室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 扉(タイトル)・序・「天上の梯子」
[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、所持する「ウェッジ文庫」(二〇一〇年刊)の同書をOCRで読み込み、加工用に用いた。同書は現代の刊行物としては画期的に歴史的仮名遣(但し、漢字は新字体)を使用したもので、私は高く評価している一冊である。
電子化は私の偏愛する芥川龍之介関連に特化した本書の「澄江堂雜記」パートから開始したが、他の部分は原本の最初に戻って電子化する(他にも龍之介関連の文章は本書に散在するが、それだけを先に抜いて電子化注するのは、室生犀星に対して失礼と存ずれば、以下では既にこのブログ・カテゴリ「室生犀星」で終わった「澄江堂雜記」まで冒頭からの順列で電子化する。
底本の傍点「﹅」は太字とした。何時も通り、原本の読み(ルビ)は( )で示したが、本書は殆んどルビがなく、若い読者の中には読みや意味で途惑う向きもあろうとも思われることから、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した(かなり造語もあり、また、当て訓もある)。
但し、私は室生犀星については、正直、芥川龍之介と関連のある事績にしか知識がない。されば、龍之介関連に箇所で気になる部分には注するが、その他の非芥川龍之介関連の随筆・評論には、私が躓いたところ、及び、よほど気になった部分以外には注を附さないこととする。私は注で拘って本文から脱線する傾向が強く、読者によっては五月蠅いだけの駄文となろうかとも思われるからである。【二〇二二年四月一日 藪野直史】]
天馬の脚
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションは、残念ながら、外装が損壊したためであろう、修理されて館内用のそれに作り替えらえてしまっており、原表紙ではない。幸いにして、K. Kojima氏のサイト「室生犀星書籍博物館」のこちらで、小さな画像であるが、本書原本の函及び表紙を見ることが出来る。孰れも上記の書名が太枠罫に毛筆で記されている題簽を視認される。この題簽の揮毫者は、目録の末尾から、芥川龍之介の主治医にして友人であった、田端に住んでいた、龍之介の遺体の検死者にして死亡診断書も書いた医師で俳人でもあった下島勲(俳号・空谷)であることが判る(私の下島勲「芥川龍之介氏のこと」や、『小穴隆一「鯨のお詣り」(36) 「二つの繪」(25)「彼の自殺」』を参照されたい)。さればこそ、本書には、どこを開いても、芥川龍之介の遺香が、仄かに漂っていると言えるのである。]
[やぶちゃん注:扉。毛筆。室生自身の筆か。国立国会図書館デジタルコレクションではここだが、国立国会図書館の蔵印・内交印(内務省検閲済印)]・「納本」印が捺されてあり、あたかも検死解剖台のような様相を呈していて、とても画像として挙げられる代物ではない。そこで、所持する「ウェッジ文庫」版の目録の後に挿入されてある原本から加工補正したと推定されるページを画像で取り込み、裏の写り込みその他を補正・清拭して掲げた。なお、文化庁は平面的に写真に撮られたパブリック・ドメインの絵画作品等の写真には著作権は発生しないと規定しており、この同文庫のそれも、写真で撮ったものを補正・清拭ものと推定されるから著作権侵害にはならない。]
序
自分は最近隨筆ばかり書いて暮してゐた。隨筆も小說や詩と同樣に苦しい作品であることを經驗し、文章に自分の心境身邊の雰圍氣を沁み込ませることも、容易な仕事ではなかつた。自分は此隨筆的な愛すべき境致にゐて、靜かに自分を鍛へることに喜びを感じてゐた。
自分は自ら好む閑文字と倶に文藝評論や映畫の時評をも試み、これまでの隨筆的佶屈《きつくつ》を蹶破つて出た明るい感じを經驗してゐた。「天馬の脚」と題したのも、そ
の明るさを表象したものに過ぎない。[やぶちゃん注:「閑文字」「かんもんじ」或いは「かんもじ」と読み、「無駄な字句や言葉」、「無用の文章」の意。「蹶破つて」敢えて読むならば、「ふみやぶつて」であるが、迫力がない。「蹴破つて」で「けりやぶつて」「けやぶって」なら最も腑に落ちる。しかし「蹶」に「ける」の意味はない。或いは犀星の誤字か慣用語なのかも知れない。]
原稿は當然破棄すべきものを捨てて、自分の氣に入つたものだけを本集にをさめた。林泉的閑文字の中にも後日の集に讓つたものも尠《すくな》くない、主として「天馬の脚」には何か自分の變りかけてゐる、氣持の中に光る鋭いギザギザなものを蒐めたものである。[やぶちゃん注:「林泉的閑文字」「林泉」は隠棲の地として選ばれるような場所を指す。悠々自適晴耕雨読といった感じで勝手気儘に書いた自分の文章を謙遜して表現したもの。]
著 者
[やぶちゃん注:この後に「天馬の脚目錄」が続くが、それは総ての電子化注を終えた後に回す。
以下はパート標題。]
天上の梯子
一 純文藝的な存在
現代に於て純文藝的な作品のみで、一作家が生活を支へることは最早危險なことに違ひない。詩人が頑固に詩作ばかりで生計を爲すことは、最早現今に於ては不可能のことにされてゐるやうに、凡ゆる文藝の士もまた純粹な藝術的表現でのみ、その牢乎《らうこ》[やぶちゃん注:しっかりしているさま。ゆるぎないさま。]たる藝術的潔癖を手賴ることは危險に近い努力であらう。一作家の氣魂にまで割り込んで行くところの熱と愛とをもつ讀者は、殆ど文藝的な忠實な使徒以外には求められず、多くは興味本位のものを要求しそれを愛讀するに至るであらう。
