を結ひ附けて、三角に繩を張り幣(しで)を切掛け、三角の角ごとに杉又は笹の葉を附け、燈籠は其橫木に吊るすのだとあつて精密な揷畫があるが、山中笑翁が明治二十年の七月三十日に、相模平塚の附近を通行して、目擊せられたと云ふ農家の高燈籠の見取圖が、不思議なほどそれとよく似て居る(共古日錄十九)。卽ち此も亦繩と橫木を以て三角形を作つて兩端に杉の葉を附け、燈籠は其下に吊したものである。而して以前江戶市中に於て立てたと云ふものも亦殆と[やぶちゃん注:「ほとほと」「ほとんど」はこれが塩転訛したもの。]同樣であつた。昔々物語に、「昔は御旗本衆死去し其年七月高燈籠と云ふ物を立る云々。大方七回忌まで每年立るもあり、七八間ばかりの杉丸太の上に三角に甍(いらか)結(ゆ)ひ、杉の葉にて包みしでを切りて附け、燈籠は辻番の行燈なりに、上へ開き下つぼませ、屋根は板にて拵らへ、玄關と臺所との間の廣き所に立つ。七月朔日より晦日まで每夜暮六つより明六つまでとぼす。一向宗にては見ず、他宗は皆々此の如し、見分哀に見ゆるなり云々」。今から略々二百年前の事を述べたもので後は絕えたやうに見えるが、必ずしもさうでなかつた證は十方菴の遊歷雜記初篇にある。卽ち靑山百人町に住する與力同心などの組屋敷では、それから尙百年の後まで七月中此柱を立てゝ燈籠を點(とぼ)し、之をば星燈籠と呼んで居た。家々柱の高きを競ふ故に遠くから見えて壯麗であつた。是は八代將軍目黑御成の歸途に此光景を賞せられ、一統の者に銀を下された。それより愈古例となつて永く殘つたと云ふ。之を以て推測すると、少なくも市中に於て揚燈籠の風が衰へたのは、經費が次第に多くかゝつて、箇人の所作に適しなくなつた爲であるかと思ふ。

 盆の聖靈祭(しやうりやうまつり)が家々別々の祭となつたのは、さして古い時代の事で無かつたらしい。所謂三界萬靈(さんがいばんりやう)の中から、各自有緣の亡者を持分けて供養することになると、柱松の設備は成ほど些し大規模に過ぎるやうである。木材も人手も有餘る片田舍で無ければ、冨豪大身の他は、其入費の負擔に堪へなかつた筈である。是に於てか或地方では、此點ばかりを永く部落の共同事業として、個人主義の新念佛道との不調和を來し、他の地方では之に代ふるに門火(かどび)や軒提灯の略式を以てし、何れも次第に柱祭(はしらまつり)の古い思想から、遠ざかるに至つたものであらう。然るに茲に一つ、偶然にも都合のよかつたことは、所謂檀那寺の仲介と調和とである。御寺は個々の檀家の信仰上の代表者として、祖師檀の片脇などに、家々から多數の位牌を預つて置いて供養すると同じく、個人の獨力では實行し難いこの柱祭の任務を、一手に請負うて勤めたものらしい。是は單に盆の柱祭のみでは無かつた。葬式の跡始末でも、春秋の彼岸の施餓鬼(せがき)でも、何れも個人が父祖を追慕するの情を傷ふ[やぶちゃん注:「そこなふ」。]ことなしに、昔の厲鬼[やぶちゃん注:「れいき」と読む。流行病などを起こさせる悪神、厄病神のこと。]驅逐の術を完成し得た故に、常に村の爲に有用であつたのである。此號に阿波の遠藤君が報ぜられた眞言寺の招き旗なども、現に陸中遠野鄕の村々では、今なほ新盆の家では家々に於て之を建てること、恰も他の地方の五月幟と同じやうである(遠野物語序[やぶちゃん注:私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版)始動 序・目次・一~八 遠野地誌・異形の山人・サムトの婆』の柳田の序を参照されたい。])。西京では大和大路四條の東南の角に、眼疾地藏(めやみぢざう)を以て有名な仲源寺の如き、每歲盆には門前に揚燈籠(あげとうろう)を燃した。山州名跡志には其由來を說明して、此邊は慶安の頃まで農村であつて、此寺が恰も村の總堂(墓所?)であつた爲に、此種の遺風が存するのだと云つて居るが、それだけでは寺が其任務を引受けた理由が充分明白で無い。必ず別に個人にも部落にも之を繼續し得なかつた事情のあるものと認めねばならぬ。尤も寺院の境内に高い柱を建てることが、新たに柱祭の委託を受けた時に始つたか、はた又朝鮮の刹柱[やぶちゃん注:「さつちゆう」は仏塔の中心にある柱を言う。]などの如く寺には古くより柱を立てる風があつて、其爲に村の總代として此儀式を行ふに好都合であつたのかは、決して容易に決し得べき問題では無いが、兎に角次に言はんとする諸國の龍燈松(りうとうまつ)の傳說、多分は其傳說が意味するらしい寺々の高燈籠は、御靈會(ごりやうえ[やぶちゃん注:「え」はママ。])卽ち集合的聖靈送りの衰微、竝に之に伴つて盛になつた佛敎の個人主義と、深い因緣のあるものに違ひない。

