多滿寸太禮巻㐧二 丹州橋立曉翁銀河に登る事
[やぶちゃん注:途中に現われる漢詩文の句や和歌は、底本類では本文に組みこまれてあるが、改行し、漢詩文の句は、まず、白文で示し、後に( )で訓点に従って書き下し文を示した。挿絵は一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]
多滿寸太禮巻㐧二
丹州橋立(はしだての)曉翁(げうおう)銀河(あまのがわ)に登る事
そのかみ、丹後の國、与佐(よさ)の浦、成合(なりあひ)のほとりに、ひとりの隱士(ゐんし)あり。とし、いまだ三十をこへず。容貌、ゆうびにして、氣質、また、溫和なり。
[やぶちゃん注:「成合」成相山(なりあいさん)。京都府北部の丹後半島の南東部、天橋立の北側にある宮津市に属する山。別称「鼓ヶ岳」。標高五百六十九メートル。中腹に西国三十三所第二十八番札所の成相寺(なりあいじ)があり、傘松公園からの天橋立の眺望は、「天橋立股のぞき」で知られる。山麓の府中は、丹後国府の所在地で国分寺もあった。ここ(グーグル・マップ・データ。以下も同じ)。]
何がしの中將とかやいひて、威勢ときめきしに、いかなる故にや、
「病ひ。」
と稱して、此の所に、唯一人、曉翁と名をかへ、「篠(さゝ)の庵(いほり)の」と、ことはに、世を外(ほか)になし、常は釣りをたれ、住み給ひしが、本より、此の所は不双(ぶさう)の眺望(てうまう)、山水をたのしみ、千巖(せんがん)、きほひて秀(ひいで)、萬嶽(ばんごく)、あらそひて流るゝ。句を吟じ、終日(ひねもす)、遊興。やまず。
[やぶちゃん注:「篠(さゝ)の庵(いほり)の」知られる類型のものでは、西行の「山家集」の歌に「もろともに影を並ぶる人もあれや月のもりくるささのいほりに」がある。]
一葉(いちよう)の小船(せうせん)に乘(じやう)じ、風帆(ふうはん)ながれゆく所にまかせ、或(あるひ)は、魚の水涯(すいがい)にをどるを見、又は、鷗の沙(いさご)にあそび、洲崎(すさき)の白鷺(はくろ)を友とす。飛ぶもの、走るもの、浮かぶもの、をどるもの、その體(てい)、とりどり也。文珠樓(もんじゆろう)は雲にそばたち、成合寺(なりあひ《じ》)は海底にうつり、天の橋立の松は、浪にあらはれ、おもしろかりしかば、興に乘じ、初秋(はつあき)の夕《ゆふべ》、舟(ふね)を橋立の濱にとゞめけるに、凉風(すゞかぜ)、俄かにおこり、星斗、光りをまじへ、海水、天を混(ひた)す。
[やぶちゃん注:「文珠樓」不詳。現在の成相寺の本尊は聖観音立像で脇侍は地蔵菩薩・千手観音。他に十王堂があり、閻魔大王像と孔雀明王像を安置し、観音堂には三十三体の観音像を祀るが、文殊像はない。]
ねむるともなく、うつゝともなく、芦(あし)の笛、波の鞁(つゞみ)を汀(みぎは)に聞きて、船中に打《うち》ふしぬ。
遙かに時移り、晴天をみれば、しらきぬ、萬丈(まんぢやう)の南北によこたふがごとし。雲、跡を拂ひ、舟、忽ちにうごき出《いで》、そのゆく事、甚だ、すみやかなり。風水(ふうすい)、みなぎり、わかれ、ものありて、引《ひく》がごとし。
曉翁、
「いかなる事。」
と、はかる事なし。
須臾(しゆゆ)にして岸につく。
寒氣、肌(はだへ)に通《とほ》り、淸光、目をうばふ。
玉田(ぎよくでん)、湛(たんたん)とし、花草(くわさう)、その中に生ずるがごとし。
銀海(ぎんかい)漫々とし、異獸(いじう)・神魚(しんぎよ)、其内に遊ぶ。
烏鴉(うあ)、むらがりなく、名木、生ひしげれり。
翁、漸々(やうやう)、人界(にんがい)にあらざる事を、しる。
遙かに向ふをみれば、珠宮(しゆきう)・金閣、高くそびへ、一人の仙女(せんぢよ)、内よりいづる。
氷りのごとくに、きらゝかなる衣の裳(もすそ)をとり、玉(たま)の冠(かぶり)をいたゞき、おもと人、二人、金(きん)の扇をかざし、一人は、玉の如意をさゝぐ。岸のほとりに至り、曉翁に、とはく、
「汝、來たるる事、なんぞ遲きや。」
翁(おきな)、答へて曰わく、
「やつがれは、跡を海邊(かいへん)にくらまし、形(かたち)を魚鳥(うをとり)にひとし。君と誓約、いかであらん。いかなる故に、『遲く來る』とは宣まふぞや。」
仙女、笑ひて、
