「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」
[やぶちゃん注:本篇の特別な仕儀については、「一」の冒頭注を参照されたい。]
二
田邊の絲川恒太夫てふ老人中年迄熊野諸村を每度行商した(鄕硏究一卷三號一七四頁參照)。この翁今年七十五。廿七八歲の時新鹿〔あたしか〕村の湊に宿す。湊川の上に一里餘續ける淺谷てふ谷有り。其と竝んで、二木島(にぎしま)片村曾根と續く谷有り。此二谷間の山を古來天狗道と呼び懼(おそ)るゝも、誰一人(たれひとり)天狗を見た者無し。絲川氏湊に宿つた夜大風雨で屋根板飛び、其壓(おさ)えに置いた大石墮下(おちくだ)るを避けん爲、古胴著(ふるどうぎ)等を被(かぶ)り、鴨居の下に頭を突つ張り柱を抱き立(たつ)て居た。家主老夫婦は天井張つた三疊の室(ま)に楯籠(たてこも)る。老主人の甥羽島に住む者、茶の木原に住む從弟を訪ひ、裸に成り褌の上に帶しめて、川二つ渡り來り著いたは夜二時也、曉に及び風漸く止んだ。二人大闇黑中件(くだん)の山上を大なる炬〔たいまつ〕廿ばかり列(つら)なり行くを見て、始めて昔も斯(かか)る事有つた故天狗道と名(なづ)けたと曉〔さと〕つたと云ふ。
[やぶちゃん注:この話と続く次の段の話は、何んと! 巨匠泉鏡花の未完の無題遺稿の中に、本書の本篇に基づいたとして語りが出てくる! このために、ブログ横書版、及び、サイト版縦書PDF縦書版を作っておいたので、是非、読まれたい。
「絲川恒太夫」詳しい事績は知らぬが、他の記事にも登場し、南方熊楠の紀州民俗の情報の重要な提供者であったようだ。
「新鹿村」三重県南牟婁郡にあった旧村。現在の熊野市の東部、紀勢本線新鹿駅・波田須駅の周辺に相当する。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「湊」「湊川」「淺谷」国土地理院図のここでやっと発見した。現在の新鹿町の沿岸部に「湊」の地名が見え、そこから北から流れる川が「湊川」であり、その川上が分岐したその北部分に「浅谷越」(あさだにごえ)という四百九十八メートルのピークが判る。現在も非常に山深いところである。
「二木島」国土地理院図のここを見られたい。「片村」は不明だが(或いはこの「片村」は位置的見て、現在の三木島町の東海浜の「二木島里町」かも知れない)、「二木島」は現在の二木島町で、先の湊川の下流から「熊野古道」を東へ登ると、「二木島峠」を経て「二木島町」、そこから古道をさらに東北に登ると、「曽根坂」があって、地図を北東へずらすと「曽根町」が見える。
「羽島」不詳。
「茶の木原」この名は三重県四日市市水沢町(すいざわちょう:グーグル・マップ・データ)に冠山(かんざん)茶の木原があるが、話にならないほど離れるから違う。前の羽島とともに識者の御教授を乞うものである。]
斯樣の時は小さな火も大きく見ゆるは、熊楠、先年西牟婁郡安堵峯(あんどがみね)下より坂泰(さかたい)の巓(いただき)を踰えて日高郡丹生川(にうのかわ)に著き憇ひ居たるを、安堵の山小屋より大勢搜しに來(きた)るに提燈一つ點せり。其が此方の眼には炬火數十本束ね合せて燃すほど大きく見えた。されば右述天狗の炬も實はエルモ尊者の火だらう。一九(いつく)の善光寺道中續膝栗毛九に、彌次と北八が天狗を惡口するうち、火繩が高き樹の上に飛揚(とびあが)り、今迄吸殼〔すひがら〕ほどの火が忽ち松明大(たいまつだい)となり、風も無きに樹の枝ざわざわ鳴出す事有り。戯作ながら、是も山中にエルモ尊者の火現ずる由を傳聞して書いたであらう[やぶちゃん注:ママ。「の」の脱字か。]。一九〇六年板、レオナード少佐の下ニゲル及其諸民族〔ゼ・ラワー・ニゲル・エンド・イツ・トライブス〕四八六頁に、藪榛中〔こもりのうち〕の高樹上に夜分大なる火出で燃ゆるを、翌朝見るに燒け居らぬ事有り、土人之を妖巫〔ウヰツチ〕其樹下に集り踊ると信ずと見え、英領中央亞非利加(アフリカ)でも、妖男巫〔アフヰチ〕空中を飛ぶ時大なる羽音して樹梢(こずゑ)に留まり行く、その携ふる火遠方より見得るが人近づけば消して了ふと云ふ(ワーナー英領中央亞非利加土人〔ゼ・ネチヴス・オヴ・ブリツシユ・セントラル・アフリカ〕一九〇六年板八八頁)。何れも天狗の炬に似た事だ。
[やぶちゃん注:「安堵峯」和歌山県と奈良県の県境にある安堵山(あんどさん:国土地理院図)。標高は千百三十四メートル。
「坂泰の巓」この附近の孰れかのピーク(国土地理院図)。
「丹生川」この附近(同前)。