自分のごときは天下に百萬の讀者を持つものではないが、併し猶百騎の讀者を信じることに於て人後に落ちるものではない、俊英と愛慕との百騎はそれ自身後代ヘの續きを意味し、百萬の蜉蝣《かげらふ》はそれ自體何時しか散り易きものの常として散り失せるであらう。誠を愛し讀み味ふことは、却却(なかなか)讀者に求められるものではない。併も今日のごとく讀者が右往左往する時代に、何人が彼らの心臟的讀物たることを期し得よう。誠に淸節であり得た讀者は一作家にどれだけも無いやうに、又その讀者の烈しい淸節さは陰乍《かげなが》らよく努める作家らの轡《くつわ》を嘸でて、なほ溫恭の陣頭へ送り込むことは昔と渝《かは》りはないのだ。
併しかういふ大衆化の時勢に於てこそ、純文藝的な作品の透明を持することが出來、嚴しき朝暮の霜を人人に思はしめるであらう。純文藝風なものの存在の危ない時にこそ、その輝かしい烈しいものを叩きあげることが出來、詩錢を得ざる詩もなほ後代を信じることが出來るのだ。自分の如く何事にも融通の利かない作風すら此儘押し上げることにより、役立たない才能を役立てることにより後代を信じることが出來るであらう。益益純文藝的な、寧ろ頑固なまでの薀奧《うんわう》[やぶちゃん注:「うんおう」の連声(れんじょう)。教義・学問・技芸などの最も奥深いところ。奥義に同じ。]を刺し貫いた古代と新代との續きにかがり[やぶちゃん注:「縢り」。布の裁ち目などがほつれないように縫い糸やしつけ糸でからげることからの喩え。]、胡魔化し捩ぢ伏せて純粹なものに取り縋《すが》ることにより、我我の存在が決して輕蔑できない處にまで、行くところに行き着く氣槪と勇勵とを併せ感じるであらう。純文藝的なものの呼吸づかひのヤサシさ、そのきめの細かさ、粗大に優れた量積、「時」を抱きしめてゐる雄雄しい姿を人人は見るであらう。仕事場にゐる彼を見直し彼の仕事場にある「時代」の新しい面容を見ることが出來るであらう。
我我が大衆に割り込むことの不可能な才能を信じ、我我の過去の文學が大衆をどういふ風に育てたかを思ふ時に、我我の文學に大衆は間もなく踵《きびす》を返すことを信じて疑はない。また我我の純文藝の立場にまで彼らを引き戾すことは、我我の古代のよき藝術がいつもそれに力があつたやうに、決して不思議な徒勞な現象ではない。我我はツルゲエネフの過去から既にその用意があり、それを迎へるに寧ろ微笑《うすわら》ひながら談《はな》し得るであらう。
二 文藝の士
紅葉、露伴や漱石、藤村なども文藝の士ではあるが、各發句や詩情を述べるに遂に一代の大名を爲してゐる。西鶴も亦俳諧をよくし、芥川や久米三汀も亦發句道の達人である。齋藤茂吉の隨筆も亦自ら風格ある重厚な文章を爲し、古くは虛子も亦數編の小說を書いてゐる。
自分は文人的好みを普遍的に叙說する時文家《じぶんか》の徒ではないが、歌人俳人が小說を書くことや小說家が發句和歌を物することは、各《おのおの》その道の難きを知り自らその道の苦衷を慮る上に於て、我我文藝の士のみが感じる或親愛さへ念ふものである。これらを以て直に文人墨客趣味とは云はない、藝術の士はその分野の分けがたき雜草をも分け入り、岐路の微妙を大悟することは當然といへば當然過ぎることであらう。徒らに俳詩人のみが詩俳諧の殿堂に弓箭を番《つが》へることは、小說家がなほ小說の宮殿に己れを護るの頑愚と一般である。凡《あら》ゆる藝術の士は又凡ゆる藝術の諸道に通じ、それの作者たることに遠慮は要らないと同樣、それらの作品を齎《もたら》すことに據つて美事な文藝の士たることは恥ではない。又別の意味で文藝の士の資格たるや歌俳諧の秘術を露くことも其一つではなからうか。[やぶちゃん注:「時文家」現代文学評論家或いは「文人的好みを普遍的に叙說する」というところまで裾野を広げるならば(狭義の文人の辺縁や外延まで及ぶとなら)、寧ろ、社会評論家も含むことになる。]
小說家であり得て生涯小說を物してゐるのも惡いことではないが、なほ一藝に秀でるは一層作者たるの所以を手厚くするやうである。秋聲に句道の志あり、鏡花に小唄や發句の閑境を窺ひ見られるからである。一代の文藝の士の諸道になほ一見識を持つことは、輓近漸く廢れて、荒野に花を見ることなきは詩情漸く地に墜ちようとするに似てゐる。とは云へ强《あなが》ち文人趣味無き文人をなみする譯ではないが、荒涼たる人生の記述者にも此詩情あることは我我一讀者としても望むところである。
自分の如きは詩人ではあり幼にして文藝的生ひ立ちの朝暮には、和歌や發句や詩の道に己れを學ぶ機會を與へられ、長ずるに之らの精神を感じてゐながら遂に忘却の時をさへ强ひられたが、今にして顧るに之らの文藝的苗代《なはしろ》の時代に學び得たるものが、蓊鬱《をううつ》[やぶちゃん注:元は「草木が盛んに茂るさま」で、そうした様態の喩え。]として胸裡に蟠《わだかま》るの幸福は、徒らに作者たるのみの面目を持するの徒にくらべ、遙に喜びであるに違ひない。詩情は得難く法度に卽《つ》かざるの嘆きは、遂に今日では自分に繰返す要がないやうである。
今、五十代の人人は多くは漢籍詩史により明治中期の、しかも明治人として最後の文人的資質の典型人として殘つてゐるが、彼ら以後今四十代に近からんとする人人には、明治人としての平淺粗笨《へいせんそほん》[やぶちゃん注:「粗笨」は大まかでぞんざいなこと。]の時勢的惡夢の時永く、文人的好尙の時を經ないでゐる。しかも時勢とは用なき之らの漢籍詩史の埒外《らちがい》の敎育は第三期の今の二十代の靑年には、殆ど視目に觸れる事なく用無き徒事《あだごと》として忘れられてゐる。況やその道の士にして顧ることなき文藝的枝葉の成果は、今後益益滅び行くであらう。自分が又一讀書家として、彼ら文藝的達人の徒が己れの城砦《じやうさい》にのみ籠るの域を出て廣き諸道の光彩を手に取り詠ずることを望むのは、荒唐の世に背く譯ではなく、荒唐の世に處するの素志であることを說きたいからである。[やぶちゃん注:「徒事」は「とじ」「ただごと」とも読める。]
