「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)
[やぶちゃん注:採録理由は『「今昔物語集」卷第四「羅漢比丘敎國王太子死語第十二」』の私の冒頭注を参照されたい。ここでの底本は歴史的仮名遣の読みの確認の便から、「日本古典文学全集」第二十四巻「今昔物語集 三」第五版昭和五四(一九七九)年(初版は昭和四九(一九七四)年)刊。校注・訳/馬淵和夫・国東文麿・今野達)を参考に切り替える。但し、恣意的に漢字を概ね正字化し、漢文脈は訓読し、読み易く、読みの一部を送り仮名で出し、読みは甚だ読みが振れるか、或いは判読の困難なものにのみとした。参考底本の一部の記号については、追加・変更も行い、改行も増やした。]
染殿(そめどの)の后(きさき)、天宮(てんぐ)の爲に嬈亂(ねうらん)せらるる語(こと)第七
今は昔、染殿の后と申すは、文德天皇の御母(おほむはは)也。良房の太政(だいじやう)大臣と申しける關白の御娘(おほむむすめ)也。形ち、美麗なる事、殊に微妙(めでた)かりけり。而(しか)るに、此の后、常に物の氣(け)に煩ひ給ければ、樣々の御祈り共(ども)有りけり。其の中に、世に驗し有る僧をば召し集めて、驗者(げんじや)の修法(しゆほふ)有れども、露(つゆ)の驗し、無し。
而る間、大和の葛木(かつらき)の山の頂きに、金剛山(こんがうせむ)と云ふ所有り。其の山に、一人(ひとり)の貴(たふと)き聖人(しやうにん)住(ぢう)しけり。年來(としごろ)、此の所に行(おこな)ひて、鉢を飛ばして、食(じき)を繼ぎ、甁(かめ)を遣りて、水を汲む。此くの如く行ひ居(ゐ)たる程に、驗し、並び無し。然(しか)れば、其の聞え、高く成りにければ、天皇幷びに父の大臣(おとど)、此の由を聞食(きこしめ)して、
「彼れを召して、此の御病(おほむやまひ)を祈らしめむ。」
と思(おぼ)し食(め)して、召すべき由、仰下されぬ。使ひ、聖人の許に行き、此の由を仰(おほ)するに、聖人、度々(どど)辭(いな)び申すと云へども、宣旨、背(そむ)き難きに依りて、遂に參りぬ。御前(おほむまへ)に召して、加持を參ら□するに、其の驗し新たにして、后の一人(ひとり)の侍女、忽ちに狂ひて、哭(な)き嘲(あざけ)る。侍女、神(かみ)、託(つ)きて、走り叫ぶ。聖人、彌(いよい)よ此れを加持(かぢ)するに、女、縛られて、打ち責めらるる間、女(をむな)の懷(ふところ)の中(なか)より、一つの老狐、出でて、轉(まろび)て、倒れ臥して、走り行く事能(あた)ふからず。其の時に、聖(ひじり)、人を以つて狐を繫がしめて、此れを敎ふ。父の大臣、此れを見て、喜び給ふ事、限り無し。后の病ひ、一兩日の間に止み給ひぬ。
大臣、此れを喜び給ひて、
「聖人、暫く候ふべき。」
由を仰せ給へば、仰せに隨ひて、暫く候ふ間、夏の事にて、后、御單衣(おほむひとへぎぬ)許りを着給ひて御(おは)しけるに、風、御几帳(みきちやう)の帷(かたびら)を吹き返へしたる迫(はさま)より、聖人、髴(ほのか)に后を見奉けり。見も習はぬ心地に、此の端正美麗の姿を見て、聖人、忽ちに、心、迷(まど)ひ、肝(きも)、碎けて、深く、后に、愛欲の心を發(おこ)しつ。
然(しか)れども、爲(す)べき方無き事なれば、思ひ煩ひて有るに、胸に火を燒くが如くにして、片時(かたとき)も思ひ過ぐべくも思(おぼ)えざりければ、遂に、心、澆(あは)で、狂ひて、人間(ひとま)を量りて、御帳(みちやう)の内に入りて、后の臥せ給へる御腰(おほむこし)に抱(いだ)き付きぬ。后、驚き迷(まど)ひて、汗水に成りて、恐(お)ぢ給ふと云へども、后の力に、辭(いな)び得難し。然(しか)れば、聖人、力を盡して掕(れう)じ奉るに、女房達、此れを見て、騷ぎ喤(ののし)る時に、侍醫當麻(たいま)の鴨繼(かもつぐ)と云ふ者、有り、宣旨を奉(うけたまは)りて、后の御病(おほむやまひ)を療(れう)せむが爲めに、宮(みや)の内に候(さぶら)ひけるが、殿上の方(かた)に、俄かに、騷ぎ喤る音(こゑ)しければ、鴨繼、驚きて、走り入りたるに、御帳(みちやう)の内より、此の聖人、出でたり。鴨繼、聖人を捕へて、天皇に此の由を奏す。天皇、大きに怒り給ひて、聖人を搦(から)めて、獄(ひとや)に禁(いまし)められぬ。
