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2022/04/10

「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 始動 「一」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年九月・十月・十一月(本文)及び翌五年一月(補遺)と十二月(追記)発行の『鄕土硏究』初出で、大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここが冒頭)で視認して用いた。

 但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方随筆」(新字新仮名)で校合した。同選集は本篇の初出の誤りが補正してあり、しかも原文はなく、元版全集編者による読み下し文となっている(しかし、それは現代仮名遣の気持ちの悪い代物であり、無論、漢字は新字体である)。今までもそうしてきたが、底本の原文通り、まず、白文で示し、その後に《 》で推定される訓読文を添えた。但し、私は可能な限り、引用原本を確認出来るものは、それで確認して誤りと判断し得たものは訂し、「選集」のみが拠り所となる場合でも、無批判の受け入れず、読みも私の我流で訓読し直してある。そうした部分は、実は甚だしく多くあるから、五月蠅くなるばかりなので、通常、その底本の誤りは、原則、注記しない。

 さらに、南方熊楠本人の使用語・表現もかなり難読で、仏語に到っては私も見たことがない漢語もかなり多い。されば、今までのように注で示したのでは、読み難くなるばかりか、只管に煩瑣となるだけで、百害一利に等しくなってしまう。そこで全篇を通じて、読みが難読であったり、振れそうなものは、私の推定で歴史的仮名遣で( )で挿入した。なお、本篇は流石に熊楠も底本編者も考えたらしく、ルビがそれでも振られている割合が本書中の多篇に比しても、有意にある。なお、それらは区別して、〔 〕で底本にあるルビを指す

 さらに、熊楠の文は思うところ自在無礙で、一つの段落が異様に長く、そのままでは注を附しても甚だ読み難いものとなるため、「選集」を参考に段落を細かく入れ、そこに注を挟んだ。注の後は一行空けた。なお、私が十全に知っているものや、その反対に、私に出来たとしても生没年ぐらいしか附せない人物や、よく判らない書名で本文内で重要対象と認められないと判断したものには注を附さなかった。悪しからず。]

 

       龍 燈 に 就 て

 

       

 

 尾芝君の龍燈松(りゆうとうのまつ)傳說に、「龍燈と云ふ漢語は、もと水邊の怪火(あやしび)を意味して居る。日本でならば筑紫の不知火(しらぬひ)、河内の姥(うば)が火等に該當する」とあるが(鄕硏究三卷四號二〇六頁)、果たして左樣な意味の龍燈てふ漢語ありや。類聚名物考卷三三八に、「龍燈の事古書にも和漢共に見當たらず、似たる事はあり。中山傳信錄に天妃靈應記の事をいふ内に、康煕四年、昇化於湄州嶼、時顯靈應、或示夢、或示神燈、漁舟獲庇無數。《康煕四年、湄州嶼(びしうしよ)に昇化す。時に靈應を顯はす。或いは夢に示し、或いは神燈に示す。漁舟(ぎよしう)の庇(まも)りを獲(う)ること、無數なり。》。光武、暗夜火光(くわくわう)を見、皇朝不知火の類も似たれども、龍燈の名は曾て見えず」とあるが是も間違で、佩文韻府二五を見ると、夏竦上元應制詩、寶坊月皎龍燈淡、紫館、風微鶴平焰《夏竦(かしよう)が「上元應制」の詩に「寶坊(はうばう) 月 皎(かう)にして 龍燈 淡(あは)し / 紫館 風 微(かす)かにして 鶴焰 平らかなり」。》と有る。其全詩を知らぬから何の事か判らぬが、兎に角古書に龍燈の字が無いと言はれぬ。又佛名經(ぶつみやうきやう)や諸佛世尊如來菩薩尊者名稱歌曲(みやうしやうかごく)などにも龍燈の字が有つたと記憶するが、今座右に無いから仕方が無い。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「○」。

「龍燈」「龍燈松伝說」「諸國里人談卷之三 橋立龍」の私の注などを参照されたい。

「尾芝君」【二〇二二年四月十二日追加】当初、「不詳」とのみ注していたが、長年、私の記事を丹念に読まれ、情報を提供して下さるT氏からメールを頂戴し、『「尾芝君」は尾芝古樟で、柳田國男が『郷土研究』発行時代に使った変名です。柳田の『故郷七十年』項目「匿名のこと」に尾芝古樟を含め色々な変名が書かれています。』とあって、「青空文庫」の「故郷七十年」(同作品は昭和三二(一九五七)年に神戸新聞社が翌年の創立六十周年を迎えるに当たって、兵庫県出身で当時八十二歳であった柳田國男に回顧談を求め、柳田はこれを快諾し、全二十五回に亙って聞き書きが行われ、二百回に亙る連載記事となったものであるが、これは聞き書きであるからか、「ちくま文庫」版全集には載らない(その後の一九九七年刊の新しい「柳田國男全集」第二十一巻に載っているようである)を紹介して下さった(こちら)。その「匿名のこと」の章で、柳田は『私の匿名の一つに尾芝古樟(こしょう)というのがある。これは北条の母』(柳田國男の実母)『の実家の姓と、同家にあった古い樟(くす)の老樹にあやかったものである。思えば私にはこうした匿名が二十近くもある。』と述べていた。私はこの「青空文庫」の記事は数年前に発見したものの、全篇を読んではいなかったため、気づかなかった。さらにT氏は『熊楠が 「尾芝君の………」で引用している文章は 『神樹篇』の龍燈松傳説(大正四年六月、鄕土研究三卷四號)です』とのことであった。同評論は国立国会図書館デジタルコレクションの実業之日本社版「柳田國男先生著作集」中に正規表現のものを発見したので、本日午後、こちらに電子化公開した。T氏に心より御礼申し上げる。なお、熊楠はそれに触発されて本論を書いているのであるからして、そちらをまず読まれたい。

「不知火」「諸國里人談卷之三 不知火」を参照。

「姥が火」「古今百物語評判卷之四 第九 舟幽靈附丹波の姥が火、津國仁光坊事」の本文及び私の注(及びそこにリンクした私の過去の別記事)を参照。

「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(巻三百三十八の「雜部十三」の「靈鬼 妖怪」の内の「龍燈」の一節である。引用部は次のページにあるので、見られたい。「筑紫の不知火」を熊楠が出したのも、ここを見てのことであろう。末尾を見られたい。

「中山傳信錄」清の徐葆光(じょほこう)が一七二一年に著した琉球地誌。全六巻。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの第一巻のここPDF一括版)の37コマ目以下に琉球へ渡る経路を語る文脈の中で「天妃靈應記」が載る(前のコマに天妃の絵が載る)。訓点附きなので読み易い。

「康煕四年」清代。一六六五年。

「湄州嶼」現在の福建省莆田市湄州島。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「光武」後漢王朝の初代皇帝光武帝劉秀(紀元前六年~紀元後五七年)。

「佩文韻府」清代の蔡升元らが康熙帝の勅を奉じて編纂した韻書。百六巻。補遺である汪灝ら撰の「韻府拾遺」百六巻と合わせて用いられる。前者が一七一一年に、後者が一七二〇年に成った。内容は経・史・子・集の四部の書物から、二字から四字の語彙を集めて、末尾の字の韻母によって平水韻の百六韻に分類排列し、さらに、その語彙の出典を注記したもの。「佩文」とは康熙帝の書斎名。

「佛名經」元魏の菩提流支訳。全十二巻。懺悔滅罪のために三世十方の諸仏の名号を受持することを説く。但し他にも「仏名経」と題する経典は多いので、これを指しているかどうかは不詳。

「諸佛世尊如來菩薩尊者名稱歌曲」明代の一四一七年序のある「大蔵経」に所収される仏典の一つ。]

 

 五雜俎九に、「又云龍火與人火相反、得濕則燄、得水則燔、惟以火投之則反熄、此亦不知其信否也」《又、云はく、「龍火(りゆうくわ)、人火(じんくわ)と相ひ反し、濕(しつ)を得(う)れば、則ち、燄(も)え、水を得れば、則ち、燔(や)く。惟(ただ)、火を以つて、之れに投ずれば、則ち、反(かへ)つて熄(き)ゆ。」と。此れ、又、其の信(まこと)か否かを知らず。》。この龍火(龍燈と言はず)は水邊の怪火(くわいくわ)らしいが、本草網目に火を分類して天火四、人火三、地火五、共に十二とす。天火四とは太陽の眞火星精の飛火、此の二つが天の陽火で、龍火と雷火、此の二つが天の陰火と有つて、龍火を天のものとし居るから考ふると、本草に所謂龍火は水邊の怪火よりも、主として高く空中に現ずる歐洲で所謂エルモ尊者の火や日本で呼ぶ龍燈を指したらしく、乃(すなは)ち水濕の地の燐一名鬼火と別(わかち)て、高空中の怪火を龍火と云つたらしく、綱目に、人の陰火二(命門〔めいもん〕の相火〔しやうくわ〕、三昧〔さんまい〕の火)地の陰火二(石油の火、水中の火)、龍火はこれらに隷〔つい〕たものと見立てたのだらう。果たして然らば、高空中に現ずる怪火を龍燈と云ふは、龍火と同源若くは其より出(いで)た名で、尾芝君が五山の學僧の倭製の如く謂はれたは誤見かと惟(おも)ふ。

[やぶちゃん注:「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに出るのは、巻九の「物部一」にある以下の一節。前の部分も引いておく。

   *

俗有立夏分龍之說、蓋龍於是時始分界而行雨、各有區域、不能相渝、故有咫尺之間而晴雨頓殊者、龍爲之也。又云、「龍火與人火相反、得濕則焰、得水則燔。惟以火投之、則反熄。」。此亦不知其信否也。

   *

なお、「燄」は「焰」の異体字。

「本草網目に火を分類して……」明の李時珍「本草綱目」巻六の「火」の部の冒頭にある「陽火隂火」での分類。「漢籍リポジトリ」のこちらの頭を参照されたい。訓点がない読めないと仰せなら、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年の訓点附きがある。

「エルモ尊者の火」悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象を言う「セントエルモの火」(St. Elmo's fire)。当該ウィキによれば、その『名は、船乗りの守護聖人である聖エルモ(エラスムス)』((Erasmus ?~三〇三年頃)『に由来する。彼はイタリアに向かう船に乗船中、嵐に見舞われ、船は転覆の危険にさらされる。聖人が熱心に神に祈ると、嵐はおさまる。そして帆柱の先端に青い炎が踊り出した、と伝えられている』ことに基づく。物理学的には、『尖った物体の先端で静電気などがコロナ放電を発生させ、青白い発光現象を引き起こ』すと説明され、『先端が負極の場合と正極の場合とでは、形状が異なる。雷による強い電界が船のマストの先端(檣頭)を発光させたり、飛行船に溜まった静電気でも起こることがある。放電による「シュー」という音を伴う場合がある』とある。また、一七五〇年に『ベンジャミン・フランクリンが、この現象と同じように、雷の嵐の際に先のとがった鉄棒の先端が発光することを明らかにした』ともある。