三 文人趣味への反逆
あらゆる文人墨客の趣味は、當代にあつては一つの心境上に試用される洗練や彫琢の類ではない。その趣味が社交的な隱遁生活者の一つの資格であり得た時代、爲人《ひととなり》としての嚥《の》み込みによつて煩雜な時代の相貌に嘲笑しかける卑怯な「思ひ上り」であつた時代、何事も文人趣味に己れのみよしと決定したいい加減な心境者の時代はもう過ぎた。凡ゆる文人趣味の表面的な爲人振りである誤謬は、遂にそれらの淸閑と目された精神的高揚の中には、何等の霸氣もなく徒らに沈んだ退屈そのものだといふよりも、何よりもその趣味は當代にあつては完成されざる「心境上の疾患」であるといふ冷笑をさへ浴びせられるのも、いい加減な風流才子の輩出が起因してゐた。
あらゆる風流意識や傳統保持者の持つ「古い黃金」を粉碎してみて存外瓦石を發見することが多かつたのは、彼らの持つ心境が一時的のものであり、氣質的のものでないことに原因してゐた。隱遁それ自身の隱れ蓑だった風流意識は、我我が幾たびも之をたたき破ることによつて、誠の心境者、戰國時代風な心境者を形づくることに、己れを鞭打ち練磨を怠らせなかつたものだつた。凡ゆる文明の中にある寧ろ戰鬪的な思想をすら、その心境上の背景に抑制してゐる一種の寂靜な心境、しかも橫からも縱からも打ち込む隙間もない四方に鏡をもつ境涯にゐてこそ、初めて心境の達眼者たることも得、また風流者の資格をも得るものであらう。些《わづか》の茶事造園の著書によりながら、また些の睨みをそなへる自信に媚びることによる今日の鼠輩が、風流を單なる文字面の淺慮な解釋によつて斬り捨てることは、彼自身の名譽を重んじることによつて自ら口を襟《つぐ》むべきことであらう。風流はそれ自身個個の氣質がもつ凡ゆる藝術的な分野を領し得るところの、それぞれの達人者によつて名づけられる名稱であり、一つの辭書的な解釋による單なる風流でないことが分つて來た今の時代には、何人も風流人であり得る譯だ。これを嘲り笑ふことは彼自身の淺薄さを我我に暴露するものに外ならない。
我我はもはや「古い黃金」の中身に欺かれず、またそれを欲しようともしない。唯我我の求めるものは中身もまた輝くところの「古い黃金」の心境であるものに限るのだ。風流が單なる風流意識の封建的な埒の外に、あらゆる世相を抱へ込むことを怠らない限り、初めて完成されるのだ。いい加減な枯淡思想は一種の胡魔化しを吹き込むことによつて、もう亡びてゐることは事實である。我我が輕蔑されて來たこれらの明快な悒欝《いふうつ》[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じ。但し、「憂鬱」の歴史的仮名遣は「いううつ」である。]を拒絕した意識の下では、もはや何人の前にも「風流」そのものがなほ一時逃れのものでなく、我我の生涯を圍饒《いねう》する鋭い新鮮な一つの「今日の思想」であることに心付くであらう。
四 僕の文藝的危機
自分の熟熟《つくづく》この頃おもふことは樂な仕事をしてはならぬといふことである。樂な仕事それ自身三枚書けば三枚分だけだらけ、五枚書けば五枚分だけだらける習慣が永い間に恐ろしい病疾になるからだ。樂な友人交際には何の緊張もなくダラけ切つてしまふのだ。自分は不惑の年齡にゆきあうて又思ふことは、もう最後に緊め付け打ち込まねばならぬと云ふことである。もう一度立ち直らねばならぬ事、いま立たねば飢ゑかつゑてしまふ事、それは絕對に取返しのつかない大飢饉である事、結局は絕對に取返しのつかない大飢饉である事、結局妻子や一門を嘆かすことの前に私自身が是が非でも力一杯で打《ぶ》つかつていかねばならぬ事、力一杯で打ち込むことは必ずもう一度立つことを意味するであらう。根《こん》の限り揮ひ立たねばならぬ。樂なものは一枚でも書いてはならぬことである。それはどういふ意味に於ても必要であり、自分の死物狂ひを正氣まで引き戾し勉强させるであらう。
芥川君の死は自分の何物かを蹶散《けち》らした。彼は彼の風流の假面を肉のついた儘、引《ひつ》ぺがしたのだつた。彼は僕のごとき者を其末期《まつご》に於ては輕蔑したであらう。自分は漸く友の溫容の中に一すぢ烈しい輕蔑を感じることに依つて、一層この友に親しみを感じた。自分は自分自身に役立たせるために此友の死をも攝取せねばならぬ。何と云つても彼が作の上にないもの、僕自身が勝手に考へ耽るものを僕の中に惹き入れることに據つて彼自身を閻魔の廳から引き摺り出さねばならぬのだ。彼自身が持つ僕への微かな輕蔑の情を彼自身の爪によつて、自分の諸《もろもろ》の仕事に據つて取り消させることが出來るであらう。彼の死を僕の或文藝的の危期から立つことに依り、劃然としきることが出來るであらう。
彼の長髮瘦軀は實際自分には樣樣な場所に見えた。自動車のドアから下りようとする彼、動坂の埃と煙の中から出て來る彼、田端の垣根と垣根の間を步く彼、そして僕の彼から取り戾すことは此一つの輕蔑の思念だつた。
五 時代の經驗
或日自分のところに支那の古硯を商ふ男が來て、掘出し物の古い壺を見せてくれ、自分はそれらの壺を人目には氣永に丹念に捻《ひね》り𢌞して眺めてゐた。其座に來合せてゐた一靑年は、時折自分と陶器とを見較べゐたが、硯を商ふ男が歸ると、一靑年は徐《おもむろ》に自分に對《むか》うて質《ただ》すがごとく云ふのであつた。