聖人、獄に禁められたりと云へども、更に云ふ事無くして、天に仰(あふ)ぎて、泣々く誓ひて云はく、
「我れ、忽ちに死にて、鬼と成りて、此の后の世に在(まし)まさむ時に、本意(ほんい)の如く、后に睦びむ。」
と。獄(ひとや)の司(つかさ)の者、此れを聞きて、父の大臣(おとど)に此の事を申す。大臣、此れを聞き驚き給ひて、天皇に奏して、聖人を免(ゆる)して、本(もと)の山に返し給ひつ。
然(しか)れば、聖人、本の山に返りて、此の思ひに堪へずして、后に馴れ近付き奉るべき事を强(あながち)に願ひて、憑(たの)む所の三寶(さむぼう)に祈請(きしやう)すと云へども、現世(げんぜ)に其の事や難(かた)かりけむ、
「本の願(ねがひ)の如く、鬼と成らむ。」
と思ひ入りて、物も食はざりければ、十餘日(じふよにち)を經て、餓ゑ死(し)にけり。
其(そ)の後(のち)、忽ちに鬼と成りぬ。其の形、身、裸にして、頭(かしら)は禿(かぶろ)也。長(た)け八尺許りにして、肌の黑き事、漆を塗れるが如し。目は鋺(かなまり)を入れたるが如くして、口、廣く開きて、劔の如くなる、齒、生ひたり。上下(うへした)に牙を食(く)ひ出だしたり。赤き裕衣(たふさぎ)を搔きて、槌(つち)を腰に差したり。此の鬼、俄かに后の御(おは)します御几帳の喬(そば)に立ちたり。人、現(あら)はに此れを見て、皆、魂(たましひ)を失ひ、心を迷はして、倒れ、迷ひて逃げぬ。女房などは、此れを見て、或は絕え入り、或は衣を被(かつ)ぎて臥しぬ。疎(うと)き人は、參り入(い)らぬ所なれば、見えず。
而る間、此の鬼の魂、后を怳(ほ)らし、狂はし奉りければ、后、糸(いと)吉(よ)く取り疏(つくろ)ひ給ひて、打ち咲(ゑ)みて、扇(あふぎ)を差し隱して、御帳(みちやう)の内に入り給ひて、鬼と二人、臥させ給ひにけり。女房などの聞きければ、只、日來(ひごろ)戀しく侘(わび)しかりつる事共をぞ、鬼、申ける。后も咲み嘲(あざけ)らせ給ひける。女房など、皆、逃げ去りにけり。良(やや)久しく有りて、日(ひ)暮(く)るる程に、鬼、御帳より出て去りにければ、
『后、何(いか)に成らせ給ひぬらむ。』
と思ひて、女房達、怱(いそ)ぎ參りたれど、例(れい)に違ふ事なくして、然(さ)る事や有りつらむと、思し食したる氣色も無くてぞ、居させ給たりける。少し、御眼見(おほむまみ)ぞ、怖ろし氣(げ)なる氣(け)付かせ給ひにける。
此の由を内に奏してければ、天皇、聞こし食して、奇異(あさま)しく怖しきよりも、
「何(いか)に成らせ給ひなむずらむ。」
と歎かせ給ふ事、限り無し。其の後(のち)、此の鬼、日每に同じ樣にて參るに、后、亦、心・肝(きも)も失せ給はずして、移し心も無く、只、此の鬼を媚(うつく)しき者に思し食したりけり。然(しか)れば、宮の内の人、皆、此れを見て、哀れに悲しく、歎き思ふ事、限り無し。
而る間、此の鬼、人に託(つ)きて云はく、
「我れ、必ず、彼(か)の鴨繼が怨(あた)を報ゆべし。」
と。鴨繼、此れを聞きて、心に恐(お)ぢ怖るる間、其の後(のち)、幾(いくば)く程を經ずして、鴨繼、俄かに死にけり。亦、鴨繼が男(をとこ)、三、四人、有けり、皆、狂病(わうびやう)有りて、死にけり。然(しか)れば、天皇幷(ならび)に父の大臣(おとど)、此れを見て、極めて恐ぢ怖れ給ひて、諸(もろもろ)の止事無(やんごとな)き僧共を以つて、此の鬼を降伏(がうぶく)せむ事を懃(ねむご)ろに祈らせ給ひけるに、樣々の御祈共(おほむいのりごとども)有りける驗(しるし)には、此の鬼、三月(みつき)許り、參らざりければ、后の御心(みこころ)も少し直りて、本の如く成り給ひければ、天皇、聞こし食して、喜ばせ給ける程に、天皇、
「今一度(いまひとたび)、見奉らむ。」
とて、后(きさい)の宮(みや)に行幸(ぎやうがう)有りけり。例より殊に哀れなる御哀れ也。百官、闕(か)けず、皆、仕(つかまつ)りたりけり。
天皇、既に宮に入られ給ひて、后を見奉らせ給ひて、泣々(なくな)く、哀れなる事共申させ給へば、后も哀れに思し食したり。形ち、本の如くにて御(おは)す。而る程の間、例の鬼、俄かに角(すみ)より踊り出でて、御帳の内に入りにけり。天皇、此れを、