「本草に所謂龍火は……」ここでの「本草」は、「本草綱目」を始めとして広義の漢籍の本草書の謂いであろう。無論、後の「綱目」は「本草綱目」を指す。

「尾芝君が五山の學僧の倭製の如く謂はれた」『尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」』を参照されたい。]

 

 橘南谿の東遊記後編二に、大徹禪師、越中の眼目山〔さつかさん〕を開いた時、山神龍神助力して色々奇特有り。今も每七月十三夜其庭の松の梢に燈火二つ留〔とま〕まる。一は立山の巓(いただき)より、一は海中より飛(とび)來たる。これを山燈龍燈と云て此邊の人例年見る。世に海中より龍燈出ずる事多きも、此等の如く山燈龍燈一度に來るは稀有じぢやと載す。大徹の師永平寺の開祖道元は宋に遊んだ人だから、其頃支那で山に出るこの類の火を山燈、海より現ずるを龍燈と云ふこと、丁度蜃氣樓が山又海に顯はるゝに隨て山市〔さんし〕又海市〔かいし〕と呼んだ如くだつたのかと惟(おも)ふ。土佐の蹉跎(あしずり)明神にも同時に山燈龍燈出で、伊勢安濃津(あのつ)邊にも山上より火出で、塔世浦〔とうせいがうら〕より來たる火と鬪ふて後、一つは山の方へ、一つは沖の方へ飛び去るといふ(諸國里人談三)。淵鑑類函三六〇に孔帖を引いて、于頔爲襄陽、點山燈《于頔(うてき)、襄陽を爲(をさ)めしとき、山燈を點(とも)す。》。是は人民便利の爲山上に燈臺を設けたのか、若くは京都東山の大文字の樣に火を點したのを山燈と呼んだらしいが、明〔みん〕の陸應陽の廣輿記一六に、「山燈、蓬州現凡五處、初不過三四點、漸至數十、在蓬山者最異、土人呼爲聖燈」《山燈、蓬州に現はるること、凡そ五處なり。初めは三、四點に過ぎず、漸(ぜんぜん)に數十に至る。蓬山に在る者、最も異(い)なり。土人、呼んで「聖燈」と爲す。》と載せたは、疑ひ無く、越中眼目山の山燈同樣の火で、最初は山から出ずるを山燈、海より來たるを龍燈と眼目山同樣支那で言つたのが、日本に傳はりて後山燈では山の燈火〔ともしび〕と聞えて一向神異は無いから、之を神異にする念より専ら龍燈とのみ呼ぶ風と成(なつ)たのであらう。

[やぶちゃん注:「橘南谿の東遊記後編二に、大徹禪師、越中の眼目山〔さつかさん〕を開いた時、……」医師であったが著述家としても知られた橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)。本名は宮川春暉(はるあきら)。伊勢久居(現在の三重県津市久居(ひさい))西鷹跡町に久居藤堂藩に勤仕する宮川氏(二百五十石)の五男として生まれた。明和八(一七七一)年一九歳の時、医学を志して京都に上り、天明六(一七八六)年には内膳司(天皇の食事を調達する役所)の史生となり、翌年には正七位下・石見介に任ぜられ、光格天皇の大嘗祭にも連なって医師として大成した。一方で諸国遍歴を好み、また、文もよくしたため、夥しい専門の医学書以外にも、この「東遊記」や「西遊記」(併せて「東西遊記」と称する)等の紀行類や名随筆「北窓瑣談」等で知られる。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原版本が見られる(PDF一括版。当該部は2コマ目から)。それを視認して示す。句読点等を打ち、読みの一部は私が歴史的仮名遣で推定追加・修正した。

   *

東遊記後編巻之二

  龍燈           南谿子著

越中新川郡(にいかはのこほり)に眼目山といへる寺あり。「眼目山」と書(かき)て「サツクワ山」と讀む。わけは知らず。宗㫖(しうし)は禅にして道元禅師の弟子大徹禅師の開基なり。此大徹禅師、此山を開かれし時、山神(さんじん)・龍神、助力して、色々の奇特ありしよし。今に至り、毎年七月十三日の夜は、眼目山の庭の松の梢に、燈火(とうか)、のぼる。一ツは立山(たてやま)の絕頂より飛來(とびきた)り、一ツは海中より飛來り、皆、松の梢にとゞまる。是を「山燈(さんとう)」「龍燈(りうとう)」といひて、此あたりの人は例年の事也。世に龍燈とて、海中より、火の出づるは多けれども、此寺のごとく、山燈・龍燈、壱度に來りて、松の梢に留(とゞま)るは、希有(けう)の事なりといふ。越前の敦賀常宮(じやうぐう)にも「龍燈の松」とて、例年正月元日の夜、かゝる事あるを、其あたりの人は、皆、見る事たり。

   *

この寺は曹洞宗の名刹として知られ、現行では眼目山立山寺(がんもくざんりゅうせんじ)と読む。但し、地元では確かに「さっかの寺」とも呼ばれている。建徳元(一三七〇)年に立山権現が樵(きこり)の姿となって大徹宗令禅師(大本山総持寺第二祖峨山禅師の高弟で宗門五派の随一とされる僧であった)を導き、寺院の建立をすすめたと伝えられている。因みに、「眼目」をネットで自動翻訳すると、中国語で「薩卡」と表示された。これが元か。なお、「敦賀常宮」は現在の常宮(じょうぐう)神社(グーグル・マップ・データ)。

「土佐の蹉跎(あしずり)明神」「諸國里人談卷之三 嗟跎龍燈」の本文と私の注を参照されたい。地図もリンクさせてある。

「伊勢安濃津(あのつ)邊にも山上より火出で、……」私の「諸國里人談卷之三 分部火」の本文と私の注を参照。地図もリンクさせてある。

「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「夷堅志」は南宋の洪邁(こうまい 一一二三年~一二〇二年)が編纂した志怪小説集。一一九八年頃成立。二百六巻。同文字列は確認出来たが、引用元「孔帖」というのは如何なる書物か不明。

「明〔みん〕の陸應陽の廣輿記」清の康熙帝の時に陸応陽らによって書かれた中国とその周辺国の地誌。

「蓬州」南北朝時代から民国初年にかけて、現在の四川省南充市(グーグル・マップ・データ)一帯に設置された旧州名。]

 

 但し、支那の山嶽又廣い内地一向海無い處にも龍は棲むと信ぜられたから、(例せば慈覺大師入唐求法巡禮行記二に、老俗等云、古來相傳、此山多有龍宮《老俗等(らうぞくら)云はく、「古來、相ひ傳ふ、『此の山に、多く、龍宮、有り。』と。」。》、)山燈を龍燈と呼ぶ事古くより彼國に在つたのかとも惟ふ。現に一八九六年板ヨングハズバンド大尉の大陸之心臟(Capt. Younghusband, ‘The Heart of a Continent’)三〇二頁に、支那トルキスタンのランクル湖邊でチラグ、タシユ(燈巖〔ランプ・ロツク〕の義)を見る。其巓〔いたゞき〕に不斷燃居(もえを)る燈ありて、龍の眼より出(いづ)る光とも、龍の頭上の寶珠より生ずる光とも云ふ。著者往きて仰ぎ視るに、洞(ほら)の天井に弱い白光有つて燐光の如し。依つて苦辛して徒者と俱に巖を登り見れば、洞と思ひしは實は巖頂を橫貫した孔〔あな〕で、他方より通る日光が孔の天井に著いた白い堆積層に反射して白く光る。其を數百年來事々しく不斷燈の窟(いはや)と傳唱したのだと有つて、特に龍燈の號〔な〕は擧(あげ)ぬが、龍の眼や珠から出(いづ)る燈と云ふ所を見ると、龍燈の種類・起因は種々異なりとするも、龍が燈火を出(いだ)すと云ふ迷信は日本で始まつたのでも日本ばかりに存する者でも無く、どうもアジア大陸から傳來の者らしう見える。兎に角越中で山燈龍燈を併稱する、其山燈が支那の書に見え居る上、龍より生ずる燈の話が支那の領地に在る上は、龍燈ちふ稱は吾邦五山の僧などの手製で無く、全く山燈と等しく支那傳來と定めて大過無かるべしだ。猶大淸一統志など片端から調べたら斯(かか)る火を呼んだ龍燈なる名が支那に在つた例も有るだらうと、著手(ちやくしゆ)はしたが事多くて一寸濟まぬ。

[やぶちゃん注:「慈覺大師」最後の遣唐使僧で、最澄に師事し、後に第三代天台座主となった円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年)。

「入唐求法巡禮行記」円仁が承和五(八三八)年に博多津を出港した場面から始まり、揚州へ向かい、承和十四年に帰国するまでを日記式の文体で書いた旅行記。当該部は、

   *

開成四年[やぶちゃん注:八三九年。承和六年相当。]九月三日  日本國僧圓仁等帖

十二日午時。雲雷雹雨。五更之後。龍相鬪鳴。雹雨交下。電光紛耀。數尅不息。到曉便止。朝出見之。氷雹流積三四寸許。凝積如雪。老僧等云。古來相傳。此山多有龍宮。

   *

である。引用は中文サイト「CBETA 漢文大藏經」のこちらに拠った。

「一八九六年板ヨングハズバンド大尉の大陸之心臟(Capt. Younghusband, The Heart of a Continent’)三〇二頁」イギリスの軍人で探検家のフランシス・エドワード・ヤングハズバンド(Francis Edward Younghusband 一八六三年~一九四二年:インドのマリー生まれ。軍人として一八八二年にインドに赴任し、一八八六から一八八八年にかけて、満州・モンゴルなどを踏査する。以降、英国のインド経営の辺境への拡大に功績を上げた。一九〇三年から翌年にかけてチベットに侵入・征圧し、「ラサ条約」を締結した。英国エベレスト登山の推進役も務めた。帰国後、「王立地理学会」会長・「エベレスト委員会」議長等を歴任した)が、一八八六年に踏破した北京・満州・ゴビ砂漠・トルキスタン・ヤルカンド・ヒマラヤ等の探検記。「カラコラムを越えて」という邦訳題で知られる。「Internet archive」で当該年版の原本が読めるが、熊楠が言っているページ数の前ページからそれが当該ページにかけて記されてある。

 