「あなたが陶器を見たり硯に息を吹きかけてゐられるのを見てゐると、僕らの氣持とは全然異つてゐるやうに思はれるのです。あなたはああいふ硯や陶器を見ることは愉快なんですか。」
「君はどうです。」
「僕には解らないんです。併し今の僕らの氣持はああいふ陶器なぞに絕對に好意を持ちません。」
自分は此靑年が歸つたあと、靑年が硯や陶器を見て興味の起らない氣持に同感することが出來、彼の人生には死んだ表情をしか見られない硯や陶器に就ては、絕對に必要の無い路傍の瓦石の類と同じであらう。詩や小說への熱情を持ち、凡ゆる新しい時代の氣持を嚙み分けようとする年若い彼に取つて、古陶の精神や硯の石質に就て思ひを碎くことは、愚昧なる戯事でなければ骨董屋の手すさびとしか見えなかつたであらう。自分がそれを捻り𢌞してゐる時に、彼は靑年らしく自分を恐らく輕蔑した氣持で見てゐたかも知れない。さういふ靜寂さは靑年に取つて息塞《いきづま》る退屈なものであり、充分に輕蔑すべき事柄であつたかも知れない。
靑年には古い物質から新しい物を考へようとする氣持、秀れた古さの中に必然に身ごもる新しさの潜《ひそ》みが、彼の短い生涯からは見えよう筈がなかつた。凡ゆる新しい時代の呼吸づかひを生活しようとする劇しい氣質の中にある彼には、古代の背景と光とをもつ新しさよりも目前の新しさがどういふ新しさでも其形をもつて居ればよかつた。新しさのもつ危機、新しさのもつ輕佻と淺薄とさへも彼らは屢屢忘れ勝ちな程の新時代の靑年だつた。併も靑年の人生にはさういふ古さを引摺る生ぬるい必要はなかつたのだ。
自分は性質として凡ゆる古代を渴愛した。古代の精髓の中にある新鮮を汲むことを熱望した。陶器にせよ硯にせよ文學にせよ、それらの古色蒼然の中からは百代に光茫を搖曳する新鮮を見極めることによつて、嚴格無雙の「古代」の額緣の中にある新しさを發見しなければならなかつた。これは永い生涯を經驗したもののみが讀み分けられる特異な新しさではなかつたか、我我の生涯へまで彼らが來なければ見られぬ「古代」の姿ではなかつたか。
人間はそれ自身生きることの深い層をたたむことによつて、彼自身の存在を明かにすることは云ふまでもない。靑年と自分との分岐點、自分と彼との、存在の距離には、自分としては生き得た光茫とともにあることも、軈《やが》て彼もまた生き得て後に初めて今日の自分を理解することであらう。
六 生活的な流浪
自分は此頃物を書く時には机のわきに一物を置くことさへ、神經的な煩しさを感じ、もう絕對に書物や茶器を手元に置かないことにしてゐる。一帖の原稿紙に鋭い冬の寒氣の揮ふ中に坐つて居れば、心足りるやうな思ひがしてゐる。自分のやうな表面的にも落着いた生活をしてゐるものは、年年歲歲その生活の古い枝葉が組み合ひ鳥渡《ちよつと》引越すにしても並大抵の苦勞ではない。石を起し樹を移し代へるだけでも自分には重荷である。陶器や書物、器物なども年年に殖えて數を增し、生活は複雜な層を作るばかりである。さういふ通俗的な複雜さは彌《いや》が上にも自分を憂鬱にし、身動きの出來ないやうな退嬰的な狀態に置き、心に固い物質的な感覺ばかりをこだはらせ、それらの古い由緖をもつ物質の中に坐つてゐると、神經の疲勞は日に增して重く苛立たしく募つてくる許りである。自分は身輕に立ち上るためにそれらの生活を、身悶えしながら其鎖を斷ち切らうとしてゐる。
自分は此春になつて荷物を引纏めて何處かの知人の許に預け、幾つかの行李とトランクを携へたまま、一家を擧げて漂然と旅に出ることを考へてゐる。半年くらゐ流浪の暮しをしたら心も自由になり、身輕な朝夕を送ることができよう。今のままでは落着くだけ落つく危險さが感じられてならぬ。最初信州へ行き二三ケ月を山の中で暮し、故鄕へ𢌞り其處でしばらく遊び、京都で二三ケ月をくらした上で、歸鄕して來たら少しは氣持に廣さができ、佶屈と憂鬱さから解き放たれるやうになるだらう。さういふ長期の旅行には一家をあげて流れ步くのが、生活の重みを感じられていい。自分一人で旅へ出るよりも一家とともに行くのが、何か自分の意嚮《いかう》とぴつたりしてゐて氣の張り方も感じられる。尠くとも土地土地の人情を感じるにしても、一家の生活から沁み出してくるものから感じるのが、本統[やぶちゃん注:ママ。]の物を的確に思ひ當て搜ぐることが出來るのだ。
誠の意嚮は物質的な固い氣持から放れるだけでよい。四五年の生活的な埃や垢から立ち上るだけでも少しは氣持の淸淨と新鮮とを感じられるだらう。どういふ家庭でも三年目くらゐにその生活を新鮮な方に引寄せる必要がある。又どういふ家庭でも三年目くらゐにそれ自身に或轉期を醗酵させることも有勝ちのことだ。倦怠を叩き破ることも左ういふ時に勇敢に進まなければ、その機會を外す怖れがある。自分の一家を擧げて流浪しようとする氣持の根ざしも、その機會をうまく自分の氣持に添はせる爲に外ならない、――そして又新しい自分を親しみ合せることに喜びと努力とを感じたいのだ。
七 詩錢と稿料
自分は今までに詩や文を賣つて不安ながら今目の生活を支へてゐる。。僅か一枚の詩稿でも需《もとめ》に應じて金に換へてゐるが、詩の稿料の場合はどうかすると微《かす》か乍ら感傷的な氣持になり、成可く有用な家事につかふことにしてゐる。年少詩を志して上京した自分は、まだ此幼い王國に遊行した日の種種な憂苦を忘れることが出來なかつた。この私に何時も絕えず良心の刺戟があつたからであらう。
