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2022/04/10

ブログ・アクセス1,710,000突破記念 梅崎春生 ある男の一日

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二三(一九四八)年六月刊『文体』第二号(但し、底本解題によれば、同初出誌は『裏表紙の奥付が五月三十日発行、裏表紙が六月十日発行となっている』とある)に初出され、後の同年十二月河出書房刊の作品集「B島風物誌」に所収された。

 底本は「梅崎春生全集」第二巻(昭和五九(一九八四)年六月刊)に拠った。最後に私の感想と注を添えた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、一時間半程前に、1,710,000アクセスを突破した記念として公開する。【2022410日 藪野直史】]

 

   ある男の一日

 

 坂道を降りたところに、魚の配給所があった。その前にトラックがついていて、四五人の雨合羽(あまがっぱ)を着た男たちが、荷をおろしているところであった。両側に繩(なわ)の輪がついた木の箱が、次から次へ地面におろされた。トラックの上にも人がいた。木箱はつぎつぎに、配給所の軒下に積まれた。

 絹糸のような雨が、そこにも音もなく降っていた。

 木箱のなかには、黒い背をした平たい鰈(かれい)がたくさん積みかさなっていた。魚のにおいがそこら中にながれていた。木の箱を乱暴にうごかすので、鰈が二三匹宙をとんで電柱のそばに落ちたりした。

 こんなに朝早くから大変だな、と思いながら、彼は洋傘をかたむけてその側を通りぬけた。通りぬけるとき、洋傘の骨のさきが、木箱をうごかしている男の雨合羽にちょっとふれた。雨合羽は朝の光にぬれて、ごわごわとひかっていた。そして魚くさいにおいがぷんとした。彼は洋傘をなお傾けて、すこし足早にあるいた。

(ハリバットと言ったかな。鰈は)

 そんなことを考えながら、水たまりを飛びこえた。水たまりには油が浮いていた。七彩の色がうつくしくひろがっていた。

 駅の近くまできて、曲角にある外食食堂に彼は入って行った。登録票に捺印してもらって、ひきかえに食事をうけとった。

 うすい味噌汁をすすりながら、彼はあたりを見廻した。客は彼の他に三人しかいなかった。汚れた卓には、飯粒がこびりついてのこっていた。客は向うの卓で、皆彼に背をむけて食べていた。一人は女であった。三人とも同じような背の曲げ方をして、飯を食べていた。自分もうしろから見ると、あんな恰好(かっこう)をして食べているにちがいない。そう思いながら、彼はまずしい膳を食べ終えた。彼が食堂を出るとき、同じく食事を終ったその女が、口を手巾(ハンカチ)で拭きながら出てきた。彼はその女と前後しながら、道をあるいた。女も駅の方に行くらしかった。

 私鉄のその駅は黄色いペンキ塗りの、小さな建物であった。

 歩廊のベンチに腰かけて、彼は顎(あご)を洋傘の柄で支えていた。彼の前には、むこうむきになって、さっきの女が立っていた。うすい靴下が見えた。底の平たい靴の、外側がへっていた。彼は先刻見たこの女の歩き方を思い出した。その靴の減り方が、妙に歴然と女の歩きぶりを髣髴(ほうふつ)とさせた。(どこかの女事務員というわけだな)

 短いレインコートを着ていて、スカートがその下から出ていた。風がすこし吹いて雨がしぶいたので、女は二三歩うしろに下りながら、身体をかたむけた。女の横顔が彼に見えた。ごく善良そうな眼で、女は彼をちらと見た。まだ二十を越えていないような顔かたちであった。美しい顔ではなかったが、ととのった表情をしていた。雨をさけた眉の辺が、どこか良子に似ていた。

 彼はふと視線を外(そ)らせて、駅のむこうに生えている大きな柳の木をながめた。たくさん垂れた枝は風にすこし揺れながら、雨にぬれていた。それを見ながら、彼はふとかんがえた。

(今日良子にあったら、良子は何かと言うだろうか?)

 良子を彼が愛していると思っていたのは、自分の錯覚ではないのか、と近頃彼は気付き始めていた。彼はそのような気持を、数日前手紙にかいて、良子に送っていた。今日ある喫茶店で逢(あ)いたいと良子が言ってきたのも、久しく逢っていないせいもあっただろうが、直接にはその手紙のためであるに違いなかった。彼はその手紙のなかで、もう良子とは逢いたくないということを、遠廻しに書いたつもりであった。良子とこのような状態でつながっていることが、鎖のように重くるしく思われるようになったのも、彼の感じをたどってゆけば、良子と相知った当初からであるような気がした。戦争中の空白をうずめるために、行きあたりぱったりに彼は良子をとらえていたのかも知れなかった。しかしそのことは、はっきりとは彼に判らなかった。それを確める方法は、彼にはなかった。けれどもこんな風に一日一日を過してゆくことが、彼には堪え難い気がした。それは良子に対してだけではなかった。すべてのものに対して、自分が近頃中ぶらりんの位置にあることを彼は漠然と感じていた。

 歩廊には人々が立てこめてきた。濡れた布地のにおいが、そこらにただよった。彼は今

日はある事件の証人として、裁判所から呼び出しをうけていた。その呼出状には、もし出頭しなければ拘引されることがある、と記してあった。朝早くから彼が起き出したのも、そのためであった。