 柱松と高燈籠と、假令同じく中元の習俗であつたにしても、一方は騷々しい破壞的事業で他の一方は美觀を專とする靜かな行事であれば、或は二者を一括して論ずるのを不當と考へる人があるかも知れぬ。此は自分の說の出發點だから確かにして置くが、其非難は恐らくは蠟燭の普及せず燈蓋(とうがい)の工夫せられなんだ時代を想像したら、容易に消滅するだらうと思ふ。語を換へて申せば、二種の柱の火の相異は、單に篝火(かゞりび)と軒行燈(のきあんどう)、又は松明と提灯との差別である。簡便に高い處で火を燃して置く方法が無いから、大袈裟な傘や酸漿を造つた迄である。其目的は生きた人間に對するものから類推しても知らるゝ如く、暗夜の道しるべに他ならぬので、此用途に向つて時代相應の人の智慧を働かせたのである。此說明は尙進んで柱と天然の樹木との關係にも適用し得られる。高燈籠の頂點に杉の葉を附ける風は、柱の材木が杉丸太であることゝ考へ合すべきものであらう。卽ち柱は單に高い處へ燈火を達せしむる手段であつて、天然の喬木があれば之を用ゐたのが本意であらう。此點は折口君も既に言はれたから詳しくは論ぜぬが、我邦の神木崇敬を批評する人たちには、是非とも一顧を煩はすべき事柄である。

 諸國に數多くもてはやさるゝ龍燈(りうとう)松、又は龍燈の杉の傳說が、槪ね大社舊寺の緣起と終始して居るのは注意すべきことゝ思ふ。全體緣起と名の附いた昔話には型に嵌(はま)つたものが多く、殊に漢文を以て書かれたものに至つては、殆と一步も元亨釋書の外へ蹈出さぬのが通例であるが、それにしても本尊の靈驗乃至は開祖の道力と、必ずしも適切な關係が無いのに此松此杉が無ければ寺門の格式を墮しでもするかの如く、競うて一本の名木(めいぼく)を稱讃するのは、單純なる流行とは認めにくいやうである。蓋し龍燈と云ふ漢語はもと水邊の怪火を意味して居る。日本でならば筑紫の不知火(しらぬひ)河内の姥が火等に該當する。時あつて高く喬木の梢の邊を行くなどは、怪火としては固より怪しむに足らぬが、常に一定の松杉の上に懸ると云ふに至つては、則ち日本化したる龍燈である。察する所五山の學僧などが試に龍燈の字を捻し[やぶちゃん注:「ねんし」ひねくりいじって。]來つて此燈の名としたのが最初で、龍神が燈を獻じたと云ふ今日普通の口碑は、却つて其後に發生したものであらう。各地の山の名に燈籠塚山(とうろうづかやま)、又地名として燈籠木などと云ふのがあるが、龍燈松の昔の俗稱は多分それであらうと思ふ。

