「今昔物語集」巻第五「天竺王宮燒不歎比丘語第十五」
[やぶちゃん注:採録理由と底本は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。]
天竺(てんぢく)の王宮(わうぐう)燒くるに歎かざりし比丘の語(こと)第十五
今は昔、天竺の國王の宮に、火、出來ぬ。片端(かたはし)より燒け持(も)て行くに、大王より始めて、后(きさき)・皇子(わうじ)・大臣・百官、皆、騷ぎ迷(まど)ひて、諸(もろもろ)の財寶を運び出だす。
其の時に、一人の比丘、有り。國王の護持僧として、此れを歸依し給ふ事、限り無し。而(しか)るに、其の比丘、此の火を見て、頭(かしら)を振り、首を撫でて、喜びて、財寶を運び出だすを、止(とど)む。其の時に、大王、此の事を怪(あやし)びて、比丘に問ひて宣(のたま)はく、
「汝(なん)ぢ、何の故有りてか、宮内(みやのうち)に火の出で來(く)るを見て、歎かずして、我が無量の財(たから)、燒け失(う)するを見て、頭(かしら)を振り、首(かうべ)を撫でて喜ぶぞ。若(も)し、此の火は、汝が出だせる所か。汝ぢ、既に、重き咎(とが)、有り。」
と。
比丘、答へて云はく、
「此の火、我が出だす所には有らず。然(さ)れども、大王、財(たから)を貪るが故に、三惡趣(さんあくしゆ)に堕(お)ち給ふべきを、今日、皆、悉く燒け失(うしな)ひ給ひつれば、三惡趣に堕ち給ふべき報(ほう)を遁(のが)れ給ひぬる事の、極めて喜ばしき也。人の惡道(あくだう)を離れず、六趣(りくしゆ)に輪𢌞(りんね)する事は、只、一塵(いちぢん)の貯へを貪りて、愛する故也。」
と申す。大王、此れを聞きて、
「比丘の云ふ所、尤も然(しか)るべし。我れ、此れより後(のち)、財(たから)を貪ぼる事、有らじ。」
と宣ひけりとなむ、語り伝へたるとや。
[やぶちゃん注:「三惡趣(さんあくしゆ)」「三惡道」(さんまくだう) とも呼ぶ。生命あるものが、生前の悪い行為の結果として、死後、余儀なく赴かなければならぬ六道の内の三悪道(さんあくどう)としての地獄道・餓鬼道・畜生道という三種の世界。
「六趣(りくしゆ)」六道に同じ。上記三つの三悪道に、三善道の修羅道・人間道・天上道を加えた総称。六道輪廻から解脱しなければ、極楽往生は出来ない。]
□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の脚注を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)
天竺の王宮(おうきゅう)が焼けたにも拘わらず、歎かなかった僧の事第十五
今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、天竺のとある国王の宮殿から、火が出た。
片っ端(ぱし)から、延焼してゆくのを見て、大王を始めとして、妃(きさき)・皇子(おうじ)・大臣・百官に至るまで、みな、騒ぎ惑いて、諸々の財宝を運び出すのにやっきになる。
ところが、その時、一人の僧がおり、その僧は国王の護持僧として、国王以下、誰もが心から、この僧に帰依し申し上げていたのであるが、何んと! その僧、この大火を見るや、満足そうに頭を振り、得心したように首を撫でて、喜んで、財宝を運び出すのを、止めるのである。
それを見て、大王は、この制止を強く疑って、僧に向かって問うて、仰せられたことには、
「そなたは、如何なる故(ゆえ)あってか、宮の内に火の出来(しゅったい)したのを見て、嘆くことないばかりか、我が量り知れぬこの上もなき財宝が焼け失せるのを見て、頭を振り、首を撫でては、喜ぶのだ!? もしや? この火は、そなたがつけたのではないのか?! そなたには、既にして、重い罪があろうぞ!」
と。
僧は、それに答えて言うことには、
「この火は、我が付け火したものでは、御座らぬ。されども、大王が、数多(あまた)の財宝を貪らるる故に、後世(ごぜ)に於いて、三悪道に堕ちなさるべきところを、今日(きょう)、みな、ことごとく、焼け失い遊ばされたによって、三悪道に堕ちなさる応報を遁(のが)れなさった。このことは、何よりも、極めて喜ばしいことなので御座る。人間が、かの悪道を離れ得ず、六道を輪廻せねばならぬ所以(ゆえん)は、ただただ、一塵(いちじん)の貯えを貪って、それを愛するが故、なので御座る。」
と申し上げた。
大王は、これを聞くや、
「僧の申すところ、これ、最もしかるべき謂いである。我れは、これより後(のち)、財宝を貪ぼることは、これ、決してするまい!」
と仰せになられたと、かく語り伝えているということである。