「善光寺道中續膝栗毛」十返舎 一九が享和二(一八〇二)年から文化一一(一八一四)年にかけて初刷した「東海道中膝栗毛」の大ヒットを受けて書いた、弥次喜多膝栗毛物の続編内の一つ。文政二(一八一九)年初刷。熊楠が、この部分を語っているところを、泉鏡花は前に示した遺稿の中で、作中人物を借りて高く評価している。
「一九〇六年板、レオナード少佐の下ニゲル及其諸民族〔ゼ・ラワー・ニゲル・エンド・イツ・トライブス〕四八六頁」アメリカの地質学者アーサー・グレイ・レオナルド(Arthur Gray Leonard 一八六五年~一九三二年)の“The Lower Niger And Its Tribes ”。「Internet archive」のこちらで同年版原本で当該箇所が視認出来る。ニジェールの民俗誌。
「藪榛中〔こもりのうち〕」このルビは「小森の内」で、「雑木林の中」の意。
「ワーナー英領中央亞非利加土人(ゼ・ネチヴス・オヴ・ブリツシユ・セントラル・アフリカ)一九〇六年板八八頁」オーストリア生まれの女性で、アフリカ研究者であり、作家・詩人でもあったアリス・ワーナー(Alice Werner 一八五九年~一九三五年:彼女はスワヒリ語とバントゥー語に堪能であった)の“The Natives of British Central Africa”(「イギリス領中央アフリカの先住民族」)は一九〇六年刊。同じく「Internet archive」のこちらで同年版原本で当該箇所が視認出来る。]
エルモ尊者の火が多く風浪中の舟人の眼に付いて、海中の龍の所爲(しわざ)と想はれたは自然の成行で、其上既に慈覺大師の行記から例示した通り、山にも龍宮有りとする處も有り、龍が塔を守ると云ふ寺も有るから、山上や塔の頂に現ずるエルモ尊者の火をも龍燈と呼んだゞらう。龍が塔を守る例は經中に少なく無いが、最も奇拔なは三寶感通錄一に云く、益州の道卓〔だうたく〕は名僧なり。隋の大業の初、𨿅縣寺塔、無人修葺く、纔有下基、卓乃率化四部、造木浮圖、莊飾備矣、塔爲龍護、居在西南角井中、時相有現、側有三池、莫知深淺、三龍居之、人莫敢臨視、貞觀十三年、三龍大鬪、雷霆震擊、水火交飛、久之乃靜、塔如本、住人皆龍拾取毛、長三尺許、黃赤可愛《𨿅(らく)縣の寺塔、人の修葺(しゆしふ)する無く、纔かに下に、基、有るのみ。卓、乃(すなは)ち四部を率化(そつけ)し、木の浮圖(ふと)を造り、莊飾、備はれり。塔は龍に護られ、西南の角(すみ)に在る井の中に居せり。時に相(すがた)の現ずる有り、側(そば)に三池有り、深淺、知る無し。三龍、之(ここ)に居(を)るも、人、敢へて臨み視ること莫(な)し。貞觀十三年、三龍、大いに鬪ひ、雷霆(らいてい)、震(ふる)ひ擊ち、水・火、交(こもごも)に飛ぶ。之れ、久しくして、靜まり、塔、本(もと)のごとし。住人、皆、龍の毛を拾ひ取るに、長さ三尺ばかり、黃赤(わうしやく)にして愛すべし。》。吾邦に貴人の三婦嫉妬で亂鬪して三目錐〔みつめぎり〕の名を獲た話があるが、是は又正法(しやうぼふ)護持の爲に佛塔を守る三龍が毛を落とす迄混戰したのだ。根來〔ねごろ〕の大塔燒けた時、龍が水を吐いて防いだ事、紀伊國名所圖會に畫添へて出し有る。
[やぶちゃん注:「三寶感通錄」「一」で既出既注。
「率化」教導すること。
「浮圖」「浮屠」「佛圖」とも書く。中国で、仏教伝来から南北朝時代にかけて「仏陀」又は「仏塔」を呼ぶのに用いた言葉。サンスクリット語の「ブッダ」の音写、或いは「ストゥーパ」の誤った音写とされる。「仏陀」を意味する用法は、史書などに見いだされるものの、仏教徒の間では避けられ、「仏塔」を意味する用法は、漢訳仏典の中にもしばしば見られる。但し、中国における仏塔は、「三層浮図」とか「九層浮屠」と書くように、重層型の仏塔を指すことが多かった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「貞觀十三年」六三九年。唐の太宗の治世。
「貴人の三婦嫉妬で亂鬪して三目錐〔みつめぎり〕の名を獲た話」出典不詳。識者の御教授を乞う。
「根來〔ねごろ〕の大塔」和歌山県岩出市にある真言宗一乗山根来寺(ねごろじ)。「大塔」は正式には「大毘廬遮那法界体性塔」と呼び、現在、国宝。本尊は胎蔵大日如来で、高さ四十メートル、幅十五メートル。木造では日本最大の多宝塔(二重塔で初層の平面が方形を成し、上層の塔身が円形に造られたものを言う)である。文明一二(一四八〇)年頃から建築が始まり、半世紀以上経た天文一六(一五四七)年頃に竣工したと考えられている(当該ウィキに拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