自分は三十歲まで詩錢や原稿料を取ることが出來なかつた。併も自分には其等の不平や呪咀の經驗を持たなかつた。自分は父の遺產を僅かづつ取り出して暮してゐたからである。その頃の大抵の詩人は詩の稿料を取ることが出來なかつたのも殆ど當然だつた。自分は詩の稿料に相應の金を求めるのも、天下に恥ぢる事無き今日までの「我々」への感謝の氣持があるからだ。曾て或日詩錢を得て一羽の鶯を飼うてゐたが、春暖の候に佐藤春夫が來てその話を聞いて、甚だ不機嫌な顏付をして恰も鶯を飼ふ自分が贅澤のやうな口調だつた。併し自分は間もなく彼が他の小鳥を飼養してゐるのを見て、夫子自ら辯無きことを思うた程であつた。四五年の後に彼が果してその小鳥が、偶々「鶯」だつた爲に、自分に攻勢的態度を取つたのではないかと思ひ付いた。そのころ自分は既に「鶯」の境涯を卒業してゐたばかりでなく、凡ゆる小鳥を飼ふ氣持の中に烈しい寂莫の情を感じ出してゐたからである。さういふ安價なその爲に烈しい寂莫の想ひは到底自分には我慢のできる程度のものでは無かつた。
自分は三十歲後に小說を書いて漸つと生計上の一人前の資格を得たが、同時に小說を書き出してから、その仕事から人間が次第に出來上つてゆくことを感じた。詩に遊ぶこと十五年だつたが小說を書いて二三年の間に、どれだけ自分は人になれたかも知れなかつた。作の上の苦衷は自ら自分を新しく組立てるに忙しい程だつた。自分が人前に立つことの出來る所以は、凡下の微笑裡に悠然と自分を疊み得ることも、小說を學んだための餘光を浴びたからであらう。小說學の途に就かない前の自分は依然として草花詩人の群の中に、聞くに耐へない囈言《たわごと》を綴り乍ら或は一生を終つたかも知れなかつた。自分の如きは元より學園に友無く又その榮光をさへ負はないものであるが、それ故に「人に」ならうとする氣持の烈しい中に立つたものかも知れない。さういふ意味で小說學は物質的といふより寧ろ「人に」なるための鞭や笞《しもと》の熾烈さを、自分のごときぼんくらの腦漿にひびき立てて打ち卸されるものの一つであらう。
不思議なことには自分は未だに原稿料について、それを得ることに或謙遜を感じてゐる。これは狡猾な言葉で無い意味で自分の中にある或物質的センチメンタリズムである。それ故にこそ自分は時に原稿料のことにケチ臭く奮鬪するのである。穩やかな交涉の中にそれらの取引を了することは、同時に仕事の幸福さを思ひ益益それに昂じてはならぬと思ふ程である。併乍らそれらの期日の相違に反射される不愉快な氣持で、殘酷な文人墨客的平靜の努力に敢て就かなければならぬことは何たる文人墨客的不幸さであらう。さういふ時に自分に取つて美しい謙遜の情は消え失せるのが常である。
八 第一流の打込み
心境小說に就て餘り人人は最《も》う云はないやうである。併も私自身にはどういふ意味にも心境小說の存在を捩ぢ上げ驅逐することができない、――心境小說はそれ自身どういふ非難の中に立ち辣み乍らも、益益自身を掘り下げ磨き上げ、次から次へと新鮮な彼自身の役目を發見することに據つて、僕の場合には依然として存在するであらう。心境小說の病根は寫眞を引き伸したやうな日記的生活の腐肉を抉ることにより、漸く人人に飽かれもし沒落もしたのであらう。
凡ゆる藝術は優秀な作家的心境を外にして立ち得るものではない。唯その心境にまで達し得ないもの、既に腐肉的心境の墮勢を綴ることによつて下り坂のものは、到底救ひ得ないものであらう。そして又沒落したものは既にさういふ種類のものであつたらう。それらの心境の練磨や進步や度外れの勇躍に對しては、我我は非難の劍を取つて袈裟がけに斬り下す必要はないやうである。唯、恐るべきことは書きよいために心境小說をかくことは飽迄我我の中から退治しなければならぬ。心境へ這入ることは容易なことであつて、同時にその縹渺を手摑みにすることはその道の達人でなければ、出來ない仕事である。我我にしろ彼らにせよ、危い日記的陷穽《かんせい》と寫眞引伸し的の境涯を完全に蹶散《けちら》し蹈み破ることの把握の大きさにより、私は私の心境的小說を示し又彼らにも承認させねばならぬ。寫眞引仲し的小說の壁を衝《つ》き拔けることは、云ふごとくして行はれざる至難の道であり、同時に我我の鳥渡した油斷してゐる間に小說自身がそれを搬《はこ》ぶからである。三四行ばかりの引伸し的描寫自身の運びが恐ろしい日記的引伸しの機運を與へ、それの弛みが全篇に物憂い疲勞を漂はすからだ。心境小說にはそれらの危險を油斷なく虱潰しにしてゆくことによつて、光榮ある存在をその將來に於て益益物語るであらう。
或意味に於て心境小說は第一流の切迫的な打込みを要し、又第一流の新鮮な文章以前の文章の素朴を要するであらう。彼らに肝要なものは最早あらゆる藝術的要素の最高のものありと凡《あら》ゆるうまさ氣高さ、その比類のない濁らぬ禀性《ひんせい》から出發すべき條件を忘れてはならない。日記引伸し的作者の心境が既に我我のいふ心境のかたちさへ保つてゐない如く、我我の溫順の情を有つてさへそれらを振顧る必要はない。我我の心境にある埃や瓦や石やブリキや當用日記や生活ボロが騷然と入り交つてゐても、それらの上になほ不斷にきりつとしてゐるものや、眞面目な一杯の力や、每日幾らかづつ良くなるやうに心掛ける努力あつてこそ、我我の心境は人前に怖ぢず又彼らに匹敵し、次第に良くなつて行くであらう。
九 「巖(いはほ)」
自分は機會があつて昨年中に文學者に接見することが多かつた。そして島崎藤村氏にも或會合で度度お會ひした。自分は藤村氏の端正すぎる文藝的身構に或恐怖と誤解とを有《もつ》つてゐたことを、卽座に逐《お》ひ出すことが出來て仕合せだつた。凡ゆる老大家のもつところの又優れた人人のもつ「巖」を藤村氏は有つて居られた。秋聲、臼鳥の二氏も亦その「巖」に手をかけられてゐるが、藤村氏には就中それが强く感じられた。自分のこの見方を朗らかに藤村氏に達し得たことは、私自身に快適な心持であつた。