 

 裁判所の中庭では、幌(ほろ)を冠ったトラックが着くたびに、車体のなかから、手錠をかけた男たちが次々に飛び降りた。彼は渡り廊下にたたずんで、それをしばらく眺めていた。

 手錠は大てい二人が一組としてつけられていて、だからトラックの後尾から巡査の指示で飛び降りるとき二人がうまく呼吸を合せないとまずかった。一人が先にとび降りて、後のが引きずられて落ち、地面にかさなってよろめき倒れたりした。そういうのを巡査が手荒くたすけおこした。ひとつの車から皆が降りてしまうと、ぞろぞろと中庭を横断して、建物の方にあるいて行った。手錠をつけられた男たちは、ほとんどが良い服装をしていた。巡査の方が慘めに見えた。二人ずつの組が順々に建物の入口に消えて行った。そしてまた別のトラックが門から入ってきた。

(二人で手錠につながっているのは、いやだろうな!)

 彼はそれらを眺めながら、そう考えた。そして何故ともなく身慄いした。

(栗田もあんな具合にしてやってくるのか?)

 栗田というのが、今日彼がよび出された事件の被告であった。栗田は彼の死んだ友達の甥(おい)にあたる男であった。彼はその友達の家で、栗田に紹介された。きれいな皮膚をした、善良そうな青年であった。彼はその時、栗田の皮膚のうつくしさに、ちょっと心を動かされたことを覚えている。彼がその友達にそのことを言うと、友達はすこし妙な表情になって答えた。

「あいつは、中学生のとき、ずいぶん騒がれたそうだ」

 その友達は好男子ではなかった。むしろひどく醜い方であった。ある日ひどく酔っぱらって、そして河のなかに落ちて死んでしまったが――。

 開廷の時刻まで、十五分ほどあった。呼出状にしるされた法廷は、十三号というのである。彼は渡り廊下から一旦中庭に出て、その方向にあるき出した。手錠をつけて中庭を行く男たちは、顔や頭を雨に濡らしていた。雨はだんだん細かになるらしかった。雲は灰白色にどんより低く垂れていた。

 教えられた通り、道をへだてた建物に彼は入って行った。迷路のような廊下をたどって、でたらめに曲ったりまた戻ったりした。いくつも裁判を行う部屋があるらしく、部屋の入口のところに、今日開廷される事件の木札がさげてあった。半開きの扉から、傍聴席や法廷の一部がちらと見えたりした。

 変な造りの建物で、廊下には窓がすくなかった。ある廊下のつきあたりは水呑場になっていて、頭髪の白い使丁らしい男が、一所懸命歯をみがいていた。彼の跫音(あしおと)にふりかえると、とがめるような顔付になって彼を見た。彼は立ちどまって、また廊下を引き返した。部屋の番号をさがしながら、何度か廊下を行ったり来たりした。

 十三号法廷は、三階にあった。

 

 十三号法廷では、しばらく待った。

 彼は証人席に腰かけて、司法官たちの出廷を待ちながら、乾いた眼球をあちこちに動かしていた。ときどき頭を廻して、うしろの傍聴席をふりむいた。傍聴席は満員で、うしろの方にも立っている人影がちらちらした。その背後の縦長の窓の外に、隣接した建物の赤煉瓦(れんが)が迫っていた。その色も霧雨に沈んでいた。

(こんなところに傍聴に来ているのは、どんな連中なのだろう?)

 彼は身じろぎして、椅子の堅さを気にしながら、ぼんやりとそんなことを考えた。傍聴に来ているのは、ほとんど若い男たちで、服装も雑多であった。がやがやした話声や、扉をあけたてする音や、堅い床をふむ靴のひびきがした。彼がふりむくと直ぐ、皆の視線が彼に集まるらしかった。彼はすこし厭な気がした。彼ひとりにあつまってくる視線は、変に粗(あら)くするどかった。

(この連中は、ただの好奇心だけで、傍聴に来ているのではないか?)

 やがて弁護人入口の扉がすこし開いて、書類鞄を小脇にかかえた弁護士がすたすたと入ってきた。ちょび鬚(ひげ)を立てた瘦せた男であった。身体つきのせいか、弁護服の着け方が、妙にだらしない感じであった。がたがたと音立てながら弁護人席に腰をおろすと、鞄を卓の上にひらき、眼鏡のサックをその中から取り出した。大きな黒ぶちの眼鏡を耳にかけると、ときどき忙がしそうに貧乏ゆるぎをしながら、鞄からひきだした書類を点検し始めた。その一挙一動に眼をそそぎながら、彼は始めてこの自分の視線が、背後の傍聴人たちの視線と同じものであることに気がついた。まるで見逃すことの出来ぬもののように、彼はこの弁護士の行動に視線をそそいでいたのである。それに気づくと、彼の頰にゆがんだような笑いが、ふと浮んで消えた。

 巡査に連れられて、栗田が入ってきた。入ってくる時、傍聴席の方から顔をそむけるようにしながら、被告席についた。そこまでの挙動を、彼は見たくないような気持になりながら、その癖はっきり視野に収めていた。顔色はいくぶん青白くなっていたが、思ったよりやつれていない印象であった。被告席についた後姿は、髪をきちんと刈り上げて、きちんとした背広を見せていた。その後姿には、ある感じがあった。彼は刈り上げた襟足のあたりをしげしげ眺めながら、背後の傍聴席のざわめきが、すこし高まってくるのを感じていた。貧乏ゆるぎをする弁護人の背中にくらべて、栗田の肩はブリキのように堅く張っていた。

(入ってくるとき栗田は、俺がいることを認めただろうか?)

