甲子夜話卷之七 2 婦女の髮結樣、時世に從て替る事
[やぶちゃん注:今回は、余りにも多くの読みを注せねばならず、煩瑣なので、本文に特定的に読みを底本の東洋文庫にないものは(原本の読みのルビは存在しない)、推定で入れ込んみ、記号も挿入した。]
7-2 婦女の髮結樣(かみゆひやう)、時世に從(したがひ)て替(かは)る事
婦女の髮結ふに、「鬢(びん)さし」迚(とて)頭髮の中にさすもの、予が幼少の頃迄は無(なか)りし。全く豔冶(えむや)の爲に設(まうけ)たる也。但(ただし)諸侯大夫士などの婦人は左有(さある)べきが、以前は娼妓(しやうぎ)の類(たぐゐ)まで「鬢さし」は無きなり。予十餘年前か、髮樣(かみざま)を古風に復(ふく)したく、侍女の輩(やから)に申付(まうしつけ)たるが、「今にては『鬢さし』なくては髮は結(ゆは)れず」と云ゆゑ、予と同齡なる老婦に、「以前は何にして結たるや」と詰(なじり)たれば、「某(それがし)もむかしを顧るに何にして結(ゆひ)たるか、今にては老髮(おひがみ)の少(すくな)きも、彼(かの)物無(なく)ては結(ゆひ)申されず」迚(とて)さて止(やみ)ぬ。又今の「鬢つけ油」と云(いふ)ものも、幼少の頃はなく、草を【「ビナン蔓」。所謂「五味子(ごみし)」なり】水に漬(ひた)し其汁にて結たり。このこと貴人計(ばかり)にもなく、部屋方、婢(はしため)迄皆然り。因(よつて)貴上(きじやう)には「鬘竪(かづらたて)」、「鬢水入(びんすいいれ)」とて有(あり)て、「鬘竪」には「五味子」の莖を截(きり)て立て、「鬢水入」には水をいれ、莖を漬して櫛を納(い)れ、これにて髮を梳(すけ)るなり。故に貴上の品は、黑漆に金銀の蒔繪にし、卑下のは竹筒に、淺ましき陶器の水入(みづいれ)にて、婦女も必(かならず)この物を持(もて)り。今は絕(たえ)て其品を見ることさへ無く、稀には蒔繪のもの抔(など)骨董肆(こつとうし)に見るのみ。又油(あぶら)と謂(いふ)ものも、以前は硬き「棒油(ぼうあぶら)」と云(いふ)計(ばかり)にて、「伽羅(きやら)の油」、「くこの油」、「すき油」、「ぎん出(だし)」と云(いふ)類(たぐゐ)は、皆予が幼少のときは無りし。又今の如く「鬢さし」入(いるる)る故は、以前は髮を額へかき下げて、あとにて髮の根結(ねゆひ)をなしたる也。夫(それ)を伊達(だて)に爲(せ)ん迚、「髮指(かみさし)」を入(いれ)たる故、如ㇾ今(いまのごとく)上(うへ)へ擧りたる也。因(よつて)試(こころみ)に今も「鬢さし」を拔(ぬき)て見れば、やはり髮の風(ふう)はむかしの如く成る也。又往古は髮は結(ゆは)ずして、天然のまゝ下(さ)げ置(おき)たるなり。既に舞(まひ)など爲(せ)んとするには、頭(かしら)の振囘(ふるまは)し不自由と見へて、古畫に白拍子(しらびやうし)、曲舞(くせまひ)などの體(てい)は、何(いづ)れも下髮(おろしがみ)のもとを結(ゆひ)てあるなり。靜(しづ)が賴朝卿の爲に、鶴岡(つるがをか)にて白拍子をせしこと「義經記(ぎけいき)」に見へしにも、靜、長(たけ)なる髮を高らかに結(ゆひ)あげと見えたり。是は臨時の仕方なるべし。前に云(いふ)如く油なきゆゑ、髮は下置(さげおき)ても衣服けがれず。今にて下置ては油にて衣類よごるゝ故、卑下等(ひげら)は是非なく上に結ぶ。是自然の理なり。北村季文が云(いひ)しは、古代の婦女は、髮下(さが)りて働(はたらく)に邪魔と見へて、卑賤なる者の體(てい)は、下(さが)りたる髮を上衣(うはぎ)の下(した)に入れてある容(やう)すなりと。さすれば働も自由なり。是等を以ても、如ㇾ今(いまのごと)く髮を揚げ油(あぶら)を用(もちひ)る、亦自然のことにぞあるべき。
■やぶちゃんの呟き