『奇異(あさま)し。』
と御覽ずる程に、后、例の有樣にて、御帳の内に忩(いそ)ぎ入り給ひぬ。暫(しばし)許り有りて、鬼、南面(みなみおもて)に踊り出でぬ。大臣・公卿より始めて、百官、皆、現(あらは)に此の鬼を見て、恐れ迷(まど)ひて、
『奇異し。』
と思ふ程に、后、又、取り次(つづ)きて、出でさせ給ひて、諸(もろもろ)の人の見る前に、鬼と臥(ふ)させ給ひて、艷(えもいは)ず、見苦しき事をぞ、憚る所も無く爲(せさ)せ給ひて、鬼、起きにければ、后も起きて、入らせ給ひぬ。天皇、爲(す)べき方(かた)無く、思し食し、歎きて、返らせ給ひにけり。
然(しか)れば、止事無(やむごと)なからむ女人(によにん)は、此の事を聞きて、專(もはら)に然(し)かの如し有らむ法師の、近づ付くべからず。此の事、極めて便無(びんな)く、憚り有る事也と云へども、末の世の人に見(み)しめて、法師に近付かむ事を强(あながち)に誡(いまし)めむが爲に、此(か)くなむ語り傳へたるとや。
[やぶちゃん注:この藤原明子(あきらけいこ/めいし)は、少なくとも、この様子を現実に即したものをモデルとしてみるならば、彼女は後宮内での陰に陽にあったであろう嫉妬や虐めに遭い、重度の精神疾患を患い、特にそれが甚だしいニンフォマニア(nymphomania)の症状として出現したものと私は思う。後半の鬼となった聖人が衆人の中でコイツスをするというのは、恐らくは性交する相手の男がいるかのように振る舞う媚態や、体位や、動作や、表情に至るまでが余りにもリアルであったために、こうした宮中内の赤裸々な際どい怪異譚として形成されたものと私は考える。以下に示す彼女のウィキでは『双極性障害』(躁鬱病)とするが、その躁状態の一型として、ヒステリー様の色情症傾向を示したものと言ってもよい。本篇の一見平常に見える状態から、ニンフォマニア的行動を見せるところは、確かに双極性障害を疑える感じがあるようには見えはする。
「染殿(そめどの)の后(きさき)」藤原明子(天長六(八二九)年~ 昌泰三(九〇〇)年)は文徳天皇(もんとく 天長四(八二七)年~天安二(八五八)年/在位:嘉祥三(八五〇)年~没年)の女御で、清和天皇の母。当該ウィキに手を入れて示すと、父は太政大臣藤原良房(延暦二三(八〇四)年~貞観一四(八七二)年)、母は嵯峨天皇皇女。夫の死後、皇太夫人、さらに皇太后となった。染殿(藤原良房の邸宅。平安京の正親町(おおぎまち)小路の北、京極大路の西にあった)が里邸だったため、「染殿后(そめどののきさき)」と呼ばれた。文徳天皇が皇太子時代に入内して東宮御息所となった。文徳帝即位直後に第四皇子惟仁親王(清和天皇)を産んだ。この時、惟仁親王にはすでに三人の異母兄がおり、天皇は更衣紀静子(きのしづこ)所生の第一皇子惟喬親王を鍾愛して、これに期待していたが、結局、良房の圧力に屈し、惟仁親王が生後八ヶ月で立太子した。父の良房が、
そめどののきさきのおまへに、
花がめに櫻の花をささせ給へる
を見てよめる
年經れば齢は老いぬしかはあれど
花をし見れば物思ひもなし
と明子を桜花と見做して詠じた話が「古今和歌集」(五二番)で伝わっており、大変な美貌の持ち主だったという。貞観七(八六五)年頃から、物の怪に悩まされるようになったという記述が「今昔物語集」(本篇)・「古事談」(巻第三(三―一六、二一一)。所持する岩波新古典文学大系の同書で確認したところ、ここの冒頭に「貞観七年の比(ころ)。染殿皇后、天狐の爲めに惱まされ」と年号が明記されている。この年は既に夫文徳帝の薨去から七年後であり、本文に出る帝(実は本篇では彼女を「文德天皇の御母」と誤っている。私はこれは宮中を憚る意識的な誤りのように思われる)はこの年ならば、彼女の実子で次代の清和天皇ということになる。事実、底本頭注によれば、本篇と同じ内容を伝える「真言伝・略記所引善家秘記佚文」では、最後のシークエンスで彼女を訪ねるのは清和天皇である)・「平家物語」(延慶本)・「宇治拾遺物語」(第百二十三話)などに散見され、『これらの記述にある言動により』、『一種の双極性障害に罹患していたとみる説もある』。『明子の存在は結果的には藤原氏に摂関政治をもたらす一つの歴史的要因となったが』、『本人は病』い『のせいもあってか』、『引きこもりがちで』、『自ら表に出ることはなかった』とある。六『代の天皇の治世を見届けたのち』、七十二『歳で崩御した』。こうしてみると、複数の書物に赤裸々に描かれて後世に刺激的なエロティクな存在として伝えられてしまった彼女が、かなり可哀そうに思われてくる。