 古印度に龍燈てふ名の有無は知(しら)ぬが燈が龍の居る上の樹に懸る話はある(後文を見よ)。釋迦方誌卷中に、尼波羅國(にはらこく)の熱水池底の慈氏佛の冠を火龍が護る事有るが、火龍は小說西遊記等にも見え火を吐き物を燒散(やきちら)す龍で龍火とは別だ。神僧傳四に、劉宋の竺道生吳の虎丘山に講經した時、雷震靑園佛殿、龍昇于天、光影西壁、因改寺名曰龍光《雷、靑園の佛殿に震(ふる)ひ、龍、天に昇る。光、西壁に影ず。因つて寺名を改め、「龍光」と曰ふ。》と見ゆ。宗鏡錄(すぎやうろく)九七に、燈と光と二名有れども其體別ならず、卽ち燈是れ光、光是れ燈と有るが、爰の龍光は落雷の閃光が寺壁に映つたので龍燈ではない。又佛祖統記四、唐の代宗、「於大明宮建道場、感佛光現、諸王公主近侍諸臣竝視光相、自子夜至鷄鳴」《大明宮に於いて道場を建て、佛光の現ずるを感ず。諸王・公主・近侍の諸臣、竝(なら)びに光相(くわうさう)を視る。子夜(しや)[やぶちゃん注:(ね)の刻。真夜中。] より鷄鳴に至る。》。又憲宗佛骨を禁中に迎え入れた時の記に、「初舍利入大内、夜放光明、早朝群臣皆賀曰、聖德所感、韓愈獨不言、上、問愈、愈曰、微臣曾見佛經、佛光は非靑黃赤白等相、此是龍神衞護光云々」《初め、舍利、大内(だいだい)に入るや、夜、光明を放つ。早朝、群臣、皆、賀して曰はく、「聖德の感ずる所なり。」と。韓愈、獨り、言はず。上(かみ)、愈に問ふ。愈、曰はく、「微臣、曾つて佛經を見るに、『佛の光は靑・黃・赤・白等の相(さう)非(あら)ず。』と。此(こ)れは是(こ)れ、龍神衞護の光なり」云々》。此(この)所謂(いはゆる)佛光は僧輩が方術もて佛舍利から夜分光明出る樣(やう)見せたらしい。其を韓愈は眞の佛光とは信ぜなんだが、舍利を衞護する龍の體から出る光と信じたので、先(まづ)は人造の龍燈だ。其から韻府拾遺二五に、「拾遺記、海人乘霞舟、以雕囊、盛數升龍膏、獻燕昭王。王坐通雲臺、然龍膏爲燈火、光曜日、烟色如丹」《「拾遺記」に、『海人、霞舟(かしう)に乘り、雕囊(てうなう)を以つて數升の龍膏を盛り、燕の昭王に獻ず。王、通雲臺に坐し、龍膏を然(も)やし、燈火と爲(な)す。光、日に曜(かがや)き、烟(けふ)りの色は丹(に)のごとし。』と。》。此龍膏燈は何か鯨族(げいぞく)の油膏〔あぶら〕を燈に用ひたのを誇張した譚だらう。字が龍燈と混(まぎ)れ易〔やす〕いから記し置く。さて予が知り得た所、本邦で專ら龍燈と呼ぶ者の異名を列ねて見やう。

[やぶちゃん注:「古印度」底本では不自然に字空けがある(右ページ後ろから二行目。活字落ちと判る)ので、「選集」で「古」を補った。]

「釋迦方誌」「釈迦方志」とも。唐代の高僧道宣(五九六年~六六七年)によって編纂された「封疆篇」・「統摂篇」・「中辺篇」・「遺迹篇」・「游履篇」・「通局篇」・「時住篇」・「教相篇」の八つの篇に分け、仏祖釈迦牟尼の誕生地や、教説流布地などを記述した仏教史跡地誌であり、その内容は、西域、特にインドの地理環境や中インドの交通ルートや経由国、西行求法の人物、仏教の中国伝来に関する史実や伝説、歴代帝王の奉仏事績、各時代の寺院の数や僧尼の人数などの多岐に亙る。中国仏教研究に欠かせない典籍の一つ。

「尼波羅國」ネパールのこと。

「神僧傳」漢籍の仏教僧の伝記らしいが、成立も作者も不詳。

「劉宋」(四二〇年~四七九年)は中国の南北朝時代の南朝の国名。

「吳の虎丘山」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「宗鏡錄」(すぎょうろく)は中国五代十国時代の呉越から北宋初の僧の永明延寿が撰した仏教論書、全百巻。九六一年成立。当該ウィキによれば、『撰者の永明延寿は、雪峰義存の弟子である翠巌令参のもとで出家し、天台徳韶の嗣法となった禅僧である。永明延寿の主著が、本書であり、禅をはじめとして、唯識宗・華厳宗・天台宗の各宗派の主体となる著作より、その要文を抜粋しながら、各宗の学僧によって相互に質疑応答を展開させ、最終的には「心宗」によってその統合をはかるという構成になっている』とある。

「佛祖統記」南宋の僧志磐が一二六九年に撰した仏教史書。全五十四巻。当該ウィキによれば、『天台宗を仏教の正統に据える立場から編纂され』たものとある。詳しくはそちらを見られたい。なお、引用の内、「諸王公主近侍諸臣竝視光相」の「竝」は「選集」では、「皆」となっているが、中文サイトその他を見るに、「並」となっており、採らない。

「子夜」午前零時前後。

「鷄鳴」午前二時頃。

「韻府拾遺」既注。「佩文韻府」を見よ。

「拾遺記」中国の伝承を集めた志怪小説。全十巻。作者は後秦(四世紀)の王嘉。三皇五帝から、西晋末の石虎(せきこ)の事績にまで及ぶが、原本は滅び、現在の「漢魏叢書」等に収められているものは、梁の蕭綺が再編したもの。内容は奇怪で淫乱な話柄が多く、総てが事実ではないとされる。第十巻は崑崙山・蓬莱山などの名山記となっている。王嘉は隴西安陽の出身で、容貌、醜く、滑稽を好んだが、崖に穴居したり、その言動は奇矯であった。後趙の石季竜(せききりゅう=石虎:在位:三三五年~三四九年)の末年、長安に出て、終南山に隠棲したが、その予言はよく当たるとされ、前秦の苻堅(ふけん)が淮南で敗れることを予知したとされる。後秦の姚萇(ようちょう)に召されたが、彼の機嫌を損ねたため、殺された(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

 (山燈)。上に述べた通り。

 (天燈)。趙宋の范成大詩、「山頭一任天燈現」《山頭は 一(ひと)へに天燈の現ずるに任(まか)す》、楊萬里詩、「澄泓無復現天燈」《澄泓(ちようわう)として 復(ま)た 天燈の現ずること無し》(韻府廿五)。南宋末の劉壎(りゆうけん)が書いた隱居通議三十に神怪窈冥(しんかいえうめい)と題して、「廬阜天池、則見文珠天燈、西蜀峨眉、則見普賢天燈」《廬阜(ろふ)の天池には、則ち、文珠の天燈を見、西蜀の峨眉には、則ち、普賢の天燈を見る。》。龍火と龍燈と同じきに反し、天火と天燈とは別だ。「人火曰火天火曰災」《人火は火と曰ひ、天火は災と曰ふ。》(淵鑑類函三五九、左傳を引く)。天火は人爲(じんゐ)に出(いで)ず、天然に生ずる總ての火を云ふた名だらうが、主として天より落つる隕石の火を云うたらしく、卽ち日本でも俗にテンビと呼ぶ。上に引いた本草網目火の分類中所謂星精の飛火だ。異苑、「晋義煕十一年、京都火災大行、吳界尤甚。火防甚峻、猶自不絕。時王弘守吳郡、晝座廳視事、忽見天上有一赤物下、狀如信幡、遙集南人家屋、須臾火遂大發、弘知天爲災、故に不罪始火之家、識者知晋室微弱之象也」《晉の義煕十一年、京都(けいと)、火災、大いに行はれ、吳界、尤も甚だし。火防、甚だ峻(きび)しけれど、猶ほ自(おのづ)と絕えず。時に王弘、吳郡に守(しゆ)たり。晝(ひる)、廳に坐して事を視るに、忽ち、天上より、一つの赤き物の下(お)つる有るを見る。狀(かたち)は信幡(しんぱん)のごとし。遙かに南人(なんじん)の家屋に集まり、須臾(しゆゆ)にして、火、遂に、大いに發す。弘、天の災ひを爲すを知り、故に火を始めし家を罪(つみ)せず。識る者、晉室の微弱となれる象(きざし)と知れり。》(類聚名物考三三七、天火)。佩文韻府五〇に、史記孝景紀、三年長星出西方、天火燔雒陽東宮大殿城室。蜀志劉焉傳、劉焉爲益州刺史、志意漸盛、造作乘輿車具千餘乘、後被天火燒城、車具蕩盡。竹書紀年、武王將伐紂、天火流下、應以告也云々。易林、天火大起、飛鳥驚駭《「史記」の「孝景紀」に、『三年、長星(はうきぼし)、西方に出でて、天火、雒陽(らくやう)の東宮・大殿・城室を燔(や)く。』と。「蜀志」の「劉焉傳」に、『劉焉、益州の刺史と爲(な)る。志意、漸(やうやう)盛んにして、乘輿の車具千餘乘を造作(ざうさく)す。後、天火に城を燒かれ、車具、蕩盡す。』と。「竹書紀年」に、『武王、紂を伐たんとするや、天火、流れ下る。應(わう)じて以つて告ぐるものなり』云々。「易林」、『天火、大いに起こり、飛鳥、驚駭(けいがい)す。』と。》等の例を擧げたは、何れも奔星(ながれぼし)が飛び隕(お)ちて火災を生じ若くは人畜を騷がせたのだ。東鏡一二に「建久三年四月三十日丑尅、若宮職掌紀藤太夫宅燒亡、不移他所、諸人走集之處、家主云、是非失火放火等之疑。偏存天火之由云々」《建久三年四月三十日丑の尅(こく)、若宮の職掌(しきしやう)紀藤大夫(きのとうだいふ)が宅、燒亡(しやうばう)す。他所(たしよ)へ移らず。諸人(しよにん)、走り集まる處、家主云はく、「是れ、失火・放火等の疑ひに非ず。偏(ひと)へに、天火の由(よし)を存ず。」と云々》。後文に據ると、翌日藤太夫狂亂して、實は或女を口說(くど)いたが、鶴が岡の宮に納むべき神鏡が自宅に在るを憚るとて聽入(ききい)れぬ故、彼女の宅と思ひ放火したら自宅ぢやつたと自白したので、賴朝神威の嚴重なるに驚き鶴岡上下宮(じやうげぐう)へ神馬二疋を獻じた、と有る。さて福本日南に曾て聞いたは、筑前の俗傳に隕星(ゐんせい)[やぶちゃん注:隕石。]が落ちた人家はいたく衰えるか、きわめて繁昌するかだと云ふ、と。