 使丁ががたがたと椅子の位置を直してゆくのを眺めながら、彼はそんなことをかんがえた。そうかんがえながら、栗田がこちらを見ようと見まいと、自分にはどうでもいいことを、彼自身の気持のなかに同時にさぐりあてていた。

 暫くして足を組み直しながら、彼はちらと時計を見た。予定の開廷時刻よりも、一時間あまり過ぎていた。窓の外には相変らず灰をふきちらしたような霧雨がおちているらしかった。彼はひからびた視線でそれを眺めたり、天井から下った貧弱なシャンデリヤをあおいだり、また時々栗田の方を眺めたりした。同じ眼球の動きを、彼は執拗(しつよう)にくりかえした。この十三号室は、彼の中学校時代の物理教室に、感じが似ていた。そのことを彼はここに入ってきた時から強く感じていたのであった。それは霧雨の窓を通す青ぐらい光線のせいかも知れなかった。その物理教室もうす暗かった。さっきから彼は何となく、汚れたビーカーやコップの底に乾いた薬品のかすの臭いなどを聯想した。そしてまた、長い時間が経った。

 段の上の扉を乱暴にひらいて、書記らしい男が入ってきた。あの烏帽子(えぼし)みたいな冠(かんむり)がよく似合う、背の小さな男であった。段の上から上半身を乗出して、使丁になにか低声で話しかけるらしかった。そして笑いながら、文鎮で卓の上を掃くようにした。開け放された扉にその時、法服の人影がちらちらと重なって、検事や判事らしい男たちがどやどやと入ってきた。がたがたと靴音をひびかせて、それらが所定の席につくかつかないうちに、段の端でいまの使丁が大きな号令をかけた。ざわざわと皆が立ちあがって礼をした。再びざわざわと腰をおろすと、裁判が始まった。

 栗田が立ちあがって、裁判長の前に出ていった。裁判長は顔の幅のひろい、眼付のするどい男であった。聴取書らしい書類をめくりながら、次々に訊間した。栗田の答える声は、あまり徹らなかった。響きのないような声であった。そして訊問はつぎつぎ進んで行った。

(良子はもうあの契茶店に来て、待っているかも知れない)

 そのやりとりを耳に収めながら、彼はそんなことを頭のすみで考えた。そうすると彼はひどく物憂い気がした。けれどもその物憂(う)い気持の源は、彼には茫漠として摑めなかった。契茶店の卓についている良子の姿を思いうかべながら、しかし彼の耳は裁判長と栗田の応答を、確実にとらえていた。栗田の答弁はどもったり、時にはしばらく黙りこんだりした。首をすこしうなだれて、両手を手錠で前に廻しているせいで、肩がほっそりと見えた。腰かけているときは、背中の感じがちがっていた。彼は珍しいものでも見るように、そこを暫(しばら)く眺めていた。

 局長印を盗用して書類をつくり、本局へ資金受領に行ったという事件であった。そして六万円の金を受領して、十日間に栗田は消費したらしかった。この事件の概要は、彼は一週間ほど前から知っていた。その三等郵便局に栗田の就職をあっせんしたのは、彼であった。三等郵便局長と彼とは、碁会所で知り合った友達であったから、栗田はすぐに採用された。しかしそれはもう、三年も前のことになる。三年間まじめに勤め上げて、なぜこのようなことを仕出かしたのか。その六万円も、一部を借金に戻しただけで、あとの残りは馬鹿みたいな使い方で、栗田は飲食に消費していた。何放公文書を偽造してまで、そんな金が必要であったのか。そこを裁判長からつっこまれるたびに、栗田は身もだえするように肩を動かした。借金を催促されて辛かったということを、栗田は低い声でどもりながら答えたりした。

「しかしその借金は、全部で八千円ということだな」

 裁判長はすこし身体を乗りだすようにして、そうきめつけた。

「那須鉄五郎に二千五百円。野島一作に五千五百円。お前が借金しているのは、これだけである。金額を書きこむとき、六万円という数字は、どこから浮んだのか」

 栗田は首をさらにうなだれて、暫く経って聴き取れない程の声でなにか呟(つぶや)いた。その栗田の姿を、裁判長は眼を据(す)えて見つめていた。その表情は、なにか職業的な修練といったものを、彼に感じさせた。そしてその眼は力があって、彼は自分が見据えられているような気がした。

(――なぜ六万円と書きこんだのか、栗田にも判っていないのだ!)