「天宮(てんぐ)」「天狗」に同じ。但し、「今昔物語集」卷第十「第聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四」で既に述べたが、この平安末期には我々のイメージするような鼻の長い天狗像は未だ形成されていない。あれは全くの本邦に於けるオリジナルのフォルムであり、恐らくは中世以降に形成されたものと私は考えている。但し、奈良・平安頃から、密教や山岳信仰の中で、自身の知恵や修法・法術などに奢り高ぶった高僧・修験者・山伏などが、死後にその罪業によって、六道とはことなる、日本独自の魔界の一種として「天狗道」が想定され、解釈された。多分、この頃の「天狗」の実体は所謂、人に近い感じの「鬼」であったように想像される。但し、上記のリンク先の話柄で見るように、「天狗」が中国の妖怪として勝手に想定され、他本で「天狐」と別称されている点は、中国から渡り来ったという認識は既にあったものと思われる。「狐」の怪異は中国が本家本元であるからである。但し、そのチャンピオンであるまさに大陸から飛来したとする「玉藻前」の伝説の成立は、現在、室町時代前期以前と考えられていることは一言言っておかねばなるまい。
「嬈亂(ねうらん)」「あれこれと悩んで乱れること」或いは「何かが纏わりついて心を乱すこと」で、ここは後者。
「大和の葛木(かつらき)の山の頂きに、金剛山(こんがうせむ)と云ふ所有り」金峯山(きんぷせん)。七世紀に活躍した伝説的な山林修行者役小角(えんのおずぬ)が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする金峯山寺が建つ。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「一人の貴(たふと)き聖人(しやうにん)」先に示した「古事談」では、天狐を名僧で円仁の弟子である相応和尚が調伏して染殿が平癒するという、本話のようには奇体度がかなり下がる話になっている(この僧が鬼となる話柄ではないので注意されたい)。
「御單衣(おほむひとへぎぬ)」この場合は下着の単衣(ひとえ)で、裏地のつかない、恐らくは紗(しゃ)のすけすけの薄いものであり、夏の暑い盛りに常用した。それだけを着た場合は、乳房などは透けてよく見えるのである。なんなら、「源氏物語」の初めの方にある空蟬(うつせみ)と軒端荻(のきばのおぎ)が碁を打つのを、光の君が覗き見するシークエンス(サイト「源氏物語の世界」のここ)をお読みになれば判る。そこでは、夏の夜で、光が覗いていようなどとは、微塵も思わない二人は、まさにこの透け透けルックで、空蟬の義理の娘軒端荻(夫伊予介の先妻の子であるが、空蝉とは殆んど年は変わらない)に至っては、だらしなく前を開けてしまい、ボイン丸出なのである。
「澆(あは)で」「あはづ」の原義は、「水で薄めるように薄くなる・淡くなる」或いは「浅薄になる・衰える」で、ここは後者で僧としての本来の戒律ばかりか、自制心・道徳がすっかりなくなってしまうことを指す。
「人間(ひとま)を量りて」人気(ひとけ)のないのを見計らって。
「掕(れう)じ」凌辱し。
「當麻(たいま)の鴨繼(かもつぐ)」(?~貞観一五(八七三)年)は官吏で医師。侍医に任じられ、越後介・筑前介・典薬頭(てんやくのかみ)を兼任した。仁明・文徳・清和天皇の三代に亙って仕えた。天安二(八五八)年、清和天皇の践祚後、間もなく主殿頭(とのものかみ)に遷り、貞観二(八六〇)年には従五位上に昇叙されたが、ほどなく侍医を辞したと見られる。最終官位は従四位下行主殿頭兼伊予権守。「古事談」の染殿の異悩のクレジットからは、彼の死は八年後ということにはなる。本聖人が鬼となったという話を聴いて、恐懼して死んだということになっているのだが、これ、如何にも遅いという気はするわな。