[やぶちゃん注: 「神怪窈冥」(しんかいようめい:現代仮名遣)人為を超えた不可思議なものは奥深くて測り知ることの出来ないことを言う。

「廬阜天池」現在の新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州阜康市にある天池(天山天池・新疆天池とも呼ぶ)。ボゴダ山の北麓にある氷河湖で、西王母神話や宗教的でユニークな民族民俗・習慣で知られ、その景色は絶佳とされる。

『異苑、「晋義煕十一年、京都火災大行……」底本に明らかに誤りが複数あることが素人の私にも感じられた。そこで「中國哲學書電子化計劃」の「異苑」の影印本の当該部で特異的に訂した。一々挙げないが、比較されたい。「異苑」は六朝の宋代の説話集。全十巻。劉敬叔撰。現存のテキストは明代に改編集されたもので、『津逮秘書』及び『学津討源』という二つの叢書に収録されいるものが最もよく纏まっている。六朝時代に数多く著された志怪小説の一つで、当時の人物に関する怪奇な挿話や、民間に伝わる超自然的な説話から仏教説話にも亙り、他の志怪物と比べ、かなり多彩である。著者劉敬叔は彭城(ほうじょう)県(現在の江蘇省)の人で、宋に仕え、文帝の時、拝謁・奏上の取次などを掌った給事黄門郎となり、泰始年間(四六五年~四七一年)に病没したと伝えられる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。私の非常に好きな作品である。【二〇二二年四月十二日追記】先のT氏より、『熊楠は類書からの引用を正しく書いていますが、そのため、類書の間違いがそのまま反映されます。この「異苑」の一寸変なのは、「類聚名物考」三百三十七雑十二「災異」の「〇天火」から取っているためです。』とお教え下さり、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を添えて下さった。ここである。再拝謝意を申し上げる。

「晉の義煕十一年」東晋の元号。四一五年。

「京都」東晋の首都は建康(南京の古称)。

「吳界」呉郡との堺の意。

「信幡」印とする旗。

「南人」賤人の意か。

「類聚名物考」既注。国立国会図書館デジタルコレクションのここ

「東鏡一二に「建久三年四月三十日丑尅、若宮職掌紀藤太夫宅燒亡……」これも底本に引用の不備があるので所持する「吾妻鏡」によって訂してある。この話、「吾妻鏡」では、かなりけったいな話の一つとして、かなり知られたものである。一つはこの年の三月に後白河法皇が崩御し、同年七月十二日に即位した後鳥羽天皇によって頼朝が征夷大将軍に任ぜられた、その絶妙なインター・ミッションの時期に当たるからである。実は、この日の前日の記載に(以下、本文の後ろに( )で書き下し文を示した)、

   *

廿九日庚午。大流星飛行云々。天文所示。吉凶難定者歟。

(廿九日庚午(かのえむま)。大流星(だいりゆうせい)、飛行(ひぎやう)すと云々。天文(てんもん)の示す所は「吉凶、定め難き者か」と。)

   *

という異変が記されてあって(「天文」は天文学的変異を占う天文家)、次が深夜丑三つ時の鶴岡八幡宮の神楽を演ずる役の者であった「紀藤大夫」の家が焼け落ち、彼がまた、異様にも自ら、「これは、絶対に、天の神がつけた火で御座る。」と言ったというのである。而して、熊楠が述べる通り、実は、そのまた翌日の記事に、

   *

五月一日壬申。鶴岡宮備供祭。巫女職掌等群參。而紀藤大夫俄以狂亂。吐詞云。見小壺楠前【在町末邊女云々。】日來通艶言之處。奉鑄神鏡。安家中。近日欲持參于鶴岡宮之由稱之。不許容之間。去廿九日夜。雖欲令燒彼家。依指合默止畢。去夜取松明。出行之時。思彼女宅之由。燒自宅云々。則義慶房。題學房加持之云々。

(五月一日壬申(みづのえさる)。鶴岡宮に供祭(ぐさい)を備(そな)ふ。巫女・職掌等、群參す。而(しか)るに、紀藤大夫、俄かに以つて狂亂し、詞(ことば)を吐きて云はく、

「小壺の楠前【「町末(まちすゑ)の邊りに在る女と」云々。】〕を見て、日來(ひごろ)、艶言(つやごと)を通ずるの處、『神鏡(しんきやう)を鑄(い)奉りて、家の中(うち)に安(やす)んず。近日(きんじつ)、鶴岡宮に持參せんと欲する。』の由、之れを稱して、許容せざる間(あひだ)、去(いん)ぬる廿九日の夜、『彼(か)の家を燒かしめん。』と欲(ほつ)すと雖も、指合(さしあひ)に依つて、默止し畢(をは)んぬ。去ぬる夜、松明(たいまつ)を取りて、出で行くの時、彼(か)の女の宅の由を思ひて、自宅を、燒く。」

と云々。

 則ち、義慶房・題學房、之れを加持すと云々。)

   *

という大珍事が起こったのであった。「供祭」は神仏へ御供え物をして祀ることを指す。「小壺」は現在の逗子市小坪。頼朝が開幕以来最大の危機を迎えた『「亀の前」事件』で彼女を最初に隠していたのも、実は、ここであったのである。私のサイト版「新編鎌倉志卷之七」の「飯島」の条を読まれたい。「指合に依て默止し」とは「差し支えることがあったので止めた」の意。或いは先の「大流星」が気になったのかも知れない。この発狂(神職である者の過度の淫欲の罰が当たったと概ね考えられたのであろう)や自宅への火付け、そうして、その実行予定日の大流星の符合が、頼朝を始めとした幕閣や、鎌倉の民草総てに、神意の恐ろしさを告げたものとなり、その神の怒りを鎮めんがために、最後の加持祈禱が修せられたというわけである。寧ろ、私は、先に太字にした部分から、女好きであった頼朝にとっては、トラウマのフラッシュ・バックされる事件であったと踏んでいるのである。そうして、未だ到来しない征夷大将軍の宣旨に対する焦燥感も加わってくれば、我々の想像以上の恐懼を頼朝は感じたに違いないと私は考えるのである。それが意想外に深刻なものとして頼朝に捉えられていたことは、熊楠が記している通り、その発狂事件から、十一日後の、五月十二日の条に、

   *

十二日癸未。幕下令奉神馬二疋於鶴岡上下宮給。是紀藤大夫所爲聞食及間。神威巖重。今更依有御崇重。如此云々。

(十二日癸未(みづのとひつじ)。幕下、神馬二疋を、鶴岡上・下宮に奉らしめ給ふ。是れ、紀藤大夫が所爲(しよゐ)を聞(き)こし食(め)し及ぶの間(あひだ)、神威の巖重、今更に、御崇重(ごすうちやう)有るに依りて、此(か)くのごとしと云々。)

   *

ことからも、よく判ると私は感ずるのである。言っておくと、鎌倉史は私の三十五年来の守備範囲で、ど素人ではない。

「福本日南」(にちなん 安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)はジャーナリスト・政治家・史論家。ウィキの「福本日南」によれば、勤王家の福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生まれた。本名は福本誠。司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学したが、「賄征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で原敬・陸羯南らとともに退校処分となった。その後、『北海道やフィリピンの開拓に情熱を注ぎ』、明治二一(一八八八)年、同じ『南進論者である菅沼貞風と知友となり、当時スペイン領であったフィリピンのマニラに菅沼と共に渡ったが、菅沼が現地で急死したため、計画は途絶した』。『帰国後、政教社同人を経て』、翌明治二十二年には陸羯南らと『新聞『日本』を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。日本新聞社の後輩には正岡子規がおり、子規は生涯日南を尊敬していたという』明治二十四年には、発起人の一人となって『アジア諸国および南洋群島との通商・移民のための研究団体である東邦協会を設立』、『その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる』明治三八(一九〇五)年、『招かれて』、『玄洋社系の「九州日報」(福陵新報の後身、西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任』、二年後の第十回『衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し』て当選した。一方、同年に「元禄快挙録」の連載を『九州日報』紙上で開始している。これは『赤穂浪士称讃の立場にたつ日南が』、「忠臣蔵」の『巷説・俗説を排して』、『史実をきわめようと著わしたものであり、日露戦争後の近代日本における忠臣蔵観の代表的見解を示し』、『現在の』「忠臣蔵」の『スタイル・評価を確立』したものとされる。彼は明治三一(一八九八)年から翌年にかけて、パリやロンドンに滞在しており、ロンドンでは、南方熊楠と出会い、この時の交遊を描いた随筆「出てきた歟(か)」を明治四三(一九一〇)年に『大阪毎日新聞』に連載、これがまさに熊楠を日本に初めて紹介した記事であるとされるのである。]

 

 (神燈)。唐の釋道宣の列塔像神瑞迹に、「簡州三學山寺、有佛跡、每夜神燈在空、遠見近滅、至大齋夜、其燈則多」《簡州の三學山寺に、佛跡有り。每夜、神燈、空に在り、遠きは見え、近きは滅(き)ゆ。大齋(だいさい)の夜に至れば、その燈、則ち、多し。》。淵鑑類函三六〇に、「孔帖、唐玄宗朝謁亳州太淸、上尊號、是夜神燈現」《「孔帖」に、『唐の玄宗、亳州(はくしう)の太淸に朝謁し、尊號を上(たてまつ)らる。是(こ)の夜、神燈、現ず。』と。》。韻府二五に、朱子の方廣聖燈の詩、「神照燈夜惟聞說、皓月當空不用尋」《神燈 夜を照らすこと 惟(た)だ聞說(ぶんせつ)するのみ 皎月 空に當りて 尋ぬるを用いず》。是で聖燈神燈は同一物と判る。

[やぶちゃん注:「釋道宣の列塔像神瑞迹」初唐の律宗僧で南山律宗の開祖である道宣(五九六年~六六七年)の「広弘明集」(こうぐめいしゅう)の中の巻十五の「仏徳篇」中の一篇らしい。

「簡州」唐代から民国初年にかけて現在の四川省成都市簡陽市(グーグル・マップ・データ)一帯に置かれた州。

『朱子の方廣聖燈の詩、「神照燈夜惟聞說、皓月當空不用尋」』底本では「神」は「仙」であるが、朱熹の詩篇文字列で検索したところ、複数の信頼出来るサイトで「神」であることが判ったので、訂した。]