「汝、いかでか吾をしらむ。舟を迎へて爰(こゝ)に至らしむる。その故は、汝、夙(つと)に高義(かうぎ)をおひ、久敷(ひさしく)碩德(せきとく)に存(そん)するを以《もつて》、汝をかりて、世に傳へむのみ。」
[やぶちゃん注:「碩德」徳の高い人。高徳の人。いっぱんには学徳ともにすぐれた僧を指すことが多いが、ここは前者。]
則ち、曉翁をむかへて、岸にのぼらしめ、これをむかへて、門に入《いり》、ゆく事、一町斗り、一の大殿(たいでん)あり。「天章殿(てんしやうでん)」と額あり。殿の後ろに高樓あり。題して「靈光閣(れいくわうかく)」といふ。うちに雲母(きらゝ)の屛風(へいふ)をまうけ、錦(にしき)のしとね、四面(しめん)、みな、水晶の簾(すだれ)、珊瑚の鈎(つりばり)を以、是れを、かくる。あたかも、白晝(はくちう)のごとし。蘭麝(らんじや)のかほり、芬々(ふんふん)として、
『つたへ聞《きき》し都卒(とそつ)の内院(ないゐん)も、かくや。』
と思ふ斗なり。
[やぶちゃん注:「蘭麝」「蘭の花と麝香の香り。また、よい香り。]
則《すなはち》、翁(おきな)を席につかしむ。仙女、語り給ふは、
「汝、此の地をしるや。世の人、云ひ傳へし『銀河(あまのがわ)』といふは、是なり。我は織女(おりひめ)の神なり。人間界(にんげんかい)をさる事、八萬余里。」
[やぶちゃん注:「八萬余里」三十一万四千百八十一キロメートル超え。]
翁、大きにおどろき、頭(かうべ)を地につけ、
「下界の人間、草木(さうもく)と榮(ゑい)をひとしくす。今、何(なに)の幸ひありて、此の身、天府に來たり、足に仙宮をふむ事、何事を以、こゝに召さるゝ。願(ねがはく)は、詳らかなる詞(ことば)を聞きて、愚慮を休めむ。」
仙女、端正(たんしやう)にして、打ち笑ひ、
「我、天帝の孫(そん)、靈星(れいせい)の娘、ことに貞姓(ていしやう)をうけ、群(ぐん)をはなれて、あらけ居(お)る。あに、思はん、下界の愚民、好誕(こうたん)を妻(つま)に、秋夕(しうせき)の期(ご)をつたへて、我をさして、牽牛の妻とす。淸潔の汚れ、此の恥の名を、うくる。その源(みなもと)をきけば、專ら、多作(たさく)の書を作る世俗不經(ふけい)の語(ご)、その說を傳言(でんげん)して、是れをいふものは、唐の柳宗元、「乞巧(きつこう)」のふみを作る。その事をうけて、和(くわ)する者、代々(よゝ)の歌人、七夕の詠、詞辨(しべん)、みづから明らかにする事なく、鄙語邪言(ひごじやげん)、なんぞ至らざる所あらむ。往々(わうわう)に惑書(わくしよ)に顯はし、篇章につゞる。或(あるひ)は、
北斗佳人双淚流
眼穿膓斷爲牽牛
(北斗佳人 双淚 流る
眼(まなこ)を穿(うが)つて 膓(はらわた)を斷つ 牽牛の爲(た)めに)
といひ、或は、
莫言天上稀相見
猶勝人間去不囘
(言ふ莫(なか)れ 天上 稀れに相ひ見ることを
猶を 勝(すぐ)る人間(にんげん) 去つて囘(かへ)らず)
又は、
としごとにあふとはすれど七夕のぬる夜の數ぞすくなかりける
漢和の才文(さいもん)、あげて、かぞふべからず。神靈をなれあなどり、忌み憚かる事を、しらず。我、これを、忍ぶに、たへず。」
[やぶちゃん注:「貞姓」正しい正式の姓。一箇の独立した神存在として名指されていることを言う。
「あらけ居る」「散去ける」は「ちりぢりになる・間を離す」の意でよく判らないが、神として独立して認められていることを指すか。日本神話では女神は夫の男神とペアで語られることが多い。
「好誕」不詳。幸いにして神として生まれ出でたことを言うか。
「秋夕の期」陰暦七月七日のこと。ウィキの「七夕」によれば、中国では、『織女と牽牛の伝説は』「文選」の『中の漢の時代に編纂された』「古詩十九首」が『文献として初出とされている』ものの、この時点では七月七日との『関わりは明らかではない』。一方、「西京雑記」(前漢の出来事に関する逸話を集めた書で、著者は晋の葛洪ともされるが、明らかでなく、その内容の多くは史実とは考え難く、小説類に近い)には、『前漢の采女』(うねめ:宮中の女官の一つ。皇帝・皇后の側近に仕え、日常の雑事に従った)『が七月七日に七針に糸を通すという乞巧奠』(きっこうでん:陰暦七月七日の行事で、女子が手芸・裁縫などの上達を祈ったもの。