自分も亦「巖」を戀してゐると云つたら人人は嗤《わら》ふだらう。自分はむしろ「巖」に壓迫されて呻吟することもよいが、自分の見た「巖」は瞬間的に何ともいへずよい氣持であつた。自分の文學的小學時代に「島崎藤村」といふ名前は實に遙かに高い處にあつた。「春」や「破戒」を讀んだ自分はまだ人生への方向さへ分らなかつた。しかも「島崎藤村」とは自分の生涯の中で、それと膝を交へて語ることの機會の無いことは覺悟してゐた。そして漸く昨今「島崎藤村」と膝を交へ、話すことができたのは、自分の年少にして熱烈な文學的希望めいたものを、何等の面倒や辭令無くして叶へられたと同樣の喜ばしさだつた。誰かの言草ではないが、手におへねえ餓鬼の手柄だつた。自分は白哲童顏の「島崎藤村」を一瞥した時に、他の言葉は知らず直ちに「島崎藤村」を理解するに十分間を要しなかつた程だつた。十年間「島崎藤村」を讀んだものとしては當然の事であらう。
自分は不惑の年になり色色の機會あるごとに、文壇の諸君子の風咳に接したい熱望をもつてゐる。その樂しい最初の十分間に自分は行き會ふだけのものを用意し、大抵人見知りや厭な氣持にならずにゐたいものである。自分はかういふ用意のできる時を持つために話をしなかつた人人に、會うて又敎へられるところを攝らねばならない。
十 作家生活の不安
輓近雜誌の廢刊や世上の不況から、作家は一荐《ひとしき》りのやうな收入を得るに困難であり、同時にこれらの不景氣は心ある文人をして昔の「破垣《やれがき》を結ぶ」氣持の烈しさヘ追ひ戾されたことは實際である。眼光自らその「時代」の落着いた美の中に住むことに慣れて、より良き作家はかういふ時に徐ろに立つであらう。
一圓本流行はそれらの標的になるべき作家を網羅したものの、さういふ印稅は作家を一年半位しか休息させないことを考へると、大して稅務署まで騷ぐ必要はなからう。當然酬いらるべき作家の「もの」だつたものが、年月を經て作家の手に落ちて來たものに過ぎないであらう。何も改造社や新潮社春陽堂の仕事ばかりでなく、作家と和合半ばした共同事業のそれであると云つてもよい位、彼らに酬いらるべきものば酬いられたと云つてよいであらう。風雨の永い歲月の間に一年くらゐの休息は精神勞役に近い仕事にたづさはる者には、當然酬いられてよいことであらう。自分はこれらの印稅的現象は大して作家を樂にさせないと思うてゐる。不況の時代は一層その底を洗ふとしても、我我は既にその用意が出來てゐるとしか云へない。
我我は約(つつま)しやかな破垣を結ぶことにより、生活の幅をちぢめることにより、その底に物凄い昔の苦行的な自身に再會することにより、決して良くなつても萎え凋むことはなからう。圓本に漏れるものは或者は猶十年後の圓本を超越してまでも、一行二行の苦節を守ることに精神するであらう。我我は遂に百萬の讀者を失うても、我我の子女は靜に夕方の涼しい蔭をつくる楡の木の下で、我我の「靑い汗」を慈《いつく》しみ讀み耽るであらう。我我や我我の友は遂にさういふ誠の一人か二人かの讀者を後代に選み出して、安らかに眠りに就くであらう。安んぜよ、我我と我我の友よ。
十一 一本の映畫
自分は何時か生涯のうちに一本の映畫を自分で監督し乍ら製作したい考へを持つてゐる。自分は最早文學の力を用ひず映畫の表現により、總《あら》ゆる自分の自叙傳的なものの曾て自分に取つて失ふことの出來ない光景、過去の幽靈、または既に剝落されたその時代の經過的な文明、さういふ自己を表現することは最早文學に於て陳套であり、又敢て先人の道を踏むに耐へない思ひがするからである。
映畫はあらゆる文學に淸新な肉づけを爲し、又映畫自身のサイコロヂイを文學に寄與することに依つて、我我は我我の自叙傳的な受難と數奇と情熱とを完全に把握し描寫することができるであらう。文章に表せない我我の情操的なエエテル、千九百十年代の淺草の糜亂した韻律、その瞬間的な經過、結局音樂的な表出による我我の悲哀化は美事に製作され完成されるであらう。我我はその影靑き世界に充分に號泣もし又少しも妥協することなき命運への反逆、惡を蹶落《けおと》すところのサルベーシヨン・ハンターズ風な立場を獲得することが出來るであらう。誠に自分は今は映畫が單なる他山の石や形式ではなく、既に自分に役立つ藝術上の一樣式だつたことを發見し、今後の自分が奈何に映畫を自分の内外に生かすかと言ふことに就いて、自分は今日もこの選ばれた生涯の中に「一本の映畫」を考へ耽つてゐる。[やぶちゃん注:「サルベーシヨン・ハンターズ」一九二五年(本邦での公開は同年(大正十四年)十月)のアメリカ映画“The Salvation Hunters ”。邦訳題は「救ひを求むる人々」。ジョセフ・フォン・スタンバーグ(Josef von Sternberg 一八九四年~一九六九年)の監督デビュー作。詳細は邦文サイト「MOVIE WALKER PRESS」のこちらを参照。]
十二 フリイドリヒ・ニイチエ
自分は或不機嫌な朝に山の頂を彷徨してゐる風體の惡い男を一氣に蹶落した。彼は殆ど抵抗することも無く千仭《せんじん》の谷間に逆さまに墜落して行つた。
自分は彼のゐた後を叮嚀に見𢌞つたけれど、鳶色の反古紙一枚殘されてゐなかつた。自分は自分の疳癪を起したことをさへ遂に後悔した。餘りに永い間擅《ほしいまま》に自分の中に巢喰ひ、餘りに永い間自分に影響を殘さうとしてゐた彼を、自分は谷の上から慘酷な目附で見下ろしてゐた。自分は寧ろ耶蘇に溫かい愛情を感じた。縱令《たとひ》同じ噓吐き同志であるにせよ、彼程完全に我我の中にその傲岸の泥足をもつて、猛猛しく居直ってゐた男はなかつた。爾《なんぢ》、フリイドリヒ・ニイチエ!