 

 (仙燈)。韻府二五、丁復送僧過廬山《僧の應山を過ぐるを送る》詩に、「仙燈夜半天人落、佛屋春深海客過」《仙燈 夜半に 天人 落ち 佛屋 春深くして 海客 過ぐ》。隱居通議の、廬阜の文珠の天燈を云ふのだ。

[やぶちゃん注:「丁復」元代の詩人。この詩は中国ではよく知られている詩のようである。]

 

 (文珠燈)韻府二五に、周必大天池觀文珠燈(天池に文珠燈を觀る)詩を抄載す。倭漢三才圖會七七、天の橋立の松林の中有文珠堂、自海底出現云々、每月十六日夜半後、丑寅方海澳出龍火、浮寄堂北邊、正五九月十六夜則一火天降、謂天燈、又一燈者名伊勢御燈者、堂前有松一株、名御燈松(拾芥抄云、智恩寺ハ丹後九世文珠、天龍六齋供燈明云々)《「松林の中に文珠堂有り。海底より出現ありし」云々。「每月十六日の夜半の後(のち)に、丑寅の方の海-澳(をき)より、龍火を出だす。堂の北邊に浮き寄る。正・五・九月の十六夜には、則ち、一火、天より降(くだ)る。之れを「天燈」と謂ふ。又、一燈、「伊勢の御燈」と名づくる者有り、堂の前に松一株有り、「御燈」の松と名づく【「拾芥抄」に云はく、『智恩寺は丹後九世の戶の文珠。天龍、六齋、燈明を供(きよう)す』云々)】。》妙法蓮華經の提婆達多品に、智積(ちしやく)菩薩、多寶如來に本土寶淨國に還らんことを勸めると、「釋迦牟尼佛、告智積曰、善男子、且待須臾、此有菩薩名文珠師利、可與相見、論說妙法、可還本土、爾時文珠師利坐千葉蓮華、大如車輪、俱來菩薩亦坐寶蓮華、從於大海裟竭羅龍宮、自然涌出、住虛空中、詣靈鷲山」《釋迦牟尼佛、智積に告げて曰はく、「善男子、且つ、須臾(しばら)く待て。此(ここ)に菩薩有り、『文珠師利(もんじゆしり)』と名づく。共に相ひ見るべく、妙法を論說して、本土に還るべし。」と。爾(そ)の時、文珠師利は、千葉(せんえふ)の蓮華、大なること、車輪のごときに坐す。俱(とも)に來たりし菩薩も、亦、寶蓮華(はうれんげ)に坐し、大海の裟竭羅龍宮(しやかつらりゆうぐう)より自然に涌き出だし、虛空の中(うち)に住み、靈鷲山(りやうしゆうせん)に詣(いた)る。》。其から智積が法華經の力を問ふに答へて、娑竭龍王の女(むすめ)八歲なるが、此經を持した功德で忽ち男子(なんし)と化(な)り成佛した由を述べ居る。この他にも、諸經に天と龍が文珠を敬禮する話多く、ネパウル國[やぶちゃん注:ネパール。]の古傳に、初め毘婆尸佛〔ヴイバシイぶつ〕が龍住池〔ナガヴアサ〕に蓮を種えると、獨一法身〔アジブツダ〕[やぶちゃん注:四字へのルビ。]が其蓮華から火熖身〔ジヨチルブブツダ〕を化出〔けしゆつ〕し、此火今に燃居(もえを)る。唯一法身〔アヂブツダ〕の后〔きさき〕般若水〔プラジユナ〕と現〔げん〕じた時、火熖佛出(いで)て來たので、文珠菩薩かの聖火(乃(すなは)ち火熖佛)の上に無骨身塔〔チアイチア〕を建てんとするに水出(いで)て止まず、石を据(すゑ)る事成らず。文珠精誠念誦して甫〔はじ〕めて水止まり、塔を築(きづ)き得たと有る(一八四二年板ベンガル亞細亞協會雜誌卷一二、ホジソン譯ネパール國經四〇二頁)。何だか夢の樣な譚だが、彼國でも文珠は多少龍と火に關係ある證〔あかし〕とは成る。此樣(このやう)に文珠と龍と緣が切れぬ所から、切戶(きれと)(一名九世戶(くせのと))へ天燈など點(とも)ると云ふたので、此等の名は文珠燈と俱に支那傳來に外ならじ。

[やぶちゃん注:「倭漢三才圖會」は所持する原本と比較対照した。【 】で示したのはその原本の二行割注部である。]

 

 (聖燈)。田中由恭の祇園南海先生詩集三、「遊紀三井山」《紀(き)の三井(みゐ)に遊ぶ》詩、「昌國一燈傳聖燄」《昌國(しやうこく)の一燈 聖燄(しやうえん)を傳ふ》の句の注に、「補陀落山在昌國縣海中、其八景中有洛伽燈火蓮洋古渡」《補陀落山(ふだらくさん)は昌國縣の海中に在り。其の八景の中(うち)に、洛伽(らくか)の燈火、蓮洋の古き渡し、有り。》。この洛伽燈は果して紀三井山の龍燈と同樣の物か否か分らぬが、兎に角南海が紀三(きみ)の龍燈を聖燄と做〔し〕たのは、支那で龍燈を聖燈と呼ぶ例あるに據つたので、上に引いた廣輿記に、蓬州の山燈の最も異なる奴〔やつ〕を「土人呼爲聖燈」《土人、呼んで聖燈と爲す。》とあり、朱子の方廣聖燈の詩も、上の神燈の條に既に言うた。韻府二五、宋史渤海國傳、「拜聖燈五臺之上」《聖燈を五臺の上に拜す》、また上[やぶちゃん注:「の」の脱字か。]廬山紀事、「天池文殊院西、有聖燈巖」《天池は文殊院の西。聖燈巖有り。》、また淸凉山志(せいりやうさんし)、「張商英來游、至眞容院、僧曰、此處有聖燈、商英乃稽首默禱、酉後見黃金寶階、戌初北山有大火炬、僧曰、聖燈也」《張商英、來游して眞容院に至る。僧曰はく、「此處(ここ)に聖燈有り。」と。商英、乃(すなは)ち、稽首默禱す。酉(とりのこく)の後、黃金の寶階を見、戌(いぬのこく)の初め、北山に大火炬(だいくわきよ)有り。僧曰はく、「聖燈なり。」と。》、孔武仲宿天池《天地に宿(しゆく)す》詩、「聖燈稍々出、弄影何窈窕」《聖燈は稍々(しようしよう)と出(い)で 影を弄ぶこと 何ぞ窈窕(えうちやう)たる》。慈覺大師入唐求法巡禮行記三に、五臺山に上った時、「初夜臺東、隔一谷嶺上、空中見聖燈一盞、衆人同見禮拜、其燈光初大如鉢許、後漸大如小屋、大衆至心高聲唱大聖號、更有一盞燈、近谷現、亦初如笠而漸大、兩燈相去遠望十丈許、燈火熖然、直至半夜沒而現矣」《初夜[やぶちゃん注:午後六時から九時頃。]、臺の東、一谷を隔つる嶺上に、空中に聖燈一盞(せん)[やぶちゃん注:ここは「一つの小さな盃ほどの丸い光りの球」の意。]あるを見る。衆人(しゆじん)、同じく見て禮拜(らいはい)す。其の燈光、初め、大いさ、鉢許(ばか)りのごとく、後(のち)、漸(やうやう)、大いさ、小屋のごとし。大衆は、至心もて、高聲に「大聖(たいせい)」の號(みな)を唱(とな)ふ。更に、一盞の燈、有り、谷に近く現(げん)ず。亦、初め、笠のごとくして、後、漸、大(だい)たり。兩燈、相ひ去ること、遠く望むに、十丈許り、燈火、熖然(えんぜん)として、直(ぢき)に半夜に至り、沒して、現ぜず。》。是は羅馬人の所謂カストル及ポルクスの火だらう(下を見よ)。大淸一統志一四八、「商州聖燈龕、在鎭安縣北三十里、相傳每良夜、常見燈懸崖畔因名」《商州の聖燈龕(しやうとうがん)は鎭安縣の北三十里に在り。相ひ傳ふ、良夜每(ごと)に、常に、燈の、崖畔(がいはん)に懸かるを見る、因つて名づくと。》。前述支那土耳其斯坦[やぶちゃん注:「トルキスタン」。]の燈巖〔ランプ・ロツク〕の如く、月明かな夜每に其光を反射して點燈した樣見えるのであらう。

[やぶちゃん注:「淸凉山志」明の釈鎮澄撰の山西省五台県の東北にある五台山の仏教的地誌かと思われる。なお、この「淸凉山志」中の「酉後見黃金寶階」の「階」は底本も「選集」も「堦」であるが、信頼出来る複数のサイトで「階」とするので、そちらを採用した。

「カストル及ポルクスの火」双子座のことであろう。ポリュデウケースはボクシングの名手で、兄のカストールと協力し、数々の手柄をたてた。ポリュデウケースは神の血を受け継いで不死身だったが、人間だった兄が戦死してしまい、神に慈悲を乞うて、兄とともに天にいることを許されたというローマ神話がある(ウィキの「ポリュデウケース」に拠った)。]

 