 此推測の果して當つて居るか否かを確かめる爲には、第一に龍燈出現の期日の有無を調べて見ねばならぬ。尤も人が龍燈と云ふ物の中にも、夏秋の交[やぶちゃん注:「かはり」と訓じておく。]大小多數の火が螢などの如く水邊より出て四方を飛んであるくと云ふのがある。近刊の入間郡誌に八十歲の老人之を記憶すと云ふ同郡小畔川(をぐろがは)の龍燈、長久保赤水の東奧紀行等に記した磐城四倉(いはきよつくら)の龍燈、さては越後野志卷十四に龍燈天燈と題して各地に多くありと云ふものなどはそれである。佐渡の根本寺に於て或浪人が弓を以て射留めた龍燈は、實は大なる鷺であつた(松屋筆記七十八所引、佐渡奇談)。此等は龍燈と云ふ漢語の本の意味に合致するもので、不思議は不思議ながら要するに一種の天然現象である。之に反して每年特定の一夜又は數夜、特定の木の上に來て懸ると云ふ龍燈に至つては、卽ち人間界の不思議と言はねばならぬ。近い例から擧げると、江戸名所記には東郊木下川(きねがは)淨光寺の藥師、每月八日と元三(ぐわんさん)の朝と、本尊の前に龍燈揚ると云ひ、別に木下川藥師緣起の一篇があつて、嘉曆二年[やぶちゃん注:一三二七年。]といふ靑龍出現の瑞相が重くるしく說立[やぶちゃん注:「ときたて」。]てゝある(柳庵隨筆九)。下總印旛沼附近の天竺山龍角寺の龍神社では、每月朔日十五日二十八日の三度、燈火此沼の百丈穴より飛上つて社頭に懸つたと云ふは(相馬日記)あまりに律義な龍燈である。常陸筑波山の龍燈は五月の晦日の晚揚り、其月小なるときは二十九日に揚つた(一話一言補遺)。此等は皆龍神の手元に其年の曆が無い限りは一寸守り難い約束であり、新曆の今日はどうなつたか聞きたい。此類の期日の中でかの柱松の行事を思合さしむるものは七月と十二月の龍燈である。阿波那賀郡見能林(みのはやし)村の津峯權現と、同郡加茂谷村舍身山大龍寺との兩所は、何れも除夜の晚に山の頂上へ龍燈が上つた(阿州奇事雜話一)。大龍寺には龍燈杉と云ふ山中第一の名木があつたのを、大佛殿建立の爲に豐太閤の時に伐つたと言へば、今では其龍燈も昔話であらう。能登鳳至(ふげし)郡穴水鄕(あなみづがう)に鎭座する最勝森住吉神社は、一名を龍燈社とも呼ばれた。每年十二月晦日の夜、龍燈の奇事があつた故に此名がある(能登國式内等舊社記)。龍燈の奇事とは奇現象か、はた奇習俗か、社傳にも之を詳かにせぬと見える。更に七月の例を言ふと、紀州で有名な紀三井寺(きみゐでら)では、爲光上人[やぶちゃん注:「ゐくわうしやうにん」。]大般若書寫の功成らんとするとき龍女化現の奇異があつた。其時の約により每年七月九日の夜、本堂の艮(うしとら)五町ばかり千手谷(せんじゆだに)の松間に龍燈が現はれたと云ふ(續風土記十五)。此等の高燈籠は果して龍族の寄進するものと當初から信ぜられて居たのか、或は單に昔あの邊に燈籠が揚つたと云ふだけの言傳へに、斯る荒唐なる說明を附したものか。勿論此だけの材料では決し兼ねるが、特に一定の日を期して此事のあつたと云ふ話は、自分の如く解釋するのが、自然では無いかと思ふ。越後南魚沼郡八海山(はつかいざん)の頂上には八海明神の社がある。麓の里に住む人々は每年七月晦日の夜は登山參拜して一宿する習であるが、此夜山から麓の方を下し臨めば、數十の火が燈の如く連り聯綿として山中に飛來るを見る。土人は之を八海明神を遙拜する山下諸邑の人の捧ぐる燈が自ら飛來るのだと信じ、因つて其夜は諸村の者も戶每に燈燭を捧げて八海山を遙拜する。飛火に大小があるのは捧げる燈の大小に由ると云つて、各人燭の大なるを競うたと云ふことである(越後野志)。此話も亦寺々の龍燈と同じく、何れの點までが神祕で何れの點迄が實際生活であるかを區分し難いが、此夜が恰も神を送るの季節であつたことを考合せると、信仰ある者の夜目の迷ひにも若干の因由が無かつたとは言はれぬ。