元は中国の行事で、日本でも奈良時代、宮中の節会としてとり入れられ、在来の棚機女(たなばたつめ)の伝説や祓(はらえ)の行事と結びつき、民間にも普及して現在の七夕行事となった)『の風習が記されているが、織女については記されていない』。『その後、南北朝時代の』「荊楚歳時記」には、七月七日、『牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが』七『本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており』、それ以前の七月七日に行われてきた乞巧奠と『織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した』「小説」には、『「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている』。『七夕は日本に入ってきた当初、貴族の文化であ』り、『元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた』。『「たなばた」の語源は』「古事記」で『アメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は』「日本書紀」の葦原中国(なかのくに)の平定の一書第一にある『「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡』(はた)『から棚幡という。また』、「萬葉集」巻第十の「春雜歌」(二〇八〇番)の「織女之今夜相奈婆如常明日乎阻而年者將長」(たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長(なが)けむ)『など七夕に纏わる歌が存在する』。『そのほか、牽牛織女の二星が』、『それぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある』。『日本では、雑令によって』七月七日が『節日と定められ、相撲御覧(相撲節会』『)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた』。『その後、平城天皇が七月七日に亡くな』ったことから、二年後の天長三(八二六)年に、『相撲御覧が別の日に移され』、『行事は分化して星合』(ほしあい)『と乞巧奠が盛んになった』。『乞巧奠』『は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い』七月七日の『夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは』「荊楚歳時記」に『見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を』四『脚並べて果物などを供え、ヒサギ』(シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata 或いはキントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属 アカメガシワ Mallotus japonicus の古名とされるが、同定比定は明確でない)『の葉』一『枚に金銀の針をそれぞれ』七『本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また』、「平家物語」では、『貴族の邸では願い事をカジ』(バラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera )『の葉に書いた』とする。『二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女性が当然身につけておくべき技能であった訳ではない』とある。
「不經」常軌を逸すること。
「柳宗元」「乞巧」高校時代か私の好きな中唐の詩人柳宗元の「乞巧文」。中文の「維基文庫」のこちらで全文が読める。