 (菩薩燈)。斯樣〔こん〕な名は無いが、龍燈を菩薩が空中に放光すと見たのだから、此名を用ひても差支(さしつかへ)なからう。宋高僧傳一五、唐朝の僧鑑源の傳に、「其山寺(漢州開照寺)云々、有慧觀禪師、見三百餘僧、持蓮燈凌空而去、歷々若流星焉、開元中崔冀公寧疑其妖妄、躬自入山宿、預禁山四方面各三十里火光、至第三夜、有百餘支燈現、兼紅光可千尺餘、冀公蹷然作禮、歎未曾有、時松間出金色手、長七尺許、有二菩薩、黃白金色閃爍然、復庭前柏樹上、晝現一燈、其明如日、橫布玻瓈山可三里所、寶珠一顆圓一丈、熠爚可愛、西嶺山門懸大虹橋、橋上梵僧老叟童子間、出有二炬爛然空中、如相迎送交過之狀、下有四菩薩、兩兩偶立、放通身光、可高六七十尺。復見大松林、後忽有寺、額篆書三學字、又燈下埀繡帶二條、東林之間夜出金山、月當于午、金銀二色燈、列於知鉉師墳側、韋南康臯、每三月就寺設三百菩薩大齋、菩薩現形捧燈、僧持香燈、引挹之爐、在寺門矣《「其の山寺(漢州の開照寺)」云々、「慧觀(ゑくわん)禪師有り、三百餘の僧、蓮燈を持して空(そら)を凌(わた)りて去るを見る。歷々として流星のごとし。開元中、崔冀公(さいきこう)、「寧(なん)ぞ、其れ、妖妄(えうまう)ならんや。」と疑ひ、躬-自(みづか)ら山に入りて宿(しゆく)し、預(あらかじ)め、山の四方面、各々、三十里[やぶちゃん注:唐代の一里は五百五十九・八メートル。十六・七九四キロメートル四方。]の火光を禁ず。第三夜に至りて、百餘支の燈、現じ、兼ねて、紅光、千尺餘たり。冀公、蹶然(けつぜん)として禮を作(な)し、「未だ曾てあらず。」と歎ず。時に松の間(あひだ)に、金色の手、長さ七尺許(ばか)りなるが、出づ。二菩薩、有りて、黃・白・金、色、閃爍(せんしやく)たり[やぶちゃん注:明るく照り輝くさま。]。然(しか)るに、又、庭前の柏樹の上に、晝、一燈を現(げん)ず。其の明るきこと、日のごとく、橫ざまに玻瓈(はり)[やぶちゃん注:「玻璃」に同じ。水晶。]を布(し)く。山の三里の所に、寶珠、一顆あり、圓(まろ)さ一丈、熠爚(しふやく)[やぶちゃん注:はっきりと光り輝く火の光り。]として愛すべし。西嶺の山門には、大虹橋、懸かり、橋上に梵僧・老叟(らうさう)・童子、間(まじ)はりて出づる。二つの炬あり、空中に爛然として、相ひ迎へ送りて、交はり過(す)ぐる狀(さま)のごとし。下に四菩薩有りて、兩々(ふたつなが)ら偶(なら)びて立ちて、通身(つうしん)、光を放つ。高さ六、七十尺ばかりなり。復(ま)た、大松林の後ろに、忽ち、寺額有るを見る。「三學」の字を篆書し、又、燈下に繡(ぬひとり)の帶二條を埀(た)る。東林の間には、夜、金山を出だす。月の午(みなみ)するに當たりて、金銀二色の燈、知鉉(ちげん)師の墳(はか)の側(かたは)らに列(なら)ぶ。韋南康皐(いなんこうこう)[やぶちゃん注:「韋皐」は唐代の官人の姓名。「南康」は地名であろう。ちょっと珍しい表記である。]、三月每(みつきごと)に寺に就いて三百菩薩の大齋(たいさい)を設(まう)くるに、菩薩、形を現じて、燈を捧ぐ。僧、香燈を持(じ)し、引き挹(うつ)したる鑪(ろ)、寺門に在り。」と。》。餘り大層な話で、どうも僧輩が結構〔しくん〕でした事としか解し得ぬが、菩薩が燈を捧げて出た時、僧が香爐(線香か)を以て其火を香爐に挹〔うつ〕し、今に寺門に存すと云ふのは、後文に出すべきエルサレムの聖火の事と同じである。

[やぶちゃん注:この長大な引用については、「中國哲學書電子化計劃」の「宋高僧傳」の影印本の当該条を視認し(引用の開始は次の丁から)、底本とも「選集」とも違うより正確と判断した原文を示した(表記はその影印本に従った)。また、訓読も私がよしとする読みで示した。読んでいて、最後の「鑪」がよく判らなかったのだが、熊楠が指示する「香爐」で腑に落ちた。なお、「宋高僧傳は唐・五代・北宋初期の高僧の伝記を集めた書物で、全三十巻。北宋の賛寧による奉勅撰にして九八八年に成立したものである。]

 

 斯種々の支那名が有り、又本邦と同物を指す龍燈なる名が確かに支那に在つたと云ふ證據は未だ見出さぬが、便宜の爲以下書物から引く每に各(おのおの)其書に用ひた通りの火の名を用ひ、一汎に法類の火を指す時は龍燈の名を用ひる事とする。

[やぶちゃん注:「法類」は「選集」では『この類』となっている。しかし、前出の不思議な「火」は圧倒的に仏教絡みであるからして、「法」でも何ら違和感はない。但し、中国や本邦のそれらの中には、怪火(くわいくわ)として、凶悪なものもある。ただ、それらを「龍燈」とは区別して絶対にそうは呼ばないし、ある種の怪火の伝承には、この世に怨念や未練を残した亡者が悪鬼となって怪火を成すというストーリーも多く見られ(仏の慈悲で目出度く往生する話もある)、これもまた、仏教範疇の辺縁にあるものも多い。]

 

 扨(さて)龍燈は、多くは高空中又は樹とか塔とか高い物の尖〔さき〕へ出る樣だ。吾邦の例は尾芝君既に擧げたから今更復言はずとして、續高僧傳四に、摩竭陀〔まかだ〕國の鷄足山(けいそくせん)、「頂樹大塔、夜放神炬、光明通照、即大迦葉波寂定所也」《頂きに大塔を樹(た)つ。夜、神炬を放ちて、光明、通(あまね)く照らす。即ち、大迦葉波(だいかせうは)の寂定(じやくじやう)せる所なり。》。西域記九には、山上に塔を建つ、靜かな夜これを遠望すると炬(たいまつ)のごとき明光有るも、山を登れば何も見えぬと有る。三寶感通錄二に、「簡州三學山寺有佛跡、常有神燈、自空而現、每夕常爾、齋日則多、州宰、意欲尋之、乘馬來寺、十里已外、空燈列現、漸近漸昧、遂竝失之、返還十里、如前還現、至今不絕」《簡州の三學山寺に佛跡有り。常に神燈の空よりして現ず。每夕、常に爾(しか)り。齋日は、則ち、多し。州宰(しうさい)、之れを尋ねんとする意を欲(ほつ)し、馬に乘りて寺に來たる。十里已外より、空燈、列(なら)び現じ、漸(やうやう)近づけば、漸、昧(くら)く、遂に、竝びて、之れを失ふ。返-還(かへ)ること十里、前(さき)のごとく、復た、現ず。今に至るも絕えず。》。隋の王劭(わうせう)の舍利感應記に、「蒲州、栖嚴寺起塔(仁壽元年の事)。十月十三夜、浮圖上又有光、如三佛像、竝高尺、停住久之」《蒲州、栖嚴(せいがん)寺に塔を起つ(仁壽元年の事)。十月の十三夜、浮圖の上に、又、光り有り、三佛の像のごとく、竝びの高さ尺にして、停住すること之れを久しうす。》。此塔より夜分光を出(いだ)す、「諸光多紫赤、而見者色狀不必同、或云大電、或云如燎火、其都無所見者十二三、有婦人、抱新死小兒、來乞救護、至夜便蘇、遇燈光照以愈疾者非一」《諸光、多く、紫赤にして、見る者、而して、色・狀、必ずしも同じからず。或いは大電(いなづま)のごとしと云ひ、或いは燎火(かがりび)のごとしと云ふ。その都(すべ)て見ることなき者は、十に二、三なり。婦人有り、新たに死せし小兒を抱き、來たつて救護を乞ふに、夜に至りて、便(すなは)ち、蘇(よみがへ)る。光の照らすに遇ひて以つて疾ひを愈(いや)せし者、一(ひとり)のみに非(あら)ず。》。見る人の說も一定せず全〔まる〕で見ぬ人も有り、又光に照されて病愈えたなど群集錯誤が流染したと見える。又云く、「鄭州於定覺寺起塔、舍利將至寺東、有光如大流星、入至佛堂前沒、輿到此處、無故自止、既而定塔基於西岸、其東岸舊舍利塔、有三光、西流入於基所入云々」《鄭州(ていしう)、定覺寺に塔を起つ。舍利、將に寺の東に至らんとしするに、光、有り、大流星のごとし。入りて佛堂の前に至りて、沒(き)ゆ。輿(こし)、此の處に到りて、故無くして自(おのづか)ら止まる。既にして、塔基を西岸に定む。其の東岸の舊舍利塔に、三光、有り、西に流れて基(もと)の所に入る云々》。これは流星の花火でも仕掛けて愚人共を欺いたのであらう。續高僧傳四、「烏荼國東境、臨海有發行城云々、次南大海中僧伽羅國有云々。相去約指二萬餘里、每夜南望、見彼國中佛牙塔上寶珠、光明騰焰、暉赫見於天際」《烏荼國(うだこく)の東の境、海に臨みて、發行城、有り云々、次いで、南の大海中に僧伽羅國(そうぎやらこく)有り云々。相ひ去ること約(おほよ)そ指すに二萬餘里。每夜、南望すれば、かの國中の佛牙塔上の寶珠、光り明(かがや)きて焰を騰(あ)げ、暉(て)り赫(きら)めきて天際に現ずるを見る。》。是も高塔上に强い光を仕掛〔しかけ〕で出(いだ)した事と見えるが、塔が時に異光を放つと云ふ事古くより人心に浸潤し居たは、高僧傳一に、「晉の咸和中蘇峻作亂、焚康僧會所建塔、司空何充復更修道造、平西將軍趙誘世不奉法、夢入此寺、謂諸道人、久聞此塔屢放光明、虛誕不經、所未能信、若必自覩、所不論耳、言竟塔卽出五色光、照耀堂刹、誘肅然毛竪、由此信敬」《晉の咸和中、蘇峻、亂を作(な)し、康僧會(こうそうゑ)の建てし所の塔を焚(や)く。司空何充、又、更に、修造す。平西將軍趙誘、世に法を奉(ほう)ぜず。夢に、この寺に入りて、諸道人に謂ふ、「久しく聞く、『此の塔、屢(しばしば)光明を放つ。』と。虛誕不經(きよたんふけい)にして、未だ信ずる能(あた)はざる所なり。若(も)し、必ず、自(みづか)ら覩(み)れば、論ぜざる所とすのみ。」と。言ひ竟(をは)るや、塔、卽ち、五色の光を出だし、堂刹を照り耀かす。誘、肅然として、毛(け)竪(た)つ。此れに由りて、信敬す。》。居常(いつも)、塔頂放光のことを聞いて自然心(こころ)に浸(し)んで居たから、疑ひながらも夢に見たのだ。

[やぶちゃん注:以上の漢籍仏典は概ね日中の「大蔵経」のデータベースで原表記を確認して底本を訂した。

「吾邦の例は尾芝君既に擧げた」『尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」』を参照されたい。

「續高僧傳」梁の慧皎(えこう)の「高僧伝」に続けて撰せられた中国の高僧の伝記集。盛唐の道宣(五九六年~六六七年)撰で、全三十巻。六四五年の成立である。

「摩竭陀〔まかだ〕國」「マガダ」国は古代インドのガンジス川中流域を支配した王朝名。紀元前六世紀から紀元前五世紀頃から栄えた。

「鷄足山」伽耶(がや)城の南東にあり、釈迦の弟子迦葉が入寂したと伝えられる鶏足洞がある。ククタパダ山。現行ではここ(グーパ山:グーグル・マップ・データ)に比定されているようだが、しかし、ここは逆立ちしてもガンジス川中流とは言えない。

