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2022/04/04

曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その1)

 

[やぶちゃん注:本篇も「兎園小説」の中では非常に知られた一篇である。前回の「けんどん争ひ」と同じく冒頭注で述べたが、中巻は底本が変わって、

国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第一のここから

となるので、注意されたい。さらに、本篇の初めの部分は、

国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」の巻第二の下のここから

にも所収し(但し、標題は「佛庵所藏元吉原𤲿屛風圖」)、やや表現が異なる箇所があるが、同書は読みが豊富に附されてあるので、こちらも参考にして、( )で一部の読みを挿入することとする。さらに読み易さを考えて段落も成形した。時に後者の方が表記が判り易いと考えた場合は、そちらを採用した(特に断っていない)。その方が読者にはよろしいかろうと考えたからである。なお、やや長いので分割した。]

 

   ○元吉原の記

 元吉原(もとよしはら)は、元和三年の春より始まりて、明曆三年の春、今の地にうつされにき。はじめの地にありけるは、四十年の程になん、よりて「吉原由緖書(よしはらゆいしよがき)」とか云ものを按ずるに、慶長七年の頃、相摸(さがみ)の小田原浪人、庄司甚右衞門【一本、作勘右衞門。】といふもの、當時江戶の町々に【麹町八丁目・鎌倉河岸・大橋の内柳町・京橋角町等なり。】わかれをる遊女屋どもを、ひとつ處につどふべき、地所(ちしよ)を給はらんよしを願ひまうして、箇條(かぜう)の目安(めやす)を奉りしかば、元和三午丁巳の春、傾城町(けいせいまち)を御免ありけり【此時の町奉行は米津勘兵衞ぬし也。本多佐渡守着座にて、仰わたされしと云。】則、葺屋町(ふきやちやう)の下のかたにて、二町四方之地所を給はり、やがて甚右衞門をもて、惣名主(さうなぬし)になされしと云ふ。

[やぶちゃん注:「元和三年」一六一七年。ウィキの「吉原遊廓」によれば、『江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などは』、『たびたび移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初、幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後』、慶長一七(一六一二)年、『元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)』(本篇の「相摸の小田原浪人」とは全く異なる当該ウィキによれば、天正三(一五七五)年生まれで、寛永二一(一六四四)年没とし、『吉原遊郭の創設者として知られる。幼名は甚内』。『相模小田原北条家の家臣』の子『として生まれる。その後、『江戸に出て』、慶長一七(一六一二)年に『道三河岸の傾城町で遊郭の創設の出願のために遊女屋を営んだと言われるが、諸説がある』。五年後の元和三(一六一七)年に『吉原町に遊郭が創設する事が許可されると、惣名主となり』、『以後』、『甚右衛門の子孫が代々惣名主を継いだ』とある)『を代表として、陳情した際に』、○『客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。』

○『偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。』

○『犯罪者などは届け出る。』

『という』三『つの条件で陳情した結果、受理された。受理されたものの、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなく、陳情から』五『年後の元和』三年『に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、

○『江戸市中には一切遊女屋を置かないこと』。

○『遊女の市中への派遣もしないこと』。

○『遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすること』。

『を申し渡した。しかし、寛永』(一六二四年~一六四四年)『の頃までは、遊女が評定所に出向いて』、『お茶を出す係を務めていた。結局、遊廓を公許にすることで』、『そこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある』。さて、この時、『幕府が甚右衛門らに提供した土地は、日本橋葺屋町続きの』二町(約二百二十メートル)『四方の区画で、海岸に近くヨシが茂り、当時の江戸全体からすれば』、『僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。吉原移転後、跡地には難波町、住吉町、高砂町、新和泉町が出来た。現在の日本橋人形町』二・三『丁目と日本橋富沢町に跨がるあたりである』とある。グーグル・マップ・データ(以下同じ)のこの中央附近に相当する。

「明曆三年」一六五六年。同前のウィキによれば、『江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっていた。そのような中で』明暦二年十月、『幕府は吉原の移転を命じる。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。吉原側はこのままの営業を嘆願した』ものの、『聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意した。この際に北町奉行・石谷貞清は以下の便宜を図っている』。