「鬢(びん)さし」「鬢差し」。江戸時代、女性が髪を結う際に、鬢の中に入れて、左右に張り出させるために用いた道具。鯨の鬚や針金などを用いて細工し、弓のような形に作ってあった。上方では「鬢張り」と称した。「精選版 日本国語大辞典」の「鬢張」の挿絵を参照されたい。
「豔冶(えむや)」現代仮名遣「えんや」。「艷冶」に同じ。なまめいて美しいこと。
「詰(なじり)たるに」詰問したところが。若い下女たちでは、まるで話にならないので、ちょっとじれったくなって、ちょっときつめな感じで質してしまったのである。
「さて止(やみ)ぬ」「扨(さて)、止みぬ」か。しかし、どうも「扨」ではしっくりこない。一読した際、私は「沙汰(さた)止みぬ」の誤字か、誤判読ではないかと疑った。この場合の「沙汰」は「髪型を嘗つての古風なものに結い直そうとする目論見」である。
「鬢つけ油」「鬢付油」。髪の乱れるのを防ぐために用いる練り油で、蠟(ろう)と油とを、固く練り合わせ、香料を加えたもの。元祿(一六八八年~一七〇四年)頃から用いられた。単に「びんつけ」とも呼んだ。
『「ビナン蔓」。所謂「五味子(ごみし)」』被子植物門アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科サネカズラ属サネカズラ Kadsura japonica 。常緑蔓性木本の一種。当該ウィキによれば、『単性花をつけ、赤い液果が球形に集まった集合果が実る。茎などから得られる粘液は、古くは整髪料などに用いられた。果実は生薬とされることがあり、また美しいため観賞用に栽培される。古くから日本人になじみ深い植物であり』、「万葉集」にも、多数、『詠まれている。別名が多く』、『ビナンカズラ(美男葛)の名があ』り、『関連して鬢葛(ビンカズラ)』、『鬢付蔓(ビンズケズル)』、『大阪ではビジョカズラ(美女葛)と称したともいわれる』とあり、具体な精製法は、茎葉を二『倍量の水に入れておくと粘液が出るので、その液を頭髪につけて、整髪料として利用』した。既に『奈良時代には、整髪料(髪油)としてサネカズラがふつうに使われていたと考えられて』おり、それは、『葛水(かずらみず)、鬢水(びんみず)、水鬘(すいかずら)とよばれた』、『また』、『サネカズラを浸けておく入れ物を蔓壺(かずらつぼ)、鬢盥(びんだらい)といったが、江戸時代には男の髪結いが持ち歩く道具箱を鬢盥というようになった』とある。また、『赤く熟した果実を乾燥したものは』、『南五味子(なんごみし)と』呼ばれ、生薬とし、『鎮咳、滋養強壮に効用があるものとされ、五味子(同じマツブサ科』マツブサ属チョウセンゴミシ Schisandra chinensis』『の果実)の代用品とされることもある』。但し、『本来の南五味子は、同属の Kadsura longipedunculata ともされる』とある。
「貴上(きじやう)」上流階級。但し、ここは武家・公家のそれではなく、裕福な町方の者の謂いであるようだ。
「鬘竪(かづらたて)」「立髮鬘」(たてがみかつ(づ)ら)。通常は立髪(月代(さかやき)を剃らずに長く伸ばした髪形を言うが、ここは、以下から、そのように成形するための固定サネカズラの茎材のようである。
「鬢水入(びんすいいれ)」鬢水(鬢のほつれを整え、艶を出すために櫛につける水。音に出る伽羅の油や上記のサネカズラを浸した水を用いる)を入れる金属・塗物・瀬戸物などで出来た器。長さは十五センチメートル、幅五センチメートル、深さも五センチメートル程の小判型をしていた。「鬢付入」とも言う。
「淺ましき」見栄えの悪い。
「骨董肆(こつとうし)」骨董屋。
「棒油(ぼうあぶら)」不詳。上記の「鬘竪(かづらたて)」の茎材を指すか。