「三寶感通錄」「集神州三寶感通錄」。同じく道宣によって編纂されたもの。

「王劭」(?~六〇八年?)は隋の学者。字は君懋(くんぼう)。山東省太原の出身。著作郎・秘書少監を歴任し、道教と仏教を交えた教理により、「真人革命」を説き。「皇隋霊感誌」を著わした。

「蒲州」南北朝時代から民国初年にかけて現在の山西省運城市(グーグル・マップ・データ)一帯に設置された州。

「仁壽元年」隋の文帝楊堅の治世に行われた二番目の元号で元年は六〇一年。

「鄭州」現在の河南省の省都である鄭州市附近(グーグル・マップ・データ)。三千五百年前の商(殷)王朝の都邑があったことで知られる。

「烏荼國」東インドの旧国名。

「僧伽羅國」現在のスリランカ。

「晉の咸和中」南北朝時代の東晋の成帝司馬衍の治世に行われた最初の元号。三二六年~ 三三四年。

「蘇峻」(そしゅん ?~三二八年)は東晋の武将。当該ウィキによれば、『西晋末期の動乱による流民を糾合して豪族として台頭し、東晋の建国と共に官位を得て軍功を挙げた。しかし』、『後に東晋朝廷からの警戒が強まると』、『朝廷への反乱を起こし(蘇峻の乱)、首都建康を陥落させるまでに至ったが、その後の会戦』で、『優勢に驕って少数の兵で敵陣へと攻め込んだ結果、落馬して戦死した』とある。

「康僧會」(?~二八〇年)は三国時代の呉の訳経僧。当該ウィキによれば、先祖は康居(嘗て中央アジアにあったとされる遊牧国家)の人で、『インドに住んでいた。僧会の父親は商人であり、交阯(ベトナム)に渡った』。『父母に死別し、その後、出家修道を始めた。また、天文学・讖緯の学にも通じていた』。二四七年、『呉の都の建業に入り、孫権の支持を得て、江南地方で最初の仏教寺院の建初寺を建立した、とされている。但し、康僧会に先立って、支謙が既に』二十『年以上前に江南に宣教していることを考えると、この建初寺のエピソードは、僧会を讃仰するために出来た俗説とも考えられる。また、交阯では江南より早く仏教が伝わっていたことから、ベトナム』の『建初寺』『が先に建立されたという前提で、名前を取ったという説もある』。『その後、経典の漢訳に従事し、中でも』、「六度集経」は『訳経されたものではなく、康僧会自身の著述であろうと考えられている』。『また、孫晧との間で繰り広げられた、因果応報に関する対論が、その伝記に記載されており、初期の中国仏教と儒教的な観念との接触、交渉の端緒として、見るべきものがある』とある。

「平西將軍趙誘」(?~三一七年)は西晋末期から東晋初期の官僚で軍人。当該ウィキによれば、『淮南郡の人』で、『西晋末期からの反乱討伐で活躍するも、最期は杜曾に敗れて討死した』。『西晋に仕え、揚州刺史郗隆』(きりゅう)『の主簿に任じられていた』。三〇一年三月、『趙王司馬倫の専横を打倒すべしとの斉王司馬冏』(しばけい)『の檄文が揚州に至った。郗隆は檄文に応じるべきか、吏僚を召し出して問うた。趙誘と虞潭は「趙王の簒逆の意は、皆憎むところであり、四方から義兵が起ち、必ず趙王を破るでしょう。自ら精兵を率いて許昌に赴くのが上策。将兵を遣わし、加勢するのが中策。少数の兵を遣わし、形ばかりの助勢で勝ちに乗じるのが下策です」と進言した。郗隆はどっちつかずの対応をしたために、参軍王邃に攻められ、子及び別駕顧彦とともに殺害された』。『趙誘は官を辞して家に還り、門を閉ざして、家から出ることはなかった』が、後に『左将軍王敦の参軍に任じられ、広武将軍を加えられた』。三一一年六月、『歴陽内史甘卓・揚烈将軍周訪とともに華軼』(かいつ;西晋の武将)『討伐にあたり、これを破った』。三一三年八月、『西晋に反乱を起こした杜弢』(ととう ?~三一五年:西晋末に活動した流民勢力の首領)『討伐にあたり、龍驤将軍陶侃』(とうかん:陶淵明の曾祖父として知られる)『の指揮下に入り、振威将軍周訪とともに前鋒として杜弢軍を破った。荊州刺史に転じた陶侃に代わり、武昌郡太守に任じられた』。『その後も杜弢討伐に甘卓とともにあたり、これを滅ぼし』、『長年の累功により、平阿県侯に封じられた』。三一七年八月、『大将軍王敦』(おうおとん)『の命により、襄陽郡太守朱軌・将軍李恒とともに荊州で反乱を起こした鄭攀』(ていはん)『らを討伐した。鄭攀らは懼れ、司馬孫景が主謀したとこれを斬り、降伏した』。翌九月、『荊州刺史王暠』(おうこう)『の命により、朱軌・陵江将軍黄峻とともに反乱を起こしていた杜曾と女観湖で戦った。趙誘らは敗れ、子の趙龔』(ちょうきょう)『とともに討ち取られた』。『王敦は趙誘の死を惜しみ、征虜将軍・秦州刺史を贈位するよう上表、敬と諡された。晋王司馬睿は趙龔に新昌郡太守を贈位した』とある。

「虛誕不經」根拠がなく出鱈目なこと。]

 

 甲子夜話續十四、崇德上皇、白峯陵へ天より御靈〔みたま〕降〔くだ〕つて夜光を放つ故光堂〔ひかりだう〕と云ふと有る。上に類聚名物考から孫引した中山傳信錄所謂天妃の神燈は、五雜俎四に、「海上有天妃、神甚靈、航海者多著應驗、如風濤之中、忽蝴蝶雙飛、夜半忽現紅燈、雖甚危必獲濟焉」《海上に天妃あり、神、甚だ靈(あらたか)なり。航海者に應驗(わうげん)著(あらは)るる者、多し。如(も)し、風濤の中に、忽ち蝴蝶(こてふ)の雙(なら)び飛び、夜半、忽ち、紅燈の現はれば、甚だ危うしと雖も必ず濟(すく)はるるを獲(う)。》と出(いづ)ると同物だ。諸國里人談三に隱岐の海中に夜火海上に現ず是は燒火(たくひ)權現の神靈也、何れの國でも難風に遭うた船夜中方角を別(わか)たざるに、此神に立願(りうぐわん)し神號を唱ふれば此火現じて助け吳れると有つて、後鳥羽上皇流されたまひし時、この火に風難を救はれ玉ひし節の御詠を載す。甲子夜話續九七には備後木梨(きなし)の海の事とし、後醍醐帝の御歌を出(いだ)す。同書六〇に寬政の頃長崎に向ふ支那舶(しなぶね)、海上惡風四方闇黑なるに遭ひて方角を辨ぜず、折節(をりふし)神(かみ)有(あ)り舳(へさき)に現じ、洋中火光を見る方に向へ、吾は日本金毘羅神也と告げたので、火光を尋ねて行き舶を全(まつた)くした。その報賽(ほうさい)に額を讃州金毘羅に捧げたと有る。

[やぶちゃん注:「甲子夜話續十四、崇德上皇、……」「フライング単発 甲子夜話續篇卷之十四 9 讚岐院の御陵」を参照。

「諸國里人談三に隱岐の海中に夜火海上に現ず……」私の「諸國里人談卷之三 焚火(たくひ)」を参照されたい。

「甲子夜話續九七には備後木梨の海の事とし、後醍醐帝の御歌を出(いだ)す」「フライング単発 甲子夜話續篇卷之九十七 9 備後國木梨海中陰〔火〕幷證謌 付 隱岐國智夫郡神火之事」を参照。

「同書六〇に寬政の頃長崎に向ふ支那舶……」「フライング単発 甲子夜話卷之六十 18 金毘羅の靈異邦に及ぶ」を参照。以上の「甲子夜話」のそれは、本篇のこれらの注のために、新たに電子化したものである。

「報賽」祈願が成就したお礼に神仏に参拝する「お礼参り」のこと。]

 

 是等の火光は無論悉く一類の物で無く原因種々有るべきも、槪して言へば西洋でエルモ尊者の火と稱ふるものを指すのだろう。エンサイクロペジア、ブリタンニカ一一板卷二及び二十四に據ると、此火は空中から徐々と地上に向ひ發する雷氣に伴ふ光で、其性質は物理試驗室で行ふ刷毛出(ブラシユで)の摩擦電氣に伴ふ光と同じく、物がひゞわれたり又竈の火が嘯(うそぶ)き鳴る樣な音之に伴ふこと多く、之を最も多く見るは冬月風雪中及び其後、又迅雷中にも屢ば生ず。墺太利[やぶちゃん注:「オーストリア」。]のソンブリク山殊に此火多きをエルスター及びガイテルが調べて一八九一年に報告せしは其發電時として陰性で光赤く時として陽性で光靑し。ゴツケル言(いは)く、雪中に此光出(いづ)るを檢するに、雪片大なれば、其電氣陽性、雪片細かければ其電氣陰性だと。而して此光主〔むね〕と現ずるは尖つた物の末で、塔頂檣端(しやうたん)又人が手を擴げた指尖(ゆびさき)にすら附くことあり(以上エンサイクロペジア)。同書に、エルモ尊者の名は伊太利人がエラスムスを訛つたので、エラスムス尊者は紀元三百四年車裂されて殉敎したが、永く地中海航者の守本尊と仰がれ、舟人此火を尊者庇護し賜ふ徵(しるし)とす。英國水夫之をコルポサンツと呼ぶは、伊語のコルポ・サント(聖體)より訛つたのだと見ゆ。

[やぶちゃん注:「エンサイクロペジア、ブリタンニカ一一板卷二及び二十四」「Internet archive」では前者はここで、後者はここ。南方熊楠が確認したのは、まず、後者の「ST ELMO'S FIRE」の項目

   *

 ST ELMO'S FIRE, the glow accompanying the slow discharge of electricity to earth from the atmosphere. This discharge, which is identical with the " brush " discharge of laboratory experiments, usually appears as a tip of light on the extremities of pointed objects such as church towers, the masts of ships, or even the fingers of the outstretched hand: it is commonly accompanied by a crackling or fizzing noise. St Elmo's fire is most frequently observed at low levels through the winter season during and after snowstorms.