扨最初龍燈は皆天然生の火だったが、後には衆心を歸依させる爲、龍燈や舍利光佛光を僧侶が祕する方術を以て出す事と成つたは疑を容れず。現今も印度や西藏(チベツト)の僧は、室内に皓月(こうげつ)眞に逼(せま)れるを出(いだ)したり、空中に神燈炫耀(げんえう)するを現じたり、中々歐州の幻師〔てじなつかひ〕の思ひも寄らぬ事を仕出〔しで〕かすと、每々其輩から聞いた。付法藏因緣傳五に、馬鳴(めみやう)大士、十一祖富那奢(ふなしや)に議論で負けて弟子と成つたが、心猶愧(はぢ)恨みて死せんと欲す。冨那奢之を察知し、馬鳴をして闇室中に經典を取らしむ。闇(くら)くて取れないと言ふと、師告(つげ)らく、但去、當令汝見、爾時尊者卽以神力、遙伸右手、徹入屋内、五指放光、其明照曜、室中所有、皆悉顯現、爾時馬鳴心疑是幻、凡幻之法、知之則滅、而此光明轉更熾盛、盡其技術、欲滅此光、爲之既疲、了無異相、知師所爲、卽便摧伏《但(た)だ去(ゆ)け。當(まさ)に汝をして見しむべし。爾(ここ)に尊者、卽ち、神力を以つて、遙かに右手を伸べ、室内に徹(とほ)し入る。五指、光を放ち、其の明り、照り耀き、室中に有る所のもの、皆、悉く顯現す。爾に、馬鳴、心に『是れ、幻しならん。』と疑ふ。凡そ、幻(げん)の法は、之れを知れば、則ち、滅す。而るに、此の光明は轉(ますます)更に熾-盛(さかん)なり。其の技術を盡して、此の光を滅せんと欲するも、之れが爲に既に疲れ、了(つひ)に、異相、無し。師の爲す所なるを知りて、卽ち、摧伏(さいふく)す。》。其から懸命に勉强して遂に佛法第十二祖と迄成つたと出づ。此文を見て當時方術で指端に光を出した事有つたと知る。辟支佛〔びやくしぶつ〕や羅漢が、人を敎化したり身の潔白を託するに口辯を用ひず、默(だんま)りで身體から火光を出した例は頗る多い。何か其祕術が有つのだらう。
[やぶちゃん注:「炫耀」光り強く輝くこと。
「付法藏因緣傳」釈尊の入滅後、付法相伝した 二十三祖師の因縁を叙述したもの。全六巻。北魏の吉迦夜・曇曜共訳で四七二年成立とされるが、サンスクリット語からの訳本ではなく、口伝による作成らしい。特に天台宗・禅宗では、古来。尊重されている。「大蔵経データベース」で調べたが、導入のシークエンスは少し長く、熊楠が内容を簡約している。以下が、当該部。
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有一大士名曰馬鳴。智慧淵鑒超識絕倫。有所難問靡不摧伏。譬如猛風吹拔朽木。起大憍慢草芥群生。計實有我甚自貢高。聞有尊者名富那奢。智慧深邃多聞博達。言諸法空無我無人。懷輕慢心往詣其所。而作是言。一切世間所有言論。我能毀壞如雹摧草。此言若虛而不誠實。要當斬舌以謝其屈。富那奢言。佛法之中凡有二諦。若就世諦假名爲我。第一義諦皆悉空寂。如是推求我何可得。爾時馬鳴心未調伏。自恃機慧猶謂己勝。富那語曰。汝諦思惟無出虛語。我今與汝定爲誰勝。於是馬鳴卽作是念。世諦假名定爲非實。第一義諦性復空寂。如斯二諦皆不可得。既無所有云何可壞。我於今者定不及彼。便欲斬舌以謝其屈。富那語言。我法仁慈不斬汝舌。宜當剃髮爲吾弟子。爾時尊者度令出家。心猶愧恨欲捨身命時富那奢得羅漢道。入定觀察知其心念。尊者有經先在闇室。尋令馬鳴往彼取之。白言大師。此室闇冥云何可往。告曰、
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「馬鳴大士」(生没年不詳)は一~二世紀頃の中インド出身の仏教論師。サンスクリット名「アシュバゴーシャ」の漢訳。仏教音楽・仏教文学の創始者的存在とされ、仏陀伝の傑作「ブッダチャリタ」(「仏所行讃」)を作った。「大乗起信論」の作者とされる馬鳴が居るが、これは後世の別人と考えられる。三十の頃、「大乗起信論」を読んだが、読み終わるのに一ヶ月もかかったのを思い出した。
「富那奢」脇比丘(きょうびく:二世紀初頭の中インドの僧。脇尊者とも呼ぶ。サンスクリット名は「パールシュヴァ」。付法蔵第九祖。カニシカ王の下で、彼以下五百人の比丘がカシュミールで第四回の仏典結集を行い、「大毘婆沙論」(だいびばしゃろん:小乗仏教教理の集大成。全二百巻)を編纂したとされる人物)に師事して法を受け、主に小乗教を弘めて多くの衆生を教化した。
「摧伏」本来は他動詞的で「打ち挫(くじ)いて屈伏させること」を言う。