○吉原の営業可能な土地を五割り増し(三丁四方)とする。

○夜の営業を許可する。

○風呂屋者(私娼)を抱える風呂屋(これ以前から流行った風俗営業をする銭湯で、遊郭と競合した)二百軒を取り潰す。

○周辺の火事・祭への対応を免除する。

○一万五千両を賦与する。

『この内容から』、『風呂屋の盛況も移転の理由だったことが窺える。幕府は同年』九『月に風呂屋者を置くことを禁止している(それ以前との記録もあり)。もっとも、周辺』の『火事への対応免除は、逆に』、『吉原で火事が発生した場合に』は、『周りから』の『応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。折りしも翌明暦』三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日相当)まで、江戸の大半を焼いた大火災「明暦の大火」が『起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもあった。大火のため』、『移転は予定よりも少し遅れたが、同年』六『月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋は』、『すべて移転した。移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。新吉原には、京町』一・二『丁目、江戸町』一・二『丁目、仲之町、揚屋町、角町があった』(京町以外は全て「ちょう」と読む)。寛文八(一六六八)年、『江戸市中の私娼窟取り締まりにより』、娼家主』五十一『人、遊女』五百十二『人が検挙され』、『新吉原に移された。これらの遊女に伏見の墨染遊郭や』、『堺の乳守』(ちもり)『遊郭の出身が多かったため、移転先として郭内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。また』、『この時に入った遊女達の格を「散茶(さんちゃ)」「埋茶(うめちゃ、梅茶とも)」と定め、遊郭での格付けに大きな影響を与えた』。『新吉原を開設したのは尾張国知多郡の須佐村の人だったという論文が『知多半島郷土史往来』第四号『(はんだ郷土史研究会刊)で発表されている。著者は作家の西まさる』で、『西論文によると、吉原遊郭の揚屋は総数約』二十『軒で、そのうち』十三『軒以上が知多郡須佐村の出身であることが、地元寺院の過去帳や寄進物記録で明白になったという。その背後に千賀志摩守』(尾張藩船奉行であった千賀(せんが)志摩守重親(しげちか))『がいたはず』である『と発表している』。同じ西氏の「吉原はこうしてつくられた」(新葉館出版)に『よれば、明暦大火後の』八『月に浅草田圃に出来上がった三町四方の新吉原遊郭であるが、その埋め立て、造成、建設の指揮をしたのは知多の陰陽師で、実際に作業にあたったのは非人頭の車善七が率いる』三『千人の非人とされた人たちという。また、完成した新吉原の町を俯瞰すると』、五『つの稲荷神社に囲まれた陰陽道の陰陽の法則に基づいていることが解るという。また、遊郭街へ入る五十間道の曲がり方、見返りの柳、さらには花魁道中の花魁の独特の歩行方も陰陽道に沿ったものという』とある。新吉原の位置はこの中央附近

 以下、割注まで底本では全体が一字下げ。]

 寬永の「江戶圖」、幷に、明曆三午正月開板の「江戶圖」によりて考(かんがふ)るに、元吉原の一廓(いつかく)は、今の「曲突河岸(へつゝひがし)」のほとりにて、「禰宜町(ねぎちやう)」と「尾張町」【この尾張町は間なる「をはり町」にはあらず。】、「京橋」と「新橋」の艮(うしとら)にあり。こゝに云ふ「禰宜町」は、「堺町(さかいちやう)」の舊名也。寬文二年「江戶名所記」刊行の頃までも、その書【四卷。】に、「禰宜町」としるしたるは、これ、則、「堺町」・「葺屋町」のこと也。しかれども、此の禰宜町は、今の堺町より北の方に、相距(あいさ)ること、凡一町ばかりにして、今の和泉町(いづみちやう)・高砂町(たかさごちやう)のほとりなるべし。かくて、明曆丁酉の大火後に、こゝらわたりの町わりを、すべて改められしかば、今はいづれを何れの町とも、定かに考がたかり【「江戶名所記」に、中村・市村の兩歌舞伎を禰宜町としるせしは、舊名によれるなり。寬文中に堺町にいで來たり。下の圖說を考ふべし。】。

 しかるに、當時、その處、あちこちに沼にてありければ、俄に葭蒹(よし)[やぶちゃん注:二字への読み。]を刈り拂ひて、平坦(たひらか)に築(きづ)きならせし。この義によりて、里の名を「葭原(よしはら)」と呼び出せしを、後にめでたき文字にかへて、「吉」に作るといへり。

 かくて、その一廓に、巷路をひらくもの、すべて五町、その第一を「江戶町一丁目」と云ふ。こは、開基の地なる故に、江戶繁昌の御餘澤(ごよたく)を蒙り奉らん爲に、祝して、云々(しかじか)と名づけたり。こゝには「柳町」なる遊女屋どものうち、つどひて、家作り、しける。且、名主甚右衞門も此處にをりしと云ふ。

[やぶちゃん注:「寬文二年」一六六二年。

「江戶名所記」私の偏愛する、真宗僧で作家としても知られた浅井了意によって著された江戸の名所記。寛文二年五月に京の五条寺町河野道清を版元とする。当該ウィキによれば、『江戸全体を概括した純粋な地誌としては最初のものである』。『著者浅井了意は京都出身で』、『江戸の滞在歴がある仮名草子作家で、先に東海道を題材とした』「東海道名所記」を『著しているが、本書は中川喜雲著の京都初の名所記』「京童」(きょうわらべ)に『影響を受け、江戸内外の人々に対し』、『江戸の名所を紹介するものである。江戸の繁栄ぶりを強調する記述が目立ち、先に明暦の大火の見聞を』「むさしあぶみ」に『著した著者が、その後の復興を他国に知らしめようとする意図も窺える』とある。