 彼はなんとなく、そう思った。蒼白い栗田の襟足(えりあし)から眼を外らすと、半眼になっている検事の顔や、うつむいている判事の顔をつぎつぎに見廻した。そして窓の外に視線をはなった。赤煉瓦の建物には、雨のいろが滲(にじ)んでいた。郷愁に似たものが、彼の胸にぼんやりひろがってきた。暫く彼はじっと窓を見ていた。訊問はその間にも、単調な調子でつづいていた。この公金横領が、発覚しないという自信があったのか、という裁判長の間いであった。

「発覚すると思いました」

「何故、そう思ったか」

「郵便局のそのような資金受領は、必ず月報に出るのです。それを引き合せば、すぐに判ります」

「直ぐ発覚することが判っていて、なぜお前はこんなことをやる気持になったか」

 栗田の声は急にひくくなったり、またはっきりなったりした。彼は眼を栗田の背にもどしてその言葉をききとろうとした。

 

 弁護人の発言の前に、彼は在廷証人として名前をよばれた。宜誓をすませると、彼は裁判長のいくつかの質問にこたえた。証言はすぐに終った。

 質間は、簡単であった。栗田をその郵便局に就職させた前後のことや、栗田の素行や性格についての問いであった。素行や性格については、深く知らないと、彼は答えた。

「しかし貴方は、被告の就職のさい、保証人になっておられるようだが」

「それは単に名前の上だけです」

 彼はそう答えた。そう答えるより仕方がなかった。裁判長は、急に疑わしそうな顔つきになって、しばらく、彼の顔をみつめていた。

「被告とさいきん逢われたのは、何時ですか?」

「この一年ばかり逢いません」

「名前だけであったかも知れないが――」裁判長は探るような口調になって言った。「貴方は保証人として、被告のことに責任を感じますか」

 証人台に片手をかるく置いて、彼はうつむいてしばらく黙っていた。一昨日裁判所の使丁が彼の家にきて、証人としての呼出状を渡したとき、彼は栗田について確信をもって証言することが、何ひとつとして出来ないことを、ふと感じていたのである。それは一週間前、栗田のその所業を知らされた時も、まだあそこに勤めていたのか、と思っただけで、それ以外の感動とか憐憫(れんびん)とか驚愕(きょうがく)とかの感情は、あたらしくは湧いて来なかったからだ。そのような感情は、ずっと以前に確実に彼の心のなかで死んでいた。それは栗田にたいしてだけではなかった。近頃彼は、すべてにたいしてそうであった。いま彼を栗田にむすびつけているのは、本質的には保証人という関係でなく、栗田の所業にたいする淡い好奇心にすぎないことを、彼は漠然と感じていた。

(この俺に、どんな責任をもつ資格があるのだろう?)

 彼はすこし戸惑いしたような表情になって、顔を上げ、低い声で、しかしはっきりと発言した。

 「責任は、感じません」

 彼はそのとき背中いっぱいに、栗田の視線と、在廷するすべての人々の視線をかんじると、またつけたすように言葉をついだ。

「あの保証人は、そのような意味のものではなかったのです。ただ身元を保証するというだけで――」

 もうよろしい、という風に裁判長が片手を上げた。そして質問はそれで終った。彼は軽く一礼すると証人台からしりぞいて、元の席にもどってきた。

 それから弁護士の弁論が始まった。ぶかぶかする弁護服の肩をしきりにゆすって、変に語尾を引き伸ばしたような口調であった。それを聞きながら、彼は自分の最後の答弁が、後味悪く胸にもたれてくるのを感じて、しきりに唇を嚙んだ。また元の席にもどってくるときに傍聴席からたくさんの粗(あら)くするどい視線が凝集してくるような気がして、うつむいて足早に戻ってきたことを思い出した。それをまぎらわすために、彼はまた窓から入る青い薄光に眼をむけたりした。外ではますます細かい雨が吹き散っているらしかった。弁論はなかなか終らなかった。彼の胸に、弁護士の言葉が、ときどき雫(しづく)のようにしたたってきた。

[……被告は年齢二十五歳の青年でありましてえ……]

「……甦生の機会をお与え下されたく……」

「……ひたすら寛大なる御処置今……」

 なるほど、弁論とはこのような調子なんだなと、彼は気持がそこから急に遠のいてゆくのを覚えながら、膝の上で指を組んで、ぼんやり窓の方をながめていた。

 やがて長々しい弁護がすんだ。

 検事が椅子をがたがたとずらせて、そっけない調子で求刑した。栗田は細いうなじをたれて聞いていた。その求刑は、彼が想像していたより軽かった。判決は来週ということになって、閉廷した。あたりの空気が急にざわざわとみだれ、靴の音が床にひびき、扉を開閉する音がぎいぎいと鳴った。黒い法服をきた裁判官たちが全部退席してしまうのと一緒に、背後の傍聴人たちも、潮のひくように廊下ヘ出てゆくらしかった。彼は証人席にかけたまま、その音を聞いていた。

 手錠をつけたまま、両側を巡査にまもられ、栗田が顔をあおくして被告席をたち上ったところであった。出口の方に歩きながら、彼のいる前までくると、栗田はとつぜん立ち止った。彼の顔を見ないようにしながら、しかし身体だけを曲げて、彼に深く深くお辞儀をした。それからやはり彼の顔から一寸外れたところに視線を浮かせながら、巡査に腕をとられて引かれて行った。栗田の瞼がすこし薄赤くふくらんでいたのを、彼ははっきりと見た。