「辟支佛」「各自独りで悟った者」の意の「プラティエーカ・ブッダ」の漢訳。仏の教えに拠らず、自分自身で真理を悟り、その悟りの内容を人に説くことをしない聖者を指す。「独り悟りを開いてそれを楽しむ仏」で、「独覚」とも意訳する。また、十二因縁の理法を悟るところから、「縁覚」とも訳したが、これはどうも「プラティエーカ」(「独りの」の意)を「プラティヤヤ」(「縁」の意)と誤読したか、あるいはこの聖者が十二因縁を観ずる修行をして覚ったとされることを特に言ったためかとも考えられている。現行では「縁覚」の方が使用度が高い。]
續高僧傳十に、周の太祖の時、西域獻佛舍利《西域より佛舍利を獻ず》、帝、僧道妙をして供養せしむるに、經于一年、忽於中宵、放光滿室。螺旋出窻、漸引於外、須臾光照四遠、騰扇其熖。照屬天地、當有見者、謂寺家失火、競來救之、及覩神光乃從金瓶而出、皆歎未曾有也。《一年を經て、忽ち、中宵(やはん)に、光を放ち、室に滿つ。螺旋して窻(まど)を出で、漸(ぜんぜん)と外に引(ひきの)びて、須臾(しゆゆ)にして、光、四遠を照らし、其の熖(ほのほ)を騰(のぼ)し扇(あふ)ぎ、天地に照り屬(つらな)る。當(とき)に見る者有りて、「寺家、失火す。」と謂(おも)ひて、競ひ來たりてこれを救ふに、神光、乃(すなは)ち金瓶(きんぺい)より出づるを覩(み)るに及び、皆、「未だ曾て有らず。」と歎ず。》。十四に、隋の文帝舍利を梓州華林寺に送らしむ、既至州館、夜大放光、明徹屋上、如火焰發、食頃方滅《既して州館に至るに、夜、大いに光を放ち、屋の上、明るく徹(とほ)りて、火焰の發するがごとし。食-頃(しばらく)して方(まさ)に滅す。》。三寶感通錄二、梁武帝同奉寺に幸(みゆき)し、始到瑞像殿、帝纔登階像大放光。照竹樹山水並作金色。遂半夜不休《始めて瑞像殿に到る。帝、纔かに階(きざはし)を登れば、像、大いに光を放ち、竹樹山水を照らし、並(とも)に金色(こんじき)を作(な)し、遂に夜半まで休(や)まず。》。
[やぶちゃん注:「續高僧傳十」調べたところ、これは「續高僧傳」の巻第八の誤りである。「CBETA 漢文大藏經」(中文)のこちらの、[0486a18]の四行目以降を見られたい。
「十四に隋の文帝舍利を梓州華林寺に送らしむ、……」これも調べたところ、「續高僧傳」の巻第十二の誤りである。「維基文庫」版の同巻の「唐京師淨影寺釋善胄傳九」の丁度、真ん中の部分に出現する。]
慈恩傳四に、玄奘天竺に在つた時、西國法、以此(正)月、菩提寺出佛舍利、諸國道俗咸來觀禮《西國の法、此の(正)月を以つて、菩提寺、佛舍利を出だし、諸國の道俗、咸(みな)來たりて觀禮す。》玄奘、其師勝軍居士と共に往き見る、至夜過一更許、勝軍共法師、論舍利大小不同云々。更經少時、忽不見室中燈、内外大明、怪而出望、乃見舍利塔、光暉上發、飛燄屬天、色含五彩、天地洞朗、無復星月、兼聞異香氛氳溢院、於是、遞相告報言、舍利有大神變、諸衆乃知、重集禮拜稱歎希有、經食頃光乃漸收、至餘欲盡、遶覆鉢數匝、然始總入、天地還闇、辰象復出、衆覩此已、咸除疑網。《夜、一更ばかりを過ぐるに至り、勝軍、法師と共に、舍利の大小の不同を論ず云々。更に少時を經て、忽ち、室中、燈(ひ)を見ざるに、内外(うちそと)、大いに明るし。怪しみて、出でて望めば、乃(すなは)ち、舍利塔より、光暉、上(のぼ)り發し、飛燄(ひえん)、天に屬(つらな)り、色は五彩を含み、天地、洞朗(どうらう)として、復(ま)た星・月の無きを見る。兼(あは)せて、異香、氛氳(ふんうん)として、院に溢(あふ)るるを聞(か)ぐ。是に於いて遞(たが)ひに相ひ告げ、報じて言はく、「舍利に大神變有り。」と。諸衆、乃(すなは)ち知り、重ねて集まりて禮拜し、「希有なり。」と稱歎す。食-頃(しばらく)、經(た)ちて、光、乃(すなは)ち、漸く收まり、餘り盡きんと欲(す)るに至り、覆鉢(ふくばち)を遶(めぐ)ること、數匝(すめぐ)りし、然して始めて總て入れり。天地、還(また)、闇(くら)く、辰象(しんしやう)、復た出づ。衆、此れを覩(み)て、咸(みな)、疑網を除く》。續高僧傳四には彼土十二月三十日、當此方正月十五日、世稱大神變月、若至其夕、(舍利)必放光瑞、天雨奇花。《彼(か)の土(ど)の十二月三十日は、此方(こなた)の正月十五日に當たり、世に「大神變月」と稱す。若し、その夕べに至れば、(舍利)必ず、光瑞を放ち、天、奇花を雨(あめふ)らす。》。