「北斗佳人双淚流」「眼穿膓斷爲牽牛」私の好きな明の瞿佑(くゆう)の書いた志怪小説「剪灯新話」の「鑑湖夜泛記」(鑑湖(かんこ)夜(やはん)記)の一節に出る。ブログ「井手敏博の日々逍遥」の「剪灯新話(二)」で訓読・訳文(参考先は以下の明治書院)以下のが載るが、同(一)から見られると判る通り、この話全体が、この「鑑湖夜泛記」を日本に移しただけの、殆んど――そのマンマ――であることがお判り戴けるであろう。私は一読、すぐに判った。翻案のレベルでなく、最下劣にまんまである。所持する二〇〇八年明治書院刊の「中国古典小説選8」によれば、『唐の曹唐の「織女懐牽牛」(『全唐詩』)の句』とある。同書の訓読は、『北斗(ほくと)の佳人(かじん) 双淚(そうるい)流(ながれ、眼(まなこ)穿(うが)たれ 膓(ちよう)斷(た)たるるは牽牛(けんぎゅう)の爲(た)めに)』(同書はルビを現代仮名遣でふるう気持ちの悪いもの)である。
「莫言天上稀相見」「猶勝人間去不囘」同前で『原注に宋の朱熹(しゅき)』(南宋の著名な儒学者)『の詩によるとあるが不明』とする。同じくそちらでは、『言(い)ふ莫(な)かれ 天上(てんじょう) 稀(まれ)に相見(あいまみ)るは、猶(な)ほ 勝(まさ)る人間(じんかん)の去(さ)りて囘(かへ)らざるに』となっており、こちらの訓読の方が遙かによい。
「としごとにあふとはすれど七夕のぬる夜の數ぞすくなかりける」「新古今和歌集」の巻四「秋歌上」の凡河内躬恒の一首(一七九番)、
*
なぬかの日によめる 凡河内みつね
年ごとにあふとはすれど七夕のぬるよのかずぞすくなかりける
*
である。男牽牛の立場から詠じた同衾の回数の少ないことを言ったもの。下劣。]
翁(おきな)、申《まうし》て云《いはく》、
「鵲(かさゝぎ)の橋の會(くわい)、牛跡(ぎうと)のあそび、今、尊靈の詞を聞て、その妄語を、しる。嫦娥(じやうが)の月宮殿(げつきうでん)の事、湘㚑冥會(しやうれいめいくわい)の詩のごとき事は、果して、ありや。抑(そもそも)いまだ、しからずや。」
[やぶちゃん注:「牛跡のあそび」牽牛を牛飼いとする設定を指すのであろう。
「嫦娥」中国古代の伝説に登場する女性。姮娥(こうが)とも呼ぶ。弓の名人羿(げい)の妻。夫の羿が崑崙山に住む女仙の西王母から貰い受けた不死の薬を盗み出し、それを服用したのち、月世界へ昇って蝦蟇(がまがえる)に化したと伝えられる。嫦娥を仲立ちとして不死の薬と月が結び付いたのは、人々が永遠に変わることなく満ち欠けを繰り返す月に不死性を感じ取ったためと思われる。また、蝦蟇に変身したというのも、月の表面の模様を蛙に見立てた古代の中国人の観念によるものであろう。しかし後になると、醜い蛙に化したという伝承は消失し、嫦娥は、ただ一人で、月中に孤独をかこつ、憂愁の美女と考えられるようになった。そうした嫦娥の姿を唐代の詩人たちは、しばしば詩に月を読み込む際の素材としている(概ね小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「湘㚑冥會の詩」前に出した「中国古典小説選8」によれば、『湘霊は堯帝の二人の妃。堯帝が没した時、悲しんで湘水に身を投げた故事』を『後世』、晩唐の詩人『李群玉が詩に詠じている』とある。以下の本文では「堯の娘、舜の后」とあるが、誤りか。或いはそうした異伝もあるのか。興味ない。悪しからず。]
仙女のいはく、
「嫦娥は月宮殿の仙女、湘靈は堯(げう)の娘、舜(しゆん)の后(きさき)。これ、みな、賢聖の孫(そん)、貞烈の神(しん)、何ぞ世俗の云《いふ》ごとくならん。情欲(せいよく)、生(しやう)じ易く、事跡、又、掩(おほひ)がたきもの也。世の人、月を詠ずる詩に、
嫦娥可悔偸靈藥碧海靑天夜々心
(嫦娥 悔(く)ゆべし 靈藥を偸(ぬす)み 碧海靑天 夜々(よゝ)の心(こゝろ))
と、いへり。
それ、日月(じつげつ)・兩曜(りやうよく)、混沌の際(きは)は、開闢(かいびやく)の始めの、已にそなはる。いかに藥(くすり)をぬすむ事、あらんや。雲は山川(さんせん)の靈氣、雨は天地(《てん》ち)の沛澤(はいたく)、何ぞ、あやまりて、房閨(ばうけい)のたのしみとせん。天をあなどり、神(しん)を汚(けが)す事、是れより甚敷(はなはだしき)はなし。邪婬の詞(ことば)を以つて、神靈を、かろしむ。それ、欲界の諸天、各《おのおの》、みな、配妻(はいさい)あり。その妻(つま)なきものは、則ち、欲なきもの也。かゝる故をしらずして、その心をあざむき、世をまどはす。汝、幸ひに、世につたへて、悉く、これらの事を、あかせ。」