「殿上」清涼殿の「殿上の間」。以下に宣旨があったとしても、男である鴨継は「黒戸の間から北の後宮には入れないので、想像するに、染殿は物の怪に憑かれて以降は療養のために、清涼殿の東に接続する後涼殿(こうろうでん)の一部屋にでも移っていたのではないかと思われる。後涼殿が天皇の意向でそうした自由な使われ方(時に寵愛する妃を保護するためなど)をしたことは「源氏物語」や他の歴史物語などでもよく目にするからである。
「禿(かぶろ)」童子のようなおかっぱ頭。如何にも定番の鬼っぽい。
「八尺」二メートル四十二センチ。
「鋺(かなまり)」金属製のお椀。
「裕衣(たふさぎ)」褌(ふんどし)。男のそれは古代からあった。「犢鼻褌」とも表記するが、これは装着した際、特に男子の場合はそれが「牛の子の鼻」に似ていることによる当て字である。
「怳(ほ)らし」正気を失わせ。
「移し心も無く」「移し心」は「現(うつ)し心」で、「正気を失って」。
「媚(うつく)しき者」愛すべき者。
「託(つ)きて」「憑きて」に同じ。
「狂病(わうびやう)」気が狂う病い。
「角(すみ)」恐らくは鬼門の東北の隅からであろう。「今昔物語集」では、既に鬼の出現や逃走の方角として定番化していた節がある。
「南面(みなみおもて)」あろうことか、鬼は白日の下(もと)、その宮殿の南面(私の仮定では後涼殿であるが、生憎、後涼殿の南方は建物二棟あり、凡そ百官どころか、おぞましく大きい悪鬼一人が立つほどの空間しかないようだ。個人的には紫宸殿(これは都合がいいことに「南殿(なでん)」とも別称する)の南が相応しい。内裏内最大の広庭だからであり、この紫宸殿は天皇の即位礼など行われる内裏中央南の重要な御殿であるが、普段は人気なく、怪異が出来(しゅったい)する心霊スポットとして平安時代は知られていた場所であり、その北の仁寿(じゆうでん)とともに怪奇現象がよく起こり、鬼が人を驚かすともされたのであってみれば、これほどロケーションとしてピッタリな場所は実は他にないとも言えるのである。因みに、清涼殿の南西端に「鬼の間」というのがあるが、これは裏鬼門に当たる位置に配された呪的結界に過ぎない)以下の諸人の前に姿を現わすのである。かなり他では見られないシーンで、しかも以下、その公卿・百官の面前で、鬼は何んと、染殿と――まぐわう――のである。但し、これは本話を染殿が文徳帝の妃であった時代という本篇の設定で私が勝手に解釈したものであって、そのそもが、本文に「后(きさい)の宮(みや)に行幸(ぎやうがう)有りけり」という表現は内裏内には決して使われないから、私の妄想映像に過ぎぬのである。実際には、底本に頭注によれば、「真言伝・略記所引善家秘記佚文」では、元慶二(八七八)年九月二十五日行われた『染殿后五十の賀(三代実録)の当日、清和天皇が参賀のため行幸した際の事件とする』とあるから、この舞台は、染殿の実家である父藤原良房の邸宅染殿であるというのが、正しい。されば、南面も寝殿造の寝殿の前の広庭ということになる。
「然(し)かの如し有らむ法師」このような感じの僧侶。才知があって修法に優れている坊主は、逆に「危険がアブないよ」と言っているのだが、どうもまどろっこしい感じがするのは、本書の教訓擱筆という縛りのせいもあるが、私には、コーダが猥褻極まりないこの話を、無理矢理、ここで断ち切ろうとした作者の強い憚りが逆に感じられる。それだけ、作者も、ちょっと、やんごとなき実在の人物を、えげつなく書き過ぎたと思ったのであろう。そうした添え辞が例になく、わざとらしいではないか。
「便無(びんな)く」不都合なことで。]
□やぶちゃん現代語訳(原文よりも段落を増やした。参考底本の頭注や現代語訳を一部で参考にはしたが、基本、オリジナル訳である)
染殿のお妃が、天狗のために、激しくお心を乱され遊ばされた事第七
今となっては……もう……昔のこととなってしまったが、染殿のお后と名乗られたお方は、文徳(もんとく)帝の御母(おんはは)である[やぶちゃん注:注で示した通り、妃の大誤謬。]。良房の太政(だいじょう)大臣と名乗らせられた関白さまの御娘である。
