フライング単発 甲子夜話續篇卷之十四 9 讚岐院の御陵
[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「龍燈に就て」の注に必要となったため、急遽、ばらばらの三篇を電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も追加し、鍵括弧記号も用いた。]
14―9 讚岐院の御陵
又、荻野長が曰《いはく》。「京の安井觀勝寺の金毘羅にも、爲義、爲朝二人の像、脇士《わきじ》たると云。永代寺の先住某の話なり。
又曰。「この安井の金毘羅は新院【崇德帝】、讚州より、御枕と、御守佛の觀世音の像とを、阿波内侍《あはのないし》のもとに「御形見に。」と贈らせ給ひしと。宇治左府【賴長。】の靈とを配して觀勝寺に祭りければ、其寺の藤の上に、每夜、光りもの、降《くだ》りて、神異を顯はせり。卽ち、今の觀勝寺の地にて、其御神靈を金毘羅權現と申す。」と。天明年中公儀へ、安井門跡「勸化願書」の趣《おもむき》も、此《かく》の如くなり。
[やぶちゃん注:以下、長いが、最後まで底本では全体が一字下げである。]
『都名所圖會』云《いはく》。「安井觀勝寺光明院は、安井御門跡前《さきの》大僧正性演、再興し給ふ。古より藤の名所にて、崇德天皇の后妃阿波内侍、此所に住せ給ふ。天皇、「保元の亂」に、讃岐國へうつりましまして、御形見に、束帶の尊影、御隨身二人の像を畫《ゑがき》て、かの地より皇后に送り給へり。其後、天皇【讚岐院とも申す。】、配所松山に於て『大乘經』を書寫し、和哥一首を添給ひて、「都の内に納めん。」とて、送り給ふ。
濱千鳥跡は都にかよへども
身は松山にねをのみぞなく
然るを、少納言入道信西、奏しけるは、「若《もし》咒咀《じゆそ》の御心にや。」とて、御經をば、返しければ、帝《みかど》、大《おほき》に憤り給ひ、「大魔王となつて、天下を、朕《ちん》がはからひになさん。」と誓ひて、御指《おんゆび》の血を以て、願文を書《かき》給ひ、かの經の箱に、「奉納龍宮城」と記し、堆途といふ海底にしづめ給ふに、海上に、火、燃《もえ》て、童子、出《いで》て、舞蹈《ぶたう》す。是を御覽じて、「所願、成就す。」と宣へり。夫《それ》より、爪、髮を截《きり》玉はず。六年を經て、長寬二年八月廿六日に崩御し給ふ。御年四十六。讚州松山の白峯に葬り奉る。夫より、御靈《ごりやう》、此地に來《きたり》て、夜々《よよ》、光を放つ故に、「光堂」ともいふ。然るに、大圓法師といふ眞言の名僧、此所ヘ來つて參籠す。崇德帝、尊體を現《あらは》し、往事の趣を示《しめし》給へり。大圓、これを奏達《そうたつ》し、詔《みことのり》を蒙りて、堂塔を建立し、かの尊靈を鎭め奉り、「光明院」と號しける。佛殿の本尊は「堆昵觀音《たいじちくわんおん》」なり。奧の社は崇德天皇、北の方、金毘羅權現、南の方、源三位賴政。世人、おしなべて「安井の金毘羅」と稱し、都下の詣人、常に絕《たゆ》る事なし。崇德帝、金毘羅、同《おなじ》一體にして、和光の塵《ちり》を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ、利生靈驗《りしやうれいげん》いちじるし、とぞ見えにける。これを見れば、御隨身二人の像を繪がきて賜ふと云《いふ》は、爲義、爲朝の像なりしか。○阿波内侍は、『日本史』「后妃傳」ニ云《いはく》。「崇德妃、源氏、參河ノ權守師經ノ女《むすめ》也。生二僧元性一。又、「皇子傳」云。「崇德ノ二皇子、内侍、源氏、生二僧元性一。宮人藤原氏、生二重仁親王一。」と。蓋し、源氏は阿波内侍なり。
■やぶちゃんの呟き
「荻野長」(天明元(一七八一)年~天保一四(一八四三)年)は静山の知人で幕臣。天守番を務めた。仏教学者として知られ、特に天台宗に精通して寛永寺の僧らに教えた。「続徳川実紀」編修に参加している。名は長・董長。通称は八百吉。
「大圓法師といふ眞言の名僧、此所ヘ來つて參籠す。崇德帝、尊體を現し……」現在の京都市東山区下弁天町にある「安井金毘羅宮」公式サイトのこちらの「御由緒」に『崇徳天皇』『は特にこの』社にある『藤を好まれ』、久安二(一一四六)年、『堂塔を修造して、寵妃である阿波内侍』『を住まわされました』。『崇徳上皇が保元の乱』『に敗れて讃岐』『で崩御された時に、阿波内侍は上皇より賜った自筆の御尊影を寺中の観音堂にお祀りされました』。『治承元年』(一一七七年)、『大円法師』『が御堂にお籠りされた時に、崇徳上皇がお姿を現わされ』、『往時の盛況をお示しになられました。このことは直ちに後白河法皇』『に奏上され、法皇のご命令により』、『建立された光明院観勝寺が当宮の起こりといわれています』とある。
「堆昵觀音」不詳。この名の観音名を見たことが私はない。ネット検索でもかかってこない。「僧元性」崇徳天皇の第五皇子で、真言僧となった覚恵(仁平元(一一五一)年~元暦元(一一八四)年)の舊僧名。母はここに出る村上源氏の三河権守源師経の娘。重仁親王(足の疾患により二十三で早逝した)の異母弟。「宮法印」と呼ばれた。当該ウィキによれば、応保二(一一六二)年に『仏門に入り』、『叔父覚性』(かくしょう)『法親王のもとに入室。法名は初め元性』(げんしょう)『と称し、その後』、『覚恵と改めた』。仁安四(一一六九)年二月、『仁和寺観音院において灌頂を受けた後、同寺華蔵院に住し、法印に叙された』とある。
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