其夜、玄奘其師と對話する内(うち)忽失燈明、又覩所佩珠璫瓔珞、不見光彩、但有通明晃朗、内外洞然、而不測其由也、怪斯所以、共出草廬、望菩提樹、乃見有僧手擎舍利、大如人指、在樹基上、遍示大衆、所放光明、照燭天地、于時衆鬧、但得遙禮、雖目覩瑞、心疑其火、合掌虔跪、乃至明晨、心漸萎頓、光亦歇滅、居士問曰、既覩靈瑞、心無疑耶、奘具陳意、居士曰、余之昔疑、還同此也、其瑞既現、疑自通耳《忽ち、燈明を失(しつ)す。復た佩(お)ぶる所の珠璫(しゆたう)・瓔珞(えうらく)を見るに、光彩を見ず、但(た)だ、通明(つうめい)して晄朗(くわうらう)、内外、洞然(とうぜん)たる有り。然して其の由(いはれ)を測れず。斯(こ)の所以(しよい)を怪しみ、共に草廬を出でて、菩提樹を望むに、乃(すなは)ち、僧、有りて手に舍利を擎(ささ)ぐるを見る。大いさは人の指のごとし。樹の基の上に在りて、遍(あまね)く大衆(たいしゆ)に示し、放つ所の光明は、天地を照燭(しやうしよく)す。時に衆(しゆ)、鬧(かまびす)しく、但(た)だ、遙かに禮するを得るのみ。目に瑞(ずい)を覩(み)ると雖も、心に其の火を疑ふ。合掌し、虔(つつし)んで跪き、乃(すなは)ち、明くる晨(あさ)に至る。心、漸く萎-頓(つか)れ、光も復た、歇(つ)き滅す。居士、對いて曰はく、「すでに靈瑞を覩る、心に疑ひ無からんや。」と。奘、具(つぶさ)に意を陳(の)ぶ。居士曰はく、「余の昔の疑ひも、還(ま)た此れに同じなり。其の瑞、既に現(げん)じたれば、疑ひ自(おのづか)ら通ずるのみ。」と。》
[やぶちゃん注:「慈恩傳」「大慈恩寺三藏法師傳」。三蔵法師として知られる唐の玄奘(六〇二年~六六四年)の伝記。全十巻。唐の慧立の編になる。「大蔵経データベース」で正規本文を確認・補正した。
「洞朗」広々として明るいさま。
「氛氳」気の盛んなさま。
「覆鉢」相輪 などの露盤上にある、鉢を伏せたような形のもの。その上に請花 (うけばな) ・九輪 (くりん) などをのせる。「デジタル大辞泉」の画像を参照されたい。
「辰象」ここは月や星のこと。
「珠璫」宝珠。
「晄朗」明るく輝くさま。
「洞然」盛んに燃えるさま。]
此珍事は西域記には出て居なかつたと記憶するが、玄奘の弟子が書いた慈恩傳には、一同此瑞光を覩て疑網を除いたと有るに、道宣が親しく玄奘から聞書した續高僧傳を案ずると、遠方から禮し得たと云ひ、目に光を見ながら心其を火たるかと疑うたと云ひ、玄奘が充分其瑞光たるを信ぜぬに、勝軍が、予も昔汝の如く疑うたが、實際見た上は疑ふに及ばぢや無いかと樣々諭したなど、隨分怪しいことで、ビールの慈恩傳英譯に此處を註して、其頃印度既に斯(かか)る信敎上の詐騙(だまし)行はれたを此文で知り得ると有るが、氏が件(くだん)の續高僧傳の文を見たなら一層其然るを知り得た筈だ。此玄奘はルナンが言つた通り、佛を奉ずる事篤(あつ)き餘り奇瑞神異な事は味噌も糞も信じた人なるに、猶舍利光を目擊しながら其を火で無いかと疑うた由、後年道宣に話した所から推すに、此光は大仕掛の人工で出したものに相違ない。
[やぶちゃん注:「ビールの慈恩傳英譯」イギリスの東洋学者で、最初に初期仏教の記録類を中国語から直接翻訳したサムエル・ビール(Samuel Beal 一八二五年~一八八九年)。よく判らないが、死後の一九一一年刊の“The Life of Hiuen-Tsiang”(「玄奘の生涯」)辺りに含まれるか。「Internet archive」のこちらに一九一四年版があるが、流石に探す気にはならない。悪しからず。
「ルナン」フランスの宗教史家ジョゼフ・エルネスト・ルナン(Joseph Ernest Renan 一八二三年~一八九二年)。近代合理主義的な観点によって書かれたイエス・キリストの伝記「イエス伝」(Vie de Jésus:一八六三年)の著者として知られる。]
エルサレムの聖墓に、每年聖土曜日〔ホリー・サターデー〕(三月下旬にあり)天より神火降り、詣衆(けいしゆう)押合(おしあ)うて大混雜中に其火を移し點じ、持歸つて舊火を更(あらた)む。其時一番に新火を移し點した者を大吉と羨む事、備前西大寺の會式(ゑしき)の如く、此火點した蠟燭の蠟で十字を畫いた經帷子を著せて死人を埋(うづ)むれば、樂土に往く事受合(うけあひ)也と云ひ、其他種々の吉祥ありとす(一八四三年ブライトン板ピエトロ、デラ、ヴァレ紀行〔ヴヰアツジ〕一卷二九五頁)。此夜信心の輩、夫妻打連れて聖墓を取廻(とりまはら)せる圓堂〔ロトンド〕に集り秘密の事を行ひ、斯(かく)て孕む所の子心身完全なりと信ず。翌朝其迹を見るに、口筆述難(のべがた)き體(てい)たらくだ(ゴダール埃及巴列斯丁〔エジプト・エ・パレスチン〕、一八六七年板、三八七頁)。