見目形、美麗なること、これ殊に格別なものであられた。
ところが、この妃、常に物の怪(け)に憑かれて、患いなさったので、さまざまなお祈りなんどを施した。その中には、世に霊験あらたかなる法力を持つ僧を特に召し集めて、そうした立派なる修験者の修法を行ったのだが、これ、全く、験(しる)しが出ぬ。
そんな中、大和の葛木(かつらぎ)の山の頂きに、金剛山(こんがうせん)という所がある。その山に、一人(ひとり)の貴お聖人(しょうにん)は住んでおった。年来(としごろ)、この所で修行し、鉢を飛ばして、斎料(ときりょう)を手に入れ、甕(かめ)を同じように飛ばしやって、水を汲む。かくのごとく修法を持(じ)して清閑に住んでいたから、その霊験、これ、並ぶ者も、おらぬのであった。
されば、その評判、いやさかに高くなっておったので、帝や父の大臣、この由(よし)をお聴き遊ばされて、
「彼を召して、この御病(おんやまい)の平癒を祈らせよう。」
とお思いなられ、
「召し上げよ。」
という旨、仰せ下されたのであった。
使者が聖人(しょうにん)の許に行き、この由の仰せを伝えたのだが、聖人は、何度も、
「辞退申し上げる。」
と答えたのだが、これ、宣旨に背(そむ)くことは難きことなれば、遂に参上したのであった。
染殿の御前(おんまへ)に召し出され、加持し申し上げたところが、何んと! その験しが即座に現われた。
妃の一人(ひとり)の侍女が、その場で忽ちのうちに狂い出し、大声で哭(な)き、また口汚き言葉を吐いて嘲(あざけ)るのである。
この侍女には、神が憑(つ)いて、走り叫ぶありさまであった。
聖人は、いよいよ、この侍女に憑いた物の怪に向かって加持したところが、侍女は、周囲の者に縛られて、打ち責められる。
その瞬間、女の懐(ふところ)の中(なか)から、一匹の老狐が、出でて、じたばたと転び廻り、倒れ臥して、そこから逃げ去ることもできない。
その時、聖(ひじり)は、仕長の男を呼び出して命じ、狐を捕縛させ、その顛末を伝えた。
それを聴き、父の大臣、即座に場に至って、それを見て、大いに喜びなさった。
さても、妃の病いは、これ、一両日の間にすっかり平癒したのであった。
大臣、これをお喜びになり、
「聖人(しょうにん)殿、暫く、ここに滞在されるがよい。」
という旨を仰せになられたので、聖人は仰せに随って、暫くそこに留まった。
そのようにしている間、時は夏のことなれば、妃は、御単衣(おんひとえぎぬ)ばかりをお召しになられておられたのだが、風は御几帳(みきちょう)の簾(すだれ)を、
「さっ」
と吹き返えした。
その隙間から、聖人は、仄(ほの)かに、妃のお姿を見申し上げてしまったのだった。
見慣れぬ、女体(にょたい)があられもなく透けて見える……その心地に酔い……その端正美麗なる姿を見るや、聖人は忽ちのうちに、心、惑い、肝(きも)、が一瞬で砕けて、深く、妃に、愛欲の心を起こしてしまったのである。
と言っても、なすべき術(すべ)もないことであるから、ただただ思い煩っていたところが、胸のうち、火を焼くような心地がして、片時(かたとき)も、思わないではいられる心地となって、遂に、平常心を失い、狂って、人気のない折りを密かに窺って、御机帳の中へと潜り込み、妃のお臥せになっておられる御腰(おんこし)に抱(だ)きついてしまったのである。妃は、驚き、惑って、汗水になって、恐れなされると雖も、妃の力では、とても拒絶することはし得なかった。
されば、聖人(しょうにん)は、力を尽して、むごたらしく妃を凌辱してしまったのであった。[やぶちゃん注:敬語を訳すと現代語ではおかしな感じなるので、確信犯で謙譲語を外した。]
女房たちが、それに気づいて、騒ぎ罵(のの)しった。
その時、侍医の当麻鴨継(たいまのかもつぐ)という者が、宮中に控えていた。
彼は、宣旨を承って、妃の御病い全般を療治せんがために、宮(みや)のうちに伺候していたのだが、清涼殿の殿上の間の方から、俄かに、騒ぎ罵しる声がしたので、鴨継、驚いて、走り入ったところが、妃のおられる御几帳の内から、なんと! かの聖人(しょうにん)が、出てくるではないか!
