譚海 卷之四 同國兵庫湊繁昌の事
○攝州兵庫の湊は、大坂にこえたる繁昌の地也。そこの北風やといふ問屋は、和泉のめし左太郞と攝州かうべの俵や彥右衞門と云ものの問屋也。米舶(こめぶね)入津(にふしん)の日は一日に二三千兩程づつ仕切を出す。金銀をとりあつかふおびたゞしき事、外の湊になき事也。すべて兵庫は裏借屋住居(うらしやくやずまゐ)する者までゆたかにて、貧(ひん)なる體(てい)見えず、めでたき所也。
[やぶちゃん注:「同國」前の「同所ゆは海の藻を取て紙を製する事」及びその前の「播州池田酒造る水の事」を受けたもの。
「北風や」兵庫県の旧家北風家(きたかぜけ)は、当該ウィキによれば、『伝説によれば古代から続く歴史を持つ』とあり、『北風家は江戸時代、主要』七『家に分かれ、兵庫十二浜を支配した』。『江戸時代、河村瑞賢に先立ち』、寛永一六(一六三九)年、『加賀藩の用命で北前船の航路を初めて開いたのは一族の北風彦太郎である。また、尼子氏の武将山中幸盛の遺児で、鴻池家の祖であり、清酒の発明者といわれる伊丹の鴻池幸元が』慶長五(一六〇〇)年、『馬で伊丹酒を江戸まで初めて運んだ事跡に続き、初めて船で上方の酒を大量に江戸まで回送し、「下り酒」ブームの火付け役となったのも北風彦太郎である。さらに、これは後の樽廻船の先駆けともなった。なお、北風六右衛門家の』「ちとせ酢」『等の高級酢は』、『江戸で「北風酢」と呼ばれて珍重された。また、取扱店では』「北風酢颪 きたかぜすおろし」という『看板を出す酢屋もあったという』。『俳人与謝蕪村の主要なパトロンが』第六十三『代北風荘右衛門貞幹』(さだとも)『である。貞幹は無名時代の高田屋嘉兵衛』(江戸後期の廻船業者・海商。淡路島生まれ。兵庫津に出て、船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出、国後島・択捉島間の航路を開拓して、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献した。「ゴローニン事件」(文化八(一八一一)年に千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンらが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約二年三ヶ月間、日本に抑留された事件)でカムチャツカに連行されたが(ロシア側が交渉を有利に展開させるために拿捕されたもの)、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた人物として頓に知られる)『を後援したことで』も『知られる』。『また、幕末から明治にかけての当主・北風正造』(第六十六代荘右衛門貞忠)『は、表向き』、『幕府の御用達を勤めながら、勤王の志士側について百年除金・別途除金』(寛政八(一七九六)年以降、代々の主人が、個人の剰余金を、居間と土蔵の二つの地下秘密蔵に貯め、六十万両以上あったとされる)『の資金と情報を提供、倒幕を推進』し、『明治に入って』から『は、初代兵庫県知事伊藤博文の』下、『国事・県政に尽力した』とある豪商である。
「めし左太郞」「飯左太郞」私の『「南方隨筆」底本 南方熊楠 厠神』に、『予幼かりし時亡母つねに語りしは、厠を輕んずるは禮に非ず、昔し泉州の飯(めし)と呼ぶ富家は、其祖先が元旦雪隱の踏板に飯三粒落たるを見、戴いて食ひしより打ち續き幸運を得て大に繁昌に及べりと、平賀鳩溪實記卷一三井八郞右衞門源内へ對面の事の條、源内の詞に、「是の三井家は誠に日本一の金持にして、鴻池抔よりも名譽の家筋也云々、凡そ富貴人と申すは泉州岸和田に住居致す飯の彌三郞と三井計と存ずる也」と有る飯氏なるべし、是れも厠を敬せしより其神幸運を與えし[やぶちゃん注:ママ。]とせしならん』と出る。
「俵や彥右衞門」不詳。]
« 南方熊楠「今昔物語の硏究」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版)公開 | トップページ | 譚海 卷之四 藝州嚴島明神鳥居雷火に燒亡せし事 »