ピエトロ此式を見た時既心有る者は、昔は眞の天火が降つたが當世のは人作だと云つた。然るに、近時に至る迄僧輩依然其人作に非(あらざ)るを主張し、當日法主〔パトリアーク〕、脫衣露頭跣足して身に一物を仕掛けざるを示し、單衣墓に入つて神火忽ち出づ。其體(そのてい)手品師の箱改めに異ならず、ある說に、墓内の秘部に數百年點し續けた晶燈〔ランプ〕あり、法主其から聖火を拵へ出すと。又云ふ、何の事は無い、マツチを藏(かく)し置いて火を作るのだと。希臘敎で此式を廢すると、聖週七日〔ホリー・ウヰーク〕にエルサレムへ巡禮する最富の徒の半分が來なくなり土地衰微すべしと一八七五年板バートン夫人の西里亞巴列斯丁並聖地内情〔ゼ・インナ・ライフ・オヴ・サイリア・パレスチナ・エンド・ゼ・ホリーランド〕卷二、頁一一〇に說き居る。
[やぶちゃん注:「備前西大寺」「日本三大奇祭」の一つともされる「会陽(えよう)」=「裸祭り」で知られる岡山県岡山市東区西大寺にある真言宗金陵山西大寺(さいだいじ:グーグル・マップ・データ)。
「一八四三年ブライトン板ピエトロ、デラ、ヴァレ紀行〔ヴヰアツジ〕一卷二九五頁」『「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (4)』の私の注の冒頭にある「‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843」を参照されたい。
「ゴダール埃及巴列斯丁〔エジプト・エ・パレスチン〕、一八六七年板、三八七頁」、フランスの医師・人類学者であったエルネスト・ゴダール(Ernest Godard 一八二六年~一八六二年)の一八六七年発表の“Egypte et Palestine; observations médicales et scientifiques.”(「エジプトとパレスチナ――医学的・科学的観察」)「Internet archive」で同年版の原本が視認出来る。ここ。]
本論斯(か)う長く成(なつ)て南方先生も三升五合ばかり欲しく成り、讀者諸君も倦(う)んで來たゞらうから、中入りに實曆の椿譚(ちんたん)を述べんに、予が現に此文を草する所は學問に最も適した閑靜な地所の隅の炭部屋だが、其橫町は夜分至(いたつ)て淋しく、數年前まで特種民[やぶちゃん注:差別用語なので批判的に読まれたい。]が芝居見に往つた還りがけに、勿體無くも予が人天を化度(けど)せんと寂想に耽りおる壁一つ隔てゝ、行き掛の駄賃に大便を垂れ置く事每度なれば、人呼んで糞橫町と做(な)す。然るに一夏連夜餘り暑さに丸裸に成つて庭に立ち天文を察し居ると、壁外に芝居歸りの特種殿原(とのばら)喧々喃々(けんけんなんなん)するを妻が怪んで立聽(たちぎ)くと、町を隔てた鄰家の庭に密生した「まさき」の大木の上に、幽靈と兼て古くより噂有る火の玉が出て居ると云ふのだ。不審甚しくて、其輩立ち去(さつ)た後、妻を彼輩の蹟に立たせ色々試し見ると、「何のこつちや阿呆らしい、火の玉で無(の)うて睾丸でんす」と田邊詞で吐(ぬか)すから、子細を聞くと顯微鏡を夜見るとてランプの周邊を闇くし、一方に喇叭のような紙筒をあてた口から光が强く彼(かの)「まさき」の上の方に向ひ出(いで)た。燈(ひ)と木との間に予が裸で立(たつ)て天文を考へおる股と陰囊の影が彼(か)の樹の枝葉間に髣髴と映つたが幽靈の正體で、佐靑有公〔さをなるきみ〕の提燈たる人魂と擬(まが)ひしは、先尅(せんこく)降つた雨の餘滴が此方の光を反射するのと判つたので、予も陰囊の序(ついで)に龍燈で無くつて龍をも出して映さうかと苦笑した事だつた。其から氣が付(つい)て種々自宅で試驗の末、樹の位置葉の性質に隨つて、尋常のランプや蠟燭の火でも一寸(ちよつと)龍燈樣(やう)の物を出(で)かし得(え)、其が餘り近づくと見えず適宜に遠ざかるとよく見えるを知つた。上にワーナーの著や三寶感通錄二から引いた妖男巫〔アフヰチ〕の火や簡州の神燈が、遠方から見ゆるに近方から見えぬと有るも似たことで、何に致せ暇(いとま)少ない吾輩さへ、不慮に陰囊の影から此だけの發明をした位故、俗信を起し固むる方便に永代苦辛した佛僧中には、種々の機巧(からくり)や材料もて龍燈舍利光佛光を現出しり、又ヨングハズバンドが覩(み)た燈巖〔ランプ・ロツク〕如き天然に異光を發する場所を見出(みいだ)した者少なく無かつたと知らる。