鴨継は、即座に、聖人を捕えて、帝にこの由を奏した。
帝は、激しくお怒り遊ばされて、聖人を搦(から)め捕って、獄屋に監禁なさったのであった。
聖人は獄屋に閉じ込められていたのだが、特に一言の言い訳をするでもなく、天を仰いで、血の涙を流しつつ、自ら、自身に誓いを立てて、
「我れ、たちまちに死んで、鬼となって、この妃が、この世に在(ま)します間に、我らが本意(ほんい)のごとく、妃と、思う存分! まぐわってやろうぞッツ!。」
と叫んだ。
獄屋の司長の者は、このおぞましい誓約を聞いて、直ちに、父の大臣に、このことを申し上げた。
大臣は、その忌まわしい言葉を聴くや、驚きなさって、帝に奏上し、聖人(しょうにん)を免(ゆる)して、本(もと)の山に、追い帰しなさったのであった。
されば、聖人は本の山に帰ったが、しかし、かの愛執の思いに堪えられずに、妃に馴れ近づき申し上げる方途を願ってて、頼みとするところの仏法の三宝にかけて祈請(きしょう)したりしたのであるが、最早、無慚な破戒僧と化した現世(げんせ)では、その成就は当然のごとく難しかったからであろう、
「本(もと)の願いのごとく、我れ、鬼となろうぞッツ!」
と意を決し、物も食はずなったので、十余日をへて、餓え死(じ)にした。
その後(のち)、彼は、即座に、鬼となったのであった。
その異形(いぎょう)たるや、身は、すっ裸か、頭(かしら)は禿(かむろ)、背長けは八尺ばかりもあり、肌の黒いことと言ったら、漆を塗りたくったよう。目は金属の皿を嵌め込んだのに似て、口は、大きく広く開いて、そこから剣(つるぎ)のような歯が、ニョキニョキと生えておる。唇の上下に、この長い牙をはみ出させておる。赤い犢鼻褌(ふんどし)を股に挟んで、恐ろしげな太い大きな槌(つち)を腰に差している。
さても。この鬼が、俄かに、妃のおわします御几帳の傍(そば)に立ったのである。
宮中の人々が、事実、はっきりとこれを見た。
見た者は、これ、みな、魂(たましい)も消え入り、心が異乱しては、倒れ、惑って、逃げてゆく。
女房などは、これを見て、或る者は完全に気絶し、或る者は、衣(ころも)を被(かつ)いでうち臥すありさま。後宮のことなれば、禁裏と関係がない者は、参り入ることはできない場所であるから、これを目にすることはなかったのである。
さても。この邪悪な鬼の魂(たましい)は、妃の正気を奪い、またしても、お狂はせ申し上げたので、妃は、何んと! たいそう、美麗に身繕いなさって、頰に笑みまで浮かべて、扇をさして顔を隠しては、御几帳の中にお入りになられて、鬼と二人、お臥せ遊ばされる為体(ていたらく)!
