譚海 卷之四 箱根の湖水を拔取て甲州の田にかくる事
○近年箱根の湖水を拔(ぬき)て、甲州の田地にひたす事有、御代官田中氏の工夫也といへり。甲相のあひだにあたりて、湖水より三里ほど退(のき)てあらたに山間を掘(ほり)て、水道をこしらへたれば、三里のあひだ湖水地中を伏しくゞりて水道に出(いで)、迅瀨(はやせ)と成(なり)て落(おつ)るとぞ。豆州三島宿にて深夜に至る程、いづこともなく水の音漕々(さうさう)と聞ゆるは、此湖水の甲州へぬけるひゞきとぞ。
[やぶちゃん注:これは「箱根用水」。「深良(ふから)用水とも呼ぶ。但し、「甲州」というのは「駿州」の誤りである(津村はどうも地理に弱かったらしく、他でも、地理上のトンデモ齟齬を有意にやらかしている)。小学館「日本大百科全書」によれば、箱根外輪山湖尻峠の下に隧道を掘り、相模国芦ノ湖の水を駿河国駿東(すんとう)郡深良村(現在の静岡県裾野市)の深良川に注ぎ、さらに流路変更や新川掘削工事などを施して黄瀬(きせ)川に結び、嘗つての駿河国の井組(現在の水利組合)二十九ヶ村(現在の御殿場市の一部及び裾野市・長泉町(ながいずみちょう)・清水町などに相当する広域)、面積五百ヘクタール余に灌漑用水を供給した用水。この用水の特色は、相駿国境及び水系を越えた用水路であること、また、湖尻峠の下に長さ千三百四十一・八メートル、平均勾配二百五十分の一、取入口と取出口の標高差が九・八メートルという巨大な隧道を持つことである。深良村以南の地は箱根山及び愛鷹(あしたか)山の裾に開け、北から南に黄瀬川が流れているが、水量も少なく、また、深い侵食谷を形成しており、灌漑用には不十分で開発も不可能であった。寛文三(一六六三)年頃、深良村の名主大庭源之丞(おおばげんのじょう)が、江戸浅草の商人と伝えられる友野与右衛門らと図り、芦ノ湖の水につき、伝統的に権限をもつ箱根権現の別当快長の理解も得て、大庭・友野らが元締めとなって、幕府に開削願いを提出、寛文六(一六六六)年に着工、四年後の寛文十年に完成させた。動員された人夫は三十三万余人、工事費も六千両とも九千七百両などともされ、工法も、火薬などを用いず、鉄鑿(のみ)だけで掘り開けたという。隧道工事の進展につれ、箱根関所の存在に関ることから、幕府などの妨害をしばしば受け、また、完成後まもなく、友野らが消息不明になるなどの奇怪な事件もあった、とある。]
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