 以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

 「吉原大全」に、庄司甚右衞門が家名を西田屋と云ふ。これが抱(かゝえ)の遊女「たそや」が事より、「たそや行燈(あんどう)をともす」といへり。しからば、甚右衞門は名主にて、遊女屋をも兼(かね)たる者也。

[やぶちゃん注:「吉原大全」著者は醉郷散人(事績不詳)で、鈴木春信が絵を担当している。明和五(一七六八)年板行か。

「たそや行燈」ここに書かれている源氏名の話は載らないが、飯田孝氏の「今昔あつぎの花街」に「たそやあんどん」の記載がある。『「たそやあんどん」は、「たそやあんどう」ともいわれ、「誰哉行燈」「誰也行燈」の漢字があてられている。たそやあんどんは、江戸新吉原の遊廓で、各妓楼の前に立ち並べた屋根形をのせた辻行燈であるが、これとは別に歌舞伎舞台に出す木製の灯籠の意味もある(『日本国語大辞典』)』。『また、江戸時代末期頃の見聞をまとめた『守貞漫稿』には、次のように記されている』。『たそや行燈或人曰「たそやあんどう」は、「たそがれあんどう」の訛言也元吉原町にありし時より、毎院の戸前に之を建、今の新吉原町に遷りて、また之は廃れず。今に至りて江戸町及び以下、妓舘毎に戸前往来の正中に此行燈一基と、天水桶上に手桶十ばかり積たるとを必ず之を置く行燈には終夜燈を挑て、往来を照す、けだし此行燈の形、他所にも之を用ゆれども、「たそや」の名は当郭に唱ふのみ』。『『守貞漫稿』の記述に』『よれば、江戸時代、たそやあんどんは、新吉原の各妓楼が、その前の道に立てて灯をともし、夜の道を照らすあかりとしたものであるが、新吉原以外でも用いられていたことがわかる』。『これがいつしか料亭などの目印や看板となって、電灯がともるようになった後も、たそやあんどんは、花柳界でその姿が生き続けることになる』とあり、近現代の話が続く。]

 第二を江戶町二丁目といふ。こは、鎌倉河岸にありし遊女屋が、皆、移徙(わたまし)してこゝに住ひき。

 第三を京町一丁目と云ふ。こは麹町なる遊女や等が、この處にうつり住ぬ。故鄕は京のもの共なれば、云々(しかじか)と名づけしと云。

 第四を京町二丁目と云ふ。吉原開基のよしを聞て、こたび京より來つるものさへ、かれこれ、多くなりにければ、この處に集めをきつ。この故に町づくりの、一兩年おくれしかば、「新町(しんちやう)」ともいふといへり。

 第五を角町(すみちやう)といふ。こは京橋角町なる遊女屋のもの、いたくおくれて移り住みぬ。これによりて、此處は、寬永三年冬十月十九日に、町づくり成就せしと云。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

 寬永の「江戶圖」によりて考るに、當時、吉原なる五丁町は、江戶町・京町・新町・角町・賢藏寺町、則、是也。この「けんざう寺町」を改めて、江戶町二丁目と唱へしは、寬永の末なる歟、正保・慶安の頃にても有ベし。

[やぶちゃん注:「寬永の末」寛永は二一(一六四四)年まで。

「正保・慶安の頃」寛永の後が「正保」(一六四四年~一六四八年)で、その次が「慶安」(一六四八年~一六五二年)。]

 さりし程に、明曆二年丙中の冬十月、吉原の地所、御用地になるに及びて、同じ月の九日に、云々(しかじか)と仰せわたされ、「外(ほか)にて代地(かへち)をくださるべし」と、仰せ渡されたりけるに【このときの町奉行は石谷將監ぬし、神尾備前守なりといふ。】、その明年丁酉の春正月十八日、本鄕なる本妙寺より失火して、江戶中、殘りなく燒けにければ、更に所替(ところかへ)の義を急がせ給ふ程に、山谷(さんや)・鳥越(とりこえ)のほとりなる百姓家を借りて、しばらく渡世したりける。これ、吉原假宅(かりたく)の始め也。この後、いく程もなく、淺草寺のうしろなる、日本堤(につほんつゝみ)のほとりにて、二町に三町のかえ地をくだされ【大門口より水道尻まで、京間百三十五間、橫幅百八十間、内の坪數二萬七百六十七坪、「吉原大全」に記せしもかくの如し。舊地よりは五わり增の替地なり。】、晝夜ともに渡世を致すべき旨を仰わたされ【是までは晝ばかり也。】、引料(ひきれう)として御金壹萬五千兩下され【但、小間一間に、金十五兩づゝの積り也。】、同年八月上旬に、家作、落成してければ、みな、新吉原へ移徙(わたまし)して、生業をせしといへり【江戶中なる風爐屋の髮結女と唱へる、隱賣女を嚴禁にせられしも、このときのこと也。かくて、そのものどもの、うちわびて、みな、吉原へうつり住ひし程に、茶屋・遊女持ともに、すベて七十餘人ましたりと云ふ。】

 右、「元吉原由緖書」の趣を略抄して、愚按を加へたり。

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