女房などが、そうっと近くに寄って行って、こっそりと立ち聴きしてみると、
「ただただ、毎日毎日、そなたを恋しく、独り寝をわびしく感じていたのだよ。」
なんどということを、鬼は、染殿に申し上げているのだった。
しかも、妃もまた、その言葉に酔うように、笑い声を挙げおられるではないか。
女房などは、これ、みな、逃げ去ってしまったのだった。
こうして暫く時が移って、日暮れになろうかというほどになって、鬼は御几帳から出でて、去ったので、
『お妃はさまは、どうなさっておられるのか。』
と思って、立ち戻った女房たちが、急ぎ、妃のもとに参上したのだけれども、いつもと全く同じで、別に変わったこともなく、『そんなこと、あったのかしら?』と気づかれておられる気配も微塵もない様子で、ちんまりとお座りなっておられるのだった。
……いや……少し……その御眼差(おんまなざ)しに……何やらん……怖ろしげな気配を、これ、漂わせておられたのだった。
さて、急ぎ、この一部始終を内に奏上したところ、帝は、お聴き遊ばれるや、それを、浅ましく、怖しいとお思いになるよりも、
「……お妃は……この先、どうおなりに遊ばされるのだろうか?」
と、限りなく、お嘆きになられるのであった。
その後(のち)、この鬼は、連日、同じように染殿のもとにやって参り、妃もまた、他の女房連中にようには気絶はおろか、恐懼なさることもなさらず、常軌も逸しているにもかかわらず、ただただ、この鬼を慕わしい者としてお思いになってしまっているのであった。
されば宮中の人々は、みな、この染殿のご様子を見ては、限りなく、哀れに悲しくて、思い嘆いているのであった。
そんな中、この鬼が、とある人に憑いて、
「我れ、必ず、かの鴨継への怨みを、晴らさで、おくべきかッツ!」
と喚(わめ)き立てたのであった。
鴨継はこれを伝え聴いて、心の内で激しく怖(お)じけ、恐れておったが、その後(のち)、幾(いくば)くもせずして、鴨継は、俄かに、死んだ。
また、鴨継には男子が三、四人あったが、それらの者も、孰れも気狂いとなって、そのまま、総て、頓死したのであった。
されば、帝並びに父の大臣は、この異様な事態を見るにつけ、極めて恐懼なされて、諸々のやんごとなき僧らを以って、この鬼を降伏(ごうぶく)せんことを、念を入れて祈らせなさったところ、さまざまの御祈(おんいの)りをし続けた験しであろうか、この鬼、三月(みつき)ばかり、宮中に姿を現わさなかったので、妃の御気分も、少し、よくなられて、もとのような感じにおなり遊ばされたので、帝は、それをお聴きになられて、お喜びになられた上、さらに、
「今一度(いまひとたび)、見奉らむ。」
とて、妃のおられる御部屋に行幸(ぎょうこう)なさった。その行幸は常よりも格別に感慨深い仕儀として、また、文官・武官併せて百官、一人も欠けず、扈従(こじゅう)したのであった。
帝がかの染殿のお部屋にお入りになられて、后とお逢い遊ばされて、涙ながらに、しみじみと物語など申し上げなさると、妃も、同じくしんみりとなされ、姿形も、嘗つてのように、優しく、麗しげにあられるように見えたのであった。
ところが、その瞬間!
――例の鬼が!
――俄かに!
部屋の角(すみ)から踊り出ると、御几帳の内に、
「ざっ」
と、入ったのだ!
帝はこれを、
『な、なんと! 浅ましいこと!』
と御覧になられているうち、妃は妃で、例の異様なありさまに変ぜられ、御几帳の内に、急ぎ、飛び入りなさった。
しかして、ややしばしの沈黙の後(のち)、鬼は! な、何んと! 宮殿の南面(みなみおもて)に踊り出た!
大臣・公卿より始めて、百官、皆、白昼、露わに、この堂々と出現した鬼を見え、恐れ惑って、
『な、なんと! 浅ましい!』
と思うているところに、今度は、妃もまた、とり続き、宮殿より、
「ひたひた」
とお出で遊ばされたかと思うと、諸々(もろもろ)の人の見守る庭前(にわさき)にて……
鬼と一緒に臥せられ……
何とも、その……言葉に表わすることの……
これ、憚られるところの……
おぞましくも、見るも堪えぬ……
謂わば、猥褻極まりない見苦しきことをば……
憚(はばか)るようすも微塵もなく……
……やらかしなさったのである……
そうして、やおら、鬼は妃から離れて起きたところ、妃も起き上がって、宮殿に中にお入りになられた……。
帝は、なすすべもなくお思いになられ、深く嘆かられて、そのまま、お帰り遊ばされた。
さても、こうした次第であればこそ、やんごとない、高位に等しいような女人(にょにん)は、以上の話を聴いたなら、決してこのようなる感じに等しい僧侶に近づいていけない。この物語は、これ、甚だ不都合極まりなく、憚って本当なら語るべきではない奇怪な話であるのだが、末(すえ)の世の人に、かく書き残して知らせ、是非とも、坊主連に近づかぬよう強く戒(いまし)めんがために、かく語り伝えているということである。
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