The name St Elmo is an Italian corruption through Sant’ Ermo of St Erasmus, a bishop, during the reign of Domitian, of Formiae, Italy, who was broken on the wheel about the 2nd of June 304. He has ever been the patron saint of Mediterranean sailors, who regard St Elmo's fire as the visible sign of his guardianship. The phenomenon was known to the ancient Greeks, and Pliny in his Natural History states that when there were two lights sailors called them Castor and Pollux and invoked them as gods. To English sailors St Elmo's fires were known as "corposants" (Ital. corpo sanlo).

 See Hazlitt's edition of Brand's Antiquities (1905) under " Castor and Pollux." .

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さらに第二巻は、探すのに手間取ったが、「ATMOSPHERIC RAILWAY」(「大気中に於ける電気的軌道」?)の大項目の細目中のここの以下である。

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  1. St Elmo's Fire. — Luminous discharges from masts, lightning conductors, and other pointed objects are not very infrequent, especially during thunderstorms. On the Sonnblick, where the phenomenon is common, Elster and Geitel (87) have found St Elmo's fire to answer to a discharge sometimes of positive sometimes of negative electricity. The colour and appearance differ in the two cases, red predominating in a positive, blue in a negative discharge. The differences characteristic of the two forms of discharge are described and illustrated in Gockel's Das Gewittcr. Gockel states (l.c. p. 74) that during snowfall the sign is positive or negative according as the flakes are large or are small and powdery. The discharge is not infrequently accompanied by a sizzling sound.

   *

「ソンブリク山」ホーアー・ゾンブリック(The Hoher Sonnblick:ラウリスター・ゾンブリック(Rauriser Sonnblick)とも)。オーストリアのケルンテン州とザルツブルク州の国境にあるアルプス山脈中の標高三千百六 メートルの氷河 に覆われた山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「エルスター」ドイツの物理学者ジュリアス・ヨハン・フィリップ・ルードヴィヒ・エルスター(Julius Johann Phillipp Ludwig Elster 一八五四年~一九二〇年)。

「ガイテル」エルスターと共同研究したドイツの物理学者ハンス・フリードリッヒ・カール・ガイテル(Hans Friedrich Geitel 一八五五年~一九二三年)。因みに彼は「原子エネルギー」という語の創始者とも言われているようである。]

 

 一九〇五年板ハズリツトの諸信及俚傳(Hazliitt, ‘Faiths and Folklore’)卷一・九四頁に、西班牙[やぶちゃん注:「スペイン」。]人、佛蘭西人は之をヘルメス又テルメス尊者の火、伊太利人はペトロ又ニコラス尊者の火と云ふと有つて、一五九八年板、ハクロイトの航記集から此火の實視譚を引き言(いは)く、「予船上大風波に遭うた夜、小蠟燭に點(とも)した程の小光、西班牙人の所謂聖體〔ケルポ・サント〕が中檣〔メーン・マスト〕の頂に來り、其より他の檣頂(しやうちやう)へ飛び移り又飛び戾り或は二三檣頭(しやうたう)一時に光り出した」と。又一七〇四年板暴風誌(‘History of Storms’)等を引いて、俗信に此火一つ現ずれば風浪の兆(きざし)、二つ相(あひ)近づいて出ずれば晴天の徵(しるし)と云ふ。或は云(いは)く、此火五つ群がり出(いづ)れば風浪將に息(や)まんとするを示す。葡人[やぶちゃん注:ポルトガル人。]これを救世主の頸〔コラ・デ・ノストラ・セニヨラ〕と名くと。古ローマのプリニウスの博物志(‘Historia Naturalis’)卷二の三七章に此火を說いて云く、「此星、海陸共に出づ。予曾て夜警兵卒の槍上に星樣の光を見た。又鳥が飛び廻はる樣な音して進航中の舟の帆架〔ほげた〕等に留(とま)る。一つ見ゆれば難破の兆で、船體の下部に觸るれば火を燃出(ねんしゆつ)する事有り。然(しか)るに二つ現ずれば吉兆でヘレナちふ惡星を逐攘(おひはら)ふと信ぜられ、之を神としてカストル及びポルクスと稱(とな)ふ。又時として夜分人の頭の周りに輝く事有つて、或大事件を前示(ぜんじ)す」と。カストルとポルクスは大神ゼウスの二子で、カストル人(ひと)と鬪つて死せしを悲しみ、ポルクスその身不死なるにゼウスに請(こう)て自分亦死せんとす。ゼウス其悌心(ていしん)を賞し隔日に冥界に降つてカストルを見せしむ。或は云くゼウス二人を天上に寘〔お〕き、太白〔あけのめうぜう〕と長庚〔よひのめうぜう〕たらしむと、雅典〔アテネ〕の人之を神と崇め守護尊〔アナーケース〕と號〔なづ〕け、航海に軍旅に其助力を賴み、難風に逢ふ舟人檣頭に熖光を見れば此神靈なりとて、白羊兒(しろきひつじのこ)を牲〔いけにへ〕し奉らんと祈念すれば風浪忽ち靜まると信じた(一九〇八年板サイツフエルトの希臘羅馬考古辭典英譯 ‘A Dictionary of Classical Antiquities,’ 百九四頁)。

     (大正四年九月鄕土硏究第三卷七號)

[やぶちゃん注:最後の初出は底本では前行下方の下インデントであるが、ブラウザえの不具合を考え、改行し、上に引き上げた。

「一九〇五年板ハズリツトの諸信及俚傳(Hazliitt, ‘Faiths and Folklore’)卷一・九四頁」中黒「・」使用は本書では珍しい。イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。「Internet archive」の当該書原本のこちらの前ページから始まる「Castor and Pollux」の左ページの左が当該部。

「一五九八年板、ハクロイトの航記集」上記原文に“Scotish Encyclopcedia, v. Lights, Steevens quotes the subsequent passage from Hakluyt's Voyages, 1598 ”とある。

「予船上大風波に遭うた夜、小蠟燭に點(とも)した程の小光、西班牙人の所謂聖體(ケルポ・サント)が中檣(メーン・マスト)の頂に來り、其より他の檣頂(しやうちやう)へ飛び移り又飛び戾り或は二三檣頭(しやうたう)一時に光り出した」同じく原文は、

   *

" I do remember that in the great and boysterous storme of this foule weather, in the night there came upon the top of our maine yard and maine mast a certaine little light, much like unto the light of a little candle, which the Spaniards call the Cuerpo Santo, This light continued aboord our ship about three houres, flying from maste to maste, and from top to top; and sometimes it would be in two or three places at once."

   *

「一七〇四年板暴風誌(‘History of Storms’)等を引いて、俗信に此火一つ現ずれば風浪の兆(きざし)、二つ相(あひ)近づいて出ずれば晴天の徵(しるし)と云ふ。或は云(いは)く、此火五つ群がり出(いづ)れば風浪將に息(や)まんとするを示す。葡人[やぶちゃん注:ポルトガル人。]これを救世主の頸(コラ・デ・ノストラ・セニヨラ)と名くと」同じく原文は、

   *

“ When thin clammy vapours, arising from the salt water and ugly slime, hover over the sea, they, by the motion in the winds and hot blasts, are often fired ; these impressions will oftemtimes cleave to the masts and ropes of ships by reason of their clamminess and glutinous substance and the mariners by experience find that when but one flame appears it is the forerunner of a storm ; but when two are seen near together, they betoken fair weather and good lucke in a voyage. The naturall cause why these may foretell fair or foul weather, is, that one flame alone may forewarn a tempest, forasmuch as the matter being joyn'd and not dissolved, so it is like that the matter of the tempest, which never wanteth, as winds and clouds^ is still together^ and not dissipate, so it IS likely a storm is engendering ; but two flames appearing together, denote that the exhalation is divided, which is very thick, and so the thick matter of the tempest is dissolved and scattered abroad by the same cause that the flame is divided : therefore no violent storm can ensue, but rather a calme is promised." History of Stormes, 1704, p. 22.

   *

である。

「古ローマのプリニウスの博物志(‘Historia Naturalis’)卷二の三七章に此火を說いて云く、……」プリニウスの「博物誌」第二巻三十七章には、以下のように記載する(所持する平成元(一九八九)年雄山閣刊の中野定雄他訳になる第三版「プリニウスの博物誌Ⅰ」から引く)。前の三十六章も親和性が強いので一緒に掲げておく。訳者注は私の既注や熊楠の叙述とダブるが、載せておく(但し、ブラウザの不具合を考えて引き上げ、さらに改行を早くしてある)。

   《引用開始》

 星の軌道逸脱

 三六 また星があちらこちらへ飛ぶように見えることがあるが、これは間違いなくその方角から大暴風が起る凶兆である。

 

 「カストル星」について

 三七 星はまた海にも陸にも出現する。わたしは輝く星のようなもの、が、夜間塁壁の前で歩哨に立っている兵士の槍にくっついているのを見たことがある。また、航海中星が声に似た音を立てて、帆桁やその他の部分に下りて、鳥のように止り木から止り木へと跳ぶのを見た。こういう星が単独で来るようなことがあれば、それはひどく重くて船を破壊する。そしてもしそれが船倉にでも落ちれば船を全焼させる。そういう星が二つあれば、それは安全のしるしで、航海成功の前触れだ。そしてそれらが近づくとヘレナと呼ばれる恐ろしい星を追い払うということだ。そういうわけで、それらはカストルとポルクス(注1)と呼ばれ、人々は神神のようにそれらに航海の安全を祈る。それらはまた夜間人間の頭の周りで輝くことがあるが、これはたいへんな凶兆だ。これらはすべてはっきりした説明ができないもので、それらは壮大な自然の中に隠されているのだ。

注1 カストルとポルクスはゼウスとレダの息子。
   カストルは戦争の術に、ポルクスは拳闘の
   技にすぐれていた。一説ではゼウスは二人
   を天上の双生児として星座の中においたと
   いう(双子座のカストル屋とポルックス星)。
   なお、ヘレナは二人の姉妹。

   《引用終了》

「悌心」兄弟愛。「悌」は「兄弟の仲がよいこと」を言う。

「寘〔お〕き」「置」の字に同じ。

「一九〇八年板サイツフエルトの希臘羅馬考古辭典英譯 ‘A Dictionary of Classical Antiquities,’ 百九四頁)」ドイツの古典哲学者(ローマの劇作家プラウトゥスを専門とした)オスカー・サイフェルト(Oskar Seyffert 一八四一年~一九〇六年)の著。版の近い一九〇一年版のものを「Internet archive」で見たが、兄弟のことが記されてあった。こちら。]

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