「伽羅(きやら)の油」鬢付油の一種で、胡麻油に生蠟(きろう)・丁子(ちょうじ)・白檀(びやくだん)・竜脳(りゆうのう)・麝香(じやこう)等の香料を配合したもを加えて練ったもの。近世初期に京都室町の「髭の久吉」が販売を始めたという(なお、本来の「伽羅」は香木の一種で、「伽羅」はサンスクリット語の「黒」の漢訳であり、一説には香気のすぐれたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。別に催淫効果があるともされた)。
「くこの油」「枸杞の油」か。但し、実際の双子葉植物綱ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense からは有意に多量の精油成分は採取されないようであるから、胡麻油辺りにクコの実を混じて赤く着色したものかも知れない。
「すき油」「梳き油」。髪を梳き用の固形の油。胡麻油又は菜種油に生蝋蠟・香料などを加えて、堅く練り合わせたもの。
「ぎん出(だし)」「銀出し油」。上記のサネカズラの蔓の皮を水に浸し、強く粘りをつけたもの。光を反射して銀色の照りが出るので「銀出し」であろう。こちらは、普通は男性の鬢付け油に使用された。
「髮指(かみさし)」「髮揷」で簪(かんざし)の本来の発音。但し、この場合は、それを挿入することで、髪型全体が高くなるようなそれを指している。
「白拍子(しらびやうし)」平安末期に起こり、鎌倉時代にかけて盛行した歌舞及びその歌舞を生業とする舞女芸能者を指す。名称の起源は、声明道(しょうみょうどう)や延年唱歌(えんねんしょうが)、神楽歌の白拍子という曲節にあるとか、雅楽の舞楽を母胎にする舞いにあるといった諸説がある。「平家物語」では鳥羽天皇の御代に「島の千歳(せんざい)」と「和歌の前」という女性が舞い始めたとあり、「徒然草」には信西が「磯の禅師」という女に教えて舞わせたとある。ここに出る「静御前」は、この「磯の禅師」の娘ともされる。また、平清盛の寵愛を得た「祇王」・「祇女」・「仏御前」、頼朝や政子の侍女で平重衡との悲恋で知られる「千手の前」、後鳥羽天皇の寵姫亀菊などは、孰れも白拍子の名手として知られている。白拍子では「歌う」ことを「かぞえる」と称し、今様・和歌・朗詠などのほか、「法隆寺縁起白拍子」のような寺社縁起も歌った。伴奏は扇拍子・鼓拍子を用い、水干・烏帽子・鞘巻(鍔のない短刀)姿で舞ったので、「男舞(おとこまい)」とも言われた。白拍子の舞は、後の曲舞(くせまい)などの芸能に影響を与えたほか、能の「道成寺」ほかにも取り入れられ、その命脈は歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」などに連綿と受け継がれていった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「曲舞(くせまひ)」室町初期におこった舞踊で、散文的な詞章を謡いながら舞うもの。常の衣装は折烏帽子に直垂で、稚児曲舞・女房曲舞では立烏帽子に水干。楽は鼓で、舞うのは通常一人であった。祭礼や宴席に招かれた。嘉吉年間(一四四一年〜一四四四年)には、そ一派から「幸若舞」が起こり、織田・豊臣・徳川三代の保護を受け、発展した(旺文社「日本史事典」に拠った)。
「體(てい)」「風體」(ふうてい)。
「鶴岡にて白拍子をせし」「義經記」を出す前に「吾妻鏡」の文治二 (一一八六) 年四月八日の条を示すのが順序であろう。私の十年前の渾身の注のある「北條九代記 義經の妾白拍子靜」で臨場感を味わって戴ければ、これ、幸いである。
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