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2022/04/30

譚海 卷之四 信州伊奈郡水帳に記したる信長公軍役の事 附一せんきりの事

 

○信長公諸國へ軍役の人を召さるゝに、信州伊奈郡(いなのこほり)五千石の所にして、步役(ぶやく)二人上京する定(さだめ)也。其二人路用ならびに在京の入用ども、壹人に鳥目(てうもく)二百文づつ渡し遣す事なるに、五千石の内をあなぐり集(あつめ)たるに、鳥目八拾四文ならでなし。其比(そのころ)其郡にいづかたよりか浪人にて近比(ちかごろ)在住せし人有、新來の人なれば百姓の交(まじは)りには入(いら)ず、只(ただ)穴山殿と號して外人(よそびと)にあひしらひ置(おき)たるが、穴山殿こそ有德(うとく)なる人なれば、鳥目はあるらめと申定(まうしさだめ)て、莊屋(しやうや)より鳥目を借(かり)に行(ゆき)たるに、穴山鳥目四百文を出していふやう、今迄は他國の我等事(われらこと)ゆへ交にもはぶかれたれども、此鳥目を出(いだ)し申(まうす)うヘは、向後(かうご)百姓中のかしらになし給はれといひければ、百姓ら大(おほき)にいかり、たとひ拂底(ふつてい)なる鳥目を出さるゝといへども、他國の人を頭にはなしがたし、但(ただし)向後我等等配(とうばい)の交りには入(い)らるべしとて、鳥目をかりて步行(かちだち)の人を仕立(したて)上京させしとぞ。其步役六十六里の道を六日半に京へ着(つく)事にて、一日の路用錢七文程にて飮食ともに辨(わきまへ)たるとぞ。此事其郡の水帳(みづちやう)のおくにしるし有とぞ。又信長記(しんちやうき)に一錢ぎりといふ事あり、是はむかしは髪月代(かみさかやき)も自鬢自剃(じびんじてい)にして、人にゆふてもらふ事はなし、只入牢の罪人あまり長髮に成(なり)て見苦しければ、繩付(なはつき)にてあるゆゑ自剃かなひがたきまま、牢獄の番人髮をゆふてやる也。信長公在陣のせつ牢獄の番人を召して、人々の髪月代をさせられて、その報に一人に一錢づつ出す事を定(さだめ)られたり。されば牢獄の番人罪人をもやがて斬罪するゆゑ、一錢ぎりとは番人の名を呼(よび)たる事也と、土岐異仙物がたり成(なる)由。

[やぶちゃん注:「信州伊奈郡」現在の飯田市・伊那市・駒ヶ根市・上伊那郡・下伊那郡に相当し、面積は信濃国の内の郡では最大であった。郡域は参照した当該ウィキの地図を参照されたい。

「信長公軍役」天正一〇(一五八二)年、織田信長は武田氏を滅ぼし、伊奈郡を手に入れていた。

「水帳」「御図帳」の当て字で「検地帳」のこと。江戸時代には人別帳をも指したが、ここは前者。

「あなぐり」「探り」。探り求め。

「穴山殿」甲斐武田氏の家臣で御一門衆の一人で穴山氏七代当主穴山信君(あなやまのぶただ天正一〇(一五八二)年 (享年三十九歳))がおり、彼は信玄末期より仕え、勝頼の代にも重臣として仕えたが、織田信長の甲州征伐が始まると、武田氏を離反、天正十年二月末に徳川家康の誘いに乗り、信長に内応、その後、信君は織田政権から甲斐河内領と駿河江尻領を安堵された織田氏の従属国衆となり、徳川家康の与力として位置づけられている。彼及び一党を「甲陽軍鑑」その他の文献では「穴山殿手勢」「穴山衆」と名づけている。或いは、その中の下級の一人が主家を離れ、流浪の末に旧地方へ立ち戻ったものでもあったものか。但し、明白に「他國の我等」と述べている点でやや不審があるが、自らこの名を、この地で名乗っている点では、やはり「穴山衆」の者ととるべきであろう。

「一錢ぎり」小学館「日本大百科全書」を見ると、安土桃山時代の刑罰とし、織田信長や豊臣秀吉が出した戦陣の禁制にみえる語で、乱暴狼藉などを働いた者は「一銭切たるべし」と定めている。その内容については江戸時代から二説あり、その一つは新井白石の説で、「たとえ一銭(=一文)を盗んでも、死刑に処することを意味した」とし、その二は旅行家で考証家の伊勢貞丈の説で、『「切」は「限り」を意味とし、過料銭、則ち、罰金を取り上げる場合、一文までも探して全財産を没収すること』と理解している。現代においても、孰れが正しいかは一定していないが、戦国時代から安土桃山時代にかけては、戦時体制のもとで厳罰主義がみられ、特に戦陣においては規律を保つためにこのような刑罰を予告したのである、とあった(別に、斬首したその切り口が緡銭(さしせん)のそれに形状が似ているからという説もある)。しかし、ここで津村が言っているそれは、まず、罪人の髪を切る「一銭切り」で、結果、罪人はその髪を切った番人が実務として斬罪に処したから「一銭斬り」という掛詞として述べている。どうもこの津村の説は、後代の作り話ように思われる。なお、「信長記」のそれは、第一巻末の国立国会図書館デジタルコレクションの画像(元和八(一六二二)年版のここの右丁七行目に現われる。永禄十一年十月十日の制札に関わる記載で(句読点・濁点・記号を添え、漢文の部分は訓読し、カタカナを総てひらがなに代えた)、

   *

角て、信長卿は清水寺に在々(ましまし)けるが、洛中洛外に於いて、上下、みだりがはしき輩(ともがら)あらば、「一銭切り」と御定して有て、則、柴田修理亮、坂井右近將監、森三左衞門尉、蜂屋兵庫頭、彼れ等四人に仰付られければ、則、制札(せいさつ)をぞ出しける。

   *

とある。私の思ったように、底本の竹内利美氏も以下のように注されておられる。『「一銭ぎり」は「一銭剃」あるいは「一銭職」の誤りであろう。近世初期の髪結職は一人一銭(文)で月代をそり結髪したから、一銭職・一銭剃と呼んだと伝え、その職の由来に信長や家康などに付会した説話があった。そしてその後も髪結職人や床屋は、一銭職の由来記を伝存し、正統たるを示すことがおこなわれてきた。この話はその由来譚の一種が、若干変形したものだろう。というのは別に「一銭ぎり」とは、戦国期の刑罰で、たとえ一銭でも盗んだものは斬罪にして軍規を保つに努めたとか、あるい斬賃一銭で賤民に処刑をおこなわせたというからである。この二つの伝承が牢番のことに習合したらしいのである。』とあった。

「辨たる」総てを賄うようにする。

「土岐異仙」不詳。]

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