 すこし経って彼はゆっくり立ち上り、壁にかけておいた洋傘をとって、扉をおして廊下に出た。頬がすこし紅潮していた。廊下には傍聴人たちがたくさん莨(たばこ)を喫っていて、彼はそれをかきわけて附段まであるいた。皆が道をあけながら、彼を見ているような気がした。空気がしめっているせいか、の煙はひくく層をなして廊下を流れていた。階段の手すりは濡れてつめたかった。階段の窓から見える中庭は、彼が階段を降下してゆくにしたがって、その風景の感じを変えて行った。中庭には幌(ほろ)をつけたトラックがいくつもとまっていて、それに人々が群れていた。

 彼はそれを見まもりながら一段一段降りた。

 外に出ると、霧雨が顔につめたくあたった。

 

 良子はすでに喫茶店にきていた。

 洋傘をたたんで硝子扉を押すとき、カウンターの上にある大きな時計が彼の眼に入った。約束の時間から、一時間半もすぎていた。帰ったかも知れない、と彼は思いながら店の内部を見廻した。いちばん隅の卓の、鉢植の棕櫚(しゅろ)のかげに良子はいた。

 良子は緑の透きとおった雨外套を着ていた。それは奇妙に美しい感じがした。うす暗い片隅にそれを見たとき、突然彼はなにか美しい昆虫を聯想(れんそう)した。彼がその卓に近づくと、良子は首をあげて、遅いわね、と低い声で言った。別段責めるような口調でもなかった。彼は椅子にかけながら、急に裁判所から証人に呼びだされたことを、だから遅れたことを簡単に説明した。そして珈琲を注文した。

 すると良子は、法廷のことをしきりに聞きたがった。いろいろと彼に質間してきた。彼は口重くそれに応答しながら、良子の顔をみたり、雨外套に視線を走らせたりした。近くで見ると、その雨外套のいろも、平凡に見えた。あの時は、鉢植の葉の色とかさなっていたから、美しく見えたのかも知れなかった。珈琲(コーヒー)をすすりながら、彼はぽつりぽつりと良子の問いにこたえていた。

「やはり裁判官たちは、威張ってる?」

「――傍聴人などからすれば、そう見えるだろうね」

「裁判って、面白いの?」

「――そう。傍聴人は、退屈していたよ」

「傍聴人、傍聴人って、あなたよ。あなたはどうだったのよ」

 彼は困ったような顔になって、すこしわらった。そして口をつぐんで、また珈琲をすすった。珈俳は不味(まず)かった。脇によせた彼の洋傘の尖(さき)から、雨が床に滲んできた。良子はすこし怒ったような表情をして、彼の方をみつめていた。その視線を彼は皮膚でいたくうけとめていた。

 それから暫(しばらく)くして彼等は立ちあがった。そして外に出た。良子が映画をみたいというので、道をその方にとった。良子は彼の洋傘に入ってあるいた。雨外套が彼の身体にふれて、さやさやと鳴った。良子と身体をくっつけてあるいていると、だんだん彼は道のはたに押されてゆくような気がした。傘をさしていても微粒になった雨が散っているので、しばらく歩くと眼鏡がくもってきた。

 映画館は満員であった。彼は入るのを止そうと言ったが、良子はすぐ空くからと頑強に主張して彼をひきとめた。映画をみる興味はなくなっていたが、彼は良子のことばに引きずられていた。少し待って切符を買い、中に入った。立見席にやっと身体を押し入れて、人の肩の間から、灰色に動くスクリーンを一目見たとき、彼はなぜかひどく退屈な気分におそわれた。平たい一枚の幕の上を、灰色の人影は正確にうごいていた。ぽっと変って風景があらわれたりした。彼は洋傘に身体をもたせて、人の肩と肩にはさまれた三角形のスクリーンを、眼を凝(こ)らしてしばらく眺めていた。物語は途中らしく、うまく関係がたどれなかった。あるいらいらした気分が、しだいに彼の胸にひろがってきた。彼が身じろぎするたびに、暗がりのなかで、レインコートや革のようなにおいがした。彼はそっと扉から廊下にぬけ出ると、喫煙室に入って行った。長椅子にふかぶかとかけて、莨に火を点じた。

(おれは何のために、こんなところで映画などを見ているのだろう?)

 莨がしめっていて、煙の味はにごっていた。喫煙室には誰もいなかった。煙をはきだしながら、彼は意識の一部でそんなことを考えた。喫煙室から廊下が見えて、半開きになった扉にも人の背が群っていた。しばらくするとそこから身体を脱けだすようにして、緑色の雨外套が廊下に現われてきた。そしてこちらへ歩いてきた。長椅子にかけている彼の姿を、その時あやまたず認めたらしかった。ためらうように喫煙室の入口で立ちどまったが、靴をこつこつ鳴らしながら入ってきた。良子はへんに青い顔をしていた。そして彼に並んで腰をかけた。

