曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 元吉原の記(その5) / 元吉原の記~了
△再考原三郞左衞門事
「寫本洞房語園」に云、『及ㇾ承候者、京都六條の三筋町と申は、天正年中に浪人原三郞左衞門と申者、取立候よし。此三郞左衞門儀は、元は大坂太閤樣御方に、御厩付の御奉公仕たる者にて、御出馬之節は、御馬の口取仕候處、病氣に付、致二浪人一、彼遊女町を取立申候。』。
[やぶちゃん注:以下、「證とす。」まで、底本では「あらずかし。」まで全体が一字下げ。]
北峯、案るに、原三郞左衞門、この後、江戶に來り、柳町の遊女やをとり立しにや。同じ時代なるを思ヘば、何れか謬り傳へなるべし。
𪈐齋、案るに、「吉原由緖書」に記せし趣と、心牛子の書れし原三郞左衞門が事は、同じからず。卽、「由緖書」の本文を引て、證とす。
「吉原由緖書」云、『大橋之内柳町に、傾城や貳拾軒程、有ㇾ之。右大橋と申候は、今の常磐橋御門之通、柳町と申候は、道三河岸之邊に御座候。其頃、京都萬里小路と申所に、傾城屋、有ㇾ之候。是は原三郞左衞門と申者、天正年中に取立、柳町と申候。然ば、京都之遊女町之地を借り、用候樣に相聞候得共、大橋之内柳町と申は、其町之入口に、大木之柳二本、有ㇾ之候故、直に其町之名に致し、柳町と申候。右柳町之傾城屋共は、皆々、御當地素生之者共に御座候。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]
かゝれば、「寫本語園」と「吉原由緖書」と、その記ところ、相同じ。「由緖書」にいふよしは、京都萬里小路なる傾城やは、天正年中に、原三郞左衞門といふ者が取立たる也。その傾城屋は、京の柳の馬場の邊にあるをもて、柳町と呼なしたり。江戶の柳町にも傾城屋あれば、京の柳町の名をかり用て、しか、呼なしたるやうに聞ゆれども、さにあらず。江戶の柳町には、元來、大木の柳二本あるによりて、やがて柳町とよびて候と云也。且、江戶の柳町なる傾城や等は、江戶素生のよしなるにても、他鄕の人のとり立たるに、あらざること明けし。心牛子は、「由緖」に載たる此くだりを見あやまりて、『江戶の柳町の傾城屋を原三郞左衞門が取立し』と書れしが、その謬也。原三郞左衞門は、天正年中に、京の六條柳町なる傾城やを取立しのみ。江戶の柳町なるけいせい屋を、取立しものにはあらずかし。
△明和以前吉原失火類燒過半の事
北峯云、『「洞房語園」卷中、「きてう物語」の條に、『頃は延寶六年吉原類燒の砌にて、家作も、いまだ出來揃はず、桐屋が家も、ひら家にて、客あれば、局にてもてなしたり』云々とあるを見れば、五、六軒の火事とも思はれず。又、「南北燒亡記」【吉原と芝居の火災を記たる册子なり。】」に、『延寶四丙辰年十二月七日、夜、戌の刻、新吉原傾城町西側、湯屋市兵衞宅より出火、類燒之輩、京町壹丁目・新町・角町・江戶町貳丁目・揚屋町、何れも、兩がは、不ㇾ殘外へ燒出』云々。『傾城燒死十三人、逐電十六人也。』とあるを倂考るに、こゝに『延寶四』といヘるは、「六年」の謬にやあらん。「語園」の此の段の物語に、延寶七年の事をいへるなれば、しか、おもふ也。』といヘり。
[やぶちゃん注:以下の最終段落は底本では全体が一字下げ。]
此說によれば、延寶の火災を逃れしは、江戶町壹丁目と伏見町・堺町のみなるべし。心牛子の筆記に、『明曆後、出火も有ㇾ之由』とのみいへるは、かやうの事は、吉原にても、くはしくは傳はらぬにや。但し、『五町、不ㇾ殘類燒せし。』は、明和五年を始とすること、勿論也。延寶も大火ならぬにあらざれども、猶、兩三巷路、殘りし歟。且、このころは假宅など唱て、廓外に出て商賣することはなかりしによりて、世の人も明和以前の火災は、多く、しらぬなるべし。
元 吉 原 の 記 終
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