[やぶちゃん注:南方熊楠自身が知らぬうちに現出させた「金玉龍燈」という、この実話、まことに面白い。「龍燈」の思いもしなかった光学実験の契機が彼の睾丸だったというのは、実に臭ってくるほどにリアルなものである。文字通りの「チンたん」でげすな! 熊楠先生! なお、最終一文の「見出」は底本では「現出」(左ページ二行目)であるが、これは文脈を検討して「選集」の方を採用した。
なお、以下の段落は、底本では全体が一字下げである。]
序に言ふ。昔波斯〔ペルシヤ〕のケルマン州の汗(ハン)が、拜火敎徒〔ガウル〕の尊奉する聖火堂に押し入つて、其聖火を見るに尋常の火だつたので、惡言して其火に唾を吐くと、火が穢(けがれ)を怒つて白鳩と化(な)つて飛び去つたので、僧共不信の汗に聖火を覩(み)せたのを悔過し、信徒と共に祈禱し又大施行をすると、白鳩復(かへ)り來つて再び聖火と現じた(タヴエルニエー汝斯紀行〔ヴオヤージユ・ド・ペルス〕)、一六七六年板四三九頁)。尾芝君が越後野志より引かれた、八海山頂の神に山麓で捧げた火が飛び行く話に似た事で、火が心有つて自ら飛び行くのか、神が靈驗以て火を動かすのか、孰れにしても全く虛構の言か、多少斯(こ)の樣な自然現象有るか、見る人一同精神錯誤に陷つたのか、又は何かの設備(こしらへ)で斯(かか)る手品を現ずる法が有つたか、四つの一つを出でじ。
[やぶちゃん注:「タヴエルニエー汝斯紀行〔ヴオヤージユ・ド・ペルス〕」フランスの宝石商人にして旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)は、一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。以上は、“Voyages de Perse”となるが、彼の“Les six voyages de Jean-Baptiste Tavernier”の中のペルシャ部分か。「Internet archive」には、英訳版の「Travels through Turkey to Persia」というのがある。
「尾芝君が越後野志より引かれた、八海山頂の神に山麓で捧げた火が飛び行く話」『尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」』を参照されたい。]
上に出した眼目山〔さつかさん〕の山燈龍燈は每七月十三夜、九世戶の天燈龍燈は正五九月と每月の十六夜、三學山寺の神燈は大齋(たいさい)の夜多く出で、玄奘が目擊した菩提寺の舍利光は印度の大晦日(支那の上元の日)、エルサレムの神火は聖土曜日〔ホリー・サターデー〕と云ふ風に、出る時が定(きまつ)ており(尾芝君の文、二〇七頁參照)、續高僧傳二六に、五臺山南佛光山寺の佛光は華彩甚盛、至夏大發、昱人眼目《華彩、甚だ盛んにして、夏に至りて大いに發し、人の眼目に昱(あきら)かなり。》とある。天主敎のシメオン尊者は紀元四六二年に六十九で圓寂したが、四十七年の長い間高さ五十四呎〔フイート〕の柱の尖に徑三呎の臺を造り、其上で行ひ澄(すま)した難有い聖人ぢやつたと有るが、あのそれ川柳とやらに「大佛の××の長さは書落(かきおと)し」の格で、大小便をどう始末したと肝心の事を傳へて居無い。或人終日(ひねもす)視察すると右の柱上臺で朝から暮迄額を踵(きびす)に加へて跪拜千二百四十回したが、南方先生同前無類の女嫌ひで、若い時遁世してから一向會(あは)なんだ老母が、命の有る内に一度會はんと來たのを會はずに卻〔かへ〕した一方に、入らぬ處へ大悲を垂れて、曾て瘡(かさ)を生じた中に蛆生じたのを大切に養育し、蛆が蚑落〔はひお〕ちたのを飯運びに來た弟子して瘡中へ拾入(ひろひい)れさせたとは不屆きな聖人ぢや。その永年苦行した一柱觀は今に安息城近傍に存し、難有屋連(ありがたやれん)これを渴仰するが、每年正月五日其柱上に一大星輝くを見ると云ふ(一八二二年板、コラン、ド、プランチーの遺寶靈像評彙〔ヂクシヨネール・クリチク・デー・レリク・エ・デー・イマージ・ミラクロース〕三卷八九-九〇頁)。
[やぶちゃん注:「尾芝君の文、二〇七頁參照」『尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」』の第五段落「此推測の果して當つて居るか否かを確かめる爲には、第一に龍燈出現の期日の有無を調べて見ねばならぬ。」で始まる部分であろう。
「シメオン尊者」最初の登塔者(正教会で塔に登る苦行を行う修道士のこと)聖シメオン。詳しくは、ウィキの「登塔者シメオン」を見られたいが、現行では永眠は四五九年七月二十四日とする。
「五十四呎〔フィート〕」約十六・五メートル。
「三呎」約九十一センチメートル。