「――満員だから、見えないだろう」

 少し経ってから彼はそう聞いた。良子は黙っていた。拡声器からながれ出る濁った男の声が、かすかにここまで届いてきた。

 しばらくして良子がかすれたような声で言った。

「この間のお手紙ね」

 彼は莨をもみけしながら、微かにうなずいた。それに元気づけられたように、良子は言葉をついだ。

「もうあまり逢えないかも知れない、と書いてあったわね。あれはどういう意味?」

「意味って」彼はくるしそうな声でやがて答えた。「意味って、そのままさ」

「あたしと別れたいということなの」

 彼はだまって、また莨を取り出して火をつけた。沈黙がかたくその場にきた。しばらくして彼は低い声で言った。

「別れるって、別れるほどぼくらは一緒じゃなかった」

 彼は自分のその声が、妙に冷酷にひびいたのを意識した。次に言葉をつづけようとしたのを、その意識がさえぎってしまった。彼はすこし固い表情になって、口をつぐんだ。

 観客席の方からわらい声が聞えてきた。そのどよめきは、波状になってあとからあとから重なってきた。

 莨一本を喫い終るまで、彼等はだまっていた。莨を彼がすてるのを合図のように、良子が口を開いた。いつもの声になっていた。

「満員だから、もう帰りましょうか」

 彼はふたたび微かにうなずいたが、洋傘を支えにして立ちあがりながら、すこし意地わるい口調になって言った。

「さっきは、あんなに見たがっていたじゃないか」

「でも満員ですもの。見えはしないわ」

 廊下をぬけて外にでると、やはり雨は鋪石に音なく落ちていた。風景はさっきより色褪(あ)せて見えた。良子は再び彼によりそってきた。身体がやわらかく触れた。良子はあるきながら、自分が二三日前みた夢の話をした。それは彼が良子の部屋で、猫をつかまえてその尻尾を釘ぬきで抜こうとしているというのであった。良子はその夢の話をしながら身体をゆすってわらった。

「あたし、もう可笑(おか)しくって、可笑しくて、夢のなかだけじゃなく笑っていたのよ」

「なにがそんなに可笑しかったんだね」

「だって可笑しかったんですもの」

 良子はころころと止度(とめど)なく笑いつづけた。変な夢をみるものだな、と思いながら、彼はだまってあるいた。その気配に気づいたように、良子は急に笑い声を止めた。

 道を曲ると、掘割であった。掘割の水は黒かった。むこうは電車の高架線で、混凝土(コンクリート)の灰色の壁が、水からいきなり切り立っていた。その倒影は暗く水におちた。掘割にそった道には、ぬかのような雨が降っているだけで、ずっとむこうまで人影はなかった。

 この風景を一目見たとき、彼はひとつの感じが心をぎゅっとつかんでくるのを感じて、思わず立ちどまった。その瞬間彼はこの道を、良子ひとりに歩かせてみたいと、ふと考えていたのである。その感じがどこから起ってきたのか、それは判らなかったが、確実にはげしく彼をつかんできた。身体のなかをはしりぬけるものを感じながら、彼は気持をおさえて、低い声で呼びかけた。

「君はここから、ひとりでお帰り」

「なぜ?」良子はぎょっとしたようにふりむいた。「用事でもあるの?」

「そう。今思いだしたんだ」

 良子は歩道のはしに足をおいて、彼をじっと見つめた。洋傘からはみ出た良子の顔は、しだいに霧雨に濡れてゆくので、やがて顔め皮膚があおく艶をおびてきた。視線がまっすぐに彼にそそがれてきて、彼は洋傘をかざしたまま、暫く良子を見返していた。堀をへだてた高架の上を、轟となりひびいて電車が通った。良子は唇をすこし動かして、なにか言ったらしかった。何と言ったのか、わからなかった。良子はかすかに頭を下げた。そしてくるりとむこうヘむくと、歩道と車道の間をぬうようにあるき出した。

 彼は濡れた電柱のかげに身体をかくして、良子の後姿をまじまじと見送っていた。緑の雨外套の背がだんだん遠ざかって行った。良子はその間、いちども振り返らなかった。

(――なぜ女というものは、別れる時になると、あんなきれいな顔をするのだろう)

 良子の後姿は、電柱や並木にかくれたり現われたりしながら、次第にちいさく緑色の点になって行った。舗道(ほどう)にも、暗い水のなかにも、雨は音なく落ちていた。

 反対の方角に足をふみだしながら、どこかですこし酒を飲もうか、と彼はぼんやり考えた。

 

 小さな黄色い駅にもどってきたのは、七時をちょっと過ぎていた。まだ食堂はひらいているかなと思いながら、彼は改札を通りぬけた。

 先刻あおった二三杯の酒の酔いが、いまほのぼのと廻ってくるようで、彼は洋傘を半開きにしたまま、踏む切を通りぬけた。あたりはすっかり暮れていた。そこから始まる街に、電燈が柔かくうるんで、坂道の方角に点々とつらなっていた。道はひどくぬかるんでいた。水たまりのひとつひとつが、うすい光をたたえていた。酔いが快よく彼の身体を弾いた。

(身体と器官さえあれば、人間はどうにか生きて行けるものだ!)