[やぶちゃん注:「嫦娥可悔偸靈藥碧海靑天夜々心」晩唐の詩人李商隠の七言絶句の転・結句。中文サイトのこちらで全文が見られる。]
曉翁(げうおう)、一々(つくづく)承(うけたまは)り、又、問ふて云ふ、
「誠に、世俗の妄語、尊女(そんぢよ)の言葉を聞きて、僞り來たる事を、しる。むかし、張騫(ちやうけん)が朽木に乘り、天にのぼりしごときは、虛妄(こまう)ならずや。」
[やぶちゃん注:「張騫が朽木に乘り」「多滿寸太禮卷㐧一 仁王冠者の叓」で既注済み。]
仙女いはく、
「此の事は、誠(まこと)に、しかなり。それ、張騫先生は金門の眞史(しんし)、玉符(ぎよくふ)の仙曹(せんそう)、あに常人(じやうじん)のたぐひにあらむや。暫く人間(にんげん)に謫(たく)して、四方八極(しはうはつきよく)にあそびて、異物(いぶつ)を、しる。汝、三星(さんせい)に緣あるによりて、今、こゝに、至る。」
[やぶちゃん注:「金門の眞史(しんし)」恐らくは前に掲げた種本からの写し間違い。張騫は異名を「金門の直吏(ちょくり)」であった。「金門」は「禁門」と同じで、そこから先は霊域として神のいるところを指す語。
「玉符の仙曹」神仙から直々に仙人の筆頭であること証明した符を所持する正統な仙人の位階「仙曹」(全き不死身とされる)。]
瑞錦(ずいきん)二疋(ひき)を出《いだ》して、これを与へ、
「今は、とくとく歸り去るべし。わがいふ所、必ずしも忘るゝ事、なかれ。」
曉翁、再拜して、もとの所に出《いで》、舟にのるに、たゞ風露(ふうろ)・高寒(かうかん)・波瀾の音を聞《きく》。
[やぶちゃん注:「瑞錦」唐代の文様によく見られる織模様で、胡錦のペルシャ模様に、中国伝統の瑞祥思想によって胡錦の霊化された鳥獣文(もん)を同化したもの。漢・六朝以来の幽暗で錯雑した模様を、より明快な性質に成し上げたものとされる。]
やゝ半時(はんじ)ほど有《あり》て、もとの渚に歸れば、雲霧(くもきり)、忽ちにはれ、大星(たいせい)、漸々(やうやう)、東天におち、鷄(にはとり)、三たび、鳴く。五更の天に及ぶ。
[やぶちゃん注:「大星」「おおぼし」なら、「おおいぬ座α星シリウス」の和名である。シリウスは全天で最も明るく輝く恒星であることから、かく称された。特に中国地方及び近畿地方で使われた。「オリオン座」のベテルギウス、「こいぬ座」のプロキオンともに、所謂、「冬の大三角」を形成しており、「冬のダイヤモンド」を形成する恒星の一つでもある。挿絵からもそれであろう。さすれば、話柄内の時節も自ずから明らかとなる。]
錦をとり出《いだ》してみるに、此の世の織る所にあらず。廣學の者に見するに、
「これ、天上の至寶、人間(にんげん)のものにあらず。いかにといへば、其紋(もん)、順(じゆん)にして亂れず。色(いろ)、妙へにして、瑞氣、常に、たつ。塵(ちり)を以《もつて》つゞるに、おのれと飛揚(ひやう)して、つかず。几帳(き《ちやう》)とすれば、蚊蜂毒蟲(ぶんぼうどくちう)、いらず、衣裳(《い》しやう)とすれば、雨雪(うせつ)に、ぬれず。冬天(とうてん)には暖か也。盛夏には凉しく、そのかいこは、扶桑の葉の飼ふところ、糸は銀河(ぎんが)の水にて、さらす。織女の機(はた)に織りしもの也。いかにしてか、求め給ふ。」
とあれど、曉翁、祕(ひ)して、此事を、いはず。
或る時、又、小船(こぶね)に棹さして出《いで》けるが、二たび歸らず。
遙かに過《すぎ》て、大江山(おほゑ《やま》)にて、古人に逢ふ。
容顏、むかしに替らず。
黃なる帽子をいたゞき、異體(いてい)あり。
「いかに。」
と問へば、風に乘じて去る。
その早き事、飛ぶがごとし。
追ひ行くに、及ぶ事、なし。
今に猶、一社のほこらを立て、その遺跡(ゆいせき)をのこすとかや。
[やぶちゃん注:なお、「中国古典小説選8」には最後に『本話は日本の『伽婢子(おとぎぼうこ)』(浅井了意)の「伊勢兵庫仙境に到る」に翻案されている』とあるのだが、これ、どう読み比べても、この辻堂兆風子の「多滿寸太禮」の本篇がかく呼ばれるべきものである。大いに信頼している竹田晃氏の編著なんだが、何か、とんでもない勘違いしてないかねぇ?]
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