「大佛の××の長さは書落(かきおと)し」の伏字は文脈からすれば、「くそ」か。私なら「まら」としたくなるが。
「一柱觀」原本に当たれないので、不詳。
「安息城」同前。
「一八二二年板、コラン、ド、プランチーの遺寶靈像評彙(ヂクシヨネール・クリチク・デー・レリク・エ・デー・イマージ・ミラクロース)三卷八九-九〇頁」コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。詳しくは当該ウィキを見られたいが、掲げられたものは“Dictionnaire critique des reliques et des images miraculeuses”(「遺物と奇跡のイメージに関する評論的辞書」一八二一年刊)。]
嬉遊笑覽十云く、隴蜀餘聞、蜀金堂縣三學山、有古樹三四株、不記年代、每春月、其葉夜輙有光、似炬、遠近數百里、以爲佛、裹粮往覽《「隴蜀餘聞」に、蜀の金堂縣の三學山に、古樹三、四株有り、年代を記(しる)さず。春月每(ごと)に、其の葉に、夜、輙(すなは)ち、光、有り、炬(たいまつ)に似たり。遠近數百里、以つて佛光と爲(な)し、糧(かて)を裹(つつ)んで往きて此れを觀る。》春に限つて光つたのは生理又病理學上說明し得べしと想ふ。吾邦では山茶〔つばき〕の朽幹(くちき)が夜光を放つ事他の朽木より多い。予幼時和歌山城近く山茶屋敷とて天方(あまがた)ちふ侍の邸あり。何故か年中戶を閉めず、夜分人通れば天狗高笑するとて其邊行く人稀だつた。熊野には山茶の木の槌(つち)は怪〔ばけ〕るとて今に製(つく)らぬ所あり。その理由は前日來訪せられたスヰングル氏が、本年八月上旬桑港(サンフランシスコ)で催す米國科學奬勵會で代讀さるる予の論文で公けにする筈だが、嬉遊笑覽に云へる通り、朽木が光を發する事も山茶を怪木と云ふ理由の一つに相違ない。
(大正四年十月鄕硏第三卷八號)
[やぶちゃん注:最後のクレジット附初出は最終行の下方にインデントされているが、ブラウザの不具合を考えて改行し、引き上げた。
「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。この部分には困らされた。まず、「選集」はこの巻数を底本の「十一」を『一〇』に修正している。当該部を所持する岩波文庫版第五巻(長谷川強他校注・二〇〇九年刊・新字)で調べたところ、「巻十下目録」で「夜光木(ヒカリギ)」とあるので、ここにあるに違いないと、当該部を見たところ、ところがどっこい、ない。三度、「巻十」を縦覧したが、ない。しかし、ここになければおかしいと思い、「或いは、底本が違うかも?」と、国立国会図書館デジタルコレクションにある昭和七 (一九三二)年(五版)成光館出版部刊の当該部を視認したところ、あった! 左ページの二行目である。一部、読点がおかしいが、これだ! しかも漢文ベタの後に『此は』、『つはき』(椿)『の光る類とみゆ』という解釈も添えられている。
「隴蜀餘聞」清の王士禛撰。全一巻。隴・蜀の地誌。原影印本を「中國哲學書電子化計劃」のこちらで確認出来る。
「スヰングル氏」アメリカ合衆国の農学者・植物学者ウォルター・テニソン・スウィングル(Walter Tennyson Swingle 一八七一年~一九五二年)。アメリカ農務省などで働き、柑橘類・果樹の品種改良・柑橘類の分類学研究などで知られる。詳しく(もないが)は当該ウィキを参照されたいが、所持する「南方熊楠を知る事典」(松居竜五・月川和雄・中瀬喜陽・桐本東太編/一九九三年四月講談社現代新書刊)の人名解説での松居氏の記載を引用する。
《引用開始》
米国の農業植物学者。農務省に勤務していた。一九〇六年、南方熊楠に手紙を送り、ジャクソンヴィルで採集した菌類を送ってほしいと求めた。その後、文通による付き合いが続き、一九〇九年[やぶちゃん注:明治四十二年。]には渡米を要請している。当初、熊楠はこの要請にかなり乗り気であったようだが、結局、家族の事情により断念した。だが、この時の渡米要請の一件が新聞で報道され、熊楠が国内で名声を得るきっかけとなった。スウィングルはまた、熊楠に中国から日本への植物移入の歴史について書くように勧めたりもしている。一九一五年[やぶちゃん注:大正四年。]に来日した折りは、田辺に熊楠を訪ね、数日ともに周辺を遊び、この時、再び渡米の要請をしたが熊楠は断わった。
《引用終了》
「予の論文」不詳。何で光るのかだけでも知りたいな……。]
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