 之を要するに自分の解する龍燈松は、天然の樹木を利用した柱松の故跡である。而も此が又柱松の本然の形式であつた。但し人が喬木の梢に燈火を揭げたと云ふ例證は不幸にしてまだ見出さぬが、略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]其光景を伺はしむべき昔話も亦殘つて居る。例へば美作久米郡稻岡北庄(きたのしやう)の櫔社山(とちこそさん)誕生寺は、法然上人誕生の舊地である。寺の東南五十町ばかりの地にある龍燈松は、一名を篝松(かゞりまつ)と謂ふ。弘治年間[やぶちゃん注:戦国時代の一五五五年から一五五八年まで。室町幕府将軍は足利義輝。]のことであるが、此松の邊に神燈屢現れた。住持玉興なる者夜々來つて經を誦し居ると、一夕恍然として故上人が此樹上に現ずるを見た。彌陀の名號を唱ふること十餘遍、玉興拜して之に和す。少時にして冉々として天に昇る。後人時々異光を見る者多かりしより、此木を龍燈松と名づけたと云ふ(作陽誌)。此話は前に揭げた平家物語の一說とすこぶる似て居る上に、篝松の名は其火の曾ては篝であつたことを思はせる。備後深安郡の深津と云ふ所に燈明松(とうみやうまつ)と稱する古木が今もある。福山侯入部の當時埋立新田を拓いて鹽崎明神を祀り、松は其時其社の傍に栽ゑた木である。世人此樹の下に燈明を點し八百萬の神を祀りしより、燈明松の名が出來たと云ふ(大日本老樹名木誌)。樹下と云ふことは果して誤聞で無いだらうか。尙彼地の人に訂したいと思ふ。瀨戸内海の埋立地には往々にして龍燈木の話がある。水に近いから龍神の緣が深いと見ればそれ迄であるが、何か別に此類の開作に住む者に、永く柱松風の祭典を營むべき特殊の事情があつたのでは無からうか。殊に八百萬を祀るとあつて、鹽崎明神を祭ると言はぬのは意味があるやうに思ふ。

 柱の天然の樹木との關係を說いたついでに、一つ最近の見聞を附記して置かう。此まで汽車で東海道線を通るたびに心附いて居たのであるが、美濃の西部大垣驛の前後に二三ケ所、高い松の梢上に赤色の旗を立てた村がある。もとは天氣豫報の標幟であらうと思つて居たが、今度の旅で此地方出身の今西龍君に聞いて見ると、全く一種信仰上の物であるらしい。今西氏は曰く、自分は美濃でばかりすることゝは今まで心附かなんだ。日淸戰爭の頃にふと何れかの村でやり始め、追々に之に倣ふ者が出來た。村の中でも最も高い木を擇び、非常な骨折を以て攀ぢ登り、あの赤い旗を頂邊の枝に結はへ附けて來るので、もとは戰捷祈念の意味を以てしたものらしいと。此習慣はどう考へても突如として起るべきもので無い。從前樹木に旗を立てゝ祈念する風があつたのか。或は又柱に旗を附けて立てる風のみあつて、高きを競ふ極[やぶちゃん注:「きはみ」。]、此の如き樹梢を利用することになつたのか。赤色は何を意味するか。何れも更に揖斐地方の人に尋ねたいものである。柱の燈と柱の旗とは、至つて密接な關係を有して居るかと思ふ。夜の祭の柱松に對して、我々は尙晝の祭の旗鉾(はたほこ)を、講究して見なければならぬのである。

     (大正四年六月、鄕土硏究三卷四號)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧のクレジット・初出は底本では最終行の下インデントであるが、ブラウザの不具合を考慮して、改行し、上方に引き上げた。]

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