 何故ともなく、そんなことを思いながら、彼は水たまりを避け、とびとびに歩いた。

 食堂は、まだ開いていた。しかしそろそろ片付けにかかるところらしく、小女が布巾で空(あ)いた卓を拭き始めていた。調理場で空樽にこしかけて、莨をすっていた男が、乱暴な手付きで膳をととのえて、彼によこした。

 薄暗い燈のしたで、客は彼ともう一人であった。他の卓には小女が椅子を逆さに乗せ始めたので、止むなくその客はむき合う椅子にかけねばならなかった。彼がむき合ったその客は、ふと気がつくと、今朝駅まで一緒になったあの若い女であった。

 女は背をまるく曲げて、一心不乱に御飯をたべていた。薄暗い燈のせいか、今朝見たときよりも、ずっと老(ふ)けた感じであった。善良そうな丸い眼をぱちぱちさせながら、女の箸は御飯とおかずの間をリズミカルに動いた。こんな若い女で、こんな食堂で朝夕食事をとっていることから、彼はある情景をぼんやり心の中で組み立てていた。

(この女が間借りしている部屋も、電燈がうすぐらくて、机の上にのせた小さな鏡台には、よく洗濯した赤い布がかかっているにちがいない)

 色の剝げた塗箸をうごかして、彼も皿をつついた。皿にのっているのは、鰈(かれい)の煮付であった、彼は今朝の配給所の風景を思い出した。彼の皿にあるのは、鰈をふたつに切った、その頭の方であった。その鰈の顔は、頭の中央からぐっと一方に寄っていて、なんだかぐしゃぐしゃと眼や鼻がかたまり、まるで泣きだしているように見えた。腹のところの身は、彼の箸の先にほぐれて、しろく脂肪をたたえていた。脂肪は、彼の舌のさきでやわらかく溶けた。

 女の皿にのっているのは、やはり鰈の切身であった。彼のとは違って、尻尾の部分であった。その大きさから言い、切り口の具合から言い、それはたしかに彼の皿のものの下半身にちがいなかった。彼は自分の皿とむこうの皿を、しきりにちらちら見くらべながら、箸をうごかした。たしかにそれは、一匹の半分ずつに相違なかった。

 どこか遠い海で泳いでいたこの鰈が、とうとうつかまえられて、いろんな人間の手を経てこの食堂に入り、二つに切られて鍋で煮られて、その半分ずつを別々の人間に食べられてしまう。そんなことが彼の頭にうかんだ。この想念は、遥かなほのぼのとしたものを彼に運んできた。――この二人の人間は、一匹の鰈を半分ずつ食べ、食べ終るとお互に口も利かず、食堂から夜の街に出て行き、そして自分の部屋を指して戻ってゆく。二三日も経(た)てば、あの夜食に鰈をたべたことなども、忘れてしまうだろう。そしてお互の顔や服装なども。雑多な記憶のなかに、なにもかも死んでしまうだろう。……

 彼は丹念に鰈の身をむしり食べて、白い骨だけにしてしまった。そして貧しい食事が終った。女は彼よりも先に立ち上って、特徴のある歩き方で食堂を出て行った。女のひろげる洋傘が、食堂の繩(なわ)のれんにあたって、ばらばらと鳴る音がした。

 生ぬるい白湯(さゆ)を丼いっぱい、ゆっくり時間をかけて飲みほすと、彼も立ち上った。酔いが少しずつ散ってゆくらしく、土間を踏む彼の靴のなかで、水気をふくんだ足指がつめたかった。

 (今日も、これで終った!)

 持ち重りのする洋傘を掌にかんじながら、彼は配給所のある坂道の方へ、ゆっくり歩いて行った。

 

[やぶちゃん注:冒頭で主人公は「鰈」の英語として「ハビバット」(halibut:ハリバット)を想起しているが、この「halibut」は、厳密には北洋産の超巨大(全長一~二メートル、大きい個体では三メートルを越えるものもざらである)カレイである条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科オヒョウ属 Hippoglossus  のオヒョウ類を指す。しかし、そんなことを言うために、ここに注をしたのでは――ない――。まず、カレイの一般的英語は「flatfish」或いは「flounder」であろうが、日本人のようには、西洋人はヒラメとカレイを区別しないから、これらはヒラメにも使われる。肉食人種の標準的外国人は、驚くほど、魚介類の名前、その種や類を指す一般名詞を、知識として全く持っていないのである。と言って、英語に堪能なあなたは、「halibut」を知っていましたか? 私はこの小説を読んだ二十代の頃、英語の教師や生徒に試みに聴いたが、誰も知らなかった。而して――そんなことを言いたいのでも――ない――。何故、彼=梅崎春生は、こんな単語を記憶していたのか? という素朴な疑問なのである。実はこのことについては、「幻化」のオリジナル注で述べているのである(『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (4)』(リンク先はブログ版。サイト一括PDF縦書版もある)の「ズルフォナール」注)である。病気を抱えて複数の薬物を服用していると、確かに薬物の名前を異様に知っている人は多い(かく言う私もその一人だ)。それはそれで不思議ではないかも知れないが、異様に長い日本語らしからぬ薬剤名をすらすら言える人というのは、そうした非日常的な奇体な語を記憶することにかけては、いい意味で言うなら、特異な才能を有していると言え、やや精神医学的に見るなら、ある偏執的な嗜好癖が感じられないとも言えなくはないだろう(かく言う私もやはりその一人で、ウルトラ第一次世代申し子である私は、「ウルトラQ」から「ウルトラセブン」までの怪獣や兵器その他諸々の単語を六十五にもなった今現在でもちゃんと総て覚えているのである。私に強い海産生物指向があって、異様に広汎な魚介類の標準和名や、一部の種の学名まで記憶しているのは恐らくそれほど異様には思われないだろうが、無価値な少年期の他愛もないそれらを、今も明確に暗誦出来るというのは、我ながら「異常」と感じる)。実は、私は梅崎春生には、そうした特定の単語(群)や言葉(群)に対する偏執的な固執的な記憶傾向があったのではないかと考えている。これが――例えば漢字を凝っと見ながら、突然、その漢字の読みや意味が判らなくなり、「へん」や「つくり」等の各部分が分解をし始める現象を「ゲシュタルト崩壊」と呼ぶが、これは正常人でも起こる。しかし、同様の症状を示した著名な人物に夏目漱石がおり、私は彼は重度の強迫神経症であったと考えている。無論、私や梅崎春生の場合、長期学習記憶が壊れるのではなく、異様に覚えている必要性が表面上感じられない長期記憶への固執が残存されるのだから、病的とは言えないのだが、しかし、或いは、これはある種、梅崎春生の病跡学に於いて、極めて特徴的なものと捉え得るものだと私はずっと思っているのである。