十三 東洋の眞實
あらゆる西洋の作家はその晚年に至つて或宗敎を完成し表現した。彼らは均しく宗敎風な觀念に美と愛とを感じてゐた。トルストイ、ドストエフスキイは云はずもあれ、ルツソオ、ストリンドベリイ、ヴエルレエヌ、――併乍ら東洋の諸詩人は宗敎よりも一層手厚い眞實を自然や人情の中に求めてゐた。芭蕉や元義《もとよし》、西行や蕪村、子規や龍之介、彼等は眞實を搜ね求めるために、或は生涯妻を求めず、又永い間病褥《びやうじよく》にあり乍ら天地の幽遠に思を馳せることを怠らなかつた。[やぶちゃん注:「元義」江戸後期の歌人・国学者平賀元義(寛政一二(一八〇〇)年~慶応元(一八六六)年)のことであろう。岡山藩中老池田憲成家臣平尾長春の子。弟に家督を譲り、国学研究に没頭、天保三(一八三二)年に脱藩、自由な身分となって古典籍の抄録・研究に努めた。美作(みまさか)飯岡に「楯之舎塾」を開き、国学の傍ら、万葉調の和歌を門人に指導した。飲酒と好色の癖、甚だしく、破滅的な人生を送ったが、その鮮烈な歌風は近代になって評価され、特異な人間像とともに脚光を浴びるに至り、近代短歌に影響を与えた人物でもある。]
詩人芥川龍之介の求め喘いでゐたものも、眞實以外の人生ではなかつた。また正宗白鳥があれ程永い間人間の荒凉の中にうろついてゐるのも、結局眞實を的確に握り締める以外彼の誠の欲望は無かつた。西洋の諸詩人が均しく宗敎の觀念へ辷り込むのも、彼らの本質的な寧ろ血液的な傳統にまで逆流するに外ならない現象だつた。チントレットやダ・ヴインチ、ルウべンスやマンテニア、ミレーの昔から彼らの中に交流してゐる宗敎だつた。[やぶちゃん注:「チントレット」イタリア・ルネサンス期の画家でドラマティクな宗教画を多く描いたティントレット(Tintoretto 一五一八年~一五九四年)。「マンテニア」やはり宗教画が多い同期の画家・版画家アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna 一四三一年 ~一五〇六年)。細部の凄絶なリアリズム描出で知られる。]
東洋の寂しい諦めは鳥羽僧正の戲𤲿をして、七百年の昔の高雅な諷刺や嘲笑に變貌させ、芭蕉をして眞實の中に微かな宗敎の炎を仰がしめたことは事實であるが、それらは眞實の掟以外、斷じて宗敎的な基督敎的憂欝を帶びるものではなかつた。唯彼らには何か知ら佛敎的な法悅の微風の中にゐることは否めなかつたが、併乍ら子規や龍之介の時代には――殊に龍之介は一切を自己の中に叩き込んでゐた。自己の中に整理されない人生をも彼は苦虫を嚙み潰して耐へてゐた。彼を喜ばしめたものは啻《ただ》に藝術の止むなき一途あるのみだつた。彼は最後まで正直な藝道の使徒でありペテロだつた。わが正宗白鳥は、最後まで下駄ばきのまま人生の殿堂に詣でいそしみ、露骨に眞實を訪れることは昨日と何等の渝《かは》りは無かつた。彼白鳥の如く寂しくその道を丹念に步き求める人があらうか? 風流韻事を憎惡しながら何と彼は空寂な氣持で押切る詩人だつたらうか?――
十四 ドラクロア
自分は烈しい寒さの中に窓外を過ぎる鐵の蹄の音を聞いてゐた。自分は書き物をしながら時時ちらりとそれらの馬上の者を見過してゐたが、自分は書き物に夢中となりそれらの者を折折忘れてゐた。彼らは自分を呼び出さうとするのか? 鐵の蹄の音は殆ど絕え間もなく石の上を敲いて過ぎてゐた。自分は其時初めて獅子の群を、若いドラクロアの姿を鬣《たてがみ》のかげに眼に入れたのだつた。靑い獅子の上に跨る若いドラクロア、自分自身の中に既に失ひかけてゐるドラクロア風な情熱、自分はペンを擱《お》いて窓外を四顧した。天氣は既に暗澹たる雲の中に凄じく亂れかけてゐた。わがドラクロアはその雲間を目がけて馳り續けてゐるのであらう。鐵蹄に似た音は自分の机のほとりにまで入り亂れてゐた。自分は激しい身震ひを感じながら、ドラクロアの大册を埃の中から引摺り出した。そして「靑い獅子」を搜りはじめた。自分は永い間この獅子の姿を忘れてゐたからだつた。
十五 賣文生活
自分が賣文の嘆きを綴るのも亦久しいものである。自分は何時此嘆きから釋放されるかは疑問であるが、恐らく生涯同じい嘆息と喘ぎとを續け乍ら、些か壯烈な思ひがしないでもないやうである。燃え殘りの熱情に鞭打つものの無慘さは、遂に心神の疲勞以外何物も殘さないであらう。人はみじめに最後まで生活するものであらば、自分もその慘めな一役の道化を演じてゐるに過ぎない。
芭蕉や萬葉の諸詩人は決して賣文の嘆きを繰り返してはゐない。或は芭蕉も拙劣な句撰の嘆きを同じうしたかも分らぬ。唯それはそれとして彼は彼の生活の内外に煩はされるところが無かつたかも知れぬ。彼の詩人としての潔癖と高踏風な布置は、その賣文生括に觸れた一句をさへ示してないやうである。併も彼程生活の中には入つてゐるものは稀であると言つてよい。唯彼は日常些細の嘆きを己の魂に鍊《ね》り込んごゐたに過ぎないやうである。波の嘆きは彼の詩の中にのみ喘いでゐたであらう。彼は彼の生活的困窮をさへ彼の詩の中へ追ひ込み、しかも彼は莞爾たる溫姿のうちに、言無きがごとく淸風面《おもて》を過ぎるが如き面持でゐたであらう。[やぶちゃん注:「溫姿」私は見たことがない熟語である。「温顔」(穏やかな、温かみのある顔つきのこと)と同義でとる。]
併乍ら後代の蕪村には生活苦は犇犇《ひしひし》として逼《せま》つてゐたらしい。百年の後には自ら世相も又元祿の悠長を夢見られなかつたことは勿論であらうが、蕪村は自ら𤲿と句との卷を作り之を賣つてゐた。その詩句も生活苦に直面したものも少數ではない。 芭蕉がその魂魄の中に溶解しつくした生活苦すら、天明の時代には許されなかつたのであらう。
自分の賣文の嗟嘆はこれらの諸詩人に較べては、或は贅澤の沙汰かも知れぬ。時勢は既に賣文の嘆きをすら嘆かして置かないやうになるかも知れぬ。併も今は自分に殘るものは此嘆き以外の物ではないのである。古來の支那の諸詩人は皆同じく斗酒の中に醉吟を擅にした。併し彼らも亦生活苦の域を脫する事ができなかつた。ヴエルレエヌも亦一章の詩を書肆に賣つてゐたことは、彼の賣文的嗟嘆に據らずとも容易に想像することが出來よう。最早我我に一途あるものはあらゆる疲弊盡したる賣文の徒も、猶あらゆる慘忍なる編輯者とともにその喝采の慘忍たる光榮の道を進まねばならぬ。又あらゆる我我廢馬的心神に甦る「天馬」の美しい脚なみを調練せねばならぬ。斯くて我我の嘆きは次第に消失するであらう。[やぶちゃん注:このコーダに於いて本随筆集の標題の意味が明らかにされる。]