「外食食堂」第二次世界大戦中の昭和一六(一九四一)年から戦後にかけて、主食の米の統制のため、政府が外食者用に食券を発行し(発券に際しては米穀通帳を提示させた)、その券を持つ者に限り、食事を提供した食堂。というより、これ以外の飲食店には主食は

原則、一切配給されなかった。私が古本屋で入手した昭和二〇年(一九四五)年十月の戦後最初の『文芸春秋』復刊号の編集後記に記されていた、その外食券食堂の状況は、調理人の手洟や蛆が鍋の中で煮えている、という凄絶な不潔さを具体に訴える内容であった(当該雑誌は書庫の深淵に埋まってしまい、見出せないので、発見したら、追記する)。小学館の「日本大百科全書」梶龍雄氏の「外食券食堂」によれば、外食券は闇値で取引されることも多くなり、昭和二二(一九四七)年入浴料が二円の当時、一食一枚分の闇値が十円もしたという例もある。しかし、昭和二五(一九五〇)年ごろより食糧事情が好転し、外食券利用者は激減、飲食店が事実上、主食類を販売するようになってからは、システム自体が形骸化して、昭和四四(一九六九)年には廃止された、とある。因みに、私は昭和三十二年生まれであるが、券も食堂も記憶にはない(私の梅崎春生「猫の話」オリジナル授業ノート(PDF縦書版)」の注に手を加えた)。

「烏帽子(えぼし)みたいな冠(かんむり)」ウィキの「法服」の写真を見れば一発で判る。当該ウィキによれば、『判事、検事並びに裁判所書記の制服及び弁護士の職服は、国学者で前年に開校した東京美術学校の和文・歴史教員であった黒川真頼により考案された。古代美術や有職故実に精通し、服飾史に関しても造詣の深かった黒川は、聖徳太子像より考証した古代官服風の東京美術学校最初の制服を考案しており、出来上がったものは東京美術学校の制服に似た古代官服風となった』。『そのため、黒川が裁判所に事件の証人として召喚された際、廷丁に判事と間違えられたという逸話もあり』。刑部芳則氏は「洋服・散髪・脱刀 服制の明治維新」(二〇一〇年講談社刊)で『「古代官服風の服制は(当時でも)稀有であった」と指摘している』。『司法官らの制服及び職服は上衣と帽から成っていた。帽は黒地雲紋で、古代の官人が被っていた冠に似た形状であった』。『上衣は黒地の闕腋袍で、襟と胸に唐草模様と桐の刺繍が施され、刺繍の色で官職、桐の個数で裁判所の等級を区別した』。『服制を定めた当時、弁護士であった砂川雄峻は、「判事が職服を着て始めて(ママ)訟廷に臨んだときは、言ひ合はした如く皆極まり悪る気(きまりわるげ)に微笑を洩らして居つた」と回想』しているとある。『戦後、裁判所構成法が廃止され、裁判所法が制定されたとき、特に法服の規定はなかった。そのため、従来の法服を着用する者、法服を着用しない者とが混在した』が、『最高裁は』昭和二四(一九四九)年に、『「裁判官の制服に関する規則」(最高裁判所規則)で裁判官について新しく「制服」(法服)を定めた』とある(太字は私が附した)。本篇は昭和二三(一九四八)年発表だから、それこそその狭間のシークエンスで、裁判官は大方、けったいな旧法服だっただろう。私なんぞは、こんな注はいらない。何故なら、黒澤明の「醜聞(スキャンダル)」を見てるからさ(昭和二五(一九五〇)年四月公開)。その作品内裁判のニュース映像で志村喬扮する弁護士蛭田乙吉が旧法服を着て出廷して、観客も笑いを買うというシーンが用意されているからね。黒澤の作品の中でも、あれは映画ファンの若い人でも、見ていない(私が言っているのはちゃんと映画館で見ることだ)人も今や多いだろうなあ。]

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