十六 ミケランゼロ
自分らは何時も目に見えぬ無數の惡魔と戰うてゐる。此惡魔の中には借金取も戀敵も又生活苦も雜つてゐる。夜半に目覺めて描くところはミケランゼロの壁畫と變りのない地獄の中に、常に顚倒してゐる自身の呻吟のみである。惡魔は外に低迷してゐるものでなく、遂に無慘にも「我」の中で暴風のやうに荒れ狂うてゐた。
惡魔は百本の足を持つて自分を趁《お》うてゐる。夢の中で犬に嚙付かれたやうに惡魔はもはや自分を離れようとはしない。自分は彼と追ひくらをしながら暮してゐるやうなものである。ミケランゼロは又その莊嚴なる貧窮の中に自分の錯覺するところのものを日夜夢見たであらうか。自分も亦地獄篇の中に喘ぐところの現世の我である。
十七 時なき人
この頃自分はよく「時」に關係のない淸爽な人間にたびたび出會し、その人と話を交す氣持になることがある。その人は自分の記億の中にももう無くなつてゐる人だが、無くなつてゐるといふ事實が一層記億に新しかつた。自分はかつて「時」の人であつた彼が「時」の境域を拒絕してから、一倍彼を熱慕するに耐へなかつた。
「時」の人だつた彼へ書くその追憶文を自分は諸所から求められた。しかし時を拒んだ彼へ送る追憶の文は墓下にある彼を騷騷しくするために、自分は一切書かなかつた。しかし自分は殆ど每日氣持の中で追悼文を書いてゐたといつてよい。精神で書き疲れてゐた自分は彼への活字の文は書かなかつた。
自分は常に一介の賣文の徒だつた。時を拒んだ人へは、自分はその業を休んで謹んでゐたのである。正直な靴屋は昔その童話の國の同じ兄弟の死に遭うては、王者の靴をさへ縫はなかつた。今人《きんじん》である自分が時なき人への恭愼《きようしん》の情を護るためには、その文をも暫く封ずべきであつた。尠くとも性利發ならざる自分の信ずるところは、その愚直なる一途の謹愼あるのみであつた。
時なき人は現世の自分の前に無言のまま佇んで、「時」を持つ自分を愍《あはれ》むに近かつた。自分もその「時」の煩しさ辛さを感じながらも、仕方なしに彼の前に躊躇しながら佇んでゐた。時なき人は何時かは鞭を持つて自分を打つであらう。
打て、然して君のなほ自分に敎へんとするところを示せよ。[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、これは無論、芥川龍之介へのそれである。]
十八 雲
自分は今年信州の高原に夏百目を送り、秋風を肌身に感じながら每日雲の去來を見て暮した。朝に湧き夕に散る片雲の去來は、容易に自分達人類の滅びた後にもなほその惡魔の如き形相を示すことを歇《や》めないであらう。彼はまさに「時」なき不斷なる惡魔だつた。
自分は彼を數へるに數十の惡鬼の姿を想像し、又あらゆる知己朋有の面相を思ひ描いて見た。彼は優しい或女の顏をさへ浮ばせて見せた。あらゆる宮殿や高雅なる園庭をも、遙か下界の椅子の上に臥てゐる自分にひろげて見せた。自分の妻子や朋友の凡てがなくなつても、彼、漠漠たる片雲のみがこの世を領してゐることは疑ヘなかつた。彼は自分の死滅の靜寂さへも浮べてゐたからである。自分がかう考へてゐる中にも、山上の密雲はぎらぎら底光りを潜ませ、悠悠と或は奇峰や深淵や斷續を續けながら迫つてゐた。それを見てゐると自分は何か恐怖以上の恐怖を感じるのが常だつた。
彼は時をも又何者をも持たなかつた。唯、その物凄い千古の形相は百萬の惡魔を日夜に駈り立てて靜かに仰臥してゐる自分を脅かした。自分はこの密雲のぎつしりした息苦しさを双肩に感じてゐた。
十九 彼
惡魔も持たない如く神も亦「時」を持ち合はさないであらう「時」を持つものは我我人間の外には無いのかも知れぬ。[やぶちゃん注:「持ち合はさないであらう」の後に句点がないのはママ。]
二十 或平凡
「時」の無い國に曾て「時」を經驗した人人が、山吹や蓮の莖をお互の手に持ち合ひ乍ら坐つてゐた。自分は彼らに退屈かどうか、愉樂はあるかどうかを尋ねて見ようと心がけてゐたが、自分のこの考へは直ぐ彼らに見破られてしまふ不安の方が先立つので、默つて眺めてゐた。彼らは物憂く動いてゐたが、孰れもその動作に超時間的なゆつたりしたものを顯してゐた。
自分は味氣なく笑ひかけて見たが、彼らは決して笑はうとはしなかつた。曾て笑つた人も笑はなかつた。彼らは皆一樣に眞面目な顏付をしてゐて、笑ふまいといふ努力などしてゐないやうであつた。
自分は何時の間にか、これらの山吹の枝や蓮の莖を手に持つところの、彼等の中の一人に姿や形相を變へて、石の壇の上のやうなところに腰かけてゐた。自分は實際をかしくも又味氣ないこともなかつた。昏昏として半睡のやうな狀態が永く續いてゐるだけだつた。自分は他のものと話をしたい欲望も起らなければ、他の者の存在意識が少しも自分に影響しない不思議さが打ちつづくだけだつた。
自分はその時やつと氣付いたことは物を食ひたい欲望の喪失されてゐる、干乾びた狀態だつた。その狀態に氣づいた時、自分は絕望的にさへ嘆息した。しかしもう自分は遲いやうに思はれた。もう自分はとうに山吹の枝を持ち、彼等の中に坐つてゐたから、――彼らの如く何も興味のない顏付で、苦り切ることもできず又燥《はしや》ぐこともできない、例の眞面目過ぎる狀態に壓せられてゐた。
[やぶちゃん注:最後に、この「天上の椅子」は前半はやや長めのアフォリズム集であるが、後半は強い散文詩体となり、しかもその内容は私の偏愛するツルゲーネフの「散文詩」を、確信犯で、強く意識して書かれてあると断言出来る。未読の方は、サイト一括版(中山省三郎譯)(私の注附き)、或いは、ブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」の神西淸の訳、上田敏の訳、生田春月の訳なども完備しているので、是非、読まれたい。]
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